2008年3月作成  表示更新:2021年9月12日 
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第5章 日本の禅とその歴史: その2



5.23   盤珪の「不生禅」



盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師(1622−1693)は江戸時代初頭に活躍した臨済宗の禅僧である。

自らの修行遍歴の体験から、「不生の仏心」を説く独自の「不生禅」を創始した。



盤珪禅師像

盤珪永琢禅師像



5.24

5.24  盤珪の一生と禅




1.発心と修行



盤珪は元和八年(1622)三月八日に播州(兵庫県)網干の浜田で生まれた。

彼の実家は代々医者だった。

盤珪は幼時から気宇人に優れたものがあり、神童視された。

十二歳の時、儒者について儒教の基礎的経典である四書の一つである『大学』を学んだ。

その時、

大学の道は明徳を明らかにするに在り

という冒頭の一句に出くわしたが、

明徳とは何か?

ということがどうしても分からなかった。

明らかな徳であるというなら、何故改めて明らかにする必要があるのか

天から賦与された霊妙で明らかなものが明徳だというが

自分のどこにその明徳があるのだろうか?」

という疑問に取りつかれたのである。

盤珪はこの疑問をぜひとも解決したと思い、儒者に尋ねたが、どの儒者も知らなかった。

盤珪は或る儒者に正直に打ち明けると、儒者は

そのような難しい事は

よく禅僧が知っているから禅僧に聞いたらよい

われらは四書五経などの道理はよく分かるが明徳というものはどのようなものかは知らない

と言った。

とはいっても、近くには禅寺がなかったので、いろんな所に出かけて説法や講釈を聞いたが、

なかなか明徳は明かにならなかった。

このようにして盤珪の疑情はますます増大し

学業のみならず一切の仕事も手につかなくなってしまった。

その結果、盤珪は長兄の正休によって放逐されたが、

助けてくれる知人のお陰で庵を結び、修行を続けた。

十七歳の時盤珪は赤穂随鴎寺の雲甫全祥(うんぽ・ぜんしょう、1568〜1653)

について出家得度した。

雲甫は甲斐恵林寺の火定で有名な快川に参じ、

備前三友寺の南景に嗣法した峻厳な本格的禅僧であった。

雲甫の下で修行しても「明徳」の問題を解決することはできなかった。

盤珪は二十歳の時この師のもとを辞して、諸国を行脚して善知識(善き指導者)を探し求めたが、

遂に明師に出会うことはできなかった。

彼は七日も十日も物を食べずに命を失うことも顧みずに岩の上に直(じか)に坐禅したり、

京の五条橋下での四年間の乞食、嵯峨の松尾大社の拝殿での昼夜不臥の断食摂心、

豊後大分の山村での癩病の乞食との同居など、命がけの苦修を続けたが、

明徳に対する疑問」を明らかにすることはできなかった。




2.大悟とその後の聖胎長養



二十四歳の時盤珪は随鴎寺の本師雲甫(うんぽ)和尚のもとに戻り播州赤穂の野中村に庵を建てた。

そこで決死の覚悟でこの難問を解決しようと徹底した蟄居生活を始めた。

彼は一丈四方の小部屋で昼夜寝ずに念仏と坐禅三昧の生活に入った。

しかし、問題は解決することなく、心労のあまりついに大病人になり、

痰には血が出るようにまでなった。

七日間食事も通らず死を覚悟するまでになった。

丁度その時咽が変に覚えて、痰を壁に吐きかけると,

真っ黒な"むくろじ"のように固まった痰」がころりころりと落ちて来て、

胸のうちがどうやら心地よくなった。

その時盤珪はひょっと

一切の事は不生で調うのではないか。」

と気付いた。

そう気付くと今までの修行は無駄な骨折りだったと、自分の非を知った。

そこで胸中がすがすがしく覚えて嬉しい気持ちになった。

そうなると食欲が勃然と湧いてきて食事も進み病気も快方に向かった。

ある朝盤珪は外に出て顔を洗っていた。

その時川上から風に乗って漂って来た梅香を嗅いだ途端、

従来の胸中の疑情がからりと消え去り桶底の脱する思いがした。

その時彼は不生にして霊明なる仏心を悟ったのである。盤珪26才の時であった。

盤珪はその時の経験を


古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ


と、歌に残している。

実に苦節十四年後の大悟であった。

これほどの苦行をして悟った人は古人でも珍しいと言える。

死の一歩手前まで行った切実な経験から、盤珪は僧俗の弟子達に対しては、

別段極端な骨折りをしなくても「不生の仏心」を分かりさえすれば良いという

不生禅」を説くようになる。 

大悟した盤珪が随鴎寺に帰り、

雲甫和尚に所解(しょげ、悟った境地にたいする自分の見解)を呈した。

雲甫は

お前は達磨の骨髄(禅の真髄)を会得した

しかし、そこに安住せずに、諸方の名僧に参問して更に向上を目指さねばならぬ。」

と言って励まし、

愛弟子の一層の大成を期待した。

盤珪の悟後の修行はここから始まった。

三十歳の時盤珪は、雲甫の命により、明からの渡来僧、

道者超元(どうしゃちょうげん、1602〜1662)に参じるために長崎まで出向いた。

道者は盤珪に向かって、

汝は己事に撞着すといえども、未だ宗門向上の事を明らめず

(貴公はすでに心眼を開いてはいるが、まだ更なる上の境地が分かっていない)」

と述べた。

盤珪は当初は道者のこの言葉に承服できなかったが、

道者の力量を認めて、門弟となって崇福寺で修行に専心した。

大衆に混じって修行を始めた盤珪は、明朝風の経文の読み方など、道場の規則に従わなかった。

道者はそのような盤珪を指摘し、責めると、

盤珪は

私は正法自覚の大事のためやむにやまれず、特にここに来ている

中国の規律をまねる必要はなく、日本の規矩に従う

と答えた。

その後、道者はこのことについて何も責めなかったと言われる。

彼の日本人としての誇りと主体性を失わない態度が見て取れる。

そして翌年、大衆と共に禅堂内で坐禅中に豁然(かつねん)と大悟した。

直ちに道者の方丈に至り、

問答商量の末に大事了畢(仏法の一大事である真の境地を体得したこと)を認められた。

道者による証明の後も盤珪は典座職(台所役)となって職務に精励していた。

釈迦降誕日に寺内の僧侶一同が花御堂の前に集まっていた。

道者禅師は修行僧達に、

降誕の仏はどこから来るか?」

と尋ねたが誰も返答できなかった。

道者は盤珪を呼んで質問すると、盤珪はさっと立ち上がって両手で天地を指差した。

人々はその働きを賛嘆したと伝えられる。

後に道者は盤珪の開悟を記念して、次のような詩偈を贈っている。




玉鶏(ぎょくけい)殻を琢破(たくは)して鳳凰堕出し来る

天人 上瑞を観て 心眼 自然に開く

現代語訳

盤珪の開悟は殻を破って出てきた鳳凰のように目出度い。

天人も人間もこのすばらしい一事に心眼が自然に開くようだ。



後年、六十九歳になった盤珪は道者を懐古して次のように述べている。

その時道者の言われましたのは、お手前は生死を超えた人じゃと申されましたが

その時分の知識(僧侶)の中でも、まだ道者ばかりがようようと少しばかり証拠に立ってくれられた

ようなことでござれども、さりながら、それでも十分には道者も肯いませなんだ事がござったわい

今その時のことを思いますれば、今日は道者も十分には許しはしませぬ

もし道者が帰国めされず、ただ今まで日本に生きておじゃりましたら

もっとよい人にしてやりましょうものを

早く死にやりまして、不仕合わせな人でござったが

それが残り多う(大いに心残りで)ござる

盤珪がこのように言い切れるのは、道者の会下(えか)で大事了畢(だいじりょうひつ)の後も、

更に自分の境涯を練り上げて向上の一路に邁進した結果と言えるだろう。

盤珪は言う、

禅を参究する古今の者で、ひとたび悟りを得る者がいない訳ではない

しかし、それに尻をすえて向上を怠れば、少を得て満足してしまうことになる

その後、よほど大法に切実でなければ、法の円熟は期待できない

また、彼はこうも言っている。

身どもが二十六歳の時、播州赤穂郡野中村で庵居(あんご)の時に体得した道理と

また道者に相見して(修行成就の)印可証明を得た時と今日とでは

その道理においてはその三度の間にいささかの違いはない

しかし、法眼が円明になり大法に通達して大自在を得たという点では

道者に逢った時と今日とでは天地遙かに隔たるほどである

お手前方もこうしたことがあることを信じて、どうか法眼成就の日を期してもらいたい

三十歳の時、盤珪は道者の印可を得た。

31歳の時、悟後の修業のため道場を離れて奈良の吉野山(奈良県吉野郡黒滝村笠木)

に入って庵を結んだ。

今その場所には、「盤珪和尚草庵遺跡」の碑が建っている。

盤珪が山居生活に入った夏はことのほか旱(ひでり)が続いたので、

土地の百姓は雨乞いを盛んにした。

しかし、雨は一向に降らなかったので、百姓達は禅師に雨乞いをお願いした。

そこで、盤珪は「うす引き歌」を作り百姓に与え、これを氏宮で歌い、踊るように言った。

村童、老若男女が氏宮で集まって踊ったところ

、雨が思うままに降り村人はおおいに喜んだと伝えられている。



うす引き歌」とは臼歌とも言い、臼をついたり引いたりしながら歌う労働歌のことである。

うす引き歌」は盤珪の不生・本心・本来の面目の悟りを歌ったものである。

うす引き歌」は当時の盤珪の悟境を良く言い現わしている。

人々がこれを歌い踊るうちに、歌の 真意が分かるように工夫され、独特の魅力を持っている。

以下に「うす引き歌」の中からいくつか引用する。




usu

  盤珪禅師「うす引き歌」



不生不滅の本心なれば、 地水火風は仮の宿

(不生不滅の本心が宿るこの身体は地水火風の四大元素からなる仮の宿のようなものだ。)


生れ来りしいにしえ問えば、何も思わぬこの心

(我が身がこの世に生まれて来た昔を考えると、

何も思わない無念無想の清浄本源心と共に誕生したのだ。

煩悩はその後に身につけたもので元々は無かったのだ。)


来る如くに心を持てば 直にこの身が生如来



(この世に生まれて来た昔の無心な清浄心に立ち返れば、そのままこの身が生き仏である。)


迷い悟りはもと無いものじゃ、親も教えぬ習いもの



(不生の本心は親から教えられて習うようなものではなく、迷いや悟りも元々無いものだ。)


無為の心はもとより不生、有為が無き故迷い無し



(不生の本心には元から、はからいや変化はないので心に迷いも無い。)



嬉しめでたや老せぬ君に、尋ね会うたりゃ我ひとり



(嬉しく目出度いことに、不老不死の不生の本心に遂に会うことができたが、

会って見ればそれは 真の自分自身であった。)


仏道修行をつとめし後は、何も変わりは得ぬものぞ



(仏道修行に励んだ結果、悟ったけれども以前と特に変わりはない。)

奇妙不思議は一つも無いぞ、知らにゃ世界が皆不思議



(悟って見ると、世界の一切がありのままに見えてくる。そこには奇妙で不思議なことは一つも無い。

むしろ悟る前の方が皆不思議に見えたものだ。)



悟ろ悟ろとこの頃せねば、朝の寝ざめも気が軽い 



(この頃は悟ろう悟ろうと求める心が止んだので、朝もすっきりと目覚め心も軽いものだ。)



く養う浄土はここよ、五万五万の億も無し



(安養浄土(=極楽浄土)は、お経に説かれるように、

西方十万(五万五万)億土の遠くにあるのではない。

煩悩苦患が無い真の極楽浄土は今この我が身にあるのだ。)



安養浄土はここより外に、五万五万の億も無し



(安養浄土(=極楽浄土)は、お経に説かれるように、

西方十万(五万五万)億土の遠くにあるのではない。 

今ここにあるのであって、この身の外にあるのではない。)



五万五万の億も無し、安養浄土はここじゃもの



(安養浄土(=極楽浄土)は、西方十万(五万五万)億土の遠くにあるのではない。

 今、この身にあるのだ。)



我と浄土をたづねて見たら、けつく仏に嫌われた



(真の自己と浄土を外に求めて尋ねたら、見当外れのことをするなと仏にきつく嫌われたものだ。)



因果歴然わがなすことを、知らで迷うは身のひいき



(因果の法則を知らずに、悪業を重ねて迷うのは我執・身びいきからくるものだ。)



仮の火宅に心を止めて、我と燃やして身を焦がす



(火宅に喩えられるこの世の五欲

(財産欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲)に執着し追い求めるのは、

我と我が身を燃え焦がすようなものだ。)

惜しや欲しやと思わぬ故に、いわば世界が皆わがものじゃ



(この世の五欲(財産欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲)

への執着から離れてみれば、この世界の一切が我がものとなる。)



昔思えば夕べの夢じゃ、とかく思うは皆うそじゃ



(昔思い迷っていたのを今思えば、はかなく消える夢のようなもので、本物ではない)



この例に見るように、盤珪の「うす引き歌」は不生の本心を分かり易く詠ったものが多い。

このため、「本心歌」とも呼ばれる。



吉野から再び美濃に移った盤珪は、玉龍庵に庵居した。

徳を慕って十数人の者が随侍したという。

その時の逸話として、癩病の乞食が時々やって来るのを皆が嫌がったが、

盤珪は自分の持鉢(じはつ)で毎回癩病人に食べさせたので、

一同は慚愧したという話が伝えられている。

明暦元年(1655)三十四歳の時、盤珪は五人の雲衲(うんのう、禅の修行者)

と共に長崎の道者超元を再訪した。

当時、道者の法淑(ほっしゅく)の隠元が来朝し、両徒間の軋轢(あつれき、摩擦)

が生じたので、道者は明国に帰らざるを得なくなった。

隠元はその後、京都の宇治に黄檗山万福寺を開創して黄檗宗(おうばくしゅう)を弘めた。

盤珪は長崎から平戸に移り、平戸藩主・松浦鎮信(まつらしげのぶ)の尊信を受けた。

越前福井の大安寺では名僧の誉れ高き大愚宗築(たいぐそうちく、愚堂国師の道友)

に相見、問答商量している。

三十四歳の時、盤珪は江戸に出向いた盤珪は、「悟後の修行」として

浅草駒形堂付近で乞食をして悟後の修行をしていたと伝えられる。



3. 教化と禅風 




盤珪三十六歳の時、四国伊予の大洲(おおず)藩主加藤泰興(かとうやすおき、

大洲藩二代藩主、1611〜1678)は返照庵を建立して盤珪を招いた。

秋には盤珪は郷里に帰り、長福寺を再興し、冬には備前岡山の三友寺において

法兄の牧翁祖牛和尚より嗣法の印可状を得た。

越えて三十八歳の時、京都に上り、大本山妙心寺の前版職に転じ、「盤珪」と称することとなった。

盤珪はこれより各地を回って説法や摂化(せつけ)(衆生済度)に勤める。

その拠点となったのは、盤珪創建の三大寺として知られる、

網干(あぼし)の龍門寺・大洲の如法寺・江戸の光林寺である。

四十三歳の時、京都の山科に地蔵寺を再興し、寛文十二年(1672)盤珪五十一歳の時、

妙心寺第218世の住持となり、紫衣を賜った。

盤珪四十歳の時、竹馬の友である郷里浜田の富豪灘屋・佐々木道弥が

二人の弟と共に、盤珪を開山とする龍門寺を建立した。

龍門寺は盤珪禅の根本道場となった。

龍門寺創建当初のものと思われる偈頌(げじゅ)が残っている。 




庵中独り弾ず没弦琴

聴き得て何人か竹林に到る

調べは古く格は高し我家の曲

普天匝地(ふてんそうち)知音少(ちいんまれ)なり


現代語訳

この龍門寺に閑居して弦のない琴(無分別智)で悟りの歌を日夜奏(かな)でている。

果してこの竹林軒(盤珪の居室)を訪う者のうち、その真意を分かる者がどれほどいるだろうか。

わたしが説く仏法の調べは古く格調は高い。

この広い天下を見渡して見ても私の悟境を分かってくれる人は少ない。


若い時からの苦修のせいで病弱であった盤珪は、四十三歳の時に京都山科の地蔵寺に住して以来、

この地の閑静さを愛してたびたび閉関した。

「閉関」とは固く門戸を閉ざして坐禅修行に集中することである。

盤珪自身は当時の人々の心の働きを見て、何とかして一言で人々の心に伝えたいと思い、

不生』ということだけを強調する禅を創始した。

盤珪四十八歳の時、大洲藩主加藤泰興(かとうやすおき、1611〜1678)は

伊予の大洲に如法寺を創建し、盤珪を開山として迎えた。

盤珪は如法寺の裏山が山紫水明絶妙なのに感嘆し、

ここに奥旨軒(おうしけん)という草庵を建てて閉関した。

後に盤珪は公案を排斥するようになるが、この頃はまだ公案を使用して修行者を

接得していたと伝えられる。

信徒が応接に暇(いとま)もないほど殺到してくるので、

五十歳の冬には英霊漢二十数名を引き連れて再び奥旨軒に閉関し、

一冬の間に横になって寝る者が一人もいないような激しい修行を行った結果、

悟る者が多かったという。

かくして、元禄六年(1693)九月三日に七十二歳で龍門寺において遷化(せんげ、逝去)するまで、

盤珪は諸方で結制(修行僧の期を定めての集団的修行)すること十五度に及んだ。

元禄四年(七十歳の時)の龍門寺での結制では、実に千三百人の僧侶が結集したという。

在俗の男女の聴聞に参集する者その数を知らず、仏教各派の僧侶や儒者までもが弟子の礼を取り、

その指導を受けたという。

盤珪の弟子の数も、男僧四百人あまり、尼僧二百七十人、法名を授けられ弟子の礼をとった者

五万人あまりと伝えられる。

彼の開創した寺院は四十七、歿後に勧請(かんじょう)して開山とした寺院も百五十あまりにのぼる。

その仏道と徳の影響力が如何に広大なものであったかが知られる。

盤珪は六十九歳の時、東山天皇から「仏智弘済」という禅師号を受けた。

死後50年忌には桜町天皇から「大法正眼」という国師号を贈られた。

盤珪の人格について、

風格は超逸であり、しかも淳実慈愛

と評されている。

大慈悲心の権化(ごんげ)

ともいうところがあった。

しかし、明眼を持った盤珪は自在に人を見徹して、邪見を持った人をも帰服させる智慧の人でもあった。

その禅風は

身どもは仏法をも説かず、また禅法をも説かず

といい、

ただ「身の上批判」をして

不生の仏心

を説くだけであったため、

不生禅

と呼ばれている。

古来の棒喝を行じて来た禅僧とは異なり、盤珪は自らの体験の真実を伝えるため、

漢文によらず分かり易い平話を用いて説法した。

五万人とも言われる多数の僧俗を安心立命させたと言われる。

女性に対する説法においては、

不生の仏心は平等である

という考えに基づいて、

少しも男女の隔ては無いと言う立場であった。

男とか女とかは、一念が生じた後の名前であって、

不生の場では男女の相(差別)は無いと教えている。

ある女性が

女は業が深く成仏は難しいと聞いているが、本当でしょうか?

と聞いたのに対し、

盤珪は、

あなたはいつの間に、不生の仏心を業深い女にすり替えてしまったか

と答え、

男女の差にとらわれた心を打破しようとしている。



盤珪は弟子達から特別扱いされるのを嫌った。

地蔵寺にいた時のこと、斎時になったので食事をした。

盤珪は言った、

今日の食事は良く煮えて味が良いな」。

給仕の小僧が言った、

和尚さんの召し上がっているのは、鍋の中で選んで差し上げているのです。

盤珪は言った、

誰がこの食事を盛ったのか?

小僧が言った、

祖教さんです」。

盤珪は言った、

あさましいことだ。鍋の内で差別をしているではないか」。

盤珪はそう言って、その後ずっと食事を食べなかった。

それを聞いた弟子の祖教も同じように食事をしなかった。

このようにして数ヶ月たった。

盤珪は弟子の祖教も同じように食事をしないことを聞き、始めて食事をしたとのことである。

同様なことはよくあったと伝えられている。

また、ある時、若宮庄屋よりお城の慈光院殿へ小さい茄子の初なり二個が献上されて来た。

慈光院はそれを如法寺へ献上した。

典座の祖徹は小さな茄子二個では大衆皆に食べさせることはできないと考えて

師(盤珪)一人に汁の具にして差し上げた。

盤珪は少し食べてから言った、

今日城から献上されて来た茄子はどうしたのか?

祖徹は困ったがありのままに言った。

すると盤珪は大変怒って、

わしに毒を食べさせるのか

と言ってその汁を食べなかった。

翌朝の小食も日中の食事も食べようとしなかった。

祖徹はじめ老僧達皆がいろいろとわびを言ったので、ようやく食事をするようになったとのことである。

この例に見られるように、盤珪は身をもって弟子達を教化したことが分かる。

彼は臨済宗に属する僧であったが、公案をほとんど用いなかった。

臨機応変の活作略(かっさりゃく、活き活きした対応)により

立ちどころに学人の眼を開かせたところに盤珪禅の特徴がある。

彼は大梁、逸山、節外、祖量、寂阿、潜嶽、大隋などと多く優秀な弟子を育てた。

しかし、その法系は長続きしなかった。

不生禅は盤珪1人の圧倒的な人格に依存したところが大きかったようである。

盤珪の法系は白隠に比べ長く続かなかったのは惜しまれてならない。



龍門寺創建当初のものと思われる盤珪の偈頌に出ていた没絃琴という言葉は

禅僧達に好まれたようである。

良寛禅師(1758〜1831)の「静夜草庵の裏」という詩にも次のように用いられている。



motugenkin

良寛の詩に見る没絃琴




静夜草庵の裏



独り奏す没絃琴

調べは風雲に入りて絶え

声は流水に和して深し

洋々として渓谷に盈(み)ち

颯々として山林を渡る

耳聾漢(つんぼ)に非るよりは

誰か聞かん希声音



星野清蔵氏の現代語訳

静かなる夜、草庵の裏。

独り、無絃の琴を奏でてみる。

調べは、風に和し、雲にとろけて絶え入り、

声は流水の響きに従って深く洋々として渓谷に盈(み)ち、

颯々として山林を渡る。

耳聾漢(つんぼ)でないかぎり誰かこの類希(たぐいまれ)なる声音を聞くものがあろうか。

まことの耳聾漢(つんぼ)こそ、この天籟の声音を聞きうるのだ。




良寛のこの詩は閑居の境涯を情感豊かに歌っている。第二句に没絃琴という言葉が出ている。

また第七句と八句は没絃琴とは何かを説明している。

「真の耳聾漢こそが天籟の声音を聞くことができる」とは無分別智の本体が

無意識の下層脳(=真の耳聾漢)であることをはっきり表わしている。

良寛の詩は盤珪の偈頌と似たところがあるが、良寛の詩の方が文学的情感にあふれ分かり易い。




注:

星野清蔵: 良寛の研究者(1888〜1962)で著書に「良寛の詩境」がある。




5.25

5.25  「不生」の意味について 




盤珪の不生禅は日本で生まれた日本的な禅と言えるだろう。

ところが不生禅の不生という言葉の由来がどこから来たのかはっきりしない。

不生禅の不生という言葉はどこに由来するのだろうか。

盤珪禅師の法語には

生まれ附きたる心が、不生不滅の佛心也。不生にして霊明なものが佛心

佛心は不生にして、一切事がととのう。」と言う言葉が見られる。

これより不生とは生まれないという意味ではなく

不生不滅

という意味であることが分かる。

しかし、盤珪のこの考え方は現代の我々から見るとおかしい。

心は赤ん坊の誕生と共に脳の神経細胞のネットワークの中で生まれ、

育ちながら変化する。

心の源となる脳の神経ネットワークは

誕生→成長→老化→死

のプロセスを経て変化する。

ある禅僧が大人になって禅修業をして悟った時、

生まれながらにして持っている心が、不生不滅の佛心である

不生にして霊明なものが佛心である

佛心は不生にして、一切の事がととのう。」

と思ったにしても、

それは開悟の時に感じた彼の実感や印象に過ぎない。

幼児期の心がどうであったかはとっくに忘れている。

あくまでその時実感に過ぎないだろう。

老年になって、

脳が老化して認知症(アルツハイマー病など)

が出てくることは今ではよく見られる病気である。

認知症(アルツハイマー病など)は7人に1人が罹ると言われ、

今では大きな社会問題となっているほどである。

多くの禅僧について、死の時どうであったかの記述は良く見られる。

しかし、その禅僧が老いて死に至る最晩年までボケないで、

不生不滅の佛心が保持され意識、記憶が維持され

意識がクリアーであったかどうかについての検証は殆どない。

盤珪が主張する「不生不滅の佛心」という認識は大応国師にも見られる。

脳科学の観点からは、「盤珪の不生不滅の佛心」という認識は明らかな間違いといって良いだろう。



5.26 盤珪の不生禅は阿字本不生からだろうか?



秋月竜a氏は盤珪の不生禅の「不生」という言葉は真言密教の阿字本不生から

出たものではないかと推察しておられる。

阿字観とは梵字の阿字を見ながら瞑想(坐禅)するイメージ瞑想法のことである。

阿字は梵字の先頭の文字で物事の根源を表わしている。

阿字は集合論ではゼロに、易では太極に相当する。

自性清浄心をも表わしている。神話では宇宙を生み出した混沌(カオス)である。

大日如来の法界体性智は自性清浄な智慧だとされているので自性清浄心に近いところがある。

法界体性智と阿摩羅織を参照

このため本不生(何者からも生まれていない)の存在である。

その中に全てを内包し、そこに全てのものを見ることができるとされる。

阿字観は、阿字を観じることによって、諸法本不生の理を証し、自らの仏性を自覚する瞑想だと考えられている。

阿字観は東密・台密双方で行われた。明恵上人も阿字観を行ったと伝えられる。

盤珪も参禅する前には郷里の円融寺の怪雄法師の下で密教を学んでいるので

真言密教の阿字本不生という考え方を知っていた可能性は高い。

以上のことから、この説には説得力がある。


真言密教の「一切諸法本不生」とは

全てのものはあるがまま既に現れており、新たに生れるものはない

という意味である。盤珪の不生禅はこの考えに近いように思われる。




5.27 大珠慧海が説く不生 



唐代の大珠慧海(馬祖道一の法嗣)はその著「頓悟要門」で不生について、

妄念がもとより不生で、空無であると識るのが禅である。」

と述べている。

この考えだと不生とは

妄念が無い純白な心(=自性清浄心

と言うことができよう。

「盤珪が説く不生の仏心もこの自性清浄心だ」

と考えることができるのではないだろうか。

自性清浄心については法界体性智と阿摩羅織を参照




5.28 盤珪の不生の仏心とは何だろうか? 



盤珪は不生の仏心について次ぎのように言っている。



例1. 



そなたの何のおもひがけなくてござるに、うしろからせなかを人が錐で突かば

痛ふ覚えやうか、覚えまいか。痛ふ覚えやうがの。」

 

(盤珪仏智弘済禅師御示聞書)。


例2. 



この会座にては、それがしが申す事をこそ、聞かせられふとおぼしめす念迄でござるに

此寺の外にて犬の声や物売りの声のするを、此説法の内に聞かれられふとはなけれども

面々耳に聞こえまする。是不生心と申すものでござる

たとえば不生と申すものは、明らかなる鏡のようなものでござる

鏡という物は我に何にても移りたらば、見ようとは存ぜねども

何にても鏡に向えば、その貌が写りませいでは叶わぬ。」

(盤珪禅師御示聞書)。

 「禅師衆に示して曰く、皆親の産み付けてたもったは、仏心一つでござる

余のものは一つも産み付けはしませぬ。その親のうみ附てたもった仏心は不生にして

霊明なものに極りました。不生な仏心、仏心は不生にして霊明なものでござって

不生で一切事がととのひまするわひの

その不生でととのひまする不生の証拠は

皆の衆がこちらむひて、身どもがかふ云う事を聴いてござるうちに

後にて烏の声雀の声、それぞれの声を聞こうと、思う念を生ぜずに居るに

烏の声雀の声が通じわかれて、間違わずに聞こゆるは

不生で聞くといふものでござるわひの。」

 (盤珪禅師御示聞書)。



例3.



師衆に示して曰く、「身どもが各へ云うい聞けまする法は別の事にあらず

人々生まれ備わりたる不生の佛心のことなり

その故いかんと云うに、この坐の面々身どもが法語を聞かるゝ内に

この寺の外に、犬が吠えれば犬と知り、鴉が鳴けば鴉と知り

或るいはまた目に黒白の色、男女の差別を見分けること

法語の内に、犬の声鴉の声を聞き

黒白男女の色を見んと思う念慮はなけれども

この坐に於いて、一つも残さず、分別己前に見聞せらるゝ。」

(佛智弘済禅師法語一)



例1では不意に背中を突かれて痛いと感じる主、

それが不生の仏心だと言っている。

これは痛覚の主(脳)を不生の仏心だと言っている。 

例2では聞こうとは思わなくても聞こえる

烏の声や雀の声を聞いている主を

不生の仏心だと言っている。

これは無分別で聞く聴覚の主を不生の仏心だと言っているのである。

痛覚や聴覚の主体は脳である。

盤珪のいう不生の仏心は脳を指していることは明らかである。

しかし、単なる脳ではない。坐禅修行を通して明浄な状態にまでなった脳のことである。

坐禅修行では主として下層脳が活性化し全脳が健康になる。

「禅と脳科学1」を参照

坐禅修行を通して明浄とも云える様な健康な状態になった脳

無分別智の本体)であると言えるだろう。

これは例3でも同様である。

例3で注目されるのは

一つも残さず、分別己前に見聞せらるゝ

と分別意識が生じる以前に見聞する働きであるとはっきり言い切っている。

盤珪はこの働きが無分別智であるとはっきり認識していたのである。

これで盤珪の云う不生の佛心とは<無分別智の本体

下層脳優勢の脳とその働き)であることが分かる。



盤珪は、仏心は親から生まれたときに受け継いだものであって不生不滅なものであると説く。

しかし、仏心だけを持って生まれたものの、成長につれて喜怒哀楽の「念」を

覚えてしまい、念に囚われて仏心を持っていることを忘れることが

問題であると言う。

憎い可愛い欲しい惜しいといった念は自分に対する「身びいき」から

生じるものであり、

念に囚われず仏心のままに生きることができれば

その人はそのまま仏であると説いている。



「妄想を静めることは難しいのですが」と尋ねられた盤珪禅師は、

「静めようと思うのも「念」であるから、静めようとも静めまいとも考えないほうがよい。」

「お酒が好きで飲みたいと思っても、飲まなければ健康でいられる。

念が生じても、生じるまま消えるままにして、念を用いもせず嫌いもしなければ、

不生の心の中へと消滅してしまうものである。」

「念とは実体があるものではなく、例えて言えば、鏡に映る影のようなものであり、

鏡は向こうにあるものを映すが、鏡の中に影を留めることはしない。

仏心は鏡よりも万倍も明らかで霊妙なものであるから、

一切の念はその光の中へ消えて跡形も無くなる。」

と答えている。



盤珪の不生禅はややもすれば「自由気まま」と誤解されやすい。

しかし、あくまでも「念」に囚われることを厳しく戒め、

仏心のままでいるよう厳しく自律することを我々に求めているのである。




5.29   盤珪の不生禅と「即心是仏」 




盤珪禅師の不生禅は日本で生まれた日本的な禅と言えるだろう。

盤珪禅師はその語録を読むと実に個性的で魅力的な人物であったことが分かる。

不生禅は日本で生まれた庶民的な禅と言える。しかし、その法系は現在まで至っていない。

その禅は日本的であるが真に独創的なものであったかと言うと疑問である。

「不生の佛心」は馬祖道一禅師以来の「即心是仏(or即心即仏)」

の思想と基本的に同じだと思われるからである。

「無門関」30則「即心即仏」を参照


盤珪の禅思想は一言で表現すると「不生万調(不生の心で万(すべ)て調(ととの)う)」であろう。




5.30  盤珪禅師の公案禅に対する見方




盤珪禅師は公案禅について質問した僧に対し

身どもが所で其のような古ほうぐの詮議はいたさぬ。」

と答えている。

また「古人が公案などで提撕する(ていぜい=教え導く)のは学道のためになるでしょうか?」

という質問には「馬方、船頭のことまで知らるるものではない。」と答えている。

盤珪禅師は公案を「古ほうぐ」であるとしてそんなに重要視していない。

古ほうぐ」とは書き損ないの古紙のことである。

盤珪の自由で主体的な考え方が伺えて面白い。

「臨済録」の示衆で臨済は「一切の経典はすべて不浄を拭う反古紙である。」と言っている。

「臨済録」示衆10−1を参照

この反古紙を古ほうぐと言っているとすれば臨済の言っている経典の代わりに

公案を置き換えたものであることが分かる。

公案を「古ほうぐ」であると言う盤珪の思想は臨済の自由な批判精神に通じるものがある。

一神教では「聖書」や「コーラン」を非常に大切にする。

もし一神教の世界で、「聖書」や「コーラン」を「不浄を拭う反古紙(尻ふき紙)である。」

とか「古ほうぐ」であると言ったらとんでもないことになろう。

筆者には経典や公案を「古ほうぐ」であると言う盤珪や臨済の自由な批判精神

一神教よりはるかに進んだ思想のように思われる。

無我の思想」を重視する仏教と一神教の違いだろうか?




5.31   盤珪禅と日本禅の三大流




盤珪禅師は

日本人は日本人に似合うたように、平語で問ふがようござる

日本人は漢語につたなうござって、漢語の問答では思うやうに問ひつくされぬものでござる。」

と説く。

盤珪禅師は漢語をなるべく用いず日本人が話す日常語を用いて説いた。

秋月竜a氏は日本禅を次の三大流に分けて考えておられる。


道元の日本曹洞宗



応・灯・関(大応、大灯、関山)から白隠に流れた日本臨済宗



.盤珪の不生禅



は基本的には中国禅の流れであるのに対し、

の不生禅は臨済系の禅から生まれているが極めて日本的な禅と言えるのかも知れない。





5.32
5.32  白隠の禅



白隠禅師像

白隠禅師像



白隠の一生



1685年

駿州駿東郡浮島原(現在の静岡県沼津市原)で生まれる。幼名岩次郎。

白隠は天性利発で記憶力が良かったと伝えられている。



1699年 (15才)

出家の志が強く、遂に両親は出家を許した。

15歳の時、彼は松蔭寺三世単嶺祖伝和尚について出家得度した。



1708年(24才)

越後高田の英厳寺で性徹和尚の「人天眼目」の講義に出席した。

この時白隠は寺の裏のお堂で徹底して坐禅に専心し、

趙州無字」の公案に取り組んでいた。

「無門関」第1則「趙州狗子」を参照

十余日を経て、一夜暁に至るまで坐禅して、鐘の声を聞いて見性した。

その時白隠は

やれやれ、巌頭和尚はまめ息災であったわい!巌頭和尚はまめ息災であったわい!

と思わず叫んだと伝えられる。

大悟した白隠は所見を性徹和尚に呈したが、相手にされなかった。

しかし、白隠は

三百年来、自分のように痛快に悟った者はいなかった

このような自分の機鋒に当たる者がいようか

と慢心するに至った。

偶然英厳寺にいた宗覚(正受老人の弟子)から大禅者正受老人(道鏡慧端)のことを聞き、

信州飯山の正受庵に行き滞在する。正受老人に参禅すること8ヶ月、

その蘊奥を極め、正受老人の法嗣となった。

その後松蔭寺(沼津市)に帰った。 



1710年(26才):

 見性後の虚脱感、倦怠感に悩まされる。 

参禅に力を入れ過ぎたため、白隠の精神状態は急速に悪化する。

心気逆上、肺臓の痛み、両脚の冷え、玄覚、発汗、催涙状態に悩む。

この病を治すため、京都北白河の山中に住んでいた白幽子という仙人に会いに行き、

白幽子から内観の秘法を授かる。この内観の秘法によって難病を遂に克服する。



1718年(34才):

白隠と号す。



1726年(42才):

秋の一夜、法華経を読み耽っていた時、こおろぎのすだく声が耳に入ってきた。

その時豁然として法華経の深い真理を悟った。

この時正受老人の心が分かり

従前の悟解了知は大いに錯っていた

と知り覚えず声を放って号泣したと言われる。

白隠の年譜ではこの悟徹以前を因行格(自己究明の修行の自利行の時代)の白隠とし、

これ以降を果行格(教化と利他行の時代)の白隠と区別している。

白隠禅の真骨頂はこの体験で明瞭に顕れたと考えられている。



50才代〜60才代:

諸方の寺に招かれて講義に明け暮れる毎日だった。

元気な法施の毎日だったが79才になってちょっと病気に罹ったが、

それでも講義や提唱を止めようとしなかった。



1763年(78才):

三島(静岡県)の龍澤寺を中興し、開山となった。



1768年(84才):

84才になった正月に

老僧今年84じゃが、このような正月に会うたことがない

これも東嶺和尚のお蔭じゃ。めでたや!めでたや!

と言ったと伝えられる。

この年の11月、病が重くなって松蔭寺に帰った。

医者が白隠を診て、

この様子ではたいしたことはありません

と言ったところ、白隠は

三日前に人の死を予知できないようでは良い医者とは言えない

それは、めくら医者だ

と言った。

遂翁を呼んで後事を託した後、

12月11日朝大吽一声して死去したと伝えられる。享年84才。

明和6年(1769年)、後桜町天皇より神機独妙禅師、

明治17年明治天皇より正宗国師の諡号を賜った。



5.33   白隠禅師と盤珪禅師の法系




日本臨済禅中興の祖と言われる白隠慧鶴の法系は次のようである。




大応国師→大燈国師→関山慧玄・・・愚堂国師妙心寺137世

→至道無難禅師→

正受老人道鏡慧端→白隠慧鶴




これに対し、盤珪永琢の法系は次のようである。



大応国師→大燈国師→関山慧玄→・・・雪江宗深(仏日真照禅師、1408〜1486)

・・・南景宗嶽→雲甫全祥→牧翁祖牛→盤珪永琢



このように、白隠と盤珪は共に大応国師→大燈国師→関山慧玄・・・の法系、

即ち「応燈関の禅」の法系を受け継いでいる。

現在日本の臨済宗は白隠宗と呼ばれるくらい白隠の法系で占められている。

その意味で日本臨済宗は「応燈関の禅」の法系を継承していると言われる。

室町時代の風狂の禅僧として知られる一休宗純(1394〜1481)も「応燈関の禅」の法系である。

応燈関の禅」の影響力が如何に大きかったかを示している。





5.34

 5.34  白隠と念仏禅




中国では宋・元代以降禅と念仏の融合が進み、禅は急速に衰退して行った。

白隠は明末の禅僧雲棲シュ宏(うんせいしゅこう、1535〜1615)や永覚元賢の念仏禅を退けた。

念仏禅では念仏と坐禅の二つの修行を双修することで力が分散し、

どっちつかずで見性もできない安易な禅になったからだと考えられる。。

著書「藪柑子」において、

白隠は

「「禅がもし浄土を兼ねれば、その禅は必ず直ぐに亡びるであろう

と言っている。

白隠は江戸時代に黄檗宗を伝えた隠元禅師(1592〜1673)

を妙心寺に迎えることに反対した。

隠元の黄檗宗では臨済禅に明代の念仏禅を加えていたからだと考えられる。

実際中国では清朝に入ると仏教は念仏禅一色になり、

隋・唐以来の諸宗は全て姿を消し、白隠が言ったように、禅宗自体も衰亡して行った。




5.35

 5.35 白隠禅の特徴 



白隠は「息耕録開延普説」で次ぎのように説く、

「参禅には次の三要(三要素)が必要である。

1.大信根、2.大疑情、3.大憤志 の三つである。

この大信根大疑情大憤志

で無字の関門を突破し見性する。

しかし、「息耕録開延普説」で説かれた大信根、大疑情、大憤志

の三要素は白隠の独創ではないようだ。

朝鮮系の語録「禅家亀鑑」には

参禅には須らく三要を具すべし

一に大信根有り。二に大憤志有り。三に大疑情あり。いやしくもその一を欠けば

折足の鼎の如し。終に廃器となる。」

と述べられているからである。

白隠はまず

見性することで禅の第一関門を突破する

ことが大事であると考えた。

しかし、見性だけで満足してはだめだとする。

まず「見性」を経験した後、

悟後の修行(聖胎長養)」で悟りを深めなければならないのである。

見性」と

悟後の修行」の2つがそろって禅の完成があると考えたのである。

(1)「見性」と

(2)「悟後の修行

の二段階は白隠禅の2本柱で白隠の独創と言えるだろう。

白隠禅では禅の最大の関門は「見性」であるとする。

本来の面目」を覚知自証した後は、

各修行者は「悟後の修行」によって

悟りの内容を深めることになる。

この考え方は実践的にも簡単で分かり易い。

悟後の修行と聖胎長養」は

大燈、関山が重視したものであり、日本禅の特徴となっている。

大燈は20年、関山慧玄は9年、

白隠の師正受老人(道鏡慧端)は44年の聖胎長養の時を持っている。

白隠はこれを取り入れたと言える。

一生を通した禅と悟りの追求を考えたからであろう。

これは、一生現役で働きたいと考える日本のサラリーマンの考え方に通じるものがある。

図5.7に 「見性」と

悟後の修行」から成る白隠禅の二段階の禅を示す。




図5.7 


図5.7「見性」と「悟後の修行」から成る白隠の二段階の禅




5.36  関東辣破:白隠の正三観




白隠の著書「宝鑑貽照(ほうかんいしょう)」に次の言葉がある。

汝知らずや正三の言えることを、関東辣破(らっぱ)は必ず禅に近しと。」

白隠は関東辣破の勇猛な行動性は正三の禅の精神に近いと言って高く評価していたことが分かる。

辣破とは戦国時代の忍者のことで荒くれ者とか無頼漢のことを意味する。

正三の禅は「仁王不動禅」と呼ばれる。

仁王や不動のような激しく厳しい心を持って坐禅し、その気持ちを一日中持続せよ。」

という禅である。

仁王不動禅」は戦場体験から生まれた禅と言える。

白隠は見性には大信根、大疑情、大憤志の三つ(三要)が必要であるとした。

白隠は先輩正三の「仁王不動禅」に大憤志を見たのではないだろうか?



第5章5.37

 5.37  白隠禅師の「動中の正念工夫」と静中の工夫




白隠は

動中の正念工夫は静中の工夫に勝る

と言う。

禅定中では、脳幹、大脳辺縁系の無意識が活性化している。

この時視床下部にある欲心と扁桃体にある貧愛の心は充分コントロールされ安定化している。

痴は大脳前頭葉の知性や理性の支配下にある。

このように、三毒の内

貧瞋」の二毒は定力(禅定力)によって充分コントロールされるし、

(おろかさ)」

の毒は大脳前頭葉の理性の支配下にあって消失する。

  従って定と慧が働いていれば

貧・瞋・痴

の三毒は減少消失する。

このことは定と慧が働いていれば戒律が不要であることを意味する。

坐禅修行から生まれる禅定力によって

貧・瞋・痴

の三毒は無くなるからである。

唐代の大珠慧海は

戒・定・慧」の三学は禅一つに統一できることを示した。

「三学の統一」を参照

三学統一」の根拠がここにあると考えることができるだろう。

唐代の大珠慧海はその著「頓悟要門」において定と慧を日常生活に働かせることを

定慧一体

と言っている。

「定慧一体」の思想を参照

これは白隠の言う

動中の正念工夫

に相当するだろう。 

動中の正念工夫は静中の工夫に勝る

という白隠の考えが目指すものは

日常生活において定力と理性(慧)を働かせることで貧・瞋・痴の三毒を

解消させることにあるのではないだろうか。

こう考えれば正三の「世法即仏法」の考えと同じである。

図5.5参照する

ブッダも八正道で「正念」と「正定」を言っているので、

動中の正念工夫

は原始仏教の「八正道」にも繋がる優れた考え方といえる。






5.38   白隠の「隻手の声」の公案 




白隠禅師には「隻手の声を聞け」という有名な公案がある。

音は両手を打って初めて出る。勿論片手で音が出る訳はないから隻手の声を

聞こうと思っても聞くことはできない。

修行者は師家に

隻手の声を聞きました

と答えればば、

片手で音が出る訳はない。どうして隻手の声を聞くことができたのか?」

と反問される。

もし「聞くことはできませんでした。」

と言えば

何とかして聞いて来い。」

と要求される。

だから、師家に

隻手の声を聞きました

と答えれば良いのだろうと考えて、

隻手の声を聞きました

と答えれば、

出ない音をどうして聞くことができたのか?」

と反問される。

この問答の繰り返しになる。

この繰り返しで修行者はだんだん追い込まれ、絶体絶命のところまで追い詰められる。

この問題は正、誤の判断を司る理知(大脳前頭葉などの理知脳)では解決できない。

臨済は

今現在、目の前で聴法している汝自身が祖仏に他ならない(汝面前聴法底))。」

と言って説法を聞いている主体(脳)が祖仏だと言っている。

「臨済録」示衆1−2を参照

この公案の目的は、

音を聞いている主体は何か

という問いに全意識を集中させることで

自己本来の面目(下層脳を主体とする脳)を覚知させるところにあると考えられる。

坐禅によってこの公案に全意識を集中させると脳幹中心の無意識の心までを

総動員して何とか解決しようとする。

このことで自己本来の面目である下層脳にまで集中し「見性」する

ところにあると思われる。




5.39

5.39 公案の体系化



公案の体系化は鎌倉時代の円爾弁円(えんにべんえん、1202〜1280)に始まる。

彼は千差万別の公案を「理致・機関・向上」

の三つに分類し公案の体系化を試みた。

大応国師(南浦紹明、1235〜1309)も

この宗に三重の義あり。いわゆる理致・機関・向上」これなり。

理致というは、諸仏の所説、並びに祖師の所示の心性等の理語なり

次に機関というは、諸仏祖師の真の慈悲をたれて

いわゆる鼻をひねり眼を瞬かせて云う、『泥牛空を飛び、石馬水に入る』等これなり

のちの向上というは、仏祖の直説、諸法実相等

『天はこれ天、地はこれ地、山はこれ山、水はこれ水、眼は横、鼻は直』等これなり。」

と言っている。

このような公案の分類や体系化は中国宋代の禅匠達によって試みられていたと考えられる。

しかし、公案の体系化を意識的に推し進め、今日の公案禅を大成したのは

白隠慧鶴(1685〜1768)とその門下の東嶺円慈(1721〜1792)である。

これは「白隠下の公案体系」と呼ばれている。

白隠下の公案体系」は「法身、機関、言詮、難透、向上」の五よりなる。

これは円爾弁円や大応国師の「理致・機関・向上」の三分類を五分類にしたとも言える。

白隠下の公案体系」の「法身」は円爾弁円や大応国師の「理致」に対応し、

機関、言詮、難透、向上」が「機関・向上」に対応している。

円爾弁円や大応国師の三分類が五分類と複雑になっているが本質的には同じである。

公案体系の各項目は分かり易く言えば次のような内容である。


「法身」

「理致」や「法身」とは禅の悟りの基本となる公案のことで

、円爾弁円や大応国師の「理致」と同じである。

趙州の無字の公案など「本来の面目」や「仏性」などに関する基本的な公案をさす。

この公案を透過することがいわゆる「見性」という段階である。

全ての公案はみなこれを根本とし、畢竟これに帰着する。



「機関」

「本来の面目」や「仏性」などが日常の実生活で働き作用する場面を

祖師達がどのように対処したかを具体的な「禅問答」

に見て心境を深め、練磨する。

悟後の修行のための公案である。



「言詮」


不立文字の禅の悟りと法理を言葉でなんとか表現すること。

「楞伽経」には宗通(宗旨に通じる)とか説通(表現・教化に通じる)

と言われ白隠下で特に加えられたカテゴリーである。

白隠が文学的表現を重視したからだと思われる。




「難透」

透過し難い公案である。




「向上」



山上なお山ありと言われるように禅の悟りの境地には終わりがない。

ともすれば停滞しがちな法見・仏見

(法を尊び仏を重んじてこれらに執らわれる見解・境地)を乗り越え、

野狐禅的禅臭・悟臭を抜くための公案である。



白隠下の公案体系」は円爾弁円や大応国師の三分類が五分類と複雑になっているが

本質的には同じであることが分かる。

白隠禅師は「五百年不世出」と呼ばれ日本臨済禅中興の祖とされる。

日本の臨済宗は白隠の法系で占められ白隠宗とでも言われるような発展をする。

その理由として白隠の法嗣には東嶺円慈・遂翁元盧など多くの偉材がいたことの他に、

このような「公案体系」を開発したことが考えられる。

公案体系」を実践追求して行けば着実に悟境を深めることができたからである。

その意味で「公案体系」」は禅のマニュアルとでも言えるだろう。





5.40

5.40  白隠禅師の坐禅和讃




白隠は禅を庶民にも分かり易く説いた。次ぎの坐禅和讃が有名である。



衆生本来仏なり。 水と氷のごとくにて水を離れて氷なく

衆生の外に仏なし

衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ

たとえば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり

長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず

六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇地なり

闇地に闇地を踏みそへて、いつか生死を離るべき

それ摩訶衍の禅定は、称嘆するに余りあり

布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等其品多き諸善行

皆此の中に帰するなり

一座の功をなす人も、積みし無量の罪ほろび

悪趣いづくにありぬべき、浄土即ち遠からず

辱くも此の法を、一たび耳にふるゝ時、讃歎随喜する人は

福を得ること限りなし

いはんや自ら廻向して、直に自性を証すれば

自性即ち無性にて、既に戯論を離れたり

因果一如の門ひらけ、無二無三の道直し

無相の相を相として、行くも帰るも余所ならず

無念の念を念として、謳ふも舞ふも法の声、三昧無碍の空ひろく

四智円明の月さえん

此時何をか求むべき、寂滅現前するゆえに、当処即ち蓮華国

此の身即ち仏なり



六趣: 天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの迷いの世界。六道ともいう。

六趣輪廻: 天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの迷いの世界を生まれ変わること。

摩訶衍(まかえん): 大乗仏教。

波羅蜜(はらみつ): 布施、持戒、忍辱(にんにく)、精進、禅定、智恵の六つの実践徳目。

六波羅蜜のこと。

「六波羅蜜」を参照

回向(えこう): 回向返照(えこうへんしょう)、本心を明らめること。

因果一如の門:原因としての衆生は結果である仏と同じであるという法門。

衆生と仏は本質的に同じであるという法門。

無二無三の道:二でも三でもない仏への一つの道。

仏へ至る一つの道。

四智(しち):大円鏡智(だいえんきょうち)、平等性智(びょうどうしょうち)、

妙観察智(みょうかんさつち)、成所作智(じょうしょさち)の四つの智恵。

四智は仏の智慧とされる。

清く輝く心−四智を参照

蓮華国(れんげこく):仏の国。極楽浄土。

現代語訳


私たちは本来仏である。

それは ちょうど水と氷のようなもので水がないと氷ができないのと同じように

衆生の他に仏はないのである。

私たちは本来仏であることを 知らずにあちこち 探しまわるのは むなしいことだ。

それは、たとえば水の中にいながら、「喉が渇いた!」と 叫んでいるようなものだ。

本当は裕福な家(仏の家)の子として生まれて、とても幸福なはずなのに、

そのことに気付かず、「わたしは不幸だ」と嘆いているのと 同じことだ。

いつまでも苦の世界から抜け出すことができない原因は

真実を知らずに自分の境遇をくよくよと嘆くためだ。

無明の闇から闇を歩いているばかりでは生死の苦しみからいつ離れることができるだろうか?

大乗仏教の禅定修行は特に素晴らしい功徳があり、私たちの大きな支えとなる。

布施や持戒などの善行念仏懺悔修行等などさまざまな善行のすべては

禅定修行に帰り着くのである。

ひととき、静かに坐禅すれば今まで積み重ねた悩みごとや不安などは消滅してしまうのだ。

悪い事など一体どこにあるというのだろうか。

極楽浄土は何も遠くにあるのではない。今、ここにあるではないか。

ありがたいことに、 この教えを一度でも 耳にした時に深くほめたたえて、

受け入れる人はかならずかぎりない幸福を手に入れるだろう。

ましてやみずから坐禅して「本来の自己」を明らかにすれば、

自己の本質は無性であり、すでにつまらない議論や煩悩を越えているのだ。

その時、仏と一体という法門が開き、仏への悟りの道が直通するのだ。

どこにも本来決まった形がなく、どこに行っても心に安らぎがある。

心には何もこだわりが無いので、歌っても舞っても そのまま仏法にかない毎日が楽しくおだやかだ。

心は澄み切った大空のように広がり清らかな月のような悟りの心が輝いている。

この時、ほかに何を求める必要があろうか。

心が静まり、究極の安心が得られた今、この世がそのまま極楽であり

この身がそのまま仏なのだ。


   

この坐禅和讃を読めば、白隠は「此の身即ち仏なり。」としている。

このことから白隠は仏としての自覚を得ていたことが分かる。

白隠が説く禅宗は仏になる(成仏)のための「仏乗」であり、

単なる菩薩乗(大乗)ではない」ことが分かる。





5.41

5.41  白隠の健康法 




白隠は26才頃、参禅に力を入れ修行するあまり、精神状態は急速に悪化した。

虚脱感、倦怠感、心気逆上、肺臓の痛み、両脚の冷え、玄覚、発汗、

催涙状態など十二種の凶相に悩まされるようになった。

いわゆる禅病と言われる病気(神経症、ノイローゼあるいは結核か?)に罹ったのである。

彼はこの難病を治療するため京都北白川の山奥に住み、

深く医術に達していたいた白幽子(はくゆうし)という仙人の評判を聞いて訪ねた。

白幽子より教えて貰った内観の秘法を実践したため、病気が治り、

すっかり元気を取り戻すことができた。

白隠は著書「夜船閑話」にその内観の秘法を書いている。

白幽子が白隠に教えた方法は「内観の秘法」と「軟酥(なんそ)の法」である。



内観の秘法

白隠は言う、

坐禅修行によって、心火が逆上すれぱ

身心ともに疲れ、五臓の調和が乱れることがある

いかなる医療によっても治すことのできない病であるが、ここに煉丹の秘訣というものがある

これを実践するならぱ、必ず目覚ましい効果があるであろう

この秘訣を修めるには、参禅工夫はひとまずおいて、まずぐっすり一眠りすることだ

まず(仰臥して)眼をつむって、しかも睡り込まないで

両脚を強く踏みそろえるように長く伸ぱして

体中の元気をして臍輪、気海、丹田、腰脚

そして足心に充たすようにする.そして次のような観想(イメージ)をするのである。」



1. わがこの気海丹田腰脚足心、まさに是れわが本来の面目、面目なんの鼻孔かある

( 私の気海丹田、腰脚足心がまさに私の本来の面目である。

その本来の面目の鼻孔はどこにどのように付いているのか?)

2. わがこの気海丹田、まさに是れわが本分の家郷、家郷なんの消息かある

(私のこの気海丹田がまさに私の本分の家郷である。その本分の家郷からの消息はどういうものだろうか?)

3. わがこの気海丹田、まさに是れわが唯心の浄土、浄土なんの荘厳かある

(私のこの気海丹田がまさに私の心の浄土である。その浄土はどのように荘厳されているのだろうか?)

4. わがこの気海丹田、まさに是れわが己身の弥陀、弥陀なんの法をか説く

( 私のこの気海丹田がまさに阿弥陀仏(己身の弥陀)である。

その阿弥陀仏(己身の弥陀)はどのような仏法を説いているのだろうか?)


以上のように繰り返し観想(イメージ)しながら

長い呼気の丹田呼吸をするのが内観の秘法と言われるものである。



白隠は言う、

このように繰り返し、繰り返し観想していくならば

やがて、一身の元気はいつしか腰脚足心に充足して、臍の下が瓢箪のようにふくらみ

皮で作った硬い蹴鞠のようになる

このような観想を一週間ないし三週間続けるならぱ、それまでの五臓六腑の気の滞りや

心気の衰えのための冷や汗、疲れといった症状はすっかり治るであろう

もし治らなければ、老僧の首をやってもよろしい」。

内観の秘法の第3項と第4項を見れば分かるように、

白隠は「己身の弥陀」の思想を持っていたことが分かる。

己身の弥陀」の思想は白隠の「坐禅和讃」にも見られる。

「己身の弥陀」の思想を参照




軟酥(なんそ)の法


軟酥(なんそ)とは軟らかなチーズかバターのような滋味豊かな伝説上の食べ物である。

まず座禅を組み身心を充分リラックスさせる。

眼は半眼に開き、呼吸を整えた後、次のようなイメージを心中で想像する。

軟酥(なんそ)(いろんな仙薬を練って鴨の卵大に丸めた軟らかいクリーム状の薬)」

が頭上に載ってる。

その「軟酥」は、色美しく香り高い薬である。

それが、体温で溶けて、だんだん流れ下るのを観想(イメージ)する。

頭は、すっかり濡れ、こめかみも潤し、両肩から両腕、手先まで溶けたものが染み渡る。

背中もお腹も濡れそぼり、皮膚を通して溶け込んで、

胃から肛門までの諸器官、背骨や肋骨などまでを潤し、ゆっくりと流れくだってゆく。

同時に、胸中にある苦悶・煩悩・こだわりや、身体の痛みなどが、

さらさらと流れくだってゆくのを感じる。

こうやって流れくだった仙薬(軟酥(なんそ))は足の裏まで潤し、

あたかも桶にたまるように、体温で溶けた薬が腰の高さまで溜まり、

そのなかで温浴する状態になる。

この間、ずっと良い香りをかぎ、

心身のバランスが良くなることを感じ、元気が出てくるのを自覚する。




上述のような一種のイメージ療法が「「軟酥」の法」と呼ばれるものである。 

これらは腹式呼吸法とイメージ瞑想を組み合わせた独特の健康法で

白隠の健康法」として後世多くの人に影響を与えた。それはもはや秘法でも何でもない。



 5.42 曹洞宗と臨済宗 




日本の禅宗は曹洞宗と臨済宗に大別できる。鈴木大拙博士によれば次ぎのようにまとめられる。

日本の曹洞宗は道元宗というものになって道元禅師その人がありがたいということになっている。

曹洞宗は道元禅師の人格に集中している傾向がある

道元禅師を批判的に見るようなことは殆どない。

その意味で曹洞宗は道元宗である。

これと対照的に臨済宗は道元禅師のように特定の人を立て神格化するような傾向はない。

それで自然に法に集中するというようなことが残った。

曹洞宗は道元の著書「正法眼蔵」の研究に大きなエネルギーを費やす。

これを研究するのに一生を没頭していると言ってもいいくらいである。

日本の臨済宗は公案を立てる看話禅であるが、

曹洞宗は公案を立てず只管打座の黙照禅である。

日本の臨済宗は中興の祖である白隠慧鶴禅師の法系である。

白隠禅師は公案中心の禅を確立したため現在の臨済宗は公案中心の看話禅である。





5.43  曹洞宗の複雑な宗風 




道元が中国で師事した天童如浄は中国曹洞宗の法系である。

従って道元の禅は曹洞禅と言っても良いだろう。

道元は在家による坐禅修行も否定していないが、

出家し俗世との関わりを一切遮断しての禅を最上とした厳しさがある。

仏教を開いた釈尊そのものに近づこうとする、

求道的な「正伝の仏法」の追求こそが

道元の真面目(しんめんもく)といえるだろう。 

道元の教えは純粋で複雑なところは無い。

ところが道元の死後、

彼の「正伝の仏法」は弟子達の間でどんどん世俗的・儀礼的なものを取り入れ、

変容して行った側面も持っている

曹洞宗では道元を高祖承陽大師と呼ぶ。

道元は釈尊以来の「正伝の仏法」を純粋に追求し、禅宗や宗派に閉じこもるのを嫌った。

道元は曹洞宗の開祖になるなんて少しも考えなかったであろう。

曹洞宗では道元を高祖と呼ぶ。

高祖とは遠い先祖という意味だから、曹洞宗(日本曹洞宗)がそこから始まったという意味であろう。

ところが、曹洞宗には宗祖道元以外にも重要は人が存在する。

それが太祖と呼ばれる瑩山紹瑾(けいざんじょうきん、1268〜1325)である。

曹洞宗では道元が父に当たる存在であるとすれば、瑩山禅師が母に当たる存在とされている。

このような高祖や太祖と呼ばれる存在を持つ宗派は他には例を見ない。

瑩山紹瑾は法系上で父(高祖)とされる道元に会ったことはない。

道元の死後15年後に生まれた人であるからだ。

瑩山紹瑾は密教も学んだ。母ゆずりの観音信仰に篤い禅師であった。

彼は正伝の仏法を追求するより、

民衆に布教することで曹洞宗の教腺を拡大することに努力した人である。

道元とはどこか毛色が違う。

螢山禅師が太祖と呼ばれるのは曹洞宗が宗派として彼によって成立し大発展をしたからである。

曹洞宗の事実上の開祖と考えても良いほど重要な人物である。

高祖とは一宗一派を開いた高僧をさす。

太祖は、物事がそこから始まったおおもとの始祖をさす。

道元は曹洞宗の原理原則を創始した人、

瑩山紹瑾は日本曹洞宗を実際上成立させた人という意味であろうか。

これを次の図5.8に示す。

図5.8

図5.8 曹洞宗の高祖と太祖


瑩山紹瑾は禅だけでなく密教も学んだ。観音信仰に篤い禅師であった。

螢山禅師が太祖と呼ばれるのは曹洞宗が実際上そこから大発展をしたからである。

道元教団はそれまで曹洞宗とよばれていなかった。

あまりにも小さな教団であったからである。

曹洞宗(日本曹洞宗)の複雑なところはその大本山にも見られる。

曹洞宗の大本山は二つあるのである。

ひとつは、雪深い福井県永平寺町の永平寺

もうひとつは、現在、横浜市鶴見区にある総持寺である。

そのほかには、曹洞宗に本山はない。




5.44  初期曹洞宗教団内での紛争 : 三代相論 




初期日本曹洞宗僧団内で「三代相論(さんだいそうろん)」と呼ばれる紛争が発生し混乱したことが知られている。

「三代相論」とは永平寺3世徹通義介を巡る争いであるとされる。

ただし、その内容や歴史的経緯については異説も多く、

「三代相論」が何を意味するかについて未だ結論は出ていない。 

三代相論とは、文永4年(1267年)からおよそ50年間にわたった曹洞宗内の宗門対立の総称である。

開祖道元の遺風を遵守する保守派と民衆教化を重視した改革派の対立と考えることができるだろう。

永平寺の禅風は道元の没後、第二代懐奘(1198〜1280年)を経た第三代徹通義介の時大きな転換期を迎える。

永平寺三世となった徹通義介の禅の特徴は徹通義介(永平寺三世)とその一党には真言宗の出身者が多かったことである。

義介が開いた加賀大乗寺は地元の有力者が真言宗の僧侶のために建立した真言宗寺院だった。

義介自身も天台宗を学んだ。

このことからも徹通義介の禅は禅密並修に近いと言えるだろう。

義介は懐奘(永平寺二世)の要請によって入宋し、4年間各地の名刹を遍歴したとも言われている。

帰国後は入宋遍歴で学んで来た成果を永平寺の伽藍整備や各種の儀式の規範整備に反映させ、永平寺の運営に努力した。

彼は出家者のためだけの永平寺ではなく、世俗への布教と調和発展を図ろうとしたと考えられる。

このような路線は道元の出家者を中心とする修行中心(只管打座)の路線と明らかに違う。

このため、道元の説いた求道的な禅を守り続けようとする寂円をはじめ、

永平寺第四代義演等の保守派(道元の遺風を守る原理主義派)と意見の対立が生じ、

1272年徹通義介は永平寺を退き、門下である瑩山紹瑾らと共に大乗寺へ移った。 

これがいわゆる「三代相論」と言われる曹洞宗内部の紛争の真相だと考えられるだろう。

これは次のような保守派と革新派の対立の図にすると分かりやすい。



図5.9


図5.9 「三代相論」は道元の路線をめぐる保守派と革新派の対立であった


この紛争は道元の遺風を守ろうとする保守派の勝利に帰し、永平寺四世は保守派の義演、永平寺五世も保守派の義雲になった。

永平寺五世の義雲は一旦荒廃した永平寺の再興に力を尽くしたため、「五世中興義雲大和尚」と呼ばれている。

義雲は保守派の寂円の高弟であった。

義雲の後 永平寺住持は24世に至るまで宝慶寺(ほうきょうじ、福井県大野市)から入っている。

 宝慶寺は寂円禅師が開山となった保守派の寺である。

このように、「三代相論」の後永平寺は道元の遺風を守る寺として存続した。

道元の遺風を守る寺としての伝統は現在にまで至っている。

三代相論の後も、道元教団は相変わらず小さいままで、揮わなかった。

むしろ、 そのままでは消え去る運命にあったと言えるだろう。 




5.45

5.45  瑩山紹瑾と曹洞宗の興隆




こうした状況下に後に曹洞宗の太祖とうたわれた人物が登場する。

三代相論で敗れた徹通義介(永平寺三世)の高弟で

大乗寺二世の瑩山紹瑾(1268〜1325)である。

瑩山は師僧義介の遺志を受け継ぎ道元以来の出家修行に加えて、

密教的な加持、祈祷、祭礼などを取り入れ、

永光寺を伝道の拠点として下級武士や商人に禅を広げて修行人口の拡大をもたらした。

これには、瑩山が依拠した寺院が、

以前の白山系の山岳宗教である天台寺院(天台白山系)であったことや、

禅密兼修的傾向の法灯派の禅僧と瑩山との密接な関係が影響を及ぼしたとも考えられる。

また、晩年の道元は女性の出家修行に否定的だったとも言われているが、

瑩山は積極的に門下の女性を住職に登用し、女人成道の思想を推し進めた。

今日の曹洞宗の隆盛は瑩山とその門下によるものであると言ってよく、

このため第4世でありながら開祖道元と共に宗祖として尊崇されている。

道元が曹洞宗の原理的思想を打ち立てたとすれば瑩山紹瑾は

それを民衆に親しめる信仰にしたと言えるだろう。

実際道元の思想は貴族的高踏的で民衆には親しみにくい。

曹洞宗が民衆に根を張るには瑩山のような人物が必要となったと思われる。

曹洞宗が民衆に根を張るに際して葬式儀礼を重視したので葬式仏教化した。

道元の求道的な只管打座に基づく「正伝の仏法」は余りにも純粋であったため、

彼の後継者には受け入れられず、

4代の法孫である瑩山紹瑾によって世俗化路線にはっきりと変化したのである。

また、瑩山門下には四哲と呼ばれる明峰素哲、無涯智洪、峨山紹碩、壺菴至簡

をはじめとする俊英逸材が多数輩出し曹洞宗教団の興隆の基礎を固めた。

そのうち、明峰素哲(めいほうそてつ、1277〜1350)

峨山紹碩(がざんしょうせき、1275〜1366)は

法の明峰伽藍の峨山」と並び称された。

1681年の調査では永平寺の末寺1,370寺に対し、総持寺の末寺は1,6179寺を数えている。

この数字は総持寺を中心とした瑩山門下によって曹洞宗教団が興隆したことを示している。

このようにして日本を代表するような大教団が瑩山派によって成立したのである。

以下に瑩山の行動を幾つか見てみる。

1285年、螢山は 諸国行脚に立つ。

宝慶寺に寂円(道元の遺風を遵守する保守派の禅師)などを訪ね、

比叡山に上って天台教学を学んだ。

1286年 、義介のもとから離れ、諸方を訪ねた。

まず寂円に学び、後に、東山湛照、白雲慧暁ら臨済宗の諸師を訪ね、

紀伊由良の興国寺に心地覚心(臨済宗の禅師)を訪ねた。

1321年 能登で寄進された律宗系の寺院を禅院化して総持寺を開山する。

上の例に見るように、瑩山紹瑾は天台教学を学んだり、臨済系の禅を心地覚心に学んでいる。

瑩山が訪れた、東山湛照、白雲慧暁、心地覚心は禅密兼修の禅師である。

能登では律宗系の寺院を寄進され、禅院化して総持寺を開山している。

このような例に見られるように彼の行動は幅広くこだわりがない。

道元と異なる広い視野と思想を持った人物だったといえるだろう。

これには瑩山の師僧であった義介禅師の影響が考えられるだろう。



5.46  曹洞宗初期の禅師達 




孤雲懐奘(こうんえじょう、永平寺二世、1198〜1280):

もと天台宗の僧で浄土教や密教を学び、

日本達磨宗の仏地覚晏に参じて禅を学んだ。

仏地覚晏は達磨宗の開祖大日能忍の高弟である。

1234年道元を訪ね弟子となった。

懐奘は仏地覚晏の勧めで道元の門を叩くに至ったと言われている。

懐弉は道元より二歳年長の弟子であった。

日本達磨宗の開祖大日能忍の死後、

達磨宗から数十名が集団改宗し道元教団に帰依した。

この集団改宗は達磨宗の出身である懐弉が勧誘したためと考えられている。

日本達磨宗と比叡山とは敵対関係にあった。

このことが原因で道元教団は比叡山と不和になり、

道元は越前に移動し永平寺を建てたと考えられている。 

道元の信頼が篤く道元の死後永平寺二世住持となった。

徹通義介(てっつうぎかい、永平寺三世、1219〜1309):

波著寺で日本達磨宗の懐鑑の下で1231年頃出家した。

比叡山で受戒した後興聖寺で道元の弟子となる。加賀大乗寺の開山となる。革新派。

義演(ぎえん、永平寺4世、?〜1314):

義演は元々、越前の日本達磨宗の波著寺で日本達磨宗の懐鑑の下で仏法を学び、

仁治2年(1241)に初めて道元禅師に会って、弟子となった。

道元禅師の生前中には、侍者として仕え、

後に「永平広録」を編集するに当たり中心的役割を果たした。

道元の枯淡な禅風を忠実に守ろうとする保守派の禅師。

寂円(じゃくえん、1207〜1299):

中国・洛陽出身の中国人である。

中国(南宋)の天童如浄禅師の下で修行していた道元禅師に出逢ったことを機縁として、

後に道元を慕って日本に来朝してその門人になった。

 道元禅師亡き後に懐弉禅師の法嗣となる。

越前国大野に宝慶寺を開いた。

寂円禅師の系統は寂円派と呼ばれ、道元の遺風を守ろうとする保守派として知られる。

同系統は後々まで永平寺の住持を務めることになる。

中国天童山の如浄禅師の下で修行しているときに、日本から来た道元禅師に出逢い、

その道心篤いことに感動する。

そこで、如浄禅師が亡くなると、日本に来て道元禅師の弟子になることを願い、

その大願を実現した。

来朝の時期は安貞2年(1228)であったと(一説にはその前年)されている。

日本に来てからの寂円禅師がどのような修行をしていたかは詳しくは知られない。

道元禅師が興聖寺から永平寺に移る際に同行して、

永平寺に建てられた如浄禅師の塔所である承陽庵の塔司を務めた。

道元禅師が示寂すると、その弟子である懐弉禅師に参じて、悟りを開いて法嗣となった。

その後、知円沙弥という者が越前大野に宝慶寺を開くと、

寂円禅師を拝請したため、その開山として寺に入ることになった。

なお、現在でも宝慶寺の近くには、寂円禅師が坐禅をしたという坐禅岩というものがある。

義雲(ぎうん、永平寺5世、1253〜1333)): 

永平寺5世として晋住し、永平寺の中興と称された。

京都の公卿の家に生まれた義雲禅師は、始め京都の教宗寺院にて出家し、

華厳・法華の疏を通して、教学を学んだ。

24歳の時に、禅宗に転じて、越前大野の宝慶寺に寂円禅師を訪ねた。

寂円禅師の左右に侍して、20年にしてようやくその堂奥の玄旨を了得し、嗣法した。

正安元年(1299)寂円禅師が遷化すると、その遺言にしたがって、宝慶寺に2世として入った。

永平寺4世であった義演禅師が遷化すると、大檀那の波多野氏は義雲禅師を請したため、

62歳の時に永平寺5世として晋住した。

当時の永平寺は、三代相論の影響などもあって荒廃が進んでいたとされており、

義雲禅師は宝慶寺から什物を持ち出して永平寺の伽藍復興に努め、

住持としての10年余りの活動によって中興と称されている。

寒巌義尹(かんがんぎいん、1217〜1300):

後鳥羽天皇の第三皇子。15才の時比叡山で出家し天台教学を学んだ。

ついで日本達磨宗の大日能忍の下で臨済禅を学んだ。

1241年山城国深草の道元の下で曹洞禅を修行する。

2度も入宋する。1267年宋から帰国の船中でダキニ天から神示を貰う。

その姿を自身の手で刻み終生守護神として信仰した。

禅だけではなく密教にも関心があった人と思われる。

豊川稲荷の千頭別院の本尊千手観音は寒巌義尹伝来の仏像とされることから

観音信仰の人とも思われる。

豊川稲荷は正式には豊川閣妙厳寺と称する曹洞宗の寺である。

妙厳寺は寒巌義尹から6代目の法孫、東海義易禅師(とうかいぎえきぜんじ)により開創され、

ダキニ天を祀る名刹として知られている。





5.47

5.47 日本達磨宗が永平寺に及ぼした影響 





日本達磨宗は大日能忍を開祖とする日本発の禅宗である。

達磨宗の発展に危機感を持った天台宗に圧迫され、開祖大日能忍は謀殺された結果、

教勢は失墜し、弟子達も散り散りになったためその詳細ははっきりしない。

初期曹洞宗の禅師達の中で、目に付くのは大日能忍の高弟仏地覚晏の法系の人三名

(懐奘、義介、義演)が永平寺座主(2,3,4世)になっていることである。

また、道元門下に入った懐鑑、懐奘、義介、義演の四名は

一時日本達磨宗で出家しそこに属していた。

懐鑑、懐奘、義介、はじめ多くの達磨宗の人が道元教団に入信したため

達磨宗の教勢は衰えたと考えられている。

達磨宗から見た彼等の法系図を次ぎの図5.10に示す。

三代相論の時も義介が達磨宗の出身であることが問題視されたとも伝えられている。

達磨宗の禅は臨済宗大慧派に近いとされている。

これらのことから、曹洞宗の初期の歴史において達磨宗の何らかの影響があったとも考えられる。



図5.10

図5.10 大日能忍の弟子と永平寺座主の法系図




瑩山紹瑾は義介の高弟である。

彼は1323年(元亨3年、56歳)の時、

永光寺山内に曹洞禅の嗣承をあらわす塔所を建立した。

如浄の語録、道元の遺骨、懐奘の血経、義介から瑩山へ伝えられた日本達磨宗の嗣書を収め、

道元禅の嗣書と伝衣のみを残した。

このことから日本達磨宗の影響は瑩山紹瑾にも及んでいると言えるのかも知れない。


注:   嗣書 

曹洞宗で重視される嗣書とは次のようなものである。

禅宗では、弟子が嗣法する証しとして、師から系譜が授けられた。

これを『嗣書』という。書式は時代や禅宗諸派によって異なっている。

通常、過去七仏から西天二十八祖・東土六祖を経て各派の系譜に連なる

祖師の名前が記されている。

なお、或る僧が寺の住持となり、その証明を求める場合に、

師とすべき者に対して送られる書類こそ『嗣書』本来の姿であるとの説もある。




5.48   『寄進状』事件 





1247年、道元(48歳の時)は、

越前の御家人である波多野義重の進言と執権北条時頼の求めで、鎌倉に行った。

時頼は、道元のために、京都の建仁寺より立派な禅寺を鎌倉に建立し、

道元を開祖として迎えたいと申し出た。

しかし、道元はその申し出を断り、越前の永平寺に帰った。

時頼は「越前の土地を提供する。その代わりに鎌倉にも法を説きに来て欲しい

という『寄進状』を鎌倉に残っていた道元の弟子玄明に持たせた。

永平寺に意気揚揚と帰って来た玄明は、

大きな声で「鎌倉執権北条時頼さまからの寄進じゃ」と言って、道元の部屋に入った。

当然、時頼は単なる好意でしたことであり、

玄明も素直にそのことを師も喜んでくれると思っただろう。

しかし、意外にも、それを聞くや道元は烈火の如く怒った。

道元は「そのような物は、欲しければお前に授けよう」と、玄明を即刻破門にした。

道元はすぐさま玄明の法衣を剥ぎ取って寺から追放したが、それだけで彼の怒りは収まらなかった。

玄明が座禅をする時に決められていた座席を捨て去り、

それだけでは穢れは落ちぬとばかりに、その床下の土を堀り捨てること七尺に及んだという。

道元のこの逸話は多分に後世の潤色が加わったと思われる。

道元が日本に帰国するに当たり、師の如浄は道元に、

城邑聚落に住むこと勿れ、国王大臣に近づくこと勿れ

深山幽谷に居って、一箇半箇を接得し、我が宗を断絶せしむること勿れ』と強く誡めた。

道元は師如浄のこの訓誡を忠実に守ったと言える。

権力に近づくことで堕落した宗教家が多いこともまた事実であり、

彼がこのことを固く戒めた気持ちもわからぬではない。

道元は「正法眼蔵」行持の巻下において次ぎのように述べている。

先師天童和尚は嘉定の皇帝より紫衣師号を賜るといえどもついに受けず、修表辞謝す

まことにこれ真実の行持なり。その故は、愛名は犯禁よりもあし

犯禁は一時の非なり、愛名は一生の累なり。おろかにして捨てざることなかれ。

道元は、栄誉が欲しい、名声を得たいという名利を愛する行為は

一生涯に累を及ぼす根本的な罪悪だと考えていることが分かる。

このような考えを持つ道元にとって、

弟子玄明の名利を愛する行為は許せない行為だったに違いない。

しかし、玄明が座禅する座席を捨て去り、それだけでは穢れは落ちぬとばかりに、

その床下の土を堀り捨てること七尺に及んだという話には

道元の潔癖症に近い性格を感じるのは筆者だけだろうか?

道元のこの信念や性格を考える時、

瑩山紹瑾の世俗との調和主義や祈祷的仏教(密教)への接近による

曹洞宗の教腺拡大路線は道元正伝の仏法ではない

として否定されるのは当然のことであろう。

実際、道元の遺風を守る義演や寂円らの保守派は

徹通義介や瑩山紹瑾らの革新派(教線拡大路線派)を永平寺から追い出した。

その結果、道元の禅風を守ろうとする原理主義路線は永平寺を中心に残った。

義介や瑩山紹瑾らの教腺拡大路線派は永平寺を出て、総持寺を中心に活動した。

このように考えると曹洞宗に二つの本山があることや二祖(高祖と太祖)

がある複雑な理由がスッキリ理解できる。




5.49  宗派の聖典から見る曹洞宗と臨済宗の特徴 





手許にある曹洞宗聖典の内容をページ立てで見ると次の表5.5のようになる。




表5.5 曹洞宗聖典の内容

項目(著者) ページ ページ数
普勧坐禅儀と学道用心集(道元) 1〜17 16
正法眼蔵(道元) 17〜707 690
坐禅用心記と三根坐禅説(瑩山) 713〜723 10
曹洞教会修証義 725〜732 7 

表5.5の各項目の著者名によって曹洞宗聖典の内容を分析すると次の表5.6になる。




表5.6 著者名による曹洞宗聖典の内容分析

項目の著者名) ページ数 ページ数の%
道元  706 97.6%
瑩山紹瑾 10 1.4%
曹洞教会  1.0%
合計 723 100% 


この表5.6で分かるように、道元の著作が97.6%を占め、圧倒的に多い。

これは曹洞宗の原理と思想が圧倒的に道元(高祖)1人に依存していることを示している。

曹洞宗の教勢を現在の大宗派に拡大した瑩山紹瑾(太祖)の著作は僅か1.4%に過ぎない。



著書「禅とは何か?」において、鈴木大拙博士は

日本の曹洞宗は道元宗というものになって

道元禅師その人がありがたいということになっている

曹洞宗は道元禅師の人格に集中している傾向がある

その意味で曹洞宗は道元宗である。」と述べている。

表5.6の曹洞宗聖典の内容分析の結果はまさに鈴木大拙博士が言うとおりである。




曹洞宗の場合と同じ様に、臨済宗聖典の内容をページ立てで見ると次の表5.7のようになる。



表5.7 臨済宗聖典の内容

項目(著者) ページ ページ数
臨済録(臨済) 1〜49 48
碧巌録(圜悟克勤) 49〜171 122
無門関(無門) 171〜207 36
五家正宗賛(希叟紹曇) 207〜401 194
息耕録(白隠慧鶴) 469〜539 70 
黄檗和尚太和集(隠元) 539〜616 77 





上の表において臨済録の著者は臨済ではなく臨済の法嗣三聖慧然による編集とされている。

しかし、臨済を主人公にした語録なので著者を臨済と見なした。


表5.7の項目を書名によって内容を分析すると次の表5.8のようになる。





表5.8 臨済宗聖典の内容分析

項目(書名) ページ数 ページ数の%
臨済録、碧巌録、無門関  206 37.7%
五家正宗賛(希叟紹曇) 194 35.5%
息耕録(白隠慧鶴)  70 12.8%
黄檗和尚太和集(隠元) 77 14.1% 


表5.8に見られるように、臨済宗聖典には臨済録の他種々の語録や著作が収められ多彩である。

これは表5.6の曹洞宗聖典の分析結果と対照的である。

著書「禅とは何か?」において、鈴木大拙博士は

曹洞宗と対照的に臨済宗は道元禅師のように

特定の人を立て神格化するような傾向はない

それで自然に法に集中するというようなことが残った。」と述べている。

表5.8の臨済宗聖典の内容分析の結果はまさに鈴木大拙博士が言うとおり、

臨済宗では特定の人を立て神格化するような傾向はないことを示している。





「五家正宗賛」: 南宋の希叟紹曇(無準師範の法嗣)の撰。宝祐二年(1254)に成る。

初祖菩提達磨より五家の各派に至る祖師七十四人の略伝を掲げて、

各派の宗風の綱要を明らかにしている。

上の分析に用いた曹洞宗聖典は

 昭和新纂国訳大蔵経編集部、東方書院、

「昭和新纂国訳大蔵経 宗典部 第五巻 曹洞宗聖典」(1929年発行)、

臨済宗聖典は昭和編纂国訳大蔵経編集部、東方書院、

「国訳大蔵経宗典部 第六巻 臨済宗聖典」(1929年発行)である。

これらの聖典はともに1929年発行のもので少し古い。

しかし、その本質は現在まで変わっていないと見られるので、

ここで得られた結論に影響しないと考えられる。





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