2016年6月15日〜6月22日

六祖壇経・2

   
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3.5

3.5 無念、無相、無住の教え



原文

善知識よ、我がこの法門は従上已来(いらい)、まず無念を立てて宗となし、

無相を体となし、無住を本となす。

無相とは相において相を離る。

無念とは念に於いて念ぜず。

無住は人の本性なれば、世間の善悪好醜、乃至冤と親と、

言語触刺(そくし)欺争(ぎそう)の時に於いて、

並(とも)に空と将為(な)して酬害(しゅうがい)を思わず、

念念の中に、前境を思わざるなり。

もし前念と今念と後念と、念念に相続して断ぜずんば、名づけて繋縛(けばく)と為す。

諸法の上に於いて、念念住せずんば、即ち無縛なり。

これはこれ無住を以て本となすなり。

善知識よ、外に一切の相を離るるを、名づけて無相と為す。

よく相を離るれば、即ち法体は清浄なり。

これはこれ 無相を以て本となすなり。

善知識よ、諸境の上に於いて、心の染まざるを無念と曰う。

自らの念上に於いて、常に諸境を離れ、境上に於いて心を生ぜず。

もし百物思わず、念尽く除却せば、一念絶ゆれば即ち死して、別処に生を受けん。

学道の者よ、これを思え、法意を識らざること莫れ。

自ら錯(あやま)るは猶お可なるも、更に他人に勧め、迷うて見ず、また仏経を謗る。

所以に無念を立てて宗と為すなり。

善知識よ、云何が無念を立てて宗と為すや。

只口に見性を説くも、迷人は境上に念を有ち、念上に便ち邪見を起こすに縁り、

一切の塵労妄想は、これより生ずればなり。

自性は本と一法の得べきもの無し。

もし得る所有りて、妄りに禍福を説かば、即ちこれ塵労邪見なり。

故にこの法門は、無念を立てて宗と為すなり。

善知識よ、無とは何事の無く、念とは何物を念ずるや。

無とは二相なく、諸々の塵労の心無きなり。

念とは、真如の本性を念ずるなり。

真如は即ち是れ念の体、念は即ち是れ真如の用なり。

真如の自性が念を起こす。眼耳鼻舌が能く念ずるに非ず。

真如は性有り、所以に念を起こす。

真如もし無ければ眼耳色声は当時(たちまち)に即ち壊せん。

善知識よ、真如の自性が念を起こせば、六根は見聞覚知有りと雖も、万境に染まずして、

而も真性は常に自在にて、外は能く諸々の色相を分別し、

内は第一義に於いて不動なり。



注:

善知識よ、我がこの法門は: ここより以下にこの法門の三要を説いている。

法門の三要とは、無念、無相、無住を言う。


言語触刺(そくし): 刺のある言葉が聞き手の心に刺さること。


欺争(ぎそう):騙し合い。


前境: 過ぎ去った対象。言葉の刺や欺きによる不愉快な感情。


前念、今念、後念: 前念は過去の意識、今念は現在の意識、

後念は未来の意識のこと。


無相: 一切の相を断滅するのではなく、相について執着しないこと。


無住: 世間の法に於いて念念無住であれば、自由自在に心が動く。


無念: 分別の念を起こさず、そのものの真実をそのまま受け入れること。


百物思わず: 無念とは何も思わないことではなく、

思う対象に執着しないこと。


無とは二相なく: 主観・客観の対立が無く。二相とは主観と客観の二相をさす。


塵労: 心を煩わす塵。ストレス。煩悩。


真如: 念(意識)の本体である脳のこと。


真如の本性: 脳の本質。


真如は即ち是れ念の体: 脳は意識の本体。


念は即ち是れ真如の用なり。: 意識は脳の作用(働き)である。


真如の自性が念を起こす: 脳の性質が意識を生む。


眼耳鼻舌が能く念ずるに非ず。: 眼耳鼻舌などの六根がよく意識を生むのではない。


真如は性有り、所以に念を起こす。: 真如には本性があるため、意識が生まれる。


真如もし無ければ眼耳色声は当時(たちまち)に即ち壊せん。: 本体である真如が無いならば、

眼耳(眼、耳、鼻、舌、身、意)などの感覚器官(六根)とそこから生まれる

色声(色、声、香、味、触、法)などの六識はたちまち滅びてしまうだろう。

十八界を参照)。


第一義に於いて: 仏教の根本真理に於いて。



 現代語訳:

諸君、私がここに説く法門は先輩からずっと続いているように、

まず無念をうち立てて宗旨とし、

無相を本体とし、無住を根本とするものである。

無相とは形を認めながらそれに執われないことである。

無念とはものを思いながら思いに執われないことである。

無住は人の本性であれば、世間の善悪や美醜、怨みと親しみ、

言葉の刺激や騙し合いの時に、すべてそれは空である(実体のない仮の姿である)

と考えて、あだを報いようなどと思わず、一瞬一瞬の意識のうちに、

過ぎ去ったことを思わないことである。

もし過去の意識と現在の意識と未来の意識とが一瞬一瞬に連続して

断ち切れないならば、それは束縛となる。

逆にすべての存在に於いて、一瞬一瞬に意識が執われないならば、

それは無縛である。

これを無住を根本とするというのである。

諸君、あらゆる対象の形に執われないことを無相という。

本当に姿形に執われないならば、たちまちそのものの本体は清浄になる。

これを 無相を本体とするというのである。

諸君、あらゆる対象に対して、心が汚れないことを無念という。

自己の意識の上で、いつもあらゆる対象に執われず、対象について心を起こさない。

もし、まったく何物も思わず、思いをすべて滅尽してしまうならば、

その人の最後の意識が絶えて死んだ時、別の世界に生まれ変わるだろう。

修行者よ、よく考えて、教えの真の意味を知らねばならない。

自分が間違うのはまだしも、間違った教えを他人に勧め、

自分で迷って真実を見なければ、仏の経典を謗ることになるのだ。

だから私は無念を立てて宗旨とするのだ。

諸君、なぜ無念を宗旨として立てるのか。

それはただ口先だけで見性を説いても、本性を見ていない人は

対象に対して意識を起こし、その意識(分別意識)ですぐ誤った考え(邪見)

を起こすため、あらゆる煩悩妄想が、そこから生れるからである。

諸君、無とは何が無いのか、念とは何を念ずるのか。

無とは主観・客観の対立が無いことであり、心を迷わし苦しめる煩悩やストレスが無いことである。

念とは、真如の本性を意識することである。

真如はそのまま意識の本体であり、念はそのまま真如の働きである。

真如の自性から意識が生まれる。

眼耳鼻舌などの六根が良く意識を生むのではないのだ。

真如には本性があるため、意識が生まれる。

本体である真如が無いならば、眼耳などの感覚器官(六根)とそこから生まれる

色声(色、声、香、味、触、法)などの六識はたちまち滅びてしまうだろう。

諸君、真如の自性が意識を起こすから、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)などの

感覚器官から見聞覚知などの働きがあっても、さまざまの対象に汚されず、

その真の本性は常に自在に、外界に対しては、さまざまな色や形を

よく識別しながらも、内心において根本の真理をふまえて不動である。



解説とコメント:

ここで、慧能はこの法門(禅宗)の基本は三要であると説いている。

法門(禅宗)の基本となる三要は、無相、無住、無念の三つを言う。

それは無念であり、無相を本体とし、無住を根本とするものである。

無相とは形を認めながらそれに執われないことである。

無念とはものを思いながら思いに執われないことであるという。

無住は人の本性で、世間の善悪や美醜、怨みと親しみ、言葉の刺激や騙し合いの時に、

すべてそれは空である(実体のない仮の姿である)と考えて、

あだを報いようなどと思わず、一瞬一瞬の意識のうちに、

過去のことを思わないことであると説く。

もし過去現在未来の意識を断ち切れないならば、それは束縛となる。

逆にすべての存在に於いて、意識に執われることがなければ、無縛である。

これを無住を根本とするというのである。

3.5章の後半部では「真如」という言葉がよく出て来る。

「真如」を脳だと考えれば言っていることがよく分かる。

脳はそのまま意識の本体であり、念はそのまま脳の働きである。

脳の本性から意識が生まれ、眼耳鼻舌などの六根が意識を生むのではないのだと説いている。

脳には本性があるため、意識が生まれる。

本体である脳が無いならば、眼耳などの感覚器官(六根)とそこから生まれる

色声(色、声、香、味、触、法)などの六識はたちまち滅びてしまうだろう。

諸君、脳の自性が意識を起こすから、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)などの

感覚器官から見聞覚知などの働きがある。

しかし、さまざまの対象に汚されず、その真の本性は常に自在に働いている。

外界に対しては、さまざまな色や形をよく識別しながらも、

内心において根本の真理をふまえて不動であると説いている。

慧能は脳(=真如)の性質を深く理解しているのには驚嘆するほかない。

六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)などの感覚器官から見聞覚知などの働きがある

しかし、さまざまの対象に汚されず、その真の本性は常に自在に働いている

外界に対しては、さまざまな色や形をよく識別しながらも

内心において根本の真理をふまえて不動である」と言っている。

このことから慧能が言う真如とは

坐禅修行によって活性化された下層脳(無意識脳)優勢の脳(=真の自己

を指していることが分かる。

3.5章で説いていることは次の図4にまとめることができる。


三要


 図4禅宗の三要と下層脳優勢の脳(=真の自己)



慧能は「無とは何が無いのか、念とは何を念ずるのか

無とは主観・客観の2相の対立が無いことであり

心を迷わし苦しめる煩悩やストレスが無いことである。」

と言っている。

無とは主観・客観の2相の対立が無いこと」とは主観・客観の対立がある

分別意識(理知脳)に立つのではなく、

主・客分離以前の下層脳優勢の無分別智を重視すべきことを言っている。

図4に示したように、

無念、無相、無住の三要が無分別智につながり、禅宗の基本となる。

坐禅修行によって活性化され、健康になった下層脳優勢の脳が真の自己である

という我々の結論を支持している。

HP第8章「禅の根本原理」を参照)。



3.6

3.6  坐禅の教え :その1



原文

善知識よ、この門の坐禅は、元より心に着せず、また浄にも着せず、またこれ不動にもあらず。

もし心に着すと言わば、心は元よりこれ妄なり。心は幻の如しと知る。

故に着する所無し。

もし浄に着すと言わば、人の性は本浄(きよ)し、妄念に由るが故に、真如を蓋覆(おお)うなり。

もし元より想い無ければ、性は自から清浄なり。

心を起こして浄に着せば、却って浄妄を生ず。

妄は処所無し。着する者是れ妄なり。

浄は形相無し。

却って浄相を立てて、是れ功夫なりと言う。

この見を作す者は自らの本性を障(さえぎ)りて、却って浄に縛せらる。

善知識よ、もし不動を修せんには、ただ一切の人を見る時、

人の是非・善悪の過患を見ざれ。

乃ち是れ自性不動なり。

善知識よ、迷人は身動ぜずと雖も、

口を開けば便ち他人の是非・長短・好悪を説いて、道と違背す。

もし心に着し浄に着けば、却って道を障(さえぎ)るなり。



注:

もし心に着すと言わば: 坐禅は自心を修すると言えば、

自心を対象的に思う心は分別意識であってストレスの本源である。

そのような分別意識に執着してはならない。


もし浄に着すと言わば: 坐禅は自性を清浄とするためだと言えば、

自性は本来清浄心であるのに、それを清浄にするという矛盾が生まれる。

それは浄妄心である。

このような浄相を立てると、自縄自縛になって自らの本性が障(さえぎ)られる。


妄は処所無し: 妄想には根拠がない。


もし不動を修せんには: 坐禅は心を不動にするためだと言えば、

それは動不動の分別にこだわることになる。

「証道歌」にも「行も亦禅、坐も亦禅、語黙動静体安然」と言っているように、

すべてにこだわらない安らかさが禅から生まれる。

ただ不動のみでない。

動・不動の分別心を越えたところに自性の不動がある。

「証道歌」第8文段を参照)。



 現代語訳:

諸君、この宗門の坐禅は、もともと心に執着せず、

また清浄にも執着するものでもなければ、不動でもない。

もし心に執着すると言うならば、心はもともととらえどころがないものである。

心は幻のようなものだと分かっているから執着するところは無いのだ。

もし清浄ということに執着すると言うならば、人の本性はもともと清浄である。

妄想分別によって、真如を覆い隠しているのだ。

もし分別意識が無ければ、本性はもともと清浄である。

心を起こして清浄ということに執着すれば、却って清浄という妄想が生れる。

妄想には根拠がないのでそれに執着するのは妄念である。

清浄には姿形は無いのに清浄という観念を立てて、修行に励んだと言う。

このような考え方をする者は自らの本性の働きをさまたげ、

却って清浄という観念に縛られることになる。

諸君、もし不動の精神を修行したいならば、

すべて人を見る時、是非・善悪の欠点やあやまちを見ないことだ。

これが自性が不動であることである。

諸君、本性を見失った人は身体は不動であっても、

口を開けば他人の是非・長短・好悪を説いて、道に背いてしまう。

もし心に執着し清浄ということに執着すれば、

却って道をふさぐことになるのだ。



解説とコメント:

慧能は、「この門の坐禅は、元より心に着せず、また浄にも着せず

またこれ不動にもあらず

もし心に着すと言わば、心は元よりこれ妄なり。心は幻の如しと知る

故に着する所無し。」

と「無執着の禅」について述べている。



3.7

3.7  坐禅の教え :その2



原文

師言う、善知識よ、何をか坐禅と名づく。

この法門の中には障無く碍無し。

外一切善悪の境界に於いて、心念起こらざるを、名づけて坐となす。

うち自性を見て動ぜざるを、名づけて禅となす。

善知識よ、何をか禅定と名づく。

外相を離るるを禅となし、内乱れざるを定と為す。

外もし相に着せば内心は即ち乱る。

外もし相を離るれば、心は即ち乱れず。

本性は自から浄く自から定まる。

ただ境を見、境を思うが為に即ち乱る。

もし諸境を見て、心乱れずば是れ真の定なり。

善知識よ、外相を離るるは即ち禅、内乱れずば即ち定なり。

  外禅にして、内定なる、これを禅定と為す。

『浄名経』に云う、「即時に豁然として還(ま)た本心を得たり」と。

『菩薩戒経』に云う、「我れは元より自性清浄なり」と。

善知識よ、念念の中に於いて、自ら本性の清浄なるを見て、

 自ら修し自ら行じ、自ら仏道を成ずるのみ。 



注:

『浄名経』に云う、「即時に豁然として還(ま)た本心を得たり」と。:

『浄名経』は維摩経のこと。維摩経弟子品には「即時に豁然として

還(ま)た本心を得たり」という経文がある。


『菩薩戒経』に云う、「我れは元より自性清浄なり」と:

『菩薩戒経』とは『梵網経』のこと。

『梵網経』には「本源自性清浄なり」という経文がある。



 現代語訳:

六祖は言った、「諸君、どういうものを坐禅というのか?

この法門の中には何のさまたげもさわりも無い。

外界の一切の善悪の対象に対して、心の思いが起こらないのを、坐という。

う内面的には自性を見て心が不動なのを、禅という。諸君、どういうものを禅定というのか?

外界の姿形に執われないのが禅であり、内心が乱れないのが定である。

外界の姿形に執われれば内心は乱れる。

もし外界の姿形に執われなければ、心は乱れない。

人の本性はそれ自ら清らかで安定している。

ただ外界を見たり、思うために乱れるのである。

もしあらゆる外界を見ても、心が乱れないならば、それこそ真の定である。

諸君、外界の姿形に執われないのが禅であり、内心が乱れないのが定である。

  外に対しては禅であり、内心は定であるのを禅定というのである。

『維摩経』に云っている、「即時に豁然として還(ま)た本心を得たり」と。

また『菩薩戒経』に云っている、

我れは元より自性清浄なり」と。

諸君、一瞬一瞬の心の働きに於いて、自らの本性が清浄であることを見て、

 自分で修行し、自分で仏に成るだけだ。



解説とコメント:


ここでは坐禅とは何かを分かり易く述べている。

慧能の結びの言葉「諸君、一瞬一瞬の心の働きに於いて

自らの本性が清浄であることを見て、 自分で修行し、自分で仏に成るだけだ」が印象的である。

六祖慧能の南宗禅は「自分で仏に成る仏乗であることが分かる。



4章 説伝香懺悔発願門



4.1

4.1  五つの徳の香り 



原文

師言う、善知識、一会ここに在るは皆ともに有縁なればなり。

今各々胡跪(こき)せよ、自性の五分法身香を伝えん。

一、戒香とは、即ち自心の中に非無く悪無く、嫉妬無く、貪瞋無く、劫害無きを戒香と名づく。

二、定香とは、即ち諸々の善悪の境相を見て、自心乱れざるを定香と名づく。

三、慧香とは、自心の無礙にして、常に智慧を以て自性を観照し、諸々の悪を造らず、

衆(おおく)の善を修すと雖も、心は執着せず、上を畏(おそ)れ下を愛し、

孤(みなしご)を矜(あわ)れみ、貧しきに恤(めぐ)むを慧香と名づく。

四、解脱香とは、即ち自心に攀縁(はんえん)する所無く、善を思わず悪を思わず、

自在無礙なるを解脱香と名づく。

五、解脱知見香とは、自心に既に善悪に攀縁(はんえん)する所無きも、

沈空(ちんくう)して寂を守るべからず、即ち須らく広学を聞すべし。

自らの本心を識り、諸仏の理に達して、言(ことば)天下に満つるも、

口過(こうか)無く、行ない天下に満つるも怨悪無し。

和光して物を接(むか)え、我無く人無く、直に菩提に至って、真性の易(かわ)らざるを

解脱知見香と名づく。



注:

胡跪(こき): 胡人(北方または西方の異民族)の礼法。

右膝は地に着け、左膝は端坐する。


自性の五分法身香: 法身の働きに、徳があれば自ずから香るとして、

五種の香りに喩える。

戒定慧の三学が具わった時の香りとして、一、戒香、二、定香、三、慧香

の三種の香りがある。その他に四、解脱香、五、解脱知見香

を加えて五種の香りとしている。

慧能はこの五分法身香は自性が具える徳であると考えている。


1、戒香: 自性に本来悪はない。自性清浄心を戒香という。


2、定香: 自性は本来静かに鎮まっている。

自心が寂静であることを定香という。


3、慧香: 自性は本来観照自在である。

少しも執着なく、そのまま万境を受け入れる。


4、解脱香: 自性は本来何らの束縛が無い。

無心に一切に応じ解脱している。


5、解脱知見香: 自性は本来物に応じて方便を施し、

衆生を利益する。 


攀縁(はんえん): 物にすがってよじのぼること。

心が対象につきまとうこと。


沈空(ちんくう): 空に執着し自由を失うこと。


自らの本心を識る: 自性の本質を識(し)る。


和光して物を接(むか)える。: 自分の優れた学徳・才能を包み隠して俗世間に交わること。

和光同塵。



 現代語訳:

師は言った、ー : 諸君、君達が本日この会座にいるのは皆仏縁があったからである。

各自膝を地に着けて胡座しなさい、自性に具わっている五分法身香を伝授しよう。

第一は戒香。戒香とは、自分の心の中にあやまちも無ければ悪も無い、

嫉妬も無く、貪(むさぼり)や瞋(いかりが)無く、

人をおびやかし傷つける心も無いことを戒香という。

二、定香とは、即ちさまざまな善悪の姿を見ても、自分の心が乱れないのを定香という。

三、慧香とは、自分の心に障りがなく自由で、

常に智慧の光によって自性を観照し、諸悪を造らない。

おおくの善を行っても、心はそれに執われず、目上の人を畏敬し、

目下の人を愛し、孤児をあわれみ、貧者に恵みを与えるのを慧香と名いう。

第四の解脱香とは、自分の心につきまとう対象が無く、善悪を思わず、

自在無礙であるのを解脱香と名いう。

五、解脱知見香とは、自分の心が善悪にひきまわされる対象が無いけれども、

動きのない空無の世界に沈溺して寂静の世界に執着せず、広い視野から研究すべきである。

自己の本心を知り、諸仏の真理に達し、

その言葉が広く世間に知れ渡っても言葉に過ちが無く、

その行ないが広く世間に実践されても怨まれたり憎まれることが無い。

和光同塵して世俗に交わり、無我無心で、

直ちに悟りの世界に入り、真性が本来のままであるのを解脱知見香という。

解説とコメント:

ここでは自性が具える徳として五分法身香について述べている。

五分法身香の考え方は図5に示すように、三学と解脱の思想から出ている。



五分法身香


 図5 五分法身香の考え方は、三学と解脱の思想から出ている



五分法身香をまとめると表1のようになる。


   

 表1.五分法身香

五分法身香 内容
戒香自性に本来悪はない。自性清浄心を戒香という。
定香 自性は本来静かに鎮まっている。自心が寂静であることを定香という。
慧香 自性は本来観照自在である。少しも執着なく、そのまま万境を受け入れる。
解脱香自性は本来何らの束縛が無い。無心に一切に応じ解脱している。
解脱知見香 自性は本来物に応じて方便を施し、衆生を利益する。 

   
4.2

4.2  根源的な懺悔 



原文

善知識よ、この香りは各自の内に薫ず、外に覓むること莫れ。

今善知識のために、無相懺悔を授けて、三世の罪を滅し、三業をして清浄なることを得しめん。

善知識よ、各々語に随って一時に道え。

「弟子等、前念・今念より後に及ぶまで、念念に愚迷に染まずして、

従前の所有(あらゆ)る悪業・愚迷等の罪を悉皆懺悔す。

願わくは一時に消滅して永(とわ)に復た起こさざらん。

弟子等、前念・今念より後に及ぶまで、念念に驕誑に染まずして、

従前の所有(あらゆ)る悪業・驕誑等の罪を悉皆懺悔す。

願わくは一時に消滅して永(とわ)に復た起こさざらん」と。

善知識よ、已上はこれ無相懺悔と為す。

云何が懺と名づけ、云何が悔と名づける。懺とはその前愆(けん)を懺するなり。

従前の所有(あらゆ)る悪業・愚迷・驕誑)

・疽妬等の罪を悉皆く懺して、復た起こさざらんと願う。

これを名づけて懺と為す。悔とは、その後過を悔ゆるなり。

今より已後所有(あらゆ)る悪業・愚迷・驕誑

・疽妬等の罪を今まで已に覚悟して悉皆永(とわ)に断ち、復た更に作さず。

これを名づけて悔と為す。

故に懺悔と称す。凡夫は愚迷にして、只だその前愆(けん)を懺することを知って、

、その後過を悔ゆることを知らず。悔いざるを以ての故に、前愆(けん)は滅せず、後過また生ず。

前愆(けん)既には滅せずして、後過また生せば、何ぞ懺悔と名づけん。



注:

懺: 悔い改めること。


無相懺悔: 絶対的、根源的な懺悔。


三業: (1) 身体的な行動 (身業) 、(2) 言葉を発すること (口業) 、

(3) 心に思う働き (意業) の3つの総称。

これらは必ず善悪,苦楽の結果 (果報) をもたらし、業があるかぎり輪廻は続くと考えられた。


三業清浄: 身口意の三業を清浄にすること。


愚迷: 愚かな迷いの心。


已上: 以上。


前愆(けん): 愆(けん)は過失。以前作った過失。前非。


驕誑(きょうきょう): 誑はたぶらかす、だます。

ほしいままにたぶらかすこと。自らの身を非常に勢い盛んな人間であると思い、

驕りまた誇り、自らの欲するままに思い上がるような心である。

仏教の煩悩の一つ。


疽妬(そと): 嫉妬。疽(そ)は悪性のはれもの。



 現代語訳:

諸君、この五分法身香の香りは各自の心の中に薫るもので、外に探し求めてはならない。

今諸君のために、無相懺悔を伝授して、三世の罪を消し去って、

身、口、意の三業を浄化できるだろう。

諸君、各自私の言葉にならって一度に唱えなさい。

私達は、過去・現在・未来の思いの、一念、一念が愚迷に染まらず

今までのあらゆる悪業の罪をことごとく懺悔します

願わくは、この罪が一時に消滅して永久に起きないように

私達の、過去・現在・未来の思いの、一念、一念が驕誑(きょうきょう)に染まらず

今までのあらゆる悪業の罪をことごとく懺悔します

願わくは、この罪が一時に消滅して永久にまた起きないように。」と。

諸君、以上が無相懺悔である

何が懺で、何が悔であるのか

懺とは過去の罪を悔いることである

過去のあらゆる悪業・愚迷・驕誑・嫉妬等の罪をことごとく悔い、永久にまた起きないようにと願う

これが懺である。悔とは、過去の罪を悔いることである

  今後犯すにちがいないあらゆる悪業・愚迷・思い上がり・嫉妬などの罪を

今から決意して悉く皆永久に断ち切って、けっしてまた犯さない

これを名づけて悔という。故に懺悔というのである

凡夫は愚迷であり、只だその前非を悔いることを知っていても

その後の罪を悔いることを知らない

悔いないから、前非の罪は消滅せず、今後もまた罪を犯すことになる

どうして懺悔といえようか。」



解説とコメント:

ここでは無相懺悔とは何かを分かり易く述べている。

無相懺悔とは前非だけではなく、

今後犯すに違いない罪についての懺悔することを述べている。

その徹底ぶりには脱帽だ!



4.3

4.3  四弘誓願



原文

善知識よ、既に懺悔し已(おわ)る。

善知識のために、四弘誓願(しぐせいがん)を発(おこ)さしめん。

各々須らく心を用いて聴くべし。

自心の邪迷は無辺なり、誓って度せんと願う。

自心の煩悩は無辺なり、誓って断ぜんと願う。

自性の法門は無尽なり、誓って学せんと願う。

自性は無上の仏道なり、誓って成ぜんと願う。

師言う、「善知識よ、大家は豈に道わずや、「衆生は無辺なり、誓って度せんと願う」と。

恁麼(いんも)に道(い)うは、これ慧能が善知識の心中の衆生を度するにあらず。

所謂邪迷の心・誑妄の心・不善の心・疽妬の心・悪毒の心、

かくの如き等の心は、尽くこれ衆生なり。

各々須らく自性自度すべし。

これを真度と名づく。

即ち自心の中の邪見・煩悩・愚癡の衆生を、正見を将て度するなり。

既に正見有れば、般若の智もて愚癡・迷妄の衆生を打破して、各々自度せしむ。

邪来たれば正もて度し、迷来たれば悟もて度し、愚来たれば智もて度し、悪来たれば善もて度す。

是の如く度せば、名づけて真度と為す。

又た「煩悩は無辺なり、誓って断ぜんと願う」とは、自性般若の智を将て、

虚妄・思想の心を除却すること是れなり。

又た「無上の仏道は誓って成ぜんと願う」とは、既に常に能く心を下して真正を行ぜば、

迷を離れ覚をも離れて、当(まさ)に般若を生ずべく、

真を除き虚を除いて、即ち仏性を見、即ち言下(ごんか)に仏道を成ずるなり。

常に念じて修行する、是れ願力の法なり。



注:

四弘誓願: 四弘誓願は大乗仏教を信ずる者が、

まず誓うべき四つの基本的な誓いである。

独自のものがあれば、これに足してゆくことになる。


1. 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) : 

(衆生は無辺なれど誓って度すことを願う)

   一切の生きとし生けるものを悟りの境地に救おうという誓い。


2. 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん) :

(煩悩は無量なれど誓って断ずることを願う)

 尽きることのない煩悩を無くそうという誓い。


3. 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく) :

(法門は無尽なれど誓って学ぶことを願う)

すべての仏の教えを学びつくすという誓い。


4. 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) :

 (仏道は無上なれど誓って成ぜんことを願う)

この上ない仏の悟りに到達しようという誓い。



大家: 皆の者。


正見: 一切の誤りを離れた清浄な智慧。原始仏教の八聖道の第一。


「原始仏教・その1」八聖道を参照)。


自心の衆生: 各自の心中にある邪な衆生。

自心の中の邪見・煩悩・愚癡の心を衆生に喩えている。


恁麼(いんも)に: このように。


自心の煩悩: 自心の不善心、悪毒心を

般若の正見・正智によって断ずることを説く。


真度: 真の救い。


愚癡: 愚痴。言ってもしかたがないことを言って嘆くこと。


自性般若の智: 真の自己(下層脳優勢の脳)に具わる智慧。般若智。


除却: 除き去ること。


能く心を下して真正を行ぜば、: 心を謙虚に保ち真正直に行えば、


自性の法門: 自性を見て、常に正法を行う法門を言う。


自性無上: 自らの仏性を見て言下(ごんか)に仏道を成ずること。



 現代語訳:

諸君、既に懺悔をし終った。

諸君のために、四弘誓願(しぐせいがん)を起こそう。各自注意して聞きなさい。

我々の心の邪な迷いは果てもない。

誓ってそれから救おうと決心します。

我々の心の煩悩は果てもない。誓ってそれを断ち切ろうと決心します。

自性の法門は果てもありません。誓ってそれを学び尽くそうと決心します。

自性は無上の仏道です。誓ってそれを成就しようと決心します。

師は言った、「諸君、諸君は今言ったではないか、「衆生は無辺なれど、誓って度せんと願う」と。

このように言ったのは、この慧能が諸君の心中の衆生を救ってやるというのではない。

所謂邪迷の心・誑妄の心・不善の心・疽妬の心・悪毒の心、

このような心は、尽くこれ心中の衆生である。

各自が自己に具わる自性によって自ら心中の衆生を救うべきである。

これが真度である。

即ち自心の中の邪見・煩悩・愚癡という衆生を、正見によって救うのである。

既に正見が有れば、般若の智慧をもって愚癡・迷妄という

衆生を打破して、各自が自分で救うことができる。

邪が来れば正をもって救い、迷が来れば悟りによって救い、

愚が来れば智によって救い、悪が来れば善によって救う。

このように救うのが、真度である。 また、「煩悩は無辺なり、誓って断ぜんと願う」とは、

自性に具わる般若智によって、虚妄・思想の心を除き去ることである。

また、「無上の仏道は誓って成ぜんと願う」とは、

常に心を謙虚に保ち真正直に行えば、迷いにも悟りにも捉われず、

般若智を生じ、真や虚にも捉われず、見性し(仏性を見て)、言下に仏道を成就することができる。

このように常に心に念じて修行するのが、願力の法である。



解説とコメント:


ここでは四弘誓願とは何かについて慧能独自の解釈をして分かり易く述べている。

慧能独自の解釈による四弘誓願は次のようにまとめることができる。

1. 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) : 


慧能が衆生と言うのは普通に言う衆生(=人々)ではない。

邪迷の心・誑妄の心・不善の心・嫉妬の心・悪毒の心、など心中の邪見が衆生である。

これらの心の中の衆生を、各自が正見と般若智によって滅尽し自らを救うべきだという。

邪が来れば正をもって救い、迷が来れば悟りによって救い、

愚が来れば智によって救い、悪が来れば善によって救う。

このように救うのが、真度だと言っている。


2. 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん) :

自性に具わる般若智(=無分別智)によって、虚妄・思想の心を除き去ることであるという。


3. 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく) :


ここでいう法門とは仏教の学問や思想ではない。真の自己である自性の法門を指している。

自性の法門は果てもない。誓ってそれを学び尽くそうと

誓い決心するのが「法門無量誓願学」である。


4. 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) :


 常に心を謙虚に保ち真正直に行えば、迷いにも悟りにも捉われず、

般若智を生じ、真や虚にも捉われず、見性し(仏性を見て)、

言下に仏道を成就することができる。

このように常に心に念じて修行するのが、願力の法であるという。

このように慧能が言う「四弘誓願」は普通に言われる「四弘誓願」と違い、

慧能によって禅的に解釈された独自なものだと言える。



4.4

4.4 無相の三帰依戒 



原文

師言う、善知識よ、今は四弘の願を発し了る。

更に善知識の与に、無相の三帰依戒を授けん。

善知識よ、「覚二足尊(かくにそくそん)に帰依し、正離欲尊に帰依し、浄衆中尊に帰依す。

今日より去(のち)は覚を称して師と為し、更に邪魔・外道に帰依すること莫く、

自性の三宝を以てせんことを、常に自ら証明す。

善知識に勧めて、自性の三宝に帰依せしむ。仏とは覚なり。

法とは正なり。

僧とは浄なり。

自心は覚に帰依して、邪迷を生ぜず、欲少なくして足ることを知り、

能く財色を離るるを二足尊と名づく。

自心は正に帰依して、念念に邪見なく邪見無きをもって、

即ち人我・貢高・貧愛・執着無きを、離欲尊と名づく。

自心は浄に帰依して、一切の塵労・妄念は自性に在りと雖も、

皆染着せざるを衆中尊と名づく。

もしこの行を修せば、是れ自帰依なり。

凡夫は会(さと)らず、日より日に至り三帰戒を受く。

もし仏に帰依すと言わば、仏は何処にか在る。

もし、仏を見ずんば、何の帰する所にか憑(よ)らん。

言は却って妄となる。経文は分明に「自ら仏に帰依す」と言って、他仏に帰依すとは言わず。

自性に帰せずんば、所依の処無からん。

今既に自ら悟る、各々須らく自心の三宝に帰依し、

内に心性を整え、外に他人を敬すべし。是れ自帰依なり。



注:

三帰依戒: 仏教の在家信徒が守らなければならない基本的戒律に、

「三帰依戒」と「五戒」、「八斎戒」の三種類の戒律がある。

「三帰依戒」とは仏、法、僧に帰依することである。

仏とは仏教の開祖釈迦牟尼、法とは仏教の教え、僧とは仏教僧の集まり。


無相の三帰依戒: 「六祖壇経」において、慧能は「三帰依戒」に対して

禅の観点から独自の解釈をしている。

慧能は自性に具わる「覚、正、浄」に帰依することが

「無相の三帰依戒」であると新たに定義している。


覚二足尊(かくにそくそん): 自性の覚体であって、

智、福二つの性質があるので二足尊(にそくそん)という。


正離欲尊(せいりよくそん): 自性の正法であって、

欲、垢、妄染を離れた性質があるので正離欲尊という。


浄衆中尊(じょうしゅうちゅうそん): 自性が清浄であって、

無為、洒落、念念脱落の性質があるので浄衆中尊という。


仏とは覚なり: 仏陀(Buddha)はサンスクリットで、覚者と訳す。

覚には、対象を覚知するもの、心 などの意味がある。


法とは正なり: 法(Dharma)は行住坐臥の進退が

法に適っていることをいう。


僧とは浄なり: サンスクリットの僧伽(Samgha)を訳して衆という。

僧伽(そうぎゃ、サンガ)は、仏教で具足戒を正しく保つ出家修行者

(比丘・比丘尼)らによって構成される僧団のこと。

「衆」(しゅ)、「和合衆」(わごうしゅ)とも漢訳される。

元々の意味は「集団」「集会」などであり、

釈迦の時代の古代インドでは、自治組織をもつ同業者組合や、

貴族による共和政体などもサンガと呼んだ。

略して僧と呼び、仏・法・僧の三宝の一つとして尊重され、帰依の対象となっている。


日より日に至り: 朝から晩まで。


人我(にんが): 人間にあるとされた、常住不変の我(アートマン)のこと。我執。

原始仏教のアートマンを参照)。


貢高: 思い上がり。功高とも書く。


自性の三宝: 仏=覚、法=正、僧=浄と考えて、

自性に具わる「覚、正、浄」に帰依すること。

自性がそのまま三宝であることを自覚して生きることが三帰依になるとしている。


自心の三宝: 我々の自性に具わる

「覚(=仏)、正(=法)、浄(=僧)」という性質が三宝である。


内に心性を整える: 内心を整えて少しも波立たないようにする。

坐禅を通して本来空の境地に内心を調整する。


外に他人を敬すべし: 外に対して、慢心なく、他人を尊敬すること

法華経に説く常不軽菩薩のようでなければならない。



 現代語訳:

師は言った、諸君、これで四弘誓願を説き終った。

次に諸君に、「無相の三帰依戒」を授けよう。

諸君、「覚二足尊(かくにそくそん)に帰依し、正離欲尊に帰依し、浄衆中尊に帰依する。

今日より後は覚を師と呼んで、決して邪魔・外道などに帰依せず、

自性の三宝に帰依することを、いつも自分に証明しよう。

諸君、自性の三宝に帰依するよう勧める。

仏とは覚で、法とは正で、僧とは浄である。

自心は覚に帰依して、邪迷を生ぜず、少欲で足ることを知り、

財産や色欲を離れるのを二足尊という。

自心は正に帰依して、一念一念に邪見がない。

邪見が無いため、我執・思い上がり・貧愛・執着の心が無いのを、離欲尊と言う。

自心は浄に帰依して、あらゆる塵労・妄念は自性にあったとしても、

それらに染着しないのを衆中尊と言う。

もしこれを修行すれば、これが自帰依である。

凡夫はそれがわからないため、朝から晩まで三帰戒を受けている。

もし仏に帰依すると言うならば、仏は何処にいるのか? 

もし、仏を見ないと言うならば、どんな拠り所に頼るのか。

その言葉は却ってでたらめになるだろう。

経文は明らかに「自ら仏に帰依する」と言って、「他の仏に帰依する」とは言っていない。

自性に帰依しなければ、帰依する処はどこにも無いだろう。

さあ今自分で分かった以上、各々が自己の心の三宝に帰依し、

内に心性を整え、外に他の人々を尊敬することだ。それこそが自帰依である。



解説とコメント:

「三帰依戒」とは仏、法、僧の三宝に帰依することで、

仏教徒が守らなければならない基本的戒律である。

ここでは仏教徒の基本的戒律である「三帰依戒」とは何かについて、

禅的視点から慧能独自の解釈を展開している。

慧能が説く「無相の三帰依戒」は次のようになる。

慧能は「自性の三宝」という新しい概念を打ち出している。

「自性の三宝」に於いて、仏とは覚で、法とは正で、僧とは浄である。

自心は覚に帰依して、邪迷を生ぜず、少欲で足ることを知り、

財産や色欲を離れるのを二足尊という。

覚二足尊(かくにそくそん)が自性の三宝に於ける仏に当たる。

自心は正に帰依して、一念一念に邪見がない。

邪見が無いため、我執・思い上がり・貧愛・執着の心が無い。

これを離欲尊と言う。

離欲尊が自性の三宝に於ける法に当たる。

自心は浄に帰依して、あらゆる塵労・妄念が自性にあったとしても、

それらに染着しないのを衆中尊と言う。

衆中尊が自性の三宝に於ける僧に当たる。

これをまとめると次の表2のようになる。


   

 表2.自性の三宝と無相の三帰依戒の対応

三宝自性の三宝 無相の三帰依戒の内容
覚に帰依して、邪迷を生ぜず、少欲で足ることを知り、財産や色欲を離れる覚二足尊に帰依する。
正に帰依して、邪見がなく、我執・思い上がり・貧愛・執着の心が無い正離欲尊に帰依する。
浄に帰依して、あらゆる塵労・妄念に染着しない浄衆中尊に帰依する。

   

表2に示したように、

「自帰依」とは何かについて慧能は独自の解釈をしている。

慧能によると「自帰依」とは、

自性の三宝(覚、正、浄)に帰依し、各々が自己の心の三宝に帰依すること

である。


このように、

内に心性を整え、外に他の人々を尊敬することが「自帰依」であると独自の解釈を展開している。


慧能とブッダ:甦る<自帰依>の思想 



6.3章「 金剛般若経と般若の智慧」には「正見」を重視する思想が出ている(後述)。

そこでは、慧能は「もし自心において常に正見を起こさば

煩悩塵労も常に染す能(あた)わず、即ち是れ見性なり。」と述べている。

慧能は「正見」によって見性すると「正見」を重視しているのである。

注目されるのは本章に出ている<自帰依>の思想である。

慧能の<自帰依>の思想は<自性の三宝>の思想から出てくる。

普通仏教で三宝と言えば仏教の基本であり、<仏、法、僧>の三つを指す。

しかし、慧能の説く三宝は自性の三宝であり、これと少し違う。

慧能は「仏とは覚であり、法とは正であり、僧とは浄である」と言う。

従って、三宝帰依とは自心の覚(仏)と正(法)と浄(僧)に帰依することだとするのである。

この考えから<自性の三宝>に帰依するとは次のようになる。

帰依仏とは「自心覚に帰依して邪迷を生じさせない

小欲知足の生活をして財色を離れる。」ことである。

帰依法とは「自心は正に帰依して、一念一念に邪見がない

邪見が無いため、我執・思い上がり・貧愛・執着の心が無い。」ことである。 

帰依僧とは「自心浄に帰依して一切の塵労、愛欲の境界に自性皆染著がない。」ことである。  

この自性の三宝(自心覚、自心正、自心浄)に帰依することが自帰依である。

しかし、凡夫はこれが分からず外に三宝を求める。

これに対し、慧能は「仏はどこにいるだろうか

仏を見ることができないならどうして帰依することができようか

他仏ではなく本来仏である自仏(=真の自己)に帰依せよ」と言う。 

慧能は大乗禅を説いてはいるが<自帰依の思想>が復活している点は注目に値する。

ブッダの説いた原始仏教に先祖帰りしたところがある。

しかも、ブッダが説いた自帰依の思想より発展・深化しているところが注目される。


ブッダの<自帰依の思想>を参照)。

慧能の自性の三宝の考え方は次の図6で表すことができる。


自性の三宝

 図6 自性の三宝



自性の三宝(自心覚、自心正、自心浄)に帰依し修行することが自帰依である。

そのことによって自性=仏であることが分かり、仏位に至ると考えていることが分かる。

慧能のこの考え方は単純明快である。

5.1章で説かれる<自性の三身仏>の思想に直結する思想と言えるだろう。

  これは南宗禅(禅宗)の基本的考え方とでも言えるものではないだろうか。

   

5章 説一体三身仏相門




5.1

5.1 自性の三身仏  


原文

師云う、善知識よ、各々至心なれ。慧能はために一体三身の自性仏を説き、

善知識をして三身を見て、了然として自性を悟らしめん。

総な慧能に随って道え。

「自らの色身に於いて清浄法身仏に帰依す。

自らの色身に於いて千百億化身仏に帰依す。自らの色身に於いて円満報身仏に帰依す。」

(以上を三遍となう。)

善知識よ、色身は是れ舎宅なり。

帰向すと言うべからざるものなり。

三身仏は自性の中に在り。

世人は総そ、自心の迷うて内に性を見ざるが為に、

外に三身の如来を覓めて、自身の中に三世仏有ることを見ざるものあり。

善知識よ説くことを聴け。

善知識をして自身の中に於いて、自性に三世仏有ることを見せしめん。

この三世仏は自性より生じて、外より得ず。何をか清浄法身と名づく。

世人の性は本より清浄にして、万法は自性より生ず。

一切の悪事を思量せば、即ち悪行を生じ、一切の善事を思量せば、即ち善行を生ず。

是の如きの諸法は、自性の中にあり。

天は常に清く、日月は常に明らかなるも、浮雲に蓋履(おお)われて、

上は明らかに下は暗きも、もし風吹き雲散るに遇(あ)えば、

上下は倶に明らかにして、万象は皆現わるるが如し。

世人の性の常に浮遊すること彼の天雲の如し。

善知識よ、智は日の如く、慧は月の如し。

智慧は常に明らかなるも、外に於いて境に着すれば、

妄念の浮雲に蓋履(おお)われて、自性は明朗なることを得ず。

もし善知識に遇(お)うて真正の法を聞かば、

自ら迷妄を除いて内外明徹(ないげみょうてつ)し、自性の中に於いて、万法は皆な現れん。

これを清浄法身と名づく。

善知識よ、自心が自性に帰依するは、是れ真仏に帰依するなり。

自ら帰依すとは、自性の中の不善心・嫉妬心・驕慢心・吾我心(ごがしん)

・誑妄(きょうもう)心・軽人心・慢他心・邪見心・貢高心、

および一切時中不善の行を除却して、常に自ら己の過ちを見、

他人の好悪を説かざる、是れ自ら帰依するなり。

常に須らく心を下して普く恭信を行じ、即ち是に見性通達して、

更に滞礙(たいげ)無き、是れ自ら帰依するなり。

何をか千百億化身と名づく。

もし万法を思わざれば、性は本より空に如(ひとし)きも、

一念思量すれば、名づけて変化と為す。

悪事を思量すれば、化して地獄と為り、善事を思量すれば、化して天堂と為る。

毒害は化して龍蛇と為り、慈悲は化して菩薩と為り、

智慧は化して上界と為り、愚癡は化して下方と為る。

自性の変化は甚だ多し。

迷人は省覚すること能わず、念念に悪を起こし、常に悪道を行ずるも、

一念を善に廻さば、智慧即ち生ず。

これを自性化身仏と名づく。

何を円満報身と名づく。

譬(たと)えば一燈の能く千年の闇を除くが如く、一智は能く万年の愚を滅す。

向前を思う莫れ、已(すで)に過ぎたるは不可得なり。

常に後を思うて念念に円明ならば、自ら本性を見ん。

善悪は殊(こと)なりと雖も、本性は無二にして、

無二の性を名づけて、実性となす。

実性の中に於いて善悪に染まらざる、これを円満報身仏と名づく。

師はまた言う、自性は一念の悪を起こして万劫の善因を滅す。

自性は一念の善を起こして恒沙(ごうしゃ)の悪の尽くるを得。

直に無常に至るまで念念に自ら見て本の念を失わざるを、名づけて報身と為す。

善知識よ、法身に従って思量するは、即ち是れ化身仏なり。

念念に自性の自ら見るは、即ち是れ報身仏なり。

自性の功徳を自ら悟り自ら修むるは、是れ真の帰依なり。

皮肉は是れ色身、色身は是れ宅舎なれば帰依すと言わざるなり。

もし自性の三身を悟れば、即ち自性の大意を識る。



注:

一体三身の自性仏: 自性の自性仏とは自性(=真の自己)の現れである。

自性に即して三身仏がある。

三身仏は自性の仏を働きの違いから見て、法身、報身、化身の三種に分けたものである。


至心: まことの心。至誠の心。まごころ。


了然として: はっきりと。


色身: 地水火風空など物質的要素(色)から成り立っている肉体のこと。

 この肉身の上に三身仏を見て、それに帰依すること。

他に帰依するのではなく、自帰依であることを忘れてはならない。


千百億化身仏: 千百億化身釈迦牟尼仏という。

衆生教化のため、千百億に化身して応現する仏体をいう。

我々の行住坐臥も皆仏作仏行となれば、この化身仏となると考える。


三世仏: 過去・現在・未来の仏。


自身の中に三世仏有ることを見ざる: 六祖慧能は三世の諸仏も

三身仏もすべて自性の中にあり、自性より生じるものだと考える。

そこから、「一体三身の自性仏」という新概念を導入している。

見性とは自性より生じる「一体三身の自性仏」を見る(悟る、覚知する)ことである。


万法: すべての存在。


諸法: 一切の存在。


明徹: 物事があきらかで,はっきりしていること


吾我心(ごがしん): 我意を通そうとするこころ。


省覚: 反省


向前: 過去。


円明: はっきりして明るいこと。


無二: 一つ。


無常に至るまで: 死に至るまで。


大意: 重要な意味。


万象: すべての事象、現象。


恒沙(ごうしゃ): インドの恒河(ガンジス河)の砂のこと。


(ガンジス河)の砂の数のように無量無辺ということの喩え。恒河沙数ともいう。



現代語訳:

師は言った、諸君、各自一心に聞け。私は諸君のために一体三身の自性仏を説き、

諸君が三身仏を見て、はっきりと自性に目覚めるようにしたい。

皆私についてこう唱えるのだ。

自分の肉身にいる清浄法身仏に帰依します

自分の肉身にいる千百億化身仏に帰依します

自分の肉身にいる円満報身仏に帰依します。」

(以上の句を三遍唱える。)

諸君、肉身は家屋のようなものだ。こんなものに帰依するとは言うようなものではない。

三身仏は自性の中に在るのだ。

世の中の人は、心が迷っているため内にある本性を見ない。

ひたすら外に三身仏を求め、自身の中に三世の仏がいることに気付かないものが多い。

諸君、私が説くことをよく聞きなさい。

諸君に、自分の中にある自性に三世仏が有ることを気づかせよう。

この三世仏は自分に具わる自性より生まれるもので、外からは得られない。

何を称して清浄な法身というのか。

誰でも人の本性はもともと清浄であり、すべての存在は自性より生まれる。

一切の悪事を思いはかれば、悪行が生まれ、一切の善事を思いはかれば、善行が生れる。

このように一切の存在は、自性の中にあるのだ。

天はいつも清く、日月はいつも明らかに照らしていても、

浮雲に覆われると、上は明るくても下は暗い。

そのような時でも、もし風が吹き、雲が吹き散らされると、

上も下も皆明らかになって、万象がすべてはっきりと現わるようなものだ。

世間の人の性情がいつもうわついているのは空に浮かぶ雲のようなものだ。

諸君、智は太陽のようなもので、慧は月のようなものだ。

智慧は常に明らかであるが、外境に執着すれば、妄念という浮雲に履われて、

自性は本来の明朗さを失うのだ。

もし良い師に遇って真正の法を聞くことができれば、

迷妄は自然に除かれて、内も外も明らかではっきりし、自性の中に、万法は皆現れるだろう。

これを清浄法身という。

諸君、君達の心が自性に帰依するのは、真の仏に帰依することなのである。

自ら帰依するといのは、自性の中の不善心・嫉妬心・驕慢心

・吾我心(ごがしん)・誑妄(きょうもう)心・軽人心・慢他心・邪見心

・貢高心、および常に不善の行を除き去って、常に自ら己の過ちを見、

他人の好悪を説かないことだ。

これが自ら帰依するということだ。

何を称して「千百億化身」と名づけるのか。

もしあらゆる存在を思わなければ、本性はもともとより空であっても、

一度でも思いはかれば、それを自性の変化と言うのだ。

悪事を思量すれば、自性は変化して地獄となり、善事を思量すれば、

自性は変化して天上界となる。

毒害は化して龍や蛇となり、慈悲は変化して菩薩となり、

智慧は変化して上界と為り、愚癡は化して地獄・餓鬼・畜生のような下方となる。

このように、自性の変化は甚だ多方面である。

しかし、迷える人は反省省することができない。

念念に悪心を起こし、常に悪道を行っても、一念を善に向け変えるならば、

たちまち智慧が生れる。

これを自性化身仏と名づけるのだ。

何を円満報身と名づけるのか。

たとえば一つの燈火が千年も続いてきた闇を一瞬のうちに除き、

明るくするように、一たび悟りの智が生じると、

万年も続いてきた暗愚を消滅させてしまう。

過去のことを考えるな。すでに過ぎ去ったものはどうしようもない。

いつも未来のことを考えて一念一念がはっきりして明るいならば、

自らの本性(自性)に目覚めることができるだろう。

善と悪は異なるものであるが、善悪を起こす本性は一つで善悪の対立はない。

この一つの本性を実性というのだ。

実性中にあって善悪に汚されないものを円満報身仏という。

六祖慧能はまた言った、

「自性は一念の悪心生むことによってこれまでの長い間の善行の素因を消滅させてしまう。

自性は一念の善心生むことによってガンジス河の砂の数ほど多くの悪行を消滅させてしまう。

そのまま死に至るまで一念一念、自らを見つめてて本来の心を見失わないのを称して報身という。

諸君、法身に従って思量するのが化身仏である。

一念一念に自性が自らをはっきり見つめているのが報身仏である。

自性の功徳を自ら悟り自ら実践していくのが、真の帰依なり。

我々の皮膚や肉体は色身であり、色身はいわば家屋のようなものだから

帰依するとは言わない。

もし自性に具わる三身仏に気付くならば、即ち自性の重要な意味を知ることになるのだ。



コメント:

5.1章 では自性の三身仏が説かれている。

は自性には仏の性質(仏性)が具わっている。

慧能は自性の仏としての働きについて、その性質の違いから見て、

法身仏、報身仏、化身仏の三種に分けて説明している。

参禅修行によって下層脳から健康になった脳(=自性)の性質について、

法身仏、報身仏、化身仏の三身仏に分類して説明していると言える。

1.

参禅修行によって下層脳から健康になった脳はいつも清浄で、明るい。

そのような性質は法身仏に喩えることができ、清浄法身仏といっても良い。

2.

参禅修行によって下層脳から健康になった脳はいつも安らぎ、円満で善悪にも汚されない。

そのような性質は報身仏に喩えることができ、円満報身仏といっても良い。

3.

自性(脳)の変化は甚だ多方面で一念、一念、無限に(千百億種も)変化する。

そのような性質は化身仏に喩えることができ、千百億化身仏といっても良い。

まとめると次の表3のようになるだろう。




自性の三身仏


  臨済宗の開祖臨済義玄も「臨済録」に於いて、本心に具わる三身仏を説いている。

「臨済録示衆」を参照

臨済と慧能が説く三身仏を次の表4に示す。


自性三身仏



この表で見るように臨済と慧能が説く三身仏は互いによく似ている。

臨済は慧能から6代目の法孫であるから当然のことだろう。

次の図6に三角錐を用いて自性の三身仏の分かり易く図示する。

三角錐が自性(本来の自己=脳)を現し、3つの面が法身仏(裏面)、報身仏、

化身仏の三身仏を表している。


自性三身仏

図6 自性の三身仏





6章 説摩訶般若波羅蜜門




6.1

6.1 摩訶般若波羅蜜の教え 



原文

師言う、善知識よ、既に三身仏を識り了る。

更に為に摩訶般若波羅蜜の法を説かん。各々至心に諦聴せよ。

世人は終日口に念(とな)うるも自性を識らず。

猶お食を誦(とな)うるも飽かざるが如し。

口に但だ空を説くも、万劫にも見性することを得ず。

終に益有ること無し。

善知識よ、摩訶般若波羅蜜は是れ梵語なり。ここには大智慧倒彼岸と言う。

これは須らく心に行ずべし。口に念(とな)うるに在らず。

口に念(とな)えて心に行ぜずんば、幻の如く化の如く、露の如く電(いなずま)の如し。

口に念(とな)えて心に行ぜば、即ち心と口と相い応ず、本性は是れ仏なり。

性を離れ別に仏無し。何をか摩訶と名づくる。摩訶は是れ大なり。

心量は広大にして、猶お虚空の如く、辺畔(かぎり)有ること無し。

亦た方円大小も無く。亦た青黄赤白にも非ず。

亦た上下長短も無く、亦た瞋(しん)無く喜も無く、

是無く非も無く、善無く悪も無く、頭尾有ること無し。

諸仏の刹土(せつど)は、尽く虚空に同じ。

世人の妙性は本と空にして、一法の得べきもの有ること無し。

自性の真空も亦復(また)是の如し。

善知識よ、今、慧能の空を説くことを聞いて、便即(すなわ)ち空に着せん。

第一に空に着すること莫れ。

もし心を空じて静坐せば、即ち無記の空に落ち、終に仏法を成ぜず。

善知識よ、世界の虚空は、能く万物の色象(しきぞう)を含む。

日月星宿、山河泉源渓澗、一切の樹木、悪人善人、悪法善法、

天堂地獄、一切の大海、須弥諸山、総て空中に在り。

世人の性空も亦復(また)是の如し。

善知識よ、自性の能く万法を含むは是れ大なり。万法は善知識の性中に在り。

もし一切の人の悪と善とを見て、尽く皆な取らず捨てず、また染着せずんば、

心虚空の如くなるを之を名づけて大と為す。故に摩訶と曰う。

善知識よ、迷人は口に説き、智者は心に行ず。

また迷人ありて、心を空じて静坐し、百(すべ)て所思(おもい)無きを、自ら称して大と為す。

この一輩の人は共に説くべからず。邪見を為すが故なり。

善知識よ、心量は広大にして、法界を廓周す。

用うれば即ち了了として分明(ふんみょう)、応用して便ち一切を知る。

一切即一、一即一切。

去来自由にして、心体の滞ること無しとは、これ即ち是れなり。

善知識よ、一切の般若の智は、皆自性より生じ、外より入らず。

錯(あやま)って意を用うること莫れ。

名づけて真性自ら用(はたら)き、一真なれば一切真なりと為す。

心量は大事なり、小道を行ぜず。

口に終日空を説いて、心中にこの行を修せざること莫れ。

恰も凡人の国王と称するも、終(つい)に得べからざるに似たり。

吾が弟子に非ず。



注:

諦聴(たいちょう): 耳を傾けてよくきくこと。しっかりときくこと。


辺畔(かぎり)有ること無し: 辺畔(かぎり)無い。


刹土(せつど): 国土。国。


摩訶: 大きいという意味。


世人の妙性: 自性のこと


世人の妙性は本と空にして: 自性(脳宇宙)はもともと空である。

自性(脳宇宙)はもともと捉えどころがなく空のように感じられる。


無記: 事物の性質が善とも悪とも判断したり

記すことができないことをいう。


無記の空: ただ空心のみに執して静かに枯坐していては、

妙用なき坐禅になる。記別できない空を無記の空という。


渓澗(けいかん) :  たにがわ。たに。渓谷。


廓周(かくしゅう)す: めぐり周る。

自性の真空: 我々の本心自性の中には、分別すべきものはない。

対立する方円大小、青黄赤白、上下長短、是非善悪などの「しこり」は無い。

きれい、さっぱりした真空の境地を言っている。


世界の虚空: 宇宙空間。


星宿: 古代中国において天球上の28の星座を意味する二十八宿のこと。

    古代中国で二十八宿に分けた星座。


天堂: 天上界。


自性の能く万法を含む: 我々の自性(脳)は

一切の森羅万象を認識し記憶している。

この自性(脳)の働きを言っている。


万法は善知識の性中に在り: すべての存在は諸君の自性(脳)

によって認識され記憶されている。


取らず捨てず: 取捨選択せず。


百(すべ)て所思(おもい)無きを: 心に何も思わないことを。

心に何も考えないことを。


用うれば即ち了了として分明(ふんみょう)、応用して便ち一切を知る。:

心を働かせるとたちまちはっきりして明らかに働き、

時、場所、状況に応じてすぐさますべてを知る。


一切即一: 一切の情報が脳()の中で一つに統合されている。

一即一切: 脳()の中に一切の情報が認識されて含まれている。

「信心銘」第16文段を参照)。


心体の滞ること無し: 般若の智慧によって、一切の万行を修行すれば、

手足の動くところ、自由自在で、跡を残さない(没蹤跡)。

水が流れるように、万事がすらすらと運ばれて、滞るところが無い。


錯(あやま)って意を用うること莫れ。: 考え違いをしてはならない。


小道を行ぜず: 小道とは空心静坐のようなもの。

また口に般若を説きながらも、

心中にこの行を修しない者は吾が弟子ではないと誡めている。


現代語訳:

師は言った、「諸君、これで法身、報身、化身の三身仏が分かったのだから、

次に摩訶般若波羅蜜の法を説こう。

各々至心に聞きなさい。

世間の人は終日口に「摩訶般若波羅蜜・・・」と唱えているけれども、

唱えている本体である自性を知らない。

ちょうど食事の話をしても腹が膨れないようなものだ。

口にいくら空を説いても、永遠に見性できない。

これではいつまでもたっても役に立たない。

諸君、摩訶般若波羅蜜は梵語である。

この国の言葉に訳して「大智慧倒彼岸」と言う。

これは心で実践すべきもので、口で唱えることとは関係ない。

口で唱えても実践しなければ、幻術や化けもの、露や雷電のようにはかないものだ。

口で唱えても実践が伴わなければ、心で思うことと口で言うことが一致しない。

人の本性は仏である。この仏性を離れて別に仏は無いのだ。

何を摩訶というのか? 摩訶とは大きいという意味である。

我々の心の広がりは広大であって、あたかも大空のように、限りない。

また心は四角とか、丸いとか大小とかいうことも無い。

また青・黄・赤・白とか色が付いているわけでもない。

また上下や長短とかも無く、また怒ることも喜こぶことも無く、

是非も、善悪も無く、頭やしっぽがあるわけでもない。

諸仏がいる国土は、すべて虚空と同じである。

世間の人の優れた本性はもともと空であって、一つとして掴み取ることできものは無い。

自性が空であることもまたこのようである。

諸君、今、慧能が空を説くのを聞いて、諸君は空に執着するかも知れない。

しかし、空にも絶対執着してもいけない。

もし心を空にして静坐すれば、働きの無い空に落ち、結局仏法を成就できないだろう。

諸君、宇宙空間は、万物の存在を包容している。

日月星宿、山河泉源渓澗、一切の樹木、悪人善人、悪法善法、

天堂地獄、一切の大海、須弥山の山々、総て空間に存在する。

世間の人の本性が空であることも、またこのようである。

諸君、自性(脳)が能く万法を認識し包容できることが大きいということである。

すべての存在は諸君の自性(脳)によって認識され記憶されている。

もし一切の人の悪善を見て、皆な取捨選択せず、執着しなければ、

心はからりとして大空のようになる。

これを大きいというのである。だから摩訶と言うのだ。

諸君、迷う人は口で説くだけだが、智者は心で実践する。

また迷う人は、心に何も思わないで静坐し、

全然何も思わないのを、自分で大と言っている。

こういう連中とは共に語り合ってはならない。

彼等は間違った考えをしているからである

諸君、心の広がりは広大であって、法界に行き渡っている。

心を働かせるとたちまちはっきりして明らかに働き、時、場所、状況に応じてすぐさますべてを知る。

三祖の「信心銘」に言うように、「一切即一、一即一切」である。

去来は自由で、心の本体に滞ることが無いとは、この境涯を言っているのだ。

諸君、すべての般若の智は、皆自性(脳)より生まれ、外からは入らない。

考え違いをしてはならない。

そのことを真性が自ら働く時、一つの真性が真実であるから一切は真実であると言うのだ。

心を思いはかることは大事である。

空心静坐のような小道を行ってはならない。

一日中口で空を説いても、心中にこの道を実践しないのではだめだ。

あたかも一凡人がいくら「俺は国王だ!」と自称しても、

結局国王にはなれないのと同じようなものだ。

そのような口先だけの者は吾が弟子ではない。



コメント:


ここでは摩訶般若波羅蜜の法について説いている。

我々の心の広がりは広大であって、あたかも大空のように、限りなく形相もない。

我々の自性は空であるが空にも絶対執着してもいけない。

もし心を空にして静坐すれば、働きの無い空に落ち、結局仏法を成就できないだろう。

自性(脳)は能く万法を認識し包容できる。

すべての存在は諸君の自性(脳)によって認識され記憶されている。

心の広がりは広大であって、法界に行き渡っている。

即ち一切は一つの自性(=脳)に収まっている(一切即一)。

心を働かせるとたちまちはっきりして明らかに働き、時、場所、

状況に応じてすぐさますべてを知る(一即一切)と、

「信心銘」で説く「一切即一、一即一切」を強調している。

「信心銘」第16文段を参照)。

般若の智は、皆自性(脳)より生まれ、外からは入らない。

心を思いはかり、空心静坐のような小道を行ってはならないと誡めている。



6.2

6.2 般若の実践



原文

善知識よ、何をか般若と名づくる。

般若とは是れ智慧なり。一切の処所、一切の時中、念念に愚ならず、常に智慧を行ずるは

即ち是れ般若の行なり。

一念愚なれば、即ち般若は絶し、一念智なれば、即ち般若は生ず。

世人は愚迷にして、般若を見ず。

口に般若を説けども、心中は常に愚なり。

自ら我れは般若を修すと言い、念念に空を説くも、真空を識らず。

般若は形相なし、智慧の心即ち是れなり。

もし是くの如きの解を作さば、即ち般若の智と名づく。

何をか波羅蜜と名づくる。

これは是れ西国の語にして、ここには倒彼岸と言う。

義を解(さと)れば、生滅を離れる。境に着すれば生滅起こる。

水の波浪有る、即ち是れこの岸に於いてするが如し。

境を離るれば生滅なし。水の常に通流するが如し。

即ち名づけて彼岸となす。故に名づけて波羅蜜と号(よ)ぶ。

善知識よ、迷人は口に念(とな)えて、念うる時にあたって、妄有り非有り。

念念にもし行ずれば、是れ真性と名づく。

この法を悟るは、是れ般若の法なり。

この法を修するは、是れ般若の行なり。

修せずんば即ち凡なるも、一念も修行せば、法身は仏に等し。

善知識よ、凡夫は即ち仏、煩悩は即ち菩提なり。

前念迷わば即ち凡夫、後念悟らば即ち仏なり。

前念境に着せば即ち煩悩、後念境を離るれば即ち菩提なり。

善知識よ、摩訶般若波羅蜜は、最尊・最上・最第一なり。

住(とど)まること無く、来ること無し。

三世の諸仏は皆な中(うち)より出ず。

まさに大智慧をもって、五蘊の煩悩塵労を打破すべし。

かくの修行せば、かならず仏道を成じて、三毒を変じて戒定慧と為す。

善知識よ、我がこの法門は一つの般若より八万四千の智慧を生ず。

何を以ての故に。世人に八万四千の塵労有るが為なり。

もし塵労無くば、智慧は常に現じて、自性を離れず。

この法を語る者は、即ち是れ無念・無憶・無着にして、

誑妄(きょうもう)を起こさず、

自らの真如の性を用いて、智慧を以て、観照し、一切の法において、

取らず捨てず、即ち是れ見性して仏道を成ずるなり。




注:

般若: 般若(はんにゃ)は(パーリ語:パンニャー)、漢訳音写である。

般若は智慧と訳されるが、凡夫の分別智ではない。ブッダの悟りの智慧。無分別智。


念念に空を説くも、真空を識らず。: 空は単なる虚無ではない。

無でも有でもない、真の空(真空妙有)である。

その真の空(真空妙有)を識らなければならない。


西国の語: インドの言葉。


倒彼岸: 向こう岸に到着する。悟りの世界(彼岸)に到ること。


彼岸: 悟りの世界(彼岸)。


波羅蜜: 到彼岸といい、悟りの世界(彼岸)に到ること。


迷人: 本心を見失った人。


妄有り非有り: 妄想が有り誤りが有る。


念念にもし行ずれば、是れ真性と名づく。: 一念ごとに般若の智慧を

実践するならば、これが自己の本性というものである。


境に着すれば生滅起こる: 外界(境)に執着すれ

ば色々な分別妄想が生まれ起ってくる。


境を離るれば生滅なし: 外界(境)への執着が無ければ

色々な分別妄想は生まれず真相を客観的に見ることができる。


一念も修行せば、法身は仏に等し。: 一念発起して。

般若の法を修行(坐禅修行)すれば、自性の本質(法身)は仏に等しい。


凡夫は即ち仏: 凡聖の違いはただの一念の間にある。

一念分別して外界(境)に執着すれば色々な分別妄想が生まれ凡夫になる。

一念分別して外界(境)への執着を離れ、

般若の法を修行(坐禅修行)すれば、分別妄想は消滅し仏となる。


前念迷わば即ち凡夫、後念悟らば即ち仏なり。: 前の一念が迷えば凡夫であり、

後の一念が自性(真の自己)に気付けば仏である。


前念境に着せば即ち煩悩、後念境を離るれば即ち菩提なり。: 前の一念が

対象(境)に執着すれば煩悩が生まれ、

後の一念が外対象(境)への執着を離れれば悟りである。


摩訶般若波羅蜜は、最尊・最上・最第一なり。: 摩訶般若波羅蜜は、

三世の諸仏は皆なここから生まれた法門である。

尊卑など相対・比較を越えた最尊・最上・最第一の法門である。


三世の諸仏は皆な中(うち)より出ず: 過去・現在・未来三世の諸仏は

皆この般若の智慧(無分別智=下層脳中心の脳の働き)より生まれたのである。


三毒: 貪欲・瞋恚・愚痴(貪・瞋・痴) の根本的な三煩悩。

煩悩を毒に例えたものである。

三毒は人間の諸悪・苦しみの根源とされている。

ブッダの説いた原始仏教、大乗仏教を通じて広く知られている概念である。

三毒は般若の無分別智によって戒定慧の学行となって成仏の道に直結する。


誑妄(きょうもう): でたらめの心。


無憶: 色々と憶測をしないこと。


この法を語る者は、即ち是れ無念・無憶・無着にして、誑妄(きょうもう)を起こさず:

この法門を本当に分かった人は、ただちに、からりとして、

思いの無い、執われの無い心境になって、でたらめを起こすことがない。


自らの真如の性を用いて: 自らの健康な脳の性質(真如の性)を用いて。


取らず捨てず、即ち是れ見性して仏道を成ずるなり:取捨憎愛の心

がなくなると、洞然(とうねん)として明白となり、見性成仏するだろう。

「信心銘」第一文段を参照)。


   

 現代語訳:

諸君、般若とは何を言うのだろうか?

般若とは智慧のことである。

あらゆる場所で、あらゆる時に、一念一念が愚ならず、

いつも智慧を働かせるのが般若の実践である。

一念が愚かであれば、即ち般若の智慧は消え、一念が正智になると、般若は生れる。

世間の人は愚かで、般若を見失っている。

口に般若を説いても、心の中は常に愚かだ。

自分では般若を実践していると言い、しじゅう空を説いていても、真の空を分かっていない。

般若には姿形はない。

智慧の心こそが般若である。

もしこのように悟るならば、それが般若の智というのである。

波羅蜜とは何を言うのだろうか?

これはインドの言葉であって、我が国では倒彼岸(向こう岸に到着する)と言う意味である。

その意味を理解できれば、生死の迷いから抜け出すことができる。

外界(境)に執着すれば色々な分別妄想が生まれ迷いが起こる。

水が波立つのが、こちら側の迷いの岸に於いて起こるようなものである。

外界(境)への執着が無ければ色々な分別妄想は生まれず真相を客観的に見ることができ、

生死の迷いから抜け出すことができる。

あたかも水がいつもこんこんと流れているようなものである。

即ちこれを悟りの世界(彼岸)というのであるとなす。

そこで波羅蜜(倒彼岸)というのである。

諸君、本心を失った人は口で唱えるだけで、唱えるその時に、妄想が有り誤りが有る。

一念ごとに般若の智慧を実践するならば、これが自己の本性というものである。

この法に気付くのが、般若の教えである。

この教えを実践するのが、般若の行である。

実践しなければ凡人であるが、一念でも修行すれば、その人の自性の法身は仏と同じである。

諸君、凡夫が仏であり、煩悩が悟りである。

前の一念が迷えば凡夫であり、後の一念が自性(真の自己)に気付けば仏である。

前の一念が対象(境)に執着すれば煩悩が生まれ、

後の一念が外対象(境)への執着を離れれば悟りであり、菩提である。

諸君、摩訶般若波羅蜜は、三世の諸仏は皆なこの法門から生まれた、

相対・比較を越えた最上・最第一の法門である。

それは住(とど)まることもなく、来ることない。

過去・現在・未来の諸仏は皆なこの法門から生まれた。

いかにしても大いなる智慧で、五蘊から生まれる煩悩塵労を打破しなければならない。

そのような修行をするならば、かならず仏の悟りを完成して、

三毒という迷いを戒定慧の徳に変えることができる。

諸君、私のこの法門に於いては、一つの般若より八万四千の智慧が生れるのである。

何故なら世人には八万四千の煩悩が有るためである。

もし煩悩が無いならば、智慧は常に出現して、自性(真の自己=脳)を離れることがない。

この法門が本当に分かった人は、ただちに、からりとして、思いの無い、

執われの無い心境になって、でたらめを起こすことがない。

自らの脳の性質(真如の性)を用いて、智慧の光で、観照し、一切の法において、

取捨憎愛の心がなくなると、洞然(とうねん)として明白となり、見性成仏するだろう。



コメント:

般若には姿形はなく正しい智慧の心(正智)である。

波羅蜜とは外界(境)への執着から生まれる分別妄想を離れ、

真相を客観的に見て、生死の迷いから抜け出して、

悟りの世界へ至る(倒彼岸)という意味だといっている。

  一念ごとに自己の本性(仏性)である般若の智慧の心を実践するのが般若の行である。

  正しい智慧の心に気付くのが、般若の教えで、それを実践するのが、般若の行である。

  対象(境)に執着すれば煩悩が生まれ、執着を離れれば自性(真の自己)に気付き仏となるという。

三世の諸仏は摩訶般若波羅蜜の法門から生まれたので、

比較や相対を越えた最上・最第一の法門である。

慧能が説く法門(南宗禅)に従って修行すれば、八万四千の煩悩から八万四千の智慧が生れる。

この智慧が生まれると、自性(真の自己=脳)から離れることがなく、からりとして、

思いの無い、執われの無い心境になって、でたらめを起こすことがなくなる。

摩訶般若波羅蜜の修行をするならば、かならず仏の悟りを完成して、

三毒という迷いを戒定慧の徳に変えることができる。 

慧能がここで説いている三毒は次の表5のようにまとめることができる。



三毒



三毒は般若の無分別智によって戒定慧の学行となって成仏の道に直結する。

この法門(南宗禅)に従って修行すれば、自性(真の自己=脳)

から生まれる智慧の光で、観照するようになる。

そうなれば、一切の法において、取捨憎愛の心がなくなるので、この上なく

明白な境地となり(洞然として明白となり)、見性成仏するだろうと言っている。

本章において、慧能は「善知識よ、摩訶般若波羅蜜は、最尊・最上・最第一なり。」と言っている。

この言葉は六祖慧能の禅が般若経を重視する禅であることを示唆する

言葉と言えるだろう。

「六祖壇経・1」を参照)。



6.3

6.3 金剛般若経と般若の智慧



原文

善知識よ、もし甚深法界、及び般若三昧に入らんと欲せば、

須らく般若の行を修し、「金剛般若経」を持誦(じじゅ)すべし、即ち見性することを得ん。

当に知るべし、この功徳は無量無辺なることを。

経中に分明(ふんみょう)に讃歎せり、具(つぶさ)に説くことあたわず。

この法門は、これ最上乗にして、大智の人のために説き、上根の人の為に説く、

小根小智の人聞かば、心に不信を生ぜん。

何を以ての故に。たとえば大龍の雨を閻浮提に下すが如き、

城邑聚楽、悉く皆漂流して、棗葉を漂わすが如し。もし大海に雨ふらば、不増不減なり。

もしくは大乗の人、もしくは最上乗の人は、

「金剛般若経」を説くを聞かば、心開けて悟解(ごげ)せん。

故に知んぬ、本性には自ら般若の智有って、

自ら智慧を用(も)って常に観照するが故に、文字を仮らざることを。

たとえば雨水の天よりして有るにあらず、もと是れ龍のよく興し致して、一切の衆生、

一切の草木、有情無情をして、悉く皆潤いを蒙らしめ、

諸水衆流、却って大海に入って、合して一体と為るが如し。

衆生の本性の般若の智もまた是の如し。

善知識よ、小根の人のこの頓教を聞くは、なお草木の根性の自ら小なるもの、

もし大雨を被(こうむ)らば、悉く自ら倒れて、増長すること能わずが如し。

小根の人もまた是の如し。元より般若の智有るは、大智の人と更に差別なし。

何に因ってか法を聞いて自ら開悟せざる。

邪見の障(さわ)り重く、煩悩の根深きに縁る。

なお大雪の日を履蓋(ふくがい)して、風吹くことを得ずんば日光の現れざるが如し。

般若の智も、また大小なきも、

一切衆生が自心に迷悟すること同じからざるが為に、迷心は外に見て、

修行して仏を覓めて、未だ自性を悟らず、即ち是れ小根なり。

もし頓教を開悟して、外修に執われず、もし自心において常に正見を起こさば、

煩悩塵労も常に染す能(あた)わず、即ち是れ見性なり。

善知識よ、内外に住せざれば、去来自由なり。よく執心を除かば、

通達無碍なり。

よくこの行を修せば「般若経」と本と差別無し。

善知識よ、一切の経書、及び諸々の文字は、大小二乗、十二部経も、皆な人に因って置く。

智慧の性の因って、方(まさ)によく建立す。もし世人無くんば、一切の万法は本より有らず。

故に知る、万法は本人に因って興こり、一切の経書は人の説くに因って有ることを。

その人の中に愚あり智有るに縁って、愚は小人なり、智は大人となる。

愚者は智人に問い、智者は愚人の為に法を説き、それをして悟解(ごげ)し心開かしむ。

愚人も忽ち悟解(ごげ)し心開けなば、即ち智人と別(こと)なることなし。

善知識よ、悟らざれば即ち仏は是れ衆生なり、一念悟る時は衆生も是れ仏なり。

故に知る、万法は尽く自心に在ることを。何ぞ自心の中より、頓(とみ)に真如の本性を見ざる。

「菩薩戒経」に言う、「我は本元自性清浄なり」と。

もし自心を識って見性せば、皆仏道を成ず。

「浄名経」に云う、「即時に豁然として還た本心を得たり」と。



注:

十界: 六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)

に四聖(声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)を加えたもの。


甚深法界: 一心法界を言う。

一心が十界に偏在して不思議な働きを表している世界を言う。

脳宇宙が広く十界に偏在して不思議な働きをしている事実を表す言葉とも言える。


持誦(じじゅ)する。: 受持し読誦する。


経中: 六祖壇経の中。


棗葉: なつめの葉。


上根の人: 機根の優れた人。


小根の人: 機根の劣った人。


頓教: 頓悟の教え。慧能が説いた南宗禅の教え。


「金剛般若経」: 鳩摩羅什の訳、玄奘の訳など四訳がある。

和訳としては、中村元、紀野一義訳註、岩波書店、岩波文庫、般若心経、金剛般若経がある。

禅宗の法要にはよく読誦される。


最上乗禅: 中国唐代の圭峰宗密が、

禅に外道禅・凡夫禅・小乗禅・大乗禅・最上乗禅があるとしたのによる。

 「頓悟要門」に於いて、大珠慧海は大乗と最上乗とは何か?

という質問に対し、

「大乗とは求道者(菩薩)の道である。」

と言っている。

しかし、慧海は

「最上乗とは仏乗(仏の道)である。」

と言っている。

最上乗(南宗禅)について、大珠慧海は、

大乗仏教の教理に立って観察することをしない

もはや修行する必要の無い湛然常寂の境地に至って

不増不減ならば最上乗即ちこれ仏乗なり。」と言っている。


日本では普通禅宗は大乗仏教の1宗派だと考えられている。

しかし、大珠慧海は、

南宗禅(禅宗)は大乗仏教を乗り越えた仏乗(仏になる仏教)だ

と考えていたことが分かる。

:最上乗と仏乗を参照)。


大龍の雨を閻浮提に下すが如き・・・: 上根の人は「金剛般若経」を聞いて、

悟解(ごげ)するが、下根の人は「金剛般若経」を聞いて、

不信の心を起こすことを喩えている。


風吹くことを得ずんば日光の現れざるが如し:

煩悩の雲のために太陽の光が現れないように、

我々は外境に心を奪われ分別心を起こすため、般若の智慧が現れない。


よく執心を除かば、通達無碍なり。:よく執着する心を除けば、

自由自在に本心である般若智が現れて来る。


大小二乗: 大乗仏教と小乗仏教の二乗。


十二部経: 仏教の経典の形態を形式,内容から以下のように 12種に分類したもの。


1. 修多羅(しゅたら、sutra、経) : 教説を直接散文で述べたもの

2. 祇夜(ぎや、geya、重頌(じゅうじゅ) : 散文の教説の内容を韻文で重説したもの

3. 記別(きべつ、vyakarana、授記): 仏弟子の未来について証言を述べたもの

4. 伽陀(かだ、gatha、偈): 最初から独立して韻文で述べたもの

5. 優陀那(うだな、udana、自説経): 質問なしに仏がみずから進んで

教説を述べたもの

6.如是語(にょぜご、ityuktaka または本事(ほんじ) itivrttaka): 仏弟子の過去世の行為を述べたもの。

7. 本生(ほんじょう、jataka): 仏の過去世の修行を述べたもの。

8.方広(ほうこう、vaipulya): 広く深い意味を述べたもの。

9. 未曾有法(みぞうほう、adbhutadharma): 仏の神秘的なことや功徳を嘆じたもの

10. 尼陀那(にだな、nidana、因縁): 経や律の由来を述べたもの

11. 阿婆陀那(あばだな、avadana、譬喩(ひゆ)): 教説を譬喩で述べたもの

12.優婆提舎(うばだいしゃ、upadesya、論議): 教説を解説したもの



智慧の性の因って、方(まさ)によく建立す。:

人間の智慧の力で、創造されたものである。


もし世人無くんば、一切の万法は本より有らず。: もし人間がいなければ、

一切の事物はもともと存在しないのである。


万法は本人に因って興こる:一切の事物はもともと人間によって出現する。


一切の経書は人の説くに因って有る: 一切の経典や書籍は人間が説いたから存在する。


小人(しょうじん): つまらない人。愚者。


大人(たいじん): 立派な人。


「菩薩戒経」に言う、「我は本元自性清浄なり」と。: 『菩薩戒経』とは正しくは『梵網菩薩戒経』のこと。

『梵網菩薩戒経』は略して『梵網経』と呼ばれる。

『梵網経』には「本源自性清浄なり」という経文が見える。


『浄名経』に云う、「即時に豁然として還(ま)た本心を得たり」と。:

『浄名経』は維摩経のこと。

「維摩経」弟子品には「即時に豁然として還(ま)た本心を得たり」という経文がある。



 現代語訳:

諸君、もし甚深なる真理の世界や般若三昧に入りたいならば、

どうしても般若の行を修行し、「金剛般若経」を受持し読誦しなければならない。

そうすれば、たちまち見性することができるだろう。

これで、この功徳は無量無辺であることがはっきりわかる。

そのことはこの経典中にはっきり讃歎していることで、ここでは詳しく説明することはできない。

この法門は、最上乗であり、大智・上根の人の為に説く。

小根小智の人がこの法門を聞いたならば、信じないだろう。

何故かというと、たとえば偉大な龍王が雨を地上に降らす時、

都会や村里などは皆洪水で押し流され、棗の葉が漂っているようになるが、

大海に雨が降っても、海水は増えも減りもしないようなものだ。

同じように、大乗の人や最上乗の人は、「金剛般若経」を説くのを聞いた時、

心眼が開いて悟るのである。このことから、

人の本性には生まれつき般若の智慧が具わっていて、

自分でその智慧を働かせて観照するため、文字に頼る必要がないことが分かるのである。

たとえば雨水の天から降るのではなく、もともと龍王がそれを引き出して、

一切の衆生、草木、有情無情に与えて、皆潤いに浴させるのである。

そして、その雨水は、多くの川の水となって、

最後には大海に入って、集まって一体となるようなものである。

衆生の本性である般若の智慧もこれと同じである。

諸君、小根の人がこの頓教を聞くのは、根の力の弱い草木が、

大雨に降られると、皆自分で倒れて、成長することができないようなものである。

小根の人もこれと同じである。

生まれつき般若の智慧が有るは、大智の人と同じで少しの違いもない。

ではどういう原因で法を聞いて自分で悟りを開かないのだろうか?

それは、邪見の障害が重く、煩悩の根が深いためである。

それはちょうど大雪が太陽の光を覆って、

風が吹いて雪を吹き飛ばさなければ日光が現れないようなものである。

般若の智慧には、大小はないが、

衆生が自分で迷ったり悟ったりすることに違いがあるため、

迷う心は求めるものを自分の外に見て、修行するため、

なかなか自性(真の自己=本来の自己)を悟ることができない。

これが小根の人である。

もし頓教を目覚め、外に求めず、自心において常に正見を持つならば、

煩悩塵労も心を汚染することはできない。

それが見性ということなのである。

諸君、自分の心にも外界にも執着しなければ、去来は自由である。

よく執われの心を除けば、智慧は滞ることなく明快に働くのだ。

こういう修行ができれば、「般若経」が説く教えと、もともと違いはなくなるのだ。

諸君、総ての経典や書籍、文献、大乗小乗、十二部経も、

皆な人間によって創作されたものなのだ。

人間の智慧の力で、創造されたものである。もし人間がいなければ、

一切の事物はもともと存在しないのである。

従って、一切の事物はもともと人間によって出現し、

一切の経典や書籍は人間が説いたから存在することが分かるのである。

またその人間の中に愚者や智者がいるため、

愚者は小人となり、智者は立派な人となるのである。

愚者は智者に道を問い、智者は愚者の為に教えを説き、

それによって愚者は悟って心眼が開くのである。

愚者も悟って心眼が開くならば、智者と異なることはない。

諸君、悟らなければ仏も衆生であり、一瞬に悟った時は衆生も仏である。

これより、あらゆる存在は尽く自分次第であることが分かる。

それではどうして自分の心の中に、速やかに清浄なる自性(脳)の本性を見つけないのか。

「梵網経」にも、「我は本元自性清浄なり」という経文がある。

もし自心を悟って見性すれば、誰でも皆仏道を成就できるのである。

「維摩経」にも云っている、「即時に豁然として還た本心を得たり」と。



コメント:

慧能は、甚深なる般若三昧に入りたいならば、般若の行を修行し、

「金剛般若経」を受持し読誦しなければならないと言う。

そうすれば、たちまち見性することができる。

般若行と見性の功徳は無量無辺であり、詳しく説明することはできない。

この法門は、最上乗であり、小根小智の人は信じることはできないので

大智・上根の人の為に説くのだと言う。

慧能は「金剛般若経」など般若経に基づいた般若の行「空」の思想を重視している。

ここで慧能は喩え話を出して次のように言う。

たとえば偉大な龍王が雨を地上に降らす時、

都会や村里などは皆洪水で押し流され、

棗の葉が漂っているようになる(小根小智の人の場合)が、

大海に雨が降っても、海水は増えも減りもしないようなものだ(大智・上根の人の場合)。

大乗の人や最上乗の人は、「金剛般若経」を説くのを聞いた時、

心眼が開いて悟るのである。

このことから、人の本性には生まれつき般若の智慧が具わっていて、

その智慧を働かせて観照するため、文字や理屈に頼る必要がない。

それを喩えて話すと、

雨水の天から降るのではなく、もともと龍王がそれを引き出して、一切の衆生、

草木、有情無情に与えて、皆潤いに浴させる(?)。

そして、その雨水は、多くの川の水となって、最後には大海に入って、

集まって一体となるようなものである。

衆生の本性である般若の智慧も大海と同じで多くの智慧が

一つになって集まっていると言う。

ここで出て来る雨と竜王の関係は現代の地球物理が説く降雨の説明と全く違う。

竜王が雨を降らせる」という古代の宗教的な考え方は、

科学が未発達な時代の低レベルなものであったと考えるしかない。

小根の人がこの頓教を聞いて、信じることも理解することもできないのは、

根の力の弱い草木が、大雨に降られると、皆自分で倒れて、成長することができないのと同じである。

しかし、小根の人も生まれつき般若の智慧が有る。それは大智の人と全く同じである。

では小根の人がどういう原因で法を聞いて自分で悟りを開くことがないのだろうか?

それは、邪見と煩悩が、般若の智慧を覆い隠しているためである。

般若の智慧には、大小はないが、衆生が自分で迷ったり悟ったりする

ことに違いがあるためである。

小根の人は迷いの心で求めるものを自分の外に見て、修行するため、

なかなか自性(真の自己=本来の自己)を悟ることができない。

もし頓教(南宗禅)に目覚め、外に求めず、自心において常に正見を持つならば、

煩悩塵労も心を汚染することはできない。

それが見性である。諸君、自分の心にも外界にも執着しなければ、去来は自由となる。

執着心を除けば、智慧は滞ることなく明快に働くようになる。

こういう修行ができれば、「般若経」が説く教えと、違いはなくなる。

あらゆる経典や大乗小乗の教えも、皆な人間によって創作され、創造されたものである。

もし人間がいなければ、一切の事物はもともと存在しない。

従って、一切の経典や書籍は人間が説いたから存在することが分かる。

しかし、その人間の中に愚者や智者がいるため、愚者は小人となり、智者は立派な人となる。

愚者は智者に道を問い、智者は愚者の為に教えを説き、

それによって愚者は悟って心眼が開くのである。

愚者も悟って心眼が開けば、智者と異なることはないので本質的な違いはない。

悟らなければ仏も衆生であり、一瞬のうちに悟った時には、衆生も仏である。

これより、あらゆる存在は尽く自分次第であることが分かる。

それではどうして自分の心の中に、速やかに清浄なる自性(脳)の本性を見つけないのか。

「梵網経」にも、「我は本元自性清浄なり」という経文があるではないか。

もし自心を悟って見性すれば、誰でも皆仏道を成就し仏になるのである。

と、慧能は見性成仏について「維摩経」を引用し、

「『即時に豁然として還た本心を得たり』と云っているではないか」と

我々に迫り励ましていることが分かる。


本章においても、慧能は「金剛般若経」など般若経に基づいた

般若の行「空」の思想を重視している。

これは、

六祖慧能の禅が「金剛般若経」など、般若経を重視する禅である

ことを示している。


「六祖壇経・1」を参照)。





「六祖壇経」の参考文献


   

1.伊藤古鑑訓註、其中堂 六祖法宝壇経 1967年

2.中川孝 著、たちばな出版、タチバナ教養文庫、六祖壇経、2012年

3.鈴木大拙著、角川書店、角川ソフィア文庫、禅とは何か、1999年

   

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