2008.2月作成
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第7章  仏とはなにか?




仏教はブッダ(Buddha,仏、仏陀)が説いた教えで、ブッダ(Buddha,仏、仏陀)は覚者と訳され、

正しい悟りを開いた人のことである。

ブッダ(Buddha,仏、仏陀)は普通名詞であるが、時代と共に変化して行った。

  頓悟禅による「見性成仏」の意味も明らかになったのでここで「仏とは何か?」を合理的視点から考えよう。




7.1 部派仏教における聖者への道:



三学道と四向四果を経た阿羅漢への道




1世紀に興起した大乗仏教より前の部派仏教(小乗仏教)では出家修行者が悟りを開くまでの過程を

3段階(三学道)と4段階に分けて説明している。

4段階は四向四果と呼ばれる。悟りは煩悩を断ち切ることによって得られるとされる。

煩悩は次の2つに分類される。



1.  見所断の煩悩:


四諦の真理を理知的に理解することで断ち切ることができる理知面での煩悩をさす。



2.  修所断の煩悩:


修所断の煩悩は情や意の面での煩悩をさす。

見所断の煩悩>は四諦などの真理を理知的に理解することで断ち切ることができるので簡単である。

しかし、< 修所断の煩悩>は四諦などの真理を単に理知的に理解することでは断ち切ることができない。

理知的な修行だけでは取り除くことが困難な根深い煩悩とされる。

三昧(禅定)を修行して真理の観知を繰り返し行うことによって、初めて断ち切ることができるとされる。

修所断の煩悩>は、主として、貧(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)、慢(おごり高ぶり) 

の四つの情動的煩悩をさす。

の「見所断の煩悩」は理性や知性のコントロールによって断ち切ることができる。

しかし、

の「修所断の煩悩」は単に理性や知性のコントロールによっては断ち切ることができない。

それだけ、根深い煩悩である。

この「修所断の煩悩」を断ち切るには以下の三つの修行をする。



1.  不浄観:

放置された死体(死屍)が次第に腐敗して遂に白骨化するまでの姿を

心中に観想することによって性欲を制御する修行。


2.  持息念:


呼吸法の修行。

3. 四念住:

身体は不浄である、感受は苦である、心は無常である、すべての事物は無我である、

という四つを観念する(心に思い浮かべる)修行。



不浄観、持息念、四念住の修行法は仏教特有の禅定中心の極めて合理的な修行法といえる。

しかし、不浄観や四念住には肉体に対する悲観的(否定的)な観想法が含まれているので注意すべきである。 

あまりにも悲観的(否定的)な観想をすると健康を害したり、人生を悲観的に考える恐れがあるからである。



三学道とその修行の結果到達する四向四果は次の表7.1、7.2にまとめられる。



表7.1  三学道
 
階梯 名称 内 容
1見道 見所断の煩悩を断ち切る過程
修道 修所断の煩悩を断ち切る過程
無学道 見道、修道の修行を完成して到達できる境地


: 表7.1の「無学道」の無学とはこれ以上学ぶことはないという意味。




表7.2 四向四果

階梯 名称内 容
1須陀オン(シュダオン、預流果) 第1果:始めて法の流れにはいった者
斯陀含(シダゴン、一来果) 第2果:悟りを達成するまでに一度だけこの世に還って来る者
阿那含(アナゴン、不還果) 第3果:輪廻を解脱し、もはや二度とこの欲界に還って来ない者 
阿羅漢(アラカン)、無学、応供  第4果:供養を受けるにふさわしい者



部派仏教の聖者の最高位は阿羅漢(アラカン、Arhat)と呼ばれる。

阿羅漢は羅漢と同じで無学あるいは 応供(おうぐ)とも呼ばれる。

阿羅漢は原始仏教ではブッダと同じ意味で用いられてきた。

ゴータマ・ブッダが五比丘に教えを説いた(初転法輪)後、

ブッダの指導を受け五比丘はゴータマ・ブッダと等しく悟りの境地に至ることができた。

この時のことを古い仏典は「ここに、世に6人の阿羅漢があった。」と表現している。

ゴータマ・ブッダもこの6人の阿羅漢の中の1人であり平等であるとされていたことが分かる。

このように阿羅漢は部派仏教時代までは仏教の最高位に位置する聖者とされていた。

凡夫から阿羅漢への道はもっぱら煩悩を断ち切る修行をすれば到達できる道であり万人に開かれている。

しかし、凡夫から阿羅漢への道は広く開放されていると言っても在家信者には閉ざされている。

在家信者はせいぜい第3果である阿那含(アナゴン)果までしか到達できないとされていた。

それ以上の阿羅漢に達するためには出家して僧として専門的修行をすることが

必須条件とされていたのである。

原始仏教や部派仏教では出家しない限り仏になる(成仏)ことはできなかったのである。

大乗仏教の浄土系宗派では死後の成仏を説いている。

しかし、ブッダの説いた仏教(原始仏教)にはそのような教えはない。

浄土系の経典と思想は紀元1世紀の大乗仏教の出現によって、

初めて出てきた思想であることに注意すべきである。

ゴータマ・ブッダが説いた仏教(原始仏教)にはこのような教えはない。

ゴータマ・ブッダの死後500年が経つと、ブッダの真の教えは忘れられ、

仏教は大きな変容を遂げて行くのである。

それは人間ブッダから信仰の対象として神格化されたブッダへの変化である。




7.2  ブッダの神格化 




もともと阿羅漢はブッダと同じ悟りの段階に達した聖者と見なされていた。

しかし、時代が経つにつれてブッダは他の阿羅漢と違う特別な存在として神格化されるようになる。

凡夫からブッダになることは到底不可能な道にされていくのである。

禅寺などで羅漢像や五百羅漢が祀られることが多い。

これは禅僧の境涯が阿羅漢に近いところがあることから来ていると思われる。

部派仏教の一派である説一切有部の説ではブッダ(仏・如来)になるには菩薩からのルートしかない。

その菩薩たる人は六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)の修行を

3x10の59乗マハーカルパ(無限大の時間)の間行う。

1カルパは一説42億3000万年とされるので無限大の時間をかけた修行である。

その上に42億もの多数のブッダ達に供養する。

それによってブッダの悟りを得るための無量の徳が蓄えられる。

さらに何回も地球に生まれ変わって100マハーカルパ(無限大の時間)の間修行を重ねる。

するとブッダだけに備わる32の優れた肉体的特徴が獲得されるとする。

この修行をした菩薩は人間か天の富貴の境遇に生まれるとされる。

このような菩薩は全ての生き物に利益を与え大慈悲を行って倦むことがない無給の使用人になる。

ここに描かれる菩薩は利他性と自己研磨の極限的存在である。

凡夫から阿羅漢への道も出家修行者にとって超エリートの道といえよう。

出家して修行を積んでも阿羅漢になることは非常に困難だったからである。

これに対し、大乗仏教では菩薩になるのさえ難しくなる。

そのため菩薩からブッダへの道は人間からは到底到達することができない道となったのである。

このように仏(ブッダ、覚者)へ至る道(成仏)は時代とともに困難となった。

仏は阿羅漢と引き離され到達不可能な神に等しい存在に神格化されて行ったからである。

仏教には2つの意味がある。

1つは「ブッダの教えた教え」である。

他の1つは「ブッダになる教え」である。

ブッダ在世中はブッダになることも可能であり、悟りを達成した修行僧の詩も残されている。

しかし、ブッダの死後時が経つにつれ悟りを開いてブッダになること(成仏)は不可能なことになったのである。





7.3

7.3  偉大なブッダ: 仏の十号と32相




部派仏教と大乗仏教ではブッダの偉大な特徴を仏の十号と32相などによって表現する。

仏の十号とは次の表7.3に示すような10の呼称である。




表7.3 仏の十号 

No 呼称 意味
1応供(おうぐ) 阿羅漢、供養に値する人
正等覚者 正しく悟った人
明行足(みょうぎょうそく)知と行を兼ね備えた人 
善逝(ぜんぜい)  幸ある人
世間解(せけんげ)  世間を知る人
無上師(むじょうし)  最上の人
調御丈夫(ちょうぎょじょうぶ) 訓練されるべき人々の御者
天人師(てんにんし)  神々と人間の師
仏(ぶつ) 悟った人
10世尊(せそん)世の中で最も尊い人



仏の十号は法華経などでよく出てくる。

華厳経の如来名号品(普光法堂会)では仏は1万の名号を持つと説かれている。

ヒンズー教のシヴァ神は2、000もの異名を持つと言われている。

インドの伝統的考えでは偉大な存在である神は、偉大であればあるほど、

多くの異名を持つと言う思想があったと言われる。

仏の32相とはブッダや転輪王になるような偉大な人物はつぎのような32の特徴を

子供時代から持っているとしたものである。

占いをするバラモンなどは子供にそのような特徴を見てその将来を予言できると考えた。

32相は表7.4のようにまとめることができる。



表7.4 仏の32相
 
No 呼称 特徴
1足下安平立相 地上に密着安住する扁平な足を持つこと。
千輻輪相 足の裏には千の輻を持つ輪の紋があること。
長指相手足の指が長く繊細なこと。 
足跟広平相 くびすが広く平らであること。
手足指縵網相  手足の指の間に水かきがあること。
手足柔軟相 手足が極めて柔らかいこと。
足趺高満相 足の甲が隆起していること。
伊泥延膊相  鹿の足のような均整のとれた脛を持つこと。
正立手摩膝相 立ったままで、足を曲げずに両手で膝に触れ、撫でることができること。
10陰蔵相陰部が象や馬のように内部に隠れていること。
11身広長等相身体の縦横の長さが等しいこと。
12 毛上向相体毛が全て上に向って右旋していること。
13 一孔一毛相1つの毛穴から必ず1本の毛が生えていること。
14 金色相皮膚が黄金色であること。
15丈光相身体から四方に1丈の光明を放つこと。
16細薄皮相 皮膚が薄く柔らかくなめらかなこと。
17 七処隆満相 両手、両足、両肩、項の7つの部分が隆々としている。
18 両腋下隆満相 両わき下が隆起していること。
19 上身如獅子相上半身が獅子のように堂々としていること。
20 大直身相身体が広大端直であること。
21 肩円好相両肩が均整よく丸くなっていること。
22 四十歯相 歯が40本あること。
23 歯斉相 歯が揃っていること。
24 牙白相 糸切り歯が真っ白であること。
25 獅子頬相頬が獅子のように豊広であること。
26 味中得上味相最上の味覚を有すること。
27 広長舌相 顔を覆って髪の生え際まで届く広長な舌があること。
28 梵声相梵天のような尊貴な声をしていること。
29 真青眼相 眼が青蓮華のように紺青であること。 
30牛眼睫相 まつ毛が牛のように長く整っていること。
31 頂髻相 頭の頂上に肉が髻の形をして隆起していること。
32 白毫相 眉間には柔らかい、木綿のような白い毛が生え光を放つこと。


表7.4の2、5、9、10、15,27、31,32番の特徴を見ればわかるように、

仏の32相はもはや人間のものではない。

大乗仏教ではブッダの神格化は進み、大般若経(卷二四)では

更に80種好(80の好ましい身体的特長、80随形好)を付け加えている。

このようにして仏・菩薩はもはや人間ではなく、神に等しい信仰の対象となったのである。

大乗仏教が優勢な日本では仏教とはもはや「ブッダになる教え」ではない。

仏を神格として拝み、仏像を信仰の対象として崇拝しているのである。

  このため、イスラム教などの一神教では仏教を偶像崇拝(邪教)だと見ている。

これは図7.1のような仏像を見れば分かる。

図7.1

図7.1 礼拝の対象としての仏像




7.4

7.4  ブッダは原始経典の中でどのように呼ばれているか?




ブッダの呼称は経典によってかなり異なる。

ブッダは経典の中でいろんな名前で呼ばれている。

それを知れば仏とはどのように考えられていたか、

どのような性格のものであるかが分かる。

原始仏典ではどのように呼ばれているかを見よう。

原始仏典テーラーガーター(長老比丘の詩)ではブッダの弟子は

ブッダをどのように呼んでいるかをまとめると表7.5のようになる。




表7.5 テーラーガーター(長老比丘の詩)におけるブッダの呼称
  
ブッダの呼称 出てくる回数
ブッダ 84
わが師 37
われらの師 2
偉大なる健き人 7
あの方 2
最上の智ある人 1
偉大な人 1
尊き師 14
ゴータマ・ブッダ 2
めでたき方 1
太陽の裔 8
幸せな人5
立派な人1
勝利者13 
心の安定した人1
幸せな人5
自らを御した最上の人1
ゴータマ8
人間たちの御者2
法王2
最上の御者1
最上の人6
汚れなき人1
知者,偉大な知者2
完全な人格者1
神々を越えた者1
正しい悟りを開いた人6


その他にも、慈悲深き人、慈悲深き師(1回)、眼あるかた(2回)、ナーガ(1回)

偉大な仙人、大仙人(8)、聖者、偉大な聖者(5)、悪魔の征服者(1)、

道の人 (1)などがある。

このように原始仏典ではゴータマ・ブッダはいろんな呼称で呼ばれている。

テーラーガーター(長老比丘の詩)ではブッダに対する呼び名は人間らしい

率直な感情が伴っている。

これは長老比丘尼の詩の作者のうちかなり多くの比丘は

ブッダに直接師事した高僧尼である事実を反映している。

親しみを込めた呼び方が多い。未だブッダの神格化が進んでいない。

同様なことはテーリーガーター(長老比丘尼の詩)でも言える。

 次に原始仏典テーリーガーター(長老比丘尼の詩)では

ブッダの弟子はブッダをどのように呼んでいるかを見よう。


表7.6 テーリーガーター(長老比丘の詩)におけるブッダの呼称
  

ブッダの呼称 出てくる回数
ブッダ 46
わが師、師 7
み仏
正しく覚った人
眼ある人
すぐれた智恵ある人
比類のない方 1
尊き師
幸せな人
かれ
偉大な雄々しき人
ゴータマ
丈夫をも御す御者1
栄光あるこの世の主ブッダ
真理を語るかた15
尊敬さるべき人
黄金の皮膚を持つ人1
人間のうちで最も尊いかた
十の力ある人


テーリーガーター(長老比丘尼の詩)ではブッダに対する呼び名は女性らしい

繊細な感情が伴っている。

これは長老比丘尼の詩の作者のうちかなりの比丘尼は

ブッダに直接教えを受けた事実を反映しているように思われる。

この例に見るように、原始仏典に描かれるブッダは

親しみ易い人間であり信仰崇拝の対象としての仏ではない。




7.5  原始仏典や初期大乗経典におけるブッダの呼称




ブッダの呼称として「世尊」と共に良く用いられる呼称に「善逝」というのがある。

「善逝」とは「良くゆける者、幸福に至れる者」という意味である。

原始仏典や初期大乗経典に見えるブッダの呼称を表7.7に示す。


表7.7  原始仏典や初期大乗経典におけるブッダの呼称
  

ブッダの呼称 経典 引用回数/回
幸せな人 テーラーガーター
幸せな人テーリーガーター
善逝 維摩経
善逝 金剛般若経


この表中で金剛般若経でもブッダが幸ある人=スガタ(sugata)「善逝」

と呼ばれていることが注目される。

金剛般若経は原始仏教に近い位置にある大乗経典であることが分かる。




7.6  祖仏とは何か?   臨済と黄檗の考え





では中国で成立した禅宗では仏をどのように考えているのだろうか?

中国祖師禅の代表的禅者である黄檗希運とその弟子臨済は祖仏をどのように考えていたか。

彼等の祖仏に対する考えをまとめると次ぎのようになる。



黄檗希運の考え




即心是仏という立場から仏を他に求めるべきでない。

求める心が尽きた人を無事の人とした。

求める心が尽きた人はまた「絶学無為の閑道人」と言われる

(「絶学無為の閑道人」については「証道歌」を参照)。

黄檗は「宛陵録」において即心是仏の心について、

如今言語する者、正に是れ汝が心なり(今現にものを言っているものがまさしく君の心そのものだ)』

と言っている。

この考えは弟子の臨済に受け継がれている。




臨済の考え




臨済録で臨済は「汝は祖仏を識らんと欲得するや。ただ汝面前聴法底是れなり」と言っている。

「今現在、目の前で聴法している汝自身が祖仏に他ならない。」と言う意味である。

臨済の「祖仏とは面前聴法底是れなり」と言う言葉は有名である。

これは私の面前で説法を聞いているお前さん(脳)が祖仏に異ならないのだと

自己(心)とその中心たる脳の働きを祖仏だと言っている。

脳機能を肯定した力強い言葉である。

(「臨済録示衆1−2」を参照)。

さらに臨済録の示衆で

汝目前に用うる底は祖仏と別ならず、ひたすら、信ぜずして、便ち外に向って求む。」

と言っている。

臨済は我々の存在と働きを仏と同じだと考えて、外にキョロキョロ求めるな、自己即仏を信ぜよと言っている。

臨済録で臨済は「仏道を学ぼうとする人は自己を信じ自己に求めよ。外に求めるな。」

と言っている。

(「臨済録示衆10−7」を参照)。

これはブッダの<自帰依>の精神と同じである。

臨済は<即心即仏>の思想を現実の個人の上に展開させ、無相無形の心を自覚せよと促している。

臨済と黄檗の考えは基本的には同じである。

この考え方の基本は華厳経にまで遡る。

華厳経では「心、仏、衆生是れ三無差別」と述べている。

黄檗は「伝心法要」で「仏と衆生とは同一法性なり」と言っている。




7.8 ブッダは我々と同じ人間だ:臨済の仏陀観




「臨済録」で臨済は仏陀ついて次ぎのように述べている。

仏陀は80才で死んだ。死にざまも我々と異なるところはない

仏陀は極致の人ではなく、我々と変わるところがない人間だ。」

大乗経典ではブッダは人間ではなく神格化され、超越者として礼拝の対象としている。

しかし、臨済は仏陀は神ではなく、普通の人間だと考えていたのである。

(「臨済録示衆10−2」を参照)。

臨済録で臨済は仏について次ぎのように述べている。

諸君、仏を至上のものとしてはならない。自己に本来具わっているものを信ぜよ。」

もし、お前が一切のものは生起することなく心も幻のように空であり

この世界には塵ひとかけらもなく、どこもかしこも清浄であると悟ったなら

それが仏である。」

仏と言うのは、心清浄是なり。」

 「仏とは心清浄、光明の法界に透徹するを名付けて仏と為す。」

(「臨済録示衆13−1」を参照)。


これらの言葉から臨済は「仏は神のような存在ではなく

普通の人間で、心(脳)が清浄(健康)になった人だ」と考えていたと分かる。

この考えは仏を神に等しい超越的存在として信仰し崇拝する大乗仏教徒の考えとかなり違う。 





7.8.1 大珠慧海が説く仏の定義





馬祖道一の法嗣大珠慧海は仏について「観無量寿経」の「是心是仏、是心作仏

を引用して次ぎのように言っている。

心こそは仏であり、心こそが仏になるのだ。」

この言葉は馬祖の「即心即仏」の思想と同じである。

仏とは心(脳)が健康な人が仏だと言っていると解釈できるだろう。

坐禅とは心(全脳)を健康にする技術であることを既に見た。

心(全脳)が清浄(健康)になった時仏になる。

そのように考えれば坐禅と仏の関係は分かり易い。

 


7.9

7.9  新しい仏陀(ブッダ)観



古代インドの「バラモン経典」では至福をニルヴァーナと言っている。

仏教ではニルヴァーナとは涅槃のことである。

このことは元々涅槃の意味には涅槃=至福と言う意味が込められていたと思われる。

表7.3 に示したように、ブッダは10の名前(仏の十号)で呼ばれる。

ブッダは種々の名前で呼ばれ、1世紀に成立した大乗仏教では神格化が完成する。

彼は人間ではなく光輝く神格として礼拝と信仰の対象に変化するのである。

しかし、ゴータマ・ブッダが歴史的人間であったのは確かである。

彼の死後、時間と共に覚者としてのいうイメージが強調され、

尊敬を通り越して崇拝さるべき偉人であると神格化されるようになる。

仏の10号の中で特に注目されるのは世尊と善逝と言う呼び名である。

世尊とはバガヴァットの漢訳である。

バガヴァットは至福者と言う意味を持っている。

このことは仏の意味には「最高に幸福な人」という意味があることが分かる。

また善逝とは「幸ある人」と言う意味がある。

 

現代の我々には仏とは「最高に幸福な人(至福者)」や「幸ある人」と考えた方が分かり易い。 即ち、


仏=バガヴァット(bhagavat)=至福者  ・・・・・(2)



と言うことができよう。(2)式は仏の定義式と言ってもよいかも知れない。

「臨済録」で臨済は「今日、仏法を修行する者は、何よりも先ず正しい見地をつかむことが肝要である。

もし正しい見地をつかんだならば、生死につけこまれることもなく、

死ぬも生きるも自在である。

至高の境地を得ようとしなくても、

それは向こうからやって来る。・・・」と

「正しい見地をつかむ」ことが重要だと明言している。

ブッダは八正道で「正見」を第一に挙げる。ブッダとは真理を悟った者の意味がある。

禅の見性は自己の本質である脳(上層脳+下層脳)を坐禅修行を通して覚知することである。

坐禅修行によって下層脳は活性化され全脳(上層脳+下層脳)が健康になることを見た。

このことから、仏(ブッダ)とは


正見」を持ち、脳全体(上層脳+下層脳)が健康になった「最高に幸せな人(至福者)」 


だと言えるのではないだろうか。


このように考えれば{仏とは何か?」が現代人には分かり易い。

 部派仏教(小乗仏教)以来神格化され、古色蒼然とした「ブッダ観」

から自由になることができる。

この新しい「仏(ブッダ)観」の下では、抹香臭い「成仏(仏になること)」

も魅力的な努力目標となるだろう。

そのようなイメージを分かり易く表現するとどのような仏が考えられるだろうか? 

筆者は庶民の仏として知られる木喰仏がそれに近いのではないかと考えている。




図7.2

図7.2 木喰仏にイメージされる最高に幸せな人



図7.2 に木喰仏を図示する。

 

この図を見ることで、

 

正見を持ち,脳全体(上層脳+下層脳)が健康になった最高に幸せな人(至福者)

 

をイメージすることができる。

禅では、誰でも努力することによってそのような最高に幸せな人(=)になることができると説く。

見性成仏>とはそのような人間の潜在的本性に目覚めることだと考えられる。

しかし、人間の本来性に目覚める「見性」体験は一時的なものである。

 

修行を怠ればその境地はすぐ退化・退行するのである。

「見性」や「悟り」の体験は一時的な歓喜体験で終わってしまう。

馬祖や白隠が強調する<悟後の修行>はその退行をストップさせ、脳全体(=上層脳+下層脳)

の健康を長期的に維持させるためだと考えられる。

悟後の修行>をたゆまず続ける時、白隠が『坐禅和讃』に於いて


浄土即ち遠からず

自ら廻向して、直に自性を証すれば

自性即ち無性にて、既に戯論を離れたり

無相の相を相として、行くも帰るも余所ならず

無念の念を念として、謳ふも舞ふも法の声

三昧碍礙の空ひろく、四智円明の月さえん

この時何をか求むべき、寂滅現前するゆえに

当処即ち蓮華国、此の身即ち仏なり

と説くように、仏としての自覚を得るのではないだろうか?

(「白隠禅師の坐禅和讃」を参照)。




7.10

7.10  仏の智慧 =無分別智、無差別智 




仏教では伝統的に仏の智慧は無分別智(むふんべつち)(=無差別智)と呼ばれている。

無分別智とは我執の煩悩である分別心を取り去って、もののあり方を正しく見る

如実知見する)能力をさしている。

ものごとを分析区別せず平等であるから無差別智ともいう。

仏とは智慧を完全に得たもの」とされる。

ものごとを分析区別せず平等で客観的な無差別智は

脳幹や大脳辺縁系中心の下層脳の働きから生まれると言える。

このことも「仏とは「正見」を持ち全脳(=上層脳+下層脳)が健康になった人

であるという新しい定義を支持する。

近年アルツハイマー病など認知症予防の観点から脳を鍛えることが盛んに言われる。

しかし、その時の脳とは主として大脳前頭葉や記憶の中心である海馬を意味する。

既に見たように脳は上層脳と下層脳よりなる。

大脳前頭葉は理性や知性を司る上層脳に属し文明の発達に貢献してきた。

しかし、それは同時に心的ストレスの入口にもなっている。

理性や知性を鍛えるだけでは脳全体を健康にできないし、幸福にはなれない。

下層脳(生命情動脳)を鍛える坐禅は新しい脳トレーニング法として見直されるべきだろう

第2章「禅と脳科学」を参照)。

生命と情動を司どる下層脳を坐禅を通して鍛えることで脳全体が下層脳(生命・情動脳)から健康になる。

正見」に基づいて坐禅修行をすれば、

健全なる知性と豊かな情操が醸成され、

無分別智が発達し仏(=至福者)としての自覚を得るのではないだろうか。

これを分かり易くすると下の図7.3のようになるだろう。



図7.3

図7.3  正見に基づく坐禅によって全脳が健康になり、幸福な心が生まれ安心立命(成仏)する。



図7.3 に示したスキームは紀元1世紀に興起した大乗仏教が説く「諸仏を信仰する教え」ではない。

このスキームから「禅はブッダ(覚者)になる教え、即ち仏乗である」と言えるだろう。

(「禅の思想:その1、最上乗と仏乗」を参照)。

これによってゴータマ・ブッダが説いた<自帰依・法帰依>の道に回帰できるだろう。

(「原始仏教・2、自帰依と法帰依」を参照)。






7.11   脳科学から見たキリスト教と仏教の違い




キリスト教は言葉を大切にする宗教である。

聖書には次の有名な言葉がある(新約聖書 ヨハネによる福音書1節)。



初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった

この言葉はキリスト教における言語や論理の重要性を明示している。

キリスト教は仏教と違い大脳前頭葉の分別智を重視していることを示している。

分別智(=知性)を重視するキリスト教はヨーロッパに受け入れられることによって

西洋文明に大きな影響を与えて来たと言えるだろう。

これと対照的に、智慧の宗教と言われる仏教は分別意識を否定し無分別智を重視する。

これはアジアの仏教文化圏の文化的特徴ともなっていると考えることができるだろう。

このように、仏教とキリスト教では言葉と知性に関して大きな違いがあると言える。




7.12

7.12 ブッダが説く識別作用と苦の原因




仏教最古の経典だとされる「スッタニパータ」(SNと略記)でブッダは分別意識について次ぎのように述べている。

SN733詩とSN734詩の間には

およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起こるのである

というのが、一つの観察(法)である。

しかしながら識別作用が残り無く離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない。』

というのが第二の観察(法)である。

SN734詩 「およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起こるのである

識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起することは有りえない。」

SN735詩 「苦しみは識別作用(識)に縁って起こるのである」と

この禍いを知って、識別作用を静まらせたならば、修行者は、快をむさぼることなく、安らぎに帰しているのである

SN1110詩「どのように気を付けて行っている人の識別作用が止滅するのですか?」

SN1111詩「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人

このようによく気を付けて行っている人の識別作用が止滅するのである。」

上の詩において、ブッダは識別作用が苦の原因となり、識別作用を止滅すれば苦が消滅すると説いている。

ここでブッダが言う識別作用(識)とは所謂大脳前頭葉から生まれる分別意識のことだと考えられる。

ブッダはいろいろの心の苦しみは分別意識を働かせることから生じ、

分別意識を働かさなければ苦(orストレス)は生じないと考えていたようである。

このことから、苦の消滅を目指す仏教では分別意識を働かせる分別智を伝統的に軽視して、

無分別智を重視するようになったと考えられる。

坐禅(=禅定)は分別意識を止滅させるための手段だと考えられる。

キリスト教と仏教の智慧の特徴を脳科学に分類すると次のようになるだろう。


仏教の智慧:下層脳優勢の無分別智を重視する。

苦(ストレス)の原因となる分別意識を働かせる分別智を伝統的に軽視する。


キリスト教の智慧:大脳前頭葉(理知脳)から生まれる分別智を重視する。


仏教は下層脳を活性化して、興奮しがちな情動を鎮静化し、

安らぎを生む<無分別智>を開発することを目指す。

仏教ではブッダ以来大脳前頭葉の分別意識を重視しない。

これは大脳前頭葉の分別意識から煩悩(ストレス)が生まれるからだと思われる。

(「ストレスが心身に与える影響」を参照)。

仏教では下層脳を活性化し、分別意識を止滅させるための手段として、坐禅(=禅定)を修行する

これに対しキリスト教では大脳前頭葉の分別意識(=分別智、理性)を重視する。

これはが仏教とキリスト教の大きな違いと言える。



7.12-1

7.12−1 脳進化の観点から見た仏教とキリスト教の違いと特徴




脳進化の観点から見るとこの違い次ぎのように言うことができるだろう。

キリスト教では進化の結果生まれた新しい脳である大脳前頭葉の分別智(理性)を重視する。

これに対し、仏教(特に禅)では、

古い脳である下層脳(脳幹+大脳辺縁系)を中心とする脳から生まれる無分別智を重視する。

日本には伝統的な言霊思想や真言密教の真言や陀羅尼の思想がある。

これは一見キリスト教の言葉重視に似ているようだが違う。

言霊思想や真言密教の真言や陀羅尼の思想は

言葉に神秘的な霊力が宿っていると考える古代の呪術的思想である。

キリスト教の言語重視や論理重視の姿勢とは全く違う。

言霊思想や真言密教の真言や陀羅尼の思想は古代の呪術的な考えに由来する。

近代的な合理思想とはとても相容れるものではない。

(「空海と真言密教」を参照)。

キリスト教の言葉を大切にする思想は

ギリシャ哲学を取り入れて合理的・論理的思考方法を発展させた。

17世紀にはその自然観から科学が生まれたと考えられる。

一方仏教の方は無分別智を重視するため、古くから世俗の議論や論争を禁止し、それを戒律にしている。

分別意識に基づく議論や論争はストレスと争いを生み、心の安らぎを妨げるからだと考えられる。

そのためか、真言や陀羅尼の思想は生まれたが合理的・論理的思考はむしろ衰えた。

残念ながら、そこから科学が生まれる余地は殆ど無かったと言えるだろう。

脳科学的に見た仏教(特に禅、)と西洋文化()の違いと特徴を図7.4に示す。



図7.4


図7.4 キリスト教に基づく西洋文化は大脳前頭葉の分別智(上層脳優勢の脳、)を重視するが

仏教(特に禅)に基づく東洋文化は下層脳(生命情動脳)から生まれる無分別智()を重視する。


キリスト教に基づく西洋文化と無分別智を重視する仏教(禅)に基づく文化の特徴(利点と欠点)

をまとめると次ぎのようになるだろう。


キリスト教に基づく西洋文化は上層脳から生まれる分別智と理性を重視する。


その特徴は


利点:科学など合理的な思想が生まれ、発展した。

(キリスト教に基づく西洋文化から生まれた科学はその合理的本質から神を否定する側面を持っている。

その意味で科学は一神教が生んだ鬼子と言えるのかも知れない。)



欠点:理性と本能の対立によってストレスが生まれやすい。




仏教や禅に基づく東洋文化は優勢な下層脳から生まれる無分別智を重視し

分別意識や分別智を軽視する。

その特徴は



利点:理性と本能の対立が少なく、心に安らぎが生まれる。

欠点:科学など合理的な思想が発展しにくい。

このように両者には利点と欠点がある。

理想的には全脳(=上層脳+下層脳)を活性化し、

分別智と無分別智のバランスがとれた状態にすることである。

これを図7.5に示す。




図7.5


図7.5 バランスがとれた分別智と無分別智の開発が理想的である。
 


7.13   他の宗教との比較





禅は科学的思考に基づく合理的な論理によって充分説明できることが分かった。

禅はブッダの原始仏教に近い面を持つ<自己究明型>宗教である。

1神教であるキリスト教などと比べるとどうなるのだろうか?

次の表7.8に一神教と禅の特徴を簡単にまとめ比較する。





表7.8 一神教と禅の特徴の比較


 宗教 教義のエッセンス 信者への要求と救い
キリスト教 神を信じ、神の加護と愛のもとに生きる。 神への絶対的帰依による神からの救い
イスラム教 神を信じ、神の加護のもとに生きる。 神への絶対的帰依による神からの救い
禅と原始仏教 自己と理法(真理)に帰依して生きる。 自己を究明し、信じるに足る自己を確立することで安心立命する。




これを見ると分かるようにキリスト教とイスラム教は非常に似ている。

それは両者ともユダヤ教という同じルーツから生れたためである。

また禅とブッダの原始仏教は似ている。

禅は中国思想の影響を受けてはいるが、

ブッダの原始仏教の<自帰依>と<法帰依>の精神に先祖回帰した面を持っているからである。

ここでブッダが重視した<法帰依>の法とは科学も含む合理的真理だと考えると良いだろう。

もし、仏教(禅)が科学と結びつき習合した時には、

宗教につきまとう迷信や非合理な側面は払拭されて無くなるだろう。

自帰依>と<法帰依>の精神に基づく

合理的宗教こそ現代人にふさわしいだろう。

科学は常に進歩発展する。

科学と習合することで、科学の進歩発達に伴ない仏教(禅)はさらに進歩発展できる。

これは今までの宗教に見られない新しい特徴になるだろう。






7.14   禅と禅宗の将来像




科学と習合した禅と禅宗の将来像は次の図7.6のようにまとめられるだろう。




図7.6

図7.6 禅と禅宗の将来像



この図に示したように、将来禅の合理的理解が進展すると禅宗は次の3本の柱から成り立つと考えられる。


仏教


心の科学(脳神経科学)


坐禅(実践)





禅は中国の老荘思想の影響を受けて唐代に基本的に完成した。

これからは、西欧の思想や価値観から学ぶべきものを新しく取り入れ、

脳神経科学と共に理論面を支えるべきだろう。

呼吸の科学などを取り入れて進化した坐禅の技法は実践面の柱になるだろう。

その有効性が実証された時他の仏教の諸宗派の多くがこれに統一されるだろう。

そうなれば仏教はブッダの創始した原仏教に先祖回帰したと言える。

このように考えると、禅と仏教はこれからも進化・発展する可能性を持っているのではないだろうか。 





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