2009年3月〜4月作成

第10章 大乗仏教: その3


   

10.40 初期大乗仏教から中期大乗仏教へ




「空の思想」から唯識思想へ




竜樹(ナーガールジュナ、150〜250頃に活躍)や中観派によって初期大乗の「空の思想」は樹立された。彼等は「空の思想」によって伝統的アビダルマ仏教(部派仏教)やバラモン正統派の実在論的哲学をラジカルに否定することに成功したのである。

しかし、「空理空論」とも言われるように、「空の思想」だけでは観念的すぎて、激しく変化する時代の動きに対応することはできなかった。また「世界構造」に対する理論や思想を積極的に提示することもできなかったのである。

むしろ、仏教は新しく隆盛してきたヒンズー教に圧倒されつつあった。このような行き詰まり状況を何とか打開しようと、3〜4世紀になると、仏教サイドに中期大乗仏教の思想が新たに生まれたと考えられている。

中期大乗仏教の思想の特徴は唯識思想と如来蔵(仏性)思想である。初期大乗の「空の思想」の大成者は竜樹(ナーガールジュナ、A.D.150頃〜250頃)であったのに対し、中期大乗仏教の唯識思想の大成者は世親(せしん、ヴァスバンドゥ、300〜400年頃)だとされる。

問い: 物は実在するか?


答え1:外界の対象物はそれ自身で存在している。

答え2 :外界の対象物は識別にすぎない。物は心にそなわる表象の投影に他ならない。外界の対象物は実在ではない。



このような疑問は大昔からあった。

これに対する答え1は素朴実在論である。答え2は観念論である。どちらが正しいかは古代から容易に決着がつかない大問題であった。

 この問題は思考だけでは解決できない問題である。実際、我々が物の存在を認識するのは眼、耳、鼻、舌、身(皮膚)の五感を通してである。五感に備わる表象の投影に他ならないと主張されても、それを否定する強力な根拠に乏しい。

唯識説では、世界の一切の存在は実在するのではない。一切は意識の投影に過ぎないとする。その意味で唯識と言うのである。現代で言えば唯脳論に近いと言えよう。唯識思想は心を最も根源的なものと考える原始仏教の発展したものとも考えることができるかも知れない。


  

10.40-1

10・40-1   唯識思想概論 




 唯識説は中期大乗経典である「解深密経(げじんみつきょう)」「大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)」によって説かれた。これを大乗論師であるマイトレーヤ、アサンガ(無着)、ヴァスバンドゥ(世親:A.D.400〜480 年頃)らが大成した。

唯識説を主張したグループは瑜迦行派(ゆがぎょうは)と呼ばれる。瑜迦行(ゆがぎょう)とは坐禅修行である。瑜迦行派は瑜迦師(ゆがし)と呼ばれる禅定修行に集中した修行者によって構成された学派である。

唯識説は彼等によって集大成された思想で、瑜迦行を実践し、実体験したものを当時の考えによってまとめたものと考えられる。

5世紀はじめ頃建てられたナーランダ大僧院で唯識説は盛んに学ばれ、研究された。その頃、中国唐代の僧玄奘(げんじょう)(607〜664)はナーランダ大僧院を訪れ唯識説を学んだ。彼は帰国後「成唯識論(じょうゆいしきろん)」を著し、法相宗を確立した。玄奘の法相宗は奈良時代留学僧道昭などによって日本にもたらされた。

唯識説では我々の経験世界はただ識別のみにすぎない。識知が対象として映出されるのみであって対象は実在しないと説く(唯識無境)。識知とは心の持つイメージと言ってもよい。

唯識説は識知を中心とするため唯心論に近い側面を持っている。外界の存在を否定する点(唯識無境説)は科学の進歩した現在でははっきり誤りだと言える。

しかし唯識説は瑜迦師達の修行に基礎をおいているので西洋の観念論と違い現代の脳科学と対応するところもあり興味深い。なぜこのような説が現れたか知ることも仏教を客観的に見るためには必要である。唯識説を簡単にまとめると次ぎのようになる。 


.識の変異が世界・存在を作り出す。

.識にはアーラヤ識(=阿頼耶識、あらやしき)、マナ識(末那識、まなしき)、6識(眼、耳、鼻、舌、身、意)の8つがある。

.阿頼耶識は根元的な識であり、あらゆる種子を内蔵している。

.阿頼耶識は我々の身体・生命を維持(アーダーナ)する働きを持つ。 阿頼耶識には無限の過去から現在にいたる全ての行為の残してきた余力・余習が一切の種子として貯えられる。このため阿頼耶識は一切種子識とも呼ばれる。この一切種子はいわば潜在意識として貯えられている。

.末那識は阿頼耶識に基づいて活動し、思考作用を行う。

.「種子(しゅうじ)」という言葉で識の生成発展を説明する。

唯識説において「種子」はアーラヤ識の中に貯えられているものである。 無限の過去から現在までのあらゆる行為(業)が残してきた余力・余習(後に残っている一種の力)がアーラヤ識に貯えられるとする。

その貯えられているものを種子(しゅうじ)と表現する。種子はアーラヤ識に潜在したままで変異(転変)しあらゆるものを生み出す。これをアーラヤ識の第一の転変と呼ぶ。

アーラヤ識は転変してマナ識を生む。これをアーラヤ識の第二の転変と呼ぶ。

マナ識はアーラヤ識から生じアーラヤ識に基づいて活動する。マ ナ識(末那識)はアーラヤ識を認識の対象として活動する。その時アーラヤ識をアートマン(自我)だと誤認する。

マナ識は自我意識に相当する。この自我意識は煩悩であるので、汚れたマナ識(染汚意、ぜんまい)と呼ばれる。アーラヤ識の第三の転変は眼、耳、鼻、舌、身、意の六識を生じることである。

アーラヤ識は潜在的であるが、アーラヤ識の活動的識である六識とマナ識は現勢的である。アーラヤ識は身体、生命を維持する働きをすることからアーダーナ識(執持識(しゅうじしき)とも呼ぶ。アーラヤ識は受胎時に生まれ、それが身体から離れるのが死である。

アーラヤ識はマナ識と六識(眼、耳、鼻、舌、身、意)の計七識を生じる。唯識説では色も識から生じると考える(色心不二説)。

従って、アーラヤ識は身体と自然界も生み出すと考えるのである。"アーラヤ識は身体と自然界も生み出す"と考える考えは科学が発達した現在から見ればとんでもない虚妄の説と言える。

現代の我々の知見に基づけば、脳の認識作用によって身体と自然界を認識しているのであり、それらを生み出すのではない。身体と自然界は厳然と存在している。これに対し、唯識説では"「身体や自然界は虚妄なものであり、アーラヤ識が身体や自然界を生み出している」と考えるところが現代の考えと異なる。

科学から言えば、色(物質)は決して虚妄の存在ではなく、原子・分子のような微粒子、さらには、電子・陽子・クオークのような素粒子から出来ていることは現代では疑うことの出来ない事実である。

しかし、唯識説は見方を変えれば現在の脳科学的見地からの解釈も可能である。大乗仏教に広く影響を及ぼしているこの考えをもう少し見よう。

マナ識と六識(眼、耳、鼻、舌、身、意)の七識は現在の瞬間に生じる。一刹那に生じ、一刹那に減衰し滅する。この刹那生の印象はアーラヤ識に余習・習(じっ)気(け)として貯えられる。それが成熟して発現する。これを現行(げんぎょう)という。このような循環は一刹那ごとに行われる。

アーラヤ識 + マナ識 + 六識(眼、耳、鼻、舌、身、意)の合計を八識という。


  

10・40-2    識の空性: 三性三無性(さんしょうさんむしょう) 




唯識論で説く八識のあり方は次の三種に分けられる。

これは三性三無性と呼ばれ識の空性を3種の心のあり方で表現したものと考えることができる。

三性三無性は次の表のようにまとめることができる。



表10.31 唯識論で説く三性三無性 

三性  意味 心の状態
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)分別と執着によって仮に構想された心のあり方。 私利私欲(エゴ)で濁った凡俗の心
依他起性(えたきしょう)縁起(依他)によって生起する心の相対的な性質私利私欲(エゴ)が薄らいだ心
円成実性(えんじょうじつしょう)円満・完成・真実の心の絶対的なあり方。清らかな悟りの心

この三種の心の性質について唯識説は次のように主張する。

遍計所執性は八識の作り出す意識的存在である。

それは実は無であって虚妄であるが分別によってあたかも実在するように

認識され執着されている心のあり方である。

依他起性は様々な因縁によって生じる心の相対的な性質を表している。

因縁所生の法は空であるというナーガルジュナの論理によって

これも否定され空であり、無であるとされる。

円成実性も遍計所執性、依他起性に依存して存在すると考えられるため虚妄(無)だと考える。

これを三性三無性と称する。

このように八識によって構想された対象(これを境という)は

全て虚妄として最終的には否定され消失する。

これを<境識倶泯(きょうしきぐみん)>という(泯は滅ぶという意味)。

この状態では構想された対象(境)が消え、構想した識も消失するのである。

円成実性は,円満,完成,真実の性質のものという意味で,絶対の境地を表わしている。 

唯識説では識は刹那生滅している空なるものであるから実体はない(無自性)と考える。

その究極の空性において、円成実性と呼ばれる清らかな悟りの心が実現されると考える。

円成実性は無常の現実世界に現れながらも、それ自身は常住・不変・無為の存在である。

また、主客の対立を超えている。

それは、実相、真如、法界とも呼ばれるものである。

この三性三無性の思想は禅定修行による心境の深まりを3段階に分けて考えたものと考えられる。

唯識論で説く三性三無性は、心の空性を別の切り口から捉えた考え方である。

この考え方は中国で生まれた禅にも深い影響を与えている。

遍計所執性 は虚妄の存在、、依他起性 は相対的存在を表わし、

それぞれ無自性であるが、この両者の無自性を正しく認識するとき、

存在の絶対的様相、すなわち 円成実性が現れる。

それは無常で変遷する現実世界のなかに現れながらも主客の対立を超えている。

それはまた実相,真如,法界と呼ばれるもので,まったく清らかな悟りの世界である。

普通我々(俗人)の世界では無分別とは考えが足りないという悪い意味で用いられる。

しかし、禅では無分別智は悟りの智恵とされる。唯識論では「無分別智」は次のように説明される。

「境は客体、識は主体である。既に述べた境識倶泯の状態では

主体も客体も消え、主と客は無二一体(心境一如)となる」。

ここで現れる知を無分別智と名づける。

これが無分別智の定義といってもよいだろう。 

唯識論において無分別智は最も崇高な智と考えられ、真如(タタター、ありのまま)とも呼ばれる。

このように唯識論は禅の悟りの理論と深い関係を持っていることが分かる。

この考え方と似た考え方に無学という考え方がある。

無学とはこれ以上学ぶものが無いという意味である

。禅に於いては無とは究極の心的状態(悟りの状態)だと考える思想がある。

この唯識思想の中で特に問題となる点は「唯識無境」という考えであろう。

これは識(脳)だけ在って外界(境)は存在しないという唯識思想の考えである。

現代の唯脳論に近い。しかし、唯脳論といえども外界の存在を否定してはいない。

しかし、唯識思想では唯識無境と考える。

現代ではこのような「唯識無境」の主張は単なる観念論であり誤りであることは明白である。

頭でっかちの古代の観念論的思想であるとしか言いようが無いだろう。


  

10.40-3

10・40-3   清く輝く心―四智 




唯識論(大乗荘厳経論や摂大乗論)では我々の持つ八識は修行(主として禅定修行)によって四智に変換することができると考える。四智は覚者(ブッダ)の智慧と言える。


.<大円鏡智(だいえんきょうち)>:

対象をそのまま映し出す大きな鏡のような智慧。八識であるアーラヤ識が空と縁起の悟りによって<大円鏡智>に変化するとされる。

.<平等性智(びょうどうしょうち)>:

自己と他者との平等性と一体性を覚る智慧。マナ識が変化してこの<平等性智>になるとされる。<慈悲>は<平等性智>の働きとされる。密教では、森羅万象を平等に観る智恵で、万物が大日如来の化身であり、平等の仏性をもつ事を覚る智恵とされる。

.<妙観察智(みょうかんさつち)>:

自己と他者との一体性を覚るすばらしい観察の智慧。万物がもつ各々の個性、特徴を見極め、その個性を活かす知恵である。修行による意識の浄化は五感の変化をもたらす。五感は<成所作智>に変化する。

.<成所作智(じょうしょさち)>:

 眼耳鼻舌身の五感を正しく統御し、それらによって得られる情報をもとに、現実生活において悟りを成就させる智恵である。



四智はブッダの智慧であるとされる。修行者によって最終的に到達・獲得されるべき智慧とされる。

四智の思想は密教では大日如来の五智の中に取り入れられている

密教2を参照 )。


  

10.40-4

10・40-4  唯識説の現代的解釈 



 - 脳科学から見た唯識説 - 




唯識説の確立に貢献した大乗仏教の一派を瑜伽行(ゆがぎょう)派という。 瑜伽(ゆが) とはヨーガであり坐禅のことである。ひたすらこれを実践したひとを瑜伽師あるいは禅師と呼ぶ。 このことが分かればなぜ観念論的理論に陥ったかが理解できるのである。

彼等はこの理論を作り上げるために坐禅(丹田呼吸)をひたすら実践したと思われる。坐禅は意識の座である脳宇宙の実験的探求と言うことが出来る。その観点から唯識説を見直すと現代の脳科学と不思議な一致を示すところが多い。

「アーラヤ識は身体、生命を維持する働きをすることからアーダーナ識(執持識、しゅうじしき)とも呼ぶ。アーラヤ識は受胎時に生まれ、それが身体から離れるのが死であるとする。」

現代の脳科学では生命を維持する働きは脳幹の働きであることは分かっている。アーラヤ識は脳幹に対応するとも考えられる。「アーラヤ識は受胎時に生まれ、それが身体から離れるのが死である」という考えは脳死という極めて現代的な死の定義を言っていると考えることができる。

また自我意識であるマナ識と六識(眼、耳、鼻、舌、身、意)を生むという点を重視すればアーラヤ識は大脳新皮質を含んだ脳全体を言っているとした方がよさそうでもある。アーラヤ識は脳の働き全体を言っていると考えると矛盾がない。

「アーラヤ識は転変してマナ識を生む。これをアーラヤ識の第二の転変と呼ぶ。マナ識はアーラヤ識から生じアーラヤ識に基づいて活動する。」

幼児期が始まる一才を過ぎた頃脳に大きな変化が起こる。脳の左右両半球を結ぶ脳梁が発生する。それとともに自我意識が芽生えると考えられている。「アーラヤ識は転変してマナ識を生む」。転変という言葉で脳(アーラヤ識)の成長を言っていると考えればマナ識の発生はこの脳の成長をいっているともいえるだろう。

「アーラヤ識の第三の転変は眼、耳、鼻、舌、身、意の六識を生じることである。」という考えもアーラヤ識を脳全体に対応させれば、脳の働きそのものを言っていることになる。

マクリーンの脳理論では、脳はその進化の過程を反映して三層構造を持っているとしている。



三つの脳とは、

.二億年前の爬虫類の時代に既に完成していた爬虫類型の脳、

.1億5000万年前に完成した原始哺乳類型の脳、

.人間において特に発達した新哺乳類型の脳、

の3つである(第2章 「禅と脳科学」を参照 )。

人間の胎児期の脳の発生と成長もこの進化の流れに沿って起こると考えられている。唯識説では「アーラヤ識は身体と自然界も生み出す」とされている。これは現代人にとって最も理解し難いところであろう。

これは古代の考えだとすれば難なく理解される。唯識説は色心不二の考えを主張する。即ち、客観的に存在すると見える色(物質)も意識(脳神経系)がそのように見ているに過ぎないもので本当は実在しないと考える。このような考えの下に身体と自然界も識の展開によると考えたのではないだろうか。



唯識説は脳中心の世界観だと考えれば分かり易い。興味深いことは識の生滅についての考え方である。マナ識と六識(眼、耳、鼻、舌、身、意)の生じる場は現在のみである。一刹那に生じ一刹那に滅し落ちて行く。それが現在化した時の印象は習気(じっけ)として潜在するアーラヤ識に残るとする。

アーラヤ識に種子として貯えられた( 薫重(くんじゅう)という)ものが成熟し発現する。このような循環は一刹那に行われる。」と考える。これは脳中での情報がインパルス(パルス的な電気信号)として消滅し海馬の記憶回路に貯えられる姿を言っていると考えれば理解しやすい。

脳内では六識(眼、耳、鼻、舌、身、意)から来た情報はインパルス(電気信号)として脳内で伝達生滅していることは分かっている。またインパルス(電気信号)の脳内での生滅の速度は脳波の変化する速さを目安として考えることが出来よう。

一刹那は1/75秒=13.3ミリ秒と考えられている。坐禅中の脳波の研究は既に行われている。それを見ると脳波の生滅する変化は約10ミリ秒である。一刹那13.3ミリ秒に非常に近い。脳波の変化を生滅と解釈すれば部派仏教の主張する刹那生滅にピッタリ一致する。偶然だと思われるが驚くべき符合であると言えよう。

笠松章博士の坐禅の脳波学的研究によるとα波で125〜77ms(ミリ秒)、β波で56〜33ms、γ波で33msの周期で変化生滅している。これは刹那生滅に対応する変化といえる。

脳波の強さは50μVくらいの大きさである。これは増幅器で元の信号を100万倍くらい増幅して観測された大きさである。従って脳内での元々の大きさは50x10-12V、即ち50ピコVとなる。極めて微小な電気信号である。

このように唯識説で言う識を現代科学の脳に対応させれば驚くほど一致する点もある。唯識説は禅定を修行の中心に置いた修行僧(瑜迦師)のグループによって発展させられたと考えられている。現代の科学装置でもって初めて検知出来る脳内微小電流を座禅中に自ら検知し、識の刹那生滅の理論を考えたものだろうか?

そうだとすれば、驚くべき集中力と鋭敏さと言わざるを得ない。彼等の生きた時代には色(物質)を実在するものとして客観的に証明する科学はなかった。ナーガルジュナの「空」の思想が大乗仏教の基礎として受け入れられ、全盛であった時代でもあった。そのような背景と制約を考えたとき、大乗仏教が唯識説のような観念論に走ったことは理解できるのである。

驚いたことにこのような考え方は近世(江戸時代)にまで残っていたことである。江戸時代の禅僧 鉄眼(1630〜1682)の書いた「仮字法語」には「色」と「心」の二つに分けて考える考え方は迷いであって実体はないとしている。

身体は、地・水・火・風・の四大がかりに集まってできあがったものであると言う。四大を元素だと考えればこの考えは問題ない。しかし、古典的「空」の考え方に立っているため地・水・火・風・の四大には実体がないとしている。

科学の観点から言えば、色(物質)は決して虚妄の存在ではなく、原子・分子のような微粒子、さらには、電子・クオークのような素粒子から出来ていることはいまや疑うことが出来ない。これらの存在はこの200〜300年にわたり多くの科学者が実験という客観的方法により、繰り返し再現性も確かめてきた事実である。

現在までその理論に破綻はない。コンピュータ、テレビ、携帯電話などの電気(エレクトロニクス)機器は現代の文明社会を支えている。それらの機器が電子という極微の素粒子の動きをコントロールすることによって動いていることは誰も疑うことができない。唯識思想に基づいて、これらのものが虚妄の存在であって実体はないと言っても誰も信じないだろう。

唯識無境>の考えは現代では完全に説得力を失っている。実感的思考と推論だけに頼ったため冒した誤りといえるだろう。

科学は物質(色)と精神(心)は違うという物質−精神二元論によって進歩した。物質(色)と精神(心)を分離する物質−精神二元論は17世紀フランスのデカルト(1596〜1650)に始まるとされている。 鉄眼(1630〜1682)禅師の生きた時代は丁度デカルトの生きた時と重なる。

鉄眼禅師は「大乗起信論」に深く傾倒した禅僧である。「大乗起信論」は唯識論に基づいた論書である。鉄眼禅師の時代には「大乗起信論」は仏説であると信じられていた。仏説は無条件に正しいとされていた時代である。鉄眼禅師が色(物質)は虚妄の存在であるとする唯識論で世界を理解したのも無理からぬことと考えられる。

唯識説を脳内の意識現象のみに適用する時、何ら問題はない。正しいと言っても良い。既に見たように唯識説では意識現象に限らず、色(物質)にまで言及している。意識現象に限った理論であれば問題のない考えを物質まで拡大解釈している。それも一種のアナロジーによってである。

古い時代にはアナロジーは良く見られる考え方である。平安時代では雷を神(雷神)によるものとした。古代唯識論師達は勇み足をしたのである。彼等は拡大解釈をすることで誤りを犯している。

現代科学はその物質(色)観に於いて驚くべき長足の進歩を遂げた。テレビ、コンピュータ、電話のような現代の生活に不可欠なものはその1例である。

現代に生きる我々から見れば唯識説はその物質観において明らかに虚偽の部分を含むことに留意しなければならない。唯識説を意識・心理現象に限って見れば問題はなく、学ぶことは多い。しかし、その物質観において虚妄の部分を含むことを忘れてはならない。


  

10・40-5  大乗仏教における物質(色)と精神(心) 



 −色心不二について− 




第1期大乗経典(1世紀〜3世紀頃成立したと推定されている。)の一つ華厳経の十地品において「三界は虚妄にして、但これ一心の作なり」という言葉がある。これは古くから華厳経の中心思想の1つだとされてきた言葉である。

羅什訳の華厳経ではこの部分は「三界虚妄、但是心作」、実叉難陀訳の華厳経では「三界所有、唯是一心」である。

ここだけ読むと華厳思想は唯心論であり、観念論のように考えられる。実際多くの仏教学者はそのように考えている。

しかし、唯心論といっても仏教では、<心>に対する考え方がヨーロッパ的な考え方と大きく違うことに注意する必要がある。

西洋哲学における観念論の<観念、あるいは心>は抽象的な精神であり心である。この<観念、あるいは心>はデカルト(1596〜1650)以来の精神-物質が分離した二元論に由来している。

ところがが仏教における<心>は精神ー物質が分離した心ではない。西洋哲学では精神-物質の二元論に立っている。ところが仏教はもともと精神-物質の二元論に立っていないのである。歴史的に見ても仏教では精神ー物質を二つに分けて考える考えはなかった。

このところが明確に理解されていないと大きな誤解を生むことになる。特に日本では明治以来西洋文化を輸入・消化することに急であったためヨーロッパ的な考えがあらゆる分野に浸透した。このためヨーロッパ的な精神-物質の二元論に立っていないにもかかわらず仏教の<心>を西洋哲学における観念論の<観念、あるいは心>とはっきり区別しないで論じていることが多い。これは大きな誤りであることを強調したい。

仏教の<心>概念は大乗仏教において大きな進歩を見た。これは華厳経(正確には十地経、第6地「現前地」)の「三界は虚妄にして、但これ一心の作なり」という言葉に表れている通りである。

しかし、この心すら現在の我々が考えている心ではない。このことは華厳経(正確には十地経、第6地「現前地」)を注意深く読めば分かる。

漢訳では「三界は虚妄にして、但これ一心の作なり、十二縁分は是れ皆心による。」とある。この漢訳文においても前半の「三界は虚妄にして、但これ一心の作なり、」と言う言葉のみが注目されてきた。この言葉をヨーロッパ的な唯心論、観念論だとする解釈が仏教界では主流をなしているようである。

しかし、この華厳経解釈は誤りだと思われる。「三界は虚妄にして、但これ一心の作なり、」には「十二縁分は是れ皆心による。」という文章が続いている。漢文では「十二因縁分皆依心」という文である。従来この文が無視されてきた。

この文を考慮に入れれば華厳経で説く<>はヨーロッパ哲学の観念論の<>と違うことが分かる。「十二縁分は皆心による。」とは十二因縁の各項目が心に依存していることを意味する。

十二因縁は1)無明、2)、3)、4)名色、5)六入、6)、7)、8)、9)、10)、11)、12)老死 である。このうち無明 、は精神的な項目といえる。これらの項目は心に依存すると言っても、問題はないだろう。

しかし抵抗があるのは六入老死の五項目である。

は物質、六入は眼耳鼻舌身意の6感覚器官、は存在、は生きること、老死は老い死ぬことである。これらの多くは現代人の考えでは観念としての心とは無関係なものと考えられている。特に、デカルトの物質-精神二元論以降そのように考えられてきた。色、六入、有、生、老死の五項目のうち六入、有、生、老死は最近になって精神・心の影響するところが大きいことが分かってきている。それでも多くの人は色は心と無関係だと考えるだろう。

この矛盾を解く鍵は歴史的時間を考慮に入れることにある。即ち、華厳経の説くところは<インド仏教の考え>、即ち紀元前後の古代の考えである。華厳経はA.D.350年頃成立したと考えられている。今から1650年も前のことである。日本は弥生時代である。そのような古い時代の考えは現在の考えと大きく違うのは当たり前であろう。

十二縁分は皆心による。」の意味はそのように考えればよい。1650年前インドの仏教徒は色(物質)は心に依っている(と強い関係がある)と考えたのだ。現代風に表現すれば心と色(物質)の不可分性である。

「色心不二」の心である。デカルトの物-精神の二元論が世界に普及する以前の考えである。この考えでよいかどうかを確認するため十地経現代語訳の「三界虚妄一心作」に対応する箇所を見よう。

現代語訳は「三種のまよいの存在(三界所有)はすべて、ただ心のみである(唯是一心)。上述のごとく、十二種のまよいの存在の構成要素(十二有支)を、如来はそれぞれ別のものとして説法されたのであるが、それらはすべて、ただ一つの心の内に存在しているのである。」となっている。

 この文を読む限り「十地経」で説く心は色心不二の心を指している。色心不二の心とは現代の科学的知識をもとにして言えば脳機能に基づいて発現する心である。

この心で良いことは多くの仏教文献が示している。原始仏典「出家の功徳」の中でブッダがアジャータサット王に慧学について述べるところがある。「 このようにして心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、柔軟となり、機敏にものに応ずるもの、しかも(それ自らは)堅固な不動なものととなると、比丘は(次のような)知による洞察(智見)に心を傾け、心を向けます。(そして)彼は次のように知ります。「実に、わたしのこの体は、形をもち、四種の元素からなり、父母から生まれ、(食べた)飯と粥との集積に過ぎず、恒常的でなく、(たえず)衰え、消耗し、分解し崩壊するのがその本質である。しかもわたしの意識はこの身体に密着し、この身体に依存している。」と。

この言葉は心と身体の不可分関係を見事に説明している。「四種の元素や(食べた)飯と粥との集積に過ぎず」と言う箇所は古い時代の制約を受けた考えである。それを除けば現代の科学的考えと一致する。ブッダの説く色心不二は明快にその本質を説き尽くしていると言えるだろう。

鎌倉時代の道元禅師の「正法眼蔵ー弁道話」の中に「心身一如のむねは、仏法のつねの談ずるところなり。」、「身と心とをわくことなし。」とある。また大乗起信論解釈分には「言う所は本よりこのかた色心は不二にして・・・・」とある。

また中国天台宗六祖の妙楽湛然(みょうらくたんねん、711〜782)著の「十不二門」には「色心不二」を説いている。

これらの例は、仏教は物質(色)-精神(心)を分けて考える物心二元論の考え方ではなく、物心不可分(色心不二)論に立っていることを明示している。明治以来の仏教学者はヨーロッパの哲学との対応を急ぐあまりこの点をあまり意識していなかったように見える。

このような色心不二論を説くと、仏教は現代科学の説く物質と心の関係を先取りしたものでなんと素晴らしいことか!となりそうである。

だが、そうではない。仏教の中心はあくまで心である。色(物質)は心に従う心優位の色心不二論と言った方がよさそうである。

現代科学では蛋白質(色)から成る脳神経の機能・働きとして心があると捉える。しかし、仏教では逆に心が展開して色(物質)を作り出していると考えているようである。ようであるといったのはそのようにはっきりと断言している訳ではないためである。

しかし、十二因縁の1)無明、2)行、3)識、4)名色、5)六入、の順番は明らかに1)無明、2)行、3)識、という精神的項目の後に名色(心と身体)が来ている。また大乗仏教の唯識論は<心>中心の世界観である。そのような観点から見れば仏教は古代インドのウパニシャッドの思想を受け継いだ古代思想と言える。仏教と科学における色(物質)と心の関係を図示すれば次の図10.15のようになるだろう。



 図10.15

図10.15 仏教(a)と科学(b)における色(物質)と心の関係

上の図10.15 に示したように、仏教(a)では色(物質)より心の方に重点が置かれている。これを心の方から色(物質)の方へ向う→で表わした。これに対し、科学(b)では心より色(物質)の方に重点が置かれていると言えるだろう。

仏教の面白い所は西洋哲学のような抽象的概念としての心や精神を主張しないところである。同じ十地経に十二因縁の第4項である識と名色との関係を次ぎのように述べている。「固体存在(名色)はまた二つのはたらきをもっている。それが識をあらしめ、識がそれをあらしめて相互に根拠になってまよいの存在が生成していく。」と言っている。ここで識を"脳の働き"と置き換えれば現代科学の考えと一致する。

「名色」という言葉の中で名は精神を表しているので名色という言葉は精神と物質を一まとめにした単語であることが分かる。

これを図に表すと図10.16のようになるだろう。仏教の考えは古代の思想である。それは進歩した科学がない時代の制約を受けている。しかし、少し修正しただけで科学的思想と一致する優れた思想だと言えるだろう。



 図10.16


図10.16 十地経が説く識と名色の関係 



10・40-6  大乗仏教における物質(色)と精神(心) 




ユダヤ教では病人・貧しい人は罪人だった。紀元前後のユダヤ社会では肉体が病むのも心が病むのも霊の影響を受けているためであると考えられた。

不信仰の故に霊の影響を受けて肉体や心が病むのだから罪であるとされた(天刑病という考え)。このことは古代では色心不二の思想がインドだけでなく、ユダヤ社会にもあった一般的な思想であることを示唆している。


10・40-7 禅における心身一如の考え 



黄檗希運(臨済義玄の師)はその弟子斐休が編した「伝心法要」の中で、五蘊が心であるとしている。五蘊には色(物質・身体)が入っている。従って五蘊が心であるという意味は精神を含めた身体=心であるという意味である。

この考えも身と心を分離して考える身-心二元論の考えではない。色心一如、心身一如の考えである。これは道元禅師も言っているように仏教の伝統的考えである。

この考えに立つと、即心是仏と言うことは五蘊是仏に等しいと言っても良いのかも知れない。この考えも仏教の伝統に立つ考えであることが分かる。


10・40-8 神経伝達物質と色心不二 




脳は約140億の神経細胞から成り立っている。各神経細胞は神経線維(軸索)を伸ばし神経線維のネットワークを形成している。そのネットワークをが心の生まれる場所である。

神経線維(軸索)中は電気信号で伝達される。しかしそのネットワークは一つにつながっている訳ではないので電気信号だけで情報が伝わる訳ではない。神経線維と神経細胞の間には約5万分の1cm(20nm=20x10-9m)という極めて短い間隙(シナプス)がある。その間隙を神経伝達物質という分子が移動することによって脳内で情報が伝達されるのである。

神経線維内での情報の伝達は電気インパルス(短い電気パルス)が高速(〜100m/秒)で伝達される。その意味で脳はコンピュータによく例えられる。

しかし、神経細胞の間の情報の伝達が神経伝達物質によってされていることは注目される。その神経伝達物質は約100種が知られている。この神経伝達物質が人間の心や精神状態を操っていることが最近分かってきた。

脳内の情報伝達は電流とともに神経伝達物質によってなされているのである。次の図10.17に代表的な神経伝達物質であるセロトニンとドーパミン分子の化学構造式を示す。


 図10.17


図10.17 神経伝達物質ドーパミンとセロトニンの化学構造 

アメリカは自由競争の社会である。自由競争の社会の生み出す強いストレスのためアメリカでは鬱病、神経強迫症、社会恐怖症などの精神的病を持つ人が増えている。このため約2000万人の人が脳内薬品を飲み、精神的ストレスから逃れようとしている。

ツパイ(原猿亜目の猿の一種)という動物を使った実験でストレスが脳に与える影響が調べられた。ツパイに強いストレスを与え続けると脳細胞の樹状突起が枯れた様になり消失することも分かっている。脳内薬品に「SSRI」がある。これは鬱病、神経強迫症、社会恐怖症の治療薬としてアメリカで良く用いられている。

脳内薬品である「SSRI」は脳内で神経伝達物質であるセロトニンの量を増やす。セロトニンは人間の感情や性格を左右する神経伝達物質である。猿を使った動物実験では、セロトニン濃度の高い猿は愛情深く、子猿のめんどうをよくする。ところがセロトニン濃度の低い猿は子供に冷淡であり、子供の持つ餌さえ横取りする。

このようなことは人間にもあてはまる。他人と協調して行くことがへたな人は人間関係をうまく築くことができず、鬱病、神経強迫症、社会恐怖症になりやすい。そのような人が「SSRI」を飲むと恐怖心が無くなる。鬱状態が無くなるとともに性格が変わり、人間関係がよくなり親子関係や社会関係が良くなる。セロトニンにはこのほかに脳の老化を防ぎ若さを保つ働きがあることも分かっている。

もう一つの脳内薬品に「リタリン:ritalin」がある。これはアメリカの子供の130万人がのんでいると言うことである。リタリンは神経伝達物質であるドーパミンに関係する脳内薬品である。ドーパミンはやる気、集中力、快感と深く関わる神経伝達物質である。実際リタリンをのむと脳内でドーパミンの濃度が増えることが分かっている。集中力ややる気のない子供がこれをのむと集中力が高まり、学校生活について行けるようになる。

現代人は多くのストレスを受けて生活している。ストレスは精神的なものであるからどれくらい強いか測定することは普通不可能と考えられる。精神的なものを物質的なもののように定量的に測定できないと考えるのが普通である。

しかし、最近ストレスの大きさの程度を測定することが可能になって来た。それは人がストレスを受けると脳がストレスを感じてコルチゾール(ホルモン)をストレスの強さに比例して分泌するという生理的事実を利用する。

コルチゾールは唾液中にも含まれるので唾液中のコルチゾールを分析しその濃度を測定すればその人の受けているストレスの強さが分かるのである。最近(2004年1月)独協医大の上田教授らはネズミの脳内でドーパミンの分泌を増し、ノルアドレナリンとセロトニンの分泌を減らすことでキレ易い(攻撃的な)ネズミを作ることに成功した。

このような例は脳内物質(神経伝達物質)の分泌や脳内でのアンバランスが心の病や精神状態と深く関係していることを示している。まさに色心不二の世界だと言えるだろう。

現代アメリカでは薬を飲んで心のコントロールをしようとする(図10.15ののプロセス)。

これに対し、仏教では坐禅などを通して心を調え、脳内物質(神経伝達物質)やホルモン分泌をコントロールする修行(図10.15ののプロセス)をしていると言えるだろう。実際古い仏典や修行僧の伝記を読むと禅定修行によってストレス克服ができることを示す例(白隠禅師の心病克服の例)が見られる。

最近東邦大学の有田秀穂教授は坐禅(丹田呼吸法)によって脳幹のセロトニン神経系が活性化しセロトニンの分泌が増えることを実験で示した。これによって心が癒され安定化するのである。2500年前ブッダが発見した禅定の効果が現代医学で裏付けられたと言える。

古くから「馬鹿は死ななきゃ治らない。」とか「馬鹿に付ける薬はない。」と言われてきた。脳神経科学の進歩によって、キレ易い人は坐禅呼吸で治るだろう。「馬鹿は病院に行けば治る」時代が近い将来実現することは決して夢ではないだろう。



10・40-9 麻薬と神経伝達物質 



 麻薬の一種であるコカインを静脈注射すると血液によって脳に入る。コカインが脳に入ると神経伝達物質であるドーパミンの量が急激に増える。ドーパミンは脳内で快感を生む神経伝達物質である。そのためコカインの注射で快感を味わうことができる。

この快感が忘れられないため人は再びコカインを注射し快感を得たいと思う。しかし注射で脳内に来て滞在するコカインは短時間で分解され消失する。このとき、脳内でドーパミンは急激に増え(2分で拡がる)、短時間で無くなる(5分後に消失する)。

脳はその急激な変化に対応できないためダメージを受ける。また急激なドーパミン増加は脳の感度を鈍らせる。強い快感を得るため注射量が増え、習慣性となる。多量のコカインは脳を破壊し、人格を破壊するに至る。これが麻薬の恐ろしいところである。

これに対しリタリンなどは経口薬品であるため、腸から吸収される。脳内に拡がるのに時間がかかる(約1時間かかる)。またゆっくり消失する。そのためリタリンによって脳内に生ずるドーパミンの量もゆっくり変化する。このゆっくりした変化に脳は対応できる。そのためリタリンなどの経口薬品は麻薬のような害を生まないと考えられている。



10・40-10   トラウマと脳 



 人は強い恐怖や不安に曝されると精神的外傷を負う。これをトラウマ(trauma)と呼んでいる。人が強い精神的不安と恐怖にさらされると脳の扁桃体からCRF(ACTH放出ホルモン)が分泌される。

脳内に分泌されたこのCRFが恐怖や不安の原因となることが分かってきた。この時前頭葉にある理性が働けば扁桃体の興奮は抑えられる。この時扁桃体からセロトニンが放出される。

セロトニンの放出によってCRFの放出が抑えられ不安や恐怖などの本能的感情と興奮が静められると考えられている。これも心と物質の1体性(色心不二)を示す例である。

トラウマを生じるような強い精神的ショックを受けた時、その記憶は脳にバラバラの記憶として記憶される。時間的系列もバラバラとなり、どのようにしてそのショックを受けたかの記憶が無秩序状態(バラバラ)になる。 前頭葉(理性)はその体験を順序だって合理的に理解することができない。

そのため前頭葉(理性)はその恐怖や不安体験をコントロールすることができず、それがトラウマの原因となる考えられている。精神的外傷が重い場合は心的外傷後ストレス障害PTSD = Post Traumatic Stress Disorder)とういう心の病気になる。

PTSD は1980年アメリカで初めて病気として認められた。多重人格症などは幼児の頃の虐待(心が回復する暇もないほどの激しい虐待)によるトラウマが原因になることが多いと考えられている。

幼児が激しい虐待を受けると海馬(記憶の脳)の部分が萎縮する。海馬はCRFに弱い。CRFによって容易に破壊され12%も萎縮する。この海馬の異常が意識の異常をもたらすと考えられている。

多重人格症では虐待の苦しみから逃れるため身代わりの人格を想像によって作り出す。それによって苦しみから逃れようとしているのだと考えられている。

そのようなトラウマを克服し治療するには恐怖や不安体験を言葉にすることが一番良いと考えられている。言葉にして表現することによって患者(脳)はその体験を過去のものだと理性的(客観的)に眺め理解できるようになる。

患者が落ち着いてその経験を語れるようになると、それは自分にとっては過ぎ去った一体験であり現在の自分とは関係がないと理解した時トラウマから自由になると考えられている。

 扁桃体は大脳辺縁系の中でも最も原始的な場所(アーモンド型をした直径15mmの大きさを持ち海馬の前に位置する)であり怒り、恐れ、不安を生じる。

人間を含め動物の攻撃性は扁桃体で生じると考えられている。動物の扁桃体を破壊すると怠惰で柔和になる。

禅僧が坐禅修行によって穏やかで柔和な人格を形成することができるのは深い丹田腹式呼吸によって、脳幹にあるA10神経やセロトニン神経が活性化する。それらのAB神経系の活性化によってβ・エンドルフィン、セロトニン、ドーパミンなどの脳内ホルモンが分泌され多幸感や安らぎの心が生まれる。

さらに、大脳前頭葉の理性と知性によるコントロールで、人間の原始的な欲、怒り、不安、恐れなどの情動を鎮めるためだと考えれば分かりやすい。

坐禅修行とはそういう修行法だと考えれば古人が<不立文字(言葉で表わすことができない)>とした理由も分かりやすい。扁桃体は人間の「好き嫌い」の感情を醸成する情動の中心である。

中国禅の第三祖僧サン鑑智禅師(?〜606)は、その著「信心銘」の中に「至道無難 唯嫌揀択但莫憎愛洞然明白(至道は難きこと無し、 唯だ揀択を嫌う。但し、憎愛莫ければ洞然として明白なり。)」という有名な言葉を残している。この言葉は「至極の大道(悟りの道)は難しいことなんかない。好き嫌いの感情が無くなればそこに明らかに現れてくる」という意味である(「信心銘」を参照 )。

このことを脳科学の立場から解釈すれば「脳幹と前頭葉を通して扁桃体をコントロールして好きや嫌いの感情を離れなさい。そういう情動が鎮静すれば<悟りの心>ははっきりと現前しますよ。」と言っているのではないだろうか?



10・40-11 禅定と脳内物質 



原始仏教経典の一つ「出家の功徳」、漢訳「沙門果経」「長阿含経」巻17には禅定中の心の状態が詳細に記述してある。「出家の功徳」という原始仏教経典ではマガダ国王アジャータサット「阿闍世王」がブッダに出家層(沙門)の功徳について問う。ブッダはそれについて丁寧に答える形で二人の会話は続く。特に禅定についてブッダは次のように述べる。

「比丘は(欲界の)愛欲を離れ、(欲界の)不正なことを離れ観察と考究とをまだ伴っているが(欲界の悪からの)離脱によって生じた喜びと安楽とのある、第一の禅定(初禅)に入り、その中におります。比丘は、まさにこの身体を、離脱によって生じた喜びと安楽で浸潤させ、あまねくあふれさせ、充満させ、偏満させます。彼の身体のいたるところ、離脱によって生じた喜びと安楽で偏満していないところはありません。」

「たとえば大王よ、熟練した浴僕あるいはその弟子が、金属の容器に入浴用の粉をふりまいて、水を一滴一滴落としてこねると、その粉の塊には油気がしみこんで行きわたり、内も外もすべて油気におおわれ、しかも(油が)にじみこぼれるようなことがなくなります。まさにそれとおなじように、大王よ、比丘はこの身体を離脱によって生じた喜びと安楽で浸潤させ、あまねくあふれさせ、充満させ、偏満させます。彼の身体のいたるところ、離脱によって生じた喜びと安楽で偏満していないところはありません。これまた、大王よ、前に述べたものよりもさらにすぐれてより霊妙な目に見える沙門の果報であります。」

このような経典の記述は禅定修行によって脳幹や脳幹にあるセロトニン神経やA10神経が活性化される。それとともに脳内物質ドーパミン、セロトニン、βエンドルフィンなどが分泌されることによって心の安らぎがもたらされることを示唆しているのではないだろうか?(第2章「禅と脳科学」、2.16「禅と禅定の脳科学的解釈」を参照

禅定と脳内物質の関係は今後の脳科学の進歩によってますます明らかになると期待される。



10.40−12

10.40−12 如来蔵思想と仏性 



中期大乗仏教のもう一つの重要な思想は如来蔵思想である。

 如来蔵とは、

すべての衆生に具わっているとされる悟りの可能性のことを言う。

如来蔵は「仏性」と同じ意味である。

如来蔵の原語(サンスクリット)は tathagata-garbha で 如来を胎児として宿すもの という意味で、

すべての衆生は「如来を胎児として蔵(やど)している」という主張である。

 つまり、すべての人間は仏陀になる(成仏の)可能性をもっていることを言う。

如来蔵自体は本質的に清浄で、あらゆるけがれに染まらないものであるが、

迷いの存在にあっては、この如来蔵(=仏性)が多くの煩悩によっておおわれていると説明される。

 この「仏性」思想は、

すでに初期大乗経典の「大乗涅槃経」の『一切衆生悉有仏性』の言葉として出ている。

また中期大乗経典である『如来蔵経』や『勝鬘経』などの主題となって出てくる。

それが発展して唯識思想の阿頼耶識思想との融和を経て、大乗仏教の重要な思想上の流れとなった。

如来蔵(=仏性)思想は禅や密教にも大きな影響を与え、禅問答や禅の公案に頻繁に出てくる。



10.41

10・41 仏教の中国伝来と大乗仏教 



仏教の中国伝来の時期には諸説がある。

. 後漢2代皇帝明帝の永平10年(AC67年)白馬寺建立とともに伝わった。

. 前漢末の哀帝の元寿元年(BC2年)に大月氏王の使者が仏典を口述した。

. 白馬寺に伝わった永平年間には仏教は既に伝来していて、明帝の王族の中には信者がいた。

その他に、秦の始皇帝の時に伝来したという説もある。このように諸説があるが前漢のシルクロード開通で仏教伝来の道が開かれ前漢末には、伝来していたのではないかと考えられる。

このことは中国に広がった仏教が大乗仏教を中心としたものであったことと一致する。紀元1〜2世紀は世界的にも宗教的な考え(A型宗教)が勃興した時代である。その頃インドで興隆した大乗仏教は儒教や道教にない魅力をもつ当時の最新思想であった。それが中国に流れ込んだため中国人にとって仏教は最初から宗教としての大乗仏教であった。

金色の仏・菩薩像とともに高度な思想を経典に持っていた。このインド世界からもたらされた大乗仏教は中国人の心を魅了した。古い仏教の形を持つ部派仏教は宗教として見ると単純明快すぎる。

インドにおける仏教の歴史的な経過と事情は中国人には分からない。このため小乗仏教は大乗仏教と比較すると程度が低いという評価が定着したと考えられる。

日本仏教は中国仏教を輸入し、消化吸収して成立した。インドから直接学んだものではない。日本仏教に導入され読まれる仏典は中国語(漢字)に翻訳された漢訳仏典をそのまま用いている。

また日本仏教の祖である最澄、空海、栄西、道元などは中国に留学し仏教を学んだ。当時の中国は日本にとって高度な文化を持つ先進国であった。そのため中国仏教を批判的に見たり、経典を民衆に分かりやすい日本語に訳すこともしなかった。

では中国仏教はどのようなものであっただろうか?中国仏教の宗派の概要を以下の表にまとめる。


表10.32 中国仏教の宗派概要 

宗派  開祖、成立に貢献した僧 主な内容
三論宗僧肇(374〜414)、吉蔵(549〜623) ナーガルジュナの著書「中論」、「十二門論」と提婆の「百論」の三論書によって成り立つ宗派。空思想を説く。吉蔵が宗祖
浄土教慧遠(334〜416)善導(613〜681) 慧遠は廬山で念仏修行に専念し念仏結社「白蓮社」を組織し、浄土念仏を信仰する。
地論宗 浄影寺慧遠(523〜592)世親の「十地経論」に基づいて成立。
摂論宗 真諦(499〜569) 唯識論の綱要書「摂大乗論」に基づいて成立した宗派 
天台宗天台智(538〜597) 法華経を中心経典に成立。
華厳宗杜順、智儼、法蔵(643〜712)華厳思想をもとに唐代に成立。
法相宗玄奘三蔵(602〜664)20年間にわたる旅行でインドに経典を求め、仏教を学んだ玄奘が唯識論をもとに成立。
禅宗菩提達磨(?〜532)、六祖慧能(683〜713)老荘思想に維摩経、大乗起信論の思想が結合して成立した。坐禅修行に集中することによって見性成仏を図る。


「十地経論」: 華厳経の一部を成す「十地経」の注釈書。

「摂大乗論」: 「十地経」に基づいて成立した唯識論の概要書。


中国仏教はこの表を見ると分かるようにすべて大乗仏教である。この中で三論宗と地論宗はともに華厳経の1部を成している「十地経」と関係している。この2宗派の哲学は華厳宗の先駆的思想となった。この2宗派は南北朝から随代にまで伝えられたが後に華厳宗のなかに包括され消えたと考えられている。

中国仏教の中でも重要と思われるのは浄土教、天台宗、禅宗である。中国仏教で密教が独立した宗派として確立されなかったのは興味深い。密教は確かに中国に伝わった。しかし、中国では密教は独立した宗派として確立せず、恵果の密教を受け継いだ空海が日本で真言宗を創始したため日本に残った。何か中国と日本の文化的違いによるものだろうか?

天台宗は最澄によって日本に伝えられた。その中から法然、親鸞の浄土教が生まれたことは良く知られている。法然、親鸞の浄土教には中国の浄土教大成者善導の思想が影響している。日蓮、栄西、道元も比叡山に登って天台宗を学んでいる。

この中で特異なのは禅宗である。禅宗は南インド出身の僧菩提達磨によって伝えられ中国で独自の発展を遂げた。菩提達磨はAD.527に中国に来て楞伽経に説かれた如来禅を伝えたとされる。達磨禅は6祖慧能(A.D.638〜713)に至って大成した。彼の門下からは多くの偉材を輩出し発展し現在に至っている。

慧能の禅は南宗禅と呼ばれ、「教外別伝、直指人心見性成仏」の噸悟禅である。この禅は直裁かつ実践的であったため中国人の伝統的心性に訴え唐代に大発展した。

中国の仏教徒は大乗経典はブッダの直説であると素直に信じた。高度の宗教性を持つ大乗仏教こそブッダの教えの真髄を伝えるものだと誤解したのである。これは現代の仏教学が明らかにした仏教の真実と大きく食い違う。

例えば中国人による仏教史観として教判論がある。有名なものに天台智(ちぎ)(538〜597)の「五時八教判」がある。天台智(ちぎ)は膨大な仏教経典を読破した。

彼は多くの経典の内容が異なるのはブッダの一生においてその思想が発展深化したためであると考えた。そしてブッダの教えが1代のうち5つの時期(五時)で発展深化したものに対応していると考えたのである。

五時とは@華厳時、A阿含時、B方等時、C般若時、D法華・涅槃時である。

彼によると、ブッダは悟りを開いた直後に華厳経を説いた。次ぎに阿含経典が説かれた。次ぎに方等(大乗)経典、般若経典が説かれた。ブッダの入滅8年くらい前(72才)から涅槃(死)までの最円熟期に説かれたのが法華経や大乗涅槃経であるとしたのである。天台智は全ての経典はブッダの説いたものであると信じ誤解したのである。

天台智はさらに、経典の説法内容と形式(化儀と化法)を蔵、通、別、円、頓、漸、秘密、不定の八種に分けた。これを八教という。 天台智(ちぎ)の「五時八教教判」は典型的な教判論といえるだろう。

現在では阿含経典はブッダの直説を反映した古い経典を含んでいると考えられている。しかし、般若経典や法華経、大乗涅槃経など大乗経典の全てはブッダ死後500年以上経ってから創作された偽作経典であることが明らかになっている。しかし、天台智はこれらすべての経典はブッダの直説であると純真に信じていた。

彼は法華経はブッダが入滅する8年くらい前の最円熟期に説かれたもので、経典中最高と考えた。法華経にそのように書いてあるからである。

中国と日本の大乗仏教に大きな影響を与えた経典に浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)がある。これらの経典は西暦紀元後に創作された経典であると考えられている。実際、原始仏典には阿弥陀仏は出ていない。また、ブッダがこのような教説を説いたとは考えられない。

鎌倉時代には日蓮が法華経を所依経典に選び他宗を激しく非難した。これは伝教大師最澄が中国で学んで日本にもたらした天台大師(天台智)の説を正しいと信じたからである。

日本仏教は法然や親鸞の<専修念仏>や<他力本願>の教えなど独自に発達したところもある。しかし、基本的には中国人の仏教観を正しいと盲信して学んだところから出発している。現在の学問レベルから考えると眉にツバを付けて検討し直す必要があると思われる。

天台智の「五時八教教判」の他に日本仏教に影響を与えた考え方に「一念三千」の思想がある。



10.42

10・42 一念三千


「一念三千」とは我々の心の姿(実相)について、天台智(538−597)が説いた教説である。彼は現象する心の諸相を三千の数で表し、それが人間のそのときどきの心(一念)の内容だと教える。

この教えは心に一切法が具足されていることを教えるだけの教説と理解されることもあるが、我々が仏になる(成仏する)ことを保証する基礎理論と考えられている。「一念三千」の考えは日蓮上人に影響を与えたため、日蓮宗や日蓮正宗において重視されている。

「一念三千の法門」とは、我々の「一念の心」に三千の諸法が具足されていることをいう。 この法理は、天台大師が法華経『方便品第二』の十如実相の文をもとにして考えたもので、天台智の大著『摩訶止観』(卷五)に説かれている。

それによると、一刹那(一瞬)の一念に十の法界があり、その十界各々に十界が具わって「百界」となる。「百界」に「十如是」が具わることで「千如是」となり、千如是に「三世間」が具わるので【三千世間】となる。

最初の「十法界」とは、「十界」のことで、心(生命)に具わる十の境涯(心の状態)を表わしている。具体的には地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の「六道」に声聞・縁覚・菩薩・仏(仏界)の四つの世界を加えたものである。

大乗仏教では、菩薩界の修行によって十界の最高位である仏界に到達することを第一目的としている。それが「即身成仏」や「煩悩即菩提」の境涯と言っても良い。

そして、その十界の一つ一つには、互いにに十界が具わっているので、10×10で「百界」となる。簡単に言えば、最低の境涯である地獄界の命が強い人がいるとしよう。それは具体的に言えば「極悪非道」といわれるような心である。

しかし、そのような人の心にも、我が子を自身の命よりも大事にし、慈しむ心(菩薩界の心)がある。また、逆に、如何なる人格者でも、他を軽んじ傷つけたり、自己中心的な心を持つ瞬間もある。それが十界互具の考え方である。

次の「十如是(じゅうにょぜ)」は、法華経『方便品第二』の『 唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の《如是「相」、如是「性」、如是「体」、如是「力」、如是「作」、如是「因」、如是「縁」、如是「果」、如是「報」、如是「本末究竟」》等なり』という経文に由来する。

「十如是(じゅうにょぜ)」とは十界それぞれの「生命活動」に、十の働きがあると考えることである。最初の「相」を本とし、終わりの「報」を末として『九如是』が究竟して、「一体となって等しい」状態であることを言う。これは「因縁果報」の道理を説いたものだと考えられている。

しかし、サンスクリットの法華経『方便品第二』の原本を見ても、「十如是」の思想に対応するものは特にない。「十如是」に対応する部分は「如来こそ、あらゆる現象を正に知っているのだ。即ち、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるものであるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる本質を持つのか、ということである。それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかなるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質をもっているのかということは、如来だけが知っているのだ。」とあるだけである。

この部分を鳩摩羅什が『 唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の《如是「相」、如是「性」、如是「体」、如是「力」、如是「作」、如是「因」、如是「縁」、如是「果」、如是「報」、如是「本末究竟」》等なり』と漢訳したことに始まる。

この鳩摩羅什の漢訳経文に基づいて、天台智が「十如是」の思想を創出したと考えることができる。

最後の【三世間】とは、五蘊(五陰)世間、衆生世間、国土世間の三種の世間のことである。

@「五蘊(五陰)世間」:

五蘊(陰)とは色・受・想・行・識の五つをいう。色とは身体及び物質、受とは感受作用、想とは心に浮かぶ表象作用、行とは意志あるいは欲求、識とは認識作用のことである(「原始仏教」の五蘊説を参照 )。

「五蘊(五陰)世間」とは物質と精神の世界をさしている。

A「衆生世間」:

五陰によって形成された衆生の世界のこと。

B「国土世間」:

十界の衆生が住む自然界(国土・環境)のこと。

以上をまとめると、十界×十界=100界(十界互具)となる。

この100界の各々に10如是が具わっているので100×10=1000界になる。この1000界に3世間があるので三千世界となる。

これを図示すると次の図10.18のようになる。


 図10.18

図10.18 「一念三千」の考え方



10・43 司馬遼太郎の仏教観:「日本と仏教」と「大乗仏教」



司馬遼太郎氏はその著書「この国のかたち」の「日本と仏教」の項で仏教について次のように述べている。

まず本来の仏教について、

「本来の仏教というのは実にすっきりしている。仏教においては世間でいう"霊魂"という思想もなく、その"霊魂"をまつる廟も持たず(釈迦廟などはない)、まして、霊魂"の祟(たた)りをおそれたり、霊魂"の力を利用(?)したりなどといった思想もない。幽霊というものも、本来の仏教には存在しない。ところで、本来の仏教には神仏による救済の思想さえない。解脱こそ究極の理想なのである。 解脱とは煩悩の束縛から解き放たれて自主的自由を得ることである。(そういうことが凡人に可能かとなると、話はべつになる。解脱など百万人に1人の天才の道ではあるまいか)。ともかくも、本来の仏教はあくまでも解脱の方法を示したものであって、"方法"である以上、戒律とか行とか法はあっても教義は存在せず、もし存在すれば解脱の宗教とは言いがたい(教義を読んで解脱できれば、こんなラクなことはない。)」と述べている。

また、「この国のかたち」の「華厳」の項では大乗仏教について、

「解脱はすばらしい。しかし、ただの人間にそれを望むべくもないとあれば、いっそ解脱した人を拝むことにすればどうか、ということが大乗仏教の出発だった。釈迦にとっていい面の皮だったろう。かれは死後"神"として拝まれるなど、思いもよらなかった。」と述べている。

ここには本来の仏教とそれが変容した大乗仏教の本質について的確な指摘がされている。すでに論じたように大乗仏教の経典には大乗仏教誕生の謎を示唆するものが多く見られる。次の章ではこの謎を更にはっきりさせよう。




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