2008.2月作成
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4章 悟りの体験と分析: その1




4.1 悟りの体験




「「悟り」は仏教の開祖ゴータマ・ブッダが出家後6年にして、

菩提樹の下で澄心端坐して得たとされる至高の経験である。

仏教の最高の目的であるにもかかわらず未だ何であるかはっきりしない。

中国に始まった禅宗はブッダの「悟り」の経験を追体験(科学での追試)することで

悟り」の謎を明らかにすることを目指していると言えるだろう。

悟り」とは何であるかは今でも依然として大きな謎のままである。

しかし、過去の偉大な祖師や禅師達の悟りを振り返り合理的に分析することで

悟り」の謎が見えてくる。

ここでは過去の有名な祖師や禅師達の悟りの経験を振り返ってみよう。




1. ゴータマ・ブッダの悟り




仏教の開祖ゴータマ・ブッダ(紀元前4〜5世紀)の悟りは次のように伝えられている。

北インドの小国カピラ国の王子であったゴータマ・シッダールタは29才の時、

妻子と皇子の座を捨て出家した。

6年間にわたる猛烈な苦行に励んだにもかかわらず悟ることができなかった。

彼は遂に苦行を捨て、ナイランジャナー河で沐浴し、

ブッダガヤーのピッパラ樹の下で49日間澄心・坐禅に集中した。

ある日、悟るまでは坐を立たないという強い決意をして、徹夜で坐禅をしていた。

夜が明けて、ふと東の空を仰ぎ、暁の明星がまばたくのを見た時、

彼は「覚者(ブッダ)としての自覚(=悟り)を得たと伝えられている。




4.1-2

2. 臨済義玄の悟り



臨済義玄(?〜867)は黄檗希運の下で3年間ひたむきな純粋さで修行に打ち込んだ。

ある日首座がお前はだいぶ修行が進んだから黄檗老師の所に行って

仏教の根本義とは何か?」を聞いたらどうかと勧めた。

臨済は黄檗の所に行って「仏教の根本義とは何ですか?」を聞いた。

その途端、黄檗は臨済を棒で打った。

臨済は何故打たれたのか分からなかった。

そこで再び黄檗の所に行って「仏教の根本義とは何ですか?」を聞いた。

しかし、またもや臨済は黄檗に棒で打たれた。こうして三度同じ問いをして三度打たれた。

臨済は何故打たれたのか全く分からなかった。

臨済はここで修行を続けても駄目だと絶望し黄檗の下を去ろうと考えた。

臨済は「ここでは駄目なので何処か別の所で修行したいのですが」と黄檗に相談した。

すると黄檗は「大愚の所が良いからそこへ行け」と勧めたので大愚の所に行った。 

大愚は臨済に「黄檗は何と教えたのか?」と聞いた。

私が『仏教の根本義は何ですか?』と尋ねますと入室の度にただこっぴどく打たれました

一体私のどこに落ち度があって打たれたのか分かりません。」 

と言う臨済の言葉を聞くなり、

大愚は「黄檗はそんなにも親切にお前のことを心配して指導してくれたのに

こんなところまで来て、落ち度があるの無いのと何を言うか?」とどなった。

この大愚の言葉を聞いた途端、

ああ、黄檗の仏法はこんなことか。」と臨済は大悟した。

 

大愚は臨済を捉まえ「この寝小便小僧め!今までほえ面かいてたくせに

ああ、黄檗の仏法はこんなことか。』などと大口をたたく。

貴様一体何が分かったのか? さあ言え! 言え!」とつめよった。

しかし、臨済はもはや先刻までの彼ではない。掴んでいる大愚の脇腹をこつんこつんと三度突き上げた。

よし、これなら本物だと分かった大愚は掴んだ手を突き放して言った、

貴様の師匠は黄檗だ。わしの知ったことではない。帰れ!帰れ!

臨済は大愚の所を辞して黄檗僧堂に引き返した。

これを見た黄檗は「こいつ往ったり来たり、そんなにふらついていて何時決着が着くか?」

と浴びせかけた。

臨済は「はい、老師があまりご親切なので、また戻って来ました。」

と言って黄檗に拝をして傍らに立った。

黄檗はなお質問した。「何処へ行ってきた?」

臨済、「先日お情けで大愚老師の許へ行って来ました。」

黄檗、「大愚は何と教えた?」

臨済は事の次第を報告した。

黄檗はこれを聞いて「何とかしてあいつをひっ捕まえて、さあ一つこっぴどくぶんなぐってやろう。」

と言った。

すると臨済は「何の、さあ一つなどと生ぬるいことをおっしゃる?たった今これを食らえ

と言うや否や黄檗の横面をいやというほど殴りつけた。

殴られた黄檗はからからと気持ち良さそうに大笑して、

この風テン漢(ふうてん漢=気違い)め!こともあろうにこのわしの所に帰って来て

虎のヒゲを撫でるようなことをしおったな。」

と言った。

臨済はすかさず「カーッ」と一喝した。

この一喝に黄檗は心から満足し「侍者よ、この風テン漢を堂内に連れて行け。」と言った。

これが黄檗の印可(悟りを証明すること)の言葉だった。



コメント


上の黄檗と臨済のやり取りにおいて「風テン漢(ふうてん漢=気違い)」という言葉がでている。

この言葉は普通悪い意味(貶称として)で使われる。

しかし、ここでは黄檗が臨済を褒める言葉となっていることに注目すべきである。

二人の会話の終わりのところで、で臨済は「カーッ」と一喝した。この一喝で

彼は黄檗を叱ったり警告をしているのではない。

臨済は悟りの本体である真の自己の活作用を「カーッ」という一喝で表現したのである。

この力強い一喝に黄檗は心から満足した。

そこで、「侍者よ、この風テン漢(ふうてん漢=気違い)を堂内に連れて行け。」

と言い、黄檗は臨済の悟りを印可(悟りを証明すること)したのである。

二人の会話に禅問答の生き生きした本来の姿を見ることができる。




3 定上座の悟り



定上座は臨済義玄の優れた弟子の一人であった。修行中のある日、定上座は

如何なるか是れ仏法の大意(禅の本質とは一体何ですか)?」

と師の臨済に尋ねた。

臨済はいきなり坐禅していた席から下りて来て、片手で定上座の胸ぐらを捉えると同時に、

片手でビシリと頬をしたたかに打って、バッと突き放した。

余りの激しさに定上座は我を失って茫然と立ちつくすのみであった。

その時、傍に居た道友に

おい、老師におじぎせんかい。」と注意された。

その途端、忽ち大悟したと伝えられる。

彼は臨済の激しい気迫に我見も煩悩も木っ端微塵に吹き飛んでしまい、完全に自己を忘れていた。

その忘我の状態(純一無雑の状態)の時道友に注意された。

 その途端、ハッと我に帰り自己の本来の面目を自覚し悟った。

この話は碧巌録第32則の主題となっている。

碧巌録第32則を参照

白隠禅師(1685〜1768)は定上座の悟りの端緒となった「定、佇立す」

ということについて

ああ見事、日頃の禅定力の故にこの境界が現れた。」と言って、

定上座の悟りには日頃の坐禅修行による禅定力が基礎となっているとコメントしている。



4

4.香厳の悟り



 香厳(きょうげん)智閑禅師は百丈懐海の弟子である。

師の百丈が死んだので兄弟子のイ山霊祐(いさんれいゆう)禅師(770〜853)の処に行った。

イ山は香厳に言った、

禅を分別智で理解しようとしても役に立たない

お前と俺とは一緒に百丈禅師について禅を修行した間柄だ

お前自身の本来の面目は何か。一つ言って見てくれないか。」

兄弟子のイ山にこう尋ねられても香厳は何も答えることができなかった。

香厳は自分の部屋に戻り師の百丈の教えをメモしたものを読んで調べた。

しかし、彼は、適当な答えを見つけることができなかった。

香厳はイ山の所にまた来て、禅理について何とか教えてくれないかと頼んだ。

ところがイ山は、 「実際には俺にはお前に教えるものは何もない

教えたら、他日俺はお前に嗤われるような時節があるに違いない

それはこちらのもので、お前のものではないのだ。」と言った。

こう言われて香厳は非常に失望した。

兄弟子のイ山は人情も知らないと怨む気持ちも出てきた。

いくら考えても決着がつかないのでこう思った、

「こんなに難しいものならば禅宗は止めてしまおう。

今まで書き付けていたノートやメモなどは全部焼き捨ててしまおう。

これからは世を避けて平凡な比丘として生涯を送った方が良い。

こんな難しい仏教を研究しても何の役に立たない。

人から教わることもできないものなら、自分の望みの外にあるものだ。」

こう考えてイ山の所を出て南陽に小さな庵を作り、そこで忠国師の墓守をしようとした。

ある日彼は庭を掃除していた。その時箒の先に小石が引っかかった。

その小石を箒で払い飛ばしたら竹の根元に当たってカチンと音を出した。

その音を聞いた時香厳の心に悟りの光が閃き過ぎた。

これでイ山に尋ねられた問題ははっきり分かり歓喜の心は測り知れなかった。

丁度亡くなった親に会ったような心持がした。

その上兄弟子のイ山が自分に教えてくれなかったことが

返って親切の極みであったという事も分かった。

もし、イ山が親切心で何か教えてくれたならば、

今のような体験はできなかったであろうと、感謝の心が湧いてきた。

その時香厳は次のような詩を作った。

一撃所知を忘る

更に修治を仮らず

動容に古路を揚ぐ

悄然の機に堕せず

処処蹤跡(しょうせき)なし

声色威儀を忘る

諸方の達道者

咸(ことごと)く上上の機という



現代語訳

『石が飛んで竹を撃ちカチンという音が出た。

その音を聞いたとたん、今まで覚えていたいろんなことが、どこかへ行ってしまった。

それは別に修行や鍛錬の結果ではない。本来そこにあったものだ。

手足を動かしても本来の古路を踏み外すことはない。

もう何か物寂しくなって気分がおちこむようなことはない。

その古路は空寂で、どこにも足跡のようなものは残っていない。

しかし、単に空寂なものではなく、その中に働きがある。

五官や思慮はそのままで動いている。

別にかれこれと威儀に囚われることではない。

そこに上々の働きがあるのだ。』




コメント:

イ山霊祐の「それはこちらのもので、お前のものではないのだ。」

と言う言葉は禅の体験(=悟りの体験)は自分で体験しないと分からない。

それを言葉で伝えることができないこと(不立文字)を言っている。




5

5.霊雲志勤の悟り




霊雲志勤禅師は30年もの長い間坐禅修行に打ち込んだ。ある時、他山へ遍歴の旅をした。

彼は山の麓で休息して、遠く人里を見渡していた。

丁度春で、桃の花が盛りに咲いているのを見た途端、忽然と悟った。

その時彼は次のような投機の偈(悟りの詩)を作った。




三十年来尋剣の客

幾回か葉落ち又枝を抽(ぬき)んず

桃花を一見してより後

直ちに如今(いま)に至って更に疑わず



現代語訳

『私は30年間真の自己を尋ねて参禅修行をしてきた。

その間何度も木の葉は落ち、木の枝も新しく伸び出てきた。

しかし、いったん桃の花を見て悟ってから、その悟りを一度も疑ったことはない。』





コメント:

道元禅師は霊雲志勤禅師の悟りについて、

春風にほころびにけり桃の花、枝葉に残る疑いも無し。」

と詠んでいる。

この投機の偈において剣は真の自己(脳)の喩えである。

真の自己(脳)は煩悩・葛藤を利剣のようにズバリと断ち切って解決するため

しばしば(利剣)に喩えられる。




6.水潦和尚の悟り





水潦(すいりょう)和尚が藤を採(き)っていた馬祖に尋ねた、

如何なるか是れ祖師西来意(禅の究極の意味は何ですか)?」

馬祖は言った、「もっとこちらへ寄って来い。そうしたら言って聞かそう。」

水潦が馬祖の側へ寄って行くと、馬祖はいきなり水潦の胸先を蹴飛ばした。

水潦は蹴飛ばされて、大地に倒れてしまった。

が、その時大いに悟るところがあった。彼は起き上がって呵呵大笑した。

馬祖は言った、「お前は何の道理を見たのだ?」

水潦は言った、「百千の法門無量の妙義、只一毛頭上に向かって

便(すなわ)ち根源を識得し去る。」

馬祖は既に水潦が禅の悟りを得たことが分かったのでそれ以上何も言わなかった。

その後水潦は自分の寺に帰った。多くの坊さんが水潦のところに参禅にきたが、

水潦は「馬祖大師に一遍蹴飛ばされてから今日に至るまで、おかしくてまだ笑い切れない。」

と言うだけであった。




7. 百丈懐海の悟り



百丈懐海(720〜814)は師である馬祖道一(709〜788)と一緒に道を歩いていた。

その時野鴨子(雁)の1群が空を飛んでいるのが見えた。

馬祖「あれは何だ?」

百丈「あれは野鴨子です。」

馬祖「どこへ飛んで行くのか?」

百丈「さあ何処でしょうか、ともかく飛んで行ってしまいました。」

すると馬祖はいきなり百丈の鼻柱を引っつかんで捻り上げた。

痛いので百丈はオウオウと泣き始めた。

馬祖「飛んで行ったと言うが、まだここに居るではないか。」

この時百丈は冷や汗を流して悟りを開いた。





コメント:

この話は碧巌録53則「百丈野鴨子」として採用されている。

碧巌録53則「百丈野鴨子」を参照




8.徳山宣鑑の悟り



徳山宣鑑(782〜865)は西蜀で仏教学を研究し特に金剛経の研究で知られた。

周氏の出であったため「周金剛」の異名を持つほどの仏教学の権威であった。

徳山の時代には禅が南中国に盛んになって来た。

伝統的な大乗仏教の教えでは凡夫が仏になるには無限に近い時間が掛かり殆ど不可能である。

しかし、禅では「直ちに悟りを開きそのまま仏になる(頓悟成仏)」と言う。

それを徳山は聞いて、「そんな馬鹿なことはない。大乗仏教では凡夫が仏になるには

無限に近い時間が掛かることになっている(三劫成仏説)。

もし、禅宗がそんなことを言うなら仏教ではない。天魔外道に違いない。」と思った。

自分がこれから南方に行って禅の外道達を尽く説き伏せて折伏してやろうと考えた。

聞くと竜潭崇信(生没年不明)という偉い禅師が竜潭山に居ることが分かった。

そこで彼は竜潭山に登り竜潭崇信禅師に会った。

徳山は竜潭崇信と禅について夜遅くまで議論を戦わせた。

夜も更けたので別れを告げて簾を上げて外に出ようとした。

ところが外が真っ暗なので引き返してきて、「辺りが真っ暗なものですから」と言った。

竜潭和尚は提灯に火をつけて渡した。徳山がそれを受け取ろうとすると、

竜潭和尚はそれをプッと吹き消してしまった。徳山はその途端に悟りを開いた。

彼は嬉しくて嬉しくて、竜潭和尚をしきりに三拝九拝し、深々と頭を下げた。 

竜潭は「お前さん何が分かったのか?」と聞いた。

徳山は「私はもう今日からは竜潭和尚のおっしゃることを疑いません。」と言った。

竜潭は徳山の悟りの内容を点検し肯定した。

翌日、竜潭は法堂に大衆を集めて言った、

この中に偉い奴が出てきたぞ。仏が出て来ても、悪魔が出て来ても

一口にかみ殺してしまうような偉い奴が出て来た

彼は将来、何人も近づけないような気高い境地に立って、自分自身の仏法を打ち立てるであろう。」

竜潭禅師のこの言葉の後で徳山は自分が持って来た金剛経の注釈書と

一本の炬火を持って法堂の前に行き、

それらを振りかざすと「どんなに仏教の教義を究めても、一本の髪の毛を大空に投げたようなもの

また世渡りの巧緻をうまく手に入れたとしても、一滴の雫を大渓谷へ落とすようなものに過ぎない。」

と言って持って来た注釈書を焼き捨て、礼を述べて山を降りて行った。



コメント:



この話は「無門関」28則に採用されている。

「無門関」28則を参照



   

9.玄沙師備の悟り



玄沙師備(835〜908)は雪峰義存(822〜908)の下で昼夜となく修行にいそしんだ。

ある時、広く諸方の指導者達を訪ねて修行を徹底させたいと思った。

そこで旅装を調えて雪峰山を出で発った。ちょうどその折、脚の指を石にぶっつけた。

血は流れ、痛みに耐えかねた時、忽然として自己の正体に対し猛烈な反省が沸き起こり言った、

「この身は本来空で有るものではない。それなのに、この痛みはどこから来たのか?」

そのまゝ直ちに引き返し雪峰の下へ帰った。

雪峰は慌てて帰って来た師備を見て尋ねた、

「(お前はついさっき諸方を偏参すると言って出かけたばかりなのにもう帰って来た)、

備頭陀、一体どれがお前さんかね?」

  師備は答えた、「私はいつも真実(ほんもの)で嘘を言って人を騙すようなことはありません。」

この言葉を雪峰は特別に喜び言った、

そういうことは誰でも言う。しかし、この言葉を真実の表現として言う人はいない。」

雪峰はさらに尋ねた、

備頭陀、お前さんはどうして遍く諸方の指導者の教えを受けに行かないのかね

(そう言って出かけたはずではないか)? 」

師備は答えた、

達磨不来東土、二祖不往西天(達磨はインドから中国に来たのではありません。

二祖慧可もインドには行きませんでした。

達磨や二祖慧可が覚ったのと同じ「真の自己」は現在ここにいるではありませんか)。」

こう答えたのに対し雪峰は一方ならず師備を褒めた。


コメント:



この話は正法眼蔵「一顆の明珠」に採用されている。

正法眼蔵「一顆の明珠」を参照



   



10.蘇東披の悟り




宋の蘇東披(1036〜1101)は何人もの優れた仏法者に参学し深く高く参学したが、

なかなか悟ることができなかった。ある時廬山に行って夜谷川の水の音を聞いて悟った。

彼は次のような投機の偈を作って常総禅師に呈出したところ、

常総禅師は彼の悟りをよしとしてゆるした。



渓声便是広長舌

山色無非清浄身

夜来八万四千偈

他日如何挙似人


渓声は便(すなわ)ち是れ広長舌

山色清浄身に非ざること無し

夜来八万四千偈

他日如何が人に挙似せん



現代語訳

『谷川の水音は私にはあたかもブッダの尊い説法のように響く。

山の景色は如来の清浄なる身体のようである。

私は夜中坐禅している時、このように、如来の八万四千偈を聞いた。

これを人にどのように説いたら分かって貰えるだろうか。』


コメント:



ちなみにこの詩に関し、道元禅師は

峰の色、谷のひびきもみなながらわが釈迦牟尼の声とすがたと

と詠っている(傘松道詠)。




11.荼陵の郁山主の悟り



荼陵(とりょう)の郁山主(いくさんしゅ)という人は白雲守端(1025〜1072)の受業師であった。

ある時、彼はお斎に呼ばれて驢馬に乗って出かけた。

ところが谷川の橋を渡る時、驢馬はつまずき、

郁山主は放り落とされた。

その時郁山主は覚えず「アッ」と叫び契悟するところがあった。

彼はこの悟りの経験を基に次ぎのような頌を作った。

我に明珠一顆あり、久しく塵労に埋没せらる

今朝塵尽きて光生ず

山河万朶(ばんだ)を照破す


注:

明珠:明るい珠。ここでは健康な脳をさしている明珠に喩えている。

正法眼蔵「一顆の明珠」第3文段の注を参照


一顆:一つぶ。

:枝


現代語訳

「私には一顆(一粒)の明珠があるが永いこと塵労に埋れていたので気付かずにいた。

今朝驢馬から放り落とされた途端、塵労が尽きて光が生まれ、山河万朶(ばんだ)を照破した。」


コメント:



この話の詩に出て来る「明珠一顆」という表現は

道元の正法眼蔵「一顆の明珠」と似た表現である。

正法眼蔵「一顆の明珠」を参照



   
   

12.興教洪寿の悟り



興教洪寿禅師は師匠の天台徳韶国師(891〜972)の許で修行していた。

ある日薪作務の普請の時、

積んであった薪がガラガラッと落ちる音を聞いて豁然として悟った。

次のような投機の偈(悟りの詩)を作った。


撲落他物に非ず

縦横是れ塵に非ず

山河並びに大地、法王身を全露す


   

現代語訳

くずれ落ちた薪は自己そのもので、決して他物ではない

私の前に縦横に展開する万物は単なる外界の対象ではない

山河並びに大地は、まったく法王身を露呈している



13.仰山慧寂の悟り



仰山慧寂(807〜883)は初め石霜性空に師事した。

性空禅師は百丈懐海の法嗣である。

ある時一人の僧が「祖師西来の意は何か?」と尋ねた。

性空禅師は「もし人が千尺の深い井戸に落ちた時

一寸の縄も用いないでこの人を出すことが出来た時

お前の質問に答えよう。」

と言った。

その僧は「この頃、湖南の〜禅師は親切に法を説いて指導して下さるとのことです。」

(なのに性空禅師は何も親切に法を説いて学人を指導して下さらないという意味を言外に滲ませた。)

と泣き言を言った。

そこで性空禅師は仰山を振り返って「慧寂!」と呼び、

この死人を外に引き出せ!」と言った。

仰山はこの出来事以来この事が頭を去らず、

もし人が千尺の深い井戸に落ちた時

どのようにしたら一寸の縄も用いないでこの人を出すことが出来るか

という公案を工夫することになった。

後に仰山は耽源応真(たんげんおうしん)の室に投じて参禅弁道した。

仰山は耽源にこの出来事を話して、「どうしたら井戸の中の人を出すことができるでしょうか?」

と聞いた。耽源は言った、「この愚か者! 誰が井戸にいるのか?」

しかし、仰山はこの時にはその真意が分からなかった。

さらにイ山霊祐禅師(770〜853) の室に参じて同じ質問をすると、

イ山は「慧寂!」と呼んだ。

仰山は思わず「はい!」と応じた。

イ山は静かに言った、「出て来たじゃないか!」

この時仰山は悟ったのである。

後年、仰山はこの時の事を振り返り、

私は耽源の処で体(本体)を得、イ山の処で用(働き)を得たのだ。」と述懐した。





14.玄則の悟り 




玄則は法眼文益禅師(885〜958)の清涼寺の監院(事務長)をしていた。

彼は清涼寺に来て2,3年になるのに一度も入室参禅しようとはしなかった。

ある日、法眼文益禅師の方から尋ねた、「玄則よ、あんたはどうして入室しないのか?」

すると玄則は「老師はお分かりにならないのですか

 私はもう青峰義誠(せいほうぎしょう)禅師の処で悟りを開いています。」と言った。

法眼「では、どういうふうに悟ったか。ためしに、私に聞かせてくれ。」

玄則「 私が青峰老師に『仏とはどのようなものですか?』と尋ねると

老師は『丙丁童子来求火(へいていどうじらいぐか)』と示されました

私は老師のこの言葉で悟ることができたのです。」

法眼「そうか、それは実に良い言葉だ

しかし恐らくは、あんたはこの言葉の本当の意味が分かっておるまい。もっと説明してごらん。」

こう言われて玄則は悟りの解説を始めた、

玄則「「丙丁童子」というのはヒノエ(丙)・ヒノト(丁)で火の神のことです

火の神が来てその上に火を求めると言うのです

老師は私に『仏を求めているお前自身がそれではないか

何をうろたえてほかに尋ね廻る、それを求めている自己の外に仏はないぞ、それを大切にせよ』と

こう教えられたのだと受け取ってそれですっかり安心できました。」

玄則の説明を聞いた法眼禅師は、強くこれを拒否して言った、

やっぱり、あんたは間違っている

仏法がもしそんなことで済むのなら、決して今日まで伝わりはしなかったろう。」

このきびしい否定に会って、玄則は憤然として起単(師家を肯わずに道場を去ること)

の手続きを取って、揚子江を渡って北に去った。

法眼禅師は「あの男、も一度帰って来れば救い得るが」と惜しまれた。

一方、玄則も途中まで行って心中に思った、

「法眼禅師は500人の門下を有する大師家である。

どうして私をだまされることがあろうか。

あんなに辛辣におっしゃるからには、きっと何か私の持たぬものを得ておられるに違いない。」と。

そこで玄則は引き返して来て、懺悔礼謝して再参した。

禅師は言われた、「あんた質問するが良い。何でも答えよう。」

玄則は直ちに問うた、「仏とはどのようなものですか?」

その時法眼禅師は言われた、「丙丁童子来求火!」

機縁が熟したと言うか、玄則は言下に大悟した。




コメント:

この問答において前後の問いも答えも全く同じである。

しかし、玄則の境涯において雲泥の相違が見られる。

これについて、道元は著書「正法眼蔵:弁道話」に於いて次ぎのように言っている。

「この話からはっきりと分かるのは自己がそのまま仏であると知的に理解するだけでは

仏法を知ったことにはならない。

もし、自己がそのまま仏であるという理解を仏法とするならば、

法眼禅師は前に言った言葉そのままで玄則を指導するようなことはなさらなかっただろう。

又、あのように教え諭すこともなさらなかっただろう。

ただ間違いなく、初めて立派な指導者にお目にかかった後は、

修業の仕方、決まりを尋ねて、ひたすら坐禅弁道して、

ひとかけらの解釈も心に止めてはならないのだ。

このように修行すれば、仏法の妙術は決して空しく終わらない。」

玄則の悟りについて、道元は「即心是仏」の悟りは単なる知的理解ではなく、

修行を経た経験そのものであると言っていることが分かる。





15.無門慧開の悟り



無門慧開(1183〜1260)は月林師観禅師(1143〜1217)に師事し、

「狗子無仏性」の公案に疑着すること6年に及んだ。

「無門関」第1則「趙州狗子」の公案を参照

分からないのでこの公案に懸命に集中するあまり柱に頭をぶっつけて警覚精修するほどであった。

ある時法堂の辺に立っていた時、斎鼓(食事を知らせる太鼓)の音を聞いて豁然と大悟した。

無門は次のような投機の偈を作った。

青天白日、一声の雷

大地の群生、眼豁開す

万象森羅、斉しく稽首す

須弥勃跳して三台に舞う


注:


三台(たい):古代中国で紫微星と言う星を囲んで守る三つの星のこと。

紫微星:中国古代占星学で高貴、気品、徳を表わす星のこと。

「須弥勃跳して三台を舞う」:須弥山が起き上がって空に舞うように嬉しいという喜びの表現。

   

現代語訳

私の心中は青天白日のように晴れ渡っていた時、

食事を知らせる太鼓の音が一声の雷のように響いた。

その時、全ての生物の眼が開いたように私は悟った。

森羅万象も私を祝福しお辞儀をしてくれた。

長い修行の末、やっと悟ることができた私は須弥山が起き上がって空に舞うように嬉しい。




この開悟の日の翌日、無門は月林師観禅師の部屋に入りその悟境を述べようとした。

その時月林はすかさず「何れの処に神を見、鬼を見おわるや?」と聞いた。

無門が一喝すると月林は一喝をもってこれに応酬した。

無門と更に問答数段して月林は無門の悟りを肯定した。




16. 黄山谷の悟り




宋代の政治家で詩人に黄山谷(黄庭堅、1045〜1105)という人がいた。

彼は黄龍の晦堂和尚に参じ禅理を尋ねた。

晦堂「あなたが研究なさる論語の中で孔子は

『私があなたに何か隠したことがあると思っているのか。私はお前達に何事も隠していない』

と言っている。これは禅の教と合致している。」

晦堂和尚にこういわれると黄山谷は何か言おうとした。

晦堂は直ちにその口を押さえて「ダメ、ダメ」と言った。

黄山谷は何故口を押さえられたか分からずマゴマゴした。その後山の中に散歩に出かけた。

丁度木犀(もくせい)の花盛りでその香りが渓谷に満ちていた。



晦堂「木犀(もくせい)の好い香りが聞けるか?」

黄山谷「はい、好い香りがします」。

晦堂「それだ、我が汝に隠したことは無いではないか。」

これを聞いた時黄山谷は悟った。



コメント:

晦堂和尚が「あなたが研究なさる論語の中で孔子は『私はあなたに何も隠したことはない。』

と言っている。これは禅の教と合致している。」と言った時、

黄山谷は何か言おうとした。すると、

晦堂は直ちにその口を押さえて「ダメダメ」と言った。

しかし、黄山谷は何故口を押さえられたか分からずマゴマゴした。

晦堂が黄山谷の口を押さえて「ダメダメ」と言ったのは禅の教えは口で表現できない(不立文字)。

それを理屈を言って説明するなと口を押さえて示したのである。

その後二人は山の中に散歩に出かける。

黄山谷は渓谷に満ちていた木犀の好い香りを嗅ぐ。

その時、晦堂は「それだ、我が汝に隠したことは無いではないか。」

と言って、木犀の好い香りははっきりと匂い、それを言葉で表現できないが

それを隠すことはできないと言っている。




17.雲門文偃の悟り



雲門文偃(うんもんぶんえん、864〜949)は幼い時から仏教の律を学んだが

なかなか悟ることができず、心中悶々と悩んでいた。

その頃黄檗希運の弟子睦州禅師は厳しい禅風で知られていた。

雲門文偃は何とかして悟りを開きたいと不退転の覚悟を持って睦州禅師に

弟子入りをお願いしようと睦州禅師の寺の門を訪ねた。

雲門は幼い時から仏教の律を学んだがなかなか悟ることができず、

心中悶々と悩んでいた。

その頃黄檗希運の弟子睦州禅師は厳しい禅風で知られていた。

雲門は何とかして悟りを開きたいと不退転の覚悟を持って

睦州禅師に弟子入りをお願いしようと睦州禅師の寺の門を訪ねた。

寺の門を叩くと門がわずかに開かれたので、文偃は門内に足を踏み入れようとした。

睦州はいつものように、新入り弟子の文偃を捕まえて「道(い)え、道(い)え!」と迫った。

しかし、文偃は何も答えることができなかったので

睦州は遠慮会釈も無く、文偃を門外へ押し出してしまった。

二度目もこの繰り返しに終わった。

それでも文偃は怯まず三度睦州の門を叩いた。

睦州「誰だ?」。文偃「文偃です」。

その時門がわずかに開かれた。文偃はここぞとばかり門内に跳り入ろうとした。

その時睦州は急に力を込めて左右の戸を引き合わせた。

文偃の片足は未だ門の敷居の内側にあったため、

閉まる戸に挟まれ骨が不気味な音を立てて折れた。

あまりの痛さに文偃は思わず「痛い!」と大声で叫んだ。

この時文偃は忽然として大悟した。




18.円爾弁円の悟り


1235年入宋した円爾弁円(えんにべんえん、聖一国師、1202〜1280)は

当時中国第一の禅匠とうたわれた仏鑑禅師無準師範(1178〜1249)に師事した。

無準師範は円爾に「首山竹蓖」の公案を与えた。

「無門関」第43則「首山竹蓖」の公案を参照

この公案を与えられた円爾は血のにじむような坐禅修行に打ち込んだが、

どうしても悟ることができない。

ある日、この公案に対する見解をあれこれと述べた。

この時無準師範は円爾を手に持っていた竹蓖で思い切り打って、打ちのめした。

息の根が止まるほど打ち据えられた円爾は豁然と大悟した。

この時無準が振るった竹蓖が円爾の右目に当たったため、円爾の右目は不自由になった

と言われている。




19. 一休宗純の悟り



一休宗純(1394〜1481)は25才の時、

江州堅田の華叟宗曇(かそうそうどん)禅師の下で修行していた。

一日盲目の法師が平家琵琶を演奏するのを聞いて、

忽然として「洞山三頓」の公案(「無門関」第十五則)を悟った。

「「無門関」第十五則を参照

師の華叟宗曇(かそうそうどん)はこれを肯い、道号として

「一休」の二字を与えた。

それから2年経ち27才のある夜、彼はいつものように湖上に浮かぶ小舟の中で坐禅をしていた。

いつの間にか彼は深い禅定に入っていた。その時、突然鴉がカアーッと鳴いた。

その声が心身にしみ渡った時大悟した。

華叟宗(かそうそう)曇(どん)は最初一休の見解に疑問を呈したが、

最終的に「お前こそ本当の禅者だ。」とこれを肯(うべな)った。

その時一休は次のような投機の偈(悟りの詩)を作った。



十年以前識情の心

瞋恚豪機即今にあり

鴉は笑う出塵の羅漢果

昭陽日影玉顔の吟



現代語訳

『この10年くらいは、我執や分別意識に捉われ、凡情から脱することができなかった。

怒りやおごりの心もなかなか抜けず今迄来てしまった。

しかし、烏が笑う声を聞いた途端、これらの凡情・情識を離れ

悟りの果実を手にすることができた。

今はこみ上げる喜びを抑えることができない。

照り輝く日光の下で晴れ晴れとした顔をして悟りの詩を詠うことができる』。




20.盤珪禅師の悟り



盤珪永琢(ばんけいようたく、1622〜1692)禅師は少年時代「大学」を習った。

しかし、「大学」の中に書いてあった「明徳」の意味が分からなかった。

「明徳」の意味を明らかにするため禅門を尋ねたが誰も納得の行くように説明できる者はいなかった。

17歳の時随オウ寺(ずいおうじ)の雲甫和尚について出家した。

盤珪は雲甫和尚の下で修行を重ねたが明徳に対する疑問を明らかにすることは出来なかった。

彼は遂にこの問題に決着をつけ様と一丈四方の小部屋に入り

昼夜寝ずに念仏と坐禅三昧の生活に入った。

しかし、問題は解決することなく、心労のあまりついに大病人になり重態に陥った。

彼の痰には血が出るようにまでなった。

七日間食事も通らず死を覚悟するようになった。

丁度その時咽が変に覚えて、痰を壁に吐きかけると

「真っ黒なむくろじのように固まった痰」が

ころりころりと落ちて来て、胸のうちがどうやら心地よくなった。

その時盤珪はひょっと「一切の事は不生で調うのではないか。」と気付いた。

そう気付くと今までの修行は無駄な骨折りだったと、自分の非を知った。

そこで胸中がすがすがしく覚えて嬉しい気持ちになった。

そうなると食欲が勃然と湧いてきて食事も進み病気も快方に向かった。

ある朝盤珪は外に出て顔を洗っていた。

その時川上から風に乗って漂って来た梅香を嗅いだ途端、

従来の胸中の疑情がからりと消え去り桶底の脱する思いがした。

その時彼は不生にして霊明なる仏心を悟ったのである。盤珪26才の時であった。

盤珪はその時の経験を

古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ

と、歌に残している。

実に苦節十四年後の大悟であった。

日本の禅とその歴史ーその2を参照




21.山本玄峰の悟り




山本玄峰(1865〜1961)は昭和の傑僧と呼ばれた偉大な禅僧(三島竜沢寺師家)として知られる。

 

中川宋淵老師(三島竜沢寺師家)は「山本玄峰伝」において山本玄峰老師から

 

よく聞かされた話だと次ぎのように述べている。

山本玄峰老師が27,8才の頃、臨済宗ばかりではなく、

各宗のお坊さん達が集まって大きな葬式があった。

その葬式が始まる前二階で他の雲水と一緒に待っていた。

その間もずっと無字の公案に集中していた。

無字の公案については「無門関」第1則「趙州狗子」を参照

折から没り日(入日)がパッと明るかった。向こうから日蓮宗の坊さん達がねり込んできた。

彼はそれを見た途端、ガラーガラーッと悟った。

 

22. 山田無文老師の悟り



20世紀の名僧として知られる山田無文老師(1900〜1988)は

その修行時代に男山八幡の円福寺の禅堂で座禅修行に没頭していた。

坐禅に集中して、坐って坐ることを忘れ、立って立つことを忘れ、

心身を忘却するところまで進んだ。

心境は神人合一とも言える清寂さを湛えていた。

ある日参禅の帰りに本堂の前の真黄色な銀杏をふと見た時、

忽然として本心に目覚めた。その時無は爆発して妙有の世界が現前した。



23.天台徳韶の悟り



法眼文益禅師(885〜958)には「曹源一滴水」と言う話がある。

ある日法眼が講座に上がると、ある僧が「如何なるか是れ曹源の一滴水?」と尋ねた。

法眼は声を励まして言った、「是れ曹源の一滴水」。

質問した僧は呆然として退いた。

この問答を聞いていた大衆の中に天台徳韶が居た。

彼は法眼が「是れ曹源の一滴水」と言う言葉を聞いて、忽然と大悟して、

覚えず感涙滂沱(ぼうだ)として流れ衣を沾(うるお)した。

のち出世するに方(あた)って、法眼に嗣法(法を嗣ぐ)した時次のような頌(詩)を呈出した。



通玄峯頂、是れ人間(じんかん)にあらず

心外無法、満目青山。


現代語訳

 『天台山の通玄峯の頂きは、俗塵をはるかに絶して人間界を超絶している。

 心の外に存在(法)はない。

法界はこの一心に収まり、

一心法界はそのままの姿で明らかに,この満目の青山として現前している。』



コメント


天台徳韶は法眼文益が「是れ曹源の一滴水」と言う言葉を聞いて、何故忽然と大悟したのだろうか?

ある僧が「如何なるか是れ曹源の一滴水?」と尋ねたのに対し

是れ曹源の一滴水」と言う言葉を繰り返しただけに過ぎないではないか。

答えになっていないと疑問に思われるだろう。

これは次ぎのように考えれば理解できる。

如何なるか是れ曹源の一滴水?」とは

六祖慧能から連綿と継承されて来た曹渓禅の本質(悟り)とは何か?」

という質問である。

この質問に対し法眼文益が「是れ曹源の一滴水」と声を励まして答えている。

その質問に対して答えている法眼文益自身がそれ(本来の面目の働き)を今示しているではないか、

と悟りの本体である本来の面目に気付くことを促していると解釈できる。

天台徳韶はそのことにはっきりと気付いたのではないだろうか?

 あるいは「如何なるか是れ曹源の一滴水?」と尋ねた僧自身に対し、

お前が質問したその働きの中にはっきりと六祖慧能から継承されて来た曹渓禅の本質(悟り)

が現われているではないかと質問と同じ言葉で答えたとも解釈できるだろう。

日本では法眼は顔を突き出して「是れ曹源の一滴水」と答えたと伝えられているとのこと。

法眼は顔を突き出して「是れ曹源の一滴水」と答えることで

本来の面目を質問者に丸出しに示したのだと解釈できるだろう。



24.羅山和尚の悟り



羅山和尚はある日石霜慶諸に会って尋ねた、

心が起滅して止まない時はどうしたら良いのですか?」

石霜慶諸は「その起滅して止まない心を直ちにあたかも寒灰枯木のように

全く生気の無いものにし、一念を万年にするようにおよそ時間を超えたものにし

その起滅するものに間隙をあらしめないようにすることである。」と答えた。

羅山はこの石霜の答えに納得することができなかった。

そこで巌頭和尚の所に行ってまた同じことを尋ねた。

すると巌頭は羅山に一喝をくらわして、

その起滅しているのはお前自身ではないか!」と言った。

ここで羅山はたちまち大悟した。



4.2 悟り経験の分析:悟りとは何か?



上述のように、禅書には多くの人の悟りの経験が述べられている。

全てを書くとキリがないので次ぎの表にまとめる。

悟りの契機と要因は人によって異なるが表では主たる契機と要因と思われるものを挙げた。

この表に於いて、悟りの契機と悟り経験の要因を

六感・六識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、痛覚、意識)によって分類してまとめた。

 表4―1には61名63例の悟り経験をまとめた。

我が国の白隠禅師に関しては特に3例の悟り経験を挙げた。

白隠禅師は一生に数多くの悟りを経験したためである。



表4-1  悟りの契機とその要因

No 人名 悟りの契機 悟りの要因
ゴータマ・ブッダ 暁の明星がまばたくのを見た時視覚 
臨済義玄 黄檗から三度痛棒を喫した時 痛覚
定上座 臨済から頬を打たれ突き放され忘我の時意識
香厳智閑 小石が竹に当たった音を聞いた時 聴覚
霊雲志勤  桃の花を見ていた時 視覚 
水潦和尚 蹴飛ばされ大地に倒れた時 意識
百丈懐海 鼻柱を捻り上げられ痛さ感じた時 痛覚
徳山宣鑑 提灯の明りをプッと吹き消された時 視覚
玄沙師備 脚の指を石にぶっつけ怪我をした時 痛覚 
10 蘇東披 谷川の水の音を聞いた時聴覚
11 郁山主 驢馬から放り落とされた時 意識
12 興教洪寿  薪がガラガラッと崩れ落ちる音を聞いた時 聴覚
13 仰山慧寂 イ山との問答 意識
14 玄則  「丙丁童子来求火!」の問答 意識 
15 無門慧開 太鼓の音を聞いた時 音(聴覚) 
16 黄山谷 木犀の花の香りを嗅いだ時嗅覚
17 雲門文偃 足を骨折した時 痛覚
18 円爾弁円 仏鑑禅師から竹蓖で打たれた時痛覚
19 一休宗純 烏の鳴き声を聞いた時  聴覚
20 盤珪永琢 梅の花の香りを嗅いだ時 嗅覚 
21 山本玄峰 日蓮宗の坊さん達が来るのを見た時視覚 
22 山田無文 真黄色な銀杏を見た時 視覚 
23 天台徳韶 法眼文益の説法を聞いた時意識
24 羅山和尚 巌頭から一喝を食らった時 意識
25 張九成 蛙の鳴き声を聞いた時 聴覚 
26 高峰妙 枕が床に落ちた音を聞いた時 聴覚
27 雪巌欽 柏の木を見た時 視覚
28 道元 如浄の大喝を聞いた時 聴覚
29 無学祖元 禅板を打つ音を聞いた時 聴覚
30 抜隊得勝 谷川の音が心身に沁み渡った時 聴覚
31 夢窓疎石 夜床から転げ落ちそうになってハッとした時 意識
32 白隠(case1) 鐘の声を聞いた時  聴覚
32 白隠(case2) 竹箒で叩かれた時 痛覚 
32 白隠(case3) 経を読みながらこおろぎの鳴き声を聞いた時  聴覚
33 慶寿享 坐禅中 板木を打つ音を聞いた時 聴覚
34 松源崇嶽 師が僧に質問しているのを傍で聞いた時 意識
35 中峰明本 流水を観た時 視覚
36 毒峰善  鐘の声を聞いた時  聴覚
37 壁峰金 木を切り倒す音を聞いた時 聴覚
38 蒙山異 香盒に物を打ち当てた音を聞いた時 聴覚
39 雲棲?宏 物見やぐらの太鼓の音を聞いた時  聴覚
40 高峯 五祖法演禅師の偈頌を見て読んだ時 意識
41 雪竇重顕 師に払子で打たれた時痛覚
42 羅山道閑 巌頭から一喝された時 意識
43 洞山良价 水面に写る自分の影を見た時 視覚
44 長慶慧稜 簾を巻き上げた時 視覚
45 西山の亮座主 馬祖から呼ばれた時 意識
46 ホウ居士 石頭から口を押さえられた時 意識
47 ある僧 雨だれの音を聞いた時聴覚
48 五洩霊黙 石頭の教えを聞いた時 意識
49 開善道謙 宗元の教えを聴いて 意識
50 法眼文益 師の教えを聞いた時 意識
51 雪峰義存 巌頭の教えを聞いた時意識
52 谷善之丞 殿鐘の音を聞いた時 聴覚
53 宏智正覚 丹霞から払子で一打された時 痛覚
54 真歇清了 鉢盂峰を見た時 視覚
55 原田祖岳 小便の泡がクルクル動いているのを見た時 視覚
56 夾山善会 船から川に落ちた瞬間 身体感覚
57 雲巌曇晟 薬山の言葉を聞いた時 意識
58 長水子セン 瑯ヤ慧覚(ろうやえかく)の言葉を聞いた時 意識
59 四祖道信 三祖僧サンの言葉を聞いた時 意識
60 懶庵需(らんあんじゅ) 竹箆で連打された時 痛覚
61 仏眼清遠 火の粉が手に当たった時 痛覚




4.3 分析結果と議論




以上61人63例の悟り経験を分析すると興味深いことに気付く。

61人の内19例が音を聞いて悟っている。11例が痛さを感じた時である。

例えば百丈は鼻柱を捻り上げられ痛さを感じた時、雲門は足を骨折し痛さを感じた時である。

臨済は黄檗から三度痛棒を喫した時である。

ブッダや中峰明本、山田無文など11例がものを見た時である。

徳山宣鑑は提灯の明りをプッと吹き消された時である。

徳山の場合は、夢窓が床から転げ落ちそうになってハッとした時と似たところがある。

興味深いのは黄山谷と盤珪の場合である。

彼等は花の香りを嗅いだ時に悟っている。

嗅覚機能は古い脳である大脳辺縁系と強い関係がある。

それでは61人の悟りの経験に共通するものは何であろうか。

聴覚、痛覚、視覚、嗅覚などの感覚からである。

それら全てはが感じている。

定上座、徳山と夢窓がハッとした時の刺激もに行く。

 従って、これらの悟りの経験において共通することは、

外部からの刺激が五官を通して脳に行き脳で経験されたことが

契機になっていると言うことができる。

意識を通した悟りの体験例が20例と一番多いのはその考えを支持する。

普段から頭の中で問題意識を持って考えているので、

説法を聞いた時などハッと気付くことができると思われる。

禅で「本来の面目」を悟ると言うのは自己の脳をはっきりと覚知・体験した時の

経験事実から出た言葉だと言えるのではないだろうか

しかし、誰でもカラスの鳴き声を聞いたり、寺の鐘の音を聞くが悟ったりしない。

木犀(もくせい)の花の香りを嗅いでも悟ることは殆どない。

悟るためには音、痛さ、視覚や臭覚だけではだめであることが分かる。

これらの悟りを経験した人達に共通するもう一つの因子がある。

それは公案を通じ悟ろう、悟りたいという強い願望と問題意識である。

よく悟ろうと思って悟りを追求してはならないと言われる。

それは待期禅だとして否定的に見られている。

しかし、悟った人達は全て「真の自己とは何か?本来の面目とは何か?」

という問題意識を持ってそれを持続して追求していた。

ぼんやりと修行して悟った人は1人もいない。

悟りの経験をした全ての人は坐禅修行をしている。

これは坐禅修行を通して脳が浄化し健康になっていた時悟ったことを示している。

また公案(問題)に集中して問題意識が高まっていた時とも言える。





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