top 2019年8月25日〜10月7日  表示更新 2022年5月25日

仏性・1

   
数

『正法眼蔵』「仏性」について



正法眼蔵「仏性」の巻は「弁道話」と「現成公案」と併せて正法眼蔵の中では特に大切な巻とされている。

「仏性」の巻では、仏性すなわち仏の性質について、その真意を説いている。

 道元禅師の立場では、仏性とは心・意・識といったような精神に関連するものではない。

また草木の種のように時間の経過と共に成長して行く性質のものでもない。

それはわれわれの行為において顕現する時、節因縁(時間および空間や条件)の一切だと考えられている。

本巻の冒頭部分で「悉有は仏性なり」と述べているのは

この意味だと考えることができる。

したがって「われわれは本来仏としての性質を具有している(有仏性)」

という主張も一面の真理であるが、すべてを尽すものではない。

また、「われわれは本来仏としての性質を具有してはいない(無仏性)」という主張も一面の真理である。

しかしこれらはいずれも一面の真理を述べたもので、すべてをいい尽してはいない。

そこで「<有るとか無いとか>つまらぬことは考えるな(莫妄想)」という教えも出て来る。

道元禅師はこれらの消息およびその発展を、

釈尊→龍樹尊者→迦那提婆尊者→中国禅の四祖道信→五祖弘忍→六祖慧能→塩官斉安禅師→大イ大円禅師→

百丈懐海禅師→南泉普願禅師→趙州禅師→長沙景岑禅師などの言葉を引用しながら縦横に説いている。 

ここでは長大な「仏性」の巻を22文段に分け、「仏性・1」では第1文段〜第12文段まで、

「仏性・2」では第13文段〜第22文段までを、合理的立場に立って分かり易く解説したい。



1

 第1文段


原文@


釈迦牟尼仏言、「一切衆生、悉有仏性、如来常住、 無有変易」

 これ、われらが大師釈尊の獅子吼の転法輪なりといへども、

一切諸仏・一切祖師の頂ニン眼晴なり。

参学しきたる こと、すでに二千一百九十年、(当日本仁治二年辛丑歳)

正嫡わづかに五十代(至先師天童浄和尚)、西天二十八代、代代住持しきたり、

東地二十三世、世世住持しきたる、十方の仏祖ともに住持せり。

世尊道の「一切衆生、悉有仏性」は、その宗旨いかん。

是什麼物恁麼来(是れ什麼物か恁麼に来る)の道転法輪なり。

あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。

悉有の言は、衆生なり、群有なり。

すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。

正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。

単伝する皮肉骨髄のみにあらず、汝得吾皮肉骨髄なるがゆゑに。

しるべし、いま仏性に悉有せらるる有は、有無の有にあらず。

悉有は仏語なり、仏舌なり。

仏祖眼晴なり、柄僧鼻孔なり。

悉有の言、さらに始有にあらず、本有にあらず、妙有等にあらず。

いはんや縁有・妄有ならんや。

心境・性相等にかかはれず。しかあればすなはち衆生悉有の依正、

しかしながら業増上力にあらず、妄縁起にあらず、法爾にあらず、神通修証にあらず。

衆生の悉有、それ業増上、および縁起・法爾等ならんには、諸聖の証道、

および諸仏の菩提、仏祖の眼晴も、業増上力、および縁起・法爾なるべし。

しかあらざるなり。尽界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず。

直截根源人未識、忙忙 業識幾時休なるがゆゑに。

妄縁起の有にあらず、遍界不曽蔵のゆゑに。

遍界不曽蔵といふは、かならずしも満界是有といふにあらざるなり。

偏界我有は外道の邪見なり。

本有の有にあらず、亘古亘今のゆゑに。

始起の有にあらず、不受一塵のゆゑに。

条条の有にあらず、合取のゆゑに。

無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来のゆゑに。

始起有の有にあらず、吾常心是道のゆゑに。

まさにしるべし、悉有中に衆生快便難逢なり。

悉有を会取することかくのごとくなれば、悉有それ透体脱落なり。


注:

釈迦牟尼仏言: 大乗涅槃経第27、獅子吼菩薩品からの引用。

衆生: 生命を有するものすべてを含めて衆生というが、

特に人間を意味する場合が多い。

仏性:仏陀としての性質。道元禅師の場合は、

仏性を心・意・識など精神的なものと結び付けて理解することや、

時間の経過とともに漸進的に成長・発展するものというように

理解することは誤りで、端的に仏である時発現する性質を、

そのまま仏性と言っている。

原始仏教にはこのような思想はなく、中期大乗仏教で出て来た思想である。

大乗3 如来蔵思想と仏性を参照)。

常住: 常恒常的に存在すること。

変易: 変化すること。

獅子吼:仏陀の説法を形容した語。

獅子の吠え声が百獣を恐れさせるように仏陀の説法が

悪魔や外道を恐れ伏せることを言う。

頂ニン眼晴(ちんにんがんぜい): 頂ニンは頭、眼晴は目の玉のこと。

どちらも人間にとって、最も大切なものという意味である。

転法輪: 仏陀が説法すること。

先師:亡くなった師匠。

什麼物恁麼来(しもいんもらい): 何物とも分からない物が現に目前に現れている。

道: 言葉、主張、真理。

悉有:この世界の一切。

一悉: 受領保持。

正当恁麼時(しょうとういんもじ): まさにその瞬間。行為の場である現在の瞬間。

まさにその時にあたり。

単伝: 一系に伝承すること。 

訥僧:訥はつくろう、ぬうの意で、訥衣、すなわち補修した弊衣をいう。

柄僧は納衣を着けた僧の意で、仏教僧をいう。

柄僧鼻孔: 禅僧の真面目。

始有: 始めてそこに出現した存在。 

本有:  本来から恒常的にある存在。

妙有: 真空妙有ともいう。

唯識で説く三性のうち円成実性をいう。

円成実性は我と法の二執を離れたところにあらわれる真実である。

この二執が全くないから真空といい、しかも小乗の説く有のような

相対的の空ではなく、真実の有であるから妙有という。 

縁有: 環境や条件から派生した存在。

妄有:  何の根拠もない妄想的な存在。

心境:  心はこころ、精神、主観。境は外的環境、客観世界のこと。

主観と客観。 

性相:  性は本性、本質。相は形相、すがた、外見。

依正:  依報正報の意。

 依報とは因果関係によって出現している環境。

正報は因果関係によって出現している主体。

  因果関係によって出現している環境と主体。

衆生悉有の依正: 仏性。

業増上力: 善業でも悪業でも時間が経つにつれて次第に成長増大する。

その力を指して業増上力と言う。

妄縁起:  理由も秩序もなしに、環境から生起すること。

法爾: 仏法秩序としてあるべき姿。法爾自然の意味。

浄土教では、自己のはからいを打捨てて、

阿弥陀如来の誓いにすべてを生きること。 

神通: 神秘的な能力。

修証: 修は修行、行為。証は体験。修証は行為と体験。

証道: 真理を体験すること。 

尽界:  この世界のすべて、宇宙全体。

客塵:  客は主に対する客で、主体でないもの、第三者的存在の意。

塵はちり、塵埃、本体でない夾雑物。客塵は煩悩の異名。

直下:   今日唯今、現在の瞬間。

第二人:自意識が主体としての自己と客体としての自己とに分裂した場合、

行動する主体としての自己以外に意識される自己を第二人という。

直下さらに第二人あらず。: 心境一如の世界では仏性のみの世界

(尽十方世界一顆の明珠の世界)になり、

それに対立分離する第二の人は居ないという意味。

一顆の明珠を参照)。

直截根源人未識: 直に根源を截る」という言葉は、

永嘉真覚大師の証道歌中に見える語。

証道歌では「直に根源を截るは仏の印する所、葉を摘み枝を尋ぬるは我れ能わず

となっており、言語思想による枝葉末節の探究に対して、

坐禅による真理の実体験を目指す言葉になっている。

(証道歌第4文段参照)

証道歌第4文段を参照)。

したがって「直に根源を截る、人未だ識らず」の意味も、

人が行為を通して真理に没入している瞬間では、

行為者自身は自己が真理の真唯中にあることを意識しないという意味になる。 

忙忙たる業識幾時か休する:  忙忙は間断なく、いそがしいこと。

業識の業は行為を意味し、識は意識作用を意味する。

したがって業識とはわれわれの過去の行為の結果として、

われわれの脳裡に浮かんでくる意識作用を指す。

従って、「忙忙たる業識幾時か休するなるがゆえに」とは

我々の脳裏に瞬間瞬間に現れて来る過去の行為の結果である意識作用は

何時まで経っても休止しない性質のものであるから・・・」という意味。

遍界不曽蔵(へんかいふそうぞう、へんかいかってかくさず):  景徳伝燈録巻十五、

石霜慶諸禅師の章に見える言葉。遍は正しくはぎょうにんべんの遍。

遍界の遍はあまねしの意味で、遍界とは全世界すなわち宇宙を指す。

従って遍界不曽蔵とは、我々の住んでいるこの宇宙は、

一切のものが明々白々として現れており、隠されて、眼に見えないようなものは

何物もないという意味。

まわりにある世界は何も隠していない

『真実、真如』はずっと初めから隠されずに具現している」という意味になる。

満界是有: 満界は遍界と同義。満界是有とは宇宙の一切が実在であるということ。

遍界我有: 宇宙の一切は自我の所産であり、自己の所有であるという考え方。 

本有: 先天的に実在し、そなえていること。

亘古亘今(ごうこごうこん): 古今にわたるの意、

時間を超越した永遠という意味。

始起の有:  現在において始めて発生した実在。

不受一塵: 宇宙(真の自己)は一切のものを包含した存在であり、

宇宙(真の自己)以外のものは一微塵といえども、

これに追加されるものではない。

会取: 綜合的把握。

無始有:  永遠の過去からの実在。

什麼物恁麼来: 何物がどのようにやって来たのか?

衆生快便難逢: 衆生は容易に仏性にめぐり会うことは難しいという意味。

透体脱落: 透体は透明な物体。

即ち明々白々として何物も隠すことのない実体。

脱落は一切の夾雑物が抜け落ちた実体。心身脱落の悟りの境地と同じ。



現代語訳

大般涅槃経、師子吼菩薩品において釈尊は言った、

一切衆生は、すべて仏性を有する。また如来は、常に存在して変化することがない」。

 これは大師釈尊の獅子吼された説法であるが、同時に一切諸仏、一切祖師の、最高の眼目である。

そして我々がこのことを学び続けた歳月は、すでに2190年(当年は日本年号仁治二年、辛丑歳)を経ているが、

その間の正統の継承者は僅か50代(わが師天童如浄禅師に至るまで)に過ぎない。

西方インドにおいて二十八代にわたって、代々これを伝えて来た。

また中国において23代(菩提達磨から天童如浄まで)にわたって、代々この教えを保持し伝えて来た。

釈尊の「一切衆生、悉有仏性」という教えの精神はどのようなものだろうか。

それは、六祖慧能が南嶽懐穣に説いた「何者がそのようにやって来たのか。」という言葉であり、教えである。

禅の思想1六祖慧能と南嶽懐穣の問答を参照)。

これを、衆生といい、有情といい、群生といい、群類という。

釈尊の「悉く仏性が有る」という言葉は、衆生のことであり、すべての生けるもの(群有)のことである。

つまり悉く有るもの(悉有)は、仏性である。

悉く有るもの(悉有)のなかの一悉を衆生と言うのである。

まさにこの時には、衆生の内も外も、仏性の悉く有るもの(悉有)である。

これは、相承して伝えられた祖師の皮肉骨髄だけのことではなく、

あなたも祖師達磨と同じ皮肉骨髄を自己としているからである。

知るべきだ。

今、仏性について悉く有ると言うところの有は、有無の有ではない。

「悉有」は仏の言葉であり、仏の説法であり、仏祖の眼目であり、禅僧の真の面目である。

「悉有」という言葉は、まったく初めて有るというのでも、本から有るというのでも、妙有のようなものでもない。

まして因縁によって有るのでも、妄想によって有るのでもない。

また心境や性相などにも関係ない。

このような訳だから、衆生悉有の依正、即ち仏性は、

善業の増上力によって得たものでもなく、

妄念によって生じたものでもなく、自然に得たものでも、神通力や修行によって得たものでもない。

そのような尺度で計ることができないものである。

「是什麼物恁麼来(これは何者がそのようにやって来たのか)」と言うしかないものである。

禅の思想1六祖慧能と南嶽懐穣の問答を参照)。

もし衆生に悉く有る仏性が、善業の力や因縁によるもの、

自然に得たもの等であれば、

諸聖の証明した仏道や、諸仏の菩提、仏祖の眼目も、善業の増上力や因縁によるもの、自然に得たものとなるだろう。

しかしそうではない。

この仏性には外から来る煩悩の塵はなく、そこには決して第二の自己のようなものは存在しない。

坐禅修行によって、直ちに生死輪廻の原因である迷妄の根源を截断しても、

人はそのことを意識することがないし、

絶え間なく生起する業の結果としての意識は何時までも休止することがないからである。

仏性は、妄念によって起きた存在ではない。

何故なら、全世界はこれまで何も隠していない(遍界不曾藏)からである。

全世界はこれまで何も隠していない(遍界不曾藏)とは、必ずしも仏性が全世界に遍く存在しているということではない。

全世界は自我の所産である」というのは外道の誤った考えである。

仏性は、本来具備しているという存在ではない。

それは古今に亘る存在だからである。

仏性は、いま始めて生じた存在ではない。

それは僅かな煩悩の塵も受け付けない存在(不受一塵)だからである。

仏性は、ばらばらに分かれている存在ではなく、依り合って存在する一つのものだからである。

仏性は、始まりが無くて有る存在ではない。

これは南岳懐穣が「何者がそのようにやって来たのか。」と言ったような存在だからである。

禅の思想1六祖慧能と南嶽懐穣の問答を参照)。

仏性は、いま始めて生じた存在ではない。我々の平常心は道だからである。

「無門関」19則「平常心是れ道」を参照)。

まさにこのように知りなさい。

悉く有る仏性の中にいながら、衆生はなかなか仏性に容易にめぐり会えないということを。

悉く有るという仏性をこのように会得することができれば、悉く有る仏性によって、

一切の煩悩妄想が脱落して全身解脱するのである。



第一文段の解釈とコメント

大般涅槃経、師子吼菩薩品において釈尊は言った、

一切衆生は、すべて仏性を有する。また如来は、常に存在して変化することがない。」

 これは大師釈尊の獅子吼の説法であるが、同時に一切諸仏、一切祖師の、最高の眼目である。

そして我々がこのことを学び続けた歳月は、すでに2190年(当年は日本年号仁治二年、辛丑歳)を経、

その間の正統の継承者は僅か50代(わが師天童如浄禅師に至るまで)に過ぎない。

西方インドにおいて二十八代にわたって、代々これを伝えて来た。

また中国において23代(菩提達磨から天童如浄まで)にわたって、代々この教えを保持し伝えて来た。



コメント

 「西方インドにおける仏教に二十八祖がいた。東土中国では六祖の伝法があった

と言う思想は

禅の「教外別伝」の思想を主張・宣伝するための神話とも言える主張であり、

ブッダの原始仏教や伝統的な大乗仏教には本来ない。

特に西方二十八祖の主張は歴史的な根拠を欠く主張といえる。

「禅の思想」1.達磨の四聖句を参照)。

釈尊の「一切衆生、悉有仏性」という教えの精神はどのようなものだろうか。

それは、六祖慧能が南嶽懐穣に説いた「何者がそのようにやって来たのか?」

という言葉であり、教えである。

禅の思想1六祖慧能と南嶽懐穣の問答を参照)。



コメント

ここでは「「一切衆生、悉有仏性」という教えの精神は何か?」という質問に対して、

それは「南嶽懐譲の「説似一物即不中」の問答の中において

六祖慧能が南嶽懐穣に説いた

何者がそのようにやって来たのか?」という言葉であり、教えであると答えている。

六祖慧能と南嶽懐穣の「説似一物即不中」の問答を読めば分かるように、

何者がそのようにやって来たのか?」という質問で、

慧能は「あなたの本来の自己とは何か?」ということを聞いている。

禅の思想1六祖慧能と南嶽懐穣の問答を参照)。

これより、道元は

仏性とは本来の面目(=真の自己=下層脳優勢の脳)だと考えていたことが分かる。

本来の面目」の脳の脳科学的モデルと解釈については

「悟りの経験と分析ーその2「本来の面目」の脳科学的モデルを参照)。

これを、衆生といい、有情といい、群生といい、群類という。

釈尊の「悉く仏性が有る」という言葉は、衆生のことであり、

すべての生けるもの(群有)のことである。

つまり悉く有るもの(悉有)は、仏性である。

悉く有るもの(悉有)のなかの一悉を衆生と言うのである。

まさにこの時には、衆生の内も外も、仏性の悉く有るもの(悉有)である。



コメント

道元は「悉く有るもの(悉有)は、仏性である」と考えているため、

衆生の内も外も、仏性である」と言っている。

正当恁麼時(まさにこの時には)とは、参禅修行により見性し、

仏性を見た時(見性の時)には

「衆生の内も外も、どこでも仏性であり、仏性でないものはない」

と言っているのである。



これは、相承して伝えられた祖師の皮肉骨髄だけのことではなく、

あなたも祖師達磨と同じ皮肉骨髄を自己としているからである。



道元は我々衆生も師達磨と同じ身心を本来的に持っているから、仏性を悟り見性成仏することができる

と言っていることが分かる。



コメント

ここで「皮肉骨髄」という言葉が出ているが、この言葉は達磨大師と4人の弟子の問答に由来する。

この問答は以下の『達磨「皮肉骨髄」の訓戒』と知られている。



達磨「皮肉骨髄」の訓戒


達磨大師は中国の梁の時代(502年 〜557年)に正法を伝えようとはるばるインドからやって来た。

達磨大師は武帝との問答でも理解されず、失望して梁を去って魏の国へ行った。

「碧巌録」第1則 達磨廓然無聖を参照)。

「従容録」第2則 達磨廓然を参照)。

よく達磨図に、葦の葉に乗って川を渡る姿が描かれているのは、このときのことだという。

達磨大師の弟子に慧可、道育、尼総持、道副という四人の弟子がいた。

ある時、達磨大師は四人の弟子たちに、修行によって得た見処(禅の本質・禅の要旨)を問うた。

そのときの問答は次のように伝えられている。

道副は答えた、

私は、文字にとらわれず、また文字をはなれないで

言葉にならぬところを言葉にしていきます。」

すると達磨は言った、

汝はわが皮を得た。」

尼総持は答えた、

私の理解では、愛欲も怒りもしずまって、よろこびは、仏国をみるようです。」

すると達磨は言った、

汝はわが肉を得た。」

 道育は答えた、

物質を構成する地水火風の四大も

因縁がつきると空になり、すべての事物は

五蘊が仮に和合してできたもので、もともと有でなく

一法として得べきものはありません。」

すると達磨は言った、

汝はわが骨を得た」。 

最後に慧可は、ただ黙って達磨に礼拝して、もとの位置についた。

すると達磨は言った、

汝はわが髄を得た。」

 達磨は言った、

むかし、如来は正法眼を迦葉大士に付し、転々としてわたしに至っている

いま、お前に付すから護持しなさい。」

達磨は慧可に袈裟をあたえて、伝法の偈を示したと伝えられる。



初祖達磨が二祖慧可に与えたとされる伝法の偈の一節(景徳伝灯録)

吾本来茲土 吾本(われもと、茲土(このど)に来(きた)り

伝法救迷情 法を伝えて迷情を救う

   

一華開五葉  一華五葉を開き

   

結果自然成  結果自然に成る  

   

注:

一華開く: 心の花が開き、仏性に目覚めること。

清浄無垢な心に立ちかえること。

心華が開けばやがて自然に仏果菩提の実を結ぶ。

五葉: 五葉とは五弁の智慧の花びらに喩えられるもので以下のような説がある。

1.

五つの宗派、すなわち、雲門宗、イ仰(いぎょう)宗、臨済宗、曹洞宗、

法眼宗の五宗派を指すという説。

2.

五智(大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智、法界体性智)を指すという説。

(密教その2、12.4−6金剛界五仏と五智を参照)。

以上が「皮肉骨髄の訓戒」と伝法偈の一節である。

 「皮肉骨髄の訓戒」から、達磨大師が慧可を後継者としたのは、

他の三人が論を立て、悟りの中身を言葉で伝えようとしたのと対照的に、

慧可は黙って達磨に礼拝して元の位置についたことで、

慧可は禅の本質を理解していると考えた。

そこで、達磨は慧可を後継者としたと考えることができる。




知るべきだ。

今、仏性について悉く有ると言うところの有は、有無の有ではないのである。

「悉有」は仏の言葉であり、仏の説法であり、仏祖の眼目であり、

禅僧の真の面目である。

「悉有」という言葉は、まったく初めて有るというのでも、本から有るというのでも、

妙有のようなものでもない。

まして因縁によって有るのでも、妄想によって有るのでもない。

また心境や性相などにも関係ない。

このような訳だから、衆生悉有の依正、即ち仏性は、

善業の増上力によって得たものでもなく、妄念によって生じたものでもない。

自然に得たものでも、神通力や修行によって得たものでもない。

そのような尺度で計ることができないものである。

是什麼物恁麼来(これは何者がそのようにやって来たのか)」と言うしかないものである。

禅の思想1六祖慧能と南嶽懐穣の問答を参照)。

もし衆生に悉く有る仏性が、善業の力や因縁によるもの、

自然に得たもの等であれば、

諸聖の証明した仏道や、諸仏の菩提、仏祖の眼目も、

善業の増上力や因縁によるもの、自然に得たものとなるだろう。

しかしそうではない。

この仏性(下層脳を中心とする健康な脳宇宙)には

本来外から来る煩悩の塵はなく、

そこには決して第二の自己のようなものは存在しない。

本来の面目(真の自己)は六祖慧能がいう「本来無一物の世界」で、

玄沙師備禅師の「一顆の明珠としての真の自己」の世界である。

六祖慧能の「本来無一物の世界」を参照)。


一顆の明珠を参照)。

坐禅修行によって、直ちに生死輪廻の原因である迷妄の根源を截断しても、

人はそのことを意識することがないし、

絶え間なく生起する業の結果としての意識は何時までも休止することがない。

仏性は、妄念によって起きた存在ではない。

何故なら、全世界はこれまで何も隠していない(遍界不曾藏)からである。

全世界はこれまで何も隠していない(遍界不曾藏)とは、

必ずしも仏性が全世界に遍く存在しているということではない。

  「全世界は自我の所産である」というのは外道の誤った考えである。

仏性は、本来具備しているという存在ではない。

それは古今に亘る存在だからである。

仏性は、いま始めて生じた存在ではない。

それは僅かな煩悩の塵も受け付けない存在(不受一塵)だからである。僅かな煩悩の塵も受け付けない存在(不受一塵)だからである。

ここで道元が考える仏性とは、「仏性は本来具備しているという存在ではない。

仏性とは僅かな煩悩の塵も受け付けない存在(不受一塵)である。

と考えているのが注目される。



コメント

ここでは道元は

仏性は、本来具備しているという存在ではない(本有の有にあらず)。」

と言っている。

この考え方は六祖慧能の南宗禅や臨済宗の考え方と違う。

六祖慧能の南宗禅や臨済宗では「一切衆生悉有仏性」という言葉を

一切衆生は悉く本来的に仏性を有している」と考えているからである。

例えば、白隠慧鶴禅師(日本臨済宗)の坐禅和讃の冒頭には

衆生本来仏なり。」という有名な言葉がある。

これは「衆生は本来的に仏性を持つ存在である」という意味である。


参禅修行によって見性すれば我々衆生は「本来仏性を持つ仏である」ことに気付くという意味である。

白隠慧鶴禅師の坐禅和讃を参照)。


これに対し、道元は

参禅修行によって、僅かな煩悩の塵も受け付けない存在(不受一塵)であるになって初めて仏性が具わる

と考えている。

第8文段で道元は言う、

仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず

成仏よりのちに具足するなり

仏性かならず成仏と同参するなり。この道理、よくよく参究功夫すべし。」

(第8文段を参照)。

筆者のHP「禅と悟り」での結論は

仏性とか法身は参禅修行によって健康になった下層脳優勢の脳

そこから生まれる「本源清浄心」とか「明浄妙心」を指している。

禅の根本原理と応用」を参照)。

この視点に立つと、「衆生本来仏なり。」

という言葉の方が筆者には分かり易く納得できる。

下層脳を含む脳は誕生以来我々衆生が具有しているからである。



仏性は、ばらばらに分かれている存在ではなく、依り合って存在する一つのものだからである。

仏性は、始まりが無くて有る存在ではない。

これは南岳懐穣が「何者がそのようにやって来たのか?」

と言ったような存在だからである。

禅の思想1六祖慧能と南嶽懐穣の問答を参照)。

仏性は、いま始めて生じた存在ではない。我々の平常心は道だからである。

「無門関」19則「平常心是れ道」を参照)。

まさにこのように知りなさい。

悉く有る仏性の中にいながら、

衆生はなかなか仏性に容易にめぐり会えないということを。

悉く有るという仏性をこのように会得することができれば、

悉く有る仏性によって、一切の煩悩妄想が脱落して全身解脱するのである。



コメント



この第一文段の最後尾では、

一切衆生悉有仏性」をこのように会得することができれば、

参禅修行によって見性成仏する。

即ち、

見性することによって、一切の煩悩妄想が脱落して全身解脱する心身脱落について述べている

と考えることができる。



2

 第2文段


原文A


 仏性の言をききて、学者おほく先尼外道の我のごとく邪計せり。

それ人にあはず、自已にあはず、師をみざるゆゑなり。

いたづらに風火の動著する心意識を、仏性の覚知覚了とおもへり。

たれかいふし、仏性に覚知覚了ありと。

覚者知者は、たとひ諸仏なりとも、仏性は覚知覚了にあらざるなり。

いはんや諸仏を覚者知者といふ覚知は、なんだちが云云の邪解を覚知とせず、

風火の動静を覚知とするにあらず、

ただ一両の仏面祖面、これ覚知なり。

往往に古老先徳、あるひは西天に往還し、あるひは人天を化導する、

漢より宋朝にいたるまで、稲麻竹葦のごとくなる、おほく風火の動著を仏性の知覚とおもへる、

あはれむべし、学道転疎なるによりて、いまの失誤あり。

いま仏道の晩学初心、しかあるべからず。たとひ覚知を学習すとも、覚知は動著にあらざるなり。

たとひ動著を学習すとも、動著は活歴にあらざるなり。

もし真箇の動著を会取することあらば、真箇の覚知覚了を会取すべきなり。

仏之与性達彼連比(仏性と、彼に達し比に連す)なり、

仏性かならず悉有なり、悉有は仏性なるがゆゑに。

悉有は百雑砕にあらず、悉有は一条鉄にあらず。

拈拳頭なるがゆゑに大小にあらず。すでに仏性といふ、

諸聖と斉肩なるべからず、仏性と斉肩すからず。

ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし。

法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉花菓もすことあり。

果実さらに種子をはらめり。

かくのごとく、見解する、凡夫の情量なり。

たとひかくのごとく見解すとも、種子および花菓、ともに、条々の赤心なりと参究すべし。

果実に種子あり、種子みえざれども根茎等を生ず。

あつめざれどもそこばくの枝条大囲となれる、内外の論にあらず、古今の時に不空なり。

しかあればたとひ凡夫の見解に一任すとも、

根茎枝葉、みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし。


注:

先尼外道: 先尼という名の外道(非仏教徒)。

大般涅槃経第三十五僑陳如品に見える。

波羅門の徒で、常住不変の我を説いた外道の一派。

邪計:  誤って考えること。計は考える。

風火: 古代インドにおいては、物質的な要素として

地・水・火・風などの四元素が考えられたが、

ここでは風と火とを取り出して物質を代表させている。 

動著:  動くの意。著は動詞に添える助字で、

著そのものに特別の意味はない。 動き、運動、作用。 

風火の動著する心意識: 生命活動の結果生じている心意識。

心意識: 心理現象・精神現象。

覚知:  認識。

覚了: 理解。把握。

覚者: 把握する主体。

知者:   認識の主体。

一両: 両は二に同じ。一両は1、2の意味で、具体的な個々の事物を指す。

一両の仏面祖面 : 一つ二つの仏祖としての面目。

修行のたびごとに仏祖の面目が現成することを言う。

往往に:  時々、しばしば。

古老: 年功を経た先輩。 

先徳: 有徳の先輩。

稲麻竹葦(とうまちくい): 物がたくさんあることのたとえ。

人や物がたくさん集まっていて群がっている様子をいう。

学道転疎:  転はうたた、時間の経過とともにますます甚だしくなるの意。

真理を学ぶことが、時とともにますますおろそかになって行くこと。

仏之与性達彼達此(仏と性とは、彼に達し比に達す)なり:

仏之与性は「仏と性とは」と読む。

仏と仏性は同時に現成しあらゆる所に及んでいること。

百雑砕: 個々ばらばらになった多くの事物。

一条鉄: 全くつぎ目のない一筋の鉄。

拈拳頭(ねんけんとう):  握り拳をひねり廻すこと。具体的な動作の象徴。

 斉肩: 肩をひとしくすること、同列に並ぶこと。

法雨:  仏法の恩恵を雨にたとえていう。

もす: 茂す、しげる。

条条の赤心:  個々の場面、場面における真心の現われ。

そこばく:  数量を明示せず、おおよそにいう語。いくらか、いくつか。

枝条: 枝はえだ。条は小さい枝。

大囲:  大囲は囲の大きいことをいい、ここでは幹、大木を意味する。

内外の論: 種子は内、根茎は外というふうに、外見的な区別だけで物事を論ずること。 

不空:  空しからずの意。厳然たる実在を否定的な表現で表わしたもの。


第二文段の現代語訳

仏性という言葉を聞いて、仏道を学ぶ者の多くは、

先尼外道が説く我(アートマン)のように誤って考える。

これはその人が、真の自己にあわず、真の師と相見しないためである。

彼らは単に地水火風の動揺に過ぎないところの心意識を、

仏性による認識であり、把握であると考えている。

しかし一体誰が仏性には物事を分別する認識とか智慧があると言っただろうか。

たとえ覚者や知者を諸仏と呼ぶことがあったとしても、

仏性は、物事を分別認識する智慧ではない。

さらに、諸仏を覚者、知者と呼ぶ場合の覚知は、

お前たちがあれこれ言う誤った見解を悟りの智慧とするのではない。

地水火風の動揺に過ぎない心意識を悟りの智慧というのでもない。

ただ一人、二人と数える仏祖の面目そのものが、真の悟りの智慧である。

昔の古老先徳で、インドへ往来した者、あるいは人間界・天上界を教化指導した者は

漢唐の時代から宋の時代まで稲麻竹葦のように多い。

その多くが地水火風の動揺に過ぎない心意識を仏性の悟りの智慧だと考えているのは

あわれなことである。

真理を学ぶことが時間の経過と共におろそかとなるため、

このような誤りを犯すのである。

しかしこれから仏教の真理を学ぼうとする晩学の者や初心者は、このようであってはならない。

そしていま悟りの智慧を学んだとしても、

悟りの智慧は、地水火風の動揺に過ぎない心意識ではないのである。

そして地水火風の動揺に過ぎない心意識を学んでも、その動揺する心は仏性ではない。

もし真の地水火風の動揺する心を会得するのなら、真の悟りの智慧を会得するべきである。

仏とその本性は、あらゆる所に及んでいる。仏性は必ず一切に悉く有る。

一切に悉く有るものは仏性だからである。

一切に悉く有るとは、仏性がばらばらに無数に砕けているのではない。

しかしそうかといって、一筋の鉄のようなものでもない。

それは握り拳を作るといった具体的な動作をするから、

大きいとか小さいとかいうものではない。

すでに仏性と呼ばれているのだから、多くの聖者と肩をならべるようなものではないし、

並べるべきでない。

ある者たちが思うには、

仏性とは、草木の種子のようなものである

仏法の慈雨がたびたび種子を潤せば、芽や茎が生長して枝葉や花実が茂り

その果実は更に種子を孕んでいる。」と。

このように考えるのは、凡夫の情量と言うべきである。

仮に仏性をこのように考えたとしても、この種子や花実は、

共に一つ一つが清浄な仏性であると考え参究すべきである。

果実の中に種子があり、種子の中には見えないが根や茎などが生れる。

集めた訳ではないが、多くの枝が大きな繁みとなっていくのは、

仏性には内外ということなく、古今に及んでいるからである。

そうだから、たとえこの凡夫の考えに任すとしても、

根茎や枝葉のように、皆 生死を共にし、すべてを共にするのが仏性である。


第二文段の解釈とコメント


仏性という言葉を聞いて、仏道を学ぶ者の多くは、

先尼外道が説く我(アートマン、霊魂)のように誤って考える。

これはその人が、真の自己にあわず、真の師と相見しないためである。

彼らは単に地水火風の動揺に過ぎないところの心意識を、

仏性による認識であり、把握であると考えている。

しかし一体誰が仏性には物事を分別する認識とか智慧があると言っただろうか。



コメント



ここでは仏性は、先尼外道が説く我(アートマン、霊魂)ではないと述べている。

先尼外道が説く我(アートマン、霊魂)については古代インドのアートマン説を参照されたい。

原始仏教のアートマン説を参照)。

中期大乗仏教に現れた「仏性思想」はアートマン思想の影響を受けていることは否定できない。



大乗3 如来蔵思想と仏性を参照)。



たとえ覚者や知者を諸仏と呼ぶことがあったとしても、仏性は、物事を分別認識する智慧ではない。

さらに、諸仏を覚者、知者と呼ぶ場合の悟りの智慧や覚知は、

お前たちがあれこれと誤った見解を悟りの智慧とするのではない。

地水火風の動揺に過ぎない心意識を悟りの智慧というのでもない。

ただそれぞれの仏祖の面目そのものが、真の悟りの智慧である。

昔の古老先徳で、インドへ往来した者、あるいは人間界・天上界を教化指導した者は

漢唐の時代から宋の時代まで稲麻竹葦のように多い。

その多くが地水火風の動揺に過ぎない心意識を仏性の悟りの智慧だと考えていたのはあわれなことである。

仏道を学ぶことがおろそかであるため、このような誤りを犯すのである。



コメント



ここでは仏性は、物事を分別認識する智慧ではないと

分別意識の本源である理知脳(上層脳)ではないと言っている。

以下でも仏性や悟りの智慧は、地水火風の動揺に過ぎない心意識ではないと

仏性は分別意識の本源である理知脳(上層脳)ではないと主張している。


分別意識の本源である理知脳(上層脳)を「地水火風の動揺に過ぎない

と表現しているのが興味深い。

ただそれぞれの仏祖の面目そのものが、真の悟りの智慧であると言っている。

昔の古老先徳で、インドへ往来した者は、稲麻竹葦(とうまちくい)のように多い。

しかし、その多くが地水火風の動揺に過ぎない心意識(理知脳の働き)を

仏性の悟りの智慧だと考えていたのはあわれなことだと嘆き、

仏性上層脳(理知脳)の働きではないと主張している。



しかしこれから仏教の真理を学ぼうとする晩学の者や初心者は、このようであってはならない。

そしていま悟りの智慧を学んだとしても、悟りの智慧は、

地水火風の動揺に過ぎない心意識(理知脳の働き)ではないのである。

そして地水火風の動揺に過ぎない心意識を学んでも、

その動揺する心は仏性ではない。

もし真の地水火風の動揺する心を会得するのなら、

真の悟りの智慧を会得するべきである。

仏とその本性は、あらゆる所に及んでいる。

仏性は必ず一切に悉く有る。一切に悉く有るものは仏性だからである。

一切に悉く有るとは、仏性がばらばらに無数に砕けているのではない。

しかしそうかといって、一すじの鉄のようなものでもない。

それは握り拳を作るといった具体的な動作をするから、

大きいとか小さいとかいうものではない。



コメント



ここで道元は「仏とその本性は、あらゆる所に及んでいる

仏性は必ず一切に悉く有る。一切に悉く有るものは仏性だからである。」

とのべている。これは仏性の空間的広がりについて述べていると考えられる。

ここで仏性を参禅修行によって本源清浄心とでも言えるように

健康になった下層脳(脳幹+大脳辺縁系)中心の脳だと考えよう。

その働きと本性は仏とその本性は、あらゆる所に及び、一切に悉く有るように実感できる。

脳内は電磁的相互作用の世界(遠隔力の相互作用の世界)であるため、

あらゆる所に及び、一切に悉く有るように実感される。

これについては「碧巌録18則 忠国師無縫塔」が参考になる。

「碧巌録」第18則 「忠国師無縫塔」を参照)。

道元は「仏性は握り拳を作るといった具体的な動作をする」と述べているのが注目される。

仏性は脳の運動指令によって握り拳を作るといった具体的な動作をすることも

仏性の作用(働き)に含めていることが分かる。

このようなことからも

  仏性は参禅修行によって健康になった下層脳(脳幹+大脳辺縁系)中心の脳だ

という我々の考えを支持するものである。

すでに仏性と呼ばれているのだから、

多くの聖者と肩をならべるようなものではないし、並べるべきでない。

ある者たちが思うには、

仏性とは、草木の種子のようなものである

仏法の慈雨がたびたび種子を潤せば、芽や茎が生長して枝葉や花実が茂り

その果実は更に種子を孕んでいる。」と。

このように考えるのは、凡夫の情量と言うべきである。

仮に仏性をこのように考えたとしても、この種子や花実は、

共に一つ一つが清浄な仏性であると考え参究すべきである。

果実の中に種子があり、種子の中には見えないが根や茎などが生れる。

集めた訳ではないが、多くの枝が大きな繁みとなっていくのは、

仏性には内外ということなく、古今に及んでいるからである。

そうだから、たとえこの凡夫の考えに任すとしても、根茎や枝葉のように、

皆 生死を共にし、すべてを共にするのが仏性である。



コメント



ここで述べていることは複雑であるが、

仏性は衆生と生死を共にすると言っていると考えることができる。

脳科学的には仏性は下層脳(脳幹+大脳辺縁系、生命情動脳)を中心とするので

仏性は衆生と生死を共にするのは当然だと言える。

禅の根本原理と応用」を参照)。



3

 第3文段


原文B


仏言、「欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、仏性現前」。

(仏言く、「仏性の義を知らんと欲(おも)はば、まさに時節因縁を観ずべし

時節若し至れば、仏性現前すべし」。)

いま「仏性義をしらんとおもはば」といふは、ただ知のみにあらず、

行ぜんとおもはば、証せんとおもはば、とかんとおもはばとも、

わすれんとおもはばとも、いふなり。

かの説・行・証・忘・錯・不錯等も、しかしながら時節の因縁なり。

時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり

、払子往杖等をもて相観するなり。

さらに有漏智・ 無漏智・ 本覚 ・始覚 無覚・正覚等の智をもちゐるには

観ぜられざるなり。

当観といふは、能観所観にかかはれず、正観・ 邪観等に準ずべきにあらず。

これ当観なり。

当観なるがゆへに不自観なり、不他観なり。

時節因縁ニイなり、超越因縁なり。

仏性ニイなり、脱体仏性なり。

仏仏ニイなり、性性ニイなり。


注:

仏言……:  大般涅槃経第二十八、師子吼菩薩品の取意。

仏性義: 仏性の意味。

観: 観は、心を専一にして、智慧をもって一定の対象を観察し、念想すること。

それは理性による対象の認識とは異なり、

今日の言葉でいえば、行為的直観に当る。

(西田哲学と禅、行為的直観を参照) 

時節:  抽象的な時間ではなく、現実の具体的な時間をいう。

因縁: 因は結果を生じさせる直接原因で、

さらに具体的にいえば、主体的な行為をいい、

縁はこれに対してこの因を取りまいている客観条件、環境をいう。

相観: 相は形相、すがた。相観とは払子とか柱杖とかというような

具体的な事物のすがたを素材として、仏性を直観するという意味。

有漏智:  漏は煩悩。有漏智とは煩悩の影響から脱していない智慧。

無漏智:   煩悩を脱した悟りの智慧。

本覚:  本来の覚性(かくしょう)ということで、

一切の衆生に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧を意味する。

始覚: 教法を聞いたり、自らの努力によって、

初めて迷いを去り悟りを開くこと。

無覚: 一切の知覚や分別を離れること。 

正覚: 正しい仏の悟り。 

当観:   大乗涅槃経の中では「まさに観ずべし」という意味で用いられているが、

道元禅師はさらにこれを発展させ、「直観そのもの」の意味として理解されている。

能観: 直観の主体。直観するもの。 

所観: 直観の客体。。直観されるもの。 

不自観:  不は否定の言葉、非に同じ。

自観とは直観に際して、主体としての自己を意識すること。

不他観:  不は非に同じ。

他観とは、直観に際して客体に重点を置くこと。 

ニイ: ゆびさすさま。それだけ、という意味。

脱体仏性: 仏性から脱けだすこと。 



第3文段の現代語訳

大乗涅槃経で釈尊)は言っている、

仏性の意味を知ろうと思うなら、一切の物事の生じる時節因縁を観察しなさい

時節が来れば、仏性は現れる。」

今の「仏性のことを知ろうと思うなら」という言葉は、ただ仏性を知ることだけではなく、

それを行じようと思うなら、証明しようと思うなら、又、説こうと思うならとも、

忘れようと思うならとも言っているのである。

その仏性を説くこと、行ずること、証すること、忘れること、磨くこと、

磨かないことなども、要するに物事の時節因縁である。

つまり、物事の時節因縁を観察するには、

その物事の時節因縁によって観察するのである。

例えば、払子やシュ杖などをもって互いに観察するのである。

仏性は、決して世俗の智慧や聖人の悟り解の智慧、本来具わる悟りの性、

修行によって現れる悟りの性、情を持たない草木土石や仏の正しい悟り

などの智慧を働かせることでは観察できない。

「当観」とは、見るものと見られるものの対立がなく、

正しいとか邪な見方などの見方が割り込む余地もない。

ただ観た通りに観ることである。

そのような観方だから、「当観」には自他の対立がない。

物事の生じる時節因縁そのものである。因縁を超越した因縁である。

仏性そのものの丸出しである。仏といえば仏そのもの、性と言えば性そのものである。

仏性と言っても、仏と性と二つから成るのではない。

仏といえば仏そのもの、性と言っても仏性と同じものである。



第3文段の解釈とコメント


涅槃経で釈尊は言っている、

仏性の意味を知ろうと思うなら、一切の物事の生じる時節因縁を観察しなさい

時節が来れば、仏性は現れる。」

今の「仏性の意味を知ろうと思うなら」という言葉は、

ただ仏性を知ることだけではなく、

それを行じようと思うなら、証明しようと思うなら、又、説こうと思うなら、

忘れようと思うならとも言っているのである。

その仏性を説くこと、行ずること、証すること、忘れること、

まちがえるのも、まちがえないのも、時節の因縁である。

つまり、物事の時節因縁を観察するには、その物事の時節因縁によって

観察するのである。

例えば、払子が払子と観、シュ杖がシュ杖と観るように

自己が自己に相見するのである。

仏性は、決して世俗の智慧や聖人の悟りの智慧、

本来具わる悟りの智慧や修行によって得られる悟りの智慧、

情を持たない草木土石や仏の正しい悟りの智慧を働かせることでは、

観るものと観られるものの対立の世界に落ちて仏性を観ることができない。

当観」とは、見るものと見られるものの対立がなく、

正しいとか邪な見方など見方が割り込む余地もない。

ただ観た通りに観ることである。

ここで道元は「当観」について、

当観」には見るものと見られるものの対立がなく、自他の対立がない

と解説している。

これより

当観」とは主客の対立が無い「心境一如」の状態であることが分かる。

これより

当観」とは西田哲学における「純粋経験」と呼ばれる状態と同じだと結論できるだろう。

「西田哲学と禅、脳科学」を参照)。

道元は述べる、「当観」には自他の対立がない。

因縁を超越した因縁である。

仏性そのものの丸出しである。

仏といえば仏そのもの、性と言えば性そのものである。

仏と性と二つから成るのではない。本人は気付いていないが

本姓である仏性の丸出し状態になっている。 



コメント


安谷白雲老師は著書「正法眼蔵参究 仏性」に於いて

 本来無一物の本体である仏性は時節因縁という条件によって

千差万別の姿と作用を現すと考えておられる。

これを図示すれば図1のようになるだろう。


図1

図1 仏性は時節因縁によって千差万別の姿と作用を現す


   

図1に示すように、本来無一物の本体である仏性は時節因縁の条件によって

千差万別の姿と作用を現すのである。

図1では、本来無一物の本体である仏性は未だ抽象的である。

しかし、筆者のHP「禅と悟り」では

本来無一物の本体である仏性は下層脳優勢の健康な脳である

との結論を得ている。

禅の根本原理と応用」を参照)。

図2は本来無一物の本体である仏性は下層脳優勢の健康な脳

であるとの考えの下に図1を描き直したものである。


図2

図2 仏性(健康な脳)は時節因縁という条件に従って  

千差万別の姿と作用を現す。

   

図2において、下から上向きのベクトル(矢印)は  

時節因縁によって仏性に気付くことを表している。

上から下向きのベクトル(矢印)は時節因縁によって

仏性(下層脳中心の健康な脳)は

千差万別の姿と作用を現すことを表している。

図1に比べ、図2はより具体的で分かり易くなっている。



4

 第4文段


原文C


時節若至」の道を、古今のやから往々におもはく、仏性の現前する時節の、

向後にあらんずるをまつなりとおもへり。

かくのごとく修行しゆくところに、自然に仏性現前の時節にあふ。

時節いたらざれば、参師開法するにも、弁道功夫するにも、現前せずといふ。

恁麼見取して、いたづらに紅塵にかへり、むなしく雲漢をまぼる。

かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道の流類なり。

いはゆる「欲知仏性義」は、たとへば「当知仏性義」といふなり。

「当観時節因縁」といふは、「当知時節因縁」といふなり。

いはゆる仏性をしらんとおもはば、しるべし、時節因縁これなり。

「時節若至」といふは、

「すでに時節いたれり、なにの疑著すべきところかあらん」となり。

疑著時節さもあらばあれ、還我仏性来(我に仏性を還し来れ)なり。

しるべし、「時節若至」は十二時中不空過なり、「若至」は「既至」といはんがごとし。

時節若至すれば仏性不至なり。

しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。

あるひは其理自彰なり。

おほよそ時節の若至せざる時節いまだあらず、

仏性の現前せざる仏性あらざるなり。


注:

向後: 今から後、このさき。

参師開法: 師匠につきしたがって、仏法を学び求めること。

恁麼見取して。: このように考えて。

いたづらに:  空しく、むだに。

紅塵: 日に映ってあかい色になった塵気。

繁華な地に起る塵、往来の塵埃、雑踏の意。転じて、世俗の生活。俗界。

雲漢:  天の川、転じて大空。 

まぼる。: 見つめる。

時節因縁これなり。: 生きている時節と因縁があること。

疑著時節さもあらばあれ、還我仏性来(我に仏性を還し来れ)なり。:

疑うということも仏性だから、それでも疑うなら仏性を還してくれ。

十二時中不空過: 24時間空しく過ごさないこと。

仏性不至:仏性は、別によそからやって来るものではなく、

すでに現実に存在しているから来ていると言うに及ばない。

其理自彰(ごりじしょう): その理はおのずから彰かである。



第4文段の現代語訳


釈尊の「時節がもし至れば」という言葉を、古今の輩が往々にして思うのは、

仏道の現れる時節が今後にあるだろうからその時を待つのだと思っている。

  そして、そのように修行していくことで、自然に仏性の現れる時節に会うのであり、

時節が至らない中は、師に問法しても、弁道工夫しても、

仏性は現れないと言うのである。

この者たちはそのように考えて、徒らに世俗の生活に帰り、

空しく天の川を見守っている。

このような者達は、おそらく天然外道の仲間である。

  いわゆる「仏性のことを知ろうと思えば」とは、

言い換えれば「仏性のことを知りなさい」と言っているのである。

「当観時節因縁」とは、「時節因縁を知りなさい」と言っているのである。

いわゆる仏性を知ろうと思うなら、この時節因縁を知るべきである。

「時節若至」とは、「既に時節は至っているのであり、

これに何の疑いがあろうか」という意味である。

疑うということも仏性の働きだから、

それでも疑うなら仏性を還してくれと言うしかない。

時節を疑うことは、どうであろうとも、仏性は我々の所に来ているのである。

知ることだ、

「時節若至」とは、

時節は一日中空しく過ぎることなく至っているということである。

だから、「若至」とは、「既に至っている」と言うことと同じである。

「時節がもし至れば」と待っていれば、仏性は来ることはない。

このように、時節は既に至っているのだから、仏性は現れている。

このように、仏性の理は自ずから明らかである。

およそ、仏性が現れない時節は未だなく、現れない仏性はないのである。



第4文段の解釈とコメント


「時節がもし至れば」という言葉を、古今の輩が往々にして思うのは、

仏性が現れる時節が今後にあるだろうからその時を待つのだと思っている。

そして、そのように修行していくことで、自然に仏性の現れる時節に会うのである。

時節が至らないうちは、師に問法しても、弁道工夫しても、

仏性は現れないと言うのである。

この者たちはそのように考えて、徒らに世俗の生活に帰り、

空しく天の川を見守っている。

このような者達は、おそらく天然外道の仲間である。

  いわゆる「仏性のことを知ろうと思えば」とは、

言い換えれば「仏性のことを知りなさい」と言っているのである。

「当観時節因縁」とは、「時節因縁を知りなさい」と言っているのである。

いわゆる仏性を知ろうと思うなら、この時節因縁を知るべきである。

「時節若至」とは、既に時節は至っているのであり、

これに何の疑いがあろうかという意味である。

疑うということも仏性の働きだから、

それでも疑うなら仏性を還してくれと言うしかない。


コメント

ここで「時節若至」とは、既に時節は至っているのであり、これに何の疑いがあろうか

という意味である。

疑著時節さもあらばあれ、還我仏性来(我に仏性を還し来れ)なり

(疑うということも仏性の働きだから、それでも疑うなら仏性を還してくれ)。」

と言うしかない。

ここで道元が述べているのが興味深い。これは道元一流のユーモアだろうか?

(疑うということも仏性の働きだ)は次の図3を見れば良く分かる。

疑うという作用も仏性(脳)の働きであるからだ。


図3

図3  疑うことも仏性(健康な脳)一つの姿と作用である。

   

時節を疑うことは、どうであろうとも、仏性は我々の所に来ているのである。

知ることだ、「時節若至」とは、時節は一日中空しく過ぎることなく至っている

ということである。

だから、「若至」とは、「既に至っている」と言うことと同じである。

「時節がもし至れば」と待っていれば、仏性は来ることはない。

このように、時節は既に至っているのだから、仏性は常に現れているのだ。

このように、仏性の理は自ずから明らかである。


コメント

ここで道元は「このように、時節は既に至っているのだから

仏性は常に現れている。」

と伸べている。

道元は時節は既に至っているのだから、

我々は12時中(一日中)仏性と共に仏性三昧であって、空しく過ごす余地はない

と言っているのである。

これは図2を見ればよく分かる。

およそ、仏性が現れない時節は未だなく、現れない仏性はないのである。


コメント

この第4文段では仏性が現れない時節は未だなく、

現れない仏性はないと仏性は常に現れていると言っている。

これは第一文段で出て来た「全世界はこれまで何も隠していない(遍界不曾藏)」

と同じ考え方である。

このことは、図2、3を見れば良く理解できる。

我々は疑うだけでなく、喜怒哀楽しながら、

常に仏性としての脳とその働きと共に生きているからである。


その意味で我々は12時中(一日中)仏性三昧にいるのだ。

この時、下層脳(生命情動脳)の役割に注目すべきである。

生命の観点から考えると、上層脳(理知脳)より

下層脳(脳幹+大脳辺縁系を中心とする生命情動脳)

の果たす役割の方が大きい。

科学的に考えると仏性や法身はこの下層脳を中心とする脳だと考えることができる。

禅の根本原理と応用」を参照)。

脳の進化の歴史を考えると、

上層脳(理知脳)は下層脳を中心とする

古い脳(旧哺乳類脳)の上に覆いかぶさるようにできている。

脳の三層構造を参照)。

そのような観点から考える時、下層脳を中心とする脳を、

禅では「本来の面目」と呼ぶのはまさに絶妙な表現と言える。



5

 第5文段


原文D


第十二祖馬鳴尊者、十三祖のために仏性海をとくにいはく、

山河大地皆依建立、三昧六通由茲発現(山河大地皆依って建立し、

三昧六通茲(これ)に由って発現す)」。

しかあればこの山河大地、みな仏性海なり。

皆依建立」といふは、

建立せる正当恁麼時、これ山河大地なり。

すでに「皆依建立」といふ、しるべし仏性海のかたちはかくのごとし。

さらに内外中間にかかはるべきにあらず。

恁麼ならば山河をみるは仏性をみるなり、仏性をみるは驢鰓馬嘴をみるなり。

「皆依」は全依なり、依全なりと、会取し不会取するなり。

三昧六通由茲発現」。

しるべし、諸三昧の発現来現、おなじく皆依仏性なり。

全六通の由茲不由茲、ともに皆依仏性なり。

六神通は、ただ阿笈摩教にいふ六神通にあらず。

六といふは、前三三後三三を六神通波羅蜜といふ。

しかあれば六神通は、明明百草頭、明明仏祖意なりと参究することなかれ。

六神通に滞累せしむといへども仏性海の朝宗にケイ礙するものなり。


注:

第十二祖馬鳴尊者:釈尊の後継者摩詞迦葉尊者から数えて

十二番目に当る仏教教団の指導者。

十三祖: 釈尊の摩詞迦葉尊者から数えて十三番目に当る仏教教団の指導者。

迦毘摩羅尊者をいう。

仏性海: 海のような広々とした仏性の世界。仏性と同じ。

建立せる正当恁麼時:仏性によって建立しているまさにその時。

内外中間にかかはるべきにあらず。: 内・外・中間という問題ではない。

驢鰓馬嘴(ろさいめし): 驢は驢馬鰓はあご、嘴はくちばし、口先。

驢鰓馬嘴とは、われわれが平常から眼にする、

驢馬のアゴや馬の口のような、ごくありふれた事物を象徴的に指している。

由茲発現(ゆうじほつげん): これによって発現するの意。

全依:   すべてが依拠するという意味。

依全: 全依の主語(全)と述語(依)とが反対になった言葉で、

すべてに依拠するという意味。

会取:  理解すること。

不会取:  理解できないこと。

阿笈摩教(あぎゅうまきょう):  阿含教。小乗仏教。

前三三後三三:  あとにもさきにもある日常生活のさまざまな営み。

この言葉は碧巌録35則に見える。

前後左右どちらを見ても三三と数えきれないほど様々な日常生活の営み。

(碧巌録35則を参照)

ホウ居士は「神通ならびに妙用、水を運び、また柴を搬う」と言っている。

我々の日常生活がスムーズに自由自在に行われることが本当の

神通であると言っている。

明々百草頭:  ホウ居士と娘霊照の問答(ホウ居士語録)からの引用である。

百草頭:  森羅万象。



5-1

「明々百草頭 明々祖師意」の問答


第5文段の最後尾に出てくる「明々百草頭 明々祖師意」とは以下のような有名な問答に由来する。

馬祖道一の法嗣ホウ蘊居士(ホウ蘊、ほううん、?〜808)の娘霊照も

また親に劣らず、禅を修養した人物であった。

 この親娘の有名な問答が(ホウ居士語録)にある。

 父、ホウ居士が娘霊照に問う、

古人言う、明々たり百草頭、明々たり祖師意 汝如何に会すや?」

  霊照は答えた、

老老大々、這固の語話を作す(お父さん、いい歳をして何をいっているのですか)」。

ホウ居士は問う、

汝、作麼生 (じゃ、お前ならなんという)?」。

霊照は答える、「明々たり百草頭、明々たり祖師意」。

ホウ居士は頷いてにっこり笑った。


解説とコメント


上の問答において霊照の答えは同じである。彼女はどう違っていたのだろうか。

ホウ居士は、ただ古人の言葉として取り上げたにすぎない。

霊照はこの「明々百草頭、明々祖師意」の語を、

自身の見解として呈し、体得したその真意を表現したのである。

そこを看て取ってホウ居士はにっこりと笑って娘の見解を肯定したのである。


注:

百草頭:  草花に限らない山河大地、草芥人畜など、一切の存在と森羅万象現象。

明々(めいめい):、はっきり、ありありとしているさま。

祖師意:祖師西来意とも言われ、、達磨大師がインドから中国にやって来た真の意味、仏法の真髄を意味している。

皆依建立:  皆、依って建立するという意味。

六通:  六神通のこと。六神通は表にすると次の表1のようになる。


表1

表1  仏陀などに具わる神秘的な六種の超能力(神通力)


   

滞累:   滞はとどこおる。累はつなぐ、しばる。滞累は滞留すること。

朝宗:  天子に拝謁すること。参ずること。

ケイ礙:  さまたげること、障害となること。



第5文段の現代語訳

 第十二祖 馬鳴尊者は、十三祖 迦毘摩羅(カビモラ)のために、

仏性海について次のように説いた。

山河大地は、皆 仏性海によって建立している

諸仏の禅定や六神通力も、仏性海によって出現するのである。」

したがって、この山河大地は皆 仏性の海である。

皆 仏性の海によって建立している」とは、仏性によって建立しているまさにその時に、

山河大地であるということである。

すでに「皆 仏性の海によって建立している」というのは、仏性海の姿はこのように山河大地であり、

それは決して内とか、外、中間であるなどには関係しないことを知るべきである。

そうであるから、山河を見るということは仏性を見ることであり、

仏性を見るということは、市街を動き回っている驢馬や馬を見ることである。

皆依 」とは、すべてが仏性海によるものであり、

仏性海はすべてによるものであると悟るのが大切である。

しかし、悟ったらさらに不会取に至ることが大切である。

会取(えしゅ)は悟ることであるが悟ったら、その悟りを掃除し、

悟りの跡を払い、不会取となり、何も知らない元の木阿弥になって仏性に適うようになるのである。

三昧六通、由茲発現(禅定や六神通はここより発現する)」。

  この言葉から知りなさい、

諸々の三昧や六神通の現れるのも現れないのも、皆 仏性に依るのである。

ここにいう六神通は、もっぱら阿含経に説かれている六神通のことではない。

六とは無量であり、無量の神通力を六神通波羅蜜というのである。

前三三後三三と日常生活に顕れている数多くの六神通波羅蜜が重要である。

そうであるから、六神通とは、単に明らかな万象の中に

、明らかに仏祖の心が現れていると余計な理屈を付け加え参究してはならない。

理屈を付けることによって、本来の妙意を失うからである。

六神通は日常生活のあらゆる場面に顕れてそれに滞累されているようなものである。

しかし、ことさらそれに捕らわれれば、

仏性海に流入し仏性に拝謁(見性)しそれを悟る妨げとなるだけである。



第5文段の解釈とコメント


 第十二祖 馬鳴尊者は、十三祖 迦毘摩羅(カビモラ)のために、

仏性海について次のように説いた。

山河大地は、皆 仏性海によって建立している

禅定や六神通力も、仏性海によって出現するのである。」

したがって、この山河大地は皆 仏性の海である。

皆 仏性の海によって建立している」とは、

仏性によって建立しているまさにその時に、

山河大地であるということである。


コメント

イ山霊祐(771〜853)と仰山慧寂(807〜883)の次ぎのような会話がある。

大イ仰山に問う、

妙浄明心、汝作麼生(そもさん)か会する?」。

仰 曰く、「山河大地、日月星辰」。

この会話を現代語に直すと次ぎのようになる。

イ山霊祐が仰山慧寂に質問した、

お前さんは妙浄明心をどのように理解しているのかね?」

仰山慧寂は言った、「山河大地、日月星辰です」。 

この会話から仰山は

妙浄明心は山河大地、日月星辰である。」

と言っていることが分かる。

仰山慧寂の言葉「妙浄明心は山河大地、日月星辰である。」

において、「妙浄明心」=「仏性海」 と考えて、

妙浄明心」を「仏性海」で置き換えると

仰山慧寂の言葉は「「仏性海」は山河大地、日月星辰である。」

と同じ意味になる。

ここで、

「仏性海」=仏性=妙浄明心=坐禅修行によって浄化され健康になった脳 (1)

の等式が成立すると考えよう。

この時、仰山慧寂の言葉は「「仏性(妙浄明心)」は山河大地、日月星辰である。」

と同じ意味になる。

我々は普通、山河大地、日月星辰は

自己の外界にあり、外境として自己と対立的に存在していると考えている。

しかし、「心境不二(一如)、万物一体」の境地では山河大地、日月星辰は

自己の外界で、外境として対立的に存在しているものではなく、

外境は自己と一体であると捉えるのである。

従って、仰山慧寂の言葉「妙浄明心は山河大地、日月星辰である。」

は「心境不二(一如)」の境地を表していることが分かる。

これより、道元がこの文段で

山河大地は、皆 仏性海によって建立している

禅定や六神通力も、仏性海によって出現するのである。」

したがって、この山河大地は皆 仏性の海である。」

と述べていることは「心境不二(一如)」の境地とは何かが分かれば

理解できる。

公案6.25「心境不二」の境地を参照)。

また同じところで、道元は

禅定や六神通力も、仏性海によって出現するのである。」

とも述べている。

この言葉は

禅定や六神通力は、仏性(=明浄妙心)によって支えられ出現するのである。」

と言っていると解釈できる。

ここで(1)式を考え、仏性=坐禅修行によって浄化され健康になった脳に置き換えると、

禅定や六神通力は

坐禅修行によって浄化され健康になった脳によって支えられ出現するのである。」

と言っていると分かる。

これは次の図4によって説明することができる。


図4

図4 禅定や六神通力は

坐禅修行によって浄化され健康になった脳(明浄妙心)によって支えられ出現する。

   

図4に示すように、坐禅修行によって明浄妙心と呼ばれるように脳は浄化され健康になる。

「この時得られる禅定や六神通力は、この浄化され健康になった脳によって支えられ出現する。」

と言っているのである。


   

すでに「皆 仏性の海によって建立している」というのは、

仏性海の姿はこのように山河大地と一体であり、それは決して内とか、

外、中間であるなどには関係しないことを知るべきである。

そうであるから、山河を見るということは仏性を見ることであり、

仏性を見るということは、市街を動き回っている驢馬や馬を見ることである。

皆依 」とは、すべてが仏性海(仏性)によるものであり、

仏性海(仏性)はすべてによるものであると悟るのが大切である。


コメント

ここで述べていることも、坐禅修行によって明浄妙心と呼ばれるようになった

仏性(健康な脳)の働きと「心境不二(一如)」の境地によって理解できる。

公案6.25「心境不二」の境地を参照)。


   

しかし、悟ったらさらに不会取(ふえしゅ)に至ることが大切である。

会取(えしゅ)は悟ることであるが、悟ったら、その悟りの臭みを掃除し、

悟りの跡を払い、不会取(ふえしゅ)となり、

何も知らない元の木阿弥になって仏性に適うようになるのである。


コメント

ここで道元が述べていることは

歿蹤跡(もっしょうせき)」の境地を述べていると考えられる。

没蹤跡とは残された跡形が全くないという意味である。

分別や執着を離れた、かたよらない・こだわらない・とらわれない生き方である。

見性体験をしたら,その跡を消し去り,さらに深遠な悟りを開くべく修行してゆくことである。

悟りへの修行は限りないものである。

次の図4に禅修行の三法門と悟りの深化をまとめる。


図5

図5 禅修行の三法門と悟りの深化。

   

現成公案「禅修行における三関門」を参照)。

   
   

三昧六通、由茲発現(禅定や六神通はここより発現する)」。

この言葉から知りなさい、諸々の三昧や六神通の現れるのも現れないのも、

皆同じく 仏性に依るのである。

全ての六神通はこれに由るのであるが、由るも由らないのも

ともに仏性に依るのである。 

六とは前三三後三三と日常生活に顕れている

様々な神通を六神通波羅蜜というのである。 


コメント

道元は「三昧六通、由茲発現(禅定や六神通はここより発現する)。

諸々の三昧や六神通の現れるのも現れないのも、皆同じく 仏性に依る。」

と仏性の働きが禅定や神通にあると述べている。

これは図4を見ればよく理解できる。

ここで「前三三後三三」という言葉が出ている。

この言葉は碧巌録第35則文殊前三三」にも出ているので参照されたい。

碧巌録第35則を参照)。

馬祖の弟子である在家の弟子 ホウ蘊(ほううん、?〜815)は

 「神通ならびに妙用、すべて水をにない柴を運ぶ。」と詠っている。

その意味は「水をくんで運んだり、芝を取って運ぶ(運水搬柴(うんすいはんさい)

という平凡な日常生活の動作の中に仏性(健康な脳)

の神通とも言える妙なる働きが現れている。」という意味である。

ホウ蘊は

本当の神通は運水搬柴 という平凡な日常生活の動作の中にある

と言っているのである。


そうであるから、六神通とは、「明明百草頭、明明仏祖意 」なり

と余計な理屈を付け加え参究してはならない。


コメント

ここで道元は「しかあれば六神通は、明明百草頭、明明仏祖意なりと参究することなかれ。」

と述べている。

この中に出ている「明明百草頭、明明仏祖意 」は

馬祖道一の法嗣ホウ居士と娘霊照の有名な問答からの引用である。

「明明百草頭、明明祖師意」を参照


   

理屈を付けることによって、本来の妙意を失うからである。

六神通は日常生活のあらゆる場面に顕れてそれに滞累されているようなものである。

しかし、ことさらそれに捕らわれれば、

仏性海に流入し仏性に拝謁(見性)して、悟る妨げとなるだけである。



6

 第6文段


原文E


五祖大満禅師は、キ州黄梅の人なり。

父無くして生る、童児にして道を得たり、乃ち栽松道者なり。

初めキ州の西山に在りて松を栽ゑしに、四祖の出遊に遇ふ。

道者に告ぐ、

吾れ汝に伝法せんと欲へば、汝已に年過ぎたり

若し汝が再来を待たば、吾れ尚汝を遅つべし」。

師諾す。遂に周氏家の女に往いて托生す。因みに濁港中に抛つ。

神物護持して、七日損ぜず。

因みに収りて養へり。七歳に至るまで童子たり。

黄梅路上に於て、四祖 大医禅師に逢ふ。

祖、師を見るに、是れ小児なりと雖も、骨相奇秀、常の童に異なる。

祖見て問うて曰く、

汝 何なる姓ぞ?」

師答へて曰く、

姓は即ち有り、是れ常の姓にあらず。」

祖曰く、

是れ何なる姓ぞ?」

師答へて曰く、

是れ仏性」。

祖曰く、

汝に仏性無し」。

師答へて曰く、

仏性空なる故に、所以に無と言ふ」。

祖、其の法器なるを識りて、侍者たらしむ。後に正法眼蔵を付す。

黄梅の東山に居して、大いに玄風を振ふ。


注:

五祖大満禅師: 中国禅の第五祖。大満弘忍禅師(601-674)。

キ州黄梅県の人、姓は周氏。大医道信禅師の後継者となり、

湖北省黄梅県の東禅寺において教化を行なった。674年死去、年74歳。

キ州: 現在の湖北省、斬春県。 

黄梅: 県の名。湖北省、斬春県の東。

四祖: 中国禅の第四祖大医道信禅師(580年 - 651年)。姓は司馬氏。

河内の人。14歳で鑑智僧サン禅師(第三祖)の弟子となり、

師事すること九年、その後継者となった。651年死去、年72歳。

過ぎる: 年を取り過ぎているという意味。

遅:  待つこと。

托生(たくしょう):  生を托すること、生命をあずけること、胎内にやどること。

濁港(じょくこう): 水が濁った船の停泊場所。クリーク。

デルタ(三角州)その他の低湿地につくられた人工的水路。

日本の佐賀平野や中国の揚子江・珠江、 インドシナ半島のメコン川、

タイのチャオプラヤー川のデルタにみられる。

神物: 神妙不可思議なもの、不思議な力があるもの。

童子: 4、8才〜20才の男子で、

まだ剃髪、得度していない男子をいう。

骨相:  骨格の様子。頭蓋骨の形。

奇秀: めずらしく、ひいでていること。

法器:  仏法を解明する力量を持った人物。 

命に従って常に給仕する弟子をいう。

侍者:  師・長老に随って侍する者で、

師や長老の近くに侍して、命に従って常に給仕する弟子。

黄梅東山: 黄梅山東禅寺。

中国禅の五祖大満弘忍禅師(602-675)は黄梅山に東禅寺を建て、多くの弟子を養成した。 

玄風: 玄はくろい、奥深い。深遠な宗風。



第6文段の現代語訳

中国禅の第五祖大満弘忍禅師(601-674)。キ州黄梅県の人である。

父親のいない境遇に生まれ、子供時代に仏法の真理を把握した。

これがいわゆる栽松道者である。はじめ。斬州の西山に住んで松を植えていた。

ところが中国禅の第四祖である大医道信禅師が、たまたま外出した際にこの道者に会い、

道者に告げて言った、

私は仏法をお前に伝えたいと思う。しかしお前はすでに年をとりすぎている

そこでもしお前が、もう一度生まれ変って来ることがあるならば

それまでお前を待っていよう。」と。

大満弘忍禅師は、生まれ変って来ることを承諾した。

そして周氏の家の娘にみごもられて、生まれて来た。

その際、水のよごれた船着場に捨てられたが、不思議な力にまもられて、七日間傷つくことがなかった。

そこでこれを再び拾い上げて養育した。

七歳になった時、僧侶の見習いとなったが、黄梅山に行く途中の道で、

第四祖大医禅師と行き会った。

大医道信禅師が、大満弘忍禅師を見ると、子供ながらも、

頭蓋骨の形がめずらしくすぐれており、普通の子供とはちがっていた。

四祖はそれを見て、質問した、

お前は何という名前か?」 

師は答えて言った、

名前があることはあります。しかしそれは普通の名前ではありません。」

四祖は言った、

どんな名前か。」

師は答えて言った、

仏性が、私の名前です。」

四祖は言った、

お前は仏性を自分の名前だというが、お前には仏性はないではないのか。」

師は答えて言った、

仏性は、空です。だから、無というのです。」

道信禅師は、弘忍禅師が仏法の秀れた人材であることを知って、

弘忍禅師を侍者とし、仏法の核心を伝えた。

弘忍禅師は、黄梅県の東禅寺に住んで、大いに深遠な宗風を振るった。



第6文段の解釈とコメント


中国禅の第五祖大満弘忍禅師(601-674)。キ州黄梅県の人である。

父親のいない境遇に生まれ、子供時代に仏法の真理を把握した。

これがいわゆる栽松道者である。はじめ。斬州の西山に住んで松を植えていた。

ところが中国禅の第四祖である大医道信禅師が、たまたま外出した際にこの道者に会い、

道者に告げて言った、

私は仏法をお前に伝えたいと思う。しかしお前はすでに年をとりすぎている

そこでもしお前が、もう一度生まれ変って来ることがあるならば

それまでお前を待っていよう。」と。

大満弘忍禅師は、生まれ変って来ることを承諾した。

そして周氏の家の娘にみごもられて、生まれて来た。

その際、水のよごれた船着場に捨てられたが、不思議な力にまもられて、

七日間傷つくことがなかった。

そこでこれを再び拾い上げて養育した。

七歳になった時、僧侶の見習いとなったが、黄梅山に行く途中の道で、

第四祖大医禅師と行き会った。

大医道信禅師が、大満弘忍禅師を見ると、子供ながらも、

頭蓋骨の形がめずらしくすぐれており、普通の子供とはちがっていた。

四祖はそれを見て、質問した、

お前は何という名前か?」 

師は答えて言った、

名前があることはあります。しかしそれは普通の名前ではありません。」

四祖は言った、

どんな名前か。」

師は答えて言った、

仏性が、私の名前です。」

四祖は言った、

お前は仏性を自分の名前だというが、お前には仏性はないではないのか。」

師は答えて言った、

仏性は、空です。だから、無というのです。」

道信禅師は、弘忍禅師が仏法の秀れた人材であることを知って、

弘忍禅師を侍者とし、仏法の核心を伝えた。

弘忍禅師は、黄梅県の東禅寺に住んで、大いに深遠な宗風を振るった。


コメント

この文段では中国禅の第五祖大満弘忍禅師(601-674)と仏性について述べている。

この文段で述べていることに特に難しいところはない。

しかし、ここで紹介される中国禅の第五祖弘忍禅師

の姿は神異的(人間わざでは考えられない神秘的姿)である。

1.

弘忍禅師は自分で生まれ変って来ることを願って、周氏の娘の胎に宿って生まれた。

母である周氏の娘は子供(弘忍)を濁った港に捨てたが、

神仙の不思議な力にまもられて、七日間子供(弘忍)の身は損なわれなかった。

そこでこれを再び拾い上げて養育した。

2.

子供時代、(弘忍)は黄梅山に行く途中の道で、第四祖道信禅師と行き会った。

道信禅師が、弘忍(子供時代)禅師を見ると、 

子供ながらも、頭蓋骨の形がめずらしく優れており、普通の子供とは違っていた。

道信禅師はそれを見て、弘忍(子供時代)に

お前は何という名前か?」

と訊ねると、弘忍は、

仏性が、私の名前です。」と答える。

道信が、「お前は仏性を 自分の名前だというが、お前には仏性はないではないのか。」

と言うと、

弘忍は、

仏性は、空です。だから、無というのです。」

と答える。



いくら子供時代の弘忍が優秀でもこのような会話が子供(弘忍)と大人の道信禅師の間に交わされたとは考えにくい。

  中国禅の第5祖弘忍禅師を神格化し超人的偉人にするために偽造創作された神異譚のように思われる。

合理的客観的に思考できる現代人を

このような話で説得することは難しいように思われる。

これは禅問答において、「名前」を「真の自己」とする「借事問」の様式で解釈すると

次のように分かり易くなる。



借事問による解釈



第6文段で重要な箇所は子供の弘忍と大人の道信禅師の間の会話であろう。

この会話は借事問だと考えると興味深い禅問答になる。 

道信の質問「どんな名前か?」と

弘忍の返答は「仏性が、私の名前です。」は次のようになる。

道信の質問は「お前の真の自己(本来の面目)は何か?」となり

弘忍の返答は「真の自己(本来の面目)は仏性です。」となる。

道信の続く質問「お前は仏性を 自分の名前だというが

お前には仏性はないではないのか。」と

弘忍の返答「仏性は、空です。だから、無というのです。」

は次のようになる。

道信の質問は

お前は真の自己は仏性だというが、お前には仏性は無いではないのか。」となり、

弘忍の返答は「真の自己である仏性は、空だから、無というのです。」

と「真の自己である仏性の空的性質」の説明となる。


以上のように考えると、子供の弘忍と大人の道信禅師の間の会話は

道信禅師の「真の自己(本来の面目)とは何か?」という質問に対し、

道信禅師の下で修行の結果、見性し悟りに至った大人の弘忍禅師の返答

真の自己は仏性であり、仏性は、空だから、無ともいう

という立派な禅問答になる。

このような問答がいくら優秀であるとは言っても、

精神的に未熟な子供の弘忍と大人の道信禅師の間に交わされるはずはないだろう。

以上の考察から、第6文段は

五祖弘忍の神格化のために偽造創作された神話のような話だと考えることができるだろう。


借事問」については「無門関」第15則「洞山三頓」を参照されたい。

無門関第15則「洞山三頓」を参照)。



7

 第7文段


原文F


しかあればすなはち、祖師の道取を参究するに、

四祖いはく汝何姓」は、その宗旨あり。

むかしは何国人の人あり、何姓の姓あり。

なんぢは何姓と為説するなり。

たとへば吾亦如是、汝亦如是と道取するがごとし。

 五祖いはく、「姓即有、不是常姓」。

いはゆるは、有即姓は常姓にあらず、常姓は即有に不是なり。

  「四祖いはく汝何姓」は、何は是なり、是を何しきたれり。

これ姓なり。何ならしむるは是のゆゑなり。是ならしむるは何の能なり。

姓は是也、何也なり。これを蒿湯にも点ず、茶湯にも点ず、家常の茶飯ともするなり。

五祖いはく、「是仏姓」。

 いはくの宗旨は、是は仏性なりとなり。何のゆゑに仏なるなり。

是は何姓のみに究取しきたらんや、是すでに不是のとき仏姓なり。

しかあればすなはち是は何なり、仏なりといへども、

脱落しきたり、透脱しきたるに、かならず姓なり。

その姓すなはち周なり。

しかあれども、父にうけず祖にうけず、母氏に相似ならず、傍観に斉肩ならんや。

 四祖いはく、「汝無仏性」。

 いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり。

しるべし、学すべし、いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。

仏頭にして無仏性なるか、仏向上にして無仏性なるか。

七通を逼塞することなかれ、八達を模索することなかれ。

無仏性は一時の三昧なりと修習することもあり。

仏性成仏のとき無仏性なるか、仏性発心のとき無仏性なるかと問取すべし、道取すべし。

露柱をしても問取せしむべし、露柱にも問取すべし、仏性をしても問取せしむべし。

 しかあればすなはち、無仏性の道、はるかに四祖の祖室よりきこゆるものなり。

黄梅に見聞し、趙州に流通し、大イに挙揚す。

無仏性の道、かならず精進すべし、シソすることなかれ。

無仏性たどりぬべしといへども、何なる標準あり、汝なる時節あり、

是なる投機あり、周なる同生あり、直趣なり。

 五祖いはく、「仏性空故、所以言無」。

あきらかに道取す、空は無にあらず。仏性空を道取するに、

半斤といはず、八両といはず、無と言取するなり。

空なるゆゑに空といはず、無なるゆゑに無といはず、仏性空なるゆゑに無といふ。

しかあれば、無の片々は空を道取する標榜なり、空は無を道取する力量なり。

いはゆるの空は、色即是空の空にあらず。

色即是空といふは、色を強為して空とするにあらず、空をわかちて色を作家せるにあらず。

空是空の空なるべし。

空是空の空といふは、空裏一片石なり。

しかあればすなはち、仏性無と仏性空と仏性有と、四祖五祖、問取道取。


注:

何国人:  仏教徒の生活基盤は宇宙大であって、

インドとか中国とかいった局地的な国家に捉縛されない。

したがってその国名に「何」という疑問代名詞を用い、

不特定かつ無限大の国家に帰属することを示している。

何姓:  趣旨は前項の何国人と同意。

姓は氏族の名称、転じて単に名称を指す。

為説: 説を為す。

吾亦如是、汝亦如是:  吾もまた是の如し、汝もまた是の如し。

正法眼蔵偏参の巻にいう、「曹渓古仏とふ、「修証を還仮るや否や?」

大慧(南岳懐譲)まうさく、「修証は無きにあらず、染汚すれば得ず。」

曹渓いはく、「吾も亦是の如く、汝も亦是の如し、乃至西天の諸仏諸祖も亦是の如し。」

仏法の悟りの体験内容が誰の場合にも同じであることを述べている。

禅の思想1六祖慧能と南嶽懐穣の問答を参照)。

有即姓:   存在と密着したもっとも適切な名称。

即有:  現実の存在。

不是:   適合しない。思わしくない。

何の能 : 「何」という何物とも規定しがたい実在の機能が発現したものの意。

是ならしむるは何の能なり。: 生きている事実があるのは、

絶対の真実の働きである。

蒿湯: 蒿はよもぎ。蒿湯はよもぎの葉を煎じた湯。

点ず: 注ぐ、入れる。

茶湯:  茶の葉を煎じた湯。

家常: 常日頃。

シソすることなかれ。: 進まず滞ってはならない。

七通を逼塞することなかれ、八達を模索することなかれ。:

仏性は七通八達しているのに、塞いだり、手探りしてはならない。

黄梅:  黄梅山のこと。黄梅山は五祖弘忍禅師(601-674)が住んだ山。

無の片々: 一つ一つの無。

空裏一片石なり。:  空の中が一片の石でいっぱいである。

石霜の言葉(伝灯録15、石霜章)。

空是空の空なるべし。: 空を色と言い替えず、空のままでよい。

四祖五祖、問取道取。: 四祖と五祖が問い、また道(い)ったところである。



第7文段の現代語訳

そこで四祖道信禅師と五祖弘忍禅師の説かれたところを参究して見ると、

道信禅師の「お前は何という名前か?」という言葉には、次のような意味がある。

すなわち「何という国の出身という人もいれば、何という名前を名乗る場合もあるように

お前は何という名前だ?」と言ったのである。

たとえば、六祖慧能禅師が南嶽懐譲に「自分もその通りであり、お前もその通りである。」

と言ったようなものである。

見性の体験内容が誰の場合にもそのようであることを言ったのである。

弘忍禅師の「名前があることはあります。しかしそれは普通の名前ではありません。」

と言う言葉は、生きている真実に密着した適切な名前(姓)は普通の名前(姓)はではない。

世間普通の名前(姓)は、真の悟りに応しいものではない。

道信禅師のいう「どんな名前か?」という言葉の意味は、

何物とも表現できないもの()が現実の事物(是)であるという意味であって、

現実の事物(是)を何物とも表現できないもの()という表現で把えたのである。

そしてこれこそ仏性である。

何物とも表現できないもので現実の事物を把えるのは、

現実の事物そのものにそのような内容が含まれているからである。

また現実の事物が現実の事物としてあるのは、表現しがたい何物かの機能の現われである。

名前とは現実の事物ということであり、表現しがたい何物かということである。

このような事物の把え方をよもぎ湯を飲んでいる場合にも、

茶を飲んでいる場合にも活用するのであり、常日頃の食事その他においても活用するのである。

弘忍禅師の「私の名前は仏性です。」という言葉の意味は、

現実の表現しがたい何物かは仏性そのものだということであり、

表現しがたい何物かであるから、仏と呼ばれるのである。

また現実の事物は、表現しがたい何物かという名称だけで尽し得るものであろうか。

現実の事物は、まだそれが実在しない時点(不是)でも、仏性を具えているのである。

したがって現実の事物は、表現しがたい何物かであり、仏であるとはいっても、

それがそのような抽象的な把え方を離脱し、

脱却して真に現実の事物になり切る場合には、かならず具体的な名前(姓)があるのである。

そしてその名前(姓)が大満弘忍禅師の場合は周氏である。

しかしながら弘忍禅師に具わる仏性は、父親から受け継いだものでもなければ、

祖先から受け継いだものでもない。

母親に似たものでもなければ、第三者と同じものでもない。

  道信禅師の「お前は仏性を自分の名前だというが

それは何もない(無)ということではないのか。」という言葉は、

お前を誰々だというふうに規定するつもりはなく、それは一切お前にまかせるが、

それが仏性と言うものであり、何も無いということを主張しているのである。

銘記し、学ぶべきである。

いまはどのような時期であればこそ、無仏性として規定されるのだろうか。

仏頭であるのに無仏性であるのだろうか。

仏の境地からさらに向上しようとしているから無仏性であるのだろうか。

仏性はせっかく縦横に七通八達しているのに、

つまらぬ努力でふさぐようなことをすべきではない。

また何とか解明しようとして手探りする必要もない。

無仏性は、現在の三昧の状態であるというふうに学ぶ場合もある。

仏性は、悟って仏になった時、無仏性としての性質を発揮するのであろうか。

あるいは無仏性は、発心した時点で、無仏性になるのだろうか。

これらのことを質問し、主張すべきである。露柱にも質問をさせ、質問して見るべきである。

仏性にも質問させるべきである。

以上述べた通りであるから、無仏性という言葉は、

はるかに遡って道信禅師の部屋から聞えで来たところのものである。

そしてそれが黄梅山の弘忍禅師のもとでも見聞され、

  趙州の趙州従シン禅師の周辺にも行きわたり、

大イ山のイ山霊祐禅師のもとでも大いに挙揚されたのである。

無仏性の道は、必ず精進研讃しなければならないのである。

決して研讃を躊躇してはならない。

無仏性の道は、とまどうに違いないが、標準は何(何物とも表現できないもの

仏性)という自己本来の面目を生き切ることである。

汝というお前自身が無仏性である時節がある。

無仏性は是れだと師が指し示することがある。

しかし所詮、無仏性の道は周という名前と同生し、仏性と直通しているのである。

弘忍禅師の「仏性は、空であるから、無というのである

という言葉で明らかなのは空と無とは同じではないということである。

仏性が空であることを表現するに当り、同じ内容を示して半斤とか、

八両と言わずに、無といい切るのである。

空であるから、空と言わず、無であるから、無とは言わないのである。

仏性は、空であるから、無という。

したがって個々の瞬間、瞬間における何もないという体験は、空を表現する具体例であり、

概念的に表現できない空が無を説明する立札のようなものである。

ここにいう空とは、「色即是空」という場合の空ではない。

色即是空」の意味は、色を無理矢理に規定して空とするのではない。

また空を分析して、色を構築したのでもない。

それは空是空という場合のであると言えるだろう。

空是空という場合のとは、の中が一片の石で一杯である

という淡々とした事実を指すのである。

従って仏性無と仏性空と仏性有とについて、

四祖道信禅師と五祖弘忍禅師とは互いに質疑・応答したのである。



第7文段の解釈とコメント

そこで四祖道信禅師と五祖弘忍禅師の説かれたところを参究して見ると、

道信禅師の「お前は何という名前か?」という言葉には、

次のような意味がある。

すなわち「何という国の出身という人もいれば

何という名前を名乗る場合もあるように、お前は何という名前だ?」

と言われたのである。

たとえば、六祖慧能禅師が南嶽懐譲に

自分もその通りであり、お前もその通りである。」

といわれた時のように、

見性の体験と内容が誰の場合にも共通し同じであることを言ったのである。

弘忍禅師の「名前があることはあります。しかしそれは普通の名前ではありません。」

と言う言葉は、真理に密着したもっとも適切な名前というものは、普通の名前ではない。

世間普通の名前は、真の悟りに応しいものではないと言っているのである。

道信禅師のいう「どんな名前か?」という言葉の意味は、

何物とも表現できないもの()かが現実の事物(是)であるという意味であって、

現実の事物(是)を何物とも表現できないもの(

という表現で把えたのである。


コメント

ここでは、弘忍禅師の「名前があることはあります

しかしそれは普通の名前ではありません。」

と言う言葉は、真の自己(=本来の面目)に最もふさわしい名前は、普通の名前ではない。

普通の名前は、真の自己(=本来の面目)を表すに応しい

ものではないからだと言っているのである。

道信禅師のいう「どんな名前か?」という言葉の意味は、

何物とも表現できないもの(何)が真の自己(=本来の面目)である。

真の自己(本来の面目)を何物とも表現できないもの()という 表現で把えている。

従って、


何物とも表現できないもの真の自己(=本来の面目)=仏性


だと考えれば、ここで道元禅師の言っていることがはっきりする。



そしてこれこそ本当の名前である。

何物とも表現できないもので現実の事物を把えるのは、

現実の事物そのものにそのような内容が含まれているからである。

また現実の事物が現実の事物としてあるのは、

表現しがたい何物かの機能の現われである。

名前とは現実の事物ということであり、表現しがたい何物かということである。

そして(何物とも表現できないもの)こそが仏性(=真の自己)である。

(何物とも表現できないもの)で仏性を把えるのは、仏性(=真の自己)そのものがそのようであるからである。

また仏性が仏性としてあるのは、仏性(=真の自己)の機能の現われである。

このような仏性の機能をよもぎ湯に入浴している場合や、

お茶を飲んでいる場合のような、常日頃の食事その他においても活用するのである。


コメント

ここで道元禅師が言っていることも、

何物とも表現できないもの真の自己(=本来の面目)=仏性

だと考えれば無理なく理解できる。

このような仏性の機能をよもぎ湯に入浴している場合や

お茶を飲んでいる場合のような、常日頃の食事その他においても活用するのである。」

と述べている。

これは「よもぎ湯に入浴したり、お茶を飲んだりする日常生活」において、

仏性(=健康な脳)の神通とも言える機能を活用・発揮している場面を具体例として取り上げているのである。

そのような仏性(=真の自己)の日常生活における機能(働き)を次の図6に示す。


図6

図6 よもぎ湯に入浴したり、お茶を飲んだりするのも

日常生活における仏性(=真の自己=健康な脳)の活きた機能(はたらき)である。

   

弘忍禅師の「私の名前は仏性です。」という意味は、

真の自己(本来の面目)は仏性そのものだということであり、

表現しがたい何物かであるから、仏と呼ばれるのである。

また真の自己(本来の面目=仏性)は、

表現しがたい何物かという名称だけで尽し得るものであろうか。

真の自己(本来の面目=仏性)は、

まだそれが実在しない時点(不是)でも、仏性を具えているのである。

したがって真の自己(本来の面目)は、表現しがたい何物かであり、

仏であるとはいっても、それがそのような抽象的な把え方を離脱し、

脱却して真に真の自己(本来の面目)になり切る場合には、

かならず具体的な名前があるのである。

  そしてその名前(俗姓)が大満弘忍禅師の場合は周氏である。 

しかしながら弘忍禅師に具わる仏性は、

父親から受け継いだものでもなければ、祖先から受け継いだものでもない。

母親に似たものでもなければ、第三者と同じものでもない。

道信禅師の

お前は仏性を自分の名前だというが、それは何もない(無)ということではないのか。」

という言葉は、お前を誰々だというふうに規定するつもりはなく、

それは一切お前にまかせるが、それが仏性と言うものであり、

何も無いということを主張しているのである。


コメント

ここで道元は

しかしながら弘忍禅師に具わる仏性は

父親から受け継いだものでもなければ、祖先から受け継いだものでもない

母親に似たものでもなければ、第三者と同じものでもない。」

と述べている。

ここで道元が述べていることは科学的には明らかな誤りである。

仏性の本体の中心である下層脳(=脳幹+大脳辺縁系)の構造と機能は

両親の遺伝的性質を受け継いでいるからである。

科学的観点から見ると、弘忍禅師の仏性は、父母や祖先から受け継いだ遺伝的特性を持っているからである。

母親の仏性に似ているし、第三者と基本的に同じものである。

しかし、道元禅師の時代には脳科学はなく、

中国やインドでは心は心臓にあると考えられていた。

そのような時代背景を考えると、そのような誤りは仕方がないことであろう。

また道元は仏性には無の側面があると言っている。

ここで出て来る仏性の無の側面は、

下層脳は無意識脳であることから来る無的性質と考えることができるだろう。

無門関第一則で出て来る「」と同じだと考えることができる。

「無門関」第1則「趙州狗子」を参照)。


知って、学ぶべきである。

いまはどのような時期であればこそ、無仏性として規定されるのだろうか。

仏頭であるのに無仏性であるのだろうか。

仏の境地からさらに向上しようとしているから無仏性であるのだろうか。


コメント

ここで出て来る仏性の無の側面についても、

無門関第一則で出て来る「無」と同じだと考えることができる。

「無仏性」とは「無」という仏性と言っているから

」=仏性

ということを主張していると考えることができる。

坐禅している時には、下層脳(脳幹+大脳辺縁系)優勢の状態になる。

下層脳(脳幹+大脳辺縁系)は無意識脳であるから「無」と言って良い。

この観点に立てば

」=仏性

という主張、即ち無仏性は科学的にも合理的であり、

仏性=真の自己の本体である下層無意識脳(脳幹+大脳辺縁系)の「」的性質に由来していると考えられる。

禅と脳科学1を参照)。

「無門関」第1則「趙州狗子」を参照)。


仏性はせっかく縦横に七通八達しているのに、

つまらぬ努力でふさぐようなことをすべきではない。


コメント

仏性が広く縦横に七通八達しているという実感的に考えられる性質は

脳内の電磁的相互作用(遠隔力による相互作用)に由来すると考えることができる。

これに関係する公案は、「碧巌録」18則に出ている。

「碧巌録」18則「忠国師無縫塔」を参照)。


   

また何とか解明しようとして手探りする必要もない。

無仏性は、現在の三昧の状態であるというふうに学ぶ場合もある。


コメント

ここで道元が「無仏性は、現在の三昧の状態であるというふうに学ぶ場合もある。」

と述べているのが興味深い。

坐禅して三昧の状態に入ると、下層脳(脳幹+大脳辺縁系)優勢の状態になる。

下層脳(脳幹+大脳辺縁系)は無意識脳であるから、

三昧の状態は「」であると言っていると解釈できる。



禅と脳科学1を参照)。

脳科学的には

仏性は下層脳優勢の健康な脳だと考えることができるので、仏性はの側面をもっている。

すなわち、

下層脳(脳幹+大脳辺縁系)優勢の健康な脳=仏性

であり、これが時節因縁によって千差万別の姿と作用(働き)を現すのである。

これを次の図7に示す。


図7

図7 仏性は下層脳(脳幹+大脳辺縁系)優勢の健康な脳であり、

空や無といえる側面を持っている。

   

禅と脳科学1を参照)。


禅の根本原理と応用」を参照)。

仏性は、悟って仏になった時、無仏性としての性質を発揮するのであろうか。


コメント

仏性は、必ずしも悟って仏になった時ではなく、誰でも坐禅して、

三昧状態になると、必然的に無仏性としての性質を発揮しているのだ。

禅と脳科学1を参照)。

あるいは無仏性は、発心した時点で、無仏性になるのだろうか。

これらのことを質問し、主張すべきである。

露柱にも質問をさせ、質問して見るべきである。仏性にも質問させるべきである。

以上述べた通りであるから、無仏性という言葉は、はるかに遡って道信禅師の

部屋から聞えで来たところのものである。

そしてそれが黄梅山の弘忍禅師のもとでも見聞され、 

趙州の趙州従シン禅師の周辺にも行きわたり、

大イ山のイ山霊祐禅師のもとでも大いに挙揚されたのである。


コメント

無仏性は、発心した時点で、無仏性になるのではない。

人である時点から無仏性の本体である下層脳(無意識脳)を持っているのである。

ここで道元は

「無仏性の道は、四祖道信五祖弘忍趙州従シンイ山霊祐

というルートで伝えられて来た」と述べている。

図8に無仏性の伝承のルート(法系図)を示す。


図8

図8  四祖道信→五祖弘忍→趙州従シン→イ山霊祐に至る無仏性の伝承のルート(法系図)


図8の法系図を見れば分かるように、

に無仏性の伝承のルート(法系図)は四祖道信→五祖弘忍→趙州従シン→イ山霊祐に至っている。

   

無仏性の道は、必ず精進研讃しなければならないのである。

決して研讃を躊躇してはならない。

無仏性の道は、とまどうに違いないが、

何(何物とも表現できない無的性質を持つもの=仏性)という自己本来の面目を生き切ることである。

汝というお前自身が無仏性である時節がある。

無仏性は是れだと師が指し示することがある。

しかし所詮、無仏性の道は周という名前と同生し、仏性と直通しているのである。


コメント

直前の文章は五祖弘忍禅師の俗姓は周氏であることを言っている。

無仏性の道は、何(何物とも表現できないもの仏性

という自己本来の面目を生き切ることだと言っている。

弘忍禅師の「仏性は、空であるから、無というのである

という言葉で明らかなのは空と無とは同じではないということである。

仏性が空であることを表現するに当り、

同じ内容を示して半斤とか、八両と言わずに、無といい切るのである。

空であるから、空と言わず、無であるから、無とは言わないのである。

仏性は、空であるから、無という。

したがって個々の瞬間、瞬間における何もないという体験は、空を表現する具体例であり、

概念的に表現できない空が無を説明する立札のようなものである。

ここにいう空とは、「色即是空」という場合の空ではない。

「色即是空」の意味は、色を無理矢理に規定して空とするのではない。

また空を分析して、色を構築したのでもない。

それは空是空という場合の空であると言えるだろう。

空是空という場合の空とは、空の中が一片の石で一杯であるという

淡々とした事実を指すのである。

従って仏性無と仏性空と仏性有とについて、

四祖道信禅師と五祖弘忍禅師とは互いに質疑・応答したのである。


コメント

ここでは仏性の、空と無の性質について議論している。

しかし、道元が生きた時代は脳科学が未だ無い時代であり、

仏性の本体である脳の性質や機能も分っていない。

あいまいな議論になるのは時代の制約のため仕方なかったと言うしかないだろう。



8

 第8文段


原文G


震旦第六祖曹渓山大鑑禅師、そのかみ黄梅山に参ぜしはじめ、

五祖とふ、

なんじいずれのところより来れる?」

六祖いはく、

嶺南人なり」。

五祖いはく、

きたりてなにごとをかもとむる?」

六祖いはく、

作仏をもとむ」。

五祖いはく、

嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん」。

この「嶺南人無仏性」といふ、嶺南人は仏性なしといふにあらず、

嶺南人は仏性ありといふにあらず、「嶺南人、無仏性」となり。

いかにしてか作仏せん」といふは、いかなる作仏をか期するといふなり。

おほよそ仏性の道理、あきらむる先達すくなし。

諸阿笈摩教および経論師のしるべきにあらず。

仏祖の児孫のみ単伝するなり。

仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、

成仏よりのちに具足するなり。

仏性かならず成仏と同参するなり。

この道理、よくよく参究功夫すべし。三二十年も功夫参学すべし。

十聖三賢のあきらむるところにあらず。

衆生有仏性、衆生無仏性と道取する、この道理なり。

成仏以来に具足する法なりと参学する正的なり。

かくのごとく学せざるは仏法にあらざるべし。

かくのごとく学せずは、仏法あへて今日にいたるべからず。

からず。もしこの道理あきらめざるには、成仏をあきらめず、見聞せざるなり。

このゆゑに、五祖は向他道するに、「嶺南人、無仏性」と為道するなり。

見仏聞法の最初に、難得難聞なるは「衆生無仏性」なり。

或従知識、或従経巻するに、きくことのよろこぶべきは衆生無仏性なり。

一切衆生無仏性を見聞覚知に参飽せざるものは、仏性いまだ見聞覚知せざるなり。

六祖もはら作仏をもとむるに、五祖よく六祖を作仏せしむるに、他の道取なし、

善巧なし。

ただ「嶺南人、無仏性」といふ。

しるべし、無仏性の道取聞取、これ作仏の直道なりといふことを。

しかあれば、無仏性の正当恁麼時すなはち作仏なり。

無仏性いまだ見聞せず、道取せざるは、いまだ作仏せざるなり。

 六祖いはく、「人有南北なりとも、仏性無南北なり」。

この道取を挙して、句裏を功夫すべし。南北の言、まさに赤心に照顧すべし。

六祖道得の句に宗旨あり。いはゆる人は作仏すとも、

仏性は作仏すべからずといふ一隅の構得あり。

六祖これをしるやいなや。


注:

震且: 梵語Chinistanの音写。

インドにおいて中国を呼ぶ時の呼び名。 

曹渓山: 六祖大鑑慧能禅師が住んでいた山。

黄梅山:  五祖大満弘忍禅師が住んでいた山。

嶺南人:  嶺南の人という意味。嶺南は五嶺の南の地。

今の広東・広西および安南を指す。

作仏:  仏になること。

具足:   充分に具わっていること。

同参:   同時に生起し、同時に消滅すること。

十聖三賢:  大乗仏教で、菩薩の修行階位のうち、

聖位である十地(十聖)と、それ以前の十住・十行・十回向(三賢)のこと。

三賢十地。

密教その1,11−1を参照)。


正的:   本妻腹の嫡子。正嫡に同じ。ここでは正しい後継者の意。

向佗道(こうたどう):  他に向って発言すること。

為道:   言うこと、主張すること。

見仏聞法: 仏に会って、説法を聞くこと。 

難得難聞:  得がたく聞きがたいこと。

或従知識:   或る場合には僧侶に師事して仏法をたずねること。

或従経巻:  或る場合には経典を通じて仏法を学ぶこと。

参飽:  参はあずかる、参ずる。飽はあきる、充分である。

參飽は充分に参ずること。

善巧:   善はよい。巧はてだて、技術。善巧はよいてだて。

無仏性の正当恁麼時すなはち作仏なり。: 

無の仏性そのものになり切った時にすなわち成仏するのである。

仏性無南北: 仏性には、地域的な差別はない。

句裏:   言葉の内容。

赤心:  真っさらな心。赤裸々な心、真心、誠心、誠意。

照顧: 照らしかんがみること、心身を平静な状態に置いて省察すること。 

宗旨:   思想、趣旨。

一隅:   一つの局面。

構得(こうて):  考え、思考の成果。

一隅の構得あり:  一方で人を引き入れる意味を持っている。

人有南北:   人間には南方の出身者とか北方の出身者

とかの区別があるという意味。 

ケイ礙(けいげ):  転法輪の略。説法をすること。

転法:   転法輪の略。説法をすること。

嗣法:   仏法を継承すること。ここでは直接の関係を持つという意味。

 その人: 仏法の真理探究の素質を具えた人。

倉卒:  軽卒、あわてるさま。

諸無の無:  個々の具体的な事例における「無」という事実。

ロウロク: 水中のものをさぐりすくい取る。

 ロウ波子:    魚をすくい取る道具。

拈放(ねんぽう):  ある対象をとり上げたり放棄したりして、

再三再四検討すること。

質礙(ぜつげ): 物質によってさえられるという意味。

物質であるが故に諸種の区別が生まれること。

虚融(こゆう):  空虚で、融通無碍。

 推度(すいたく):  推察、推量。

 無分:  得分のないこと、録のないこと。

愚蒙:  おろかで道理に暗いこと。 

邪解:   誤った理解の仕方。

措却: なげすてること。

直須:  直接の道。 直接におもむくこと。

ここでは坐禅を通して直接実体に触れること。



第8文段の現代語訳

中国禅の第六祖慧能禅師が、かつて黄梅山において弘忍禅師に師事した時、

弘忍禅師は言った、

お前は何処からやって来たのか?」

慧能は言った、

私は嶺南の出身です。」

  弘忍は言った、

この山にやって来て、何をしたいのか?」

六祖は言った、

仏になりたいのです」と。

弘忍は言った、

嶺南の人は無仏性である。どうして仏になることができようか」。

この「嶺南の人は、無仏性そのものである」という言葉は、

嶺南の人には、仏性がないといっているのでもなければ、

嶺南の人には、仏性があるといっているのでもない。

ただ嶺南の人は、無仏性そのものだ」といっているのである。

どうして仏になることができよう。」という

言葉の意味は、一体どのような仏になることを期待しているのかという意味である。

およそ、仏性の道理を明らかにしている指導者は少ない。

さまざまの阿含仏教や経論師たちによって知ることはできない。

釈尊の法孫たちによってのみ、一系に伝承されたものである。

仏性は、その人が成仏する以前から具わっていた訳ではなく、

成仏してから後に、具わるのである。

すなわち仏性は、人が成仏すると同時に生まれるのである。

この道理をよくよく参究工夫すべきである。

三十年、二十年というような長期にわたって工夫参学すべきである。

この道理は仏を目指す途中の十聖三賢の菩薩でも、明らかにすることはできない。

また衆生有仏性とか、衆生無仏性とかというのも、上記の道理によるものである。

仏性は、成仏して以後具わる性質であると学ぶことが正しく的を得た考えである。

このように学ばない理論は、仏法ではないだろう。

またもしこのように学ばなかったならば、

仏法が今日まで伝わることはなかったであろう。

もしこの道理を明らかにしないならば、成仏を解明しないことであり、

見聞しないことである。

このような理由から、弘忍禅師は慧能に対して、

嶺南の人は無仏性である。」と言ったのである。

仏に会って、仏法を聴聞する時に、得がたく聞きがたいものは、

衆生無仏性」という言葉である。

あるいは高僧に従い、あるいは経典の教えに従って仏法を学んで行く時に、

聞くのがよろこばしいのは「衆生無仏性」という主張である。

一切衆生無仏性」という主張を見聞覚知し充分身に着けていない者は

まだ「仏性」を見聞覚知していないのである。

六祖慧能がひたすら作仏を求めた時に、

五祖弘忍禅師が六祖慧能禅師を仏にできたのは、

別の主張や、特別の巧みな手段などを使わなかった。

ただ「嶺南の人は無仏性である。」と言ったのである。

「無仏性」を主張をしたり聴聞することが、

成仏のための真接の道であるということを銘記すべきである。

したがって無仏性の無が仏性そのものであるとなり切っているまさにその時に、

人は仏となるのである。

「無仏性」をまだ見聞したり、主張もしない人は、まだ仏となっていないのである。

六祖の「人には南北の出身の違いはあるが、仏性には南、北の違いはない。」

という主張をとりあげて、その内容に立ち入って考えてみるべきである。

南とか、北とかいう言葉について、まっさらな心で平静に考えて見るべきである。

六祖が言った言葉には重要な意味がある。

ここで慧能禅師は人は仏となるが、仏性が仏になることはありえないという、

これは一つの考えである。

しかし、慧能禅師自身はこれを意識して知っておられたであろうか。



 第8文段の解釈とコメント

   

中国禅の第六祖慧能禅師が、かつて黄梅山において弘忍禅師に師事した時、

弘忍禅師は言った、

お前は何処からやって来たのか?」

慧能は言った、

私は嶺南の出身です。」

  弘忍は言った、

この山にやって来て、何をしたいのか?」

六祖は言った、

仏になりたいのです」と。

弘忍は言った、

嶺南の人は無仏性である。どうして仏になることができようか」。

この「嶺南の人は、無仏性そのものである」という言葉は、

嶺南の人には、仏性がないといっているのでもなければ、

嶺南の人には、仏性があるといっているのでもない。

ただ嶺南の人は、無仏性そのものだ」といっているのである。

どうして仏になることができよう。」という

言葉の意味は、一体どのような仏になることを期待しているのかという意味である。

およそ、仏性の道理を明らかにしている指導者は少ない。

さまざまの阿含仏教や経論師たちによって知ることはできない。

釈尊の法孫たちによってのみ、一系に伝承されたものである。

仏性は、その人が成仏する以前から具わっていた訳ではなく、

成仏してから後に、具わるのである。

すなわち仏性は、人が成仏すると同時に生まれるのである。

この道理をよくよく参究工夫すべきである。

三十年、二十年というような長期にわたって工夫参学すべきである。

この道理は仏を目指す途中の十聖三賢の菩薩でも、明らかにすることはできない。

また衆生有仏性とか、衆生無仏性とかというのも、上記の道理によるものである。

仏性は、成仏して以後具わる性質であると学ぶことが正しく的を得た考えである。

このように学ばない理論は、仏法ではないだろう。


コメント

この文段で道元は

仏性は、成仏して以後具わる性質であると学ぶことが正しく的を得た考えである。」

と主張している。

この考え方を図9に示す。


図9

図9  仏性は、その人が成仏する以前から具わっていた訳ではなく、

成仏してから後に、具わる。

   

図9において青色で修行者が無仏性である状態を示す。

悟りを開いて仏性が具わった状態を黄色で表している。

図9は修行者の時には仏性はまだ無いが、

修行者が悟りを開いて成仏すると仏性が具わることを表している。

我が国の臨済禅の白隠慧鶴禅師(1685〜1769)は

衆生本来仏なり」と考え、

衆生は本来仏性を具有していると主張している。


(白隠禅師の「坐禅和讃」を参照)。

白隠慧鶴禅師は坐禅修行によって、清浄な本具の仏性を覚知することによって、

見性成仏すると考えているのである。

この考え方を図10に示す。


図10

図10  衆生誰もが本来具有する仏性を参禅修行をすることによって、

覚知し、見性成仏する。

   

図10に示したように、白隠禅師は「衆生は本来仏性を具有している

と考える。これに対し道元禅師は

 「仏性は、その人が成仏する以前から具わっていた訳ではなく、

仏性は成仏してから後に、具わる」と考えている。

道元禅師と白隠禅師の考え方は全く違うのが注目される。

(白隠禅師の「坐禅和讃」を参照)。

道元禅師の考えは六祖慧能の自性(仏性)の考え方とも異なる。

自性を見ることによって成仏する見性成仏の考えは六祖慧能に由来する。

(禅の思想1 慧能の<自性>の思想を参照)。

図10に示すように、衆生は本来仏である。

誰でも生れた時から仏性(下層脳を中心とする生命情動脳)を具有しているからである。

誰でも参禅修行することによって得られる明浄妙心(健康な脳)

を覚知することで成仏することができる。

この考え方は図9に示した道元の考え方と異なる。

成仏以前であっても、衆生は誰でも本来的に仏性を具有していると考えるからである。

このように、白隠禅師の考えは

 「仏性は、その人が成仏する以前から具わっていた訳ではなく

成仏してから後に、具わる

と考える道元禅師の考えと全く違う。

(白隠禅師の「坐禅和讃」を参照)。

道元禅師の考えは六祖慧能の自性(仏性)の考え方とも異なる。

自性を見ることによって成仏する見性成仏の考えは六祖慧能に起源がある。

禅の思想1 慧能の<自性>の思想を参照)。

六祖慧能は、自性は本質的に仏であり、法身仏、報身仏、化身仏の

性質を具有する三身仏であると考える(一体三身の自性仏)。

慧能にとって見性とは自性を悟り、

一体三身の自性仏」を見る(悟る、覚知する)ことである。

六祖壇経2 「5.1 自性の三身仏」を参照)。

慧能の見性成仏の考え方を図11に示す。


図11

図11 参禅修行によって、「自性は一体三身の自性仏である」ことを覚知して、

見性成仏する。

   

慧能は言う、

清浄なる法身仏、円満なる報身仏、千百億化身仏は自性の中に具備されている

ことさら外に三身仏を求める必要はない。」

このように、六祖慧能は「六祖壇経」において、

我々の自性中には三身仏(法身仏、報身仏、化身仏)の能力が内在している

と主張している。

六祖慧能「六祖壇経ー自性の三身仏」 を参照



六祖壇経2 「5.1「一体三身の自性仏」の思想を参照)。


大乗涅槃経の有名な経文「一切衆生悉有仏性」は

一切の衆生は悉く仏性を具有していると言っている

と考えられるので、

図9に示した道元の独自の主張は非常に注目される。

道元の独自の主張は衆生は本来的に仏性を具有するとする

臨済禅の考えと異なる考え方である。

日本の曹洞宗では見性を嫌ったり否定する傾向がある。

それはこのあたりに由来するのだろうか。





またもしこのように学ばなかったならば、

仏法が今日まで伝わることはなかったであろう。

もしこの道理を明らかにしないならば、成仏を解明しないことであり、

見聞しないことである。

このような理由から、弘忍禅師は慧能に対して、

嶺南の人は無仏性である。」と言ったのである。

仏に会って、仏法を聴聞する時に、得がたく聞きがたいものは、

衆生無仏性」という言葉である。

あるいは高僧に従い、あるいは経典の教えに従って仏法を学んで行く時に、

聞くのがよろこばしいのは「衆生無仏性」という主張である。

一切衆生無仏性」という主張を見聞覚知し充分身に着けていない者は

まだ「仏性」を見聞覚知していないのである。

六祖慧能がひたすら作仏を求めた時に、

五祖弘忍禅師が六祖慧能禅師を仏にできたのは、

別の主張や、特別の巧みな手段などを使わず、

ただ「嶺南の人は無仏性である。」と言ったためである。

無仏性」を主張をしたり聴聞することが、

成仏のための真接の道であるということを銘記すべきである。

したがって無仏性の無が仏性そのものであるとなり切っているまさにその時に、

人は仏となるのである。

「無仏性」をまだ見聞したり、主張もしない人は、まだ仏となっていないのである。

六祖の「人には南北の出身の違いはあるが、仏性には南、北の違いはない。」

という主張をとりあげて、その内容に立ち入って考えてみるべきである。

南とか、北とかいう言葉について、まっさらな心で平静に考えて見るべきである。

六祖が言った言葉には重要な意味がある。

ここで慧能禅師は人は仏となるが、仏性が仏になることはありえないという、

これは一つの考えである。

しかし、慧能禅師自身はこれを意識して知っておられたであろうか。


コメント

六祖壇経には六祖慧能と五祖弘忍との問答がある。

しかし、六祖壇経での六祖慧能と五祖弘忍との問答は

道元が正法眼蔵「仏性」において紹介している問答とかなり異なる。

「六祖壇経」での六祖慧能と五祖弘忍との問答は以下のようである。

五祖は聞いた、

お前は一体どこの者か?この山に私に会いに来て、私の所で何を欲しいのか?」

慧能は答えて云った、

私は嶺南新州の百姓です。はるばると師にお目にかかりにまいりました

ただただ仏になりたいだけで、ほかのことは望みません。」

五祖は言った、

お前はこれ嶺南の人間で、カツリョウだ。どうして仏になることができようか。」

慧能は言った、

人には南と北の区別がありますが、仏性にはもともと南北の区別なぞありません

カツリョウといういやしい身分は和尚さまと違いますが

仏性には何の差別もありません。」

この問答においてカツリョウという言葉が出て来る。

カツリョウとは 中国を離れた辺鄙に住む野蛮人という意味である。

  北方の中国人が南方の人をいやしんで言う言葉である。

五祖が、

お前はこれ嶺南の人間で、辺鄙な田舎に住む野蛮人だ

どうして仏になることができようか。」

と慧能を見下して言ったのである。

これに対し、慧能は、

人には南と北の区別がありますが、仏性にはもともと南北の区別なぞありません

辺鄙な田舎に住む野蛮人といういやしい身分は和尚さまと違いますが

仏性には何の差別もありません。」

と衆生に具わる仏性には何処に住もうと地域差などはないと反論したのである。

六祖壇経1「2.2 五祖との問答」を参照)。

道元は以上の五祖との問答を引用し、

そこに出て来る「カツリョウ」という言葉を「「無仏性

という言葉に置き換えていることが分かる。

五祖との問答に出て来る「カツリョウ」という言葉を

無仏性」という言葉に置き換えることによって

新しい意味付けをしているのである。









     

参考文献など:



1.道元著 水野弥穂子校註、岩波書店、岩波文庫、「正法眼蔵(一)」1992年

2.安谷白雲著、春秋社、正法眼蔵参究 仏性 1972年

3.西嶋和夫訳著、仏教社、現代語訳正法眼蔵 仏性 第四巻



トップページへ




ページの先頭へ戻る

「仏性・2」へ