2013年7月1日〜8月29日作成

従容録:その4: 76〜100則

   
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ここでは安谷白雲著、「従容録」と高橋直承校註「従容録」を参考にし、

合理的科学的立場から「従容録」の公案76〜100則を分かり易く解説したい。


76soku

 第76則 首山三句 



示衆:

一句に三句を明かし、三句に一句を明かす。

三一相い渉(わた)らず

且(しば)らく道(い)え、是れ那(なん)の一句か先に在る。


注:

一句: 仏法(禅)の究極を表す一句。

一句に三句を明かし、三句に一句を明かす: 仏法(禅)の究極を表す一句を三句で明らかにし、

三句で仏法の究極のところを明らかにする。

三一相い渉(わた)らず: 三句も一句もそれぞれ独立独歩である。

分明なり向上の路: 理知を超越した向上の一路ははっきりして明らかだ。

且らく道え、是れ那んの一句か先に在る: それでは向上の一路はどこにあるのだろうか?


示衆の現代語訳


仏法(禅)の究極のところを表す一句を三句で明らかにし、

三句で仏法の究極のところを明らかにする。

三句も一句もそれぞれ独立独歩である。

理知を超越した向上の一路ははっきりして明らかだ。

それでは向上の一路はどこにあるのだろうか?



本則:

首山衆に示して云く、「第一句に薦得すれば仏祖の与めに師となる

第二句に薦得すれば人天の与めに師となる。第三句に薦得すれば自救不了」。

僧云く、「和尚は是れ第幾句に薦得するや?」。

山云く、「月落ちて三更、市を穿って過ぐ」。


注:

首山(しゅざん):首山省念(926〜993)。

北宋の禅師。風穴延沼(896〜973)の法嗣。法華経に精通し「念法華」と呼ばれた。

臨済宗の禅師でありながら、『法華経』の信仰に生きた人としても知られる。

法系:臨済義玄→興化存奨→南院慧ギョウ→風穴延沼→首山省念

薦得(せんとく): 分かること。法の眼が開き、悟ること。

第一句に薦得すれば: 禅の悟りを開けば。法の眼が開けば。

第二句に薦得すれば:無心の生活ができれば。

第三句: 貪瞋痴の生活。

第三句に薦得すれば: 貪瞋癡の凡俗の立場でしか受け取ることができないならば、

自救不了: 自分も救うことができない。

三更: 真夜中。

月落ちて三更、市を穿って過ぐ: 月が落ちて真っ暗な真夜中に、

市中をスーッと通りすぎて行くようなものだ。

暗い下層脳(無意識脳)優勢の状態だ。

正位(下層脳優勢の無分別智)にあって、大無事安楽の境涯にいる。

月落ちて三更という言葉で真っ暗な真夜中(正位=下層脳優勢の無分別智)を比喩的に表している。

正位については洞山五位を参照 )。



本則の現代語訳:



首山和尚は修行僧達に示して云った、

第一句に法の眼が開けば(悟りを開けば)仏祖の師となることができる

第二句に悟り無心の生活ができれば、人天の師となるだろう

貪瞋癡の凡俗の立場しか分からないならば自分も救うことができないだろう」。

僧が云った、

和尚さんは第何句で悟ったのですか?」。

首山和尚は云った、

私の場合は、月が落ちて真っ暗な真夜中に

市中をスーッと通りすぎて行くようなものだ」。


仏祖の髑髏(どくろ)一串(いっかん)に穿(うが)つ。

宮漏(きゅうろ)沈沈(ちんちん)として密に箭(せん)を伝う。

人天の機要(きよう)、千鈞(せんきん)を発す。

雲陣(うんじん)輝輝(きき)として急に電を飛ばす。

箇中(このうち)の人転変(てんぺん)を看よ。

賤に遇うては即ち貴、貴には即ち賤。

珠を罔象(もうしょう)に得て至道(しどう)綿々たり。

刃を亡牛に遊ばしめて赤心片片(へんぺん)たり。


注:


注:

仏祖の髑髏:肉が落ちて白く枯れはてた髑髏を仏祖の枯れた境涯になぞらえている。

一串(いっかん)に穿(うが)つ: 一串に刺し通す。

仏祖の髑髏一串に穿つ: 仏祖の境涯を自分のものにして一串に刺し通す。

宮漏: 昔宮廷で用いた水時計。

箭: 時計の針。

宮漏沈沈として密に箭を伝う: 水が漏れるにつれて水時計の針が動くように、

着実に大自然の生活ができる。

機要: 素晴らしいはたらき。

鈞(きん): 三〇斤。1斤は600グラムなので、約18kgに相当する。

千鈞(せんきん): 非常に重い石弓(弩)。

千鈞(せんきん)を発す: 非常に重い石弓を発射する。

大機大用をもって禅の第一義を示す様子は、

あたかも千鈞(せんきん)を発するような権威に満ちている。

雲陣輝輝: 雲が変幻自在にたなびく様子。

雲陣輝輝として急に電を飛ばす: その教化の様子は

雲が変幻自在にたなびき雷電がとぶような勢いである。

箇中の人: この中の人。ここにもどこにも出る転変自在の人。

箇中の人転変を看よ: この中の人のどこにも出る転変自在さを看よ。

賤に遇うては即ち貴、貴には即ち賤: 浅ましいかと思えば貴く、

貴いかと思えば浅ましく捉えどころがない。

珠を罔象に得て: 盲人が珠を得て。罔象は「荘子」に出る故事。

昔、黄帝が赤水の北に遊んだ時、珠を紛失した。

最初に智慧者をやって探させたが見つからなかった。

次に遠目のきく男をやったがやはり見つからない

最後に罔象という盲人をやったら、その珠を見つけて来たという。

ここでは罔象は単なる盲人ではなく、

無字の根源である下層脳(無意識脳)を象徴的に表している。

珠: 無字の悟りを珠になぞらえている。

(無字については無門関第一則を参照)(無門関第一則を参照 )。

珠を罔象に得て至道綿々たり: 無字の悟りを得てその伝灯の道が綿々と続く。

赤心: 嘘いつわりのない、ありのままの心。丹心。まごころ。

片片: 切れ切れな様子。

亡牛: 死亡した牛。

刃を亡牛に遊ばしめて赤心片片たり: 死亡した牛を解剖する時、

薄刃の包丁を用いると包丁が自由に入ってあたかも遊んでいるように使いこなせる。

そのように嘘いつわりのないまごころをもつと無理のない生活ができる。



頌の現代語訳

仏祖の境涯を自分のものにして一串に刺し通すさまは水が漏れるにつれて

着実に動く水時計の針のようである。

大機大用のはたらきで禅の第一義を示す様は、あたかも千鈞(せんきん)の石弓(弩)

を発射するような権威に満ちている。

そのような境涯にある人の教化の様子は変幻自在にたなびき動く雲から

雷電が飛ぶような勢いである。

この中の人の転変自在さは浅ましいかと思えば貴く、貴いかと思えば浅ましく捉えどころがない。

無字の悟りを得て悟りの伝灯の道が綿々と続くのだ。

死亡した牛を解剖する時、薄刃の包丁を用いると包丁が自由に入って遊んでいるように使いこなせる。

そのように嘘いつわりのないまごころをもつと無心に無理なく生きることができる。


解釈とコメント


」に歌われる罔象は単なる盲人ではなく、

無字の根源である下層脳(無意識脳)を象徴的に表していると考えれば分かり易い

無字については無門関第一則を参照 )。

無字の悟りは無分別智のことであるが、それは上層脳(理知脳)を使って得られるものではない。

坐禅修行に集中し、下層脳(=脳幹+大脳辺縁系=無意識脳)を活性化させることで得られる。

」の最後の「珠を罔象に得て至道綿々たり」という言葉は

「無字の悟りを得てその伝灯の道が綿々と続くことを詠っている。

首山の言葉、

私の場合は、月が落ちて真っ暗な真夜中に

市中をスーッと通りすぎて行くようなものだ」。

に対応する表現と言える。

参禅修行によって、無字の根源である下層脳(無意識脳)を活性化させ、

無分別智を開発することで、無心の生活を生きる禅の道が綿々と続くことを詠っている。

第一句に薦得することを禅の悟りを開き、法の眼が開くことだと解釈する。

第二句に薦得することを無心の生活をすることと考えると、

第一句と第二句に薦得することは坐禅修行を通し、

真の自己に目覚め(見性)することだと考えられる。

真の自己に目覚めることで「無分別智」が開発されると、

無心の生活をすることを言っていると考えることができる。

第三句は三毒(貪瞋痴)に基づく凡俗の生活を送ることだと考えられる。

仏教では「貪瞋痴」は三毒だと考えられ、

戒定慧の三学の修行によって滅尽し、それから脱却することを目的としている。

坐禅によって、生命情動脳は活性化され、

三毒の内で「貪瞋(むさぼり・いかり)」は容易に鎮静化することができる。

三毒の内、(おろかさ)は正しい情報と真理に基づいて、

上層脳(理知脳)を働かせることで解消(コントロール)できる。

これによって、無事安楽の境涯に到ることができる。

これは次の図で説明できるだろう。


三句

図 首山三句の説明


これは鈴木正三の「仏法即世法」の考え方でも良く説明できる。

鈴木正三の「仏法即世法」の合理的説明を参照 )。




77soku

 第77則  仰山随分 



示衆:

人の空に描くが如き、筆を下せば即ち錯(あやま)る。

那んぞ模(も)を起こして様(よう)を作すに堪えん。

甚麼(なに)を為すに堪えんや。O。

万松(ばんしょう)已に是れ詮索(せんさく)を露わす。

条(じょう)あれば条を攀(よ)じ、条無ければ例を攀ず。


注:

空: 真空。無字のこと。

無字については無門関第一則を参照 )。

人の空に描くが如き、筆を下せば即ちあやまる: 人が真空(無字)をキャンバスに

描こうと絵筆を取っても描くことができない。

那んぞ模を起こして様を作すに堪えん:

どうして無字の実相を想像して絵に描くことができるだろうか。

甚麼(なに)を為すに堪えんや。: そんなことができるはずがない。

ただ無字を単提して追求するしかない。

O。万松已に是れ詮索(せんさく)を露わす。: 万松行秀禅師は一円相(O)など

を描いて本来詮索できないものを詮索しようとしているがそれは誤りだ。

条: 条文。実例。

条あれば条を攀じ、条無ければ例を攀ず。: 条文があれば条文を研究し、

条文が無ければ実例を研究すれば良い。




示衆の現代語訳


人が真空(無字の悟り)をキャンバスに描こうと絵筆を取っても描くことができない。

どうして無字の実相を想像して絵に描くことができるだろうか。

そんなことができるはずがない。ただ無字を単提して追求するしかない。

万松行秀禅師は一円相(O)などを描いて本来詮索できないものを

詮索しようとしているがそれは誤りだ。

無字に関する条文があれば条文を研究し、条文が無ければ実例を研究すれば良いだろう。




本則:

僧仰山に問う、「和尚還って字を識るや否や?」。

山云く、「分に随う」。

僧乃ち右旋一匝して云く、「是れ甚麼の字ぞ?」。

山、地上に於て箇の十字を書す。

僧左旋一匝して云く、「是れ甚麼の字ぞ?」。

山十の字を改めて卍の字となす。

僧一円相を描いて両手を以て托げて修羅の日月を掌にする勢いの如くにして云く、

是れ甚麼の字ぞ?」。

山乃ち円相を描いて卍字を囲却す。

僧乃ち楼至の勢いをなす。

山云く、「如是如是、汝善く護持せよ」。


注:

仰山:仰山慧寂(807〜883)。

イ山(いさん)霊祐(れいゆう)禅師(771〜853)の法嗣。

イ山(いさん)霊祐(れいゆう)とともにイ仰宗の開祖とされる。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一→百丈懐海→イ山霊祐→仰山慧寂

和尚還って字を識るや否や:お和尚さんは字を識っていますか?

分に随う。: 自分相応に知っているよ。

僧乃ち右旋一匝して云く、是れ甚麼の字ぞ。:僧は右回りに一周して云った、

これは何という字ですか?」。

 十字を書す: 十字を書いた。十字は十分の意味で完全を表している。

 山十の字を改めて卍の字となす。: 

仰山は十字の端にチョイチョイと四つヒゲを付けて卍の字にした。

卍の字は万徳円満を意味している。

卍の字: 卍字には順卍字と逆卍字(右卍、?)がある。卍の字は旋火輪を表し、

世間に従った生活(順流生死)を表している。

逆卍字(右卍、?)は世間に背いた迷いの生活(逆流生死)を表しているとされる。

真の卍字が手に入って自由自在の働きができるようになると考えられている。

修羅: 阿修羅(あしゅら、あすら、サンスクリット:asuraの音写、意訳:非天)。

梵天帝釈天と戦う魔神とされる。

帝釈天と戦争をするが、常に負ける存在。この戦いの場を修羅場(しゅらば)と呼ぶ。

大乗仏教の守護者として八部衆に入れられた。

 楼至(るし): 仁王。仏法を守護する神。

寺門などに左右一対(いっつい)で安置された金剛力士(こんごうりきし)像をいう。


金剛力士

図6 金剛力士像


 僧一円相を描いて両手を以て托(ささ)げて修羅の日月を掌にする勢いの如くにして云く、是れ甚麼の字ぞ。: 

僧は一円相を描いて両手を托(ささ)げて阿修羅が日月を掌に取るような勢いを表わして云った、

これは何の字か?」。

山乃ち円相を描いて卍字を囲却す。: 仰山は円を描いて卍字を丸く囲んだ。

 楼至の勢い: はじめにオイオイ泣いて、それからにっこり笑って、ウムと仁王の姿を現すこと。

泣く、笑う、力むという仏性(脳)のはたらきを現すこと。

 僧乃ち楼至の勢いをなす。: 泣く、笑う、力むという仏性(脳)のはたらきを現した。



本則:

僧が仰山に聞いた、

お和尚さんは字を識っていますか?」。

仰山は云った、

自分相応に知っているよ」。

僧は右回りに一周して云った、

これは何という字ですか?」。

仰山は地上に十字を書いた(「それは十の字だ」と答えた)。

僧は左に一まわり回って云った、

これは何の字ですか?」。

仰山は十字の端にチョイチョイと四つヒゲを付けて卍の字にした、(「それは卍の字だよ」と答えた)。

僧は一円相を描いて両手を以て托げて阿修羅が日月を掌に取るような勢いを示して云った、

これは何の字ですか?」。

仰山は卍の字の回りに円を描いた

(「それは丸に卍の字だよ」と答えた)。

僧ははじめにオイオイ泣いて、それからにっこり笑って、ウムと仁王の姿を現した。

仰山は云った、

そうだそのとおりだ。油断しないでその境地を護持しなさい」。



道環(どうかん)の虚(きょ)盈(みつ)ること靡(な)し。

空印(くういん)の字未だ形(あらわ)れず。

妙に天輪(てんりん)地軸(ちじく)を運(めぐ)らし、

密に武緯(ぶい)文経(ぶんけい)を羅(つ)らぬ。

放開(ほうかい)捏聚(ねつしゅう)、独立周行。

機は玄枢(げんすう)を発して青天に電を激す。

眼に紫光(しこう)を含んで白日に星を見る。


注:

道環: 仏道の環。

道環の虚盈(みつ)ること靡(な)し: 仏道の空虚な環は満たされることはない。

空印の字: 仏道。

空印の字未だ形(あらわれ)れず。: 無相の仏道は形になって現れることはない。

妙に天輪地軸を運らし: 質問僧が左旋一匝したり、

左旋一匝して仰山に迫る見事な様子は妙に天輪地軸を運らすようだと歌っている。

武緯: 殺人刀(武)の緯(横糸)。差別。

文経: 活人剣(文)の経(縦糸)。平等。

密に武緯文経を羅(つ)らぬ: 仰山は活殺自在のはたらきで僧に対して親切に応対している。

これに対し仰山は活殺自在のはたらきで僧に対して親切に応対している。

妙に天輪地軸を運らし、密に武緯文経を羅(つ)らぬ。: 僧は左旋一匝したり、

左旋一匝して仰山に迫る様子は天輪地軸を運行するように見事である。

放開: 解き放つこと。

捏聚(ねつしゅう): つかまえて放さないこと。

放開捏聚(ねつしゅう)、独立周行。: 仰山は僧をつかまえたり放したり、

独立独歩の自在な応対である。

機: はたらき。

玄枢(げんすう): 玄妙で最も大切なところ。

青天に電を激す: 青空に電光を飛ばしている。

機は玄枢(げんすう)を発して青天に電を激す。: その素晴らしいはたらきは

玄妙で最も大切なところから発して青空に電光を飛ばしているようだ。

眼に紫光を含んで: さすがの仰山、紫光を含んで眼の色が違う。

白日に星を見る。: 昼間に星を見るほどの眼力だ。

眼に紫光を含んで白日に星を見る。: さすがの仰山、紫光を含んで眼の色が違う。

その眼力たるや昼間に星を見るほどだ。



頌の現代語訳


仏道の空虚な環は満たされることはないし、空・無相の姿は形になって現れることもない。

僧は左旋一匝したり、左旋一匝して仰山に迫る様子は天輪地軸を運行するように見事である。

これに対し仰山は活殺自在のはたらきで僧に対して親切に応対している。

仰山は僧をつかまえたり放したり、独立独歩の自在な応対ぶりである。

その素晴らしいはたらきは玄妙で最も大切なところから発して青空に電光を飛ばしているようだ。

さすが仰山、紫の光を含んで眼の色が違う。

その眼力たるや昼間に星を見るほどだ。


解釈とコメント


本則において僧は4回質問している。


僧の第一回質問:お和尚さんは字を識っていますか?」。


仰山の答え:自分相応に知っているよ」。


僧の第二回質問:僧は右回りに一周して云った、「これは何という字ですか?」。


仰山の答え:仰山は地上に十字を書いた(「それは十の字だ」と答えた)。

仰山は僧の第二回目の質問に対して、言葉で答えること無く黙って地上に十字を書いている。

仰山は僧の質問に対して「それは十の字だ」と答えているのである。

十字は十分の意味で完全を表している。

僧は右回りに一周して円を描いたのに対し、円は完全を意味していると答えているのである。


僧の第三回質問:僧は左に一まわり回って云った、「これは何という字ですか?」


仰山の答え:仰山は十字の端にチョイチョイと四つヒゲを付けて卍の字にした。

仰山は僧の第三回目の質問に対して、言葉で答えること無く、

地上に卍を描いて「それは卍の字だよ」と答えているのである。


僧の第四回質問:僧は一円相を描いて両手を以て托げて

阿修羅が日月を掌に取るような勢いを示して云った、

これは何という字ですか?」


仰山の答え:仰山は卍の字の回りに円を描いた。

仰山は僧の第四回目の質問に対して、言葉で答えること無く、仰山は卍の字の回りに円を描いて、黙って、

「それは卍の丸囲み字だよ」と答えているのである。

言葉で何度質問しても仰山は言葉で返答しない。仰山の態度に何かを感じたのだろうか?

僧ははじめにオイオイ泣いて、それからにっこり笑って、ウムと仁王の姿を現した。

これはもう言葉による質問ではない。

僧の悟りの境地を「泣く、笑、力む」という仏性のはたらきを身体で表現し、

仰山に「これはどうですか?」と聞いているのである。

これに対し仰山は、「そうだそのとおりだ。油断しないでその境地を護持しなさい」と言って、

僧の悟りの境地(作用即性の悟りの境地)を肯定したのである。

作用即性の悟りを参照 )。

本則において、僧は合計4回質問している。

これに対し仰山は第一回質問に対してだけ「自分相応に知っているよ」と言葉で答えている。

僧の第二回目〜第四回目の質問に対し、仰山は言葉で返答することはなく、

地上に字か字らしきものを描いて答えている。

仰山は禅の悟りの境地は言葉で表現できないと言いたいのだろうか?

いくら質問しても言葉で返答しない仰山の態度に僧も最後には身体による表現に切り替える。

そして、僧の悟りの境地を「泣く、笑う、力む」という仏性(脳)のはたらきを身体で表現し、

仰山に「これはどうですか?」と聞く。

これに対し、仰山は「そうだそのとおりだ。油断しないでその境地を護持しなさい

と答えて僧の境地を肯定している。

仰山は言語による表現に不信感を持っているのだろうか?

言葉に出すより地上に字を描くことで自分の言いたいことを表現している。

仰山の言語表現と身体表現を巧みに使い分ける姿勢が印象的である。


78soku

 第78則  雲門餬餅  



示衆:

ばん天に価を索むれば搏地(ばくち)に相報(むく)ゆ。

百計経求(けいきゅう)一場の麼羅(もら)。

還って進退を知り、休咎(きゅうく)を識る底ありや。


注:

ばん天に価を索むれば: 天をひっくるめてありったけ求めれば。

搏地(ばくち)に相報(むく)ゆ: 地をひっくるめてありったけ与える。

ばん天に価を索むれば搏地(ばくち)に相報(むく)ゆ。: 天地を

ひっくるめてありったけ求めれば、天地ありったけ与える。

百計経求: ああがいいかこうがいいいかと、いろいろ考え、謀計希求すること。

麼羅(もら): 恥かき。

百計経求一場の麼羅(もら)。: ああがいいかこうがいいいかと、

いろいろ考え、謀計希求し妄想することは仏祖道場における大恥かきだ。

進退: 問答往来すること。

休咎(きゅうく): 是非善悪。よしあし。

還って進退を知り、休咎(きゅうく)を識る底ありや。: これだけ

言ったら問答往来し修行上のよしあしが分かるだろう。




示衆の現代語訳


天地をひっくるめてありったけ求めれば、天地ありったけ与える。

ああがいいかこうがいいいかと、いろいろ考え、

謀計希求し妄想することは仏祖道場における大恥かきだ。

これだけ言ったら問答往来し修行上のよしあしが分かるだろう。

本則:

僧雲門に問う、「如何なるか是れ超仏越祖の談?」。

門云く、「餬餅」。


注:

雲門:雲門文偃禅師(864〜949)。雲門宗の開祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→

龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃

超仏越祖の談: 仏祖をも超えた境地。

餬餅(こびょう): いなか餅。ごま餅。



本則の現代語訳:

僧が雲門に聞いた、

仏祖をも超えた境地とはどのようなものでしょうか?」。

雲門は云った、

いなか餅」。


餬餅(こびょう)を超仏祖(ちょうぶっそ)の談と云う。

句中に味わい無し如何が参ぜん。

衲僧(のうそう)一日もし飽くことを知らば、方(まさ)に見ん雲門の面(おもて)慙(は)じざることを。


注:

餬餅を超仏祖の談と云う: 雲門は「いなか餅」を超仏越祖の談だと突きつけている。

句中に味わい無し。如何が参ぜん。: 

了事の衲僧 一箇(ひとり)を消(もち)う:餬餅と答えた一句には迷いの味も悟りの味も無い。

しかし、この餬餅の一句には絶対の栄養価があって一度食べたら永久に腹が減らない。

さあ、どのように呑み込んだら良いだろうか。

 衲僧: 禅僧。

もし飽くことを知らば: 餬餅を食べて心から満足できれば。

衲僧一日もし飽くことを知らば、方(まさ)に見ん雲門の面(めん)、慙(は)じざることを。: 

もし禅僧がこの餬餅を食べて心から満足できれば、

雲門に恥をかかせるようなことはないだろう。

(もし、これで満足できないならば雲門に恥をかかせることになるぞ)。



頌の現代語訳

雲門は「いなか餅」を超仏越祖の談だと突きつけている。

餬餅と答えた一句には迷いの味も悟りの味も無い。

しかし、この餬餅の一句には絶対の栄養価(心の栄養)があって一度食べたら永久に腹が減らない。

さあ、どのように呑み込んだら良いだろうか。

もし禅僧がこの餬餅を食べて心から満足することができれば、

雲門に恥をかかせるようなことはないだろう。

(もし、満足できないならば雲門に恥をかかせることになるぞ)。


解釈とコメント


本則は碧巌録77則と殆ど同じである

碧巌録77則を参照 )。


79soku

 第79則 長沙進歩  



示衆:

金沙灘頭(きんしゃだんとう)の馬郎婦(ばろうふ)、別に是れ精神。

瑠璃瓶裏(るりびょうり)にじこうをつく。

誰か敢えて転動(てんどう)せん。

人を驚かす浪(なみ)に入らずんば、意に称(かな)う魚に逢い難し。

寛行大歩(かんこうたいほ)の一句作麼生(そもさん)。


注:

金沙灘頭(だんとう)の馬郎婦、別に是れ精神:

金沙灘頭にある観音像が表している大乗菩薩の衆生済度の精神。

瑠璃: 青色の美しい宝石。ラピスラズリ。


ラピスラズリ

図  瑠璃(ラピスラズリ)


瑠璃瓶裏: 瑠璃の器の中。

じこう: 栗餅。

瑠璃瓶裏にじこうをつく: 瑠璃の器の中では器を壊さないように栗餅を慎重につく。

誰か敢えて転動せん。: 誰が敢えて自由につけるだろうか。

人を驚かす浪に入らずんば、意に称(かな)う魚に逢い難し。: 人がびっくりするような

怒涛の中に飛び込んで行くような者でなくては、

思うような大きな魚を取ることはできない。

寛行大歩(かんこうたいほ): 大手を振って堂々と歩くこと。

寛行大歩(かんこうたいほ)の一句作麼生。: 大手を振って

堂々と闊歩できるような生活を可能にする一句とはどのようなものだろうか。


示衆の現代語訳


金沙灘頭にある観音像が表している菩薩の精神は気高いものだ。禅修行もそこを目指すべきだ。

瑠璃の器の中では器を壊さないように栗餅を慎重につく。

それと同じように中途半ぱな悟りでは、瑠璃の器の中で栗餅をつくように動きがぎこちなくなる。

誰が敢えて自由に動くことができるだろうか。

人がびっくりするような怒涛の中に飛び込んで行くような者でなくては、

思うような大きな魚を取ることはできない。

大手を振って堂々と闊歩するような生活を可能にする一句とはどのようなものだろうか。



本則:

長沙、僧をして会和尚に問わしむ、「未だ南泉に見みえざる時如何?」。

会良久す。

僧云く、「見みえて後如何?」。

会云く、「別に有るべからず」。

僧、廻って沙に挙す。

沙云く、「百尺竿頭に坐する底の人、然も得入すと雖も未だ真と為さず。百尺竿頭に須らく歩を進むべし。十方世界是れ全身」。

僧云く、「百尺竿頭如何が歩を進めん?」。

沙云く、「郎州の山、れい州の水」。

僧云く、「不会」。

沙云く、「四海五湖、王化の裏」。


注:

長沙: 長沙景岑(生没年不詳)。長沙景岑は南泉普願の法嗣で

峻烈な機鋒で知られ、仰山から岑大虫と呼ばれた。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一→南泉普願→長沙景岑

会(え)和尚::南泉普願の法嗣。和尚も長沙景岑も共に南泉普願門下の兄弟弟子。

未だ南泉に見(ま)みえざる時如何?: 

父母未生以前本来の面目に会わない時はどのようなものですか?

真の自己に会わない時はどうですか?

良久す: 黙ったままであった。

見みえて後: 父母未生以前本来の面目(真の自己)を悟った後。

別に有るべからず:別に変わったことはない。

百尺竿頭: 百尺もの長い竿の先。悟りの素天辺。

十方世界是れ全身: 十方世界に拡がったように充実した生活ができる。

郎州の山、れい州の水: 郎州の山を見たら山になり、

れい州の水を見たら水になるような心境一如の境地になること。

心境一如の境地を参照 )。

四海五湖: 中国四百余州。

王化の裏:皇帝の支配下にある。

 四海五湖、王化の裏: 中国全土は皇帝の支配下にある。

行く所として王土でないところはない。


本則の現代語訳:

長沙は僧を会和尚のところに遣って質問させた、

まだ真の自己を悟っていない時はどうですか?」。

会和尚は黙ったままだった。

僧は云った、

父母未生以前本来の面目を悟った後はどうですか?」。

会和尚は云った、「別に変わったことはないよ」。

僧はありのままを長沙に報告した。

長沙は云った、

悟りの素天辺に坐りこんで安住する人はたとえ悟ったといってもまだ本物ではない

悟りの素天辺から更に一歩も百歩も進まなければならない

そうすれば、十方世界に拡がったように充実した生活ができるのだ」。

僧は云った、

悟りの素天辺からどのように歩を進めたら良いのですか?」。

長沙は云った、

郎州の山を見たら山になり、れい州の水を見たら水になるだけだ」。

僧は云った、

分かりません」。

長沙は云った、

中国全土は皇帝の支配下であり、行く所として王土でないところはないようなものだ」。


玉人、夢破る一声の鶏(にわとり)。

転盻(てんめん)すれば生涯色色(しきしき)斉(ひと)し。

有信(ゆうしん)の風雷出蟄(しゅつちつ)を催(もよお)し、

無言の桃李(とうり)自ずから蹊(こみち)を成す。

時節に及んで耕犁(こうり)を力(つと)む、

誰か怕(おそ)れん春トウ(しゅんとう)脛(はぎ)を没する泥(でい)。


注:

玉人: 本来の面目。真の自己。

夢破る: 分別妄想の迷いの夢を破る。

一声の鶏: 南泉普願の一言一句の指導。

ここでは南泉普願の一言一句の指導を鶏の一声に喩えている。

玉人、夢破る一声の鶏。: 会和尚の本来の面目は分別妄想の迷いの夢を見ていたが

南泉普願の一言一句の指導によって夢が破れて本来の面目を悟ることができた。

転盻(てんめん)する。: 左右前後を振り返り見る。見渡す。

生涯色色斉し: 事事物々が斉しく法身の丸出しである。

転盻(てんめん)すれば生涯色色斉し。: 

悟りの眼で見渡せば事事物々が斉しく法身の丸出しであるような生活になる。

有信: 春の訪れ。

有信の風雷: 春が訪れると春風が吹き雷が鳴ること。長沙を雷に喩えている。

出蟄: 冬眠していた虫が外にでること。会和尚を虫に喩えている。

無言の桃李自ずから蹊を成す: 桃李の花が咲くと、

無言でいても、人々が訪ねてきて自然に路ができる。

有信の風雷出蟄を催し、無言の桃李自ずから蹊を成す。: 

春が訪れると春風が吹き雷が鳴り冬眠していた虫が外に出て来る。

百尺竿頭に一歩を進めると仏道が円熟し、法を求めて人々が集まってくる。

それは桃李の花が咲くと、無言でいても、人々が訪ねてきて自然に路ができるようなものだ。

耕犁: 牛を使って田を耕すこと。

春トウ(しゅんとう): 春の田の畝。

時節に及んで耕犁を力む。誰か怕(おそ)れん、春トウ(しゅんとう)脛を没する泥: 

春になると農家は耕作に忙しい。

農夫はどんな泥田にも入って我を忘れて自由に働いて脛が泥で汚れても平気である。

その姿は行く所真の自己の活現しないところはないということを表している。



頌の現代語訳

会和尚の本来の面目は分別妄想の迷いの夢を見ていたが

南泉普願の一言一句の指導によって夢が破れて本来の面目を悟ることができた。

悟りの眼で見渡せば事事物々が斉しく法身の丸出しの生活だ。

春が訪れると春風が吹き雷が鳴り、冬眠していた虫が外に出て来る。

もし、百尺竿頭に一歩を進むことができれば、仏道が円熟し、法を求めて人々が集まってくる。

それは桃李の花が咲くと、無言でいても、人々が訪ねてきて自然に路ができるようなものだ。

春になると農家は耕作に忙しい。

農夫はどんな泥田にも入って我を忘れて自由に働いて脛が泥で汚れても平気である。

その姿には真の自己が活現している。



解釈とコメント


本則の前半は僧と会和尚の会話である。

後半部は長沙景岑の説法になっている。

後半部の長沙景岑の「百尺竿頭に坐する底の人、然も得入すと雖も未だ真と為さず

百尺竿頭に須らく歩を進むべし。十方世界是れ全身

という言葉は「無門関」第46則に出ている。

「無門関」第46則を参照 )。

また、「無門関」第46則には後半部の以下の会話はない。

僧云く、「百尺竿頭如何が歩を進めん?」。

沙云く、「郎州の山、れい州の水」。

僧云く、「不会」。

沙云く、「四海五湖、王化の裏」。

本則は禅における悟後の修行と「心境一如の境地」の重要性を言っている。


心境一如の境地を参照 )。


長沙の言葉「中国全土は皇帝の支配下であり、行く所として王土でないところはないようなものだ」は、

臨済の有名な言葉「随所に主となれば、立処皆真なり」に似たところがある。


「臨済録」示衆8−2を参照 )。



80soku

 第80則  龍牙過板  



示衆:

大音(だいおん)は声希れに、大器は晩成す。

盛忙(せいぼう)百閙(ひゃくにょう)の裏(うち)に向かって呆(ほう)を佯(いつわ)り、

化故(かこ)千年の後を待って慢バン(まんばん)す。

且らく道え是れ如何なる底の人ぞ。


注:

大音は声希れに、: 仏道修行のような大きな問題には聞き耳を立てるような人は少ないが、

大音は声希れに、大器は晩成す。: 仏道修行のような大きな問題には

聞き耳を立てるような人は少ないが、

龍牙のような命がけで修行を続けた大器は最後には大成する。

盛忙: いそがしいこと。

百閙(ひゃくにょう): 騒がしい。

盛忙百閙の裏に向かって: いそがしく騒がしい中で。

呆を佯(いつわ)り: 阿呆づらをしている。

盛忙百閙の裏に向かって呆を佯(いつわ)り、: いそがしく騒がしい中で阿呆づらをしてとぼけている。

化故千年の後: 長年の後。

慢バン(まんばん): 緩慢。のんびりすること。

化故千年の後を待って慢バン(まんばん)す。:

千年後に真価を知る者がいれば良いとのんびりしている。


示衆の現代語訳


仏道修行のような大きな問題には聞き耳を立てる人は少ないが、

龍牙のような命がけで修行を続けた大器は最後には大成する。

いそがしく騒がしい中で阿呆づらをしてとぼけ、

千年後に真価を知る者がいれば良いとのんびり構えている。

それはどのような人だろうか。



本則:


龍牙翠微に問う、「如何なるか是れ祖師西来意?」。

微云く、「我が与めに禅板を過ごし来たれ」。

牙禅板を取って翠微に与う。微接得して便ち打つ。

牙云く、「打つことは即ち打つに任す要且つ祖師西来意無し」。

又臨済に問う、「如何なるか是れ祖師西来意?」。

済云く、「我が与めに蒲団を将ち来たれ」。

牙蒲団を取って臨済に与う。済接得して便ち打つ。

牙云く、「打つことは即ち打つに任す要且つ祖師意無し」。

牙後に住院す。

僧問う、「和尚当時翠微と臨済とに祖意を問う、二尊宿明かすや也た未だしや?」。

牙云く、「明かすことは即ち明かす、要且つ祖師意無し」。



注:

龍牙:龍牙居遁禅師(835〜923)。曹洞宗の開祖である洞山良价の法嗣。

龍牙山妙済寺に住した。曹洞系の禅僧と考えられる。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价→龍牙居遁

翠微:翠微無学禅師。丹霞天然(739〜824)の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→丹霞天然→翠微無学

祖師西来意: 達磨大師がインドから中国に来た意味。禅の究極のところ。

禅版:長さ50cm、厚さ1cm、幅6cmくらいの木板の一端があごを

乗せて休むように丸くくりぬいてあるもの。

長時間の坐禅で疲れて来た時坐睡するため使う木板。

蒲団:坐禅の時に尻に敷く坐蒲。

要且つ:結局。

住院: 行脚を止めて寺に住むこと。

尊宿:修行が立派にできた人。


本則の現代語訳:


龍牙は翠微に聞いた、

禅の究極のところとはどういうものでしょうか?」。

翠微は云った、

私に禅板を持って来てくれんか」。

龍牙は禅板を取って来て翠微に与えた。

翠微は禅板を受け取るやいなや龍牙をピシャリと打った。

龍牙は云った、

お打ちになることはかまいませんが、そこには一向祖師西来意らしいものはありませんね」。

龍牙は臨済のところに行って聞いた、

禅の究極のところとはどういうものでしょうか?」。

臨済は云った、

私に蒲団を持って来てくれんか」。

龍牙は蒲団を取って来て臨済に与えた。臨済は蒲団を受け取るやいなや龍牙をピシャリと打った。

龍牙は云った、

お打ちになることはかまいませんが、そこには一向祖師西来意らしいものはありませんね」。

龍牙は後に行脚を止めて寺に住んだ。

僧が聞いた、

和尚はその時翠微と臨済とに禅の究極のところを聞いたとのことですが

二人の尊宿はそれをはっきりと説明してくれたでしょうか?」。

龍牙は云った、

二人の尊宿は確かに答えてくれたが、そこには祖師西来意は無かったよ」。



蒲団禅板(ふとんぜんばん)龍牙に対す、何事ぞ機に当たって作家(さっけ)とならざる。

未だ成褫(じょうち)して目下に明なることを意(おも)わず。

将に流落(りゅうらく)して天涯(てんがい)に在らんとすることを恐る。

虚空那(な)んぞ剣を掛けん。

星漢(せいかん)却って槎(さ)を浮かぶ。

不萌(ふもう)の草に香象を蔵することを解し、無底の籃に能く活蛇(かつじゃ)を著く。

今日江湖(ごうこ)何の障礙(しょうげ)かあらん。

通方の津渡(しんと)にコウ車(こうしゃ)あり。


注:

作家(さっけ): 力量ある禅僧。

蒲団禅板龍牙に対す、何事ぞ機に当たって作家とならざる。:

無功: 龍牙に対して蒲団や禅板を持って来いとは、持ってきてピシャリとやれと

催促しているようなものではないか。

どうして翠微と臨済をピシャリと打って禅の力量を示す絶好の機会ではないか。

どうしてすきを見せている翠微と臨済をピシャリと打たなかったのか。

作家らしく何故キビキビとやらなかったのか。

成褫(じょうち): 成敗。勝敗。結論。

未だ成褫(じょうち)して目下に明なることを意わず: 龍牙には祖師西来意を

すぐさま明らかにしようというコセコセした根性はないのだ。

翠微と臨済に負けてみせて、相手を喜ばせているようなものだ。

将に流落して天涯に在らんとすることを恐る。: 祖師西来意

と来たら打ってやれば良いのか。

そんな紋切り型の応答をするようでは天涯流落のさすらい人にしてしまうではないか。

それで龍牙はわざとトボけているのだ。

虚空那んぞ剣を掛けん。: 空中にどうして剣をかけることができるだろうか。

星漢: 天の川。

槎(さ): 筏。

星漢却って槎(さ)を浮かぶ。:龍牙は天の川に筏を浮かべるように、

高い禅の境地を登って行くようなことをしている。

それは翠微と臨済にはできないことだ。

香象: 大きな象。

不萌の草に香象を蔵すること: 仏法くさい棒や喝を用いないところに大きな象がいること。

無底の籃(かご): 底のない籃(かご)。

活蛇: 龍牙を活蛇に譬えている。

不萌の草に香象を蔵することを解し、無底の籃に能く活蛇を著く。: 龍牙は

仏法くさい棒や喝を用いないところに大きな象がいることが分かっている。

彼は底のない籃(かご)に潜む活蛇のようでその禅境は深くてなかなか見えない。

江湖: 四方八方

障礙(しょうげ): さまたげ。さまたげとなるものや状況。

今日江湖何の障礙(しょうげ)かあらん。 打っても打たなくても、仏法に何のさまたげがあるだろうか。

通方: 四方八方に通じること。

津渡: 渡し場。

コウ車: 舟と車。

通方の津渡にコウ車あり。: 四方八方に通じる渡し場には舟と車があるように

祖師西来意はどこにでもあるではないか。



頌の現代語訳

龍牙に対して蒲団や禅板を持って来いとは、

持ってきてピシャリとやれと催促しているようなものではないか。

翠微と臨済をピシャリと打って禅の力量を示す絶好の機会ではないか。

どうしてすきを見せている翠微と臨済をピシャリと打たなかったのか。

作家らしくキビキビやればよかったのに。

龍牙には祖師西来意をすぐさま明らかにしようというコセコセした根性はないのだ。

翠微と臨済に負けたふりを見せて、相手を喜ばせているようなものだ。

祖師西来意と来たら打ってやれば良いのか。腹が減ったら飯を食えば良いのか。

そんな紋切り型の応答をするようでは天涯流落のさすらい人にしてしまうではないか。

龍牙はわざとトボケているのだ。

空中にどうして剣をかけることができるだろうか。

龍牙は天の川に筏を浮かべるように、高い禅の境地を登って行くようなことをしている。

それは翠微と臨済にはできないことだ。

龍牙は仏法くさい棒や喝を用いないところに大きな象がいることが分かっている。

彼は底のない籃(かご)に潜む活蛇のようにその禅境は深くてなかなか見えない。

四方八方に通じる渡し場には舟と車があるように祖師西来意はどこにでもあるではないか。


解釈とコメント


岩波「臨済録」勘弁に本則と同じ話が出ている。

従容録(本則)では龍牙は最初に翠微を訪ね、次に臨済に聞いている。

しかし、「臨済録」では、龍牙は最初に臨済を訪ね、次に翠微に聞いたことになっている。

このように、「従容録」と「臨済録」では龍牙が臨済と翠微を訪問する順序が逆になっている。

本則は碧巌録20則と殆ど同じである。

碧巌録20則を参照 )。

しかし、「従容録」と「臨済録」では龍牙の力量に対する評価が全く違う。

碧巌録20則では龍牙は悟りの眼がない者だと低く評価されている。

しかし、「従容録」では龍牙は大悟徹底した禅者としてその力量を高く評価している。

碧巌録と「従容録」では龍牙の力量に対する評価が逆転しているのである。

碧巌録20則では龍牙は悟りの眼目として、

作用即性>の原理が全く分からない愚か者だと低く評価している。

「従容録」では逆に、龍牙の力量を高く評価しているのである。

<作用即性>については禅の根本原理を参照 )。

善意に解すれば龍牙は<作用即性>の原理は分かっていたが、棒喝を多用する

当時の禅風に反発していたと考えることもできる。

しかし、そうだとしても、

その真意(棒や喝は真の自己の働きだという)が分かっていなかった可能性も考えられる。

実際我が国の道元禅師は棒喝を使用するのは荒々しい暴力だ

と誤解し反発していたようにも見える。

龍牙は臨済に対し、

お打ちになることはかまいませんが、そこには一向祖師西来意らしいものはありませんね」。

と言っていることからも分かる。

しかし、この違いは臨済禅と曹洞禅との単なる禅風の違いだとも考えられる。

しかし、龍牙本人に尋ねない限り、本当のところはどうであるのかはっきりしない。

現代の曹洞禅ではこの公案の真意をどのように評価しているのだろうか?

碧巌録より従容録の方が本則が長い。碧巌録には最後の次の3行がない。

即ち、

牙後に住院す。

僧問う、「和尚当時翠微と臨済とに祖意を問う、二尊宿明かすや也た未だしや?」。

牙云く、「明かすことは即ち明かす、要且つ祖師意無し」。

上の3行が碧巌録にはない。そのため碧巌録の方が少し短い。

碧巌録20則を参照 )。


81soku

 第81則   玄沙到県  



示衆:

動(どう)ずれば即ち影(かげ)現じ、覚(かく)すれば即ち塵(ちり)生ず。

挙起(こき)すれば分明(ふんみょう)、放下すれば隠密(おんみつ)。

本色(ほんしき)の道人の相見(しょうけん)、如何んが説話せん。


注:

動ずれば: 分別妄想をかつげば。あの哲学、この思想、宗教と分別憎愛の凡情が動けば。

覚すれば即ち塵生ず。: 空を自覚すれば知見や空見という塵が残る

動ずれば即ち影現じ、覚すれば即ち塵生ず。: 

あの哲学、この思想、宗教と分別憎愛の凡情が動けば

それに相応した影が現れ、空を自覚すれば知見や空見という塵や粕が残る。

挙起すれば分明: 取り上げればすっきりと分かる。

隠密: 天下太平。

挙起すれば分明、放下すれば隠密。: 

その影や塵を取り上げれば何もなかったとすっきりと分かる。

さらにその分明も放り出せば天下太平だ。

本色の道人: 修行の出来上がった人。得道の人。

本則に出て来る得道の人である玄沙と小塘長老のこと。

説話: 問答すること。

本色の道人の相見、如何んが説話せん。: 本則に出て来る得道の人玄沙と小塘長老

が相見した時どのような問答をするだろうか。

それをよく見て参究しなさい。


示衆の現代語訳


あの哲学、この思想、宗教と分別憎愛の凡情が動けばそれに相応した影が現れる。

空を自覚すれば知見や空見という塵が残る。

その影や塵を取り上げれば何もなかったとすっきりと分かる。

さらにその分明も放り出せば天下太平の隠密の境地に至る。

本則に出て来る得道の人玄沙と小塘長老が相見した時どのような問答をするだろうか。

それをよく見て参究しなさい。


本則:

玄沙蒲田県に到る。百戯して之を迎う。

次日小塘長老に問う、「昨日許多の喧閙甚麼の処に向かって去るや?」。

小塘袈裟角を提起す。

沙云く、「遼挑没交渉


注:

玄沙:玄沙師備(げんしゃしび、835〜908)。雪峰義存の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →天皇道悟→

龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存→ 玄沙師備

 百戯: 種々の芸事。余興入りの歓迎のこと。

 長老: 法成就した人に贈った尊称。

 喧閙(けんにょう): 喧しさ。

 遼挑(りょうちょう): はるかに隔たること。

 没交渉: 無関係。


本則:

玄沙が蒲田県に行った時、余興入りの大歓迎会をやってくれた。

次の日玄沙は小塘(しょうとう)長老に聞いた、

昨日は賑やかだったのう。あの大騒ぎは今日はどこへ行ってしまったのだろうか?」。

小塘長老は袈裟の角をスーッと持ち上げた。

玄沙は云った、

はるかに去ってしまってもう無関係だ



夜壑(やがく)に舟を蔵(かく)し、澄源(ちょうげん)に棹(さを)を著(つ)く。

龍魚(りゅうぎょ)は未だ知らず水を命となすことを。

折?(せっちょ)は妨(さまた)げず聊か一攪(いっかく)することを。

玄沙師、小塘老。函蓋箭鋒(かんがいせんぽう)、深竿影草(たんかんようぞう)。

潜縮(せんしゅく)や老亀(ろうき)蓮に巣(す)くい、遊戯や華鱗藻(かりんそう)を弄す。


注:

夜壑: 真っ暗な谷。田地隠密のところ。科学的には下層脳(無意識脳)だと考えて良い。

洞山五位では正位をさす。

洞山五位を参照 )。

 澄源: 澄み切った水源。

澄源に棹を著く: 澄み切った水源に棹を著ける。

玄沙の問いに対し、袈裟の角をスーッと持ち上げた小塘長老を歌っている。

夜壑に舟を蔵し、澄源に棹を著く。: 真っ暗な谷に舟を隠すように、

玄沙は田地隠密のところいる。

澄み切った水源に棹を著けるように小塘長老は袈裟の角をスーッと持ち上げ玄沙の問いに答えた。

龍魚は未だ知らず水を命となすことを。: 龍や魚は

水の中にいても水を忘れ水が命であることを知らない。

 折チョ(せっちょ): 折れた箸。

折チョ(せっちょ)は妨げず聊か一攪することを。: 

折れた箸で水を撹拌すると水が動き水があることに気づく。

箭鋒: 矢のほこ先。

函蓋箭鋒: 函と蓋がぴったり合い、箭鋒あい支えるように2人の法戦は見事なものだ。

深竿影草(たんかんようぞう): 相手の腹を探ること。

玄沙師、小塘老。函蓋箭鋒、深竿影草。: 玄沙と小塘長老は函と蓋がぴったり合い、

箭鋒あい支えるように2人の法戦は見事であり互いに相手の腹を探っている。

 潜縮: 自分の身を潜めて隠れること。

 老亀: 玄沙と小塘長老の2人をさす。

 華鱗: 玄沙と小塘長老の2人をさす。

潜縮するや老亀蓮に巣くい、遊戯するや華鱗、藻を弄す。: 玄沙と小塘長老の2人は

老亀のように蓮の根元に身を潜めて隠れたり、魚となって藻を弄することもある。



頌の現代語訳


真っ暗な谷に舟を隠すように、玄沙は田地隠密の境地にいる。

澄み切った水源に棹を著けるように小塘長老は袈裟の角をスーッと持ち上げて、

玄沙の問いに答えた。

龍や魚は水の中にいても水を忘れ水が命であることを知らない。

折れた箸で水を撹拌すると水が動き水があることに初めて気づくようなものだ。

玄沙と小塘長老の法戦は函と蓋がぴったり合い、

箭鋒あい支えるように見事であり2人は互いに相手の腹を探っている。

玄沙と小塘長老の2人は老亀のように蓮の根元に身を潜めて隠れたり、

魚となって藻を弄することもある。

それはその時その時の遊戯三昧と言えるだろう。




解釈とコメント


本則は

「禅のテーマである本来の面目とは脳とその機能である」

と考えることで簡単に解くことができる。

本則の問答は次のような話である。

玄沙が蒲田県に行った時、余興入りの大歓迎会で迎えられた。

翌日玄沙は小塘長老に聞いた、「昨日は賑やかだったのう

あの大騒ぎは今日はどこへ行ってしまったのだろうか?」。

これを聞いた小塘長老は袈裟の角をスーッと持ち上げた。

玄沙は云った、「はるかに去ってしまってもう無関係だ」。

この問答で扱われているのは歓迎会の大騒ぎはどこに行ってしまったかという問題である。

歓迎会翌日の玄沙の質問は

昨日の賑やかな大騒ぎは今日はどこへ行ってしまったのか?」である。

この質問に対し小塘長老は袈裟の角をスーッと持ち上げた。

小塘長老が袈裟の角を持ち上げた動作は

どこにも行きはしません。ここにいますよ」という意味だと解されている。

即ち、小塘長老は袈裟の角を持ち上げたることによって、「昨日の喧騒はどこにも行きはしませんよ。

袈裟を着ている自分(=真の自己=本来の面目=脳)の中に残っていますよ」

と答えていると解釈できる。

小塘長老は禅の主題である真の自己(=本来の面目)

の機能である記憶の働きと力を強調しているのである。

これに対し、玄沙は「はるかに去ってしまってもう無関係だ」と答えている。

この言葉はどのように考えたら良いのだろうか?

玄沙は余興入りの大歓迎会のご馳走と面白さを充分楽しんだと思う。

自分をそのように迎えてくれた事に対し感激したとも思われる。

しかし、彼は修行を積んだ禅僧である。

余興の面白さ、ご馳走の美味しさなどは世俗のことで、どうでもよいことである。

そのような世俗のものにとらわれ、執着することはない。

そのため、玄沙は「はるかに去ってしまってもう無関係だ

と答えたと解釈できる。

小塘長老の方は、玄沙を迎えるためどうしたら良いだろうかを時間をかけ計画を練ったに違いない。

その結果、余興入りの大歓迎会を企画したと思われる。

そのようなことは余りにも俗っぽい企画だったかも知れない。

しかし、小塘長老は、時間と労力をかけて誠心誠意その歓迎会を計画し挙行したのである。

玄沙のように、「歓迎会の騒ぎや余興の面白さはるかに去ってしまってもう無関係だ

と答えることはできなかったであろう。

そこで、小塘長老は袈裟の角をスーッと持ち上げ、

どこにも行きはしません。ここにいますよ」と表現したと考えられる。

いずれにせよ、

本則の二人の問答は

禅の主題である真の自己(=本来の面目)は脳とその機能であることを示している


禅の根本原理を参照 )。

本則では真の自己(=本来の面目=)の機能である記憶を強調している

点が興味深い。


本則に登場する玄沙や小塘長老達が活躍した時代の中国には今日のような脳科学は無かった。

そのため記憶現象がどこで起こるかの知見はなく、このような問答になったと考えることができる。


82soku

 第82則  雲門声色  



示衆:

声色(しょうしき)を断ぜざれば是れ随処堕(ずいしょだ)。

声を以て求め、色を以て見れば如来を見ず。

路に就いて家に還る底あること莫しや。


注:

声色を断ぜざれば: 声や色から生まれる妄想分別を打ち破らないと。

随処堕:随処に惑い、堕落する。

声色を断ぜざれば是れ随処堕。:

声や色から生まれる妄想分別を打ち破らないと随処に惑い、堕落する。

声を以て求め、色を以て見れば如来を見ず:

声を以て我を求め、色を以て我を見る人は如来を見ることはできない

という言葉は金剛般若経に見える。この言葉の引用である。

路に就いて家に還る底あること莫しや。: 帰路について本分の家郷に帰るような人はいないだろうか。


示衆の現代語訳


声や色から生まれる妄想分別を打ち破らない限り、随処に惑い、堕落する。

金剛般若経に見える「声を以て我を求め、色を以て我を見る人は如来を見ることはできない

という言葉はこれを言っているのだ。

帰路について本分の家郷に帰るような人はいないだろうか。


本則:

雲門衆に示して云く、「聞声悟道、見色明心は、観世音菩薩銭を将ち来たって餬餅を買う

手を放下すれば却って是れ饅頭」。


注:

雲門:雲門文偃禅師(864〜949)。雲門宗の開祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信

→徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃

餬餅(こびょう):いなか餅。ごま餅。


本則の現代語訳:


雲門は衆に示して云った、

聞声悟道、見色明心は

観世音菩薩が銭を持ってきて「餬餅を下さい」と買い求めるようなものだ

手を放してしまえば餬餅が忽ち美味い饅頭になるよ」。



門を出でて馬を躍(おど)らしめて讒槍(ざんそう)を掃(はら)う。

万国の煙塵(えんじん)自ら粛清(しゅくせい)。

十二処閑影響(かんえいきょう)を亡ず。

三千界に浄光明を放つ。


注:

讒槍(ざんそう): 彗星。

彗星は不吉の星と喚ばれているが、ここでは煩悩や妄想分別をさしている。

門を出でて馬を躍らしめて讒槍(ざんそう)を掃う。: 雲門は馬に乗って

門を出て声や色から生まれる妄想分別を打ち破り打ち払う。

煙塵: 狼煙(のろし)と砂塵。ここでは妄想分別から生まれる煩悩を喩えている。

万国の煙塵自ら粛清。: 天下の煙塵が自ら収まって、

天下太平になるように心から煩悩は無くなり、無事平穏である。

十二処: 六根(眼耳鼻舌身意)と六境(色声香味触法)のこと

十二処・十八界を参照 )。

十二処閑影響を亡ず。: 十二処は今まで敵の住み家であったが、

もはや敵の姿も無くなって、それがそっくり味方の陣営となった。

十二処は今まで敵の住み家だと思っていたが、

占領したら元来味方の陣営であり根も葉もない影響しかなかった。

三千界: 三千大千世界のこと。

三千大千世界を参照 )。

三千界に浄光明を放つ。: 三千大千世界は、蓋天蓋地 自己の浄光明にあふれている。


頌の現代語訳


雲門は馬に乗って門を出て声や色から生まれる妄想分別を打ち破り打ち払う。

天下の戦塵が収まると自ずから天下太平になるように心から煩悩は無くなり、無事平穏である。

十二処は今まで敵の住み家であったが、もはや敵の姿も無くなって、

それがそっくり味方の陣営となった。

十二処は今まで敵の住み家だと思っていたが、

占領したら元来味方の陣営であり根も葉もない影響しか無かった。

いまや三千大千世界は、蓋天蓋地 自己の浄光明にあふれている。


解釈とコメント


本則では 雲門の言葉、「聞声悟道、見色明心は

観世音菩薩が銭を持ってきて「餬餅を下さい」と買い求めるようなものだ

手を放してしまえば餬餅が忽ち美味い饅頭になるよ」が主題となっている。

この雲門の言葉が何を言っているかが分かれば良い。

ここで、「聞声悟道」という言葉は

香厳(きょうげん)智閑禅師が小石を箒で払い飛ばしたら竹の根元に当たってカチーンと音を出した。

その音を聞いた時香厳は悟ったという故事に由来する。

悟りの体験と分析その1を参照 )。

「見色明心」という言葉は霊雲志勤禅師が桃の花が咲いているのを見た途端、

忽然と悟ったという故事に由来する

悟りの体験と分析その1:5を参照 )。

また観世音菩薩とは参禅修行者(特に本来の面目)を喩えていると考えると分かりやすくなる。

碧巌録89則「雲巌手眼」では

観世音菩薩を参禅修行者の「本来の面目」に喩えているのでそう考えても問題無いだろう。

碧巌録89則「雲巌手眼」を参照 )。

そのように考えると雲門の言葉は次のようになる。

香厳の聞声悟道の悟りや霊雲の見色明心の悟りは、観世音菩薩が銭を持ってきて

「餬餅を下さい」と餬餅を買い求めるようなものだ

手を放してしまえば餬餅が忽ち美味い饅頭になるよ」。

ここで「餬餅とは何か?」。また

手を放してしまえば餬餅が忽ち美味い饅頭になるよ」とは何を言っているかが問題になる。

餬餅とは「本来の面目(=真の自己)の悟り」を意味していると考え、

手を放してしまえば餬餅が忽ち美味い饅頭になるよ」とは

自我という妄想分別への執着から解放されて自由になると、

餬餅よりもっと美味い饅頭(素晴らしい悟りの境地)を手に入れることができる

と言っていると考えられる。

そうすると、雲門の言葉は次のように分り易くなる。

香厳の聞声悟道の悟りや霊雲の見色明心の悟りは

観世音菩薩(本来の面目)が「餬餅(悟り)を下さい」

と悟りを買い求めるようなものだ

我々自身が観世音菩薩(本来の面目)そのものだから

もともと餬餅(悟り)を買い求める必要なんかないのに

外に餬餅(悟り)を買い求めるようなことをしている

もし我々自身が自我という妄想分別への執着を無くして自由になれば

餬餅よりもっと美味しい饅頭のような「素晴らしい悟り」を手に入れることができるだろう」。

と言っているのだ。

そうなれば、

三千大千世界は、蓋天蓋地 自己の浄光明にあふれている。

ことが分かるだろう。

本則は餬餅(いなか餅、ごま餅)という言葉が出て来る点で78則「雲門餬餅」に似ている。

78則「雲門餬餅」を参照 )。







83soku

 第83則  道吾看病  



示衆:

通身を病と做(な)す。

摩詰(まきつ)、癒(い)え難し。

。是の草(くさ)医(い)するに堪えたり。

文殊善く用ゆ。

争(いか)でか向上の人に参取(さんしゅ)して、箇の安楽の処を得るに如かん。


注:

通身を病と做(な)す。: 衆生は常に生老病死など四苦八苦の病に苦しんでいる。

摩詰: 維摩経の主人公である維摩詰(ゆいまきつ、ヴィマラキールティ)のこと。

維摩詰の病気は「衆生病むが故に我れ病む」という病気(菩薩の病気)なので、

衆生界が尽きない限り、維摩詰の病気は治らない。

是の草医するに堪えたり。: 坐禅とそれによって得られる悟り(真の自己の悟り」は薬草である。

それを飲めば煩悩という病はすぐ治る。

文殊: 無分別智(真の自己の働きから出る智慧)を文殊菩薩になぞらえている。

文殊善く用ゆ。: 坐禅とそれによって得られる無分別智(真の自己の働きから出る智慧)

を用いれば煩悩(病気)はすぐ治る。

向上の人: 病不病を超越した向上本分の人(下層脳中心の脳)。真の自己(本来の面目)

悟りの体験と分析その2を参照 )。

箇の安楽の処: 真の安楽と安心の境地。

争でか向上の人に参取して、箇の安楽の処を得るに如かん。:

どうして向上本分の人(下層脳中心の脳)

に参取して真の安楽と安心の境地を得ることにまさるようなことがあるだろうか。


示衆の現代語訳


衆生は常に生老病死など四苦八苦の病に苦しんでいる。

維摩詰の病気は「衆生病むが故に我れ病む」という病気(菩薩の病気)

なので、衆生界が救われない限り、維摩詰の病気は治らない。

坐禅とそれによって得られる悟り(真の自己の悟り)は薬草のようなものである。

それを飲めば煩悩という心の病はすぐ治るだろう。

文殊の智慧である無分別智(真の自己の働きから出る智慧)を用いれば煩悩(病気)はすぐ治る。

どうして向上本分の人(下層脳中心の脳)に参取して

真の安楽と安心の境地を得ることにまさるようなことがあるだろうか。



本則:


イ山道吾に問う、「甚麼の処より来たる?」。

吾云く、「看病し来たる」。

山云く、「幾人有って病む?」。

吾云く、「病者と不病者とあり」。

山云く、「不病者は是れ智頭陀なること莫しや?」。

吾云く、「病と不病と総に他の事に干らず、速やかに道え速やかに道え」。

山云く、「道い得るも没交渉」。


注:

イ山:イ山霊祐(いさんれいゆう)禅師(771〜853)。

百丈懐海禅師(748〜814)の法嗣でイ仰宗の開祖。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道→百丈懐海→イ山霊祐→仰山慧寂

道吾:道吾円智。薬山惟儼禅師(745〜828)の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→薬山惟儼→道吾円智

智頭陀:万頭陀は敬称。道吾円智のこと。

没交渉:関係ない。




本則の現代語訳:


イ山が道吾に聞いた、

どこから来たのか?」。

道吾は云った、

看病しに来ました」。

イ山は云った、

何人が病気なのか?」。

道吾は云った、

病気の人もおれば病気でない人もいます」。

イ山は云った、

病気でない人とはお前さんのことではないのか?」。

道吾は云った、

彼(真の自己)は病気にはかかわりません

彼とは何のことか?さあサッサと言ってください!」。

イ山は云った、

たとえ言うことができたにしても彼(真の自己)とは関係ないよ」。




妙薬何ぞ曾って口に過ごさん

神医も能く手を捉うること莫し。

存するが如くにして渠(かれ)本無に非ず。

至虚にして渠(かれ)本(もと)有に非ず。

滅せずして生じ亡びずして寿(いのちなが)し。

全く威音(いおん)の前に超え、独り劫空(ごうくう)の後に歩す。

成平(せいへい)や天蓋(おお)い地ささぐ、運転や烏(う)飛び兎(と)走る。


注:

妙薬何ぞ曾って口に過ごさん: 無病息災で健康な彼(真の自己=脳)

はどうして妙薬を飲む必要があるだろうか。

神医: 名医。

手を捉うること莫し: 脈が捕れない。

神医も能く手を捉うること莫し。: 名医も健康な

彼(真の自己=脳)の脈が捕れないほど無病息災だ。

渠(かれ): 真の自己。本来の面目=下層脳(=脳幹+大脳辺縁系)を中心とする脳。

存するが如くにして渠(かれ)本無に非ず。:

真の自己はあるようだが無いようでもある彼(真の自己)は元々無ではない。

至虚: 真空。

至虚にして渠本有に非ず。滅せずして生じ亡びずして寿(いのちなが)し。:

彼(真の自己)は真空のようで、有にあらず無にあらずと言うしか無い。

生滅を超えて無量の過去から無限の未来にわたって生き通しの法身仏である。

禅の根本原理を参照 )。

威音: 過去無量劫の昔に出現したとされる威音王仏のこと。

法華経の常不軽菩薩品に説かれる過去仏。

劫空: 宇宙が崩壊して空無になる時代。遠い未来のこと。

全く威音の前に超え、独り劫空の後に歩す。: 彼(真の自己)は威音王仏が出現した

とされる無量劫の昔から宇宙が崩壊して空になる遠い未来にまで生きどおしである。

成平: 平静であること。

天蓋(おお)い地ささぐ: 天が万物を蓋い、地が一切のものを支えているようだ。

烏: 太陽。

兎: 月。

烏飛び兎走る: 日月が過ぎ去る。

成平や天蓋(おお)い地ささぐ、運転や烏飛び兎走る。: 彼は平静であり、

空間的に言えば、天が万物を蓋い、地が一切のものを支えているようだ。

また時間的に言えば太陽や月が運行して日月が過ぎることも彼の運作転動によるのだ。

「臨済録」示衆14−5を参照 )。


頌の現代語訳


無病息災で健康な彼(真の自己)にどうして妙薬を飲んでもらう必要があるだろうか。

健康な彼(真の自己)の脈は名医も捕れないほど彼は無病息災だ。

真の自己はあるようだが無いようでもある。そのように、

彼はつかみどころが無いが元々無ではないのだ。

彼(真の自己)は真空のようであり、有にあらず無にあらずと言うしかない。

不生不滅の彼は生滅を超えて無量の過去から無限の未来にわたって生き通しの法身仏である。

彼(真の自己)は威音王仏が出現したとされる無量劫の昔から

宇宙が崩壊して空無に帰す遠い未来にまで生き通しだと言えるだろう。 

彼は平静そのものであり、空間的には、天が万物を蓋い、

地が一切のものを支えているように宇宙大に広がっている。 

時間的に見ると太陽や月が空をめぐって、日月が過ぎることも彼の運作転動によるのだ。

     

解釈とコメント


本則では、彼(真の自己)の健康の問題について議論されている。

イ山の言葉「病気でない人とはお前さんのことではないのか?」の中で、

病気でない人」とは本来の面目(=真の自己=脳)を指している。

イ山はお前さんの(真の自己=脳)は病気でない人ではないかと言っているのである。

これに対し道吾は、「彼(真の自己)は病気にはかかわりない

そのような彼(真の自己)とは何か?さあ言え!さあ言え!」

とイ山に迫っている。

イ山の言葉、「たとえ言うことができたにしても彼(真の自己)とは関係ないよ」。

とはたとえ彼(真の自己)について言うことができたにしても彼(真の自己)とは関係ない、

即ち、彼(真の自己)に関する真実とは無関係な言葉になってしまうと言っている。

彼(真の自己)は言葉で表現できない不立文字の存在だと言っているのである。

この言葉は石頭希遷の「言語動用勿交渉」の思想とよく似ている

臨済録上堂1−2「言語動用勿交渉」を参照 )。

」において万松行秀は

彼(真の自己)の脈は名医もが捕れないほど彼は無病息災だ」と言っている。

「真の自己」は下層脳を中心とする脳だと考えることができる。

下層脳を中心とする脳は生命情動脳である

禅と脳科学1を参照 )。

坐禅に専念して修行することで煩悩(ストレス)から開放され生命情動脳は活性化する。

参禅修行によって煩悩(ストレス)から開放され活性化した

生命情動脳(真の自己)は無病息災(健康)になるという事実を言っている

と考えることができるだろう。

において万松行秀は

彼(真の自己)は真空のようで、有にあらず無にあらずと言うしか無い

生滅を超えて無量の過去から無限の未来にわたって生き通しの法身仏である

と述べている。

この主張には問題(誤り)があると思われる。

「真の自己」は下層脳を中心と脳とその機能のことである。

脳は常に健康ではない。脳卒中や認知症という病気になる。

我々の死とともに脳細胞は分解崩壊しその機能を停止してしまう(=死の状態)。

「真の自己()」は決して不生不滅の存在ではないのだ。

真の自己(脳)が不生不滅の存在のように見えるのはあくまで参禅修行者の実感に過ぎない。

実感は必ずしも科学的真理と合致する客観的な真理ではない。

このような主張は「無門関23則「不善悪」の頌にも見られる。

無門関23則の頌を参照 )。

また盤珪禅師は不生禅についての法語で「うまれ付きた心が、不生不滅の仏心なり」と言っている。

盤珪の不生禅5.25を参照 )。

このような主張は坐禅体験から生まれたもので、

あくまで実感に基づくもので客観的証明や証拠がない。

科学がなかった時代の間違った主張と言えるだろう。

このような主張は宗教によく見られる。

例えば、キリスト教などの一神教は万物の造物主である唯一神を説く。

しかし、このような神が実際に存在するか未だ不明である。むしろそのような神はいない

と考えるのが妥当な結論だと言えるだろう。

実感に基づく知見は必ずしも正しいものではなく、客観的かつ合理的な検証に耐えないものが多い。

真の自己は不生不滅であると考えるのは科学的観点立てば問題がある主張だと言えるだろう。

真の自己の本体である下層脳(脳幹+大脳辺縁系)は病気にもなる(例えば脳幹出血など)し、

決して不生不滅ではない。

このように単なる実感に基づく主張は科学的真理と矛盾することが多い

」が言っていることは科学的観点立てば問題がある主張だと言える。

」において万松行秀は

彼は平静そのものであり、空間的には、天が万物を蓋い

地が一切のものを支えているように宇宙大に広がっている

時間的に見ると太陽や月が空をめぐって、日月が過ぎることも彼の運作転動によるのだ

と言っている。

このような主張も坐禅体験から生まれた実感に基づく主張と言えるものである。

真の自己の本体である脳の大きさは平均1450mlで重量は1.3〜1.4kgである。

万松行秀の言うように、

空間的には、天が万物を蓋い、地が一切のものを支えているように宇宙大に広がっている

ような巨大なものではない。

また、太陽や月の天体運動とも関係ない。

脳宇宙は電磁的相互作用の世界である。

電磁的相互作用は遠隔力であるためそのように実感されるものと考えられる。

臨済義玄や我が国の栄西禅師も同様なことを述べている。

科学的観点立てばこれも問題がある主張だと言えるだろう。

「臨済録」示衆14−5を参照 )。


84soku

 第84則  倶てい一指 



示衆:

一聞千悟(いちもんせんご)、一解千従(いちげせんじゅう)。

上士(じょうし)は一決(いっけつ)して一切了ず。

中下は他聞(たもん)なれども多く信ぜず。

剋的(こくてき)簡当(かんとう)の処、試みに拈出(ねんしゅつ)す看よ。


注:

一聞千悟:つを聞いて千を悟る。

一解千従: 一つ花が咲けば世界の春を知る。

 一聞千悟、一解千従: 一辺に埒が明くこと。

上士: 優れた修行者。

上士は一決して一切了ず。中下は他聞なれども多く信ぜず:

優れた人は一度決着すれば全てを理解する。そうでない人は多くの話を聞くけれども殆ど信じない。

永嘉真覚(ようかしんかく)大師(665〜713)の「証道歌」第6文段に見える句である。

「証道歌」第6文段を参照 )。

剋的(こくてき)簡当(かんとう)の処: きりつめた生粋のところ。


示衆の現代語訳


一つを聞き、一つを見れば一辺で埒が明く。

優れた人は一度で決着し、全てを理解する。

そうでない人は多くの話を聞くけれども殆ど信じない。

それではきりつめた禅の究極のところはどのようなところだろうか?

試みに本則で出すから参究せよ。



本則:


倶てい和尚凡そ所問あれば只一指を竪つ。


注:

倶胝(ぐてい)和尚:馬祖下四世の法孫。天龍和尚の法嗣。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道→大梅法常→天龍→倶抵

倶抵は天龍和尚の一指頭によって開悟した。

彼は、常に「七仏倶胝仏母心大准提陀羅尼法」(善無畏訳)に説かれる

倶抵観音(=准提観音)の陀羅尼を唱えていたようである。

そのため倶胝和尚と呼ばれた。准提観音(じゅんていかんのん)は仏の母とされる。

倶胝の生没年ははっきりしないが、

およそ黄檗希運や臨済(867年没)が活躍した頃に生存した人と考えられる。

 

本則の現代語訳:


倶胝(ぐてい)和尚は質問されると常に只一本の指をスーッと立てた。



倶胝(ぐてい)老子指頭(しとう)の禅、三十年来用不残(ようふざん)。

信(まこと)に道人方外(ほうがい)の術あり。

了(つい)に俗物(ぞくぶつ)の眼前に見る無し。

所得(しょとく)甚(はな)はだ簡に施設(せせつ)いよいよ寛(ひろ)し。

大千刹海(だいせんせっかい)毛端(もうたん)に飲む。

鱗龍(りんりゅう)限り無し誰が手に落つるや。

珍重す任公(にんこう)釣竿(ちょうかん)を把(と)ることを。

師(し)復(ま)た一指を竪起(じゅき)して云う、看よ。


注:

用不残:用不尽と同じ。使い切ることができない。

三十年来: 一生涯。

倶胝老子指頭の禅、三十年来用不残:

倶胝和尚の指一本の禅は一生涯用いても使い切ることができない。

方外の術: けたはずれの術。

信に道人方外の術あり: 倶胝和尚は本当に、迷悟凡聖を超えたけたはずれの術をもっている。

了に俗物の眼前に見る無し: そのことは仏見、法見をもってそれに執着している俗物には見えない。

所得: 倶胝(ぐてい)和尚が得た一指頭の禅。

施設: 施すところ。

所得甚(はな)はだ簡に、施設いよいよ寛し: 倶てい和尚が得た一指頭の禅は

はなはだしく簡単に見えるが一生涯用いても使い切ることができないほど豊かで広い。

大千: 三千大千世界。

アビダルマ仏教の世界観を参照 )。

大千刹海毛端に飲む: 大きな三千大千世界が毛端のような小さなところに収まる。

鱗龍: 立派な修行者。

鱗龍限り無し誰が手に落つるや: 鱗龍のような限りない力を持つ倶胝和尚

はもう他人に引きずり回されるようなことはない。

任公: 倶胝和尚。

珍重す任公釣竿を把ることを: 倶胝和尚が指一本スーッと立てるだけで

大物を釣り上げようとしているのは素晴らしいことだ。

師: 宏智正覚(1091〜1157)。「従容録」の元になった宏智頌古(百則)の著者。

師復(ま)た一指を竪起(じゅき)して云う、看よ。: 歯がゆくなった宏智正覚は

指一本をスーッと立てて「看よ! 看よ!」と言った。


頌の現代語訳


倶胝和尚の指一本の禅は一生涯用いても使い切ることができない。

倶胝和尚は本当に、迷悟凡聖を超えたけたはずれの術をもっている。

そのことは仏見、法見を後生大事にもって執着している俗物には見えない。

倶胝和尚が得た一指頭の禅ははなはだ簡単であるが、

一生用いても使い切ることができないほど豊かで広い。

大きな三千大千世界が毛端のような小さなところに収まる。

鱗龍のような限りない力を持つ倶胝和尚はもう他人に引きずり回されるようなことはない。

倶胝和尚が指一本スーッと立てるだけで大物を釣り上げようとしているのは素晴らしいことだ。

皆がすぐうなずかないのを歯がゆく思った宏智正覚は

指一本をスーッと立てて「看よ! 看よ!」と言った。


解釈とコメント


本則では、倶胝和尚が得た一指頭の禅が主題である。

本則は非常に有名な公案であり、「無門関」第三則「倶胝竪指」

「無門関」第三則を参照 )や

「碧巌録」第19則にも出ている。

「碧巌録」第19則を参照 )。

 
   
   
85soku

 第85則  国師塔様 



示衆:

虚空を打破する底のチン鎚(ちんつい)、華嶽(かがく)を擘開(へきかい)する底の手段あって

始めて元、縫虍(ほうこ)なき処、瑕痕(かこん)を見ざる処に到る。

且(しば)らく誰か是れ恁麼(いんも)の人ぞ。


注:

虚空: 迷いの有を離れた空や無我の悟り。

 チン鎚(ちんつい): ハサミとツチ。

 虚空を打破する底のチン鎚:迷いの有を離れた空や無我の悟りへの執着も打破するチン鎚。

 華嶽: 五嶽の一つ。ここでは仏見法見の悟りのカスを山に喩えている。

擘開(へきかい)する: 切り開く。

華嶽を擘開する底の手段あって、: 仏見法見の悟りのカスに執着を離れる手段があって。

縫虍(ほうこ): 縫い目と隙間。

 瑕痕: 傷痕。

縫虍(ほうこ)なき処、瑕痕を見ざる処に到る。: 縫い目や隙間がない処、傷痕が無い処に到る。


示衆の現代語訳


迷いの有を離れた空や無我の悟りへの執着も打破するチン鎚、仏見法見の悟りのカスへの執着

を離れる手段があってこそ、

始めて縫い目や隙間がない処、傷痕が無い処に到ることができる。

そのような人とはどんな人だろうか。


本則:

粛宗帝、忠国師に問う、「百年の後所須何物ぞ?」。

国師云く、「老僧が与めに箇の無縫塔を作れ」。

帝云く、「請う師塔様」。

国師良久して云く、「会すや?」

帝云く、「不会」。

国師云く、「吾に付法の弟子耽源というものあり、却って此事を諳んず」。

後帝耽源に詔して此の意如何と問う。

源云く、「相の南、譚の北、中に黄金有って一国に充つ。無影樹下の合同船、瑠璃殿上に知識なし」。


注:

粛宗皇帝: 唐の第七代皇帝(711〜762)、在位(756〜779)。

代宗皇帝: 粛宗の長子、唐の第八代皇帝(726〜779)、在位(762〜779)。

忠国師: 南陽慧忠禅師(645〜775)。六祖慧能の法嗣。河南省の白(はく)崖山(がいさん)の

党子谷(とうすこく)に庵を構え40年間山を下りずに修行したと伝えられる。

粛宗・代宗二代の皇帝を指導した国師で、130歳の高齢で遷化したと伝えられる。

法系:六祖慧能→南陽慧忠(645〜775)。  

百年の後: 死後。

所須: 求めるところのもの。必要なもの。

所須何物ぞ?: 求めるところのものは何ですか?

無縫塔: 卵型の墓石。ここでは真の自己、本来の面目である脳(下層脳中心の脳)のこと。

これを継ぎ目の無い塔(無縫塔)で比喩的に表わしている。

この無縫塔とは何かを理解することが本則の目的となっている。

良久: しばらく沈黙していること。

耽源(たんげん): 南陽慧忠禅師の法嗣、耽源応真禅師

相の南、譚の北、: 南の果てから北の果てまでどこにでも。

無影樹(むようじゅ): 影のない樹木。

継ぎ目の無い塔(無縫塔)は影のない樹のようなものだと考えている。

無縫塔(真の自己、下層脳中心の脳)は生命の根本となる影のない生命の樹である。

真の自己や仏性には影のようなものはないと言っている。

合同船: 乗り合い舟。

瑠璃殿上に知識無し: この極楽世界の瑠璃殿上(悟りの世界)にはあなたの知り合いは誰もいない。



本則の現代語訳:

粛宗皇帝が慧忠国師に聞いた、

国師の死後、こうして欲しいというものが何かありますか?」。

国師は言った、

そうじゃな、老僧のためにひとつ縫い目に無い塔を作って下さらんか」。

帝は言った、

国師よ、その塔は五輪の塔ですか、それとも卵塔でしょうか?

具体的に塔の様子を図面などで示して下さい」。

国師はしばらく沈黙した後言った、

分かりましたか?」

帝は言った、

いえ、分かりません」。

国師は言った、「私の嗣法の弟子に耽源(たんげん)という者がおります

彼はこの事を良く分かっています。彼を詔して聞いて下さい」。

国師が遷化した後、帝は耽源を詔して、この事について聞いた。

耽源は言った、

南の果てから北の果てまでどこにでも。 中に黄金があって一国に充ちていますよ

それは無影樹下の乗り合い船のようなものです

その極楽世界の瑠璃殿上(悟りの世界)にはあなたの知り合いは誰もいないでしょう」。




孤迥迥(こけいけい)、円陀陀(えんだだ)。

眼力(がんりき)尽くる処、高うして峨峨(がが)たり。

月落ち潭空(たんむな)しうして夜色(やしょく)重し。

雲収まり山痩せて秋容(しゅうよう)多し。

八卦(はっけ)位(くらい)正しく、五行気和(ごぎょうきわ)す。

身(み)先(ま)ず裏(うち)に在り見来たるや。

南陽(なんよう)父子却って有ることを知るに似たり。

西竺(せいじく)の仏祖如奈何(いかん)ともすること無し。


注:

 円陀陀: 円満なこと。

孤迥迥(けいけい)、円陀陀: 無縫塔(=真の自己)は唯一ではるかに諸縁を離れ、

円満そのものである。 

眼力尽くる処: 見ようとしても見えない処。

峨峨たり:  山がそびえた様子。

眼力尽くる処、高うして峨峨たり: 見ようとしても見えないし、高く聳え立つ山のようである。

 月落ち潭空しうして夜色重し: 月が落ちると池には月影も写らず真っ暗になるように

大円光鏡(無縫塔の本体=下層脳を中心とする真の自己)はあたかも黒いこと漆のようである。

雲収まり山痩せて: 迷悟、凡聖の妄雲がおさまり、仏法の樹木がしおれ、葉が落ちると山が痩せて。 

秋容多し: 秋の清々しさが味わえる。

雲収まり山痩せて秋容多し。: 修行を充分に積むと、妄想、分別の妄雲がおさまる。

そうなると、仏見法見の樹木(凡見)がしおれ、葉が落ち、山が痩せて秋の清々しさが味わえる。

八卦: 易の八卦。陰と陽を示す算木の組み合わせで得られる八種の形。

 五行: 木火土金水の五行。中国哲学では無極から太極を生じ、

太極から陰陽の二儀が生まれ、さらに五行、八卦になると天地万物を説明する。 

八卦、位正しく、五行気和す: 陰陽の二気から、さらに五行、八卦へと天地万物が展開するように、

無我にさえなれば争いもなく相和することができる。

身先ず裏(うち)に在り見来たるや。:

我々の身体は無縫塔(真の自己)の内にあるのが分かるだろうか。

南陽父子: 南陽とは慧忠国師をさす。南陽父子とは慧忠国師とその弟子耽源のこと。

南陽父子却って有ることを知るに似たり。: 

慧忠国師とその弟子耽源はこの無縫塔(真の自己)を知っているのだが、

 それを見ることはできない。

それは見るも説くこともできないからである。

説似一物即不中を参照 )。

その意味で知っているのに似ているとしか言えないだろう。

西竺: 天竺。インド。

西竺の仏祖: 釈迦、達磨などの仏祖。

西竺の仏祖如奈何ともする無し:

釈迦、達磨などの仏祖もこの無縫塔(真の自己)を知っているのだが、

それをどうすることもできない。無縫塔(真の自己)とはそのようなものである。


頌の現代語訳


無縫塔(=真の自己、)は唯一ではるかに諸縁を離れ、円満そのものである。

それは見ようとしても見えないし、峨峨と聳え立つ山のようである。

月が落ちると池には月影も写らず真っ暗になるように

大円光鏡(無縫塔の本体=下層脳を中心とする真の自己)は

黒いこと漆のようである。

修行を充分に積むと、妄想、分別の妄雲がおさまる。

そうなると、仏見法見の樹木(凡見)がしおれ、葉が落ち、山が痩せて秋の清々しさが味わえる。

陰陽の二気から、さらに五行、八卦へと天地万物が展開するように、

無我にさえなれば争いもなく相和することができる。

我々の身体は無縫塔(真の自己)の内にあるのが分かるだろうか。

慧忠国師とその弟子耽源はこの無縫塔(真の自己)を知っているのだが、それを見ることはできない。

それは見ることも説くこともできないからである。

その意味で知っているのに似ているとしか言えないだろう。

釈迦、達磨などのインドの仏祖もこの無縫塔(真の自己)を知っているのだが、

それをどうすることもできない。無縫塔(真の自己)とはそのようなものだからである。


解釈とコメント


本則は、碧巌録第18則「忠国師無縫塔」と同じである。

無縫塔とは何かが分かれば簡単である。

碧巌録第18則「忠国師無縫塔」を参照 )。




86soku

 第86則  臨済大悟    




示衆:

銅頭鉄額(どうとうてつがく)天眼龍晴(てんげんりゅうぜい)、雕嘴(ちょうし)魚鰓(ぎょさい)

熊心(ゆうしん)豹胆(ひょうたん)なるも、

金剛剣下(こんごうけんか)是れ計(はか)ること納(い)れず。

一籌(ちゅう)すること得ず。

甚麼(なん)と為(し)てか此の如くなる。


注:

 銅頭鉄額: 硬い、しっかりした頭。大信根が決定して、

毀誉褒貶など八風にも動じない臨済を表している。

 天眼(てんげん)龍晴(りゅうぜい): あきらかな眼を持つ人。

雕嘴(ちょうし): クマタカのくちばし。

魚鰓(ぎょさい): 何でも噛み砕く鮫のおとがい。

 熊心(ゆうしん)豹胆(ひょうたん): 肝っ玉の太いこと。

銅頭鉄額天眼龍晴、雕嘴(ちょうし)魚鰓(ぎょさい)熊心(ゆうしん)豹胆(ひょうたん): 

すべて臨済義玄の偉大さを表す言葉。

 金剛剣: どんな無明のきずなでも断ち切ることができる宝剣。

ここでは臨済の師である黄檗希運の活殺自在の指導を指す。

 一籌(ちゅう): おもいはかること。

金剛剣下是れ計ること納(い)れず。一籌(ちゅう)すること得ず。: 

金剛剣のような黄檗の活殺自在の指導下でさすがの臨済も見当もつかずおもいあぐねた。


示衆の現代語訳


銅頭鉄額天眼龍晴、雕嘴魚鰓熊心豹胆のように偉大な臨済も

金剛剣のような黄檗の活殺自在の指導下では見当もつかずおもいあぐねた。

どうしてそうだったのだろうか。



本則:


臨済黄檗に問う、「如何なるか仏法的的の大意?」。

檗即ち打つ。是くの如きこと三度、乃ち檗を辞して大愚に見ゆ。

愚問う、「甚麼の処より来たる?」。

臨済「黄檗より来たる」。

大愚「黄檗何の言句か有きし?」。

済云く、「某甲三たび仏法的的の大意を問ひ三度棒を喫す。知らず過ありや過なしや?」。

愚云く、「黄檗恁麼に老婆、爾が為に徹困なるを得たり

更に来たって有過無過を問う?」。

済言下に大悟す。


注:

臨済:臨済義玄(?〜867)。中国唐の禅僧で、臨済宗の開祖。

黄檗:黄檗希運。臨済義玄の師。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →百丈懐海 →黄檗希運→臨済義玄

仏法的的の大意:仏教の根本義。


本則:

臨済は黄檗に聞いた、

仏教の根本義とは何でしょうか?」。

黄檗は臨済を打った。臨済はこのような同じ問いをして三度打たれた。

臨済は何故打たれたのか全く分からなかった。

そこで黄檗のもとを去って大愚和尚のところに行った。

大愚は聞いた、

どこから来たのか?」。

臨済「黄檗のところより来ました」。

大愚「黄檗はどんなことを言っていたのか?」。

臨済は云った、

私は三度仏法の根本義を尋ねましたがそのたび棒で打たれました

一体私のどこに落ち度があって打たれたのか分かりません?」。

大愚は云った、

黄檗はそんなにも親切にお前のことを心配して指導してくれたのに

こんなところまで来て、落ち度があるの無いのと何を言うのか?」。

この言葉を聞いた途端、臨済は大悟した。



九包の雛(すう)、千里の駒。

真風籥(やく)を度(わた)り、霊機枢(すう)を発す。

劈面(へきめん)に来たる時飛電急なり。

迷雲破るる処太陽孤(こ)なり。虎鬚(こしゅ)を埒(な)ず、見るや也た無しや。

箇は是れ雄雄たる大丈夫。


注:

九包の雛: 鳳凰のひよこ。

千里の駒: 一日に千里も走る名馬。  

籥(やく): 風を送る管。笛。

霊機: 霊妙なはたらき。  

真風籥(やく)を度(わた)り、霊機枢(すう)を発す: 臨済の真風は笛を吹くように響き渡り、

その霊妙なはたらきは軸にはまってクルクル回っている。

劈面(へきめん)に: 突然、だしぬけに。

飛電: 突然鳴る雷鳴。

劈面に来たる時飛電急なり: 突然雷鳴のようにだしぬけに来る。  

迷雲破るる処太陽孤(こ)なり。: 迷雲が破れて悟って見たら、迷雲などは元来どこにもなかった。

孤(ひと)り太陽が明々了了と輝いていた。

虎鬚(こしゅ): 黄檗の鬚。  

虎鬚(こしゅ)を埒(な)ず: 臨済が黄檗のもとに戻って、黄檗をピシャリと打った故事に基づいている。

虎鬚(こしゅ)を埒(な)ず、見るや也た無しや。: 臨済が黄檗のもとにもどって、

黄檗をピシャリと打った意味が分かるだろうか?  

箇は是れ雄雄たる大丈夫。: 臨済はまことに男らしい大丈夫だ。


頌の現代語訳


臨済は鳳凰のひよこで、一日に千里も走る名馬のような偉大な禅師である。

臨済の真風は笛の管中を吹き渡る風のようで、

その霊妙なはたらきは軸にはまって自在に回っている。

黄檗の棒は突然飛雷のようにだしぬけに来て臨済を打った。

臨済は迷雲が破れて悟って見たら、心の中には迷雲などは元来どこにもなかった。

心には孤(ひと)り太陽が明々了了と輝いていた。

臨済が黄檗のもとに戻って、黄檗をピシャリと打った意味が分かるだろうか? 

彼はまことに男らしい大丈夫だ。


解釈とコメント


本則は、臨済録に出ている臨済義玄の悟りの物語と同じである。

悟りの体験と分析1、臨済義玄の悟りを参照 )。



87soku

 第87則   疎山有無   



示衆:

門閉ざんと欲するも一拶(いっさつ)して便ち開く。

船沈まんと欲するも一蒿(いっこう)すれば便ち転ず。

車箱(しゃそう)谷に入って帰路なし。

箭筈(せんかつ)天に通じて一門あり。

且らく道え甚麼(なん)の処に向かって去るや。


注:

一拶する。: ちょっと触る。

門閉ざんと欲するも一拶して便ち開く: 門が閉まろうとしていても、ちょっと押せば開く。

船沈まんと欲するも一蒿すれば便ち転ず: 船が沈もうとしている時、

船頭がちょっと竿をさせば、舟はその状態から一転して回復する。

車箱: 深い谷の名前。

車箱、谷に入って帰路なし: 深い煩悩の谷に落ち込んで出られない。 

箭筈(せんかつ): 高い峰の名前。

一門: 光明がさす穴。

箭筈(せんかつ)天に通じて一門あり: 

分別妄想では登れない高い山の上に悟りの光明がさす穴がある。


示衆の現代語訳


門が閉まろうとしていても、ちょっと押せば開く。

船が沈もうとしている時、船頭がちょっと竿をさせば、舟はその状態から一転して回復する。

深い煩悩の谷に落ち込んで出られない人もいる。

それと反対に、分別妄想では登れない高い山に登って

光明がさす穴を抜けて悟りの世界に到る者もいる。



本則:



疎山イ山に到って便ち問う、「承たまはる師言えることあり、有句無句は藤の樹に倚るが如しと

忽然として樹倒るれば藤枯る、句何の処にか帰す?」。

イ山呵呵大笑す。

疎山云く、「某甲四千里に布単を売り来たる、和尚何ぞ相弄することを得たる?」。

イ山、侍者を喚んで銭を取って這の上座に還せと、遂に囑して云く、

向後独眼龍あって子(なんじ)が為に点破し去ることあらん」。 

後に明昭に到りて前話を挙す。

昭云く、「イ山謂いつべし、頭正尾正と。、只是れ知音に遇はず」。

疎復た問う、「樹倒るれば藤枯る、句は何の処に帰するや?」。

昭云く、「更にイ山をして笑い転(う)たた新ならしむ」。

疎言下に於て省あり。

乃ち云く、「イ山元来笑裏に刀あり」。


注:

疎山:疎山光仁禅師。洞山良价(807〜869)の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价→疎山光仁

イ山: イ山霊祐(いさんれいゆう)禅師(771〜853)。

百丈懐海禅師(748〜814)の法嗣でイ仰宗の開祖。

本則のイ山はイ山霊祐ではなくイ山大安という説もある。

しかし、どちらであろうが本則の本質には関係ない。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道→百丈懐海→イ山霊祐→仰山慧寂

有句: 有。差別。偏位。

無句: 無。平等の世界。正位。

偏位や正位については洞山五位を参照 )。

有句無句は藤の樹に倚(よ)るが如し: 有と無の二句はあたかも

藤のつるが樹に巻き付いているようなものだ。

忽然として樹倒るれば藤枯る、句何の処にか帰す?:

突然樹が倒れると巻き付いていた藤蔓も枯れますね。

その時有と無はどうなるのでしょうか?

布単: 反物。

某甲四千里に布単を売り来たる:

私は反物を売りながら旅費を作りはるばる四千里もあるイ山にたどりつきました。

和尚何ぞ相弄することを得たる?:

和尚さんはそんな私をどうしてからかうことができるかのですか?

独眼龍: 片目の偉い和尚。

明昭: 明昭徳謙禅師。機鋒峻烈の人で左目が見えなかったので独眼龍と呼ばれた。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →天皇道悟→龍潭崇信→

徳山宣鑑 →巌頭全豁→羅山道閑→明昭徳謙

頭正尾正: 始めから終わりまで完全無欠なこと。


本則の現代語訳:


疎山はイ山に着いて尋ねた、

私は和尚さんが『有句無句は藤の樹に倚るが如し』と言われたと聞いています

もしそうならば、突然巻き付いていた樹が倒れた時

樹に巻き付いていた有と無はどうなるのでしょうか?」。

イ山は呵呵大笑した。

疎山は云った、

私は反物を売りながら旅費を作り、はるばる四千里も歩いてやっとイ山にたどりつきました

和尚さんはそんな私をどうしてからかうことができるのですか?」。

イ山は侍者を喚んでこの坊さんに旅費を返してやりなさいと言った。、

そして、坊さんに向かって、

お前はそのうち片目の偉い和尚に会うだろう

その坊さんはお前の眼を開いてくれるだろう」と予言した。 

後に疎山は明昭徳謙の処に行ってイ山での話をした。

明昭徳謙は云った、

イ山が言ったことは始めから終わりまで完全無欠で正しい

しかし、残念なことにそれを分かる知音に会わなかっただけだ」。

疎山はまた同じことを聞いた、

突然樹が倒れ樹に巻き付いていた藤が枯れた時

巻き付いていた有と無はどうなるのでしょうか?」。

明昭徳謙は云った、

おれとて別に説きようはないよ

もう一度イ山に『アッハッハー!』と笑ってもらうしかないだろうよ」。

これを聞いた途端疎山は悟った。

疎山は云った、

イ山の呵々大笑には元来活殺自在の力がある」。




藤枯れ樹倒れてイ山に問う。

大笑呵呵豈に等閑ならんや。

笑裏刀あり窺得破(きとくは)す。

言思路無うして機関を絶す。


注:

藤枯れ樹倒れてイ山に問う: 疎山はイ山に「突然樹が倒れ樹に巻き付いていた藤が枯れた時

巻き付いていた有と無はどうなるのでしょうか?」と聞いた。

等閑: なおざり。

大笑呵呵豈に等閑ならんや。: イ山の呵々大笑はおざなりなものではない。一番適切な回答だと言える。

窺得破(きとくは)す: 気づく。

笑裏刀あり窺得破(きとくは)す: 笑いの裏には分別妄想をぶち切る力があることに気がついた。

言思路無うして機関を絶す。: 言葉や思慮で明らかにしようとしても近づくことはできない。



頌の現代語訳



疎山はイ山に「突然樹が倒れ樹に巻き付いていた藤が枯れた時

巻き付いていた有と無はどうなるのでしょうか?」と聞いた時、イ山は呵々大笑した。

イ山の呵々大笑はおざなりなものではなく、一番適切な回答だと言えるだろう。

笑いの裏には分別妄想をぶち切る力があることに気づかされる。

言葉や思慮で明らかにしようとしても近づくことはできない。




解釈とコメント


本則イ山の言葉

有句(偏位)と無句(正位)は 本来の面目に一体となって巻き付いている藤のようなものだ

に関する問答になっている。

疎山がイ山に「突然樹が倒れ樹に巻き付いていた藤が枯れた時

巻き付いていた有と無はどうなるのでしょうか?」

と質問した時、イ山は呵々大笑した。

イ山は呵呵大笑しているものが

樹が倒れ、藤が枯れても無関係に存在する本体(本来の面目)そのものじゃないか

と直示したのである。

呵々大笑することで、「笑っているものが本来の面目そのものだ」と直示するとともに、

有句と無句は本来の面目に一体となって巻き付いている藤のようなものだ」という

疎山の理屈へのこだわりを吹き飛ばしたと考えることができるだろう。

後に疎山は明昭徳謙の処に行ってこの問答について話した。

これを聞いて明昭徳謙は、「イ山が言ったことは始めから終わりまで完全無欠で正しい

しかし、残念なことにそれを分かる知音に会わなかっただけだ」と言った。

疎山は、

突然樹が倒れ樹に巻き付いていた藤が枯れた時、巻き付いていた有と無はどうなるのでしょうか?」

とまた同じことを聞いた。疎山は禅は思想や理屈だと理解していることが分かる。

これに対し、明昭徳謙は、

おれとて別に説きようはないよ。もう一度イ山にアッハッハー!』と笑ってもらうしかないだろうよ

と言った。

これを聞いた途端疎山はイ山の真意を悟り、

イ山の呵々大笑には元来活殺自在の力がある」と云ったのである。

現代では脳科学的に

有句(偏位)と無句(正位)は本来の面目である脳の機能だ」

と簡単に表現できる。

しかし、疎山やイ山が生きた時代に脳科学はなかったので

有句と無句は藤の樹に一体となって巻き付いている藤のようなものだ」

と文学的に表現するしかなかったのである。





88soku

 第88則 楞厳不見  



示衆:

見あり不見あるは、日午灯を点ずるなり。

見なく不見なきも、夜半墨を溌(そそ)ぐなり。

若し見聞は幻翳(げんえい)の如くなることを信ぜば、方に声色空花(くうげ)の如くなることを知らん。

且く道え教中還って衲僧の説話ありや。



注:


 見あり: 何か見識、信念、思想をもっていること。

 不見ある: 何か見識、信念、思想をもっていないこと。

 見あり不見あるは: 

何か見識、思想を持っていたり、それと反対に見識や思想を何も持っていないのは、

 見あり不見あるは、日午灯を点ずるなり: 何か見識、思想を持っていたり、

それと反対に見識や思想を何も持っていないのは、昼間に灯をつけるようなもので何の価値もない。

 見なく不見なきも: 無見識(何も無い)だし、同時に無見識(何も無い)でもないという意識もない。

 夜半墨を溌(そそ)ぐなり: 夜半に墨を注ぐようなもので真っ暗である。

 見なく不見なきも、夜半墨を溌(そそ)ぐなり: 無見識(何も無い)だし、同時に無見識(何も無い)

という意識もないのも夜半に墨を注ぐようなもので真っ暗である。

幻翳(げんえい): 花びらのようなまぼろし。空花(くうげ)と同じ。

 空花(くうげ): 煩悩(ぼんのう)にとらわれた人が、

本来実在しないものをあるかのように思ってそれにとらわれること。

病みかすんだ目で虚空を見ると花があるように見えることを空の花にたとえたもの。

若し見聞は幻翳(げんえい)の如くなることを信ぜば、方に声色空花(くうげ)の如くなることを知らん: 

もし、見たり聞いたりすることが幻翳(げんえい)のようなものであると信じるならば、

見たり聞いたりすることも空に見える花の幻のような妄想であることが分かる。

衲僧の説話: 本来の面目(=真の自己)を明々歴々に示す説法。

且く道え教中還って衲僧の説話ありや。: それでは本来の面目(=真の自己)

を明々歴々に示す説法が伝統的な仏教の教えの中にあるだろうか。  


示衆の現代語訳


何か見識、思想を持っていたり、それと反対に見識や思想を何も持っていないのは、

昼間に灯をつけるようなもので何の役にも立たない。

無見識(何も見識が無い)だし、同時に無見識(見識も無い)という意識も

ないのも夜半に墨を注ぐようなものでお先真っ暗である。

見たり聞いたりすることが幻翳(げんえい)のようなものであると信じるならば、

見たり聞いたりすることも空に見える花の幻のような妄想であることが分かる。

それでは本来の面目(=真の自己)を明々歴々に示す説法が

伝統的な仏教の教えの中にないのだろうか。

本則:



楞厳経に云く、吾が不見の時何ぞ吾が不見の処を見ざる。

若し不見を見るといはば自然に彼の不見の相に非ず。

若し吾が不見の地を見ずんば自然に物に非ず。如何ぞ汝に非ざらん。


注:

本則に引用された経文は首楞厳経卷二に見える。

首楞厳経卷二ではブッダが阿難(アーナンダ)に語ったとされる。  

吾が不見の時何ぞ吾が不見の処を見ざる: もし見るということが客観的な物であるならば、

私が見ないということ(不見)も客観な物として見ることができるはずである。

しかし、私が見ない時(不見)には、それは見えない。

どうして私が見ないこと(不見)を見ないのだろうか? 

若し不見を見るといはば自然に彼の不見の相に非ず: 

もし私の不見のところがお前に見えるならば、それはもう不見の相とは言えない。

若し吾が不見の地を見ずんば自然に物に非ず: 

お前が私の不見の地を見ることができないのは見るという働きが物ではないからだ。

 如何ぞ汝に非ざらん: どうしてそれがお前の本性でないことがあろうか。

見るという働きがお前の本性そのものだからだ。



本則の現代語訳:



首楞厳経では次のように言っている。 

もし見るということが客観的な物であるならば、

私が見ないということ(不見)も客観な物として見ることができるはずである。

しかし、私が見ない時(不見)には、それは見えない。

どうして私が見ないこと(不見)を見ないのだろうか? 

もし私の不見のところがお前に見えるならば、それはもう不見の相とは言えない。

お前が私の不見の地を見ることができないのは見るという働きが物ではないからだ。

どうしてそれがお前の本性でないことがあろうか。

見るという働きがお前の本性そのものだからだ。



滄海(そうかい)を瀝乾(れきけん)し、大虚(たいきょ)に充満す。

衲僧鼻孔(のうそうびくう)長く、古仏舌頭短し。

珠糸(しゅし)九曲を度(わた)り、玉機(ぎょっき)わずかに一転す。

直下相逢うて誰か渠(かれ)を知らん。

始めて信ず、斯人(このひと)伴うべからざることを。




注:


 滄海: 大海。思想の海。煩悩妄想のたとえ。

 瀝乾(れきけん): 一滴も残さないように乾かすこと。

滄海を瀝乾し、大虚に充満す: 煩悩妄想の海を一滴も残さないように乾かせば、

大虚に充満して明々歴々露堂堂である。

その時、十方世界は自己の光明となる。

鼻孔: 鼻の孔ではなく、鼻のこと。

衲僧鼻孔長く: その世界を体験した禅僧の意気はあくまでも高く。

古仏舌頭短し: 古仏といえども「滄海を瀝乾し、大虚に充満した世界」を説明することはできない。

珠糸九曲を度(わた)り: 「珠糸九曲を度(わた)る」には孔子の故事がある。

昔、孔子が陳の国に拘留されていた時、

九曲の小さな穴が開いた玉に糸を通せという難題を出された。

孔子は蟻を糸で縛り玉の穴に入れた。そして、出口の穴に蜂蜜を塗り付けた。

蟻は蜂蜜の香りを求めて出口の穴から出てきた。

それで九曲の珠に糸を通すことができたという。

ここではこの故事を分別妄想の曲がりくねった穴道を通り抜けて

悟りの世界の世界に出ることを喩えている。

珠糸九曲を度(わた)り、玉機わずかに一転す: 曲がりくねった分別妄想を掃蕩し、

玉機わずかに一転するような一転機を経て、悟りの世界の世界に出ることができる。

直下: 直接接して。

 渠(かれ): 本来の面目。真の自己。

斯人伴うべからざることを: この人には誰も同伴者はいない。宇宙に唯一の存在であることを。

 直下相逢うて誰か渠(かれ)を知らん。始めて信ず、斯人伴うべからざることを: 

1ミリも距離もなく、彼(真の自己)と直接接して、会っているのに未だ分からないとは言わせないぞ。

この人には誰も同伴者はいない。宇宙に唯一の存在であることをよく知れ!




頌の現代語訳


煩悩妄想の海を一滴も残さないように乾かせば、

大虚に充満して明々歴々露堂堂の世界に出ることができる。

その時、十方世界は自己の光明となるだろう。

その世界を体験した禅僧の意気はあくまでも高く、

古仏といえどもこの世界(滄海を瀝乾し、大虚に充満した世界」を説明することはできない。

曲がりくねった分別妄想を掃蕩し、玉機わずかに一転するような一転機を経て、

悟りの世界に出ることができる。

1ミリも距離もなく、彼(真の自己)と直接接して、会っているのに未だ分からないとは言わせないぞ。 

この人には同伴者は誰もいない。宇宙に唯一の存在であることをよく知れ!




解釈とコメント


頌では孔子の「九曲の珠玉に糸を通す」という故事が出ている。

これも孔子の故事を知らない読者には分かりにくい。

本則は首楞厳経の経文を直訳したため分かり難い。

サンスクリット語(梵語)の経文を漢文に訳し、それをさらに日本語に訳読したからだと思われる。

本則で言っていることは見るとか見ないということは客観的に見えるようなものではなく

本来の面目(脳)の働きであるといことである。

見るという働きは外界から入った視覚情報が網膜で電気信号に変換され

脳内の視覚野で複雑なプロセスを経て視覚情報になる。

このようなことはこの百年くらいのうちに分かった脳科学的知見である。

禅が盛んであった古代中国では、

これをなんとかして文学や日常言語の世界で理解し表現しようとしていたのである。

頌で、「古仏舌頭短し」とうたっているように、

古仏といえども「この世界」を説明することはできないのは当然であろう。

本則は碧巌録94則と同じである。

碧巌録94則を参照 )。

本則は「見が性で性が見だ」ということが分かれば分かる。

悟りの体験と分析4.6を参照 )。



89soku

 第89則  洞山無草  



示衆:

動ずるときは則ち身を千丈に埋ずむ。

動ぜざるときは則ち当処に苗を生ず。

直きに須らく両頭を撒開(さっかい)し、中間放下するも、

更に草鞋(そうあい)を買うて行脚して始めて得べし。


注:

動ずるとき: 環境に動著する時。

 千丈に埋ずむ。: 千丈の深い谷底に落ち込んだように動きが取れなくなる。

動ずるときは則ち身を千丈に埋ずむ: 環境に動著する時には、

千丈の深い谷底に落ち込んだように動きが取れなくなる。

 動ぜざるときは: 涅槃寂静の世界(下層無意識脳の世界)」に住する時は。

 苗を生ず: 根が生えて自由を失う。

動ぜざるときは則ち当処に苗を生ず: 動じない時には深い禅定で

涅槃寂静の世界(下層無意識脳の世界)に入って住し、根が生えたようになって自由を失うだろう

 両頭: 動不動の両頭。生死と涅槃、煩悩と菩提、精神と物質などの両頭。

 撒開(さっかい): 突き放してしまうこと

 行脚: 尋師問法の修行の旅。

 直きに須らく両頭を撒開(さっかい)し、中間放下するも、更に草鞋を買うて行脚して始めて得べし: 

動不動の両頭。生死と涅槃、煩悩と菩提、精神と物質などの両頭を突き放してしまうと

どちらにも偏らない生死即涅槃、煩悩即菩提、精神即物質などの中道主義になる。

しかし、そのような中道主義に引っ付くとまた自由を失うことになる。

そこでその中道主義への執着を脱するために、

実際の行脚の求道・修行生活をして始めて真の境涯に到るだろう。


示衆の現代語訳


環境に動著する時には、千丈の深い谷底に落ち込んだように動きが取れなくなる。

逆に動著しない時には深い禅定で涅槃寂静の世界(下層無意識脳の世界)に入って、

その世界に根が生えたようになって、自由を失うだろう。

だからといって、動と不動、生死と涅槃、煩悩と菩提、精神と物質などの両頭を

突き放してしまうとどちらにも偏らない生死即涅槃、煩悩即菩提、精神即物質などの中道主義になる。

しかし、そのような中道主義もそれに執着するとまた自由を失うことになる。


本則:

洞山衆に示して云く、「秋初夏末兄弟或いは東し或いは西す。直に須らく万里無寸草の処に向かって去るべし」。

又云く、「只万里無寸草の処の如き作麼生か去らん?」。

石霜云く、「門を出ずれば便ち是れ草」。

大陽云く、「直に道わん門を出でざるも亦草漫漫地(まんまんじ)」。



注:

洞山:洞山良价(807〜869)。雲巌曇晟の法嗣。曹洞宗の開祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价

石霜:石霜慶諸(807〜888)。道吾円智の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→道吾円智→石霜慶諸

大陽: 大陽警玄(943〜1027)。

法系:洞山良价→雲居道膺→同安道丕→同安観志→梁山縁観→大陽警玄

秋初夏末: 夏の接心会(集中参禅修行の期間)が終わって

それぞれの修行者が自由に行脚するようになる時。

草: 分別妄想。煩悩のこと。

万里無寸草の処: 浄潔にして妄想分別がない本来空の境地。本分の田地。

門を出ずれば: 偏位(理知脳)の世界に出れば。

偏位については洞山五位を参照 )。

門を出ずれば便ち是れ草: 偏位(理知脳)の世界に出れば分別妄想の世界だ。

直に道わん門を出でざるも亦草漫漫地(まんまんじ):

偏位(理知脳)の世界に出なくても分別妄想が生い茂っているよ。



本則の現代語訳:


洞山が修行僧達に示して云った、

夏の接心会が終わって各自は東に或いは西に修行の旅を続けることだろう

その時には直に「万里無寸草の処」に向かって行きなさい。」。

又続けて云った、

それでは万里無寸草の処に行くにはどのようにすれば良いだろうか?」。

石霜は云った、

門を出たらばもう分別妄想の世界だ」。

大陽は云った、

門を出なくても分別妄想は一ぱい生い茂っているよ」。




草漫漫(くさまんまん)、門裏門外(もんりもんがい)君自ずから看よ。

荊棘林(けいきょくりん)中脚を下すことは易く、夜明簾(やみょうれん)外身を転ずることは難し。

看よ看よ。幾何般(いくばくはん)ぞ。

且(しば)らく老木に随って寒瘠(かんせき)を同じうす。

将に春風を逐(お)うて焼瘢(しょうはん)に入らんとす。


注:

草漫漫:草だらけだ。

草漫漫、門裏門外君自ずから看よ: ほら、草だらけだぞ!門裏門外君自身で看てみなさい。

荊棘林(けいきょくりん):いばらの林。分別妄想の世界の喩え。

脚を下すこと:脚を洗うこと。

夜明簾外(やみょうれんがい): 月夜の窓に簾をかけている家のこと。外から家の中は見えない。

凡夫の頭では絶対知ることができない世界(無意識の世界=正位の世界)を喩えた表現。

荊棘林中脚を下すことは易く、夜明簾外身を転ずることは難し: 分別妄想の世界から

脚を洗って出ることは易しいが、夜明簾外の正位の世界から身を転ずることは難しい。

看よ看よ。幾何般(いくばくはん)ぞ: 油断するな、気をつけよ!前後左右草だらけだぞ!

老木: 涅槃寂静の世界。

寒瘠(かんせき):冬枯れの寂しい有様。無寸草の処。

焼瘢(しょうはん): 枯れ草を焼いた跡。

且らく老木に随って寒瘠(かんせき)を同じうす。将に春風を逐うて焼瘢(しょうはん)に入らんとす:

涅槃寂静の世界を追っていくと冬枯れの寂しい有様になる。

しかし、春になると、春風を追うように枯れ草を焼いた跡から新しい芽吹きがあるだろう。


頌の現代語訳


ほら、草だらけだぞ!門裏門外君自身で看れば分かるだろう。

分別妄想の世界から脚を洗って出ることは易しいが、

夜明簾外の正位の世界から身を転ずることは難しい

正位と偏位については洞山五位を参照 )。

油断するな、気をつけよ!前後左右妄想分別だらけだぞ!

涅槃寂静の世界を追っていくと冬枯れの寂しい有様になる。

しかし、春になると、春風を追うように枯れ草を焼いた跡から新しい芽吹きがあるだろう。


解釈とコメント


本則は洞山の示衆の言葉

夏の接心会が終わって各自が求道の旅を続ける時には

直に「万里無寸草の処」に向かって行きなさい

それでは万里無寸草の処に行くにはどのようにすれば良いだろうか?」

をどのように解釈し修行すべきかが主なテーマになっている。

この洞山の言葉に対し、

石霜慶諸は、「門を出たらばもう分別妄想の世界だ」と云い、

大陽警玄は「門を出なくても分別妄想は一ぱい生い茂っているよ」とコメントした。

石霜慶諸も大陽警玄も分別妄想の世界から脱出し、万里無寸草の処に行け

と言っている。

万里無寸草の処」とは「浄潔にして妄想分別がない本来空の境地」と考えられ、

無所得・無所悟(不染汚)の坐禅修行によって

分別妄想を滅尽することで得られる不染汚の境地だ

とされている。

」の最後のところでは、「涅槃寂静の世界を追っていくと冬枯れの寂しい有様になる。」

と詠っている。

信心銘」では「一も亦守ること莫れ」と詠っている。

妄想分別がない本来空の境地」だけを追っていると

動きのない「無事禅」に陥る恐れがある

と我々に注意を促していると考えることができるだろう。

「信心銘」第6文段を参照 )。

一般的には分別妄想の世界とは上層脳(理知脳)の世界を意味している。

坐禅修行で雑念を追わず坐禅に集中することで上層脳(理知脳)の働きは自然に鎮静化し、

本源清浄な下層脳(脳幹+大脳辺縁系)優勢の状態になる。

これを分別妄想が無くなった「万里無寸草の処」と云う事ができるかも知れない。

禅では一般的に上層脳(分別意識、理知脳)を働かせると「分別妄想の世界

が生まれると考えられて来た。

そのためか禅では上層脳(分別意識、理知脳)を働かせ理屈を言うことを嫌う。

これは禅が盛んだった唐・宋の時代に当てはまったかも知れない。

禅が盛んだった唐・宋の時代には科学は未発達で、

多くの奇怪な迷信が横行し、正しい情報や知見は乏しい社会だったからである。

そのような状況下では、上層脳(分別意識、理知脳)を勝手に働かせると

妄想分別」が生まれ易かったからだと思われる。

しかし、現代では状況が唐・宋の時代と異なる。

科学的合理思想の発達で正しい情報や知見を得ることができるようになった。

正しい情報や知見に基づいて正見・正思することで、

正しい見解が生まれる。

正しい情報や知見に基づいて正見・正思すれば、

正しい見解が生まれるが「分別妄想の世界」は生まれない。

現代では上層脳(分別意識、理知脳)を働かせ正しい見解(正見)

を学び持つことは文明世界に生きる人にとって必要な条件になっている。

上層脳(分別意識、理知脳)を正しく働かせることで、

分別妄想の世界」から脱出する合理的方法や手段を見つけることになるかも知れない。

現代では上層脳(分別意識、理知脳)を活発に働かせ、正しい情報や知見を学び、

それに基づいて正見・正思することは禅者にも求められている。

その点は唐・宋の時代と異なると言って良いだろう。



90soku

 第90則  仰山謹白   



示衆:

屈原(くつげん)独り醒(さ)む正に是れ燗酔(らんすい)。

仰山夢を説く、恰(あたか)も覚時(かくじ)に似たり。

且(しば)らく道(い)え、万松恁麼(いんも)に説き、諸人恁麼(いんも)に聞く。

是れ覚か、是れ夢か。


注:

屈原: 古代中国楚の詩人・政治家(おおよそ紀元前343〜278)。

清廉潔白の人であった屈原は腐敗した官界に受け入れられなかった。

楚の王族に生まれた屈原は博聞強記で治乱興亡のあとに明るく、文辞詞章に長けていた。

しかし、彼を妬む対立者が王に讒言したため、江南に流された。

やがて彼は滅亡の危機に瀕する祖国を憂いながら、

五月五日に汨羅(べきら)に身を投じて、自殺した。

国と人民に尽くした屈原の政策は、死んだ後もいっそう人々に惜しまれ、

多くの粽(ちまき)を川に投げ入れて国の安泰を祈願する風習に変わって行った。

やがて、その風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、

端午の節句となったと言われている。

屈原の人柄を最もよく表していると言われる「漁父辞」では、


挙世 皆濁り、 

我、独り清(す)めり。 

衆人、皆酔い 

我、独り醒めたり。 


と歌っている。


屈原独り醒む正に是れ燗酔: 世間の人は皆濁り、我、独り醒めたり

と言う屈原は立派な人である。

しかし、仏法の見地から見ると、清濁にこだわり、独り自分だけが醒めているという人は

自己満足か二元対立(清濁)の迷いの酒に酔って乱酔している。

仰山夢を説く、恰も覚時に似たり: 本則では仰山の夢物語が主題になっているが、

あたかも覚めている時のようだ。

 万松: 万松行秀禅師。この示衆を書いた人。

 恁麼(いんも)に: このように。

且らく道え、万松恁麼に説き、諸人恁麼に聞く。是れ覚か、是れ夢か: 

万松がこのように説き、諸君がこのように聞いている。これは現実なのか、あるいは夢なのだろうか。


示衆の現代語訳


世間の人は皆濁り、我、独り醒めたり」と言う屈原は立派な人である。

しかし、仏法の見地から見ると、清濁にこだわり、独り自分だけが醒めている 

という人は自己満足か二元対立(清濁)の迷いの酒に酔って乱酔している。

本則では仰山の夢物語が主題になっているが、あたかも覚めている時のようだ。

万松はこのように説き、諸君はこのように聞いている。

これは現実なのか、あるいは夢物語なのだろうか。


本則:

仰山夢に弥勒(みろく)の所に往いて第二座に居す。

尊者白して云く、「今日第二座の説法に当る」。

山乃ち起って白椎(びゃくつい)して云く、「摩訶衍(まかえん)の法は四句を離れ百非を絶す、謹んで白(まを)す」。


注:

仰山:仰山慧寂(ぎょうさんえじゃく)(807〜883)。

イ山霊祐(771〜883)の法嗣。イ山霊祐とともにイ仰宗(いぎょうしゅう)の祖。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →百丈懐海→イ山霊祐→仰山慧寂  

弥勒(みろく): 梵語マイトレーヤの音写。弥勒菩薩のこと。

五十六億七千万年後に兜卒天(とそつてん)からこの世に下生して仏陀となって、

衆生を救済するとされる菩薩。

摩訶衍(まかえん)の法: 摩訶衍(まかえん)とは梵語マハーヤーナの音写で、

大きな乗り物のことで、大乗と意訳している。摩訶衍(まかえん)の法とは大乗の法という意味。

白椎(びゃくつい)する: 槌を打ち鳴らす。

四句を離れ百非を絶す: あらゆる論理を超えている。



本則の現代語訳:


仰山は夢の中で弥勒菩薩の所に行って第二座に着席していた。

尊者が発表して云った、

今日は第二座が説法の当番である」。

仰山は立ち上がり槌を打ち鳴らして云った、

摩訶衍の法は四句を離れ百非を超えています

謹んで申し上げます」。




夢中衲(のう)を擁して耆旧(ぎきゅう)に参ず。

列聖森森(れっせいしんしん)として其の右に坐す。

仁(にん)に当たって譲(ゆず)らず健椎(けんち)鳴る。

説法無畏(むい)獅子吼(ししく)す。

心安きこと海の如く、胆(たん)の量斗(と)の如し。

鮫目(こうもく)涙流れ、蚌腸(ぼうちょう)珠剖(たまわか)る。

譫語(せんご)誰か知らん、我が機を泄(も)らすことを。

ホウ眉(ほうび)応(まさ)に笑うべし家醜(かしゅう)を揚ぐることを。

四句を離れ百非を絶す。

馬師父子(ばしふし)病に医を休む。


注:

衲(のう): 衲衣。袈裟。

衲(のう)を擁して: 袈裟をかけて。

耆旧(ぎきゅう): 大先輩。弥勒菩薩。

夢中衲(のう)を擁して耆旧(ぎきゅう)に参ず:

夢の中で仰山は袈裟をかけて大先輩である弥勒菩薩に参じた。

列聖森森として其の右に坐す: すでに聖位に入った大菩薩たちが森森として其の右に坐っている。

仁: 第二座の任。

仁に当たって譲らず: 第二座の任に当たって遠慮なく。

仁に当たって譲らず健椎鳴る:

第二座の任に当たっている仰山は遠慮なく白槌を鳴らして説法をした。

説法無畏、獅子吼す: 弥勒菩薩のような大先輩達が居ても恐れることなく、獅子吼した。

胆(たん)の量斗(と)の如(ごと)し: きもが一斗升のようである。非常に大胆であることのたとえ。

心安きこと海の如く、胆の量斗の如し: 仰山の心は海のようで少しの不安はなく非常に大胆である。

鮫人: 中国で、南海にすむという、人魚に似た想像上の生き物。常に機(はた)を織り、

しばしば泣き、その涙が落ちて玉になるという。

蚌(ぼう): はまぐり。

蚌腸(ぼうちょう)珠剖(たまわか)る:

蚌(はまぐり)が腸を出して、月の精を飲むと真珠ができるという。

鮫目涙流れ、蚌腸珠剖(わか)る:

列席して仰山の説法を聴いた人達の眼から涙が溢れ真珠のように光っている。

譫語(せんご): 多言。べらべらしゃべること。

我が機を泄(も)らすこと:そのなかに法の第一義を丸出しにしていること。

譫語(せんご)誰か知らん、我が機を泄(も)らすことを:

多言は法の第一義を丸出しにしていることを分かっただろうか。

ほう眉: 大きな眉。大人物の人相。弥勒菩薩始めとする列席の尊者達を指している。

ほう眉応に笑ふべし家醜を揚ぐることを: 弥勒菩薩始めとする列席の尊者達は

仰山の説法を聴いて笑っている。

これでは仰山は家の恥をさらしたようなものではないか。

勿論これは禅宗特有の言貶意揚(ごんぺんいよう)の表現

(表面上では貶しているが真意は褒める表現)である。

四句を離れ百非を絶す: 第6則の「馬祖白黒」の公案に出ている言葉。

第6則の「馬祖白黒」の公案で

僧馬大師に問う、四句を離れ百非を絶して、請う師某甲に西来意を直指せよ

と僧が馬祖大師に質問したことを指している。

第6則の「馬祖白黒」を参照 )。

四句を離れ百非を絶す。馬師父子病に医を休む: あの偉大な馬祖大師や弟子の病気も

医者や薬では治らんと言って、四句百非を超えた大乗仏教の第一義の世界で生きているのだ。


頌の現代語訳


夢の中で仰山は袈裟をかけて大先輩である弥勒菩薩に参じた。

すでに聖位に入った大菩薩たちが森森として其の右に坐って仰山の説法を待っている。

第二座の任に当たっている仰山は遠慮なく白槌を鳴らして説法をした。

彼は弥勒菩薩のような大先輩達が居ても恐れることなく、獅子吼した。

仰山の心は海のように少しの不安はなく大胆そのものである。

列席して仰山の説法を聴いた人達の眼から涙が溢れ玉のように光っている。

多言は仏法の第一義を丸出しにしていることが分かっただろうか。

弥勒菩薩始めとする列席の尊者達は仰山の説法を聴いて笑っている。

これでは仰山は家の恥をさらしたようなものではないか。

勿論これは禅宗特有の言貶意揚(ごんぺんいよう)の表現

(表面上では貶しているが真意は褒める表現)である。

あの偉大な馬祖大師や弟子の病気も医者や薬では治らんと言って、

四句百非を超えた大乗仏教の第一義の世界で生きているのだ。


解釈とコメント


本則は「無門関」25則「三座説法」と同じである。

無門関」では「謹んで白(もう)す」が「諦聴(たいちょう)、諦聴(たいちょう)」となっている。

また従容録では仰山は第二座であるが「無門関」では仰山は第三座となっている。

このように、従容録90則「仰山謹白」と「無門関」25則「三座説法」

を比べると少し違うところもあるが本質的に同じである。

「無門関」25則「三座説法」を参照 )。



91soku

 第91則  南泉牡丹   



示衆:

仰山は夢中を以って実となし、南泉は覚処(かくしょ)を指して虚となす。

若し覚夢(かくむ)元無なることを知らば、虚実(きょじつ)待を絶することを信ぜん。

且らく道え斯の人甚麼(なん)の眼をか具す。


注:

覚処: 覚醒中の出来事。

仰山は夢中を以って実となし、南泉は覚処を指して虚となす:

90則では仰山は夢物語を真実だとした。

この91則では南泉は覚醒中の出来事を指して虚だと見なしている。

虚実待を絶することを信ぜん: 虚と実が対立するようなものではないことが分かるだろう。

互いに似たようなものだ。

若し覚夢元無なることを知らば、虚実待を絶することを信ぜん: もし、

覚醒中も夢の中も本来無であることが分かれば、

虚と実が対立するようなものではないことが分かるだろう。

互いに似たようなものだ。

斯の人: 南泉普願をさす。

且らく道え斯の人甚麼の眼をか具す: それでは南泉はどのような眼を持っていたのだろうか。


示衆の現代語訳


90則では仰山は夢物語を真実だとした。

この91則では南泉は覚醒中の出来事を指して虚だと見なしている。

もし、覚醒中も夢の中も本来無であることが分かれば、

虚と実が対立するようなものではないことが分かるだろう。

互いに似たようなものだ。

それでは南泉はどのような眼を持っていたのだろうか。


本則:

南泉因(ちなみ)に陸亘大夫云く、「肇法師也た甚だ奇特なり、道うことを解す

天地と我と同根、万物と我と一体なりと」。

泉庭前の牡丹を指して云く、「大夫時の人此の一株の花を見ること夢の如くに相似たり」。


注:

南泉:南泉普願禅師(748〜834)。馬祖道一の法嗣。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →南泉普願   

陸亘(りくこう)太夫:陸亘太夫(764〜834)は陸が姓で、亘(こう)が名前である。

唐朝に仕えた御史太夫(地方長官)で、官吏の罪を正す職務に就いていた。

肇(じょう)法師: 僧肇(そうじょう)(374〜414)。

中国東晋の僧。鳩摩羅什(くまらじゅう)の門下四哲の一人である。

仏典漢訳を助け、理解第一と称された。著書に「宝蔵論」「肇論」などがある。  

『天地と我と同根、万物と我と一体』: この言葉は僧肇の「涅槃無名論」に見える。

この言葉は『荘子』斉物論の『天地と我と同根、万物と我と一体』と同じ考え方である。

心・境一如と万物一体の思想については「公案」を参照 )。

甚だ奇特なり: なんとも不思議で超人的ある。

時の人: 世間の人。


本則の現代語訳:

南泉和尚に陸亘大夫は云った、

肇法師はなんとも不思議で超人的な人ですね。

肇法師は、『天地と我と同根、万物と我と一体なり』と述べていましたよ」。

それを聞いた南泉は庭前に咲いている牡丹の花を指して云った、

大夫よ、世間の人はこの一株の花を夢でも見ているように見ているだけだ

自分がその花そのもので、自分が花となって咲いていることに決して気付かない」。



離微造化(りびぞうか)の根に照徹(しょうてつ)し、

紛紛(ふんぷん)たる出没(しゅつぼつ)其の門を見る。

神(しん)を劫外(こうがい)に遊ばしめて問う何かあらん。

眼を身前に著けて妙に存することを知る。

虎嘯(うそぶ)けば蕭蕭(しょうしょう)として巌吹(がんすい)作(おこ)り、龍(りゅう)吟(ぎん)ずれば

冉冉(ぜんぜん)として洞雲(とううん)昏(くら)し。

南泉時人(じにん)の夢を点破して、堂々たる補処(ふしょ)の尊を知らんと要す。


注:

離微 : 離は主観、微は客観のこと。

造化: 大自然の作用。諸法縁起。

離微造化の根: 主観と客観、諸法縁起の根本である空の原理。

紛紛: ごてごて。

出没: 出入り。

門: 六根門頭。眼耳鼻舌身意の六根門頭。

離微造化の根に照徹し、紛紛たる出没其の門を見る: 主観や客観、縁起所生の法の根本

である空の原理に照徹し、紛紛と出没する六根門頭(六根とその中心にある脳)をよく見ている。

神: 心。

劫外: 分別の外。妄想のないところ。

神を劫外に遊ばしめて問う何かあらん: 心を分別のないところ(下層脳)に遊ばせるから

身前の牡丹の花に眼を付けて、般若の妙智(心・境一如の妙智)を知る。

一体だの同根だのという妄想もない。そのため、陸亘太夫の問いも問題にならない。

眼を身前に著けて妙に存することを知る: 身前の牡丹の花に眼を付けて、

般若の妙智(心・境一如の妙智)を知る。

心・境一如の妙智については「公案」を参照 )。

蕭蕭(しょうしょう): さびしい様子。

巌吹(がんすい): 岩を吹く風。

冉冉(ぜんぜん): 髪の毛のふさふさした形。

洞雲: 洞穴から湧きおこる雲。仙境にかかる雲。

虎嘯(うそぶ)けば蕭蕭(しょうしょう)として巌吹(がんすい)作(おこ)り、龍吟ずれば冉冉(ぜんぜん)として洞雲昏(くら)し:

南泉の一言半句は虎が嘯(うそぶ)くようで、蕭蕭(しょうしょう)として岩を吹く風をおこす。

また竜が鳴いて洞穴から雲を湧きおこすようだ。

時人: 陸亘太夫。

補処(ふしょ)の尊: 仏の候補者。弥勒菩薩。

南泉時人の夢を点破して、堂々たる補処(ふしょ)の尊を知らんと要す:

南泉は陸亘太夫の夢を点破して、我々が皆堂々たる弥勒菩薩のような

仏の候補者であることを気付かせようとしているのだ。


頌の現代語訳


主観や客観、縁起所生の法の根本である空の原理に照徹し、

紛紛と出没する六根門頭(六根とその中心にある脳)をよく見ている。

心を分別のないところの遊ばせて一体だの同根だのという妄想もない。

だから、陸亘太夫の問いも問題にならない。

 身前の牡丹の花に眼を付けて、般若の妙智(心・境一如の妙智)を知る。

南泉の一言半句は虎が嘯(うそぶ)くようで、蕭蕭(しょうしょう)として岩を吹く風をおこす。

また竜が鳴いて洞穴から雲を湧きおこすようだ。

南泉は陸亘太夫の夢を点破して、我々が皆堂々たる弥勒菩薩のような仏の候補者である

ことを気付かせようとしているのだ。


解釈とコメント


本則は「碧巌録」の第40則「南泉一株花」と殆ど同じである。

「碧巌録」の第40則を参照 )。

92soku

 第92則   雲門一宝 



示衆:

遊戯(ゆげ)神通の大三昧を得、衆生語言(しゅじょうごごん)の陀羅尼を解し、睦州(ぼくしゅう)

秦時(しんじ)のたくらく鑚を曳転(えいてん)し、雪峰の南山の鼈鼻蛇(べつびじゃ)を弄出(ろうしゅつ)す。

還って此の人を識得(しきとく)すや。


注:

遊戯神通の大三昧: 遊戯神通三昧は「法華経」の妙音菩薩品に出ている16三昧の1つ。

遊戯神通の大三昧を得、

衆生語言の陀羅尼: 「法華経」の薬王菩薩本事品に出ている解一切衆生語言陀羅尼と出ている。

曳転: ひっころがすこと。

睦州秦時のたくらく鑚を曳転し: 雲門は睦州に参禅師事して開悟することができた。

雲門が睦州の部屋に入って来ると、睦州は「さあ言え!、さあ言え!」と迫る。

雲門がまごつくと、いきなり「この秦時のたくらく鑚」と怒鳴って雲門を部屋の外に追い出して、

ピシャリと戸を閉めたという故事に基づいている。

この秦時のたくらく鑚」とは「この役立たず者」という意味である。

「秦時のたくらく鑚」は秦の始皇帝が万里の長城を築く時に用いた、車仕掛けの大きな錐(きり)のこと。

無用の長物だったことから「役立たず」という意味になった。

 南山の鼈鼻蛇(べつびじゃ): 雪峰義存がある時、

南山に一条の鼈鼻蛇あり、汝等諸人、切に須らく好く看るべし」と説法した故事に基づく。

公案碧巌録22則「雪峰鼈鼻蛇」に出て来る。

碧巌録22則「雪峰鼈鼻蛇」を参照 )。

遊戯神通の大三昧を得、衆生語言の陀羅尼を解し、睦州秦時のたくらく鑚を曳転し、雪峰の南山の鼈鼻蛇を弄出す: 

遊戯神通三昧を得、衆生語言陀羅尼を理解した雲門は、

睦州から「この役立たず者!」と怒鳴られて悟ることができた。

後に雲門は雪峰義存の下では南山の鼈鼻蛇を手玉にとった。

 還って此の人を識得すや: 昔このような偉大な人がいたが、そんな人を識っているだろうか。


示衆の現代語訳


遊戯神通三昧を得、衆生語言陀羅尼を理解した雲門は、

睦州から「この役立たず者!」と怒鳴られて悟ることができた。

後に雪峰義存の下では南山の鼈鼻蛇を手玉にとった。

昔このような偉大な禅者がいたが、そんな人を識っているだろうか。


本則:

雲門大師云く、「乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す

灯籠を拈じて仏殿裏に向かう、三門を将って灯籠上に来す」。  

注:

雲門大師:雲門文偃(864〜949)。雲門宗の祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→

龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃

一宝: 仏性。

形山: 肉体を指す。

三門: 禅院の正門。山門。



本則:


雲門大師が言った、

天地宇宙の間に一つの宝がある。それは我々の肉体(身体)の中に秘在している

手行灯(灯篭)を持って真っ暗な仏殿裏に行き照らし、三門を手行灯(灯篭)の上に乗せる」。




余懐(よかい)を収巻(しゅうけん)して事華(じか)を厭う。

帰り来たって何の処か是れ生涯。

欄柯(らんか)の樵子(しょうし)路なきを疑い、桂樹(けいじゅ)の壺公(ここう)妙に家あり。

夜水金波(やすいきんぱ)桂影(けいえい)を浮かべ、

秋風雪陳(しゅうふうせつじん)蘆花(ろか)を擁す。

寒魚(かんぎょ)底に著いて餌を呑まず、興尽きて清歌却って槎(さ)を転ず。


注:

余懐(よかい): 余韻。

僧肇の「宝蔵論」に「それ天地の内、宇宙の間、中に一宝あって形山に秘在す。・・・

という文がある。

雲門はこの言葉を引用して本則にしている。そのことを余懐と言っている。

事華(じか): 煩瑣。

余懐(よかい)を収巻して事華(じか)を厭う:

雲門は僧肇の「宝蔵論」の言葉を、

灯籠を拈じて仏殿裏に向かう、三門を将って灯籠上に来す

という言葉に収巻して煩雑さを厭った。

帰り来たって何の処か是れ生涯: それでは、帰処となる「形山に秘在する一宝」とは何だろうか?

 雲門の生涯受用不尽底のものとは何だろうか。

欄柯の樵子路なきを疑い、:

東晋の隆安の頃(〜5世紀)、王質という人が斧を持って薪を採りに行く

坂の途中の石室で4人の童子が囲碁を打っているのに出会った。

王質も囲碁は好きだったので熱心に見物し、一局が終わるまで時を過ごした。

さあ帰ろうと、立ち上がったら、

腰にさしていた斧の柄が腐っていてぐずぐずと崩れた。着物もボロボロになっていた。

これは変だと思って家に帰ってみたら、自分が家を出てから数十年も経っていたという

(王氏神仙伝に出ている話)。

ここでは、囲碁見物が終わって立ち上がった王質は囲碁見物で数十年も経っていたため、

自分の家がどうなったか帰りの路もよく分からなくなったことを歌っている。

壺公: 東晋時代の道教研究家・葛洪の著書『神仙伝』には「壺公」と題する次のような話がある。

昔、唐の長安に薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は薬を相手の言い値で売っていた。

この老人がどういう人なのか、知る人はいなかった。

のとき、汝南(しょなん)の費長房という人が町の奉行に就任した。

彼が楼の上に立って町を見回していると、翁は一つの壺を持っていて、

日暮れ時になると人に知られずにこの壺の中に躍り入った。

長房はこれをたびたび目撃して、この翁はただ人でないと知り訪ねて行き、

敬って食物などをすすめると翁は非常に喜んだ。

かくして何年か経(た)って、翁が長房に「君には金骨の相がある

仙道を学ぶことができよう。日が暮れて人のいない時分に来なさい

と告げた。

言われたとおり日暮れに行くと、翁は 「我(われ)に続いて壺の中に躍り入れ」と言って、

先に翁が躍り入り、長房がそれに続いた。

壺の中には天地、日月があり、宮殿、楼閣は見事であった。

侍者は数千人いて老翁を助け敬っていた。

桂樹の壺公妙に家あり。: 壺公が桂樹にかけていた壺の中には

天地、日月のみか見事な宮殿や楼閣があった。

欄柯の樵子路なきを疑い、桂樹の壺公妙に家あり:

囲碁見物が終わって立ち上がった王質は囲碁見物で数十年も経っていたため、

自分の家がどうなったか帰路もよく分からなかったが、

壺公が桂樹にかけていた壺の中には天地、日月のみか見事な宮殿や楼閣があったという。

雲門が言う「一宝」は壺公の壺の中に展開した天地、宮殿や楼閣のようなものだろうか。

神仙伝: 中国の西晋・東晋時代の道教研究家・葛洪の著書。

夜水金波桂影を浮かべ、秋風雪陳蘆花を擁す:

雲門が言う「一宝」の中では夜の水には月影が映り、金波銀波が打ち寄せる。

そこれをはっきり見ようとしても雪と蘆花が白くてはっきり区別できないような世界だ。

寒魚底に著いて餌を呑まず、興尽きて清歌却って槎を転ず:

冬の寒さに魚が河底に居付いて餌に食いつかない。

これほど親切に釣り上げてやろうとしても食いついて来ないのではどうしようもない。

歌でも歌いながら家に帰るしかしようがない。


頌の現代語訳


雲門は僧肇の「宝蔵論」の煩雑な表現を厭い、

灯籠を拈じて仏殿裏に向かう、三門を将って灯籠上に来す

という文章に収巻した。

それでは、我々の帰処となる「形山に秘在する一宝」とは何だろうか?

我々が生涯受用しても尽きることがない「一宝」とは一体何か?

囲碁見物が終わって立ち上がった王質は囲碁見物で数十年も経っていたため、

自分の家がどうなったか帰路も分からず迷ったが、

壺公が桂樹にかけていた壺の中には天地、日月のみか見事な宮殿や楼閣があったという。

雲門が言う「一宝」とは壺公が壺の中で見たという仙境のようなものだろうか。

雲門が言う「一宝」の中では夜の水には月影が映り、金波銀波が打ち寄せる美しい世界がある。

ただそこをはっきり見ようとしても雪と蘆花が白くてはっきり区別できないような世界だ。

寒い冬には魚が河底に居付いて餌に食いつかない。

これほど親切に釣り上げてやろうとしても魚が食いついて来なくてはどうしようもない。

面白くないので、舟歌でも歌いながら家に帰るとしようか。


解釈とコメント


本則は「碧巌録」の第62則「雲門一宝」と殆ど同じである

「碧巌録」の第62則「雲門一宝」を参照 )。


93soku

 第93則  魯祖不会 



示衆:

荊珍(けいちん)、鵲(かささぎ)を抵(う)ち、老鼠(ろうそ)金を啣(ふく)む。

其の宝を識らず。

其の用を得ず。

還って頓(とん)に衣珠(えじゅ)を省する底ありや。


注:


荊珍(けいちん): 荊山で産出される珍らしい宝石。


鵲: カササギ。カササギ(鵲、Pica pica)は、スズメ目カラス科に分類されるカラス。

別名カチガラスもしくはコウライガラスとも呼ぶ。



カササギ

カササギ 



荊珍(けいちん)、鵲を抵ち、老鼠金を啣(ふく)む: 荊珍(けいちん)で

鵲を抵つのは、老鼠が金の小判を銜(くわ)えていくようなものである。

 其の宝を識らず。其の用を得ず: 

荊珍(けいちん)で鵲を抵つのは、老鼠が金の小判を銜(くわ)えていくようなものである。

 衣珠: 法華経五百弟子受記品に出ている次のような話(比喩)。

ある金持ちが貧乏な友人を残して遠国へ行くことになった。

貧乏な友人は酔っ払って寝てしまった。出発する時刻がきたけれども

どうしても起きない。自分が居なくなった後、貧乏な友人が生活に困らないように、

高価な宝玉を贈り物に持ってきたのだが酔夢から醒めない。

そこで他人に取られないように、酔っ払っている友人の着物の襟に、

その宝玉を縫い込んで出かけてしまった。

その後で貧乏な友人は酔から醒めたが、

自分の着物の襟に高価な宝玉が縫い込まれていることを知らないから、

相変わらず貧乏な生活を続けていたという。

この話は、本来誰にも具わっている完全無欠の性能である仏性に気付かずに

いたずらに迷妄の生活を続けているのを喩えた話である。

衣珠に関する歌として次のような歌が伝えられている。


夢さめて衣の裏を今朝見れば玉懸けながら 迷いぬるかな


還って頓に衣珠を省する底ありや: 

かえって衣に縫い込まれた宝石のような仏性にすぐ気づくようなことがあるだろうか。


示衆の現代語訳


珍しい宝石で鵲を打ち落とそうとするのは、老鼠が金の小判を銜(くわ)えていくようなものである。

荊珍(けいちん)が宝石であることを知らず、その用い方もふさわしいものではない。

それでは衣に縫い込まれた宝石のような仏性が自分にも具わっていることに

すぐ気づくようなことがあるだろうか。

本則:

魯祖南泉に問う、「摩尼珠人識らず如来蔵裏に親しく収得す

如何なるか是れ蔵?」。

泉云く、「王老師汝と往来するもの是」。

祖云く、「往来せざる者は?」。

泉云く、「亦是れ蔵」。

祖云く、「如何なるか是れ珠?」。

泉召して云く、「師祖」。

祖応諾す。

泉云く、「去れ汝我語を会せず」。


注:

魯祖:魯祖ではなく雲際師祖禅師。雲際師祖は南泉普願の弟子。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →南泉普願 →雲際師祖

摩尼珠: 如意宝珠。何でも思うとおりになるという宝石。仏性(=脳)のこと。

如来蔵裏: 仏性。

王老師: 南泉普願のこと。


本則の現代語訳:

魯祖(師祖)が南泉に聞いた、

摩尼珠は誰でも持っているのだが誰も気づかず、如来蔵に収められていると言われています

如来蔵とはどのようなものでしょうか?」。

南泉は云った、

私とあんたの間を往来するものがそうだ」。

師祖は云った

往来しないものは何ですか?」。

南泉は云った、

それもまた如来蔵だよ」。

師祖は云った、

摩尼珠とはどんなものでしょうか?」。

南泉は師祖を招いて云った、

師祖よ!」。

師祖は「はい!」と答えた。

南泉は云った、

もういいよ!お前はわしの言ったことが分かっていない」。



是非を別かち、得喪(とくそう)を明かす。

之を心に応じ、諸(これ)を掌(たなごころ)に指す。

往来、不往来、只這(こ)れ倶に是れ蔵(ぞう)。

輪王(りんおう)、之を有功に賞し、黄帝之を罔象(もうしょう)に得たり。

枢機(すうき)を転じ技倆(ぎりょう)を能くす。

明眼の衲僧(のうそう)鹵奔(ろもう)なること無かれ。


注:

得喪: 得失。

是非を別かち、得喪を明かす: 是非を判断し、得失を明らかにする。

之を心に応じ、諸を掌に指す:分かれば分かった通り、

分からなければ分からない通り、それが心と動作に反応して、そのとおりに手足が動く。

往来、不往来、只這れ倶に是れ蔵:

問答するのも、しないのもともに如来蔵(=本来の面目=脳)の立派な働きだ。

行住坐臥の働きも如来蔵(=本来の面目=脳)の立派な働きである。

輪王: 転輪聖王。古代インドの思想における理想的帝王を指す概念。

地上をダルマ(法)によって統治し、王に求められる全ての条件を備えるという 。

罔象(もうしょう): 罔象は「荘子」に出る故事。

昔、黄帝が赤水の北に遊んだ時、珠を紛失した。

最初に智慧者をやって探させたが見つからなかった。

次に遠目のきく男をやったがやはり見つからない。

最後に罔象という盲人をやったら、その珠を見つけて来たという。

輪王、之を有功に賞し、黄帝之を罔象(もうしょう)に得たり:

転輪聖王は多くの兵隊の中で軍功抜群の者に髻中の明珠を与えるというが

参禅修行者においても同じ事だ。

坐禅三昧で悪戦苦闘豁然大悟した者に始めて如意宝珠が与えられる。

人人本具の如意宝珠は思想、概念、分別、妄想の眼がつぶれて

自分を忘れると必ず見つけることができる。

枢機(すうき): 枢は車の車軸がはまるところ。枢機は大切な働きのこと。

明眼の衲僧(のうそう): 聡明叡智を有する禅僧。

鹵奔(ろもう):大雑把にものを見ること。いいかげんなこと。

枢機(すうき)を転じ技倆を能くす。明眼の衲僧(のうそう)鹵奔(ろもう)なること無かれ:

重要な働きをして技倆の極に至って、始めて得た如意宝珠である。

大悟徹底した明眼の禅僧もいいかげんに考えて油断してはならない。


頌の現代語訳


如来蔵(=本来の面目)は是非を判断し、得失を明らかにする。

分かれば分かった通り、分からなければ分からない通り、

それが心と動作に反応して、そのとおりに手足が動く。

問答するのも、しないのもともに如来蔵(=本来の面目=脳)の立派な働きだ。

行住坐臥の働きも如来蔵(=本来の面目=脳)の立派な働きである。

転輪聖王は多くの兵隊の中で軍功抜群の者に髻中の明珠を与えるというが

参禅修行者においても同じ事だ。

坐禅三昧で悪戦苦闘豁然大悟した者に始めて如意宝珠が与えられる。

人人本具の如意宝珠は思想、概念、分別、妄想の眼がつぶれて自分を忘れた時、

罔象が見つけたように必ず見つけることができる。

重要な働きをして技倆の極に至って、始めて得た如意宝珠である。

大悟徹底した明眼の禅僧もいいかげんに考えて油断してはならない。




解釈とコメント


本則は魯祖(雲際師祖)と南泉普願の如来蔵(仏性)に関する問答である。

魯祖(師祖)が南泉に聞いた、

摩尼珠は誰でも持っているのだが誰も気づかず、如来蔵に収められていると言われています

如来蔵とはどのようなものでしょうか?」。

魯祖(師祖)は南泉に誰もが具有する如来蔵(仏性)とは何かと聞く。

この質問に対し、南泉は「私とあなたの間を往来するものがそうだ」と答える。

南泉は「今私とあなたの間を往来している問答が

そのまま如来蔵(仏性=脳)から出入りしているものではないか

と答えているのである。

これに対し、師祖は、「それでは往来しないものは何ですか?」と聞く。

南泉は、「それもまた如来蔵だよ」と答える。

師祖が「それでは往来しないものは何ですか?」と質問したのに対し、

南泉は、「問答しない時も頭(脳=仏性)の中で考えているからそれもやっぱり如来蔵だよ

と答えていることが分かる。

それでも分からなかった師祖は、「摩尼珠とはどんなものでしょうか?」としつこく聞く。

南泉は鈍感な師祖に、「師祖よ!」と呼びかける。

師祖は「はい!」と答える。

本来はこのダメ押しの呼びかけで「はい!」

と答えているものが如来蔵(仏性=脳)であることに気づくべきだが師祖は気付かない

そこで南泉は、「もういいよ!お前はわしの言ったことが分かっていない

と云って愚鈍な魯祖(雲際師祖)を突き放しているのである。

この問答からも如来蔵(仏性)とは脳あるいはその働きであることが分かる。


94soku

 第94則 洞山不安 



示衆:

下(しも)、上(かみ)を論ぜず、卑(ひ)、尊を動ぜず。

能く己を摂して他に従うと雖も、未だ軽を以て重を労すべからず。

四大不調の時如何が持養せん。


注:

下、上を論ぜず、卑尊を動ぜず: 下の者が尊い上の身分の者を批判したり、

卑しい者が尊を動かして乱してはならない。

能く己を摂して他に従うと雖も、未だ軽を以て重を労すべからず: 

下の者はよく己を修めて上の人に従うのは勿論のことであるが、

軽い地位にある者が重い地位にある人に心配をかけてはならない。

能く己を摂して他に従うと雖も、未だ軽を以て重を労すべからず: 

下の者はよく己を修めて上の人に従うのは勿論のことであるが、

軽い地位にある者が重い地位にある人に心配をかけてはならない。

四大不調の時: 身体が不調の時。病気の時。

四大不調の時如何が持養せん: 師家が病気になった時、

弟子達はどのようにお仕え申して師家に孝養をつくしたら良いだろうか。


示衆の現代語訳


下の者が尊い上の身分の者を批判したり、卑尊の秩序を動かし乱してはならない。

下の者はよく己を修めて上の人に従うのは勿論のことであるが、

軽い地位にある者が重い地位にある人に心配をかけてはならない。

それでは、師家が病気になった時、弟子達はどのように

お仕え申して師家に孝養をつくしたら良いだろうか。



本則:


洞山不安。僧問う、「和尚病む、還って病まざるものありや?」。

山云く、「有り」。

僧云く、「病まざるものは還って和尚を看るや否や?」。

山云く、「老僧他を看るに分あり

僧云く、「和尚他を看る時如何」。

山云く、「即ち病あることを見ず」。


注:

洞山:洞山良价(807〜869)。雲巌曇晟の法嗣。曹洞宗の開祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价 

病まざるもの: 下層脳(脳幹+大脳辺縁系、正位)。脳幹を中心とする下層脳(正位)

は生命脳であり本質的に(めったなことでは)病気にならない。

正位については洞山五位を参照 )。

老僧他を看るに分あり:

この老僧は病気にならないもの下層脳(脳幹+大脳辺縁系、正位)を指している。

病気にならない老僧(正位、下層脳)は親切で看病が上手だという意味。

病あることを見ず: 下層脳(正位)。脳幹を中心とする下層脳(正位)

は生命脳であり本質的に(めったなことでは)病気にならない。


本則の現代語訳:

洞山禅師が病気になった時、僧が聞いた、

和尚は病気でいらっしゃいますが、還って病気にならないものがあるでしょうか?」。

洞山は云った、

有るよ」。

僧は云った、

病気にならないものは還って和尚を看病するのでしょうか?」。

洞山は云った、

病気にならない老僧(正位=下層脳)は親切で看病が上手だよ

僧は云った、

和尚が彼(正位=下層脳)を看病する時はどうでしょうか?」。

洞山は云った、

彼(正位=下層脳)が病気になることはないよ」。



臭皮袋(しゅうひたい)を卸却(しゃきゃく)し、赤肉団(しゃくにくだん)を拈転(ねんてん)す。

当頭(とうとう)鼻孔(びくう)正しく、直下(じきげ)髑髏乾く。

老医従来の癖(へき)を見ず、小子、相看て向近(こうきん)すること難し。

野水(やすい)痩(や)する時秋潦(しゅうりょう)退き、白雲絶ゆる処旧山(きゅうざん)寒し。

須らく剿絶(そうぜつ)すべし。蹣捍(まんかん)すること莫れ。

無功(むこう)を転尽(てんじん)して、伊(かれ)位(くらい)に就く。

孤標(こひょう)、汝と盤(ばん)を同じうせず。


注:

 臭皮袋(しゅうひたい): 我々の肉体。身体。

卸却(しゃきゃく): 脱却。身体に充ちた臭穢をおろしつくすこと。

赤肉団(しゃくにくだん): 肉体。

 拈転: ひっころがすこと。

臭皮袋(しゅうひたい)を卸却(しゃきゃく)し、赤肉団(しゃくにくだん)を拈転す:

肉体にとらわれず、肉体を自由に使いこなす。

 当頭: 当面。

 髑髏乾く: 乾燥した髑髏のように分別妄想も枯れ果てた。

当頭鼻孔正しく、直下髑髏乾く: 即今、

直下の生きた事実を直視することができれば、

乾燥した髑髏のように分別妄想も枯れ果てた人になる。

老医: 絶対に病気をしない正位(=下層脳=生命脳)。

 癖: 病癖。

従来の癖を見ず: 無病息災である。

小子: 偏位(上層脳)。ストレスに弱い偏位(上層脳=理知脳)は病気になり易い。

これを小子になぞらえている。

小子、相看て向近すること難し: 偏位(上層脳)と正位(=下層脳=生命脳)は

二つが別々のものであれば向近することもできるが、

元来別々のものでないから向近のしようもない。

 老医: 絶対に病気をしない生命脳である正位(=下層脳)。

老医、従来の癖を見ず。小子、相看て向近すること難し: 絶対に病気をしない生命脳

である正位(=下層脳)は無病息災である。

偏位(上層脳)と正位(=下層脳=生命脳)は二つが別々のものであれば向近することもできるが、

元来別々のものでないから離背や向近のしようもない。

秋潦: 秋の大水。

野水痩する時秋潦退き、白雲絶ゆる処旧山寒し: 秋も終わり頃になると、

川の水も涸れ大水も引く。

空も晴れ渡り山の木々も落葉してひとしお寒さを感じられる。

 剿絶(そうぜつ): 断ち切ること。根絶やしにすること。

 蹣捍(まんかん): ごまかすこと。欺くこと。

須らく剿絶(そうぜつ)すべし。蹣捍(まんかん)すること莫れ: 分別妄想を

須らく断ち切らないといけない。自らを欺いてはならない。

中途半端な悟りに腰掛けて満足してはだめだ。

無功: 大悟徹底の境地を功位という。功位から共功位、共功位から最後の功功位に進む。

功功位は無功とも呼ばれる(図8を参照)。

 孤標: 孤高。

 無功を転尽して、伊位に就く。孤標、汝と盤を同じうせず: 大悟徹底の功位から共功位、

共功位から最後の功功位に進む。

彼はずば抜けて高い孤高の境地に至るのだ。

そのずば抜けて高い孤高の境地は汝等凡人と基盤が同じではないことを知らないとならない。


頌の現代語訳


肉体にとらわれず、肉体を自由に使いこなす。即今、直下の生きた事実を直視することができれば、

乾燥した髑髏のように分別妄想も枯れ果てた人になるだろう。

絶対に病気をしない生命脳である正位(=下層脳)は無病息災である。

偏位(上層脳)と正位(=下層脳=生命脳)は二つが別々のものであれば向近することもできるが、

元来別々のものでない(一つのものである)から離背や向近のしようもない。

秋も終わり頃になると、川の水も涸れ大水も引く。

空も晴れ渡り山の木々も落葉してひとしお寒さを感じられる。

須らく、分別妄想を断ち切らないといけない。自らを欺いてはならない。

中途半端な悟りに腰掛けて満足してはだめだ。

大悟徹底の功位から共功位、共功位から最後の功功位に進む。

彼はずば抜けて高い孤高の境地に至るのだ。

そのずば抜けて高い孤高の境地は汝等凡人と基盤が同じではないことを知らないとならない。



」に出た功位、共功位、功功位、無功の境地を次の図8で分り易く説明する。



無功

図8 功位、共功位、功功位、無功の境地 




解釈とコメント


   

本則は「無門関」や『碧巌録』にも見られない。いかにも曹洞禅的な公案と言えるだろう。

上述のように、本則も脳科学的観点から解釈した方が分かり易い。


95soku

 第95則 臨済一画  



示衆:

仏来たるも也た打し、魔来たるも也(ま)た打す。

理有るも三十、理無きも三十。

為(は)た復(また)是れあやまって怨讐(おんしゅう)を認めるか。

為(は)た復(また)是れ良善(りょうぜん)を分たざるか。

試みに道え、看ん。


注:

仏来たるも也た打し、魔来たるも也た打す: 仏が来ても打ち、魔が来てもまた打つ。

この言葉は臨済禅の特徴を表す言葉だといえる。

 三十: 三十棒(さんじゅう‐ぼう)のこと。「三十」は数多いという意味。

禅宗(特に臨済宗)で、師が修行者を警策で激しく打って、正しい道へ教え導くこと。

また、そのような厳しい教導。痛棒のこと。

 理有るも三十、理無きも三十: 理があろうが、なかろうが三十棒を食らわす。

為(は)た復(また)是れあやまって怨讐を認めるか、為(は)た復(また)是れ良善を分たざるか。試みに道え、看ん:

これは師家が修行者を怨んで叩くのだろうだろうか。あるいは善悪の見境もなく叩くのだろうだろうか。

試しに言ってみなさい。見てあげよう。


示衆の現代語訳


臨済は仏が来ても打ち、魔が来てもまた打つ。

理があろうがあるまいが三十棒を食らわす。

これは師家が修行者を怨んで叩くのだろうだろうか。

あるいは善悪の見境もなく叩くのだろうだろうか。

それが分からないなら、次の公案を参究せよ。 


本則:

臨済、院主に問う、「甚の処よりか来たる?」。

主云く、「州中に黄米を売り来たる」。

済云く、「糶得(ちょうとく)し尽くすや?」。

主云く、「糶得し尽くす」。

済柱杖を以て一画して云く、「還って這箇を糶得(ちょうとく)せんや?」。

主便ち喝す。

済便ち打つ。次に典座至る、前話を挙す。

座云く、「院主和尚の意を会せず」。

済云く、「爾亦作麼生?」。

座便ち礼拝す。済亦打つ。


注:

臨済: 臨済義玄(?〜867)。中国唐の禅僧で、臨済宗の開祖。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →百丈懐海 →黄檗希運→臨済義玄  

院主: 寺の事務長。

黄米: 玄米。

糶得(ちょうとく)し尽くす: 売り尽くす。

すべてを売り尽くして、迷悟凡聖、仏見法見、1粒も残っていません。

這箇: 頭の中に持っている仏見法見などの分別妄想、妄執。

還って這箇を糶得(ちょうとく)せんや?: すべてを売り尽くしたと言うが、

まだこんなものが残っていないか?

典座(てんぞ): 禅宗寺院で、大衆の斎飯などの食事をつかさどる役職。



本則の現代語訳:


臨済が院主に聞いた、

どこから来たのか?」。

院主は云った、

州中に玄米を売って来ました」。

臨済は云った、

売り尽くしたか?」。

院主は云った、

すべて売り尽くして来ました」。

臨済は柱杖を以て一画して云った、

すべてを売り尽くしたと言うが、まだこんなものが残っていないか?」。

これを聞いた院主は直ちに喝した。

臨済は院主を打った。

院主は典座和尚の処に行って、臨済との問答を話した。

典座は云った、

あなたは臨済和尚の真意が分かっていませんよ」。

臨済は云った、

お前さんはどうなんだい?」。

典座は臨済をうやうやしく礼拝した。臨済は典座をサッと打った。



臨済の全機(ぜんき)格調(かくちょう)高し。

棒頭(ぼうとう)に眼あり、秋毫(しゅうごう)を弁ず。

狐兎(こと)を掃除(そうじょ)して家風俊(しゅん)なり。

魚竜(ぎょりゅう)を変化(へんげ)して電火(でんか)焼く。

活人剣(かつにんけん)殺人刀(せつにんとう)。

天に倚(よ)って雪を照らし吸毛(すいもう)より利(と)し。

一等に令行(れいぎょう)して慈味(じみ)別なり。

十分の痛処(つうしょ)是れ誰か遇(あ)わん。


注:

全機: 素晴らしいはたらき。

秋毫: 秋に抜け替わった、獣のきわめて細い毛の意から》きわめて小さいこと。

微細なこと。わずかなこと。いささか。

臨済の全機格調高し。棒頭に眼あり、秋毫を弁ず: 臨済の素晴らしい働きは格調が高い。

あたかも棒に眼あるかのように、少しの誤りも見逃すことがない。

狐兎: 狐や兎のような小人物。

狐兎を掃除して家風俊なり: :臨済禅師の峻厳巧妙で適切な指導は

狐兎のような小物の分別妄想をすっかり掃除してしまう。

魚竜を変化して電火焼く:龍門の滝で、電火が鯉の尾を焼くと鯉が竜に変化して昇天すると言われる。

そのように臨済禅師の適切な摂化によって鯉のような小物も大物(竜)に変化する。

吹毛: 吹毛剣(すいもうけん)。

吹毛剣(すいもうけん): 髪の毛を剣に吹きかけるとそれだけで髪の毛が切れてしまうという剣のこと。

よく切れる名剣のこと。

碧巌録第100則を参照 )。

活人剣殺人刀、天に倚って雪を照らし吸毛より利(と)し:

臨済の棒喝は活殺自在の剣のようだ。抜き身の刀身がピカリと寒天に光って雪を照らし、

切れ味は吹毛剣よりもすざましい。

一等に: 同等に。

一等に令行して慈味別なり: 臨済は院主と典座和尚に対し

同等に摂化しているがその味わいは格別なものがある。

十分の痛処是れ誰か遇わん: 臨済の棒喝の痛処に徹して

その真意を分かる者がどれくらいいるだろうか。


頌の現代語訳


臨済の素晴らしい働きは格調が高い。

あたかも棒に眼あるかのように、少しの誤りも見逃すことがない。

臨済禅師の峻厳巧妙で適切な指導は狐兎のような小物の分別妄想をすっかり掃除してしまう。

龍門の滝で、電火が鯉の尾を焼くと鯉が竜に変化して昇天すると言われる。

そのように臨済禅師の適切な摂化によって鯉のような小物も大物(竜)に変化する。

 そのように臨済禅師の適切な摂化によって鯉のような小物も大物(竜)に変化する。

臨済の棒喝は活殺自在の剣のようだ。

 抜き身の刀身がピカリと寒天に光って雪を照らし、切れ味は吹毛剣よりもすざましい。

臨済は院主と典座和尚に対し同等に摂化しているがその味わいは格別なものがある。

臨済の棒喝の痛処に徹してその真意を分かる者がどれくらいいるだろうか。 


解釈とコメント


   

臨済が院主に聞いた「どこからきたのか?」という質問は場所を聞いているのではない。

あなたの本来の自己とは何か?」と聞いているのである。

これは本来の自己を場所になぞらえた借事問である(借事問については無門関15則を参照)。

無門関15則を参照 )。

院主の「州中に玄米を売って来ました」という返答は

院主が臨済の質問の真意を分かっていないことを示している。

院主は禅の目的が「本来の自己」を究明することであることが分かっていない

のである。

米の売買の話に脱線してしまったのが分かった臨済は本来の禅問答に戻そうとして、

柱杖を以て一画して、「すべてを売り尽くしたと言うが、まだこんなものが残っていないか?」と云う。

臨済は柱杖を以て一画して、

自分は「本来の自己」の話をしていることを院主に伝えようとした。

しかし、院主は「カアーッ!

と一喝するという定型的な返答しかできない。

院主が本当に悟っていないことを見破った臨済は院主を打ったのである。

院主は臨済との問答を典座和尚に話した。

典座和尚は、「あなたは臨済和尚の真意が分かっていませんよ」と云ったのは

臨済が本来の面目について質問したのに、

院主はその真意が分からずトンチンカンな返答をしたことを指摘したのである。


96soku

 第96則 九峰不肯   



示衆

雲居(うんご)は戒珠(かいじゅ)舎利を憑(たの)まず。

九峰は坐脱(ざだつ)立亡(りゅうぼう)を愛さず。

牛頭(ごず)は百鳥花を啣(ふく)むことを要さず。

黄檗(おうばく)は杯を浮かべて水を渡ることを羨(うらや)まず。

且らく道え何の長処かあるや。


注:

雲居: 雲居道膺(?〜902)。洞山良价の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价→雲居道膺  

九峰:  九峰道虔。石霜慶諸(807〜888)の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→薬山惟儼→道吾円智→石霜慶諸 →九峰道虔

戒珠:舎利。霊骨。 宝石のような丸い粒。

雲居は戒珠舎利を憑(たの)まず:

雲居道膺禅師は宝石のような丸い粒である舎利を特別にありがたいものとは思わなかった。 

坐脱: 坐ったまゝ死ぬこと。

立亡(りゅうぼう):立ったまゝ死ぬこと。  

九峰は坐脱立亡を愛さず: 九峰道虔禅師は坐脱立亡をすばらしいとは思わなかった。

牛頭:牛頭法融(ごずほうゆう、594〜657)。

 中国禅の第四祖道信禅師の法嗣で牛頭(ごず)宗の開祖。

牛頭は百鳥花を啣(ふく)むことを要さず:

牛頭法融禅師には百鳥が花を啣(ふく)んで献上したと伝えられるが、

それが特別すばらしくもてはやすことでもない。

黄檗は杯を浮かべて水を渡ることを羨まず: 黄檗希運禅師は

水上に笠を浮かべてそれに乗って河を渡るという神通力を少しも評価しなかった。 


示衆の現代語訳


雲居道膺禅師は宝石のような丸い粒である舎利をありがたいものとは思わなかった。

九峰道虔禅師は坐脱や立亡をすばらしいとは思わなかった。

牛頭法融禅師には百鳥が花を啣(ふく)んで献上したと伝えられるが、

それは特別すばらしくもてはやすことでもない。

黄檗希運禅師は水上に笠を浮かべてそれに乗って河を渡るという神通力を少しも評価しなかった。

それではこのようなものよりもっと価値ある優れたものが何かあるだろうか。



本則

九峰、石霜に在って侍者と作る。霜遷化の後、衆、堂中の首座を請して住持を接続せしめんと欲す。

峰肯(うけが)わず。乃ち云く、

某甲が問過せんを待て、若し先師の意を会せば先師の如くに侍奉せん」。

遂に問う、「先師道わく、休し去り、喝し去り

一念万年にし去り、寒灰枯木にし去り、一条白練にし去ると、且らく道へ甚麼辺の事を明かすや?」。

座云く、「一色辺の事を明かす」。

峰云く、「恁麼ならば未だ先師の意を会せざるあり」。

座云く、「汝我を肯わざるや、香を装い来たれ」。

座乃ち香を焚いて云く、「我れ若し先師の意を会せずんば、香煙起こる処脱し去ることを得じ」。

云い訖って便ち坐脱す。

峰乃ち其の背を撫して云く、「坐脱立亡は則ち無きにはあらず、先師の意は未だ夢にも見ざるなり」。


注:

九峰: 九峰道虔。石霜慶諸(807〜888)の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→薬山惟儼→道吾円智→石霜慶諸 →九峰道虔

石霜: 石霜慶諸(せきそうけいしょ、807〜888)。道吾円智の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→薬山惟儼→道吾円智→石霜慶諸 

堂中の首座: 坐禅堂中の首席。第一座。

一色辺の事: 平等一色の悟りの世界。下層脳(無意識脳)の世界。

一色辺の事を明かす: 平等一色の悟りの世界(下層無意識脳の世界)を明かしている。

脱し去る: 死ぬ。

坐脱す: 坐ったまま死んだ。坐亡した。

ただし、この場合は本当に死んだのではなく無心定に入って仮死状態になった。


本則の現代語訳


九峰は石霜のところで侍者となった。

石霜が遷化した後、大衆は堂中の首座を新住持として石霜の後を継がせようとした。

しかし、九峰はそれに反対して云った、

私が首座に質問してテストをするから少し待って下さい

もし、首座が先師石霜禅師の精神を分かっているならば

新住持として先師のように仕えることにしたい」。

そこで九峰は首座に質問して言った、

先師石霜禅師は

『休し去り、喝し去り、一念万年にし去り、寒灰枯木にし去り、一条白練にし去る』と言われた

それではこの言葉はどんなことを明らかにしているのだろうか?」。

首座は云った、

平等一色の悟りの世界を明かしているのだ」。

九峰は云った、

それならあなたは未だ先師の真の精神を理解していない」。

首座は云った、

九峰さん、あなたは私を肯わないのか。それなら、香を用意して下さい」。

首座は香を焚いて、

もし私が先師の精神を会得していないならば

香煙がまだ消えない内に、坐亡することはできないだろう」。

と言い終わって坐脱した。

九峰は首座の背を撫でて云った、

お前さん、坐脱立亡ができても

そんなことでは、先師の真意を本当に理解しているとは言えないよ」。



石霜の一宗親しく九峰に伝う。

香煙(こうえん)に脱し去り、正脈(しょうみゃく)通じ難し。

月巣(げっそう)の鶴は千年の夢を作(な)し、雪屋(せつおく)の人は一色(いっしき)の功に迷う。

十方を坐断するも猶点額(てんがく)す。密に一歩を移さば飛竜を見ん。


注:

石霜の一宗親しく九峰に伝う: 石霜慶諸の禅は九峰に親しく伝えられた。

香煙に脱し去り、正脈通じ難し:

首座和尚は香煙がまだ消えない内に、坐亡したが

そんなことでは石霜慶諸の禅が伝えられたと言うことはできないだろう。

月巣の鶴: 高い松の木に巣を作っている鶴。九峰をなぞらえている。

雪屋の人: 白一色の雪の中に潜り込んで、平等一色の悟りの世界だけを見ている悟り病の人。

首座和尚をなぞらえている。

月巣の鶴は千年の夢を作し、雪屋の人は一色の功に迷う:

高い松の木に巣を作っている鶴のような九峰は千年先の長い夢を見ているが、

雪屋の人である首座和尚は一色辺の悟り病に落ちて、動きがとれない。

点額: 鯉が滝を昇る途中で岩に額をぶつけること。

鯉が黄河上流にある禹門という龍門の滝を登り切るとことで、

鯉は龍となり、天に昇っていくという伝説に基づいている。

その滝は 三段の水流になっていることから禹門(うもん)三級の滝と呼ばれる。

十方を坐断するも猶点額す: 首座和尚は十方を坐断して平等一色の悟りの世界にいるが、

それは鯉が龍門の滝を登り切る途中で岩に額をぶっつけているようなものだ。

密に: 親密に。

密に一歩を移さば飛竜を見ん: あと一歩思い切って前に踏み出すことができれば

たちまち飛竜となって真の悟りの世界に入ることができるだろう。  

頌の現代語訳


石霜慶諸の禅は九峰に親しく伝えられた。

首座和尚は香煙がまだ消えない内に、坐亡したが

そんなことでは石霜慶諸の禅が伝えられたと言うことはできないだろう。

高い松の木に巣を作っている鶴のような九峰は千年先の長い夢を見ているが、

雪屋の人である首座和尚は一色辺の悟り病に落ちて、動きがとれない。

首座和尚は十方を坐断して平等一色の悟りの世界にいる。

それは龍門の滝を登る鯉が滝を登り切る途中で岩に額をぶっつけているようなものだ。

あと一歩思い切って前に踏み出すことができれば

たちまち飛竜となって真の悟りの世界に入ることができるだろう。


解釈とコメント


   

本則は潭州(湖南省長沙市)石霜山の石霜慶諸(せきそうけいしょ、807〜888)が遷化した後、

首座和尚を石霜山の新しい住持に拝請しようという問題が起こった。

その時の九峰道虔と首座和尚の禅問答がテーマとなっている。

本則と頌では「先師の意(石霜慶諸の真精神)」や「石霜の一宗」という言葉が出ている。

これについては次の「石霜の七法」が知られている。


「石霜の七法」について


   

石霜の七法」は次の七つである。

1.休し去る。(妄想分別を休止すること)。


2.歇し去る(妄想分別を抛つこと)。


3.一念で万年にし去る(時間を超越した無心の状態になる)。


4.寒灰枯木にし去る(心に一点の妄想の熱気もない状態になる)。


5.古廟香炉にし去る

(古廟の香炉には誰も焼香しないことから、心に妄想の熱気がない状態になる)。


6.冷湫湫地にし去る(冷ややかな地のように煩悩の熱気がなくなる)。


7.一條白練にし去る(心が清浄潔白で一点の煩悩もなくなる)。


以上の七つが「石霜の七法」である。


九峰は首座に向かって、

先師石霜禅師は、『休し去り、喝し去り、一念万年にし去り、寒灰枯木にし去り、一条白練にし去る』

と言われた

それではこの言葉はどんなことを明らかにしているのだろうか?」

と石霜慶諸の真精神とは何かと質問した。

しかし、首座和尚は「平等一色の悟りの世界を明かしている」と答えるだけで、

石霜慶諸の真精神とされる「石霜の七法」には一言も答えることができなかった。

このことから、九峰道虔によって石霜山の住持として失格であると判断されたことが分かる。

本則では「一色辺の悟りの世界(平等一色の悟りの世界=下層無意識脳の世界)」

が分かっているだけではだめで、

石霜の七法」に示される精神を真に体得していない限り住持失格である

と言っている。


97soku

 第97則 光帝ぼく頭   



示衆:

達磨梁武(りょうぶ)に朝(ちょう)す。

本、心を伝えんが為なり。

塩官(えんかん)大中(だいちゅう)を識る。

眼を具することを妨げず。

天下太平国王長寿と云って天威を犯さず。

日月景(ひかり)を停め四時和適(わてき)すと云って風化を光(あき)らかにすることあり。

人王と法王との相見(しょうけん)、合(まさ)に何事か談ずべき。


注:

梁武: 梁の武帝。蕭衍(しょう えん、464年 - 549年)は、南朝梁の初代皇帝。

深く仏教を信仰し、戒律を守り、自ら「三宝の奴」(仏法僧に 帰依する意味)と称した。

「碧巌録」第一則を参照 )。

達磨梁武に朝す。本、心を伝えんが為なり: 達磨大師は中国にやって来て梁の武帝と相見した。

それは仏心印(真実の仏法)を伝えるためであった。

塩官: 塩官斉安。馬祖道一の法嗣。 

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →塩官斉安

大中: 唐の宣宗皇帝(第19代皇帝、在位:846年 - 859年)の若い時代の名前。

塩官大中を識る。眼を具することを妨げず。: 若い時代の宣宗を

ただ者ではないと見抜いていた塩官斉安禅師はさすがに眼を具している。

天下太平国王長寿: 昔インドに馬鳴(めみょう)という智慧と弁舌に優れた外道がいた。

 彼と西天第10祖の脇尊者(きょうそんじゃ)が国王の前で法論をすることになった。

西天第28祖について参照 )。

脇尊者は国王の前での法論であるから穏やかな態度で法論をしたいと願い、

私は老年で、遠方から来たから、静かにここで坐っています。どうかあなたから先に語って下さい

と言った。

すると馬鳴は、「あなたが先に主張してください。私がことごとく論破して見せましょう

と言った。

脇尊者は「只今は天下太平、大王長寿。国土豊楽。無諸災患」と言った。

これに対し、さすがの馬鳴も異議を唱えず黙ってしまったと言う。

天下太平国王長寿」という言葉はこの故事に基づくと言われる。

天下太平国王長寿と云って天威を犯さず:西天第10祖の脇尊者は「天下太平国王長寿

と云って天子の権威を犯さなかったと伝えられる。

日月景(ひかり)を停め四時和適す:この言葉は

傅大子(ふだいし、中国、南北朝時代の在俗仏教者、497〜569)の言葉と伝えられる。

日月景(ひかり)を停め四時和適すと云って風化を光らかにすることあり:  

傅大子は梁の武帝の前で「日月景を停め四時和適す」と言って武帝の徳を賛嘆したと伝えられる。

人王と法王との相見、合(まさ)に何事か談ずべき:

国王と法王が相見した時、どのような事を談ずべきだろうか。


示衆の現代語訳


達磨大師は中国にやって来て梁の武帝と相見した。

それは仏心印(真実の仏法)を伝えるためであった。

若い時代の宣宗をただ者ではないと見抜いていた

塩官斉安禅師はさすがに人を見る眼を持っている。

西天第10祖の脇尊者は「天下太平国王長寿

と云って天子の権威を犯さなかったと伝えられる。 

傅大子は梁の武帝の前で「日月景を停め四時和適す

と言って武帝の徳を賛嘆したと伝えられる。

国王と法王が相見した時、どのような事を論談すべきだろうか。


本則:

同光帝、興化に謂って日く、「寡人中原の一宝を収め得たり、只是れ人の価を報ゆるなし」。

化云く、「陛下の宝を借せよ看ん」。

帝、両手を以てぼく頭脚を引く。

化云く、「君王の宝誰か敢えて価を酬いん」。


注:

同光帝: 後唐荘宗帝(在位:923〜926)。

興化: 興化存奨(830〜888)。臨済義玄の法嗣。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →百丈懐海 →黄檗希運→臨済義玄→興化存奨

寡人: 天子の自称で謙遜の意味をもつ言葉。

中原: 天下。

中原の一宝:天下一の宝。

人の価を報ゆるなし: 人が値段を付けることができない。

陛下の宝を借せよ看ん: 陛下が得たと言われる宝を拝見いたしましょう。

ぼく頭脚: かぶと頭巾の紐。

君王の宝誰か敢えて価を酬いん:

君王の宝に誰か敢えて値段を付けて値踏みすることができるだろうか。


本則の現代語訳

同光帝が興化存奨に云った、

私は天下一の宝を得ることができた

ただ誰もこの宝ものに値段を付けることができないのが残念だ」。

興化は云った、

それでは陛下が得たと言われる宝を拝見いたしましょうか」。

同光帝は、かぶと頭巾の紐を両手で引っ張って竜顔をニューッとつき出した。

興化は云った、

これは、これは見事な宝物です

このような君王の宝ものに誰が値段を付けて値踏みすることができるでしょうか」。



君王の底意(ていい)知音(ちいん)に語る。

天下誠(まこと)を傾く葵霍(きかく)の心。

テッ出(てっすい)す中原無価(むげ)の宝。

趙壁(ちょうへき)と燕金(えんきん)とに同じからず。

中原の宝、興化に呈す。

一段の光明価を定め難し。

帝業万世の師となるに堪えたり。

金輪(こんりん)の景(けい)は四天下に輝く。


注:

 君王: 同光帝。後唐の荘宗帝(在位:923〜926)。

 底意: 真意。

 知音: 荘宗帝の友人である興化存奨。

君王の底意知音に語る: 荘宗帝は自分の真意を知音である興化存奨に語った。

葵霍(きかく): ひまわりの花。

天下誠を傾く葵霍の心: 天下の民心は仏心を持つひまわりの花のような荘宗帝に傾いている。

テッ出(てっすい) 取り出して見せること。

無価の宝: 無限の価値をもつ宝。

テッ出(てっすい)す中原無価の宝: 

荘宗帝は無限の価値をもつ天下一の宝を取り出して見せつけた。

 趙壁: 趙氏連城の玉器。

燕金: 燕の昭王が千金を台上に置いて天下の士を招いたという黄金のこと。

趙璧と燕金とに同じからず: 趙氏連城の玉器

や燕の昭王の黄金という物質的な宝とは同じではない。

中原の宝、興化に呈す: 

荘宗帝は無限の価値をもつ天下一の宝を取り出して興化存奨に見せつけた。

一段の光明、価を定め難し: 

荘宗帝と興化存奨は知音同志だからその宝は一段の光明を放ち、その値段をつけにくい。

帝業万世の師となるに堪えたり: 

聖天子の治世は万世の模範になることができる。

 金輪: 金輪聖王。須弥山の4州を統治する王。転輪聖王(てんりんじょうおう)。

 景: 光明。

四天下: 彌山(しゅみせん)を中心とし四大陸のこと。

金輪の景は四天下に輝く。: 四天下を統治する金輪聖王の徳化と光明は世界に輝く。


頌の現代語訳


荘宗帝は自分の真意を知音である興化存奨に語った。

天下の民心は仏心を持つひまわりの花のような荘宗帝に傾いている。

荘宗帝は無限の価値をもつ天下一の宝を取り出して見せつけた。

それは、趙氏連城の玉器や燕の昭王の黄金など物質的な宝とは違う。

荘宗帝は無限の価値をもつ天下一の宝を取り出して興化存奨に見せつけた。

荘宗帝と興化存奨は知音同志だからその宝は一段の光明を放ち、その値段をつけにくい。

聖天子の治世は万世の模範となり、

四天下を統治する金輪聖王の偉大な徳化の光明のように世界に輝いている。




解釈とコメント



本則は荘宗帝と友人の興化存奨の問答である。

荘宗帝は、かぶと頭巾の紐を両手で引っ張って竜顔をニューッとつき出すことで

自己本来の面目」を興化存奨に示した。

これより、「自己本来の面目」や「仏性

とは喜怒哀楽の感情を自由に示す脳神経系であることが分かる。

禅は人間を素直に肯定し信頼する脳中心の人間観に基づく合理的宗教である

ことが分かる。

勿論、荒削りの人間存在をそのまま、肯定し信頼するのではない。

厳しい参禅修行を通過した人間を肯定し信頼することはいうまでもないだろう。

本則で気になるのは荘宗帝と友人の興化存奨の在世時代の食い違いである。

興化存奨の在世時代は830〜888である。

一方、荘宗帝の在世時代は885〜926である。

荘宗帝が子供の時(3歳の時)興化存奨はすでに死亡している。

従って、荘宗帝が禅を通して興化存奨を知ることは殆ど不可能といって良い。

本則はそのような問題点を含んでいる。

本則のような、荘宗帝と興化存奨の問答はありえないと否定するよりは素直に信じて、

本則の真意を考えた方が良いだろう。



98soku

 第98則  洞山常切   



示衆:

九峰は舌を截(き)って石霜に追和(ついわ)し、曹山は頭を斫(き)って洞嶺に辜(そむ)かず。

古人三寸、恁麼(いんも)に密なることを得たり。 

且(しば)らく為人(いにん)の手段甚麼(なん)の処に在るや。


注:

 「九峰は舌を截(き)って石霜に追和し、曹山頭を斫(き)って洞嶺に辜(そむ)かず」: 

これは以下の様な故事に基づいている。

ある僧が石霜慶諸に「祖師西来意」について質問した時石霜は歯を噛んで口を開かなかった。

石霜は「祖師西来意」について言葉で表現することはできないということを

歯を噛み口を閉じることで示したのである。

石霜が遷化した後、石霜の法嗣である九峰道虔に対しある僧が聞いた、

『祖師西来意(禅の第一義)とは何か?』と質問された時

石霜禅師は歯を噛んで口を開かなかったと言われます

どうして石霜禅師は歯を噛んで口を開かなかったのですか?」。

この質問に対し、九峰は、「おれは舌を截(き)られても口を開かんよ

と云った。

曹山については次のような故事がある。

ある僧が洞山に聞いた、「三身のうち、那の一身か諸数に堕せざる?」。

これに対し洞山は「吾れ常に此において切なり」と答えた。

質問僧はこの洞山の答えの意味が分からなかった。

洞山の死後、この僧は

曹山に「先師洞山大師が「吾れ常に此において切なり」と仰せになったご精神を教えて下さい

と言った。

これに対し曹山は「頭を要せば斫(き)り持ち去れ」と答えた。

この言葉は「吾れ常に此において切なり」という洞山の言葉は

「「私はこの問題に対して常に命がけで向き合っている

という意味だということを表している。

このような故事を考慮に入れると

九峰は舌を截(き)って石霜に追和し、曹山頭を斫(き)って洞嶺に辜(そむ)かず。」

はつぎのようになるだろう。

九峰は、「おれは舌を截(き)られても口を開かんよ

と言うことで石霜の精神を示した。

また曹山は「頭を要せば斫(き)り持ち去れ

と言って先師洞山大師の精神に背かなかった。

三寸: 舌先三寸。

 密: 綿密。

 古人三寸、恁麼に密なることを得たり: 古人は舌先三寸で法を説くのに綿密適切であった。

 且(しば)らく為人の手段甚麼の処に在るや:

それではどこに為人摂衆のすぐれた手段があるのだろうか。


示衆の現代語訳


九峰は、「おれは舌を截(き)られても口を開かんよ」と言って石霜の精神を示した。

また曹山は「頭を要せば斫(き)り持ち去れ」と言って先師洞山大師の精神に背かなかった。 

このように、古人は舌先三寸で綿密適切に法を説いたのである。

それでは彼等のどこに為人摂衆のすぐれた手段があるのだろうか。

 次の公案を参究せよ。


本則:

僧洞山に問う、「三身の中(うち)那身か諸数に堕せざる?」。

山云く、「吾れ常に此に于(お)いて切なり」。


注:

洞山:洞山良价(807〜869)。雲巌曇晟の法嗣。曹洞宗の開祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价   

三身: 法身、報身、応身の三身仏のこと。

大乗仏教2、三身仏の思想を参照 )。

「三身の中(うち)那身か諸数に堕せざる?」:

三身仏のうちどれが単なる数に堕していないでしょうか?

三身仏とは法身仏、報身仏、応身仏の三つであるが

これを単なる数だと見るようなことに堕していないでしょうか?

禅の見地からいえば法身仏、報身仏、応身仏の三身仏は夫々が別個のものではなく、

一体となって自己に具わっている<一体三身の自性仏>である

と考えるのが六祖慧能以来の思想である。

禅の思想3.14一体三身の自性仏を参照 )。

「六祖壇経」自性の三身仏を参照 )。


本則の現代語訳:


ある僧が洞山に聞いた、

三身仏のうちどれが単なる数に堕していないでしょうか?」。

洞山は云った、

私はこの問題については常に真剣に向き合っているよ」。



世に入らず、未だ縁に循(したが)わず。

劫壺空処(こうこくうしょ)に家伝(かでん)有り。

白蘋(はくひん)風は細やかなり秋江(しゅうこう)の暮れ。

古岸(こがん)舟は帰る一帯の煙。


注:

世に入らず、未だ縁に循(したが)わず: 世俗の分別妄想の世界にはいない。

劫壺空処(こうこくうしょ):本来無一物の健康な脳の状態。

家伝: 曹洞禅の宗風。

劫壺空処(こうこくうしょ)に家伝有り: 本来無一物の健康な脳が曹洞禅の宗風である。

白蘋(はくひん): 白い花の浮き草。



浮き草

図9  白い花の浮き草。 



白蘋(はくひん)風は細やかなり秋江の暮れ:

河に浮かぶ浮き草の白い花に風がそよそよと吹いてくる風が心地良い秋の夕暮れだ。

煙: 霞。

古岸舟は帰る一帯の煙:

古岸に沿って吾が家に帰る舟のあたり一帯は霞がかかってはっきりと見分けがつかない。


頌の現代語訳


世俗の分別妄想の世界にはいない。本来無一物の健康な脳が曹洞禅の宗風である。

河に浮かぶ浮き草の白い花に風がそよそよと吹いてくる風が心地良い秋の夕暮れだ。

古岸に沿って吾が家に帰る舟のあたり一帯には霞がかかってはっきりと見分けがつかない。

そのように真の自己は霞がかかってはっきりと見分けがつかないようなところがある。


解釈とコメント


   

三身の中(うち)那身か諸数に堕せざる?」という僧の質問は

三身仏とは法身仏、報身仏、応身仏の三つであるが

この三身仏を単なる数だと見るようなことに堕していないでしょうか?」という質問になる。

伝統的な禅の見地からいえば法身仏、報身仏、応身仏の三身仏は夫々が別個のものではなく、

一体となって自己に具わっている<一体三身の自性仏>である

と考えるのが六祖慧能以来の思想である。

禅の思想3.14一体三身の自性仏を参照 )。

この考え方は六祖慧能→黄檗希運→臨済義玄に至っている。

「臨済録」その1:示衆1-3を参照 )。

洞山の返答「私はこの問題については常に真剣に向き合っているよ」とは

私は<一体三身の自性仏>については常に真剣に向き合い

仏身を三つに分けるようなことはしていない

と言っている。

本則は六祖慧能以来の思想である<一体三身の自性仏>について考える公案だ

と考えることができる。

「六祖壇経」自性の三身仏を参照 )。



99soku

 第99則 雲門鉢桶    




示衆:

棋(き)に別智あり、酒に別腸あり。

狡兎(こうと)三穴、猾胥(かっしょ)万倖(ばんこう)。

箇のごう頭底あり。

且らく道え是れ誰ぞ。


注:

棋(き): 囲碁。

棋(き)に別智あり、酒に別腸あり: 囲碁を打つことにかけては特別頭が働く人もいれば、

酒飲みの胃腸は特別のように見えることもある。 

狡兎(こうと): 兎。

三穴: 入り口と出口と抜け穴の三つ。 

猾胥(かっしょ): 手長猿。

万倖(ばんこう): 僥倖。思いがけない幸い。 

狡兎(こうと)三穴、猾胥(かっしょ)万倖(ばんこう): 兎は賢くて、

入り口と出口だけでなく抜け穴の三穴を掘るという。

手長猿には思いがけない幸運があるという。

ゴウ頭底: 考えてもよくわからない問題。 

箇のゴウ頭底あり: 禅問答には考えてもよくわからない問題がある。 


示衆の現代語訳


囲碁を打つことにかけては特別頭が働く人もおれば、

大酒飲みは特別の胃腸を持つように見えることもある。

兎は賢くて、入り口と出口だけでなく抜け穴の三穴を掘るという。

手長猿には思いがけない幸運があるという。

禅問答には考えてもよくわからないところがある。

それでは考えてもよくわからないようなことを言う人とは誰のことだろうか。

次の公案を参究せよ。


本則:

僧雲門に問う、「如何なるか是れ塵塵三味」。

門云く、「鉢裏飯(はつりはん)、桶裏水(つうりすい)」。


注:

雲門: 雲門文偃(864〜949)。雲門宗の祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→

徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃   

鉢裏飯(はつりはん): 鉢の中の飯。

桶裏水(つうりすい): 桶の中の水。


本則の現代語訳:

ある僧が雲門に聞いた、

塵々三昧とはどのようなものでしょうか」。

雲門は云った、

鉢の中の飯、桶の中の水」。



鉢裏飯(はつりはん)、桶裏水(つうりすい)。

口を開き胆(たん)を見(あら)わして知己(ちき)を求む。

思わんと擬(ぎ)すれば便(すなわ)ち二三機に落つ。

対面忽(たちま)ち千万里と成る。

韶陽師(しょうようし)些子(さし)に較(あた)れり。

断金(だんきん)の義、誰か与(とも)に相同じからん。

匪石(ひせき)の心独り能く此くの如し。


注:

鉢裏飯、桶裏水。口を開き胆を見はして知己を求む: 雲門は「鉢裏飯、桶裏水

と言って仏法を丸出しに見せて知己を求めている。

思はんと擬すれば便ち二三機に落つ。対面忽ち千万里と成る: 

ハテ何のことだろうと考えこんだりすると、

第二義や第三機義的な低レベルの解釈に落ちてしまうだろう。

それでは対面していながら千万里の距離を隔てるようなことになってしまう。

韶陽師: 韶陽は雲門山のある所。韶陽師は雲門文偃のこと。

些子(さし)に較(あた)れり: いささか当たっている。

韶陽師些子(さし)に較(あた)れり: 雲門大師のいうところはいささか当たっている。

これは言貶意揚の表現である。真意は「雲門大師のいうところは本当に当たっている」ということ。

 断金: 知音同志。

断金の義、誰か与に相同じからん:良い友人がいれば

金鉄をも断ち切るような力がでるというが、

そのような友人はどこにいるのだろうか?

匪石の心: 志の堅固なこと。

 匪石の心独り能く此くの如し: 志の堅固なことは雲門に優る者は誰もいない。


頌の現代語訳


雲門は「鉢裏飯、桶裏水」と言って仏法を丸出しに見せて知己を求めている。

ハテ何のことだろうと考えこんだりすると、第二義や第三義的な低レベルの解釈に落ちてしまうだろう。

それでは対面していながら雲門大師と千万里の距離を隔てるようなことになってしまう。

雲門大師のいうところは本当のことだ。

良い友人がいれば金鉄をも断ち切るような力がでるというが、そのような友人はどこにいるのだろうか?

志の堅固なことにかけては雲門に優る者は誰もいない。

しかし、誰もがそのような心を持っているのだ。


解釈とコメント


   

本則は「碧巌録」50則と同じである。

「碧巌録」50則を参照 )。


100soku

 第100則  瑯ヤ山河    




示衆:

一言以て邦を興すべく、一言以て邦を喪(ほろぼす)すべし。

此の薬又能く人を殺し亦能く人を活かす。

仁者は之を見て之を仁と謂い、智者は之を見て之を智という。

且らく道え利害甚麼(いずれ)の処にか在る。


注:

 邦: 仏国土。

一言以て邦を興すべく、一言以て邦を喪(ほろぼす)すべし : 

一言をもって仏国土を興すことができるが、

一言をもって仏国土を喪(ほろぼす)すことにもなる。

此の薬 : 一言。

此の薬又能く人を殺し亦能く人を活かす :

この一言はよく人を殺すこともできるが、また人を活かすこともできる。

仁者は之を見て之を仁と謂い、智者は之を見て之を智という : 

仁者はこれを活用して仁と言い、智者はこれを活用して智という。

 且らく道え利害甚麼の処にか在る : 

それではその長所短所はどこにあるのだろうか。


示衆の現代語訳


一言をもって仏国土を興すことができるが、一言をもって仏国土を喪(ほろぼす)すことにもなる。

この一言はよく人を殺すこともできるが、また人を活かすこともできる。

仁者はこれを活用して仁と言い、智者はこれを活用して智という。

それではその長所短所はどこにあるのだろうか。


本則:

僧瑯ヤの覚和尚に問う、「清浄本然(しょうじょうほんねん)云何忽生(うんがこっしょう)山河大地?」。

覚云く、「清浄本然(しょうじょうほんねん)云何忽生(うんがこっしょう)山河大地」。


注:

瑯ヤ(ろうや)の覚和尚 : 開化広照。汾陽善照禅師(947〜1024)の法嗣。

法系臨済義玄→興化存奨→南院慧ギョウ→風穴延沼→首山省念→汾陽善照 →開化広照  

清浄本然 : 清浄本然の如来蔵である仏性。清浄な仏性の性質を示す健康な脳。

「清浄本然(しょうじょうほんねん)云何忽生(うんがこっしょう)山河大地」 :

この言葉は首楞厳経巻四に仏が富樓那(ふるな)に答える言葉

富樓那、汝が言う所の如く、清浄本然(しょうじょうほんねん)ならば云何が忽に生山河大地を生ずる。・・・・」

という経文の中に見られる。

 富樓那 : ふるな。サンスクリット:Purna Maitrayani-putra。富樓那は、釈迦十大弟子の一人。

仏教を弁舌さわやかに説くことにすぐれ、弟子の中で説法第一と称された。


本則:



ある僧が開化広照に聞いた、

清浄本然の如来蔵である仏性がどのようにして山河大地を生ずるのですか?」。

開化広照は云った、

清浄本然としての仏性はどのようにして山河大地を生ずるのだろうか?」。


有(う)を見て有(う)とせず、手を翻(ひるが)えし、手を覆(くつ)がえす。

瑯ヤ(ろうや)山裏の人、瞿曇(ぐどん)の後(しり)えに落ちず。


注:

瞿曇(ぐどん): 梵語:Gautamaの音訳。仏教の開祖釈迦の姓。ゴータマ。

有を見て有とせず、手を翻(ひるが)えし、手を覆(くつ)がえす。:

質問僧が有と見ている山河大地を開化広照は清浄本然だと突き返した。

これは手の平を返したようなものだ。

 瑯ヤ山裏の人:瑯ヤ(ろうや)の覚和尚。開化広照。

瑯ヤ山裏の人、瞿曇(くどん)の後えに落ちず: さすが瑯ヤの覚和尚だ。

ブッダの後塵を拝すほど愚鈍ではない。


質問僧が有と見ている山河大地を開化広照は清浄本然だと突き返した。

これは手の平を返したようなものだ。さすが瑯ヤの覚和尚だ。

彼はおめおめとブッダの後塵を拝すほど愚かではない。


解釈とコメント


   

法系を見る限り、瑯ヤの覚和尚(開化広照)は臨済宗の法系に属する禅者である。

そのためか、この公案は臨済禅の色彩のある公案といえるかも知れない。

僧の質問は「清浄本然の如来蔵である仏性がどのようにして山河大地を生ずるのですか?」

という意味である。

本則に出て来る「清浄本然」とは何だろうか?

「清浄本然の如来蔵である仏性=「清浄な仏性としての性質を示す健康な脳

だと考えれば本則はよく分かる。

脳が外境である「山河大地」を認識し清浄な仏性()に

「山河大地」が生まれる過程(認識される過程)に対する疑問を、

僧は「清浄な仏性(=脳)がどのようにして山河大地を生ずるのですか?」

と聞いているのである。 

僧の質問に対し、開化広照は質問僧と同じ言葉で答えている。

これは「清浄本然としての仏性はこのようにして山河大地を生じている」というその事実を素直に認め、

清浄本然(しょうじょうほんねん)云何忽生(うんがこっしょう)山河大地」の本体である

真の自己(=本来の面目=脳)にハッキリ気付き、それを明らめよ(究明せよ

と言っているのである。


脳が外境である「山河大地」を認識する過程とメカニズムが明らかになったのは

20世紀の脳科学の進歩によってである。

瑯ヤの覚和尚(開化広照)が生きた10〜11世紀頃には

「山河大地」を生じる(認識する)本体である如来蔵は

脳であるか、あるいは心臓であるのか、

またそれがどのように外境を認識するのかすらも分かっていなかったのである。

そのため、このような問答によって

その本体である真の自己(=本来の面目)に気付くしかなかったのである。

それが不立文字の世界であったとすれば、

不立文字の世界」は科学が未発達であったため生まれたと言えるだろう。

そうであるならば、科学的視点を取り入れることによって、

不立文字の世界(禅の世界)」は明らかになるのではないだろうか。

   






「従容録」の参考文献


   

1.安谷白雲著、春秋社 禅の真髄「従容録」 2002年

2.高橋直承校註、鴻盟社、和訳校註「従容録」1982年

   

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