2009年8月8日〜作成  表示更新:2021年11月14日
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証道歌




証道歌と作者永嘉真覚について



証道歌の作者は永嘉真覚(ようかしんかく)(665〜713)である。

名前は玄覚であるが真覚と号した。無相大師とも呼ばれる。

彼はもともと天台宗の教学を学び天台止観の法門に精通し、

常に禅観を好み密かにこれを修していた。

すこぶる博識の人であったと伝えられる。

同門の玄朗禅師に六祖慧能禅師に会うことを勧められ、ある日六祖慧能に会って問答した。

熱心に問答を交わした後六祖に引き止められて一宿し、六祖の法を一晩で嗣いだと伝えられる。

そのため一宿覚と呼ばれる。

證道歌は独特の韻を踏んだ247句1814文字より成る偈頌で、

禅宗四部録信心銘、証道歌、十牛図、坐禅儀)の一つである。

以下の解説ではこれを便宜的に23文段に分けて解説したい。

永嘉真覚禅師について詳しいことは分からない。

しかし、「六祖慧能の所に一宿し、六祖の法を一晩で嗣いだ。そのため一宿覚と呼ばれる」

という話は作られた伝説だと思われる。

證道歌の第7段には永嘉真覚自身が

私は大河大海を歩き回り、山や川を渡り歩いて師を尋ねるという参禅求道の旅をしてきた

しかし、六祖慧能禅師の禅を悟ってから、生死の問題など大したことではない

と分かってしまった。」

と彼自身の求道の旅について回想しているからである。

第7文段を参照)。

これを読むかぎり彼は多くの禅師のところを尋ね、

六祖慧能について参禅修行し悟ったと言っていることがわかる。

六祖慧能について参禅修行し悟ったのは確かだろうが一晩で悟ったとは言っていない。

六祖慧能について参禅修行し短期間で了畢(卒業)した。

その優秀さが伝説化して一宿覚と呼ばれるようになったのではないだろうか。



1.0

第1文段 

君見ずや、絶学無為(ぜつがくむい)の閑道人(かんどうじん)、 

妄想を除かず真を求めず。 

無明の実性即仏性(ぶっしょう)、幻化の空身即法身(ほっしん)。 



注:

絶学:道を学んで学び尽くし、無功用の境地にいたった者。


無為:分別意識を離れ、あるがままで作為の無い妙用の境地。

「無為」は老子が重視する中国の思想である。老子の思想の影響が見られる。


閑道人:一切の相対的見地や思慮分別を離れ、求めるところが無い人。


無明:物事の道理に暗く、心の霊妙性を失うこと。一切の煩悩の根源は無明にある。

しかし、無明は心の迷いであるから実体はない。迷いから目覚め、

自覚すれば一転して仏性、仏心になる。


幻化の空身:幻が変化したような空しい身体。


法身:梵語ダルマカーヤの漢訳。

大乗仏教の仏の三身論では仏には法身仏、報身仏、化身仏の三身仏があるとする。

しかし、禅では我々の真の自己は本 来仏であり、法身仏、報身仏、化身仏

三身仏としての性質を具えているとする。

「六祖壇経」において六祖慧能はこれを自性の三身仏と呼んでいる。

「六祖壇経」を参照)。

法身仏とは生滅を超えた真如(真理)の理体を言う。



現代語訳:

 君は会ったことはないだろうか、

自己を悟り、これ以上学ぶことがない無為の境地に至った閑道人」に。

彼は、妄想を除いて真理を求めるような愚かなことをしない。

無明の実体はそのままで仏性であるし、

幻化の空身(うつしみ)のような我が身はそのまま法身であるからだ。



解釈とコメント:

   

ここで永嘉真覚は中国的な絶学無為の閑道人(自己を悟り、これ以上学ぶことがない無為の境地に至った閑道人)

を禅の理想的人物想像として取り上げて詠っている。



2

第2文段 

法身覚了すれば無一物、本源自性天真佛

五陰の浮雲は空去来、三毒の水泡は虚出没

実相を証すれば人法なし

刹那に滅却す阿鼻の業

若し妄語をもって衆生を誑(たぶら)かさば

自ずから抜舌を招くこと塵沙劫ならん

頓に如来禅を覚了すれば、六度万行体中に円なり

夢裡明明として六趣あり、覚後空空として大千なし



注:

無一物: 坐禅修行中には、修禅者の心や自己の本体は下層脳(脳幹+大脳辺縁系)優勢の情勢の状態になる。

下層脳については「「禅と脳科学:その1」を参照)。

下層脳(脳幹+大脳辺縁系)は無意識なのでいくら探しても何も得ることはない。

無一物と表現するしかない。

しかし、心や自己の本体としての脳中には何も無いということではない。

脳中に情報として入る目前の山河大地などの自然、是非善悪などの判断などは

禅では法身(脳)の働きであると考える。

法身(脳)の働きである脳内現象は無相、無形であるが諸法実相の考えからすると実相でもある。

従って、法身(脳)の働きである脳内現象は無相、無形であるが同時に実相でもある。


本源自性:人人具足、箇箇円成と言う我々すべてが具有する根源的な自性。

坐禅によって下層脳を中心とする脳が活性化され健康になった脳(全脳)を指すと考えられる。


天真佛:我々すべてが具有する根源的な自性(脳)はそのままで仏性であり、ありのままの天真仏である。

天真とはありのままという意味。


五陰五蘊(パンチャスカンダ)の旧訳と言われる。

五蘊は色、受、想、行、識の五つを指す。

色は色身(肉体、物質)のこと。受は感覚器官が受容する初期的刺激のこと。

想は心(脳)で発生する初期的想い。

行は形成作用のこと。

識は行によって脳内で形成された意識、認識などを意味する。

受、想、行、識は心(脳)の働きを四つに分けたものである。

要するに、五蘊は脳と心的現象を五つに分析分類した概念で、

人間存在(肉体と精神現象)はこの五要素によって成り立っていると考えるのである。

五蘊はブッダの原始仏教以来の仏教の基本的概念である。

「原始仏教:その1、9.12を参照)。


三毒:人間の善心を損ない無明の原因となる心の三毒

(むさぼりの心)・(いかり)・(おろかさ)の三煩悩のこと。


実相:真のすがた。あるいはありのままの相(すがた)。

差別の現実世界における諸法(一切の存在)がそのまま真実の相(すがた)であるとする。

諸法実相と同じ。


人法:人は主観的存在。法は客観的現象と存在。

即ち我とそれに対する万物。


刹那:1刹那は1/75 秒と考えられるので約13.3 ms(ミリ秒)である。

極めて短い時間のこと。


塵沙劫:塵点恒沙劫の略。無限に長い時間のこと。


如来禅:唐時代に活躍した華厳と禅の学者、圭峰(けいほう)宗密(しゅうみつ)(780〜841)は

彼の頃まで中国で行われた禅を

1.外道禅、2.凡夫禅、3.小乗禅、4.大乗禅、5.最上乗禅の五種類に分類した。

第1の外道禅は仏教から見たら異教の禅で、本来はヨーガやジャイナ教の瞑想法を指す。

ここには白日昇天と不老長生をめざす中国の仙道を含めていると思われる。

凡夫禅は善因善果、悪因悪果の理法を信じ、悪業の苦を逃れ昇天をめざすもの。

小乗禅は生老病死などの無常観から出発する小乗仏教(部派仏教)の禅。

大乗禅は一切皆空の般若の真理を観ずる禅である。

最上乗禅は如来清浄禅とも呼ばれ達磨直伝の禅がそうだとされる。

ここでいう如来禅とは如来清浄禅とも呼ばれる達磨直伝の禅のことである。

自性は本来清浄であり、煩悩も妄想もなく如来の一切智を具有するとする。

自己と仏の同一性を悟るのが如来禅であらゆる三昧の根本とされる。


六度:六波羅蜜のこと。

布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つである。

伝統的大乗仏教ではこれを無限時間実践することで

涅槃の彼岸に到り、仏になると考えられてきた。

禅では頓悟することで「一超直入如来地」で仏位に到るとされる。

無限時間の修道は不要となるのである。


万行:一切の善行。如来禅には六度万行が自ずから具わっていると考えて、

「六度万行体中円」と言う。


六趣:地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六界のこと。

一切の衆生が業因によってこの六界を往来するとされることから六趣と言う。


空: 条件性の存在を空と言う。

存在を成り立たせている条件が無くなればその存在も無くなるからである。

ナーガルジュナ(龍樹)は著書「中論」において「縁起所生の法は我是を空なりと説く

と言って空を定義した。

大乗仏教:その1、10.8 「空とは何か?」を参照)。

縁起所生の法」とは因果律によって生じた条件性の存在を意味する。


大千:三千大千世界のこと。古代インドの宇宙観である。

世界は須弥山を中心として、日月、四天下、四王天、三十三天、

その他から構成されているとする。

その須弥山世界を千個集めたものを小千世界と呼ぶ。

小千世界を千個集めたものを中千世界と呼ぶ。

更に、中千世界を千個集めたものを三千大千世界と言い我々の宇宙だと考えた。

大乗仏教:その1、10.8 「アビダルマ仏教と三千大千世界」を参照)。



現代語訳:


一旦法身を覚ってみれば心はスカッとして何も無い。

我々の自性はそのままで天真仏である。

その時、五蘊は空に浮かぶ雲のようなものだし、

貧瞋痴の三毒は水に浮かぶ泡のように虚しく生滅を繰り返しているだけだ。

諸法実相を検証して見れば主客より成る万物も無い。

このような空観に立てば無間地獄に落ちる業も瞬間的に滅却することができるだろう。

しかし、もしでたらめなことを語って衆生を誑(たぶら)かすようなことをすれば、

無限に長い間舌を抜かれるような苦しみを味わうことになるだろう。

逆に、如来禅を頓悟することができれば、

六度万行を体中に円満具足する仏としての自覚を得るだろう。

夢や妄想の中には天国や地獄などの六趣があるかも知れないが、

覚ってしまえばそれも消え失せてしまう。

アビダルマ仏教が説く<三千大千世界>という宇宙論も妄想として消えて失くなるのだ。




解釈とコメント:



一旦本来の自己を覚ってみれば心はスカッとして何も無い。我々の自性はそのままで天真仏である。

その時、五蘊は空に浮かぶ雲のようなものだし、 貧瞋痴の三毒は水に浮かぶ泡のように虚しく生滅を繰り返しているだけである。

諸法実相を検証して見れば主客より成る万物も意識には無い(下層脳中心の無意識だけである)。

このような空観に立てば無間地獄に落ちる業も瞬間的に滅却することができると詠っている。

   
3

第3文段 

罪福もなく損益もなし

寂滅性中(じゃくめつしょうちゅう)問覓(もんみゃく)すること勿れ

比来塵鏡未だ曽て磨せず

今日分明に須く剖析(ほうしゃく)すべし

誰か無念誰か無生、若し実に無生ならば不生もなし

機関木人を喚取して問え

佛を求め功を施さば早晩(いつ)か成ぜん

四大を放って把捉(はしゃく)すること莫れ

寂滅性中随って飲啄(おんたく)せよ

諸行無常一切空、即ち是れ如来の大円覚



注:

寂滅:涅槃(ニルヴァーナ)の漢訳。

迷妄を離れ、生滅を超えた不生不滅の法身(脳)を体験した時現れる無為寂静の境地。

原始仏教:その1、9.5 「涅槃の定義」を参照)。


比来:これまで。


塵鏡:本具の清浄心が煩悩、妄念に覆われ本来の輝きが失われた状態を、

塵が鏡に付着して鏡本来の輝きが失われた状態に喩えて言った表現。


剖析(ぼうしゃく):事物を判断してはっきりさせること。


無念:一念一念が生滅しても対象に執着しないこと。

日常の行、住、坐、臥の生活において活溌溌地、自由自在であること。


無生:生滅変化の相を超えること。


機関:仏道の関門。


機関木人:木の人形。


功を施さば早晩(いつ)か成ぜん:学問修行を地道に積み功を重ねれば

何時かは成仏するだろう。


大円覚:広大円満な如来の大覚という意味。

万徳円満の悟りの心即ち仏心を言う。




現代語訳:


 悟りの世界には、罪とか福とかもなく、損や得もない。

迷妄を離れ、生滅を超えた涅槃寂静の境地に至れば、何かを外に探し求める必要はない。

これまで積もった妄念の塵に覆われたにしても、

心の明鏡はもともと曇ったり磨り減ったりすることもないことをはっきりさせると良いだろう。

誰が無心だと言うのだろうか。

誰が世の中の生滅の相を超えていると言うのだろうか。

もし、本当に無生が体得できれば、ことさら世の中の生滅の相を否定することもないだろう。

仏道の関門については木の人形にでも聞くが良い。

仏を求め学問修行を地道に積み重ねれば何時かは成仏するだろう。

四大からなるこの肉体を使って捉えようとしてはならない。

一旦、無為寂静の境地に至ったならば、鳥が無心に水を飲み、

餌をついばむように無心に飲み食いすればよいのだ。

諸行無常・一切空が如来の広大円満な悟りそのものだ。 


   

解釈とコメント:

悟りの世界には、罪福や損得はない。

迷妄や生滅を超えた涅槃寂静の境地に至れば、何かを外に探し求める必要はない。

これまで積もった妄念の塵に覆われたにしても、

心の明鏡はもともと曇ったり磨り減ったりすることもないことがはっきりする。

誰が無心で世の中の生滅の相を超えているのだろうか。

もし、真に無生(本来の自己)を体得できれば、世の中の生滅の相を否定することもない。

一旦、無為寂静の境地に至ったならば、鳥が無心に水を飲み、

餌をついばむように無心に飲み食いすればよい。

諸行無常・一切空が如来の広大円満な悟りそのものだと詠っている。


4

第4文段 

決定の説は真僧を表す

人有り肯わずんば情に任せて徴せよ

直に根源を截(き)るは佛の印する所

葉を摘み枝を尋るは我れ能わず

摩尼珠、人識らず、如来蔵裡に親しく収得す

六般の神用空不空、一顆の円光色非色

五眼を浄うし五力を得

唯だ証して乃ち知る測る可きこと難し

鏡裡に形を看る見ること難からず

水中に月を捉(とら)う争(いかで)か拈得(ねんとく)せん




注:

決定の説:自ら心に納得して自信をもって主張できる所説。

例えば上に述べた諸行無常一切空、のような決定的な真理として確信を持つことができる所説。


情に任せて徴せよ:情(こころ)に任(まか)せ、

思いのままに不審な点を質問しなさいという意味。


直に根源を截(き)る:無明・生死・煩悩等の根源を截(き)り、

直ちに命根を断ずること。

その時、八万四千の煩悩は即ち八万四千の法門となる。

これを「一超直入如来地」と言う。


摩尼珠:マニの音訳。如意珠、無垢光などと漢訳する。

如意珠は、宝物を出す、病気を治す、毒蛇を消す、

にごり水を浄化する、災いを防ぐ、など、あらゆる願いを叶える、

と言われる不思議な珠である。

仏性(健康な脳)が縁に随って自在に相を現すことから、

これを如意珠に喩えたものである。

臨済禅では八識田中に一刀を下し含蔵識を撃砕して、

如意珠を得ることができると言われるようだ。


六般の神用:六種の妙用のこと。

眼耳鼻舌身意の六根が、色声香味触法の六境に対し、

目には色を見、耳には声を聞くという心・境一如の妙用を発揮する時、

六根即六般の神用となる。

眼耳鼻舌身意の六感覚器官が示す妙用のこと。


一顆の円光:六般の神用は科学的には、

人が具有する脳の働きから出る。

このことから、如意珠とは脳を、

一顆の円光とは脳の働きを文学的に表現したものと言えるだろう。


五眼:肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼の五種の眼。

肉眼は普通の眼。天眼は天人や聖者の持つ超人的な眼。

細い物や遠い物でも、障害物を透過して見る眼。

慧眼は声聞縁覚の持つ真理を見る眼。

慧眼は菩薩の持つ眼。仏眼は仏の持つ眼。

荷沢神会禅師は五眼を次のように説明している。



表 荷沢神会による如来の五眼の説明

No 如来の五眼 説明
1肉眼 色(肉体)が清浄であると見る眼
天眼 本体が清浄であると見る眼
慧眼 物質的現象から精神的価値観に至るあらゆるものを見ても、それにとらわれない自由な眼
法眼 清浄の体を見て、見も無見もない眼
仏眼 見ることが無くなることもなく無見することもない眼


五力:信力、精進力、念力、定力、慧力の五つの力。


測る可きこと難し:五眼を浄くし五力を得るには、

自性を証悟するしかない。

世間の常識では推測するのは困難である。


水中に月を捉(とら)う:水面に写った月影を掴み取る。


拈得(ねんとく):手で物を掴み取ること。




現代語訳:


 確信が持てる真理であるならば、真の自己を明らかにするだろう。

どうしてもそれに納得できない人がいたら、思いのままに懲(こ)らしめても良いだろう。

直接に無明・煩悩の根源を截(き)り取る悟りの境地は

諸仏が証明してきたところである。

枝葉末節を求め摘み取るようなことは私の好みではない。

人は皆摩尼宝珠のような仏性を心の内奥に親しく抱え持っているが、

それに気づかないだけだ。

眼耳鼻舌身意の六根が色を見、声を聞くという心・境一如の妙用を発揮しているのだが、

それも無いような有るようなものではっきりしない。

一顆の円光もあらゆるものを照らしているが、それも物質であるような、

ないようなものではっきりしない。

五眼を浄化すれば五力を得ると言われているのだが、

自性を証悟してそれを知ることは難しい。

鏡に写る姿を見ることは易しいが、

水面に写る月を掴み取ることはできないようなものだ。


   

解釈とコメント:

確信が持てる真理は、真の自己を明らかにできるだろう。

もしどうしてもそれに納得できないなら、心に任せて懲(こ)らしめても良いだろう。

直接に無明・煩悩の根源切除する悟りの境地は諸仏が証明してきたところである。

人は皆摩尼宝珠のような仏性を心に蔵しているがそれに気づかないだけだ。

眼耳鼻舌身意の六根が色を見、声を聞き、対象と一体化する心・境一如(純粋経験)の明用を発揮しているのだが、

それも有るのか無いのかかはっきりしない。

(西田哲学と禅、脳科学を参照)

一顆の円光(知恵の光)もあらゆるものを照らしているのだが、それも物質であるのか、ないのかはっきりしない。

五眼を浄化すれば五力を得ると言われているが、自性を証悟してそれを知ることは難しい。

鏡に写る姿を見ることは易しいが、水面に写る月を掴み取ることはできないようなものだと詠っている。


第5文段 

 常に独り行き常に独り歩す

達者同じく遊ぶ涅槃の路

調べ古(ふ)り神清うして風自(おのずか)ら高し

貌(かたち) かじけ骨剛うして人顧みず

窮釈子口に貧と称す、実に是れ身貧にして、道貧ならず

貧なれば身常に縷褐(るかつ)を被す

道あれば心に無価の珍(たから)を蔵(おさ)む

無価の珍は用うれども尽ることなし

物を利し縁に応じて終に惜(おし)しまず

三身四智体中に円なり、八解六通心地に印す



注:

達者:如意珠を収得した達人。ここでは絶学無為の閑道人を指す。


涅槃:梵語ニルヴァーナの漢訳。滅度、寂滅とも言う。

迷妄を脱し、煩悩を断滅すれば、不生不滅の法身を悟ることができる。

その解脱・悟りの境地のこと。


調べ古(ふ)り神清うして風自(おのずか)ら高し:

世塵を超脱し、枯淡な格調と清らかな道風を持っている。


貌(かたち)かじけ骨剛うして:容貌が鶴のように痩せて、

仙骨稜稜として堅剛である。


窮釈子:貧乏な釈子(仏教徒)。


道貧ならず:身は貧であるが道は貧ではない。


縷褐(るかつ):弊衣粗服。


無価の珍(たから):値段を付けることができないほど尊い宝。

仏性(健康な脳)をさす。


三身:三身仏の略。三身仏は普通、法身仏、報身仏、応身仏の三つを言う。

法身仏とは大日如来のように法性(真理)を身体とする仏。

報身仏は自行化他の修行の結果報われてなった阿弥陀仏のような衆徳円満の仏。

応身仏衆生の能力根器に応じて教導する仏。

  六祖慧能や臨済は法身仏、報身仏、化身仏の三つを三身仏と呼んでいるので

厳密な定義はないようだ。

大乗仏教:その2、「三身仏の思想」を参照)。

四智:大円鏡智(だいえんきょうち)、平等性智(びょうどうしょうち)、

妙観察智(みょうかんさつち)、成所作智(じょうしょさち)の四つの智慧。

四智は覚者(ブッダ)の智慧と言われ次の表のように説明される。

表  四智の説明

No 四智 説明
1大円鏡智 対象をそのまま映し出す大きな鏡のような智慧。八識であるアーラヤ識(脳の機能)が空と縁起の悟りによって大円鏡智に変化するとされる。
平等性智自己と他者との平等性と一体性を覚る智慧。マナ識が変化してこの平等性智になるとされる。慈悲は平等性智の働きとされる。 
妙観察智 自己と他者との一体性を覚るすばらしい観察の智慧。第六識(意識)がこの智慧に転換すると考えられているので知性に相当する。
成所作智 :作すべきことを作し遂げる智慧。第五識(身識)がこの智慧に転換すると考えられているので運動や動作の智慧に相当すると考えられる。

四智は脳の機能を四つに分けて見たものと言える。

大円鏡智と平等性智は坐禅修行によって開発されるので、

下層脳(脳幹+大脳辺縁系)の活性化に伴なって生じるた智慧と言える。

八解:八解脱の略。五欲を捨て妄心への執着を離れる八種の解脱観のこと。

六通:六神通のこと。

六神通は、仏・菩薩などが得るという6種の神通力(自由自在の超人的で不思議な力の事)。

次の表で説明する。

表  六神通の説明

No 六神通 説明
1天眼通(てんげんつう) ふつう見えないものを見通す超人的な眼。
天耳通(てんにつう)超人的な耳。
他心通(たしんつう)他人の心を知る力。
宿命通(しゅくみょうつう)自分や他の人間の前世を知る力。
神足通(じんそくつう)自在に身を現し、思うままに飛行し得るなどの通力。
漏尽通(ろじんつう)煩悩を滅尽する悟りの力。


現代語訳


 絶学無為の閑道人は常に独りで行き、独りで歩んでいる。

彼は悟りの境地に達しそれを楽しみ遊んでいるのだ。

彼の言うことは古いようだが、心は清く高貴な道風を保っている。

その容貌は鶴のように痩せ、骨がごつごつしているためか誰も振り返らない。

貧窮な仏弟子は口々に貧と言っている。

まさに身なりは貧しいけれども、彼が歩む道は貴い。

常にぼろ布を身にまとっているけれども、

心には道があるので値を付けようがない宝(仏性)を持っている。

その宝は使っても尽きるようなことはない。

彼は他人を助け利益を与えるがそれを惜しむようなことは無い。

彼には三つの仏身と四つの仏の智慧が円に具わり、

八解脱と六神通を達成している。

   

解釈とコメント:

 絶学無為の閑道人は常に独行、独歩である。

彼は悟りの境地に達しそれを楽しみ遊んでいる。

彼の言うことは古いようだが、心は清く高貴な道風を保っている。

鶴のように痩せ、骨がごつごつしている容貌ためか誰も振り返らない。

彼は貧乏で身なりは貧しいが、歩む道は貴い。

いつもぼろ布を着ているが、心には尽きることがない仏性という宝を持っている。

彼は惜しむこと無く他人を助け利益を与える。

彼には三つの仏身と仏の四智が具わり、

八解脱と六神通を達成していると絶学無為の閑道人を賛美している。

   
6.0

第6文段 

 上士は一決して一切了ず

中下は多聞なれども多く信ぜず

但自ら懐中に垢衣(くえ)を解(と)け

誰か能く外に向って精進に誇らん

他の謗するに従い他の非するに任す

火を把(とっ)て天を焼く徒(いたず)らに自ら疲る

我れ聞て恰も甘露を飲むが如し

鎖融(しょうゆう)して頓に不思議に入る

悪言はこれ功徳なりと観ずれば、これ即ち吾が善知識となる

セン謗(せんぼう)によって怨親を起さざれば

何ぞ無生慈忍の力を表せん



注:

上士:優れた修行者。

但自ら懐中に垢衣(くえ)を解(と)け:「法華経」五百弟子受記品にある話。

自ら宝珠を身に付けながら乞食となって諸国を放浪していた者が、

旧友に会ってそのことを話されて初めて宝珠(仏性)を身に付けていることを知った。

人は皆仏性という宝珠を身に具有しているにもかかわらず、

その事に気づかずに苦界を流転していることの喩え話。


外に向って精進に誇らん:宝珠は凡情を滅尽することで手に入れることができる。

どうして外に向って努力精進したことを誇る必要があろうか。


甘露:古代インドでは神々の飲料で、不老不死の霊薬とされる。

仏教でも天人の飲み物で、甘く美味しいものをさしている。


鎖融(しょうゆう):金属類を高温の火に入れて溶かすこと。


不思議:心で考え思議することができない仏の境界のこと。思考や言語が断絶したところ。


善知識:正しい道理を説いて人を善道に導く高徳の人。


セン謗(せんぼう):そしること。


怨親:怨親平等。怨憎を持つ人に対しても親愛する人に対しても差別することなく、

慈悲の心で接すること。


無生慈忍の力:無生はもともと持っているもの。慈忍は慈悲の心で忍従すること。


現代語訳


優れた人は一度決着すれば全てを理解する。

そうでない人は多くの話を聞くけれども殆ど信じない。

ただ自身の懐の垢にまみれた衣を脱げば宝珠(仏性)を見つけることができるのだ。

誰が他人に刻苦修行したことを自慢する必要があろうか。

もし他人が誹謗するならそれに任しておけば良い。

それは火で天を焼くようなもので徒労に終わり疲れるだけだ。

私はその誹謗を聞いても甘露を飲むようなものである。

誹謗は心の中で融け去って思慮が及ばない無分別の境地に入る。

悪口も功徳を生むと考えれば、私にとって善知識に会うようなものである。

そしりによって憎しみを持つ人に対しても親愛する人に対しても

平等に慈忍の心で接することができなければ、どうして慈忍の心を表わすというのだろうか。


解釈とコメント:

優れた人は一度決着すれば全てを理解するが、劣った人は多くの話を聞くが殆ど信じない。

ただ自身の懐の垢にまみれた衣を脱げば宝珠(仏性)を見つけることができるのだ。

刻苦修行したことを自慢する必要はない。

もし他人が誹謗してもそれに任しておけば良い。

誹謗は火で天を焼くようなもので徒労に終わり疲れるだけだ。

私にはその誹謗を聞いても甘露を飲むようなもので、心の中で融け去って思慮が及ばない無分別の境地に入る。

悪口も功徳を生むと考えれば、私にとって善知識に会うようなものだ。

悪口も功徳を生むと考えれば、私にとって善知識に会うようなものだ。

そしりによって憎しみを持つ人に対しても親愛する人に対して平等に慈忍の心で接することができなければ、

どうして慈忍の心を表わすのだろうか。

    7

第7文段 

   

 宗も亦通じ説も亦通ず、定慧円明にして空に滞らず

但我れ今独り達了するのみに非ず

恒沙の諸佛体皆な同じ。

獅子吼無畏の説、百獣之を聞て皆脳裂す

香象奔波するも威を失却す

天竜寂に聴て欣悦(ごんえつ)を生ず

江海に遊び山川を渉り

師を尋ね道を訪(とぶら)うて参禅をなす

曹谿の路を認得してより

生死相関(あずか)らざることを了知す



注:

宗も亦通じ説も亦通ず:体験によって根本を悟るし、

分別によって弁舌さわやかに真理を説くこともできる。


定慧:禅定と智慧。


円明:円(まどか)に具わっていること。  

恒沙:ガンジス川の砂の数。数え切れないほど多い数。


獅子吼無畏の説:獅子は百獣の王である。

ブッダ及び歴代祖師達の説法をこれにたとえて獅子吼と言う。

また獅子が百獣の中にいて畏れを知らないので、

仏菩薩の説法を無畏の説と言う。


香象:象は毛穴から香気を出すことから香象と言う。

或いは香山より産する象だとも言う。


欣悦:よろこび。


曹谿の路:南宗禅の開祖六祖慧能は曹谿山宝林寺を中心に禅法を説いたので、

六祖慧能の禅を曹谿の路と言う。


現代語訳


参禅修行によって悟りの根本に通じているし、

それを弁舌さわやかに説く事もできる。

坐禅の力量も智慧も円に備わり空の境地に居座ってもいない。

ただ私だけがただ独りそこに到達したのではない。

ガンジス川の砂の数ほど多くの諸仏も皆な同じ境地である。

百獣の王獅子が吼えるような仏の無畏の説法は、

多くの獣がそれを聞くと皆脳味噌が破裂するほどの衝撃を受ける。

たとえ香象が踏みつぶそうと暴れても仏の説法の前には威厳を失ってしまう。

ただ天竜のような実力ある修行者だけは静かに聞いて喜びを生じるのだ。

私は大河大海を歩き回り、山や川を渡り歩いて師を尋ねるという

求道の旅で参禅をしてきた。

しかし、六祖慧能禅師の禅を悟ってから、

生死の問題など大したことではないと分かってしまったのだ。


解釈とコメント:

   

 参禅修行によって悟りの根本に通じ、それを弁舌さわやかに説くこともできる。

禅の力量も智慧も円に備わって、動きのない空の境地に居座ってもいない。

ただ私だけがただ独りそこに到達したのではない。

ガンジス川の砂の数ほど多くの諸仏と同じ境地である。

百獣の王獅子が吼えるような仏の無畏の説法は、

多くの獣がそれを聞くと皆脳が破裂するほどの衝撃を受けると言われる。

たとえ香象が踏みつぶそうと暴れても仏の説法の前には威厳を失ってしまう。

ただ天竜のような実力ある修行者だけは静かに聞いて喜びを生じるのだ。

私は大河大海を歩き回り、山や川を渡り歩いて師を尋ねるという求道の旅で参禅修行をしてきた。

しかし、六祖慧能禅師の禅を悟ってから、

生死の問題など大したことではないと分かってしまった。

           
   
8

第8文段 

行も亦禅、坐も亦禅、語黙動静体安然

縦(たと)い鋒刀に遇うとも常に坦坦

仮(たとい)饒毒薬も他(また)カンカン (かんかん

我が師然燈佛に見ゆることを得て、多劫曽て忍辱仙と為る

幾回(たび)か生じ幾回か死す。生死悠々として定止なし

頓に無生を悟了してより

諸(もろも)ろの栄辱に於て何ぞ憂喜せん

深山に入り蘭若(らんにゃ)に住す

岑崟幽邃(しんきんゆうすい)たり長松の下(もと)



注:

鋒刀:刀の切っ先。


毒薬:中国禅の初祖菩提達磨は毒殺されたと言う説がある。


行も亦禅、坐も亦禅:禅は行住坐臥の四威儀の間に常にあるもので特別のものではない

「禅の根本原理」を参照)。


坦坦:坦は寛平なること。心が寛広でものに動着しないこと。

カンカン:安らかで緊張や恐怖がないこと。


然燈佛:錠光仏。過去七仏以前に出現したとされる仏で、

釈尊(ゴータマ・ブッダ)に「汝来世で仏になって釈迦牟尼と名乗るだろう」と予言したとされる。


忍辱仙:困苦を耐え忍ぶ仙人という意味。

釈尊(ゴータマ・ブッダ)は然燈佛に会ってから五百世の長い間、忍辱仙になったとされる。


蘭若(らんにゃ):修行に適した清閑寂静の寺や精舎。


岑崟幽邃(しんきんゆうすい):岑(しん)は山の小さくて高いこと。

崟(きん)は高くて険しい所。幽邃(ゆうすい)は深遠なこと。  


   

現代語訳


歩くのも禅、坐るのも禅である。

語る時も黙っている時も、動いても静かにしている時もその姿は安らかである。

 たとえ刀の切っ先を突きつけられても常に平気である。

たとえ毒薬を盛られても安らかで緊張や恐怖がない。

私の師釈尊は然燈佛に出会って成仏の予言を受けたように、

私も六祖に会うことができて、長い間坐禅の修行に努めて来た。

その修行において私は何度も生き死にするような経験をしたが、

生死は悠々と廻(めぐ)るもので止まることはない。

 ある時ふと生も死も無いことを悟ってから、

諸(もろ)々の栄華を喜んだり悲しんだりすることも無くなった。

今は深山に分け入り静かな寺に住んでいる。

ここは、険しい山々の奥深くに聳える松の老大木の下である。

   

解釈とコメント:

   

歩くのも禅、坐るのも禅である。

語る時も黙っている時も、動いても静かにしている時もその姿は安らかである。

(禅の根本原理を参照)

私の師釈尊は然燈佛に出会って成仏の予言を受けたように、

私も六祖に会ってから、長い間坐禅修行に努めて来た。

その修行において私は何度も生き死にするような経験をしたが、

生死は悠々と廻るもので止まることはない。

 ある時ふと生も死も無いことを悟ってから、

諸々の栄華を喜んだり悲しんだりすることも無くなった。

今は深山に分け入り静かな寺に住んでいる。

ここは、険しい山々の奥深くに聳える松の老大木の下である。

   
9.0    

第9文段 

優遊として静坐す野僧が家

ゲキ 寂(げきせき)たる安居実に瀟洒

覚すれば了じて功を施さず

一切有為の法は同じからず

住相の布施は生天の福

猶お箭(や)を仰いで虚空を射るが如し

勢力つきぬれば箭還って堕つ

来生の不如意を招き得たり

いかでか似かん無為実相の門

一超直入如来地なるに

但だ本を得て末を愁ること莫れ

浄瑠璃に宝月を含むが如し



注:

野僧:出家者の一人称。


優遊:妄想を除かず真を求めず、心に何の不足もなくゆったりと安らいださま。


ゲキ寂(げきせき):静かで人がいないこと。


安居(あんご):一切の俗縁を離れ、一定期間中、静かに修行に専念すること。寺での修行。


瀟洒(しょうしゃ):さっぱりと清らか。


覚すれば了じて功を施さず:悟れば一切は完了し、

修行の効果や利益を求める功利的なものではない。


有為の法:無常変転の法。


住相の布施:名誉、利益など何らかの報を得るために他人に施すこと。


無為実相の門:現象を超えた常住不変の真理の法門。


一超直入如来地:漸悟の方法によらず、一気に自性を悟り仏位に至ること。


浄瑠璃:美しい青色の宝石。


宝月:宝の珠。仏性(真の自己=脳)。


現代語訳


私はその山寺でゆったりと安らいで静かに坐禅をしている。

人の気配がないほど静かな山中での修行は実にさっぱりと清らかなものだ。

悟って見ればすべては決着している。

そこには修行の効果や利益などを求める功利的なものはない。

仏法は移ろい易い世俗の法とは違うのだ。

何らかの利益を期待して布施をするのは来世で天に生まれるための一時的な幸福に過ぎない。

それは矢を天空に向って射るようなものだ。

矢の勢いが尽きれば落ちてしまうように、来世での不如意を招いてしまうだろう。

そんなことより、この常住不変の真理の法門にいた方が良い。

頓悟禅では一足飛びに如来の境地に直入できる(一超直入如来地)。

この仏法に優るような仏法はない。

ただ根本のことを得るのが大切であり、枝葉末節のことを愁うることはない。

誰もが仏性(真の自己)を持っている。

それはちょうど浄瑠璃の宝珠に月が映っているように輝いている。

   

解釈とコメント:

私はその山寺でゆったりと安らいで静かに坐禅をしている。

人気(ひとけ)がない静かな山中での修行は実にさっぱりと清らかだ。

悟って見ればすべては決着している。

そこには修行の効果や利益などを求める功利的なものはない。

仏法は移ろい易い世俗の法とは違うのだ。

何か利益を期待して布施をするのは来世で天に生まれるための一時的な幸福に過ぎない。

それは矢を天空に向って射るようなものだ。

矢の勢いが尽きれば落ちてしまうように、来世での不如意を招いてしまうだろう。

そんなことより、この常住不変の真理の法門にいた方が良い。

頓悟禅では一足飛びに如来の境地に直入できる(一超直入如来地)。

この仏法に優る仏法はない。

誰もが持つ根本真理である本来の自己(仏性)を悟るのが大切であり、

枝葉末節のことを愁うる必要はない。

       
   

10.0

第10文段 

我れ今この如意珠を解す、自利利他、終に竭(つ)きず

江月照し松風吹く、永夜の清宵何の所為ぞ

佛性の戒珠心地に印す、霧露雲霞体上の衣(え)

降竜の鉢解虎の錫、両鈷の金環鳴って歴歴

是れ形を標して虚しく事持するにあらず

如来の宝杖親しく蹤跡す

真をも求めず妄をも断ぜず

二法空にして無相なることを了知す



注:

如意珠:既に出た摩尼珠(=仏性)と同じ。

仏性が縁に随って自在に相を現すことから、如意珠に喩えたものである。


自利利他:それが自分を利するもの(自利)か他人を利するもの(利他)か。


江月照し松風吹く:江上の月は煌々と照っているし、

風が松林を颯颯と吹き渡っている。


佛性の戒珠:戒は戒律のこと。禅では佛性即戒、

 戒即仏性で仏性は戒体だと説く。珠は仏性を喩えている。


霧露雲霞体上の衣(え):霧、露、雲、霞のようなものも

身につける衣服のようなものである。


降竜の鉢:ブッダ在世時代に、ブッダは事火外道(拝火教徒)であった

那提迦葉(ナダカーシュパ)のところに1泊した。

那提迦葉は火竜が住む石窟にブッダを泊まらせた。

夜半に火竜が火を吹いてブッダを害せんとした。

ブッダは慈心三昧に入ってこれを封じようとしたので

火竜はブッダの持つ鉢の中に逃げ込んで隠れたという故事に基づく。


解虎の錫:北斉の高僧僧稠禅師(480〜560)が懐州王屋山で坐禅修行をしていた時、

二匹の虎が山中で格闘していると聞いた。

禅師が行って錫杖で仲裁したところ両虎は争うのを止めて別れたという故事に基づく。


両鈷の金環:密教で使う法具の一種。

それに二個の金環が付いているもの。

両鈷は真俗二諦を表わしていると考えられている。


是れ形を標して虚しく事持するにあらず:

それらの鉢や錫杖はただ形式的に持っているのではない。

仏祖が歩んだ古道(真理の道)を実践するためである。


二法空にして無相:人法二空のこと。

大乗仏教では人(自我)と法(存在)の二つはともに空であると説く。

無相(形が無いこと)は空と同じこと。

脳内宇宙は空にして無相だと言っている。

科学的には脳神経系は微弱電流が流れる電磁的相互作用の世界であり、

その微弱電流は実感できない。

その事実を無相(形が無いこと)かつ空である

と言っていると考えることができる。




現代語訳


 私は今この如意珠のことが分かったが、

それが自分の利益になるものか他人を利するものかを考えると、

最後まで結論が出ない。

外に出て見ると江上の月は煌々と照っているし、

風が松林を颯颯と吹き渡っている。

この長夜の清らかな宵は何の為にあるのだろうか。

私の仏性には既に戒が具わっている。

ちょうど霧、露、雲、霞のようなものが付いた衣服を着ているようなものである。

ブッダが火竜を封じ込めたという鉢を持ち、猛虎をなだめた錫杖をつく。

両鈷の金環はいつもはっきり鳴っているのだ。

それらの鉢や錫杖はただ形式的に持っているのではない。

仏祖が歩んだ古道を歩み実践するためである。

私は真をも求めないし、妄を嫌って否定することもしない。

人法は空で、無相だと分かっているからだ。

   

解釈とコメント:

 私は今この如意珠(仏性、健康な脳)のことが分かったが、

それが自分の利益になるのか他人を利するのかを考えると、

最後まで結論が出ない。

外に出て見ると江上の月は煌々と照っているし、

風が松林を颯颯と吹き渡っている。

この長夜の清らかな宵は何の為にあるのだろうか。

私の仏性には既に戒が具わっている。

禅の思想1 「戒定慧」三学の統一を参照)。

ちょうど霧、露、雲、霞のようなものが付いた衣服を着ているようなものである。

ブッダが火竜を封じ込めたという鉢を持ち、猛虎をなだめた錫杖をつく。

両鈷の金環はいつもはっきり鳴っているのだ。

それらの鉢や錫杖はただ形式的に持っているのではない。

仏祖が歩んだ古道を歩み実践するためである。

私は真をも求めないし、妄を嫌って否定することもしない。

真や妄などの対立概念が生まれる脳内宇宙は空で無相(姿が無いもの)だと分かっているからだ。

       
   
11.0

第11文段 

無相は空なく不空もなし、即ち是れ如来の真実相

心鏡明かに鑑みて碍(さわ)りなし

廓然として瑩徹(えいてつ)して沙界に周し

万象森羅影中に現ず、一顆の円光内外に非ず

闊達の空は因果を撥(はら)う

莽莽蕩蕩(もうもうとうとう)として殃禍(おうか)を招く

有を棄て空に著く病亦然り、還(ま)た溺を避けて

火に投ずるが如し

妄心を捨て真理を取る、取捨の心、功偽(こうぎ)と成る



注:

廓然(かくねん):晴れ渡った大空のようにカラリとして明かなこと。


瑩徹(えいてつ):宝石が透き通って透明なこと。


沙界:三千大千世界(大乗仏教:その1、10.8 「アビダルマ仏教と三千大千世界」を参照)。


一顆:球体のものを顆と言う。一つぶ。ここでは仏性(脳)をさす。


闊達の空:因果の理法を信じない断見外道が説く空。


莽莽蕩蕩(もうもうとうとう):空漠としてはっきりしないこと。


殃禍(おうか):わざわい。


功偽(こうぎ):たくみにいつわること。




現代語訳


 仏性は無相であるが、その無相は空でも不空でもない。

いわば真空妙有とでもいえるだろう。

それが仏の本当の姿だといえるだろう。

我々の心の鏡は考えてみれば明かで何の障りもなく自由に働いている。

あたかもからりと晴れた空のように心の光がこの世界に行き渡っている。

森羅万象は心の中に現われる。

一顆の円光と言ってもそれが内にあるのか外にあるのかもはっきりしない。

のびやかで自由な空の境地は因果など吹き飛ばしてしまうだろう。

しかし、空漠としてぼんやりとしているとわざわいを招くだけだろう。

有(存在)を否定して全てを空だと考えるのも

空病という禅病に陥ったようなものである。

それは水に溺れるのを避けるため火中に飛び込むような愚かなことである。

妄心を捨て真理に走る、その取捨選択の心が功みな偽(いつわり)を生むのだ。


   

解釈とコメント:

仏性は無相であるが、空でも不空でもない。いわば真空妙有とでも言うのが仏の真の姿だといえるだろう。

我々の心の鏡は明かで何の障りもなく自由に働いている。

からりと晴れた空のように心の光が行き渡っている。

森羅万象が心の中に現われる。

一顆の円光と言ってもそれが内にあるのか外にあるのかもはっきりしない。

のびやかで自由な空の境地は因果など吹き飛ばしてしまう。

しかし、空漠とぼんやりとしているとわざわいを招くだけだ。

有(存在)を否定して一切空だと考えるのは空病という禅病である。

それは水に溺れないため火中に飛び込むような愚かなことだ。

     
   
   
12.0

第12文段

学人了せずして修行を用う

真に賊を認めて将(も)って子となす

法財を損じ功徳を滅することは

この心意識に由らずということなし

是を以って禅門は心を了却す

頓に無生に入るは知見の力なり

大丈夫慧剣を秉(と)る、般若の鉾、金剛の焔

但能く外道の心を摧(くだ)くのみに非ず

早く曽て天魔の胆を落却す

法雷を震(ふる)い法皷をうち

慈雲を布(し)き甘露を洒(そそ)ぐ



注:

学人:仏法の修行者。


学人了せずして修行を用う:

修行者は取捨選択の心が妄心であることを自覚せず、いろんな手段を講じて修行する。


賊を認めて将って子となす:盗賊を自分の子供とする。


心を了却す:心とは何者ぞと、心の本体を知ることに努める。

了却は脱落のこと。

心を知ることは心を脱落して無生を知ることである。


無生:既に生きているので生まれることは無いこと。

今ここに生きて働いている「本来の自己」のこと。

本来の自己については 悟りの体験と分析2「本来の面目の脳科学的モデル」を参照)。


知見:究極最高の知見。


大丈夫:

「孟子」に「富貴も淫する能わず、貧賎も移す能わず

威武も屈する能わず、これ之を大丈夫という」とある。

禅門の大丈夫とは仏知見を開き、自性を徹見した者を言う。

慧剣:智慧の剣。般若の智慧の鋭利さを剣に喩えたもの。


天魔:仏道修行を妨げ、正しい教えを逸脱させようとしたり、

誘惑をしたり善事を妨害したりする邪な悪魔のこと。




現代語訳


修行者は取捨選択の心が妄心であることを自覚せず、

いろんな手段を講じて修行する。

これは盗賊を自分の子供とするようなものである。

このような心の持ち方をすれば仏法の真価が損われ功徳が減るだろう。

真の禅修行者はここでもって心の本体を知ることに努め決着しようとするのだ。

本来の自己に気付き無生を知るのは知見の力による。

彼は智慧の利剣を取る。その切っ先は金剛の焔のようである。

それは外道の心を回心させるだけでなく、天魔の胆を冷やすだろう。

彼は雷が鳴り、太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露を注ぐのである。


   

   

解釈とコメント:

修行者は取捨選択の心が妄心であることを自覚せず、いろんな手段を講じて修行する。

これは盗賊を自分の子供とするようなものである。

このような心の持ち方をすれば仏法の真価が損われ功徳が減るだろう。

真の禅修行者はここでもって心の本体を知ることに努め決着しようとするのだ。

本来の自己に気付き無生(真の自己)を知るのは知見の力による。

悟りの体験と分析2 「本来の面目の脳科学的モデル」を参照)。

彼は智慧の利剣を取る。その切っ先は金剛の焔のようである。

それは外道の心を回心させるだけでなく、天魔の胆を冷やすだろう。

彼は雷が鳴り、太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露を注ぐのである。

ここでは修行者は取捨選択の心が妄心であることを自覚せず、

いろんな手段を講じて修行するが

これは盗賊を自分の子供とするようなもので危険であると修行者の心得を述べている。

       

     
13.0

第13文段 

竜象の蹴踏(しゅうとう)潤い無辺

三乗五性みな醒悟す

雪山の肥膩(ひに)更に雑(まじわ)りなし

純(もっぱ)ら醍醐を出す我れ常に納む

一性円に一切の性に通じ

一法あまねく一切の法を含む

一月普く一切の水に現じ

一切の水月一月に摂す

諸佛の法身我が性に入り

我が性還た如来と合す

一地に具足す一切地

色に非ず心に非ず行業に非ず



注:

竜象:象の中で優れた象のことで大丈夫を喩えたもの。

竜と象ではない。


蹴踏(しゅうとう):けりふむこと。


潤い無辺:無辺の多くの衆生を潤おすこと。


三乗:声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三つ。


五性:不定性、無種性、声聞性、縁覚性、菩薩性の五つ。

不定性とは接する者ごとに動かされていくような根性が定まらない性質。

無種性とは正信の善根が無く、解脱を求めようとしない性質。


醒悟:無明の夢から醒めて悟ること。


肥膩(ひに):雪山に生える香草で、

これが生える所には他の雑草は生えないと言われる。

この草を牛が食べると純粋な醍醐が出ると言われる。


醍醐(だいご):牛乳が酪(ヨーグルト)になり、

生酥(バター)になり、 熟酥(ギー)、

乾酥(チーズのようなもの)ができる。

乾酥を純化したものからつくられるものが醍醐だと考えられている。


一性:初めて仏道修行の心を起こした時の地位、境地。


色に非ず心に非ず行業に非ず:色は物質、

心は精神、行業は人の行為のこと。

物質でも精神でも行為でもないので、はっきり定義できないこと。




現代語訳


巨象が蹴りあうような激しい修行をすれば、その成果による潤いは限りない。

本来悟ることができない人達もみな目覚めて悟ることができるだろう。

ヒマラヤに生える芳醇な香草を食べた牛の乳からは

純で美味な醍醐が取れると言われる。

そのような醍醐のような仏法の美味を私は常に味わっている。

一つが分かれば一切のことに通じることができるし、

一つの法(脳)は一切の法を含んでいる。

一つの月がすべての水面に映り、全ての水面に映る月は元を辿れば一つの月から来ている。

それと同じように諸仏の法身が私の中に入り、私と如来が一つになっている。

一つの境地にはあらゆる境地が具っている。

それは目に見える物質でも、心でもなく、

行業でもないのではっきりと定義できない。


   

   

   

解釈とコメント:

   

巨象が蹴りあうような激しく熱心な修行の成果は限りない。

本来悟ることができない人達もみな目覚めて悟ることができるだろう。

ヒマラヤに生える芳醇な香草を食べた牛の乳からは純で美味な醍醐が取れると言われる。

そのような醍醐のような仏法の美味を私は常に味わっている。

一つが分かれば一切のことに通じることができるし、一つの法(脳)は一切の法を含んでいる。

一つの月がすべての水面に映るが、その月は元を辿れば一つの月から来ている。

それと同じように諸仏の法身が私の中に入り、私と如来が一つになっている。

一つの境地にはあらゆる境地が具っている。

それは目に見える物質でも、心でもなく、行業でもないのではっきりと定義できない。



   
14.0

第14文段

弾指に円成す八万の門

刹那に滅却す三祇劫

一切の数句は数句に非ず

吾が霊覚と何んぞ交渉せん

毀(そし)るべからず讃(ほ)むるべからず

体は虚空の若(ごと)く涯岸なし

当処を離れずして常に湛然たり

もとむれば即ち知る君が見るべからざることを

取ることを得ず捨つることを得ず

不可得の中只麼(しも)に得たり

黙の時説、説の時黙

大施門開いて雍塞(ようそく)なし



注:

弾指:指を弾いてパチンと音をだすこと。

弾指の間に65の刹那があるという。


刹那:1弾指の1/65の短い時間。


八万の門:八万四千の法門。

人間の煩悩の数は全部で八万四千あるのでそれに対応して八万四千の法門があると考える。

多くの法門。


三祇劫:三阿僧祇劫の略。

阿僧祇はアサムキャの音訳で無数の意味。

無限の長い時間に積み重ねた業のこと。


一切の数句は数句に非ず:衆生の悩みに応じて多くの教え(言句)

が説かれるがそれも結局は衆生の悩みを解決できる言句ではない。


霊覚:霊性。本性(脳)。


体は虚空の若(ごと)く涯岸なし:

我々は電磁的相互作用が支配する世界に住んでいる。

電磁力は遠隔力であるため我々は虚空の若(ごと)く

涯岸ない広い世界を実感する。

月より遠い宇宙に瞬く星を認識できるのも電磁的相互作用のためである。

これを「虚空の若(ごと)く涯岸なし

と文学的に表現している。


湛然(たんねん):十分にたたえられた水が静かで動かないさま。


当処:その処。いまここということ。

山河大地みな霊性、本性(脳)が認識し情報として取り入れる。

その意味で対象としての山河大地はみな霊性、本性の全体となる。

これを至るところ全体の現れであると考える。

その処その処がすべて霊覚である

(相互作用によってその情報が脳にとり込まれる)と考える。

相互作用によって脳に取り込まれる情報の全てを霊覚と考えるのである。

脳科学が無かった時代の実感を文学的に表現したものと言えるだろう。


見るべからざる(不可見):我々は眼で見ていると考えているが、

実際に見ている主体は脳の視覚野である。

眼は外界からの視覚情報を電気に変換し脳に送っている器官に過ぎない。

しかし、脳は固い頭蓋骨の中に隠れているので見ることができない。

また電気に変換され脳の神経細胞を流れる電流も

微弱なため実感することもできない。

禅で無形や無相というのはこのことを表わしていると考えられる。


只麼(しも)に:そのように。


大施門:広大な法施の法門。


雍塞(ようそく):隔絶して通じないこと。




現代語訳


指を弾く一瞬の間に八万四千の法門があり、

頓悟の一刹那には菩薩が仏になるに要するという永劫の時間が過ぎ去るのだ。

そこを表現しようとしてもあらゆる言葉も言葉としての役に立たない。

どうして真の私と通じることができようか。

だから言葉で毀(そし)ったり讃(ほ)めてもどうにもならない。

真の自己は虚空のように果てしなく広がっている。

いまここを離れず、常に湛然としている。

もしそれを求めようとしても見ることができないことを君は知るだろう。

真の自己は取る事も捨てることもできない。

得ることはできないが今このように既に得ているのである。

黙っていても説いているし、言葉をつくして説いている時も真の自己は黙っている。

いまここに仏法の門は大きく開いて邪魔するものはどこにもない。


   

   

解釈とコメント:

   

指を弾く一瞬の間に八万四千の法門があり、

一刹那には菩薩が仏になるに要するという永劫の時間が過ぎ去る。

そこを表現しようとしてもあらゆる言葉も言葉としての役に立たない。

どうして真の自己私と通じることができようか。

だから言葉で毀(そ)しったり讃(ほ)めてもどうにもならない。

真の自己は坐禅中には虚空のように果てしなく広がっている。

いまここを離れず、常に湛然としている。

もしそれを求めようとしても見ることができないことを知るのだ。

真の自己は取る事も捨てることもできない。

得ることはできないが今このように既に得ているのである。

黙っていても説いているし、言葉をつくして説いている時も真の自己は黙っている。

悟りの体験と分析2 「本来の面目の脳科学的モデル」を参照)。

いまここに仏法の門は大きく開いて邪魔するものはどこにもない。




   
15.0

第15文段 

人あって我に何んの宗をか解すと問わば

報じて道わん摩訶般若の力と

或は是或は非、人識らず、逆行順行天も測ることなし

吾早く曽って多劫を経て修す

是れ等閑(なおざり)に相誑惑(おうわく)するにあらず

法幢を建て宗旨を立す

明明たる佛勅曹谿是れなり

第一迦葉首(はじ)めて燈を伝う、二十八代西天の記

江海を歴てこの土に入る、菩提達磨を初祖となす



注:

摩訶般若の力:偉大なる智慧の力。坐禅を通して得られた偉大な仏の智慧(無分別智)の力。


等閑(なおざり)に:いいかげんに。


誑惑(おうわく)する:嘘を言って人を騙す。


法幢:昔は説法をする処に旗を立てて目印としたことから、仏法を宣揚することに用いる。


佛勅:ブッダの勅令。


明明たる佛勅:はっきりしたブッダの勅令。

ブッダ在世の時、ブッダは霊鷲山において説法した。

ブッダは金色の花を拈じて大衆に示した時、誰もブッダの心中が分からず

ぽかんていたが、

唯独り摩訶迦葉(マハー・カーシュパ)のみがブッダの意中が分かって、

にっこりと微笑した。

そこでブッダは「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相の法門あり

摩訶迦葉に付嘱す。後来に流布して断絶せしむることなかれ。」

と言って、金襴の袈裟を授けたと伝えられる。

これは「世尊(せそん)拈華微笑(ねんげみしょう)」の話として知られる。

この話は「大梵天王問仏決疑経」に出て来る話である。

この話は宋代以降の禅門において宣伝され「無門関」第6則に取り上げられている。

「無門関」第6則を参照)。

道元禅師も「永平広録・頌古」の冒頭でこの話を取り上げている。

しかし、この話の本になっている「大梵天王問仏決疑経」は今では偽経であることが分かっている。

「世尊(せそん)拈華微笑(ねんげみしょう)」は史実でないのである。

仏教ではゴータマ・ブッダが教祖であることは間違いない。

しかし、第二祖は摩訶迦葉(マハー・カーシュパ)でインドで二十八祖がいて

仏法が師から弟子へ継承されたという禅宗の伝法神話は眉唾ものであろう。

この問題は再考する必要があろう。


曹谿:中国禅の六祖である慧能が曹谿山宝林寺に住したことから六祖慧能の禅を言う。


迦葉:ブッダの十大弟子の一人摩訶迦葉(マハー・カーシュパ)。

彼はもともとバラモン教を信じていたがブッダ成道後3年目にブッダの教えに帰依した

と伝えられる。

禅宗では彼をインドにおける禅の第二祖として伝えている。


燈を伝う:仏法を灯火にたとえ、あたかも灯から灯へ相継いでその光明を継承すること。


二十八代西天の記:西天(インド)における禅の第二祖摩訶迦葉から

達磨大師まで二十八人の禅の祖師のこと。


江海を歴てこの土に入る:達磨によって禅がインドから海を経て中国にもたらされたことを言う。


菩提達磨:菩提達磨は西天(インド)における禅の第二十八祖で、

中国における禅の初祖とされる。

菩提達磨は南インド香至国王の第3王子として生まれ、

西天(インド)における禅の第二十七祖般若多羅尊者に嗣法したとされる。

インドから中国に渡来し、約10年間禅を広めた後105歳で遷化し、

洛陽嵩山の熊耳峰に葬ると伝えられる。

菩提達磨は円覚大師とも呼ぶ。

禅の歴史、1.9 「達磨禅の成立」を参照)。



現代語訳


誰かが来て私にどんな大事なことが分かっているかと質問するなら、

大いなる智慧の力だと答えよう。

ある時には是と言ったり、ある時には非と言うが、

本当のところを人間が知るわけがない。

逆だとか順だとか天人でも分からないだろう。

私はかって早くから長い間修行をして来た。

これはいいかげんにだましあったのではない。

仏法を宣揚し根本の教えを立てるのは明々たるブッダの勅令である。

その精神は六祖慧能の禅宗に受け継がれている。

ブッダの第一の弟子である迦葉が初めてその法燈を伝えた。

その後インドで二十八代続いた法灯は海を渡ってこの中国にやって来た。

そのため、菩提達磨を中国禅の初祖としているのである。


   

   

解釈とコメント:


   

誰かが来て私に禅がどんな大事なことが分かっているかと質問するなら、

大いなる智慧の力だと答えよう。

ある時には是と言ったり、ある時には非と言うが、本当のところを人間が知るわけがない。

逆だとか順だとか天人でも分からないだろう。

私はかって早くから長い間仏法の修行をして来た。

これはいいかげんにだましあったのではない。

仏法を宣揚し根本の教えを立てるのは明々たるブッダの勅令である。

その精神は六祖慧能の禅宗に受け継がれている。

ブッダの第一の弟子である魔訶迦葉が初めてその法燈を伝えた。

その後インドで二十八代続いた法灯は海を渡ってこの中国にやって来た。

菩提達磨が中国での初祖となった。

ここでは禅が菩提達磨によってインドから中国に伝わった禅の歴史が

簡単に紹介されている。

禅の歴史、1.9 「達磨禅の成立」を参照)。



   
16.0

第16文段 

六代の伝衣天下に聞こゆ

後人、道を得る何んぞ数を窮めん

真をも立せず妄本空なり、有無倶に遣れば不空も空なり

二十の空門元著せず、一性如来体自ら同じ

心は是れ根、法は是れ塵、両種なほ鏡上の痕の如し

痕垢(こんく)ことごとく除いて光り始めて現ず

心法ならび亡じて性即ち真なり

ああ末法の悪時世、衆生薄福にして調制し難し



注:

六代の伝衣:中国禅の初祖達磨大師から六祖慧能禅師に至る

六代の祖師をいう。

ブッダが迦葉尊者に伝えた衣鉢を伝承したが、

六祖以降は無用の紛争を避けて伝承しなかったとされる。

しかし、ブッダが迦葉尊者に伝えた衣鉢なるものが実際存在したかどうかは疑問である。

ブッダから六祖慧能の時代まで千年以上は経っている。

いくら大事に保存してもそんなに長持ちするはずはない。

この話(六代の伝衣)は単に権威付けのため創作された話だと考えられよう。

後人、道を得る何んぞ数を窮めん:ブッダが迦葉尊者に伝えた衣鉢

そのものは六祖以降は伝わらなかった。

しかし、禅の大法は嫡嫡相承して後世に伝えられた。

得道の者もその数を数えることができない。


有無倶に遣れば:有は世界は永久に不変で、肉体が死んでも霊魂は永久に生きるという

「常見」のことで、邪見とされている。

無は世界や肉体は一度滅亡すれば永久に無くなるという虚無説のことである。

虚無説は「断見」と呼ばれ、邪見とされる。

この「常見」と「断見」の二つの見方をともに否定すれば、


真をも立せず:「断見」も正しくない。


妄本空なり:「常見」は空観によって否定される。


真をも立せず妄本空なり:「断見」も正しくないし、「常見」も空観によって否定される。


不空の空:空観に執着することなく、有の世界(不空)に活溌溌地の働きを示す妙用のこと。


二十の空門:般若経に説く内空、外空、内外空など二十種類の空観のこと。


一性如来体自ら同じ:空観に執着することなく、

有の世界に活溌溌地の働きを示す我々が本具する一性(脳)に覚醒した時、

それは如来の本体と自ら同じである。


心は是れ根、法は是れ塵:

心は心意識のことで外境に対し分別する分別意識(大脳前頭葉の知性)。

その分別意識によって一切の善悪が生じるので根と言う。

法は分別意識の対象である色声香味触法の六境のことである。

六境は我々の霊性を汚し、煩悩を生じるので塵と言う。


両種なほ鏡上の痕の如し:空観に立てば、

心も法も実有ではないので鏡についたくもりあとのようなものである。


心法ならび亡じて性即ち真なり:心と法を共に忘れた時、真なる本性が現れる。


末法の悪時世:大乗仏教ではゴータマ・ブッダ入滅の後1000年間(or500年間)

を正法の時代と言う。

正法の時代は仏教の教・行・証の三つが正しく具わり、人々は正しく修行すれば悟ることができる。

正法の時代の後1000年(or500年)を像法の時代と言う。

像法の時代には仏教の教・行の二つだけが具わり、人々はいくら修行しても悟ることができない。

像法の時代の後1万年間を末法という。

末法の時代になると仏教の教えのみはなんとか残っているが行(修行)と証(悟り)はないとする。

末法の時代には修行する者もいなくなるので悪時世だと言っている。



現代語訳


五祖が六祖に伝えた伝衣の故事は天下に知れ渡っている。

その後道を得た人は数え切れないほどだ。

「断見」は正しくないし、「常見」は空観によって否定される。

「常見」と「断見」の二つの見方を否定すれば、ピチピチとした働きが現れる。

二十種類とも言われる空観にもこだわらず、

ピチピチと働く自己の一性(脳の本性)に目覚める時、それは自ら如来の本体と同じである。

心意識は一切の善悪が生じる根本で、

法は煩悩を生じる塵のようなものである。

この二つは鏡のくもりや汚れのようなものだ。

くもりや汚れをすべて拭き取れば光りが始めて現れる。

そのように心法の二つを忘れ去れば真の自己が現れるだろう。

しかし、今は末法の世で仏法を本気で修行する人はいない。

嘆かわしいことに悪がはびこっている。

そのうえ衆生はわがままで福が薄い。


   

   

解釈とコメント:


五祖弘忍(ぐにん)(601〜674)が六祖・慧能(638〜713)に伝えた伝衣の故事は天下に知れ渡っている。

その後道を得た人は数え切れない。

「断見」は正しくないし、「常見」は空観によって否定される。

「常見」と「断見」の二つの見方を否定すれば、ピチピチとした働きが現れる。

二十種類とも言われる空観にもこだわらず、ピチピチと働く自己の一性(自己の本姓、脳の本性)に目覚める時、

それは自ら如来の本体と同じであると分かる。

心意識は一切の善悪が生じる根本で、法は煩悩を生じる塵のようなものである。

この二つは鏡のくもりや汚れのようなものだ。

くもりや汚れをすべて拭き取れば光りが始めて現れる。

そのように心法の二つを忘れ去れば真の自己(下層脳中心の自己)が現れるだろう。

悟りの体験と分析2 「本来の自己の脳科学的モデル」を参照)。

しかし、今は末法の世で仏法を本気で修行する人はいない。

嘆かわしいことに悪がはびこっている。衆生はわがままで福が薄い。


17

第17文段 

聖を去ること遠くして邪見深し

魔強く法弱くして怨害多し

如来頓教の門を説くことを聞いて

滅除して瓦の如く砕かしめざることを恨む

作は心にあり殃(わざわい)は身にあり

怨訴して更に人をとがむることを須(もち)いざれ

無間の業を招かざることを得んと欲せば

如来の正法輪を謗することなかれ

栴檀林には雑樹なし

鬱密深沈として獅子のみ住す

境、静に林間にして独り自ら遊ぶ

走獣飛禽皆遠く去る



注:

 聖:人格を修養して至極の境地に至った者を聖と言う。

ここではブッダをさす。

永嘉真覚は仏滅後1600年余年の時代に生まれたので

「聖を去ること遠く」と言っている。


邪見:正見の反対で、因果の理法を否定するような邪な見解。

これをまとめると「断見」と「常見」の二つになる。


如来頓教の門:直指人心見性成仏と一超直入如来地を説く六祖恵能の頓悟禅のこと。

一超直入如来地については第9文段の解説コメントを参照



作は心にあり:作は作業。

一切善悪などの作業は分別心から来ている。


無間の業:無間地獄に落ちる業因とされる五逆罪のこと。

五逆罪とは1.父を殺す、2.母を殺す、3.阿羅漢を殺す、

4.仏身血を出す、5.和合僧(仏教教団)を破る、の五つである。


正法輪:如来が説いた法門のこと。

法輪は煩悩を破り、真理に安住させる意味を持っている。


栴檀(せんだん):ムクロジ目・センダン科の香木。

果実は生薬の苦楝子(くれんし)として、ひび、あかぎれ、

しもやけに外用、整腸、鎮痛薬として煎じて内服する。

この木が生える所には他の雑木は生えないと言われる。


鬱密:樹木が鬱蒼と沢山生い茂っていること。


境、静に林間にして独り自ら遊ぶ:獅子が独り、静に林間で遊ぶ。

大乗の菩薩を獅子に喩えている。



現代語訳


 聖人ブッダが死去して長い年月が経った。

そのため邪見がはびこり、魔が強く正法の力は弱くなってしまった。

一超直入如来地を説く頓悟禅の門が開いたというのに、

邪説魔教のたぐいが瓦が粉々に砕かれるように粉砕されていないのは残念なことだ。

一切善悪の作業は分別心から出てくる。殃(わざわい)はわが身からでた錆である。

自分のことを反省しないで他人を怨んではならない。

無間地獄に落ちる悪業を作らないようにしたいと思えば、如来の正法を非難してはならない。

栴檀の林には雑樹は生えない。

鬱蒼と生い茂った香木の間には獅子に喩えられる大乗の菩薩が住んでいる。

あたりは静かで、彼は林間で独り悠悠と遊んでいる。

その威力の前には禽獣のような邪魔のたぐいは遠くに逃げ去るのみだ。


   

   

解釈とコメント:


 聖人ブッダが死去して長い年月が経った。そのため邪見がはびこり、魔が強く正法の力は弱くなってしまった。

一超直入如来地(六祖恵能の禅)を説く頓悟禅の門が開いたというのに

邪説魔教のたぐいが瓦が粉々に砕かれるように粉砕されていないのは残念なことだ。

一超直入如来地については第9文段の解説コメントを参照

一切善悪の作業は分別心から出てくる。

殃(わざわい)はわが身からでた錆である。

自分のことを反省しないで他人を怨んではならない。

無間地獄に落ちる悪業を作らないようにしたいと思えば、如来の正法を非難してはならない。

栴檀の林には雑樹は生えない。鬱蒼と生い茂った香木の間には

獅子に喩えられる大乗の菩薩が住んでいる。

あたりは静かで、彼は林間で独り悠悠と遊んでいる。

その威力の前には禽獣のような邪魔のたぐいは遠くに逃げ去るのみだ。



   
18

第18文段 

獅子児衆(おお)く後(しりえ)に随う

三歳にして便ち能く大に哮吼(こうく)す

若し是れ野干(やかん)、法王を逐うならば

百千の妖怪も虚(みだ)りに口を開かん

円頓の教は人情没(な)し

疑ありて決せずんば直に須らく争うべし

是れ山僧が人我を逞(たくま)しうするにあらず

修行恐くは断常の坑(きょう)に堕せん

非も非ならず是も是ならず

之に差うこと毫釐もすれば失すること千里

是なるときは龍女も頓に成仏し

非なるときは善星も生きながら陥墜す。



注:

 獅子児:獅子をブッダに、獅子児をブッダの正法を嫡伝する祖師に喩えている。

野干(やかん):ジャッカル。

野干(やかん)、法王を逐うならば:野干(ジャッカル)は

百年間いくら獅子(ライオン)のまねをしても獅子吼(ししく)することはできない。

しかし、獅子児(ライオンの子供)であれば3年経つと

自然に獅子吼(ししく)することができる。

円頓の教:一超直入如来地、即身成仏を説く禅宗(南宗禅)のこと。

邪見:正見の反対で、因果の理法を否定するような邪な見解。

如来頓教の門:直指人心見性成仏と一超直入如来地を説く頓悟禅のこと。

人情:義理人情の人情ではなく、私情や方便のこと。

人我:自我に執着する我見。

断常の坑(きょう):空無に執着する「断見」、

一切を実有だと考え現象に捉われる「常見」という二つの坑(きょう、大きなあな)。

毫釐(ごうり):ごくわずかなこと。

1毫は1寸の1000分の1のこと。長さにすると0.3mmくらいになる。

龍女も頓に成仏:法華経提婆達多品にある話。

女性は五障があるため成仏できないとされているが、

シャカラ竜王の娘が女性であるにもかかわらず成仏したという。

龍女は男子に変身して菩薩行を実践し南方無垢世界において等正覚を成じたとされる。

善星:涅槃経迦葉菩薩品にある話。

善星比丘は十二部経を読誦し四禅を得たというほど仏教教理に精通していたが、

仏や仏法や因果も無いし、涅槃も無いと放言した。このため生きながら無間地獄に落ちたと言う。



現代語訳


ブッダの正法を嫡伝する獅子児である祖師には

多くの衆生がその教えに随(したが)う。

獅子児は三歳になると大いに吠えると言う。

しかし、ジャッカルがいくらその真似をしてもブッダのように

獅子吼することはできない。

それと同じで、ジャッカルのような小知短見の輩がいくら法王の真似をしても、

多くの妖怪が口を開いたようなもので空しい限りだ。

南宗禅には私情はない。

もし、疑問点があるならば、直に議論をして解決すれば良いだろう。

これは私が我見を言い張っているのではないのだ。

修行を恐れるならば「断見」や「常見」という二つの坑(あな)に落ちるだろう。

間違いを間違いとせず、

正しいものを正しいとする道理から少しでも外れるなら、

仏法の真理から離れること千里になる。

正しい仏法に基づけば龍女も頓悟成仏するし、

正しい道理から外れる時は善星が生きながら地獄に陥墜したように、

生きながら無間地獄に落ちるだろう。


   

   

解釈とコメント:


   

ブッダの正法を嫡伝する獅子児である祖師には多くの衆生がその教えに随(したが)う。

獅子児は三歳になると大いに吠えると言う。

しかし、ジャッカルがいくらその真似をしてもブッダのように獅子吼することはできない。

それと同じで、ジャッカルのような小知短見の輩がいくら法王の真似をしても、

多くの妖怪が口を開いたようなもので空しい限りだ。

南宗禅には私情はない。

もし、疑問点があるならば、直に議論をして解決すれば良い。

これは我見を言い張っているのではないのだ。

修行を恐れれば「断見」や「常見」の坑(あな)に落ちるだろう。

間違いを間違いとせず、正しいものを正しいとする道理から少しでも外れるなら、

仏法の真理から離れること千里になる。 正しい仏法に基づけば龍女も頓悟成仏するし、

正しい道理から外れる時は善星が生きながら地獄に陥墜したように、

生きながら無間地獄に落ちるだろう。



   
19

第19文段 

吾れ早年より来(このか)た学問を積み

亦曽って疏(しょ)を討(たず)ね経論を尋ぬ

名相を分別して休することを知らず

海に入り沙(いさご)を算へて徒(ただ)に自ら困す

却って如来に苦(ねんご)ろに呵責せらる

他の珍宝を数えて何んの益かあると

従来ソウトウ(そうとう)として虚(みだ)りに行ずることを覚う

多年枉(ま)げて風塵の客となる

種性(しゅしょう)邪なれば錯って知解す

如来円頓の制に達せず

二乗は精進にして道心なく

外道は聡明にして智慧なし



注:

疏(しょ):注解書のこと。


名相:名目と法相。仏教理論を研究し解説する時に用いる文字や言語のこと。


他の珍宝を数えて何んの益かあると:他人が所有する珍宝を数えてどういう利益かあろうかと。


ソウトウ(そうとう):さまよい歩くこと。


風塵の客:世の中の煩わしさや汚れにまつわり付かれること。


種性(しゅしょう):種はたね、性は性質。生まれついた性質のこと。


二乗:声聞乗と縁覚乗の二つを言う。声聞乗と縁覚乗の二乗は

自分だけの解脱と悟りを求めるので大乗の菩薩乗からは卑しめられる。


道心:利他の慈悲心、菩提心のこと。


智慧:禅定によって証得した空無我の理に基づく 般若の智慧。無分別智のこと。



現代語訳


 私は若い時から学問を続けた。

 また注解書や経論を読み、休むことなく仏教教理を研究したものだ。

そのように熱心に研究したけれども、

海に入って砂の数を算えたようなもので徒に悩んで疲労困憊するだけだった。

今から振り返って見ると、

他人の宝物を数えてどんな良いことがあるかと如来に呵られるようなことをしていた。

 これまで色んな教説を読んでさまよい歩き、

世間の煩わしさや汚れにまつわり付かれた。

これも生まれつきの性質のためか、誤解して、

如来最上乗禅にたどり着くことができなかった。

声聞乗と縁覚乗の二乗はたとえ努力しても利他の慈悲心はなく、

外道は聡明であっても般若の智慧がない。


   

   

解釈とコメント:


   

こでは永嘉真覚は自分の過去の求道生活について、

私は若い時から学問を続けた。また注解書や経論を読み、休むことなく仏教教理を研究したものだ。

そのように熱心に研究したけれども

海に入って砂の数を算えたようなもので徒に悩んで疲労困憊するだけだった。

と振り返っている。

第7文段でも自身の求道の旅について,

私は大河大海を歩き回り、山や川を渡り歩いて師を尋ねるという求道の旅で参禅をしてきた。

と述べている。

第7文段を参照

永嘉真覚は同門の玄朗禅師に六祖慧能禅師に会うことを勧められ、六祖慧能に会って問答した。

熱心に問答を交わした後六祖に引き止められて一宿し、

六祖の法を一晩で嗣いだと伝えられている。

そのため永嘉真覚は「一宿覚」と呼ばれている。

しかし第7文段とここで述べていることを総合すると、彼は「一宿覚」と呼ばれる天才肌の求道者ではなく、

なくこつこつと努力を積み重ねていく普通の求道者だったように考えられる。


   

20

第20文段

亦愚痴亦小駭(しょうがい)

空挙指上に実解を生ず

指を執して月となす枉(まげ)て功を施す

根境法中虚りに捏怪(ねっかい)す

一法を見ざれば即ち如来なり

方に名けて観自在と為すことを得

了ずれば即ち業障本来空

未だ了ぜされば還た須らく宿債を償うべし

飢えて王膳に逢うとも食うこと能わずんば

病んで医王に遇うとも争(いかで)か イ(い)ゆることを得ん

欲にありて禅を行ずるは知見の力なり

火中に蓮を生ず終に壊せず



注:

愚痴:自らに迷うのを愚、他人に惑うのを痴と言う。理をわきまえない愚かさのこと。


小駭(しょうがい):駭(がい)とは分別がないこと。子供のように無知なこと。


空挙指上に実解を生ず:空の握り挙を見せて中に何かあるように錯覚させること。


指を執して月となす:月を指さして月を観るようにうながしているのに、

月をさしている指を観て月だと思うこと。

方便を真理だと錯覚すること。


功を施す:色々と修行の手段を講ずること。


根境法:根は眼耳鼻舌身意の6根、境は色声香味触法の六境。

六境から来る種々の情報を6根が受けて脳中で法が生じること。


捏怪(ねっかい):捏は牽強付会すること。

怪しげなものに牽強付会し、妄想をたくましくすること。


観自在:見るものになり、聞くものになって六根に惑わされず、

自利利他の観行を自由自在にすること。

無分別智を開発する修行をして一切を空なりと見抜き一法にも束縛されない境地。

必ずしも観自在菩薩だと考えなくて良い。


業障:身口意の所作、即ち我々の一切の思想と行為を業という。

煩悩が身口意の所作に現れた場合、仏教では必ずその報いがあると考える。

その報いが正覚を達成し成仏するための障害となるので業障と言う。


宿債:過去の身口意の所作からくる罪業の負債。


王膳:王様が食べるような美味の食事。


欲にありて禅を行ずるは知見の力なり、火中に蓮を生ず終に壊せず:

「維摩経」仏道品にある「火中に蓮華を生ずる、是れ希有なりと謂うべし

欲に在りて而も禅を行ず、希有なること亦是の如し。」という経文から来ている。

欲とは財・色・食・名・睡の五欲から成る欲界のこと。

諸法が空で自性が無いという知見を得れば、

順境や逆境にあっても自由で泰然と生きることができるようになる。

その様は「あたかも蓮華が火中にあっても壊れないようだ」とでも表現できる。

蓮華が火中にあれば萎れ燃えてしまうだろうが、

禅定修行によって五欲の火中にあっても萎れないという意味。



現代語訳


自らに迷い、無知なため、空挙なのに実際にはあると誤解する、

理をわきまえない愚かさである。

月を指さして月を観るようにうながしているのに、

月をさしている指を観て月だと思う愚かさだ。

それと同じように根境法中で(心の中で)牽強付会(けんきょうふえ)し、

妄想をたくましくしている。

一切を空だと見抜き一法にも束縛されない境地に至れば如来と同じである。

見るものになり、聞くものになりきって六根に惑わされず、

自利利他の観行を自由自在にするのが観自在だと言える。

身口意の所作から生じた業障はもともと空である。

それが分からなければ自ら罪業の負債を償わなければならないだろう。

王様が食べるような美食が目の前に出てきても食べることもできないならば、

たとえ医王でも病気を治すことができないだろう。

五欲から成る欲界にいても、

諸法が空で自性が無いという智慧の力を得れば、

順境や逆境にあっても自由で泰然と生きることができる。

その様はあたかも火中にあっても壊れない蓮華のようなものだと言えるだろう。


   

   

解釈とコメント:


   

自らに迷い、無知なため、空挙なのに実際にはあると誤解する、

理をわきまえない愚かさである。

月を指さして月を観るようにうながしているのに、月をさしている指を観て月だと思う愚かさだ。

それと同じように根境法中で(心の中で)牽強付会(けんきょうふえ)し、妄想をたくましくしている。

一切を空だと見抜き一法にも束縛されない境地に至れば如来と同じである。

見るものになり、聞くものになりきって六根に惑わされず、

自利利他の観行を自由自在にするのが観自在だと言える。

身口意の所作から生じた業障はもともと空である。

それが分からなければ自ら罪業の負債を償わなければならないだろう。

王様が食べるような美食が目の前に出てきても食べることもできないならば、

たとえ医王でも病気を治すことができないだろう。

五欲から成る欲界にいても、諸法が空で自性が無いという智慧の力を得れば、

順境や逆境にあっても自由で泰然と生きることができる。

その様はあたかも蓮華が火中にあっても壊れないようなものだと言えるだろう。

この文段の最後のところで永嘉真覚は

五欲から成る欲界にいても、諸法が空で自性が無いという智慧の力を得れば、

順境や逆境にあっても自由で泰然と生きることができる。

と述べている。

諸法が空で自性が無い」という考え方は大乗仏教の「空の思想」に基づいた伝統的な考え方である。

注意すべきことはこれと異なり、

六祖恵能は「自性はある」と「真の自己には自性がある

と主張していることである。

六祖恵能の「自性」は空思想に由来する考え方ではなく

恵能の「禅体験」に基づいた独創的思想であることに注目すべきである。

「禅の思想その1」3.6 慧能の<自性>の思想を参照)。




21

第21文段

勇施、重を犯して無生を悟り

早時、成仏して今にあり

獅子吼、無畏の説

深く嗟(なげ)く蒙憧(もうどう)たる頑皮靼(がんぴたん)

但犯重の菩提を障(さ)うることを知って

如来の秘訣を開くことを見ず

二比丘あり婬殺を犯す、波離の螢光罪結を増す

維摩居士頓に疑いを除く

猶赫日(かくじつ)の霜雪を銷(しょう)するが如し

不思議解脱の力。妙用恒沙也極りなし



注:

勇施:「浄業障経」にある話。

久遠の昔、衆香世界の無垢光如来の時に勇施という美男の比丘がいた。

ある時長者の娘に恋慕され密かに通じたが、長者の娘は結婚していた。

妻の密通を知った夫は怒って勇施を殺そうとしたが、

勇施は妻と謀って逆に夫を毒殺した。

姦淫と殺人という二重の罪を犯した勇施は悩み苦しんで暮らしていた。

ビキクタラ菩薩は勇施を憐れんで、

諸法は鏡像に同じ、また水中の月の如し。凡夫愚惑の心、痴恚(ちい)愛を分別す

という一偈を説いたと言う。


蒙憧(もうどう):無知。


頑皮靼(がんぴたん):無知蒙昧で何の取り得もないこと。


犯重:重い禁戒を犯すこと。


二比丘あり婬殺を犯す:「維摩経」弟子品に出る話。


二人の比丘がウパリ尊者に犯した罪をどのように償えば良いかを尋ねた時、

尊者は戒律通りに二人の比丘の所行を戒律違反だと断定した。

ウパリ尊者の判決は決して誤りではないが、余りにも小心小智であり、

大乗の大きな見地から見れば蛍の光のように弱弱しいものと言える。

ブッダの十大弟子の中でウパリ尊者は持戒第一と讃えられた人であるが、

臨機応変の自在さを得ていなかった。


維摩居士頓に疑いを除く:その時、維摩居士はウパリ尊者に向って、

ウパリよ、あなたはこの二比丘の罪を増してはならない

二比丘の罪を直に除滅し、彼らの心を乱してはならない。」

と言った。

衆生の心には本来垢はない

一切の法は幻の如く、電の如く、炎や水中の月のようなものだ

と説いて二比丘の疑悔を取り去って、悟りを得させたと言う。


不思議解脱の力:不思議とは深遠幽微なこと。

解脱は一切の煩悩や苦しみから解放され、抜け出ること。

勇施を救ったビキクタラ菩薩や二比丘の疑悔を取り去った

維摩居士の活作略と妙用は「不思議解脱の力」と言うしかない。


妙用恒沙也極りなし:

勇施を救ったビキクタラ菩薩や二比丘の疑悔を取り去った維摩居士の

活作略と妙用はガンジス河の砂の数のように無限で極まりがない。



現代語訳


「浄業障経」によれば、久遠の昔 勇施は殺人と邪淫という二重の罪を犯した。

しかし、ビキクタラ菩薩の説法を聞いて無生(本来の面目)を悟ったため、

直ぐに成仏し今に至ると伝えられている。

しかし、私は無知蒙昧で何の取り得もない男だ。

如来の獅子吼、無畏の説を聞いて勉強しても、

どうもよく分からないのが恥かしいくらい嘆かわしい。

私は重い禁戒を犯したためかどうしても悟ることができない。

昔、ブッダ在世の頃、邪婬戒と殺人戒を犯した二比丘がいた。

ウパリ尊者は形通り戒律の定める所に従って二人の所行は犯罪に当たると断定した。

ウパリ尊者のこの判決は決して誤りではないが、余りにも小心小智である。

大乗の高い見地から見れば蛍の光のように弱弱しい。

ブッダの十大弟子の中でウパリ尊者は持戒第一と讃えられた人であるが、

臨機応変の自在さがなかった。

その時、維摩居士はウパリ尊者に向って、

ウパリよ、あなたはこの二比丘の罪を増してはならない

二比丘の罪を直に除き去ってあげなさい

衆生の心には本来垢(あか)はない、一切の法は幻や雷電のようなものだ

と説いて二比丘の疑悔を取り去り、悟りを得させたと言われる。

勇施を救ったビキクタラ菩薩や二比丘の疑悔を取り去った

維摩居士の活作略と妙用はガンジス河の砂の数のように無限で極まりがない。


   

   

解釈とコメント:


   

「浄業障経」によれば、久遠の昔 勇施は殺人と邪淫という二重の罪を犯した。

しかし、ビキクタラ菩薩の説法を聞いて無生(真の自己)を悟ったため、

直ぐに成仏し今に至ると伝えられている。

しかし、私は無知蒙昧で何の取り得もない男だ。

如来の獅子吼、無畏の説を聞いて勉強しても、

どうもよく分からないのが恥かしいくらい嘆かわしい。

私は重い禁戒を犯したためかどうしても悟ることができない。

昔、ブッダ在世の頃、邪婬戒と殺人戒を犯した二比丘がいた。

ウパリ尊者は形通り戒律の定める所に従って二人の所行は犯罪に当たると断定した。

ウパリ尊者のこの判決は決して誤りではないが、余りにも小心小智である。

大乗の高い見地から見れば蛍の光のように弱弱しい。

ブッダの十大弟子の中でウパリ尊者は持戒第一と讃えられた人であるが、

臨機応変の自在さがなかった。

その時、維摩居士はウパリ尊者に向って、

ウパリよ、あなたはこの二比丘の罪を増してはならない。二比丘の罪を直に除き去ってあげなさい

衆生の心には本来垢(あか)はない、一切の法は幻や雷電のようなものだ

と説いて二比丘の疑悔を取り去り、悟りを得させたと言われる。

勇施を救ったビキクタラ菩薩や二比丘の疑悔を取り去った維摩居士の活作略と妙用は

ガンジス河の砂の数のように無限で極まりがないと賛美している。

この文段には維摩居士が登場し

ウパリよ、あなたはこの二比丘の罪を増してはならない。二比丘の罪を直に除き去ってあげなさい

衆生の心には本来垢(あか)はない、一切の法は幻や雷電のようなものだ

と説いて二比丘の疑悔を取り去り、悟りを得させた話が維摩居士の活作略と妙用だとして賛美している。

しかし、この話は「維摩経」弟子品に出ている話である。

今では大乗経典はブッダの死後500年以上経って創作された経典であり、

内容のすべては創作されたもの(フィクション)だと考えられている。

二比丘や維摩居士の活作略も創作された話で信頼できない。

中国にはヨーロッパで始まった仏教や大乗経典の合理的な歴史研究はなかったので、

永嘉真覚は「維摩経」に出ている話は全部真実だと信じていたようである。

しかし、現代の我々は大乗経典の合理的な歴史研究の成果を知っている。

我々はここで引用された「浄業障経」や「維摩経」 に出ている勇施や二比丘の話を真に受けることはできない。

ましてや維摩居士の活作略も小説と同じレベルのフィクションで

あることを考慮に入れて読むべき文段だと考えられる。




22

第22文段

四事の供養敢えて労を辞せんや

万両の黄金も亦銷得す

粉骨砕身も未だ酬ゆるに足らず

一句了然として百億を超う

法中の王最も高勝

河沙の如来同く共に証す

我れ今この如意珠を解す

之を信受するものは皆相応す

了了として見るに一物無し

亦人も無く亦佛も無し

大千沙界海中の泡

一切の賢聖は雷の払うが如し



注:

四事の供養:飲食・衣服・臥具・医薬の四つを供養し提供すること。


万両の黄金も亦銷得す:不思議解脱の力を得た人に対しては

万両の黄金を供養しても使い過ぎることはない。


一句了然として百億を超う:不思議解脱の力を得た証道の人が無畏の説法をする時には、

たとえ一句一言を聞いただけでも無始劫来の悪因縁からも解脱することができ、

百億年の長年の修行を超える価値がある。


法中の王最も高勝:不思議解脱の法門は

仏が説いた法中でも最高・最勝の優れた法門である。


河沙の如来:ガンジス河の砂の数ほど多数の如来。


相応:仏心に相応し、仏祖と同じ正覚を得るという意味。


了了として見る:ハッキリと見る。


大千沙界:三千大千世界のこと。

大乗仏教:その1、10.8 「アビダルマ仏教と三千大千世界」を参照)。


雷の払うが如し:雷の電光が大空に一閃するようだ。



現代語訳


 四事の供養の労苦もちっともわずらわしくはない。

不思議解脱の力を得た人に対しては万両の黄金を供養しても多過ぎることはないからだ。

身を粉にして彼を助け供養しても未だ充分にその恩に酬いているとは言えないだろう。

不思議解脱の人が無畏の説法をする時には、

たとえ一句一言を聞いただけでも無始劫来の悪因縁からも解脱することができる。

それは百億年の長い修行を超える価値があるのだ。

不思議解脱の法門は仏が説いた法門中でも最高の優れた法門である。

ガンジス河の砂の数ほど多くの如来達も同じことを証明してきたのだ。

私も今この不思議解脱の法門を理解できた。

この法門に入った者は皆心から納得して信受している。

一旦悟ってみれば、心中に一物も無いことがはっきり分かる、

人も無く仏も無い。この宇宙は大海に浮かぶ泡のようなものにすぎない。

あらゆる賢人聖人達の言った事も

雷の電光が大空に一閃した後のように今ではスッキリ頭の中から消えてしまった。


   

   

解釈とコメント:

   

 四事の供養の労苦もちっともわずらわしくない。

不思議解脱の力を得た人に対しては万両の黄金を供養しても多過ぎることはないからだ。

 身を粉にして彼を助け供養しても未だ充分にその恩に酬いているとは言えないだろう。

不思議解脱の人が無畏の説法をする時には、

たとえ一句一言を聞いただけでも無始劫来の悪因縁からも解脱することができる。

それは百億年の長い修行を超える価値があるのだ。

不思議解脱の法門は仏が説いた法門中でも最高の優れた法門である。

ガンジス河の砂の数ほど多くの如来達も同じことを証明してきたのだ。

私も今この不思議解脱の法門を理解できた。この法門に入った者は皆心から納得して信受している。

一旦悟ってみれば、心中に一物も無いことがはっきり分かり、

人も無く仏も無くなってしまう。

この宇宙は大海に浮かぶ泡のようなものにすぎない。

あらゆる賢人聖人達の言った事も雷の電光が大空に一閃した後のように

今ではスッキリ頭の中から消えてしまった。







23

第23文段

仮使(たとい)鉄輪頂上に旋(めぐ)るも

定恵円明にして終に失せず

日は冷(ひやや)かなるべく月は熱かるべくとも

衆魔も真説を壊すること能はず

象駕(ぞうが)崢エ(そうこう)として漫(みだり)に途に進む

誰か見る蟷螂(とうろう)の能く轍(てつ)を拒むことを

大象兎径に遊ばず

大悟小節に拘らず

管見をもって蒼々を謗することなかれ

未だ了ぜざれば吾今君が為に決せん



注:

鉄輪頂上:鉄輪とは須弥山世界(古代インドの世界観)の周りを取り囲む

鉄囲山(てっちせん)だと考えられる。

鉄輪頂上とは鉄囲山(てっちせん)の頂上だと考えられる。

大乗仏教:その1、10.8 「アビダルマ仏教と三千大千世界」を参照)。


定恵円明:禅定によって意識の散乱を防ぎ、

智恵によって理法を明らかにする。

この禅定と知恵が一体円明となって、真の大悟に至る。


真説:如来によって説かれた真理の説。


象駕(ぞうが):象が引く車のこと。

ここでは菩薩乗を意味する。


崢エ(そうこう):山が高く険しい様子。


蟷螂(とうろう):カマキリ。小知小見の徒をカマキリに喩える。  

管見:狭小な見識のこと。


蒼々:限りなく奥深い色のことで、天空の色を形容して言う。


君が為に決せん:もし疑問があれば君の為に解決し説明して上げよう。



現代語訳


目が回るくらい高く聳える鉄囲山(てっちせん)の頂上を廻っても、

禅定と知恵が一体化して円明となった私の悟りの智慧はもう失われることはない。

たとえ、太陽が冷え月が熱くなろうとも、

衆魔もこの真理の説を破壊することはできないだろう。

菩薩乗の教えは象が引く車のように高く聳えて悠然として行進する。

小知小見しか持たないカマキリのような輩がその前に立ち塞がろうとも

その歩みをどうして邪魔することができようか。

大象は兎が通る小径では遊ばないように、

大悟であるか小悟であるかのような問題にこだわることがない。

狭小な見識で限りなく奥深い頓悟禅の世界を誹謗してはならない。

もしこれでも分からないならば、私が君の為に説明して解決して上げようではないか。


   

   

解釈とコメント:

   

目が回るくらい高く聳える鉄囲山(てっちせん)の頂上を廻る修行をしても、

禅定と知恵が一体化して円明となった私の悟りはもう失われることはない。

たとえ、太陽が冷え月が熱くなろうとも、

衆魔もこの真理の説を破壊することはできないだろう。

菩薩乗の教えは象が引く車のように高く聳えて悠然として行進する。

小知小見しか持たないカマキリのような輩が前に立ち塞がろうとも

その歩みをどうして邪魔することができようか。

  菩薩乗の教えは象が引く車のように高く聳えて悠然として行進する。

小知小見しか持たないカマキリのような輩が前に立ち塞がろうとも

その歩みをどうして邪魔することができようか。 

大象は兎が通る径では遊ばないように、

大悟であるか小悟であるかのような問題にこだわることがない。

 狭小な見識で限りなく奥深い頓悟禅の世界を誹謗してはならない。

もしこれでも分からないならば、

私が君の為に説明して解決して上げようではないか。


   



参考文献


大森曹玄著、其中堂、禅宗四部録、1962

三枝充悳著、第三文明社、レグルス文庫46「インド仏教思想史」、1975年、




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