作成:2013年5月26日〜8月20日、表示の更新:2021年3月14日

般若心経

   
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般若心経について



『般若心経』(はんにゃしんぎょう)は大乗仏教の空・般若思想を説いた経典の1つである。

宗派によって呼び方は様々あり、この他に仏説摩訶般若波羅蜜多心経、摩訶般若波羅蜜多心経、般若波羅蜜多心経とも言う。

略称として心経と言う。

僅か262字の本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされる。

一部の宗派を除き僧侶・在家を問わず、読誦経典の1つとして、永く依用されている。

『般若心経』は一般には600巻に及ぶ『大般若波羅蜜多経』のエッセンスを短くまとめたものといわれている。

『大般若波羅蜜多経』(『大般若経』)及び『摩訶般若波羅蜜経』(『大品般若経』)からの抜粋に

『陀羅尼集経』に収録されている陀羅尼を末尾に付け加えたものとされる。

般若経典群のテーマを「空」の1字に集約して、その重要性を説いて悟りの成就を讃える体裁をとりながら、

末尾に付加した陀羅尼によって仏教の持つ呪術的な側面が特に強調されている。

般若心経は空観を説く経典であるとされる一方、陀羅尼の経典であるともいわれている。



初期大乗仏教の般若系経典には、後期の密教化したものは別として、呪文などは含まれていない。

それを考慮すると、末尾に陀羅尼を持つ『般若心経』は、般若系経典の中でも特異なものと言える。

日本では仏教各派、特に法相宗・天台宗・真言宗・禅宗が般若心経を使用し、その宗派独特の解釈を行っている。

日本人に最も知られ、親しまれて来た経典である。



漢訳 般若心経の全文(玄奘三蔵訳)



 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 乃至無老死 

亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

菩提薩タ 依般若波羅蜜多故 

心無ケイ 礙 無ケイ 礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪日 

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 

般若心経 





meiso

仏教の瞑想・六波羅蜜と般若波羅蜜多



仏教の瞑想法には次の2種類がある。

1.止(サマタ、samatha)瞑想 

心を何かに集中し、一体化して雑念を静める瞑想法。

止(サマタ、samatha)瞑想は雑念を禁止する坐禅の瞑想といえる。


2.観 (ヴィパッサナー、vipassana)瞑想 

自分の心身や外界の絶え間ない変化をありのままに観察し、分析する瞑想法。



大乗仏教では修めるべき六つの修行・徳目を「六波羅蜜」と言う。

「波羅蜜」(パーラミター)とは、仏教において迷いの世界から悟りの世界へ至ること、

および、そのために菩薩が行う修行を意味している。

これを表1に示す。


6haramitu

 表1 六波羅蜜

No 六波羅蜜 内容
布施分け与えること。具体的には、財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である。
持戒戒律を守ること。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
忍辱耐え忍ぶこと。あるいは怒りを捨てること(慈悲)。
精進努力すること。
禅定(禅波羅蜜多)特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させる「止(サマタ)」瞑想。段階としては四禅・四無色定・九次第定などがある。
智慧(般若波羅蜜多)物事をありのままに観察する(ヴィパッサナー)瞑想によって、思考に依らない、根源的な智慧を発現させること。

大乗仏教では表1に示した六つの修行徳目(「六波羅蜜」)を実践することで悟りの世界へ至ると考えられていたのである。


「六波羅蜜」は以下のように考えると分かり易い。

1.の布施は無我と離欲の悟りから来ると考えられる。

2.の持戒は仏教の修道論である三学(戒、定、智慧)の戒から来ている。

5,6の禅定と智慧は三学(戒、定、智慧)の定、智慧から来ている。

3,4の忍辱と精進は三学(戒、定、智慧)や八正道と関係がある。

図1に六波羅蜜を分り易く図示する。

 
六波羅蜜

図1 六波羅蜜と智慧(般若波羅蜜多)

 

「六波羅蜜」の中で最も重要なものは「般若波羅蜜多(智慧)」とされる。

 「般若波羅蜜多(智慧)」は仏教の特徴ともなっている。

図1では禅定を基礎にして、布施、持戒、忍辱、精進の同時的実践によって

般若波羅蜜多(智慧)が生まれることを表している。

六波羅蜜]は

禅定、布施、持戒、忍辱、精進の同時的実践によって

般若波羅蜜多(悟りの智慧])を得ることを目指している

と言えるだろう。

「六波羅蜜多」を仏教の瞑想の観点から考えると、5番目の「禅定(禅波羅蜜多)」が「止」に、

6番目の「般若波羅蜜多」が「観」に相当すると考えることができる。


「空」思想の起源と瞑想



『般若心経』が説く「般若波羅蜜」の修行で得られる智慧は「」の智慧である。

」の思想は初期大乗仏教の主たる思想で竜樹(ナーガルジュナ)がその思想の完成者として考えられている。

中観仏教「空とは何か?」を参照)。

般若心経で説かれる「般若波羅蜜多」の智慧は「」の思想は「空三昧」を中心とした

「止(サマタ)」瞑想から生まれたと考えることができるだろう。

この経典では観自在菩薩が説法している。「観自在菩薩」には観の字が付いていることから、

観察し、分析する瞑想である「観(ヴィパッサナー)」瞑想法も関係していると思われる。

しかし、「空」の思想は「空三昧」を中心とした「止(サマタ)」瞑想から生まれた思想だと考える時、

 『般若心経』に直結する瞑想法としては「止(サマタ)」瞑想(三昧)が主であり、

「観(ヴィパッサナー)」瞑想法が従であると考えた方が分かり易い。

『般若心経』が次々と数え上げながら、「」で、「無い」と否定しているのは、

「五蘊」、「十二処」、「十二縁起」、「四諦」など、ブッダが説いた仏教の基本的な教説・概念である。

 部派仏教(小乗仏教)では世の中のあらゆるものを細かく分析して、真に存在するものを「法」とした。

しかし、観の瞑想によって「法」を見極めると、我々が一般に存在していると思っているものは観念でしかない。

しかも、無常である。

それに執着することから苦しみが生まれると考えるのである。

これは、

どこにも霊的自我(アートマン=霊我)はないという智慧を得て、煩悩から解脱できるとした

ブッダの<五蘊無我の悟り>の上に立っていると言えるだろう。

原始仏教、ブッダの五蘊無我の悟りを参照)。

紀元1世紀頃興起した大乗仏教では、部派仏教が「法」を大切にし過ぎるあまり、それを実体化しているとして部派仏教をきびしく批判した。

 しかし、『般若心経』は決して「五蘊」、「十二処」、「十二縁起」、「四諦」などの仏教の基本的な教説を否定しているのではない。

これらの諸法を実体視することを否定しているのである。

これらの諸法は縁起的関係にあることから(縁起所生の法であることから)、「諸法は空である」と主張しているのである。

般若心経はこの<空の悟り>を重視することから、

禅定(坐禅)修行によって空三昧を体験し、

」を洞察する智慧を得て、悟りに至ると説いている

と考えることができる。

以上の考察から、

『般若心経』で説く「空の智慧」は禅定(坐禅)修行と不即不離である

ことが分かるのである。

禅宗の寺院で『般若心経』をよく読誦するのはこの理由からである。

以下では般若心経を6文段に分けて、合理的観点から易しく解釈して行きたい。



1bundan

 第1文段



@

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 

照見五蘊皆空 度一切苦厄

読み下し文:

 観自在菩薩は 深般若波羅密多を行じし時

五蘊皆(みな)空なりと照見して

一切の苦厄を度したまえり


注:


観自在菩薩(かんじざいぼさつ):観音菩薩、観世音菩薩。

 菩薩(ぼさつ):梵語「ボーディサットヴァ」の音訳。「悟りを求める者」という意味。求道者。

般若(はんにゃ):人が真実の生命に目覚めた時にあらわれる根源的な智慧。

悟りの智慧である無分別智。

般若波羅密多:波羅蜜多は梵語のパーラミタの音訳。伝統的には「到彼岸」などと訳された。

 

最近では「完全に到達すること」という意味で、「完成」と訳されることが多い。

 

したがって、「般若波羅蜜多」とは「智慧の完成」という意味になる。

ここでは、「般若波羅蜜多」とは仏教の悟りの智慧である無分別智だと考える(無分別智を参照)。

五蘊(ごうん) :梵語「パンチャ・スカンダ 」の訳。

人間と心身を構成する「色」、「受」、「想」、「行」、「識」の五つの集まり。

五蘊と五蘊無我を参照)。

五蘊の各要素は次の表2のようになる。


 表2  五蘊とその意味

No 五蘊 内容
色(しき)我々の眼に写る様々な物質的存在。特に肉体をさす。
受(じゅ)眼耳鼻舌身意の感覚器官を通して受けとる感覚的刺激。
想(そう)「受」によって受け取った感覚によって心に浮かぶ表象。
行(ぎょう)受や想が意識を生成するに至る形成作用
識(しき)五蘊から生じる意識。

五蘊のうち「色」は身体、「受」、「想」、「行」、「識」の四つは脳内事象だと考えることができる。

 

「五蘊」については五蘊無説を参照)。

 

従って、五蘊とは身心だと考えることができるだろう。

五蘊と五蘊無我を参照)。

   

ku-

 空(くう)について




まず最初に「」という言葉について考えよう。

」」は梵語(サンスクリット)「シューニャター」の訳である。

なにもない、からっぽ」という意味である。

インド数学ではゼロ(0=零)を意味する。

仏教ではあらゆる現象(諸法)は互いに関係しあいつつ変化している(無常)。

それらの現象(諸法)は縁起によって生まれ互いに関係しあいつつ変化していると考える。

もしその関係や条件が無くなれば現象(諸法)は消滅する無的存在だという意味を持っている。

龍樹(ナーガルジュナ)は「縁起所生の法は空である」と定義していることから

空とは縁起的存在(or条件的存在)といってもよい良いだろう。



「空とは何か?」を参照)。

自己は現象としてはあっても、実体や主体として、自己を捉えることができない。これを「」という。

天外伺朗氏は著書「般若心経の科学」において、「」」の解釈には主として3つに分類できるとされている。


1

」=無常観。世の中のあらゆる物は、常に変化し、片時でも同じ状態ではない。

いま見えている形はほんの仮りの姿にすぎず、幻のように実体がないという考えである。


2

」とは全宇宙の「相互依存」ネットワークである。

たった一輪の花が存在するためには複雑にからまりあった宇宙のネットワークが必要である。

そのような複雑な「相互依存のネットワーク」のことを「」と言う。


3

」とは「何ものにも執着しない心」である。

般若心経には「心無ケイ礙 無ケイ礙故 無有恐怖」という言葉がある(第4文段)。

心が何物にもとらわれなくなる。そうすると、なにも怖くなくなる

という意味である。

これが「の真髄だとする解釈である。


このように「」は多くの意味を持つ多義語である。

中村元・紀野一義訳注、岩波文庫「般若心経」では「」を「実体がない」と訳している。

」はもともと「なにもない、からっぽ、無、ゼロ(0=零)」という意味であった。

しかし、そこから発展していろんな意味を持つようになった言葉である。

」は多くの意味を持つことから、

ここでは、訳さずに、「」」という言葉をそのまま用いることにした。

」は般若系経典に共通する概念で、初期大乗仏教の一大テーマである。

「空の概念」は竜樹(ナーガルジュナ、150〜250)によって完成された。

大乗仏教―2、空とは何か?を参照)。

一切の苦厄を度したまえり:一切の苦しみや災厄を取り除くことができた。


第1文段の現代語訳



観自在菩薩は、悟りの智慧を得る深い修行(禅定修行)をしていた時、五蘊は「空」であると悟り

苦しみを離れることができた


解釈とコメント


この経典をすっきり、解釈し理解するキーポイントは冒頭の

観自在菩薩 深般若波羅密多を行じし時

をどう解釈するかに掛っている。

ここでは「観自在菩薩は、悟りの智慧を得る深い修行(禅定修行=坐禅)をしていた時、」

と解釈した。

即ち、「観自在菩薩は、悟りの智慧(無分別智)を得るため禅定修行(=坐禅)をしていた。その時、」

と解釈するのである。

更に分かり易く言うと、「観自在菩薩は、無分別智を得るため坐禅をしていた時、」となる。

それ以降は観自在菩薩が坐禅中に悟った内容をシャーリプトラ(舎利子)に説法していると考えることができる。

六祖慧能の説法集である「六祖壇経」の敦煌本では

慧能大師、摩訶般若波羅蜜を説き、無相戒を授く。」

という言葉が見える。

第二章の「般若」では、

浄心にして、摩訶般若波羅蜜多を念ぜよ

という言葉が見える。

このように、禅と「般若波羅蜜多」には深い関係がある。

このことからも以上の解釈で良いだろう。

慧能が説く摩訶般若波羅蜜」を参照)。




2bundan

 第2文段



A

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 

受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 

不生不滅 不垢不浄 不増不減 



読み下し文:

舎利子よ !色は空に異ならず 空は色に異ならず 色はすなわちこれ空、 空はすなわちこれ色なり

受想行識もまたまたかくのごとし

舎利子よ !この諸法は空相にして 生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず 増さず、減らず


注:

舎利子(しゃりし):仏の十大弟子の中で智慧第一とされたサーリプッタのこと。

ここでは説法を聞いている人。

法(ほう):もの。存在。真理、真実。

諸法(しょほう):諸々の存在。ここでは五蘊からなる存在を意味する。

具体的には人間の脳内で生まれる雑念をはじめとする多くの思考、認識を指すと見て良い。


第2文段の現代語訳



シャーリプトラよ ! 物質的現象には実体がなく、空である。空が物質的現象の本質である

即ち、物質的現象は空である。また空が物質的現象なのである

それと同様に、私たちの目に映る世界で、受(感じること)も、想(想うこと)も、行(形成作用)も

識(意識現象)も、すべて空である。」

シャーリプトラよ! この色受想行識の五蘊からなる諸々の存在は空である

この空の観点からは、生じることも、滅することもない。汚れていないとか、浄かでないこともない

増えもしないし、減りもしない。」


解釈とコメント


ここで観世音菩薩がシャーリプトラに言っているのは

物質的現象をはじめ、色受想行識の五蘊からなる諸々の存在は空であり、不生不滅である

汚れているとか、汚れていないということもない。増えもしないし、減りもしない。」

ということである。

これは観世音菩薩が深い禅定に入って得た直観的智慧と言える。

禅定中(坐禅中)に経験するのは脳宇宙である。

従って、ここで観世音菩薩がシャーリプトラに言っているのは、

禅定中(坐禅中)に経験する脳宇宙は空であり、不生不滅である

汚れているとか、汚れていないということもない。増えもしないし、減りもしない

という直観的智慧である。これは坐禅をすればよく分かる。

しかし、この観世音菩薩の直観的智慧には問題もある。脳は決して不生不滅ではない

脳が病気になれば脳細胞は破壊されるし、認知症や老化によっても劣化する

しかし、般若系経典が創作されたのは、紀元1世紀くらいの古代インドにおいてである。

般若系経典の創作者たちがこのような脳の真の姿を知らなかったのは

時代的制約によることであり、当たり前のことであろう。

大目に見るしか仕方がないことだろう。


第A文段の「色即是空、空即是色」という言葉は非常に有名である。

この言葉について芳賀幸四郎博士は著書「禅の心・茶の心」において、

色は差別・現象を意味し、これに対し空は平等・本体を意味しています」と述べておられる。

これを洞山五位の観点から解釈すると、色は偏位(差別・現象)を意味し、空は正位(平等・本体)を意味することになる。

「洞山五位」の正位と偏位を参照)。

この解釈に立てば、色は偏位(差別・現象)を生み出す上層脳を意味し、

空は正位(平等・本体)の本体である下層脳を意味することになる。

[色即是空」とは、上層脳から生まれる多様性(=偏位、差別・現象)の世界は

平等、一様な生命情動の本源である下層脳(大脳辺縁系+脳幹)の世界と別のものではなく、

本質的に同じであると言っている。

また「空即是色」とは

平等、一様な生命情動の本源である下層脳(大脳辺縁系+脳幹)と多様性(=偏位、差別・現象)の世界を生む上層脳は、

不二一体であると言っていることになる。

芳賀幸四郎博士のこの禅的解釈はユニークで興味深い。



3bundan

 第3文段



B

是故空中 無色 無受想行識

 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

 無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 


読み下し文:


この故に、空の中には、色もなく、受、想、行、色もない

眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もない

眼界もなく、乃至、意識界もない。無明もなく、また、無明の尽きることもない


注:

眼耳鼻舌身意:眼耳鼻舌身意は感覚器官である6根のこと。

無明(むみょう):「智恵がないこと」の意。迷いの根源となる無知のこと。

原始仏教ー2、無明とは何か?を参照)。

色声香味触法:色声香味触法は感覚器官(6根)の対象としての6界のこと。

無眼界乃至無意識界:眼界は色と眼との接触で生じる眼識(視覚)を意味していると考えられる。

また意識界は意(脳)とその対象である法の接触で生じる意識と考えられる。

従って、「無眼界 乃至無意識界」とは6根と6界の接触で生じる6識がないと言っている。

これは空三昧においては大脳新皮質の働きが鎮静化し、十八界が消失し無意識にまでなることを言っている。

このあたりは禅定体験(坐禅修行)をすることでよく分かる(実感する)ところである。

次の図2に十八界を示す(十八界については万物一体の思想を参照)。


十八界

図2 十八界


十八界の図を見れば分かるように、中心部は脳を表している。

従って、十八界の図は、は脳を中心部に置いた図3で分り易く示すことができる。


十八界

図3 十八界の中心は脳である


図2と3より十八界とは脳を中心とする自己と外界を表していることが分かる。


 第3文段の 現代語訳



ゆえにシャーリプトラよ! この空の禅定(空三昧)に入ると、色(=物質的な現象)はない

受(感じること)も

想(心に浮かぶ想)も、行(形成作用、意志)も、識(意識)もない

空の禅定状態では眼や、耳や、鼻や、舌や、身体や、意識もない

色形や、声、香、味、触り心地や、法などの六界もない

眼に写る世界である眼識界(視覚)、耳識界(聴覚)、鼻識界(臭覚)、舌識界(味覚)

身識界(触覚)もないし、意識界もないのである

六識もないから、迷いの根源である無明もないし、無明(迷い)が尽きることもない」。


解釈とコメント


さらに観世音菩薩はシャーリプトラに次のように言う、

この空の禅定(空三昧)に入ると、色(物質的な現象)はない

受(感じること)も、想(心に浮かぶ想)も

行(形成作用、意志)も、識(意識)などの五蘊はない

空の状態では眼や、耳や、鼻や、舌や、身体や、意識などの六根もない

色形や、声、香、味、触り心地や、法などの六界もない

眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(臭覚)、舌識(味覚)、身識(触覚、意識の六識もない」。

この言葉は図2によって説明できる。

即ち禅定(空三昧)に入ると、大脳新皮質の活動は低下するので脳は下層脳中心の状態になる。

下層脳(=脳幹+大脳辺縁系)は無意識脳である。

このため、深い禅定(空三昧)に入ると、脳は下層脳中心の無意識に近い状態になる。

この時、五蘊も十八界(六界、六根、六識)も意識することはない。

しかし、これは五蘊の存在を否定しているのではない。

深い禅定(空三昧)に入っているため、上層脳(理知脳)は働かず下層脳中心の無意識(or無意識に近い状態)になる。

この事実を「五蘊も十八界もない」と言っているのである。

しかし、決して五蘊の存在を否定しているのではない

上層脳(理知脳)は働かず下層脳中心の無意識(or無意識に近い状態)にあることを言っているだけである。

ここで、注目されるのは、十八界もなくなることを説明する経文に、

乃至無意識界乃至意識界もない)」という言葉があることである。

この言葉も意識の存在を否定しているのではない。意識は厳然として存在する。

深い禅定に入り、空三昧の究極では、下層脳(無意識脳)優勢になっているので

無意識あるいは無意識に近い状態になっている」ことを言っているのである。

また、最後のところでは「無明もなくなるし、無明(迷い)が尽きることもない」と言っている。

 これも深い禅定(空三昧)に入ると、無明もなくなるし、無明(迷い)が尽きることもないというような意識状態(or無意識に近い状態)になると言っているのである。 

このように、(空の思想は深い禅定(=坐禅)体験から生まれたことが分かる。



ブッダの「五蘊無我」の悟りと五蘊皆空



第3文段では、色、受、想、行、識の五蘊と6識(眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(臭覚)、舌識(味覚)、身識(触覚)、意識)を否定している。

ブッダの悟りの核心は「五蘊無我」である。

ブッダの悟りは

「五蘊」から構成される人には常一主宰の霊的主体(アートマン)はない


という「無我の悟り」であった。


原始仏教、ブッダの五蘊無我の悟りを参照)。

第1文段において、般若心経は「五蘊は皆空である」としている。

第3文段においても、「無色、無受想行識」として五蘊を否定している。

このことはブッダの「五蘊無我の悟り」と一致している。 

ブッダの「五蘊無我の悟り」は深い禅定体験から生まれたことを示唆している。 

仏教では、三学(戒、定、慧)、八正道、六波羅蜜など全てにおいて禅定修行を重視している。

それはブッダの悟りを禅定修行によって、追体験するためだと考えられよう。 

坐禅(禅定)修行を通して「ブッダの悟りを追求する」禅宗が般若心経を重視する理由はここにあると考えられる。



「四無色定」から「空」思想の誕生



「空」の思想は三三昧(空三昧、無相三昧、無願三昧の三つの三昧)から生まれたと考えられる。 

大乗仏教2、中観仏教を参照)。

部派仏教の阿含経典では、この三三昧に至るには、

まず初禅から第四禅までの「四禅定」に始まって、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の「四無色定」に行くとされる。

四無色定」がさらに深まると「心のあらゆる動きが全く止滅した禅定想滅受定)」に至るとしている。

四無色定」に「四無色定」を加えたものを「八禅定」と呼んでいる。

原始仏教2、「四禅八定」を参照)。

八禅定」に「想滅受定」を加えたものを「九次第定」と呼んでいる。

原始仏教2、「四禅八定」を参照)。

「四無色定」は以下のように考えられている。

空無辺処を超えると、「識は無辺である」という識無辺処に達する。

識無辺処を超えると、「何もない(空)」という無所有処に達する。

「無所有処定」とは心だけ、ということさえ意識しない「何もない状態」の禅定である。

無所有処を超えると、「非想非非想処」に達する。

何も意識しない心さえなくなると、意識はおろか、意識しようとする衝動「想(sanna)」さえ起こるか起こらないのか分からないほど微かで、

意識などは全く起こらない「非想非非想処定」にまで達する。

原始仏教9.35を参照)。  

以上をまとめると、

四禅」→「四無色定」→「三三昧

という段階を経て禅定が深まって行く。

この「三三昧」から「」の思想が生まれたと考えられる。


このように、「」の思想は

ブッダの原始仏教時代から続く伝統的な禅定修行(坐禅修行)から生まれた思想

であることが分かる。

これを図4にまとめる。


「空」思想誕生

図4 「空」思想誕生への流れ


禅定の体験世界は、三界(欲界・色界・無色界)の天の階層構造とも関連している。

禅定体験を通して、欲界(欲望を中心原理とする世界)は「欲界天」となる。

色界は、初禅天・第二禅天・第三禅天・第四禅天の4階層からなる色界天になる。

無色界は空無辺処天・識無辺処天・無所有処天・非想非非想処天の4階層(四無色定天)からなる

無色界天になるのである。

このように仏教の天界は禅定と深い関係がある。

禅定修行によって天界に行き、その最上階に位置する仏界に至ることができると考えていたようである。

大乗仏教:その1「仏教における天の構造」を参照)。

禅定修行から「空の悟り」と無分別智(般若波羅蜜)」への道をまとめると次の図5のようになるだろう。


「空」から「無分別智」

図5 禅定修行から「空の悟り」と「無分別智」への道


 第4文段



C

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 

以無所得故 菩提薩捶 依般若波羅蜜多故  

心無ケイ礙 無ケイ礙故 無有恐怖

 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 



読み下し文:


乃至、老も死もなく、また、老と死の尽きることもない。苦も集も滅も道もなく 智もなく

また、得もない

得る所なきを以ての故に 菩提薩タは、般若波羅蜜多に依る故に心にケイ礙なし

ケイ礙なきが故に、恐怖あることなく、一切の顛倒夢想を遠離して 涅槃を究竟す


注:

苦集滅道(くしゅうめつどう):ブッダの説いた「四諦(四聖諦)」のこと。次の様な四つの真理から成る。

原始仏教1を参照)。

「これが苦である」(苦聖諦)

「これが苦の集まりである」(苦集諦)

「これが苦の滅である」(苦滅諦)

「これが苦の滅尽に到る道である」(苦滅道諦)

心にケイ礙なし:心を覆うストレスや偏見がない。心にこだわりがない。

顛倒夢想(てんどうむそう):正しくものごとを見ることができず、迷いの中にいる事。

真理に反した見方をする事。

涅槃(ねはん):涅槃はニルヴァーナの音訳。一切の迷いから脱した境地のこと。


   

第4文段の現代語訳


空の禅定にはいるとは老いや死すらもないし、老いと死がなくなることもない。

苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを滅することも、苦しみを抑える八正道もない。

空の立場に立てば、智慧や、智慧を得ることもないのである。

得るところもないから、菩薩は、般若波羅蜜多によって安心立命しているので、心にこだわりがない。

心にこだわりがないので、恐怖がなく、すべての顛倒(テントウ)した心を遠く離れて、

永遠の安らぎの状態に入っているのである。


解釈とコメント


この空の禅定(空三昧)に入ると、老死もないし、老いと死がなくなることもない。

ここで言っている「老死もないし、老いと死がなくなることもない。」とは不思議な論理である。

これは四句論理と関係ある。

無門関25則、四句論理を参照)。

普通の論理では老死があるか、ないかのどちらかである。

しかし、ここでは、「老死もないし、老いと死がなくなることもない」と老死を否定した上に、

またそれを否定するという不思議な論理を用いている。

これは次の図6と図7によって説明できる。


老死の世界

図6 老死の世界と老死がない世界


図6に示したように、x>0が老死の世界だとすると

x<0が老と死がない世界(老と死が尽きた世界となる。これが普通の論理である。

即ち普通の論理では「老死の世界」か、

それを否定した「老死がない世界(老死が尽きた世界)」という2元的論理となる。

しかし、ここでは「老死もないし、老いと死がなくなることもない」と言っている。

この老死もないし、老いと死がなくなることもない世界とはどのような世界だろうか?

この世界は次の図7によって説明できる。


老死がなくなることもない世界

図7 老死の世界、老死がない世界、および老と死が尽きることもない世界


上の図7に示したように、x>0が老死の世界で 、

x<0が老と死がない世界(老と死が尽きた世界)だとすると、

x=0で、x軸に垂直な世界が老と死が尽き、老と死が尽きることもない世界だと言えるだろう。

これをもっと分かりやすく言えば、老と死が尽きた世界とは空の禅定(空三昧)に入って悟ることで体験する世界、

即ち、老死の問題を解決・超越した世界だと考えることができる。

坐禅修行によって「空三昧」に入って老死を超越した境地(老死のような問題にもはやこだわらない境地)、

人生苦を解脱した仏の境涯を述べていると考えることができるだろう。

これに対し、「老と死が尽きることもない世界」とは、老と死の問題が解決されていない世界、

即ち、我々が生きている現実の世界を指していると考えることができる。

そのように考えると「老死もないし、老いと死がなくなることもない」世界とは

現実の老死の世界で生きているが坐禅修行によって「空三昧」に入って悟ることで、

老死を超越した境地(老死の苦を解脱した仏の境涯)を述べていると考えることができる。

老死もないし、老いと死がなくなることもない」という言葉の語順を入れ替えて、

老いと死がなくなることもないが、老死は既にない」世界だとすれば分かりやすいだろう。

図7ではこれをx軸に垂直な薄いオレンジ色の平面で表している。

このように般若心経ではアリストテレスの論理とは違う論理が使われていることに注意すべきである。

この論理は古代インドの哲学者竜樹(ナーガルジュナ、150〜250)によって説かれた四句論理のうち双非の論理である。

無門関25則、四句論理を参照)。

老死もないし、老いと死がなくなることもない

というアリストテレスの二元的論理を超えた表現によって、

現実の実生活での坐禅修行において、空三昧に入った禅修行者が体験する「老死を超えた安らぎの世界」を表している。

空三昧に入った時には、上層脳(=理知脳)は鎮静化して、理知は殆ど働いていない。

これは普通の坐禅においても常に体験できる世界である。

この世界は下層脳(大脳辺縁系+脳幹=無意識脳)が優勢の世界で、主・客分離以前の「」や「」の世界である。

この空状態から主客分離して分別意識が生まれると考えることができる。

坐禅中では下層脳(大脳辺縁系+脳幹=無意識脳)が優勢の状態になっているので無意識か、無意識に近い状態だと思われる。

この主客分離以前の世界を曹洞禅では「正位」と表現する。

「洞山五位」を参照

」とはそのような禅定(空三昧)に入った禅定修行者が体験する「脳宇宙体験」だと考えれば分かり易い。

それは脳科学によって以下のように説明される。

深い禅定に入ると、大脳新皮質の活動は低下し、上層脳(分別意識脳)から入るストレスはシャットアウトされる。

それとともに、下層脳(=脳幹+大脳辺縁系)が活性化され脳幹にあるA10神経やセロトニン神経が活性化される。

そのような下層脳優勢の状態になると

βエンドルフィン、ドーパミンやセロトニンなどの脳内麻薬が分泌され深い安らぎと安楽の状態になる。

禅と脳科学を参照)。

このような、深い禅定で体験する大安楽の状態を「老死もないし、老いと死がなくなることもない」と表現しているのである。

そのように考えると、ここが般若心経の中で最重要部分だと言えるだろう。

深い禅定に入る時には、苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを滅することも、苦しみを抑える八正道もないという心的状態に至る。

この空の立場に立てば、智慧や、智慧を得ることもない。

この時、菩薩は、般若波羅蜜多によって安心立命心して、心にこだわりがない

心にこだわりがないので、恐怖がなく、すべての顛倒(テントウ)した心を遠く離れて

永遠の安らぎの状態に入っているのである」と表現している。

第C文段の最後では、

この状態を「一切の顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す」と言っているのである。

涅槃については「涅槃の定義」を参照)。

この文より、般若心経では下層脳の活性化によって脳が経験する「苦しみのない大安楽の状態」を

涅槃」(悟りの境地)だと考えていることが分かる。

「禅は安楽の法門」を参照)。

第C文段によって涅槃(悟りの境地)をまとめ、最後の結論を第D文段によって表現している。

第@文段から第C文段の最後の「涅槃を究竟す」までは次の図8によって簡単にまとめることができる。


禅定修行から涅槃への道

図8 禅定修行から涅槃への道


図8は図5で示したこと同じである。


図8から、

仏教の究極の目的」禅定修行によっては苦から解脱し、「涅槃の境地に至る

ことだと考えても良いだろう。その意味で図8は重要である。


そう考えれば、第C文段までで般若心経のエッセンスは説き尽くされている。


それは図5や図8に示したように、

禅定修行によって空三昧を深め、空の悟りから涅槃の境地(=般若波羅蜜)に至ることだと言えるだろう。


それが般若心経の目的だから般若心経はこの文段で目出度く完結しても良いはずである。


ところが、般若心経はこれでは終わらない。

それどころか、以降の第D文段から経文の論調はガラリと変化し、別のことを主張し始めるのである。



 第5文段



D

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提  

故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪   

是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 




読み下し文:


三世諸仏も 般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。

故に知るべし、般若波羅蜜多は これ大神呪なり。これ大明呪なり。

これ無上呪なり。これ無等等呪なり。

よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざるが故に 般若波羅蜜多の呪を説く。


注:

三世諸仏:過去・現在・未来(三世)の諸仏。


阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい):

梵語(サンスクリット)「アヌッタラー・サムヤク・サンボーディ」の音訳。

「この上もない、正しく平等な目覚め」という意味。

漢訳では「無上正等覚」、「無上正真道」、「無上正遍知」などと意訳する。

省略して「阿耨菩提(あのくぼだい)」とも言われる。

この上なくすぐれた、正しく平等円満である仏の悟りの智恵のこと。


※この言葉は、道元著「正法眼蔵」の「弁道話」の冒頭に次のように出てくる。


諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、 最上無為の妙術有り

これただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなわち自受用三昧その標準なり。」

「弁道話1」を参照)。



現代語訳:

諸仏如来は、皆ともに妙法を伝えて、この上ない正しい悟りを実証するがそこには、最上で人間の作為のない妙術がある

これはただ、仏が仏に伝えて、少しも間違いがないのは自受用三昧がその標準である。」


大神呪:マハー・マントラの訳。不思議な霊力を意味すると考えられる。

マントラは通常、「咒」「明咒」、「真言」と訳される。

「呪」は中国では「秘密語」の意味。


仏教以前のヴェーダ時代においては宗教的儀式に用いられた神歌であった。

しかし、ブッダは呪文や呪術を非合理なものとして禁じた。

原始仏教2を参照)。

しかし、ブッダの死後、ブッダが禁止したマントラは再び仏教教団で復活したのである。

これはブッダに対する裏切りと言える。

大乗仏教においてはさらに陀羅尼(ダーラニー)と並んで広く用いられるようになった。

これが後期大乗仏教(密教)につながったと考えられる。

後期大乗仏教(=密教)ではマントラやダーラニーは真理そのものであると尊重され、誦えれば真理と合一すると説かれるようになる。

そのため翻訳することなくそのまま口に誦えられ、如来の真実の言葉であるとして真言というのである。

しかし、呪術を否定したブッダがこのようなことを説くはずはない。

原始仏教2を参照

ブッダ死後500年たった大乗仏教誕生の頃には、

そのような仏教の神髄(ゴータマブッダの教え)は忘れられ、密教(呪術的仏教)の萌芽が既に生まれていたことを示している。

密教(呪術的仏教)の種子は既に初期大乗仏教にあった!


初期大乗経典である般若心経ではそれが既に芽吹いていたことが分かる。

無等等:無比のということ。


   

 第5文段の現代語訳


過去・現在・未来(三世)の諸仏は、般若波羅蜜多によって、この上ない正しい悟りを得た。

それゆえ人は皆知るべきである「般若波羅蜜多は仏の大きな呪文

大きなさとりの呪文、無上の呪文、無比の呪文である

あらゆる苦しみを取り除くことができ、真実であり虚妄でない」と。

それ故、般若波羅蜜多の呪文を説こう。


解釈とコメント


第D文段は以前の文段とは急に経文の論調が違ってくる。

第D文段の冒頭の「三世の諸仏は、空三昧で得た無分別智によって、この上ない正しい悟りを得た」という経文までは前の経文の続きと言える。

ここで一旦結論を得て経文は完了しているとみなすことができる。

しかし、これに続く第D、第E文段の経文は第@〜第C文段と全く違うことを主張しているので、これまで般若心経が言っている内容とは違う経文のように見える。

第D文段においては、「それゆえ、人は皆知るべきである

般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)は仏の大きな呪文、大きな悟りの呪文、無上の呪文、無比の呪文である

この呪文はあらゆる苦しみを取り除くことができ、真実であり虚妄でない」と言っている。

第D文段から突然、「般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)は呪文である」と主張しているのである。

般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)=呪文

であると論調が急変しているのである。


一体、般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)=呪文とは一体何を言いたいのだろうか?



第D文段の経文は

1:


般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)は呪文である」。

2:


その呪文はあらゆる苦しみを取り除き、真実であり虚妄でない」。


の2点を主張している。


呪文の力を強調し信じるのは古代の呪術思想(Magic)である。

このような非合理的思考は現代人にとって受け入れがたいところがある。

それどころか、呪術を否定したブッダがこのようなことを説くとは考えられない。

原始仏教2を参照)。

ブッダの合理的教えを否定する呪術(魔法)的主張と言えるだろう。

般若系経典が登場した紀元1世紀頃には禅定や坐禅を合理的に説明できるような科学は未だ無い。

般若系経典が登場した古代世界の限界が第D、E文段の経文には現れていると言えるだろう。

般若心経の第D文段以降の経文が主張していることは呪術を否定したゴータマブッダの教えとは異なることに注目すべきである。

第D文段から、「般若波羅蜜多は仏の大きな呪文、大きなさとりの呪文、無上の呪文、無比の呪文である

と言って般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)を呪文化する呪術思想が入っている。

一体、般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智、あるいは空の禅定)を呪文化することなぞ可能だろうか?

現代の合理的思考では不可能な発想である。

これは古代インドの呪術的思想から来ていると考えることができるだろう。


zyuzyutu

古代インドの呪術思想と般若波羅蜜多の呪文化


長尾雅人と服部正明氏は「インド思想の潮流」という論文において古代インドの呪術的思想には等値・同一化の論理があると説明されている。

この考え方は我が国の呪術「丑の刻参り」にも見られる怨敵を呪い殺す呪術でも見られる。

「丑の刻参り」という呪術では藁人形は怨敵と同値される。藁人形を支配すれば怨敵をも支配できると信じられたのである。

 藁人形を釘で刺せば、同様な、物理的打撃を怨敵に与えることができると信じられたのである。

これと同じ論理が「般若波羅蜜多」の呪術化にも用いられたと考えることができる。

まず、般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智、あるいは空の禅定)を実体化し、呪文化する。

そうすれば、般若波羅蜜多の呪文(=真言)を唱えるだけで、般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)と一体化して、

般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)を獲得し、支配できる。

現代人にはとても理解できない古代インドの呪術論理である。

しかし、このような呪術的プロセスを仮定して解釈すれば、第D、第E文段で説いていることは良く理解できる。

まず、呪術的プロセスによって、般若波羅蜜多(悟りの智慧)を呪文化することによって、

般若心経の大真言(第E文段の解釈とコメントを参照)が完成する。

図9に般若波羅蜜多(悟りの智慧)の呪文化による般若心経の大真言を示す。


呪文化

図9 般若波羅蜜多(悟りの智慧)の呪文化と般若心経の大真言の誕生



後はこの呪文を唱えて般若波羅蜜多と一体化すれば、般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)は成就する。

般若波羅蜜多と一体化すれば、般若波羅蜜多は成就すると考える思想はまさに密教の思想である。

これは現代人には理解できない不思議な呪術的論理(魔法の論理)と言える。

図10にこれを図示する。


般若波羅蜜の成就法

図10 呪術による般若波羅蜜(悟りの智慧)の成就法



般若心経を創作した創作者(あるいは創作者のグループ)には般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)の本質が分からなかった。

そのため思考が飛躍し、無上・無比の呪文であると呪術化し魔法的発想と結びつけたと考えることができるだろう。

ブッダは呪術を否定したことは良く知られている。

原始仏教2を参照)。

般若系教典や般若心経が創作されたのはブッダの死後500年くらい経過した紀元前後である。

この時代になると、呪術を否定したブッダの合理的な教えは忘れ去られ、大乗仏教のなかで呪術的思想が力を得ていたと推定される。

これが後期大乗仏教である「密教」につながって行ったと考えることができるだろう。

呪術と宗教については、大乗仏教1、呪術と宗教を参照)。


この考え方は英国の有名な仏教学者エドワード・コンゼ(1904〜1979)も

般若系経典には呪文重視の密教的考えが既にある

と述べていることからも妥当であろう。

古代インドでは現代のような脳科学や合理的思考法は無い。

般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)の本質が全く分からなかったと思われる。

そのため、呪術的論理により般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)を無上・無比の呪文に結びつけたと考えることができる。

般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)を呪文化するような考え方は現代人にはちょっと理解しにくい非合理的(非科学的)思考法である。

日本仏教では、般若心経は禅宗とともに真言宗(密教=呪術的宗教)で重視されている。

日本の禅宗は真言宗(密教=呪術的宗教)と同様呪術的色彩を持っている。

例えば、臨済宗では「大悲円満無礙神呪(大悲呪)」、「消災呪」、「仏頂尊陀羅尼」などの経典を読誦する。

これらの経典はもともと梵文の陀羅尼経典で、明らかに密教経典である。

このことからも以上の推論も許されるのではないだろうか?



 第6文段



E

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

般若心経   



読み下し文:


すなわち呪を説いて曰く、掲諦 掲諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦、菩提僧莎訶 般若心経  


注:

羯諦(ぎゃてい):梵語「ガーテー」の音訳。「行ったもの」の意。

波羅(はら):梵語「パーラ」の音訳。「彼岸」の意。

波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい):梵語「パーラサンガテー」の音訳。「彼岸へ行ったもの」の意。

菩提(ぼーじ):梵語「ボーディ」の音訳。 「悟り」の意。

僧莎訶(そわか):梵語「スヴァーハー」の音訳。「幸せなれ」の意。 

願いの成就を祈って、咒の最後に唱える秘密の言葉。


   

第6文段の現代語訳


その呪文は次のように説かれた。

ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー

(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、悟りよ、幸あれ。)

智慧の完成の心が終わった。


解釈とコメント


この経典の結びにでてくる呪文「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」は

最高・最強のマントラだとされ、「般若心経の大真言」 と呼ばれている。

この大真言は、日本では 「翻訳不可能のマントラ」 として扱われ、

仏道修行者は、そのままの原語で、今もこのマントラ(=真言、明咒)を唱え続けている。

2013年1月NHK教育テレビ「100分で名著」「般若心経」の最終回の放映でも

この「般若心経の大真言」が話題となった。

そこでは「般若心経の大真言」は神秘の響きを持ち、見えない神秘の力を持つとされたのである。

経典の中に「般若波羅蜜多は大いなる真言である」と書いてある。

このことから、『般若心経』の第D、第E文段の主張は「般若波羅蜜多の真髄は真言である」ということだと考えられる。

筆者は、『般若心経』は空三昧の修行で得られる悟りの境地を表現主張すると同時に

真言を伝授することを目的とした経典だと考えている。

第@文段から第C文段の最後の「涅槃を究竟す」まで、

言っていることを図8によって簡単にまとめることができる。

その時、これに続くD、E文段は図10によってまとめることができる。

図10に示したように、第D、E文段のテーマは般若波羅蜜多(=無分別智=悟りの智慧)の咒文化と成就法の完成に有ると言える。

この呪文を唱えて般若波羅蜜多と一体化すれば

般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)は成就されると考えるのである。

図8では禅定修行によって般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)に至ると考えている。

図8は未だ合理的観点から理解できる。

ところが、図10では呪文を唱えることで般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)に至ると考えている。

図10に示した呪術による般若波羅蜜多(空三昧で得られる無分別智)の成就法は、

呪文を唱え、魔法の杖を振るハリー・ポッターの魔法と同じである

こちらは呪術的な魔法の論理であり、合理的には理解不可能である。

第D、E文段で説かれていることは、ハリー・ポッターの魔法と同じ論理だと考えれば分かり易い。

図10を見ればわかるように、この場合の修行者は必ずしも禅定(坐禅)修行者でなくても良い。

般若波羅蜜の呪文を唱えながら般若波羅蜜多と一体化できる修行者であれば誰でも良い。

般若波羅蜜多」の禅定修行者から

呪文を唱えながら般若波羅蜜と一体化する真言修行者(=密教行者)に入れ替わっているのである。

真言修行(呪文修行)は呪文を唱えるだけで良いから、「般若波羅蜜多」の空三昧に入る禅定修行より易しいだろう。

禅定修行が呪文を唱える真言修行に置き換わることで易行化されている。

しかし、ここには合理的修行(禅定修行)から非合理的修行(呪術修行)へと文明の退化が見られるのを否定することはできない。

呪術化は明らかに非合理的な密教化への道と言うしかないだろう。

2013年1月に放映された、NHK教育テレビ「100分で名著」「般若心経」の最終回で、

佐々木閑教授(花園大学)は「般若心経の一番のテーマ」は

見えない力、神秘の力をどうやって体得し信じるかにある

と言っておられた。

勿論、このマントラの意味については、色々な本で、その真意が推測され、色々と翻訳されて来た。

(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、悟りよ、幸あれ!)

は紀野一義博士(1922〜2013)による有名な和訳である。

合理的な科学的立場に立つ筆者は、この真言は呪文の「見えない力、神秘の力を信じる

という呪術的思想に立って解釈するつもりはない。

それより、上の和訳に見られるように素直に、

禅定修行による空三昧から得た「悟り」を讃える歌」だと考えている。

般若心経を説き終わるに当たって、

般若波羅蜜多の禅定修行で得られる悟りの知恵(=無分別智)を讃えているのだと解釈している。

般若心経の「見えない力、神秘の力」などは呪術的思想(呪術的世界)を信じたい人が信じれば良いと考えている。

般若心経が持つとされる「見えない力、神秘の力」を信じるのも信じないのも自由である。

このあたりからは、真言や呪文の「見えない力、神秘の力」を信じる不可思議な信仰(宗教)

の世界へ入るか、入らないか各自の信念や選択の問題になるだろう。

図11に般若波羅蜜多に対する呪術的アプローチ(左側)と合理的(科学的)アプローチ(右側)を比較して示す。


合理的(科学的)アプローチ

図11  般若波羅蜜多に対する呪術的アプローチ(左側)と合理的(科学的)アプローチ(右側)



図11の左側はラフカディオ・ハーンの「耳なし芳一」の物語に典型的に見られる。

般若心経が持つとされる「見えない力、神秘の力」を信じる伝統的な呪術的アプローチを示す。

般若心経が持つとされる「見えない力、神秘の力」を信じる伝統的な呪術的信仰は現代でも生きている。

図12は般若心経が持つとされる「見えない力、神秘の力」を刻み込んだとされる、現代でも市販されている腕輪の例である。


図12

図11  は般若心経の腕輪



「丑の刻参り」や「禊やお祓い」に見られるように日本には強い呪術的伝統がある。

このような腕輪の神秘的な力が信じられているのは

日本人の間にいまだに古く、倭人の時代(弥生時代)から続く呪術的伝統が根強く生きていることを示している。

日本でハリー・ポッター(イギリスの少年魔法使い)やスタジオジブリ作品(殆どは魔術的漫画映画)の人気が高いのは

この根強い呪術的伝統から来ていると考えられる。

図11の右側は脳科学に基づく般若波羅蜜多(無分別智=悟りの知恵)に対する合理的(科学的)アプローチを示す。

般若心経の@〜C文段が説いていたのは、

禅定修行による般若波羅蜜多(無分別智=悟りの知恵)に対するアプローチである。

従って、般若心経の@〜C文段が説く禅定修行による般若波羅蜜多の成就は合理的(科学的)アプローチだと言える。

これはブッダの原始仏教以来、仏教の基本的修行法であった37道品(三十七菩提分法)に基づく般若波羅蜜多(知恵の完成)への道と言える。

37道品(三十七菩提分法)を参照

これに対し、D〜E文段で説いているのは呪術的(密教的)アプローチに基づく般若波羅蜜多(無分別智=悟りの知恵)の成就である。

これはブッダが否定した呪術を用いた般若波羅蜜多(知恵の完成)への道と言っても良いだろう(図の左側のアプローチ)。 

ここに般若心経の作者の混乱が見られる。

つまり、@〜C文段の合理的禅定修行から突然呪術的真言修行に方向転換しているのである。

これは般若心経の作者の混乱だけではなく、文明が未発達な古代世界に誕生した大乗仏教に内包された矛盾と混乱」のようにも見える。

筆者は@〜C文段で説かれた禅定修行による右側の合理的(科学的)アプローチに立つことはいうまでもない。






「般若心経」の参考文献


   

1.中村元・紀野一義訳注、岩波書店、岩波文庫般若心経 金剛般若経

2.長尾雅人責任編集、中央公論社、世界の名著1、バラモン教典、原始仏典、1969年p.21

  長尾雅人と服部正明「インド思想の潮流」

3.小泉八雲(Lafcadio Hearn)著、耳なし芳一の話(The story of mimi-nasi-Hoichi)

、耳なし芳一の話

4.天外伺朗著、祥伝社、般若心経の科学、1997年

5.松原泰道著、祥伝社、般若心経入門、1972年

   

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