2016年6月10日〜8月15日 表示更新:2022年2月21日

六祖壇経・1

   
数
top

六祖壇経について



『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、中国禅の第六祖・慧能(638〜713)の説法集である。

正しくは,『六祖大師法宝壇経』と呼び、単に『壇経』とも言う。

唐の関耀1 (681) 年頃の成立と考えられている。

異本が多数あるが,敦煌本が最も古い形を示していると考えられている。

内容は北宗禅に対して南宗禅の立場を明確に示したものであり、

現在の禅宗各派の成立を調べるには不可欠の第一資料とされる。

『壇経』の主題は「見性成仏」である。

慧能が六祖となるまでの物語はドラマチックであり興味深いものがある。



「六祖壇経」は長編の作品なので、「六祖壇経・1」〜「六祖壇経・4」に分けて

合理的な立場から分かり易く解説したい。



zyo



原文

そもそも真如仏性はもと人心に在り。

心正しければ即ち諸境侵し難く、心邪なれば即ち衆塵汚し易し。

よく心念を止むれば、衆悪自ずから亡ぶ。

衆悪既に亡ぶれば、諸善皆備わる。

諸善の備わらんことを要むれば、外に求むるに仮るには非ず。

悟法の人は、自心日の如く、遍く世間を照らして、一切無礙なり。

見性の人は、人倫に処るといえども、その心は自在にして、惑乱せらるることなし。

ゆえに我が六祖大師は、広く学徒のために、見性の法門を直説し、すべて自ら悟り成仏せしむ。

なずけて「壇経」と曰い、後学に流伝す。

古本は文繁くして、披覧の徒、初めは忻ぶも後には厭う。

余、太歳丁卯、月はすい賓に在りし二十三日辛亥を以て、思迎塔院において、分ちて両巻と為せり。

凡て十一門なり。願わくは、後来同じく仏性を見る者を接(むか)えんことを。


依真小師邑州(ようしゅう)羅秀山恵進禅院沙門恵マ述



注:

依真:祖塔の真影に侍する者、即ち塔主。 


小師:沙門(出家)の謙称。弟子の自称。


邑州:現在の江西省邑寧県。


羅秀山恵進禅院:江西省永福県の東方にある禅院。


恵マ(えきん):宋代969年頃「壇経」を整理した禅僧。閲歴は不詳。


真如:永遠に変わらない真実の本質。


仏性:仏の本性。「大乗涅槃経」巻27には「一切衆生悉有仏性」とある。

如来蔵思想と仏性を参照 )。


諸境:認識作用の対象となる外境。六境(色、声、香、味、触、法)。


衆塵:六塵。

六境からの情報が六根(眼、耳、舌、身、意)を通して心に入り心を汚染することから塵と言う。 


悟法の人:本来人心に備わっている仏性を自覚した人。


無礙:心が自在に通達してさまたげるものがないこと。


見性の人:本来自己に具わる仏性を悟った人。


太歳丁卯月在すい賓二十三日辛亥:西暦762年7月3日。


思迎塔院:恵進禅院の塔頭の一つと思われるが未詳。


接:迎接、接受の意。



 現代語訳:


そもそも真如仏性はもともと人の心にある。

もし、心が正しいならば一切の外境からの情報は侵入することは難しい。

しかし、心が邪(よこしま)であれば外境からの情報は侵入し心を汚しやすい。

あれこれ思念することを止めてしまえば、諸悪は自然に亡んでしまう。

諸悪が亡べば、諸善が身に備わることになる。

諸善を身に備えようとするならば、外に求めてはならない。

仏法を悟った人は、その心は太陽のように、広く世界を照らして、すべてにさしさわりがない。

見性した人は、人の道に従って生きていても、心は自由自在であり、他人に惑乱されない。

それゆえ、我が六祖大師は、広く修道者のために、見性の法門を直説し、

すべて自らが悟って成仏するようにしたのである。

その記録は「壇経」と名付けられ、後進の修道者の間に広く伝えられている。

しかし、古本の文章は煩雑であるため、一般の読者は、

最初のうちは喜んで読むが、しまいには嫌気がさしてしまう。

そこで私は、乾徳5年(西暦967年)5月23日、思迎塔院において、

もとの本を2巻に分けて整理した。

その結果、全体で十一章になった。

どうかこの「壇経」が、今後我々と同じく、仏性に目覚めたい人々に迎えられることを願う次第である。

依真小師邑州(ようしゅう)羅秀山恵進禅院の沙門恵マ述



コメント:


恵マは「我が六祖大師は、広く修道者のために、見性の法門を直説し

すべて自らが悟って成仏するようにしたのである。」

と述べて、

六祖壇経は見性の法門を直説することにあると言っている。


1章 縁起説法門


1.1

1.1 大梵寺と壇経成立の由来



原文

大師は唐の時、初めて南海の上より曹渓に至った。

韶州刺史韋きょ等、大梵寺の講堂中に於いて、衆のために縁を開き、無相戒を授け、

摩訶般若波羅蜜の法を説かんことを請う。

大師はこの日、頓教の法を説き、直に見性を了じて無礙ならしめ、

普く僧俗に告げて、言下に各々本心を悟り、現に仏道を成ぜしむ。

座下の僧尼道俗1千余人、刺史・官僚等三十余人、儒宗・学士三十余人

も同じく大師にこの法門を説かんことを請う。

刺史韋きょは門人法海をして抄録して流行し、後代に伝示せしむ。

もしこの宗旨を承けて、学道の者たがいに教授せば依憑する所有らん。



注:

曹渓(そうけい):  広東省曲江県の東南50里にある。

六祖慧能がいた曹渓山宝林寺をさす。


韶州: 今日の広東省曲江県。


刺史(しし): 中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。

民を治める文官。当初は監察官で あったが、後に州の長官となった。

日本では国守の唐名として使われた。


無相戒: 無相心戒。一切の相を離れた堅固不壊の仏心の戒法。

禅門正伝の仏戒。


摩訶般若波羅蜜の法: 禅定修行による智慧の完成によって

迷いの世界から悟りの世界に至る理法。


頓教の法: 直ちに悟りを得ることを説く頓悟の教え。

六祖の南宗禅を指す。


本心: 人が本来持っている清浄な心。仏性のこと。


儒宗: 儒者の宗師。学者の領袖。


依憑する所: よりどころになるもの。



 現代語訳:


六祖大師は唐の時代、初めて広州の南海のほとりから曹渓山宝林寺に来た。

韶州の刺史韋きょ等は、大師に、大梵寺の講堂に於いて、人々のために仏縁を開き、

無相戒を授け、摩訶般若波羅蜜の法を説いて下さるようお願いした。

大師はこの日、頓悟の法を説き、直に見性してこだわりない心を自由自在に保つようにと、

ひろく僧や在家の人々に語り、言下に各々が自己の本心を悟り、仏法の真理を体得させた。

説法の座に列した僧尼や在家1千余人、刺史と配下の役人等三十余人、

儒者宗師・学者三十余人の人々も同じように大師にこの法門を説いて下さるようにお願いした。

刺史の韋きょは大師の弟子の法海に委嘱して説法の要旨を抜書きして

抄録・流布し、後代の人々に伝示することにした。

もし道を学ぶ者がこの教えの根本義を承けついで、

次々に伝えて行けばよりどころになるものが有るだろう。



コメント:


ここでは六祖壇経の成立の由来について述べている。

六祖大師は曹渓山宝林寺に於いて広く僧や在家の人々のために、頓悟の法を説いた。

刺史の韋きょは大師の高弟の法海に委嘱して説法の要旨を抜書きして

抄録・流布し、後代の人々に伝示することにした。

それが六祖壇経の成立の由来だとしている。


2章 悟法伝衣門



2.1

2.1 黄梅山に至り五祖と相見する



原文

この時、大師は既に座に升(のぼ)り己(おわ)って、衆に示して言う、

「善知識よ、総な心を浄めて摩訶般若波羅蜜を念ぜよ」。

大師は良久しく語らず。自ら其の心を浄む。忽然として告げて言う、

「菩提の自性は本来清浄なり。ただこの心を用いて直に成仏を了ぜよ。

善知識よ、且く慧能が行由、得法の事意を聴け。

慧能が厳父は、本貫は范陽なりしも、左降して嶺南に流され、新州の百姓と作(な)る。

この身は不幸にして父また早く亡(し)せり。

老母と孤遺(こい)とは南海に移り来たり、艱辛貧乏して、市に柴(まき)を売る。

時に一客有って柴(まき)を買い、送って官店に至らしむ。

客は取りて去り、慧能は銭を得て、却って門外に出ずるに、 一客の『金剛経』を読む有るを見る。

慧能は一たび聞いて、心、便(すなわ)ち開悟す。

遂に客に問うて言う、「何れの所より来たって、この経典を持するや?」

客云う、「我はき州黄梅県の東憑母山(とうひょうもざん)より来たる。

その山はこれ第五祖大師弘忍大師、彼(かしこ)に在りて化を主(つかさど)る。

門人1千有余人なり。我は彼の山に到って、礼拝してこの経を聴受す。

大師は常に僧俗に勧めて、但だ『金剛経』を持し、即ち自ら見性して、直に成仏を了ぜしむ」と。

慧能説(つ)ぐるを聞いて、宿業に縁あり、乃ち一客の銀十両を取って慧能に与え、

老母の衣料に充(あ)てしめて、便(ただ)ちに

黄梅に往きて、五祖を礼拝せしむることを蒙る。

慧能は母を安置し畢(おわ)って便即(ただ)ちに親を辞し、三二十日を経ずして、

便(ただ)ちに黄梅に至りて、五祖を礼拝す。



注:

悟法伝衣門: 慧能が五祖の下で悟りを開き、その証拠として衣鉢を伝受し、

第六祖となる物語を記す。


善知識: 善き友。仏道に縁を結ばせる人。


人々を導いて仏道・悟りに導き入れる僧や友人。


菩提: 修行を積み,煩悩(ぼんのう)を断ちきって到達する悟り。

一般には仏の正覚を言う。


菩提の自性: 我々が本来有する仏の正覚智のこと。


本貫(ほんがん): 本籍地。出身地。


范陽: 河北省定興県南四十里の地。


新州: 広東省新興県。広東の東南に当たる。


『金剛経』: 「金剛般若波羅蜜多経」の略。大乗仏教の般若経典の1つ。

後秦の鳩摩羅什訳の他に五種類の訳がある。

禅宗の第六祖慧能(南宗禅の初祖)がこの経の一句で大悟したとされ、禅宗で特に愛読される。

3世紀以前の大乗仏教初期には既に成立していたと考えられている。

他の般若経典と同じく「空」思想を説きながら、

「空」の語彙が一度も用いられていないことも特徴の1つである。


き州黄梅県の東憑母山(とうひょうもざん): 湖北省黄梅県、双峰山の東山寺。


第五祖大師弘忍大師: 中国禅宗の五祖弘忍(ぐにん/こうにん、602〜 675)。

没後に大満禅師の諡号を賜る。

若年で出家し、12歳で東山の四祖道信(どうしん, 580〜 651)の弟子となり、

後に黄梅県の憑茂山(東山)に住して修行者を教化した。

中国禅の本流となる東山法門を発展させ、中国禅発展の下地を作った。



 現代語訳:


このとき、大師は高座にのぼりおわって、一同に示して言った、

諸君、ともに心を清めて、摩詞般若波羅蜜を唱えなさい。」

大師はややしばらくのあいだ沈黙して、自分の心を清めておられたが、やおらいわれた、

諸君、真正な覚りを開く我らの生れながらの本性は、もともと清浄である

ただこの心を働かせて、そのまま完全に仏となるのだ。諸君、とにかく私の経歴と

私か悟りを得ることができた事情とを聞くがよい

私の父は原籍地は芭陽であったが、左遷されて嶺南に流され、新州の平民となった

私たちの不幸はそれだけでなく、父が早く亡くなったので、老母とみなしごとは

南海の地に移り住むこととなって、銀難辛苦の貧乏暮らしをして、市で薪を売って暮らしていた

あるとき一人の客が薪を買い、私に官営の宿駅に送り届けさせた

その宿駅でその客は薪を受け取った

私は代金を貰ってから門外に出ると、一人の人が『金剛経』を読んでいるのを見た

私はそれを聞いただけで心はたちまちからりと開き悟った

そこでその人に、「あなたはどこから来られて、この経を受持しておられるのですか?」

と尋ねたところ

その人のいうには

「私は斬州の黄梅県の東馮母山から来た

その山では第五祖弘忍大師が住山されて教化をされている。弟子は千人以上いる

私はその山に行き、大師に相見してこの経をいただいたのだ

大師はいつも出家や在家に勧めて、ただ『金剛経』を受持させて

たちまち見性成仏させておられる」と

私はこの言葉を聞くと、前世からの因縁があったものとみえて

やがてある人が銀十両を取り出して、老母の衣食の費用に充てるようにと私に下されたので

さっそくに黄梅山に行って五祖に相見させてもらうことになった

私は母のための手配をすませると、すぐに親に暇乞いをし

二、三十日もたたぬうちに黄梅山に到着して、五祖に相見することができた



コメント:


ここでは六祖慧能が東馮母山教化していた五祖弘忍に相見するまでの

経緯と慧能の経歴について述べている。



2.2

2.2 五祖との問答



原文

師問うて曰く、「汝は何方(いずれ)の人にして、この山に来たって礼拝する

今、吾が辺に向かって何物を求めんと欲するや。」

慧能答えて云う、「弟子はこれ嶺南新州の百姓なり、遠く来たって師を礼す

唯だ仏と作(な)らんことを求め、余の物を求めず」と。

五祖言う、「汝はこれ嶺南の人なり、またこれカツリョウ(かつりょう)なり

いかんが仏と作(な)るに堪えん。」

慧能云う、「人に南北ありと雖も、仏性には本より南北無し

カツリョウ(かつりょう)の身は和尚と同じからざるも、仏性は何の差別かあらん。」

大師は更に慧能と久しく語らんと欲するも且く衆徒の総て身辺にあるを見て、

乃ち衆に随って作務せしむ。慧能、和尚に啓(もう)して言う、

弟子は自心に常に智慧を生じて、自性を離れざる、即ちこれ福田なり

未審(いぶかし)、和尚は何の務めをか作さしむるや。」

五祖言う、「このカツリョウ(かつりょう)、根性大いに利(するど)し

汝は更に言うこと勿れ、且く後院に去れ」と。

一行者有り、慧能を差(つかわ)して、柴を破り、碓を踏ましむこと八箇余月。

五祖、一日忽ち慧能を見て言う、

吾れ汝の見の用うべきを思うも、悪人の汝を害することを恐れて、遂に汝と言わず。之を知るや。」

慧能言う、「弟子もまた師の意を知りて、敢えて堂前に行至(おもむ)かず

人をして覚(きづ)かざらしむ」と。



注:

カツリョウ(かつりょう) 中国を離れた辺鄙に住む野蛮人。

北方の人が南方の人をいやしんで言う言葉。


人に南北ありと雖も、仏性には本より南北無し。: 人には南北の区別があるが、

人皆が具有している仏性の観点からは南北の差別はない。

「大乗涅槃経」では「一切衆生悉有仏性」と説いている。

この経文を知らないことにはこの言葉は出て来るはずはない。

慧能は既に「涅槃経」を読んでいたと考えることができる。


作務(さむ): 肉体労働のこと。

禅林で作務が行われるようになったのは

四祖道信の頃からと考えられている。

禅林における共同生活上の必要性と修行上から肉体労働が始められるようになった。


柴を破り、碓を踏ましむこと: 禅修行の作務として柴を取り、

碓を踏むこと八ヶ月という。

慧能が碓を踏む時体重が軽かったため、腰に石を縛り付けたと伝えられている。


福田(ふくでん): 坐禅修行の結果生まれる福徳を

田地が物を生じることに喩えたもの。


汝の見: 慧能が五祖に示した見所、見解。

慧能が五祖に示した見解を評価した五祖の言葉。



六祖慧能

図1 六祖慧能像



 現代語訳:

五祖は聞いた、

お前は一体どこの者か?この山に私に会いに来て、私の所で何を欲しいのか?」

慧能は答えて云った、

私は嶺南新州の百姓です。はるばると師にお目にかかりにまいりました

ただただ仏になりたいだけで、ほかのことは望みません。」と。

五祖は言った、

お前はこれ嶺南の人間で、カツリョウ(かつりょう)だ

どうして仏になることができようか。」

慧能は言った、

人には南と北の区別がありますが

仏性にはもともと南北の区別なぞありません

カツリョウ(かつりょう)といういやしい身分は和尚さまと違いますが

仏性には何の差別もありません。」

大師はもっと慧能と話したいと思ったが、修行僧達が大勢近くにいるのに気付き、

修行僧達と一緒に作務をさせた。

慧能は五祖和尚に言った、

私は自分の心に常に智慧が生れて、自性を離れません

それこそ福徳を生み出す福田だと思っています

一体、和尚は私にどんな作務をさせようとされるのですか。」

五祖はいった、

このカツリョウ(かつりょう)め、なかなか鋭い機鋒を持っている

もうそれ以上言うな。しばらく、後ろの建物に下がっておれ。」

こうして一行者の世話で、薪を割り、碓を踏むなどの作務をしながら

八ヶ月が過ぎた。ある日、五祖は慧能の所に来て言った、

私はお前の見所はなかなかのものだと思っている

しかし、誰か悪心を持った者がお前に危害を加えるのを恐れて

お前と口をきかなかったのだ。お前はこれに気付いていたか。」

慧能は言った、

私もまた師のお心は分かっていましたので

敢えてお部屋に行かず、人に気付かれないようにしていました。」



解説とコメント:


ここでは慧能が東馮母山に行き、五祖弘忍に相見した時の問答ついて述べている。

五祖は慧能に、

お前は一体どこの者か?この山に私に会いに来て、何を欲しいのか?」

と上から目線で聞くと、

慧能は、

私は嶺南新州の百姓です。はるばると師にお目にかかりにまいりました

ただただ仏になりたいだけで、ほかのことは望みません。」

と言い、成仏が目的だとはっきり答える。

これに対し、五祖は、

お前はこれ嶺南の人間で、カツリョウ(かつりょう)だ

どうして仏になることができようか

(お前のような嶺南出身の人間は野蛮人だ。野蛮人がどうして仏になることができようか)。」

と南方出身の田舎者である慧能を軽蔑するような差別発言をする。

五祖は、嶺南出身の人間は野蛮人だと軽蔑していたので、

嶺南出身のお前(慧能)なんか成仏は叶わぬ夢だと答えたのである。

これに対し、慧能は、

人には南と北の区別がありますが

仏性にはもともと南北の区別なぞありません

カツリョウ(かつりょう)といういやしい身分は和尚さまと違いますが

仏性には何の差別もありません。」

と五祖に反撃する。

この鋭い反撃に五祖は内心動顛するとともに、慧能その鋭い機鋒に驚嘆した。

五祖はもっと慧能と話したいと思う。

 しかし、修行僧達が大勢近くにいるのに気付き、慧能に修行僧達と

一緒に作務をするようにと言う。

慧能は五祖に、

私は自分の心に常に智慧が生れて、自性を離れません

それこそ福徳を生み出す福田だと思っています

一体、和尚は私にどんな作務をさせようとされるのですか。」

と言う。

五祖は、

このカツリョウ(かつりょう)め、なかなか鋭い機鋒を持っている

もうそれ以上言うな。しばらく、後ろの建物に下がっておれ。」と言う。

こうして慧能は一行者の世話で、薪を割り、碓を踏むなどの作務をしながら八ヶ月が過ぎた。

ある日、五祖は慧能の所に来て言った、

私はお前の見所はなかなかのものだと思っている

しかし、誰か悪心を持った者がお前に危害を加えるのを恐れて

お前と口をきかなかったのだ。お前はこれに気付いていたか。」

慧能は、

私もまた師のお心は分かっていましたので

敢えてお部屋に行かず、人に気付かれないようにしていました。」と言う。

このように、慧能と相見した五祖弘忍は慧能の鋭い見解と機鋒に只者ではないと驚嘆した。

五祖弘忍は慧能に一目置き、

特別目をかけて、一行者に頼んで慧能の世話をさせていたことが分かる。



2.3

2.3 呈偈の命令



原文

五祖は一日諸々の門人を喚ぶ。

総な来たれ。吾れは汝に向かって説けり

世人は生死事大なりと。汝等は終日供養するも

只だ福田を求めて、生死の苦海を出離せんことを求めず

自性もし迷わば、福は何ぞ求むべけん

汝等は後院に去きて、自ら看よ。智慧もて自らの本心般若の性を取って

各々一偈を作り、来たって吾れに呈し看よ。もし大意を悟らば

汝に衣法を付えて第六代の祖と為さん

火急速かに去け、遅滞することを得ざれ。思量せば即ち用に中らず

見性の人は言下に須らく見るべし

もしかくの如き者は、輪刀上陣にもまたこれを見ることを得ん。」



注:

生死事大: 生死の問題は人生の一大命題であり、

生死を明らかにすることは、

迷い、煩悩を超脱し悟りの境地そのものに他ならない。

生とは何か、死とは何か、人間如何に生きるベきか、その究明こそ仏教者として

最も大事な修行課題だという意味。


供養: 供養(くよう)とは、仏、菩薩、諸天などに香・華・燈明・飲食

などの供物を真心から捧げること。

供養には、

二種供養

利供養:香、華、飲食など財物を供養すること

法供養:僧が法を説くなど修行して衆生を利益する供養

三種供養

利供養

敬供養(讃嘆恭敬する供養)

行供養(仏法を行ずる供養)

などの種類がある。


日本の民間信仰では死者・祖先に対する追善供養のことを特に供養ということが多い。

生死の苦海:凡夫が生死往来する三界を海にたとえたもの。

三界とは欲界、色界、無色界の三つの世界を言う。

原始仏教2、9.36三界についてを参照)。


般若: 仏の智慧。無分別智。

無分別智を参照)。


智慧もて自らの本心般若の性を取る: 本心にそなわる智慧が目覚めて、

般若の本性に気付くこと。見性のこと。


もし大意を悟らば、汝に衣法を付えて第六代の祖と為さん。: 中国禅の初祖達磨より

五祖弘忍まで代々この形式で仏法が伝えられて来たこと(教外別伝)を主張する言葉。

禅の思想、教外別伝を参照)。


思量せば即ち用に中らず: 理知的に思慮分別して考えたなら

無分別智ではないから駄目である。

自己本来の般若の智慧に目覚めたならば問題に即した答が出るはずだという意味。


輪刀上陣: 白刃を車輪のように振り回して

軍陣の中に入って行く戦術。



 現代語訳:


五祖はある日全ての門人を呼び集めて言った、

全員ここに集まれ

私はひごろお前たちに説き聞かせていた

世の人々にとって生死の問題こそ最も重要である。しかし

お前たちは一日中供養ばかりして

ひたすら福徳を求めるだけで、人間の生死苦悩の問題を解決して

 三界の苦海を出離しようとはしていない

自己の本質を見失ってしまえば、真の幸福をどうして求めることができるだろうか

お前達はめいめい後院に行って、自分を見つめることだ

そして智慧をもって自らの本心である般若の本性をつかんで、各々一篇の偈を作り

私のところに提出しなさい

もし仏法の本質をつかみ悟った者がいたならば、その者に祖師伝来の袈裟を授け

第六代の祖師としよう

さっさと急いで行け。ぐずぐずしてはならない。思慮分別するならば役に立たないぞ

見性するほどの人は言下に気付かなければならない。そのような者ならば

輪刀上陣のような危機に際しても見ることができるはずだ。」



 解説とコメント:


五祖はある日門人達を呼び集めて、

生死の問題こそ最も重要であるのに、供養ばかりして

福徳を求めることばかりしている

人間の生死苦悩の問題を解決して三界を出離しようとはしていないのは問題だ

自己の本質を見失えば、真の幸福を求めることができない

お前達は、自分を見つめ、智慧をもって自らの本心である般若の本性をつかんで

一篇の偈を作り、私のところに提出しなさい

もし仏法の本質をつかみ悟った者がいたならば、その者に祖師伝来の袈裟を授け

第六代の祖師としよう。」

と言って

五祖門下の修行僧各自が、自分を見つめ、自らの本心(般若の本性)について、

一篇の偈を作り、五祖に提出するよう求めた。

もしその中に仏法の本質をつかみ悟った者がいたならば、その者を第六代の祖師とすると言った。



2.4

2.4  神秀の呈偈



原文

衆は処分を得、後院に来至りて互いに謂って曰く、

我等衆人は、心を澄まし意を用いて偈を作ることを須(もち)いず

将(もっ)て和尚に呈すとも、何の益する所か有らん

神秀上座は、現に教授師たり。必ずやこれ他(かれ)得ん

我輩(われら)みだりに偈頌を作るも、いたずらに心力を用うるのみ 」と。

諸人は語るを聞いて、各自に心を息(や)め、皆言う、

我等は以後、秀師に依止せん。何ぞ偈を作るを煩わさん」と。

神秀は思惟(おもえ)らく、「諸人の偈を呈せざるは

我れ他(かれ)らの与(ため)に教授師たるが為なり

我は須らく偈を作り、将(もっ)て和尚に呈すべし

もし偈を呈せずんば、和尚は如何が我が心中の見解の深浅を知らん

我が偈を呈する意は、法を求めれば即ち善なり、祖を覓(もと)めば即ち悪なり

却って凡心のその聖位を奪うと別(わか)つ無し。

もし偈を呈せずんば終(つい)に法を得ざらん。大難大難 」と。

五祖の堂前に歩廊三間あり。

供奉の盧珍に請いて、『楞伽経』の変相及び五祖血脈の図を画かしめて、

流伝供養せんと擬(はか)れり。

神秀は偈を作って成し已(おわ)り、数度呈せんと欲して堂前に行至(おもむ)くも、

心中恍惚として、遍身に汗流れ、呈せんと擬(ほっ)するも得ず。

前後四日を経て十三度まで、偈を呈し得ず。

秀乃ち思惟(おもえ)らく、「 如かず、廊下に向かって書き着けて

他(か)の和尚の看(よ)み見るに従(まか)せんには

もし好しと道(い)わば、即ち出でて頂礼し、これ秀が作なりと云わん

もし堪えずと道(い)わば、枉(むな)しく山中に向(あ)って

数年人の礼拝を受けしのみ、更に何の道をか修せん」と。

言い訖(お)わって、夜の三更に至り、人をして知らしめず、自ら燈燭を執り、

南廊中間の壁上に、無相偈を書き、心に見る所を呈す。

神秀の偈に曰く、


身は是れ菩提樹

心は明鏡の台のごとし

時時に勤めて払拭して

塵埃に染(けが)さしむること莫れ


秀は偈を書き了(おわ)り、便ち房に却帰(かえ)るに、人は総な知らず。

神秀思惟(おもえ)らく、

五祖、明日偈を見て歓喜せば、出でて和尚に見(まみ)えて、即ち秀が作なりと云わん

もしもし堪えずと言うわば、もとより我の迷えるにて、宿業の障り重く

まさに法を得べからざらん。聖意は測り難し」と。

 房中に思想して、坐臥安からず、直に五更に至る。



注:

処分:いいつけ、命令。


心を澄ます:禅定に入り心を接(おさ)めて内に澄ます。


神秀上座: 北宗禅の祖。生年不明。

久規年中(700年頃)則天武后の請を受け、

内道場(宮中に設けられた仏事を行う堂宇)で法要を説く。

706年100余歳の高齢で入寂と伝えられる。

弟子に普寂、義福、敬賢、恵福など俊秀がいた。

一時神秀の北宗禅は盛んであったが長くは続かず衰亡した。


教授師: 住持を助けて修行僧達を指導する僧。


供奉: 唐の官名。

一能一芸に秀でた者が、宮中で天子に侍ったのによる。


変相: 仏の本生譚や浄土の変現の様子を壁や絹布に描いたもの。

ここでは仏が『楞伽経』を説法する様子を描いた絵。


五祖血脈の図: 西天(インド)二十八祖と中国禅の初祖達磨から五祖弘忍

に至るまでの禅の伝法相承の系譜を図示したもの。

禅の思想、教外別伝を参照)。


無相偈: 坐禅中の空寂円明な無相の心境を読んだ偈。


三更:現在の午後11時または午前零時からの2時間をいう。

子(ね)の刻。


五更: 現在の午前4時から午前6時ころにあたる。寅(とら)の刻。



 現代語訳:

修行僧達は命令を受けると、房舎に引き下がって、お互いに言いあった。

我々一般の修行僧達は、心を清く澄ましわざわざ苦労して偈を作る必要はないだろう

それを和尚に提出したところで、何の役に立つだろう

神秀上座は、いま現に我々の教授師でおられるのだ

きっとあの方が衣法を得られるだろう。我々がみだりに偈頌を作ってみても

無駄に精力を費やすだけのことだ」と。

皆はそういう発言を聞いて、偈を作ることを断念してしまって言った、

我々は今後神秀師に頼ろう。何故我々がわざわざ苦労して

偈を作る必要があろうか」と。

神秀は考えた、「一般の修行僧達が偈を提出しないのは、私が彼等の教授師であるからだ

私は何とかして偈を作って和尚に提出しなければならない

もし偈を提出しなければ、和尚はどうして私の悟りの深さを知ることができるだろうか

私が偈を提出する心は、仏法を求めることは善であるが、六祖の地位を求めるのは悪である

かえって凡心のまま祖師の地位を盗むのと変わりない。かといって偈を提出しなければ

いつまでも仏法の真理を悟ることはできないだろう

困ったことだ。実に困ったことになった」と。

五祖の方丈にある御堂の前に三間の廊下があった。

そこに供奉の盧珍に頼んで、『楞伽経』の変相図と達磨以降五祖に至るまでの

歴代の祖師の法脈図を画いてもらって、末永く供養することになっていた。

神秀は偈が出来上がったので、何回も提出しようと思って五祖の方丈にある御堂の前に行ったが、

心が恍惚としてふらつき、全身から汗が吹き出て、提出することができなかった。

このようにして四日が経ち、十三回まで試みたが、偈を提出することができなかった。

そこで神秀は考えた、「いっそのこと、廊下の壁に書き付けて和尚の眼に留まるのにまかせよう

もし和尚がこれで好いと言った時には、すぐさま和尚の前に出て礼拝し

これは私が作った偈ですと云おう。もし、まだ不十分だと言われたならば

これまで数年空しくこの山で修行し、人々に尊敬されてきただけだ

このうえこの山で何で修行を続けておられようか」と。

このように考えると、夜の12時頃になってから、人に気付かれないように、

自分で燈火を持ち、南廊下の中央の壁に、無相偈を書き付け、自分の見解を示した。

神秀の偈は、


身は是れ菩提樹

心は明鏡の台のごとし

時時に勤めて払拭して

塵埃に染(けが)さしむること莫れ


である。

神秀は偈を書き終ると、すぐ自分の部屋に帰ったので、人は誰も気づかなかった。

神秀は考えた、「五祖が明日この偈を見て喜こんだなら、出て行って和尚にお目に罹り

これは私が作った偈です」と云おう。もしもまだ不十分だと言われたならば

もともと自分が悟っていないためで、前世の宿業が重い障害となって

未だ仏法の悟りを得ることができないのだろう。いずれにせよ五祖の心のうちは推察できない」と。 

房舎の中でいろいろ思おもいめぐらして悶々として過ごした。

坐っても横になっても落ち着かず、そのまま朝の4時頃になった。



解説とコメント:


修行僧達は呈偈の命令を受けると、我々一般の修行僧達は、

何も自分達がわざわざ苦労して偈を作る必要はないだろうと考えた。

自分達の教授師である神秀上座が衣法を得る人だと思われる。

自分達がみだりに偈頌を作ってみても、無駄に精力を費やすだけだと、

偈を作ることを断念してしまった。

一方、神秀は、

一般の修行僧達が偈を提出しないのは、私が彼等の教授師であるからだ

私は何とかして彼らの期待に応え、偈を作って和尚に提出しなければならない

もし偈を提出しなければ、和尚はどうして私の悟りの深さを知ることができるだろうか。」

と迷う。

神秀は偈が出来上がった偈を五祖に提出しようと五祖の方丈に行こうとするが、

心が恍惚としてふらつき、全身から汗が吹き出て、提出することができなかった。

今度こそ提出しようとするが、自信がないためかどうしても提出できない。

そうこうするうちに、四日も経ってしまった。

彼は十三回も提出しようとするが、五祖に直接提出することができなかった。

そこで神秀は廊下の壁に書き付けて和尚に見てもらおうと考えた。

神秀は夜中の12時頃に、こっそりと気付かれないように、自分で燈火を持ち、

南廊下の中央の壁に、無相偈を書き付け、自分の見解を示した。

ここには神秀が自分の無相偈を書き付けるに至るまでの内心の躊躇や葛藤が

実際に見て来たように詳しく描写されている。



2.5

2.5  神秀はいまだ門に入らず



原文

五祖即ち神秀の門に入ること未だ得ず、自性を見ざることを知る。

粥を喫し了れば便即(すなわ)ち天明なり。

五祖は方便して盧供奉を喚び来たり、南廊に向かって五代の血脈を画き、供養せんと擬(はか)る。

五祖忽ちその偈を見て供奉に報じて言う、

却って画かず。すなわち十千を奉じて、供奉の遠来を労(ねぎら)う

『金剛経』に云う、『凡そ所有(あらゆる)相は皆これ虚妄なり』と。

如かず、この偈を留めて、迷える人をして誦せしめんには

この偈に依って修せば、三悪道に堕つることを免れ

これに依って修行する人はおおいに利益あらん」と。

五祖は門人を喚び、偈の前に焼香して、凡人をして見て軽重の心を生ぜしむらく、

汝等尽くこれを誦すべし

この偈を悟る者は、即ち見性することを得ん

これに依って修行せば、必ず堕落せざらん」と。

門人尽くこれを誦し、皆な「善い哉(かな)」と歎ず。

五祖は三更に秀を喚び、堂に入れて問う、「これ汝がこの偈を作れるや

もしこれ汝が作らば、まさに吾が法を得べし」と。

秀言う、「罪過、実にこれ秀の作なるも、また祖位を求めず

望むらくは、和尚慈悲もて弟子の心中に少しき智慧有りやを看たまえ」と。

五祖言う、「汝はこの偈を作るも、いまだ本性を見ず

只だ門上に到るのみにして、いまだ門内にはいらず

凡愚はこれに依って修行せば、即ち堕落せざるも

かくの如く見解して無上菩提を覓むとも、即ち得べからず

無上菩提は、須ら(すべから)く言下に自らの本心を識り

自らの本心の不生不滅なるを見ることを得て、一切時中に於いて念々自ずから

万法は滞ることなく一真一切真にして、万境は自ずから如

如如の心は即ちこれ真実なることを見るべし

もし、かくの如く見れば、即ちこれ無上菩提の自性なり」と。

五祖言う、「汝は且く去れ、一両日思惟して、更に一偈を作り将(ち)ち来れ

吾は汝の偈を看て、もし門に入り得、自らの本性を見ば、汝に衣法を付(あた)えん

吾は法を惜しまず、汝の見自ら遅(にぶ)きのみ。」

神秀は礼を作して便ち出で、又た数日を経るも偈を作り成さず。

心中恍惚として、神思安からざること猶お夢中の如く、行坐楽しまず。



注:


『金剛経』に云う、: 仏、須菩提に告げたもう、およそあらゆる相は皆これ虚妄なり

もし、諸相は相にあらずと見る時は、すなわち如来を見る。」

この経文は中村元、紀野一義訳注、岩波文庫 金剛般若経に見られる。

五祖がこの経文をわざわざ引用したことから、五祖は『金剛経』を重視したことが分かる。

五祖以前の禅では諸祖菩提達磨が重視した『楞伽経』を重視したと考えられている。


三悪道: 地獄・餓鬼・畜生の世界。


罪過: 謙遜の言葉。お許しください。


自らの本心を識り: 「修心要論」に「もしよく自ら本心を識り

念念磨練する者は念念中に於いて、常に十方恒沙諸仏十二部経典を供養し

念念常に法輪を転ず」とある。


自らの本心の不生不滅なるを見る:「修心要論」にいう。

「何ぞ自心本来不生不滅なるを知る。答えて曰、『維摩経』に云く、

『如は生有ること無し、如は滅有ること無し、如は真如たり。

仏性・自性清浄心の源たり。真如は本より有り。縁に従って生ぜず。』と。


一切時中に於いて: どんな時にも。


一真一切真: 「信心銘」の「一即一切、一切即一」

と同じ意味だと考えられるが、特に真の意義を強調している。

「信心銘」第16文段を参照)。


万境は自ずから如: 物心のすべてにわたり、あらゆる認識や価値判断の

対象となるものがありのままに受け取られること。心・境一如や諸法実相と同じ意味。

「信心銘」第11文段を参照)。


如如の心: 如如は真如と同じ意味。

「金剛経」にいう如如不動の心。仏性・自性清浄心と同じ

だと考えても良いと考えられる。



 現代語訳:


五祖はすでに神秀が仏法悟りの関門に入ることができず、見性していないことを知っていた。

朝の粥坐が終わると直ぐ夜が明けた。

五祖は事のついで供奉の盧珍を呼び出し、南廊下の壁面に達磨大師から五祖(弘忍)

まで五代の嗣法の系図を画かせて、供養しようとした。

五祖はふと神秀の偈に目を留めると、供奉に告げて言った、

もう五代の嗣法図は画かないことにした

ついては供奉に一万銭を進呈して、遠来の労(ねぎら)うことにしよう

『金剛経』に云う、『凡そ所有(あらゆる)相は皆これ虚妄なり』とある

この偈をここに残しておき、迷える人に読ませるにこしたことはない

この偈に従って修行すれば、三悪道に堕ちることを免れるだろう

この偈によって修行する人はおおいに利益を受けるだろう」と。

五祖は門人達を呼んで、偈の前で焼香した。

凡人達にこの偈を読んで尊重するように、

お前達は皆この偈を唱えなさい

この偈の精神を悟る者は、即座に見性することができるだろう

またこの偈によって修行するならば、決して堕落することはないだろう。」

と言った。

門人達は皆この偈を唱え、

すばらしい

と感嘆した。

五祖は深夜に神秀呼び、

自分の居室に入れて問うた、

お前がこの偈を作ったのか

もしお前がこの偈を作ったのならば、私の仏法の真髄(禅の本質)分かっているはずだが」と。

神秀は言った、「お許しください。まことに私の作ですが、祖師の位が欲しいのではありません

どうか和尚さま、慈悲の心で、私の心の中に少しでも智慧が有るかどうか見て下さい」と。

五祖は言った、「お前がこの偈を作ったと言うが、とてもまだ自己の本性を見ていない

ただ門前に至っただけで、まだ門内には入っていない

ただ凡愚の者はこの偈に従って修行するならば、堕落しないだろう

しかし、かのような考えで最高の悟りを求めても、得ることはできないだろう

最高の悟りは、必ず言下に自己本来の心に目覚め、それが不生不滅であることが分かって

どんな時でも一念一念に、万法は滞ることなく、一が一切の真実であり

あらゆる対象は自ずからありのままである

このありのままの心が真実であることを見るべきだ

もし、このように見れば、これぞまさしく無上の悟りの本性である」と。

五祖は言った、「お前はひとまず引き下がりなさい

そして、一、二日考えて、もう一つ偈を作り持ってきなさい

私はその偈を見て、もし教えの真意に適い、自己の本性を見届けたものならば

お前に伝法の印として袈裟を与えよう

私は法を惜しんでいるのではない。お前の見解がまだ未熟なだけだ。」

神秀は礼拝をして退出した。

それから数日経っても偈を作ることできなかった。

心中はぼーっとして、安らぐことなく、まるで夢の中のようで、歩いても坐っても楽しくなかった。



解説とコメント:


五祖は神秀が仏法悟りの関門に入ることができず、見性していないことをすでに知っていた。

五祖はふと神秀の偈に目を留めると、「この偈をここに残しておき

迷える人に読ませると良い

この偈に従って修行すれば、三悪道に堕ちることを免れ、おおいに利益を受けるだろう

と言いう。

五祖は門人達を呼んで、偈の前で焼香し、

お前達は皆この偈を唱えなさい

この偈の精神を悟る者は、即座に見性することができるだろう

またこの偈によって修行するならば、決して堕落することはないだろう。」

と言う。

門人達は五祖が本当に神秀の偈を褒めていると思い、

皆神秀の偈を唱え、「すばらしい!」と感嘆した。

五祖は深夜に神秀呼び、「お前がこの偈を作ったと言うが、まだ自己の本性を悟っていない

ただ門前に至っただけで、まだ門内には入っていない

また、凡愚の者はこの偈に従って修行するならば、堕落しないだろう

しかし、かのような考えで最高の悟りを求めても、得ることはできない

お前はひとまず引き下がり、一、二日考えて、もう一つ偈を作り持ってきなさい

私はその偈を見て、もし教えの真意に適い、自己の本性を見届けたものならば

お前に伝法の印として袈裟を与えよう

私は法を惜しんでいるのではない。お前の見解がまだ未熟なだけだ。」

と言う。

神秀は五祖のところを退出し、もう一つ偈を作ろうとするが、数日経っても作ることできなかった。

神秀に対する五祖の言葉「お前はひとまず引き下がり

一、二日考えて、もう一つ偈を作り持ってきなさい

私はその偈を見て、もし教えの真意に適い、自己の本性を見届けたものならば

お前に伝法の印として袈裟を与えよう。」には

弟子神秀に対する思いやりと優しさが溢れている。



2.6

2.6 慧能の偈 



原文

復(ま)た両日を経て、一童子有りて碓坊を過(よぎ)り、その偈を唱え誦す。

慧能は一たび聞くや更ちこの偈の未だ本性を見ざることを知る。

慧能は未だ教授を蒙(こうむ)らざるも、早(つと)に大意を識(し)る。

遂に童子に問うて言う、「誦するはこれ何の偈ぞ?」

童子言う、「尓(なんじ)このカツリョウ(かつりょう)は知らずや

大師言う、『世人は生死事大なり、法衣を伝付せんと欲得(ほっ)して

門人をして偈を作り来たらしめて看んとす

もし大意を悟らば、法衣を付(さず)けて第六祖と為さん』と

神秀上座は、南廊の壁上に、無相偈を書く

五祖、門人をして尽くこの偈を誦せしむらく、『もし悟りを得る者は

即ち自性を見て成仏す。これによって修行せば、即ち堕落せず』と」。

慧能言う、「上人よ、我はここに在りて碓を踏むこと八箇余月

未だ會(かっ)て堂前に行到(おもむ)かず

望むらくは、上人引(みちび)いて、偈の前に至って礼拝し

またこれを誦して来生の縁を結んで、同じく仏地に生ぜんことを要(もと)む。」

童子便ち慧能を引いて南廊に到って、偈頌を礼拝せしむ。

字を識らざるが為に、一上人の為に読まんことを請う。

もしこれを聞くことを得ば、願わくは仏会に生ぜん」と。

時に江州の別駕にて姓は張、名は日用というもの有りて便ち声高に読む。

慧能一聞して即ち大意を識(し)る。

因って自ら言う、「また一偈あり、望むらくは別駕壁上に書かんことを。」

別駕言う、「カツリョウ(かつりょう)よ、汝もまた偈を作るや。その事希有なり」と。

慧能別駕に啓(もう)して言う、「もし、無上菩提を学ばば

初学を軽んずることを得ざれ

俗諺に云う、『下下の人に上上の智有り、上上の人に没意(もつい)の智あり』と

もし、人を転んぜば、即ち無料無辺の罪に有らん。」

張日用言う、「汝ただ偈を誦せよ。吾れ汝の為に壁上に書かん

汝もし法を得ば、先ず須ら(すべから)く吾れを度すべし

この言を忘るること勿れ」と。

慧能の偈に云う、

菩提は本より樹無し

明鏡も亦た台に非ず

本来無一物(むいちもつ)

 何(いず)れの処にか塵埃有らん

この偈を説き已(おわ)るに、僧俗総て驚き、

山中の徒衆嗟訝(さが)せざるはなし。

各々相い謂いて言う、

奇なるかな、貌(かたち)を以て人を取ることを得ず

何ぞ多時に他(か)の肉身の菩薩を使うことを得たる」と。

五祖は、衆人の尽く怪しむを見て、人の他を損じて向後(こうご)人の法を

伝うるもの無からんことを恐れ、遂に便ち混破して、衆人に向かって言う、

この偈も未だ見性せず。云何ぞ讃歎せん」と。

衆便ち心を息め、皆未了なりと言いて、各自に房に帰り、更に讃歎せず。



注:


童子: まだ剃髪具戒せず、寺院に入り、仏典を読み、修行を習う年少の修行者。


碓坊: 米搗(つ)き部屋。


大意: 根本義。仏法の綱宗。


仏地: 仏の位。仏の境涯。


仏会:ブッダの説法の会座。浄土。


江州: 湖北省武昌県。


別駕: 漢代に始まる官名。刺史が各地を巡視する時の補佐官。

刺史とは別の車に乗るので別駕という。


下下の人: 最低の人。


上上の: 最上の。


上上の人: 最上の人。


没意(もつい)の智: 智慧の盲点。


無料無辺の罪: はかり知れない罪。


嗟訝(さが): 怪しみ疑うこと。


混破: ごまかしたり、あいまいな処置をすること。



 現代語訳:


また二日経って、寺にいた一童子が米搗き部屋に立ちよって、その偈を唱えた。

慧能は一度聞くとすぐこの偈はまだ自己の本性を悟ったものではないと知った。

慧能は未だ教授を受けてはいなかったけれども、その本質的な意味が分かった。

そこで童子に尋ねた、「いま唱えていたのは一体何の偈ですか?」

童子は言った、「お前はカツリョウ(かつりょう)であるから知るまいが、大師は言われた

『人はだれでも生死の事が重大事である、私は付法のために

弟子達に偈を作らせてみよう。もし禅の本質が分かっているならば

袈裟と法をさずけて第六祖としよう』と

それで神秀上座は、南廊下の壁に、無相偈を書かれたのだ

五祖は、弟子達皆にこの偈を唱えさせ、『もし悟ることができる者は

即座に自己の本性を見届けて成仏する。この偈によって修行するならば、堕落することはない』

と言われたのだ。」

慧能は言った、「先輩、私はこの碓房にいて碓を踏むこと八カ月あまりになります

私は未だ五祖のおられる堂前に行ったことはありません。どうか先輩案内して

偈の前に連れて行って拝ませて下さい

私もこの偈を唱えて来世の縁を結んで、同じく仏の境涯に生れたいのです。」

童子は慧能を案内して南廊に連れて行き、偈頌を拝ませた。

慧能は字を知らないので、誰か先輩に読んでもらおうと思い、

もしこれを聞くことができたら、できることなら仏の説法の会座に生れたいものです」と申し出た。

その時江州の別駕で姓は張、名は日用という人が直ちに大声で読んでくれた。

慧能は一度聞くと直ぐその意味が分かった。そこで自分から言った、

私にも一篇の偈があります。どうか、別駕様 壁に書いてくださらないでしょうか。」

別駕は言った、「カツリョウ(かつりょう)よ、お前も偈を作るのか。それは珍しい」。

慧能は別駕に言った、「もし、無上の悟りの智慧を学ぶ人ならば、初学者を

あなどっていけません。世間の諺にも申します

『最低の人に最上の智慧が有り、最上の人にも智慧の盲点がある』と

もし、人をあなどったりすると、たちまちはかり知れない罪が有りますよ。」

張日用は言う、「とにかく偈を唱えて下さい

私は貴男の為に壁に書きましょう

貴男がもし法を成就した時には、先ず第一に私を済度して下さい

この言葉を忘れてはなりませんぞ」と。

慧能の偈はこうである。

菩提は本より樹無し

明鏡も亦た台に非ず

本来無一物(むいちもつ)

 何(いず)れの処にか塵埃有らん

この偈を説き終ると、僧も在家も皆驚き、山中の徒衆は感心し驚かない者はなかった。

各々が語って言うに、「不思議なことだ、姿や貌(かたち)で人を判断することはできない

よくもまあ長い間他あの肉身の菩薩をこき使ってきたものだ」と。

五祖は、大衆が皆不思議がっているのを見て、誰かが慧能を殺して今後法を

伝えるべき人がいなくなるのを恐れ、

ごまかして、大衆に向かって言った、

この偈も未だ本来の自己を見ていない。それをどうして讃歎するのか」と。

そこで弟子達は諦めて、皆「この偈もまだ完全なものではないんだ」と言って、

各自部屋に帰り、もう誰も讃歎しなかった。



解説とコメント:


慧能は、寺にいた一童子が神秀の偈を唱えるのを聞いた。

彼は一度聞くとすぐこの偈はまだ自己の未だ自己の本性を悟ったものではないと分かった。

慧能は張日用という人に、

私にも一篇の偈があります。どうか、 壁に書いてくださらないでしょうか。」

と願って、偈を書いて貰った。

僧も在家もこの偈を読むと、

不思議なことだ、姿や貌(かたち)で

人を判断することはできない

よくもまあ長い間、あの肉身の菩薩をこき使ってきたものだ

と感心し驚いた。

五祖は、大衆が皆不思議がっているのを見て、

誰かが慧能を殺して今後法を伝えるべき人がいなくなるのを恐れ、

ごまかして、大衆に向かって、

この偈も未だ本来の自己を見ていない。それをどうして讃歎するのか

と言う。

そこで弟子達は皆諦めて、

この偈もまだ完全なものではないんだ

と言って、

もう誰も讃歎しなくなった。


五祖は慧能の偈を読むと直ちに、それが悟りの核心をついた優れた偈であることがすぐ分かった。

しかし、それを明言すると慧能の身が危うくなると考え、

この偈も未だ本来の自己を見ていない。」と本心と逆のことを言って

慧能の身を危険から守ろうとする。

ここには五祖の慧能に対する深い配慮と優しさが感じられる。



2.6.1

2.6.1 神秀と慧能の偈の比較 



ここで改めて神秀と慧能の偈についてその意味を比較評価してみよう。

神秀の偈は、


身は是れ菩提樹

心は明鏡の台のごとし

時時に勤めて払拭して

塵埃に染(けが)さしむること莫れ


である。

その意味は

「身体は菩提(悟り)の樹のようだ。心は明るく光る鏡の台のようである。

いつもきれいに磨き上げ、塵や埃で曇らせてはならない。」である。

これを読んだ五祖は知った、

「神秀は未だ悟りの門に入っていないし見性もしていない」と。

五祖が出した課題は

「智慧をもって自らの本心である般若の本性をつかんで、各々一篇の偈を作り、私のところに提出しなさい。」

である。

しかし、神秀の偈はこの五祖の課題に正面から答えていない。

「身体は菩提(悟り)の樹、心は明るく光る鏡の台のようだと比喩的で表面的な表現に終わっている。

また「いつもきれいに磨き上げ、塵や埃で曇らせてはならない。」と

修行の心得を歌っているだけである。

これを読んだ五祖は知った、「神秀は未だ悟りの門に入っていないし、

見性もしていない」と。

これに対し慧能の偈は次のようである。

菩提は本より樹無し

明鏡も亦た台に非ず

本来無一物(むいちもつ)

 何(いず)れの処にか塵埃有らん


その意味するところは、

「菩提(悟り)にはもともと樹など無い。

澄んだ心もまた台ではない。本来からりとして何もない。

どこに塵や埃があろうか。」

である。

慧能の偈は神秀の偈の第一句と第二句を否定するとともに

第三句と第四句において五祖の課題である「般若(悟りの智慧)の本性」を

本来無一物」として悟って表現していることが分かる。

それを五祖弘忍は高く評価して中国禅の六祖に選んだのである。

慧能の「本来無一物」の「」の思想は

無念、無想、無住」の教えとなって六祖壇経で説かれている。

六祖壇経・2の 3.5を参照)。

慧能の「」の思想は我が国の白隠禅師の「坐禅和賛」においても

自性すなわち無性にて・・、無相の相を相として・・・、無念の念を念として、・・・」などとして出ている。

白隠禅師の「坐禅和賛」を参照)。

坐禅中には下層脳(脳幹+大脳辺縁系)が活性化され下層脳優勢の状態になる。

禅と脳科学・1を参照)。

下層脳(脳幹+大脳辺縁系)は無意識脳である。

坐禅修行に集中した慧能は坐禅中に無意識脳である下層脳のを見た。

それが「本来無一物」という言葉になって慧能の偈に出てきたと言えるのではないだろうか。

本来無一物はブッダの五蘊無我の悟りの中心である無我とも関連があると考えられる。

ブッダの無我の思想を参照)。



2.7

2.7 慧能受法し第六代の祖となる 



原文

五祖は夜の三更に至って、慧能を堂内に喚び、袈裟を以て遮り囲み、

人をして見せしめず、慧能の為に、『金剛経』を説く。

あたかも、「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」に至るや、

言下に便ち一切万法は自性を離れざることを悟る。

慧能は和尚に啓(もう)して言う、「何ぞ期せん、自性は本自(もとよ)り清浄なることを

何ぞ期せん、自性は本より生滅せざることを

何ぞ期せん、自性は本より具足せることを

何ぞ期せん、自性は本より動揺なく、能(よ)く万法を生ずることを。」

五祖は、本性を悟れることを知り、乃(すなわ)ち慧能に報げて言う、

本心を識(し)らずんば、法を学ぶも益無し

もし言下に自らの本心を識(し)り、自らの本性を見れば、即ち丈夫、天人師・仏と名づく」と。

三更に法を受く、人は尽く知らず。便ち頓教及び衣鉢を伝えて云う、

汝を第六代の祖と為す。善く自ら護念して、広く迷人を度せよ

衣は信のために稟(う)け、代々相承す

法は即ち心を以て心に伝えて、皆な自ら悟り、自ら解(さと)らしむ

古えより仏と仏と唯だ本体を伝え

師と師と黙して本心を付(さず)けしを、汝をして自ら見、自ら悟らしむ。」

五祖言う、 「古えより法を伝うるものは、命、懸絲に似たり

もしここに住(とど)まらば、人の汝を害すること有らん

汝は須らく速(すみや)かに去るべし。」

慧能言う、「本これ南中の人なり。久しくこの山路を知らず

如何が江口に出で得ん」。

五祖言う、「汝憂うることを須(もち)いず、吾れ自ら汝を送らん。」



注:


袈裟を以て遮り囲む: ブッダが多子塔の前で摩訶迦葉に分座付法した時、

袈裟で部屋を囲んだという故事による(『宗門統要続集』第一)。

禅宗に於いて、インドでは、

ブッダ→摩訶迦葉→阿難→ ・・・般若多羅尊者(27祖)→菩提達磨(28祖)

へ至る西天28祖による伝法があったとする。

しかし、このような事実は原始仏典には見られないことから、

中国において創作された神話(虚構)だと思われる。

ブッダが摩訶迦葉に付法したという事実もない。

これも中国において創作された神話だと思われる。

禅の思想を参照)。


「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」: 『金剛般若経』中の経文。

慧能はこの経文を聞いて大悟したと伝えられる。

 「応(まさ)に住する所なくして、その心を生すべし」と読む。

その意味は、「一處に留まり住することがない自由な心になれば

何物にも執着することなく心が自由に働く」という意味。

無執着の心行。無念無心の自由なはたらきを表す経文である。


丈夫、天人師・仏: 如来の十号の内の代表的なもの

如来の十号と32相を参照)。


衣鉢: 三衣と鉢。三衣と鉢は僧の持ち物で最も大切なものとされる。

衣鉢の授受は禅家で法の授受を意味するようになる。「六祖壇経」は

この思想の原型となる。


自ら護念: 護念は、仏・菩薩・天等が修行者を護持して

障害のないように守護すること。

それを自分で注意して障害のないように努力すべしと言っている。


心を以て心に伝えて: 以心伝心。

文字や言葉を使わなくても、お互いの心と心で通じ合うこと。

言葉や文字で表さすことのできない仏法の神髄を、

心から心に伝えることを意味する。


古えより法を伝うるものは、命、懸絲に似たり。: 昔から法を受け継いだ者は、

絹糸につるされたようにその身が危ない。



 現代語訳:


五祖は深夜になって、慧能を堂内に呼んだ。袈裟で遮り囲み、

人に見せないようにして、慧能の為に、『金剛経』を説いた。

あたかも、「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)

というところにくると、慧能は言下に一切万法は自性を離れないことを悟った。

慧能は五祖に言った、「和尚様!なんとまあ、自性は本来清浄なることか

なんとまあ、自性は本来生滅はないとは

なんとまあ、自性は我々に本来具わっているとは

なんとまあ、自性は本来微動もせず、あらゆる現象を生んでいるとは!」

五祖は、慧能が本性を悟ったことを知った。そこで、慧能に告げて言った、

自己の本心を悟らなければ、いくら仏法を学んでも役に立たない

もし言下に自己の本心を悟り、本性を見れば、そのまま丈夫、天人師・仏となるのだ」と。

こうして慧能は深夜に五祖から受法したが、そのことを誰も知らなかった。

五祖は頓悟の教えと衣鉢を伝えて云った、

汝を第六代の祖とする。自分の心を護念して、広く迷える人々を救いなさい

袈裟はそのために受けるのであり、達磨大師以来代々相承してきたものである

法は心から心に伝えるもので、誰もが自ら悟り、自ら納得してきたものである

昔から仏から仏へと唯だ自己の本体を伝え

師から師へ暗黙のうちにさずけた本心を

お前自身が見、自分で悟るようにしたのだ。」

五祖はまた言った、

昔から法を受け継いだ者は、命、絹糸につるされたようにその身が危ない

もしここに住(とど)まっていると、誰かがお前の命を害するかも知れない

お前はすぐここから出て行ったほうがよいだろう。」

慧能は言った、「私は本来南方の出身で。もともとここの山路には不案内です

どうしたら九江のほとりに出でられましょうか?」

五祖は言った、「お前は心配することはない。わしが自分でお前を送ろう。」



解説とコメント:


ここでは五祖は、慧能が本性を悟ったことを知り、慧能に告げて言った言葉、

自己の本心を悟らなければ、いくら仏法を学んでも役に立たない

もし言下に自己の本心を悟り、本性を見れば

そのまま丈夫、天人師・仏となるのだ」が印象的である。

五祖は「自己の本心である自性を悟らなければ、いくら仏法を学んでも役に立たない

もし言下に自性を悟り、見れば、そのまま丈夫、天人師・仏となる。」

と考えていたことが分かる。

自性を見て悟ることは見性である。

慧能は「六祖壇経」に於いて、「自性と見性」を重視し強調している。

その原点は五祖が慧能に告げて言った言葉、「自己の本心を悟らなければ

いくら仏法を学んでも役に立たない

もし言下に自己の本心を悟り、本性を見れば、そのまま丈夫、天人師・仏となるのだ

にあることが分かる。

禅では「己事究明」を重視する。その原点もこの五祖の言葉にあると言えるだろう。




2.7-1

『楞伽経』から『金剛経』を中心とする禅へ 




以上のの受法物語でも分かるように、

慧能は、五祖が『金剛経』の「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」

という経文を説いた時に、言下に悟った。

このことは、慧能の禅は『金剛経』を中心とする禅であることを示唆している。

2.5「神秀はいまだ門に入らず」において五祖は

『金剛経』に云う、『凡そ所有(あらゆる)相は皆これ虚妄なり』とある

と『金剛経』の経文を引用して説法している。

2.5「神秀はいまだ門に入らず」を参照)。

因みに菩提達磨が中国にもたらした禅は『楞伽経』に基づいた禅だとされている。

一般的に、『楞伽経』に基づいた禅

五祖弘忍から六祖慧能に至る時点で、『金剛経』を中心とする禅になったと言われている

しかし、慧能の悟りの契機となった『金剛経』の

応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」を

『金剛経』から引用して慧能に説いたのは五祖である。

鈴木大拙博士は著書「禅とは何か」において、菩提達磨以来、

『楞伽経』に基づいた禅が五祖から六祖に至る時点で、『金剛経』を中心とする禅になった。

その理由として、

『金剛経』は『楞伽経』に比べると文章が短く、分かり易い。

これに対し、『楞伽経』は中国人にとっても文句が難しく、

読みにくかったので、『金剛経』に代わったのではないかと推論されている。

しかし上述の議論より五祖弘忍は既に『金剛経』を重視し、

『金剛経』を中心とする禅を説いていたことが分かる。

『楞伽経』に基づいた禅が五祖から六祖に至る時点で、『金剛経』を中心とする禅になったことは確かであろうが、

その原点は五祖弘忍にあることを認識し

五祖弘忍の『金剛経』を中心とする禅への寄与を重視すべきであると考えられる。



2.8

2.8 慧能、五祖に送られて南方に向かう



原文

その時衣鉢を領得し、三更に便ち発ちて南に帰る。

五祖は相い送り、直に九江駅の辺に至る。

一隻の船子あり。五祖は慧能をして船に上らしめ、五祖櫓を把りて自ら揺(うご)かす。

慧能言う、「請う、和尚は坐したまえ。弟子合(まさ)に櫓を揺(うご)かすべし。」

五祖は言う、「只だ合(まさ)にこれ吾れ汝を度(わた)すべし

汝却って吾れを度(わた)すべからず。この処(さだめ)有ることなし。」

慧能言う、「弟子の迷える時は、和尚須(すべか)らず度(わた)すべし

今は吾れ悟る、江を過(よぎ)り櫓を揺(うご)かすして

合(まさ)に弟子之(これ)を度(わた)すべし

度の名は一と雖も、用処は同じからず

慧能は辺方に生まれて、語また正しからざるも、師の教育付法を蒙りて

今はすでに悟ることを得たれば、即ち合(まさ)に自性もて自ら度すべし」と。

五祖言う、「如是、如是、ただこの見に依れ。以後仏法は大いに行われん

汝去って後一年せば、吾れは、即ち前(さき)だちて逝(ゆ)かん。」

五祖言う、「汝は今好く去け、努力して南に向かえよ。五年は説くこと勿れ

仏法の難起こらん。已後は行化し、好く迷える人を誘(いざな)え

もし心開くことを得ば、吾れと別(こと)なること無し。」

辞違(すで)に了(おわ)り、便ち発ちて南に向かう。



注:


九江駅: 江蘇省九江郡に所在する宿場。ここでは船着き馬。五祖が住した

黄梅山から揚子江を隔てて対岸にある。


自性もて自ら度すべし: 自己の本性を徹見することにより、

生死の苦海を渡り、涅槃(悟り)の彼岸に至ること。


汝去って後一年せば、吾れは、即ち前(さき)だちて逝(ゆ)かん。: 

慧能が受法した時を、咸享四年(AD673)、慧能36才の時とすると、

五祖は翌年咸享五年(AD674)に示寂したことになる。

実際、五祖は咸享五年(AD674)に示寂したのでつじつまは合っている。


五年は説くこと勿れ。: 慧能が受法した時を、

咸享四年(673、慧能36才の時)とし、それから五年間は説法しなかったとすると、

慧能が世に出て説法を開始するのは儀凰三年(678)頃と推定される。

慧能41才の時と考えられる。

仏法の難起こらん。: 仏法を速やかに説けば、難が起こらん

と読む説もある。




 現代語訳:

その時慧能は五祖から衣鉢を拝領し、真夜中にただちに出発して南方に帰った。

五祖は慧能を送り、そのまま九江の宿場の辺に来た。

そこに一隻の船があった。五祖は慧能を船に乗せ、自身で櫓を取って漕いだ。

慧能は言った、「どうか、和尚様は坐ってください。私が漕ぎましょう。」

五祖は言った、「ここでは私がお前を渡そう

お前が私を度(わた)すべきではない。そんなきまりはないのだ。」

慧能は言った、「弟子の私が迷っている時は、和尚様が私を度(わた)すべきかも知れません

しかし、今では私は悟りました。河を渡るために私が櫓を漕いで

合(まさ)に弟子の私が渡すのが当然のことです

度という言葉は同じですが、その使い方は同じではありません

慧能は田舎の生まれで、言葉使いも正しくないかもしれませんが、師のご教育と伝法のお陰で

今はもう悟ることができました

まさに自性をもって、自ら渡るべきでございます」と。

五祖は言った、「そうだ、そうだ、お前の言う通り、ただ自性自度の精神に依れ

今後仏法は大いに行われるだろう

お前が去って後一年後くらいに、私は、お前に先だって遷化するだろう。」

五祖言った、「ではさようなら。お前は元気で南に方に行きなさい

そして、五年間は説法してはならない

仏法の法難が起こるだろう。その後、教化して、迷える人をよく導きなさい

もし心を開くことができれば、私と少しも違いはないのだ」。

慧能は五祖に別れの挨拶を終わると、そのまま出発して南の方に向かった。



解説とコメント:


慧能は五祖から衣鉢を拝領し、受法した後、真夜中に故郷である南方に向かって出発した。

五祖はわざわざ、慧能を九江の宿場まで見送って来た。

五祖はそこにあった一隻の船に慧能を乗せ、自身で櫓を取って漕いだ。

慧能は恐縮して、「私が漕ぐので、和尚様はどうか、坐ってください。」と言うが、

五祖は「ここでは私がお前を渡そう。お前が私を度(わた)すべきではない

そんなきまりはないのだ。」と言って船を漕ぎ続ける。

ここには慧能の身を案じる五祖の優しさと暖かい配慮があふれている。

慧能は「自分は田舎の生まれで、言葉使いも正しくないかもしれませんが

師のご教育と伝法のお陰で、今はもう悟ることができました

まさに自性をもって、自ら渡るべきでございます。」と言うと、

五祖は「そうだ、そうだ、お前の言う通り、ただ自性自度の精神に依れ。」

と答える。

この会話に出て来る「自性自度の精神」という言葉が特に印象的である。

自性自度の精神」こそブッダの「自帰依」に始まる

仏教の根源的精神だと考えられるからである。

その意味で慧能の南宗禅はブッダが説いた自帰依への回帰と言える。

ブッダの「自帰依」については原始仏教2を参照)。



2.9

2.9 大ユ嶺で恵明に伝法する 



原文

両月中間で大ユ嶺に到る。

知らず、後を逐(お)う数百の人の来たり趁(お)い、

衣を奪い法を取らんと欲せしも、半路まで来たり至(およ)んで、

尽く総て却(しりぞ)き廻(かえ)るを。

唯だ一僧あり、俗姓は陳、名は恵明、

先はこれ四品の将軍にして性行麁悪(そあく)なるが、直に大ユ嶺頭に至り、慧能に趁(お)い及ぶ。

便ち衣鉢を還すも、又取ること肯(がえ)んぜずして、

我は法を求めんと欲す。その衣を要(もと)めず。」と言う。

慧能即ち嶺頭に於いて、便ち正法を伝う。恵明法を聞いて、言下に心開けたり。

祖は明に謂って曰く、

善を思わず、悪を思わず、正に与麼(よも)の時、如何なるか是れ上座本来の面目?」と。

明大悟す。

慧能は却って北に向かって人を接(むか)えしむ。



注:


大ユ嶺(だいゆれい): 中国、江西省と広東省との境にある山。

唐代に張九齢が梅を植えて梅嶺と名づけ、名所となった。

ターユイリン。


四品: 品は官の階級。九品の第四。


麁悪(そあく): 荒っぽく、悪いこと。


善を思わず、悪を思わず、: この部分は無門関23則の採用されている。

 善悪などあらゆる対立的分別意識を離れ、妄想を捨て、

無我無心になり切ったところを指す。

無門関23則を参照)。


 正に与麼(よも)の時、: 正しく、そうなった時。

あらゆる対立的分別意識を離れ、

妄想を捨て、無我無心になり切った時。


本来の面目: 本来の自己。真の自己。喜怒哀楽の情動を越えた本来の自己。

 坐禅修行によって健康になった下層脳(=脳幹+大脳辺縁系)を中心とする脳。

ホームページ「禅と悟り」、とくに第8章を参照)。



 現代語訳:


およそ2カ月ほどで大ユ嶺に到着した。

実は慧能は知らなかったのだが、彼の後を追う数百の人がいて、

慧能が五祖から伝えられた衣鉢を奪おうとしていた。

しかし、彼等は途中まで来て、全部引き返したのだった。

唯だ一人、俗姓は陳、名は恵明という僧が慧能を追った。

彼の先祖は四品の将軍で性行は麁悪(そあく)であった。

恵明は、真っ直ぐに大ユ嶺の頂上まで来て、慧能に追いついた。

慧能は恵明に衣鉢を返そうとしたが、恵明は受け取ること承知しなかった。

恵明は言った、「私は法を求めているのです。袈裟なんか要りません。」と言った。

慧能は嶺の上で恵明に正法を伝えた。恵明は法を聞いて、言下に心開けて悟ることができた。

六祖は恵明に言った、「善も思わず、悪も思わない、ちょうどその時

どのようなものがお前の本来の面目なのか?」。

恵明は大悟した。

慧能は彼に北の方に行って人々を教化させることにした。



解説とコメント:


慧能は2カ月ほどで大ユ嶺に到着した。

実は慧能は知らなかったのだが、彼の後を追う数百の人がいて、

慧能が五祖から伝えられた衣鉢を奪おうとしていた。

しかし、彼等は途中まで来て、追うのを諦めて全部引き返したのだった。

唯だ一人、陳恵明という僧が慧能を追った。

恵明は、大ユ嶺の頂上まで来て、慧能に追いついた。

慧能は彼に衣鉢を返そうとしたが、恵明の方は受け取ろうとしなかった。

恵明は言った、「私は法を求めているのです。袈裟なんか要りません。」と言った。

慧能は嶺の上で恵明に正法を伝えた。

恵明は法を聞いて、言下に心開けて悟ることができた。

六祖は恵明に、「善も思わず、悪も思わない、ちょうどその時

どのようなものがお前の本来の面目なのか?」と聞いた。

この言葉を聞いて恵明は大悟した。

慧能と恵明のこの会話は非常に有名で、「無門関」第23則の採用されている。

「無門関」第23則を参照)。



2.10

2.10  印宗法師に会う 



原文

慧能は後に曹渓に至り、又悪人に尋逐(じんちく)せらる。

乃ち四会(しえ)県に於いて難を避く。五年を経て常に猟人の中に在り。

猟中に在りと雖も、常に猟人の与(ため)に法を説けり。

高宗の朝に至り、広州の法性寺に到り、印宗法師の『涅槃経』を講ずるに値(あ)う。

時に風の吹く有って旙(はん)動く。

一僧云う、「旙動く」と。慧能云う、

旙動き風動くには非ず、人の心自ずから動くなり」と。

印宗之を聞いて竦然(しょうぜん)たり。



注:


曹渓と曹源一滴水: 中国禅の初祖達磨大師から六代目の祖師である

曹渓山宝林寺の六祖慧能禅師によって禅は栄えた。

曹渓の慧能から五家七宗の禅宗の法脈が生まれさらに二十四流に

分かれてますます盛んになった。 これにより、禅は曹渓の一滴の源泉に帰すとして、

曹源の一滴水 とよばれた。

六祖慧能の教えを源泉として生れた

雲門宗・イ仰宗(いぎょう)宗・臨済宗・曹洞宗・法眼宗を禅宗の五家とする。

さらに臨済宗から楊岐派と黄龍派の法脈が生まれて、これを加えて七宗とする。

だが、いずれにせよ禅心の本質は曹源にありで、

曹源 の語は禅の本質、禅の真髄をあらわす言葉となっていった。

禅の歴史1.23宋代の禅宗を参照)。

さらに日本に伝わり、二十四の法流に分かれていった。


尋逐(じんちく)せらる: つけねらわれる。


四会(しえ)県: 今の広東省肇慶府広州市の西北の地。


高宗の朝: 高宗は唐の第3代皇帝(在位:649〜683)。貞観23年(649)即位。


広州の法性寺: 南海県の西北一里にある寺。

法性寺は梁末に真諦三蔵がいた寺で、広州制旨寺、制止王園寺、

乾明法性寺、報恩広孝禅寺、光孝寺などと呼ばれた。


印宗法師: 姓は印氏、(627〜713)。

経典中でも特に『涅槃経』に通じていた。五祖に参じたこともあるが、

儀鳳元年(676)55才の時、慧能に会って大悟した。


時に風の吹く有って旙(はん)動く。:無門関第29則「非風非旙」は

この「壇経」の問答に基づいている。

「無門関」第29則を参照 )。


悚然(しょうぜん): 恐れあわてるさま。

「寒毛卓堅(かんもうたくじゅ)」と同じ。



現代語訳:


慧能はその後曹渓に到着したが、またもや悪人につけねらわれた。

そこで四会(しえ)県に避難した。五年を経たがその間常に猟師の群れの中にいた。

猟師の仲間になっていたけれども、常に猟師達のために説法していた。

高宗の御代に、広州の法性寺に来ると、印宗法師が『涅槃経』を講義しているところだった。

その時、風が吹いて旙(はた)が動いた。

ある僧が言った、「 旙が動いている 」。

慧能が云った、「 旙が動いているのでも風がうごいているのではない

貴方たちの心が自分で動いているのだ

印宗法師はこれを聞いてぞっとした。



コメント:


五祖の黄梅山の五祖の下を辞した慧能は南方に行き、

曹渓に到着したが、またもや悪人につけねらわれた。

そこで四会(しえ)県に避難した。

五年間常に猟師の仲間になり、その群れに入って猟師達のために説法していた。

唐の高宗の御代(649〜683)に、広州の法性寺に来ると、

印宗法師が『涅槃経』を講義しているところだった。

その時、風が吹いて旙(はた)が動いた。

ある僧が言った、「 旙が動いている 」。

慧能は「 旙が動いているのでも風がうごいているのではない

貴方たちの心が自分で動いているのだ 」と云った。

印宗法師はこれを聞いてぞっとするほどショックを受けた。

これが慧能が南方で注目される結果となった。

「無門関」第29則を参照 )。



2.11

2.11  仏性に本来差別はない 



原文

慧能は東山に得法してより、辛苦を受け尽くして命は懸絲に似たり。

今日大衆の同(とも)に会して聞くことを得たるは、

乃ちこれ過去千生に曾って諸仏を供養して、方(まさ)に始めて無上頓教を聞くことを得たり。

慧能は使君及び官僚道俗と、累劫(るいごう)の因有り。

教はこれ先代の聖伝にして、これ慧能の自智ならず。

願わくは先聖の教えを聞かん者は、各々心を浄ならしめて、

聞き了(おわ)って各自に疑いを除き、先代の聖人に如(ひと)しく

別(ことな)ること無からんことを。

善知識よ、菩提般若の智は、世人に本自(もとよ)り之有り。

只だ心迷うに縁(よ)りて、自ら悟ること能(あた)わざるのみ。

須らく大善知識の示導を求めて見性すべし。

善知識よ、愚人も智人も、仏性は本より差別なし。

只だ迷悟の同じかならずに縁(よ)りて、所以に愚有り智有るなり。



注:


東山: 五祖はき州黄梅県の東憑母山に住して

教化していたので東山大師と呼ばれる。

またその教えは東山宗・東山法門などと呼ばれた。

禅の歴史1.13禅の集団化・東山法門を参照)。


使君: 刺史に対する尊称。


累劫(るいごう)の因: 累劫とは長い年月を重ねたこと。

長い年月を重ねた宿世の因縁。


慧能の自智ならず:慧能が自分だけで悟った智慧ではない。

ブッダ以来、菩提達磨へ至る西天28祖、東土6祖まで相伝した

頓悟の法門によって悟ったということ。

禅の思想3.1教外別伝を参照 )。


現代語訳:

慧能は東山五祖のところで仏法の妙理を悟ってから、

あらゆる辛苦をなめ尽くし命は絹糸に吊るされたように危険であった。

今日諸君が同じ法会に参列して正法を聞くことができたのは、

過去何度も生まれ変わり諸仏を供養したお蔭で、

この上ない頓悟の教えを聞くことができたのである。

慧能には刺史やその他の役人や道俗の皆さんと、

長い年月を重ねた宿世の因縁が有ったのである。

この教はこれ代々優れた祖師達が伝え来たものであって、

決して慧能ひとりで悟った智慧ではない。

どうか歴代の祖師達の教えを聞く者は、めいめい自分で心を浄らかにして、

聞き終わったら疑いを去り、先代の祖師と同じ境涯になって欲しいものだ。

諸君、正しい悟りの智慧は、誰でも本来持っている。

ただ心が迷うために、自覚することができないだけだ。

本当に悟った先輩の指導を求めて見性すべきである。

諸君、愚者も智者も、 仏性 にはもともと違いはない。

ただそれを見失って迷うか気付いて悟るかの違いによって、

愚者と智者の違いがあるだけである。



コメント:


この頓悟の教は代々優れた祖師達が伝え来たもので、

決して慧能がひとりで悟った智慧ではない。

この教えを聞く者は、自分で心を浄らかにして、

聞き終わったら疑いを去り、先代の祖師と同じ境涯になって欲しい。

正しい悟りの智慧は、誰でも本来持っている。

ただ心が迷うために、自覚することができないだけである。

本当に悟った師家の指導を求めて見性すべきである。

愚者も智者も、仏性にはもともと違いはない。

愚者と智者の違いは

仏性を見失って迷うか、仏性に気付いて悟るかの違いだけだ

と言っている。


3章 為時衆説定慧門



3.1

3.1  定慧は一体である



原文

師云う、善知識よ、我がこの法門は、定慧をもって本と為す。

大衆は迷うて言うこと勿れ、定慧は別なりと。

定慧は一体にしてこれ二ならず。定はこれ慧の体、慧はこれ定の用なり。

即慧の時、定は慧に在り、即定の時、慧は定に在り。

もしこの義を識(し)らば、即ちこれ定慧等しく学するなり。

諸々の学道の人は言うこと勿れ、定を先にして慧を発し、慧を先にして定を発して、各々別なりと。

この見を作(な)す者は、法に二相有(あ)り、口の善語を説くも、心中は善ならず。

空しく定慧ありて、定慧等しからず。

もし心口(しんく)倶(とも)に善にして、内外一種ならば、定慧即ち等し。自ら悟って修行せよ、

諍(あらそい)に在らず。

もし先後を諍わば、即ち同に迷人なり。

勝負を断ぜず、却って法我を増し、四相を離れず。




注:


定慧一体: 仏教の修道論の基本は戒(戒律)・定(禅定)・慧(智慧)の三学である。

慧(智慧)は定(禅定)から出て来る活作用である。

体用思想で考えると定(禅定)は体、慧(智慧)は用と考えることができる。

体用不離であるから定慧一体不二という。


「禅の思想その1」禅と体用思想を参照)。

「禅の思想その1」「戒定慧」三学の統一を参照)。


先後を諍わば: 定慧において先後を諍い、分別してはならない。 


法に二相有り:禅定と智慧を別のものと見る時、真理に二つの姿があることになる。 


四相: 「金剛経」に説く我相、人相、衆生相、寿者相の四つの相。

我相とは実体としての我(アートマン、常一主宰の霊的実体)があるという観念。

人相は実体としての人があるという観念。


原始仏教1、「アートマンについて」を参照)。

衆生相は、宇宙の本体と万物の実相を知らずに、実体としての衆生があるという観念。

寿者相は、妄りに寿命の長短をはかり、幸福と利益を望む観念をいう。

「金剛経」では菩薩はこれらの四相への執着を否定し、離れることを説く。  



 現代語訳:

師は次のように説いた、 : 諸君、私が説くこの法門では、禅定と智慧が根本である。

諸君、定と慧は違うものだと考えてはいけない。

定と慧は一体であって二つのものではない。

禅定は智慧の本体であり、智慧は禅定の作用(はたらき)なのだ。

智慧そのものを考えると、禅定は智慧の中に含まれ、

禅定そのものを考えると、智慧は禅定の中に収められる。

もしこの意味が分かるならば、即ち禅定と智慧は平等に学ばなければならない。

修行者諸君、禅定を先に修して智慧を生み、智慧を先に修してそこから

禅定の境地が生まれるから、各々別ものだと考えてはならないのだ。

禅定と智慧は違うと考える者は、真理に二つの姿があるということになる。

口先では善いことを言っても、心の中は邪である。

禅定と智慧は空しいため、禅定と智慧は別ものである。

もし心と口で言うことが共に善で、内と外が同じならば、禅定と智慧はそのまま等しいのだ。

自ら目覚めて修行すべきで、言い争うようなものではない。

もし禅定と智慧のどちらが先でどちらが後かを言い争うような者は、

どちらの正体も見失った迷人である。

勝ち負けの意識に捉われ、却って一切の法に実体(我)があるという執着を増し、

四相を離れることができなくなるのだ。



コメント:


ここでは「定慧一体」の思想を伸べている。

慧能は「私が説くこの法門では、禅定と智慧を根本とする。

諸君定と慧は違うものだと考えてはいけない。

定と慧は一体であって二つのものではない。

「禅定は智慧の本体であり、智慧は禅定の作用(はたらき)なのだ。」

と述べ、禅定を本体とし、智慧をその作用(はたらき)と考える

体用思想によって説明している(図2を参照)。



定慧一体

 図2「定慧一体」の思想。禅定を本体とし、智慧をその作用(はたらき)と考える

体用思想によると、「定と慧は一体である」。

 図2に示したように「定慧一体」の思想では禅定を本体とし、智慧をその作用(はたらき)と考える。

禅定に入った状態では分別智の本体である大脳新皮質(理知脳)の働きは沈静化している。

大脳新皮質(理知脳)の働きは分別意識である。

このように考えると、

禅定に入った状態(or坐禅している時)に生まれる智慧では分別智(理知脳)の寄与は無視できるほど小さい。

坐禅中のように分別智(理知脳)の働きが小さい時に生まれる智慧を「無分別智」と呼ぶのではないだろうか。



3.2

3.2  一行三昧とは何か



原文


善知識よ、一行三昧とは、一切処に於いて、行住坐臥、常に一直心を行ずる、是れなり。

「浄名経」に云うが如し、「直心是れ道場、直心是れ浄土」と。

心に諂曲を行じて、口に但だ直と説き、口に一行三昧を説いて、直心を行ぜざること莫れ。

但だ直心を行じて、一切の法において執着有ること勿れ。

迷人は法相に着して、一行三昧に執し、直に言う、「坐して動かず

妄りに心を起こさざる、即ち是れ 一行三昧なり」と。

この解を作す者は、即ち無情に同じゅうして、却って是れ障道の因縁なり。

善知識よ、道は須らく通流すべし、何をもってか却って滞る。

心、法に住(とど)まざれば、道は即ち通流す。

心、もし法に住(とど)まらば、名づけて自縛と為す。

もし「坐して動かざるが是なり」と言わば、舎利弗(しゃりほつ)の

林中の宴坐(えんざ)するが如き、

合(まさ)に維摩詰(ゆいまきつ)に呵(しか)らずべからず。

善知識よ、また有る人の、坐して看心看浄し、動かず起たざらしめて、これに従って功を置くを見る。

迷人は会(さと)らず、便(すなわ)ち執(とら)えられて顛(つまずき)きとなる。

此(かく)の如き者衆し。是の如くに相い救う、

故に知んぬ大いに錯(あやま)ることを。



注:

一行三昧: 一相三昧,一荘厳三昧ともいう。

この世界は一切の諸仏が体現する真実が多様な姿 (相・荘厳) をとって現れたものだと考える。

この多様な存在の世界 (法界) を空の立場から眺めれば、

それは諸仏の真実という無差別平等の一つの相にほかならない。

その無差別平等の真理を観察する三昧を一行三昧と言う。


常に一直心を行ずる: 常に純一で雑ざり気のない正直な心で、

意志し、話し、行動する。


浄名経: 維摩経のこと。


直心是れ道場: 維摩経菩薩品に於いて、光厳童子の質問にたいし、

維摩詰は「直心は是れ道場なり、虚仮無きが故に・・・・」と答えている。


直心是れ浄土: 維摩経仏国品に「直心は是れ菩薩の浄土なり」と出ている。


迷人:  真実を見失った人。


迷人は法相に着して: 迷人は無心ではなく、常に外に目をむけて外相(外界の姿)に執着する。


無情に同じゅうして: 枯木死灰の禅のような、何も作用を現さない邪禅と同じで。


道は須らく通流すべし: 仏道は物に応じ、縁に随って、

自由に活機輪を転じるところにある。一処に停滞していては活作用が現れない。


舎利弗(しゃりほつ)の林中の宴坐(えんざ)する: 舎利弗

(しゃりほつ、シャーリプッタ)はブッダの十大弟子の中で智慧第一と称された優秀な弟子であった。

維摩経弟子品には舎利弗が山林で静かに坐禅していた時、維摩詰が現れて、

それは真の坐禅ではない、動を捨てて、静を求める分別の坐禅にすぎない

と言って舎利弗をしかったと言う。



 現代語訳:


諸君、一行三昧とは、どんなところにいても、行住坐臥に於いて、

常に真っ直ぐな心で言行思惟することである。

「維摩経」に、「直心是れ道場、直心是れ浄土」と言っているのがそれだ。

人にへつらって、口先だけでまっすぐな心と説き、

口先だけに一行三昧を説くようでは駄目で、直心を実践しなければならない。

ただ直心を実践して、何事においても執着してはならないのだ。

真実を見失った人は真理の外形に執われ、一行三昧に執われて、

坐って動かず、やたらに心を起こさないのが、一行三昧だ」と言う。

このように考える者は、枯木死灰と同じで、かえって仏道修行の妨げになる。

諸君、この道は広く布教しなければならない。

何が原因になって停滞するのだろうか。

心が物に執われなければ、この道はただちに広まるだろう。

もし、心が物に執われると、自らを縛ることになるのだ。

もし「坐して動かないのが良い」と言うなら、

智慧第一の舎利弗尊者が森の中で坐禅するようなものだ。

あの維摩にしかられることはなかっただろう。

諸君、またある者は、人々に坐禅させる時、看心看浄し、心を動かさないようにせよと教える。

これが正しい禅だと教える。

真実を見失った人は事の是非が分からないので、それに執われて躓くのだ。



コメント:


一行三昧とは、「維摩経」に、「直心是れ道場、直心是れ浄土」と言っているように、

何処にいても、行住坐臥に於いて、常に真っ直ぐな心で言行思惟することである。


しかし、口先だけで一行三昧を説くようでは駄目で、直心を実践しなければならない。

ただ直心を実践して、何事においても執着してはならない。

しかし、真理の外形に執われ、一行三昧に執われて、

「坐って動かず、やたらに心を起こさないのが、一行三昧だ」と言うような者は、

枯木死灰と同じで、かえって仏道修行の妨げになる。

心が物に執われると、自らを縛ることになり、

停滞するので臨機応変に対応するように説いている。



3.3

3.3  定慧は燈光のごとし



原文


善知識よ、定慧は猶お何等の如くなるや。

猶お燈火の如し。燈有れば即ち光(かがや)く。

燈無ければ光(かがや)かず。

燈は是れ光の体、光は是れ燈の用(ゆう)なり。

名は二有りと雖も、体は本と同一なり。

この定慧の法も、また是の如し。



注:

猶お燈火の如し: 燈を定に喩え、火を慧に喩えている。

ここでは体用思想が用いられている。

禅と体用思想を参照)。



 現代語訳:

諸君、禅定と智慧の関係はたとえばどのようなものであろうか?

それはちょうど燈(ともしび)と火のようなものだ。

燈があれば輝くが、燈が無ければ輝かない。

燈は光の本体であり、光は燈の作用である。

呼び名は二つあるが、本体はもともと同じである。

この禅定と智慧の関係も、やはりそのようなものだ。

禅定と智慧の関係は禅定を本体とし、智慧をその作用(はたらき)と考える

体用思想によって説明できる。

その関係は燈を本体とし、光を燈の作用とする関係と同じである。

これを次の図3に説明する。


禅定と智慧

 図3 禅定と智慧の関係。定と慧の関係は定を本体(燈)とし、

慧をその作用(はたらき、光)と考える体用思想によって説明できる。



解釈とコメント:


「定と慧の関係」について、ここでは定を本体とし、慧をその作用(はたらき)

と考える体用思想によって説明している。

その関係は燈を本体とし、光を燈の作用とする関係と同じであるとしている。

それは図3のaに相当している。

3.1章で述べた「定慧一体」の思想も禅定を本体とし、智慧をその作用(はたらき)

と考える体用思想によって説明している。

しかし、それは図3のaに示すような、定を本体とし、慧をその作用(はたらき)

と考えるより、「定と慧の一体性を強調している。

それは、図3のbによって説明できる。

図3のaのような上から下へのベクトルではなく、

bのように上下に矢印を持つベクトルで説明できるだろう。

bの時の体(「定慧一体の時の本体)は坐禅中の脳のように、

分別智(理知脳)の働きが弱くなった下層脳優勢の脳である。

従って、ここで述べていることは、

図2で表された無分別智重視の「定慧一体の思想」と同じだと言えるだろう。


    (定慧一体の思想を参照)。


3.4

3.4  正しい教えに頓漸なし



原文

善知識よ、本来正教に頓漸あることなし。

人の性には自ずから利鈍あり。

迷人は漸に契い、悟人は頓に修む。

自ら本心を識り、自ら本性を見るときには、即ち差別無し。

所以(ゆえ)に頓漸の仮名を立つるのみ。



注:


頓漸: 頓教と漸教。

頓教とは即座に悟ることができる教え。

漸教は段階的に修行して悟ることができる教え。

慧能の南宗禅は頓教に当たる。

中国天台宗の天台智(538〜597)は「五時八教教判」で頓教と漸教の区別を導入した。

仏教の中国伝来を参照)。


本来正教: 本来の正しい教え。一仏乗の法門のこと。


迷人は漸に契い: 迷人は浅い教えから深い教えに漸次に修行して進み、

仏道に契うことを言う。


悟人は頓に修む: 悟人は一超直入如来地であって、直ぐ無心の境地に入る。


頓漸の仮名: 仏道を悟る上の遅速に対して頓漸という仮りの名前を

与えたのみで、悟って見れば同じことだという意味。


自ら本心を識り、自ら本性を見る:肝心なことは、自ら本心に気付き、

自らの本性を見ること(見性すること)である。



 現代語訳:


諸君、本来ブッダの正しい教に頓教とか漸教の区別はない。

しかし、人の性質には生まれつき利発(さと)いものと遅鈍(にぶ)いものとの違いがある。

それでも道に迷う人はゆっくり段階的に真理に契(かな)い、すぐに悟る人は即座に習得できる。

自ら本来の心に気付き、自らの本性を自覚する時には、

違いは無く、頓と漸という便宜的な名を付けているだけである。



解説とコメント:


ここでは頓教と漸教について述べている。

本来ブッダの教には頓教とか漸教の区別はない。

人には生まれつき利発(さと)い人と遅鈍(にぶ)い人がいる。

すぐに悟る人は即座に本来の心に気付き、自らの本性を自覚するが

道に迷う人はゆっくり段階的に真理に契(かな)うだけの違いで、

頓と漸というのは便宜的なものであると言っている。


   




「六祖壇経」の参考文献


   

1.伊藤古鑑訓註、其中堂 六祖法宝壇経 1967年

2.中川孝 著、たちばな出版、タチバナ教養文庫、六祖壇経、2012年

3.鈴木大拙著、角川書店、角川ソフィア文庫、禅とは何か、1999年

   

トップページへ

ページの先頭へ戻る