2008年3月作成
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第5章 日本の禅とその歴史: その1


禅は中国において発展し確立された。

日本における禅は基本的には中国禅を輸入受容したものである。

ここで日本における禅とその歴史を振り返ろう。



5.1  日本に於ける禅の受容は古かった−道昭と禅



日本に最初に禅を紹介した人物としては飛鳥時代の僧道昭(629〜700)とするのが通説である。

道昭は飛鳥時代の元興寺(飛鳥寺)の僧であった。

彼はA.D.653年学問僧として定恵(藤原鎌足の長男、643〜666)と共に唐に渡った。

唐では玄奘に師事し法相宗を学び日本に伝えた。

彼は日本法相宗の開祖でもある。

唐で玄奘に師事した後、玄奘の薦めで相州隆化寺の慧満禅師に禅を学んだと伝えられる。

慧満禅師は達磨の弟子と伝えられる。

慧満禅師は四卷「楞伽経」に基づく禅を提唱したと言われる。

道昭が学んだ禅は南宗禅(六祖慧能の禅)が確立される前の達磨禅だと考えられる。

道昭は帰国後飛鳥元興寺に禅院を建て修禅の道場を建てた。

道昭の師慧満禅師は一衣一鉢の他二針しか蓄えず、常に乞食をしていたと伝えられる。

道昭は慧満禅師の禅風を受け継ぎ、三日に一度起ち、七日に一食しかしなかったと言われる。

多くの仏教修行者が道昭のもとで禅を学び弟子となった。

道昭は晩年専ら坐禅を事としたと伝えられる。 そのため日本に於ける禅の初伝者と考えられている。

道昭は72歳で縄床に端座したまま坐亡したと伝えられる。

西暦700年道昭は死に臨み火葬を遺言した。

弟子達は粟原寺で遺体を荼毘に付し粉にして散骨したことが記されている

(「続日本紀」卷第一、文武天皇紀に道昭の記事がある)。

これは日本初の火葬である。

道昭は禅受容の初伝者であるとともに日本で最初に火葬によって葬られた人である。

道昭の火葬後火葬は天皇はじめ貴紳の間で急速に普及した。

天平八年(736)には華厳経に精通し戒行にも厳しかった唐僧道セン(どうせん)が来日し、

楞伽経系の北宗禅(達磨禅)を伝えた。

このように、奈良時代に道昭が学んだ禅や唐僧道セン(どうせん)が伝えた禅は、

つまり、日本にもたらされた最初の禅は南宗禅ではなく、

南宗禅(六祖慧能の禅)が確立される前の達磨禅だったことが注目される。

道セン(どうせん)は大和の大安寺比蘇寺に禅院を構え坐禅を事としたと言われている。

天平と天平勝宝年間(729〜757)にもたらされた楞伽経とその注釈の数は非常に多い。

この事実は道セン(どうせん)が伝えた楞伽経系の達磨禅

予想以上に強大なものとして受容されたことを示している。

平安時代初期になると、

嵯峨天皇(在位:809〜823)の皇后(橘嘉智子、檀林皇后、786〜850)は

塩官斉安の弟子義空を唐から招いた。

塩官斉安(?〜842)は馬祖道一の法嗣であるから義空は南宗禅の直系の禅師である。

義空は橘皇后(橘嘉智子、檀林皇后)が建てた檀林寺の開基となり、

橘皇后に南宗禅を教えたとされる。

檀林寺の開基となった義空に仏法を問う者は多かったというが、

禅宗自体はまだ不振で、義空は数年の滞在で唐に帰国した。

そのためか義空が早々ともたらした南宗禅が日本に根付くことはなかった。




5.2  北宗禅と最澄



道セン(どうせん)が伝えた北宗禅(楞伽経系の達磨禅)は平安時代伝教大師最澄(767〜822)に伝わっていた。

最澄は12才頃行表(729〜797)に弟子入りした。

行表は次ぎの系譜から分かるように北宗禅の普寂(651〜739)の法系に属する人である。



 神秀 → 普寂(651〜739)→ 道セン(どうせん) → 行表→ 最澄 



普寂は神秀の弟子で嵩山嵩嶽寺で少林寺武術を学んだと考えられている。

道セン(どうせん)は普寂の高弟であり、日本に渡来して華厳学、達磨禅(北宗禅)、

天台学、禅門武術(少林寺直系)をもたらした。

日本天台宗は総合的な仏教学のセンターである。

最澄は入唐中(804)にしゅく然から牛頭禅を学んでいる。

牛頭禅は四祖道信の門下法融(594〜657)が初祖であり、中国禅の傍系に終わる。

最澄は帰国して円・密・禅・戒の四宗を総合した日本天台宗を標榜した。

日本天台宗に含まれる禅は神秀由来の北宗禅に近いことから楞伽経系の達磨禅だったと言える。

牛頭禅も取り入れているが未だ古い達磨禅だったと言えるだろう。

しかし、日本に伝わった天台禅は天台宗の総合的性格の中に埋もれ、

それから抜け出すことができなかった。

栄西が入宋する前に瓦屋能光(?〜933)は入唐して洞山良介に参じ禅を学んだ。

洞山良介の禅は後に曹洞宗を形成する禅であったので興味深い。

しかし、瓦屋能光は中国で没したため洞山の禅を我が国に伝えるに至らなかった。

もし、瓦屋能光が生きて洞山の禅を日本に伝えることができていたなら、

曹洞禅の初伝になったであろう。

瓦屋能光の後天台僧覚阿は1171年に入宋した。

彼は圜悟克勤の法嗣の仏海慧遠(1103〜1176)に参じて臨済禅を学んだ。

覚阿は帰国後比叡山に庵居し高倉天皇に召され禅について尋ねられた時、

ただ笛をあげて吹いて答えるのみであったと伝えられている。

「ただ笛をあげて吹いて答えるのみであった」

とは彼自身が禅を明確に理解していなかったため、

笛を吹いてごまかしたと言われても仕方ないだろう。

覚阿は特にはっきりした業績を残していないようである。

瓦屋能光と覚阿が渡海した平安末期には、三論宗の「然(ちょうねん)、

天台宗の寂照、成尋等が入宋しているが禅を学んで帰国した日本人はいない。

このように飛鳥時代の僧道昭(629〜700)を初め日本における禅の受容は古かったが散発的であり、

本格的なものにはならなかった。




5.3  謎の禅教団・日本達磨宗と道元教団



道元とほぼ同じ時代大日能忍は教外別伝の禅を説き日本達磨宗を開いた。

日本達磨宗の本拠は越前にあったとされる。

大日能忍は平安末期比叡山に学び無師独悟し教外別伝の禅を説いた。

彼は道元とほぼ同じ時代に日本達磨宗を開いたとされる。

彼は1189年宋の育王山に弟子勝弁を派遣した。

宋の拙庵徳光(1121〜1203)に書簡で所悟(自分の悟りの見解)を呈し、印証を受けた。

これを契機に達磨宗は大きな勢力に発展するようになった。

そのことに危機感を持った天台宗に 圧迫され、開祖大日能忍は遂に謀殺された。

その結果、教勢は失墜し、弟子達も散り散りになり道元の曹洞宗教団に吸収されたようである。 

例えば、「正法眼蔵随聞記」の著者としても知られる道元の高弟懐弉(えじょう、1198〜1280)

日本達磨宗の出身である。

懐弉は道元より二歳年長の弟子であった。

大日能忍の死後、達磨宗から数十名が集団改宗し道元教団に帰依した。

この集団改宗は達磨宗の出身である懐弉が勧誘したためと考えられている。

日本達磨宗と比叡山は敵対関係にあった。

このことが原因となって比叡山と不和になった道元教団は越前に移動し

永平寺を建てたと考えられている。

日本達磨宗と開祖大日能忍の詳しいことは不明である。

天台禅の流れと関係があるのかも知れない。





5.4  栄西と道元 



栄西(1141〜1215)は2度入宋している。

最初の入宋は仁安三年(1168)28才の時である。

この第一次入宋は6ヶ月ほどの短期間であった。

栄西は帰国に際し天台の新章疏30部60巻をもたらし、天台座主明雲に献じた。

栄西は文治三年(1186)に再び入宋した。彼は天童山景徳寺に住していた

虚庵懐敞(きあんえしょう、)に師事し臨済宗黄竜派の禅を修行した。

5年間の修行の後虚庵の印可を受けて帰国した。

在宋中に一切経を三度も読み、仏教を広く研究したと伝えられる。

栄西は建久二年(1191)に帰国後、肥前、筑前、肥後、長門と各地に寺を建立し虚庵の禅を挙揚した。

道元(1200〜1253)は14歳の少年期に延暦寺において出家した。

翌年15才の時栄西に会い、栄西の高弟明全(みょうぜん)について禅の修行を開始した。

1223年、明全と共に入宋した道元は天童山景徳寺において如浄(にょじょう)の弟子になり

本格的な曹洞禅の修行に打ち込んだ。

やがて(1225年、26才の時) "身心脱落"の悟りの体験をし、如浄の法嗣となった。

更に道元は2年間如浄の下で悟後の修行をし、1227年帰国した。

道元は興聖寺から越前の吉峯寺、ついで永平寺に移り住み如浄直伝の「只管打座の禅」を主張した。

彼はそれを単なる一宗派ではなく、宗派を超えた「仏祖正伝の妙道」だとした。

道元の禅はその後多くの弟子達によって布教され日本曹洞宗を形成した。



5.5  曹洞宗には二伝と三伝があった 



日本曹洞宗の開祖は道元禅師(1200〜1253)であることは有名である。

しかし、道元禅師以降にも中国から曹洞宗が第二伝と第三伝と

2人の渡来僧によって伝えられていたことは意外に知られていない。

第二伝は曹洞宗宏智派の禅僧東明慧日(1272〜1340)による。

彼は第九代執権北条貞時の招きで1309年元(中国)から来日した。

鎌倉の禅興寺、万寿寺、寿福寺、建長寺に歴住し、1310年には円覚寺第10世になっている。 

これらの寺は全て臨済宗である。

このことは禅において臨済宗と曹洞宗の宗派の区別は殆どないことを示している。

禅に於ける宗派の違いは単に師承の系譜上の違いに基づく。本質的な違いはないと見て良い。

第三伝は曹洞宗宏智派の禅僧東陵永與(1284〜1365)による。

彼は1351年元から来日し、西芳寺、天竜寺、南禅寺に歴住した。

雲厳禅寺(熊本市松尾町)の開山は東陵永與である。

このように曹洞宗宏智派の禅が2人の渡来僧によって伝えられているにもかかわらず、

日本の曹洞禅にどのような影響があったのか(あるいは無かったのか)ははっきりしない。



5.6 日本禅の特徴 



奈良時代に道昭や最澄、道せん等によってもたらされた禅は結局日本には定着しなかった。

日本の禅は殆ど中国の宋・元の時代に学び輸入されたものである。

しかも現存する全ては六祖慧能に起源する南宗禅である。

中国禅は宋・元の時代に衰亡期に入った。

爛熟衰亡期に入った中国禅を日本人は熱心に学び受容したと言える。

日本に伝わった禅宗は24流で分類され、内20は臨済宗である。

栄西は虚庵懐敞(きあんえしょう)に師事し臨済宗黄竜派の禅を修行した。

臨済宗黄竜派の禅は禅と道教の融合に特徴があるとされる。

しかし、栄西は「興禅護国論」を著して禅を正式な仏教といて認めさせようとしたり、

「喫茶養生記」で喫茶の文化を日本に紹介定着させようと努力したことで知られる。

彼は特に道教と融合した傾向をもつ禅を紹介してはいない。

日本には道教の基盤がもともと弱いためであろうか。

日本にもたらされた臨済宗の派名は次の表5.1のようになる。



表5.1


表5.1のほかに日本に伝わった禅宗として曹洞宗三流派と黄檗宗がある。

それらは次の表5.2のようになる。


表5.2 日本に伝わった曹洞宗三流派と黄檗宗

宗派名 派 名 来日僧あるいは留学僧の名前
曹洞宗 道元派  <希玄道元>
東明派 (東明慧日)
東陵派  (東陵永與)
黄檗宗  (隠元隆g)

これらの表に於いて、()は中国人渡来僧、<>は日本人留学僧を表している。

   

この表5.1と表5.2を見て分かるように、

日本の禅は殆ど鎌倉時代に渡来僧や留学僧によって宋や元から学んだものである。

この中で隠元隆g(1592〜1673)がもたらした黄檗宗が江戸時代で、比較的新しい。

25流の内21流が臨済禅である。

栄西の黄竜派以外は全て楊岐派が占めている。

日本の禅宗25流の内15流が来日中国人によるもので、

60%に相当するほどの大きさである。

来日中国人禅僧の寄与が大きいと言える。

中国人の禅僧は日本語を充分理解していたとは思われない。

日本僧も中国語は良く分からなかったと思われる。

彼等は主として漢文による筆談によってなんとか意思を交流していたのではないだろうか? 

しかし、いくら「以心伝心、直指人心」と言っても、言葉の壁が大きく立ちはだかったと思われる。

     

5.7   日本の五山制度

   

官寺としての五山十刹制度は中国に於いて 南宋の寧宗(1194〜1224)の頃できた。

国家による禅宗の保護・統制の制度である。

中国から禅を学び輸入した日本でも中国にならって五山制度が鎌倉〜室町時代にできた。

日本では鎌倉五山と京都五山がある。

京都五山と鎌倉五山の制度は室町時代足利義満の至徳三年(1386)に定められた。

国家が任命権を持って寺に格式と順位を与えた制度である。

京都五山と鎌倉五山は次ぎの表5.3と表5.4のようである。


表5.3


   
表5.4


         

 5.8 密教と禅宗の関係

     

鎌倉五山のうち寿福寺と浄妙寺は最初は密教系の寺院であった。

密教と禅宗の深い関係を示唆している。

1202年建仁寺が創建された。建仁寺は真言・天台・禅の三宗兼学の寺であった。

1236年九条道家の発願で創建された東福寺(開基:聖一国師円爾弁円)は

真言・天台・禅の三宗兼学の道場として建立された。

空海の「即身成仏」の思想は三劫成仏を否定する点で禅の頓悟成仏の思想に近いところがある。

空海の「即身成仏」の思想を参照)。

   

5.9     栄西と密教


栄西(1141〜1215)は13才の時比叡山で天台教学を学んだが、

27才の時には 伯耆大山に登って密教を身に付けた。

1191年栄西が宋からもたらした臨済禅(黄竜派虚庵懐敝の禅)は最初「達磨宗」と混同され、

比叡山衆徒の激しい妨害に会い、布教を禁止された。

禅は比叡山の影響力が強い京都ではなかなか理解されなかったが、

鎌倉幕府に認められることで発展して行く。

栄西が鎌倉幕府に認められたのは密教の秘法によってである。

栄西は鎌倉で政子の帰依を受け、鎌倉幕府の関係する仏事の中心的な担い手になった。

例えば、1199年不動明王の開眼供養の導師となり、

1200年の源頼朝一周忌の仏事の導師になった。

このように、栄西は単純な禅師ではなく祈祷師(呪術師?)としての一面を持っていたのである。

彼は「祈雨法」や「病気平癒の祈祷」なども行っていた。

栄西を開山とする鎌倉の寿福寺は当初は禅密兼学の寺であった。

建仁2年(1202)京都では栄西を迎えて建仁寺造営の工事が始まった。

この寺は最初禅院の外に真言・天台を併せ置き、仏教の総合道場にしようとしていたのである。

栄西は葉上(ようじょう)房とも称した。

彼は禅師であると同時に天台密教葉上(ようじょう)流の開祖でもある。  

       

5.10 正中の宗論

鎌倉・室町時代と時と共に禅宗はだんだん支持層も増え勢力を増して来た。

そうなると旧仏教側は危機感を感じていた。

延暦寺、園城寺、東寺などの学僧は「教外別伝」を説く禅宗を論破しようとし、

朝廷に宗論を願い出ていた。

1325年(正中2年)清涼殿において宗教討論が行われることになった。

これを正中の宗論と呼ぶ。

正中の宗論において旧仏教側は玄慧(比叡山の法印、旧仏教の代表)などの九人、

禅宗側は通翁鏡円と大徳寺の大燈国師(宗峰妙超、1282〜1337)であった。

この時、次ぎのような問答が交わされた。

先ず玄慧が問う、「云何なるかこれ教外別伝の禅

大燈が答える、「八角の磨盤、空裏に走る。


玄慧は分からなかった。

旧仏教側の学僧はすべて仏教教理を学ぶことを本旨としていたから、

禅の言う教外別伝ということが最も問題とされていたと考えられる。

大燈の「八角の磨盤、空裏に走る。」は

教理とは全く関係のないものであるから玄慧が分からなかったのも当然であろう。

八角の磨盤とは一切のものを破砕するという八角の古代武器を意味する。

それが空を飛ぶというのであるから如何にもすさまじい。

分別智による理解をはねつける大燈らしい表現である。

次に園城寺の僧が箱を持って出て来た。


大燈が言う、「是れなんぞ

僧が答える、「是は是れ乾坤の箱

大燈は竹蓖(シッペイ)を以ってその箱を打ち砕いて言う、

乾坤打破の時いかん

その僧は何も言えず引き下がった。旧仏教側は大燈達禅宗側に圧された。

倶舎、成実、三論、華厳などの諸教義について7日7夜にわたって議論を深めた。

これに対しても、通翁と大燈は無碍の弁を以って論破し、玄慧は遂に大燈の弟子になったという。

この問答において大燈が言った「八角の磨盤、空裏に走る。」と言う言葉は

碧巌録第四十七則「雲門六不収」の公案の本則の著語(圜悟克勤の言葉)からの引用である。

八角の鋭い角を持つ武器が空中を飛び一切を破壊してしまうという意味で

すさまじい破壊力を言っている。

言語を越えた禅と悟りの世界を表現していると考えてもよいだろう。

   

5.11   山林と叢林



京都の禅寺には五山十刹に代表される一派とそれと一線を画す在野の寺院とがあった。

五山十刹に代表される一派を「禅林」あるいは「叢林」と呼び、在野の寺院を「山林」と言った。 

大徳寺と妙心寺は「山林」を代表する寺院ある。

これらの寺院の禅風を表わす言葉として

山林所立、一志、二信、三参禅。叢林所立、一世諦、二応答、三学問」という文句がある。

山林にあっては修行者は求道の志と信をもって参禅に励む禅風があった。

これに対し、叢林、即ち五山では世諦(世俗のこと)にうつつをぬかしたり、人との交友応対(応答)、

詩文などの文芸・芸術(学問)を学ぶ傾向が強いが参禅修行をおろそかにする

風潮があったことを言っている。

国家の保護統制下にあった五山では交友応対、詩文などに耽って

参禅修行におろそかにする傾向があった。

詩文集「蕉堅藁」で知られる絶海中津(1336〜1405)、

日本水墨画の父天章周文などが五山派から出た。

画聖雪舟等楊(1420〜1506)は相国寺で修行したので五山派に近い禅僧であった。

彼等は文学芸術面で日本文化に寄与したと言える。

他方、日本の独創的な禅は五山ではない大徳寺や妙心寺の流れから出たのである。




5.12

5.12  応・燈・関の法系



建長寺の蘭渓道隆(大覚禅師、1213〜1278)の下で禅の修行をしていた

南浦紹明(なんぽじょうみょう、大応国師、1235〜1308)は

蘭渓道隆の勧めで25才の時入宋した。

宋では虚堂智愚禅師(1185〜1269)について径山万寿寺で参禅修行した。

31才の時坐禅中に大悟した南浦紹明は次の投機の偈(悟りの詩)を呈して、虚堂の印可を受けた。


忽然として心と境と共に忘ずる時は

大地山河(この一)機に透脱す

法王の法身は全体現ずるに

時人は相対すれども相知らず


現代語訳

坐禅中、私は忽然として心境不二の境地に至り、大地山河と一つになって心が透脱してしまった。

この時自己本来の面目はその全身を私の前に現わし私は悟った。

世間の人はこの「自己本来の面目」に常に相対しているのだけれども、そのことを自覚していない。

この偈を見た虚堂は大変喜び、「この漢参禅大徹せり」と南浦紹明の悟りを褒めた。

それから二年経ち、紹明は師のもとを辞して帰国することになった。

この時、紹明の前途を嘱望した虚堂は紹明に次のような偈を贈った。


門庭を敲カツ(こうかつ)して細(こまか)に揣磨(しま)し

路頭尽くるところ再び経過す

明明に説与す虚堂叟

東海の児孫日にうたた多からん


現代語訳

お前は諸方の門をこつこつとたたいて、精細に禅の奥義を究明した。

行き着くべき所に行き着いたお前は再び日本に帰ることになった。

私はお前のために、私の禅の全てを明らかに授け終った。

(紹明よ、よくぞここまで成長してくれた。)

これから日本に帰ったら、お前の力によって、日本では日ごとに禅宗が栄えることであろう。




日本の臨済宗では上の偈の第四句に因み、「日多(にった)の記」と呼んでいる。

在宋八年の修行を終えて帰国した紹明は鎌倉建長寺の蘭渓に報告し、彼を助けた。

その後1270年から筑前の興徳寺に移り、ついで横岳崇福寺に入って虚堂の禅を挙揚した。

以来34年間、紹明は十八哲、七十二員、千有余人もの多くの有能な弟子達を育てたのである。

その中でも大徳寺開山大燈国師(1282〜1337)と峰翁祖一(1273〜1357)が有名である。

1309年後宇多上皇は紹明の徳を称えて「円通大応」の国師号を贈られた。

これは日本における禅僧に対する最初の国師号とされている。

大燈国師宗峰妙超(1282〜1337)は鎌倉万寿寺で佛国国師高峰顕日(1241〜1316)の下で

雲水として修行していた。

宗峰妙超は、宋の虚堂智愚禅師の禅の玄旨を極めて、

帰国した大応国師南浦紹明(1235〜1308)の

峻厳な禅風と評判を聞いて大応の下に行き、その鉗鎚を受けるようになった。

やがて、大応が鎌倉建長寺に入ると妙超は、それに随侍し、刻苦精励した。

妙超は大応に参禅してからわずか1年の間に200の公案を透過したという。

しかし、大応から与えられた「雲門関字

の公案(碧巌録第8則)を透過するまで3年もかかったという。

そして遂に、「雲門関字」の公案を透過し、大応の印可を得た。

雲門関字」の公案を透過した妙超は

次ぎのような投機の偈(悟りの詩)を残している。


一回雲関を透過し了り

南北東西活路通ず

夕処朝遊賓主なし

脚頭脚底清風起る。」


現代語訳

「一たび雲門の関門を透過してみると、南北東西どこにも路が通じていることが分かった。

朝に遊び夕べに家に居ても主客の区別はなく、両脚のあたりからすがすがしい風が吹いてくる。」



大応は1308年に入寂した。

大燈の前後5年に及ぶ参禅はこれで終わり、彼は京都に帰った。

京都に帰った大燈は鴨川の東岸あたりで乞食の群れに入り、日夜刻苦精励したと伝えられる。

有名な「五条橋下20年の聖胎長養」である。20年というのは本当の期間ではない。

この「五条橋下20年の聖胎長養」の伝説は後年一休や白隠を感激させ、

日本の禅に大きな影響を与えたと言われる。

大燈はやがて花園法皇や後醍醐天皇の帰依を受け世に出て45才の時大徳寺の開山になった。

大燈は終始一貫して頓悟を主張し、

我が宗はただ見性を論じて終に次第の修行を仮らず」と言った。

大燈は大徳寺に住してから、56才で入寂するまでの12年間この道場を出なかった。

大燈国師は以下の(示衆法語)と遺誡を残している。



興禅大燈国師大燈国師(示衆法語)



「汝等諸人、此の山中に来たって、道の為に頭を聚む。衣食の為にすること莫れ。

肩あって着ずということ無く、口あって食らわずということ無し。

只須らく十二時中、無理会の処に向かって、究め来たり究め去るべし。

光陰矢の如し、謹んで雑用心すること莫れ。

看取せよ、看取せよ。


現代語訳:

諸君はこの山中(お寺)には道のために集まっているのだ。

決して衣食のために過ごしてはならない。

肩(体)があって着物を着ないということはないし、口があって食べないということはない。

ただ、日中12時間、起きている時には理屈では理解できない禅の究極のところに注意を集中し、

究め来たり、究め去らねばならない。

時間は矢のように過ぎ去る。

謹んで、つまらないものに気を取られて過ごしてはならない。

真の自己をはっきり看て取れ!はっきりと看て取り、理解するのだ!



興禅大燈国師 遺誡



老僧行脚の後、或いは寺門繁興、仏閣経卷、金銀を散りばめ、多衆閙熱(にょうねつ)、

或いは誦経、長坐不臥、一食卯斎(ぼうさい)、六時行道、たとひ恁麼(いんも)にし去ると雖も、

仏祖不伝の妙道を以って、胸間に掛在(くざい)せずんば、

忽ち因果を撥無(はつむ)し真風地に墜つ。皆是邪魔の種族なり。

老僧世を去ること久しくとも児孫と称することを許さじ。

或いは一人あり、野外に綿絶し、一把茅底(いっぱぼうてい)、

折脚鐺内(せっきゃくしょうたい)に野菜根を煮て喫して日を過ごすとも、

専一に己事を究明する底は、老僧と日日相見報恩底の人なり。

誰か敢えて軽忽(きょうこつ)せんや。勉旃(べんせん)、勉旃(べんせん)」


注:

老僧行脚の後:老僧(宗峰妙超)があの世に行脚の後。私(宗峰妙超)の死後。

多衆閙熱(にょうねつ):多くの人々で賑わうこと。

六時:1日中。

一食卯斎(いちじきぼうさい):午前中に一度の食事。

一把茅底(いっぱぼうてい):小さなあばら屋。

折脚鐺(せっきゃくとう):脚の折れた鐺(なべ)。破れ鍋。

己事(こじ)を究明(きゅうめい):己事(こじ)を究明(きゅうめい)すること。真の自己を究明すること。

勉旃(べんせん):努力すること。


現代語訳:

私の死後、この大徳寺は金銀を散りばめ、伽藍は繁栄し、多数の僧侶が集まるかも知れない。

また、盛んに読経し、長時間横にならないで坐禅したり、午前中1食で、1日中勤行したり、

型の如く整然と修行したりするかも知れない。

しかし、そのように型の如くいくら修行しても、仏祖直伝の言葉に表わすことのできない

禅の妙道が、無ければ、因果の理法が否定され、禅の真風が地に落ちてしまうだろう。

このような人達は悪魔の種族と言うほかない。

私が死んでずっと時が経っても私の児孫だと言うことを許さないだろう。

しかし、たとい一人であっても野外で人家から離れた所で小さなあばら屋に住んで、

破れ鍋に野菜根を煮て食べて毎日過ごすような貧乏生活をしていても、

「己事究明」の禅に専念する者は、私と毎日顔を会わせているのだ。

そのような人は仏道に報いる真の仏弟子である。

そのような人を誰が敢えてなおざりにするようなことがあるだろうか? 

「己事究明」に努力せよ! 努力せよ!



関山慧玄(1277〜1360、関山国師)は11才の時建長寺で大応国師に会い、

得度を受け慧眼の名を貰って座禅修行を始めた。

その後1327年大徳寺の大燈国師の門下に入った。

大燈は慧眼に「雲門の関」の公案(碧巌録第八則)を与えた。

「(碧巌録第八則」を参照)。

慧眼は大徳寺の客舎に住んで3年間朝夕参禅し、精励の後この公案を透過し、

次のような投機の偈(悟りの詩)を大燈に呈上した。



雲門関鎖太(はなは)だ孤絶

万仞懸崖手を撒するに難し

活路通じる処小語なし

看よ看よ大道是れ長安


現代語訳

「雲門の関鎖ははなはだ孤絶している。

万仞の切り立った懸崖には手を付けることさえ難しいようなものだ。

しかし、一旦活路が通じたらはっきりしていて、語ることは何も無い。

看よ看よ、悟りの大道は明らかに長安に通っているではないか」



師の大燈はこの投機の偈を見て心から嘆賞し、

このように速やかに雲門の関を透過したのだから、これより、関山慧玄と名乗るがよい」と言った。

これ以降慧眼は関山慧玄の名を用い始めた。

大燈の下で開悟した関山慧玄は美濃伊深の里に隠棲し9年間の聖胎長養の生活に入った。

しかし、1337年大燈国師の遷化に会い、

花園法皇の要望を受けて京都に入り妙心寺の開山となった。

大応国師→大燈国師→関山国師の法系が日本の臨済禅の確かな主流を形成した。

これを「応・燈・関の法系」と呼んでいる。

大徳寺は後醍醐天皇の帰依を受けた南朝方の寺院であったため五山から外された。

そのため、足利幕府からの支援も受けられなかった。

大徳寺は妙心寺とともに、時の政治的影響の外にあった。

このことも「応・燈・関」の法系をたくましくした原因になったと思われる。



5.13 聖胎長養



聖胎長養とは母胎に宿った真理の子を慎重に健康に育て上げることである。

仁王般若経(菩薩教化品)では「信心、精進心、念心、慧心、定心、施心、戒心、護心、願心、廻向心」

の十心を養うこととされる。

「伝灯録」第6で馬祖は、「諸君よ、めいめい自己の心が仏であると知れ・・・

もしこのことが分かれば、もうその場その場で、身に服をつけ飯を食い

聖胎を長養して、ありのままに時を過ごすばかりだ。それ以外に一体何の事があろう。」

と言っている。

聖胎長養の思想は唐代初期の禅思想である。

「伝灯録」第28の大達無業国師(馬祖の弟子)の上堂に次ぎのような説法がある。

看よ、彼の古のすぐれた修行者達は、ひとたび自分の心の本質を知った後は

茅や薄の蔭や石窟の中で、割れ鍋で粥を煮て食い、30年20年の間

世間の名利を思わず財宝を心にかけず、全く世間を忘れて

岩窟の中に跡を隠し、君主が召しても応ぜず、諸侯が請うても起たなかった。」

聖胎長養の思想には中国の隠遁の思想が見られる。

徳をかくし、光をくらまし、塵世に同化(和光同塵)して自己を忘れる生活が

唐代の禅の理想であった。

大梅法常(752〜839)は馬祖の即心即仏の一言を聞いて大悟し、

直ちに天台山の一渓である大梅に籠って一生を過ごした。

大梅法常の他にも洪州の西山にかくれた亮座主、

郷里の越州に帰り山中に隠れた大珠慧海は隠遁の人である。

彼等は全て馬祖道一の門下である。


日本的な禅の誕生と形成



鎌倉・室町時代に中国から導入された禅は日本に徐々に定着し、消化吸収された。

日本に禅が導入された中国の宋代には中国に於ける禅は

ピ−クを過ぎ衰退滅亡期に入っていた。

鎌倉時代日本に導入受容された禅が日本で成熟し、

真に日本的な禅となるのは室町時代から江戸時代になってからである。

皮肉にもこの時代には本場中国の禅は滅亡して行ったのである。

ここでは日本的な禅者として鈴木正三(すずきしょうさん、1579〜1655)、

盤珪永琢(ばんけいようたく、1622−1693)、

白隠慧鶴(はくいんえかく、1685〜1768)の3名を選び見て行きたい。



図5.1

図5.1 鈴木正三、盤珪永琢、白隠慧鶴達が活躍した年代


図5.1に鈴木正三、盤珪永琢、白隠慧鶴達が活躍した年代を示す。

この3人の禅者の内鈴木正三は戦国時代末期から江戸時代初期の人であり、

その禅には戦国武士の勇猛な気風が反映されている。

盤珪永琢と白隠慧鶴は江戸時代初期の人であり、

激動の時代から安定期に入ろうとする時代の人々の安心と安定を求める気風が

反映されているように思われる。

次に見るように、この三人とも夫々が個性的な禅風を創造している。



5.14  鈴木正三(すずきしょうさん)




鈴木正三像

鈴木正三像



鈴木正三(すずきしょうさん)(1579〜1655)は三河国足助(あすけ)で生まれた。

徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い(1600)には秀忠に従って出陣(本多佐渡守配下)

し信州真田の戦いで戦功を立てた。

この時(22才の時)の戦(1600)が初陣である。

大阪冬の陣と夏の陣(1615)の2度の戦にも参戦した。

いつも先陣を駆けて進むことで捨身の心を鍛錬し、勇猛精進の意味を体得した。

彼は若い時から生死の問題に悩んだため、仏教に心を寄せ遁世の志が強かったと言われる。

関ヶ原の戦いの後は下妻多宝院の良尊禅師や宇都宮恵林寺の物外和尚について参禅修行した。

大阪夏の陣の後、幕府から200石を賜り三河国足助町の一部を知行し1人立ちの旗本になった。

江戸駿河台に住み貴雲寺の万安英種に師事し曹洞禅を究めた。

正三42才の時、世の中が平和になったので平素の宿願をかなえるため出家した。

出家した正三は畿内の社寺を廻って修行を重ねた。

1623年頃三河に帰った正三は山中村に庵を結んで荒行をした。

激しい修行のため重病を患うほどであった。

この時の庵が後に石平山恩真寺になった。

彼は石平道人と号し、恩真寺を拠点に江戸、京都、大阪、三河各地で盛んに宗教活動を行った。

足助町で正三によって始められた「念仏講」は現在でも毎月続けられているとのことである。

1637年の島原の乱で鉄砲隊長として鎮圧に従軍した正三の弟重成は乱後、

天草の初代代官に任ぜられた。

正三は、64才の高齢を厭わず天草に行って重成を補佐した。

幕府の直轄地となった天草は、住人も少なく荒廃の極に達していた。

正三は編成替えや移民をして村組織を確立し天草の復興に努めた。

島原の乱の原因はキリシタン弾圧と領主の過酷な年貢の収奪にあえぐ農民の不満にあった。

正三はキリスト教の影響を取り除くことに努めた。

神社を復旧し、中村桂法、一庭融頓の2人を招いて曹洞宗の寺院を建立した。

この時建立された曹洞宗の寺院は32ヶ寺にもなった。

彼は曹洞宗以外の宗派にも「布教勝手たるべし」と、

布教の自由を保証したので曹洞宗以外の仏教が広く行き渡ったと考えられている。

この時正三は「破切支丹」という書を著しキリスト教を批判し

仏教が優れていることを述べた。

弟重成は天草農民への租税の軽減を幕府の老中に繰り返し上訴したが認められなかった。

万策付きた重成は天草の石高半減を嘆願する遺書をしたため、

幕府への抗議を込めてか、駿河台の自邸で割腹して果てた。

重成の死は、表向きは病死とされたが、その命がけの嘆願は、

幕府上層部の心を動かしたようである。

二代目天草代官には重成の養子になっていた正三の実子伊兵衛重辰が任ぜられた。

この重辰も重成の遺志を継いで天草農民への租税軽減のため熱心に働いた。

重成の命がけの嘆願と重辰の熱心な働きかけが遂に実を結び、

重成の自刃から7年目1659年になって幕府は農民への租税軽減を認めた。

このことに感謝した天草の人々は「いま自分達のくらしがあるのは鈴木様のお陰だ

とし島内の各地に鈴木大明神、鈴木塚などを祀って遺徳を偲んだ。

現在でも本渡市には天草地方最大の境域を持つ鈴木神社があるが、

その祭神は重成、正三、重辰の三名である。



鈴木神社

鈴木神社




5.15 鈴木正三の思想と禅



正三は愚堂、大愚など当時の臨済禅の名僧知識とも親交を結び、律の荒行にも励んだと伝えられる。

彼は主として曹洞系の禅を修めたが特定の師事する師匠を持たなかった。

どの宗派、教団にも属さず、自由な立場で当時の教団や僧侶の在り方を鋭く批判し、

民衆の実生活に役立つ仏教の教えを説いたのである。

正三は禅と共に念仏も重視した。「禅良し、念仏良し」の立場を取った。

彼は中国で明時代に流行した念仏禅の情報を得てその影響を受けているのかも知れない。

76歳で正三が死に臨んだ時、弟子が「何か御遺戒を言って下さい。」と師にお願いした。

その時、正三は「何と言うぞ

自分がこの30年も言って来たことが分かっていないからそんなことを言うのだ

正三は死ぬと也!」と凛然と一喝したと伝えられる。

正三は「関東辣破(らっぱ)は必ず禅に近し。」と言ったと伝えられる。

辣破(らっぱ)とは戦国時代の忍者のことで荒くれ者とか無頼漢のことを意味する。

武士であった正三の禅は「仁王不動禅」と呼ばれるが、当人もそのように呼んでいた。

弱気を払って、仁王や不動のような激しく厳しい心(=勇猛心)を持って坐禅し

その気持ちを一日中持続せよ。」という禅である。

煩悩心がそのまま菩提心であるが、唯だ心の用い方が違うだけだ

と言う「煩悩即菩提」の考えの上に立っていた。

正三の「仁王不動禅」は戦場体験から生まれた禅と言えるだろう。

41歳の時大阪城の藩士を勤めていた時、朋輩の儒者が「仏法は世法に背く。」と主張した。

これに対し正三は「仏法によりてこそ、処世の安きを貫きうる。」と力説した。

正三の「盲安杖」という著作はこれを契機に書かれたと言われる。

正三は実践と実用を重視した。

正三の基本的な思想は

仏法と世法は同じで、理を正し、義を行って正直の道を守る

にあると言えるだろう。

正三の生きた江戸時代には士農工商の身分制度が確立した。

彼は職業の多様性を認めたが「全ての職業が仏法の下に貴賎なく平等である」とした。

正三の特徴的な思想はその独創的な労働観と職業観にあるのである。





5.16

5.16  正三の労働観と日本資本主義の精神




正三 はその著「万民徳用」の中で、農民との問答を通して「農業即仏行

という思想を次のように説いている。

農民「後生一大事、疎(おろそか)ならずといへども農業時を遂(おい)て隙(ひま)なし

あさましき渡世の業をなし、今生むなしくして、未来の苦を受くべき事無念の至(いたり)なり。何として仏果に至(いたる)べきや?」

この農民は「私は仏道修行(仏行)の重要性は分かりますが

農業労働の忙しさに追われて仏行をする時間がありません

どうしたら仏果に至ることができましょうか?」と質問する。

これに対し正三は次のように答えている。

正三「農業は即ち仏行である。心がけが悪い時には賎業なるが

信心がしっかりしている時には、菩薩の行になる

隙な時に信心して来世の幸福を祈って、かならず成仏をしようと思うのは間違いだ

かならず成仏をしたいと思うなら、身心を責(せめ)るくらい努力しなければならない

楽を思って、来世の幸福を願うような心では何時まで経っても人は成仏することはできない

極寒極熱の下で生活するような苦労をし、鋤鍬鎌を手にして

煩悩の叢(くさむら)が盛んなこの身心を敵と見て、畑をすきかえし

煩悩を刈り取るような心がけで必死に努力して耕作しなければならない

暇を持て余すような時には、煩悩の叢(くさむら)が増長し易いものだ

辛苦の努力をして仕事をして、身心を責(せめ)るような時には、心に煩悩が生まれる余裕もない

このように四時ともに仏行としての農業をすれば

農人がどうして別の仏行を好むことがあろうか。・・・・」

このように農民が煩悩が生じる暇もなく農業に没頭することができれば、

農業は仏行になると言うのである。

正三にとって農業に集中することは坐禅と同じことだという思いがあったと思われる。

正三は農業即仏行という思想を全ての職業に展開した。

「万民徳用」に於いてはどんな職業についてもその労働は衆生済度の仏行であるとしている。

最終的には世俗的生活の全てが仏道修行であり、

「世法によって成仏する」という「仏法即世法

という考えに到達するのである。


正三は41歳の時、友人の儒者から「仏法は世法に背く。」と批判され悩んだようである。

この問題意識が常に正三の頭を離れず、禅修行を通して「労働即仏行」や

「世法にて成仏する「仏法即世法」という考えに到達したのである。

これは「世俗の業務は宗教的修行と同じであり、それを一心不乱に行えば成仏できる。」

という考えである。

この考えは儒者の批判に対する彼の答えだと言える。

正三は日々の労働の中に宗教性を求めることで、

人々に「生きがい(成仏)」を与えようとしたと言える。

彼の「労働即仏行」の精神は彼の禅思想から生まれたものである。

現代日本には仕事を生きがいにして懸命に働くサラリーマン達がいる。

彼等は鈴木正三の「労働即仏行」の精神を無意識に受け継いでいると言えるのかも知れない。

彼等は正三が説く「労働即仏行」の精神を無意識に実践する

現代の「鈴木正三教徒」だと言えるだろう。



鈴木正三の思想は

M.ヴェーバーが言う資本主義の精神(<労働を聖なる宗教的行為とする勤勉の精神>)に通じる。

このため山本七平などによって、

正三は、「日本資本主義の精神の確立者」であると考えられている。

  正三の「労働即仏行」の思想を分かり易く図にすると図5.2のようになる。



労働即仏行の思想

 図5.2 鈴木正三の労働即仏行の思想



正三の「労働即仏行」の思想は

  「全ての人は仏性を有するが故に労働という仏行を一心に行うことで仏になる(成仏する)。」

  という考え方である。

  一方、M.ヴェーバーが言う資本主義の精神は次ぎの図5.3に示すように

  「霊魂を有する人がキリスト教に基づく禁欲的労働を行うことによって

  神の恩寵によってその霊魂が救われる」という考え方である。




図5.3

図5.3 M.ヴェーバーの資本主義の精神(キリスト教に基づく)



正三の「労働即仏行」の思想とM.ヴェーバーが言う資本主義の精神は非常に似ている。

正三の「労働即仏行」の思想では、

人は労働という仏行を一心に行うことで仏になり(成仏し)救われる。」

と考える。

これに対し、M.ヴェーバーの資本主義の精神では

人間はキリスト教に基づく禁欲的労働をすることで神によって救われる。」と考える。

救済と言う点では似ているが誰が救済するかではっきりした違いが見られる。

正三の「労働即仏行」の思想は

自己が成仏を求めて労働(仏行)に励むので自律的かつ主体的である。

これに対し、M.ヴェーバーが言うキリスト教に基づく資本主義の精神は

禁欲的労働をすることで神によって救われる」と考えて労働に励む点で他律的である。

これは仏教とキリスト教の基本的な考え方の違いから来ていることは言うまでも無いだろう。



5.17

5.17 正三の「仏法即世法」の思想



正三は「万民徳用」で次ぎのようなことを述べている。

「凡夫は貧瞋痴の三毒を有するため心病を病む病人である。仏とは大医王である。

仏法は凡夫の心病を治す方法であり世法と異なることはない。

本来空の道理を知って、不浄穢悪の垢を取り去る。

このような毎日の生活で心を鍛錬し清浄無碍の心剣を得る。

この心剣によって我執貧着の念根を裁断し万念に打ち勝って心の煩いを離れ道人になる。

仏の言葉に『俗世間に入って我が物とすれば、仏法が完全に実現する』とある。

これが世法で成仏する道理であり、世法即仏法の原理である」。

正三が考える凡夫が世法によって仏になるプロセスは次の図5.4で表すことができる。




図5.4

図5.4 正三の世法即仏法による成仏



   
5.18

5.18  正三の「世法即仏法」の合理的解釈



「怒り」「むさぼり」「慢心」「憎しみ」、過度の「所有欲」などは

旧哺乳類脳(下層脳に含まれる)の働きである。

三毒(貧瞋痴)の内、貧(むさぼり)瞋(怒り)は旧哺乳類脳(情動脳)の過度な働きより起こる。

貧瞋痴の内、痴(愚かさ)は上層脳(大脳新皮質=知性脳)の働きが不活発なため起こる。

従って、三毒の心病を治療解消するには次ぎのようにすれば良いだろう。



1.

貧瞋の情動と欲は視床下部と旧哺乳類脳(大脳辺縁系)の情動が過度に働くことにより生れる。

それらの過度な情動は坐禅を通して下層脳を活性化すれば鎮静し安定化することができる。

この時、上層脳(大脳新皮質=理知脳)も補助的に働き情動をコントロールすることができる。

即ち下層脳を活性化させるとともに上層脳(大脳新皮質=理知脳)

によるコントロールを効かせれば情動と貪欲はバランス良く働くようになる。




2.

痴(愚かさ)は上層脳(大脳新皮質=理知脳)の働きを活発にして

知性や理性が発達すれば無くなる。

即ち「正見」と「正知」の力で痴(愚かさ)は無くなる。

上層脳(大脳新皮質=理知脳)は下層脳に働きかけて、

本能的な貧瞋(むさぼりと怒り)という過度な欲望や情動を理性でコントロールする。

これを図示すれば次ぎの図5.5のようになるだろう。



図5.5
図5.5

図5.5 「世法即仏法」の合理的解釈 :

坐禅によって全脳を活性化すれば三毒(貧瞋痴)は自然に消滅し成仏する




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図5.5に示したように坐禅で下層脳を活性化させると同時に上層脳(大脳新皮質=理性脳)も

バランス良く働かせることで貧瞋痴の三毒を解消し成仏することができる。

このような生活は出家することなく、在俗生活でも可能である。

ただし、坐禅を生活に取り入れるので暇な時間が必要である。

一種の居士禅と言える生活になるだろう。

これが鈴木正三が考えていた「世法即仏法」の思想だと言えるのではないだろうか。

世法即仏法」の思想は禅仏教(宗教)と世俗法(世俗の生き方)を融合させた

極めて合理的で優れた思想と言えるだろう。




5.19 「世法即仏法」の思想は馬祖禅から来たのだろうか



鈴木正三(1579〜1655)は友人の儒者に「仏法は世法(世俗の生き方)に反する。」と批判され悩んだ。

その思想的苦闘の末「世法即仏法」の思想に到達したと考えられる。

著書「 万民徳用」に書かれた「世法即仏法の思想」は仏法を本体、

世法を用と考えれば体用思想である。

世法即仏法において世法=農業、仏法=仏行と置くと農業即仏行の思想が出てくる。

鈴木正三の日用即仏行や世行即仏行の思想は馬祖禅の

<日用即妙用>の思想と本質的に同じである。

鈴木正三の日用即仏行や世行即仏行の思想は

日本資本主義の思想の源流となったと考えられている。

それは馬祖禅の<日用即妙用>の思想や体用思想から来たのではないだろうか。

特に鈴木正三の労働即仏行の思想は馬祖の弟子である百丈懐海の

一日作さざれば1日食らわず。」という労働重視思想と関係があると思われる。

鈴木正三は友人に「仏法は世法(世俗の生き方)に反する。」と批判され悩んだ結果、

馬祖禅の<日用即妙用>の思想と百丈懐海の労働重視思想から

労働即仏行>の思想に到達したと言えるのかも知れない。

馬祖禅の<日用即妙用>の思想は禅の基本的思想であり

百丈懐海は馬祖の法嗣であるからである。




5.20鈴木正三の道元禅師批判



著書「驢鞍橋」には正三は青年僧玄石の臨終に際し、

人は道元和尚を、悟りの眼を持った人のように思うかも知れない

しかし、私の目から見ると、道元和尚は未だ仏の境涯ではない

自由な悟りの境地に達してはいない。念願の悟りを開くことなく若くして死んだのは

あなただけではないのだよ。」

と言って若くして死のうとしている玄石を慰めたと伝えられている。

ここには正三独自のきびしい道元観が述べられている。

道元は世俗を否定し仏道一筋に生きることを求めた人であった。

鈴木正三は友人に「仏法は世法に反する。」と批判され悩んだ。

彼は世俗を否定するのは大乗仏教の精神に反するとして、

道元の「出家中心の仏法」を追求する純粋さを物足りなく思ったのかも知れない。

鈴木正三(しょうさん)は曹洞宗の僧であったのもかかわらず、

宗内で絶対視されている宗祖道元禅師を遠慮なく批判している。

言論の自由な現代でも道元をこれだけ自由に批判する曹洞宗の僧侶はいないだろう。

正三がいかに自由な人であったかを物語っている。




5.21   ヨーロッパで生まれた資本主義の精神




資本主義の精神はヨーロッパのカトリック修道院で生まれたとされる。

カトリック修道院にはキリスト教の禁欲的勤労の精神があった。

それが宗教改革を通してキリスト教社会に引き出され一般人の勤労の精神となった。

社会学者M.ウェーバー(1864〜1920)は

それが西欧の資本主義の精神の基礎となったと考えている。

近代の資本主義的経営とは実現可能な目的設定 計画 実行  のプロセス

を目的合理的に遂行することにある。

この目的合理的な資本主義的経営と資本主義の精神が結びつい

て資本主義が発達したと考えたのである。

社会学者M.ウェーバーによる資本主義の精神とは

簡単にまとめると<労働を聖なる宗教的行為とする勤勉の精神>であると言えるだろう。

資本主義の精神はヨーロッパのカトリック修道院で生まれた。

カトリック修道院には禁欲的勤労の精神があった。

それが宗教改革を通して西欧キリスト教社会に引き出され、資本主義の精神の基礎となった。

  近代の資本主義的経営とは実現可能な目的設定 計画 実行

 のプロセスを目的合理的に遂行することにある。

M.ウェーバーはヨーロッパにおける資本主義の誕生を次ぎのように説明した。



資本主義が生まれるに当たって資本主義の精神が決定的な役割を果した。

その精神は単なる金儲け主義ではない。

金儲け主義の精神はイスラム社会をはじめ世界諸地域に昔からあった。

しかし、そこからは資本主義が生まれることは遂になかった。


資本主義の精神によって合理的経営体に適合する経済的人間関係を作り出すことができた。


その精神によって単に金儲けをするのではなく、

経営自体を自己目的として献身する人々が生み出され、資本主義が発生した。




5.22  ヨーロッパにおいて資本主義の精神は確立された



ヨーロッパのプロテスタント諸国において成立した

資本主義の精神はキリスト教の精神と深く関係している。

カトリックの倫理に「働かざる者食うべからず。」という考えがあった。

修道院内での労働をする人は修道士である。

従って、救済されるのは神の国の労働者である修道士のみということになる。

カトリック修道院内にのみ見られた禁欲的労働の行動様式を

世俗の中に引き出すことによって、西洋の資本主義の精神の基礎となった。

カトリック修道院内の禁欲的労働の行動様式を

世俗の中に引き出すことに成功したのは宗教改革であった。

図5.6にヨーロッパにおける資本主義の精神の成立過程を図示する。



図5.6

図5.6 ヨーロッパにおける資本主義の精神の成立過程


M.ヴェーバーはヨーロッパにおいて資本主義の精神の成立に

最も寄与したのはプロテスタントの中でもカルヴィニズムだと考えた。

カルヴァンが生きた時代(1509〜1564)と

日本資本主義の「仏法即世法」の思想を確立した鈴木正三(しょうさん)

(1579〜1655)が生きた時代とは意外に近い。

偶然のことであるが驚かされる。





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