2010年2月作成

臨済録:その3



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示衆:続き


   
10-1

[示衆]10−1

岩波臨済録 p.83〜84  



問う、「如何なるか是れ心心不異(しんじんふい)の処?」。

師云く、「汝の問わんと擬(ほっ)するや早(すで)に異にし了(おわ)れり、性相(しょうそう)各分かる。道流、錯ること莫れ。世出世の諸法は、皆な自性無く、亦た生性(しょうしょう)無し。但だ空名有るのみ、名字も亦た空なり

汝は祇麼(ひたす)ら他(か)の閑名を認めて実と為す。大いに錯り了(おわ)れり。設(たと)い有るも、皆な是れ依変(えへん)の境なり。箇の菩提依(ぼだいえ)、涅槃依(ねはんえ)、解脱依(げだつえ)、三身依(さんしんえ)、境智依(きょうちえ)、菩薩依(ぼさつえ)、仏依(ぶつえ)有り

汝は依変(えへん)国土の中に向いて、什麼物(なにもの)をか覓む。乃至(ないし)三教十二分教も、皆な是れ不浄を拭う故紙なり

仏は是れ幻化の身、祖は是れ老比丘。汝は還(は)た是れ娘生(じょうしょう)なりや。汝若し仏を求むれば、仏魔に摂せられん。汝若し祖を求むれば、祖魔に摂せられん。汝若し求むること有れば、皆な苦なり。如かず無事ならんには」。

注:

性相(しょうそう)各分かる:性(主、本体)とその働きである相(客体)に分かれる。

体用思想に基づいた考え方(「禅と体用思想」を参照)。

世出世の諸法:世俗や出世間のあらゆる存在(法)。

依変(えへん):こちらの在り方に依存して変化する実体の無いもの。

依変(えへん)の境:こちらの在り方に依存して変化する実体の無い対象。

境智依(きょうちえ):照らし出される対象としての境と照らし出す智という相対関係。

智を主観(主)とすれば境は客観(客)となる。禅ではその相対性を消し去る(境と智と倶に忘れる。主客共に忘れる)か一体化すること(境智不二、心境一如)を理想とする。

故紙:反故(ほご)紙。不用になった紙。

比丘:ビクシュの音訳。出家して具足戒を受けた者(男性)。

仏は是れ幻化の身:永嘉真覚大師(665〜713)の「証道歌」に「幻化の空身即法身」という言葉がある。

それに似た言い回しになっている(「証道歌」を参照)。

娘生(じょうしょう):母親から生まれたれっきとした男子。

仏魔:仏という魔。「百丈広語」には「菩薩魔」という言葉も見られる。「仏」を貴い絶対的なものとして求めれば、それが自分を束縛する魔に変化するという意味。

現代語訳


問い、「心と心が異ならない処とはどういう処ですか?」。

師は云った、「お前達が質問しようとした途端に心と心の本体が分かれ異なってしまうのだ

修行者達よ、間違えてならない。世間・出世間の諸法は、皆な自性は無く、またそれを生ずるものも無い。ただ実体の無い概念が有るだけだ。それにもかかわらず、お前達はひたすらその空なる概念を実在するものと思い込んでいるが、大間違いだ。それはこちらの在り方に応じて変化する実体の無いものに過ぎない

菩提、涅槃、解脱、三身、境智、菩薩、仏など多くの実体のない概念に向かってお前達は何を求めようとするのか。全ての大蔵経典も不浄を拭う反故(ほご)紙に過ぎない

仏は我々と同じ空蝉(うつせみ)の身、祖も年老いた僧侶に過ぎない。お前達はちゃんとした母親から生まれた男ではないか

もしお前達が仏を求めれば、仏という魔のとりこになるだろう。 仏を求めれば、祖という魔のとりこになる。このように何かを求めれば、皆な苦しみになるばかりだ。何も求めず無事でいるのが一番良い」。


コメント


この示衆では、示衆9−4の最後の処で出てきた「心心不異(しんじんふい)」とは何かという質問から始まっている(示衆9−4を参照)。

臨済はそのような質問が性相が分離したもので「心心不異(しんじんふい)」から全く離れた質問であるという。「心心不異(しんじんふい)」という言葉を思想や概念として捉えると性(心の本体)から分離するからであると言っている。

世間・出世間の諸法は、皆な空名であり、実体の無い概念や観念に過ぎない。そのようなものに向かって何を求めようとするのか。全ての大蔵経典も不浄を拭う反故(ほご)紙に過ぎない。

仏は我々と同じ空蝉(うつせみ)の身、祖も年老いた僧侶に過ぎない。もしお前達が仏を求めれば、仏魔のとりこになるだろう。 仏を求めれば、祖魔のとりこになる、と激しい言葉を吐いている。

これを他の宗教、例えばキリスト教に当てはめて考えると、聖書は不浄を拭う反故(ほご)紙に過ぎない。もしお前達が神を求めれば、神という魔のとりこになると言っていることに相当する。

このような発言は一神教では決して考えられない言葉である。イスラム教では死刑に当たるだろう。

臨済の真面目はこのような自由な批判精神にあると言えるのではないだろうか。

我が国において江戸時代、不生禅を唱えた盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師(1622〜1693)は公案禅について質問した僧に対し「身どもが所で其のような古ほうぐの詮議はいたさぬ。」と答えている。

「古ほうぐ」とはこの示衆で臨済が言っている「乃至(ないし)三教十二分教も、皆な是れ不浄を拭うの故紙なり」の故紙(反故(ほご)紙)から取ったものと思われる。

盤珪は「公案は不浄を拭う反故(ほご)紙のようなものだ。ここではそのようなものの詮議はしない」と批判していることが分かる。

この示衆の最後のところで、「何かを求めれば、皆な苦しみになるばかりだ。何も求めず無事でいるのが一番良い」と結んでいる。

示衆3−1で述べたように、<無事是れ貴人>の思想は永嘉真覚大師→馬祖道一 → 大珠慧海  → 黄檗希運  → 臨済に流れている。

「百丈広語」には「能なく聖なきを仏聖となす」という達磨の言葉を引用している。黄檗の師である百丈も「無事の人」を聖人と考えていたことが分かる。このことは<無事是れ貴人>の思想は南宗禅の初期から広く見られた思想で臨済禅の基調と言ってもよい。

   
10-2

〔示衆〕10−2

岩波臨済録 p.85〜86  



一般の禿比丘有って、学人に向って道(い)う、「仏は是れ究竟(くきょう)なり、三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)に於いて修行果満して、方に始めて成道す」と。

道流、汝若し仏は是れ究竟(くきょう)なりと道わば、什麼(なに)に縁(よ)ってか八十年後、拘尸羅城(くしらじょう)の双林樹の間に向いて、側臥(そくが)して死し去る。仏は今何(いずく)にか在る。明らかに知んぬ、我が生死と別ならざることを

汝言う、三十二相八十種(しゅ)好(ごう)は是れ仏なりと。転輪聖王(てんりんじょうおう)も応(まさ)に是れ如来なるべきや。明らかに知んぬ是れ幻化なることを

古人云く、「如来挙身(こしん)の相は、世間の情に順ぜんが為なり。人の断見(だんけん)を生ぜんことを恐れて、権(かり)に且(しばら)く虚名を立つ。仮に三十二と言う、八十も也た空声なり。有身は覚体(かくたい)に非ず、無相乃ち真形(しんぎょう)」と。

注:

三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう):仏になるまでに要するとされる長大な時間(無限とも言える時間)。

拘尸羅城(くしらじょう):ゴータマ・ブッダ入滅の地クシナガラ。

双林樹の間:ゴータマ・ブッダはクシナガラの沙羅双林樹の下で右脇を下にして入滅したと伝えられている。

三十二相八十種好(しゅごう):神格化された仏の三十二と八十の優れた特徴(「仏とは何か?」を参照)。

転輪聖王(てんりんじょうおう):古代インドの神話的聖王。その即位の時には天より下った宝輪を転じて全世界を統治すると考えられた。

古人:梁代の居士で禅にも通じていた傅(ふ)大士(497〜569)。善慧大士とも呼ぶ。 

挙身(こしん):全体身。 

断見(だんけん):人は死んだら完全に空無に帰すると考える虚無論。 

覚体(かくたい):ブッダのことを目覚めた人、或いは覚者と呼ぶ。 

無相乃ち真形(しんぎょう):金剛般若経の経文「一切の諸相を離れたるを諸仏と名づく」に基づいて言っている。 

現代語訳


頭を丸めただけの坊主の中には、修行者に向って、「仏は究極の完成である。三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)という長い間修行をし徳を積んだ結果、始めて成道されたんだ」と言う者がいる。

お前達、もし仏は究極の完成であると言うならば、どうして80歳の時クシナガラの沙羅双樹(さらそうじゅ)の間で横に寝て死んでしまったのだ。仏は今何処にいるだろうか。これではっきりわかるだろう。仏も我々の生死と同じなのだ」。

それでもお前達は、「仏は十二相八十種好(しゅごう)という常人にない瑞相を持たれた方だ」と言うかも知れない。

それなら同じ瑞相を持つとされる転輪聖王(てんりんじょうおう)も如来だろうか。これではっきりするだろう。仏もまた空蝉の身であることが。

古人も云った、「如来の全身に具わる瑞相は、人々の思い入れに応えるためである。人々が断見に落ちることを恐れて、仮に付けた虚名に過ぎない。 三十二相八十種好と言っても実体の無い空名に過ぎない。ブッダの肉体は悟りの本体ではない。無相こそが真の覚体(かくたい)なのだ」と。


コメント


仏について、「『仏は究極の完成である。三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)という長い間修行をし徳を積んだ結果、始めて成道したのだ』と大乗仏教の伝統的教理に基づいて議論する者がいるかも知れない。しかし、自分はそうは思わない。」と言う。

仏の神格性に対しても、臨済は「もし仏は究極の完成であると言うならば、どうして80歳の時クシナガラの沙羅双樹(さらそうじゅ)の間で横に寝て死んでしまったのだ」と疑問を呈する。

仏も我々普通の人間の生死と同じで空蝉の身である。仏の瑞相とされる三十二相八十種好も実体の無い空名に過ぎない。無相こそが真の姿だと言う。ここで臨済は伝統仏教に縛られない独自の仏陀論を展開している。

その自由で新鮮な発想は合理的で説得力がある。ここでも「無相こそが真の覚体(かくたい)なのだ」と無を強調しているのが注目される。

    10-3

〔示衆〕10−3

岩波臨済録 p.87〜89  



汝道う、仏に六通あり、是れ不可思議なりと。一切の諸天、神仙、阿修羅、大力鬼も亦た神通あり。応に是れ仏なるべきや。

道流、錯ること莫れ。祇(た)だ阿修羅の天帝釈(てんたいしゃく)と戦うが如きは、戦敗れて八万四千の眷属を領して、藕)糸(ぐうし)の孔中に入って蔵(かく)る。是れ聖なること莫(な)きや。山僧が挙(こ)する所の如きは、皆な是れ業通依通(ごっつうえつう)なり。

夫れ仏の六通の如きは然らず。色界(しきかい)に入って色惑を被らず、声界(しょうかい)に入って声惑を被らず、香界に入って香惑を被らず、味界に入って味惑を被らず、触界(そくかい)に入って触惑を被らず、法界に入って法惑を被らず。

所以に六種の色声香味触法の皆な是れ空相なるに達すれば、此の無依の道人を繋縛(けばく)すること能わず。是れ五蘊(ごうん)の漏質(ろしつ)なりと雖も、便ち是れ地行の神通なり。

注:

六通:六神通のこと。六神通とは神足通、天眼通、天耳通、宿命通、他心通、漏尽(ろじん)通、の六つの神通力を言う。仏・菩薩の持つ神通力とされる。

一切の諸天:天上界に住む神々。仏教はインドの民俗信仰の神々を仏教の護法神として取り入れた。

阿修羅:常に帝釈天と戦う悪神。アスラ。

大力鬼:餓鬼道の神。

天帝釈(てんたいしゃく):帝釈天(インドラ神)のこと。天空を神格化したものと言われ須弥山の頂上にあるトウ利天(とうりてん)に住む。

藕糸(ぐうし):蓮の糸。

藕糸(ぐうし)の孔中に入って蔵(かく)る:阿修羅は帝釈天と闘って破れ蓮糸の孔の中に入って隠れたという神話に基づいている。

業通依通(ごっつうえつう):業通とは業報によって得られた通力、依通は呪術や秘薬などによって得られた通力のこと。百丈懐海は神通力のない菩薩が仏を越えた人であり、最も不思議な人と考えていた(百丈広録)。臨済もこれと同じ考えである。

色界(しきかい):色とは身体を構成する物質のこと。無期物質よりもタンパク質や骨など肉体を構成する生体高分子の世界。

無依の道人:何物にも依存しない真の自己(=脳)(上堂3を参照)。

五蘊(ごうん):色(物質)、受、想、行、識の五つの集まり。心身を構成する精神と物質のこと(第9章「原始仏教」の五蘊無我を参照)。

五蘊(ごうん)の漏質(ろしつ):五蘊(ごうん)から成り立つ肉身。

地行の神通:大地を行く神通者。

現代語訳


お前達は「仏の持つ六神通は不思議だ」と言うかも知れない。一切の諸天、神仙、阿修羅、大力鬼もまた神通力がある。だからといって彼らも仏だと言えるだろうか。お前達、思い違いをしてはならない。

阿修羅が天帝釈(てんたいしゃく)と戦って敗れた時、八万四千の眷属を引き連れて、蓮糸の孔の中に入って隠れたと言われる。これは仏と同じ神通力ではないか。

しかし、今わしが言ったのは皆マジックのようなものに過ぎない。仏の真の六神通とはそのようなものではない。

色界に入っても色惑を被らず、また声界(しょうかい)、香界、味界、触界(そくかい)、法界の六境に入ってもそれに惑わされない。

そのため、色声香味触法の六境が空で実体がないと見極めれば、何物にも依存しないこの道人を束縛することはできない。彼こそ五蘊(ごうん)の心身という煩悩の固まりであっても、大地を行く神通者なのだ。


コメント


前回の示衆10−2に続き。この示衆でも仏とは何かについて述べている。臨済は仏とは六神通を持つ超能力者や魔術者のような神通力を持つ者ではないと言う。

仏の真の神通力とは色声香味触法の六境が空で実体がないと見極め、何物にも依存ぜず束縛されないことであるとし、仏とはそのような神通力を発揮して大地を行く自由な神通者であると言っている。

最後に言っている「地行の神通」という言葉はいかにも中国の大地に根ざした表現で面白い。

    10-4

〔示衆〕10−4

岩波臨済録 p.89〜90  



「道流、真仏は無形、真法は無相。汝は祇麼(ひたす)ら幻化(げんけ)上頭に、模(も)を作(な)し様(よう)を作(な)す。

設(たと)い求め得る者も、皆な是れ野狐の精魅(せいみ)、並びに是れ真仏ならず、是れ外道の見解(けんげ)なり。夫れ真の学道人の如きは、並びに仏を取らず、菩薩羅漢を取らず、三界の殊勝を取らず。ケイ然独脱(けいねんどくだつ)して、物と拘わらず。

乾坤倒覆すとも、我れ更に疑わず。十方の諸仏現前すとも、一念心の喜無く、三途(さんず)地獄(じごく)頓に現ずとも、一念心の恐れ無し。

何に縁(よ)ってか此の如くなる。我れ見るに、諸法は空相にして変ずれば即ち有、変ぜざれば即ち無。三界唯心(さんがいゆいしん)、万法唯識(まんぼうゆいしき)なり。所以に夢幻(空花(むげんくうげ)、何ぞ把握を労せん。

唯だ道流、目前現今聴法底の人のみ有って、火に入って焼けず、水に入って溺れず、三途(さんず)地獄(さんずじごく)に入るも、園観(おんかん)に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入って 而も報を受けず。

何に縁(よ)ってか此の如くなる。嫌う底の法無ければなり。汝若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏(しょうじかいり)に沈浮せん。

煩悩は心に由るが故に有り、無心ならば煩悩何ぞ拘らん。分別取相を労せず、自然に得道須臾なり。汝、傍気波波地(ぼうけははじ)に学得せんと擬せば、三祇劫の中に於いてすとも、終に生死に帰せん。

如かじ無事にして、叢林(そうりん)の中に向いて牀角頭(じょうかくとう)に脚を交えて坐せんには」。


注:

ケイ然独脱(けいねんどくだつ):独(ひと)りはるかに抜きん出ること。

三途地獄(さんずじごく):三途とは地獄、餓鬼、畜生の三悪道のこと。三悪道は地獄と同じだと言う意味で言う。

三界唯心(さんがいゆいしん):三界(色界、欲界、無色界)は心が造ったものだという意味。

万法唯識(まんぼうゆいしき) :万法(全ての存在)は心が造ったものだという唯識論の考え方。現代で言えば唯脳論的考え方に相当する。禅は三界唯心(さんがいゆいしん)、万法唯識(まんぼうゆいしき)という考え方を取る。

夢幻空花(むげんくうげ)、何ぞ把握を労せん:三祖僧サンの著書「信心銘」には「夢幻空華、何ぞ把握を労せん」と見える(「信心銘」を参照)。空花は眼病に罹った人が空中に見る幻の花。或いは眼の上を打つと火花が散る、その火花のことだとも言われる。実体のないことの喩。

火に入って焼けず、水に入って溺れず:「百丈広語」には「十地の菩薩は水に入って溺れず、火に入っても焼けぬ。しかし、仏はそうでなく、もし、 焼けようと思ったら焼かれる、溺れようと思ったら溺れる」とある。 百丈が十地の菩薩について言っていることと一致する。

傍気波波地(ぼうけははじ)に:脇道の方へそれてあたふたと。

園観(おんかん):花園。

三途地獄(さんずじごく)に入るも、園観(おんかん)に遊ぶが如く:「維摩経」菩薩行品第十一には「諸の禅定に在りては地獄の想の如くし、生死の中に於いては園観の想の如くし、...」とある。

汝若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏(しょうじかいり)に沈浮せん。煩悩は心に由るが故に有り、無心ならば煩悩何ぞ拘らん。分別取相を労せず、自然に得道須臾なり:中国南北朝時代の神異・風狂の高僧宝誌和尚(418〜514)の「大乗讃」に見られる偈頌。「汝がもし聖を愛し凡を憎めば、迷いの海に浮沈するだけだ。煩悩は心が作るものであるから、無心であるならば煩悩に縛られることはない。姿形(すがたかたち)を分別することもなく、自然に道を得ることができる。」という意味。

叢林:修禅修行僧が集まる道場。

牀角頭(じょうかくとう)に:禅牀(ぜんじょう)(坐禅用の台)の上に。

現代語訳


「お前達、真の仏には形が無く、真の法には相(すがた)は無い。それにもかかわらず、お前達はひたすら幻のようなものを、あれこれ思い描いている。

たとえ真の仏のようなものを求めることができたにしても、そんなものは皆な野狐が化けたようなもので、決して真の仏ではない。そんなものは外道の見方だ。

真の修行者は、決して仏を認めない。菩薩や阿羅漢も認めず、この世で有り難そうなものを問題としない。そんなものから独りはるかに超えて外物に依存することはない。たとい天地が引っくり返ってもこの信念に変わりはないのだ。

たとえ彼の目の前に十方の諸仏が現われても、少しも喜ばないし、三途地獄(さんずじごく)がパッと現われも、少しも恐れない。どうしてこのようになるのだろうか。

わしが見ると、全ての存在は空相であって条件次第で有に変ったり、無のままである。この迷いの世界は唯だ心意識によって造られるのである。夢や幻、空中の華のような実体のないものに心を煩わすことはないのだ。

修行者達よ、今目の前で聴法している人だけが有って、火に入っても焼けず、水に入っても溺れない。三途地獄(さんずじごく)に入っても、花園に遊ぶようだし、餓鬼畜生道に落ちても苦しみを受けることはない。

どうしてこのようになるのだろうか。それは何一つ嫌うものが無いからだ。

宝誌和尚も『汝がもし聖を愛し凡を憎めば、迷いの海に浮沈するだけだ

煩悩は心が作るものであるから、無心であるならば煩悩に縛られることはない。姿形(すがたかたち)を分別することもなく、自然に道を体得できる』と言っているじゃないか。

お前達、脇道へそれてあたふたと学ぶならば、永遠に迷いの世界から抜け出ることはできないぞ。それよりは無事で何の造作もせず、僧堂の禅牀(ぜんじょう)の上に坐っていた方がましだ。


コメント


前回の示衆10−1、2、3に続いてこの示衆でも仏とは何かについて論じている。

臨済は「真の仏と法は無形、無相である。それにもかかわらず、幻のようなものを、考えてはならない

仏を思想や哲学によって求め思い描くのは野狐禅であり外道だ。真の修行者は、決して仏、菩薩、阿羅漢など有り難そうなものを外に求めることはしない

全ての存在は空相であって、迷いの世界は唯だ心意識(脳内意識)によって造られる

夢や幻、空中の華のような実体のないものに心を煩わすことはない」と言う(「臨済が説く無と東洋的無」を参照)。

この考え方は唯識思想と同じである。現代では唯脳論的考え方に相応しているだろう。

臨済が一番言いたいのは、 「修行者達よ、今目の前で聴法している人だけが有って、火に入っても焼けず、水に入っても溺れない

三途地獄(さんずじごく)に入っても、花園に遊ぶようだし、餓鬼畜生道に落ちても苦しみを受けることはない

何故かといえば、何一つ嫌うものが無いからだ。もし聖を愛し凡を憎めば、迷いの海に浮沈する

煩悩は心が作るものだから、無心であるならば煩悩を超えて、自然に道を体得できる。無事で何の造作もしないのが一番よい

という後半部分にある。

ここで臨済が言う「今目の前で聴法している人」とは脳(無位真人)であることは明らかであろう(上堂3を参照)。

しかし、(無位真人)の性質として「火に入っても焼けず、水に入っても溺れない」と言っているのは現代の我々から見ると受け入れられないだろう。

「(無位真人)が火に入っても焼けず、水に入っても溺れない」と言うのは、どんな苦難にあっても耐え抜く強く自由な信念を比喩的に表わしていると考えられる。

現代の我々は脳は壊れ易いことを知っている。我々が、「脳(無位真人)は肉体と同じように、火に入ったら焼け、水に入って溺れたら、死滅しその機能を失う」と言えるのは

現代の科学的知識があるためである。臨済が生きた唐代は未だ古代であるので、そのような知識はない。

そのため、「火に入っても焼けず、水に入っても溺れない」と実感と想像に基づいて表現したと思われる。

それに続く「三途地獄に入っても、花園に遊ぶようだし、餓鬼畜生道に落ちても苦しみを受けることはない。何故かといえば、何一つ嫌うものが無いからだ。」という臨済の言葉が興味深い。

これは下層脳(脳幹+大脳辺縁系)の活性化による脳内麻薬の分泌と関係していると思われる。

下層脳(脳幹+大脳辺縁系)が活性化すればA10神経やセロトニン神経が活性化しβ・エンドルフィン、ドーパミン、セロトニンが分泌される(禅と脳科学を参照)。

それらの脳内ホルモンの分泌によって脳は快感を感じ安らぐ。この時、好き嫌いの本になる扁桃体も安らぐので「何一つ嫌うものが無い」状態になる。同時に坐禅修行によって得られる安楽明静感(脳内麻薬の分泌による)を伴う健康な脳が生まれる。

そのように脳が健康になると、「三途地獄(さんずじごく)に入っても、花園に遊ぶようだし、餓鬼畜生道に落ちても苦しみを受けることはない」と言う前向きでとらわれない考え方を持てるようになる。

下層脳(脳幹+大脳辺縁系)が活性化した健康な脳は坐禅によって生まれる。下層脳は無意識脳である。

それは臨済がこの示衆で強調する「真仏は無形、真法は無相」、

」や「無事」などの言葉をうまく説明できる(「臨済が説く無と東洋的無」を参照)。

ここで注意すべきは、臨済が強調する「無事」は何もしないでのんびり暮らすことではないということである。

坐禅修行によって脳幹が活性化し情動脳(大脳辺縁系)が安定化する。それによってストレスから開放され、健康な脳に至るためには厳しい修行が必要である。何もしないでのんびり暮らすだけではそうならない。

実際、臨済録の「行録」には、臨済は黄檗の下で「行業純一」に修行したと述べてある。臨済が無事の思想に辿り付くまでには、厳しい修行に集中したことが想像されるのである。

ここで注意したいのは臨済が言う「目前現今聴法底の人」とは大脳新皮質を中心とする上層脳(分別意識脳=理知脳)ではないことである。

坐禅によって下層脳(脳幹+大脳辺縁系)が活性化される。それこそが仏性(無分別智)の中心となる。

単に理知脳(大脳前頭葉=分別意識脳)を使って禅を思想的・哲学的に研究しても禅の本質を明らかにできない。

坐禅修行によって生まれる下層脳(脳幹+大脳辺縁系)の活性化と情動脳(大脳辺縁系)の安定化に、禅の本質があると思われる

禅と脳科学を参照)。

   

〔示衆〕10―5

岩波臨済録 p.92〜94  



道流、如(も)し諸方より学人の来たる有らば、主客相見し了って、便ち一句子の語有って、前頭の善知識を弁ず。

学人に箇の機権(きけん)の語路を拈出(ねんしゅつ)して、善知識の口角頭に向ってザン過して、汝識(し)るや識(し)らずやと看せらる。汝若し是れ境なることを識得すれば、把得して便ち坑子裏(こうすり)に抛向(ほうこう)す。学人便即(すなわ)ち尋常なり。

然る後に便ち善知識の語を索(もと)む。依前(いぜん)として之を奪う。学人云く、上智なる哉、是れ大善知識と。

即ち云く、汝大いに好悪(こうお)を識らずと。善知識の如きは、箇の境塊子(きょうかいす)を把出して、学人の面前に向(お)いて弄す。前人弁得(べんとく)して、下下(げげ)に主と作(な)って境惑(きょうわく)を受けず。

善知識便即(すなわ)ち半身を現ず。学人便ち喝す。善知識また一切差別の語路の中に入って擺撲(はいぼく)す。学人云く、好悪(こうお)を識らざる老禿奴(ろうとくぬ)と。善知識歎じて曰く、真正の道流と。

諸方の善知識の如きは、邪正を弁ぜず。学人来たって菩提涅槃(ぼだいねはん)、三身の境智を問えば、瞎老師(かつろうし)は便ち他の与(ため)に解説(げせつ)す。他の学人に罵著(めじゃく)せられて、便ち棒を把って他を打つ、言に礼度(れいど)無し、と。

自ら是れ汝善知識眼(まなこ)無し、他を瞋(いか)ることを得ず。一般の好悪(こうお)を識らざる禿奴有って、即ち東を指し西を画し、晴を好み雨を好み、灯籠露柱を好む。汝看よ、眉毛幾茎(いくけい)か有る。這箇(しゃこ)機縁を具す。

学人会せずして、便即(すなわ)ち心狂す。是の如きの流(たぐい)は、総べて是れ野狐の精魅魍魎(せいみもうりょう)。他(か)の好学人にアクアク(あくあく)と微笑せられて、瞎老禿奴(かつろうとくぬ)、他の天下の人を惑乱すと言わる。


注:

機権(きけん)の語路:いわくのある云い廻し。

口角頭:口先、口頭。

ザン過する:突き出す。

坑子裏(こうすり):便壷。

尋常なり:素直になる。

好悪(こうお):もののけじめ。

境塊子(きょうかいす):認識の対象となるもの。座右の品物とか、庭先にある花木、灯篭のような物。

下下(げげ)に:一つ一つ、次々に。

擺撲(はいぼく)す:うち動かす。

老禿奴(ろうとくぬ):老いぼれ坊主。

瞎老師(かつろうし):片目の老師。明盲(あきめくら)の老師、眼の無い老師。

眉毛幾茎(いくけい)か有る:眉毛がどれくらい残っているだろうか。当時、間違った法を説いたら、眉毛が抜け落ちるという俗信があった。そのため、このような表現をする。

心狂す:ノイローゼになる。

アクアク(あくあく)と微笑せらる:くすくす笑われる。

   

現代語訳


お前達、諸方から修行者がやって来て、道場主と修行者が対面し問答を交わすことを考えてみよう。その後修行者はさっそく一句をもち出して、目の前の和尚(道場主)の力量を試みようとする。

修行者はいわくありげな言葉を持ち出して、和尚の口先に突き付け、「さあ、和尚さん、これが分かりますか」と言って和尚を試す。和尚はそれが自分を試そうとする探り道具だと知ったら、それを引っつかんで便壷に放り込む。すると修行者はたちまちおとなしく素直になる。

それから彼は和尚の教えを求める。和尚は前と同じように修行者を勘破し奪い取って許さないと、修行者は、「素晴らしい!さすがは天下の大和尚だ」と言う。すると、和尚は「お前さんはもののけじめが何も分かっていないな」と云う。

その和尚が真の善知識であれば、何か近くにある物を取り出し、修行者の面前でひねくって見せる。修行者はその意図が分かると、一つ一つ主体的にこなして、それに惑わされることはない。

そこで和尚は本身の半分だけを表わして見せると、修行者はすかさず一喝する。和尚は今度はいろんな言葉で修行者を揺さぶる。修行者が「もののけじめが分からない老いぼれ坊主だな」と言うと、和尚は、「お前さんは真の修行者だ」と感心したように褒める。 

ところが、現今の諸方の指導者達の多くは、邪正を見分ける力がない。修行者が来て、菩提涅槃、三身の境智などについて質問すれば、めくら和尚は直ぐにああこう理屈を付けて解説する。

それに満足しない修行者に批判され罵られようものなら、直ぐ棒を取って、「お前は無礼なことを言う奴だ」と打つのだ。このような指導者は元々指導者としての眼(まなこ)は無いし、修行者を叱る資格もないのだ。

また、もののけじめもつかない坊主がいて、右や左、東や西とくるくる向きを変え、いい天気だ、いい雨だ、いい灯籠だ、いい露柱だと説き廻る。

見るがいい、こんな指導者の眉毛は抜け落ち、もう何本も残っていないだろう。彼等に指導者としての機縁や力量があるだろうか。修行者はここが分からないため、ノイローゼになってしまうのだ。

このような指導者達は皆野狐や妖怪変化の類(たぐい)だ。まともな修行者から、「あの馬鹿坊主がまた天下を惑わしている」と苦笑されるだけだ。


   

コメント


ここでは禅の指導者と修行者の問答を例として具体的に上げている。それを通して指導者のあり方が説かれている。

ここで挙げられた会話例から臨済が生きた唐代の禅修行の実態が垣間見える。特に後半ではレベルの低い野狐禅を説く師家の様子が伺えて興味深い。

   
10-6

〔示衆〕10−6

岩波臨済録 p.96〜97  



道流、出家児は且(しばら)く学道を要す。祇だ山僧の如きは、往日曽(か)って毘尼(びに)の中に向かいて心を留(と)め、亦た曽って経論を尋討(じんとう)す。

後、方に是れ済世の薬、表顕の説なることを知って、遂に乃ち一時に抛却して、即ち道を訪い禅に参ず。後、大善知識に遇いて、方乃(はじめ)て道眼分明にして、始めて天下の老和尚を識得して其の邪正を知る。

是れ娘生下(じょうしょうげ)にして便ち会するにあらず、還って是れ体究練磨して、一朝に自ら省(しょう)す。

道流、汝如法(にょほう)に見解せんと欲得(ほっ)すれば、但だ人惑を受くること莫れ。裏に向かい外に向って、逢著(ほうじゃく)すれば便ち殺せ。仏に逢(お)うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷(しんけん)を殺して、始めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり。



注:

毘尼(びに):梵語ヴィナヤ(毘奈耶)の略で、戒律のこと。

大善知識:臨済の師黄檗希運を指す。

   

現代語訳


お前達、出家はともかく修行が肝要だ。わしの場合、最初の内は戒律の研究をしたり、経典を色々読み漁ったものだよ。しかし、そのようなことは世間の病を治す薬や広告の文句のようなものだと分かった。そこで、全てを投げ打って、禅の道に参じたのだ。

後で、大善知識(黄檗希運禅師)に遇って、始めて悟りの眼がはっきり開き、天下の老和尚どもの悟りが本物かどうかを判別できるようになった。この能力は生まれつき会得したものではない。体究練磨を重ねた結果、ある時はっと悟って目覚めたのだ。

お前達、真正の見地を得ようと思ったら、他人に惑わされては駄目だ。

内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺せ。

そうして始めて解脱することができ、何者にも束縛されず、突き抜けたように自由に生きることできるのだ。




コメント


この示衆の冒頭で臨済は

「禅では修行が肝要だ」と「修行の重要性」を説いている。

その後、自身の求道の旅を語っているのが注目される。

彼は最初戒律や経典などを色々研究した。しかし、そのようなことは世間の病を治す薬や広告の文句のようなものだと自分の誤りに気付いた。そこで、彼は全てを投げ打って、禅の道に入ったのである。

そこで大善知識である黄檗希運禅師に遇って、始めて悟りの眼がはっきり開き、天下の老和尚どもの悟りが本物かどうかを判別できるようになる。この能力は生まれつき会得したものではない。刻苦修行した結果、ある時はっと悟って目覚めたのだと半生を回顧している。

示衆の後半部で臨済が言う

仏に逢(お)うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷(しんけん)を殺して、始めて解脱を得

と言う言葉が特に有名である。

臨済が「お前達、真正の見地を得ようと思ったら、他人に惑わされては駄目だ」と言うように他人に惑わされないためには、祖仏、父母、親眷などあらゆる権威を否定し(殺し)無依独立の道を行かねばならない。

そうして始めて解脱することができ、何者にも束縛されず、突き抜けたように自由に生きることできる。

このように空、無相の自己に帰依することが<真正の見地>だと言っている。

これは仏教の教祖ゴータマ・ブッダが説いた<自帰依>の精神に近いと言えるかも知れない(原始仏教を参照)。

キリスト教やイスラム教などの一神教は神への絶対帰依を説く。一般的にほとんどの宗教では教祖や神を絶対的存在として帰依崇拝する。

教祖や神を批判したり、自分と同じレベルで論ずることはゆるされない。

たとえばイスラム教において開祖ムハンマドを批判したりすると死刑宣言が出ることからも分かる。ところが禅では臨済以来そのような束縛を脱している。

ゴータマブッダ以来の伝統を引き継ぐ反骨と人間主体の精神を持つ自由な宗教であることが分かる(原始仏教を参照)。

これと似た思想は雲門宗の開祖雲門文偃にもあったようだ。「碧巌録」16則の評唱には次ぎのようなことが述べられている。

雪竇云く「釈迦老子、初め生まれ来たりて、一手は天を指し、一手は地を指して、四方を見回して云く『天上天下唯我独尊』と。雲門云く、「我当時もし会わば、一棒に打殺(うちのめ)し、狗子(いぬ)に与えて喫却(くらわ)しめ、貴(ひとえ)に天下の大平を要(もと)めん」と。

雲門は仏教の開祖釈迦に会ったら「一棒のもとに打殺(うちのめ)し、狗子(いぬ)に与えて喫却(くらわ)しめ、貴(ひとえ)に天下の大平を要(もと)めん」と宗教者とは思えない過激な言葉を吐いているのである。

仏教では祖仏は神に相当する神格的存在である。それを否定することは他の宗教ではありえない。

その意味で、このような権威否定の自由な批判精神は宗教においては珍しい。眼を見張るほど新鮮である。

科学者は真理発見の過程において権威を否定しそれを乗越えることはしばしばある。そのような創造的精神に通じると言えるだろう。

これは仏教の教祖ゴータマ・ブッダが説いた<自帰依>の精神の禅的表現と言えかも知れない。

この有名な言葉は示衆5−1に見える

「仏に逢(お)うては仏に説き、祖に逢うては祖に説き、羅漢に逢うては羅漢に説き、餓鬼に逢うては餓鬼に説く」

という言葉の否定形になっている。

示衆5−1に見えるこの言葉は臨済の何物にも縛られない自由な<悟りの境地>を表わしている。

そのような<悟りの境地>をも否定し、更にのり超えることを言っているとも取れる。

このように、禅には一般宗教の常識を突き抜けたところが見られる。

   
10−7

〔示衆〕10―7

岩波臨済録 p.98〜100  



諸方の学道流(がくどうる)の如きは、未だ物に依らずして出で来る底(てい)有らず。山僧は此間(すかん)に向いて従頭(じゅうとう)に打す。手上に出で来たれば手上に打し、口裏(くり)に出で来たれば口裏(くり)に打し、眼裏(げんり)に出で来たれば眼裏に打す。

未だ一箇も独脱し出で来る底(てい)有らず。皆な是れ他(か)の古人の閑機境に上る。山僧は一法の人に与うる無し。祇だ是れ病(やまい)を治し縛を解く。

汝諸方の道流、試みに物に依らずして出で来れ、我れ汝と共に商量(しょうりょう)せんと要(ほっ)す。十年五歳、並びに一人も無し。

皆な是れ依草附葉(えそうふよう)、野狐の精魅にして、一切の糞塊(ふんかい)上に向って乱咬(らんこう)す。瞎漢(かっかん)、枉(いたずら)に他(か)の十方の信施(しんせ)を消(しょう)し、我は是れ出家児と道(い)って、是(かく)の如き見解(けんげ)を作(な)す。

汝に向って道(い)わん、無仏無法、無修無証と。祇だ与麼(よも)に傍家に什麼物(なにもの)をか求めんと擬(ほっ)す。

瞎漢(かつかん)、頭上に頭を安(お)く。是れ汝什麼(なに)をか欠少(かんしょう)する。道流、是れ汝目前に用うる底は祖仏と別ならず。祇麼(ひたす)ら信ぜずして、便ち外に向って求む。

錯(あやま)ること莫れ。外に向って法無く、内も亦た得べからず。汝、山僧が口裏(くり)の語を取らんよりは、如かず休歇(きゅうけつ)して無事にし去らんには。

已起(いき)の者は続ぐこと莫れ、未起(みき)の者は放起することを要せざれ。便ち汝が十年の行脚(あんぎゃ)に勝らん。

注:

従頭(じゅうとう)に:当頭,初めから。

手上:手ぶり。

口裏(くり):言葉。

古人の閑機境:古人が設けたつまらない方便の言句や手本のような仕掛け。示衆8−1に出た「閑塵境(かんじんきょう)」と同じ。

一法の人に与うる無し:臨済の師黄檗希運の説法集である「伝心法要」には「ただ直下に自心の本来仏なることを頓了すれば、一法の得べきなく、一行の修すべき無し」とある。

商量(しょうりょう)する:色々考えて推し量る。

依草附葉(えそうふよう):物の怪や精霊はその辺の草木に憑依して害を与えるという意味。

依草附木(えそうふぼく)と同じ意味 「無門関」第一則を参照

糞塊(ふんかい)上に:依りかかりとする糞塊(ふんかい)のようなものに。

乱咬(らんこう)す:やたらにかみつく。

枉(いたずら)に:むなしく、無意味に。

頭上に頭を安(お)く::既に示衆1−5に出た演若達多が自分の頭を無くしたと思って頭を探し廻ったという「首楞厳経」第四巻の話を背景にしている。頭があるのに更に頭を置くという意味。

是れ汝什麼(なに)をか欠少(かんしょう)する:約示衆9−4に於いて出て来た「現今聴法の無依の道人は、歴々地に分明にして、未だ曽って欠少せず」と同じ意味。

山僧が口裏(くり)の語を取る:山僧(臨済)が言う言葉を大事に記録したりする。当時は有名な禅師の説法を大事に記録することが流行したようだ。ここではそのようなつまらんことをするなと戒めている。馬祖、百丈、南泉なども「我が語を記する莫れ」と戒めたと伝えられる。

已起(いき)の者:すでに起こった念慮(雑念)。

未起(みき)の者:未だ起こっていない念慮(雑念)。

     

現代語訳


諸方の修行者達で、何物にも依存しないでわしの前に出て来るような者はいない。わしはそういう男(物に依存して出て来る者)を見たらすぐ叩く。手ぶりで出て来れば手ぶりを叩き、言葉で来れば言葉で叩き、眼で来れば眼で叩くのだ。

しかし、未だに誰一人として何物にも依存せず、独脱してわしの前に出て来るような者はいない。皆な古人のつまらない言句に依存しているが、わしのところには一つの法も人に与えるものは無いのだ。

ただお前達の病(やまい)を治し、束縛を解こうとするだけである。お前達諸方の修行者よ、試しに物に依存しないで出で来い。わしはお前達と一緒にいろいろ考えて見たいのだ。

しかし、十年経っても五年経っても、そういう男は一人も現れない。現れるのは皆草木に取り付いた野狐の精霊のようなものばかりだ。彼等は糞の塊のようなつまらない古人の言句をみだりに口にしているだけだ。

盲坊主め! いたずらに諸方の信者からの施物を消費し、わしは出家者だと言って、誤った考え方をしている。そのような者達に対し、わしは「無仏無法、無修無証なのだ」と言いたいのだ。

それなのにお前達は脇道にそれて一体何を求めようとするのだ。盲ども! 頭の上に頭を置くような無駄なことをするな。お前達に一体何が不足していると言うのだ。

お前達、お前達自身が今現に見聞きしている働きが、そのまま祖仏に他ならない。

お前達はそれを信じることができないため、ひたすら外に向って求めている。間違ってはならない。仏法は外に向って求めても得られるものではない。だかといって内に求めても得ることはできないのだ。

お前達、こう言うわしの言葉に飛びつくよりは、内にも外にも求めず、無事の境地に静かに安らいでいることが一番だ。

すでに起こった雑念を相手にせず、余計な雑念も起こさなければ、お前達が十年行脚(あんぎゃ)して修行するよりずっとましだ。


コメント


前の示衆で臨済は「真正の悟りを得ようと思ったら人惑を受けるな!仏祖、羅漢のような有り難そうな物や権威を一切否定し、何者にも束縛されず、無依独立の道を行かねばならない」と言った。

ここでは何者にも束縛されない、無依独立とは何かについて更に言及している。

臨済は「何物にも依存しない独脱した者を長い間待っているがそのような者は誰もいない。皆な古人のつまらない言句に依存している依草附葉(えそうふよう)の野狐の精魅のようなつまらに者達ばかりだ」と嘆く。

そして、「真正の禅では一法も人に与えるものは無い。無仏無法、無修無証のところを悟れ!」と師黄檗希運から伝えられた禅法を説いている。

この部分は示衆9−4の冒頭の「道の修すべき有り、法の証すべき有りと。汝は何の法をか証し、何の道をか修せんと説く」と同じ意味である。

この示衆の後半部の

お前達に一体何が不足していると言うのだ。お前達、お前達自身が今現に見聞きしている働きが、そのまま祖仏に他ならない

という言葉がこの示衆で臨済が最も強調したい箇所となっている。

これを科学的に云うと

お前達自身が今現に見聞きしている健康な脳の働きが、そのまま祖仏に他ならない。その働きには何の不足もない

と言っていることになるだろう。これを次の図12で示す。



図12

図12 お前達自身が今現に見聞きしている働き(汝目前に用うる底)が、そのまま祖仏に他ならない


   

ただこの脳とは坐禅修行によって下層脳から活性化された健康な脳の働きを指している。前頭連合野を中心とする単なる分別意識脳(知性や理性)ではないことに注意すべきである。

臨済は坐禅修行によって活性化された脳幹を中心とする下層脳優勢の脳とその働き(無分別智)こそが祖仏であると言っているのだ。

仏教では伝統的に下層脳優勢の脳とその働き(無分別智

こそが仏の智慧だとされている「仏の智慧=無分別智、無差別智」を参照)。

「汝目前に用うる底」とは示衆10−4で出て来た「目前現今聴法底の人」、示衆9−4の「現今聴法の無依の道人」と同じである。

その本質は文学では明らかにすることはできない。

脳科学によって初めて明らかにされた下層脳(脳幹+大脳辺縁系)を中心とする脳である(禅と脳科学を参照)。

汝目前に用うる底」や「目前現今聴法底の人」は外に向って求めても得られないし、内に求めても得ることはできない。それは頭蓋骨の内部に厳重に保護され我々がいくら考えても、感覚によっても求めることはできないからである。

内にも外にも求めず、無事の境地に静かに安らぐことだ(休歇(きゅうけつ)して無事にし去れ)と、ここでも「無事」の思想を述べている。


     

〔示衆〕10―8

岩波臨済録 p.101〜102  



「山僧が見処に約せば、如許多般(そこばくはん)無し、祇だ是れ平常(びょうじょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、無事にして時を過ごす。汝、諸方より来たる者、皆な是れ有心にして仏を求め法を求め、解脱を求め、三界を出離せんことを求む。

痴人、汝は三界を出でて、什麼(いずれ)の処に去らんと要(ほっ)するや。仏祖は是れ賞ゲ底(しょうげてい)の名句なり。

汝、三界を識らんと要(ほっ)するや。汝が今の聴法底の心地を離れず。汝が一念心の貪(とん)は是れ欲界。汝が一念心の瞋(しん)は是れ色界。汝が一念心の痴(ち)は是れ無色界。是れ汝が屋裏の家具子(かぐす)なり。

三界は自ら我は是れ三界なりと道(い)わず。還って是れ道流、目前霊霊地にして、万般を照燭(しょうそく)し、世界を酌度(しゃくど)する底の人、三界の与(ため)に名を安(つ)く。

注:

如許多般(そこばくはん)無し:何も面倒なことはない。

有心にして:下心があって。

賞ゲ底(しょうげてい)の名句:奉っておくだけの名称。

霊霊地にして:ありありと明白に。

世界を酌度(しゃくど)する底の人:世界を品定めしている人。

名を安(つ)く:その物をその物たらしめること。こちらが創造主として命名すること。

     

現代語訳


わしの見るところでは何も面倒なことはない。ただふだん通りに、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)し、無事にして時を過ごすだけだ。

諸方からやって来るお前達、皆な下心を持って仏を求め法を求めて、解脱して、三界を出離しようとする。

お前達は愚か者だ。三界を出て、一体何処に行こうというのか。仏とか祖師とか言うものはただ奉っておくだけの名称に過ぎない。

お前達は、三界を知りたいか。それは今わしの説法を聴いているお前達の心を離れては存在しない。

お前達の貪欲の一念が欲界であり、お前達の瞋恚の一念が色界であり、お前達の愚痴の心が無色界である。これらはお前達の家に備え付けの家具なのだ。

三界は自ら自分のことを三界だとは言わない。今わしの目前でありありと一切のものを照らし出し、全世界を品定めしているお前達こそが、三界に三界という名前を付けているのだ。


コメント


前回の示衆に引き続き「祇だ是れ平常(びょうじょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、無事にして時を過ごす。」と無事の思想が冒頭から出て来る。臨済にとって「無事」の思想が如何に重要であるかが分かる。

お前達は諸方からやって来て仏法を求めて、解脱して、三界(迷いの世界)を出離しようとする。しかし、三界は今わしの説法を聴いているお前達の心を離れては存在しないから三界を脱離できないとずばり指摘する。

我々の貪欲の一念が欲界であり、我々の瞋恚の一念が色界であり、我々の愚痴の心が無色界である。これらは我々の身体に備え付けの家具のようなものだと臨済は説く。

また、三界に三界という名前を与えているのはありありと一切のものを照らし出し、全世界を品定めしているお前達だとして、主体的に貧瞋痴の三毒に取り組むことが肝要だと言っている。

ここでも「三界は汝が今の聴法底の心地を離れず。」と言っているのが注目される。これは「三界は今説法を聴いている自己の心地である脳を離れない」ということを意味している。

このことから、臨済は

我々の心にある貧瞋痴の三毒を主体的に制御しながら無事にして日常を平常心で生きよ

と言っていることが分かる。

この考え方は馬祖禅の<平常心是道>の思想から来ていると思われる(馬祖禅の思想を参照)。


   

〔示衆〕10―9

岩波臨済録 p.102〜104  



「大徳、四大色身(しだいしきしん)は是れ無常なり。乃至、脾胃肝胆(ひいかんたん)、髪毛爪歯(はつもうそうし)も、唯だ諸法の空相を見る。

汝が一念心の歇得(けつとく)する処、喚んで菩提樹と作(な)す。汝が一念心の歇得(けつとく)すること能わざる処、喚んで無明樹と作(な)す。

無明は住処なく、無明は始終なし。汝若し念念心歇不得ならば、便ち他(か)の無明樹に上(のぼ)り、便ち六道四生に入って、披毛戴角(ひもうたいかく)せん。

汝若し歇得(けつとく)せば、便ち是れ清浄身界なり。汝一念不生なれば、便ち是れ菩提樹に上って、三界に神通変化(へんげ)し、意生化身(いしょうけしん)して、法喜禅悦(ほっきぜんえつ)し、身光自ら照らさん。

衣を思えば 羅綺千重(らきせんじゅう)、衣を思えば、百味具足して、更に横病なし。 菩提には住処無し、是の故に得る者無し。

道流、大丈夫の漢、更に箇(こ)の什麼(なに)をか疑わん。目前の用処(ゆうじょ)、更に是れ阿誰(たれ)そ。

把得して便ち用いて名字に著すること莫(な)きを、号して玄旨と為す。

与麼に見得せば、嫌う底の法勿(な)し。

古人云く、心は万境に随って転じ、転ずる処実に幽なり。流れに随って性を認得すれば、喜びも無く亦憂いも無し、と。

注:

四大色身(しだいしきしん):地水火風の四大から成る肉身。

菩提樹:悟りの境地を菩提樹に喩えている。

無明樹:頑迷な迷いの状態を樹木に喩えている。

無明は住処なく、無明は始終なし:「維摩経」観衆生品第七に「菩提は住処無し、この故に得る者有ること無ければなり」という文が見える。後出の「菩提には住処無し、是の故に得る者無し」はこの文を引用したものである。この文に於いて菩提を無明に置き換えて、「無明は住処なく、無明は始終なし」と言ったと思われる。「無明には実体がなく、始めも終りもない」という意味。

六道:地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六つの迷いの世界。六趣ともいう。

六道四生:六道における胎生・卵生・湿生・化生の四種の生まれ方。

意生化身(いしょうけしん):菩薩が意のままに様々に化身すること。

法喜禅悦(ほっきぜんえつ):禅定にともなう法の安らぎに浸る喜び。禅定にともなってβ・エンドルフィンやドーパミン、セロトニンなどの脳内麻薬が分泌され安らぎの心が生まれる。

その時の安らぎと快感に浸る喜び(禅と脳科学を参照)。

羅綺千重(らきせんじゅう):千着の美服。

横病:不意(不慮)の病。

古人云く、心は万境に随って転じ、転ずる処実に幽なり。流れに随って性を認得すれば、喜びも無く亦憂いも無し:古人とはインドの第22祖魔拏羅(まぬら)尊者を指す。「心は万境に随って転じ、転ずる処実に幽なり。流れに随って性を認得すれば、喜びも無く亦憂いも無し」は魔拏羅(まぬら)尊者の伝法偈として伝えられるもの。「宝法伝」五、「伝灯録」二などに見える。

     

現代語訳


お前達、地水火風の四大元素から成るこの肉体は無常である。

さらに、脾胃肝胆(ひいかんたん)や毛髪爪歯なども条件によって生じた空なるものにすぎない。

お前達の雑念の動きが静まり心が安らいだ時に、それを悟りと言い、雑念が静まらない時には、無明と言うのだ。

無明には実体はなく、始めも終りもない。もしお前達の雑念の動きが静まらなければ、無明の樹に登って、六道四生に輪廻し、角を持つ獣(けもの)に生まれることにもなる。

逆にお前達の雑念の動きが静まれば、そのまま清浄法身の境涯だ。一念が不生ならば、そのまま悟りの樹に上ることになる。

そうなれば三界に自由に神通変化し、意のままに化身し、法の安らぎに浸る喜びを味わい、身体から光が出て自ら照らすようなことになるだろう。

 そんな時には、心の欲するままに、千着の美服をまとい、百味の美味を口にし、不慮の病に罹ることもないだろう。

しかし、その「菩提」も実体がないものだから、菩提というものを得ることもないのだ。

お前達、大丈夫たる者が更に何を疑うのか。今目前で躍動しているもの、それを誰だと思うのか(お前達自身ではないか)。

これをしっかり掴んだら、直ぐに活用して、名前に執着することもない。それが仏法の玄旨だ。このように納得できれば、嫌うようなものは無くなる。

このところを、古人魔拏羅(まぬら)尊者は、「心は色々の対象に万随って転じ動くが、転変する処はまことに幽玄である。心の流れに随ってその心性を見究めれば、喜びも憂いも無い」と言っている。


コメント


示衆の冒頭で臨済は「お前達、地水火風の四大元素から成るこの肉体は無常である。さらに、脾胃肝胆(ひいかんたん)や毛髪爪歯なども条件によって生じた空なるものにすぎない」と彼の身体観を述べている。

「空」とは条件性で縁起所生のものであるという点は正しい。しかし、空観の基礎には万物は無自性という考えがある。現代化学では物質の根底にある原子や分子ははっきりした自性を持っていることが分かっているからである。例えば金や白金は殆ど錆びない。しかし、鉄やアルミニウムは錆び易い。これは物質の自性である。

ここでは、この点を修正し、「空」とは条件性で縁起所生の無自性であるとしても脳内現象に限って適用できると考える。そうすれば空観は正しいと言っても良いだろう。

「お前達の雑念の動きが静まり心が安らいだ時に、それを悟りと言い、雑念が静まらない時には、無明と言うのだ。無明には実体はなく、始めも終りもない」という言葉は臨済の無明と悟りに対する考えを述べたもので興味深い。

即ち、悟りとは雑念の動きが静まり心が安らいだ状態のことであり、無明とは雑念が静まらないため心に安らぎがない状態である。悟りと無明は心に安らぎがあるか無いかであると言う。

普通、熱心に坐禅をすればA10神経やセロトニン神経が活性化し、β・エンドルフィンやセロトニンなどの分泌によって心は自然に安らぐ。この観点に立てば、坐禅は心に安らぎをもたらす手段であるとともに悟りの手段となる。

禅宗において何故坐禅修行するかの理由が科学的に説明できるのである(「禅と禅定の脳科学」を参照)。

こう考えれば悟りと無明は分かり易い。普通伝統的仏教では無明とは道理に暗い状態を言うが、臨済のいう無明と少し違うのが注目される。臨済が定義する無明とは彼の禅定体験に基づいたものであることが注目される。

更に「もしお前達の雑念の動きが静まらなければ、無明の樹に登って、六道四生に輪廻し、角を持つ獣(けもの)に生まれることにもなる」と言う。

無明の状態が続けば六道四生に輪廻し、角を持つ獣(けもの)のような道理に暗い状態になると言っていると考えることができよう。

逆に、

雑念が静まれば、そのまま清浄法身の境涯になる。一念が不生ならば、そのまま悟りの樹に上ることになる。そうなれば三界に自由に神通変化し、意のままに化身し、法の安らぎに浸る喜びを味わい、身体から光が出て自ら照らすようなことになるだろう

と悟りの状態を讃美している。

そうなれば、心の欲するままに、千着の美服をまとい、百味の美味を口にし、不慮の病に罹ることもない」と言う。

これは、悟って仏位に達すれば、心の欲するままに、千着の美服をまとい、百味の美味を口にし、不慮の病に罹ることもない、と「悟り」を比喩的表現で美化しているのである。

しかし、その「菩提」も実体がないので、現実にはそのようなこともないと 理想と現実のギャップを正直に言っているのが面白い。

次に、

お前達、大丈夫たる者が更に何を疑うのか。今目前で躍動しているもの、それを誰だと思うのか(お前達自身ではないか)。 これをしっかり掴んだら、直ぐに活用して、名前に執着することもない。それが仏法の玄旨だ。このように納得できれば、嫌うようなものは無くなる

と臨済自身の悟りを言っている。これはこの示衆で臨済が一番言いたいところだと思われる。

ここで「お前達、大丈夫たる者が更に何を疑うのか。今目前で躍動しているもの、それを誰だと思うのか」に対する答は「それは脳だ!」と言って良いだろう。

ただ臨済が生きた時代(唐代)にはそれが未だ分かっていなかった。臨済はそれを文学的に表現しているだけである。

本来の自己である脳を掴めば(覚知すれば)、直ぐに活用して、名前に執着することもない。それが仏法の玄旨だ。このように納得できれば、嫌うようなものは無くなると言っているのである。

このところを、古人魔拏羅(まぬら)尊者は、

心は色々の対象に万随って転じ動くが、転変する処は誠に幽玄である。心の流れに随ってその心性を見究めれば、喜びも憂いも無い

と言っているのだとして、魔拏羅(まぬら)尊者の伝法偈を引用して締めくくっている。


   

〔示衆〕10―10

岩波臨済録 p.105〜108  



道流、禅宗の見解の如きは、死活循然(じゅんぜん)たり。参学の人、大いに須らく子細にすべし。

主客相見するが如きは、便ち言論往来あり。或いは物に応じて形を現じ、或いは全体作用し、或いは機権(きけん)を把って喜怒し、或いは半身を現じ、或いは獅子に乗り、或いは象王に乗る。

如(も)し真正の学人有らば、便ち喝して、先ず一箇の膠盆子(こうぼんす)を拈出す。善知識は是れ境なることを弁ぜず、便ち他(そ)の境上に上って模を作し様を作す。

学人便ち喝す。前人肯(あ)えて放たず。此れは是れ膏盲(こうこう)の病、医するに堪えず。喚んで、客、主を看(み)ると作す。

或是(あるい)は善知識、物を拈出せず、学人の問処に随って即ち奪う。学人奪われて、死に抵(いた)るまで放たず。此れは是れ主、客を看(み)る。

或いは学人有って、一箇の清浄境に応じて、善知識の前に出づ。善知識は是れ境なることを弁得し、把得して坑裏に抛向(ほうこう)す。

学人言う、大好(だいこう)の善知識と。即ち云く、咄哉(とっさい)、好悪を識らずと。学人便ち礼拝す。此れは喚んで、主、主を看(み)ると作す。

或いは学人有って、枷を披(つ)け鎖を帯びて、善知識の前に出づ。善知識更に与(ため)に一重の枷鎖を安(お)く。学人歓喜して、彼此弁ぜず。呼んで、客、客を看(み)ると作す。

大徳、山僧是の如く挙(こ)する所は、皆是れ魔を弁じ異を揀(えら)んで、其の邪正を知らしむるなり。

注:

循然(じゅんぜん)たり:自然に決まるものだ。

全体作用:まるまる本質を打ち出した躍動の働き。

或いは獅子に乗り、或いは象王に乗る:或る時には獅子に乗った文殊(菩薩)として現れ、或る時は象に乗った普賢(菩薩)のような縦横無尽の働きをする。

膠盆子(こうぼんす):膠(にかわ)を練るための盆。頭をつっこんだが最後膠(にかわ)がひっつくように身動きできなくなる古人の言句などの仕掛け。

膏盲(こうこう)の病:不治の病。

枷を披(つ)け鎖を帯びて:教条主義に縛られて。

         

現代語訳


お前達、禅宗の見解では、死ぬか活きるかは、自然に決まるものだ。修行者はこれを大切にしないといけない。

例えば師家(主)と修行者(客)が対面する時、必ず問答をする。この時、師家(主)は客の力量に応じて対応する。ある時は本体丸出しで発出したり、ある時は方便を用いて笑ったり怒ったりする。或る時は半身しか現わさず、獅子に乗った文殊として現れたり、象に乗った普賢として現れる。

もし力量ある真の修行者なら、一喝して、べたつき身動きできなくなるような古人の言句を師家に突きつける。しかし、師家はそれが単なる道具だとは気付かず、すぐそれに乗って、あれこれ格好をつける。それを見て修行者はすかさず一喝する。

しかし、師家は未だ道具を手放そうとはしない。こんな場合は不治の病で治しようが無い。こういうのを「客が主を看(み)る」と言う。

別の場合では、師家が何の道具も用いず、修行者が質問する度に質問するところを奪い取ってしまうことがある。修行者は奪われても、奪われても必死で質問に執着し手放そうとしない。このような場合は「主が客を看(み)る」と言う。

また或る場合には、修行者は清浄そうな格好で師家の前に現れる。師家はこれが単なる道具立てだと見破って、それを掴んで穴の中に投げ捨ててしまう。これを見て修行者は、「素晴らしい善知識だ!」と褒める。

すると師家は、「ちぇ!ものの善悪も分からない奴め!」と言う。すると修行者はさっと礼拝する。このような場合は、「主が主を看(み)る」と言うのだ。

また或る場合には、修行者が首枷(くびかせ)を披(つ)け鎖を引きずって、師家の前に出る。善師家は彼に一組の首枷や鎖を更に巻きつける。何も分からない修行者は喜ぶ。両者ともわけがわからず相手を見分けることができない。このような場合、「客が客を看(み)る」と言う。 

お前達よ、わしが挙げた例は皆、邪道や異端を見分け、正邪をはっきりさせるためである。


コメント


古来、この示衆は「臨済の四賓主」と呼ばれる。禅修行者が相見する時、主と客の優劣や正邪が分かれる。それを分別する分別智の重要性を指摘している。

普通禅や仏教の悟りの智慧は「無分別智」である。ことの優劣や正邪を知性に基づいて分別する分別智は低レベルの智慧として重要視されない。

しかし、この示衆で臨済は分別智の重要性を指摘しているのが注目される。臨済は上堂9でも分別智を評価していた。臨済が分別智を評価していたことはこの示衆にも現れている。


臨済の四賓主


この示衆で臨済は四賓主について次のように言っている。

四賓主とは主と客が相見し問答する時、お互いの悟りの境地の優劣を比較して四つに分類したものである。表にまとめると次の表7のようになる。


 表7 四賓主の説明

No  四賓主内容
主が客を看る(主看客)主>客(主が客より上のレベル)
客が主を看る(客看主)客>主(客が主より上のレベル)
主が主を看る(主看主)主=客(主客共に悟りの眼がある)
客が客を看る(客看客)主=客(主客共に悟りの眼がない)

臨済の四賓主は次の図13のように図示することができる。

 図13 臨済の四賓主の説明



図13

図中の点線は悟りのレベルを表わしている。点線より上にある時は悟りの眼を持っていることを示し、下にある時は悟りの眼を持たないことを示している。

「主が客を看る(主看客)」とは主は悟りの眼を持っているが客は悟りの眼を持たないことを主によって見破られている状態である。

「客が主を看る(客看主)」とは客は悟りの眼を持っているが主は悟りの眼を持たないことを客によって見破られている状態である。

主主を看る(主看主)とは主客共に悟りの眼があり、禅の話をしても相通じ肝胆相照らす仲である。

客客を看る(客看客)とは主客共に悟りの眼がない(無眼子)のでお互い話がチンプンカンプンでちっとも通じない仲である。

示衆8−2で臨済は「随処に主と作(な)れば、立処皆な真なり(どこにいようとも主体的に生きれば、そこが真実の場となるのだ)」と言って主体性を重視している。

その観点から「四賓主」を見ると、@の「主が客を看る(主看客)とBの「主が主を看る(主看主)」場合の二つが主人の主体性が発揮されていると言える。主から見るとこの二つが重要であることは言うまでも無いだろう。


   
10-11

〔示衆〕10―11

岩波臨済録 p.108〜112  



道流、寔情大難(しょくじょうたいなん)、仏法は幽玄なり。解得すること可可地(かかぢ)なり。山僧竟日(ひねもす)、他(かれ)の与(ため)に説破するも、学者は総べて意に在(お)かず。

師云く、「汝が一念心の疑、地に来たり礙(さ)えらる。汝が一念心の愛、水に来たり溺らさる。汝が一念心の瞋(しん)、火に来たり焼かる。汝が一念心の喜、風に来たり飄(ひるが)えさる。若し能く是の如く弁得せば、境に転ぜられず、処処に境を用いん。東湧西没(とうゆうせいもつ)、南湧北没、中湧辺没、辺湧中没、水を履(ふむ)むこと地の如く、地を履(ふむ)むこと水の如くならん。

何に縁(よ)ってか此(かく)の如くなる。四大の如夢如幻に達するが為の故なり。道流、汝が祇(た)だ今聴法するは、是れ汝が四大にあらずして、能く汝が四大を用う。若し能く是の如く見得せば、便乃(すなわ)ち去住自由ならん」。

千偏万偏、脚底に踏過して黒没シュン地(こくもつしゅんち)にして、一箇の形段(ぎょうだん)無くして歴歴孤明なり。

学人信不及にして、便ち名句上に向(お)いて解(げ)を生ず。年の半百に登(なんなん)とするまで、祇管(ひたすら)に傍家に死屍を負うて行き、担子(たんす)を担却して天下に走る。草鞋銭(そうあいせん)を索(もと)めらるること日有らん。

大徳、山僧が外に向(お)いて法無しと説けば、学人会せずして、便即(すなわ)ち裏に向(お)いて解(げ)を作し、便即(すなわ)ち壁に倚(よ)って坐し、舌、上顎(じょうがく)をササえて、湛然として動ぜず。此れを取って祖門の仏法なりと為(な)是す。

大いに錯れり。是れ汝若し不動清浄の境を取って是と為さば、汝即ち他(か)の無明を認めて郎主(ろうしゅ)と為す。

古人云く、湛湛(たんたん)たる黒暗の深坑、実に畏怖(いふ)すべし、と。此れ是れなり。汝若し他(か)の動ずる者を是と認むれば、一切の草木皆な能(よ)く動く、応に是れ道なるべきや。

所以に動は是れ風大、不動は是れ地大。動と不動と、倶に自性無し。汝若し動処に向(お)いて他(それ)を捉(とら)うれば、他(それ)は動処に向(お)いて立たん。譬えば泉に潜む魚の波を鼓して自ら躍るが如し。

大徳、動と不動とは是れ二種の境なり。還って是れ無依の道人、動を用い不動を用う。

注:

寔情大難(しょくじょうたいなん) :心底から道心を発することはなかなか難しいこと。

可可地(かかぢ)なり:分からないことはない。

黒没シュン地(こくもつしゅんち):真っ黒け。下層脳(無意識脳=脳幹+大脳辺縁系)を中心とする脳を指すと考えられる。「洞山録」では洞山良价は「一 物あり、上は天をササ(ささ)え、下は地をササ(ささ)う。黒きこと漆に似て常に動用中に在りて、動用に収め得ず。」と表現している。

郎主(ろうしゅ):奴隷の主人。

湛湛(たんたん)たる:水を深くたたえたような。

         

現代語訳


お前達、真の道心を起こすのは至難で、仏法は幽玄である。しかし、努力すれば相当のところまで分かるものだ。わしは一日中、皆に説いているのに、お前達は一向に気に止めない。

千べん万べんも、自分の足の下に踏み過ごしているものは真っ黒けで、姿形は全く無く独自の輝きを発して明らかである。しかし、修行者はこれを信じることができず、観念や概念で理解しようとしている。

歳が50才近くになっても、ひたすら死体のような肉体を担ぎ脇道へ走り回っている。そんなことでは死後、閻魔の前で草鞋銭(わらじせん)を請求されることになるだろう。

お前さん達、わしが仏法は外には無いと説けば、学人はその真意が分からない。

今度は内に求めようと、さっそく壁に向って坐禅し、舌を上顎(じょうがく)に当てて、湛然として静かな池の水のように意識を動かさない。これを祖師門の仏法であると思う。それは大いに間違っている。

もし、君が「不動清浄の境地」を良いと考えるならば、無明を自己の主人と認めるようなものだ。古人は、「湛湛(たんたん)たる暗黒の深い坑(あな)、これこそ真に恐ろしいところだ」と言っている。それはこのことを意味している。

これと逆に、もしお前達が動くもが正しいと考えるならば、一切の草木もよくな動くだろう。まさかそれが悟りだと言えるだろうか。動くのは四大の中の風大、動かないのは地大である。動と不動は空であり、ともに固定・不変の自性は無い。

もしお前達がそれを動く処で<それ>を捉まえようとすれば、<それ>は不動の処に立つだろう。それを譬えれば、池に潜む魚が波しぶきを立てて躍り上がるようなものだ。大徳、動と不動とは単なる二種の対象に過ぎない。

その本質は無依の道人が、動と不動を操作しているところにある。


コメント


この示衆で臨済は、「真の道心を起こすのは至難で、仏法は幽玄であるが相当のところまではわかるものだ」と説き起こし禅の悟りの核心に迫っている。臨済は、「わしは一日中、皆に悟りの核心を説いているのだが、お前達は一向に気付かない」と言う。

更に彼は、

千べん万べんも、自分の足の下に踏み過ごしているものは真っ黒けで、姿形は全く無く独自の輝きを発して明らかである。しかし、修行者はこれを信じることができず、観念や概念で理解しようとしている

と言っている。

この部分は悟りの本体(=無位真人)としての脳(下層脳)を

真っ黒けで、姿形は全く無く独自の輝きを発して明らかである(黒没シュン地にして、一箇の形段(ぎょうだん)無くして歴々孤明なり)

と表現したものと考えられ、注目すべき箇所である。

臨済はよく仏法は無相無形で表現できないと言う。しかし、ここでは更に突っ込んで、

真っ黒けで、姿形は全く無く独自の輝きを発して明らかである(黒没シュン地にして、一箇の形段(ぎょうだん)無くして歴歴孤明なり)

と表現しているのである。

それ(悟りの本体としての脳(下層脳))は姿形は全く無く見えない。しかし、真っ黒けで、独自の輝きを発して明らかであると表現している。

それ(悟りの本体としての脳(下層脳を中心とする脳)の姿形は全く無く見えない。しかし、それは真っ黒けで、独自の輝きを発して明らかであると表現している。

我々は脳を見ることは出来ない。まして、脳幹を中心とした下層脳は無意識脳である。それを、「真っ黒けで、独自の輝きを発して明らかである」と言っていると解釈できるだろう。

曹洞宗の祖である洞山良价も「洞山録」において、

一 物あり、上は天をささえ、下は地をささう。黒きこと漆に似て常に動用中に在りて、動用に収め得ず。」

とこれに言及しているのが注目される。

これも下層脳(無意識脳)を表現していると考えられる。「黒きこと漆に似て」は臨済の「黒没シュン地」と似ている。洞山良价の「黒きこと漆に似て」と言う言葉も脳幹を中心とした下層無意識脳を文学的に表現していると考えることができるだろう。

示衆の後半部で臨済は「もしお前達がそれを動く処で<それ>を捉まえようとすれば、<それ>は不動の処に立つだろう。それを譬えれば、池に潜む魚が波しぶきを立てて躍り上がるようなものだ」と言っている。

ここでいう<それ>とは下層脳を中心とする脳を指すと考えられる。臨済は「それを譬えれば、池に潜む魚が波しぶきを立てて躍り上がるようなものだ」と言っている。

ここで魚が出て来るのが面白い。魚類の脳は殆ど脳幹だけで構成され、人間の下層脳に似ているからである。

ピチピチ跳ねる魚によって悟りの本体である下層脳を中心とする脳がダイナミックに活動する様子を魚が波を打ってピチピチ跳ねる動態になぞらえて直感的に表現していると考えられるだろう。

示衆の締めくくりで、臨済は

その本質は無依の道人が、動と不動を操作しているところにある(還って是れ無依の道人、動を用い不動を用う)」

と言っている。

ここで出て来た<無依の道人>と言う言葉は「上堂―3」で出て来た<無依の道人>と同じと考えることができるだろう

「上堂―3」を参照)。

「上堂―3」で議論したように、<無依の道人>は脳だと考えることができる。ここでも<無依の道人>を脳だと考えよう。

そう考えると示衆の締めくくりで臨済は、

その本質は脳が、動と不動を操作しているところにある(還って是れ無依の道人、動を用い不動を用う)。」

と言っていることになる。

脳科学的にも、我々の動作(動と不動)は脳から出る運動指令によってコントロールされていることが分かっている。

従って、この示衆の締めくくりで臨済が言っていることは、科学的にも全く正しい。

これを次の図14に示す。


図14

 図14 我々の動作(動と不動)は無依の道人(脳)から出る運動指令によってコントロールされている


このように、臨済が脳の機能を良く理解していたことは実に驚くべきことである。


   

〔示衆〕10―12

岩波臨済録 p.112〜114  



如(も)し諸方の学人来たらば、山僧が此間(すかん)には三種の根器と作(な)して断ず。

如(も)し中下根器来たらば、我れ便ち其の境を奪って其の法を除かず。

或いは中上根器来たらば、我れ便ち境と法と倶に奪う。

如(も)し上上根器来たらば、我れ便ち境と法と人と倶に奪わず。

如(も)し出格見解の人有って来たらば、山僧が此間(すかん)には、便ち全体作用して根器を歴(へ)ず。

大徳、這裏に到っては、学人著力(じゃくりき)の処は風を通ぜず、石火電光も即ち過ぎ了れり。

学人若し眼定動(じょうどう)せば、即ち没交渉(もつきょうしょう)。心を擬すれば即ち差(たが)い、念を動ずれば即ち乖(そむ)く。人有って解せば、目前を離れず。

注:

其の境を奪って其の法を除かず:示衆1−1で説かれた「臨済の四料揀」の1つ<奪境不奪人>で人を法に置き換えると、<奪境不奪法>となる。この<奪境不奪法>に近い考え方と言える。境(学人)の我を奪い、法(理念)は奪わない状態と言える。

境と法と倶に奪う:示衆1−1で説かれた臨済の四料揀の<人境倶奪>で人を法に置き換えると、<法境倶奪>となる。これに近い考え方と言える。修行者の我意と法(理念)を倶に奪い取った状態である。

境と法と人と倶に奪わず:示衆1−1で説かれた臨済の四料揀の<人境倶不奪>で法を付け加えると、<人法境倶不奪>となる。これに近い考え方と言える。法、境(修行者)、人(主体)の三者とも奪い取ることはしない。上上根器の修行者に対しては、法、境(学人)、人をそのままにして、その三者がありのままに自由に振舞っている状態と言える。

出格見解の人:人並み外れた優れた力量を持つ人。

全体作用して根器を歴(へ)ず:全力を出して対応し、ランク付けはしない。

学人著力(じゃくりき)の処:修行者が全力を発揮した場所。

若し眼定動(じょうどう)せば:もし眼が少しでも動いたならば。

没交渉(もつきょうしょう):関係が無くなってしまう。

人有って解せば、目前を離れず:誰かこれが分かる人がいるとすれば、それは目前にいる君達に他ならない。

         

現代語訳


諸方から修行者がやって来た時、わしの処では三種類の根器に分けて指導する。もし中下根器の修行者が来たならば、わしは彼の我意を奪って其の法(理念)は奪わない。中上根器の修行者が来たならばば、わしは彼の我意と法(理念)を倶に奪い取ってしまう。

もし上上根器の修行者が来た時には、わしは彼の我意、法(理念)、人(主体)のどれも奪い取ることはしない。修行者がありのままに自由に振舞うにまかせる。

もし、人並み外れた優れた力量を持つ修行者が来た時には、わしは全力を挙げて対応し、ランク付けはしない。

諸君、ここまで来ると、修行者が全力を発揮した所には風も通らず、瞬間的激発によって電光石火のように過ぎ去るのだ。

もし修行者の眼が疑念のため、少しでも動くならば、もうそれとは無関係になる。心をさし向けるとかけ違い、一念を動かせば外れてしまう。誰かこれが分かる人がいるとすれば、それは目前にいる君達に他ならない。


コメント


この示衆では禅修行者(学人)を三種の根器に分けて、夫々への対応と指導法を論じている。

三種の根器は次の図15のように考えると分かりやすい。


図15

図15 禅の力量から見た三種の根器


図15のように、上、中、下と上上の四つのレベルを引く。四つのレベルは修行者(学人)の禅の力量とレベルを表わすと考える。

この示衆には@ 中下根器、A 中上根器、B 上上根器の三種の根器しか出てこない。

下根器あるいは下下根器などレベルの低い修行者は臨済の会下にはいなかったのだろうか?下根器以下の下級レベルの修行者を全て中下根器に含めて考えて親切に指導していたのかも知れない。

この示衆は示衆10−10の四賓主の考えと似たところがある。修行者の禅の力量とレベルを判断し分類するのは分別意識(知性)の働きである。ここでも四賓主の時と同じように、分別智を重視する臨済の姿勢が見えて興味深い。

境と法を奪ったり奪わなかったりする処は示衆1の『四料揀』に似ている。これは臨済の弟子の教育法だと考えることができよう。この示衆に書かれた臨済の教育法は以下のように考えることができよう。

1)中下根器の修行者の場合、臨済は彼の禅の境地を否定する(我意を奪う)が、彼が禅の道に入って修行したいという目的(理念)は立派なものだとして尊重する。

2)中上根器の修行者の場合、臨済は彼が自負している禅の境地と目的(理念)は未だ駄目だとして、ともに否定してしまう。

3)上上根器の修行者の場合、臨済は彼が自負している禅の境地と目的(理念)のどれも尊重する(奪い取ることはしない)。そして修行者がやりたいように自由に修行させる。

4)人並み外れた優れた力量を持つ修行者の場合、全力を挙げて対応し、ランク付けはしない。


今、中下根器の修行者を下級レベル、中上根器の修行者を中級レベル、上上根器の修行者を上級レベルの修行者だと考えよう。その時この指導法は分かり易く次ぎのようになるだろう。

1)中下根器(低級レベル)の修行者の場合、彼が参禅修行したいという目的(菩提心)はなかなか立派なものだとおだてるが、彼の禅の境地はまだ駄目だと否定する(我意を奪う)。

2)中上根器(中級レベル)の修行者の場合、臨済は修行者が自負している禅の境地や目的(菩提心)はともに未だ不充分だとして、厳しく指導する。

3)上上根器(上級レベル)の修行者の場合、臨済は彼が自負している禅の境地と目的(理念)のどれも尊重する(奪い取ることはしない)。そして修行者がやりたいように自由(自主的)に修行させる。

4)人並み外れた優れた力量を持つ修行者の場合、全力を挙げて対応し、ランク付けもしない。

即ち、臨済は中下根器(低級レベル)の修行者に対しは優しくおだてながらも厳しく指導するが、中上根器(中級レベル)以上の修行者に対しては厳しく指導している。上上根器(上級レベル)の修行者に対しては自由にまかせて修行させる。

このように考えると、臨済はなかなか合理的で優れた指導法を取っていたと言えるのではないだろうか。

示衆の最後のところで「もし修行者の眼が疑念のため、少しでも動くならば、もうそれとは無関係になる。心をさし向けるとかけ違い、一念を動かせば外れてしまう」と言っている。

修行者の眼が疑念のため、少しでも動くならば、もうそれとは無関係になる」とは修行者が自分を信じることができない(信不及)ならば、もう「真の自己」から離れ無関係になると言っていると考えられる。

誰かこれが分かる人がいるとすれば、それは目前にいる君達に他ならない」とは「それは目前にいる君達自身に他ならないではないか」と真の自己をズバリと直指している。

   

〔示衆〕10―13

岩波臨済録 p.114〜115  



大徳、汝は鉢嚢屎担子(はつのうたんす)を担(にな)って、傍家(ぼうけ)に走って仏を求め法を求む。即今与麼(よも)に馳求(ちぐ)する底(てい)、汝還た渠(かれ)を識るや。

活溌溌地(かっぱつぱつち)にして祇だ是れ根株(こんしゅ)勿し。擁(よう)すれども聚(あつま)らず、撥すれども散ぜず。求著(ぐじゃく)すれば転(うた)た遠く、求めざれば還って目前に在って、霊音(れいいん)耳に属す。若し人信ぜずんば、徒(いたず)らに百年を労せん。

道流、一刹那の間に、便ち華蔵(けぞう)世界に入り、毘廬遮那(びるしゃな)国土に入り、解脱国土に入り、神通国土に入り、清浄国土に入り、法界に入り、穢(え)に入り浄(じょう)に入り、凡に入り聖に入り、餓鬼畜生に入って、処処に討覓尋(とうみゃくじん)するに、皆な生有り死有ることを見ず、唯空名のみ有り。

幻化空花、把捉(はそく)を労せず、得失是非、一時に放却す。

注:

鉢嚢屎担子(はつのうたんす):鉢嚢とは雲水の食器入れのこと。屎担子とは糞袋のことで、肉体のこと。食器入れを身に付けて動く雲水の肉体を蔑視した言葉と考えられる。

傍家(ぼうけ)に:わき道の方へ。

根株(こんしゅ)勿し:根が無い。

擁(よう)すれども聚(あつま)らず、撥すれども散ぜず:心を宝珠に譬えた表現で、心という珠のようなものは、かき集めても聚(あつま)らないし、はじいても散らばることもない。

華蔵(けぞう)世界:毘廬遮那(びるしゃな)仏の願と修行によって荘厳された蓮華蔵(れんげぞう)世界のこと。蓮華蔵世界は華厳思想系の経典である梵網経で説かれている。

蓮華蔵世界とは大乗仏教の宇宙論の1つである。毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)(ヴァイローチャナ仏、略して盧舎那仏(るしゃなぶつ)、大日如来)と呼ばれる宇宙の根源的な仏がいるという話からはじまる。盧舎那仏は蓮華蔵世界と呼ばれる世界で教えを説いている。蓮華蔵世界は超巨大な蓮華から成る世界である。その蓮華は1000葉の花弁(蓮弁)を持つ。盧舎那仏は1000人の釈迦牟尼仏(ゴータマ・ブッダ)に化身し1000葉の花弁の1つ1つに住んでいる。さらにそれぞれの花弁には100億の世界があるとするので蓮華蔵世界には1,000x100億=10兆の世界がある。 各世界には盧舎那仏の化身である釈迦牟尼仏が1人ずついるとされるので、蓮華蔵世界にいる釈迦牟尼仏の総数は10兆人である。各釈迦牟尼仏は菩提樹の下に座して同時に悟りを開くという神秘的設定がされる。毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)は密教では大日如来と呼ばれる。

   

現代語訳


修行者達よ、君達は糞袋を担いで、脇道に駆け回って仏法を探し求めている。この今、そのように探し求めている者が何者であるか分かるか。それは勢い良くピチピチしているがどこにも根を張っていない。

それをかき集めようとしても聚(あつま)めることができない。払い散らそうとしても分散することはない。求めようとすれば遠ざかり、求めなければちゃんと目の前にあって、その霊妙な声は耳に聞こえてくる。もしこれが信じられないならば、たとえ百年もの長い年月、刻苦修行しても無駄になるだろう。

修行者達よ、一瞬のうちに、蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)に入り、毘廬遮那(びるしゃな)国土に入り、解脱の国に入り、神通の国に入り、清浄な国に入り、法界に入る。また浄穢(じょうえ)、凡聖、餓鬼畜生の世界に入る。しかし、どこを尋ね求めて見ても、生死は見えない。ただ空しい概念があるだけだ。

幻覚や空中の花のような捕まえることができないものを捕まえようと、無駄な労力を使ってはいけない。利害得失、是非善悪などの分別は、皆一辺に投げ捨てろ!


コメント


臨済は前の示衆(10−12)に続き、臨済は、

修行者達よ、君達は糞袋を担いで、脇道に駆け回って仏法を探し求めている。この今、そのように探し求めている者が何者であるか分かるか。それは勢い良くピチピチしているがどこにも根を張っていない

と言う。これは勿論「真の自己(脳機能)」の文学的表現に他ならない。

更に、臨済は、

それをかき集めようとしても聚(あつま)めることができない。払い散らそうとしても分散することはない。求めようとすれば遠ざかり、求めなければちゃんと目の前にあって、その霊妙な声は耳に聞こえてくる

と言う。これも「真の自己(脳機能)」の文学的表現である。

彼は「もしこれが信じられないならば、たとえ百年もの長い年月、刻苦修行しても無駄になるだろう」と言っている。

臨済が生きた9世紀にはこれはなかなか理解することが難しいことだったと思われる。しかし、科学が進歩した現代ではこれは「信じるか信じないかの問題」ではない。誰も疑うことができない科学的事実である。脳宇宙は微弱電流が流れる電磁的世界である。それが理解できればこのあたりは簡単に分かる。

ここで鉢嚢屎担子(はつのうしたんす)(糞袋)という言葉が出てくる。この言葉は肉体に対する禅的表現である。しかし、古代の肉体蔑視観が影を落としている。現代では訂正を要する言葉と考えられる。

修行者達よ、一瞬のうちに、蓮華蔵(れんげぞう)世界(せかい)に入り、毘廬遮那(びるしゃな)国土に入り、解脱の国に入り、神通の国に入り、清浄な国に入り、法界に入る。また浄穢(じょうえ)、凡聖、餓鬼畜生の世界に入る」とは自由自在に働く脳機能を表わしている。

しかし、どこを尋ね求めて見ても、生死は見えない)」とは脳幹を中心とした不生不滅とも言える世界を実感的に言っていると思われる。

脳幹を中心とした脳は夜も眠ることがない。常に働いている。それを「どこを尋ね求めて見ても、生死は見えない)」と言っていると考えられる。

しかし、脳幹と言えども人の死とともに活動を停止する。いわゆる「脳幹死 」である。現代では「脳幹死」は死の定義に関わる基本的問題である。

脳幹は一見「不生不滅の世界」のように見えるが本当は不生不滅ではない。脳幹も肉体の死とともに死ぬ。やはり死に至る無常原理から逃れることはできないのである。この辺りは科学的観点から訂正を要するだろう。

示衆の最後に臨済は「ただ空しい概念があるだけだ。幻覚や空中の花のような捕まえることができないものを捕まえようと、無駄な労力を使ってはいけない。利害得失、是非善悪などの分別は、皆一辺に投げ捨てろ!」と無駄な努力をしないように言っている。これは空観に基づいた彼の提言と言えるだろう。


   

〔示衆〕10―14

岩波臨済録 p.115〜117  



道流、山僧が仏法は的的相承(てきてきそうじょう)して、麻谷(まよく)和尚、丹霞(たんか)和尚、道一(どういつ)和尚、廬山と石鞏(せきぎょう)和尚と従(よ)り、一路に行じて天下にあまねし。人の信得する無く、尽(ことごと)く皆な謗(そしり)を起こす。

道一(どういつ)和尚の用処の如きは、純一無雑(むぞう)なり。学人三百五百、尽(ことごと)く皆な他(かれ)の意を見ず。

廬山和尚の如きは、自在真正にして、順逆の用処、学人涯際(がいさい)を測らず、悉(ことごと)く皆な忙然たり。

丹霞(たんか)和尚の如きは、翫珠(がんじゅ)隠顕(おんけん)し、学人の来たる者、皆な悉く罵らる。麻谷(まよく)の用処の如きは、苦きこと黄檗の如く、皆な近づき得ず。

石鞏(せきぎょう)の用処の如きは、箭頭(せんとう)上に向(お)いて人を覓む、来たる者は皆な懼(おそ)る。

注:

麻谷(まよく)和尚:麻谷(まよく)宝徹。馬祖道一の法嗣。

丹霞(たんか)和尚:丹霞(たんか)天然(739〜824)。石頭希遷(700〜790)の法嗣。 寒い冬のある日、丹霞天然は薪を燃やして暖を取っていた。しかし、遂に薪が無くなってしまった。そこで彼は仏像を持って来て燃やしてしまった。それを見咎めた院主に対し彼は仏舎利を取るためだと答えたと伝えられる。また僧堂の中央に安置されていた仏像の頸部に跨って坐るという奇行によっても知られる。

道一(どういつ)和尚:馬祖道一(どういつ)(709〜788)。中国禅の実質的大成者。洪州宗の祖。

廬山:廬山帰宗智常。馬祖道一の法嗣。

石鞏(せきぎょう)和尚:石鞏慧蔵。馬祖道一の法嗣。

翫珠(がんじゅ)隠顕(おんけん)し: 丹霞(たんか)天然の「翫珠吟」という偈頌の中に「般若の霊珠妙にして・・・。隠顕常に五蘊中に遊ぶ」と言う言葉がある。般若の智慧の珠を自在に隠したり顕わしたりする働きを意味している。

黄檗(おうばく):キハダ。ミカン科キハダ属の落葉高木で内皮は鮮やかな黄色をしているため黄檗と呼ばれる。抗菌性を持つアルカロイドを含み大変苦い。古来胃腸薬や黄色染料に用いられる。

箭頭(せんとう)上に向(お)いて人を覓む:石鞏慧蔵はもと猟師であった。石鞏は修行者が来ると、いつも弓に箭をつがえ「箭を看よ」と言って、引き絞る構えを示し迫ったという。「自己本来の面目」を弓矢で射止めるよう真剣に修行するよう修行者に警告したものと考えられる。

   

現代語訳


諸君、わしの仏法は麻谷(まよく)和尚、丹霞(たんか)和尚、道一(どういつ)和尚、廬山と石鞏(せきぎょう)和尚以来、はっきりと相承(そうじょう)して伝えられたものである。彼等と同じ道を歩んで来たものだ。

しかし、誰もその道を信じる者は無く、皆なことごとく誹謗したものだ。たとえば道一(どういつ)和尚の宗風は、純一で混じり気が無かった。修行者は四、五百人もいたが誰もその真意を見抜く者がいなかった。

廬山和尚の行動は、自在真正であり、順逆縦横で極まるところが無く、諸方から来た修行者はその辺際を窺い知ることができず皆忙然としていた。

丹霞(たんか)和尚の行動は、手中の珠を翫ぶこと自在であったように自己を用いること自在であり、道を求めてやって来た者は、皆罵られた。

麻谷(まよく)和尚の行動は、苦いこと黄檗(キハダ)のようであり、皆和尚に近づくことができなかった。

石鞏(せきぎょう)和尚は、常に弓を張り箭をつがえて修行者を試みたので来た者は皆恐れたものだ。


コメント


この示衆で、臨済は自分が的的相承(そうじょう)して来た禅はどのようなものかについて言及している。

彼は自分が強い影響を受けた禅師として麻谷(まよく)和尚、丹霞(たんか)和尚、道一(どういつ)和尚、廬山と石鞏(せきぎょう)和尚五人の名前を挙げている。彼らの法系図を次の図16に示す。


図16

図16 臨済が重視する禅師達の法系図


臨済が的的相承(そうじょう)したと言う、麻谷(まよく)和尚、丹霞(たんか)和尚、廬山と石鞏(せきぎょう)和尚四名の内麻谷(まよく)、廬山と石鞏(せきぎょう)の三名は馬祖道一(どういつ)の法嗣であり、丹霞(たんか)天然のみが石頭希遷の弟子である。

道一(どういつ)和尚の宗風は、純一で混じり気が無いと称賛している。このことより臨済は馬祖の洪州宗の法系の禅の影響を強く受けていたことが分かる。臨済はその本流と言って良いだろう。

丹霞(たんか)天然の師である石頭希遷は青原行思とともに後に曹洞禅の本源的存在である。

しかし、この法系では丹霞(たんか)天然一人のみしか挙げていないことからこの法系からの影響は少ないと言える。


曹洞禅と臨済禅との近い関係


雲巌曇晟(782〜841)は曹洞宗の開祖洞山良价(807〜841)の師であり、曹洞宗の成立に於いて重要な人である。

雲巌曇晟は20年もの間馬祖道一の法嗣百丈懐海に師事した。百丈に師事していた雲巌は百丈が814年に遷化したため、薬山惟儼(745〜828)の下に移り薬山に嗣法したのである。

薬山は石頭希遷の法嗣であるので曹洞禅の法系の属する禅師である。百丈懐海は黄檗希運を経て臨済義玄に直結する人である。雲巌曇晟は20年間百丈懐海に師事し臨済禅につながる馬祖禅を学んだ。

雲巌曇晟はその後曹洞禅に直接つながる薬山惟儼の下に移り薬山に嗣法した。その禅が曹洞宗の開祖銅山良价に伝わるのである。

さらに注目されるのは洞山良价と臨済禅の関係である。曹洞宗の開祖とされる洞山良价の語録「洞山録」には洞山良价がついた最初の禅師は五洩山の霊黙禅師(747〜818)であったと述べられている。霊黙禅師は馬祖道一の法嗣であるので、臨済系の禅師と言える。

従って洞山良价は最初、臨済系の禅師について禅を学んだことになる。彼は修行の旅では南泉普願に会いに行っている。南泉普願も馬祖道一の法嗣であるので、臨済禅に連なる。

洞山良价の師である雲巌曇晟は臨済禅の影響を受けたことは既に見た。このように曹洞系の禅師達と臨済系の禅師達は当時盛んに交流し、非常に近い関係にあったことが分かる。

雲巌曇晟は石頭由来の禅と臨済禅とを双修したことで曹洞宗を生んだと言えるのかも知れない。特に曹洞禅が修行を重視するのは修行を重視した薬山以来の伝統だと言えるだろう。

臨済が活躍した時代には、石頭宗の流れである曹洞禅と洪州宗(馬祖禅)の流れである臨済禅の間にもともと区別はなかったことが分かる。 図17に 石頭希遷から薬山、雲巌を経て曹洞宗に到る法系図を示す。


図17

図17 石頭希遷から薬山を経て曹洞宗に到る法系図


   

我が国の道元禅師(1200〜1253)の師天童如浄(1163〜1228)は曹洞宗の法系に属する禅師である。如浄は先任の住持無際了派の没後、天童山景徳寺の31世住持に就任した。その際、先任の住持無際了派の遺言によってなったことが知られている。

無際了派は臨済宗の法系に属する禅師であった。臨済宗の法系に属する無際了派の遺言で指名推薦されたため、如浄は天童山景徳寺の住持になったのである。この事実も中国において臨済宗と曹洞宗の禅師達は親しく、宗派間の違いが小さかったことを示している。


   

〔示衆〕10―15

岩波臨済録 p.117〜119  



山僧が今日の用処の如きは、真正成壊(じょうえ)し、神変(じんぺん)を翫弄(がんろう)し、一切の境に入れども、随処に無事なり。境も換うること能わず。

但有(すべ)て来たって求むる者は、我れ便即(すなわ)ち出でて渠(かれ)を看る。渠(かれ)は我れを識(し)らず。我れ便ち数般の衣を著くれば、学人は解を生じて、一向(ひたむき)に我が言句に入る。

苦なる哉、瞎禿子(かっとくす)無眼の人、我が著くる底の衣を把って青黄赤白を認む。我れ脱却して清浄境中に入れば、学人は一見して、便ち欣欲(ごんよく)を生ず。

我れ又脱却すれば、学人は失心し、忙然として狂走して言う、我れに衣無しと。我れ即ち渠(かれ)に向って、汝は我が衣を著くる底の人を識(し)るやと道(い)えば、忽爾(こつじ)として頭を回らして、我れを認め了れり。

注:

真正成壊(じょうえ):成住壊空を思うままにすること。与えたり奪ったり、活かしたり殺したりする。

数般の衣を著くれば:数種類の衣を着て出てくると。

瞎(かっ)禿子(かっとくす)無眼の人:眼が無い馬鹿坊主。

忽爾(こつじ)として:ハッと気付いて。

   

現代語訳


わしの今日のやり方は、成住壊空の変化を思いのままにし、神変(じんぺん)を自在にこなし、どんな処に入っても、いたる処で無事である。それを環境が換えることはできない。

もし道を求める者が来れば、私はその者を一見して見抜くが、彼は私を分からない。

私が数種類の衣を着て出ると、修行者はそれに理屈を付けて理解しようと、私の言う事を何とかして聞こうとする。困ったことである。

眼の無い馬鹿坊主は、私が着る衣を手に取って青だ、黄だ、赤だ、白だとする。私がその衣を脱いで清浄な境地に入って清浄衣を着れば、弟子はそれを見て、すぐ欲しいと思う。

私がその清浄衣を脱ぎ捨てると、弟子は失心し、忙然となる。そして狂ったように走り回って、私に衣が無くなったと言う。

そこで私は彼等に向って、「君達は私が着る衣の方に気を取られているが、その衣を脱いだり着たりしている当人が何か分かっているのか?」と聞くと、ハッとし振り向いて私に気付くという始末だ。


コメント


臨済は日頃、幾種類かの法衣を着こなし自由自在に振舞っていたようだ。修行者はその法衣を着て出て来た臨済を見て法衣(外見)に気を取られがちになる。

しかし、臨済は、法衣(外見)に気を取られては駄目だと言う。その衣を脱いだり着たりしている人間の本体(真の自己=本来の面目)が何であるかを究明することに注意を向け、環境に振り回されずそれを自由に使いこなすべきだと言っている。


   

〔示衆〕10―16

岩波臨済録 p.119〜120  



大徳、汝、衣を認むること莫れ、衣は動ずること能わず、人能く衣を著く。箇の清浄衣有り、箇の無生衣、菩提衣、涅槃衣有り、祖衣有り、仏衣有り。

大徳、但有(あらゆ)る声名(しょうみょう)文句は、皆悉く是れ衣変(えへん)なり。臍輪気海(さいりんきかい)の中より鼓激し、牙歯敲カツ(げしこうかつ)して、其の句義を成す。

明らかに知んぬ、是れ幻化なることを。大徳、外に声語(しょうご)の業を発し、内に心所の法を表わす。思を以って念を有す、皆な悉く是れ衣なり。

汝、祇麼(いちず)に他の著くる底の衣を認めて実解(じつげ)を為さば、縦(たと)い塵劫(じんごう)を経るとも、祇(た)だ是れ衣通(えつう)なるのみ。

三界に循環して、生死に輪廻す。如(し)かず、無事ならんには。相逢うて相識(し)らず、共に語って名を知らず。

注:

衣変(えへん):条件次第で変化するもの。衣裳のように外見だけを修飾し、実体がないこと。

臍輪気海(さいりんきかい):下腹(丹田)。臍の少し下のところで、下腹の内部にあり気が集まるとされる。

牙歯敲カツ(げしこうかつ):歯をかち合わせること。

塵劫:無眼に長い年月。

衣通(えつう):衣について通に(くわしく)なること。

相逢うて相識(し)らず、共に語って名を知らず: いつも逢っているにもかかわらず分からない、共に語っているのにその名前すら知らない。「自己本来の面目(真の自己)」(=下層脳を主体とする脳)にはいつも逢っているにもかかわらず分からない、共に語っているのにその名前すら知らない、ということ。

   

現代語訳


諸君、衣に気を取られてはならない。衣は自ら動くことはできない。人がその衣を着るのだ。

衣には清浄衣、無生衣、菩提衣、涅槃衣、祖衣、仏衣など色々ある。修行者よ、こうした名前や文句は、皆対象に応じて着せかけたものにすぎない。我々は下腹部を震わせ、歯をカチカチ合わせて声を出し言葉にする。こんなものは明らかに夢幻のように実体がない。

諸君、外には音声言語を発し、内部では心が働く。心意識が働いて想念が起こるが、これらは全て皆な皆対象に応じて着せかけた衣のようなものにすぎない。

ところが君達はただ他人が着ている衣だけに気を取られ、それを真実だと考えている。そんなことでは、たとえ無眼の長年月修行しても、衣について詳しくなるだけだ。それでは、迷いの世界にさ迷って、生死輪廻することになる。

それよりは、いつも逢っているにもかかわらず分からない、共に語っているのにその名前すら知らない「真の自己」を坐禅によって究明して、「無事であること」が一番良い。


コメント


前の示衆(10−15)に続いて法衣についての説法である。臨済は衣に眼を取られるようでは、たとえ無限の長年月修行しても、衣について詳しくなるだけだ。それでは、迷いの世界にさ迷って、生死輪廻することになるだけだと言う。

衣や衣裳のような、表面的な修飾物、地位、外見などに眼を取られてはならないと説いている。

この示衆の最後に「如(し)かず、無事ならんには」という文と「相逢うて相識(し)らず、共に語って名を知らず」と言う文章が入っている。この二つの文章はそれまでの文の意味するものと関係ない。唐突な印象を受け、全く孤立している。

相逢うて相識(し)らず、共に語って名を知らず」とは悟りの主体である「真の自己=本来の面目」について言っていることは明らかである。訳文はそのように解釈して「如(し)かず、無事ならんには」という文と繋げることで整合性を取っている。





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