2010年2月作成


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臨済録:その2



示衆:続き


   
   
3-1

〔示衆〕3−1

岩波臨済録 p.46〜47  



師、衆に示して云く、「道流、切(せつ)に真正の見解(けんげ)を求取して、天下に向って横行して、這の一般の精魅に惑乱せらるるを免れんことを要す。

無事是れ貴人(きにん)、但だ造作すること莫れ。祇(た)だ是れ平常なれ。汝、外に向って傍家(ぼうけ)に求過(ぐか)して脚手(きゃくしゅ)を覓(もと)めんと擬(ほっ)す。錯(あやま)り了(おわ)れり。祇(た)だ仏を求めんと擬(ほっ)するも、仏は是れ名句なり。

汝、還(は)た馳求する底を識るや。三世十方の仏祖出で来たるも、也(ま)た祇(た)だ法を求めんが為なり。如今(いま)参学の道流も也(ま)た祇(た)だ法を求めんが為なり。法を得て始めて了る。未だ得ざれば、依然として五道に輪廻す。

云(い)何(か)なるか是れ法。法とは是れ心法。心法は形無くして、十方に通貫し、目前に現用す。人は信不及(しんふぎゅう)にして、便乃(すなわ)ち名を認め句を認め、文字の中に向って仏法を意度(いたく)せんと求む。天地懸(はる)かに殊(こと)なる」。

注:

無事是れ貴人(きにん):一切の作為を絶って自らの本然に安らいでいること。唐末の詩人羅隠の詩に「無事貴し」と言う。同じく杜荀鶴の詩に「無事の人」とある。「無事」は当時の愛用語であったようだ。しかし、無事の無には道教の影響も感じられる。いずれにせよ中国的である。

傍家(ぼうけ)に:脇道に。

脚手(きゃくしゅ):手助けの人。

五道:地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の五つの世界。五道に修羅を加えたものを六趣(六道)と言う。五道・六趣は迷いの世界。

意度(いたく):推測すること。

天地懸(はる)かに殊(こと)なる:天地が遥かに離れているように大間違いだ。

現代語訳


師は修行者に説いて云った、「諸君、世界に広くに真正の見解(けんかい)を求めて、修行しなければならない。そのへんで大風呂敷を広げ、野狐禅を説く狐つきのような怪しげな禅坊主なんかに惑わされてはならない。

無事の人こそが高貴なのだ。ことさら、計らいをしてはならない。ただ平常あるがままで居れば良いのだ。お前達は外に向って脇道に逸(そ)れ、手助けを求めようとする。しかし、それは間違いだ。お前達は仏を求めようとするが、仏とは単なる名前に過ぎないのだ。

お前達、その求め回っている自分の正体が一体何かが分かるか。三世十方の仏祖達がこの世に出て来たのも、ただ真の仏法を求めてなのだ。今ここにいるお前達もまた真の仏法を求めて参禅修行しているのだ。

だから法を得たらそれで全てが完了する。得なければ、今まで通り五道を輪廻するだけだ。それでは真の仏法とは何か。真の仏法とは心法である。

心法は形が無く、十方世界を貫き、目の前に生き生きと働いているではないか。人はそれに気付かず、信じることができない。「仏や菩提」などの文句や名前にこだわり、文字の中に仏法を求めようとするのだ。これでは天地が遥かに離れているように大間違いだぞ」。


コメント


この示衆で臨済は真正の見解が「真の仏法」だとして重視している。「真正の見解」はブッダの八聖道の「正見」や「正思」に通じる。臨済は「また外や文字に向かって仏を求めてはならない。形無くして十方世界を貫き、目の前に生き生きと働いている自己の心を識得し信じよ。」と言う。これが臨済の悟りと言えるだろう。

これは仏教の開祖ゴータマ・ブッダの<自帰依>に通じる姿勢と言える。  臨済の思想はゴータマ・ブッダの原始仏教に直結していることが注目される。


無事の思想 


この示衆で、注目されるのは「無事」の思想である。

この示衆で、臨済は「無事是れ貴人(きにん)」と「無事」の思想を説いている。 <無事>の思想は臨済録の至るところに見られる。

例えば示衆2の最後のところで、「若し能く是の如く見得せば、祇(た)だ是れ一生無事の人なり」という言葉に出てくる。また、示衆212−1には「身心の祖仏と別ならざるを知って、当下に無事なる・・・」 など、<無事>と言う言葉が頻繁に出て来る。これを表にすると次ぎのようになる。

表5  臨済録において、<無事>と言う言葉を含むページ

No 岩波臨済録の頁無事を含む文
34祇だ是れ一生無事の人なり。
42求心やむ処即ち無事と。
46無事是れ貴人
56大丈夫児は今日方に知る、本来無事なることを。
75仏と祖師とは是れ無事の人なり。
83如かず、無事ならんには。
90如かじ、無事にして、叢林の中に向いて牀角頭に・・・
99如かず、休歇して無事にし去らんには。
101著衣喫飯、無事にして時を過ごす。
10117一切の境に入れども、随処に無事なり。
11120如かず、無事ならんには。 
12126身心の祖仏と別ならざるを知って、当下に無事なる・・・
13128無事にして純一無雑ならんには、・・・
14141百本の経論を解得するも、一箇の無事底の阿師には如かず。

表5を見ると分かるように、<無事>の思想は臨済義玄の主要思想の一つであると言える。

馬祖語録には「時に随い、衣を著し、飯を喫し、聖胎を長養し、任運にして時を過ごすべし。更に何事か有らん。」とある。

臨済義玄の「無事」の思想には馬祖禅の任運自在(自然に従って自由なこと)の考えが反映されていると言えるだろう。


大珠慧海に見る<無事>の思想の源泉 


馬祖道一の法嗣大珠慧海はその著書「頓悟要門」や「諸法門人参問語録」において次ぎのように言っている。

大珠慧海「諸君は幸いに本来安らかな良い自己の持ち主である。しかるに、一生業を作り、自分にくびかせをはめて地獄に墜ちるようなことばかりしている。一体何をしようとしているのだ。朝から晩まで奔走して『俺は参禅し道を学んでいる。仏法が分かっている。』などと言っている。

こんなことではますます仏法とは無縁になってしまう。ひたすら現象界でうろうろ走り回っているばかりできりが無い。愚僧は、馬祖和尚から『そなたにある宝蔵には一切のものが具わっている。思いのまゝに使うことができるのだ。外に求める必要はない』。と言われた。それ以来心は安らかになり、自分の財宝を自分の身に応じて使っている。全く愉快というものだ。

一法も取ることのできるものはなく、何一つすてることのできるものはない。何一つ生滅する姿を見ない。何一つ行ったり来たりする姿を見ない。この十方世界何一つ己が財宝でないものはない。綿密に己の心を観察せよ。一体としての三宝が常に自ずから現われている。

疑わしいことは何も無い。思念するな。捜し求めるな。心の本性は元々清浄なのだ。

「華厳経」に『すべてのものは生ぜず、すべてのものは滅せず。』と言っている。このように分かったならば諸仏は常に目の前に現われるだろう。

また「浄名経(維摩経)」には「自分自身のありのまゝの真実の姿を観よ。仏についてもそのように観よ。」と言っている。もし現象界の物事に引きずられて心を働かすことをせず、姿・形を追いかけて観念を生じなければ自ずから安らいでいることができる。」

大珠慧海は師である馬祖道一禅師から『そなたには一切が具わった宝蔵がある。それを思いのまゝに使えば外に求める必要はない。』と言われ心は安心できた。それ以来自分の財宝を自分の身に応じて使っている。全く愉快な毎日を過ごしている。これが<無事の人>と言える。

大珠慧海は馬祖道一禅師からこの思想を受け継いだと言っている。このことから臨済の<無事の思想>は臨済独自のものではなく馬祖道一から受け継がれてきたことを示唆している。

大珠慧海は自己の心に具わった宝蔵とは不生不滅の一体としての三宝だとしている。仏教では三宝とは,仏、法、僧を指す。六祖慧能は自性の三宝を説いている(六祖壇経)。

六祖は自性の三宝としての自心覚(=仏)、自心正(=法)、自心浄(=僧)を修行によって達成し、それに帰依することが<自帰依>だと説いている。

その方が分かり易い。不生不滅の宝蔵が心に具わっているとするのは元々の仏教には無く中期大乗仏教の如来蔵思想によるものである。

大珠慧海は「如来蔵思想が説く清浄な仏性を疑うなと」言っている。これは信仰であり本当かどうかは分からない。ブッダは「心に清浄な仏性がある。」などとは言っていない。「心に清浄な仏性がある」とは中期大乗仏教において出てきた思想で、実証されてはいない。

大珠慧海は「自己の心に具わった不生不滅の宝蔵にある清浄なる仏性を信じる。これが分かれば本来仏であることが分かるから心は安らぎ満たされるので、外に求める必要はない。これが<無事の人>である」と言う。

しかし、この思想には飛躍がある。普通の人は心に具わった不生不滅の清浄なる仏性」を実証することなしには信じることはできないだろう。如来蔵思想は信仰の問題で、真実とは思われない。

むしろ、慧能の言う自性の三宝を修行(坐禅)を通して追求し実体験する。そのことによって自帰依が可能になるとする思想だとすれば合理的で分かり易い(甦る自帰依の思想と「自性三宝」の思想を参照)。


「伝心法要」に見られる<無事貴人>の思想 


<無事貴人>の思想は黄檗希運の説法集である「伝心法要」にも見られる。「伝心法要」において黄檗希運は次ぎのようなことを言っている。

百般のことについて博識であるより、求めることが無いというのが第一のことである。道人とは<無事の人>である。あれやこれやの心の持ち合わせは全くないし、道理として説くべきものも持たない。さあ、もう用はない。皆引き下がりなさい。」

黄檗の言う「道人とは<無事の人>である。」は臨済の<無事貴人>の思想に通じている。また「道人」という言葉には道教的な響きも感じられる。


臨済の<無事貴人>の思想と道教 


臨済の<無事貴人>の思想は臨済録を読めば臨済の主要な思想であることは明らかである。しかし、日本の臨済宗では<無事貴人>の思想は評価されていない。むしろ<無事禅>として否定的に評価されているようである。

これは中国人と日本人の国民性の違いからくるのかも知れない。「老子」の中に「聖人は恒に無心、百姓の心を以って心となす。」という言葉がある。

道教では聖人とは道を体得した理想の人をいう。その聖人の心は常に無心であると言うのである。臨済の<無事貴人>の思想は日本禅で言う<無事禅>のような禅ではなく常に無心であることを目指した禅と考えるべきではないだろうか。

そう考えると白隠禅師のいう<正念相続の禅>の正念を無心で置き換えたものと考える事もできる。無心は禅の主流となる概念である。臨済の<無事貴人>の思想は<無念・無心相続の禅>と捉え直した方が良いかも知れない。

無事貴人>の無事とは無為という道教の理想から来ていると考えれば臨済禅は道教の影響を受けていると考えられよう。

臨済は修行僧達を「道流(どうる)」と呼んでいる。「道流」も本来「道教を奉じる人達」という意味である。ここにも道教の影響が見られる。

有名な禅思想の研究者柳田聖山氏によると臨済録の総字数は14,535字で、使用された文字は1336字になるとのことである。同一文字が平均して10回ずつ使われていることになる。そこでは「不」の文字が309回、「師」が299回、「是」が285回、「無」が201回も使われているという。

「無」の思想の起源は道教の教祖老子の思想にある。臨済の禅には老子の思想の影響が強いと言っても過言ではないだろう。臨済録で臨済は「諸君、出家者はともかく修行が肝要である。」と言っている。

臨済は修行を重視したことが分かる。臨済の<無事貴人>の思想は彼の厳しい修行の結果得られた思想であることを示す。<無事禅>は<無事安逸の怠け者の禅>ではないのだ。


結論 


<無事是れ貴人>の概念は永嘉真覚大師の「証道歌」に説く<絶学無為の閑道人>に通じるところがある( 「証道歌」1.0を参照)。また、黄檗希運の「伝心法要」にも見られる。

それを考慮すると永嘉真覚大師 馬祖道一 大珠慧海 黄檗希運臨済へと流れていると考えられる。

<無事是れ貴人>の思想は道教の<無為の思想>の影響を受けていると思われる。

臨済の<無事貴人>の思想は悟り(本来仏の悟り)の境涯にある人について言えることであり、我々凡俗人については当てはまらない。

もし、<無事貴人>の思想を「我々凡俗人が何もしないでのんびり過ごすことは貴い。」と考えると大間違いであろう。そう考えると修行も何もしない怠け者が貴人となりかねない。

これは馬祖道一、大珠慧海、臨済達の真意ではない。

自性の宝蔵に具わる清浄なる仏性を坐禅修行を通して追求し体験証明する。そのことによって自帰依が可能になるとする思想だと思われる。しかし、このことは言うは易しく体験・証明するのは困難な道であろう。

   

〔示衆〕3−2

岩波臨済録 p.48〜49  



「道流、山僧が説法は什麼(なん)の法をか説く。心地の法を説く。便ち能く凡に入り聖に入り、浄に入り穢に入り、真に入り俗に入る。要且つ是れ汝が真俗凡聖の与(ため)に名字を安著(あんじゃく)するにあらず。

道流、把得して便ち用いて、更に名字に著せざる、これを号して玄旨と為す。山僧が説法は、天下の人と別なり。

祇(た)だ箇の文殊普賢有って、目前に出で来って、各(おのおの)一身を現じて法を問うが如きは、わずかに和尚に咨(もう)すと道(い)わば、我れ早く弁じ了(おわ)る。老僧穏座(おんざ)、更に道流有って、来たって相見する時、我れ尽(ことごと)く弁じ了(おわ)る。

何を以ってか此(かく)の如くなる。祇(た)だ我が見処(けんじょ)の別にして、外には凡聖を取らず、内には根本に住せず、見徹して更に疑謬(ぎびゅう)せざるが為なり」。

注:

心地の法:心を万法の根源と考える立場に立つと、心は万法を育む大地に譬えられる。「心地」や「心地法門」という言葉は梵網経にもよく出てくる。

名字を安著(あんじゃく)する:名前を付ける。格付けする。

文殊普賢:文殊菩薩と普賢菩薩。この二人は大乗仏教の理想的菩薩。文殊菩薩は智慧の、普賢菩薩は理と行(禅定)のシンボル的菩薩と見なされている。

現代語訳


「諸君、わしの説法では何の法を説いていると思うか?心地の法を説いているのだ。この心は「凡の世界」に入るかと思えば「聖の世界」に入り、「浄土」に入り「穢土」に入る。「真実の世界」に入るかと思えば、「世俗の世界」へとあらゆる世界に入る。

この心は君達の格付けで真俗凡聖の格付けをすることはできない。 そういう一般的な真俗凡聖の枠組でこの心の本体(本来の面目)にランク付けし、名前を付けることはできないのだ。

諸君、ここが分かったら直ぐに活用して、名前には一切とらわれないことだ。これがわしの奥義だ。わしの説法は、世間一般のものとちょっと違う。

たとえば文殊や普賢が目の前にその菩薩の姿を現わし、「和尚さんに仏法をお尋ねしたい」と問いかけただけで、わしはその心中を見抜いてしまうのだ。わしがここで静かに坐っているところへ、修行者がやって来て対面しても、わしはすっかり彼の実力を見抜いてしまう。

どうしてこのようなことができるかと言えば、わしの見地が格別で、外に向かっては凡聖の基準を当てはめず、内には悟りの根源にぬくぬくと安住せず、真の自己を徹見してそれを疑わないからだ」。


コメント


この示衆では、我々の心の本体(本来の面目)にランク付けし、名前を付けることはできないということを言っている。宋代の大慧宗杲(1089〜1163)も著書「正法眼蔵」で「この心は一切のものに名前をつけ字を立てるが誰も我々の心の本体(本来の面目)に名前を付け字を立てることはできない」と同じ趣旨のことを言っている。

臨済の生きた唐代では我々の心の本体(本来の面目)が頭蓋骨内部に隠れて存在する脳にあることは分かっていなかった。そこで「我々の心の本体(本来の面目)にランク付けしたり、名前を付けることはできない」と言うしかなかったと思われる。

後半部では「文殊や普賢が目の前に現われ問いかけたとしても、わしはその心中を見抜いてしまうのだ」と臨済の格外の禅の力量と境地を説いている。

   

〔示衆〕4−1

岩波臨済録 p.50〜51  



師、衆に示して云く、「道流、仏法は用功(ゆうこう)の処無し、祇(た)だ是れ平常無事(びょうじょうぶじ)。ア屎送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)困(つか)れ来れば即ち臥(ふ)す。愚人(ぐにん)は我を笑うも、智は乃ち焉(これ)を知る。

古人云く、『外に向って工夫を作すは総べて是れ痴頑(ちがん)の漢なり』と。汝且(しばら)く随処(ずいしょ)に主と作(な)れば、立所(りっしょ)皆な真なり。境来たるも回喚(えかん)するを得ず。たとい従来の習気(じっけ)、五無間(むげん)の業(ごう)有るも、自(おのずか)ら解脱の大海と為る」。

注:

用功(ゆうこう)の処無し:はからいの加えようがない。

ア屎送尿(あしそうにょう):くそをしたり(ア屎)、小便をしたり(送尿)すること。

困(つか)れ来れば即ち臥(ふ)す:南嶽懶サン和尚の「楽道歌」の句。

古人:南嶽懶サン和尚。

痴頑(ちがん):おろかで(痴)、かたくななこと(頑)。

随処(ずいしょ)に主と作(な)れば、立所(りっしょ)皆な真なり:僧肇(384〜414)の著書「不真空論」の句に基づく句。「どんな環境に於いても主体性を持って行動すれば真実の場となる」という意味。

五無間(むげん)の業(ごう):無間(むげん)地獄に落ちる原因となる五つの業(ごう)。1、父を殺すこと。2、母を殺すこと。3、阿羅漢を殺すこと。4、仏の身体から血を出すこと。5、和合僧(仏教教団)を破壊すること。

   

現代語訳


師は皆に説いた、「諸君、仏法には、はからいを加える必要は無い。ただ平常ありのままでありさえすれば良いのだ。

わしは大小便をし、着物を着、飯を食い、疲れたら横になるだけだ。わしのそのような姿を愚人は笑うかも知れない。しかし、智者はそれで良いと分かっているのだ。古人も『自分の外に造作を加えるのは皆頑固な愚か者だ』と云っているではないか。

君達、たとえどんな環境にあっても主体性を持って生きよ。そうすれば自分のまわりは真実の場となるのだ。そうなれば、たとえ逆境が来ても君達は環境に振り回されるようなことはない。過去の煩悩の残滓、無間(むげん)地獄へ落ちる五悪業などがたとえ有っても、それがおのずと解脱の大海となるのだ」。


コメント


この示衆で臨済はことさら造作を加えることなく、ア屎送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、疲れたら横になる平常無事(びょうじょうぶじ)の生活を説いている。後半では「随処(ずいしょ)に主と作(な)れば、立所(りっしょ)皆な真なり」の主体的姿勢で生きれば解脱できると言う。

「随処に主となる」主体的姿勢は臨済の四料揀の奪境不奪人に対応する境地と思われる(〔示衆〕1−1を参照)。臨済の仏法は「平常無事の心で随処に主となって生きる」ことにあると云えるだろう。

この示衆で臨済が説く平常無事の心とは馬祖禅の「平常即道」の心である。

臨済は「随処に主となれば、立処皆な真なり」の言葉を好きだっただようだ。同じ言葉は示衆([示衆]8−2 )にも見られる。

   

〔示衆〕4−2

岩波臨済録 p.51〜52  



今時の学者は、総べて法を識(し)らず、猶お触鼻羊(そくびよう)の、物に逢著(ほうじゃく)して口裏に安住するが如し。奴郎(ぬろう)弁(べん)ぜず、賓主分かたず。

是の如きの流(たぐい)は、邪心にして道に入り、閙処(にょうしょ)に即ち入る。名付けて真の出家人と為すことを得ず、正に是れ真の俗家人なり。

夫れ出家というは須らく平常真正の見解を弁得(べんとく)して、仏を弁じ魔を弁じ、真を弁じ偽を弁じ、凡を弁じ聖を弁ずべし。若し是の如く弁得せば、真の出家と名づく。

若し魔仏弁ぜずんば、正に是れ一家を出て一家に入る。喚んで造業(ぞうごう)の衆生と作す、未だ名づけて真の出家人と為すことを得ず。

祇(た)だ如今(いま)一箇の仏魔有り、同体にして分かたざること、水乳の合するが如きも鵞王(がおう)は乳を喫す。明眼の道流の如きは、魔仏倶(とも)に打(だ)す。汝若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に浮沈せん。

注:

触鼻羊(そくびよう):鼻を物にぶっつけたがる羊。

奴郎(ぬろう):奴隷と主人。

閙処(にょうしょ):にぎやかで騒がしい処。都市の市場や盛り場のような処。ここでは多くの修行僧が集まって経済的にも恵まれ暮らし易い僧院のこと。南方の雪峰義存禅師の下には常に1500人を越える修行者が集まったと伝えられる。有名な趙州禅師は多数の修行僧が集まる雪峰義存禅師の教団を軽蔑して見ていたと言われる。

弁得(べんとく):ぴたりと見分けてものにすること。

造業の衆生:地獄へ落ちる悪業を造る衆生。

鵞王(がおう)は乳を喫す:水とミルクが混ざっていても鵞王(がおう)は乳だけを選び分けて飲む。真偽・邪正を見分ける能力のたとえ。

仏魔:仏と魔。

   

現代語訳


今の修行者達は、まったく仏法というものを知らない。あたかも、鼻にぶつかった物を何でも口に入れる羊のように何に出会っても口に入れてしまう。召使(めしつかい)と主人の区別もつかず、主と客の見分けもできない。

このような輩(やから)は、不純な目的で出家したから賑やかな盛り場を好む。これでは真の出家と言うことはできず、単なる俗人に過ぎない。

いやしくも出家たる者は普通の日常生活で「真正の見解」を得て、仏と魔を見分け、真・偽、凡・聖を見分けなければならない。

若しこのような力を付ければ、真の出家と言うことができる。魔と仏を見分けることができないような人は、家から家へと渡り歩く造業の人で、未だ真の出家と言うことはできない。

たとえば、乳と水が混じったような仏と魔が一体になった仏魔が今ここに現れたとしよう。そんな時でも鵞王(がおう)はその中から乳だけを選び分けて飲むと言われる。

しかし、明眼の修行者なら、魔仏を一挙に打ち据える。もし聖だけを愛し凡を憎むようならば、生死の苦海に浮き沈むだろう。


コメント


この示衆で臨済は真の出家とは何かについて述べ、真の出家の条件について、次ぎのようなことを述べている。

  1. 鼻にぶつかった物を何でも口に入れる羊のように、何に出会ってもすぐ口に入れるようではだめだ。
  2. 召使(めしつかい)と主人の区別もつかず、主と客の見分けもできないようではだめだ。
  3. 賑やかな盛り場を好きこのんで出入りするような者はだめだ。
  4. 普通の日常生活で「真正の見解」を得て、仏と魔を見分け、真・偽、凡・聖を見分けなければならない。
  5. 魔と仏を見分けることができずに、家から家へと渡り歩くようなことをしてはならない。
  6. 仏と魔が一体になった仏魔が現れた時には魔仏を一挙に打ち据える。聖だけを愛し凡を憎むようではならない。

上の条件で気付くのは臨済は分別・弁別する分別智や知性に基づく「真正の見解」を重視していることである。

仏教では伝統的に分別意識や分別智を嫌う。分別意識や分別智は苦やストレスの元になるからである。

分別意識や分別智に基づく「真正の見解」を重視する臨済の姿勢は上堂9、示衆1−2、示衆5−2、示衆6−1にも見られる。

分別意識や分別智に基づく「真正の見解」を重視する臨済の姿勢は、大変注目される。

   
臨済録示衆5−1

〔示衆〕5−1

岩波臨済録 p.53〜55  



問う、「如何なるか是れ仏魔?」。

師云く、「汝が一念心の疑処、是れ箇の魔。汝若し万法(まんぽう)の無生(むしょう)にして、心は幻化(げんけ)の如く、更に一塵一法無くして、処処清浄なるに達得すれば是れ仏なり

然も仏と魔とは染浄の二境なり。山僧が見処に約せば、無仏無生、無古無今、得る者は便ち得、時節を歴(へ)ず、無修無証(むしゅむしょう)、無得無失、一切時中、更に別法無し。設(たと)い、一法の此(これ)に過ぎたる者有るも我は如夢如化(にょむにょか)と説かん

山僧の所説は皆是なり。道流、即今面前孤明歴歴地(れきれきじ)に聴く者、此(こ)の人は処処に滞らず、十方に通貫し、三界に自在なり。一切境の差別に入れども、回喚(えかん)すること能わず

一刹那の間に法界に透入して、仏に逢(お)うては仏に説き、祖に逢うては祖に説き、羅漢に逢うては羅漢に説き、餓鬼に逢うては餓鬼に説く。一切処に向って国土に遊履(ゆうり)して、衆生を教化すれども、未だ曽(か)って一念を離れず。随処清浄にして、光(ひかり)十方に透(とお)り、万法(まんぼう)一如なり」。

注:

一念心の疑処、是れ箇の魔:「伝心法要」において黄檗希運は「学道の人、一念も生死を計(け)すれば、即ち魔道に落つ」と云っている。

心は幻化(げんけ)の如く、更に一塵一法無くして:「伝心法要」において黄檗希運は「頓に自心本来是れ仏なりと了して、一法も得べき無く、一行の修すべき無き、此れは是れ無上の道なり、此れは是れ真如仏なり。」や「般若を学ぶ人は一法の得べき有るを見ず、」と云っている。また維摩経弟子品にも「一切の諸法は幻化(げんけ)の相の如し」とある。

処処清浄なるに達得すれば是れ仏なり:「伝心法要」において黄檗希運は「此の心是れ本源清浄仏なり」と云っている。

仏と魔とは染浄の二境なり:仏と魔とは浄と不浄という相反する二つの境地である。

得る者は便ち得る:この理法を得るということは、求めて新たに得るのではない。本来自己に具わる仏としての性質(仏性)に気付くだけである。

無修無証(むしゅうむしょう)、無得無失:仏性はもともと自己に具わっているのだから、修行によって始めて得て証明したり、失ったりするものではない。しかし、この言葉は臨済のように刻苦修行の結果悟った人にして始めて言える言葉である。未悟の人の場合は、参禅修行して悟った時に、良く分かる言葉といえるだろう。

即今面前孤明歴歴地(れきれきじ)に聴く者、此(こ)の人は処処に滞らず、十方に通貫し、三界に自在なり:この言葉は示衆1−3における 「目前歴歴底(れきれきてい)にして、一箇の形段(ぎょうだん)勿(な)くして孤明(こめい)なる、是れ這箇(しゃこ)、説法聴法を解(よく)す。若し是(かく)の如く見得すれば、便ち祖仏と別ならず」と良く似た表現である。

此(こ)の人:「本来の面目」(下層脳(脳幹+大脳辺縁系)を中心とした脳)のこと(第4章:見性と脳を参照)。

一刹那:約1/75秒。非常に短い時間のこと。

万法(まんぼう)一如:心境一如のこと(第6章:万物一体の思想を参照)。

     

現代語訳


問い、「仏と魔とはどんなものですか?」。

師は云った、「お前に一念の疑いが起これば、それが魔である。もしお前が全てのものは生起することなく、心は幻のように変化し、塵一つもなく空であり、清浄であると悟ったならば仏である。仏と魔とは浄と不浄の二つの相対的関係に過ぎない。

わしの見地からすれば、仏も衆生も無い。古人も現在人の区別も無い。得たものはもとからあるものであり、長い修行の時間を経てから得たのではない。修得の要も証明の要もない。得るということも失うということもない。

いかなる時においても、これ以外の法は無い。たとえ、これより優れた法があるにしても、それも夢や幻のようなものだ。わしの説はこのようなものだ。

お前達、今わしの目の前で独自の輝きを発しながら、わしの説法をはっきりと聴いている者、それはあらゆる処に滞(とどこお)らず、十方の世界を貫いて自由である。

この者はあらゆる種類の世界に入っても、ひっくり返されることはない。瞬間に世界に入って、仏に逢(お)えば仏に説き、祖に逢えば祖に説き、羅漢に逢えば羅漢に説き、餓鬼に逢えば餓鬼に説く自由さだ。

あらゆる場所でさまざまな世界に遊びながら、衆生を教化するが、当初の一念を離れない。いたるところが清浄で、光明は十方に行き渡り、一切のものは一つである」。


コメント


この示衆では仏と魔についての説明をしている。魔とは仏性を具有する自己を疑い、信じないことである。

仏とは全てのものは生起することなく、心は幻のように変化し、塵一つもなく空で、清浄であると悟った時だ」という。更に、臨済は仏について次のようにも言う。

今わしの目の前で独自の輝きを発しながら、わしの説法をはっきりと聴いている者(「即今面前孤明歴歴地(れきれきじ)に聴く者」)が仏である。」と言う。

この者は、

1)

あらゆる処に滞(とどこお)らず、十方の世界を貫いて自由である。

2)

あらゆる種類の世界に入っても、ひっくり返されることはない。「瞬間に世界に入って、仏に逢(あ)えば仏に説き、祖に逢えば祖に説き、羅漢に逢えば羅漢に説き、餓鬼に逢えば餓鬼に説く自由さだ

と自由そのものだと説く。勿論その仏の本体は真の自己の本体である脳のことである。

即今面前孤明歴歴地(れきれきじ)に聴く者」とは耳ではない。耳は聴く者である脳の出先器官(感覚器官)に過ぎないからだ。それが分かれば臨済が言う「わしの目の前で独自の輝きを発しながら、わしの説法をはっきりと聴いている者(「即今面前孤明歴歴地(れきれきじ)に聴く者」)とは脳であることが分かる。

魔とはこれを具有する自己を疑い、信じないことである言う。この示衆で臨済が説く仏と魔に対する定義は簡単明瞭である。

真の自己(=仏性)に対する説明の方が丁寧である。特に十方の世界を貫いて自由に変化する脳の性質に重点を置いて説明している。

脳は十方の世界と電磁的相互作用をしている電磁的システムである。地球の外から来る星の光も感知できるのは電磁的相互作用が遠隔力であるからである。脳宇宙の広がりと自由さは電磁的相互作用に基づいている。

その広がりに対する実感を「処処に滞らず、十方に通貫し、三界に自在なり」と文学的に表現していると考えることができる。

示衆の最後の「あらゆる場所でさまざまな世界に遊びながら、衆生を教化するが、当初の一念を離れない。いたるところが清浄で、光明は十方に行き渡り、一切のものは一つである」という言葉は悟りの世界に遊ぶ心の自由さを歌っている。示衆の最後に出てくる「万法(まんぼう)一如なり」という言葉は心境一如の境地を言っていると考えることができる(心境一如を参照)。

臨済は仏について、「仏とは全てのものは生起することなく、心は幻のように変化し、塵一つもなく空で、清浄である」と言う。

臨済の師黄檗希運は「伝心法要」において、「この心是れ本源清浄仏なり」と云っている。清浄とは健康を意味していると考えられる。彼らの考えをまとめると、仏とは健康になった脳を持ち自己に目覚めた人だということができるだろう。

筆者の考えでは、「坐禅とはストレスを解消することで脳を下層脳から健康にする方法である」(禅定の脳科学を参照)。

臨済と黄檗が説く仏と仏への道を図7に示す。

この図を見ると分かるように、坐禅によってストレスを解消し、健康な脳(=本源清浄心)を実現できれば仏になる(成仏する)ことができる。

これだと難解な禅と仏の意味も分かり易い。また抹香臭さも無くなるだろう。



図7

図7  臨済と黄檗が説く仏と仏への道


   

〔示衆〕5−2

岩波臨済録 p.56〜57  



「道流、大丈夫児は今日方(まさ)に知る、本来無事なることを。祇(た)だ汝が信不及なるが為に、念念馳求して、頭を捨てて頭を覓(もと)め、自ら歇(や)むこと能わず。

円頓(えんどん)の菩薩の如きは、法界に入って身を現じ、浄土の中に向いて凡を厭(いと)い聖を忻(ねが)う。 此(かく)の如きの流(たぐい)は、取捨未だ忘ぜず、染浄の心在り。禅宗の見解の如きは、又且(しばら)く然(しか)らず。直(じき)に是れ現今なり、更に時節無し。

山僧が説処は、皆是れ一期(ご)の薬病相(やくへいあい)治(じ)す。総べて実法無し。若し是(かく)の如く見得すれば、是れ真の出家、日に万両の黄金を消(つか)わん。道流、取次(しゅじ)に諸方の老師に面門を印破(いんぱ)せられて、我れ禅を解(げ)し道を解すと道(い)うこと莫れ。

弁(べん)の懸河(けんが)に似たるも、皆な是れ造地獄(ぞうじごく)の業(ごう)、若し是れ真正の学道人ならば、世間の過を求(もと)めず、切急(せっきゅう)に真正の見解を求めんと要(ほっ)す。若し真正の見解に達して円明(えんみょう)ならば、方に始めて了畢(りょうひつ)せん」。

注:

大丈夫児:禅が分かった偉丈夫たる者。

頭を捨てて頭を覓(もと)め、自ら歇(や)むこと能わず:演若達多(えんにゃだった)は鏡に映る自分の美貌を楽しんでいた。ある日直接自分の頭(こうべ)を直接見ようとしたが見えなかったので、鏡中の像は悪魔の仕業であると早合点し、不安にかられて町中を走り回ったと云う。「首楞厳経」第四巻にある話に基づいている。

円頓(えんどん)の菩薩:仏法の本質を悟った求道者(菩薩)。

薬病相(やくへいあい)治(じ)す:薬は病気を治すために用いるが、病気が治ると薬は不要になる。

是れ真の出家、日に万両の黄金を消(つか)わん:このような人は真の出家であり、一日に一万両の黄金を使うような価値ある生き方をしている。

取次(しゅじ)に:いい加減に、なおざりに。

面門を印破(いんぱ)せらる:顔の正面にペタリと証印を捺(お)される。

真正の学道人ならば、世間の過を求(もと)めず:「六祖壇経」の慧能の偈頌に「若し真の修道の人ならば、世間の過を見ず」とある。

切急(せっきゅう)に:ひたすらに。

円明(えんみょう)ならば:満月のように円明(えんみょう)ならば。

     

現代語訳


君達、禅が分かった偉丈夫たる者は今こそ「本来無事の人だ」と分かっても良いのだ。ただ君達はそれを信じることができない。そのため、自分を見失って探し求めた演若達多(えんにゃだった)のように、いつも不安にかられてせかせかと求め回って安心することが出来ないだけだ。

円頓(えんどん)の菩薩でさえ、法界の浄土に向って凡を嫌い聖を希求する。しかし、そのような者達は、未だ取捨選択の分別意識が残っている。未だ心が汚染されている。しかし、禅宗の見解は、それとは違う。今生きている現在が大事で更に別の時節を待ったりしないのだ。

わしの説法は、全てその時時に応じた薬であり、心の病を治すが、治れば薬はいらない。実体的な法などはどこにも無いのだ。若しこのように見得すれば、真の出家であり、一日に万両の黄金を使い切るような価値ある生き方をしていると言える。

諸君、諸方の老師の下でいい加減に印可証明されて、俺は禅が分かった、道も極めたと言ってはならんぞ。たとえその弁舌がさわやかで、滝が落ちるように滔滔と説法しようとも、地獄へ落ちる原因を造っているのだ。

真の修行者ならば、他人の落ち度などに目もくれず、切急(せっきゅう)に真正の見解を求めないといけない。若し真正の見解に達して満月のように円明(えんみょう)に輝くならば、その時に始めて修行は成就したと言えるだろう。


コメント


この示衆で臨済は、

真の修行者は、切急(せっきゅう)に真正の見解を求めないといけない。もし真正の見解に達して満月のように円明(えんみょう)に輝くならば、その時に始めて修行は成就し本来無事の人になる

と言っている。


   
6-1

〔示衆〕6−1

岩波臨済録 p.58〜60  



問う、「如何なるか是れ真正の見解?」。

師云く、「 汝但だ一切、凡に入り聖に入り、染に入り浄に入り、諸仏国土に入り、弥勒楼閣(みろくろうかく)に入り、毘廬遮那(びるしゃな)法界に入り、処処に皆な国土を現じて成住壊空(じょうじゅうえくう)す

仏は世に出でて大法輪を転じ、却(かえ)って涅槃に入って、去来の相貌有ることを見ず。其の生死を求むるに、了(つい)に不可得なり。便ち無生法界に入り、処処国土に遊履し、華蔵世界(けぞうせかい)に入って、尽(ことごと)く諸法の空相にして皆な実法無きことを見る

唯だ聴法無依の道人のみ有り、是れ諸仏の母なり。所以(ゆえ)に仏は無依より生ず。若し無依を悟れば、仏も亦た無得(むとく)なり。若し是の如く見得せば、是れ真正の見解なり」。

注:

凡に入り聖に入り、染に入り浄に入り、:示衆3−2にも「能く凡に入り聖に入り、浄に入り穢に入り、真に入り俗に入る」と良く似た表現がある。

弥勒楼閣(みろくろうかく):兜率天で法を説いているとされる弥勒菩薩が居る楼閣。

毘廬遮那(びるしゃな)法界:太陽のように遍く世界を照らす智慧の毘廬遮那仏(大日如来)の法界。

成住壊空(じょうじゅうえくう):宇宙は成(生成)、住(持続)、壊(破滅)、空(空無)の四つのサイクルを経て変化すると言う古代インドの宇宙論。部派仏教(小乗仏教)説一切有部の論書である「倶舎論」第三章に述べられている。

却(かえ)って:後に。

無生:生滅変化を離れること。

無生法界:生滅変化のない世界。

華蔵世界(けぞうせかい):蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)の略。蓮華蔵世界とは大乗仏教の宇宙論である。その世界に毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)(ヴァイローチャナ仏、略して盧舎那仏(るしゃなぶつ))と呼ばれる宇宙の根源的な仏がいるとする。盧舎那仏は蓮華蔵世界と呼ばれる世界で教えを説いている。華厳思想系の経典である梵網経(盧舎那佛説菩薩心地戒品)に説かれる。

無依の道人:何者にも依存しない自立独尊の主体。上堂3に説かれた無位の真人と同じと考えられる。百丈懐海の言葉に「仏は無著の人、無求の人、無依の人なり」があるとのこと。

     

現代語訳


問い、「真正の見解とはどのようなものですか?」。

師は云った、「君達はただそのままで、凡俗の世界や聖なる世界に入り、不浄界に入り、浄界である諸仏の世界、弥勒楼閣(みろくろうかく)や毘廬遮那(びるしゃな)法界に入り、至る処に国土を現じて成住壊空(じょうじゅうえくう)することだ

ブッダはこの世に生まれて教えの輪を回した後、涅槃に入ったがそこには出入去来の姿は見られないし、その生死を求めても分からない。そのまま生滅を超えた世界に入り、至る所の国土に遊行し、蓮華蔵世界に入って、全ての法は空で実体が無いのだと徹見する

ただこの説法を聴いている無依独立の真人(脳)こそが、諸仏の母なのだ。仏はその無依独立の真人(脳)より生れ出る。もし無依独立の真人(脳)に到達できれば、仏とは得るものではないと分かる。もしこのように見得できれば、それが真正の見解と言えるのだ。 」。


コメント


この示衆で臨済は「真正の見解」とは何かについて述べている。

臨済は「凡俗の世界や聖なる世界、諸仏の世界、弥勒楼閣(みろくろうかく)や毘廬遮那(びるしゃな)法界に自由に出入し、成住壊空(じょうじゅえくう)することだ。ブッダは探し求めても出入去来や生死の姿は見られないし、求めても分からない。そのまま生滅を超えた世界に入り、至る所の国土に遊行し、蓮華蔵世界に入って、全ての法は空で実体が無いのだと徹見することだ」と言う。

弥勒楼閣」や「毘廬遮那法界」に入るとは具体的にどのようなことか良く分からないが、イメージの世界で自由に聖なる世界に出入りすることを言っているのかも知れない。注目すべきことは後半部で言っていることである。

彼は「この説法を聴いている無依独立の真人(脳)から仏が生まれる。それこそこそが、諸仏の母であり本源である。もし無依独立の真人(脳)に到達できれば、仏とは本来からあるものだから改めて得るものではないと分かる」と言い、「もしこのように見得できれば、それが真正の見解だ」と諸仏の本源である独立無依の真人(脳)を徹見する重要性を強調している。

無依の道人とは上堂3で説かれた無位の真人(脳)と同じだと考えられる。

そう考えると、

臨済が強調する「真正の見解」とは諸仏の本源としての独立無依の真人(=脳)を徹見することであると言えるだろう。

臨済は示衆4−2や示衆5−2でも「真正の見解」を強調している。

これより「真正の見解」は「無事の思想」と共に臨済の主要な禅思想と言えるだろう。


   
6-2

〔示衆〕6−2

岩波臨済録 p.60〜63  



学人了(りょう)ぜずして、名句(みょうく)に執するが為に、彼の凡聖の名に礙(さ)えらる。所以(ゆえ)に其の道眼(どうげん)を障えて、分明なることを得ず。祇(た)だ十二分教の如きは、皆な是れ表顕(ひょうけん)の説なり。学者会せずして、便ち表顕の名句上に向かいて解を生ず。

皆な是れ依倚(えい)にして、因果に落在し、未だ三界の生死を免れず。汝若し生死去住、脱著(だつじゃく)自由ならんと欲得(ほっ)すれば、即今聴法する底の人を識取せよ。無形無相、無根無本、無住処にして活溌溌地(かつぱつぱつじ)なり。

応(あら)是(ゆ)る万種の施設は、用処(ゆうじょ)祇(た)だ是れ無処なり。所以(ゆえ)に覓著(みゃくじゃく)すれば転(うた)た遠く、之を求むれば転た乖(そむ)く。之を号して秘密と為す。道流、汝、箇の夢の伴子(ばんす)を認著すること莫れ。

遅晩(ちばん)中間、便ち無常に帰せん。汝は此の什麼物(なにもの)をか覓めて解脱と作す。一口の飯を覓取して喫し、毳(ぜい)を補って時を過ごすも、且(しばら)く知識を坊尋せんことを要す。因循(いんじゅん)として楽を追うこと莫れ。

光陰惜しむべし、念念無常なり。粗なるときは則ち地水火風に、細なるときは則ち生住異滅の四相に逼(せま)らる。道流、今時且く四種無相の境を識取して、境に擺撲(はいぼく)せらるるを免れんことを要す。

注:

名句(みょうく):名前や言葉。

表顕(ひょうけん)の説:表向きの宣伝文句。

依倚(えい):よりかかること。もたれかかること。

即今聴法する底の人:今わしの説法を聴いている人。脳のこと。説法を聴いているを人に喩えている。

活溌溌地(かつぱつぱつじ):魚がピチピチ跳ねる形容。

応是:すべての。

施設:仮に説き設定したもの。

用処(ゆうじょ):縁に応じた発動。

夢の伴子(ばんす):夢や幻のような連れ合い。空蝉(うつせみ)の肉体。

遅晩(ちばん)中間:遅かれ早かれ。

毳(ぜい)を補って時を過ごす:鳥獣の毛で作った僧衣をつくろって時を過ごす。

知識を坊尋せんことを要す:善知識を歴訪して求道した華厳経の善財童子のように名師を求めて道を求めるがよい。

生住異滅の四相:あらゆる存在は生起、持続、変異、消滅という過程を辿って変化する。その四つの状態。

擺撲(はいぼく):打ち動かすこと。

         

現代語訳


修行者はここのところが分からず名前や言葉に執着し、凡聖の概念にひっかかる。そのため心眼を暗まされて、はっきり見ることができないのだ。

仏陀一代の大蔵経典もすべて、看板の文句に過ぎないのだ。修行者はそこが分からず看板文句にいろいろ解釈を加えている。そんなものにもたれかかるようでは、因果に落ち、生死の迷いの世界から解脱することはできない。

お前達は自由に着物を脱いだり着たりするだろう。そのように、自由に生死に出入したいなら、いまわしの説法を聴いている人(脳)を識取しなければならない。それは形も姿も無く、根も本も無く、どこにも滞ることなく、ピチピチと活発に動いているではないか。

それが発動するさまざまな方便とその働きの跡かたは探してもどこにも無い。ゆえに、追いかければ追いかけるほど遠ざかり、求めれば求めるほど外れて行く。これを「秘密」と言うのだ。

お前達、自分のこの夢幻のような肉体を実在として執着してはならない。そんなものは遅かれ早かれ死滅してしまうものだ。お前達はここで一体何を求めて解脱しようとしているのか。

一口の飯にありつき、衣のつくろいをして時を過ごすよりは、善知識を尋ねて教えを乞う方が良い。のうのうと五欲の楽しみを追ってはならないのだ。

光陰は過ぎ易い。一瞬一瞬の間に死へ近づいて行く。肉体は地水火風の四元素に依存し、細かく見れば生住異滅の変化に追いたてられている。お前達、今こそ、これら生住異滅の四つの変化が掴まえることができない無相の世界であると見極めて、外界に振り回されることがあってはならないのだ。


コメント


この示衆では、修行者は名前や言葉に執着し、凡聖の概念にこだわってはならない。仏教の大蔵経典もすべて、看板の文句に過ぎない。そのようなものにいろいろ解釈を加え有り難がりもたれかかるようでは、因果に落ち、生死の迷いの世界から解脱することはできないと仏教界が驚き怒るようなことを言っている。

日本仏教において、浄土系宗派(浄土真宗、浄土宗)は浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)、日蓮宗や天台宗は法華経、密教系宗派は大日経などの密教経典を所依経典にしている。それらの大乗経典にもたれかかりその解釈にエネルギーを費やし、有り難がっているからである。

臨済はそのような経典主義よりは坐禅という修行の実践を強調していると考えることができるだろう。

この示衆で臨済は「お前達、自分のこの夢幻のような肉体を実在として執着してはならない。そんなものは遅かれ早かれ死滅してしまうものだ」と言っている。臨済はこの肉体は夢幻のようなもので実在ではないから執着してはならないと言っているのだ。これは大乗仏教の空観に立った考え方で問題がある。

現代科学が明らかにしたところによると、この肉体は夢幻のようなものではなく、実在する。叩けば痛いし、切れば血が出る。現代発展中の再生医学では肉体を構成している細胞を再生することもできるようになっているのだ。

このあたりの臨済の考え方は未だ古代の間違った考えであり、現代科学に基づいて訂正すべきであろう

それこそが臨済の言う「真正の見解」を重視することになるだろう。

後半部では真の自己である「面前で聴法する底の人を識取せよ」と臨済のメインテーマについて述べている。

これは示衆5―1では「即今面前孤明歴歴地(れきれきじ)に聴く者」、示衆6―2では「聴法無依の道人」、上堂3では「一無位の真人」としてそれぞれ出ている。

六祖慧能の法嗣南岳懐譲はそれを「説示一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)」と言っている(南岳懐譲の「説示一物即不中」を参照)。

この示衆ではそれは形も姿も無く、根も本も無く、どこにも滞ることなく、ピチピチと活発に動いている。臨済はこれを「秘密」と言っている。科学的に言えば頭蓋骨の中に隠れているのことである。

臨済の活躍した唐代(古代)には脳の機能や心の座が何であるかが分からなかった。彼は文学的に表現するしかなかったのである。


   

〔示衆〕7−1

岩波臨済録 p.63〜65  



問う、「如何なるか是れ四種無相の境?」

師云く、「汝が一念心の疑、地に来たり礙(さ)えらる。汝が一念心の愛、水に来たり溺らさる。汝が一念心の瞋(しん)、火に来たり焼かる。汝が一念心の喜、風に来たり飄(ひるが)えさる。若し能く是の如く弁得せば、境に転ぜられず、処処に境を用いん。東湧西没(とうゆうせいもつ)、南湧北没、中湧辺没、辺湧中没、水を履(ふむ)むこと地の如く、地を履(ふむ)むこと水の如くならん

何に縁(よ)ってか此(かく)の如くなる。四大の如夢如幻に達するが為の故なり。道流、汝が祇(た)だ今聴法するは、是れ汝が四大にあらずして、能く汝が四大を用う。若し能く是の如く見得せば、便乃(すなわ)ち去住自由ならん」。

注:

四相無相の境:あらゆる存在は生住異滅(生起、持続、変異、消滅)の四相の過程を辿って変化するが、その四つの状態は因縁(因果関係)によって現れる仮の姿であり、空(くう)、無相である。

東湧西没(とうゆうせいもつ):摩訶般若波羅蜜経(大般若経)の序品にはこの経典を説く時、仏の神通力によって、国土が感動して六種に感動した。東に踊り西に沈み、西に踊り東に沈み、南に踊り北に沈み、北に踊り南に沈み、辺(ほとり)に踊り中に沈み、中に踊り辺(ほとり)に沈む。これを見て衆生が喜悦したという奇瑞が起こったという。この奇瑞で踊るという言葉を湧くに変えた表現になっている。臨済は真の見解を得ればこのような自由さを発揮できると言っている。

水を履(ふむ)むこと地の如く、地を履(ふむ)むこと水の如くならん:仏や菩薩が起こす奇跡の二例。

汝が祇(た)だ今聴法するは、是れ汝が四大にあらずして、能く汝が四大を用うあなたは今わしの説法を聴いているが、聴いているのはあなたの肉体ではない。あなた(真の自己=脳)がそれを動かし用いているだ。

四大:地、水、火、風の四元素(古代ギリシャ以来の四元素説)。それで構成された肉体。

         

現代語訳


問い、「四種無相の境」とはどのようなものですか?」

師は云った、「お前達の一念の疑の心は、(四大の内の)堅く凝った地によって妨げられるように生まれたものだ

お前達の一念の愛着の心は、(四大の内の)水に溺れるようにして生まれたものだ。お前達の一念の怒りの心は、(四大の内の)火に焼かれるようにして生まれたものだ。前達の一念の喜びの心は、(四大の内の)風に吹き上げられように生まれたものに過ぎない

もしこのように会得できれば、疑、愛着、怒り、喜びの心に振り回されず、逆にどこでもそれを使いこなすことができるだろう

(般若経で説くところによると)仏の神通力によって、国土が六種に感動し、東に踊り西に沈み、西に踊り東に沈み、南に踊り北に沈み、北に踊り南に沈み、辺(ほとり)に踊り中に沈み、中に踊り辺(ほとり)に沈んだと言われる。また仏菩薩の神通力では水上を地上のように歩くことができると言われる。どうしてこのようになるのだろうか?。

それは肉身を構成する四大は夢や幻のように実体がない、空なるものだと分かっている為である

お前達、今お前達はわしの説法を聴いているが、聴いているのは肉体ではない。それを動かし用いているもの(主体=脳)だ。そのように理解できれば、死ぬも生きるも自由になるだろう」。


コメント


この示衆で臨済は「四種無相の境」とは疑、愛(愛着)、瞋(しん)(怒り)、喜びなどの心が煩悩(迷い)の原因だと考えている。

疑の心は、堅く凝った地によって妨げられるように生まれたもの、愛着の心は、(四大の内の)水に溺れるようにして生まれたもの、怒りの心は、火に焼かれるようにして生まれたもの喜びの心は、風に吹き上げられように生まれたものに過ぎないと考えよ。そうすれば、疑、愛(愛着)、瞋(しん)(怒り)、喜びのような心に振り回されず、逆にどこでもそれを使いこなさすことができるだろうと説いている。

この示衆で臨済は地水火風の四大説に基づいて説法をしている。四大説は古代ギリシャやインドで有力だった古代の物質観である。今から見ればちょっと古いが臨済の生きた唐の時代はまだ古代である。臨済も時代の制約を受けた説法をせざるを得なかったのは仕方がないと思われる。

我が国の大応国師(南浦紹(なんぽじょう)明(みょう)、1235〜1308)は「大応仮名法語」に於いて、「汝が怒る心を持つのは四大のうちの火大に当たるのであり、怒りのために面も赤く身の中もほてるのである。心がぼんやりとして暗いのは汝が四大のうちの地大に当たるのであり、物を知ることができないのである。物を愛し慕う心が深く、その心から泣いて涙を浮かべるのは汝が四大のうちの水大に当たる心のことであり、・・・」と臨済と同じようなことを言っている。

後半部では、肉身を構成する元素は夢や幻のように実体がなく、空なるものだ。この説法を聴いているものは肉体ではなく、それを動かし用いているもの(主体=脳)である。

そのように理解できれば、死ぬも生きるも仏菩薩のように自由になるだろうと説いている。


   
7-2

〔示衆〕7−2

岩波臨済録 p.65〜66  



山僧が見処に約せば、嫌う底(てい)の法勿(な)し。汝若し聖を愛すれば、聖とは聖の名なり。一般の学人有って、五台山裏に向いて文殊を求む。早く錯り了(おわ)れり。五台山には文殊無し。

汝、文殊を識らんと欲するや。祇(た)だ汝目前の用処、始終不異(ふい)、処処不疑(ふぎ)なる、此箇(これ)は是れ活文殊なり。汝が一念心の無差別光は総べて是れ真の普賢なり。

汝が一念心の自ら能く縛(ばく)を解いて随処に解脱する、此(これ)は是れ観音三昧の法なり。

互いに主伴と為(な)って、出づる時は則ち一時に出づ。一即三、三即一なり。是の如く解得(げとく)して、始めて看教(かんきょう)するに好し。

注:

五台山:山西省大原府にあり、文殊菩薩の霊場として知られる。

三昧:サマーディの音訳。心を対象に専注してそれと一体になること。

         

現代語訳


わしの見るところでは、憎愛の心が無いから嫌うようなものは何も無い。お前達が若し凡俗を嫌って聖を愛したとしても、聖は単なる名前に過ぎない。

修行者の中には五台山に向いて文殊菩薩を求める者がいるが、既に間違っている。五台山には文殊はいない。

お前達、文殊に会いたいか。今わしの目前で躍動しており、終始一貫して、一切処に疑うことのできない君達自身、それこそが活きた文殊なのだ。

お前達の差別を超えた智慧の世界が一切処にあって真の普賢菩薩なのだ。

お前達の一念心が、自らの束縛を解いて、いたるところで解脱するのが観音三昧の法である。

これらの三つの働きは互いに主となり従となって、その発現は同時である。一が即ち三、三が即ち一である。これが分かれば、経典を読んでも問題ないのだ。


コメント


この示衆で臨済は「修行者の中には五台山に向いて文殊菩薩を求める者がいるが、既に間違っている。外に仏菩薩を求めることは間違いである。自己に求めよ」と言っている。

彼は、活きた文殊、真の普賢菩薩、観世音菩薩について次のように説いている。表にすると次ぎの表6ようになる。

表6 臨済が説く真の菩薩、あるいは活きた菩薩

菩薩 真の菩薩、あるいは活きた菩薩
文殊菩薩今わしの目前で躍動しており、終始一貫して、一切処に疑うことのできない君達自身
普賢菩薩差別を超えた智慧(一念心の無差別光)
観音菩薩一念心が、自らの束縛を解いて、いたるところで解脱する三昧の力

臨済は「これらの三つの働きは互いに主となり従となって、その発現は同時である。一が即ち三、三が即ち一である」と言っている。この部分は分かりにくいが図にすると分かり易くなる。

示衆1−3で臨済は「我々の本来の心は法身仏、報身仏、化身仏の能力を具している」と「自性の三身仏」を説いていた。これを思い出せば簡単である。この示衆で、臨済は「我々の本来の心は文殊、普賢、観音の三菩薩の能力を具している」と説いている。

図6で三角錐で図示した「自性の三身仏」において三身仏の代わりに文殊、普賢、観音の三菩薩を置き換え「自性の三菩薩」を考えれば図8で表わすことができる。そうだとすれば一とは本来の心(本来の面目、健康な脳)ということになる。



図8

図8 本来の心(=健康な脳)を三角錐で表わした時、「真の菩薩」の能力を具えている


   

そのように考えれば臨済の難解な言葉「これらの三つの働きは互いに主となり従となって、その発現は同時である。一が即ち三、三が即ち一である」は分かりやすい。これを図9に示す。



図9

図9 一即三、三即一 


   

「一が即ち三」は図9において矢印の方向を反転させれば良い。図8でも「これらの三つの働きは互いに主となり従となって、その発現は同時である。一が即ち三、三が即ち一である」という臨済の言葉はそのまま表現されている。


   

〔示衆〕8−1

岩波臨済録 p.67〜69  



師、衆に示して云く、「如今(いま)の学道の人は、且(しばら)く自ら信ぜんことを要す。外に向って覓むること莫れ。総べて他(か)の閑塵境(かんじんきょう)に上(のぼ)って、都(す)べて邪正を弁ぜず。

祇(た)だ祖有り仏有るが如きは、皆な是れ教迹(きょうしゃく)中の事なり。人有って一句子の語を拈起(ねんき)して、或は、隠顕(おんけん)の中より出ずれば、便即ち疑いを生じて、天を照らし地を照らし、傍家(ぼうけ)に尋問して、也(ま)た太(はなは)だ忙然たり。

大丈夫児、祇麼(ひたす)ら主を論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ 、色を論じ財を論じ 、論説閑話して日を過ごすこと莫れ。

山僧が此間(すかん)には、僧俗を論ぜず、但(あら)有(ゆ)る来者は、尽く伊(かれ)を識得す。任(たと)い伊甚(いず)れの処に出で来たるも、但有(あらゆ)る声名文句(しょうみょうもんく)は、皆な是れ夢幻なり。却って境に乗ずる底の人を見るに、是れ諸仏の玄旨(げんし)なり。

仏境は自ら我は是れ仏境なりと称する能わず。還(かえ)って是れ這箇(これ)無依の道人、境に乗じて出で来たる。若し人有って出で来たって、我に仏を求むれば、我れ即ち清浄の境に応じて出ず。

人有って、我に菩薩を求むれば、我れ即ち慈悲の境に応じて出ず。人有って、我に菩提を求むれば、我れ即ち浄妙の境に応じて出ず。人有って、我れに涅槃を求むれば、我れ即ち寂静(じゃくじょう)の境に応じて出ず。

境は即ち万般差別すれども、人は即ち別ならず。所以(ゆえ)に物に応じて形を現じ、水中の月の如し」。

注:

閑塵境(かんじんきょう):つまらない文字言句。

教迹(きょうしゃく):教義の文句。

天を照らし地を照らす:うろたえる。

傍家(ぼうけ)に尋問す:わき道の方へ尋ねる。

主を論じ賊を論じる:政治的な議論をする。

色を論じ財を論じる:女や金のことを論じる。

境に乗ずる底の人:環境に引き回されず、主体的に使いこなす人。

仏境は自ら我は是れ仏境なりと称する能わず:仏境を仏境とするのはこちらである。

   

現代語訳


師は皆に説いて云った、「今仏法を学ぶ人は、自分を信じなくてはならない。外に向って求めてはならない。そのようでは下らない型にはまって、正邪をはっきりさせることはできない。

祖師や仏は教義上の文句に過ぎない。もし人が一句をことさら意味ありげに説くと、君達はすぐ疑いもたついて、見当違いに尋ね回って、忙然とする。大丈夫たる者は、やたらに政治や是非、女や金のような世俗の無駄話をして日を過ごしてはならない。

わしのところでは、出家であれ俗人であれ、どんな者が来ようと、ことごとく見抜いてしまう。たとい何処から出て来ようと、ただ言葉や文句を並べ立てるだけでは皆な夢や幻のようなものだ。

かえって、言葉や文句に振り回されずそれを使いこなす人こそが諸仏の玄旨(げんし)を得た人といえる。仏の境涯は自ら自分は仏の境涯であると言うことはできない。かえってこの無依の道人こそが、言葉や文句に振り回されずそれを使いこなしているのだ。

若し誰かがわしに仏を求めるならば、わしは清浄なる仏の境涯を演じる。若し誰かがわしに菩薩を求めるならば、わしは菩薩の慈悲の姿を演じて菩薩のように振舞おう。

若しわしに菩提を求めるならば、わしは浄妙の境地を演じるし、涅槃を求めるならば、わしは寂静(じゃくじょう)の境地を演じて涅槃の境地を示す。

このように境地はいろいろ違っても、主人公としての人は同じだ。相手に応じて姿を現すことは、あたかも水面に写る月影のようなものだ」。


コメント


この示衆において臨済は「仏法を学ぶ人は、自分が本来仏であると信じ、外に向って求めてはならないし、教義上の文句や言葉に取り付いてことさら意味ありげに取り上げ議論してもならない。大丈夫たる者は、政治や是非、女や金のような世俗の無駄話をして日を過ごしてはならない」と言う。

本来仏としての自己は、言葉や文句に振り回されずそれを使いこなす無依の道人(健康な脳)である。この主人公としての人(健康な脳)はあたかも水面に写る月影のように相手に応じて自在に姿を現すと言っている。

臨済の自由自在な禅境が伺えるような示衆である。


   
8-2

〔示衆〕8−2

岩波臨済録 p.71〜72  



道流、汝、若し如法ならんと欲得(ほっ)すれば、直に須らく是れ大丈夫児にして始めて得(よ)し。萎萎隋地(いいずいじ)ならば、即ち、得(よ)からず。夫れゼイ嗄(さ)の器の如きは醍醐(だいご)を貯うるに堪えず。大器の者の如きは、直に人惑を受けざらんことを要(ほっ)す。随処に主と作(な)れば、立処皆な真なり。

但有(あらゆ)る来者は、皆な受くることを得ざれ。汝が一念の疑は、即ち魔の心に入るなり。菩薩の疑う時の如きは、生死の魔便(たよ)りを得。但(た)だ能く念を息(や)めよ。更に外に求むること莫れ。

物来たらば即ち照らせ。汝は但だ現今用うる底を信ぜよ。一箇の事も也(ま)た無し。汝が一念心は、三界を生じて、縁に随い境を被(こうむ)って、分かれて六塵となる汝如今応用する処、什麼(なに)をか欠少(かんしょう)す。

一刹那の間に、便ち浄に入り穢に入り、弥勒楼閣(みろくろうかく)に入り、三眼国土(さんげんこくど)に入り、処処に遊履して、唯だ空名を見るのみ。

注:

萎萎隋地(いいずいじ):他人に盲従するさま。

ゼイ嗄(ぜいさ)の器:ひびの入った器。

醍醐(だいご):最高に美味な乳製品。現代のチーズやバターに似た乳製品と考えられる。ここでは仏性(下層脳を中心とした健康な脳)を指している。

便(たよ)りを得:すきにつけこむ。

物来たらば即ち照らせ:物がやって来たら知性の光を当てて照らし出せ。

一箇の事:『無一物中無尽蔵』や、南嶽懐譲の言葉『説似一物即不中(それと言いとめたらもう的はずれ)』に出てくるのこと。示衆1−4に出てきた『一精(せい)明(めい)』ののこと。数字の一ではない。下層脳を中心とする脳をで表わしている。

六塵:眼、耳、鼻、舌、身、意の六感覚器官。六根のこと。

三眼国土(さんげんこくど):「華厳経」入法界品において善財童子は救度国の善現比丘に会って菩薩行について教えを乞う。善現比丘は次の三つの能力を持った菩薩(求道者)とされている。

  1. 清浄なる離痴の慧眼を具足する。
  2. 無量の法界を了知し、智慧無量にして虚空に等しい無礙眼を得る。
  3. 善巧の方便によって正法輪を自在に転じ、衆生に利益を与え、豊かにする。

この記述によって、善現比丘は三眼を持った菩薩(求道者)とされる。李長者の「華厳合論」では善現比丘の三眼とは慧眼、法眼、慈眼とされる。1は慧眼、2は法眼、3は慈眼に夫々対応している。このように善現比丘は慧眼、法眼、慈眼の三眼を持った菩薩(求道者)である。これが「三眼国土」と言う言葉に転化したものと思われる。

善現比丘の三つの能力や境地(慧眼、法眼、慈眼)を三眼国土と表現しているのである。「三眼国土」の国土とは我々が現在考える国土や国家ではないことに注意すべきである。次の示衆において臨済は「三眼国土」とは何かについて述べているが、彼は三つの能力や境地(慧眼、法眼、慈眼)として的確に説明している。

空名:維摩経問疾品第五の経文「我(が)及び涅槃、この二つは皆空なり。何をもって空と為す。但だ名字をもっての故に空なり」から来ている。

ここで、我(が)とはウパニシャッド哲学(古代インド哲学)において自我の本体と考えられた霊的本体(アートマン)を指している。

ブッダはそれを否定して「無我」論を主張したことで知られる(ブッダの五蘊無我の悟りを参照)。

   

現代語訳


諸君、もし君達がちゃんとしたいならば、まず大丈夫の気概を持たねばならない。他人の指示によって動くような指示待ちのぐず人間になったら駄目だ。

ひびの入った容器に貴重な醍醐(だいご)を貯えることはできない。それと同じで、大きな人間は、何よりも他人に惑わされるようではならない。どこにいようとも主体的に生きれば、そこが真実の場となるのだ。

誰がやって来てもその人の指図を受けて惑わされてはならない。お前達に一念の疑心があればすぐ魔が入りこむ。菩薩でも疑心があれば、生死の魔が付け込むのだ。まずなによりも念慮を息(や)めることだ。

まして外に向って求めてはならない。物がやって来たら知性の光を当てて照らし出せ。お前達は現今働かせているものを信じないとならない。一箇の事はそれ以外に子細は無いのだ。

お前達の一念心が迷いの世界である三界を作り出し、それが外縁と外境に応じて六塵となるのだ。お前達が今ここで働かせているもののどこに不足するところがあろうか。

一刹那の間に、浄土に入り、穢土に入り、弥勒の楼閣にも三眼国土(さんげんこくど)にも自由に入ることができる。

このように大丈夫の人は至る所に遊歴するがそれらが単なる実体が無い空名に過ぎないと見てとらわれることはないのだ。


コメント


この示衆で臨済は他人の指示によって動くような指示待ちのぐず人間では駄目で、大丈夫の気概を持ち、他人に惑わされるようではならないと言う。

この示衆で「随処に主と作(な)れば、立処皆な真なり(どこにいようとも主体的に生きれば、そこが真実の場となるのだ)」と言う主体性を重視する有名な言葉が出ている。

後半部では「現今働かせている真の自己を信じないとならない。真の自己が今ここで働かせているものの主体でありそのどこにも欠(かん)少(しょう)(不足)するところはない。その働きによって、一刹那の間に、浄土に入り、穢土に入り、弥勒の楼閣にも三眼(さんげん)国土(こくど)にも自由に入ることができる。それは至る所に遊歴するがそれらが単なる実体が無い空名に過ぎないと見てとらわれることはない」と真の自己(下層脳を中心とする健康な脳)の自在な働きを述べている。

そしてそのような、

健康な脳を持ち、随処に主体的に振舞える人が真の大丈夫だと言っている

ことが分かる。


   

〔示衆〕9―1

岩波臨済録 p.72〜74  



問う、「如何なるかこれ三眼国土(さんげんこくど)?」。

師云く、「我れ汝と共に、浄妙国土の中に入って、清浄衣を著(つ)けて法身仏を説き、又無差別国土の中に入って、無差別衣を著(つ)けて報身仏を説き、又解脱国土の中に入って、光明衣を著(つ)けて化身仏を説く

此の三眼国土(さんげんこくど)は皆な是れ依変(えへん)なり。経論家に約せば、法身を取って根本と為し、報化の二身を用と為す。山僧が見処は、法身は即ち説法する解(あた)わず

所以に古人云く、「身は義に依って立て、土は体に拠(よ)って論ず」と。法性の身、法性の土、明らかに知んぬ、是れ建立(こんりゅう)の法、依通(えつう)の国土なることを

空拳黄葉、用(よ)って小児を誑(たぶら)かす。シツリ菱刺(しつりりょうし)、枯骨上に什麼(なん)の汁をか覓めん。心の外に法無し、内も亦た得べからず、什麼物(なにもの)をか求めん

注:

依変(えへん):こちらの在り方に依存して変化する実体の無いもの。

法身は即ち説法する解(あた)わず:法身(法身仏)は説法することができない。仏教教義の観点から言えば法身仏は真理を身体とする仏である。抽象的な存在(概念的な仏)であるから、人間ではない。そのため、生きた仏のように説法することはできない。

古人云く、「身は義に依って立て、土は体に拠(よ)って論ず」と:古人も「三身仏は仏教の教義から出てきたもので、仏国土はその概念から設定したものだ」と云っている。

依通(えつう)の国土:何かの理念に依存して作った相対的世界。

シツリ菱刺(しつりりょうし):ハマビシの実の固いとげ。

図はまびし

ハマビシの実

枯骨上に什麼(なん)の汁をか覓めん:枯れた骨をいくらしゃぶっても骨から汁を吸い取ることはできない。

   

現代語訳


問い、「三眼国土(さんげんこくど)とはどのようなものですか?」。

師は云った、「わしはお前達と共に、浄妙な世界に入ると、清浄衣を着て法身仏を説く。又無差別な世界に入ると、無差別衣を着て報身仏を説く。又解脱の世界に入ると、光明衣を着て化身仏を説く。三眼(さんげん)国土(こくど)もこれと同じようなものである。こちらの在り方に応じて変化する実体の無いものに過ぎない

教義上から言えば、法身仏が体であり、報身仏と化身仏はその用(働き)である。しかし、わしの見るところでは、法身仏は(抽象的な存在なので)説法することはできない。だから古人も『三身仏は仏教の教義から出てきたもので、仏国土はその教義から設定したものだ』と云っている

このように、法性の仏身とか、法性の仏国土とか言っても、仮に措定された理念やそれに基づいて考えられた概念的な世界に過ぎないのだ。空っぽの拳に黄葉を握って子供を騙すようなものだ。ハマビシや枯骨をいくらしゃぶっても何の汁も出てこない。これと同じだ

仏法は心を離れて外に求めても無い。だからと言って、無いものを心内に求めても無い。一体何を求めようとするのか」。


コメント


この示衆で臨済は前の示衆8−2の最後のところで出てきた三眼国土(さんげんこくど)について述べている。

示衆8−2の注に書いたように三眼国土とは「華厳経」入法界品第34で出て来る善現比丘の三つの能力から作り出された造語である。「華厳経」では善現比丘の三つの能力を持った菩薩(求道者)として描かれているだけである。

「華厳経」の中で善現比丘は

  1. 清浄なる離痴の慧眼を具足する。
  2. 無量の法界を了知し、智慧無量にして虚空に等しい無礙眼を得る。
  3. 善巧の方便によって正法輪を自在に転じ、衆生に利益を与え、豊かにする。

そのような能力を持つ菩薩(求道者)として描かれている。

この記述に基づいて、善現比丘は三眼を持った菩薩(求道者)とされるのである。

「華厳経」入法界品には「三眼」や「三眼国土」と言う言葉は見られない。李長者の「華厳合論」において善現比丘は慧眼、法眼、慈眼の三眼を持つとされたようである。

上の1は慧眼、2は法眼、3は慈眼に夫々対応している。このように善現比丘が慧眼、法眼、慈眼の三眼を持った菩薩(求道者)になるのは李長者の「華厳合論」という本に於いてである。これを元に臨済が「三眼国土」と言っていると考えられる。「華厳経」の中では善現比丘は救度国(ぐどこく)に住むとされ、「三眼国土」に住むとは書かれていないからである。

善現比丘の三つの能力や境地(慧眼、法眼、慈眼)を元に臨済が勝手に「三眼国土」と表現しているに過ぎない。このように、「三眼国土」の国土とは我々が現在考える国土や国家ではない。むしろ慧眼、法眼、慈眼の三眼を持った菩薩(求道者)の境地と考えた方が良いだろう。

この点を臨済は「此の三眼国土は皆な是れ依変(えへん)なり(この三眼国土はこちらの在り方に依存して変化する実体の無いものだ)」と言っているのである。

「華厳合論」の著者である李長者が最初に「三眼」という言葉(概念)を作り、その「三眼」という言葉に基づいて臨済が「三眼国土」と言う言葉(概念)を作ったと思われるのである。

従って、「如何なるかこれ三眼国土?」という問いは臨済の誘導質問だと言えるだろう。臨済自身が「三眼国土」に対する自分の考えを説くため言った質問だと考えられる。

この質問に対する臨済自身の答えは「この三眼国土はこちらの在り方に依存して変化する実体の無いものだ。」に尽きるだろう。

更に臨済は、「教義上から言えば、法身仏が本体であり、報身仏と化身仏はその用(働き)である。しかし、わしの見るところでは、法身仏は抽象概念であり、説法することはできない。 このように、法性の仏身とか、法性の仏国土とか言っても、仮想的な概念に基づいて考えられた実体のない世界に過ぎない。空の拳に黄葉を握って子供を騙すようなものだ。ハマビシや枯骨をいくらしゃぶっても何の汁も出てこない。これと同じようなものだ。 仏法は心を離れて外に求めても無い。だからと言って、無いものを心内に求めても無い。一体何を求めようとするのか」と続けている。この説明は三眼国土について彼自身の考えを詳述していると考えることができよう。

最後に臨済は「仏法は心を離れて外に求めても無い。だからと言って、無いものを心内に求めても無い。一体何を求めようとするのか」と言っている。

仏法は心を離れて存在しない。従って、はっきりした実体のあるものではなく、空をその本質としているとでも言いたいのだろうか?

それにしてもこの示衆9−1は分かり難い。示衆8と一緒に読んでその真意を探ると、「環境にふりまわされず、慧眼、法眼、慈眼の三眼を持って随処に主体性を持って生きよ!」ということになるのではないだろうか。


   

〔示衆〕9―2

岩波臨済録 p.74〜77  



汝諸方に言道(いう)、修有り証有りと。錯(あやま)ること莫れ。設(たと)い修し得る者有るも、皆な是れ生死の業あり。汝言う、六度万行(ろくどろくどまんぎょう)斉(ひと)しく修すと。我れ見るに皆な是れ造業(ぞうごう)。

仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業。菩薩を求むるも亦た、是れ造業。看経(かんきょう)看教(かんきょう)も亦た是れ造業。仏と祖師は是れ無事の人なり。所以(ゆえ)に有漏有為(うろうい)も、無漏無為(むろむい)も、清浄の業為(た)り。

一般の瞎禿子(とくす)有って、飽(あ)くまで飯を喫し了って、便ち坐禅観行(かんぎょう)し、念漏を把捉して放起せしめず、喧を厭い静を求む、是れ外道(げどう)の法なり。

祖師云く、「汝若し心を住して静を看(み)、心を挙(こ)して外に照らし、心を摂して内に澄ましめ、心を凝らして定(じょう)に入らば、是の如きの流(たぐい)は皆な是れ造作なり」と。

是れ汝如今与麼(よも)に聴法する底の人、作麼生か他を修し他を証し他を荘厳せんと擬す。渠(かれ)は且く是れ修し得る底の物ならず、是れ荘厳し得る底の物ならず、若し他をして荘厳せしむれば、一切の物を即ち荘厳し得ん。汝且く錯(あやま)ること莫れ。

注:

修有り証有り:馬祖道一(709〜788)は「道は修むるを用いず」と言い、丹霞天然(739〜824)は「道の修むべき無く、法の証すべき無し」と言っている。

六度:六波羅蜜。菩薩が実践すべき布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つの徳目。

瞎禿子(かっとくす):馬鹿坊主。

有漏有為(うろうい):有漏の漏は煩悩のこと。有為は無常なる現象のこと。

無漏無為(むろむい):有漏有為(うろうい)と反対の意味。煩悩が無くなった不生不滅の「悟りの世界」のこと。

祖師云く、「汝若し心を住して静を看(み)、心を挙(こ)して外に照らし、心を摂して内に澄ましめ、心を凝らすして定(じょう)に入らば、是の如きの流(たぐい)は皆な是れ造作なり」: 六祖慧能の法嗣荷沢神会(648〜758)が北宗禅を批判した言葉。

聴法する底の人:説法を聴いている人。この場合の人は聴法している真の自己(=健康な脳)をさしている。

   

現代語訳


お前達は諸方で「仏道には、修が有り証が有る」と言っているが間違ってはならない。たとえ修習して得たものがあったとしても、それは全て生死の迷いの原因となるだけだ。

お前達は六度万行を修めたと言うかも知れない。しかし、わしから見れば、それは皆業造りだ。 仏を求め法を求めるのは、地獄へ落ちる業造り、菩薩を求めるのも迷いの行為、看経(かんきん)看教(かんきょう)もまた迷いの行為に過ぎない。

仏や祖師とは「無事の人」のことなのだ。「無事の人」になれば、迷いの営みも無為の悟りも、共に清浄の業となるのだ。 世の中には馬鹿坊主がいて、腹が一杯になるまで飯を食って、坐禅観行(かんぎょう)し、念慮の働きを押さえ込み、喧騒を嫌い静寂を求める。しかし、これは外道(げどう)の教えである。

これについて祖師である神会禅師は「お前達がもし心の働きを止めて静寂の境地を看(み)、心を働かせて外界を照らし、内に収めて清澄にし、心を凝らして禅定に入るならば、これはみな迷いの行為である」と言って北宗禅を批判している。

今このように聴法しているお前達の真の自己(脳、健康な脳)をどのように修習させ、証悟、荘厳しようとするのか。真の自己(人=脳)は修証できるようなものではない。また荘厳できるようなものでもない。

しかし、もし真の自己(脳、健康な脳)を荘厳させたならば、それは一切のものを全て荘厳することができるだろう。お前達、ここを間違えてはならない。


コメント


この示衆で臨済は、「諸方では『仏道には、修が有り証が有る』と言っているが、六波羅蜜や看経(かんきん)看教(かんきょう)のような伝統的な修行は迷いの行為であり、迷いの原因となる。そのような修行をしても何か悟り(証)が得られることはない。皆業造りだ」と言って厳しく否定している。

これは仏道における「修」や「証」を実体的に見ることでそれに捉われることを諌めているものと考えられるだろう。

臨済にとって、仏や祖師とは「無事の人」のことである。禅の正しい見解(悟り)を得て 「無事の人」になることが大事だとしている。「無事の人」になれば、迷いの営みも無為の悟りも、共に清浄の業となると言っている。

示衆の後半部では正しい禅の修行について述べている。

腹が一杯になるまで飯を食って、坐禅観行(かんぎょう)し、念慮の働きを押さえ込み、喧騒を嫌い静寂を求めるような坐禅修行は外道(げどう)の教えであると言っている。

禅修行について、「お前達がもし心の働きを止めて静寂の境地を看(み)、心を働かせて外界を照らし、内に収めて清澄にし、心を凝らして禅定に入るならば、これはみな迷いの行為である」と言って北宗禅を批判した荷沢神会の言葉を引用しているのが注目される。

示衆の最後のところで臨済は、「今このように聴法しているお前達の真の自己(脳)をどのように修習させ、証悟、荘厳しようとするのか」と言って、真の自己(人=脳)は修証したり、荘厳できるようなものでもない」と言っている。

これは聴法している自分達の真の自己(脳)とその働きに気付くことを促しているのである。

この示衆の最初のところで臨済は一見修行を否定しているように見える。しかし、臨済が否定しているのは六波羅蜜や看経(かんきん)看教(かんきょう)のような伝統的な修行であり坐禅修行でないことに注意すべきである。

実際、「示衆10−6」では臨済は修行の重要性を指摘している(「示衆10−6」を参照 )。

このことから、参禅修行を否定しているのではないことが分かる。

なお日本の臨済禅(白隠禅師の流をくむ)では六波羅蜜や看経(かんきん)看教(かんきょう)のような大乗仏教の伝統的な修行を否定してはいない。また臨済のように「無事の人」を強調することもない。これは中国と日本の国民性の違いによるものだろうか?


   

〔示衆〕9―3

岩波臨済録 p.77〜79  


道流、汝は這の一般の老師の口裏の語を取って、真道なりと為(な)是(し)、是れ善知識不思議なり、我は是れ凡夫心、敢えて他の老宿を測度(そくたく)せず、と。

瞎ル生(かつるせい)汝一生祇(た)だ這箇(しゃこ)の見解を作(な)して、這の一双の眼(まなこ)に辜負(こふ)す。冷噤噤地(れいきんきんじ)なること、凍凌(とうりょう)上の驢駒(ろく)の如くに相似たり。我れ敢えて善知識を毀(そし)らず、口業(くごう)を生ぜんことを怕(おそ)る、と。

道流、夫れ大善知識にして、始めて敢えて仏を毀り、祖を毀り、天下を是非し、三蔵教を排斥し、諸(もろもろ)の小児を罵辱(めじょく)して、逆順の中に向いて人を覓む。所以に我れ十二年中に於いて、一箇の業性(ごっしょう)を求むるに、芥子許(けしばか)りの如くも得べからず。

若し新婦子(しんぷす)の禅師に似たらば、便即(すなわ)ち院を趁(お)い出されて、飯を与えて喫せしめられず、不安不楽なることを怕(おそ)れん。

古よりの先輩は、到る処に人信ぜず、趁(お)い出されて、始めて是れ貴きことを知る。若し到る処に人尽(ことごと)く肯(うけが)わば、什麼(なに)を作(な)すにか堪えん。所以に師子一吼すれば、野干(やかん)脳裂(のうれつ)す。

注:

測度(そくたく):推測すること。

瞎ル生(かつるせい):愚か者。

一双の眼(まなこ)に辜負(こふ)す:二つの目玉を台無しにする。

冷噤噤地(れいきんきんじ):口もきけないほど震えているさま。

凍凌(とうりょう):凍った氷。

三蔵教:経蔵、律蔵、論蔵から成る仏教経典のすべて。この三蔵に通じていた僧を三蔵法師と呼ぶ。

逆順 :正(順)と反(逆)、裏(逆)と表(順)。または逆境と順境のこと。

十二年中:長い期間を言う時の一単位。唐代では修行期間の基本単位は三十年であった。

業性(ごっしょう):報い。

新婦子(しんぷす)の禅師:花嫁のようにびくびくしている禅師。

師子一吼すれば、野干(やかん)脳裂(のうれつ)す:獅子が一吼えすると、野干(やかん)の脳が割れる(気絶する)という「五分律」三に見える話に基づく。

   

現代語訳


修行者達よ、「お前達はこのような老師の言葉を鵜呑みにして、これが真の道だとし、「これが善知識の不思議なところだ。自分達のような凡夫が、こういう偉い老師の言葉を敢えて推測などしてはなるまい」などと言う。

「愚か者め!お前達は一生こんな了見でせっかく揃った二つの目玉を台無しにしている。まるで張った氷の上を歩く驢馬のようにびくびくし、「口の禍は怖いから偉い老師の批判なぞはとてもできない」と言う。

諸君、大善知識であってこそ、悪口の報いなど恐れることなく、敢えて仏祖を毀(そし)り、天下の権威を批判できるのだ。大蔵経典に捉われている人を排斥し、青二才のような諸学者を罵り、順逆のあらゆる角度から真の人間を求めるのだ。

わしも長い間、遠慮なく、多くの悪口を言ったり批判をして来た。しかし、その報いがあったかどうか今考えてみても、芥子(けし)ほどもそのような報いに思い当たることはない。

もし花嫁のように小心者の禅師ならば、こんなふうにすると、直ぐお寺を追い出されて、飯も食わせてもらえず、不安でおちおちしておられないだろう。

禅宗の昔の先輩達は、何処に行っても人に理解されず、追い払われたものだ。そうされて、始めて貴いことが分かるのだ。もし何処に行っても人に受け入れられるような好人物なら、何の役に立とうか。

我々の先輩は気概があったため、迫害されても、獅子が一声吼えれば、野犬を気絶させるように大いに言うべきことを言ったのである。



コメント


この示衆の最初のところで「お前達はこのような老師の言葉を鵜呑みにして、これが真の道だとし、「これが善知識の不思議なところだ。自分達のような凡夫が、こういう偉い老師の言葉を敢えて推測などしてはなるまい」などと言う。

示衆9−2で臨済は、「世の中には馬鹿坊主がいて、腹が一杯になるまで飯を食って、坐禅観行(かんぎょう)し、念慮の働きを押さえ込み、喧騒を嫌い静寂を求める。しかし、これは外道(げどう)の教えである」と言っている。臨済がこの示衆で批判しているのは北宗禅の老師だと思われる。

このような北宗禅の老師を有り難がって批判もしない連中に対し臨済は、「愚か者め!お前達は一生こんな了見でせっかく揃った二つの目玉を台無しにしている。まるではった氷の上の驢馬のようにびくびくし、「口の禍は怖いから偉い老師の批判なぞはとてもできない」と、びくびくしている驢馬のような「愚か者め」だ」とその弱腰を叱咤しているのである。

それに続き、「諸君、大善知識であってこそ、悪口の報いなど恐れることなく、敢えて仏祖を毀(そし)り、天下の権威を批判できるのだ。大蔵経典に捉われている人を排斥し、青二才のような諸学者を罵り、順逆のあらゆる角度から真の人間を求めるのだ。わしも長い間、遠慮なく、多くの悪口を言ったり批判をして来た。しかし、その報いがあったかどうか今考えてみても、芥子(けし)ほどもそのような報いに思い当たることはない」とそのような連中をいくら批判しても口の禍や悪口の報いは無かったと臨済自身の経験に基づいて断言している。

自分こそ大善知識だという自信の下、臨済は悪口の報いなど恐れることなく、敢えて仏祖を毀(そし)り、天下の権威(北宗禅の老師)を批判して来た。しかし、自分は芥子(けし)ほども悪口の報いなどを受けた憶えはないと言っている。 

その後に自分の先輩達について、 「禅宗の昔の先輩達は、何処に行っても人に理解されず、追い払われ迫害された。そうされて、始めて貴いことが分かるのだ。もし何処に行っても人に受け入れられるような好人物なら、何の役に立とうか。我々の先輩は大丈夫の気概があったため、迫害されても、獅子が一声吼えれば、野犬を気絶させるように大いに言うべきことを言ったのである」と言っていることが注目される。

臨済は867年に死去している。これより、「会昌の廃仏」という唐の武宗による仏教弾圧事件(842〜846)を経験している筈である。その経験によって大丈夫の気概を持ち、たとえ迫害されても、獅子が一声吼えれば、野犬を気絶させるように大いに主張すべきことを言うべきだと言っているのではないだろうか。

そう考えると、この示衆は「言論の自由」にも通じる考え方であり、現代でも大きな意味を持っている。

 臨済の「敢えて仏祖を毀(そし)り、天下の権威(北宗禅の老師)を批判して来た」強い気概に感心させられる示衆となっている。


   

〔示衆〕9―4

岩波臨済録 p.79〜81  


道流、諸方に説く、道の修すべき有り、法の証すべき有りと。汝は何の法をか証し、何の道をか修せんと説く。汝が今の用処(ゆうじょ)、什麼物(なにもの)をか欠少(かんしょう)し、何の処を修補せん。

後生の小阿師(しょうあし)会せずして、便即(すなわ)ち這般(しゃはん)の野狐(やこ)の精魅(せいみ)を信じて、他が事を説いて他の人を繋縛(けばく)し、理行(りぎょう)相応(そうおう)し、三業を護借(ごしゃく)して始めて成仏するを得、と言(い)道(う)ことを許す。此(かく)の如く説く者、春の細雨の如し。

古人云く、路に達道の人に逢わば、第一に道に向うこと莫れ、と。所以に言う、若し人道を修すれば道行われず、万般(ばんぱん)の邪境(じゃきょう)は頭(こうべ)を競(きそ)って生ず。智剣出で来たって一物無し、明頭(みょうとう)未だ顕われざるに暗頭(あんとう)明らかなり、と。

所以に古人云く、 平常心(びょうじょうしん)是れ道(どう)、と。大徳、什麼物(なにもの)をか覓(もと)む。現今聴法の無依の道人は、歴々地に分明にして、未だ曽って欠少せず、?(なんじ)若し、祖仏と別ならざらんと欲得(ほっ)すれば、但だ是の如く見て、疑誤(ぎご)することを用いざれ。

汝の心心不異(しんじんふい)なる、之を活祖と名づく。心若し異有らば、則ち性相(しょうそう)別なり。心不異なるが故に、即ち性と相と別ならず。

注:

後生の小阿師(しょうあし):後進の若僧。

這般(しゃはん)の野狐(やこ)の精魅(せいみ):このような野狐禅を説く禅師。

理行相応(りぎょうそうおう):内心の理(原理)と外相の修行とが相応すること。

三業:身口意で行う行為。

細雨:きり雨。

達道の人:道に達した人。

明頭(みょうとう)未だ顕われざるに暗頭(あんとう)明らかなり:明が顕われてから暗部が無くなるのではなく、明が未だ顕われないのに暗いところが無くなること。明暗に前後関係が無いこと。

平常心(びょうじょうしん)是れ道(どう):馬祖道一(709〜788)の言葉(馬祖の禅思想を参照)。

性:絶対不変の本体。体用(たいゆう)思想における体のこと(「禅と体用思想を参照)。

相:相対的な変化の現象。体用思想における用に対応する。

心不異なるが故に、即ち性と相と別ならず:「苑陵録」に於いて黄檗希運は「心と性は異ならず、即性即心にして、心の性に異ならざるを信ず、これを名付けて祖となす」と言っている。これは「絶対不変の本体である性(健康な脳)は我々の心と同じである。性=健康な脳であり、心(健康な脳)がそのまま本体である性であると信じることを祖と名付ける」という意味である。黄檗のこの言葉を受けて臨済は「相対的な現象としての我々の心は絶対不変の本体である性と同じである」と言っていることが分かる。体用思想における体を「性」に用を「相」に置き換えた考え方である。

心心不異(しんじんふい)なる、之を活祖と名づく:相対的な現象としての我々の心は絶対不変の本体である性(脳)と同じである。この状態を活祖と名付ける。

我々の心は本体である性(=脳)の表現であると考えれば現代の脳科学と一致する。そのように考えると合理的で分かりやすい。黄檗や臨済は現実の心(相)は生きた肉身の本性(=脳)から生まれると考えている。 これを次の図10で説明する。ここで性とは本性や本体を意味する。



図10

図10 心心不異:我々の心は本体である性(=脳)から生まれる。


   
   

   

本体としての脳は祖仏だと考えられるから、現実の心(相)も祖仏と同じだとして全肯定している。この考え方は馬祖禅の<即心即仏>と同じである(馬祖の禅思想を参照)。

しかし、この場合の心の本体である脳は坐禅修行によって本源清浄心と呼べるほど健康になっている必要がある。

馬祖禅の<即心即仏>の考え方を図11に示す。



図11

図11 <即心即仏> : 仏とは坐禅修行によって本源清浄心と呼べるほど健康になっている脳から生まれる心のことである。


   

臨済の禅は馬祖禅の本流を嗣いだものだと言っても良いだろう。

心若し異有らば、則ち性相(しょうそう)別なり:相対的な現象としての我々の心がもし本心(脳から生まれる心)と異なるならば、本体とその働きは別ということになる。

心不異なるが故に、即ち性と相と別ならず:相対的な現象としての我々の心が本心(脳から生まれる心)と同じであるため、本体とその働きも同じになるのだ。

   

現代語訳


諸君、諸方の指導者達は、「仏道には修すべき道と、証すべき法が有る」と説いている。お前達は一体どんな法を証悟し、どんな道を修しようというのか。 お前達の今の働きに何が欠けていて、何処を補う必要があろうか。

後進の若い修行者達はそこが分からず、直ぐにこんな間違った禅師を信じる。 彼が「仏道では教理と修行が相応し、三業を慎んで始めて成仏できるのだ」などとつまらん説教をして人々を虜にすることを許している。このように説く者は春の霧雨のように多い。

古人は、「路上で達道の人に逢ったら、彼に道を説いて道に向うように言う必要はない」と言っている。そこで、「もし、人が道を修めようとすれば、道にこだわるため、道は行われない。逆に、様々な邪境(じゃきょう)が先を争うように出てくる。しかし、一旦智剣が出現すれば邪境(じゃきょう)を切り払って一物も無くなる。それはあたかも照らす前に暗処がはっきり照らし出されるようなものだ」とも言っている。

だから古人はそこを、「平常心(びょうじょうしん)是れ道(どう)」、と言っている。修行者諸君よ!お前達は一体何を求めているのか? 今わしの面前で聴法している無依の道人は、明々白々として、未だ曽って少しも欠けたところがないじゃないか。お前達がもし、祖仏と同じでありたいと願うならば、ただこのように見究めさえすれば良いのだ。

お前達の心が本心と異なることが無い時、それを活祖と言うのだ。心がもし本心と異なるならば、本体とその働きは別となる。心が本心と同じであれば、本体とその働きも同じになるのだ。



コメント


この示衆において臨済は、「諸君、諸方の指導者の中には、「仏道には修すべき道と、証すべき法が有る」と説いている者もいるが、一体どんな法を証悟し、どんな道を修しようというのか。お前達の今の働きに何が欠けていて、何処を補う必要があろうか」と説いている。

臨済は、「証悟すべき仏法や修すべき道は無いとし、我々が具有する無依真人(健康な脳)の働きには何ら欠ける物や補う物は無い」と言っていることが分かる。

彼は我々すべてが具有する無依真人(健康な脳=本源清浄心)とその働きに絶対的とも言える信頼を寄せているのである。

しかし、後進の若い修行者達はそこが分からず、「仏道では教理と修行が相応し、三業を慎んで始めて成仏できるのだ」などとつまらん説教をして人々を惑わす間違った禅師の横行を許していると非難している。当時このように説く野狐禅の師家は多く、臨済はそれを許せなかったようである。

平常心(びょうじょうしん)是れ道(どう)」と言う馬祖道一の名句を引用した臨済は、南宗禅の本流を嗣ぐ者としての自覚の下に、「お前達は一体何を求めているのか? 今わしの面前で聴法している無依の道人は、明々白々として、未だ曽って少しも欠けたところがない。お前達がもし、祖仏と同じでありたいと願うならば、このように真の自己の見究めよ」と説いているのである。

お前達の心が本心と異なることが無い時、それを活祖と言うのだ。心がもし本心と異なるならば、本体とその働きは別となるが、本心と同じであれば、本体とその働きは同じになる」と師黄檗希運が説いた「心心不異(しんじんふい)」の重要性を説いていることが注目される(図10を参照)。

ここで言っている心は悟りの本体である下層脳(=脳幹+大脳辺縁系)から活性化した健康になった脳を指している。

臨済の師黄檗はそのような健康になった脳を本源清浄心と呼んでいる。坐禅と丹田呼吸は脳を本源清浄心にまで清浄・健康にする手段だと言えるだろう(図11を参照)。

このように馬祖禅の<作用即性>の考え方は黄檗希運から臨済の禅まで受け継がれ流れていることが分かる(馬祖の禅思想を参照)。






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