2010年3月作成

臨済録:その4



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示衆:続き


   

[示衆]10―17

岩波臨済録 p.120〜122  



今時の学人の得ざることは、蓋(けだ)し名字を認めて解(げ)を為すが為なり。大策子(だいさくす)上に死老漢の語を抄(うつ)し、三重五重に複子(ふくす)に包んで、人をして見しめず、是れ玄旨なりと道(い)って、以って保重(ほじゅう)を為す。

大いに錯(あやま)れり。瞎ル生(かつるせい)、汝は枯骨上に向(お)いて、什麼(なん)の汁をか覓む。一般の好悪を識らざる有って、教中に向って取って意度(いたく)商量(しょうりょう)して句義を成(じょう)ず。

屎塊子(しかいす)を把って、口裏に向(お)いて、含み了って、別人に吐き過(や)るが如し。猶お俗人の伝口令(でんくれい)を打するが如くに相似たり。一生虚しく過ごす。

也(たと)い我れは出家なりと道(い)うも、他(ひと)に仏法を問著(もんじゃく)せらるるや、便即ち口を杜(と)じて詞(ことば)無く、眼は漆突(しっとつ)に似、口は扁担(へんたん)の如し。

此の如きの類(たぐい)は、弥勒の出世に逢うとも、他方世界に移置せられ、地獄に寄せて苦を受けん。

注:

大策子(だいさくす):大判のノート。行脚の行く先で教えを受けた老師(和尚)の言葉を記録することは、この頃の流行であった。

複子(ふくす):袱紗(ふくさ)。

保重(ほじゅう)を為す:大事に保存する。

瞎ル生(かつるせい):愚かな盲。

意度商量(いたくしょうりょう):色々と考えること。

屎塊子(しかいす):糞の塊。

伝口令(でんくれい)を打する:口づてに伝える。

漆突(しっとつ):真っ黒な煙出しの窓。眼を見張った様子を言っていると思われる。或いは眼ヤニで黒く汚れた眼を言っているのかも知れない。

扁担(へんたん):ヘの字。

弥勒の出世:弥勒はサンスクリットではマイトレーヤーと言い、大乗仏教の菩薩の一人である。ブッダが入滅して56億7000万年後に出現するとされる未来仏。現在は兜率天で修行中であるとされる。弥勒菩薩上生兜率天経、弥勒下生経、弥勒大成仏経の弥勒三部経に説かれる。これを基に弥勒菩薩の下生を願う「弥勒信仰」が各時代に流行した。

現代語訳


当今の修行者が駄目なのは、言葉に捉われて理解しようとするからである。大判のノートにつまらない和尚の言葉を書きとめ、それを三重五重と大事に袱紗に包んで、人に見せないようにする。

そして、これは玄妙な仏法の奥義なのだと言って、大切そうに保存する。大いに間違っている。

眼なし坊主め、お前達は枯骨のようなもの(記録したもの)を舐めているが、そんな枯骨から美味い汁は出て来るはずはない。

世の中にはわけの分からない者がいて、経典の文句を色々考え推量して一つの解釈を作り上げる。

まるで糞の塊を口に含んでから、別の人に吐き与えるようなものだ。それはまるで俗人が口づてに伝えるようなものだ。それでは一生を虚しく過ごすだけだ。

俺は出家だと偉そうに言っても、他人から仏法とは何かと尋ねられると、すぐ口を閉じて言葉が出ない。眼には眼ヤニが付いてまるで煙出しの窓のように黒く、口はヘの字に結んだままだ。

このような連中は、たとえ弥勒菩薩が将来下生して来ても、救いにあずかることもない。別世界に移送され、地獄に落ちて苦しむことになるだろう。


コメント


当今の修行者が駄目なのは、言葉に捉われて思想で禅(仏法)を理解しようとするからだと言っている。

大判のノートにつまらない和尚の言葉を書きとめ、それを大事にして他人に見せない。そして、これは玄妙な仏法の奥義だと言って、大切そうに保存するが、それは大間違いだと言う。

そんなものは枯骨のようなものだ。そんな枯骨をいくら舐めても美味い汁は出て来るはずはない。

また世の中にはわけの分からない者がいて、経典の文句を色々考え推量して一つの解釈を作り上げる。

それを口づてに伝える連中がいるがそれでは一生を虚しく過ごすことになる。彼らは俺は出家だと偉そうに言っているが、他人から仏法とは何かと尋ねられると、すぐ口を閉じて言葉が出ない。

眼には眼ヤニが付いてまるで煙出しの窓のように黒く、口はヘの字に結んだままだ。これでは将来地獄に落ちて苦しむことになるだろうと嘆いている。

この示衆では次のような2つのタイプの修行者が紹介されている。

タイプ:1: 和尚の説法を記録して、これは玄妙な仏法の奥義だと言って、大事そうに保存するタイプの修行者。

タイプ:2: 経典の文句を色々考え推量解釈して思想を作り上げるタイプの修行者。

彼等は自分は出家だと偉そうに言っているが、仏法とは何ですかと尋ねられると、口をへの字に閉じて答えることができない。

臨済は、禅や仏法の本質を言葉や思想・哲学でとらえ理解しようとするような出家修行者は駄目だと言う。そのような連中は将来地獄に落ちて苦しむことになるだろうと嘆き、警告していることが分かる。

この示衆で臨済は、

禅や仏法の本質は言葉や思想でなく参禅修行によって体究練磨してとらえなければならない

と警告していることが分かる。

   

〔示衆〕10―18

岩波臨済録 p.123〜124  



大徳、汝波波地(ははじ)に諸方に往いて、什麼物(なにもの)を覓めてか、汝が脚板を踏んで濶(ひろ)からしむ。

仏の求むべき無く、道の成ずべく無く、法の得べき無し。外に有相の仏を求むれば、汝と相似ず。汝が本心を識らんと欲すれば、合に非ず亦た離に非ず。

道流、真仏無形(むぎょう)、真道無体、真法無相。三法混融して一処に和合す。既に弁ずること得ざるを、換(よ)んで忙忙たる業識(ごっしき)の衆生と作(な)す。

注:

脚板を踏んで濶(ひろ)からしむ:足の裏が扁平になるくらいやたらに歩きまわる。

合に非ず亦た離に非ず:即心即仏といっても、心と仏は一体(合)でもないし、また離れているのでもない。心と仏はぴったり一致しているものでもない。だからといって別ものでもない。

忙忙たる:はなはだ忙しいさま。

業識(ごっしき)の衆生:迷妄の衆生。

忙忙たる業識(ごっしき)の衆生:忙忙と意識が混乱した迷妄の衆生。

現代語訳


 諸君、君達は修行のためあたふたと諸方に行く。一体何を求めて足の裏が平になるまで歩き回るのか。君達が求める仏は無く、成就すべき道は無く、得られる法も無いのだ。

もし、外に形ある仏を求めたら、君達とは似ても似つかないものだ。即心即仏の本心を知りたいと思っても、心と仏はぴったり一致しているものでもない。だからといって別ものでもない。それが<即心即仏>なのだ。

諸君、真の仏には形は無い。真の道には本体は無い。真の法は無相である。真の仏・道・法の三つは渾然と一つに融合しているのだ。

これを弁別して明らかにすることはできない者は「忙忙と意識が混乱した迷妄の衆生」と呼ぶしかない。


コメント


臨済がこの示衆で言っていることは論理的である。ここで、<即心即仏>の心と仏はぴったり一致しているものでもない。だからといって別ものでもない。

本体としての仏(脳)は見ようとしても見えない(形は無い)し、無相である。

図18に馬祖禅の<即心即仏>の思想を体用思想で示す。



図18

図18 馬祖禅の<即心即仏>の思想: 言語・動用は本体としての仏(=健康な脳)の働き(用)である。


   

馬祖禅では真の自己の本体である仏性(脳)の働き(全体作用)として我々の言語動用・煩悩を説明する。ここでは真の自己の本体である仏性(本心、脳)が問題になっている。

臨済は真の自己の本体である仏性(本心、脳)について即心即仏の本心を知りたいと思っても、心と仏はぴったり一致しているものでもない。だからといって別ものでもない。それが本心だと言っている。

それに続き、「真の仏には形は無い。真の道には本体は無い。真の法は無相である」と言っている。

脳神経系を流れる電流は10-7Aと極めて微弱であり検知実感することはできない。

この事実は無形(むぎょう)、無体、無相と表現するしかないだろう。このことを臨済は、「体である真の仏・道・法の三つは脳の中で渾然と一つに融合している」と言っていると解釈できよう。

示衆7−2で出てきた「観音三昧の法」でも「一即三、三即一」と言う言葉で同様な考え方が出ていたのが注目される。

馬祖禅の<作用即性>の思想(a)と臨済の考え方を次の図19に示す。



図19

図19 馬祖禅の<作用即性>の思想(a)と臨済の考え方(b)


   

この示衆で臨済が言っていることは論理的である。臨済の思考法は論理的で近代的と言えるところがある。

   
11    

〔示衆〕11

岩波臨済録 p.124〜125  



問う、「如何なるか是れ真仏、真道、真法?」。乞う、「開示を垂れたまえ」。

師云く、「仏というは心清浄是れなり。法というは心光明是れなり。道というは処処無礙浄光(むげじょうこう)是れなり。三即一、皆な是れ空名にして実有無し

真正の作道人の如きは、念念心間断せず。達磨大師の西土より来たってより、祇(た)だ是れ箇の人惑を受けざる底の人を覓む

後に二祖の一言に便ち了(りょう)じて、始めて従前虚(むな)しく功夫(くふう)を用いしことを知るに逢う。山僧が今日の見処は、祖仏と別ならず

若し第一句の中に得れば、祖仏の与(ため)に師と為る。若し第二句の中に得れば、人天の与(ため)に師と為る。若し第三句の中に得れば、自救不了(じぐふりょう)」。

注:

真正の作道人:真の修行者。

念念心間断せず;心の働きは念念途切れることがなく持続している。

二祖:神光慧可(487〜593)。中国禅の第二祖。

自救不了(じぐふりょう):自分も救うことはできない。 

現代語訳


問い、「真の仏、真の道、真の法とはどのようなものでしょうか? どうか、お示し下さい」。

師は言った、「仏というのは清浄なる心のことである。法というは心の光明のことであり、道とは至る所を照らす清浄なる光のことである。この三つはそのまま一つである。真の仏、道、法といっても空なる名前で概念に過ぎないから実体はないのだ

真の修行者の心の一念一念は間断してとぎれることはない。達磨大師がはるばる西の方インドから来たのは、ただ人に惑わされることのないような人を求めるためであった

達磨は、後に二祖に会う。二祖は達磨の一言の下にたちまち悟り、今までの修行が虚(むな)しかったことを知ったのだ。わしの現在の悟りの境地は、祖仏と同じものである

もし第一句で悟れば、祖仏の師となるだろう。第二句で悟れば、人天の師となるだろう。しかし、第三句でやっと悟るくらいだと、自分も救うことはできない」。


コメント


この示衆で臨済は「仏とは何か?」という問題に明快に答えているのが注目される( 仏とは何か?」を参照)。


臨済が説く仏


真実の仏、真実の法、真実の道とはどんなものですか?」という質問に対し、臨済は、

仏とは心の清浄さがそれ。法とは心の光明、道とは一切処に自在に照らす清浄光(無碍浄光)である。この三つはそのまま一である

と明快に答えている。

これは一つ前の示衆10−18で述べた「真仏無形、真道無体、真法無相。三法混融して一処に和合す」と非常に良く似た表現である。

真仏無形、無体、無相という言葉を、それぞれ真仏清浄、真法心光明、真道無礙浄光という言葉に置き換え、健康な心(脳)から発する積極的で明るい面を光明や無礙浄光といった言葉で表現していると言えるだろう。

示衆13−1で臨済は次ぎのように言っている。 「仏とは心清浄、光明の法界に透徹するを名づけて仏となす」。また示衆5−1では「もし、心は幻のように空であり、塵ひとかけらもなく、どこも清浄であると悟ったなら、それが仏である。」と述べている。これらの示衆で臨済が仏について言っていることはこの示衆で言っていることと同じである。

臨済は心の清浄さと輝きが心(=脳)の中に満ちわたっている人が仏であり、その時、仏=法=道の三つが1つに融合していると言う。ここで、中国人に分かり易く説くためか道という道教的言葉を使っている。

臨済が言う仏は大珠慧海や黄檗希運が言うことと殆ど同じで全脳(上層脳+下層脳)が健康になった人を仏と言っていることが分かる。

心清浄とは全脳(=上層脳+下層脳)が健康であることと考え、真法心光明、真道無礙浄光を正見という言葉にまとめて置き換えれば、

臨済が考える仏とは健康な脳と正見を持つ人

と言えるだろう。これが臨済による仏の定義だと考えても良いだろう。

臨済の師黄檗希運はこれを本源清浄心と言っている。

また臨済は、仏、法、道の三つが1つになっていると言う。この考え方は既に示衆10−18において臨済が主張している(図19を見よ)。

示衆1−3に見られる考え方とおなじである(示衆1−3を参照 )。

そこでは諸仏の本源である三身仏(法身仏、報身仏、化身仏)は一つになって、我々の心(脳)に元から具わっているとしている。

所謂「自性の三身仏」の思想である。この考え方は六祖慧能の<一体三宝(自性の三宝)>の思想と良く似た考え方で、

六祖以来の禅の伝統的考え方といえる(慧能の一体三宝(自性の三宝)の思想を参照)。

この示衆の最後のあたりで、第一句、第二句、第三句という言葉が出ているが具体的説明がないので良く分からないところがある。

第一句=最初の説明、第二句=二度目の説明、第三句=三度目の説明だと一般的に考えれば分かりやすいかも知れない。

即ち、臨済は「もし、私のこの説法を最初の説明で悟れば、祖仏の師となるだろう。もし、第二回目の説明で悟れば、人天の師となるだろう。しかし、第三度目の説明でやっと悟るくらいだと、自分も救うことはできないぞ」と言っていると考えられる。

「もし第一句で悟れば、祖仏の師となるだろう。第二句で悟れば、人天の師となるだろう。しかし、第三句でやっと悟るくらいだと、自分も救うことはできない」という言葉と非常に似た上堂説法は趙州禅師の語録「趙州録」の129段にも見られる。

しかし、趙州録では第一句〜第三句の具体的内容については何も言っていない。この点、臨済録の方が分かりやすいと言えるだろう。


この示衆で臨済が説く仏、法、道の三つが1つになっているという考え方を図20に示す。 



図20

図20 臨済は、仏=清浄心、法=心の光明、道=無碍浄光であり、その三つが1つになっていると説く。


   

図20は図19(示衆10−18)に示した臨済の考えを少し詳しく説明したものになっている。

臨済は示衆10−2(岩波臨済録p.86)で臨済は仏陀ついて次ぎのように述べている。

仏陀は80才で死んだ。死にざまも我々と異なるところはない。仏陀は極致の人ではなく、我々と変わるところがない人間だ。」

大乗経典ではブッダは人間ではなく神格化されて、礼拝の対象となってしまった。日本仏教でもそうである。しかし、臨済は仏陀は神ではなく、普通の人間だと考えていたことが分かる。

原始仏教ではブッダは自分を拝む信徒に対して、「自分を拝んで何になろうか?」と言って、自分を礼拝することを否定したと伝えられる。

この点は仏陀は神ではなく、普通の人間だと考えた臨済の考えに近いと言える。


   

臨済は示衆14−2(岩波臨済録p.139)で臨済は仏について

諸君、仏を至上のものとしてはならない。自己に本来具わっているものを信ぜよ。」

と述べている。

これらの言葉から臨済は仏は最高の存在ではなく、普通の人間で、心が清浄な人(健康な脳を持つ人)だと考えていたと分かる。これは仏を神に等しい超越的存在として信仰し崇拝する大乗仏教徒の考えとかなり違う。

馬祖道一の法嗣大珠慧海は「頓悟要門」において、「南宗禅は仏乗(仏への道)である。」と述べている。日本では普通禅宗は大乗仏教の1宗派だと考えられている。しかし、大珠慧海は大乗仏教を乗り越えた仏乗(仏になる仏教)だと考えていたことが分かる。

禅宗において大乗仏教から進化した結果、「仏に成る」仏乗になったと考えることができるだろう。伝統的な大乗仏教は禅によって仏乗に進化したのだ。

禅は元々ゴータマ・ブッダが説いた<自帰依>の宗教である。しかし、臨済は上の言葉でも分かるように、仏を至上のものとしていない。仏を突き抜けて行くような生き方を目指しているようなところがある。悟っても最終的には悟りを忘れ、悟り臭さを消すように言う。

悟後の修行を重視する馬祖禅にもそのようなところがある。その点は中国人としてのプライドと主体的姿勢を失っていないのだ。ここでは、そのような複雑なところも含めて南宗禅は「仏になる」仏乗(仏への道)と

考えることができるのではないだろうか(大乗と最上乗を参照)。

禅は諸仏を崇拝信仰する伝統的な大乗仏教ではなく、「<自帰依>によって仏に成る」仏乗になったといえるだろう。この点ゴータマ・ブッダの原点に帰った(先祖帰りした)ようなところがある。

この事実は今迄あまり考察されて来なかった。しかし、これは仏教における一種の宗教改革と考えることができる大きな変化と言えるだろう。

南宗禅(仏乗)に至る仏教の進化の歴史を図21に示す(大乗と最上乗を参照)。



図21

図21 南宗禅(仏乗)に至る仏教の進化の歴史


       

〔示衆〕12−1

岩波臨済録 p.125〜127  



問う、「如何なるか是れ西来意?]

師云く、「若し意有らば、自救不了(じぐふりょう)」。

云く、「既に意無くんば、云何(いかん)が二祖法を得たる?」。

師云く、「得るというは是れ不得なり」。

云く、「既若し不得ならば、云何(いかん)が是れ不得底の意?」。

師云く、「汝が一切処に向って馳求(ちぐ)の心歇(や)むこと能わざるが為なり。所以(ゆえ)に祖師言う、咄(とつ)哉(かな)丈夫、頭(こうべ)を持って頭を覓むと。汝言下に便ち自ら回向返照(えこうへんしょう)して、更に別に求めず、身心の祖仏と別ならざるを知って、当下(とうげ)に無事なるを、方(まさ)に得法と名づく

大徳、山僧今時、事已(や)むを獲(え)ず、話度(わたく)して許多(そこばく)の不才浄(ふさいじょう)を説き出だす。汝且(しばらく)く錯(あやま)ること莫れ。我が見処に拠らば、実に許多(そこばく)多般(たぱん)の道理無し。用いんと要(ほっ)せば便(すなわ)ち用い、用いざれば便(すなわ)ち休(や)む」。


注:

西来意(せいらいい):達磨大師がはるばるインドからやって来た意図、意味。そこから転じて、仏法の根本義や禅の核心(悟り)を意味する。祖師西来意と同じ。

得るというは是れ不得なり:得るということは得ないということだ。禅の核心である悟りの本体としての本来の面目はもともと自己に具わっている。従って得るということはない(すでに具わっているから)。もともと自己に具わっている「自己本来の面目」に気付けば良いだけだという意味。

咄哉(とつかな)丈夫:「こらっ!立派な男がうろたえるな!」

頭(こうべ)を持って頭を覓む:頭(こうべ)があるのに頭を探し求める。

回向返照(えこうへんしょう):照らして来る光を自らの光にして照らし返すこと。

話度(わたく)する:おしゃべりをする。あれこれ話をする。

不才浄(ふさいじょう):役に立たないつまらないもの。

不才浄(ふさいじょう)を説き出だす:冴えない埒も無い話をする。

許多(そこばく)多般(たぱん)の道理無し:面倒な理屈は無い。

現代語訳



問い、「達磨大師がインドからやって来た意図は何ですか?]

師は云った、「若し何らかの意図が有ったなら、自分さえ救うことはできない」。

何の意図も無くやって来たのでしたら、どうして二祖慧可は法を得たのですか?」。

師は云った、「得たというは得なかったということなのだ」。

得なかったというのでしたら、得なかったという意味は何でしょうか?」。

師は云った、「君達があらゆる処に向って求めることを止めないためそんな質問をするのだ。だから祖師も、『こらっ!立派な男が頭(こうべ)があるのに頭を探すようなことをするな』と言っている

君達がこの一言に自らの光を内に向けて、外に探し求めることを止めるならば、自己の身心は祖仏と同じであると分かり、直ちに無事安楽になるだろう。それを、法を得ると言うのだ

諸君、わしは今、やむをえず、こんなつまらぬ話をすることになったが、誤解しないようにして欲しい。わしの見地からすれば、本当は面倒な理屈は何も無い。働かせようと思えば働かせ、思わなければ休ませるだけだ


コメント


この示衆の冒頭で、臨済は「祖師西来意(達磨がインドからやって来た意図)について、「若し何らかの意図が有ったなら、自分さえ救うことはできない」と答える。

何の意図も無くやって来たのでしたら、どうして二祖慧可は法を得たのですか?」という質問に対し、「得たというは得なかったということなのだ」と謎めいた答えをしている。

これは禅の核心である悟りの本体としての自己本来の面目(=脳)はもともと自己に具わっている。すでに具わっているからあらためて得るということはない。

またこれは無相、無形なのではっきりと掴まえることもできない。従って、「何も得るものは無い」と言うしかないと言っていると思われる。

これが未だ分からない質問僧は「得なかったというのでしたら、得なかったという意味は何でしょうか?」としつこく質問したのである。

これに対し、臨済は、「君達があらゆる処に向って求める欲を止めないため未だそんな質問を続けると言い、『こらっ!立派な男が頭(こうべ)があるのに頭を探すようなことをするな』と付け加えている。

これは君自身は本来仏である。仏が仏を探すようなことをするなと言っているのである。自己が本来仏であると分かれば、(or気付けば)、無事大安楽の世界に安らぐことができる。それが未だ分からないのでつまらぬ質問を繰り返すのだと叱責しているのである。最後に「君達がこの一言に自らの光を内に向けて、外に探し求めることを止めるならば、自己の身心は祖仏と同じであると分かり、直ちに無事安楽になるだろう。それを、法を得ると言うのだ」と「自己の身心は本来祖仏と同じである」という事実に早く気付くように諭していることが分かる。、

本当は面倒な理屈は何も無い。働かせようと思えば働かせ、思わなければ休ませるだけだ」と結論付けている。

本当は面倒な理屈は何も無い。働かせようと思えば働かせ、思わなければ休ませるだけだ」という臨済の結語は興味深い。

これは祖仏の本体としての脳の働きと機能について言っていると考えることができる。

自己の本質は祖仏と同じであると分かればその本体である脳の働きと機能であることがはっきりする。そうなれば、「働かせようと思えば(脳を)働かせ、思わなければ(脳を)休ませ安らぐだけだ」と言っているのである。

この示衆でも「身心の祖仏と別ならざるを知って、当下(とうげ)に無事なるを、方(まさ)に得法と名づく」と<無事の思想>が出てくる。臨済禅の核心が<無事の思想>であることを示している。

この<無事の思想>は、臨済によると、

働かせようと思えば働かせ、思わなければ休ませるだけだ」という自己を信頼した自由な世界である

ことが分かる。

   

〔示衆〕12−2

岩波臨済録 p.127〜129  



祇(た)だ諸方の六度万行を以って仏法と為すと説くが如きは、我は道(い)う、是れ荘厳門(しょうごんもん)、仏事門なり、是れ仏法に非ずと。

乃至持斎(じさい)持戒(じかい)、油をフ(ささ)げてこぼさざるも、道眼(どうげん)明らかならず、尽く須らく債を抵(いた)すべく、飯銭を索(もと)めらるる日有らん。

何が故に此(かく)の如くなる。道に入って理に通ぜず、身を復(かえ)して信施(しんせ)を還(かえ)す。長者八十一、其の樹耳(くさびら)を生ぜず。乃至孤峰独宿、一食卯斎(いちじきぼうさい)、長坐不臥、六時行道するも、皆な是れ造業底の人なり。

乃至頭目髄脳(ずもくずいのう)、国城妻子、象馬(ぞうめ)七珍、尽く皆な捨施(しゃせ)するも、是(かく)の如き等の見は、皆な是れ身心を苦しむるが故に、還って苦果を招く。如かず、無事にして、純一無雑(むぞう)ならんには。

乃至十地満心の菩薩も、皆な此の道流のショウ跡を求むるに、了(つい)に得べからず。所以に諸天歓喜し、地神足捧げ、十方の諸仏も称歎(しょうたん)せざるは無し。何に縁ってか此の如くなる。今聴法する道人、用処ショウ跡なきが為なり。


注:

六度万行:六度とは六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六の菩薩行)のこと。万行は多くの善行。従って、六波羅蜜をはじめ多くの菩薩行を指している。

荘厳門(しょうごんもん):麗々しく飾り立てる法門。

仏事門:教化のための道具立て。

持斎持戒(じさいじかい):規則正しい生活で身心を慎み整え、戒律を守ること。

道眼(どうげん):法(真理)を見る眼。

樹耳(くさびら):木耳(きくらげ)。

道に入って理に通ぜず、身を復(かえ)して信施(しんせ)を還(かえ)す。長者八十一、其の樹耳(くさびら)を生ぜず:西天十五祖迦那提尊者の偈の中で、「昔、中インドの79才になる一長者の家の庭の樹に木耳(きくらげ)が生えた。その木耳はかってこの長者父子に供養を受けた僧が仏法を理解していなかったため、その償いをするため自分の身を木耳に変じて返債しているのであり、長者が八十一才になると返債は完了して生えなくなるだろう」と尊者は教えたという因縁譚に基づく。

一食卯斎(いちじきぼうさい):一日午前中一回だけ食事を取ること。卯は早朝のこと。

六時行道:六時(夜明け、日中、日没、初夜、中夜、後夜)に定められた勤行をすること。

七珍:金、銀、瑠璃(青色の宝石、ラピスラズリ)、頗梨(水晶)、シャコ(しゃこ)(シャコ貝の貝殻)、メノウ(石英の結晶の集合体)、の七つ。

頭目髄脳(ずもくずいのう)、国城妻子、象馬(ぞうめ)七珍、尽く皆な捨施(しゃせ)する:釈迦の前世譚(ジャータカ)で、自分の肉体を始め、すべての財産を布施し、布施太子と呼ばれたという物語に基づく。

ショウ跡を求むるに、了に得べからず:所謂、没ショウ跡(もつしょうせき)のこと。修行の痕跡さえも残さない最高のあり方を指している。

十地満心の菩薩:十地の境地を達成した菩薩。

   

現代語訳


六度万行こそは仏法だ」とよく言われる。しかし、わしはそうは思わない。そのようなものは単なる荘厳門(しょうごんもん)や仏事門であって、仏法の本質ではない。

たとい戒律を厳密に守り、油を捧げてこぼさないような綿密な修行を積んでも、法を見る眼が明らかでないならば、その負債を返さないとならない。そのため、死んで閻魔大王の前に引き出される時、飯代を請求されることになるだろう。

何故だろうか。「出家しても仏法の道理を明らかにできなかったなら、生まれ変わって身を木耳(きくらげ)に変えて、長者が八十一になるまで、供養の恩を返した」という話しがある。

法を見る眼が明らかでないならば、そのようにして負債を返さないとならないのだ。あるいはまた孤峰に独り住み、一日一食、常に坐して横臥せず、修行に励んでも、皆な迷いの業を造るだけに過ぎないのだ。

あるいは自分の頭目髄脳(ずもくずいのう)や土地、家や妻子、象馬(ぞうめ)七珍など全ての財産を布施しても、それは自分の身心を苦しめるだけで、還って苦果を招くだけだ。それよりも、「無事で、純一無雑(むぞう)でいる」のが一番だ。

たとえ十地の境地を達成した菩薩も、この無事の修行者の悟りの足跡を探し求めても窺い知ることはできないだろう。

何故このようになるのだろうか。今ここでわしの説法を聴いている君達道人(真の自己=脳)の働きは、どこにも跡かたを残さないためである。


   

コメント


この示衆の冒頭で臨済は、

伝統的大乗仏教の「六度万行の菩薩行こそ仏法だ」という思想を痛烈に否定し、法を見る眼が明らかにして、真正の見解を持ち、<無事で純一無雑(むぞう)である>こと

こそが仏法の本質だと言っている。

ここでも臨済は<無事の思想>を重視していることが分かる。

ここに出ている伝統的大乗仏教が説く菩薩の十地(十の境地)を経た漸悟頓悟について見ておこう。


   

菩薩の十地を経た悟り(漸悟)と頓悟の比較


紀元1世紀頃興起した大乗仏教は菩薩乗とも呼ばれる。十地経や華厳経などの大乗経典では菩薩は十地と呼ばれる10段階の修行階梯を経て仏(覚者)になると説かれる。次ぎの表8に十地経や華厳経に説く菩薩の十地を示す。

表8 十地経と華厳経に説く菩薩の十地

十地 名前 内容
第1地 歓喜地 三毒(貧、瞋、痴)を断じ喜び(歓喜)にあふれる境地 
第2地 離垢地 浄らかな信心に満ち、垢れを離れた菩薩の境地
第3地  発光地菩薩行に勇猛に奮励努力し四禅定を始め多くの三昧を成就することによって得られた徳によって明るく輝く菩薩の境地
第4地  焔慧地 正しい思惟を実践し明らかな智恵を得る。欲望がなくなり、迷いの力が尽き光明に輝く菩薩の境地
第5地 難勝地  清浄な道心を体得し真理を悟る。仏道を倦むことなく追求向上するのでいかなる魔も打ち勝つことが難しい菩薩の境地 
第6地  現前地 根本真理にたいする無知が滅尽すればあらゆる苦悩がなくなる。仏の根本知が現前し、菩薩の善行による徳がきらきら輝く境地。
第7地  遠行地 巧みな方便と般若の智恵を働かせて、新たな菩薩道を実践することで、成就される「はるか遠くに至る」菩薩の境地。
第8地  不動地 大いなる般若の智恵を持った菩薩は無限に広がった諸世界において菩薩行を実践する。それによって得た不退転で「全く不動なる」菩薩の境地。
第9地  善恵地 仏法のエッセンスと三昧、最高の大乗の真理を体得した時に成就される不思議な知、慈悲、道心が備わった「いつどこでも正しい知恵のある」菩薩の境地。
第10地  法雲地 何百千という難行苦行を実践した菩薩は諸仏から近い将来正しい悟りを開いて仏になるだろうという潅頂を授けられる。この時現前する無量無辺の豊かな徳と深い知が備わった「かぎりない法の雲のような」菩薩の境地

この菩薩の十地は言葉に表すと分かりやすいが実践となると大変難しいと言われている。

インド仏教において生存中に第一歓喜地に入った菩薩は弥勒菩薩と竜樹(8宗の祖、ナーガルジュナ)の2人だけであり、唯識論の大成者世親(ヴァスバンズ)は死後にやっと歓喜地(第一地)に入ったと伝えられている。

こうなると菩薩の十地は到底達成できないな境地である。大乗仏教によって悟りを開き仏になることは不可能だと言われても反論できないだろう。

大乗仏教では悟りとは何かを真剣に追求することはない。完全な布施(慈善)、完全な持戒、完全な忍辱、完全な精進、完全な禅定、完全な智恵という六種のパーラミター(六波羅密)を無限の時間(生まれ変わりの無限の生涯)にわたって実践し積善することが要求される。

パーラミターとは完成とか完全を意味する。この六波羅密ははっきり言えば倫理徳目である。この他にあらゆる善行を行うことが六度万行である。倫理的に良いことをすることが将来仏地に至り悟りを開くための条件とされている。

菩薩は六度万行を繰り返し実践することで十地の段階を徐々に上って行き最終的に第十地法雲地に上りブッダ(覚者)になると言うのである。

この10段階を着実に踏むことで悟りを開きブッダ(覚者)になるとするのが十地経や華厳経に説く漸悟の道である。

この漸悟の道では六波羅密を実践し悟り(菩提)を成就するに要する時間は殆ど無限大とされるようになる。実際伝統的大乗仏教で悟りを開きブッダ(覚者)になった人はいない。

禅宗でも「南頓北漸」と言い、南宗禅の六祖慧能が「頓悟」を始めて主張し、北宗禅では漸悟であると考えられている。

六祖慧能に始まる南宗禅は

一挙に悟りを開きブッダ(覚者)になる「一超直入如来地」、即ち、直ちに仏地に至る「頓悟」を主張した。

この主張は伝統的大乗仏教や北宗禅の漸悟と大きく違う。

実際、南宗禅では数多くの人が悟りを開き覚者の自覚を得たので説得力がある。


   

頓悟とは何か?


「頓悟要門」に於いて馬祖道一の法嗣大珠慧海は頓悟について、

頓とは頓(たちまち)に妄念を除くことである。悟とは得られる何ものもない(本来無一物)と悟ることである。根本である自己の心を修行によって浄化し見極めれば、一瞬のうちに菩提を証することができる

と述べている。

このように、大珠慧海によれば悟(さとり)とは得られる何ものもない(本来無一物)と悟ることである(六祖慧能の「本来無一物の悟り」を参照 )。

参禅修行によって心を浄化し(脳を健康にし)、妄念を除き、得られる何ものもない(本来無一物)と悟ることが頓悟とされる。これは単純明快な説明である。

修行法としての坐禅の役割は次ぎのようにまとめることができるのではないだろうか?

坐禅の定義:得られる何ものもないと悟る(本来無一物を悟る)ための修行法である。この修行によって心を浄化し妄念を除くことができる(脳は健康になる)。

そのように考えれば禅宗で坐禅一本に単純化して専念して修行するかがよく分かる。

伝統的な大乗仏教が説く漸悟の考えと南宗禅の頓悟の思想は次の図22のようにまとめて図示できるだろう。



図22

図22 大乗仏教が説く漸悟と南宗禅の頓悟の比較


   

心を浄化し頓に妄念を除き、無所得(得られる何ものもないこと)を悟れば 忽ち頓悟し見性成仏する(一超直入如来地)。

その方法が坐禅だと考えることができる。

坐禅をすれば脳が下層脳から健康になって浄化される(禅と脳科学を参照)。

この時心から頓に妄念が除かれ、本来無一物(得られる何ものもないこと)を悟ることができる。

こう考えると坐禅と悟りとの関係も明らかである。

逆に心が迷いと迷妄の状態になれば凡夫である。

図22の左側には六度万行(無限の修行)と十地を経た伝統的大乗仏教が説く漸悟の道を示す。図22は伝統的大乗仏教と禅の比較図にもなっている。

図22の左側に示した漸悟の道と右側の頓悟成仏の道を比較すれば、右側の方がはるかに単純明快になっていることが分かる。

ついでに、臨済録で臨済が説く悟りと仏への道を考えるとは次の図23のようにまとめることができるだろう。



図23

図23 臨済が説く悟りと仏への道


   

参禅修行者が正見(道眼)を持って坐禅修行に専念することで下層脳(生命情動脳)から活性化し妄念が消えて無くなり、全脳が健康になる。このことで、仏、法、道の三つが一つに混融し光があふれるような仏地が開発される。

   
示衆 13-1

〔示衆〕13−1

岩波臨済録 p.130〜132  



問う、大通智勝仏(だいつうちしょうふつ)、十劫(じっこう)道場に坐するも、仏法現前せず、仏道を成ずることを得ず、と。未審(いぶかし)、此の意如何。乞う、師指示せよ

師云く、「大通とは、是れ自己の処処に於いて其の万法の無性無相なるに達するを、名づけて大通と為す

智勝とは、一切処に於いて疑わず、一法をも得ざるを、名づけて智勝と為す。仏とは心清浄(しんしょうじょう)、光明の法界(ほっかい)に透徹するを、名づけて仏と為すを得

十劫(じっこう)道場に坐すというは、十波羅蜜是れなり。仏法現前せずというは、仏本(も)と不生(ふしょう)、法本(も)と不滅、云何ぞ更に現前すること有らん

仏道を成ずることを得ずというは、仏は応(まさ)に更に仏と作(な)るべからず。古人云く、仏は常に世間に在(いま)して、而も世間の法に染まず」、と。



注:

大通智勝仏(だいつうちしょうふつ):「法華経」化城喩品第七に出てくる仏。無量無辺の過去に出現したとされる。

十劫(じっこう):劫(カルパ)とは古代インドの時間論に出てくる想像的時間単位である。 古代インドの時間論では劫(カルパ)=43億2千万年=4,320,000,000年=4.32x109年とされる。十劫は432億年という巨大な時間となる。

一法をも得ざる:「金剛般若経」には「少法の得べきなし」とある。また「伝心法要」に於いて黄檗希運は「一法をも得ざるを、名付けて心を伝うとなす」と言っている。

仏とは心清浄(しんしょうじょう)、光明の法界(ほっかい)に透徹する:示衆11に於いて、臨済は「仏というは心清浄(しんしょうじょう)是れなり。法というは心光明是れなり。」と殆ど同じことを言っている。

十波羅蜜:六波羅蜜に方便・願・力・智の四波羅蜜を加えたもの。大般若経に出てくる。十波羅蜜は次の表9に示すように菩薩の十地とよく対応している。

表9 華厳経の十地と十波羅蜜の比較

No 十地(華厳経)対応する十波羅蜜(大般若経)
歓喜地 施波羅蜜(布施)
離垢地戒波羅蜜(持戒)
 発光地忍波羅蜜(忍辱)
 焔慧地 進波羅蜜(精進)
難勝地  禅波羅蜜(禅定)
 現前地 般若波羅蜜
 遠行地 方便波羅蜜
 不動地 願波羅蜜
 善恵地 力波羅蜜
10  法雲地 智波羅蜜

No.1〜6までが六波羅蜜である。十波羅蜜は六波羅蜜から発展した考え方であると考えられる。

仏本(も)と不生(ふしょう)、法本(も)と不滅:「維摩経」入不ニ法門品第九には「法は本(も)と不生なり、今も即ち滅するなし」とある。

仏は常に世間に在(いま)して、而も世間の法に染まず:「如来荘厳智慧光明入一切仏境界経」の偈。

   

現代語訳


問い、「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)は十劫(じっこう)もの長い時間道場で坐禅を続けたが、仏法は現前せず、悟りを開くことができなかった」とのことです。これは一体何故でしょうか?ご教示をお願いいたします」。

師は云った、「大通とは、自己が到るところに於いて万法が無性であり、無相であるという理(ことわり)に達するのを大通と言うのだ

智勝とは、到るところに於いて迷わず、一法をも得ないのを、名づけて言うのである。仏とは自己の心が清浄であり、その光明が法界に透徹するを、名づけて言うのである

十劫(じっこう)もの間道場で坐禅を続けたというは、十波羅蜜を行じたということ。仏法が現前しなかったというは、仏はもともと不生(ふしょう)であり、法はもともと不滅である。どうして今更仏法が現前することがあろうか

仏道を成就することができなかったというは、もともと仏である以上更に仏となる必要はない。古人も、『仏は常に世間に在って、しかも世間の汚れた法に染まない』と云っている


コメント


大通智勝仏は十劫もの間道場で坐禅を続けたが、仏法は現前せず、悟りを開くことができなかったとのことです。これは一体何故でしょうか?」という質問に対し、臨済は次のように説く。

.「大通」とは、自己が到るところに於いて万法が無性であり、無相であるという理(ことわり)に達するのを言う。また「智勝」とは、到るところに於いて迷わず、一法をも得ないのを、名づけて言うと「大通智勝」の意味について解説する。

自己の心が清浄であり、その光明が法界に透徹する人を仏と名づける

と言って、仏を定義している。この言葉から臨済は、「脳が健康であり、正見(真正の見解)の智慧の光が真理の世界を照らす人を仏と名づける」と言っていると解釈できるだろう。

この定義は示衆11に於いて、「仏とは何か?」について臨済が述べたことと同じである。

.十劫(じっこう)もの間道場で坐禅を続けたというは、十波羅蜜を行じたということである。仏法が現前しなかったというは、仏はもともと不生(ふしょう)であり、法はもともと不滅である。今更仏法が現前することはない。

古人も、「仏は常に世間に在って、しかも世間の汚れた法に染まない」と云っている。

古人の言葉として引用する「如来荘厳智慧光明入一切仏境界経」の偈「仏は常に世間に在って、しかも世間の汚れた法に染まない」という言葉は外在して信仰の対象とされる仏ではなく真の自己(=仏性)について述べていると考えることができる。

即ち、

「真の自己である我々の脳は本質的に仏としての性質を備え、世間に在っても世間の汚れた法に汚染されることはない」

と言っていると解釈できる。

ここで示された臨済の論理は明快で合理的である。

この示衆の内容は「無門関」第九則「大通智勝」に採用されている(「無門関」第九則を参照)。

   

〔示衆〕13−2

岩波臨済録 p.132〜134  



道流、汝、仏と作(な)らんと欲得(ほっ)すれば、万物に随うこと莫れ。心生ずれば種種の法生じ、心滅すれば種種の法滅す。

一心生ぜざれば万法咎(とが)無し。世と出世と、無仏無法、亦た現前せず。亦た曽(か)って失せず。設い有るも、皆な是れ名言(みょうごん)章句、小児を接引する施設の薬病(やくへい)、表顕の名句(みょうく)なり。

且つ名句(みょうく)は自ら名句(みょうく)ならず。還って是れ汝目前昭昭霊霊として、鑑覚聞知照燭(かんかくもんちしょうそく)する底、一切の名句を安(つ)く。大徳、五無間(ごむげん)の業を造って、方(はじ)めて解脱を得(う)。

注:

一心生ぜざれば万法咎(とが)無し:「信心銘」の句。心が無念無想、無住無着ならば憎愛揀択などの咎(とが)は無いという意味である。

ここで一心とは分別意識と考えることができる(「信心銘」を参照)。

薬病(やくへい):病を治すための薬。

目前昭昭霊霊として:目前ではっきり明らかに。示衆10−8に出た「目前霊霊地にして」という言葉と同じ意味である。

鑑覚聞知照燭(かんかくもんちしょうそく)する:見聞覚知の働きをしている。

五無間(ごむげん)の業:無間地獄に落ちるべき五つの極悪の行為(業)のこと。五逆罪のことである。五逆罪とは.父を殺す。.母を殺す。.阿羅漢(仏教の聖者)を殺す。.教団の和を乱す。.仏身を傷つけ血を流す。の五つの大罪を指す。伝統的仏教ではこの五逆罪を犯せば無間地獄に落ちるとされてきた。

     

現代語訳


諸君、仏となりたいならば、外界に引きずられてはならない。心に意識が生れると種種の法が生れるが、意識が消滅するとその法も消滅する。心が無念無想、無住無着になったら、憎愛揀択など一切の咎(とが)は無いのだ。

世間であろうと出世間であろうと、仏や法はない。またそれが現われることも、無くなることもない。

もし有るにしても、それは皆な名前や文句にすぎず、子供をあやす方便としての薬や看板の謳い文句のようなものである。その文句にしてもそれ自体として意味があるものではない。

それよりも今わしの目前で、はっきりと見聞覚知しているもの(真の自己)こそが、一切の物に名前を付けているのだ。

諸君、修行者たる者は、五(ご)無間(むげん)の罪業を造ってこそ、はじめて解脱できるのだ。


コメント


この示衆では仏となる条件を議論している。臨済は仏となるにはつぎのような条件が必要だと言う。

.外界に引きずられてはならない。

.心に意識が生れると種種の法が生れるが、意識が消滅すればその法も消滅する。迷いの根源となっている心を(坐禅修行によって)無念無想、無住無着の状態に保持できれば、憎愛揀択など一切の咎(とが)は無くなる。

臨済は「世間であろうと出世間であろうと、仏や法はない。またそれが現われることも、無くなることもない。もし有るにしても、それは皆な名前や文句にすぎず、子供をあやす方便としての薬や看板の謳い文句のようなものである」と言っている。

ここで言っている仏や法とは伝統的大乗仏教が説く信仰の対象としての仏(阿弥陀如来、薬師如来、大日如来など)や経典を指すと考えられる。そのような仏や法というものは実体がない、単なる概念であり、それ自体に本質的意味はないと言っていると考えれば良いだろう。

そのように考えないと、最初の問題設定「諸君、仏となりたいならば、外界に引きずられてはならない」という言葉と矛盾するからである。

この部分は示衆9−4の冒頭の「道の修すべき有り、法の証すべき有りと。汝は何の法をか証し、何の道をか修せんと説く」と同じ意味である。

示衆の最後で、

それよりも今わしの目前で、はっきりと見聞覚知しているもの(真の自己)こそが、一切の物に名前を付けているのだ。

と言っている。この言葉は、この示衆で臨済が最も言いたかったことだと思われる。

「今わしの目前で、はっきりと見聞覚知しているもの」とは我々の主体であり、一切の物に名前を付けている真の自己(汝目前昭昭霊霊として、鑑覚聞知照燭(かんかくもんちしょうそく)する底=)のことである。それを覚知することこそが最も大切だと言っているのである。

これを次の図24に示す。



図24

図24 今目前で、はっきりと見聞覚知しているもの(汝目前昭昭霊霊として、鑑覚聞知照燭(かんかくもんちしょうそく)する底)


   

還って是れ汝目前昭昭霊霊として、鑑覚聞知照燭する底、一切の名句を安(つ)く」という表現は示衆10−8に出た「還って是れ道流、目前霊霊地にして、万般を照燭し、世界を酌度する底の人、三界の与(ため)に名を安(つ)く」と殆ど同じ意味である。

昭昭霊霊として、鑑覚聞知照燭する底」という言葉は「目前霊霊地にして、万般を照燭し、世界を酌度する底」と同じであり、図24にしめした真の自己(=)を表わしていることが分かる。

この言葉に続いて、臨済は、「諸君、修行者たる者は、五無間(ごむげん)の罪業を造ってこそ、はじめて解脱できるのだ」と敬虔な仏教徒が聞いたらビックリするようなことを言って次の示衆に続けている。


     
rinzaiz14-1

〔示衆〕14−1

岩波臨済録 p.134〜136  



問う、「如何なるか是れ五無間(ごむげん)の業?」。

師云く、「父を殺し母を殺す。仏身血(ぶっしんけつ)を出だし、和合僧を破し、経像を焚焼する等、此れは是れ五無間(ごむげん)の業なり」。

云く、「如何なるか是れ父?」。

師云く、「無明是れ父。汝が一念心、起滅の処を求むるに得ず。響(ひびき)の空に応ずるが如く、随処に無事なるを、名付けて父を殺すと為す」。

云く、「如何なるか是れ母?」。

師云く、「貧愛を母と為す。汝が一念心、欲界の中に入って、其の貧愛を求むるに、唯だ諸法の空相なるを見て、処処に無著(むじゃく)なるを、名付けて母を害すと為す」。

云く、「如何なるか是れ仏身血(ぶっしんけつ)を出だす?」。

師云く、「汝が清浄法界の中に向(お)いて、一念心の解(げ)を生ずること無く、便ち処処黒暗なる、是れ仏身血(ぶっしんけつ)を出だす」。

云く、「如何なるか是れ和合僧を破す?」。

師云く、「汝が一念心、正に煩悩結使(ぼんのうけっし)の、空の所依(しょえ)無きが如くなるに達する、是れ和合僧を破す」。

云く、「如何なるか是れ経像を焚焼す?」。

師云く、「因縁空、心空、法空を見て、一念決定(けつじょう)断じて、ケイ然(けいねん)として無事なる、便ち是れ経像を焚焼す。大徳、若し是の如く達(たっ)得(たっとく)せば、他(か)の凡聖の名に礙(さ)えらるることを免れん」。

注:

一念心の解(げ)を生ずること無く:少しの分別心も働かせること無く。

煩悩結使(ぼんのうけっし):人を迷妄に縛り付ける煩悩。

因縁空、心空、法空:因縁は空であり、心は空であり、法は空である。因縁、心、法の三つが空であるとする三空のこと。

ケイ然(けいねん)として:超然として。

     

現代語訳


問い、「五無間(ごむげん)の業とはどのようなものですか?」。

師は云った、「父を殺し母を殺す。仏身を傷つけて血を出し、教団を破壊し、経像を焚焼する。これが五無間(ごむげん)の業である」。

問い、「その父とは何ですか?」。

師は云った、「無明が父である。君達の一念の心が何処から生滅しているのかいくら探しても分からない。あたかも空中に響く木魂(こだま)が何処で響いているのか分からないようなものだ。そのように、あらゆる処で無事でいるのを、「父を殺す」と言うのだ」。

問い、「それでは母とは何ですか?」。

師は云った、「貧愛が母である。君達の心が欲に占められる時その貧愛の心が空で実体が無いと見て、執着しない。それを「母を害す」と言うのだ」。

問い、「それでは『仏身を傷つけ血を出す』とは何ですか?」。

師は云った、「君達が 清浄な法界の中で、一念の分別意識を働かせること無く、どこも黒暗のような無心の中にいるのを、『仏身を傷つけ血を出す』と言うのだ」。

問い、「それでは『教団を破壊する』とは何ですか?」。

師は云った、「君達が、煩悩とは空で実体無いものだと悟るのを『教団を破壊する』と言うのだ」。

問い、「それでは『経像を焚焼する』とは何ですか?」。

師は云った、「因縁と心と法の三つが空であると見て取って、超然として無事であるのを『経像を焚焼する』と言うのだ。諸君、若しこのような悟りに到達するならば、かの凡とか聖とかの名前に煩わされることが無いだろう」。


コメント


この示衆では前の示衆13−2で出てきた「五無間の業」とは何かについて具体的内容を述べている。その意味から示衆13−2の続きとなっている。

示衆13−2の最後で、臨済は「五無間の業を造って解脱し、仏になる」と言っている。

普通、五無間業は仏教徒の間では重罪とされてきた。五無間業は五逆罪ともいわれる。五逆罪とは.父を殺す。.母を殺す。.阿羅漢(仏教の聖者)を殺す。.教団の和を乱す。.仏身を傷つけ血を流す。の五つの大罪を指す。

伝統的大乗仏教ではこの五無間業を犯せば無間地獄に落ちるとされてきた。しかし、臨済はこの示衆で「父を殺し母を殺す。仏身を傷つけて血を出し、教団を破壊し、経像を焚焼する。これが五無間の業である」と言っている。

.の「阿羅漢(仏教の聖者)を殺す」の代わりに 「経像を焚焼する」を入れ替えている。これは臨済独自の解釈による五無間の業と言える。

しかも、臨済は「五無間の業を造って解脱し、仏になる」と言っている。このように、臨済は五無間の業に対して、独自で逆転の発想とも言える新解釈を出している。

臨済が言う五無間の業は悪業ではなく、「成仏(解脱し仏になる)のための5善業」になっているのである。臨済らしい自由さと創造性が発揮された新解釈と言えるだろう。

示衆14−1で臨済が述べる五無間の業は次の表のようにまとめられる。

表10 臨済が述べる五無間の業

No 五無間の業内容
父を殺す無明を殺しあらゆる処で無事でいる
母を殺す貧愛が空で実体が無いと見て、執着しない
仏身から血を出す分別意識を離れ、どこも黒暗の無心の中にいる
教団を破壊する煩悩が空で実体無いものだと悟る
経像を焚焼する因縁と心と法が空であると見て、超然として無事である

五無間の業の中で坐禅と関係深いのは「仏身から血を出す」(分別意識を離れ、どこも黒暗の無心の中にいる)である。後の4条件(1、2、4,5)は空観と正見の実践である。

臨済は空観は正見の一つとして重視していたことが分かる。

この考察から、臨済の「五無間の業を造ること」とは、

.「正見を持つこと」と、.「坐禅修行により、心清浄(健康な脳)になること

の二つにまとめることができるのではないだろうか。

結局、

「仏とは、正見(真正の見解)と心清浄(健康な脳)の二条件を満たす人のことだ」

と言えるのではないだろうか。 

この示衆では、「響(ひびき)の空に応ずるが如く、随処に無事なるを、名付けて父を殺すと為す」と「因縁空、心空、法空を見て、一念決定(けつじょう)断じて、ケイ然(けいねん)として無事なる」と二回も無事という言葉が出ている。

これも臨済が<無事>の思想を重視している証拠である(無事の思想を参照)。


黒きこと漆のごとし:下層脳に関する種々の表現


この示衆で臨済は、「汝清浄法界の中に向(お)いて、一念心の解(げ)を生ずること無く、便ち処処黒暗なる、是れ仏身血(ぶっしんけつ)を出だす」と言っている。

また示衆10−11では 「千偏万偏、脚底に踏過して黒没シュン地(こくもつしゅんち)にして、一箇の形段(ぎょうだん)無くして歴々孤明なり」言っている。

洞山良价は「洞山録」において「黒きこと漆のごとし」と言っている。

「処処黒暗なる」や「黒没シュン地(こくもつしゅんち)」、「黒きこと漆のごとし」という表現は坐禅によって活性化される下層脳を表わしていると考えられる。下層脳は無意識脳であるからこのような表現になったと考えられる。

類似の表現は多くの禅語録に見られ、次の表にまとめることができる。

表11 下層脳に対する種々の表現

No 禅師表現出典
臨済処処黒暗なる臨済録
臨済 黒没シュン地(こくもつしゅんち)臨済録 
洞山良价黒きこと漆のごとし洞山録
雪峰義存漆桶不会(真っ黒で何もわからない)碧巌録第5則
万松行秀夜壑(やがく)(真っ暗な谷)従容録第81則
万松行秀烏亀(うき)(盲目の亀)従容録第3則
万松行秀月落ちて三更(月も落ちた真っ暗な夜中)従容録第76則
洞山良价三更初夜月明の前(真夜中の月のさす前)洞山五位説
雪竇重顕蒼龍窟(そうりゅうくつ) 碧巌録第3則
10雲門文偃暗昏昏(あんこんこん)雲門録

表11に示すように、無意識脳である下層脳に対し種々の表現があることが分かる。特に蒼龍窟(そうりゅうくつ) という言葉が注目される。蒼龍窟(そうりゅうくつ) は青龍が住む洞窟という意味である。碧巌録で頻繁に出てくる言葉である。脳幹を中心とする下層脳は爬虫類脳である。その的確な表現には驚かされる。

碧巌録第5則に出ている漆桶(しっつう)とは漆を入れる桶である。漆を入れる桶のように黒々として見分けがつかない下層無意識脳を指していると考えられる。


   

〔示衆〕14−2

岩波臨済録 p.136〜140  



「汝が一念心、祇(た)だ空拳指上(くうけんしじょう)に向いて実解(じつげ)を生じ、根境法(こんきょうほう)中に虚しく捏怪(ねっかい)す。自ら軽んじ退屈して言う、「我れは是れ凡夫、他(かれ)は是れ聖人」と。禿?生(とくるせい)、甚(なん)の 死急(しきゅう)か有って、他(か)の師子皮(ししひ)を披(き)て、却って野干鳴(やかんめい)を作(な)す。

大丈夫の漢、丈夫の気息を作(な)さず、自家屋裏(じかおくり)の物を肯(あ)えて信ぜず、ひたすら外に向って覓め、他(か)の古人の閑名句(かんみょうく)に上り、陰に倚(よ)り陽に博(はか)って特達(とくだつ)すること能わず。

境に逢うては便ち縁(えん)じ、塵に逢うては便ち執し、触処(そくしょ)に惑い起こって、自ら准定(じゅんじょう)無し。

道流、山僧が説処を取ること莫れ。何が故ぞ。説に憑拠(ひょうこ)無く、一期(いちご)の間に虚空に図画(とが)すること、彩画像(さいがぞう)等の喩えの如くなればなり。

道流、仏を将(も)って究竟(くきょう)とすること莫れ。我れ見るに、猶お厠孔(しく)の如し。菩薩羅漢は尽く是れ伽鎖(かさ)、人を縛(ばく)する底(てい)の物なり。

所以(ゆえ)に文殊は剣に仗(よ)って瞿曇(ぐどん)を殺さんとし、鴦掘(おうくつ)は刀を持って釈子(しゃくし)を害せんとす。

道流、仏の得べき無し。乃至三乗五性(ごしょう)、円頓(えんどん)の教迹(きょうしゃく)も、皆是れ一期(いちご)の薬病(やくへい)相(あい)治(じ)す。並びに実法無し。設い有るも、皆な是れ相似(そうじ)、表顕(ひょうけん)の路布(ろふ)、文字の差排(さはい)にして、且(しばら)く是(かく)の如く説くのみ。

道流、一般の禿子(とくす)有って、便ち裏許(りこ)に向いて功を著(つ)けて、出世の法を求めんと擬(ほっ)す。錯(あやま)り了(おわ)れり。

若し人、仏を求むれば、是の人は仏を失す。若し人、道を求むれば、是の人は道を失す。若し人、祖を求むれば、是の人は祖を失す。

注:

空拳(くうけん):何も握っていない拳。
「空拳指上(くうけんしじょう)に向いて実解(じつげ)を生じ」とは拳の指がさすものを実在と思うと意味だが、それは空拳(くうけん)の指がさすものだから実は空なるものであると意味している。

根境法(こんきょうほう):六根と六境(色、声、香、味、触、法)の相互作用によって生じた六識(眼識、鼻識、耳識、舌識、身識、意識)などの諸相と現象。

死急(しきゅう):臨終の切羽つまった急場。

野干鳴(やかんめい):ジャッカルの鳴き声。

閑名句(かんみょうく):つまらない言葉。

陰に倚(よ)り陽に博(はか)る:陰陽の二気を占って吉凶を判断する。

山僧が説処を取ること莫れ:一切の言説は幻化のようなものだからわしの説法を盲目的に信じてはならない。

自ら准定(じゅんじょう)無し:自らの定見が無い。

憑拠(ひょうこ):典拠。

厠孔(しく):便壷の孔。

瞿曇(ぐどん):ゴータマ・ブッダのゴータマの音訳。

所以(ゆえ)に文殊は剣に仗(よ)って瞿(ぐ)曇(ぐどん)を殺さんとし:仏を絶対視することを戒めるため文殊は仏を殺そうとしたという「大宝積経」の話に基づく。

鴦掘(おうくつ):アングリマーラの音訳。ブッダ在世時代、凶賊アングリマーラは指を切り取って首飾りを作っていた。彼はブッダを殺そうとしたが、かえってブッダに帰依したことで知られる。

鴦掘(おうくつ)は刀を持って釈子(しゃくし)を害せんとす:凶賊アングリマーラはブッダを殺そうとしたが、ブッダの説得でかえってブッダに帰依したという話がアングリマーラ経(中部第86経)に見える。

三乗:声聞乗、縁覚(独覚)乗、菩薩乗。

五性:衆生の機根に応じて先天的に決定しているとされる五種類の成仏能否の性質。法相宗では声聞乗性、縁覚乗性、菩薩乗性、不定性、無性の五つを言う。無性は成仏できないで人天の果しか得られない人天性。

円頓(えんどん)の教迹(きょうしゃく):大乗の最高の理念で、一切の階梯を経ることなく一気に如来地に至る教え。

相似(そうじ):曹山本寂(840〜901)は「仏は相似、祖は執印(仏の印綬の保管者)にすぎない」と言っている(祖堂集第八)。似たもの。贋物。

路布(ろふ):露布。軍中で竿の上に掲げられる告知文。

表顕の路布(ろふ):表向きのお触書。

差排(さはい):えらび並べること。

裏許(りこ)に向いて:内面に向って。

     

現代語訳


君達の一念の心は、空拳が指さすものを実在と思い、現象界で妄想している。そして、自らを軽んじ退屈して、「自分は凡夫だが、彼は聖人だ」などと言っている。

馬鹿坊主め、どうしてせっぱつまって、獅子の皮を披(き)て、ジャッカルの鳴き声を立てるようなことをするのか。

大丈夫たるものが、大丈夫の気概も示さず、自己に具わっている本来のものを信じようともしない。ひたすら外に向って求め、古人のつまらぬ言葉に引っかかり、陰陽の占いをあてにして独立できないでいる。

外境に向えば境に引っかかり、存在するものを認めては執着し、至るところに迷って、自分の定見が無い。

諸君、わしの説くところを盲目的に受け取ってはならない。何故か。わしの説くところには典拠は無く、とりあえず虚空に図を描き、それに色付けをしているようなものだからだ。

諸君、仏を究極の者としてはならない。わしから見れば、便所の孔のようなものだ。菩薩や羅漢もすべて手枷(てかせ)足枷(あしかせ)のように人の自由を縛る物である。

そのため、文殊は剣をとってゴータマを殺そうとし、アングリマーラは刀を手にしてブッダに危害を加えようとしたのだ。 

諸君、仏は他に求めて得られるようなものではない。

三乗教や五性(ごしょう)各別の教え、円頓(えんどん)一乗の教えも、皆一時の方便の教えであり、実法ではない。

たとえ有ったとしても、皆なにせ物、表向きのお触書や文字を選んで並べたようなもので、もっともらしく説いたものに過ぎない。

諸君、そう言うと坊主の中には、内面に力を注いで、この世を超える法を求めようとする者がいる。とんでもない間違いである。

もし仏を他に求めれば、その人は仏を見失うだろう。もし、道を他に求めれば、その人は道を見失うだろう。若し人、祖を他に求めれば、その人は祖を見失うだろう。


コメント


我々は現象界を実在するものだと思っているが、臨済の眼から見ると空なる世界に過ぎないのだと言う。これは大乗仏教の空観に基づいた考え方である。この部分は現代の科学的知見に基づいて訂正する必要がある。

大乗仏教の空観は古代思想であり、誤りも含んでいるからである(中観仏教を参照)。

更に、我々は本来仏であるかかわらず、それを信じることができない。それは本来立派な獅子で、獅子の皮を披(き)ているのに、ジャッカルの鳴き声を立てるようなものである。臨済は、「大丈夫たるものが、大丈夫の気概も示さないでどうするのか」と嘆く。

ひたすら外に向って求め、古人のつまらぬ言葉や陰陽五行説などに頼って独立できない修行者の現状を鋭く指摘している。

臨済は「わしの説くところを盲目的に受け取ってはならない。何故か。わしの説くところには典拠は無く、とりあえず虚空に図を描き、それに色付けをしているようなものだからだ」と謙遜して言っているが本当は逆であろう。

臨済は本当は自分の見解には自信があるのである。師であるからといって、自分の言うことでも盲目的に受け取らず、主体的に考え、納得した上で受け取れと言っているのである。

更に、仏、菩薩や羅漢もすべて手枷(てかせ)足枷(あしかせ)のように人の自由を縛る物であるから究極の者としてはならないと言う。仏、菩薩や羅漢のような権威や神格は自由を縛る物であるから究極の者として絶対化してはならないと言う。

示衆14−2(岩波臨済録p.139)で臨済は「仏を至上のものとしてはならない」と説いている。ここでも「仏を究極の者としてはならない。わしから見れば、便所の孔のようなものだ」とかなり過激である。

彼の本当に言いたいことは仏、菩薩や羅漢のような権威や神格は自由を縛る物であるから究極の者として絶対化して盲目的に崇拝してはならないと言いたいのだと思われる。

それよりも

自己に具わっている本来のもの(真の自己=脳)を信頼せよと言っている

と考えることができよう。

この考えはゴータマ・ブッダの自帰依の精神に直結するものと言えるだろう(原始仏教「ブッダの遺言と自帰依の教え」を参照)。

それが臨済録を流れる臨済の基本的主張であるからである。

示衆の最後で、臨済は「もし仏を他に求めれば、その人は仏を見失うだろう。もし、道を他に求めれば、その人は道を見失うだろう」と言っていることからもそのことを確認できる。

ここで言っていることは示衆10−6で「逢著(ほうじゃく)すれば便ち殺せ。仏に逢(お)うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり」と同じことである。

このような臨済の主体的な姿勢は絶対的権威を認めず真理を自由に追求する科学者の姿勢にも通じるところがある。


   

〔示衆〕14−3

岩波臨済録 p.140〜142  



大徳、錯(あやま)ること莫れ。我れ且(しばら)く汝が経論を解することを取らず、我れ亦た汝が国王大臣たることを取らず、我れ亦た汝が弁の懸河(けんが)に似たることを取らず、我れ亦た汝が聡明智慧を取らず、唯だ汝が真正の見解を要(もと)む。

道流、設(たと)い百本の経論を解得(げとく)するも、一箇の無事底の阿師には如かず。汝解得(げとく)すれば、即ち他人を軽蔑す。勝負の修羅、人我の無明、地獄の業を長ず。

善星比丘(ぜんしょうびく)の如きは、十二分教を解すれども、生身(しょうしん)にして地獄に陥り、大地も容れず。如かず、無事にして休歇(きゅうけつ)し去らんには。飢え来れば飯を喫し、睡(ねむり)来たれば眼を合す。

道流、文字の中に向(お)いて求むること莫れ。心動ずれば疲労し、冷気を吸うて益無し。如かず、一念縁起無生にして、三乗権学(ごんがく)の菩薩を超出せんには。

注:

阿師:阿は親しみを表わすために付ける接頭辞。

善星比丘(ぜんしょうびく):「涅槃経」第三十二迦葉菩薩品第二四の二に、「清浄出家法を遠離し、身、口、意等の不浄業を起こす。三業不浄の故に地獄、畜生、餓鬼を増長す」とある。その例として、善舎星比丘の名前が見える。

冷気を吸うて益無し:冷気を吸えば風邪をひいて益が無いと言う意味か?

心動ずれば疲労し:千字文の中の一節に「心動けば神疲る」という四文字熟語がある。「心動けば神疲る」とは心を使えば神(脳)が疲労すると言う意味だと思われる。この四文字熟語から神を除けば「心動けば疲れる」となる。その意味は心を使えば神(脳)が疲労すると言う意味だと思われる。

一念縁起無生:瞬間に縁起する一念はもともと生滅を超えたもの(無生)である。一刹那に、あらゆる存在は本来そのものである(無生)。

三乗権学(ごんがく)の菩薩:三乗の方便教で説く菩薩。

         

現代語訳


諸君、間違えてはならない。君達がどんなに経論を理解できてもわしは認めない。また、君達が国王大臣であっても認めないし、どんなに雄弁であっても認めないし、どんなに聡明で智慧があっても認めない。

ただ君達が「真正の見解」を得ることを望むだけだ。

諸君、たとい百本の経論を説き明かすことができても、一人の「無事」の坊さんには及ばない。学識があると他人を軽蔑し、優劣を争う。そのため、自我に執着して、地獄に落ちるような苦しみを生むことになるのだ。

善星比丘(ぜんしょうびく)は、仏教の全教理を理解していたが、生きながら地獄に落ち、大地に身の置き所がなかったと言われる。それより無事にして心安らかなのが一番だ。「腹が減れば飯を食い、睡(ねむり)くなれば眠る」だ。

諸君、言語文字の中に求めてはならない。頭を使いすぎれば心が疲れる。冷気を吸えば風邪を引いて良いことは無い。それよりも、一刹那に、あらゆる存在は本来そのものであると知って、三乗の方便教で説く菩薩を超えることが大事なことである。


コメント


この示衆の冒頭で、臨済はどんな学識、地位・権力、雄弁、頭の良さ(聡明さや智慧)のどれも評価に値しないと説く。

それよりも、

ただ「真正の見解」を持つことが大事だと強調している

のが注目される。仏教の開祖ゴータマ・ブッダは八聖道において「正見」を第一に挙げている(原始仏教:「八聖道」を参照)。

このように、

臨済の「真正の見解」は仏教の教祖ゴータマ・ブッダの「「正見」」に直結するのである。

彼は仏教の全教理を理解できた聡明さと智慧を持っていた善星(ぜんしょう)比丘(びく)が、生きながら地獄に落ちた例を上げる。どんなに学識があり、頭が良くても(聡明さや智慧があっても)だめだと説く。

学識があると自己を誇り他人を軽蔑し、優劣を争う。そのため、自我に執着して、地獄の苦しみを受けるぞと警告している。

そんなことより無事にして心安らかなのが一番だと無事の思想を強調し、「飢え来れば飯を喫し、睡(ねむり)来たれば眼を合す(腹が減れば飯を食い、睡(ねむり)くなれば眠る)」と楽道歌の一節を引用するのである。

これから、臨済は自然で無事な生き方を大切にしていたことが分かる。

これと同じ考えは馬祖の法嗣大珠慧海にも見える。

大珠慧海は「諸方門人参問語録」に於いて、「道を修行するのにどういう手立てを用いるのですか?」と言う質問いに対し、「飢え来たれば飯を喫し、疲れ来たれば即ち眠る」と答えている。

この言葉は臨済の「飢え来れば飯を喫し、睡(ねむり)来たれば眼を合す」と言う言葉に非常に良く似ている。

馬祖禅では

運水搬柴(うんすいはんさい)これ神通、着衣喫飯(ちゃくえきっぱん)これ妙用

と言う言葉が有名である。

臨済の「飢え来れば飯を喫し、睡(ねむり)来たれば眼を合す」と言う言葉は馬祖が説いた<日用即妙用>に遡ると考えられる。

示衆の最後のところで、臨済は「諸君、言語文字の中に求めてはならない」と仏法の真理を思想や哲学に求めてはならないと戒めているのも注目される。

真正の見解」については示衆6−1にも述べられている(示衆6−1を参照) 。


   

〔示衆〕14−4

岩波臨済録 p.142〜144  



因循(いんじゅん)として日を過ごすこと莫れ。山僧往(その)日(かみ)、未だ見処有らざりし時、黒漫漫地(こくまんまんぢ)なりき。

光陰虚しく過ごすべからず、腹熱し心(こころ)忙(せ)わしく、奔波(ほんぱ)して道を訪(とぶら)う。後に還って力を得て、始めて今日に到って、道流と是(かく)の如く、話度(わたく)す。

諸の道流に勧む、衣食の為にすること莫れ。看よ、世界は過ぎ易く、善知識には遭い難し。優曇華(うどんげ)の時に一たび現ずるが如くなるのみ。

汝諸方に箇の臨済老漢有りと聞道(きき)て、出で来たって便ち問難して、語り得ざらしめんと擬す。山僧に全体作用せられて、学人空しく眼を開き得て、口総に動き得ず。忙然として何を以って我に答えんかを知らず。

我れ伊(かれ)に向って道(い)う、竜象の蹴踏(しゅくとう)は驢の堪うる所に非ずと。汝は諸処に祇だ胸を指し肋(ろく)を点じて、我れ禅を解し道を解すと道(い)う。三箇両箇、這裏に到って奈何(いかん)ともせず。

咄哉、汝は、這裏の身心を将(も)って、到る処に両辺皮(りょうへんぴ)を簸(ひ)いて、閭閻(りょえん)を誑(おう)ガす。鉄棒を喫する日有らん。出家児に非ず。尽(ことごと)く阿修羅界(あしゅらかい)に向って摂(せっ)せられん。

注:

因循(いんじゅん)として:ぐずぐずとして。

奔波(ほんぱ):波がうち寄せるようにどっと攻め寄せるさま。

話度(わたく)す:話合う。

優曇華(うどんげ):優曇鉢羅華(うどんばらげ)の略。優曇鉢羅華は3000年に一度開花するという想像上の花。仏法に極めて遭い難いことに喩える。

全体作用:全能力をかけて働きかけること。

竜象:象のうちで最も優れたもの。

咄哉:こら!

両辺皮(りょうへんぴ)を簸(ひ)いて:上唇と下唇をパタパタ動かして。くだらないおしゃべりをして。

閭閻(りょえん):村人。

閭閻(りょえん)を誑(おう)ガす:村人を誑(たぶら)かす。

         

現代語訳


諸君、ぐずぐずと無駄に日を過してはならない。わしもかって、未だ悟りを開くことができなかった時、真っ暗闇の状態だった。

時間を虚しく過ごしてはならないと思うと、腹は熱し気はあせり、波がうち寄せるようにして道を求めたものだ。

後に修行のお陰で力を得て、始めて今日君達とこうして、君達と話合えるようになった。

諸君に忠告したい。決して衣食の為に修行してはならない。見よ!人生は過ぎ易く、善知識には遭い難い。それは優曇鉢羅華(うどんばらげ)の花が三千年に一度しか開かないようなものだ。

君達は諸方でこの臨済という親爺がいると聞いて、出で来て問答を挑み、黙らせてやろうとする。しかし、逆にわしに全体作用されると、挑戦者はパチクリと眼を開き、口を閉じて黙り込むだけだ。

忙然として何をどう答えたら良いのかも分からない始末だ。そんな時、わしは彼に、「巨象の一蹴りに驢馬が堪えることはできない」と言う。

君達はいたる所で、胸を張って、「我こそは禅を会得し道が分かった」と高言する。しかし、そんな者が二、三人束になって来ても、わしに歯が立つはずがない。

こらー!」お前達はこれくらいの実力しかないのに、到る処で口を開いて、村人達を誑(たぶら)かしている。いつか閻魔大王の前で鉄棒を食らう日が有るだろう。

そんな者は出家とは言えない。皆闘争の世界に落ちてしまうだろう。


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一つ前の示衆14−3では真正の見解を述べ、この示衆の冒頭では「因循(いんじゅん)として日を過ごすこと莫れ」と勤勉の思想を説いている。

真正の見解(正見)」と「勤勉(正精進)」は原始仏教以来仏教の正統的思想である(原始仏教:「八聖道」を参照)。。

この示衆では修行に集中して早く「真正の見解」に到達するように説いている。

この示衆と一つ前の示衆14−3で見られるように、

仏教の教祖ゴータマ・ブッダの「正見」と「勤勉」の思想は中国唐代の臨済によって甦った!

と言えるだろう。

このように、先祖帰りしたかのように、臨済の禅思想は教祖ゴータマ・ブッダに繋がっているのだ。


   
14-5

〔示衆〕14−5

岩波臨済録 p.145〜147  



夫れ至理(しいり)の道の如きは、諍論(そうろん)して激揚(げきよう)を求め、鏗(こう)ソウとして以って外道を摧(くだ)くに非ず。

仏祖の相承(そうじょう)に至っては、更に別意無し。設(たと)い言教有るも、化儀(けぎ)の三乗五性、人天の因果に落在す。

円頓の教えの如きは、又且く然らず。童子善財は皆な求過(ぐか)せず。

大徳、錯って用心すること莫れ。大海の死屍を停(とど)めざるが如し。祇麼(ひたす)ら担却(たんきゃく)して天下に走らんと擬(ほっ)す。

如(も)し出格見解の人有って来たらば、山僧が此間(すかん)には、便ち全体作用して根器を歴(へ)ず。

自ら見障を起こして、以って心を礙(さ)う。日上に雲無ければ、天に麗(かがや)いて普く照らす。眼中に翳(えい)無ければ、空裏に花無し。

道流、汝如法ならんと欲得(ほっ)すれば、但だ疑を生ずること莫れ。展(の)ぶる則(とき)は法界に弥綸(みりん)し、収むる則(とき)は糸髪も立たず。歴歴孤明にして、未だ曽って欠少(かんしょう)せず。

眼見ず、耳聞かず、喚んで什麼(なに)物(もの)とか作(な)す。古人云く、説似一物則不中(せつじいちもつそくふちゅう)と。

汝但だ自家に看よ。更に什麼(なに)か有らん。説くも亦た無尽(むじん)。各自に力を著(つ)けよ。珍重。

注:

諍論(そうろん):議論。言い争うこと。

激揚(げきよう):熱気を高めること。興奮すること。

鏗(こう)ソウとして:かん高い声を上げて。

化儀(けぎ):教化のための様式・規範。

童子善財:「華厳経」入法界品に出る善財童子のこと。彼は南方へ55人の善知識を歴訪しながら求道の旅をした菩薩として描かれる。

大海の死屍を停(とど)めざるが如し:大海は清浄であることを好み、不浄な屍体をすぐ岸に打ち上げるという。

担却(たんきゃく):かつぐこと。 

見障:正しく理法を見ることを妨げる障碍。

珍重(ちんちょう):ご苦労さま。

         

現代語訳


そもそも仏法の究極の理法は、興奮して議論したり、かん高い声を張り上げて外道の説を打ち破るところにはない。

歴代の仏祖が伝えてきた道は、何も特別なものではない。たといそれらしい教理があるにしても、それは三乗や五性といった人間界や天上界で通用する方便説に過ぎない。

大乗円頓の教えは、そのようなものではない。あの善財童子も求道の旅で全ての善知識に会ったのではないのだ(善財童子は「一超直入如来地」を説く頓悟禅を説く善知識に会ったのではないのだ)。

諸君、間違った心の使い方をしてはならない。『大海はいつまでも死体を留めてはおかない』と言うだろう。

君達は死体(死体のような既成概念)を担いで天下を走り回っている。自分勝手な間違った量見を起こして、本来の心を妨げている。

太陽に雲がかからなければ、その光は天空に輝いて普く照らす。眼にそこひが無いならば、空に幻の花を見ることが無い。(それと同じように死体のような既成概念さえ無ければ本来の心をはっきり見るだろう)

君達、理法のように生きようとすれば、疑念を起こしてはならない。広げれば宇宙いっぱいに満ち溢れ、収めれば髪の毛一本も立たない。はっきりとしていて少しも欠けることがない。

眼にも見えず、耳にも聞こえない。それを何と呼んだら良いだろうか。

古人はそれを、「説似一物則不中(せつじいちもつそくふちゅう)」と言った。

君達、それを自分の眼で見なければならない。わしにそれ以上何も言う事はない。それを説けば尽きることは無いだろう。各自が力を著(つ)けるほかないのだ!ご苦労さま。


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この示衆の後半部に「歴歴孤明にして、未だ曽って欠少(かんしょう)せず」という表現がある。

示衆10−11にも「千偏万偏、脚底に踏過して黒没シュン地(こくもつしゅんち)にして、一箇の形段(ぎょうだん)無くして歴々孤明なり」と「歴歴孤明」という同じ表現が出ていた。

臨済も「それを自分の眼で見、各自が力を著(つ)けるほかない」と言っているように悟りの本体である「本来の面目=下層脳を中心とした脳」について言っているとことは明らかである。

それは南岳懐譲の有名な言葉「説似一物則不中(せつじいちもつそくふちゅう)」を引用していることからも分かる。

示衆10−13では「活溌溌地(かっぱつぱつち)にして祇だ是れ根株(こんしゅ)勿し。擁(よう)すれども聚(あつま)らず、撥すれども散ぜず。求著(ぐじゃく)すれば転(うた)た遠く、求めざれば還って目前に在って、霊音(れいいん)耳に属す」と少し違う表現になっているが、同じ「本来の面目=下層脳を中心とした脳」について言っている。


南嶽懐譲の「説似一物即不中」


六祖慧能の法嗣南嶽懐譲(677〜744)には「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)」という有名な言葉がある。これは懐譲と慧能の問答に由来する言葉である。

「六祖檀経」には懐譲と慧能の次のような問答が出ている。

慧能「どこからきたのか?」

懐譲「嵩山から来ました。」

慧能「なにものがこのように来たのか?」

この慧能の問いはあなたの本来の自己とは何かということを懐譲に聞いている。慧能はこの問いで場所を聞いているのではない?「どこからきたのか?」と場所にかこつけて自己本来の面目について質問しているのである。

このようなタイプの質問を借事問と言う。

しかし、懐譲はこの問いに答えることができなかった。その後懐譲は8年の修行によって慧能の問いの意味が分かった。そこで慧能に再び会いに行った。

懐譲「私は以前和尚(慧能)の問いに答えることができませんでしたが、その後の修行で悟るところがありました。」

慧能「何が分かったというのだ?」

懐譲「説似一物即不中(説似すれども一物として中(あた)らず)

慧能「それには修行による証明が必要なのか?」

懐譲「修行による証明が必要ないとはいいません。しかし、心が汚染されていてはこのように答えることはできません。」

慧能「ただこの不汚染の境地は諸仏が護念する所である。お前はこの不汚染の境地に居る。私もそれと同じだ」と懐譲の境地を褒めた。

懐譲はこの慧能の言葉を聞いて豁然と契会した。

懐譲はその後慧能の下で15年間修行し、大悟した。懐譲は修行が終わった後慧能の下を辞して南嶽山に入り禅宗を大いに盛んにした。

懐譲の<説似一物即不中>の言葉は有名である。禅定修業で懐譲が見たものは下層脳(=脳幹+大脳辺縁系)を中心とする脳を表わしていると見ることもできるのではないだろうか? そのように考えると上の問答はよく理解できる。


「どこからきたのか?」:借事問の起源


禅問答では「何れの処よりか来る?」という質問がよくされる。

この問答の原型は南嶽懐譲と慧能の有名な問答より来ていることが分かる。この問答を見ても分かるように慧能は場所を聞いているのではない。慧能の問いはあなたの本来の自己とは何かということである。

場所を聞いているのではない。このタイプの質問を<借事問(しゃくじもん)>と言う。


14-5-1

臨済の脳に対する実感と栄西の興禅護国論の序文


示衆14−5の後半部に見られる 臨済の言葉「展(の)ぶる則(とき)は法界に弥綸(みりん)し、収むる則(とき)は糸髪も立たず。歴歴孤明にして、未だ曽って欠少(かんしょう)せず。眼見ず、耳聞かず、喚んで什麼(なに)物(もの)とか作(な)す」は脳の性質に対する実感を文学的に表現したもの(臨済なりの)と考えられる。

我が国の栄西禅師(1141〜1215)は「興禅護国論」の序文において、これと同じようなことを述べている。

「大いなる哉心や。天の高きは極むべからず。しかるに心は天の上に出ず。地の厚さは測るべからず。しかるに心は地の下に出づ。日月の光は超ゆべからず。而るに心は日月光明の表に出づ。大千沙界(しゃかい)は窮(きわ)むべからず。而るに心は大千沙界(しゃかい)の外に出づ。其れ太虚か、それ元気か、心は即ち太虚を包んで、元気を孕む者なり。」

この序文を現代語に訳すと次ぎのようになる。

「 広大なるかな人間の心よ、天は空高くして極限がない。しかし、心はその高さを超えて天の上に出る。大地の厚さは厚くて測ることはできない。

しかし、心は地の下に広がり出るものがある。太陽や月の光は心の光を超えるものではないが心の光は日月光明の上に超出している。

仏教が説く三千大千世界は窮めることはできない。しかし、人間の心はそのような世界をなお超える巨大なものである。

それは太虚とでも言おうか、元気とでも言おうか言いようがない。心はその太虚や元気をも内に包み孕むものである。」

ここで栄西は偉大な心(=脳)の認識能力や性質に対する実感を文学的に表現しているのである。

脳内宇宙は感知できないような微小電流が流れる電磁的相互作用の世界である。その実感を文学的に表現するとこのようになるだろう。

それは示衆14−5の後半部に見られる臨済の言葉と基本的には同じである。


這裏針剳(しんとう)も入らず


ある時、石頭希遷(700〜790)は、本来の面目について、「這裏(しゃり)針剳(しんとう)も入らず」と言った。

これに対し薬山惟儼(745〜828)は「這裏(しゃり)石上に華を栽(う)うるが如し」(本来の面目は石の上に花を栽培するような摩訶不思議なものだ)と言った。針剳(しんとう)とは針のかぎという意味で極めて小さいものという意味である。

示衆14−5で臨済は「収むる則(とき)は糸髪も立たず(収めれば髪の毛一本も立たない)」と言っている。

臨済の「収むる則(とき)は糸髪も立たず(収めれば髪の毛一本も立たない)」と言う表現は石頭希遷の「這裏(しゃり)針剳(しんとう)も入らず」という表現に良く似ている。

これも本来の面目(=脳)の性質に対する実感を文学的に表現していると言えるだろう。





臨済録の参考文献など



1. 入矢義高訳注、岩波書店、岩波文庫310−1 臨済録、1998年

2. 古田紹欽訳注、 角川書店、臨済録、1965年

3. 古田紹欽著、 春秋社、臨済録の思想、1956年



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