2019年9月19日〜10月8日   表示更新:2022年5月31日     top

仏性・3

   
数

『正法眼蔵』「仏性」について



正法眼蔵「仏性」の巻は「弁道話」と「現成公案」と併せて正法眼蔵の中では特に大切な巻とされている。

「仏性」の巻では、仏性すなわち仏の性質について、その真意を説いている。

 道元禅師の立場では、仏性とは心・意・識といったような精神に関連するものではない。

また草木の種のように時間の経過と共に成長して行く性質のものでもない。

それはわれわれの行為において顕現する、時節因縁(時間および空間や条件)の一切だと考えられている。

本巻の冒頭部分で「悉有は仏性なり」と述べているのは

この意味だと考えることができる。

したがって「われわれは本来仏としての性質を具有している(有仏性)」

という主張も一面の真理であるが、すべてを尽すものではない。

また、「われわれは本来仏としての性質を具有してはいない(無仏性)」

という主張も一面の真理である。

これらはいずれも一面の真理を述べたもので、すべてをいい尽してはいない。

そこで「<有るとか無いとか>つまらぬことは考えるな(莫妄想)」

という教えも出て来る。

道元禅師はこれらの消息およびその発展を、釈尊→龍樹尊者→迦那提婆尊者→

中国禅の四祖道信→五祖弘忍→六祖慧能→塩官斉安禅師→大イ大円禅師→

百丈懐海禅師→南泉普願禅師→趙州禅師→長沙景岑禅師

などの言葉を引用しながら縦横に説いている。 

ここでは長大な「仏性」の巻を22文段に分け、

「仏性・1」では第1文段〜第8文段まで、

「仏性・2」では第9文段〜第16文段までを

「仏性・3」では第17文段〜第22文段までを、

合理的立場に立って分かり易く解説したい。



17

 第17文段


原文17


百丈山大智禅師、衆に示して云く、

仏は是れ最上乗なり、是れ上々智なり

是れ仏道立此人なり、是れ仏有仏性なり、是れ導師なり

 是れ使得無所礙風なり、是れ無礙慧なり

於後能く因果を使得す、福智自由なり

是れ車となして因果を運載す

生に処して生に留め られず、死に処して死に礙へられず

五陰に処して門の開くるが如し

五陰に礙へられず、去住自由にして、出入無難なり

若し能く恁麼なれば、階梯勝劣を論ぜず

乃至蟻子之身も、但能く恁麼なれば、尽く是れ浄妙国土、不可思議なり」。

 これすなはち百丈の道処なり。

いはゆる五蘊は、いまの不壊身なり。

いまの造次は門開なり、不被五陰礙なり。

生を使得するに生にとどめられず、死を使得するに死にさへられず。

いたづらに生を愛することなかれ、みだりに死を恐怖することなかれ。

すでに仏性の処在なり、動著し厭却するは外道なり。

現前の衆縁と認ずるは使得無礙風なり。

これ最上乗なる是仏なり。

この是仏の処在、すなはち浄妙国土なり。



注:

百丈山: 南昌府、奉新西県(江西省、甫昌市の西)にあり、

飛爆千尺のものがあるところから百丈山と名付けるという。

百丈禅師が教化を行なった所として有名。

百丈山大智禅師:   百丈懐海禅師(720〜814)。

馬祖道一禅師の法嗣。福州長楽の人、姓は王氏。

西堂智蔵・南泉普願と同時に入室を許され、三大士角立といわれた。

馬祖禅師の命令で南康に教化を行ない、

ついで洪州の大雄山(百丈山)に住んだが、学徒が雲集したという。

行持すこぶる綿密で、

一日作さざれば、一日食わず」の逸話を残した。

また始めて寺院の規則を定め、百丈清規を作った。

これが寺院規則の最初のものであるが、今は序文しか伝わっていない。

814年死去、年95歳。大智禅師とおくり名された。語録一巻がある。

門下からイ山霊祐禅師、黄槃希運禅師が出た。


図21

図21  百丈懐海像


   
   

最上乗:  最高の乗り物の意。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗に対し、仏乗を指す。

仏乗とは、禅に基づく仏法追求によって、

仏になる生き方を目指す南宗禅の教えと生き方を言う。

六祖壇経4・大乗と最上乗を参照)。

上上智:  最高の智慧。

是れ仏道立此人なり:  仏として生きることが此の人を立てている。

仏有仏性なり: 仏としての存在であり、仏性である。

導師:  人を指導するだけの力量ある師匠。

使得無礙風:  何物にも拘束されない自由を使いこなしている。

無碍慧  何物にも拘束されることのない智慧。 

所留:  停滞。

五陰: 五蘊の旧訳。色・受・想・行・識の五要素。 

原始仏教1・五蘊を参照)。

造次: つかの間。 

いまの造次は門開なり:

今のつかの間我々は起きたり坐ったり、

泣いたり笑ったりするが、それはそっくり解脱門である。 

不被五陰礙なり: 五陰(身心)が五陰(身心)に礙えられない。

五蘊(身心)が五蘊(身心)としてその機能を自由無礙に発揮している。

眼には色、耳には声、鼻には香り、舌には味と

五蘊が五蘊(身心)として自由無礙に働いている。

出入:  出処進退。

楷梯:  楷はかた、法式。梯ははしご。

すでに: ことごとく、すっかり。

厭却:  嫌って捨てること。

浄妙国土:  きよく素晴らしい国土。

衆縁: さまざまな因縁によって成り立っているもの。

  もろもろの環境。



第17文段の現代語訳



百丈山の大智禅師が衆僧に説示していった、

仏の生き方こそ、最高の生き方であるこれこそ最高の智慧である

仏道は、現実の具体的な人間を確立させるのである

それは仏は仏性を具えていることである

彼は力量ある導師である

彼は何物にも拘束されることのない風を使いこなす力がある

この何物にも拘束されることのない風とは

何物にも拘束されない智慧のことである

人はこれによって始めて因果関係を自家薬籠中のものとし

幸福と真実の智慧の面で自由自在になることができる

これは因果関係を載せるための車を作って

それに因果関係を載せて運ぶように

因果関係を自己の主体性を失わずに処理することである

生きている際には、生の誘惑にわずらわされることなく

死に際しても別段の障害を受けず、身心の問題に対しても

全く融通無碍であって、身心の問題に対しても障害を受けることがない

去住自在であり、出処進退には問題がない

もしこのような境涯に達し得るならば

そこに至る過程の優劣は全く問題とはならず

またそれがたとえ蟻の身についてのことであっても

もしこのような状態を実現し得るならば

その蟻の周囲はすべて清浄で素晴らしい仏国土であり

想像することのできない世界となるだろう」。

 これが百丈禅帥が言ったことである。

ここにいう五蘊とは、われわれの不壊の身心のことである。

そして今日唯今の瞬間においては、

一切の障害が打開されており、身心から影響を受けない状態である。

生命を使いこなしても生命に拘束されず、

死を使いこなしても、死に拘束されない状態である。

ただ訳もなく生命に愛着してはならない。

またむやみに死を恐れてはならない。

この身心は仏性が所在する場所である。

したがって生死に対して動揺したり、嫌って捨てたりするのは、外道の所業である。

生死を眼の前に展開されている衆縁だと認識することが

何物にも拘束されることのない無礙風を使いこなすことに外ならない。

これこそ最高のあり方であり、最上乗の仏である。

そしてこの最上乗の仏が所在する場所が、浄妙国土である。



第17文段の解釈とコメント


   

百丈山の大智禅師が衆僧に説示していった、

仏の生き方こそ、最高の生き方である。これこそ最高の智慧である

仏道は、現実の具体的な人間を確立させるのである

それは仏は仏性を具えていることである

彼は力量ある導師である」。



コメント


唐時代に活躍した華厳と禅の学者、

圭峰宗密(けいほうしゅうみつ)(780〜841)は

彼の頃まで中国で行われた禅を

1.外道禅、2.凡夫禅、3.小乗禅、4.大乗禅、5.最上乗禅(達磨禅)

の五種類に分類した。

宗密は達摩の伝えた達磨禅が最上乘禅であり、

本来の自己を明らかにし最高の境涯にある者が仏だと考えた。

冒頭の説示より、百丈懐海(720〜814)は

仏の生き方こそ、最高の生き方であり、最高の智慧である

仏道は、仏としての人間を確立させる

仏としての存在が仏性である。彼は力量ある導師である。」

と考えていることが分かる。

第8文段において道元は

 「仏性は、その人が成仏する以前から具わっていた訳ではなく

成仏してから後に、具わる

と述べていた。

第8文段を参照)。

百丈懐海は

仏道は、仏としての人間を確立させる。仏としての存在が仏性である。」

と考えるので、

道元の「仏性は、その人が成仏する以前から具わっていた訳ではなく

成仏してから後に、具わる

と言う道元の考えに近いと言えるだろう。

第8文段を参照)。



仏は何物にも拘束されることのない風を使いこなす力がある

この何物にも拘束されることのない風とは

何物にも拘束されない智慧のことである

人はこれによって始めて因果関係を自家薬籠中のものとし

幸福と真実の智慧の面で自由自在になることができる

これは因果関係を載せるための車を作って

それに因果関係を載せて運ぶように

因果関係を自己の主体性を失わずに処理することである

生きている際には、生の誘惑にわずらわされることなく

死に際しても別段の障害を受けず、身心の問題に対しても

全く融通無碍であって、身心の問題に対しても障害を受けることがない

去住自在であり、出処進退には問題がない

もしこのような境涯に達し得るならば

そこに至る過程の優劣は全く問題とはならず

またそれがたとえ蟻の身についてのことであっても

もしこのような状態を実現し得るならば

その蟻の周囲はすべて清浄で素晴らしい仏国土であり

想像することのできない世界となるだろう」。

 これが百丈禅帥言ったことである。

ここにいう五蘊とは、われわれの不壊の身心ことである。

そして今日唯今の瞬間においては、

一切の障害が打開されており、身心から影響を受けない状態である。

生命を使いこなしても生命に拘束されず、

死を使いこなしても、死に拘束されない状態である。

ただ訳もなく生命に愛着してはならない。

またむやみに死を恐れてはならない。

この身心は仏性が所在する場所である。

したがって生死に対して動揺したり、嫌って捨てたりするのは、外道の所業である。

生死を眼の前に展開されている衆縁だと認識することが

何物にも拘束されることのない無礙風を使いこなすことに外ならない。

これこそ最高のあり方であり、最上乗の仏である。

そしてこの最上乗の仏が所在する場所が、浄妙国土である。



コメント


この文段で百丈懐海が言う最高の生き方である仏の境涯は

次のようにまとめることができる。



1. 仏は何物にも拘束されることのない自由を使いこなしている。

2. 何物にも束縛されない智慧を持つ。

これによって始めて因果関係を自家薬籠中のものとし、幸福と真実の智慧の面で自由自在である。

3. 因果関係良く使得し、主体性を失わずに処理することができる。

4.生死の問題についても障碍を受けわずらわされることなく、

融通無礙であって、身心の問題に対しても障害を受けることがない。

5.たとえ蟻のように劣った身についてであっても、

彼の周囲はすべて清浄で素晴らしい仏国土になり、想像することのできない世界となる。

6.五蘊は、われわれの不壊の身心であり、仏性が所在する場所である。

7.生死に対して動揺したり、嫌って捨てたりするのは、外道の所業である。

生死を眼の前に展開されている衆縁だと認識し、

生死を自由に使いこなすことが最高のあり方であり、最上乗の仏である。

そしてこの最上乗の仏が所在する場所が、浄妙国土である。



上の7項目のうちで第6項目に言う

五蘊は、われわれの不壊の身心である」が納得し難いところである。

これは第10文段において、

六祖慧能が門人の行昌に説示した言葉「無常が仏性である。」

と関係がある。

第10文段を参照)。

  五蘊は我々の身心であるので、無常である。

病気にも罹るし、年をとると老化と劣化、そして死を免れることはできない。

その意味で第6項目の「五蘊は、われわれの不壊の身心である

とは全く納得し難いところである。

第10文段で六祖慧能が説示した言葉「無常が仏性である。」

が正しいと考えれば、

「五蘊は、無常であるが無常は仏性なので五蘊に仏性は宿っている。」

と考えることができる。

従って、五蘊は肉体の死によって亡くなったとしても、無常であるから仏性である。

仏性は金剛不壊で不変である。

それ故、五蘊は無常であるが、

無常は仏性であるので不壊であると考えているようである。

第10文段を参照)。

筆者はこの考えに賛成できない。何故なら仏性は決して不壊でなく、

変化し、壊れやすい。

また、修行を怠るとその境涯や境地に退化も起こる。

そのため不断の修行と深化が必要であると考えるからである。

そのような観点から第6項目の

五蘊は、われわれの不壊の身心である

は柔軟に考え直すべきではないだろうか。

第7項目の

生死を自由に使いこなすことが最高のあり方である最上乗の仏である

この最上乗の仏が所在する場所が、浄妙国土である。」

という言葉も興味深い。

これは、「五蘊である我々の身心は無常で老化し肉体の死とともに滅亡する

しかし我々の身心は最上乗の仏が所在する場所でもあり、浄妙国土である

その国土が荒れ果てることがないように不断に修行すべきである

と言っていると考えることができる。

我が国の白隠慧鶴禅師は「坐禅和讃において、

「当処即ち蓮華国、この身即ち仏なり」

と己身の弥陀の境涯を詠っている。

第7項目の

五蘊である我々の身心が最上乗の仏が所在する場所であり、浄妙国土である。」

と言う言葉は「己身の弥陀」に近い思想と言える。

密厳浄土の思想と「己心の弥陀」の思想を参照)。




18

 第18文段


原文18


黄檗、南泉の茶堂の内に在って坐す。

南泉、黄檗に問ふ、

定慧等学、明見仏性。此の理如何

 黄檗云く、

十二時中一物にも依倚せずして始得ならん」。

南泉云く、

便ち是れ長老の見処なることなきや

黄檗曰く、

不敢」。

南泉云く、

漿水銭は且く致く、草鞋銭は什麼人をしてか還さしめん」。

      黄檗便ち休す。

いはゆる「定慧等学」の宗旨は、定学の慧学をさへざれば、

等学するところに明見仏性のあるにはあらず、

明見仏性のところに、定慧等学の学あるなり。

此理如何」と道取するなり。

たとへば、「明見仏性はたれか所作なるぞ」と道取せんもおなじかるべし。

仏性等学、明見仏性、此理如何」と道取せんも道得なり。

黄檗いはく、

十二時中不依倚一物」といふ宗旨は、

十二時中たとひ十二時中に処在せりとも、不依倚なり。

不依倚一物、これ十二時なるがゆゑに仏性明見なり。

この十二時中、いづれの時節到来なりとかせん、いづれの国土なりとかせん。

いまいふ十二時は、人間の十二時なるべきか、他那裏に十二時のあるか、

白銀世界の十二時のしばらくきたれるか。

たとひ此土なりとも、たとひ他界なりとも、不依倚なり。

すでに十二時中なり、不依倚なるべし。

莫便是長老見処麼」といふは、

これを見処とはいふまじや」といふがごとし。

長老見処麼と道取すとも、自己なるべしと囘頭すべからず。

自己に的当なりとも、黄檗にあらず。

黄檗かならずしも自己のみにあらず、長老見処は露回々なるがゆゑに。

黄檗いはく、

不敢」。

この言は、宋土に、おのれにある能を問取せらるるには、

能を能といはんとても、不敢といふなり。

しかあれば、不敢の道は不敢にあらず。

この道得はこの道取なること、はかるべきにあらず。

長老見処たとひ長老なりとも、

長老見処たとひ黄檗なりとも、道取するには不敢なるべし。

一頭の水コ牛出で来りて吽吽と道ふ」なるべし。

かくのごとく道取するは、道取なり。

道取する宗旨さらに又道取なる道取、こころみて道取してみるべし。

南泉いはく、

醤水銭且致、草鞋銭教什麼人還」。

いはゆるは、

こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはなにびとをしてかかへさしめん

となり。

この道取の意旨、ひさしく生生をつくして参究すべし。

醤水錢いかなればかしばらく不管なる、留心勤学すべし。

草鞋錢なにとしてか管得する。

行脚の年月にいくばくの草鞋をか踏破しきたれるとなり。

いまいふべし、

若し錢を還さずは、未だ草鞋を著かじ」。

またいふべし、

両参輪」。

この道得なるべし、この宗旨なるべし。

黄檗便休」。これは休するなり。

不肯せられて休し、不肯にて休するにあらず。

本色衲子しかあらず。しるべし休裏有道は、笑裏有刀のごとくなり。

これ仏性明見の粥足飯足なり。


注:

黄檗: 黄檗希運禅師。福州の人。

洪州黄檗山に入って出家し、百丈懐海禅師に師事して嗣法し、

黄檗山において教化を行なった。

850年黄檗山において死去。

断際禅師とおくり名された。著書に「伝心法要」がある。

臨済義玄禅師の師。

南泉: 南泉普願禅師。

馬祖道一禅師の法嗣。鄭州の人、姓は王氏。

大院山大慧禅師のもとで出家し、後に馬祖禅師に師事した。

池陽県の南泉に寺院を建て、寺院から出ないことが三十年に及んだという。

834年死去、年87歳。弟子から趙州従シン禅師、

長沙景岑禅師などが出た。語録一巻がある。 

茶堂: 茶をたてるための建物。

定: 禅定。精神を集中し三昧状態にある心理状態。

生理状態も安定し、自律神経の交感神経と副交感神経とのバランスが

正常に桔抗している状態。 

慧:  智慧。人間の理智的な能力。

十二時:  むかしの計測法による一昼夜、今日の24時間

不依倚一物(ふえいいちもつ): 何物にも頼らないという意味。

自律神経のバランスをとって、いたずらに悲観することも楽観することもなく、

日常生活を堂々と送って行くことをいう。 

長老見処: 教団における先輩の所見。

不敢: 敢えて……せずの意。

自分の見解に自信があるため、相手方の質問に対して

肯定も否定もしない場合に使う。

さあどうでしょうか」くらいの意味。 

醤水銭: 醤水は味噌で煮た粥。

僧侶が食べる質素な食事。醤水銭は食事代。 

草鞋銭: 草鞋はわらじ。

草鞋銭は仏修行のため行脚して行く際の費用。旅費。

什麼(しも):  疑問のことぱ。たに、いかに。

小説に使う俗語。恁麼に同じ。

便休:  便はそこでの意。休は何もせずにじっとしていること。

黄檗禅師は自分の境地に自信があったため、

南泉禅師のからかいの言葉にとり合わず、黙って坐っていたことを示す。

佗那裏(たなり):佗は他に同じ。自に対する。那はあれ、あちら。

距離の離れた場所を表わす。裏は場所。佗那裏とは人間世界以外のどこかあちらの世界。  

白銀世界: 清浄無垢の世界。

水コ牛: コは牝牛または去勢された牛をいう。

水コ牛とは、牝または去勢された水牛の意。

吽吽: 牛の鳴き声。もうもう。

こんず: こみづ(濃漿)の音便。米を煮たしる、おもゆ。 

不管:  管せずの意。管はつかさどる、関係するの意。

管得: こだわること、関係すること。

行脚: 仏道修行のため、徒歩で諸国を遊歴すること。 

陥破: 踏みやぶること。

若し錢を還さずは、未だ草鞋を著かじ」: もし旅行しただけの甲斐がない

ようであれば、わざわざ草鞄なぞをはいて旅に出ることはいたしませんという意味。

修証一如なればこそ修行するという意味。

両三輛:  輛は一そろいのはきものの意。

両三輛は二、三足を意味する。 

休する:  何もしないでいる。 

不肯: 肯定しないこと。うけがわないこと。

本色衲子: 本当の僧侶の意。納はつづる。

衲子はつづれ衣を着た人の意味で、僧侶を指す。 

休裏有道: 何もせずに黙って坐っているが、

同時に一つの主張をなしていることをいう。

笑裏有刀:  おだやかに笑っている動作のはしはしに、

鋭い批判の刃を秘めていることをいう。

仏性明見: 仏性が明確に現われること。

粥足飯足: 粥は朝食を意味し、飯は昼食を意味する。

粥足飯足とは朝食・昼食に不満がなく、日常生活を満ち足りた状態で送ることをいう。



第18文段の現代語訳

   

黄檗希運禅師が南泉普願禅師の茶堂で坐禅していた。

その時南泉がやってきて黄檗禅師に質問した、

禅定と智慧を等しく学んで、はじめて仏性が明らかになるという言葉がある

このことについてどう思うか。」

黄檗はいった、

一日中、何物にも頼らなければそのことが分かるでしょう」。

南泉はいった、

その答は、まさか長老の考えではあるまいな」。

黄檗はいった、

さあ、どうでしょうか」。

南泉はいった、

その程度の理解の仕方では、食費とまではいわないにしても

行脚の旅費ぐらいは誰かに返して貰う必要がありそうだな」。

黄檗禅師は黙って坐っていた。

 ここにいう「定慧等学」の趣旨は、

定学が慧学の障害とはならないから、双方を同時に学ぶことで、

仏性が明らかになる、という意味でもない。

仏性が明らかになる時に、

定慧等学」の学があるのである。

この理論の筋道はどのように理解すべきか

と言っているのである。

たとえば、

仏性を明らかに現したのは誰の行為か

と問うているのと同じだ。

仏と性(その本質)を等しく学ぶことで、仏性が明らかになる

このことについてどう考えるか

という言葉で問うてみてもよいだろう。

黄檗はいった、

一日中、何物にも頼らないことだ」。

この言葉の意味は、24時間という時間は、

24時間という時間に内在していても、

24時間という時間以外の何かに依拠した存在ではない。

そして何物にも頼らないという事態は、24時間中という時間である。

24時間はただ24時間に在って、不依倚である。

不依倚一物の生活が24時間中であるから、それ自体が仏性の明白な発揮である。

この24時間中という時間は、

どのような時期の到来を意味しているのだと解すべきであろうか、

どのような世界(国土)における出来事と解すべきであろうか。

いまここにいう24時間中とは、人間の世界における24時間をいうのであろうか、

人間以外の世界における24時間をいうのであろうか、

仏の世界における24時間が暫定的に姿を現わしたのであろうか。

また場所の問題として考えた場合、

たとい地球上の世界においてであろうと、

地球以外の世界においてであろうと、

何物にも頼らないという状態(不依倚一物の生活)である。

すでに24時間という現実の時間すべてにおいて

不依倚であり不依倚であるべきである。

その答は、まさか長老の意見ではあるまいな。」

という言葉の意味は、

まさかこれをお前さん自身の見識だというのではあるまいな。」

というのに似ている。

お前さんの意見かな。」と聞かれても、

これこそ自分の意見だ。」などと応答してはならない。

仮に黄檗の意見にぴったりだとしても、黄檗だという訳にはいかない。

黄檗が必ずしも黄檗だけに尽きているとは限らない。

何故ならば教団の長老である黄檗の所見は、

明々白々として外部に露呈しているからである。

黄檗が言った「さあ、どうでしょうか(不敢)」。

この「さあ、どうでしょうか。」という言葉は、

宋の国において自分の持っている能力について質問を受けた場合、

自分にはその能力があるといいたい場合に、

さあ、どうでしょうか。」というのである。

したがって「さあ、どうでしょうか。」

という言葉の意味は、言葉の真意として

さあ、どうでしょうか。」といっているのではない。

この場合の「さあ、どうでしょうか。」

という言葉の意味は、文字通り

さあ、どうでしょうか。」という意味だというふうに考えてはならない。

この長老の見解だといわれた主張が、実際に長老のものである場合も、

またそれが黄檗自身のものである場合も、黄檗の言葉としては

さあ、どうでしょうか。」ということが妥当なところであったであろう。

それは一頭の去勢された水牛が出て来て、もうと鳴くのと同じように、

何ら作為のないきわめて自然な行為である。

このような言葉こそ、まさに真理の表白である。

この言葉の意味や、さらには真理の表白としての言葉を、

試験的に口に出して見るがよい。

南泉は言った、

その程度の理解の仕方では、食費とまではいわないにしても

行脚の旅費ぐらいは誰かに返して貰う必要がありそうだな。」と。

ここにいう意味は、

粗末な食事の費用まではしばらく問題にしないとしても、

草鮭その他旅行に費やした費用は、誰に返させたらよかろうかという意味である。

この言葉のいわんとしているところは、永く生涯を通じて参究すべきである。

食事の費用は何故しばらくの間不問に付するのか、

心をもっぱらにして学んで見るべきである。

また草鮭などの旅行の費用には、何故こだわるのであろうか。

前述の言葉の意味は、諸国を旅行して歩いた年月の間に、

どれだけの草鮭を踏み破って来たかという意味である。

これにたいしてはこういうべきであろう。

諸国を仏道修行のために旅して、しかも何の得るところもないようならば

初めから仏道修行の旅などには出ませんよ」と。

またこういうべきかも知れない。

さあ、踏み破った草鞄は二足になりましょうかな、三足になりましょうかな。」

(この言葉によって、南泉禅師の質問に対して、

むきになって取り合わない黄檗の余裕を示している。)

黄檗禅師がいいたかった言葉は上記のようなものであろう。

その言葉の趣旨は上記の通りであろう。

 「黄檗便ち休す」。

これはただ黙って坐っていたに過ぎない。

南泉の納得が得られずに坐っていたのでもなければ、

南泉の言葉を納得せずに坐っていたのでもない。

本物の修行僧はそんなものではない。

しるべきだ。

黙って坐っていながら、その中に充分な主張が含まれている事情は、

大声で笑っていながら、しかもその中に鋭どい批判を蔵している事情と似ている。

そしてこのような事情こそ、

仏性が明白に発揮されている事態のもっとも普通の充足したあり方である。



第18文段の解釈とコメント



   

黄檗希運禅師が南泉普願禅師の茶堂で坐禅していた。

その時南泉がやってきて黄檗禅師に質問した、

禅定と智慧を等しく学んで、はじめて仏性が明らかになるという言葉がある

このことについてどう思うか。」

黄檗はいった、

一日中、何物にも頼らなければそのことが分かるでしょう」。

南泉はいった、

その答は、まさか長老の考えではあるまいな」。

黄檗はいった、

さあ、どうでしょうか」。

南泉はいった、

その程度の理解の仕方では、食費とまではいわないにしても

行脚の旅費ぐらいは誰かに返して貰う必要がありそうだな」。

黄檗禅師は黙って坐っていた。

 ここにいう「定慧等学」の趣旨は、

定学が慧学の障害とはならないから、双方を同時に学ぶことで、

仏性が明らかになる、という意味でもない。


コメント

定慧等学、明見仏性」という言葉は

「大乗涅槃経」の獅子吼品第二十三の四に出ている経文の精神を

取って来たと考えられている。

「大乗涅槃経」の獅子吼品第二十三の四の経文は以下のようである。

善男子、十住の菩薩智慧力多く三昧力少なし

是の故に明らかに仏性を見ることを得ず。声聞、縁覚三昧力多く智慧力少なし

是の因縁を以て仏性を見ず

諸仏世尊定慧等しきが故に明らかに仏性を見る

了了にして礙無(さわりな)きこと

掌中の菴摩勒果(あんまろくか、マンゴー)を観るが如し。」

この経文では禅定と智慧を等しく修することによって

明らかに仏性を見ることができると書いてある。

南泉が黄檗に質問した、「定慧等学」という言葉は

この経文の精神を取って来たと考えられている。

「定慧等学」という言葉の意味は、定学が慧学の障害とはならないから、

定学と慧学を同時に学ぶことで、仏性が明らかになる、という意味ではなく、

禅定力と智慧を偏ることなく修行して身に付けることで

仏性を見ることができると言っているのである。

定慧一体」の思想は六祖慧能や荷沢神会、大珠慧海(馬祖道一の法嗣)によって説かれ、

最終的に「三学(戒定慧)一体」の思想に結実するのである。

禅の思想1、3.9 「戒定慧」三学の統一を参照)。




仏性が明らかになる時に、

定慧等学」の学があるのである。

この理論の筋道はどのように理解すべきか

と言っているのである。

たとえば、

仏性を明らかに現したのは誰の行為か

と問うているのと同じだ。

仏と性(その本質)を等しく学ぶことで、仏性が明らかになる

このことについてどう考えるか

という言葉で問うてみてもよいだろう。

黄檗はいった、

一日中、何物にも頼らないことだ」。

この言葉の意味は、24時間という時間は、

24時間という時間に内在していても、

24時間という時間以外の何かに依拠した存在ではない。

そして何物にも頼らないという事態は、24時間中という時間である。

24時間はただ24時間に在って、不依倚である。

不依倚一物の生活が24時間中であるから、それ自体が仏性の明白な発揮である。

この24時間中という時間は、

どのような時期の到来を意味しているのだと解すべきであろうか、

どのような世界(国土)における出来事と解すべきであろうか。


コメント

   

黄檗の言葉「十二時中不依倚一物(一日中、何物にも頼らないことだ)」

に現れる

不依倚一物(何物にも頼らないことだ)」

とは何だろうか。

普通我々は金や権力、地位に頼って生きている。

そのような外物に一切頼らないとは、

仏性(自性、真の自己)のままに生きることを意味している。

不依倚一物の世界(何物にも頼らない世界)」

とは、頼るような余物が一塵もなく、

仏性(自性、真の自己)のみの世界を意味している。

真の自己は<本来無一物>であるから、何もないので依倚しようがない。

そのような仏性(自性、真の自己)のみの世界を生きることを

黄檗は「十二時中不依倚一物(一日中、何物にも頼らないことだ)」と言っているのである。

六祖壇経、慧能の<本来無一物>を参照)。

   

コメント

   

興味深いことに黄檗の「十二時中不依倚一物」という言葉は

ブッダ最晩年の言葉と似たところがある。 


不依倚とブッダ


ブッダ最晩年の姿を伝える原始仏教経典に(大パリニッバーナ経―ブッダ最後の旅ー)がある。

この経典にはブッダ最後の言葉として

この世で自らを島とし自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし

法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」

という言葉がある。

この言葉は<自帰依>、<法帰依>の教えとして有名である。

自帰依>、<法帰依>の教えはブッダの教えの核心をなすと言える。



「原始仏教2」 ブッダの遺言と最後の教えを参照)。

このブッダの言葉の中から、

この世で自らを島とし自らをたよりとして法を島とし、法をよりどころとして、」

という言葉を除くと

他人をたよりとせず、他のものをよりどころとせずにあれ。」

となる。

この言葉は

黄檗の言葉、「不依倚一物(何物にも頼らないことだ)」

に似た言葉と言える。

大パリニッバーナ経のブッダの言葉

他人をたよりとせず、他のものをよりどころとせずにあれ。」は

権威ある他人や神への信仰に頼らず自己を信頼して生きよ

と言っていると考えることができる。

黄檗の言葉、「不依倚一物(何物にも頼らないことだ)」はこのブッダの言葉に似ている。

原始仏教経典に見えるゴータマ・ブッダの言葉は

黄檗の言葉、「不依倚一物(何物にも頼らないことだ)」

の精神と通底していることに驚かされる。




いまここにいう24時間中とは、人間の世界における24時間をいうのであろうか、

人間以外の世界における24時間をいうのであろうか、

仏の世界における24時間が暫定的に姿を現わしたのであろうか。

また場所の問題として考えた場合、

たとい地球上の世界においてであろうと、

地球以外の世界においてであろうと、

何物にも頼らないという状態(不依倚一物の生活)である。

すでに24時間という現実の時間すべてにおいて

不依倚であり不依倚であるべきである。

   

コメント

   

黄檗は「十二時中不依倚一物(一日中、何物にも頼らないことだ)」

という言葉で

一日中仏性(自性、真の自己)のまま自在に生きることを言っているのである。

   

     

その答は、まさか長老の意見ではあるまいな。」

という言葉の意味は、

まさかこれをお前さん自身の見識だというのではあるまいな。」

というのに似ている。

お前さんの意見かな。」と聞かれても、

これこそ自分の意見だ。」などと応答してはならない。

仮に黄檗の意見にぴったりだとしても、黄檗だという訳にはいかない。

黄檗が必ずしも黄檗だけに尽きているとは限らない。

何故ならば教団の長老である黄檗の所見は、

明々白々として外部に露呈しているからである。

黄檗が言った「さあ、どうでしょうか(不敢)」。

この「さあ、どうでしょうか。」という言葉は、

宋の国において自分の持っている能力について質問を受けた場合、

自分にはその能力があるといいたい場合に、

さあ、どうでしょうか。」というのである。

したがって「さあ、どうでしょうか。」

という言葉の意味は、言葉の真意として

さあ、どうでしょうか。」といっているのではない。

この場合の「さあ、どうでしょうか。」

という言葉の意味は、文字通り

さあ、どうでしょうか。」という意味だというふうに考えてはならない。

この長老の見解だといわれた主張が、実際に長老のものである場合も、

またそれが黄檗自身のものである場合も、黄檗の言葉としては

さあ、どうでしょうか。」ということが妥当なところであったであろう。

   

コメント

   

黄檗の言葉「さあ、どうでしょうか。」は

南泉に対し、「和尚ならどう考えますか? 何か文句がありますか?」

と言った黄檗の余裕のある態度を

この言葉で表していると考えることができるだろう。

   
   

それは一頭の去勢された水牛が出て来て、もうと鳴くのと同じように、

何ら作為のないきわめて自然な行為である。

このような言葉こそ、まさに真理の表白である。

この言葉の意味や、さらには真理の表白としての言葉を、

試験的に口に出して見るがよい。

南泉は言った、

その程度の理解の仕方では、食費とまではいわないにしても

行脚の旅費ぐらいは誰かに返して貰う必要がありそうだな。」と。


コメント


この南泉の言葉は表面的には黄檗を貶しているようであるが、

心のなかでは黄檗を肯い褒めているのである。

この言葉は

禅僧がよく用いる「言貶意揚(ごんぺんいよう)」の表現だと考えることができる。

   
   

ここにいう意味は、

粗末な食事の費用まではしばらく問題にしないとしても、

草鮭その他旅行に費やした費用は、誰に返させたらよかろうかという意味である。

この言葉のいわんとしているところは、永く生涯を通じて参究すべきである。

食事の費用は何故しばらくの間不問に付するのか、

心をもっぱらにして学んで見るべきである。

また草鮭などの旅行の費用には、何故こだわるのであろうか。

前述の言葉の意味は、諸国を旅行して歩いた年月の間に、

どれだけの草鮭を踏み破って来たかという意味である。

これにたいしてはこういうべきであろう。

諸国を仏道修行のために旅して、しかも何の得るところもないようならば

初めから仏道修行の旅などには出ませんよ」と。

またこういうべきかも知れない。

さあ、踏み破った草鞄は二足になりましょうかな、三足になりましょうかな。」

(この言葉によって、南泉禅師の質問に対して、

むきになって取り合わない黄檗の余裕を示している。)

黄檗禅師がいいたかった言葉は上記のようなものであろう。

その言葉の趣旨は上記の通りであろう。

 「黄檗便ち休す」。

これはただ黙って坐っていたに過ぎない。

南泉の納得が得られずに坐っていたのでもなければ、

南泉の言葉を納得せずに坐っていたのでもない。

本物の修行僧はそんなものではない。


コメント


ここで黄檗は黙って坐っていたのは南泉に肯がわれないので黙って坐っていたのではない。

また黄檗自らが肯がわなくて黙って坐っていたのでもない。

黄檗はただ黙って坐っている姿によって、仏性を明白に示しているのである。

これを次の図22によって説明する。


図22

図22 ただ黙って坐っている姿は

本体である仏性(本源清浄心=健康な脳)の作用(働き)と発現である。


   

図22は馬祖禅の<作用即性>の思想によって説明できる。

禅の根本原理と応用を参照)。






しるべきだ。

黙って坐っていながら、その中に充分な主張が含まれている事情は、

大声で笑っていながら、しかもその中に鋭どい批判を蔵している事情と似ている。

そしてこのような事情こそ、

仏性が明白に発揮されている事態のもっとも普通の充足したあり方である。





19

 第19文段


原文19

この因縁を挙して、イ山、仰山にとうていはく、

是れ黄檗他の南泉を搆すること得ざるにあらずや

仰山いはく、

然らず。須く知るべし、黄檗陷虎之機有ることを

イ山いはく、

子が見処、恁麼に長ずること得たり

大イの道は、そのかみ黄檗は南泉を搆不得なりやといふ。

仰山いはく、

黄檗は陷虎の機あり。」

すでに陷虎することあらば、ラッ虎頭なるべし。

虎を陷れ虎をとる。異類中に行く

仏性を明見しては一隻眼を開き、仏性明見すれば一隻眼を失す

速やかに道へ、速やかに道へ

仏性の見処、恁麼に長ずることを得たり。」

なり。

このゆゑに、半物全物、これ不依倚なり。

百千物、不依倚なり、百千時、不依倚なり。

このゆゑにいはく、

ラ籠は一枚、時中は十二、依倚も不依倚も、葛藤の樹に依るが如し

天中及全天、後頭未だ語あらず。」

なり。


注:

イ山: イ山霊祐禅師(771〜853)。福州長路の人、姓は趙氏。

法系:六祖慧能→南岳懐譲 →馬祖道一→百丈懐海→イ山霊祐

十五歳の時に出家し、

23歳の時から百丈懐海禅師に師事した。

後、イ山において教化を行ない、仰山慧寂禅師・香厳智閑禅師などの秀れた弟子を出した。

853年死去。年83歳。語録一巻がある。

弟子の仰山禅師が特にその宗風を宣揚したところからこの流派はイ仰宗と呼ばれている。

唐の宜宗から大円禅師とおくり名された。

仰山: 仰山慧寂禅師(804〜890)。イ山霊祐禅師の法嗣。紹州懐化の人、姓は葉氏。

初め耽源応真禅師に師事したが、後にイ山霊祐禅師に師事し法嗣となった。

仰山その他に住み、宗風を挙揚した。

この流派はイ山の名と合わせてイ仰宗といわれている。

語録一巻がある。智通大師とおくり名された。 

 佗:   中国の俗語で第三者を示す言葉。

構:かまえる、応対する。 

陥虎之機:    陥虎は虎をわなに落してつかまえること。

機は機根、素質、力量。

虎にもたとえられるような南泉禅師をもとりこにしてしまうような力量。 

 子:  相手に対する呼称。あなた、きみの意。

目上に対していう場合と目下(たとえば弟子)に対していう場合とがある。

ラツ虎頭(らっことう):  ラツはなでる。らっ虎頭は虎の頭をなでること。

異類中行:  犬や牛などの異類と交わって修行すること。

一隻眼:    一つの見識。悟りの眼。

速道速道:  速やかに自分自身の見解を述べて見よ。 

半物全物:  部分も全体も。

百千物: 具体的な一切の事物。

百千時:  現実の一切の時間。

ラ籠一枚: ラ籠に同じ。ラはうすぎぬ、鳥をとらえるのに用いる。

籠はかご、鳥をとらえておく道具。

転じてラ籠とは人間をとらえて 離さない種々の障害・煩悩の異名。

ラ籠一枚とは人間にとって障害となる煩悩が充満した世界であるの意。

時中十二: 十二時中における十二時の意で、

二十四時間内における個々の具体的な時間をいう。

 ラ籠一枚、時中12: 12時中、ラ籠一枚。

12時中(一日中)煩悩三昧のこと。

葛藤の樹に倚るが如し:  葛(くず)や藤(ふじ)のつるのような煩悩が

他の木によりかかりからみついているようだ。

葛や藤のつるや枝が他の木に倚りかかって繁茂しているように、

煩悩が複雑にからみついている様子。

天中及全天: 天中は空間における一部分、全天は全空間、宇宙。

 後頭未だ語有らず:  後頭は畢竟、結局のところの意。

結局のところ、言葉では表現できない。



第19文段の現代語訳


南泉と黄檗のやりとりについて、

ある時、イ山が弟子の仰山に質問をして言った、

黄檗は南泉の意図を掴むことができなかったのだろうか?」

仰山は言った、

そうではないでしょう

黄檗には虎を捕まえるだけの力量があったと知る必要があるのではないでしょうか

イ山は言った、

お前は弟子ながら、すばらしい見識を具えているな

イ山禅師の言葉は、

当時黄檗は南泉の意図するところを掴んでいなかったのではないかと言っているのである。

これに対して仰山は

黄檗には、虎にもたとえられる南泉を捕えてしまうほどの力量がある

と言った。

もし黄鯖に虎を捕えるほどの力量があるならば、

同時に虎の頭をなでてやるほどの力量もあるはずである。

虎を捕えることも、虎の頭をなでることも、異類中行である

  一体、仏性を見るとは、一隻現(悟りの眼)を得るのだろうか、失うのだろうか

さあ、この問題について速やかにお前の考えを述べて見よ

仏性を見ると、どのようなすぐれた所を得る。」

である。

このような理由から、部分にも全体にも何物にも頼らないのである。

具体的な一切の事物にも、何物にも頼らないのである。

現実の一切の時間にも、何物にも頼らないのである。

この故に、

この世の中は、人間を悩ます障害や煩悩の充満した世界である

しかも一日一日における個々の具体的な時間でしかあり得ない

何物かに頼るとか、頼らないとかといっても

それは葛の蔓や藤の枝のような煩悩が木にからまりついているようなものである

世界の一部分もまた宇宙全体も、ここまでくれば言葉で表現できない。」

と言うのである。

第19文段の解釈とコメント


南泉と黄檗のやりとりについて、

ある時、イ山が弟子の仰山に質問をして言った、

黄檗は南泉の意図を掴むむことができなかったのだろうか?」

仰山は言った、

そうではないでしょう

黄檗には虎を捕まえるだけの力量があったと知る必要があるのではないでしょうか

イ山は言った、

お前は弟子ながら、すばらしい見識を具えているな

イ山禅師の言葉は、

当時黄檗は南泉の意図するところを掴んでいなかったのではないかと言っているのである。

これに対して仰山は

黄檗には、虎にもたとえられる南泉を捕えてしまうほどの力量がある

と言った。

もし黄鯖に虎を捕えるほどの力量があるならば、

同時に虎の頭をなでてやるほどの力量もあるはずである。

虎を捕えることも、虎の頭をなでることも、異類中行である


コメント

異類中行とは南泉の言葉で犬や牛のような異類の中に自由に入って修行することを言う。

ここでは

異類である虎を捕えることも、虎の頭をなでることも、異類中行であると言っている。


   

  一体、仏性を見るとは、一隻現(悟りの眼)を得るのだろうか、失うのだろうか

さあ、この問題について速やかにお前の考えを述べて見よ


コメント

開一隻眼とは(悟りの眼)を開くことである。

仏性を見るとは、一隻眼(悟りの眼)を開くことである。

ただ一隻眼(悟りの眼)を開く開一隻眼だけでは駄目で、

失一隻眼(開いた悟りの眼をつぶすこと)が大事である。

何故だろうか。

悟りの眼ばかりを光らせていると、

すべては一つという万物一体という平等の世界に目がくらんで

差別の世界を見失う「悟り病」に罹るからだと考えられている。

悟ったらその悟りを捨てろとはこの理由からだとされている。

悟ったその悟りを捨てることによって、悟りを更に深めて行くために不可欠だとされている。

明見仏性」で最初の浅い悟りである「開一隻眼」をあらわし、

仏性明見」で更に深い悟りである「失一隻眼」を表していると考えられている。


   

仏性を見ると、どのようなすぐれた所を得る。」

である。

このような理由から、部分にも全体にも何物にも頼らないのである。

具体的な一切の事物にも、何物にも頼らないのである。

現実の一切の時間にも、何物にも頼らないのである。

この故に、

この世の中は、人間を悩ます障害や煩悩の充満した世界である

しかも一日一日における個々の具体的な時間でしかあり得ない

何物かに頼るとか、頼らないとかといっても

それは葛の蔓や藤の枝のような煩悩が木にからまりついているようなものである

世界の一部分もまた宇宙全体も、ここまでくれば言葉で表現できない。」

と言うのである。



20

 第20文段



原文20


 趙州真際大師にある僧とふ、

狗子にまた仏性有りや無や」。

 この問の意趣あきらむべし。狗予とはいぬなり。

かれに仏性あるべしと問取せず、なかるべしと関取するにあらず、

これは鉄漢また学道するかと開取するなり。

あやまりて毒手にあふうらみふかしといへども、

三十年よりこのかた、さらに半箇の聖人をみる風流なり。

趙州いはく、

」。

この道をききて習学すべき方路あり。

仏性の自称する無も恁麼道なるべし、狗子の自称する無も恁麼道なるべし、

傍観者の喚作の無も恁麼道なるべし。

その無わづかに消石の日あるべし。

僧いはく、

一切衆生皆仏性有り、狗子甚麼としてか無し」。

いはゆる宗旨は、一切衆生無ならば、仏性も無なるべし、

狗予も無なるべしといふ、その宗旨作麼生となり。

狗子仏性、なにとして無をまつことあらん。

趙州いはく、

他に業識の在ること有るが為なり」。

この道旨は、「為他有」は「業識」なり、「業識有」、

「為佗有」なりとも、狗予無、仏性無なり。

業識いまだ狗予を会せず、狗子いかでか仏性にあはん。

たとひ双放双収すとも、なほこれ業識の始終なり。


注:

趙州真際大師: 趙州従シン禅師(778〜897)。

南泉普願禅師の法嗣。南泉普願禅師の法嗣。南泉普願禅師に師事し、

さらに黄檗希運禅師・塩官斉安禅師・夾山善会禅師などを歴訪した。

後に趙州の観音院において教化を行ない、僧侶の尊崇を集めた。

897年死去、年120歳。語録三巻がある。真際大師とおくり名された。

狗子: 小犬、いぬころ。

鉄漢: 大丈夫の人、道心堅固の僧。

あやまりて:うっかりと、不意をつかれて。

毒手;  辛辣な攻撃、鋭どい質問。 

三十年: 馬祖の弟子石鞏禅師が真の弟子三平を得るのに

三十年間待ったという物語に由来する。 

半個の聖人:  極めて少ない貴重な真実の人。

風流:先人の遺風、余風。

方路: 方途。

喚作:呼びかけ。第三者的な表現。

消石: 石を溶かすほどの難事業。真理の解明。

作麼生(そもさん): 中国宋代以降、中国の俗間で用いられた疑問詞。

「どんなだ」「どうだ」くらいの意味から、問題を出すときにかけるかけ声。 

他に業識の在ること有るが為なり:他(犬)には、過去の行為の集積として形成された

心理的なわだかまり(コンプレックス)があるからである。

業識: 過去の行為である業の集積によって形成された意識。

 生命現象として、無意識から働き出す原始的な精神作用。

為佗有:   自分の意識的な働きでなく、

本能的な生命現象によって生きている存在。 

双放双収: 双は主観と客観の双方。放は肯定。

収はひきしめ否定すること。

双収は主観と客観の双方をともに棚上げ否定すること。

双放は主観と客観の双方をともに取り上げ肯定すること。

双収とは主観と客観の双方をともに棚上げ、否定すること。 

双放双収すとも: 有と肯定し無と否定しようとも。



第20文段の現代語訳


趙州真際大師にある僧がたずねた、

一体、犬には仏性があるのでしょうか、ないのでしょうか?」

   この質問の趣旨を解明すべきである。狗子とは犬のことである。

この質問の趣旨は、犬には仏性がある筈だがと質問したのでもなければ、

ない筈だがと質問した訳でもない。

この質問は

鉄漢趙州よ、まだ学道していますか。」

 と質問しているのである。

質問僧にとっては、趙州の毒手にかかって一たまりもなかったが、

趙州としては、石肇禅師のように三十年の長きにわたって、

きわめて会い難い真実の学徒を求め、

今始めてそれに会うことができたいという状況に似ている。

趙州はいった、

」。

この「」という言葉を聞いて、大いに学ぶ方途が開けて来る。

仏性がみずから表白している「」は、

このような意味の言葉であろう。

犬みずからが表白している「」も同じような言葉であろう。

また傍観者的な第三者が発する「」も同じようなものであろう。

この「」という一句があればこそ、

やがて真理の解明を達し得る日も期待できるのである。

僧は言った、

一切衆生には皆仏性があるはずです。犬には一体どうして無いのですか?」。

この言葉の趣旨は、一切衆生ならば、仏性もであろうし、

犬もまたであろうということである。

さあ、この趣旨をどう理解されるかと言っているのである。

また言葉を変えていえば、犬に具わっている仏性は明々白々であり、

どうして「」というような形容をまつ必要があろうということでもある。

趙州は言った、

犬には、業識があるからである。」 

この言葉の趣旨は、犬に有るものは、業識である。

犬は業識としての有であり、本能的な生命現象であるにしても、

犬自身は、その仏性は、「」である。

そして犬の業識は、本当の犬というものをなかなか理解できない。

まして犬がどうして仏性を悟ることがあろう。

たとえ、ある場合には犬や仏性という概念をともに否定してと言おうと、

ある場合にはともに肯定してと言おうと、

これらの思惟もまた、終始業識の現われである。

 第20文段の解釈とコメント


趙州真際大師にある僧がたずねた、

一体、犬には仏性があるのでしょうか、ないのでしょうか?」

   この質問の趣旨を解明すべきである。狗子とは犬のことである。

この質問の趣旨は、犬には仏性がある筈だがと質問したのでもなければ、

ない筈だがと質問した訳でもない。

この質問は

鉄漢趙州よ、まだ学道していますか。」

 と質問しているのである。

質問僧にとっては、趙州の毒手にかかって一たまりもなかったが、

趙州としては、石肇禅師のように三十年の長きにわたって、

きわめて会い難い真実の学徒を求め、

今始めてそれに会うことができたという状況に似ている。


コメント

ここに出て来た石肇(しゃくきょう)禅師の三十年は以下の物語に由来する。


石肇禅師と弓


石鞏禅師は馬祖道一禅師の弟子である。

石鞏禅師と馬祖道一禅師の間には次のような興味深い物語が知られている。

もともと猟師であった石鞏は、

鹿を追いかけて、たまたま、馬祖道一禅師がいた庵の前を通り過ぎた。

猟師の石鞏は、馬祖禅師に尋ねた、

鹿が過ぎたのを見ませんでしたか?」

馬祖は言った、

お前はいったい何者か?」

石鞏は言った、

猟師です。」

馬祖は言った、

お前は鹿を射ることができるか?」

石鞏は言った、

矢で射ることができます。」

馬祖は言った、

それでは、1本の矢でいっぺんに何匹の鹿を射ることができるか?」

石鞏は言った、

1本の矢では1匹の鹿をいるのが精々です。」

馬祖は言った、

そんなことでは、鹿を射ることができるとは言い難いぞ

石鞏は言った、

それでは、和尚様は1本の矢で何匹の鹿を射ることができるのですか?」

馬祖は言った、

わしは、1本の矢で群れ全体の鹿を射殺すことができるぞ

石鞏は言った、

群れ全体を射るとは何ということでしょうか

私もあの鹿もことごとく命があります

どうして、1本の矢で群れ全体を射殺す必要がありましょうか

馬祖は言った、

お前、そのことがわかっているのであれば、自分自身を射たらどうかな。」

 ここで「自分自身を射る」ということや、

1本の矢で鹿全体の群れを射る」ということは、

我々の煩悩を射ることを意味している。

我々の煩悩は108どころではなく、数えきれない。

その煩悩の本源である心を殺すことを意味している。

本源である心を殺してしまえば、すべての煩悩はおさまる。

煩悩の本源はいったい何か?

それ自分さえ良ければ良いというわがままな我欲である。

この自我の一念を射殺すことができたら、あらゆる悩みや苦しみはことごとく消滅する。

 石鞏はそのことに気が付いて馬祖禅師の弟子になり、参禅修行に専念した。

その結果、苦しんでいた無明、煩悩をことごとくおさめることができた。

 石鞏和尚は、もともと猟師出身だったので、

修行僧が来ると常に弓と矢を持って導いた。

修行僧がやってくると、その僧に向かっていきなり、

矢をつがえて弓を引き絞って「矢を看よ!」とやった。

 そのような指導だったため、修行僧は皆、恐れをなした。

 30年間それが続いた。

石鞏和尚が「矢を看よ!」とやると皆逃げて行った。

ところが、そこに三平(さんぴょう)という人が現れて終止符が打たれることになった。

いつものように石鞏和尚が「矢を看よ!」と引き絞ると、

三平は胸をはだけて、矢に近づき、

さあ、どうぞ射てください!」と言って、さらに

この矢は人を殺す矢ですか。あるいは、人を活かす矢ですか

と迫った。

 石鞏和尚は

30年して今日やっとこの人を得たわい!」

と喜び弓矢を捨ててしまった。

道元は石鞏和尚と三平の物語をもとに

趙州と質問僧の関係は、

石肇禅師のように三十年の長きにわたって、真の学徒を求め、

今始めてそれに会うことができたという状況に似ていると述べているのである。


   

趙州はいった、

」。

この「」という言葉を聞いて、大いに学ぶ方途が開けて来る。

仏性がみずから表白している「」は、

このような意味の言葉であろう。

犬みずからが表白している「」も同じような言葉であろう。

また傍観者的な第三者が発する「」も同じようなものであろう。

この「」という一句があればこそ、

やがて真理の解明を達し得る日も期待できるのである。

僧は言った、

一切衆生には皆仏性があるはずです。犬には一体どうして無いのですか?」。

この言葉の趣旨は、一切衆生ならば、仏性もであろうし、

犬もまたであろうということである。

さあ、この趣旨をどう理解されるかと言っているのである。

また言葉を変えていえば、犬に具わっている仏性は明々白々であり、

どうして「」というような形容をまつ必要があろうということでもある。


コメント

 ここで「狗子仏性なにとしてか無をまつことあらん。」という一文が難しい。

狗子も無であり、仏性も無である。

そうならば、狗子の無と仏性の無が対立し対待する関係になる。

狗子の仏性である「」と我々人間の仏性である「」が対立し対待する必要はない。

犬に具わっている仏性や我々人間の仏性である「」は明々白々としている。

どうして「」というようなまぎらわしい形容と言葉をまつ必要があろうか

と言っていると考えることができる。




趙州は言った、

犬には、業識があるからである。」 

この言葉の趣旨は、犬に有るものは、業識である。

犬は業識としての有であり、本能的な生命現象であるにしても、

犬自身は、その仏性は、「」というほかない。 

そして犬の業識は、本当の犬というものをなかなか理解できない。

まして犬がどうして仏性を悟ることがあろう。

たとえ、ある場合には犬や仏性という概念をともに否定してと言おうと、

ある場合にはともに肯定してと言おうと、

これらの思惟もまた、終始業識の現われである。

コメント

ここで犬は業識で生きている存在であり、その仏性は、「」というほかないと述べている。

科学的に考えると犬の理知脳は未発達で小さい。

犬の脳の殆どは脳幹と大脳辺縁系からなる生命情動脳(人の下層脳に対応する)と言って良い。

ここで用いられている業識という言葉は

古い脳である生命情動脳に相当していると考えることができる。

脳幹と大脳辺縁系からなる生命情動脳(人の下層脳に対応する)は

無意識脳であるから「」と言って良い。

そのような観点からも、道元が犬は業識(生命情動脳)で生きている存在であり、

その仏性は、「」というほかないと述べているのは妥当である。

この仏性は「」という趙州の言葉は「無門関」第一則に出ている。

この「」という考え方は

近代日本哲学の久松 真一等の「東洋的無」という考え方に深い影響を与えたことは良く知られている。


「無門関」第一則を参照)。



21

 第21文段



原文21

趙州に僧有って問ふ、

狗子にまた仏性有りや無や

 この問取は、この僧、揚得趙州の道理なるべし。

しかあれば、仏性の道取問取は、仏祖の家常茶飯なり。

 趙州いはく、

」。

この有の様子は、教家の論師等の有にあらず、有部の論有にあらざるなり。

すすみて仏有を学すべし。仏有は趙州有なり、

趙州有は狗子有なり、狗子有は仏性有なり。

僧いはく、

既に有ならば、甚麼としてかまたこの皮袋に撞入する

この僧の道得は、今有なるか、古有なるか、既有なるかと関取するに、

既有は諸有に相似せりといふとも、既有は孤明なり。

既有は撞入すべきか、撞入すべからざるか。

撞入這皮袋の行履、いたづらに蹉過の功夫あらず。

 趙州いはく、

為他知而故犯(他、知りて故に犯すが為なり)」。

 この語は、世俗の言語としてひさしく途中に流布せりといへども、

いまは趙州の道得なり。

いふところは、しりてことさらをかす、となり。

この道得は、疑著せざらん、すくながるべし。

いま一字の入あきらめがたしといへども、入之一字も不用得なり。

いはんや(庵中不死の人を識らんと欲はば、豈只今のこの皮袋を離れんや)なり。

不死人はたとひ阿誰なりとも、いつれのときか皮袋に莫離なる。

故犯はかならずしも入皮袋にあらず、撞人這皮袋かならずしも知而故犯にあらず。

知而のゆゑに故犯あるべきなり。

しるべし、この故犯すなはち脱体の行履を覆蔵せるならん。

これ撞入と説著するなり。

脱体の行履、その正当覆蔵のとき、自己にも覆蔵し、他人にも覆蔵す。

しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢。

いはんや、雲居高祖いはく、

たとひ仏法辺事を学得する、はやくこれ錯用心了也」。

しかあれば、半枚学仏法辺事ひさしくあやまりきたること日深月深なりといへども、

これ這皮袋に撞入する狗子なるべし。

知而故犯なりとも有仏性なるべし。



注:

構得: 相手にすること。

家常茶飯: 日常茶飯のできごと。

道理:  筋道、過程。 

有部: 説一切有部ともいう。小乗二十部派の一つ。

仏滅後300年の初め頃に、根本上座部から分派した派。

根本上座部が経律を中心とするのに対し論を中心とする。

我空法有(我は空無であっても宇宙は実在する)、

三世実有(過去・現在・未来の三種の時間も実在である)、

法体恒有(宇宙は永遠の実在である)の教義を鳩えた。

大毘婆沙論・六足論・発智論などがこの派の論書である。

論有:  論議の上での存在。

仏有:  仏の存在。

趙州有:   趙州従シン禅師が説いた存在。 

狗子有:  犬としての存在。

仏性有:  仏性の存在。

「既に有ならば、甚麼としてかまたこの皮袋に撞入する」: 

「すでに犬や仏性として、現に存在しているのに、

どうして犬の皮袋の中にはいり込む必要があるのか。

這は此と同じ。

撞入(とうにゅう):  突入。入り込むこと。

今有: 今、現にあること。

古有:   古今を通じてあること、永遠のなかにあること。

既有:   すでにあり、現にいまあること。 

孤明:  孤は孤立、独立独歩。明は明々白々。 

行履:  行為、行動。 

為他知而故犯(他、知りて故に犯すが為なり): 

他(かれ)は犬のこと。 犬はさらに犬の皮袋の中に入る必要は必ずしもないが、

他(犬)はそのことを知っていながら、

犬という皮袋に入って犬に生れるためだという意味。

  「知而故犯(ちにこぼん)」は仏性の性質を指している。

途中:道路の真ん中。世上。

不用得: 必要がないのという意味。 

(庵中不死の人を識らんと欲はば、豈只今のこの皮袋を離れんや):  

自己という庵の中にあって不死の命を生き続ける自己の正体(仏性)

を知りたいならば、この生身の肉体を離れる必要があるだろうか。

(伝燈録三十、石頭草庵の歌)

阿誰(あすい): 何誰(あた)に同じ。たれ。いずれとも定まらぬ人を呼ぶことば。

「無門関」第45則にはこの言葉が出ている。

「無門関」第45則を参照)。

阿誰なりとも: 誰であっても。

莫離(もり): 莫は……でないの意。離ははなれる。

知而故犯(ちにこぼん): 知って故意に誤ちを犯すこと。

「知而故犯」は仏性の働きを言う。 

脱体の行履: 肉体の束縛から脱け出した自由な行動。 

驢前馬後の漢:  驢馬と馬の間をウロウロする者のように、

不徹底な者。罵倒の言葉。

雲居高祖: 雲居道膺禅師をいう。洞山良价禅師の法嗣。

「たとひ仏法辺事を学得する、はやくこれ錯用心了也」。: 

たとえ仏法辺の事を学び得ても、それは既に用心を錯(あやま)ってしまっている。

仏法らしいことを頭に描いても、行っても、言っても既に心得違いである。

それは仏法臭い偽仏法に過ぎない。

日深月深: 日に月に深まって行くこと。

半枚学仏法辺事: 仏法辺事を学ぶことがたとい半分であっても。 


第21文段の現代語訳

趙州禅師にある僧が訊ねた、

一体、犬には仏性があるのでしょうか、ないのでしょうか?」

 この質問は、この僧が趙州禅師をうまくつかまえて問答を仕掛けたものであろう。

このような例から見ると、仏性について議論をしたり、

質問をしたりすることは、仏祖にとっては日常茶飯事のように思われる。

趙州禅師は言った、

」。

この趙州禅師の「」という言葉の意味は、教家の論師などが言う「」ではなく、

説一切有部の論議とも異なる。

したがってここではさらに一歩を進めて、

釈尊の説かれた「(実在)」というものについて学ぶ必要がある。

釈尊の説かれた「(実在)」とは趙州禅師の説かれた「」であり、

趙州禅師の説かれた「」とは犬の「」であり、犬の「」は仏性の有に外ならない。

そこで僧は言った、

既に有ならば、甚麼としてかまたこの皮袋に撞入する

(すでに犬の「有」としてまた仏性そのものとして、現に存在しているのに、

どうしてさらに犬の皮袋の中にはいり込む必要があるのか)」。

この僧の「すでに犬の「有」として現に存在している。」 という言葉は、

現在における有(今有)を言っているのだろうか、

古来変わらない有(古有)を言っているのであろうか、

すでに確乎とした具体的な有(既有)であるという意味であろうかと問うた場合、

その答は明らかで、既有は、諸有に似ているようではあるが、

既有は、独立独歩の明々白々の存在である。

既有はさらに犬の皮袋に入るべきか、

入る必要がないのかよくよく考えて見るべきである。

犬の皮袋に入るか入らないかという行為の問題を、うかうかと間違えてはならない。

趙州禅師は言った、

犬は既有であるから、さらに犬の皮袋に入る必要はないが

彼(犬)はそのことを充分承知していながら

犬の皮袋に入る誤ちを犯すためである」。

この言葉はそのまま世間に通用する言葉として、

永い間世間に流布して来たところであるが、

今は趙州禅師の言った言葉となっている。

知而故犯とは、知っていながら、ことさらにその誤ちを犯すという意味である。

これに対して疑問を懐かない人は少ないだろう。

現に具体的な存在が皮袋に「入る」という一字でさえなかなか理解しがたいが、

実はこの「入る」という一句さえ不用なのである。

まして

自己という庵中にあって不死の命を生き続ける自己の正体(仏性)

を知りたいならば、どうして只今、この皮袋(生身の肉体)を離れることがあろうか

である。

不死の人(仏性)が誰であるか分らないにしても、

不死の人(仏性)でこの生身の肉体を具えていない人、

この生身の肉体を離れている人があるだろうか。

不死の人(仏性)はこの皮袋に常在している。

また故犯は、この皮袋に入るということではなく、

この皮袋に入りこむことが知而故犯ではない。

分別知覚しているからこそ故犯しているのであろう。

知るべきである。

この知而故犯が、仏性の作用である行住坐臥を

覆い隠していると考えられるのである。

この仏性の作用を「入り込む」という言葉で表現しているのである。

そしてこの仏性の作用は、自分にも内包されているのであり、

他人にも内包されているのである。

しかもこのようでありながら、未だ解脱していないと言ってはならない。

 「どうもまだどっちつかずの、ノロマな男に過ぎません。」

 などと弱音をはいてはいけない。 まして雲居道膺禅師が言っているように、

仮に釈尊の説かれた仏法に関する事項を学び得たということは

すでに誤って心を用いてしまったということに外ならない。」

したがって釈尊が説かれた仏法の半分くらいしか学ぶことができず、

永きにわたって犯して来た誤ちは月日とともに深くなっているかも知れないが、

我々が具有する仏性は犬に入ってきた仏性と同じ働きをしている

と考えることができる。

たとえ「知而故犯」であるかもしれないが、

我々にも仏性は確かに有ると断定して差支えないだろう。


 第21文段の解釈とコメント

趙州禅師にある僧が訊ねた、

一体、犬には仏性があるのでしょうか、ないのでしょうか?」

 この質問は、この僧が趙州禅師をうまくつかまえて問答を仕掛けたものであろう。

このような例から見ると、仏性について議論をしたり、

質問をしたりすることは、仏祖にとっては日常茶飯事のように思われる。

趙州禅師は言った、

」。

この趙州禅師の「」という言葉の意味は、教家の論師などが言う「」ではなく、

説一切有部の論議とも異なる。

したがってここではさらに一歩を進めて、

釈尊の説かれた「(実在)」というものについて学ぶ必要がある。

釈尊の説かれた「(実在)」とは趙州禅師の説かれた「」であり、

趙州禅師の説いた「」とは犬の「」であり、

犬の「」は仏性の有に外ならない。

コメント


ここでは

仏有(仏の実在)」=趙州禅師の「有」=犬の「有」=「仏性」であると

趙州禅師が説いた「有」は「仏性」のことであると結論している。

第20文段で見たように、趙州がいう「犬の仏性」は「無」である。

犬も同じ衆生であるから「犬の仏性」も「仏性」だと考えられるので

「犬の仏性」=「無」=「仏性」だと言える。

脳幹と大脳辺縁系からなる生命情動脳(=下層脳)は無意識脳であるから「」と言って良い。

「仏性」=「無」=生命情動脳(下層脳を中心とする無意識脳)だと考えれば

この文段の考え方はHP「禅と悟り」の結論と一致する。



禅の根本原理と応用を参照)。



そこで僧は言った、

既に有ならば、甚麼としてかまたこの皮袋に撞入する

(すでに犬の「有」としてまた仏性そのものとして、現に存在しているのに、

どうしてさらに犬の皮袋の中にはいり込む必要があるのか)」。

この僧の「すでに犬の「有」として現に存在している。」 という言葉は、

現在における有(今有)を言っているのだろうか、

古来変わらない有(古有)を言っているのであろうか、

すでに確乎とした具体的な有(既有)であるという意味であろうかと問うた場合、

その答は明らかで、既有は、諸有に似ているようではあるが、

既有は、独立独歩の明々白々の存在である。

既有はさらに犬の皮袋に入るべきか、

入る必要がないのかよくよく考えて見るべきである。

犬の皮袋に入るか入らないかという行為の問題を、うかうかと間違えてはならない。

コメント

ここで議論しているような問題は禅の問題というより生物学の問題であろう。

犬の生物学や脳の科学によって明らかにすべきで、

禅文学で議論してもすっきりしないのは当然であろう。


趙州禅師は言った、

犬は既有であるから、さらに犬の皮袋に入る必要はないが

彼(犬)はそのことを充分承知していながら

犬の皮袋に入る誤ちを犯すためである」。

この言葉はそのまま世間に通用する言葉として、

永い間世間に流布して来たところであるが、

今は趙州禅師の言った言葉となっている。

知而故犯(ちにこぼん)とは、知っていながら、

ことさらにその誤ちを犯すという意味である。

これに対して疑問を懐かない人は少ないだろう。

コメント


安谷白雲老師は仏性の作用は「知而故犯(ちにこぼん)」の働きであるとしている。

知而故犯(ちにこぼん)」とは

寒い時には着物を着、腹が減るとご飯を食べ、

咽が渇くと水を飲むことであるとしている(安谷白雲著、正法眼蔵参究「仏性」)。

これも仏性とは脳とその働きであるという考えを支持している。

知而故犯(ちにこぼん)」とは寒い時には寒さを感じて、

暖かい着物を着て寒さをしのぐ。

また腹が減っている時には、空腹を感じてご飯を食べる。

また喉が渇いている時、喉の渇きを感じて水を掬って水を飲むことである。

脳科学の観点に立てばこのような働きをする主体は脳で、

その働き(用)が「知而故犯(ちにこぼん)」である。

脳科学の観点に立つと図23によって説明できる。


図23

図23 仏性と知而故犯の働き


   

   

現に具体的な存在が皮袋に「入る」という一字でさえなかなか理解しがたいが、

実はこの「入る」という一句さえ不用なのである。

まして

自己という庵中にあって不死の命を生き続ける自己の正体(仏性)

を知りたいならば、どうして只今、この皮袋(生身の肉体)を離れることがあろうか

である。

不死の人(仏性)が誰であるか分らないにしても、

不死の人(仏性)でこの生身の肉体を具えていない人、

この生身の肉体を離れている人があるだろうか。

コメント


ここで「庵中不死の人を識らんと欲はば、豈只今のこの皮袋を離れんや

という石頭希遷禅師の「石頭草庵歌」を引用している。

「石頭草庵歌」を読めば分かるように、

石頭希遷は仏性を不死の人と考えていたようである。

道元禅師も同様に仏性を不死の人と述べている。

しかし、仏性の本体である脳は不死ではない。

老いればアルツハイマー病のような病気にも罹るし、死とともにその働きを止める。

仏性は不死ではなく、無常であり人の死とともに働きを止めるとはっきり言うべきではないだろうか。


仏性は不死ではなく、無常で人の死とともに働きを止めてもここでの議論に影響はない。


第10文段において六祖慧能は「無常は即ち仏性なり」と言っている。

まさに仏性は不死ではなく無常である

石頭希遷は六祖慧能のこの言葉を知らなかったのだろうか。

仏性・2の第10文段を参照)。


   

不死の人(仏性)はこの皮袋に常在している。

また故犯は、この皮袋に入るということではなく、

この皮袋に入りこむことが知而故犯ではない。

分別知覚しているからこそ故犯しているのであろう(図23を参照)。


知るべきである。

この知而故犯が、仏性の作用である行住坐臥を

覆い隠していると考えられるのである。

この仏性の作用を「入り込む」という言葉で表現しているのである。

そしてこの仏性の作用は、自分にも内包されているのであり、

他人にも内包されているのである。

しかもこのようでありながら、未だ解脱していないと言ってはならない。

 「どうもまだどっちつかずの、ノロマな男に過ぎません。」

 などと弱音をはいてはいけない。

コメント


我々は皆仏性の知而故犯という働きを内包し、

知而故犯」という仏性三昧の生活をしているから、既に解脱しているのだと述べている。

 それなのに「未だ解脱していない」とか、

どうもまだどっちつかずの、ノロマな男に過ぎません(驢前馬後の漢)。」

などと言ってはならないと述べている。

ここでは「知而故犯」という仏性三昧の生活をしている我々は、

既に解脱している。

ただそのことに気付かないだけだと述べている。

ここでは「知而故犯」という仏性三昧の生活をしている我々は、

既に解脱している」という考え方はここでの重要な結論と言える。

ただその事実に気付かないだけである。

我々は皆「知而故犯」という仏性三昧の生活をしている事実に気付けば、既に解脱しているのだ。


   

まして雲居道膺禅師が言っているように、

仮に釈尊の説かれた仏法に関する事項を学び得たということは

すでに誤って心を用いてしまったということに外ならない。」

コメント


ここで雲居道膺禅師の言葉

たとひ仏法辺事を学得する、はやくこれ錯用心了也

を引用している。

これはたとえ仏法辺の事を学び得ても、

それはすでに心の用い方を間違っているという意味である。

仏法らしいことを頭に描いて行い、

言葉で言ってもそれは既に間違っているという意味である。

仏法らしいのは真の仏法ではなく、仏法の模型や見本のようなものである。

真の仏法は、毎日、寝たり、起きたり、泣いたり、笑ったりする我々の知而故犯の生活にあるのだ。


したがって釈尊が説かれた仏法の半分くらいしか学ぶことができず、

永きにわたって犯して来た誤ちは月日とともに深くなっているかも知れないが、

我々が具有する仏性は犬に入ってきた仏性と同じ働きをしている

と考えることができる。

たとえ「知而故犯」であるかもしれないが、

我々にも仏性は確かに有ると断定して差支えない。



22

 第22文段


原文22


長沙景岑和尚の会に、竺尚書とふ、

虹矧斬れて両段と為る、両頭倶に動く

未審、仏性阿那箇頭にか在る?」

師云、

妄想すること莫れ」。

 書云、

動ずるはいかがせん」。

 師云、

ただ是れ風火の未だ散ぜざるなり」。

いま尚書いはくの「虹矧斬為両段」は。来斬時は一段なりと決定するか。

仏祖の家常に不恁麼なり。

蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて両段にあらず。

一両の道取、まさに功夫参学すべし。

両頭倶動」といふ両頭は、未斬よりさきを一頭とせるか。

仏向上を一頭とせるか。

両頭の語、たとひ尚書の会不会にかかはるべからず、語話をすつることなかれ。

きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。

その勣といふに倶動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり。

未審、仏性在阿那箇頭」。

仏性斬為両段、未審、虹矧在阿那箇頭」といふべし。

この道得は審細にすべし。

両頭倶動、仏性在阿那箇頭」といふは、

倶動ならば仏性の所在に不堪なりといふか。

倶動なれば、動はともに動ずといふとも、

仏性の所在はそのなかにいづれなるべきぞといふか。

師いはく、

莫妄想」。

この宗旨は作麼生なるべきぞ。

妄想することなかれといふなり。

しかあれば両頭倶動するに、妄想なし、

妄想にあらずといふか、ただ仏性は妄想なしといふか。

仏性の論におよばず、両頭の論におよばず、

ただ妄想なしと道取するか、とも参究すべし。

動ずるはいかがせん」といふは、

動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか、

動ずれば仏性にあらざらんと道著するか。

風火来散」といふは、仏性を出現せしむるなるべし。

仏性なりとやせん。風火なりとやせん。

仏性と風火と倶出すといふべからず、一出一不出といふべからず。

風火すなわち仏性といふべからず。

ゆえに長沙は蚯蚓に有仏性といはず、蚯蚓無仏性といはず、

ただ「莫妄想」と道取す、「風火来散」と道取す。

仏性の活計は、長沙の道を卜度すべし。

風火未散といふ言語、しづかに功夫すべし。

未散といふは、いかなる道理かある。

風火のあつまれりけるが、散すべき期いまだしきと道取するに、未散といふか。

しかあるべからざるなり。

風火来散はほとけ法をとく、来散風火は法ほとけをとく。

たとへば一音の法をとく時節到来なり。

説法の一音なり、一音の法なるゆゑに。

また仏性は生のときのみありて死のときはなかるべしとおもふ、

もとも少聞薄解なり。

生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも、有仏性なり、無仏性なり。

風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。

たとひ散のときも仏性有なるべし、仏性無なるべし。

たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。

しかあるを仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、

知不知に性不性なるべきと邪執せるは外道なり。

無始劫来は、癈人おほく識神を認じて仏性とせり、本来人とせる、笑殺人なり。

さらに仏性を道取するに、柁泥滞水なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫なり。

向上に道取するとき、作麼生ならんかこれ仏性。

還委悉麼、三頭八臂。 

正法眼蔵仏性第三

  爾時、仁治二年(1241年)辛丑十月十四日、

在雍州観音導利興聖宝林寺示衆。


注:

長沙景岑和尚: 南泉普願禅師の法嗣、招賢大師という。

初め定住することなく、縁に随って衆僧を教えたが、

後洞庭湖の南の長沙山に住んで教化を行なった。

機鋒俊敏であったため、

時の人がこれを畏敬して岑大虫と呼んだという。伝記不詳。

竺尚書:  長沙景岑禅師の教団にあって参禅した人。伝記不詳。

尚書は官名。秦の時代に始まる。政府にあって文書の発布を司どる役。 

蚯蚓(きゅういん):  みみず。

両段:  二つの部分。

阿那箇:   阿はあの、この。那箇はどの、どれ。

阿那箇はこの中のどれにの意。 

莫妄想: つまらぬことを考えるな。妄想してはならない。

風火:  地水火風の中の二字を取り、

物質的なエネルギーを代表させている。

未散:   まだ消滅していないという意味。 

風火未散: 未だ死んでいないこと。

家常:   家庭における常日頃の意。平常、日常。 

不恁麼: 恁麼は中国宋代における不定・疑問の詞。あれ、それ、

何の意。転じて仏教が追求している真理、いいがたき何物かを指す。

不恁麼はいいがたき何物かからはずれている、真実ではないの意。 

一両:   両は二。一両は一、二。 

仏向上: 悟りを体得した者が、

開悟した後においてもさらに悟りを追求して行く境地。

ここでは最初一つであったものが二つに切れた、

というような相対的な見方をしない立場を指している。 

会不会:  理解しているのと理解していないのと。 

語話: 言葉。言葉は人から理解されているといないとにかかわらず、

言葉そのものが貴重な意味を内包している。 

定動智抜:   涅槃経(巻第二十九獅子吼菩薩品第二十三の五)

の経文「菩薩の定慧もまたまた是の如し

先に定を以て動かし、後智を以て抜く。・・・・」

からの引用。

禅定によって煩悩に動揺を与え、智慧の力によってその根源を断つこと。 

不堪:   堪えずの意。不適当である、適応しない。 

未散風火:  まだ消滅していない生命エネルギー。 

一音: 一つの音声。説法における説法者の音声についていう。

神不神:   神はこころ、たましい。

神不神は精神があるとかないとかということ。

柁泥滞水(たでいたいすい):  泥をかぶり水につかっての意。

ここでは仏性に関し、くどくどと論議することをいう。

委悉(いしつ):  くわしくつまびらかにすること。委細、委曲。

三頭八臂 :   三頭八臂の鬼神、

修羅のように怒り狂っている人の姿でもある。


第22文段の現代語訳



長沙景岑禅師の道場で、竺尚書という弟子が質問した、

みみずが切られて二つの部分に分かれ

しかもその二つの部分がともに動いている

そこで解らないのは、仏性は、一体その二つの部分のどちらにあるのでしょうか?」

  師は言った、

妄想することなかれ。」

竺尚書は言った、

しかし現にそのように動いているのを否定しようもありませんよ」。

師は言った、

それはまだ生命エネルギーが消滅していないからだ。」

  いまこの竺尚書が言った、

みみずが断ち切られて二つの部分に分かれてしまった

という言葉は、まだ断ち切られていない間は

一つのものであったと決めつけているのであろうか。

もしそうだとすれば、それは、仏祖の日常とは合致していない。

みみずは元来一つのものではなく、

またそれが切られたからといって二つの部分に分かれた訳ではない。

この一つとか二つとかという言葉を、まさに充分検討し学ぶべきである。

二つの部分がともに動いている

といっているが、二つの部分とは、

まだ斬らない前を一つと考え斬られた後を二つといっているのであろうか。

一つとか二つとかというような相対的な考え方を超越した仏の立場を

さらに越えた宇宙全体を一つといっているのであろうか。

二つの部分という言葉は、竺尚書がたとえこの言葉の真意を理解していたか、

理解していなかったかに関係なく大切な言葉で、簡単に捨ててはならない。

斬られた二つの部分はこれを一つと考え、

さらにこれを見ている人間の頭がもう一つあるというふうに理解すべきであろうか。

竺尚書は動くという言葉を使う場合に、ともに動くといっている。

涅槃経には「禅定によって動かし、智慧によって抜く」と言う経文がある。

この場合のように、動かし抜かれる煩悩も、

煩悩を動かし抜くところの智慧もともに動くという意味であろう。

そこで解らないのですが、仏性は、その二つの部分のどちらにあるのでしょうか?」

 と。

これは仏性が断ち切られて二つの部分に分かれてしまった。

そこで分からないのだが、みみずは一体、

その二つの部分のどちらにあるのでしょうかということもできる。

この言葉を、詳細に検討して見るがよい。

二つの部分がともに動いている

仏性は、一体その二つの部分のどちらにあるのであろうか?」

ということの意味は、

ともに動いているということは、

仏性の所在の場所として不適当だといっているのであろうか。

ともに動いているというのであるから、

動くことはともに動いているのではあろうが、

仏性はその中にあると考えるのが正しいのであろうか。

その中にないと考えるのが正しいのであろうかという意味であろうか。

師はいった、

莫妄想

この趣旨はどう解すべきであろうか。ただ妄想するなという意味である。

したがって二つの部分がともに動いているのを見ても、

妄想なし、妄想ではないということであろうか、

ただ単に仏性には、妄想はないと言っているのであろうか。

また仏性という間題にも触れず、二つの部分という問題にも触れず、

ただ妄想は入り込む余地がないと主張しているのかとも参究すべきである。

現にこのように動いているのを否定しようもないではありませんか

 とは、

現に動いているという事実の上に、

さらに仏性という余分な概念を一枚かぶせるべきだと主張しているのだろうか、

  それとも現に動いている以上、仏性などではないと主張しているだろうか。

まだ生命エネルギーが消滅していないからだ

とは、生命エネルギーのほかに新たに仏性を出現させたことを意味するであろう。

眼の前に動いているみみずの切れ端を仏性だと見たらよいのだろうか、

物質的な生命エネルギーだと見たらよいのだろうか。

仏性と物質的なエネルギーとが同時に出現しているのだといってはならない.

両者の中の一方だけが出現し、一方は出現していないのだといってはならない.

また物質的な生命エネルギーが仏性だと言ってはならない。

そこで長沙禅師は、みみずに仏性が有るとも無いとも言っていない。

長沙禅師は、ただ「莫妄想」と言い、

まだ物質的な生命エネルギーが消滅していないだけだ」と主張しただけである。

仏性が活きた生活は、この長沙禅師の主張から判断し、推察すべきである。

まだ物質的な生命エネルギーが消滅していないだけだ

という言葉を、しずかに考えて見る必要がある。

まだ「消滅していない」という言葉には、どのような意味があるのであろうか。

物質的なエ生命ネルギーの集合したものが、

消滅すべき時期がまだ来ないということをいうために、

まだ消滅していないといったのであろうか。

そのように解してはならない。

まだ物質的な生命エネルギーが消滅していないだけだ

とは、仏が法を説く状況を形容しているのであり、

まだ消滅していない物質的生命エネルギーとは、

法が仏を説く状況を形容しているのである。

たとえばまだ物質的な生命エネルギーが消滅していないとは、

一つの音声によって、法を説くべき時期がやって来たということである。

まだ消滅していない物質的生命エネルギーとは、

法を説くところの一つの音声が現実に到来した時期をいうのである。

法とは一つの音声である。何故ならば一つの音声は、法に外ならないからである。

また仏性は、生きている時にだけ存在し、

死んでからは存在しないだろうと考えることは、

はなはだ見聞も少なく理解も浅薄である。

生きている時にも、仏性は有り、仏性無しである。

死んでからも、仏性は有り、仏性無しである。

物質的な生命エネルギーが消滅する消滅しないを論議するのであれば、

仏性についても、その消滅するしないを論議すべきであろう。

たとえ消滅した場合でも、仏性有だろうし、仏性無であろう。

しかるに仏性は、動いている時は存在し、

動いていない時は存在しないと考えたり、意識があれば精神が存在し、

意識がなければ精神も存在しないといったり、認識があれば仏性があり、

認識が無ければ仏性がない筈だ、

などと誤った考えに固執することは、外道の考えである。

永遠の過去からこのかた、愚かな人々は多く、

意識の主体である精神を目して仏性としたり、

人間の本質だとしていることは、あまりにも滑稽で、

おかしさのあまり死んでしまいそうである。

なおあまり枝葉末節の論議に拘泥しているべきではないが、

さらに仏性を別の言葉で表現して見ると、土塀であり、瓦であり、小石である。

そしてさらに上に一歩を進めて表現した場合、仏性とは一体何であろうか。

さてこのことが貴方に充分理解できるかどうかは疑問だが、

仏性とは三頭八臂の鬼神、修羅のように怒り狂っている人の姿でもある。

 正法眼蔵仏性

 時に1241年、旧暦十月十四日

山城の国観音導利興聖宝林寺において衆僧に説示した。



第22文段の解釈とコメント



長沙景岑禅師の道場で、竺尚書という弟子が質問した、

みみずが切られて二つの部分に分かれ

しかもその二つの部分がともに動いている

そこで解らないのは、仏性は

一体その二つの部分のどちらにあるのでしょうか?」

  師は言った、

妄想することなかれ。」

竺尚書は言った、

しかし現にそのように動いているのを否定しようもありませんよ」。

師は言った、

それはまだ生命エネルギーが消滅していないからだ。」

  いまこの竺尚書が言った、

みみずが断ち切られて二つの部分に分かれてしまった

という言葉は、まだ断ち切られていない間は

一つのものであったと決めつけているのであろうか。

もしそうだとすれば、それは、仏祖の日常とは合致していない。

みみずは元来一つのものではなく、

またそれが切られたからといって二つの部分に分かれた訳ではない。

この一つとか二つとかという言葉を、まさに充分検討し学ぶべきである。

二つの部分がともに動いている

といっているが、二つの部分とは、

まだ斬らない前を一つと考え斬られた後を二つといっているのであろうか。

一つとか二つとかというような相対的な考え方を超越した仏の立場を

さらに越えた宇宙全体を一つといっているのであろうか。

二つの部分という言葉は、竺尚書がたとえこの言葉の真意を理解していたか、

理解していなかったかに関係なく大切な言葉で、簡単に捨ててはならない。

斬られた二つの部分はこれを一つと考え、

さらにこれを見ている人間の頭がもう一つあるというふうに理解すべきであろうか。


ミミズの仏性の科学的解釈


この文段ではミミズとその仏性についての問答が紹介されている。

長沙景岑禅師の弟子竺尚書が長沙景岑禅師に質問した、

みみずが切られて二つの部分に分かれ

しかもその二つの部分がともに動いている

そこで解らないのは、仏性は

一体その二つの部分のどちらにあるのでしょうか?」 

と質問したのに対し、長沙景岑は

妄想することなかれ。」

と答える。

竺尚書は

しかし現にそのように動いているのを否定しようもありませんよ。」

と食い下がる。

長沙景岑は

それはまだ生命エネルギーが消滅していないからだ。」

と言ってごまかしている。

道元は元来一つのものではなく、

またそれが切られたからといって二つの部分に分かれた訳ではない。

この一つとか二つとかという言葉を、

まさに充分検討し学ぶべきであると述べるがはっきりしない。

この問題は科学(生物学)の知見を導入すれば簡単に解決できる。

ミミズの神経系は原始的なもので次の図でしめすような

はしご形神経系である。

図24.1

図24.1 はしご形神経系


   

この図に見られるように、

神経節は体中に分散しはしご形になっている。

人間の頭部や脊髄のように神経がまとまって

中枢神経を構成する構造になっていない。

政治で言えば、ミミズの神経系は地方分権型である。

このため、みみずは二つに切断されても、

その二つの部分がともに動くことができるのである。

このようなはしご形神経系を考慮にいれると、

みみずが切られて二つの部分に分かれ

しかもその二つの部分がともに動いている

仏性は、一体その二つの部分のどちらにあるのでしょうか?」 

という質問に対しては、

仏性はどちらにもある。」

と答えればよいことが分かる。

しかし、みみずは原始的生物で人間のような発達した脳はない。

みみずのような原始的生物が人間のように仏教や禅を理解することは考えられない。

仏性がないのは自明のことである。

そのような原始的生物に対し

仏性がどこにあるかなどの議論をすること自体が無意味だと考えられる。


質問僧に対し、長沙景岑禅師が

妄想することなかれ。」

と答えたのは的を得た返答だと言えるだろう。



竺尚書は動くという言葉を使う場合に、ともに動くといっている。

涅槃経には「禅定によって動かし、智慧によって抜く」と言う経文がある。


コメント

定動智抜(禅定によって動かし、智慧によって抜く)について:


先以定動後以智抜」という経文は

大乗涅槃経(巻第二十九獅子吼菩薩品第二十三の五)中の経文

菩薩の定慧もまたまた是の如しく

先に定を以て動かし、後智を以て抜く。・・・」

に見える。

先以定動後以智抜」とは 

「先ず「坐禅」の定力によって煩悩に動揺を与え、ぐらぐらにする。

次に「智慧の力」によってその根源を引き抜き断つ」という意味である。 


   

この場合のように、動かし抜かれる煩悩も、

煩悩を動かし抜くところの智慧もともに動くという意味であろう。

そこで解らないのですが

仏性は、その二つの部分のどちらにあるのでしょうか?」

 と。

これは仏性が断ち切られて二つの部分に分かれてしまった。

そこで分からないのだが、みみずは一体、

その二つの部分のどちらにあるのでしょうかということもできる。

この言葉を、詳細に検討して見るがよい。

二つの部分がともに動いている

仏性は、一体その二つの部分のどちらにあるのであろうか?」

ということの意味は、

ともに動いているということは、

仏性の所在の場所として不適当だといっているのであろうか。

ともに動いているというのであるから、

動くことはともに動いているのではあろうが、

仏性はその中にあると考えるのが正しいのであろうか。

その中にないと考えるのが正しいのであろうかという意味であろうか。

師はいった、

莫妄想

この趣旨はどう解すべきであろうか。

ただ妄想するなという意味である。



コメント

   

長沙景岑禅師の言葉「莫妄想」とは

妄想することなかれ」という意味である。

長沙景岑は

みみずの仏性とかくだらないことを妄想するな

と言っていると思われる。

参禅修行者である貴方にとって一番重要なことは

みみずの仏性」ではなく、

貴方自身の仏性」であるはずだ。

貴方自身の仏性」を明らかにするのが

参禅修行の目的なのに

みみずの仏性」がどうだこうだとか、

くだらないことを妄想している。

そんなことを妄想する暇があったら

自分自身の仏性を明らかにすることに集中しなさい

と言っていると思われる。


   

したがって二つの部分がともに動いているのを見ても、

妄想なし、妄想ではないということであろうか、

ただ単に仏性には、妄想はないと言っているのであろうか。

また仏性という間題にも触れず、

二つの部分という問題にも触れず、

ただ妄想は入り込む余地がない と主張しているのかとも参究すべきである。



コメント

   

長沙景岑は

みみずの仏性は禅の本質や目的とは関係ない

くだらぬことを考えるな

と言っていると考えることができる。 


   

現にこのように動いているのを否定しようもないではありませんか

 とは、

現に動いているという事実の上に、

さらに仏性という余分な概念を一枚かぶせるべきだと主張しているのだろうか、

  それとも現に動いている以上、仏性などではないと主張しているだろうか。

まだ生命エネルギーが消滅していないからだ

とは、生命エネルギーのほかに新たに仏性を出現させたことを意味するであろう。

眼の前に動いているみみずの切れ端を仏性だと見たらよいのだろうか、

物質的な生命エネルギーだと見たらよいのだろうか。

仏性と物質的なエネルギーとが同時に出現しているのだといってはならない.

両者の中の一方だけが出現し、一方は出現していないのだといってはならない.

また物質的な生命エネルギーが仏性だと言ってはならない。

そこで長沙禅師は、みみずに仏性が有るとも無いとも言っていない。

長沙禅師は、ただ「莫妄想」と言い、

まだ物質的な生命エネルギーが消滅していないだけだ

と主張しただけである。

仏性が活きた生活は、この長沙禅師の主張から判断し、推察すべきである。

まだ物質的な生命エネルギーが消滅していないだけだ

という言葉を、しずかに考えて見る必要がある。

まだ「消滅していない」という言葉には、どのような意味があるのであろうか。

物質的なエ生命ネルギーの集合したものが、

消滅すべき時期がまだ来ないということをいうために、

まだ消滅していないといったのであろうか。

そのように解してはならない。

まだ物質的な生命エネルギーが消滅していないだけだ

とは、仏が法を説く状況を形容しているのであり、

まだ消滅していない物質的生命エネルギーとは、

法が仏を説く状況を形容しているのである。

たとえばまだ物質的な生命エネルギーが消滅していないとは、

一つの音声によって、法を説くべき時期がやって来たということである。

まだ消滅していない物質的生命エネルギーとは、

法を説くところの一つの音声が現実に到来した時期をいうのである。

法とは一つの音声である。

何故ならば一つの音声は、法に外ならないからである。

また仏性は、生きている時にだけ存在し、

死んでからは存在しないだろうと考えることは、

はなはだ見聞も少なく理解も浅薄である。

生きている時にも、仏性は有り、仏性無しである。

死んでからも、仏性は有り、仏性無しである。

物質的な生命エネルギーが消滅する消滅しないを論議するのであれば、

仏性についても、その消滅するしないを論議すべきであろう。

たとえ消滅した場合でも、仏性有だろうし、仏性無であろう。

しかるに仏性は、動いている時は存在し、

動いていない時は存在しないと考えたり、意識があれば精神が存在し、

意識がなければ精神も存在しないといったり、認識があれば仏性があり、

認識が無ければ仏性がない筈だ、

などと誤った考えに固執することは、外道の考えである。

永遠の過去からこのかた、愚かな人々は多く、

意識の主体である精神を目して仏性としたり、

人間の本質だとしていることは、あまりにも滑稽で、

おかしさのあまり死んでしまいそうである。

なおあまり枝葉末節の論議に拘泥しているべきではないが、

さらに仏性を別の言葉で表現して見ると、土塀であり、瓦であり、小石である。

そしてさらに上に一歩を進めて表現した場合、仏性とは一体何であろうか。

さてこのことが貴方に充分理解できるかどうかは疑問だが、

仏性とは三頭八臂の鬼神、修羅のように怒り狂っている人の姿でもある。


コメント

この文段の最後尾では道元は

仏性とは三頭八臂の鬼神、修羅のように

怒り狂っている人の姿でもある(三頭八臂)。」

と不思議な言葉で結んでいる。

これは次の 図24によって説明することができる。


図24

図24  仏性とは三頭八臂の鬼神

修羅のように怒り狂っている人の姿でもある。


   

三頭八臂の鬼神、修羅のように怒り狂っている人の姿は

仏性の本体である脳の一つの働きと現れである。

道元は

怒りの姿は仏性の働きの表れであり

その姿には仏性そのものが現れている」

と言っているのである。

図24は馬祖禅の<作用即性>の思想によって説明できる。

禅の根本原理と応用を参照)。

参考文献など:



1.道元著 水野弥穂子校註、岩波書店、岩波文庫、「正法眼蔵(一)」1992年

2.安谷白雲著、春秋社、正法眼蔵参究 仏性 1972年

3.西嶋和夫訳著、仏教社、現代語訳正法眼蔵 仏性 第四巻

4.時実利彦著、岩波書店、岩波新書 脳の話 1995年



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