2019年8月25日〜10月7日  2022年5月20日     top

仏性・2

   
数

『正法眼蔵』「仏性」について



正法眼蔵「仏性」の巻は「弁道話」と「現成公案」と併せて正法眼蔵の中では

特に大切な巻とされている。

「仏性」の巻では、仏性すなわち仏の性質について、その真意を説いている。

道元禅師の立場では、仏性とは心・意・識といったような精神に関連するものではない。

また草木の種のように時間の経過と共に成長して行く性質のものでもない。

それはわれわれの行為において顕現する、時節因縁(時間および空間や条件)の一切だと考えられている。

本巻の冒頭部分で「悉有は仏性なり」と述べているのはこの意味だと考えることができる。

したがって「われわれは本来仏としての性質を具有している(有仏性)」

という主張も一面の真理であるが、すべてを尽すものではない。

また、「われわれは本来仏としての性質を具有してはいない(無仏性)」

という主張も一面の真理である。

しかしこれらはいずれも一面の真理を述べたもので、すべてをいい尽してはいない。

そこで「<有るとか無いとか>つまらぬことは考えるな(莫妄想)」

という教えも出て来る。

道元禅師はこれらの消息およびその発展を、釈尊→龍樹尊者→迦那提婆尊者→

中国禅の四祖道信→五祖弘忍→六祖慧能→塩官斉安禅師→大イ大円禅師→

百丈懐海禅師→南泉普願禅師→趙州禅師→長沙景岑禅師

などの言葉を引用しながら縦横に説いている。 

ここでは長大な「仏性」の巻を22文段に分け、

「仏性・1」では第1文段〜第8文段までを、

「仏性・2」では第9文段〜第16文段までを、

「仏性・3」では第17文段〜第22文段までを、

合理的(科学的)立場に立って分かり易く解説したい。



9

 第9文段


原文H


四祖五祖の道取する無仏性の道得、はるかにケイ礙の力量ある一隅をうけて、

迦葉仏および釈迦牟尼仏等の諸仏は、作仏し転法するに、

悉有仏性」と道取する力量あるなり。

悉有の有、なんぞ無無の無に嗣法せざらん。

しかあれば、無仏性の語、はるかに四祖五祖の室よりきこゆるなり。

このとき六祖その人ならば。この無仏性の語を功夫すべきなり。

有無の無はしばらくおく、いかならんかこれ仏性」と問取すべし。

たにものかこれ仏性」とたづぬべし。

いまの人も仏性とききぬれば、「いかなるかこれ仏性」と関取せず、

仏性の有無等の義をいふがごとし、これ倉卒なり。

しかあれば諸無の無は、無仏性の無に学すべし。

六祖の道取する「人有南北、仏性無南北」の道、ひさしくロウロクすべし。

まさにロウ波子に力量あるべきなり。

六祖の道取する「人有南北、仏性無南北」の道、しずかに拈放すべし。

おろかなるやからおもわくは、人間には質礙すれば南北あれども、

仏性は虚融にして南北の論におよばずと、

六祖は道取せりけるかと推度するは、無分の愚蒙なるべし。

この邪解を抛却して、直須勤学すべし。


注:

ケイ礙:  さまたげること、ひっかかること。

転法:  転法輪の略。説法をすること。

嗣法:  仏法を継承すること。ここでは直接の関係を持つという意味。

その人:   仏法の真理探究の素質を具えた人。

倉卒: 軽卒、あわてるさま。

諸無の無: 個々の具体的な事例における「無」という事実。

ロウロク: 水中のものをさぐりすくい取る。

ロウ波子: 魚をすくい取る道具。

拈放(ねんぽう):  ある対象をとり上げたり放棄したりして、

再三再四検討すること。

質礙(ぜつげ): 物質によってさえられるという意味。

物質であるが故に諸種の区別が生まれること。

虚融(こゆう):  空虚で、融通無碍。

推度(すいたく):  推察、推量。

無分: 得分のないこと、録のないこと。

愚蒙: おろかで道理に暗いこと。

邪解:  誤った理解の仕方。

措却:なげすてること。

直須: 直接の道。 直接におもむくこと。

ここでは坐禅を通して直接実体に触れること。



第9文段の現代語訳

四祖や五祖の「無仏性」という言葉はその遠い過去において、

迦葉仏や釈迦牟尼仏等の諸仏は古今の真実を言い尽くすことができる力量を持っていたため、

作仏し説法する際に、「悉有仏性」と言い切るだけの力量があったのである。

悉有」の有が、道信禅師や弘忍禅師の無仏性の無と、

どうして直接関係を持たないことがあろうか。

直接の関係があるからこそ、無仏性という言葉は、

道信禅師や弘忍禅師の部屋から、遠く今日まで響いて聞こえるのである。

上記の問答の際、もし慧能禅師のように、仏法の本筋を得た人であるならば、

この無仏性という言葉について、考えて参究すべきである。

有無の無はしばらくおく。いかならんかこれ仏性」というふうに質問すべきである。

何が一体仏性だ」とたずねるべきである。

また現代の人も、仏性という言葉を聞いても、

いかならんかこれ仏性」と問いかけることをしない。

仏性の有無を議論することがあるが、それは慌て者のすることである。

そうであれば、禅でいう色々な無は無仏性の無だと学ぶべきである。

六祖の「人には南の出身、北の出身と違いはあるが、仏性には南、北の違いはない。」

という主張については網ですくうように丁寧に考えるべきである。

そのようなことができるだけの力量を付けるべきである。

六祖の「人には南の出身、北の出身と違いはあるが、仏性には南、北の違いはない。」

という主張については静かにこれを取り上げ、多方面から検討するが良い。

愚かな連中が考えるには、人間には物質的な制約があるから、

南北の区別があるけれども、

仏性は、空虚であり融通無礙であるから、南北の区別を論ずる必要がないと。

単に抽象的に、六祖はいわれたと推察することは、

自己の本分が分かっていない愚かで蒙昧な連中のすることだと考えることができよう。

このような誤った理解を放擲して、直接坐禅に参じ、真理の探究に励むべきである。



第9文段の解釈とコメント


   

四祖や五祖の「無仏性」という言葉はその遠い過去において、

迦葉仏や釈迦牟尼仏等の諸仏は古今の真実を言い尽くすことが

できる力量を持っていたため、

作仏し説法する際に、「悉有仏性」と

言い切るだけの力量があったのである。

悉有」の有が、道信禅師や弘忍禅師の無仏性の無と、

どうして直接関係を持たないことがあろうか。

直接の関係があるからこそ、無仏性という言葉は、

道信禅師や弘忍禅師の部屋から、遠く今日まで響いて聞こえるのである。

上記の問答の際、もし慧能禅師のように、仏法の本筋を得た人であるならば、

この無仏性という言葉について、考えて参究すべきである。


コメント

無仏性」という言葉は「無という仏性」と捉え、

「無」とは下層脳(脳幹+大脳辺縁系)を中心とする生命情動脳だと考えれば

HP「禅と悟り」の結論と一致する。

禅と脳科学1を参照)。

禅の根本原理と応用」を参照)。

また、「無仏性」の「」を趙州の「」と考えれば、

「無門関」第一則「趙州狗子」と繋がる。

「無門関」第1則「趙州狗子」を参照)。

「有無の無はしばらくおく。

いかならんかこれ仏性」というふうに質問すべきである。

何が一体仏性だ」とたずねるべきである。

また現代の人も、仏性という言葉を聞いても、

いかならんかこれ仏性」と問いかけることをしない。

仏性の有無を議論することがあるが、それは慌て者のすることである。

そうであれば、禅でいう色々な無は無仏性の無だと学ぶべきである。


コメント

本HP「禅と悟り」の脳科学的結論による見性成仏への道は

次の図12によって簡単に説明することができる。


図12

図12 参禅修行によって、「仏性(=本源清浄心=健康な脳)」を覚知すれば、

見性成仏する。

   

六祖の「人には南の出身、北の出身と違いはあるが、仏性には南、北の違いはない。」

という主張については網ですくうように丁寧に考えるべきである。

そのようなことができるだけの力量を付けるべきである。

六祖の「人には南の出身、北の出身といろいろあるが、仏性には南、北の違いはない。」

という主張については静かにこれを取り上げ、多方面から検討するが良い。

愚かな連中が考えるには、人間には物質的な制約があるから、

南北の区別があるけれども、仏性は、空虚であり融通無礙であるから、

南北の区別を論ずる必要がないと。

単に抽象的に、六祖はいわれたと推察することは、自己の本分が分かっていない愚かで蒙昧な連中のすることだ

と考えることができよう。

六祖慧能は

人には南北や人種的制約はあるかも知れないが、仏性はそのような制約を超えた普遍的なものである

と言っているのだというような抽象的で誤った理解を放擲して、

直接坐禅に参じ、真理の探究に励むべきである。




10

 第10文段


原文I


六祖、門人行昌に示して云く、

無常は即ち仏性なり、有常は即 ち善悪一切諸法分別心なり

 いはゆる六祖道の無常は、外道二乗等の測度にあらず。

二乗外道の鼻祖鼻末それ無常なりといふとも、かれら窮尽すべからざるなり。

しかあれば、無常のみづから無常を説著、行著、証著せんは、みな無常なるべし。

今以現自身得度者、即現自身而為説法

(今、自身を現ずるを以て得度すべき者には、即ち自身を現じて而も為に法を説く)なり。

これ仏性なり。さらに或現長法身、或現短法身なるべし。

常聖これ無常なり、常凡これ無常なり。

常凡聖ならんは仏性なるべからず。

小量の愚見なるべし、測度の管見なるべし。

仏者小量身也、性者小量作也。

このゆゑに六祖道取す、

無常者仏性也(無常は仏性なり)」。

 常者未転なり。

未転といふは、たとひ能断と変ずとも、たとひ所断と化すれども、

かならずしも去来の蹤跡(しょうせき)にかかはれず、ゆゑに常なり。

 しかあれば、草木叢林の無常なる、すなはち仏性なり。

人物身心の無常なる、これ仏性なり。

国土山河の無常なる、これ仏性なるによりてなり。

阿獅多羅三貌三菩提これ仏性なるがゆゑに無常なり、

大般涅槃これ無常なるがゆゑに仏性なり。

もろもろの二乗の小見および経論師の三蔵等は、この六祖の道を驚疑怖畏すべし。

もし驚疑せんことは、魔外の類なり。


注:

六祖: 六祖慧能禅師(638−713)。

中国禅の第6祖で現代に連なる南宗禅(禅宗)の大成者。 

行昌:  六祖慧能禅師の弟子、江西志徹禅師の俗名。

無常: 生滅変化して移り変り、同じ状態に止まっていないこと。

有常: 無常の反対。恒常不変であること。

善悪一切諸法: 善とか悪とかという一切の存在。 

分別心: 事物を思惟し分別判断する主体。理性や知性。 

二乗: 声聞乗と縁覚乗。

測度: 人間的な推測。

鼻祖鼻末: 鼻祖は始祖、第一の祖先。

人体はまず鼻から形作られるという伝承と関係がある。

鼻末は鼻祖に対応して作られた言葉。

鼻祖鼻末は始祖もその他の末輩もという意味。

今以現自身得度者、即現自身而為説法:

今、自身を現じてもって得度すべきものには、

すなわち自身を現じて、ために法を説くという意味。

「妙法蓮華経、観世音菩薩普門品第二十五」の中に、類似の字句が多数見られる。

例えば、

大自在天の身を以て得度すべき者には、即ち大自在天の身を現じて法を説く

という経文がある。

この経文において、大自在天→自身と置き換えると、

自身を以て得度すべき者には、即ち自身を現じて法を説く」と同文になる。

観世音菩薩が自分自身の姿を現わすことによって、

真理を悟ることができるような人のためには、観世音菩薩自身の姿を現わすという意味である。

仏や菩薩が、その時、その時の環境に応じて、

もっとも相応しい姿を現わすことを指している。

長法身:   長は永劫を意味し、

長法身とは永却の相の下における実在の姿をいう。

短法身: 短は瞬間の意味で、

行為の瞬間において示現される実在の姿をいう。

常聖: 常に聖者である人。

常凡: 常に凡人である人。

常凡聖:常凡と常聖とを指す。

小量:  思考能力が小さいこと。

測度: 推察、思量。

管見: 管(くだ)の穴から豹を眺めると、

その皮の一つのまだらしか見えないように、視野の狭い立場から見たものの見方。

仏者小量身也:  仏とは、抽象的な茫漠とした存在ではなく、

せいぜい五尺か六尺程度の小さな身体の人をいうのである。 

性者小量作也:  性(本質、本性)はここでは仏性の意味。

性者小量作也とは、仏性は、永遠とか無限とかという大袈裟なものではなく、

具体的な人間が与えられた現在の瞬間において示現する

行為そのものに外ならないという意味。 

常者未転なり: 恒常とか永遠とかといわれるものも、

無常なものが転動する直前の状態をいうに過ぎない。 

能断:  能は積極を意味し、主体を表わす。

断は決断する、断定するの意で、行為の段階に突入することをいう。

能断は行為の主体。 

所断:  所は受身を意味し、客体を表わす。所断とは行為の客体。 

叢林(そうりん):  叢はくさむら。林ははやし。

特に、修行のための禅寺をいう。

魔外の類:  悪魔や外道のたぐい。

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい):

仏の最高の理想的な悟りのこと。無上正等覚などと訳され,

阿耨菩提 (あのくぼだい) などと省略される。

大般涅槃: 仏の寂静の悟り。大円寂。



第10文段の現代語訳

六祖慧能禅師が門人の行昌に説示して言った、

無常が仏性である

また有常は、善悪一切の物事を分析的に思惟する理性や知性のことである。」

 ここで六祖が言った無常とは、

外道や声聞や縁覚のような小乗仏教徒が推察し得るものではない。

声聞や縁覚のような二乗や外道や末輩も、無常というが、

彼らはその無常を究明することができないのである。

無常は.このように一切の事象に現われるものであるから、

無常が無常自身を説示し、実践し、証明するのも、すべて無常というべきであろう。

今、自身を現じてもって救うべきものには、

すなわち自身を現じて、ために法を説くことも無常の一つの現れである。

それこそが仏性である。

常に聖者の境涯にあるといっても、無常であり、

常に凡人の境涯にあっても、やはり無常である。

したがって常に凡人の境涯にあったり、

常に聖者の境涯にあることは、無常原理からありえないことである。

無常であるから仏性を具えている筈がないと考えるのは、

視野のせまい愚かな見方であり、

何事をも頭だけで考えていこうとする立場から来る狭小な見方である。

  仏は、せいぜい五尺か六尺の具体的な人間であり、

仏性とは、現在の瞬間における行為そのものに他ならない。

それ故に六祖慧能禅師は、「無常こそ、仏性である」と

言っているのである。

常住なるものは、変化しないものである。

未転ということは、一切の物事は、たとえ主観として現れるとしても、

あるいは客観として現れるとしても、

それは決して移り変りあとかたを残さないのである。

そのため常住であり永久不変なのである。

したがって草や木、草むらや林が無常で変化することこそ、仏性そのものである。

人物や身心が無常で変化することこそ、仏性そのものである。

国土や自然が無常であるのも、それが仏性を具えておればこそである。

最高の理想的な悟りも、それが仏性であるから、無常である。

釈尊が死去なされたのも、無常であればこそ、死去されたのであり、仏性である。

声聞や縁覚のような二乗や経論師などの三蔵法師達は、

この六祖の言葉を聞いた場合、驚き怖れるだろう。

もし驚き怖れるような者は、六祖の言葉が分からない悪魔や外道の類であろう。



第10文段の解釈とコメント


     

六祖慧能禅師が門人の行昌に説示して言った、

無常が仏性である

また有常は、善悪一切の物事を分析的に思惟する理性や知性のことである。」

 ここで六祖が言った無常とは、

外道や声聞や縁覚のような小乗仏教徒が推察し得るものではない。

声聞や縁覚のような二乗や外道や末輩も、無常というが、

彼らはその無常を究明することができないのである。

無常は.このように一切の事象に現われるものであるから、

無常が無常自身を説示し、実践し、証明するのも、すべて無常というべきであろう。

今、自身を現じてもって救うべきものには、

すなわち自身を現じて、ために法を説くことも無常の一つの現れである。

それこそが仏性である。


コメント

永嘉真覚の「証道歌」の第3文段には

諸行無常一切空、即ち是れ如来の大円覚

(諸行無常・一切空が如来の広大円満な悟りそのものだ)」

という言葉がある。

永嘉真覚が言うように、「諸行無常が如来の大円覚だと言えるならば、

無常が仏性である。」という主張の根拠となりえるかも知れない。

「証道歌」の第3文段を参照)。

仏教の三法印は「諸行無常諸法無我涅槃寂静」である。

三法印の「涅槃寂静」の境地を仏の世界だと考えれば、

無常」、「無我」を基礎にして

涅槃寂静」という仏の世界に到ることができる

と言っていると考えることができる。

原始仏教1三法印を参照)。

これは「無常」と「無我」が仏教の二大要素であると言っているに等しい。

六祖慧能の言葉「無常が仏性である。」

はそのことを言っていると考えることもできるだろう。

ここで言っていることを図示すると図13のようになるだろう。


図13

図13 「無常」の仏性、「無我」の悟りを基礎にして

「涅槃寂静」の仏の世界に到ることができる。

   

常に聖者の境涯にあるといっても、無常であり、

常に凡人の境涯にあっても、やはり無常である。

したがって常に凡人の境涯にあったり、常に聖者の境涯にあることは、

無常の原理からありえないことである。

無常であるから仏性を具えている筈がないと考えるのは、

視野のせまい愚かな見方であり、何事をも頭だけで考えていこうとする

立場から来る狭小な見方である。

  仏は、せいぜい五尺か六尺の具体的な人間であり、

仏性とは、現在の瞬間における行為そのものに他ならない。

それ故に六祖慧能禅師は、「無常こそ、仏性である」と

言っているのである。

常住なるものは、変化しないものである。

未転ということは、一切の物事は、たとえ主観として現れるとしても、

あるいは客観として現れるとしても、

それは決して移り変りあとかたを残さないのである。

そのため常住であり永久不変なのである。

したがって草や木、草むらや林が無常で変化することこそ、仏性そのものである。

人物や身心が無常で変化することこそ、仏性そのものである。

国土や自然が無常であるのも、それが仏性を具えておればこそである。

最高の理想的な悟りも、それが仏性であるから、無常である。

釈尊が死去なされたのも、無常であればこそ、死去されたのであり、仏性である。


コメント

常に聖者の境涯や凡人の境涯に居続けることは「無常原理」からありえないことである。

また、無常であるから凡夫も仏になることもできる。

無常であるから仏性を具えている筈がないと考えるのは、

視野のせまい愚かな見方で狭小な見方である。

釈尊が死去したのも、無常な仏性を持っていたからこそであり、

それが、仏性であると客観的に述べている。

六祖慧能の言葉「無常こそ、仏性である

を紹介するこの文段はユニークな文段となっている。



声聞や縁覚のような二乗や経論師などの三蔵法師達は

この六祖の言葉を聞いた場合、驚き怖れるだろう。

もし驚き怖れるような者は、六祖の言葉が分からない悪魔や外道の類であろう。




11

 第11文段


原文11

{第十四祖龍樹尊者、梵に那伽闘剌樹那(なあがりじゅな)と云ふ。

唐には龍樹また龍勝と云ふ、また龍猛と云ふ。 西天竺国の人なり。南天竺国に至る。

彼の国の人、多く福業を信ず。尊者、為に妙法を説く。

聞く者、たがいに謂って曰く、

人の福業有る、世間第一なり。徒に仏性を言ふ、誰か能く之を見たる。」

尊者日く、

汝、仏性を見んと欲はば、先づ須らく我慢を除くべし」。

彼人曰く、

仏性は大なりや小なりや」。

尊者曰く、

仏性は大に非ず小に非ず、広に非ず狭に非ず、福無く報無く、不死不生なり」。

彼、理の勝れたることを聞いて、悉く初心を廻らす。

尊者、また坐上に自在身を現ずること、満月輪の如し。

一切衆会、ただ法音のみを聞いて、師相を見ず。

彼の衆の中に、長者子迦那堤婆といふもの有り。

衆会に謂って曰く、

この相を識るや否や

衆会曰く、

而今我等目に未だ見ざる所、耳に聞く所無く、心に識る所無く、身に住する所無し

提婆曰く、

此れは是れ尊者、仏性の相を現して、以て我等に示す。何を以てか之を知る

蓋し、無相三昧は形満月の如くなるを以てなり。仏性の義は廓然虚明なり

言ひ訖(をは)るに、輪相即ち隱る。

また本座に居して、偈を説いて言く

身現円月相(身に円月相を現じ)

以表諸仏体(以て諸仏の体を表す)

説法無其形(説法其の形無し)

用弁非声色(用弁は声色に非ず)

しるべし、真箇の用弁は声色の即現にあらず。

真箇の説法は無其形なり。

尊者かつてひろく仏性を為説する、不可数量なり。

いまはしばらく一隅を略挙するなり。

汝仏性を見んと欲はば、先づ須らく我慢を除くべし」、

この為説の宗旨、すごさず弁肯すべし。

見はなきにあらず、その見これ除我慢なり。

我もひとつにあらず、慢も多般なり、除法また万差なるべし。

しかあれども、これらみな見仏性なり。眼見目覩にならふべし。


注:

第十四祖龍樹尊者: 第十四代目の仏教教団の指導者。梵語ではNagarjunaという。

150年〜250年頃の人。南インドのバラモン出身、

出家して小乗仏教か学んだが、後にヒマラヤ山に入って、

老比丘から大乗経典を教えられたという。

迦毘摩羅尊者の後継者。那伽開削樹那、龍勝、龍猛はいずれも龍樹尊者の異称。 

福業:   世俗的な幸福を目的とした行為。 

我慢:  自己の中心に常一主宰の我(アートマン)があると考え、

その我をよりどころとして、心が驕慢であること。

法音: 説法の声。

無相: 姿形の無い無の相。深い禅定に入った時の姿。

ここでは龍樹尊者が坐禅している姿。 

義:  意味内容。 

廓然虚明(かくねんこめい):  心に執すべき何物もなく、

虚空と同じように明々白白な状態。

用弁:   用は効用、弁は調弁。効力と機能。

声色:  声は音声、聴覚によって把え得るもの。

色は色彩、視覚によって把え得るもの。聴覚や視覚によって把えられるもの。

真箇:   まこと。ほんとう、全く。

即現:   即は今日唯今。即現とは目の前における具体的な発現。

為説:   説を為すこと。説明を行なうこと。

不可数量:  数量的にかぞえることができないほどの量。

一隅:  一端。 

略挙:  省略した形で取り上げること。

弁肯(はんけん): 弁は弁別する。肯は肯定する、可とする。

検討を加え、肯定すること。自己の問題として納得すること。 

万差:   非常に多くの相違があること。

見仏性: 見は現に同じ。仏性を発揮すること。 

 眼見目覩(げんけんもくと):目で見ること。



第11文段の現代語訳

ブッダの法を嗣いだ14代目の祖、龍樹尊者は、

サンスクリット語での名前をナーガールジュナという。

中国唐では、龍樹・龍勝、また龍猛と呼ばれている。

西インドの人である。

龍樹尊者はある時、南インドに赴いた。

南インドでは、多くの人々は世俗的な幸福を求めていた。

そこで龍樹尊者は仏性について説いたが、人々は互いに顔を見合わせ訝かるばかりだった。

人々は言った、

人間の幸せでは世間的な幸福が第一です

仏性などと言ったところで、誰がそれを見ることができたでしょうか

そこで龍樹尊者は説いた、

仏性を見ようと思うなら

自分には常一主宰のアートマンがあるという考えを捨てなければならない

すると人々は訊ねた、

その考え方を捨てたら見えるという仏性は

大きいものなのですか? 小さいものですか?」

龍樹尊者は答えた、

仏性は大きいのでも、小さいのでもない

広いのでも、狭いのでもない

何か利益が得られるわけでもなく、良いことが起こるわけでもない

また、新たに生まれるのでも、消えてなくなるのでもない

そのようにして龍樹尊者が説く道理に優れた仏性の話を聞くうちに、

人々の心は徐々に変化していった。

すると龍樹尊者は、人々の前で坐禅を組み、仏性を自分の体で体現してみせた。

その姿は満月のように欠くところのない完全な姿であった。

しかし人々は、仏性の話を聞くだけで、

坐禅をする龍樹尊者の姿に仏性を見出すまでにはいたらなかった。

人々のなかに、長者の家の子である迦那提婆(かなだいば)という人がいた。

彼は龍樹尊者の姿を見ると、人々に対してこう訊ねた。

尊者の姿の意味が、誰かわかりますか?」

人々は答えた、

今まで見たことのない姿であり、聞いたこともない姿であり、まったく知りせん

そこで迦那提婆は次のように言った、

尊者は坐禅を組んで、我々に仏性というものを私たちに見せている

どうしてそれが分かるかというと

坐禅を組んで無相三昧に入った尊者の姿は満月のように素晴らしいからである

仏性とは、なんら執着の対象となるものではなく

虚空のように掴み所がなくとも、はっきりと存在する明らかなものだからである。」

迦那提婆がそう言い終わると、龍樹尊者の満月のような姿はたちまち隠れ、

龍樹尊者は坐禅を解いて、本来の座に普通に坐っていた。

そこで龍樹尊者は、短い偈を詠んだ。

この身に満月の姿を現すことによって仏の姿を表す

 真の説法にはきまった形式はなく五感の対象でもない

銘記せよ。

仏性に関する真の効用ならびに機能は、

視覚や聴覚によって把えられて、現われるものではない。

また真の説法には、きまった形はないのである。

龍樹尊者が過去に多くの場所で仏性を説法した回数は、ほとんど数え切れない。

いまはその一例を挙げたに過ぎない。

お前がもし仏性を見たいと思うならば

まず自分自身に内在すると思っている我(アートマン)を否定し

その我が増長するのを防がなければならない。」

この主張を、見過ごすことなく、検討を加え判断を下さなければならない。

この思想においても一つの基本的立場(見)がない訳ではない。

その立場は、自我や慢心の否定である。

自我も一つではない。慢心にもいろいろな種類がある。

またこれを取り除く方法も千差万別である。

しかしながら、これらの自我とか慢心を取り除く方法のすべてが、仏性の発現と繋がっている。

したがってこれらを観察する際には、われわれが通常眼で物を見、

目で物を見る時と同じように先入見を持たずに、見るべきである。



第11文段の解釈とコメント

   

ブッダの法を嗣いだ14代目の祖、龍樹尊者は、

サンスクリット語での名前をナーガールジュナという。

中国唐では、龍樹・龍勝、また龍猛と呼ばれている。

西インドの人である。

龍樹尊者はある時、南インドに赴いた。

南インドでは、多くの人々は世俗的な幸福を求めていた。

そこで龍樹尊者は仏性について説いたが、人々は互いに顔を見合わせ訝かるばかりだった。

人々は言った、

人間の幸せでは世間的な幸福が第一です

仏性などと言ったところで、誰がそれを見ることができたでしょうか

そこで龍樹尊者は説いた、

仏性を見ようと思うなら

自分には常一主宰のアートマンがあるという考えを捨てなければならない

すると人々は訊ねた、

その考え方を捨てたら見えるという仏性は

大きいものなのですか? 小さいものですか?」

龍樹尊者は答えた、

仏性は大きいのでも、小さいのでもない

広いのでも、狭いのでもない

何か福徳が得られるわけでもなく、良いことが起こるわけでもない

また不死であり生まれるのでもない


コメント

そこで龍樹尊者の言葉、

仏性を見ようと思うなら、自分には常一主宰のアートマンがある

という考えを捨てなければならない

は常一主宰のアートマンを否定すること、即ち無我が仏性であることを説示している。

ブッダの悟りは五蘊無我にあるから、

この主張は合理的である。

原始仏教1,ブッダの五蘊無我の悟りを参照)。

第10文段では三法印「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」のうち、

慧能の言葉を引用して無常が仏性であると述べていた。

第10文段を参照)。

この第11文段では三法印のうち、無我が仏性であると述べている。

これも「涅槃寂静」が仏の世界だと考えると、

無常無我に基づいて「涅槃寂静」という仏の世界に至ると考えることができる。

このように考えると無常と無我は仏性だと考えることは合理的な考え方だと言えるだろう。

図13に三法印の無常、無我は仏性であることを図示する。


図13

図13 三法印のうち無常、無我は仏性である

   

図13は無常と無我に基づいて「涅槃寂静」という仏の世界に至ると考えると、

無常と無我は仏性だと考えることができる

ことを示している。




そのようにして龍樹尊者が説く道理に優れた仏性の話を聞くうちに、

人々の心は徐々に変化していった。

すると龍樹尊者は、人々の前で坐禅を組み、仏性を自分の体で体現してみせた。

その姿は満月のように欠くところのない完全な姿であった。

しかし人々は、仏性の話を聞くだけで、

坐禅をする龍樹尊者の姿に仏性を見出すまでにはいたらなかった。

人々のなかに、長者の家の子である迦那提婆(かなだいば)という人がいた。

彼は龍樹尊者の姿を見ると、人々に対してこう訊ねた。

尊者の姿の意味が、誰かわかりますか?」

人々は答えた、

今まで見たことのない姿であり、聞いたこともない姿であり、まったく知りせん

そこで迦那提婆は次のように言った、

尊者は坐禅を組んで、我々に仏性というものを私たちに見せている

どうしてそれが分かるかというと

坐禅を組んで無相三昧に入った尊者の姿は満月のように素晴らしいからである」。


コメント

迦那提婆は坐禅を組んで無相三昧に入った尊者の姿は仏性の一表現であると言っている。

図14に坐禅を組んで無相三昧に入った竜樹の姿を象徴的に示す。


図14

図14 坐禅を組んで無相三昧に入った龍樹の姿 

   

坐禅を組んで無相三昧に入るのは仏性の本体である脳の働きによる。

坐禅を組んで雑念を去って、無相三昧に入ることと仏性(健康な脳)の関係

を次の図15によって説明する。


図15

図15 坐禅を組み雑念を去って、深い無相三昧に入るのは

本体である仏性(本源清浄心=健康な脳)の一つの作用(働き)である。

   

仏性とは、なんら執着の対象となるものではなく

虚空のように掴み所がなくとも、はっきりと存在する明らかなものだからである。」

迦那提婆がそう言い終わると、龍樹尊者の満月のような姿はたちまち隠れ、

龍樹尊者は坐禅を解いて、本来の座に普通に坐っていた。

そこで龍樹尊者は、短い偈を詠んだ。

この身に満月の姿を現すことによって仏の姿を表す

 真の説法にはきまった形式はなく五感の対象でもない

銘記せよ。

仏性に関する真の効用ならびに機能は、

視覚や聴覚によって把えられて、現われるものではない。

また真の説法には、きまった形はないのである。


コメント

ここでは真の説法には、きまった形はなく、言葉によって説法をするだけが説法ではない。


坐禅を組み無相三昧に入るのも言葉を使わない立派な説法であるとを言っている。

龍樹尊者は坐禅を組み無相三昧に入ることで仏性の作用(働き)を示したが、

それは視覚や聴覚などの五官によって把えられるものではないと述べている。

その本質は図15によって示したように、脳科学によって説明することができる。

しかし、道元が生きて活躍した鎌倉時代にはまだ脳科学はなく、

その本質を説明することはできなかった。

そのため、禅の世界は不立文字というしかなかったのである。

龍樹尊者が過去に多くの場所で仏性を説法した回数は、ほとんど数え切れない。

いまはその一例を挙げたに過ぎない。

お前がもし仏性を見たいと思うならば

まず自分自身に内在すると思っている我(アートマン)を否定し

その我が増長するのを防がなければならない。」

この主張を、見過ごすことなく、検討を加え判断を下さなければならない。

この思想においても一つの基本的立場(見)がない訳ではない。

その立場は、自我や慢心の否定である。

自我も一つではない。慢心にもいろいろな種類がある。

またこれを取り除く方法も千差万別である。

しかしながら、これらの自我とか慢心を取り除く方法のすべてが、仏性の発現と繋がっている。

アートマンの概念については原始仏教1「アートマンについて」を参照されたい。

原始仏教1、「アートマンについて」を参照)。


コメント

仏性である無我の境地に至るためには、我(アートマン)や慢心を様々な方法によって取り除き、

仏性を発現すべきだと述べている。

その仏性を見るといっても、特別な方法があるわけではない。

したがってこれらを観察する際には、われわれが通常眼で物を見、

目で物を見る時と同じように先入見を持たずに、見るべきである。






12

 第12文段


原文12

「仏性非大非小」等の道取、よのつねの凡夫二乗に例諸することなかれ。

偏枯に仏性は広大ならんとのみおもへる、邪念をたくはへきたるなり。

大にあらず小にあらざらん正当恁麼時の道取にケイ礙せられん道理、

いま聴取するがごとく思量すべきなり。

思量なる聴取を使得するがゆゑに。

しばらく尊者の道著する偈を聞取すべし、いはゆる「身現円月相、以表諸仏体」なり。

すでに「諸仏体」を以表しきたれる「身現」なるがゆゑに、「円月相」なり。

しかあれば一切の長短方円、この身現に学習すべし。

身と現とに転疎なるは、円月相にくらきのみにあらず、諸仏体にあらざるなり。

愚者おもはく、尊者かりに化身を現ぜるを円月相といふとおもふは、

仏道を相承せざる党類の邪念なり。

いづれのところのいづれのときか、非身の佗現ならん。

まさにしるべし、このとき尊者は高座せるのみなり。

身現の儀は、いまのたれ人も坐せるがごとくありしなり。

この身、これ円月相現なり。

身現は方円にあらず、有無にあらず、穏顕にあらず、

八万四千蘊にあらず、ただ身現なり。

円月相といふ、這裏是甚麼所在、説細説ソ月なり

(這裏是れ甚麼の所在ぞ、細と説きソと説く月なり)。

この身現は、先須除我慢なるがゆゑに、龍樹にあらず、諸仏体なり。

以表するがゆゑに、諸仏体を透脱す。

しかあるがゆゑに、仏辺にかかはれず。

仏性の満月を形如する虚明ありとも、円月相を排列するにあらず。

いはんや用弁も声色にあらず、身現も色身にあらず、蘊処界にあらず、

蘊処界に一似なりといへども以表なり、諸仏体なり。

これ説法蘊なり、それ無其形なり。

無其形さらに無相三昧なるとき身現なり。

一衆いま円月相を望見すといへども、目所未見なるは、説法蘊の転機なり、

現自在身の非声色なり。

即隠、即現は輪相の進歩退歩なり。

復於座上現自在身の正当恁麼時は、「一切衆会、唯聞法音」するなり、

「不覩師相」なるなり。


注:

例諸:  例はたとえる。

例諸とは多くの違ったものを一緒にして取り扱うこと。

偏枯(へんこ): 半身がしびれて自由でないこと。

転じて一方にかたよってかたくななこと。 

転疎: うたた疎なりの意。ますます疎遠であること。

非身:  肉体以外のもの。

佗現: 自分ではなく自分以外のものが現われること。

這裏是甚麼所在(しゃりししもしょざい、這裏是れ甚麼所在(しゃりこれ何の所在ぞ):

現に今我々が立っているこの場所にいる者は何か。

細と説き、ソと説く: 繊細とか粗雑だと説く。

「這裏是甚麼所在、更に細と説き、ソと説く」は黄檗希運の言葉。

身現: 身体を出現させること。姿を現すこと。

以表: 「以表諸仏体」の上二字をとって名詞としたもの。

・・・によって表すの意。

形如:  形如満月という言葉の上二字をとって、名詞としたもの。

形が似ていて、寸分違わぬこと。 

虚明:   虚はむなしい、概念的に表現しがたいの意。

明は明々白々。

虚明とは概念的に表現することは困難であるが、明々白々であることをいう。

色身: 色は感覚によって把え得るもの、物質のこと。

色身とは物質的な側面から見た身体、肉体。 

蘊処界: 五蘊と十二処と十八界。心身とそれを取り巻く外界のこと。

原始仏教2、仏教の認識論、十八界の概念を参照)。

五蘊(ごうん):   色、受、想、行、識の世界。

個人存在を構成する心身すべての世界。

原始仏教1、原始仏教の五蘊説を参照)。

一似: 全く似ていること。一は完全の意。

説法蘊:  真実を説く説法の集まり。 

無其形:  これといった定まった姿をもたないこと。

無相三昧: 深い無相の禅定。ここでは坐禅している姿。

一衆:  その席に居合せたすべての人々。一は全の意。

目所未見:  今まで見たことがないこと。

非声色: 感覚の対象ではないこと。

転機: 機は現在の瞬間。転機とは現在の瞬間における変化。

即隠即現:  ある時はかくれ、ある時は出現すること。

即隠即現は、輪相の進歩退歩なり: 隠れたり、現れたりすることは

円月相のさまざまなすがたである。

不覩師相(ふとしそう):  師の姿を見ることがなかったこと。



第12文段の現代語訳

仏性は大きいものでも、小さいものでもない」と龍樹尊者は言ったが、

これを世間一般の常識でとらえたり、

声聞・縁覚のたぐいの人々と同じ見識で解釈したりしてはいけない。

人は往々にして、自分の理解を超えたものを

「広大なもの」とかたくなに考えるのは、

真実を知ろうと考える精神を放棄した、邪な考えと言わざるをえない。

大きいのでもなく、小さいのでもないと言う、まさにその言葉そのものの真意を、

聴いた通りに受け取るべきである。

何故ならそれによって我々は充分な思索による聴取として

それを活用できるからである。

さし当り、龍樹尊者がいわれた偈について聞いて見よう。

それは龍樹尊者が説いた

身体によって満月の姿を現わし、それによって諸仏の姿を示した。」

という言葉についてである。

龍樹尊者が黙って坐っている姿は、

すでに諸仏と同じ姿を龍樹尊者の身体を通して表わした身現だからこそ、

満月の姿になるのである。

したがって一切の事物における長、短や、方、円という問題も、

この身現を参考にして学ぶべきである。

また逆に身体とその発現との関係をおろそかにすることは、

龍樹尊者が示した円月相に対する理解が不充分であることを示すばかりでなく、

その人が諸仏の体でないことを示すものである。

愚かな連中が考えるように、龍樹尊者が一時、化身を現わしたことを、

円月相を現わしたと考えることは、

仏法を正しく伝承していない連中の誤った考えに過ぎない。

一体どのような場所、どのような時点において、

人間以外の姿の出現という狸の芸当のようなことがあろうか。

まさに銘記すべきである。

このとき龍樹尊者は高い座席で坐禅をしていただけである。

身体を現わしていた時の姿は、現代の誰もが坐禅している場合と同じ姿を示していたのである。

このわれわれの持つ身体そのものが、円月相の発現である。

身現は、四角いとか円とかでなく、有無とか隠顕ともいえない。

またこの世にある無数の物質の集まり(八万四千蘊)ともいえず、それはただ身現である。

さらに「円月相」のという言葉についても、

黄粟希運禅師が「現に今我々が立っているこの場所にいる者は何か

という言葉で示そうとした絶対の実在であり、繊細と評し、粗大と評するとしても、 

それらの評言を超越して咬々と照り輝やく月の姿(円月相)に外ならないのである。

それが仏性である。

この身現は、まず自我と慢心を排除する立場であるから、

それは龍樹尊者ではなく、諸仏の体の発現である。

しかもそれは身体によって何物かを表現しているのであるから、

それは諸仏の姿をも超越している。

そうであるからそれは仏ということとも関係ない。

仏性には、満月にもたとえられる明々白々とした内容があるが、

だからといって具体的な満月の姿を陳列した訳ではない。

まして仏性における効用や機能は聴覚や視覚によって把え得るものではなく、

身体的表現も身心だけの出現ではなく、物質界における出来事でもない。

それは物質界における出来事と全く同じように見えるが、さらに何物かの表現なのである。

諸仏の身体そのものである。

それは真実を説く説法の集まりである。

それにはこれといった固定的な姿はない。

そして固定的な姿のない状態が、さらに坐禅を通して無相三昧になる時、身現と言える。

この場にいた全ての聴衆は龍樹尊者の「円月相」を遠くからながめたけれども、

まだ一度も見たことがないような姿として目に映ったことは、

龍樹尊者の説法の影響(転機)だろうし、

自分自身に安住した姿を現したことは非感覚的な働きといえるだろう。

ある時は隠れ、ある時は現われるということも

月の姿のその場その場の変化(進歩退歩)である。

そして尊者が再び自分の席で自分自身に安住した姿を現わし、

その有様はちょうど満月の姿のようであったその時、

その席にいた一切の聴衆は。ただ説法の声を聞くだけであり、

龍樹尊者の姿を眼で見ることはなかったのである。



第12文段の解釈とコメント

     

仏性は大きいものでも、小さいものでもない」と龍樹尊者は言ったが、

これを世間一般の常識でとらえたり、

声聞・縁覚のたぐいの人々と同じ見識で解釈したりしてはいけない。

人は往々にして、自分の理解を超えたものを

広大なもの」とかたくなに考えるのは、

真実を知ろうと考える精神を放棄した、邪な考えと言わざるをえない。

大きいのでもなく、小さいのでもないと言う、まさにその言葉そのものの真意を、

聴いた通りに受け取るべきである。


コメント

仏性は大きいものでも、小さいものでもない」と言った龍樹尊者の言葉通りに

素直に受け取るべきで、人は往々にして、

自分の理解を超えたものを「広大なもの」とかたくなに考えがちだが、

そのようにかたくなに考えるのは

真実を知ろうと考える精神を放棄した、邪な考えだと述べている。


   

何故ならそれによって我々は聴取したものについて充分な思索によって

活用できないからである。

さし当り、龍樹尊者が言った偈について聞いて見よう。

それは龍樹尊者が説いた

身体によって満月の姿を現わし、それによって諸仏の姿を表した。」

という言葉についてである。

龍樹尊者が黙って坐っている姿は、

すでに諸仏と同じ姿を龍樹尊者の身体を通して表わした身現だからこそ、

満月の姿になるのである。

したがって一切の事物における長、短や、方、円という問題も、

この身現を参考にして学ぶべきである。

また逆に身体とその発現との間の密接な関係が分かっていないのは、

龍樹尊者が示した円月相に対する理解が不充分であることを示すばかりでなく、

その人が諸仏の体でないことを示すものである。


コメント

龍樹尊者の偈「身体によって円月相を現わし、それによって諸仏の本体を表わす。」

という言葉は、

黙って坐っている姿はそのまま諸仏の本体である仏性の発現であり

円月相を現わしている。」と言っている。

これを図16によって説明する。


図16

図16  黙って坐禅を組み円月相を現すのは本体である仏性(本源清浄心=健康な脳)の作用(働き)である。


図16は「坐禅を組み円月相を現す」のは

本体としての仏性(本源清浄心=健康な脳)の作用(働き)であることを示しているので、

本体を仏性(本源清浄心)とし、作用(働き)を円月相とする<作用即姓>の思想を表している。


図16は、身体(脳)と仏性の発現との間の密接な関係があることを示している。

   

愚かな連中が考えるように、龍樹尊者がかりに、化身を現わしたことが、

円月相だと考えるのは、仏法を正しく伝承していない連中の誤った考えである。

一体どのような場所、どのような時に、

人間以外の姿の出現という狸の芸当のようなことがあり得ようか。


コメント

図16に示したように、坐禅を組み円月相を現すのは

仏性(本源清浄心=健康な脳)の作用(働き)であるのに、

円月相は龍樹尊者が化身を現わしたものだと考えるのは、

仏法を正しく伝承していない誤った考えだと述べている。

円月相は化身や狸の化け姿のような芸当のようなものでない。

坐禅修行者の普通の坐禅した時の姿である。


   

まさに銘記すべきである。このとき龍樹尊者は高い座席で坐禅をしていただけだ。

身体を現わしていた時の姿は、

現代の誰もが坐禅している場合と同じ姿を示していたのである。

このわれわれの持つ仏性(本源清浄心=健康な脳)そのものが、円月相を発現するのである。


コメント

ここで言っていることも図16を見ればよく分かる。

脳科学的観点から見れば

円月相の発現は何も特別の姿ではなく、坐禅修行者の普通の姿であることが分かる。






身現は、四角いとか円とかでなく、有無とか隠顕でもない。

またこの世にある無数の物質の集まり(八万四千蘊)ともいえず、それはただ身現である。

さらに「円月相」のという言葉についても、

黄粟希運禅師が「現に今我々が立っているこの場所にいる者は何か

丁寧だとか乱暴だとか言っているひまがどこにあるか。」

という言葉で示そうとした絶対の実在である。繊細と評し、粗大と評するとしても、 

それらの評言を超越して咬々と照り輝やく月の姿(円月相)に外ならないのである。

それが仏性である。


コメント

ここで道元は

這裏是甚麼所在、更説什麼ソ細

(ここはどんなところだと思って、荒っぽいとか細やかだと言うのか)」という

黄檗希運禅師の言葉を引用して議論している。

この言葉は「行持(上巻)」に出ている。

「行持上巻」、第31文段を参照)。

この身現は、すでに自我心と慢心を取り除き無我になっているから、

それは龍樹ではなく、諸仏の体の発現(仏性)である。

しかもそれは身体によって何物かを表現しているのであるから、

それは諸仏の姿をも超越している。

そうであるからそれは仏ということとも関係ない。

仏性は、実体はなくてもからりと明々白々としたものであるが、

だからといって円月相を陳列したようなものではない。

まして仏性の活効用や機能は聴覚や視覚によって把え得るものではなく、

身体的表現も身心だけの出現ではなく、物質界でもない。

それは物質界に似ているように見えるが、さらに何物かの表現なのである。

諸仏の身体そのものである。

それは真実を説く説法の集まりである。

それにはこれといった固定的な姿はない。

そして固定的な姿のない状態が、さらに坐禅を通して無相三昧になる時身現となるのである。


コメント

図15を見れば分かるように、

仏性の本体である健康な脳(本源清浄心)の働きによって

坐禅を通して無相三昧になる時、身現となるのである。

しかも、仏性の本体である健康な脳(本源清浄心)にはこれといった固定的な姿はなく、

文学的な研究によって捉えることはできない。

19〜20世紀の脳科学の劇的発展によって仏性の本体である健康な脳(本源清浄心)

の世界はかなりはっきりしてきたが、

禅の悟り(本源清浄心)との関係は未だ残された未知の世界と言えるだろう。


   

この場にいた全ての聴衆は龍樹尊者の「円月相」を遠くからながめたけれども、

まだ一度も見たことがないような姿として目に映ったことは、

龍樹尊者の説法の影響(転機)だろうし、

自分自身に安住した姿を現したことは非感覚的な働きといえるだろう。

ある時は隠れ、ある時は現われるということも

月の姿のその場その場の変化(進歩退歩)である。

そして尊者が再び自分の席で自分自身に安住した姿を現わし、

その有様はちょうど満月の姿のようであったその時、

その席にいた一切の聴衆は、ただ説法の声を聞くだけであり、

龍樹尊者の姿を眼で見ることはなかったのである。


コメント

上の3行では、龍樹が再び自分の席で自在身を現わした時、

一切の聴衆はただ説法の声を聞くだけであり

龍樹尊者の姿を眼で見ることはなかったのである」と、

龍樹の声は聞こえたが、その姿を眼で見ることはなかったと神秘的な表現をしている。

これは、説法を聞く時には説法を聞くことに集中していたため、

尊者の姿を眼で見る必要はなかったと

解釈されているようだが、そのような神秘的な設定をする必要があるかは疑問である。

一座の聴衆はただ説法を聞くことに集中していたため

尊者の姿を眼で見る必要はなかったと述べれば良いのではないだろうか。



1

 第13文段


原文13


尊者の嫡嗣、迦那提婆尊者、あきらかに満月相を識此し、円月相を識此し、

身現を識此し、諸仏性を識此し、諸仏体を識此せり。

入室潟瓶の衆、たとひおほしといへども、提婆と斉肩ならざるべし。

提婆は半座の尊なり、衆会の導師なり、全座の分座なり。

正法眼蔵無上大法を正伝せること、霊山に摩詞迦葉尊者の座元なりしがごとし。

龍樹未廻心のさき、外道の法にありしときの弟子おほかりしかども、みな謝遣しきたれり。

龍樹すでに仏祖となれりしときは、ひとり提婆を付法の正嫡として、大法眼蔵を正伝す。

これ無上仏道の単伝なり。

しかあるに僣偽の邪群、ままに自称すらく、

われらも龍樹大士の法嗣なり」。

論をつくり義をあつむる、おほく龍樹の手をかれり、龍樹の造にあらず。

むかしすてられし群徒の人天を惑乱するなり。

仏弟子は、ひとすぢに提婆の所伝にあらざらんは、龍樹の道にあらずとしるぺきなり。

これ正信得及なり。

しかあるに偽なりとしりながら稟受するものおほかり、

謗大般若の衆生の愚蒙、あはれみかなしむべし。

迦那提婆尊者、ちなみに龍樹尊者の身現をさして衆会につげていはく、

此れは是れ尊者、仏性の相を現じて、以て我等に示すなり

何を以てか之れを知る

蓋し、無相三昧は形満月の如くなるを以てなり

仏性の義は、廓然として虚明なり

 いま天上人間、大千法界に流布せる仏法を見聞せる前後の皮袋、たれか道取せる、

身現相は仏性なり」と。

大千界にはただ提婆尊者のみ道取せるなり。

余者はただ、仏性は眼見耳聞心識等にあらずとのみ道取するなり。

身現は仏性なりとしらざるゆゑに道取せざるなり。

祖師のをしむにあらざれども、眼耳ふさがれて見聞することあたはざるなり。

身識いまだおこらずして、了別することあたはざるなり。

無相三昧の形如満月なるを望見し礼拝するに、「目未所覩」なり。

「仏性之義、廓然虚明」なり。

しかあれば「身現」の説仏性なる虚明なり、廓然なり。

説仏性の身現なる以表諸仏体なり。

いづれの一仏二仏か、この以表を仏体せざらん。

仏体は身現なり。身現なる仏性あり。

四大五蘊と道取し会取する仏量・祖量もかへりて身現の造次なり。

すでに諸仏体といふ、蘊処界のかくのごとくなるなり。

一切の功徳、この功徳なり。

仏功徳はこの身現の究尽し、嚢括するなり。

 一切無量無辺の功徳の往来は、この身現の一造次なり。

 しかあるに、龍樹・提婆師資よりのち、三国の諸方にある前代後代、

ままに仏学する人物、いまだ龍樹・提婆のごとく道取せず。

いくばくの経師論師等か、仏祖の道を蹉過する。

大宋国むかしよりこの因縁を画せんとするに、身に画し心に画し、空に画し、

壁に画することあたはず、いたづらに筆頭に画するに、

法座上に如鏡なる一輪相を図して、いま龍樹の身現円月相とせり。

すでに数百歳の霜華も開落して、人眼の金屑をなさんとすれども、あやまるといふ人なし。

あはれむべし、万事の蹉陀たくのごときなる。

もし身現円月相は一輪相なりと会取せば、真箇の画餅一枚なり。

弄他せん、笑也笑殺人なるべし。

かなしむべし、大宋一国の在家・出家、いづれの一箇も、龍樹のことばをきかずしらず、

提婆の道を通ぜずみざること。

いはんや身現に親切ならんや。

円月にくらし、満月をキケツせり。これ稽古のおろそかなるなり、慕古いたらざるなり。

古仏・新仏、さらに真箇の身現にあふて、画餅を賞翫することなかれ。

しるべし、身現円月相の相を画せんには、法座上に身現相あるべし。

揚眉瞬目、それ端直なるべし。

皮肉骨髄正法眼蔵、かならず几坐すべきなり。

破顔微笑つたはるべし、作仏作祖するがゆゑに。

この画いまだ月相ならざるには、形如なし。

説法せず、声色なし、用弁なきなり。

もし身現をもとめば、円月相を図すべし。

円月相を図せば、円月相を図すべし、身現円月相なるがゆゑに。

円月相を図せんとき。満月相を図すべし、満月相を現ずべし。

しかあるを身現を画せず、円月を画せず、満月相を画せず、

諸仏体を図せず、以表を体せず、説法を図せず、いたづらに画餅一枚を図す。

用作什麼、これを急著眼看せん、たれか直至如今飽不飢ならん。

月は円形なり、円は身現なり。

円を学するに一枚銭のごとく学することなかれ、一枚餅に相似することなかれ。

身現円月身なり、形如満月形なり。

一枚銭、一枚餅は、円に学習すべし。


注:

識此:  具体的な事物(此)を認識すること。

入室:  師事する師匠の個室に入ること。

師匠の個室に入るということは、

仏法の悟りを得たことを師匠から特に承認されたことを象徴している。

潟瓶(しゃびょう): 潟はそそぐ。瓶は水や酒を入れる器、かめ。

潟瓶とはかめからかめへ水をそそぎうつすように、

師匠が自己の持っている仏法の悟りを、弟子に完全に伝えることをいう。

半座: 弟子の中の筆頭。

釈尊が摩訶迦葉尊者に対して席を半分ゆずったという故事から来ている。 

座元: 首座の異名。僧堂における座位の筆頭(元)を意味する。

未廻心:  廻心は心を転換すること、仏教に帰依すること。

未廻心はまだ仏教に帰依していないこと。

謝遺:  ことわって去らせること。破門すること。

僣偽: 僣は僣称。偽は虚偽。

分をこえて、偽りの身分を称すること。 

邪群: 正しくない連中。

正信得及:   正しく及び得たものを信じること。

正しい信じ方をする者だけが到達できる。

謗大般若: 謗は誹謗すること。大般若はブッダの偉大な知恵。

ブッダの偉大な知恵を誹謗すること。

大千世界:三千大千世界のこと。我々の住んでいる宇宙のこと。

大乗・1 三千大千世界を参照)。

皮袋: 皮の袋という意味。人間を皮の袋と比喩的に表現している。

身識: 身体の意識。

了別:了は了解。別は判別。

造次:  あわただしいさま、わずかのひま、現在の瞬間。

功徳: 功能福徳の意。善行の結果として報いられる果報。

ノウ括: ふくろに入れて、口をくくること。のこらず包摂すること。 

瑳過: すぎ去ること。ふみちがえること。

法座:  説法の座。

霜華:  霜を花になぞらえていう。冬の象徴。年月の経つこと。

金屑:  黄金の粉。

黄金の粉は非常に高価なものであるが、

誤って人の眼に入れば大きな害を与えることから、

本来価値のあるものでありながら、場合によって害になるものを例えていう。

瑳ダ:つまずいて、時機を失すること。

弄佗:  他を愚弄すること。

笑也笑殺人(しょうやしょうせつじん): 笑って、

あまりの滑稽さに笑いが止まらず、死んでしまいそうだの意。

稽古: いにしえを学ぶこと。

兀坐(ごつざ):  兀は動かないさま。不動の坐禅のこと。

破顔微笑:  釈尊が野の草を手にして、弟子たちに無言の質問をした時、

摩詞迦葉尊者が釈尊の真意を理解して、にっこりと微笑したと伝えられる故事。

「無門関」第6則「世尊拈花」を参照)。

作仏作祖: 仏となり、教団の指導者となること。

用作什麼(ようそしも):

それが一体何に役立つだろうか。 

急著眼看(きゅうちゃくげんかん):急きょ著眼して観察すること。

しっかり眼をつけて見るならば。

直至如今飽不飢(じきしにょこんほうふき、直に今に至るまで、飽いて飢えず):

大悟徹底という仏飯を食べたら、それで大安心、大満足できて、

欠乏感を持たない人になれるという意味。

一枚銭、一枚餅は円に学習すべし。:

銭が円いとか餅が円いとかいうのはこの円満の相を学んだのである。

そのような円満の円相を学ぶべきである。



第13文段の現代語訳

龍樹尊者の正統な後継者ガーナーデーヴア尊者は、疑いもなく満月相とは何かを知り、

円月相とは何であるかを知り、身現(身体の出現)とは何であるかを知り、

諸仏性とは何であるかを知り、諸仏体とは何であるかを知っていた。

しかし、龍樹尊者の弟子で堂奥を許され、仏法を伝承された者等が、

たとえ多かったとしても、ガーナーデーヴア尊者と同列に並び得る者はいなかっただろう。

ガーナ・デーヴア尊者は師匠の龍樹尊者が自分の席を半分譲る程の尊貴な存在であり、

教団の指導者であり、全教団を指導する力量があり、その一部を任された。

正法眼蔵無上大法を正伝した点では、霊鷲山において摩詞迦葉尊者が、

仏教教団最高の弟子であったに等しい。

かつて龍樹尊者がまだ仏法に眼覚めていなかった時、

外道時代の弟子も多かったが、尊者は彼等にひまを出し謝絶したのである。

そして龍樹尊者が仏祖となって後は、ただガーナーデーヴア尊者だけを、

附法の正しい後継者として、大法眼蔵を正伝したのである。

これこそ無上仏道の一系の伝承(単伝)である。

しかるに弟子を僣称している虚偽の連中は、しばしば自称して言う、

自分たちも龍樹尊者の法嗣である

理論を作り教義を集めることで、龍樹尊者の手を借りてはいるが

これらは龍樹尊者の作ではない」。

これは、かつて外道として、龍樹尊者から破門された連中が、

人間界・天上界を惑わし乱すものである。

しかし釈尊の弟子たる者は、ただガーナーデーヴア尊者の伝えるところでなければ、

龍樹尊者の説かれた真理ではないということを知るべきである。

これこそ真理に到達し得た人を正しく信ずることである。

しかしながら、自分の師匠が偽者であると知りながらその伝承を引き継ぐ者も多い。

このように釈尊の説かれた偉大な正しい智慧を傷つける人々の愚かさは、

気の毒でもあり、悲しいことでもある。

ガーナーデーヴア尊者は、その際、龍樹尊者の身現をさして、会場の人に言った、

これこそは、龍樹尊者が仏性を姿によって具現し、それを我々に示したものである

何によってそれが分かるかというと、いま尊者が示した無相三昧は

満月のように見えたからである

仏性は明々白々としているが、概念的には捉えがたいものだからである」。

今、天上界・人間界・その他あらゆる世界に流布している仏法を

見聞きした先輩・後輩の人々の中で、

誰が「身現相は仏性である」と明言できただろうか。

この世界において、デーヴア尊者だけが明言できたのである。

その他の者はただ

仏性というものは、眼で見たり、耳で聞いたり、理性によって認識できるものではない。」

と主張しているだけである。

彼らは身現が仏性だと知らないために主張しないのである。

先輩や師匠が物惜しみをしている訳ではないが弟子の眼や耳がふさがれているため、

見聞きすることができないのである。

身体による認識がまだ起っていないため、

ありのままの身体を現わすこと自体が仏性の発揮だと理解・分別することができないのである。

龍樹尊者が示した無相三昧の形(坐禅の姿)があたかも満月のようであるのを、

会場に集まった人々は遠くから眺め、礼拝したが、

その姿は、人々にとっては、いまだかつて見たことのないものであった。

しかも仏性の意味・内容は、明々白々としているが、

概念的には規定できないものである。

したがって、身現は、仏性を表現することであり、

中に何も無く、ただ明らかな事実である。

仏性を説くため、身現することは、それによって諸仏の身体を表わすことである。

たとえ一人でも二人でも、仏でありながら、

このように表現によって、仏体を示さない仏がいるだろうか。

仏体とは、身現であり、また身現は、仏性の表われである。

所詮、身体は物質の集積(四大五蘊)に過ぎないと主張し、

またそのように理解する仏祖の考えも、

かえって身現のちょっとの間の作用(はたらき)である。

また仏性の一波一瀾であるに過ぎない。

すでに諸仏の身体という、物質世界におけるわれわれが見たままの身体に他ならない。

そして一切の存在もまた、こうした功徳に他ならない。

仏性とは、この身現を完全に自分のものとすることであり、

それを一まとめにして自分のものと包みこむことである。

しかも一切の数限りない無限の仏の功徳が往来しているのも、

この身現の暫時の作用(はたらき)である。

しかるに龍樹尊者とガーナーデーヴア尊者の師弟以後においては、

インド・中国・日本の三国における過去・現在を通じ、

折にふれ仏教を学ぶ人々が、

いまだかつて龍樹尊者やガーナーデーヴア尊者と同じようには主張しない。

このようにしてどれだけの経論に関する師匠たちが

釈尊以来の真理を見違えてしまったことだろう。

大宋国においてはむかしから、この両尊者に関する説話を画に描こうとしたが、

身体に描き、心に描き、空間に描き、壁間に描くことができなかった。

いたずらに筆の先だけで描こうとした結果、

法座の上に鏡のようなまるい一つの輪を描いて、龍樹尊者の円月相だとしている。

そしてその画が描かれてから数百年の歳月が流れ、

その画が人の眼に入った金粉のように、

貴重なものでありながら同時に障害をなすものとなっている。

しかし、その画が誤っていると主張する人がいない。あわれな話である。

何かにつけて誤りを犯していることはこりとおりである。

もし身体によって円月相を現すということが、

一つの円い輪を描くことだと理解するならば、それこそ本当に画に描いた餅である。

他を愚弄することはなはだしい限りである。

笑った場合には、あまりのおかしさに命を落としかねない程である。

しかし大宋国の在家人・出家人の中で、誰一人として龍樹尊者の言葉が耳に入らず、

意味もわからず、またガーナーデーヴア尊者の言葉を理解せず認識しなかったことは、

かなしむべきことである。

まして身現(ありのままの身体を現わすこと)の真意が分かろうに筈がない。

円月が何を意味するかを知らず、わが身が満月の状態にあることに欠けている。

これは古人を学ぶことが不充分で、古人を慕う気持が足りないためである。

釈尊の教えを身につけた先輩・後輩は、進んで真の身現を体験し、

画に描いた餅のように何の役にも立たないものを

賞美してもてあそぶようなことがあってはならない。

しるべし、 身現円月相を画に描こうとするならば、

法座上にありのままの姿を現わしたところを描くべきである。

眉をあげたり目をしばたいたりする点では、まさに端正でなければならない。

釈尊の皮・肉・骨・髄にもたとえられる正法眼蔵は、必ず坐禅によるべきである。

それによって始めて釈尊と摩詞迦葉尊者との間に

取り交わされた微笑による真理の伝承も伝承されるだろう。

何故ならば、坐禅することによって、ただちに仏となり、祖となることができるからである。

この龍樹尊者とガーナーデーヴア尊者とのやりとりに関する画も、

上に述べたような意味でまるい月を現わすものでなければ、

満月のようだと形容することもできないし、説法にもならず、

聴覚や視覚によって把えられず、効用もなければ機能もないのである。

もし身現を達成したいならば、坐禅により、

わが身を素材として、円月相を現わすべきである。

円月相を現わしたいならば、坐禅によって円月相を現わすがよい。

何故ならそれこそ身現円月相であるからである。

そして円月相を現わす際には、満月の姿を現わし、坐禅によって満月相を具現すべきである。

しかるに身現を描かず、円月を描かず、満月相を描かず、

諸仏の身体を描かず、その表現を具体化せず、

説法の様子を描かず、無駄に画に描いた餅のような画を描いている。

そんなことが一体何の役に立つだろうか。

このことに急いで著眼する必要がある。

そしてこのことに著眼しないような者が、どうして直接に現在の瞬間に身を処し、

心が満ち足りて何の不足もない境涯になることができよう。

月は円形に相違ないが、

さきの龍樹尊者に関する説話における円とは

身現(ありのままの身体を現わすこと)である。

円というものを学ぶ場合、一文銭のようなものだと学ぶべきではない。

一枚の餅のようなものだというふうに学ぶべきでもない。

坐禅をした場合の身体の姿は、まるい月の姿のようでであり、形は満月のようである。

一文銭や一枚の煎餅の円は、

坐禅によって形作られる円月身の円満の相に学んだのである。



第13文段の解釈とコメント

龍樹尊者の正統な後継者ガーナーデーヴア尊者は、疑いもなく満月相とは何かを知り、

円月相とは何であるかを知り、身現(身体の出現)とは何であるかを知り、

諸仏性とは何であるかを知り、諸仏体とは何であるかを知っていた。

しかし、龍樹尊者の弟子で堂奥を許され、仏法を伝承された者等が、

たとえ多かったとしても、ガーナーデーヴア尊者と同列に並び得る者はいなかっただろう。

ガーナ・デーヴア尊者は師匠の龍樹尊者が自分の席を半分譲る程の尊貴な存在であり、

教団の指導者であり、全教団を指導する力量があり、その一部を任された。

正法眼蔵無上大法を正伝した点では、霊鷲山において摩詞迦葉尊者が、

首座になったのと同じである。



コメント

ここではガーナーデーヴア尊者が龍樹尊者の後継者となり、

正法眼蔵無上大法を正伝して仏教教団指導する首座になったことを述べている。

しかし、インド仏教において、「正法眼蔵無上大法」と呼ばれるようなものは存在しない。

ましてそれを正伝して仏教教団を指導する首座になるという歴史や伝統はない。

これは中国禅における歴史的伝統や習慣を

インド仏教に当てはめて推測して述べているだけである。

大梵天王問仏決疑経』という経典には

正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り

不立文字、教外別伝にして、摩訶迦葉に附属す

というブッダの言葉(?)がある。

この経典において「正法眼蔵」という言葉が見られる。

しかし、現在では『大梵天王問仏決疑経』という経典は偽経だとされている。

インド仏教においてはここで述べられているような

ブッダが微妙の法門を摩訶迦葉に附属した

というような歴史的事実はないと考えた方が良い。

道元の時代には仏教や仏教史を合理的客観的に研究する学問はなかった。

そのためこのような神話的伝説を疑うことなく信じたと考えられる。



かつて龍樹尊者がまだ仏法に眼覚めていなかった時、

外道時代の弟子も多かったが、尊者は彼等にひまを出し謝絶したのである。

そして龍樹尊者が仏祖となって後は、ただガーナーデーヴア尊者だけを、

附法の正しい後継者として、大法眼蔵を正伝したのである。

これこそ無上仏道の一系の伝承(単伝)である。



コメント

ここでは龍樹尊者が仏祖となって後は、

ただガーナーデーヴア尊者だけを、附法の正しい後継者として、

大法眼蔵を正伝したと述べている。

既にコメントで述べたように、

インドの仏教教団において大法眼蔵を正伝した後継者を立てるといった伝統や習慣は無かった。

そのためガーナーデーヴア尊者が附法の正しい後継者となったという

歴史的事実が本当にあったかどうかについては疑問が残る。

これも神話的伝説か創作された伝説の可能性が大きいと考えて良いのではないだろうか。

しかるに弟子を僣称している虚偽の連中は、しばしば自称して言う、

自分たちも龍樹尊者の法嗣である

理論を作り教義を集めることで、龍樹尊者の手を借りてはいるが

これらは龍樹尊者の作ではない」。

これは、かつて外道として、龍樹尊者から破門された連中が、

人間界・天上界を惑わし乱すものである。

しかし釈尊の弟子たる者は、ただガーナーデーヴア尊者の伝えるところでなければ、

龍樹尊者の説かれた真理ではないということを知るべきである。

これこそ真理に到達し得た人を正しく信ずることである。

しかしながら、自分の師匠が偽者であると知りながらその伝承を引き継ぐ者も多い。

このように釈尊の説かれた偉大な正しい智慧を傷つける人々の愚かさは、

気の毒でもあり、悲しいことでもある。

ガーナーデーヴア尊者は、その際、龍樹尊者の身現をさして、会場の人に言った、

これこそは、龍樹尊者が仏性を姿によって具現し、それを我々に示したものである

何によってそれが分かるかというと、いま尊者が示した無相三昧は

満月のように見えたからである

仏性は明々白々としているが、概念的には捉えがたいものだからである」。

今、天上界・人間界・その他あらゆる世界に流布している仏法を

見聞きした先輩・後輩の人々の中で、

誰が「身現相は仏性である」と明言できただろうか。

この世界において、デーヴア尊者だけが明言できたのである。



コメント

ここでガーナーデーヴア尊者が言う

身現相は仏性である

という言葉は次の図16によって説明することができる。


図16

図16  黙って坐禅を組み円月相を現す身現相

本体である仏性(本源清浄心=健康な脳)の作用(働き)と発現である。


   

図16に示したように、

身現相とは本体である仏性(本源清浄心=健康な脳)

の作用と発現であることを表している。

これは「身現相は仏性である」と言うこともできる。

このように、ガーナーデーヴア尊者が言う「身現相は仏性である

という言葉は図16によって科学的に説明することができる。

図16は馬祖禅の<作用即性>の思想の説明と同じである。

禅の根本原理と応用を参照)。


龍樹(りゅうじゅ)は2〜3世紀(150〜250)頃のインド仏教中観派の祖とされる僧である。

大乗仏教その2、10.39―1中観仏教を参照)。

しかし、ここで述べられたような、2〜3世紀(150〜250)頃のインド仏教に

馬祖禅の<作用即性>の思想に相当するような禅的思想が

実際にあったかどうかは疑わしいところである。

馬祖道一は8世紀の中国唐代に生きた禅師(南岳懐譲禅師の法嗣)で

時代的にも竜樹の活躍したとされる2〜3世紀と大きく隔たっているからである。


   

その他の者はただ

仏性というものは、眼で見たり、耳で聞いたり、理性によって認識できるものではない。」

と主張しているだけである。

彼らは身現が仏性だと知らないために主張しないのである。

先輩や師匠が物惜しみをしている訳ではないが弟子の眼や耳がふさがれているため、

見聞きすることができないのである。

身体による認識がまだ起っていないため、

ありのままの身体を現わすこと自体が仏性の発揮だと理解・分別することができないのである。

龍樹尊者が示した無相三昧の形(坐禅の姿)があたかも満月のようであるのを、

会場に集まった人々は遠くから眺め、礼拝したが、

その姿は、人々にとっては、いまだかつて見たことのないものであった。

しかも仏性の意味・内容は、明々白々としているが、

概念的には規定できないものである。

したがって、身現は、仏性を表現することであり、

中に何も無く、ただ明らかな事実である。

仏性を説くため、身現することは、それによって諸仏の身体を表わすことである。

たとえ一人でも二人でも、仏でありながら、

このように表現によって、仏体を示さない仏がいるだろうか。



コメント

図16に示した「身現相は仏性である

という考え方は8世紀の馬祖禅の<作用即性>の思想と同じである。

道元はこの考え方はインドの竜樹の時代から継承された

正統的な仏教思想であることを強調している。

仏体とは、身現であり、また身現は、仏性の表われである。

所詮、身体は物質の集積(四大五蘊)に過ぎないと主張し、

またそのように理解する仏祖の考えも、

かえって身現のちょっとの間の作用(はたらき)である。

また仏性の一波一瀾であるに過ぎない。

すでに諸仏の身体という、物質世界におけるわれわれが見たままの身体に他ならない。

そして一切の存在もまた、こうした功徳に他ならない。

仏性とは、この身現を完全に自分のものとすることであり、

それを一まとめにして自分のものと包みこむことである。

しかも一切の数限りない無限の仏の功徳が往来しているのも、

この身現の暫時の作用(はたらき)である。



コメント

ここでは、一切無量無辺の仏の功徳が往来しているのも、

この身現の暫時の作用(はたらき)であると

身現相は仏性である」ことを強調している。




しかるに龍樹尊者とガーナーデーヴア尊者の師弟以後においては、

インド・中国・日本の三国における過去・現在を通じ、

折にふれ仏教を学ぶ人々が、

いまだかつて龍樹尊者やガーナーデーヴア尊者と同じようには主張しない。

このようにしてどれだけの経論に関する師匠たちが

釈尊以来の真理を見違えてしまったことだろう。

大宋国においてはむかしから、この両尊者に関する説話を画に描こうとしたが、

身体に描き、心に描き、空間に描き、壁間に描くことができなかった。

いたずらに筆の先だけで描こうとした結果、

法座の上に鏡のようなまるい一つの輪を描いて、龍樹尊者の円月相だとしている。

そしてその画が描かれてから数百年の歳月が流れ、

その画が人の眼に入った金粉のように、

貴重なものでありながら同時に障害をなすものとなっている。

しかし、その画が誤っていると主張する人がいない。あわれな話である。

何かにつけて誤りを犯していることはこのとおりである。

しかし大宋国の在家人・出家人の中で、誰一人として龍樹尊者の言葉が耳に入らず、

意味もわからず、またガーナーデーヴア尊者の言葉を理解せず

認識しなかったことは、かなしむべきことである。

まして身現(ありのままの身体を現わすこと)

の真意が分かろうに筈がない。

もし身体によって円月相を現すということが、

一つの円い輪を描くことだと理解するならば、それこそ本当に画に描いた餅である。

他を愚弄することはなはだしい限りである。

笑った場合には、あまりのおかしさに命を落としかねない程である。



コメント

ここでは龍樹尊者やガーナーデーヴア尊者が主張した

身現相は仏性である」という真理は

龍樹尊者とガーナーデーヴア尊者の師弟以後、

インド・中国・日本の三国においては誤解され正しく伝承されていないと嘆いている。

インドの龍樹尊者やガーナーデーヴア尊者が主張した「身現相は仏性である

という真理がその後インド・中国・日本の三国においては誤解され

正しく伝承されなかった原因や矛盾は以下のように考えれば矛盾なく理解できる。

インドの龍樹尊者やガーナーデーヴア尊者が主張した

身現相は仏性である」という思想は

インド仏教の竜樹の時代にあったと筆者は考えることはできない。

インド仏教にはそのような思想は無かったと考えるのが妥当であろう。

インド仏教において竜樹が活躍した時代は初期大乗仏教の時代である。

竜樹は初期大乗仏教の「空の思想」を理論化し大成した人として有名である。

中期大乗仏教思想の代表的な仏性思想が竜樹の時代に完成し、

作用即性>の禅思想を竜樹がものにしていたとは考え難い。

の中国禅の歴史においてそのような思想(<作用即性>の思想)が完成するのは

8世紀(中国唐代)の馬祖道一禅師によってである。

道元禅師は<作用即性>の禅思想は

インドの龍樹尊者やガーナーデーヴア尊者が主張した「身現相は仏性である

と同じだと歴史的検討を加えることなく素直に信じたため

起きた混乱や矛盾だと考えることができるのではないだろうか。

筆者には「身現相は仏性である」という考え方は

中国生まれの禅思想(特に中国唐代の馬祖道一禅師の<作用即性>の禅思想)に

由来するものだと考えざるを得ない。

そのような思想は中国唐代の馬祖禅の思想から来るもので、

2〜3世紀のインド仏教に既にあったとは到底考えられない。



しかし大宋国の在家人・出家人の中で、誰一人として龍樹尊者の言葉が耳に入らず、

意味もわからず、またガーナーデーヴア尊者の言葉を理解せず認識しなかったことは、

かなしむべきことである。

まして身現(ありのままの身体を現わすこと)の真意が分かろうに筈がない。

円月が何を意味するかを知らず、わが身が満月の状態にあることに欠けている。

これは古人を学ぶことが不充分で、古人を慕う気持が足りないためである。

釈尊の教えを身につけた先輩・後輩は、進んで真の身現を体験し、

画に描いた餅のように何の役にも立たないものを

賞美してもてあそぶようなことがあってはならない。

しるべし、

身現円月相を画に描こうとするならば、

法座上にありのままの姿を現わしたところを描くべきである。

眉をあげたり目をしばたいたりする点では、まさに端正でなければならない。

釈尊の皮・肉・骨・髄にもたとえられる正法眼蔵は、必ず坐禅によるべきである。

それによって始めて釈尊と摩詞迦葉尊者との間に

取り交わされた微笑による真理の伝承も伝承されるだろう。

何故ならば、坐禅することによって、ただちに仏となり、祖となることができるからである。



コメント

ここでも「身現相は仏性である

という<作用即性>の思想の正しさを強調している。

これも図16によって科学的に説明し理解することができる。



この龍樹尊者とガーナーデーヴア尊者とのやりとりに関する画も、

上に述べたような意味でまるい月を現わすものでなければ、

満月のようだと形容することもできないし、説法にもならず、

聴覚や視覚によって把えられず、効用もなければ機能もないのである。

もし身現を達成したいならば、坐禅により、

わが身を素材として、円月相を現わすべきである。

円月相を現わしたいならば、坐禅によって円月相を現わすがよい。

何故ならそれこそ身現円月相であるからである。

そして円月相を現わす際には、満月の姿を現わし、坐禅によって満月相を具現すべきである。

しかるに身現を描かず、円月を描かず、満月相を描かず、

諸仏の身体を描かず、その表現を具体化せず、

説法の様子を描かず、無駄に画に描いた餅のような画を描いている。

そんなことが一体何の役に立つだろうか。

このことに急いで著眼する必要がある。

そしてこのことに著眼しないような者が、どうして直接に現在の瞬間に身を処し、

心が満ち足りて何の不足もない境涯になることができよう。

月は円形に相違ないが、

さきの龍樹尊者に関する説話における円とは

身現(ありのままの身体を現わすこと)である。



コメント

ここでは「直至如今飽不飢(じきしにょこんほうふき)」という言葉を用いて説明している。

直至如今飽不飢(直に今に至るまで、飽いて飢えず)とは大悟徹底という仏飯を食べたら、

それで心は大安心、大満足できて、欠乏感を持たない人になれる

という意味である。

身現円月相」の真の意味が分からずに修行して、

どうして「直至如今飽不飢(じきしにょこんほうふき)の人になれようかと

身現円月相」の真の意味を理解して修行すべきだと述べている。



円というものを学ぶ場合、一文銭のようなものだと学ぶべきではない。

一枚の餅のようなものだというふうに学ぶべきでもない。

坐禅をした場合の身体の姿は、まるい月の姿のようでであり、形は満月のようである。

一文銭や一枚の煎餅の円は、

坐禅によって形作られる円月身の円満の相に学んだのである。



コメント

禅や茶道では円相(円相図、一円相とも呼ばれる)によって

禅の悟りや真理を象徴的によってあらわすことが多い。

円相図や一円相の起源はここに紹介されている龍樹尊者とガーナーデーヴア尊者

の伝説と何らかの関係があるのであろうか?

「禅の根本原理と応用」8.2.7 茶道と禅語を参照)。



14

 第14文段


原文14


予雲遊のそのかみ大宋国にいたる。

嘉定十六年癸未(きび)秋のころ、阿育王山広利禅寺にいたる。

西廊壁間に、西天東地三十三祖の変相を画せるをみる。このとき領覧なし。

のちに宝慶元年乙酉夏安居のなかに、かさねていたるに、

西蜀の成桂知客と廊下を行歩するついでに、

予知客にとふ、

這箇是什麼変相ぞ?」。

知客いはく、

龍樹身現円月相」。

かく道取する顔色に鼻孔なし、声裏に語句なし。

予いはく、

真箇是一枚画餅相似」。

ときに知客大笑すといへども、笑裏無刀、

破画餅不得(笑裏に刀無、画餅を破すること不得)なり。

すなはち知客と予と、舎利殿および六殊勝地等にいたるあひだ、

数番挙揚すれど沌じ疑著するにもおよばず。

おのづから下語する僧侶も、おほく都不是なり。

予いはく、

堂頭にとふてみん」。

ときに堂頭は大光和尚なり。

知客いはく、

「他は鼻孔なし、答ええじ。

いかでか知ることを得ん。

ゆえに光老にとはず。恁麼道取すれども、桂兄も会すべからず。

聞説する皮袋も道取せるなし。

前後の粥飯頭みるにあやしまず、あらためなほさず。

又、画することうべからざらん法はすべて画せざるべし。

画すべくば端直に画すべし。

しかあるに、身現の円月相なる、かつて画せるなきなり。

おほよそ仏性は、いまの慮知念覚ならんと見解することさめざるによりて、

有仏性の道にも、無仏性の道にも、通達の端を失せるがごとくなり。

道取すべきと学習するもまれなり。

しるべし、この疎怠は廃せるによりてなり。

諸方の粥飯頭、すべて仏性といふ道得を、一生いはずしてやみぬるもあるなり。

あるひはいふ、聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲柄はいふべからず。

かくのごとくのやからは、真箇是畜生なり。

なにといふ魔党の、わが仏如来の道にまじはり、けがさんとするぞ。

聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか。

いまだ聴教参禅といふこと仏道にはなしとしるべし。


注:

雲遊: 諸国を巡遊すること、放浪すること。

嘉定十六年:  1223年 

 癸未:   みずのとひつじ。

阿育王山広利禅寺:  育王山または阿育王寺ともいう。

五山の一つ。浙江省寧波府にある。

282年井州の人劉薩詞が、阿育王塔をこの山に発見し、

のち劉宋の時代に寺院を建立したのが起原である。

梁の武帝を初め、歴代の帰依と保護を得た名刹である。

西廊:  西側の廊下。

変相:  姿を変えること。

領覧:  領は知る、さとる。覧は考え見る。

領覧は理解して見ること。

宝慶元年:  1225年。 

 乙酉:   きのととり。

 西蜀:  蜀の地。今の四川省をいう。

西方にある蜀の地の意。 

知客(しか): 寺院において来客を接待する役僧。 

這箇(しゃこ): これ。 

鼻孔なし: 鼻のあな(孔)がない。呼吸がなく、死んでいる。

笑裏無刀:   笑ってはいるが、その反面の鋭どさが欠けている。

内容があっての笑いではなかった。

舎利殿: 釈尊や聖者の遺骨(舎利)を安置する寺院内の殿堂。

六殊勝地:阿育王山広利禅寺内にある場所の名

と思われるが詳細は不明。

挙揚: とりあげること。問題にしてみること。

おのづから:  たまたま。

 下語: 言葉を発すること、ものをいうこと。

都不是:すべて駄目である、すべて肯定できない。

 風火:  古代インド

都不是:すべて駄目である

堂頭: 坐禅堂の最長老。住職を指す。

桂兄:  兄弟子の成桂。

粥飯頭:寺院の長老に対する敬称。住持人の別称にも用いる。

端直: 端的、直接に。

慮知念覚:  思慮や認識や記憶や体験。あらゆる精神作用。

都不是:すべて駄目である

見解:  理解。

通達:  通暁。

端: 糸口。 

疎怠:  おろそかでなまけていること。

廃す:  やめる。

聴教: 説教を聞くこと。

雲納:   雲水、納僧。

参禅:  禅に参じ坐禅をして見性成仏を目指すこと。

坐禅修行により心身の調和した状態を味わい見性成仏を目指すこと。


第14文段の現代語訳

自分はかつて諸国を巡遊していた当時、大宋国に行った。

そして1223年、みずのとひつじの年の秋頃、

はじめて阿育王山広利禅寺に到着した。

そしてその西側の廊下の壁に、インドおよび中国における33代にわたる

教団の指導者がさまざまに姿を変えている光景の画を見た。

しかしこの時にはその画の内容を理解できなかった。

その後、1225年。きのととりの年の夏行なわれた安居の最中に

再度広利禅寺を訪れたが、

その時四川省の成桂という接待係の役僧と廊下を歩いている際に、

自分はその接待僧に質問した,

これは一体どういう変相の光景ですか。」 接待僧は言った、

これは龍樹尊者の身現変相図です。」

彼はこのように返事をしたが、その顔色には、

打てば響くような生気は見られず、

言葉のうちにも、しっかりした主張は感じられなかった。

そこで自分は言った、

これでは本当の画にかいた餅に過ぎませんね。」

その接待僧は大声で笑ったが、その笑のうちには、

これといった鋭どさはなく、画にかいた餅をぶち破る程の力はなかった。

それから接待僧と自分は、舎利殿や六殊勝地などに行くあいだ、

何回となく龍圈尊者の変相図に関することを話題に取り上げたが、

その接待僧は疑問を持つことさえしなかった。

またそのときたまたま言葉を差しはさんだ別の僧侶も、

その大半が全くなっていなかった。

そこで私は言った、

住職に質問してみよう。」

そのときの住職は大光和尚であった。

しかし、接待僧は言った、

住職はこれといった理解をもちあわせていない

したがって貴僧が質問しても

応対ができないだろうから、なにか解るなどということはあり得まい。」

そこで大光和尚に質問することはやめにした。

そして接待僧の成桂師も、このようにいうことはいったものの、

やはり理解はできなかった。

またかたわらでわれわれの話を聞いていた連中も、一言もしゃべらなかった。

歴代の住職もその画を見ながら、不思議とも思わず、

改めなおすことをしなかったのである。

また仮にかきなおそうとしたとしても、それだけの能力はなかったであろう。

およそ仏法の真理というものは、すべて画にはかけないのが普通である。

そしてもしも仮にそれをかこうとする場合には。正しく誤りのないようにかくべきである。

しかるに、身現の円月相を、かつて画いた事例がないのである。

総じて仏性とは、

現に眼の前にある思慮とか認識とか記憶とか体験とかの精神作用であろうと

いうふうに理解することが改まらないために、

「有仏性」という言葉にも、

「無仏性」という言葉にも通達する糸口を見失ってしまったようである。

何かいわなければならないと学んでいる者さえ稀のようである。

銘記せよ。

このように仏性に疎遠となり、怠たりがちとなっているのは、

釈尊の説かれた真理がすたれてしまった結果である。

諸方の住職のうちには、仏性という言葉を一切口にせずに、

一生を終ってしまう者もあるのである。

またある者はいう、

仏教徒の中でも抽象的な哲学論議を好んで聞く連中は、仏性というものを議論する

しかしわれわれのような参禅に努力する雲水や雲衲は

仏性などというものを論議すべきではない。」

しかしこのような連中は、全くのけだものである。

一体何という魔物が、わが釈尊の説かれた真理の中にまぎれ込んで、

これをけがそうとするのか。

一体抽象的な哲学論議を好んで聞くなどということが、

仏道の実践の中にあるかどうか。

また聴道と参禅とに分けて考える考え方が仏道の実践の中にあるだろうか。

いまだかつて、抽象的な哲学論議を好んで聞く道と、

参禅と分裂して考えることは、仏道にはないことを知るべきである。


第14文段の解釈とコメント


自分はかつて諸国を巡遊していた当時、大宋国に行った。

そして1223年、みずのとひつじの年の秋頃、

はじめて阿育王山広利禅寺に到着した。

そしてその西側の廊下の壁に、インドおよび中国における33代にわたる

教団の指導者がさまざまに姿を変えている光景の画を見た。

しかしこの時にはその画の内容を理解できなかった。

その後、1225年。きのととりの年の夏行なわれた安居の最中に

再度広利禅寺を訪れたが、

その時四川省の成桂という接待係の役僧と廊下を歩いている際に、

自分はその接待僧に質問した,

これは一体どういう変相の光景ですか。」

接待僧は言った、

これは龍樹尊者の身現変相図です。」

彼はこのように返事をしたが、その顔色には、

打てば響くような生気は見られず、

言葉のうちにも、しっかりした主張は感じられなかった。

そこで自分は言った、

これでは本当の画にかいた餅に過ぎませんね。」

その接待僧は大声で笑ったが、その笑のうちには、

これといった鋭どさはなく、画にかいた餅をぶち破る程の力はなかった。

それから接待僧と自分は、舎利殿や六殊勝地などに行くあいだ、

何回となく龍圈尊者の変相図に関することを話題に取り上げたが、

その接待僧は疑問を持つことさえしなかった。

またそのときたまたま言葉を差しはさんだ別の僧侶も、

その大半が全くなっていなかった。

そこで私は言った、

住職に質問してみよう。」

そのときの住職は大光和尚であった。

しかし、接待僧は言った、

住職はこれといった理解をもちあわせていない

したがって貴僧が質問しても

応対ができないだろうから、なにか解るなどということはあり得まい。」



コメント



道元が宋の阿育王山広利禅寺を訪れた時、竜樹尊者達の身現変相図を見た。

しかし、接待僧の成桂をはじめ変相図の意味について

道元の質問に答えることができる者や確かな理解を示す者は誰もいなかった。

道元が宋の阿育王山広利禅寺を訪れた頃には、

中国禅はその隆盛期を過ぎすでに衰退期に入っていたことが分かる。

そこで大光和尚に質問することはやめにした。

そして接待僧の成桂師も、このようにいうことはいったものの、

やはり理解はできなかった。

またかたわらでわれわれの話を聞いていた連中も、一言もしゃべらなかった。

歴代の住職もその画を見ながら、不思議とも思わず、

改めなおすことをしなかったのである。

また仮にかきなおそうとしたとしても、それだけの能力はなかったであろう。

およそ仏法の真理というものは、すべて画にはかけないのが普通である。

そしてもしも仮にそれをかこうとする場合には。正しく誤りのないようにかくべきである。

しかるに、身現の円月相を、かつて画いた事例がないのである。

総じて仏性とは、

現に眼の前にある思慮とか認識とか記憶とか体験とかの精神作用であろうと

いうふうに理解することが改まらないために、

「有仏性」という言葉にも、

「無仏性」という言葉にも通達する糸口を見失ってしまったようである。

何かいわなければならないと学んでいる者さえ稀のようである。

銘記せよ。

このように仏性に疎遠となり、怠たりがちとなっているのは、

釈尊の説かれた真理がすたれてしまった結果である。

諸方の住職のうちには、仏性という言葉を一切口にせずに、

一生を終ってしまう者もあるのである。

またある者はいう、

仏教徒の中でも抽象的な哲学論議を好んで聞く連中は、仏性というものを議論する

しかしわれわれのような参禅に努力する雲水や雲衲は

仏性などというものを論議すべきではない。」

しかしこのような連中は、全くのけだものである。

一体何という魔物が、わが釈尊の説かれた真理の中にまぎれ込んで、

これをけがそうとするのか。

一体抽象的な哲学論議を好んで聞くなどということが、

仏道の実践の中にあるかどうか。

また聴道と参禅とに分けて考える考え方が仏道の実践の中にあるだろうか。

いまだかつて、抽象的な哲学論議を好んで聞く道と、

参禅と分裂して考えることは、仏道にはないことを知るべきである。



コメント



仏道においては

抽象的な仏教哲学の論議と坐禅中心の実践的修行とに分けて考えてはならない

と理論と実践の分離を戒めている。



15

 第15文段


原文15


 杭州塩官県斉安国師は馬祖下の尊宿なり。

ちなみに衆にしめしていはく、

一切衆生有仏性」。

 いはゆる一切衆生の言、すみやかに參究すべし。

一切衆生、その業道依正ひとつにあらず、その見まちまちなり。

凡夫・外道、三乗・五乗等、おのおのなるべし。

いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆゑに。

無心者おなじく衆生なるべし、

衆生是心なるがゆゑに。

しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。

草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、

衆生なるがゆゑに有仏性なり。

日月星辰これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、

衆生なるがゆゑに有仏性なり。

国師の道取する有仏性、それかくのごとし。

もしかくのごとくにあらずば、仏道に道取する有仏性にあらざるなり。

いま国師の道取する宗旨は、「一切衆生有仏性」のみなり。

さらに衆生にあらざらんは、有仏性にあらざるべし。

しばらく国師にとふべし、

一切諸仏、有仏性なりや也無や

かくのごとく問取し、試験すべきなり。

一切衆生即有仏性」といはず、

一切衆生、有仏性」といふと参学すべし。

有仏性の有、まさに脱落すべし。

脱落は一条鉄なり、一条鉄は鳥道なり。

しかあれば一切衆生有仏性なり、これその道理は、

衆生を脱透するのみにあらず、仏性をも脱透するなり。

国師たとひ会得を道得に承当せずとも、承当の期なきにあらず。

今日の道得、いたづらに宗旨なきにあらず。

又、自己に具する道理、いまだかならずしもみづから会取せざれども、

四大五陰もあり、皮肉骨髄もあり。

しかあるがごとく、道取も、

一生に道取することもあり、道取にかかれる生生もあり。


注:

杭州: 州名。隋の時代に置かれた。

宋の時代には臨安府といい、元の時代には杭川路、明の時代には杭州府といった。

現在、浙江省の杭県。 

塩官県:  県の名。三国、呉の時代に置かれた。浙江省海寧県。 

斉安国師:  塩官斉安禅師。馬祖道一禅師の法嗣。

杭州塩官県の鎮国護聖院において住職をつとめた。

海門郡に生まれ、姓は李氏。始め本郡の雲踪禅師について具足或を受けたが、

後に江西の馬祖道一禅師が襲公山で教化を行なっているのを聞き、

その門に馳せ参じた。

数年を経ずして悟り、その衣法を継いだ。

教化を行なった年時は明らかでない。

老いて後も病なく、坐禅したまま死去したと伝えられる。

尊宿: 寺院における有道高徳な僧に対する敬称。

業道依正: 業は行為。道は実践。依は依報、すなわち環境を意味する。

正は正報、環境に対する主体。 

三乗: 声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三つをいう。

声聞乗は説法を通して真理を学ぼうとする行き方。

縁覚乗は客観的な事物を機縁として真理を学ぼうとする行き方。

菩薩乗の特徴は,多くの人々を救うことを目的とした利他行にあり、

六波羅蜜を行じるところにある。

五秉:  三乗に人乗と天乗とを加えたもの。

三乗は、仏教的真理を追求する立場のものであるが、

人乗とは仏教に到達する以前の、人間としての平凡な生き方を指し、

天乗は人乗に対し天上界の人々の生き方をいう。 

一切衆生: すべてのおよそ生命あるもの。一切の人々。

有仏性: 仏性を具えているという意味。

有心者:心理作用を持っている者。

心是衆生: 心理作用とは、もろもろの生あるもののことである。

無心者: 無心(無意識)という心理作用を持った者。

衆生是心: もろもろの衆生は、心理作用に異ならない。

心: 心理作用。精神。

一条鉄: 事物が連続して継ぎ目のないことをいう。

鳥道:  鳥は飛んでも、そのあとに痕跡を残さないところから、

鳥の飛ぶ空間を指して、無際涯・無限定の象徴としている。

説透:   説明し透脱すること。


第15文段の現代語訳


杭州塩官県の斉安国師は、馬祖道一禅師門下の長老である。

あるとき衆僧に説示して言った、

一切の衆生には、仏性がある」。

 ここにいう一切の衆生という言葉を、早急に参究する必要がある。

一切の衆生といっても、そのあり方、実践、環境、主体性などはそれそれ異っており、

またその考え方も、さまざまである。

たとえば凡夫と外道との間、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三つや

人間乗・天人乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の五つなどの間では、

それぞれ別個であろう。

いま仏道における一切衆生とは、

およそ心理作用を具えた者をすべてを衆生というのである。

なぜならば心あるものは衆生に他ならないから。

また無心という心理作用を持つ者も、同じように衆生であろう。

なぜならば衆生とは心に他ならないから。

したがって心はすべて衆生であり、衆生はすべて仏性を具えているのである。

草木や国土は心である。

そして心であればこそ衆生であり、

衆生であればこそ仏性を具えているのである。

太陽や月や星も心である。塩官斉安国師が言う有仏性とはこのような意味である。

もしこのようでなければ、仏道において言う有仏性ではない。

いまここで国師が言う趣旨は「一切衆生有仏性」のみである。

したがって全く衆生と無関係のものは、仏性を持っていないであろう。

そこで試しに国師に向って質問して見るべきである、

一切諸仏に、仏性が具わっているのかいないのか。」

このように質問し試して見るべきである。

この場合「一切衆生即仏性」といわず、

一切衆生、有仏性」というと学ぶべきである。

そして「一切衆生、有仏性」という場合の

「有仏性」の「有」は、脱け落ちてしかるべきである。

そこでこの「」が脱け落ちた場合、

「一切衆生」と仏性との間には何らの継ぎ目もなくなる。

その継ぎ目がなくなった状態は、あたかも鳥が飛び行く空間のように、

無際涯であり、無拘束である。

そうであるから「一切仏性有衆生」といえるのである。

そしてこの道理は、衆生を説明し透過するばかりでなく、

仏性をも説明し透過するのである。

国師はこの際理解していることを直接言葉で表わしてはいないが、

そのことが不可能だった訳ではない。

また現に自分が主張していることも、

決していわれのないことをいっている訳ではない。

さらに一般論として自分自身に内在している原理を

すべて必ずしも自分自身で理解していない場合でも、

自分自身が物質的な存在(四大五蘊)であり、

肉体を具えた存在(皮肉骨髄)であるということは、明々白々である。

これと同じように真理の表白を一生を通じて行うこともあれば、

生活における個々の瞬間・瞬間がいずれも真理の表白である場合もあるのである。



第15文段の解釈とコメント


杭州塩官県の斉安国師は、馬祖道一禅師門下の長老である。

あるとき衆僧に説示して言った、

一切の衆生には、仏性がある」。

 ここにいう一切の衆生という言葉を、早急に参究する必要がある。

一切の衆生といっても、そのあり方、実践、環境、主体性などはそれそれ異っており、

またその考え方も、さまざまである。

たとえば凡夫と外道との間、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三つや

人間乗・天人乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の五つなどの間では、

それぞれ別個であろう。

いま仏道における一切衆生とは、

およそ心理作用を具えた者をすべてを衆生というのである。

なぜならば心あるものは衆生に他ならないから。

また無心という心理作用を持つ者も、同じように衆生であろう。

なぜならば衆生とは心に他ならないから。


コメント



ここで「ここで無心者同じく衆生なり」という言葉がが分かり難い。

第11文段では、「無我が仏性である」と述べている。

無心を無我の心だと見なせば

無我の心をもつ無心者は仏性をもつので同じく衆生である

と言っていると考えることができる。

しかし、注目されるのは続く文章で

草木国土これ心なり。日月星辰これ心なり。」

と草木国土や日月星辰のような非情も衆生に含めていることである。

これは草木国土のような非情は無心者であるから無我の心をもつと考えているからだと思われる。

無我の心は仏性であるから、草木国土のような非情も仏性を持つと

考えているからだと考えることができよう。

しかし、科学的観点に立てば、草木国土には脳や脳神経系はない。

従って、無心であると言っても、脳や脳神経系をもつ人間の無我とは異なる。

筆者は科学的観点に立てば、草木国土には脳や脳神経系がない草木国土を

衆生だと考えることには問題を複雑化するだけだと考えている。

筆者は科学的観点に立つので、

脳や脳神経系がない草木国土を衆生にふくめる必要はないと考えている。


陶磁器のように粘土や石のような無機物を高温で焼成して作るものを

衆生に含める必要はないと考えているのである。

また、犬や猫、草木は生命が有っても仏教を理解したり興味を持つとは到底考えられない。

成仏を目指す衆生を人間だけに絞って考える方が現実的で有益だと考えられる。

我が国の白隠慧鶴 禅師は「坐禅和讃」において

衆生本来仏なり。水と氷のごとくにて、水を離れて氷なく、衆生のほかに仏なし。

と坐禅と成仏の対象を人間に絞って詠っている。犬や猫は坐禅をしない。

坐禅修行による成仏を目指すのは人間だけなので

成仏の対象となる衆生を人間だけに絞って考える方が現実的で有益だからであろう。

白隠慧鶴禅師の「坐禅和讃」を参照)。



したがって心はすべて衆生であり、衆生はすべて仏性を具えているのである。

草木や国土は心である。

そして心であればこそ衆生であり、

衆生であればこそ仏性を具えているのである。

太陽や月や星も心である。

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ここで道元が述べていることは正法眼蔵「即心是仏」の巻の中の

明らかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」という言葉と対応している。

道元は「万物一体」や「心境不二」の立場に立っているから

このように述べていると考えることができる。

第6章「公案」を参照)。

正法眼蔵「即心是仏」第5文段を参照)。



塩官斉安国師が言う有仏性とはこのような意味である。

もしこのようでなければ、仏道において言う有仏性ではない。

いまここで国師が言う趣旨は「一切衆生有仏性」のみである。

したがって全く衆生と無関係のものは、仏性を持っていないであろう。

そこで試しに国師に向って質問して見るべきである、

一切諸仏に、仏性が具わっているのかいないのか。」

このように質問し試して見るべきである。

この場合「一切衆生即仏性」といわず、

一切衆生、有仏性」というと学ぶべきである。

そして「一切衆生、有仏性」という場合の

「有仏性」の「有」は、脱け落ちてしかるべきである。

そこでこの「」が脱け落ちた場合、

「一切衆生」と仏性との間には何らの継ぎ目もなくなる。

その継ぎ目がなくなった状態は、あたかも鳥が飛び行く空間のように、

無際涯であり、無拘束である。


コメント


ここでは「一切衆生有仏性」において有を脱落させて「一切衆生=仏性」とで結べば分かり易い。

衆生とは仏性を持つものだと考えれば全ての衆生は仏性をもつ存在である。

従って、「一切衆生=仏性」と有を脱落させてで結べば

継ぎ目が無くなって一条鉄だと言っていると考えると分かり易い。




そうであるから「一切仏性有衆生」といえるのである。

そしてこの道理は、衆生を説明し透過するばかりでなく、

仏性をも説明し透過するのである。

国師はこの際理解していることを直接言葉で表わしてはいないが、

そのことが不可能だった訳ではない。

また現に自分が主張していることも、

決していわれのないことをいっている訳ではない。

さらに一般論として自分自身に内在している原理を

すべて必ずしも自分自身で理解していない場合でも、

自分自身が物質的な存在(四大五蘊)であり、

肉体を具えた存在(皮肉骨髄)であるということは、明々白々である。

これと同じように真理の表白を一生を通じて行うこともあれば、

生活における個々の瞬間・瞬間がいずれも真理の表白である場合もあるのである。



16

 第16文段


原文16


大イ山大安禅師、あるとき衆にしめしていはく、

一切衆生無仏性」。

 これをきく人天のなかに、よろこぶ大機あり、驚疑のたぐひなきにあらず。

釈尊説道は「一切衆生悉有仏性」なり、大イの説道は「一切衆生無仏性」なり。

有無の言理、はるかにことなるべし、道得の当不、うたがひぬべし。

しかあれども、「一切切衆生無仏性」のみ仏道に長なり。

塩官有仏性の道、たとひ古仏とともに一隻の手をいだすににたりとも、

なほこれ一条シュ杖両人舁なるべし。

いま大イはしかあらず、一条シュ杖呑両人なるべし。

いわんや国師は馬祖の子なり、大イは馬祖の孫なり。

しかあれども、法孫は師翁の道に老大なり、法子は師父の道に年少なり。

いま大イ道の理致は、一切衆生無仏性を理致とせり。

いまだ昿然繩墨外といはず。自家屋裏の経典、かくのごとくの受持あり。

さらに摸索すべし、一切衆生なにとしてか仏性ならん、仏性あらん。

もし仏性あるは、これ魔儻なるべし。魔子一枚を將来して、一切衆生にかさねんとす。

仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり。

衆生もとより仏性を具足せるにあらず。

たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり。

張公酒を喫すれば李公醉ふ」といふことなかれ。

もしおのづから仏性あらんは、さらに衆生あらず。

すでに衆生あらんは、つひに仏性にあらず。

このゆゑに百丈いはく、

衆生に仏性有りと説くもまた仏法僧を謗ず

衆生に仏性無しと説くもまた仏法僧を謗ずるなり」。

しかあればすなはち、有仏性といひ無仏性といふ、ともに謗となる。

謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。

且問汝、大イ、百丈しばらくきくべし。

謗はすなはちなきにあらず、仏性は説得すやいまだしや。

たとひ説得せば、説著をケイ礙せん。説著あらば聞著と同参なるべし。

また、大イにむかひていふべし。

一切衆生無仏性はたとひ道得すといふとも、一切仏性無衆生といはず、

一切仏性無仏性といはず、

いはんや一切諸仏無仏性は夢にもまた未だ見ざること在るなり。

試みに挙げて看よ。


大イ山大円禅師:  イ山霊祐禅師(771〜853)。

百丈懐海禅師の後継者。福州長鮑の人、姓は趙氏。

十五歳の時出家し、二十三歳から百丈禅師に師事した。

後、イ山に移って教化を行ない、

仰山慧寂禅師、香厳智閑禅師、霊雲志勤禅師などの俊秀を輩出させた。

仰山慧寂禅師とともにイ仰宗の開祖とされる。853年死去、

年83歳。語録一巻がある。

唐の宣宗皇帝から、大円禅禅師とおくり名された。 

一切衆生無仏性:  すべての生あるものに、仏性はない。

 すべての衆生は無という仏性を持っている。

大機: 偉大な機根の人、すぐれた素質の人。

驚疑:   驚いたり疑ったりすること。

説道:   真理の説示。

当不:  当否。

長: すぐれていること。

一条シュ杖両人舁:   一本の杖を二人の人がかつぐという意味。

ここで両人とは古仏と斉安国師とを指し、

両者の主張はほとんど同一の主張ではあるが、

しかし完全に一致したものではないことを示している。

一条往杖呑二両人: 一本の杖が二人の人を呑み込んでしまっているという意味。

ここで両人とは釈尊と大円禅師とを指し、

両者の主張が完全に真理によって包摂されており、 完全に一致していることを示している。 

子:   直接の弟子。

 孫:  孫弟子。 

老大:  老は円熟している。大は成長している。

理致: 理論の究極。 

昿然:  空々漠々としたさま。

縄墨外: 繩墨はすみなわ、転じて規準。

縄墨外は規準を超越した世界。 

自家屋裏の経典:  自家薬節中のものとなった経典。 

受持: 信受護持。 

 摸索:   てさぐりでさがすこと。 

魔党:  悪魔のたぐい。 

魔子:  悪魔。子は名詞につける助字。 

将来: 持って来ること。

張公酒を喫すれば李公酔う:   張さんが酒を飲んだら、

李さんが酔っぱらったという意味。論理的につじつまの合わない主張を比喩的に指す。

張および李という姓は、中国では極めて多い姓である。

張公・李公とは、八さん・熊さんの意。

仏法僧:   仏は覚者釈尊のこと。法は仏法。僧は仏教教団。

仏法僧とは、仏教が尊崇する三つの最高価値、三宝。 

挙:  主張を述べる。


第16文段の現代語訳


大イ山の大円禅師が、あるとき衆僧に説示して言った、

すべての衆生は、仏性を具えてはいない。」と。

 この言葉を聞く人間や天人の中には、

わが意を得たりと喜ぶようなすぐれた素質のものもいるが、

一方驚いたり疑がったりするような連中がいない訳ではない。

釈尊の説示では、

一切衆生悉有仏性」であるが、

大イ大円禅師の説示では、

一切衆生無仏性」である。

一方はありで、一方はなしである。

この「あり」「なし」の主張は、全く正反対の主張であるから、

いずれの主張が正しいか、正しくないかについて、人は迷ってしまうだろう。

しかしながら、仏法の立場から見た場合、

一切衆生無仏性」の主張こそすぐれている。

塩官斉安禅師の「有仏性」という主張は、

釈尊と同じように片手をさしのべたのと似ているようだが、

依然として一本の杖を二人の人が担いでいるようで、

主観と客観とが完全に一致した姿でない。

大イ大円禅師の場合はそうでなくて、

真理という一本の杖に主観と客観とがともに呑み込まれた形である。

しかも斉安国師は馬祖道一禅師の直接の弟子であり、

大イ禅師は馬祖道一禅師の孫弟子である。

しかし、この場合においては馬祖の孫弟子である大イ大円禅師は、

師匠である斉安国師の主張よりも円熟成長している。

馬祖道一禅師の直弟子である斉安国師は、

孫弟子である大イ大円禅師よりも円熟していない。

ここで大イ大円禅師の主張の極致は

一切衆生無仏性」である。

空々漠々として規準を超越したものであるなどと、

とりとめのないことをいわず完全に自家薬籠のものとして、

受持しているのである。

この大円禅師の主張をさらに懸命に参究して見るべきである。

一切衆生が、どうして仏性と同じであろう。

どうして仏性を具えているだろうか。

もし衆生が仏性を具えているならば、これは魔物のたぐいであるだろう。

一切衆生の上に、魔物という別のものを持ち来って、

これに重ねるようなものである。

仏性は、仏性にほかならず、衆生は衆生以外の何物でもない。

衆生は元来、仏性を、具えている訳がない。

たとえ具えようと求めても、

その努力にもとづいて仏性がはじめてやって来るのではないという趣旨である。

八さんが酒を飲んだら熊さんが酔っぱらったというような理屈の通らないことをいってはならない。

もし万一にも、仏性を具えているようなものがあったとしたら、それは衆生ではない。

また衆生は、究極的に、仏性とは別物である。

このような理由から、百丈禅師は言った、

衆生に、仏性が具わっていると説くことも、三宝に対する冒涜である

衆生に、仏性など具わっていないと説くことも、また三宝に対する冒涜である。」

したがって「仏性が具わっている」と主張することも冒涜となり、

仏性など具もっていない」と主張することも、同じように冒涜となるのである。

しかし、たとえ それが冒涜になるからといって、

このことをいわないでよいということにはならない。

そこで大イ禅師と百丈禅師とに質問しよう、

ちょっとお聞きしたいのですが、たしかに冒涜ということがない訳ではありません

しかし仏性については説き得たのでしょうか。それともまだなのでしょうか。」

もし仮に説き得ているのであれば、

それは説いたという行為をその中に内包していることであり、

説いたという行為があるならば、それは同時に真理を聞いたということであろう。

また大イ禅師に対していいたいものだ。

あなたは「一切衆生無仏性」といい得たけれども、

一切仏性無衆生(一切の仏性と衆生とは別個のものだ)」

とはいっていないし、

一切仏性無仏性」ともいっていない。

まして「一切諸仏無仏性」を、まだ夢にさえ見たことがないようである。

そこで試みに、お前の主張を述べて見よ。点検してやろう。



第16文段の解釈とコメント


   

大イ山の大円禅師が、あるとき衆僧に説示して言った、

すべての衆生は、仏性を具えてはいない。」と。

 この言葉を聞く人間や天人の中には、

わが意を得たりと喜ぶようなすぐれた素質のものもいるが、

一方驚いたり疑がったりするような連中がいない訳ではない。

釈尊の説示では、

一切衆生悉有仏性」であるが、

大イ大円禅師の説示では、

一切衆生無仏性」である。


コメント


イ山霊祐禅師の説示の言葉は「一切衆生無仏性」」である。

この「一切衆生無仏性」をどのように受け取り、

理解するかが第16文段のテーマである。

第15文段において、馬祖道一禅師門下の塩官斉安禅師は、

一切の衆生には、仏性がある」と言った。

第15文段を参照)。

イ山霊祐禅師の言葉「一切衆生無仏性」」を

すべての衆生は、仏性を具えてはいない。」と受け取れば、

塩官斉安禅師の言葉「一切の衆生には、仏性がある」の否定形になる。

その場合、「一切の衆生には、仏性があるのか無いのか

という有無の論争になる。

しかし、イ山霊祐禅師の言葉「一切衆生無仏性」を

一切衆生には無という仏性がある

 あるいは

一切衆生の仏性は無仏性という仏性である」と言っている

と考えると事態は全く違ってくる。



一方はありで、一方はなしである。

この「あり」「なし」の主張は、全く正反対の主張であるから、

いずれの主張が正しいか、正しくないかについて、人は迷ってしまうだろう。

しかしながら、仏法の立場から見た場合、

一切衆生無仏性」の主張こそすぐれている。


コメント


道元は、イ山霊祐禅師の言葉「一切衆生無仏性」を

一切衆生には無という仏性がある

 あるいは

一切衆生の仏性は無仏性という仏性である

と言っていると考える時、

一切衆生無仏性」の主張こそすぐれていると述べている。

この時、「一切衆生無仏性」は

無門関の第一則に出て来る趙州の「」に繋がるからである。

「無門関」第一則を参照)。



塩官斉安禅師の「有仏性」という主張は、

釈尊と同じように片手をさしのべたのと似ているようだが、

依然として一本の杖を二人の人が担いでいるようで、

主観と客観とが完全に一致した姿でない。

大イ大円禅師の場合はそうでなくて、

真理という一本の杖に主観と客観とがともに呑み込まれた形である。



コメント


ここで述べていることは脳科学の観点に立てば以下のように分かり易い。

大脳新皮質を中心とする上層脳は理知脳であり

客観的分析的に物事を観る客観性の源である。

これに対し坐禅によって活性化する下層脳(脳幹+大脳辺縁系)を中心とする脳は

生命情動脳であり、主観性の源と言える。

「禅と脳科学」その1を参照)。

上層脳(理知脳)を強く働かせる場合、主観と客観が分離している。

この状態を図18に示す。


図18

図18 上層脳(理知脳)が強く働くと主観と客観が分離する。


   

図18に示した状態が塩官斉安禅師の「有仏性」という主張に対応している。

この状態を道元は

一本の杖を二人の人が担いでいるようだ

と述べている。

これに対し、主観と客観の分離がない場合には

層脳と下層脳がバランスよく働き主客合一の状態になる。

この状態を道元は

大イ大円禅師の場合はそうでなくて

真理という一本の杖に主観と客観とがともに呑み込まれた形である。」

と述べていると考えることができる。

この状態を次の図19に示す。


図19

図19 上層脳と下層脳がバランスよく働くと主客合一の状態になる。


   

図19 に示した主客合一の状態は

万物一体」とか「心境一如」の状態に対応している。

{公案}の「万物一体」を参照)。

ここでは一条シュ杖(一本の杖)という言葉が出ている。

 禅ではシュ杖(杖)を象徴的に、

真の自己(本来の面目)」や「仏性」に喩えることが多い。

その例は「碧巌録」第25則、60則や「無門関」第44則にも見られる。

「碧巌録」第25則を参照)。

「碧巌録」第60則を参照)。

無門関」第44則を参照)。

   
   

しかも斉安国師は馬祖道一禅師の直接の弟子であり、

大イ禅師は馬祖道一禅師の孫弟子である。

しかし、この場合においては馬祖の孫弟子である大イ大円禅師は、

師匠である斉安国師の主張よりも円熟成長している。

馬祖道一禅師の直弟子である斉安国師は、

孫弟子である大イ大円禅師よりも円熟していない。

ここで大イ大円禅師の主張の極致は

一切衆生無仏性」である。

空々漠々として規準を超越したものであるなどと、

とりとめのないことをいわず完全に自家薬籠のものとして、

受持しているのである。


コメント

ここで道元は斉安国師は馬祖道一禅師の直弟子であり、

大イ禅師は馬祖道一禅師の孫弟子であるが、

この場合には馬祖の孫弟子である大イ大円禅師の主張の方が、

直弟子の斉安国師の主張よりも円熟成長していると

斉安国師の主張よりもイ山霊祐禅師の見解の方を高く評価している。

図20 に塩官斉安禅師とイ山霊祐禅師の法系図を示す。


図20

図20 塩官斉安禅師とイ山霊祐禅師の法系図


   

この法系図を見ればわかるように、

斉安国師は馬祖道一禅師の直接の弟子であり、

大イ禅師(イ山霊祐禅師)は馬祖道一禅師の孫弟子であることが分かる。

また、仏性(真の自己)に関心をもったり、

議論することは臨済宗系の禅に強いことが分かる。

イ山霊祐禅師はイ仰宗の開祖であり、臨済宗や曹洞宗から少し離れた存在である。
   
   
   
   

この大円禅師の主張をさらに懸命に参究して見るべきである。

一切衆生が、どうして仏性と同じであろう。

どうして仏性を具えているだろうか。

もし衆生が仏性を具えているならば、これは魔物のたぐいであるだろう。

一切衆生の上に、魔物という別のものを持ち来って、

これに重ねるようなものである。

仏性は、仏性にほかならず、衆生は衆生以外の何物でもない。

衆生は元来、仏性を、具えている訳がない。

たとえ具えようと求めても、

その努力にもとづいて仏性がはじめてやって来るのではないという趣旨である。

八さんが酒を飲んだら熊さんが酔っぱらったというような理屈の通らないことをいってはならない。

もし万一にも、仏性を具えているようなものがあったとしたら、それは衆生ではない。

また衆生は、究極的に、仏性とは別物である。


コメント

ここで注目されるのは道元の意見と主張である。

道元は一切衆生が、どうして仏性を具えているだろうか。

もし衆生が仏性を具えているならば、これは魔物のたぐいであるだろうと

衆生は本来仏性を具えていない」と厳しく主張しているのが注目される。。

この主張は第8文段で道元が主張していることと同じである。

仏性・1 第8文段を参照)。

また道元は

衆生は、究極的に、仏性とは別物である

とも言っている。

このような主張に対し、我が国の白隠慧鶴禅師は「坐禅和讃」で

衆生本来仏なり」と詠っている。

これは

衆生は本来仏性を具えている」と主張している

のと同じである。

また白隠禅師は「坐禅和讃」で

衆生近くを知らずして遠く求むるはかなさよ

例えば水の中にいて渇を叫ぶが如くなり

衆生と仏性が不即不離であると詠っている。

道元と白隠の仏性観が正反対であるのが注目されるところである。


白隠慧鶴禅師の「坐禅和讃」を参照)。


   

道元を開祖とする日本の曹洞宗では

仏性を見る見性を重視しないし、見性を否定する人さえもいる。

そのような傾向は

衆生は本来仏性を具えていない

と主張する上記の道元の考え方に由来するのだろうか。


   
   

このような理由から、百丈禅師は言った、

衆生に、仏性が具わっていると説くことも、三宝に対する冒涜である

衆生に、仏性など具わっていないと説くことも、また三宝に対する冒涜である。」

したがって「仏性が具わっている」と主張することも冒涜となり、

仏性など具もっていない」と主張することも、同じように冒涜となるのである。

しかし、たとえ それが冒涜になるからといって、

このことをいわないでよいということにはならない。


コメント

塩官斉安禅師は「一切の衆生には、仏性がある」言ったが、

イ山霊祐禅師は「一切衆生無仏性」と

塩官斉安禅師の主張と一見正反対の主張をして禅界を混乱させた。

このような混乱を見た百丈禅師は言った、

衆生に、仏性が具わっていると説くことも

衆生に、仏性など具わっていないと説くことも、また三宝に対する冒涜である。」

この百丈禅師の言葉は

衆生に、仏性が具わっていると説いても、具わっていないと説いても

ともに三宝に対する冒涜となるから

仏性を具有するかどうかを考えたり論ずるのは有害無益である。」

と言っていると考えることができる。

百丈禅師はどうして

衆生に、仏性が具わっていると説いても

具わっていないと説いても、ともに三宝に対する冒涜となる。」 と考えるのだろうか?

その理由や根拠を述べていないのではっきりしないが

次のように考えると理解することができる。

もし、衆生に、仏性が具わっていないと説くと、

大乗涅槃経の経文「一切衆生悉有仏性」に反する。

大乗涅槃経の経文「一切衆生悉有仏性」は釈尊が説いたと述べられている。

大乗仏教徒は「一切衆生悉有仏性」は釈尊が説いたと信じている。

従って、もし、衆生に、仏性が具わっていないと説くと、教主釈尊の言葉を否定することになる。

これは三宝に対する冒涜となる。

逆に、衆生に、仏性が具わっていると説くと、

どうして三宝に対する冒涜となるのだろうか。

これも次のように考えれば理解できる。

もし、衆生に、仏性が具わっているならば、

仏教に基づいて修行する必要もないし、三宝を崇拝する必要もない。

これは仏教や三宝否定論に帰着する。

このような理由から百丈禅師は

衆生に、仏性が具わっていない」と説いても、

衆生に、仏性が具わっている」と説いても、

三宝に対する冒涜となる

と考えたのではないだろうか。

道元はこの百丈禅師の言葉について、

しかし、たとえ それが冒涜になるからといって

このことを言わないで良いということにはならない

仏性とは何かを探究すべきである。」

と述べていることがわかる。

そこで大イ禅師と百丈禅師とに質問しよう、

ちょっとお聞きしたいのですが、たしかに冒涜ということがない訳ではありません

しかし仏性については説き得たのでしょうか。それともまだなのでしょうか。」

もし仮に説き得ているのであれば、

それは説いたという行為をその中に内包していることであり、

説いたという行為があるならば、それは同時に真理を聞いたということであろう。

また大イ禅師に対していいたいものだ。

あなたは「一切衆生無仏性」といい得たけれども、

一切仏性無衆生(一切の仏性と衆生とは別個のものだ)」

とはいっていないし、

一切仏性無仏性」ともいっていない。

まして「一切諸仏無仏性」を、まだ夢にさえ見たことがないようである。

そこで試みに、お前の主張を述べて見よ。点検してやろう。



コメント



ここでは、道元自身が大イ禅師に対して質問して見たいことは、

「あなたは「一切衆生無仏性」と言うことができたが

一切仏性無衆生」とか「一切仏性無仏性」とも言っていない。

ましてや「一切諸仏無仏性」を、

まだ夢にさえ見たことがないようである。

本ホームページの結論は本来の面目(=真の自己)や仏性とは、

  参禅修行によって健康になった下層脳(脳幹+大脳辺縁系)中心の脳のことである。

禅の根本原理と応用」を参照)。

下層脳は無意識脳であるから、

「一切仏性無仏性」や「一切諸仏無仏性」の「」と共通している。

道元が特に強調したかったのは、

仏性(=下層無意識脳)の「」という性質(本質)ではないだろうか。





     

参考文献など:



1.道元著 水野弥穂子校註、岩波書店、岩波文庫、「正法眼蔵(一)」1992年

2.安谷白雲著、春秋社、正法眼蔵参究 仏性 1972年

3.西嶋和夫訳著、仏教社、現代語訳正法眼蔵 仏性 第四巻



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