2014年6月1日〜9月30日作成      表示更新:2023年9月26日

密教:その3:空海と真言密教

   
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12.5 密教の修法とその論理



     

12.5-1呪術の原理と二分類


   

人類学者ゼームス・フレイザー(James Frazer, 1851-1941)は、呪術は次の二原理から成り立っていると考えた。


   

第一原理(類似法則):類似は類似を生む。結果は原因に似る。



第二原理(感染法則):かって互いに接触していたものは、物理的接触が止んだ後までも、

なお空間を隔てて相互作用を継続する。


   

この原理に基いて呪術 は「類感呪術(または模倣呪術)」と「感染呪術」に大別される。


 注:

類感呪術(模倣呪術、英: imitative magic)

類似の原理に基づく呪術である。求める結果を模倣する行為により目的を達成しようとする

呪術などがこれに含まれる。

雨乞いのために水をまいたり、太鼓を叩くなどして、自然現象を模倣する形式をとる。

感染呪術(英: contagious magic)

接触の原理に基づく呪術である。狩の獲物の足跡に槍を突き刺すと、その影響が獲物に及んで逃げ足

が鈍るとするような行為や、日本での藁人形に釘を打ち込む呪術などがこれに含まれる。

感染呪術には、類感呪術を含んだものも存在するとフレイザーは述べている。

呪術を行使したい対象が接触していた物や、

爪・髪の毛など身体の一部だった物に対し、類感呪術を施すような場合などである。



12.5-2密教の修法と呪術


   

密教の修法は多種多様なものから成り立っているが、殆どは呪術的観点から説明することができる。




12.5-3

12.5-3古代インドの呪術思想と密教修法


   

長尾雅人と服部正明氏は「インド思想の潮流」という論文において

古代インドの呪術的思想には等置・同一化の論理があると説明している

般若心経を参照)。

古代インドの呪術的論理というのは、観念連合に基いて、二つの事象を等置させ、

その一方を支配することによって、それと等置された他方をも支配したり、

一体化するイメージ瞑想によって、それと一体化できるという考え方である。

この古代インドの呪術思想は、密教や日本の呪術に特徴的なもので、

上述のゼームス・フレイザーの呪術2原理とは異なる。

ここではこれを<等置・一体化呪術>と呼ぶことにしよう。

等置・一体化呪術>を考慮に入れると呪術の三原理を次のようにまとめることができる。




12.5-4

12.5-4呪術の三原理


   

   

第一原理(類似法則):類似は類似を生む。結果は原因に似る。



第二原理(感染法則):かって互いに接触していたものは、物理的接触が止んだ後までも、

なお空間を隔てて相互作用を継続する。


   

第三原理(等置・一体化法則):観念連合に基いて、二つの事象を等置することで、

その一方を支配したり、一体化するイメージ瞑想によって、等置したものと一体化できる。


   

等置・一体化呪術>の呪術思想は我が国の呪術「丑の刻参り」(怨敵を呪い殺す呪術)でも見られる。

大乗仏教その1、3.15−2を参照)。

「丑の刻参り」という呪術では藁人形は怨敵と等置される。

藁人形を支配すれば藁人形と等置された怨敵をも支配できると信じられたのである。

即ち、藁人形を釘で刺せば、同様な、物理的打撃を怨敵に与えることができる

と信じられたのである。

密教の修法は多種多様なものであるが、殆どは呪術的観点から説明することができる。

以下に修法の実例を取り上げながら議論を進めたい。




12.5-5 虚空蔵求聞持法


   

   

虚空蔵菩薩を本尊にして心身を清く保ち、真言を百萬遍誦することにより、

一切の経文を暗記し理解することができ、

宇宙に遍満する仏の智恵を一身に体得することができるとする秘法である。

空海は19才の時、ある僧から「虚空蔵求聞持法」を授けられた。

四国の大龍の岳や室戸岬などでこれを幾度となく修行したと伝えられる。

この修行により空海は宇宙の大生命に触れ、後の真言宗の教義を展開する基礎となったとされている。

「虚空蔵求聞持法」とは次のようなものである。

「まず白い絹布に満月(円)を描き、その中に虚空蔵菩薩の像を描く。

この画像を山の頂や樹の下など清浄な場所を選んで西向きに安置する。

その時香木で壇を作り、香華や食物を供える。修法に際し、行者は、

画像の前で礼拝し、虚空蔵の陀羅尼を誦し、浄水を壇上にふりかけ、虚空蔵菩薩を招き寄せる。

目を閉じ、息をつめ、陀羅尼を唱えながら、全てが金色に輝き、

唱える真言の文字が画像の満月の中から飛び出して自分の頭頂にそそぎ、

また口から出て菩薩のもとに帰って行く様を一心に観想する。

これによって、虚空蔵菩薩と行者が一体となる「三密瑜伽の境」が達成される。

また日蝕や月食の時、蘇(チーズ)を用意して、この陀羅尼を唱えながら攪拌すると、蘇は神薬となると言われる。

またこれを食べると、一度読んだ経文は絶対忘れなくなる。




12.5-5-1 呪術的観点からの解釈と分析


   

       

修法内容について:


@

白い絹布に満月(円)を描き、その中に虚空蔵菩薩の像を描く。

   

解釈:

絹布に描かれた満月(円)中に描かれた虚空蔵菩薩の像を満月中にいる本当の虚空蔵菩薩と同置する。

これは虚空蔵菩薩に働きかけるための呪術的修法の準備的手段である。


A

この画像を清浄な場所に香木で作られた壇上に、西向きに安置し、香華や食物を供える。

   

解釈:

白い絹布に描かれた虚空蔵菩薩の像は本物の虚空蔵菩薩であると見なし、 

清浄な場所に香木で作られた壇上に、西向きに安置し、

香華や食物を供えることで虚空蔵菩薩を恭しく迎え、もてなしている。


B

行者は、画像の前で礼拝し、

虚空蔵の陀羅尼(ノウボウ アキャシャギャラバヤ オンアリ キャマリ ボリ ソワカ

を誦し、浄水を壇上にふりかけ、虚空蔵菩薩を招き寄せる。

目を閉じ、息をつめ、陀羅尼を唱えながら、全てが金色に輝き、

唱える真言の文字が画像の満月の中から飛び出して自分の頭頂にそそぎ、

また口から出て菩薩のもとに帰って行く様を一心に観想する。

   

解釈:

虚空蔵の陀羅尼を誦し、イメージ瞑想をすることによって、

虚空蔵菩薩と行者が一体となる「三密瑜伽の境」が達成される。


 注:

虚空蔵の陀羅尼(真言)(ノウボウ アキャシャギャラバヤ オンアリ キャマリ ボリ ソワカ)とその意味:

ノウボウ アキャシャギャラバヤ=(虚空蔵に帰依し奉る)

オンアリ キャマリ ボリソワカ=(花飾りをつけ、蓮華の冠をつけた人に幸いあれ)

   

虚空蔵求聞持法の全体解釈:

   

行者は虚空蔵菩薩の画像の前で礼拝し、虚空蔵の陀羅尼を誦し、浄水を壇上にふりかけ、

虚空蔵菩薩を招き寄せる。

次に目を閉じ、息をつめ、陀羅尼を唱えながら、全てが金色に輝き、

唱える真言の文字が画像の満月の中から飛び出して自分の頭頂にそそぎ、

また口から出て菩薩のもとに帰って行く様を一心に観想する。

ここでは実際に行う呪術の内容が説明されている。

行者は虚空蔵の陀羅尼を唱え全てが金色に輝き、唱える真言の文字が画像の満月の中から

飛び出して自分の頭頂にそそぎ、また口から出て菩薩のもとに帰って行く様を一心に観想することから、

イメージ瞑想を組み合わせた呪術であることが分かる。

このイメージ瞑想を組み合わせた呪術によって、

虚空蔵菩薩と行者が一体となる「三密瑜伽の境」が達成されるとしている。

この呪術によって虚空蔵菩薩と行者が一体となり、行者は虚空蔵菩薩に変身するとされる。

行者が本当に虚空蔵菩薩に変身すれば当然記憶力も増大する可能性があるかも知れない。

しかし、本当に虚空蔵菩薩に変身しているかどうを客観的に確認したり実証されることはない。

この変身は単なる思い込みや自己催眠の可能性もあるだろう。

また、「虚空蔵求聞持法」の修行によって、記憶力がどれくらい増大しているかどうを客観的に確認・実証されることはない。

記憶を担当する脳の海馬が肥大したり、そこのニューロン数が増大する可能性もあるかも知れないがそのような報告などはない。

   

厳しい大荒行としての「虚空蔵求聞持法」

   

「虚空蔵求聞持法」の修行期間中には行者は穀物だけを食べて、

特殊な印を組んだままマントラを一日に一万回、

100日間で100万回(または一日に2万回、50日間で一万回)を唱えなければならないとされている。

「虚空蔵求聞持法」の修行は決して生易しいものではなく、厳しい大荒行であることが分かる。

   

「虚空蔵求聞持法」の副次物的効果

   

日蝕や月食の時、蘇(チーズ)を用意して、この陀羅尼を唱えながら攪拌すると、

蘇は神薬となる。これを食べると、一度読んだ経文は絶対忘れなくなるという。

一度読んだ経文は絶対忘れなくなるという効果は「虚空蔵求聞持法」の副産物的効果と言えるだろう。

   

「虚空蔵求聞持法」の主目的とは?

   

Bの「三密瑜伽の境地」が達成されると虚空蔵菩薩と行者が一体となり、

虚空蔵菩薩に変身する。これこそが「虚空蔵求聞持法」の主目的ではないだろうか?

ここにはインド伝統の<等置・一体化の呪術原理>が使われている。

   

結論

   

以上の考察より「虚空蔵求聞持法」の主目的は虚空蔵菩薩と行者が一体となり、

虚空蔵菩薩に変身する「三密瑜伽の境地」の達成にある。

行者が虚空蔵菩薩に変身すれば当然記憶力も増大する。

一度読んだ経文は絶対忘れなくなるという記憶力増強効果は「虚空蔵求聞持法」

の副産物的効果と考えることができる。

修行の期間中には行者は穀物だけを食べて、特殊な印を組んだままマントラを一日に一万回、

100日間で100万回(または一日に2万回、50日間で一万回)を唱えるという

厳しい大荒行にいどまなければならない。

この荒行によって行者は虚空蔵菩薩に変身する。

一度読んだ経文は絶対忘れなくなるとされるのはこの虚空蔵菩薩への変身によって達成される。

   

問題点

   

上述の分析を読めば分かるように、「虚空蔵求聞持法」は

等置・一体化の呪術原理>(or類感呪術)に基づいた呪術である。

この修業によって行者は虚空蔵菩薩に変身し、記憶力も増強されるというが、

実際に、行者は虚空蔵菩薩に変身し、記憶力も増強されるという検証や保証はどこにもない。

その証明がない限り単なる思い込みやz自己催眠であろう。

多くの密教の修法はこのような呪術原理に基づいている。

このような呪術性は科学とは無縁のものであり、が密教的修法の問題点であろう。

上述の分析と解釈から分かるように、

虚空蔵求聞持法」は呪術的思想の論理から合理的に説明することができる。

次の表7に虚空蔵求聞持法とハリー・ポッターの魔法を比較する。

密教の流れ

表7 虚空蔵求聞持法とハリー・ポッターの魔法との比較



虚空蔵求聞持法」はハリ・ポッターの魔法と本質的に同じ呪術(魔術)である。

ただハリ・ポッターの魔法より複雑で、修法壇を設け虚空蔵菩薩の画像を懸け、

浄水を壇上にふりかけ、虚空蔵菩薩を招き寄せる。丁寧な呪法の準備をしていること、

虚空蔵の陀羅尼(真言)を何万回も繰り返し誦し、密教特有の三密加持の祈祷をするところに特徴がある。 




12.6

12.6 加持と三密加持


   

   

加持とは、一般には、如来の不可思議力によって衆生を加護することをいう。

サンスクリットのアディシュターナの訳で、

もともとは諸仏がその不思議な力で衆生を加護することが本来の意味だったようである。

ところが、空海は著書『即身成仏義』において、

加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と曰い

行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。」と述べている

太陽の光のような仏の不思議な加護力・慈悲が、人々の心の水に映じ現れるのを「」といい、

修行者の心の水が、その仏の日を感じ取ることを「」と名づけているのである。

空海は「加持」という二字語を「加」と「持」に分けて拡張解釈的な説明していると言えるだろう。

空海は如来の不思議な加護力・大悲が信者の心の鏡に写り現れるのを「加」と言い、

信者の如来の不思議な加護力・大悲を信者の心が受けて感じるのを持と名づけるのである。

「加持」に対する空海の解釈を図12aに示す。

図12a

図12a 加持(アディシュターナ)



加持の元々の意味は如来が衆生(信者)を加護するという上から下へのベクトル(図の左側)だった。

しかし、空海は、著書『即身成仏義』において、衆生(信者)が如来の不思議な加護力・大悲を

心で受けて感じる下から上へのベクトル(図の右側)を付け加えることで、

その意味を拡張した。

空海は 「加持」という二字語を「加」と「持」に分けて解釈することで「加持」

の意味を拡張解釈したと考えることができる。

衆生(信者)は一心に祈ることで、仏の加護や慈悲の力が衆生に加わる(上から下へのベクトル)。

その時に、如来の不思議な加護力・大悲を衆生(信者)は受けるだけでなく、

心が受けて感じる感応道交を「持」と名づけたのである(下からから上へのベクトル)。

空海は仏と衆生が一方向的に交わるだけでなく双方向的に交わることを

強調したかったのではないだろうか。

このように、「加持」を「加」と「持」に分けて解釈するのは、空海の独創的な説明である。

真言密教では空海のこの解釈が定着している。



真言密教の修行を「三密」の行と言う。

仏教では、生命現象はすべて身(身体)、口(言葉)、意(心)という

三つのはたらきで成り立っていると考える。

顕教では、人間のこの三つの働きは、煩悩に覆われ汚れていると考え、三業(ごう)と言う。

ところが密教では、法身である大日如来を宇宙の根源的な生命力とみなし、

森羅万象は大日如来の現れだと説く。

密教では、

人間の身、口、意の三業も大日如来の現れであり、人間も大日如来であると考える。

ただ、大日如来のはたらきは通常の人間の思考では計り知れない、

密なるものという意味で「三密(さんみつ)」と呼んでいる。

行者の功徳力と如来の加持力と法界力の三力によって、

我々の行為(身)と言葉(口)と心(意)の三つが仏の境地と合一することを三密加持という。

すなわち、行者が手に仏の印契(いんげい)を結び(身密)、

仏の真言(しんごん)を一心に唱えれば(口密)、

心が仏の境地と同じように高められる(意密)とするのである。

この身密、口密、意密の三密によってこの身のまま仏になる(即身成仏する)と説くのである(後述)。

加持は、一般には祈祷(きとう)の意に用いられ、加持祈祷と並称される。

祈祷は仏力を信者に受持させるものと考えられる。病人加持(病気治癒)、

井戸加持(井戸水の清め)、帯(おび)加持(安産の祈祷)など災いを除くために

仏の加護を祈る作法として用いられる。

しかし、加持の本質的意義は三密加持を通した即身成仏にあると考えられる。


密教では、行者が手に仏の印契(いんげい)を結び(身密)、仏の真言を唱え(口密)、

心が仏の境地と同じように高められれば(意密(いみつ)、

この身のままで仏になれる(即身成仏する)と説く。

三密加持は、

   

1.信者の功徳力(一心に祈る力)

2.如来の加持力(仏の加護)

3.法界力(統合力)

   

の三力によって三密加持が成就すると考えられている。

   

その時、心が仏の境地と同じように高められれば意密(いみつ)、

入我我入(仏が我が身に入り、我が仏と一体化)し

この身のままで仏になる(即身成仏)とされるのである。

入我我入とは仏の不可思議な力が自分に入り、仏と一体になるという意味である。

しかし、入我我入の不思議な力によって、仏と一体になると言う考え方は

インド伝統の「等置・一体化の呪術的思想」だと考えることもできるだろう。

しかし入我我入の修行によって、本当に仏と一体化している(仏になった)という客観的保証はどこにもない。



それは等置・一体化の呪術や自己催眠に過ぎないではないかと言われても反論できないだろう。

三密加持と即身成仏の考え方を次の図13に示す。

図12a

図13 三密加持による即身成仏 



キリスト教でも神の加護ということをよく言う。神の加護という考え方は<加持>という考え方に近い。

しかし、神の加護では神から信者への働きかけという上からの一方通行の意味が強い。

これに対し、<加持>という概念には仏からの働きかけだけでなく行者からの働きかけ(感応道交)

があるので双方向的と言える。

既に述べたように、このような加持の概念は、空海の独創的な説明と言える。


「三力偈」について

図13と関係するものに「三力偈」というものが知られている。

三力偈」は真言宗の僧侶が毎日、お唱える偈文として知られる。

次のような偈文である。


以我功徳力  いがくどくりき

如来加持力 にょらいかじりき

及以法界力 ぎゅういほうかいりき

普供養而住 ふくようにじゅう


以我功徳力とは、自分が最大限努力し、功徳を積むこと(自力)。

如来加持力とは、如来である御仏が加護を与えてくれる(他力)。

法界力とは、場所や、環境、条件などの力(統合力)。

この三つの力により、物事の停滞が打破され、信者の祈り(願い)は成就する。

と説明されている。


   


12.6-1

12.6-1 三密加持と呪術


   

   

図12aに示したように、密教行者が手に仏の印契(いんげい)を結び(身密)、

仏の真言を唱える三密加持は仏と感応道交し、つながるための手段だと考えられる。

しかし、三密加持という手段によって自分の心を自由に操り仏の境地に合致させ即身成仏

することができると考えるのは思想であり、科学ではない。単なる宗教思想である。

身密、口密、意密の三密加持によって、心が仏の境地と同じように高められ、

この身のままで仏になれる即身成仏の保証はどこにもない。

科学的視点で考えると三密加持という手段によって即身成仏できたという実験的証明が必要である。

その客観的証明がない限り図13を描いても信じることはできない。  

その上、密教では三密加持による即身成仏のプロセスやメカニズムははっきりしていない。

また、その科学的な検証や証明はないのである。

実際に、空海自身も「私は三密加持によって即身成仏した!」とはっきり宣言していない。

また、空海の死後1、000年以上経つのに、

空海の後継者達(真言宗の高僧達)も「私は三密加持によって即身成仏した!」と

はっきり宣言したのを聞かない。

これでは、空海の三密加持による即身成仏理論は未だ呪術的段階で未完成だと言わざるを得ない



高野山で空海は今でも死んだのではなく「入定」していると言われる。

仏教では「入定」とは坐禅して禅定(精神集中状態=三昧)に入ることを意味する。

入定したら一定時間後に出定する。筆者も毎日、坐禅するから入定と出定を繰り返しているが、

即身成仏していると思わない。単なる禅定修行である。

空海の場合、高野山で永遠の瞑想に入っていると言われる。

瞑想に入っているのならば、起こして「空海さま、どうか、説法をお願い致します

とお願いすることもできるはずである。

しかし、誰も空海を起こして説法をお願いすることをしない。

永遠の瞑想とは入滅(遷化、死亡)だとわかっているからではないだろうか?

図13を見ても即身成仏のプロセスやメカニズムはハッキリしない。

それをハッキリさせない限り、

三密加持による「即身成仏理論」は等置・一体化呪術(or感染呪術)であり、自己催眠や思い込みの状態ではないだろうか?




12.6-2

12.6-2 入我我入観


   

   

密教では本尊の結ぶ印契を身に結び,本尊の誦す真言を口に誦し,

本尊の念ずる観念をこらすことによって感応道交し一体となるという。

その際,本尊が我が身に入り,我が本尊の身に入り、

一体無二無別と観ずる入我我入観が説かれる。

密教と顕教の根本的な違いは修法にある。

真言密教の修法は三密加持(さんみつかじ)とか三密瑜伽(さんみつゆが)などと言われる。

三密加持」は精神を一点に集中する瞑想(三摩地、さんまじ=三昧)のことである。

その特徴は、仏(本尊)の身、口、意の秘密のはたらき(三密)と行者の身、口、意のはたらきが

互いに感応(三密加持)すると、仏(本尊)と行者の区別が消えて一体融合するというイメージ瞑想にある。

空海は、この状態を「仏が我に入り我が仏に入る」、

という意味で「入我我入(にゅうががにゅう)」と呼んでいる。

入我我入(にゅうががにゅう)」観も等置・一体化呪術と考えて良いだろう。




12.7 六法・十八道の行法体系


   

   

十八道は密教の基本的修行方法である。

十八道は、インドにおける最高のお客様(諸尊)をもてなす方法に準じて生まれたものと言われる。

我々が大切なお客様(諸尊)を迎えるとき、どのように、迎えもてなせばよいだろうか・・・? 

部屋をきれいに飾り付けたり、迎えの車を出したりする。警備をすることもある。

このように、十八道は古代インドにおける最高のお客様をもてなす方法

に準じて生まれた主賓(諸尊)を迎えもてなす方法とされる。

密教では十八道によって客(諸尊)を招き入れた後、

護摩修法などによって目的(希願)を達成すると考えれば良いだろう。

十八道は、いずれも印と真言の組み合わせによって表すので、十八契印と呼ばれる。

十八契印によって行われる供養が十八道である。

密教の色々な修行方法の内で、十八道は基礎的な修行とされる。 

東密(真言密教)は金剛界と胎蔵界の二本立てであるが、

台密(天台密教)では蘇悉地部(そしつじぶ)を加えた三本立てである。

主賓として招く仏様(諸尊)は大日如来、不動明王、降三世明王、如意輪観音、曼荼羅などである。

十八道を要約したものが六法であり、

六法を詳しく細別したものを十八道法という関係になる。

六法と十八道の内容と対応関係を次の表8に示す。

表8

表8 六法と十八道の対応関係



   

12.7-1 密教の基本的修行:四度加行


   

   

密教の基本的修行に、「四度加行(しど-けぎょう)」がある。

真言密教の最高の秘法を受ける儀式である伝法灌頂(でんぽうかんじょう)に入壇する前提となる。

   

1.十八道(じゅうはちどう)行法

2.金剛界(こんごうかい)行法

3.胎蔵界(たいぞうかい)行法

     

4.護摩(ごま)行法

   

以上の四種で構成されているので四度加行と呼ばれる。

これは空海が師の恵果阿闍梨(けいか-あじゃり)の教えに従って定めたものである。

真言宗では、四度加行を修め、伝法灌頂と呼ばれる儀式を 受けて、

阿闍梨(あじゃり、弟子たちの規範となり、法を教授する僧侶)になる。

   

 注:

   

伝法灌頂について:

伝法灌頂は、阿闍梨という指導者の位を授ける儀式である。

灌頂(かんじょう)とは、主に密教で行う、頭頂に水を灌いで緒仏や曼荼羅と縁を結び、

種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のことをいう。

灌頂は、元々は天竺といわれたインドで王の即位や立太子での風習である。



   

12.7-2 護摩法


   

   

四度加行の1つに有名な護摩(ごま)行法がある

護摩とは、サンスクリットのホーマを音訳して書き写した語である。

もともとインドでは紀元前2000年ごろにできたヴェーダ聖典に出ているバラモン教の儀礼で、

紀元前後5世紀ごろに仏教に取り入れられたという。

護摩の炉に細く切った薪木を入れて燃やし、炉中に種々の供物を投げ入れ、

火の神が煙とともに供物を天上に運び、

天の恩寵にあずかろうとする素朴な信仰から生まれたものである。

火の中を清浄の場として仏を観想する。

世俗的な願望の成就を目的とした初期の護摩は、いくつかの段階を経て発達し、

出世間法では悉地(密教の修行 によって完成された境地)を求めるようになった。

更に単独行で念誦法によって悉地を成就できない時は、

進んで護摩法を修することにより、希願を成就し得るという。

 図14

 図14 護摩の火



   

   

12.7-2-1 護摩法とヴェーダ祭祀


   

   

初期大乗仏教において、ヒンズー教の多神教的世界を取りいれ、

インドの神々(インドラ神、明王、弁才天、四天王など)を仏教化していった。

毘盧舎那仏と不動明王・シヴァ神の深い関係は既に見たところである。

それとともにヒンズー教の儀礼を採り入れた。それが密教である。

仏教の開祖ゴータマ・ブッダは

バラモン教の儀礼や神呪を否定し、神々に祈ることはなかった

ことは良く知られている。



密教では護摩法がよく行われる。

ウェーダの祭祀の中心は火(アグニ)であり、火を祀る火壇である。

バラモン教では火を人間と神の媒介者、祈りと祝福の使者として崇め、

火壇に献供を投じてホーマー(護摩)の儀式を行った。

これが密教に取り入れられて「護摩法」になったと考えられる。

密教の護摩法とヴェーダの火壇の関係を図15に示す。

図15

図15 密教の護摩法はヴェーダの火壇を取り入れたのか?



密教では火を智慧、薪を煩悩に喩えるのである。

ブッダは「火は神ではない愚者に幸福は来ない」。

としてこのような儀礼を禁止した。

死の直前、ブッダは「自分には秘密の教えはない。全て説き明かした」と言っている。

(マハー・パリニッバーナ経「ブッダ最後の旅」)。

ブッダは成道後、ヴェーダ聖典を読誦し火神を祀る事火外道

(ウルヴェーラ・カッサパなどを師とする500人)を仏教に改宗させた。

彼等はブッダに帰依し仏教教団に入信したことはよく知られている。

この時、ブッダは火神を祀る事火外道を呪術として否定し彼等の入団を許したのである。

しかし、

それから1000年も経つと、ブッダの合理的精神と仏教の歴史は忘れ去られた。



ゴータマ・ブッダの原仏教は大きく変化し、呪術化し、裏切られたと言えるだろう。

その結果うっまれたのが密教と言えるのではないだろうか?

護摩法については、中村元博士が体験した興味深いエピソードがある。

ある時、中村元博士はインド大使館の文化情報部長(バラモン出身)を、

成田山新勝寺の護摩儀式に連れて行った。

 護摩の儀式を見たインド大使館の文化情報部長は思わず 

    「日本にはヒンドゥーの儀式が生きている!!」と感嘆したとのことである。

このエピソードは

密教には、仏教以前のバラモン=ヒンドゥー教の儀式が取り入れられている

ことを示している。



   

   
図15a

図15a 護摩壇



   

   

12.7-2-2 二種の護摩:外護摩と内護摩


   

   

護摩には外護摩と内護摩がある。

内護摩とは自分自身を壇にみたて、仏の智慧の火で自分の心の中にある煩悩や業に火をつけ、

焼き払う護摩。理護摩,内護摩(ないごま)という。

外護摩とは護摩壇に火を点じ、火中に供物を投じ、

ついで護摩木を投じて祈願する護摩。事護摩、外護摩(げごま)とも言う。

内護摩(ないごま)は瞑想の中で行う観想的護摩とされる。

心の中で悟りの炎を燃やすため、特に護摩壇を作らず、供物も用いない。

観想による護摩の炎により自身を浄化して行く心的作業である。

如来の智火をもって、多くの煩悩や妄想を焼き尽くすと深い内心をもつとされ、理護摩とも言われる。


   

   

12.7-2-3 野外での護摩法


   

   

修験道で野外において修される伝統的な護摩法要を、柴燈・採燈(灯)(さいとう)護摩という。

日本の伝統的な二大修験道流派である真言系当山派では、

山中では正式な密教法具などの荘厳用品も簡単に調達できない。

そのため山中の柴や薪を利用して修法檀を築き、「柴燈」と称した。

一方、同じく伝統流派である天台系の本山派では、

真言系当山派の柴燈から採火して護摩を修するようになったため「採燈」と称した。

採燈護摩」は修験道の大掛かりな野外での火祭りとして全国各地に残っている。

   

 注:

   

火生三昧について:

野外での柴燈・採燈(灯)(さいとう)護摩の後、山伏が素足で炎の上を歩く。

これが山伏の「火渡り」で「火生三昧」とも呼ばれる。

規模の格差はあるが全国各地で近来盛んに修される宗教行事の一つである。

山伏の修行する「火生修行」は常に彼等の帰依し恭敬する

不動明王信仰」の菩提心の表れとされる。

火生三昧(火渡り修行)では、 護摩のおき火(炭火)の上を歩いて渡り、

心身を清めて、 その年の無病息災を祈願する。


   

   

12.7-2-4四種護摩法


   

   

外護摩法には主として、.息災(そくさい)法、.増益(ぞうやく)法、

.敬愛(きょうあい)法、

.降伏(ごうぶく)法の4種類がある。

     

@「息災」護摩:

息災を求めー切鬼神を除き、聡明長寿を欲し、解脱を求める祈祷法。

A「増益」護摩:

単に災害を除くだけではなく、積極的に幸福を倍増させる。

長寿延命、福徳繁栄など世間的な幸福を増進させる祈祷法。

B「敬愛」護摩: 

調伏とは逆に、他を敬い愛する平和円満を祈る祈祷法。

     

C「降伏」護摩:

怨敵、魔障を調伏降伏させるための祈祷法。

これらの他に、

     

D鉤召法: 

諸尊・善神・自分の愛する者を召し集めるための祈祷法。

の護摩法がある。

   

現在よく行われている護摩は、「息災」と「増益」の護摩法である。


   

   

12.7-2-5護摩炉の種類


   

   

各種護摩修法に用いる護摩炉(護摩木をたく火炉)は修法に応じてその形も変わる。

各種護摩修法の種類によって四角形や三角形、八角形、円形に分かれている。

図16

図16 各種護摩修法に用いる護摩炉



   
   

   

12.7-3 各種護摩法の実際


   

       

@ 息災法:

息災法では、北に向かって白い円形の壇とか護摩炉を設け、始める時刻は日没後。

修行者は白い衣と袈裟を着るのが正式とされている。

 息災法の修法の時には息災炉と息災曼荼羅を用いる。

行者は、自分の身体は法界にひろがり、白色の円壇となると心にイメージする。

自分の身体は一法界である。自分の口は炉(息災炉)の口となり、

我が身は大日如来となって毛孔より乳雨を注いで法界に広がって至らないところはない、

大智光を放って、我が業煩悩を消除する。また某甲(だれがし)のために、

その為すところの悪事を除滅して、自他平等の法理をこうむり、大涅槃を獲得せんと、

それより真言、オン、サバハ、ハナカナ、バサラヤを誦す。

次に四摂菩薩の真言と印を結誦する。次に護摩を焚き、某甲(だれがし)のために、

その為すところの悪事を消除す、ソワカ(成就)と唱えて終了する。

A増益法:

増益法(ぞうやくほう)は世間的な幸福や修行上の徳を増進させる。

単に災害を除くだけではなく、積極的に幸福を倍増させる。

福徳繁栄を主目的とし、長寿延命、和合(縁結び)もその対象であった。

増益法の修法の時には増益炉と増益曼荼羅を用いる。

A-1. 福徳を祈祷する場合:

行者は、自分の身体は法界にひろがり、黄色の円壇となると心にイメージする。

また自分の身体は降三世明王に変身し喜びが満ちている、口は炉(増益炉)の口となり、

身体は如意宝珠となって七宝および種々の財物を雨降らし院内(お寺)

と法界に満ちているとイメージしながら祈祷する。

A-2. 官位俸給を求める場合:

行者は、国王大臣が某甲(だれがし)を愛念して官位俸給を与えると心にイメージし、

彼のために諸仏菩薩は力を加え願いを叶えてくれると観じながら祈祷する。

A-3. 智慧を求める場合:

自分の心の智慧が日輪より光明を出現して法界を照らし輝くと観じ

降三世明王の真言

オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・ハッタ

を唱えながら祈祷する。

B敬愛法:  

敬愛法とは、他を敬い愛する平和円満を祈る法である。

一般の人から尊敬され親愛され、社会的信用を高め、和合円満を祈る祈祷。

     

敬愛法の代表例の一つに 次に見る愛染護摩法がある。

     

C愛染護摩法:

     

愛染護摩法(=愛染法)は日本には平安初期に伝えられ、広く信仰を集め、盛んに行なわれた。

縁結びの愛染明王を本尊にして修する密教の修法である。

恋愛成就を愛染明王にお願いする修法の概略は次のようである。

@  まず、恋愛成就ですので敬愛法の壇を不燃性のものに描く。

A  その上にコンロを載せて、炎を出す。

B  愛染明王の姿を思い描く。

C  手に印を結ぶ。

D  口に愛染明王の真言

オン マカラキャ バゾロウンシュニシャ バザラサトバ ジャク ウン バン コク)を唱える。

真言の意味:オーム・大愛染 金剛 最勝尊よ、金剛薩タよ、弱吽鑁斛。

E 真言を唱えながら、相手の名前と恋愛成就の祈りを書いた紙を燃す。

F 燃しながら真言を何度も唱える。

これで終わり。

修法は、恋愛相手の名前と恋愛成就の祈りを書いた紙を燃やし、祈りの目的(恋愛成就)

に応じた神仏(愛染明王)を心に思い描く。

次に、口にその真言を唱えながら、

相手の名前と恋愛成就の祈りを書いた紙を燃やし、手に印を結ぶ(三密加持をする)。

これは恋愛相手の名前と恋愛成就の祈りを書いた紙を燃やすことで恋愛成就を

愛染明王に祈り、真言を唱えながら、手に印を結ぶ(三密加持をする)

ことで恋愛を成就させる等置・一体化呪術(or類感呪術)である。

     

D 摩醯首羅天の男女招呼秘法: 

     

この法は単独に修法されることはないが、男女招呼、特に女性を得たい場合に用いれば

大きな効果があるとされる。

もし、女性を得たい時には、

.7日間絶食する。

.毎日摩醯首羅天の印を結び、真言(オン、マケイ、シバラヤ、ソワカ)を誦す。

.印の中指に蜂蜜を塗り、求める女性の名字を言って、「すぐに来い!」と唱える。

そのような修法をすれば求める女性は第7日目に修法者の家の門を打って訪ねて来る。

本修法は愛染法と似た修法であり、女性を得たい場合に修する<等置・同一化呪術>である。



 注:

摩醯首羅天(まけいしゅらてん):ヒンズー教の最高神格であるシバ神

が仏教にとり入れられて仏教の護法神となったもの。

     

E 降伏法護摩 

     

国家の安寧を害し社会の平和を乱し、人生の幸福を傷つける悪人を降伏退散せしめる為に行う祈祷。

降伏法に関しては、念誦法よりも護摩修法の方が、

功徳多く力用強いという説が大勢を占めているようである。

調伏法によって怨敵からの災難を打破したり自己および他人の煩悩を打破ることができるとされる。

降伏法は破壊法、あるいは折伏(しゃくぶく)法とも云う。

降伏法は怨敵、魔障を除去する修法である。悪行をおさえることが目的であるから、

他の修法よりすぐれた阿闍梨が行った方が効果的だと言われる。

調伏法は、己や他人の煩悩を打ち消すものでもあり、憑きものを除去したり防護したりする。

「九字」は護身第一のもので、邪なものから身を守りそれを退散させるという意味では調伏法に入る。

調伏法の基本は護摩法で、忿怒な面相の五大明王を崇拝の対象とする

五壇法」というのがその代表である。

調伏法は障害もあるのであまり行われないようである。

修験道では密教調伏法の他に「九字法」「金縛法」「摩利支天鞭法」「封じ込法」などがある。

修験道でも、坐禅を組むように自らの心身を固め、人々に敵意を持つものを降伏させる。



 注:



[九字法]

いわゆる「九字」の印契を結び「九字」を切る時の方法である。山岳修験道の修法では、

「九字の大事」や「六甲秘呪」などとも云われる。

九字とは手刀で空間を「臨兵闘者皆陣烈在前(りんぴょうとうしゃかいじんれつざい)」

の掛け声ともに縦横に切り九字の真言を唱えつつ素早く九字の印を作り

神聖な波動を送り邪気を払う破邪護身の呪術である

小説や映画では忍者が九字の真言を唱えつつ素早く印を作り「九字」を切るので知られる。



[金縛法]

 代表的なものは「不動金縛りの法」で、印や呪いにより悪霊を金縛りにする呪法。

五大明王を崇拝対象とし、不動明王と同化し、三十六童子、八大童子に悪霊を絡め取らせる。

不動金縛りの法」は次のような呪法である。

     

F 不動金縛りの法 


1.

まず九字の刀印で空中に九字を切り場を清め霊の動きを弱める。

(九字を切り場を清め霊の動きを弱める。不動金縛りの法の準備をする)。

2.

次に内縛印を結び不動明王の中呪を唱える。

3.

剣印を結び真言「オン・キリキリ」と唱えすぐに刀印に結び変え再び真言「オン・キリキリ」と唱える。

次に転法輪印を結び中呪を唱える。

4.

外五鈷印を結び大呪を唱える。

5.

諸天救勅印を結び真言「オン・キリウン・キャクウン」と唱える。

6.

最後に外縛印を結び中呪を唱えて不動金縛りの法が完成する。

   

解釈1:

2〜6は真言を唱えて不動明王を招請して、不動明王に金縛りの法を実行して貰うための呪法である。

1〜6の修法を実施することで、怨霊などが人にとりつき悪い影響を与える時、

不動明王にその霊の動きを止め捕まえて成仏させ除霊して貰う。

但し人間に直接この霊縛法を行なうとその人は身動きが取れなくなりその場に釘づけになる

と言われるので注意が必要だとされている。

   

解釈2:

護摩を焚き、九字を切るのは呪法の場を清め霊の動きを弱めるため。

護摩を焚くのは不動明王を呼び寄せるための準備といえる。

そのような準備の下で内縛印を結び剣印を結び、刀印に結び、外五鈷印を結び、

諸天救勅印を結び、外縛印を結ぶのは魔法の杖を振ることに対応している。

不動明王の中呪を唱え、真言「オン・キリウン・キャクウン

と唱えるのは不動明王に活躍してもらうためと言える。

ハリ・ポッターの魔法との対応を表にすると次の表9のようになる。


表9

表9 不動金縛りの法とハリー・ポッターの魔法との対応

解釈:

 @で護摩を焚き、九字を切るのは呪法の場を清め霊の動きを弱め、

不動明王を呼び寄せるための準備といえる。

そのような準備の下でAで内縛印を結び剣印を結び、刀印に結び、外五鈷印を結び、

諸天救勅印を結び、外縛印を結ぶのはハリ・ポッターが魔法の杖を振ることに対応している。

Bで不動明王の中呪や、真言「オン・キリウン・キャクウン」と唱えるのは

ハリー・ポッターが呪文を唱えることに対応する。

このように不動金縛りの法はハリ・ポッターの魔法と良く対応している。

次に紹介する摩利支天鞭法も降伏(ごうぶく)法の一つである。



   
   

G 摩利支天鞭法(まりしてんむちほう)  


@ 白紙(半紙がよい)に墨筆で、丸い円を丁寧に描く。

A 円の中心に、〈呪い殺したい人間〉の名前を書入れる。

B 栲(ぬるで)の木枝の先を鋭利に削り鞭(むち)を作る。

C 合掌しながら、摩利支天の真言を二十一回唱える。

D 合掌を解き、利き腕の手で鞭を持つ。

E 改めて真言を唱え始める。

F 鞭で〈呪いたい人間〉の名を力の限り突きまくる。

G 突き終えた紙は火に入れて焼き尽くす。

H 灰を集め、かならず汚物と一緒に捨てる。

I これを期間を設定して、繰り返し実行する。

解釈:

@、Aで怨敵の名前を書いた紙は呪いをかける怨敵と等置・同一化される。

Cで摩利支天を迎え、その力を借りて怨敵を支配する。

D〜Fでは紙を鞭で叩き突きまくる。これは怨敵を鞭で叩くのと同じだ

と考える等置・同一化呪術(or 類感呪術)である。

これは「丑の刻参り」にも見られる怨敵を呪い殺す呪術と全く同じ呪法(等置・同一化呪術

だと解釈できる。



   
   

H 不動明王の護摩祈祷 



@ 修法を行う部屋の中に護摩壇をしつらえる。

A 正面に不動明王の画像をかける。

B 修法者(僧)が護摩壇の護摩木に火をつける。

燃え上がる焔が不動明王の画像を照らし凄まじい忿怒の形相となる。

C 十八道建立の法式を行う。

D蓮華合掌の印を結び、衆生は自他ともに三業平等清浄なり

という意味の真言「オン、ハバハバ、キユタ、サバ、ダルマ、サバサバ、キッド、カン」を唱える。

E順次、虚心に合掌して、 「オン、タタガト、ナウババヤ、ソワカ」から

ナウマク、サンマンダボダナン、マカ、ムタリヤ、ビソナキヤテイ、ソワカ

など五つの供養真言を息もつかず唱え切る。

この時、真言読誦に集中するため修法者(僧)のこめかみには青筋が立つほどになる。

F次に、不動明王を勧請するため、不動明王の真言大呪を唱える。


 注:

 真言:

[火界呪(かかいじゅ)]:「ノウマク サラバ、タタギャテイビャク サラバボッケイビャク 

サラバタタラタ センダマカロシャダ ケン ギャキギャキ サラバビキンナンウン タラタ カンマン

(全方位の一切如来に礼したてまつる。一切時一切処に残害破障したまえ。

 最悪大忿怒尊よ。カン。一切障難を滅尽に滅尽したまえ。フーン

残害破障したまえ。ハーン。マーン。)

         

Gこの時、燃え上がる護摩壇に向って結んだ印相を激しく突き出し、声も叫ぶように大きくなる。

H次に中呪の真言(慈救呪)を唱える。

ノウマクサーマンダー・バーザラダン・センダーマーカロシャーダ・ソワタヤウンタラタ・カンマン

(すべての金剛に帰命したてまつる。 諸魔を僻除し、降伏するために、

暴悪の相を現じ、大忿怒の相を示す明王よ、煩悩を催破せよ。)

Iこの時、目を見開き、歯も剥き出すくらいになる。

J次に小呪の真言:「ノウマク サマンダ、バザラダン カン 」

(あまねき金剛尊に帰依したてまつる。ハーン)を唱える。

Kこのような祈祷を1時間から2時間休むことなく行う。

         

この加持祈祷によって不動明王を祈りだし、怨敵調伏、敵国降伏、勝負必勝、

家運繁盛、福智獲得、立身出世ができるとされる。

   
   

人形などに怨敵の名前を書いて竹筒などに封じ込めて加持祈祷する修法として [封じ込法 ]がある。

次の「きゅうり加持」は[封じ込法 ]の一つといえる。



   
   

I きゅうり加持 



きゅうり加持=きゅうり封じは、弘法大師空海が、今から約1200年前、

人々から病根を断ち切って、病苦を和らげ、健康に長生きできるようにとの誓願から、

不動明王を本尊として始められた真言密教の秘法だとされる。

この秘法には、胡瓜(きゅうり)を用いる。

住職が修法中に、密教の法具である独鈷杵(とっこしょ)できゅうりに穴を開け、

その中に真言の梵字と偈文・名前・病名(願いごと)

を書き込んだ『護符』を詰めて封印し加持祈祷する。

その後キュウリを土に掘った穴に投げ入れる。

願いを込めたキュウリが土中で腐るなかで思いが叶えられ諸病が回復するとのこと。

これは『護符』に真言の梵字と偈文・名前・病名(願いごと)を書き込めば

病気(病原菌を含めた)をきゅうり中に封じ込め、加持祈祷によって

病気治療ができるという呪術的修法(等置・一体化呪術)と言える。

この呪術的修法は「きゅうり封じ」とも呼ばれる。

きゅうり封じ」は実際の効果は別として分かり易い真言密教の秘法である。



   
   

J 空海の雨乞い祈祷 



日本の密教は、聖朝安穏・国家泰平・五穀豊穣・万民豊楽を祈ることからはじまった。

天皇の病気平癒を祈り、怨霊を鎮め、疫病退散を祈り、干ばつ飢饉の際に雨乞いを行い、 

人々に代って罪過を懺悔(悔過)することを、

鎮護国家の護国宗教としてスタートしたのである。

天長元年(824)2月、大師は勅命によって京都の神泉苑(東寺、真言宗の寺院)

において雨乞いの祈祷をし、成功した。

ちなみに生涯に祈雨法を修すること51回とも云われる。

空海が行った祈雨法は密教四箇大法のひとつである

孔雀明王経法」という請雨法だったと思われる。

この例からも分かるように、空海は明らかに呪術師としての側面を持っている。

神泉苑での雨乞いの祈祷は以下の様なものだったと考えられている。

修法壇を設けた大きな仮屋中に、13本からの幡を整然と立て、

雨乞いの主尊として孔雀明王の図像を懸けた。

13本の幡は「四天王」、「「四神」、「八大龍王」、本尊孔雀明王などの幡だと考えられている。

その修法壇で、空海は自身で唐から請来した「請雨経法」を修した。

具体的には、

@大きな仮屋中に修法壇を設ける。

A 修法壇の回りに13本の幡を整然と立て、雨乞いの主尊として孔雀明王の図像が懸ける。

(13本の幡には「四天王」、「八大龍王」、「四神」「八大龍王」、本尊孔雀明王が描かれていた。)

B修法壇において空海は「仏母大孔雀明王経」を読誦し、

孔雀明王の真言(オンマユラキランデイソワカ)を唱え孔雀明王に雨乞いをした。
   

   

ハリー・ポッターの魔法との対応を表にすると表10のようになる。


表10

表10 孔雀明王法による雨乞い法とハリー・ポッターの魔法との対応

   

結論:

孔雀明王法による雨乞いの修法はハリー・ポッターの魔法と本質的に同じ呪術である。

日本ではハリー・ポッターの魔法は非常に人気がある。

それは、日本の強い呪術的伝統とともに、

日本人は空海の呪術と呪術的宗教である真言密教に昔から馴染んでいるためと考えられる。

ただハリ・ポッターの魔法より複雑で、修法壇を設け孔雀明王の図像を懸け、幡を立てるという

入念・丁寧な呪法の準備、「仏母大孔雀明王経」の読誦、密教特有の三密加持の祈祷などに特徴がある。

これは西洋の呪術(魔法)と東洋の密教呪術の違いと言えるだろう。

密教特有の三密加持の祈祷は単純な西洋呪術(魔法)と比べると、

イメージ瞑想を伴う高度に宗教的な呪術と言えるだろう。

表10において、@〜Bまでは雨乞いの本尊孔雀明王を修法壇に招請するための準備と思われる。

Bが本尊孔雀明王を修法壇に招請し雨乞いをする呪術等置・一体化呪術(or類感呪術)だと考えることができる。



   
   

K  後七日御修法(ごしちにちのみしほ): 鎮護国家の祈祷 



仏法によって国家を守護し、その安泰をはかることを<鎮護国家>という。

それは、仏教の経典を読誦することで護国効験を願う祈祷である。

特に8世紀半ばの天平時代に始まったとされる<御斎会>(みさいえ)と呼ばれる祭祀が行われていた。

昼には四天王による王法擁護を説く『金光明最勝王経』を論議し、

夜には『金光明最勝王経』にその功徳が説かれる吉祥天を拝んで罪過を懺悔するという

「最勝懺法」を7日間繰り返す行事で、国家安寧や五穀豊穣を祈願する神聖な祭祀であった。

9世紀、平安時代になって弘法大師・空海によってその祭祀に変化がもたらされた。

承和元年(834)、61歳になった空海は時の仁明天皇に対して、

平安京の中に別室を設けて真言密教の秘法を行うことの許可を願い出た。

空海は、奈良時代から宮中で行われてきた御斎会では、鎮護国家としては不十分で、

宮中に独立した護摩壇を設け、密教による修法を行うべきだと上奏したのである。

護摩の煙と宇宙の真理を表す曼荼羅のもとで行われる密教修法は、様々な霊験を現し、

短期間に平安貴族社会に浸透していったのである。

国家の平安を祈る密教修法は、空海にとって密教が鎮護国家に役に立つことをアピールするのに

絶好のチャンスであったと考えられる。

空海の上奏を受け仁明天皇は、翌年の正月に宮中のほぼ中央の位置に真言院を造営し、

後七日御修法>と呼ばれた玉体安寧・国家安泰を祈願する秘密の修法が行われたのである。

これ以後、後七日御修法は御斎会とともに毎年正月恒例の仏教儀式となった。

後七日御修法とは、連日護摩壇で護摩を焚き、

如意宝珠を本尊として真言陀羅尼を唱えるものであった。

宮中の中枢において、密教の修法によって国家を加持祈祷し、

霊力を付加し、それを行事として恒例化するという

空海の企ては見事成功することとなった。

後七日御修法は、現在でも、真言宗では、各派が持ち回りで東寺で行なわれている。

密教の修法によって国家を加持祈祷し、霊力を付加し鎮護国家を実現するという思想は、

現代の進んだ文明国家では到底考えられない古代思想である。

しかし、平安時代にそれが受け入れられたのは日本にはい強い呪術的伝統があったからだと考えられる。



   
   

   

12.8 空海と鎮護国家


   

       

空海の真言密教の奥義の第一は「即身成仏」の思想で、第二は「鎮護国家」の修法だ

と考えられている。

空海の鎮護国家とは衆生が住む国土に襲いかかる諸々の災難から衆生を護り、福を招き、

衆生と国土を安泰にすることにあったと考えられる。

そのためには、息災・増益の密教的修法(三密加持の祈祷)によって大日如来の大悲大智の加護が

衆生と国土に加わり密厳浄土(密教の浄土)を実現することにあったと考えることができる。

空海の鎮護国家の思想をまとめると次の図16aのようになるだろう。


図16a

図16a 空海の鎮護国家の思想

   

平安時代仏教は天台宗と真言宗に代表される。

天台宗と真言宗はともに密教を最新最先端の仏教だと考え密教による鎮護国家を重視した。

そのため平安時代には鎮護国家の呪術的修法を重視した2つの仏教センター(比叡山と高野山)があった。

平安時代には呪術的宗教一色になった仏教(天台密教と真言密教)が流行したのである。

これは日本仏教史のみならず世界の宗教史においても特異的なことであると考えられる。

このようなことは古代だったから可能だったことで、科学の発達した現代では考えられないことである。

鎮護国家の呪術的修法を重視した2つの仏教は天台密教(台密)と真言密教(東密)である。



   

12.8-1 台密と東密


   

           

1.天台密教による鎮護国家 


最澄の歿後、第三世座主となった円仁(慈覚大師、794〜864)は唐で足掛け十年の修行をした。

帰国後比叡山に法華総持院を創設し、

鎮護国家の本命道場として呪術的仏教の中心とした。

天台宗系の密教を台密(たいみつ)と呼ぶ。

これに対し、東寺を中心とした真言密教を東密(とうみつ)と呼んでいる。

円仁の弟子安然(あんねん、841〜915)は、

「大日経」を中心とする密教重視を極限まで進めて台密を大成した。

空海の真言密教では大日経、金剛頂経、の2つの経典を重視するが

台密ではこれに蘇悉地(そしつじ)経を加え、

大日経、金剛頂経の三つを密教の三部経として尊重する。

これが台密の特徴と言える。


           

2.真言密教による鎮護国家の修法  

承和元年(834)宮中真言院で毎年正月に真言の修法を奏上することが勅許された。

これが宮中に導入されて、

玉体安穏・天下泰平・天長地久・五穀豊穣を祈願する後七日御修法(ごしちにちみすほ)の起源となったと考えられる。

真言宗系の鎮護国家の密教は東寺と高野山が中心となった。

真言宗系の密教は台密に対し東密(とうみつ)と呼ばれる。



   

12.8-2 密教と加持祈祷


   

           

高名な密教学者宮坂宥勝博士との対談において、高名な思想家である梅原猛氏は密教について、

明治以来、日本のインテリによって密教思想の意味がまじめに考えられたことはなかった

高校の歴史教科書では最澄・空海は新しい仏教を始めたけれども

彼等の仏教は貴族仏教・祈祷仏教に過ぎなかったと一言で片付けられている

「倫理・社会」の高校の教科書でも道元・親鸞にはほぼ二ページを費やしているが

空海と最澄には貴族仏教・祈祷仏教に過ぎなかったとほんの三行ほどで片付けられている

これは大変な片手落ちじゃないか、そんな扱いで日本文化が果たしてよく分かるだろうか

と疑問を感じる」と述べておられる。

しかし、本サイトで紹介したように日本の密教は加持祈祷の呪術法を持つが故に

貴族から庶民に至るまでの広い層から支持されてきたのである。

多くの人々は密教の神秘的な加持祈祷によって息災と増益が可能だ

という教義に期待して歓迎したことは確かである。

医学が未発達の時代では病気を治す有効な手段がなかった。

多くの人々が病気を治すため密教の加持祈祷に頼ったことは古い文献にも見られる。

密教が加持祈祷の仏教であることは否定できない。

不動明王は今でも人気の信仰対象である。

日本の神仏習合も密教によって進められたのは事実である。

英国の有名な仏教学者エドワード・コンゼ博士(Edward J.D.Conze,1904~1979)は

その著書「仏教」において「密教は呪術的仏教である」と考えている。

密教を理解するには加持祈祷などの呪術的側面を理解しない限り分からないと言った方が正しい。

しかし、密教は秘密仏教と言われるように、

加持祈祷などの呪術的修法やその具体的内容は秘伝や秘密にされている。

これまで議論の対象にされてきたのは

公開しても差し支えない一部の教義や思想に限られているように思われる。

もっと秘密や秘伝の部分の情報公開が進めば密教の研究が進むのではないだろうか。

密教は興味深い宗教であることは確かであるが、

秘密の宗教であるため秘密にされた部分が多い。

研究対象にするにはあまりにも情報不足であることは残念である。



   

12.8-3 密教と呪術


   

           

密教は呪術的宗教と言われるように密教と呪術は切り離すことができない。

既述した不動金縛りの法、雨乞いの修法、不動明王の護摩祈祷、

きゅうり加持(きゅうり封じ)など,

全ての密教修法は本質的に、ハリー・ポッターの魔法と同じ呪術である。

一般に、密教呪術では十八道法、護摩焚きなどをして主尊を壇上(呪術場)に呼び寄せる。

その上で、成就したい目的にふさわしい長く複雑な・印契・法具を用い、真言や経典を長時間唱える。

ハリー・ポッターの魔法よりはるかに複雑で高度に儀式化・宗教化されている。

そのため、ハリー・ポッターの魔法のような低級な魔術ではないように見えるかも知れない

密教の四種護摩法は宗教であり呪術ではない」と主張する人もいるかも知れない。

しかし、既に議論し分析したように、

真言密教の四種護摩法は明らかに呪術(魔術)である。

呪術ではなく宗教のように見えるのは、巧妙かつ高度に儀礼化・宗教化されているためである。

その違いは、西洋の呪術(魔法)と東洋の密教呪術の違いかがあるだけで本質的には同じである。

これは日本の神道についても当てはまる。

神道ではお祓いや禊の儀式をして悪運や災厄を払う。

お祓いの儀式は類感呪術(or 感染呪術)であり、

禊は明らかに感染呪術(水や空気中に移し流すという)によって説明できる。

  吉凶を占う「おみくじ」も典型的呪術である。

一般に日本人は昔から宗教に現世利益を求め、呪術好きである。

日本の多くの宗教は呪術と非常に近いところがある。

密教が日本に受け入れられ流行したのは日本人の強い呪術的伝統より来ている

と考えることができるだろう。



   

12.8-4  曼荼羅の役割と呪術効果


   

           

両界曼荼羅は強力な消災力を持ち、あらゆる災厄を祓う。部屋に飾ることで邪気を寄せつけない

ようにし、凶運や凶方位などに心を煩わせることなく平安な日々を送れると言われる。

両界曼荼羅を部屋に飾り、三密加持をすることで曼荼羅に描かれた諸仏の悟りと安らぎの世界と一体化したり、

実現すると信じるのは類感呪術や等置一体化呪術の考えと言えるだろう。

密教の本を読むと曼荼羅の思想や高度な密教思想については詳しく解説されている。

しかし、曼荼羅を何のためにどのように用いるのかについて解説されることはない。

曼荼羅は単なる絵画や芸術作品、あるいは高度な宗教思想を表現するものだけではない。

大乗仏教徒が絵画や芸術作品を創作したり、高度な宗教思想を表現するために

曼荼羅のような手の込んだ複雑な物を作るはずはないだろう。

仏教には特に絵画や芸術作品を愛し創作するような伝統はない。

密教の修法においてどのような役割を果たすもの(用具)であるかを考えれば

何故密教において複雑な曼荼羅が作り続けられたかが分かる。

密教の曼荼羅は呪術の「似たもの同士は影響しあう」という類感呪術等置・一体化呪術の思想を考慮に入れると上手く説明できる。

曼荼羅は、今では、密教の思想を絵画に表現したものであるという考え方や説明が主流である。

四種護摩法としての息災法においては息災曼荼羅が、

増益法の修法時には増益曼荼羅が用いられることが注目される。

密教の最大かつ究極の目的は除災や招福にあるのではなく、

仏教の究極の目的である正覚(悟り)獲得や即身成仏であると考える方が自然である。

曼荼羅は、密教の思想を絵画に表現したものというより密教の修法目的を

達成するために用いる法具であると考えた方が分かり易い。

筆者は曼荼羅は密教の修法において、仏教の究極の目的である正覚(悟り)獲得や、

即身成仏のために用いる呪術的手段だと考えている。

そのように考えると、

密教の修法において曼荼羅の果たす役割は次の図17に示すことができる。


図17

図17 密教の曼荼羅は等置一体化呪術(or類感呪術)の手段である

   

曼荼羅は大日如来や諸仏諸菩薩の悟りと聖なる世界を表している。

密教の修法において、密教行者は曼荼羅を掛け、

三密加持を修することによって、

曼荼羅に描かれた大日如来と一体化変身しその悟りの世界と一体化するのである(三密瑜伽)。

そのイメージ瞑想によって、

仏教の究極の目的である正覚(悟り)を達成し即身成仏することができる。

空海が「即身成仏頌」において「三密加持すれば速疾に顕る

と言っているのはその等置・一体化の呪術(密教修法)を述べているのである

「即身成仏頌」を参照)。

曼荼羅は、大日如来の悟りの世界と三密瑜伽し等置一体化することで、

修法者は大日如来に変身し即身成仏する。

その修法のために不可欠な呪術的手段(=法具)だと考えることができる。

立川武蔵博士は著書「はじめてのインド哲学」において、

仏教タントリスト(密教徒)達が、宇宙と自己との同一性を直証するために創りだしたシンボルが

マンダラ(曼荼羅、曼陀羅)である」と述べておられる。

この言葉は「仏教タントリスト(密教徒)達が、大日如来を中心とする密教的宇宙と自己との同一性

を直証するために創りだしたシンボルがマンダラ(曼荼羅、曼陀羅)である

と読めば筆者の考え方と一致する。

そのように考えると、

空海が東寺や高野山(壇上伽藍、後述)に立体曼荼羅を作って熱心に修行したのは、

等置・一体化の呪術(=密教修法)によって

即身成仏鎮護国家の二大目的を実現するためだったことが分かる。 

著書「はじめてのインド哲学」において、立川武蔵博士は

マンダラは一般に平面に描かれるが、三次元のマンダラ的構造も後世、現れた

サールナートの仏教僧院跡には、10−11世紀と思われる仏塔が残っており

その四面にはそれぞれ印相の異なる仏が浮き彫りにされている

これは立体的マンダラとも呼ぶべきものであろう

この種の仏塔はカトマンドゥ盆地には無数に見られる

また、カトマンドゥのスヴァヤンプーナート仏塔は、その周囲に九つのくぼみ

(龕)があり、それぞれには金剛界マンダラ五仏と四妃の像が収められている

つまり、仏塔自体が立体的な金剛マンダラなのである」 と述べておられる。

この記述は空海の立体曼荼羅の発想は日本だけではなく、

ネパールなど異なる地域に同時代的に現れていたことを示唆するものではないだろうか。




図目玉寺

写真 スワヤンブナート寺院(目玉寺、ネパール)


勿論、曼荼羅の解釈についての上記(図17)の説は門外漢である筆者の仮説にすぎないが・・・・。

本サイトでの研究から得た合理的結論である。

次の図17aに高野山の「壇上伽藍(だんじょうがらん)」の伽藍構成を示す。


図17a

図17a 高野山の「壇上伽藍(だんじょうがらん)」の伽藍構成に見る立体曼荼羅

   

空海は密教修行者達の修行の道場として高野山に伽藍を建立した。

高野山の伽藍構成について、著名な密教学者宮坂宥勝氏は

著書「仏教の思想9 生命の海<空海>」において以下のようなことを指摘しておられる。

東の大塔は大日如来を中心に胎蔵界の五仏を配置して胎蔵界曼荼羅を象徴している。

西の西塔は大日如来を中心に金剛界の五仏を配置して金剛界曼荼羅を象徴している。

講堂(金堂)は即身成仏の理想を実現するための修行の根本道場として建てられたものである。

宮坂宥勝氏が指摘されるように、

高野山の伽藍全体が、壮大な立体曼荼羅(大日如来を中心とする諸仏の聖なる空間)を構成しているのである。



   

この立体曼荼羅の中心に位置する講堂(金堂)に集まった空海を中心とする真言密教の修行者達は、

三密加持の祈祷を修し、即身成仏と鎮護国家の実現を熱烈に願い、祈祷したのではないだろうか。



このように、高野山の「壇上伽藍(だんじょうがらん)」には空海の立体曼荼羅の

思想が色濃く反映されている

空海の曼荼羅思想を参照)。



   

12.9 空海の密教思想


   

   

ここでは真言密教の天才空海の代表的密教思想とされる

「即身成仏」と「十住心論」に重点をおいて見てみたい。



   
12.9-1

12.9-1 即身成仏の思想:「即身成仏頌


   

   

空海は「即身成仏」の思想を強調しており、

即身成仏の思想は空海の代表的思想だと考えられる。

即身成仏の思想は代表的著書である「即身成仏義」の中の「即身成仏頌」に表されている。

空海は「即身成仏頌」でどのようなことを述べているかを見よう。

「即身成仏頌」は以下の@〜G の8偈頌からなる。それを読みながら考えよう。

   

@   六大無礙にして常に瑜伽なり (



 注:

六大:六つの基本的存在要素である地、水、火、風、空、識の六つ。

密教では、大日如来や人間もこの六大から成り立っていると考えている。

この六つの要素が宇宙の本体(体)だと考えている。

@の現代語訳:

現象・実在の両世界の存在要素である六大(地、水、火、風、空、識)は、さえぎるものもなく、

永遠に融合しあっている。


   

A   四種曼荼各々離れず (



 注:

四種の曼荼羅:大日如来の密教的世界と我々の生命を象徴している四種の曼荼羅

四種の曼荼羅を参照)。

相:現象や相(すがた)のこと。

   

Aの現代語訳:

四種の曼荼羅に象徴される大日如来と我々の生命はそのまま離れることなく

一身同体で宇宙の相(すがた)を表現している。 





12.9-1.3

B   三密加持すれば速疾に顕る (



 注:

三密加持:(三密加持を参照)。

三摩地:三昧に同じ。

体相用:密教では、宇宙に存在するあらゆる物体は「体」「相」「用」の三つから成り立つと考える。

「体」というのは本体であり、これを「体大」という。

「相」は物の姿・形のことで、これを「相大」という。

「用」とは物体が持っている作用・働きのことで、これを「用大」という。

   

Bの現代語訳:

仏と我々の身体(身)・言葉(口)・心(意)による三密加持をすれば、

仏の力の不思議な働きと感応によって、すみやかに悟りの世界があらわれる。



   

解釈:

密教では六大(本体)と四曼相大(四種の曼荼羅で表現した宇宙の姿)のうえに三密(身密・口密・意密)

の三つの働きが起こると考える。

ここでは印を結び、真言を唱え、三摩地に住する三密加持の修行によって、

大日如来と一体になって、悟りの世界が顕われるとを言っている。

これはハリー・ポッターのマジックで解釈すると分かり易い。

密教行者(ハリー・ポッター)が魔法の杖を振り(法具を振り、印を結び)、

呪文を唱える(真言を唱える)と、魔法が成就する

(大日如来の不思議な働きと感応しあって、すみやかに悟りの世界があらわれる)と言っているのである。

行者が手に仏の印契を結び、仏の真言を唱え三密加持するのは仏と

感応道交するための手段だと考えられる。

しかし、三密加持すれば即身成仏する保証はどこにもない。

これは明らかに科学的根拠や保証がない呪術的思想に過ぎない。

12−6−1を参照)。

ハリー・ポッターの呪術(魔法)と対応させると表11のようになるだろう。 


表11

表11 ハリー・ポッターの呪術と密教の三密加持の対応

           

空海はBの偈頌で、三密加持によって、心が仏の境地と同じように高められ(意密)、

この身のままで仏になれる(即身成仏できる)と説いている。

しかし、三密加持による即身成仏への合理的プロセスメカニズムはこの偈頌だけでは、はっきりしていない。

それをハッキリさせない限り等置一体化呪術(or類感呪術、or自己催眠)であり、即身成仏はできないだろう。

いずれにせよ、

B偈頌が即身成仏頌の中で最も重要な偈頌だと言えるだろう。





C   重々帝網なるを即身と名づく (無礙



 注:

帝網:帝網とは帝釈天(インドラ神)の宮殿に張り巡らされた網。

その網の目には宝玉がついている。

網にちりばめられた無数の珠が際限なく互いに照らし合い映し合う。

   

Cの現代語訳:

あらゆる身体が、帝釈天の持つ網につけられた宝石のように、

幾重にもかさなりあいながら互いに映しあうことを、「即身」という。



       

解釈:

ここでは、「即身」とは何かについてインドラ網の宝石に喩えて述べられている。





D   法然に薩般若を具足して (成仏



 注:

法然に:あるがままに。

薩般若(さはにゃ):すべてを知る仏の智慧。

   

Dの現代語訳:

あらゆるものは、あるがままにすべてを知る仏の智慧をそなえており、






E   心数心王刹塵に過ぎたり (成仏



 注:

心王:心の主体。

心数:心の作用

   

Eの現代語訳:

すべての人々には、心作用と心の主体とが具わり、数限りなく存在する。






F  各々五智無際智を具す (成仏



 注:

五智:大日如来の五つの智慧(金剛界五仏と五智を参照)。

無際智:際限ない智慧。

   

Fの現代語訳:

 心と心の作用には、大日如来の五種の智慧と、際限ない智慧が十分にそなわっている。






G  円鏡力の故に実覚智なり (成仏



 注:

円鏡力:明鏡のようにすべてを照写する力。

   

Gの現代語訳:

その智恵をもってすべてを鏡のように照らすとき仏となるのである。

空海によれば、初めの@〜Cの四句は「即身」の二字を、

次のD〜Gの四句は「成仏」の二字を嘆じたものだと言う。

ただ、奇妙なことに、この偈頌(即身成仏頌)には「どうすれば成仏できるか

についてはっきり具体的に書かれていない。

しいて言えば、第B頌で三密加持によって大日如来と一体になって

悟りの世界があらわれることを言っている。

結論的に言うと、空海はこの偈頌(即身成仏頌)に於いて、

密教修法の三密加持が「即身成仏」の方法だと言っていると考えることができる。



   
12.9-2

12.9-2 空海の死と入定神話


   

   

真言宗では、宗祖空海を「大師」と崇敬していて、

「入定」を死ではなく「禅定」に入っていると考えている。

金剛峯寺の年中行事でも弘法大師の入定した日を祝い、

高野山奥の院御廟で空海は今も生き続けて修行を続けていると信じられている。

空海が死んで千年以上は経つ。

空海は死んでから千年以上も修行を続けても未だ即身成仏していないのだろうか?

空海の死を生入定(いきにゅうじょう)や入定留身(にゅうじょうるしん)と呼ぶ言葉もある。

空海は62歳で「入定(死去)」したが、この「生入定(死去)」

は真言密教の究極的な修行だと考えられている。 

831年(天長8年)に病になってからの空海は、自らの命をかけて

真言密教の基盤を磐石化することに力を注ぎ、真言密教の存続のために尽力した。

とくに824年(承和元年)12月から入定滅までの3ヶ月間には、

後七日御修法が申請から10日間で許可された。

その10日後には修法、また年分度者を獲得して金剛峯寺を定額寺とするという、

密度の濃い活動を行った。

高野山奥の院の霊廟には、今も空海が生きて禅定を続けているとされている。

奥の院の「維那」と呼ばれる仕侍僧が毎日、朝は午前6時にそして夜の2回、

食事を届け、年に1度空海の入定日である3月21日に衣替えを運んでいるとのこと。

霊廟内は維那以外が窺う事はできない。

維那も他言しないため一般には不明のままになっている。

空海の入定信仰は次に見る即身仏の信仰に影響を与えていると考えられる。



   

     

        12.9-3

12.9-3  空海は即身成仏したか?


   

   

空海62歳。承和2年(835)3月。いよいよ空海自身が予告した死期が6日後に迫った3月15日、

空海は高弟を集めて最後の遺言をしたと伝えられている。

それは「我が死後は兜率天に往生して、弥勒慈尊の御前に侍るだろう

そして、56億7000万年後、私は必ず弥勒菩薩とともに下生する。・・・」という言葉であった。

空海は、遺言「我が死後は兜率天に往生して、弥勒慈尊の御前に侍るだろう

そして、56億7000万年後、私は必ず弥勒菩薩とともに下生する。・・・」の中で、

空海は「私は死後、兜率天に往生して、弥勒菩薩の御前に侍るだろう」と自分の死後と死について触れているのである。

この言葉のなかに出て来る弥勒菩薩はまだ修行中の菩薩であり仏ではない。

また、兜率天(とそつてん)は欲界天の第4天で色界天より下位にある天に過ぎない。

大乗仏教1の表10.6「天の構造」を参照)。

兜率天は華厳経では金剛幢菩薩が「十廻向」を説いた天であり、

菩薩の「十地」が説かれた他化自在天より下位の天である。

密教1の「華厳経の説法場所の不思議」を参照)。

兜率天は仏の悟りを得て仏になった人が行く天ではないのである。

天とは、坐禅によって深い禅定に入った時に体験する快適な禅定状態だと言っても良いだろう。


   

大乗仏教1の表10.6「天の構造」を参照)。

もし、空海が本当に即身成仏しているなら

 今更、色界天より下位にある兜率天に往生して、弥勒菩薩の前に侍る必要はないのではないだろうか? 

空海のこの言葉は

空海は即身成仏したという自覚がなく、未だ菩薩か密教修行者の境涯であった」ことを示唆しているのではないだろうか?

空海を開祖とする真言宗は空海の死後すでに1100年以上は経っている。

その間「どうしたら「即身成仏」できるのか」という話を聞かない。

このように、「即身成仏頌」を書いた空海本人が即身成仏したのかどうかはっきりしないのは、

真言宗の「大きな謎」ではないだろうか。

空海が死んだことを高野山では「入定」と呼び、

空海は入寂した」とか「空海は遷化した

とは決して言わないのである。

空海ははたして「即身成仏法」を完成して死んだのだろうか?

空海が「即身成仏法」を完成しているならば真言宗はそれを公開すべきではないだろうか?

それによって、我々が受ける利益には限りないものがあるだろう。

しかし、真言宗の僧侶の口から「私はこのようにして即身成仏できた

という話を殆ど聞かないのである。

真言宗で「即身成仏法」がまだ未完成ならばそれをはっきり言って、

それを完成すべく必死の努力をすべきではないだろうか?

   
   

 注:

空海の留身入定について: 



入定した行者は死後も霊魂は永遠に生きていて,種々の奇跡をおこすと信じられた。

偉大な弘法大師空海は入定(肉体は死去)したが、

空海の霊魂は永遠に生きているという信仰が入定信仰である。

入定信仰をいっそう確実に認識しようとして,

空海の入定後も肉体は生けるがごとく、

廟中に現存して,鬢髪や爪も伸びていたと語られるのを、入定留身(にゅうじょうるしん)という。

この「入定」という言葉の意味と使い方は真言密教独特である。

坐禅の場合、普通30〜40分くらい入定(坐禅)した後、「出定」(禅定から出る)する。

しかし、空海の入定(にゆうじよう)信仰の場合、

入定の意味と使い方は密教特有であることに注意すべきである。

空海の死を入定と呼び、空海は死んでも永遠の生命をもって、

今も生きているという信仰が生じたのである。

仏教(禅も含め)では「入定」という言葉は禅定に入ることを意味する。

このような入定信仰では,肉体もそのまま残ると信じられ,これを即身仏といった。

言密教では空海の入定(死去)を即身成仏ということから、このような入定信仰が生まれたと考えられる。

のような入定信仰が,東北地方での即身仏(密教修行僧のミイラ)信仰に影響を与えたのではないだろうか?

空海にならった入定は弟子たちによってもおこなわれた。

密教修行僧の肉体がミイラ化したことが知られるのは、

新潟県寺泊町野積西生(さいしよう)寺の弘智法印が最も古いようである。

   
    12.9-10

空海の入定信仰について: 



仏が憑依すれば即身成仏なので,修験道では山伏が巫覡(ふげき)として予言、

託宣,祈祷に仏力をあらわすのが即身成仏である。

これを死後にも及ぼそうというのが入定(にゆうじよう)信仰で、

入定した行者は死後も霊魂は永遠に生きていて,種々の奇跡をおこすと信じられた。

偉大な弘法大師空海は入定(肉体は死去)したが、

空海の霊魂は永遠に生きているという信仰が入定信仰である。

空海の入定信仰をいっそう確実に認識しようとして、

空海の死後、廟中を見たら、空海は入定(死去)後でも肉体は生けるがごとく、

廟中に現存して,鬢髪や爪も伸びていたと語り伝えられる。

これを入定留身(るしん)という。・・・・・・

この「入定」という言葉の意味と使い方は真言密教独特である。

仏教(禅も含め)では「入定」という言葉は禅定に入ることを意味する。

坐禅の場合、普通30〜40分くらい入定(坐禅)した後、「出定」(禅定から出る)する。

しかし、空海の入定(にゆうじよう)信仰の場合、

入定の意味と使い方は密教特有であることに注意すべきである。

空海の死を入定と呼び、空海は死んでも永遠の生命をもって、

今も生きているという信仰が生じたのである。

このような入定信仰では,肉体もそのまま残ると信じられ,これを即身仏といった。

真言密教では空海の入定(死去)を即身成仏ということからこのような入定信仰が生まれたと考えられる。

このような入定信仰が,東北地方での即身仏(ミイラ)信仰に影響を与えたのではないだろうか。



   

12.11空海の十住心論


   

       

空海は密教の教理に関し多くの著述を残した。

「秘密曼荼羅十住心論」は彼の代表的著作で、生涯における教学の総決算だと考えられている。

「秘密曼荼羅十住心論」は人間精神の発展を十段階に分けて考察し、

当時の宗教、哲学、思想などを批判継承したもので、

人間精神の現象形態や思想様式は大日如来の顕現であるとする。

要するに密教に一切の宗教、哲学、思想は収斂されるとする考え方である。

「秘密曼荼羅十住心論」の十段階は次のようになっている。

   

第一住心:異生羝羊心(いしょうていようしん) : 

禽獣の如き心の段階をいい、欲望のあることを知って、その欲望の意味も調整する方法も知らない。

人間以前、倫理道徳以前の精神状態を言う。

   

第二住心:愚童持斎心(ぐどうじさいしん) : 

儒教的道徳倫理が芽生える段階を言う。

愚かな少年の心も、導くものあれば自らを慎み、他に施す心が起きる。

ある程度人生経験などを積み、世界を学習しながら倫理、道徳性に目覚める段階を言う。

   

第三住心:嬰童無畏心(ようどうむいしん) : 

宗教的心情が芽生える段階。

道教・インド哲学諸派的精神段階を言う。

   

第四住心:唯蘊無我心(ゆいうんむがしん): 

小乗の声聞乗(個体の実在を否定して無我を知る)の段階である。

小乗の声聞乗:個体の実在(アートマン)を否定して五蘊無我を知る教え。 

道教・インド哲学諸派的精神段階である。

   

第五住心:  抜業因種住心(ばつごういんしゅじゅうしん) : 

業因の種を抜く住心という意味で、よく事物の生起、関連の法則を知り、

迷いの元、業の原因、種子を抜く境地を言う。

   

第六住心: 他縁大乗住心(たえんだいじょうじゅうしん): 

すべての衆生を救うこと〔他縁〕を目的とする大乗仏教の最初の段階。

   

第七住心:覚心不生住心(かくしんふしょうじゅうしん): 

心は何ものによっても生じたのではない。すべての相対的判断を否定し、

心の原点に立ち返って空寂の自由の境地「中道」に入ることを目指す。法相宗の段階。

   

第八住心:一通無為住心(いちどうむいじゅうしん): 

万物は真実そのものであり、本来清浄なものである。

この境地に入るとき、従来の教えは一道に帰す法華、天台の境地。

   

第九住心:極無自性住心(ごくむじしょうじゅうしん): 

世界には一つとして固定的本性はなく、すべてがそのまま真実そのものであるとみる境地。

華厳宗の心の段階である。

   

第十住心:秘密荘厳住心(ひみつしょうごんしん): 

ここに至って万物は真実のあらわれとして、大きな歓びをもって万人の知、情、意に受けとめられる。

真言秘密の境地。言語、分別を超えた境地である故に「秘密」と云う。

このように十住心論は仏教の発展史を密教の立場に立って、生の自覚の展開という形で書かれている。

十住心をまとめると次の表14のようになる。


表14

表14 空海の十住心

       

解釈:

   

第一住心から第三住心までは第一住心から第三住心までは無宗教の俗世間の立場である

第四、五住心からが出家し、仏教に入る。小乗仏教で自らの解脱を追求する境地。

第六・七住心は主としてインドの大乗仏教とされている。

第八、九住心は大乗仏教の天台、華厳の境地。

第十住心は大日如来と一つになり真理に到達する

秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)という真言密教によって到達できる境地である。

十住心」とは人間の心の段階を真言密教を最高位に10段階に分けたものである。

動物的心のような低次元の段階から出発し、発心してからは

小乗的段階→大乗的段階を経て真言密教の最高位に至るというものである。

第四、五住心からが出家し、仏教に入るのでまだ出家至上主義であることが分かる。

第一住心から第十住心まで十段階に分けているのは、

「十地経」や「華厳経」で説く「菩薩の十地」を意識し、対応させていると考えても良いかも知れない。

大乗仏教2の「菩薩の十地」を参照)。



   
12.11

12.11-1 密厳浄土の思想と「己心の弥陀」


   

       

密厳(みつごん)>とは空海の著書「十住心論」に説かれた

第10番目の秘密荘厳住心の略で真言密教の究極の境地を表わしている。

この浄土の中心には大日如来の法界宮殿がある。

その回りに阿弥陀や釈迦を初めとする四仏の(四方に位置する如来)浄土があり、

さらに十方の諸仏、四波羅密菩薩、十六菩薩十二天妃、二十八輪王などの

曼陀羅の諸尊とその国とが取り巻いているという。 

「密厳浄土」とはこのような「大日如来の浄土」のことである。

密教では三密行によってこの浄土に、

即身に(この現実の肉身のまま)入ることが出来ると説いている。

平安時代末期、真言宗の僧、覚鑁(かくばん、興教大師、1095〜1144、新義真言宗の始祖)は、

密厳浄土の思想を重視した。

密厳浄土は、大日如来の法界宮殿が中心になっており、その周囲に、

それぞれ阿シュク・宝生・弥陀・釈迦の四仏の浄土に囲まれ、三密加持によって、即身にこの浄土に入れるとしている。

覚鑁は著書『五輪九字明秘密義釈』で、西方極楽浄土と密厳浄土とが同じであると考えた。

   

覚鑁によると、

   

「秘密荘厳住心」=「密厳心」=密厳浄土=西方極楽浄土  

   

の等式が成立するのである。

彼は密教でもっとも尊ばれる大日如来と、浄土教でもっとも尊ばれる阿弥陀如来とが、

同体異名であると考えた。

熱心な念仏行者でもあった覚鑁は阿弥陀仏は遠く西方極楽浄土にいるのではなく、

自分の心こそが極楽浄土であるという「己心の浄土」の考えや、

自分の清らかな心こそが阿弥陀仏であるという「己心の弥陀」を説いた。

日本臨済禅中興の祖である白隠禅師や鈴木正三も「己身の弥陀」を説いている。

   

日本の禅2.「白隠の健康法」を参照 )。

白隠禅師の「己身の弥陀」は「己心の弥陀」と同じである。

「六祖檀経」において六祖慧能は「己身の弥陀(こしんのみだ)」の思想を説いている。

同様に、阿弥陀仏を観世音菩薩に置き換えた「己身の観音(こしんのかんのん)」の思想は

碧巌録89則に見られる。


   

碧巌録89則「雲巌手眼」を参照 )。

己身の観音(こしんのかんのん)」の思想は従容録82則「雲門声色」にも見られる。


   

従容録82則「雲門声色」を参照 )。

衆生本来仏なり」を説く禅宗ではこのような思想は当然のことであろう。


   

禅宗では「即心即仏」や「即心是仏」を主張する。

坐禅修行によって「本源清浄心」にまで浄化された自己の心(健康な脳=仏性)は仏であると考える。


即心即仏」という言葉において、仏を阿弥陀仏に置き換えると「即心即阿弥陀仏」となる。


即心即阿弥陀仏」からすぐに「「己心即弥陀」や「「己身即弥陀」の考え方が生まれる。


禅の思想1.「六祖慧能と「己身の弥陀」の思想を参照)。

「六祖壇経」を参照)。

六祖慧能は、「六祖壇経」に於いて、


 「 自性を悟れば、この身体浄土であり、阿弥陀仏と同じである」と言うのである。

六祖慧能以来、禅宗においては「己心の弥陀」の思想は良く知られた考え方である。



己心の弥陀の思想」は新義真言宗の覚鑁(かくばん、興教大師)の「秘密荘厳住心」と同じ考え方だと言えるだろう。



密教と禅は究極のところでは同じ考え方に近づいていることは注目される。



   

12.11-2 日本の密教


   

       

密教の歴史の最終段階では性欲も肯定されるようになる。

性交で得られる快美感は悟りの世界・菩薩の境地だと考えられた(例:理趣経(りしゅきょう)の大楽思想)。

女性原理も取り入れられ、女性原理と男性原理とが合体することで

悟りの世界や<梵我一如>の境地を表現しようとする。

ヒンズー教にはシヴァ神を<リンガ(男性性器)>で表すように性の神秘を信仰の中に取り入れている。

これに影響されたのが後期密教と言える(12−1−4後期密教を参照)。

これは仏教の厳しい禁欲的戒律に対する反動だとも考えられる。

このような変容によって密教はインドの民衆に迎えられ流行したようである。

チベット密教はインドの後期密教をインドの密教の高僧から直接学び取り入れたため

左道密教(性的な力を積極的に利用しようとする密教)的色彩がある。

しかし、チベット密教では顕教(部派仏教と大乗仏教)も同時に修行することが求められたため

行き過ぎが抑えられた。

密教を中国からもたらした空海は密教の性欲肯定面を表に出さなかった。

性的な世界を取り入れた場合の危険性を知っていたためと考えられる。

日本の密教が健全な理由は人間の欲望と安易に妥協しなかった中期密教であるためだと考えられる。

 密教のもう一つの特徴は師から弟子への直接的な伝法が重視されることである。

そのため密教では教えの具体的な細部を秘密にしがちである。

密教の教えを普遍的な法として体系づけ情報公開するという努力があまりされていないように見える。

日本で比叡山と高野山の仏教を比較すればこのことは明らかである。

比叡山では日本仏教の諸宗の教祖(法然、親鸞、日蓮、道元、栄西)が学んだ。

それをもとに日本仏教諸宗(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗)の展開があった。

これは天台宗(比叡山)では仏教を顕教として客観的にとらえ言葉を使って教える

という伝統があるからだと思われる。

しかし、真言宗(高野山)ではそれがない。

空海の思想体系は、みごとに完結したもので、教理的には、つけ加えるものを残さなかった。

そのために空海以後の真言宗は、もっぱら神秘体験の技術をみがくことに集中していった。

しかし、密教なので秘密の部分が多く自己完結的秘密主義である。

密教は空海のようなカリスマがいると活気を呈すが、

そのような天才がいなくなると師の教えを後生大事に守る保守的な空気が支配するためと考えられる。

現在でも高野山では弘法大師空海は入定留身している(禅定に入ったまま生きている)と信じられている。

空海の入定信仰を参照)。

空海が死んで1000年以上は経っている。

1000年以上も入定留身している人間は常識では考えられない。

これは宗教としての建て前であろうが、普通の人には理解できないだろう。

空海の入定留身信仰を素朴に信じ、それにに疑問を持たない密教とは何かを示している。

空海の思想体系は、みごとに完結したもので、教理的には、つけ加えるものを残さなかった。

そのために空海以後の真言宗は、もっぱら神秘体験の技術をみがくことに集中していった。

いわゆる教相にたいする事相の重視である。

比叡山は人格完成の道場、真理探究の学山となったのにたいし、

高野山は秘法伝授の霊場、神秘体験の霊山となっていった。



   
12.11-3

12.11-3密教とヒンズー教


   

       

密教とヒンズー教の深い関係は密教の明王にも現れている。

明王とは呪力を持った者たちの王者という意味である。

大乗仏教の集大成と言われる密教はインド古来のバラモン教から発展した

ヒンズー教の信仰や儀礼を取り入れ呪術的教理を確立した。

大乗仏教はその最終段階で、ヒンズー教の衣を着ることで、密教に変身したと言えるだろう。

密教の明王の中で五大明王が有名である。

五大明王は不動明王を中心(リーダー)とする次の5人の明王である。

表15に 密教の五大明王とその性格を示す。


表15

表15 密教の五大明王とその性格

       

五大明王のうち、不動明王以外の降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の4明王は皆多面多臂である。

多面多臂の神は呪力魔術的力)を重視するヒンズー教の神の特徴である。

呪力を持った王者(明王)をヒンズー教から導入するとともに

ヒンズー教の呪術思想を導入して形成されたのが密教だと言えるのではないだろうか。

図20に後期大乗仏教(密教)へ至る仏教の歴史を分かりやすく示す。


 図20

図20 密教へ至る仏教の歴史

       

図20に示した 密教成立史の考え方は図10の東寺の立体曼荼羅の構成をよく説明することができる。

東寺の立体曼荼羅(図10)を書き直すと以下の図10aのようになる。


図10a

図10a 東寺の立体曼荼羅の構成

       

図10aを見れば分かるように、大日如来を中心にして右側に五菩薩、左側に五大明王がいる。

大日如来の周囲にはバラモン教由来の四天王と梵天と帝釈天がいる。

五菩薩は大乗仏教由来の菩薩、五大明王はヒンズー教由来の呪力の象徴と考えれば、

大日如来に代表される密教は大乗仏教的思想50%ヒンズー教(特に呪術思想)50%の教えと解釈できるのではないだろうか?

しかし、その周囲を取り囲む四天王と梵天と帝釈天をインド伝統のヒンズー教の神々だと考えれば、

既にヒンズー教色に染まっていると考えることができるだろう。

このように、図20に示した密教成立史の考え方は図10の東寺の立体曼荼羅の構成

をよく説明するとともに、

図20の密教成立史の考え方を支持することが分かる。

密教の神仏とヒンズー教やバラモン教の神の深い関係は次の表16を見てもよく分かる。


表16

表16  密教の神仏とヒンズー教やバラモン教の神の対応関係

       

このような神々はブッダの原始仏教には見られない。大乗仏教以降に見られる大きな変化である。

このことは、ゴータマ・ブッダの原始仏教がヒンズー教化し、

遂には呪術的宗教である密教に至る契機は大乗仏教にあることを意味している。

   

注:

ガネーシャ(象の顔をした神):ヒンズー教のガネーシャ(Ganesa、群集の長)に起源を持つ。

ヒンズー教最高神の一柱シヴァ神を父にパールヴァティー (烏摩 うま)を母に持ち、

シヴァの軍勢の総帥を務めたとされている。

               

ヨーロッパの仏教学者には

密教はヒンズー教の衣を着た仏教である

と言う人もいるようである。

上の表を見るとそのような見方も充分説得力があるような気がする。

表16の中で梵天、帝釈天、吉祥天、弁財天、大自在天などは初期大乗経典の中に現れている。

既に論じたように、大乗仏教はその初期の段階からヒンズー教に近づきヒンズー教化する道を歩んでいた

と言えるのではないだろうか。

不動明王は人気抜群のほとけ(本当は明王)として現在でも全国各地で祀られ信仰の対象となっている。

表15でも述べたようにシバ神がその起源である。

12.3−1の大日如来の歴史的系譜も述べたように、大日如来は歴史的人物

ゴータマ・ブッダのイメージを持つ法身仏である。

12.3-1の図2を参照)。

しかし、大日如来はシバ神のイメージも持っている。

12.3-1の図2aを参照)。

このように、密教の根本仏である大日如来が複雑な性格を持つ理由は

仏教がゴータマ・ブッダの原始仏教→初期大乗仏教→中期大乗仏教→後期大乗仏教

と変容を重ね、ヒンズー教化する道を歩んだためと言えるだろう。

空海や最澄はそのような仏教の変化の歴史を知らなかった。

彼等は密教が唐にもたらされた最新の仏教である以上、

密教は真実を伝える深も奥深い真の仏教に違いない」と素直に信じ、

日本にもたらしたのである。

仏教の変化と変容の歴史が分かってきたのは

明治以来欧米から日本にもたらされた「合理的かつ客観的な仏教の研究」が進んだためである。 

   

注:

不動明王:大日如来が衆生を教え導くため、衆生の素質や能力にしたがって恐ろしい憤怒の表情

(忿怒形、ふんぬぎょう)をした明王の姿に化身して現れた教令輪身(きょうりょうりんしん)だとされる。

     

参考文献


   

1.頼富本宏著、講談社、講談社現代新書 密教 悟りとほとけへの道、1995年

2.立川武蔵著、講談社、講談社現代新書 日本仏教の思想、1995年

3.水原舜爾著、大蔵出版、科学時代の仏教、1984年

4.立川武蔵著、講談社、講談社現代新書 はじめてのインド哲学、1992年

5.入矢義高著、筑摩書房、禅の語録8 伝心法要、  1969年

6.松長有慶著、、岩波書店、岩波新書 密教 1997年

7.司馬遼太郎著、中央公論新社、「空海の風景」

8.松本史朗著、東京書籍、東書選書 仏教への道1993年

9.中村元訳、岩波書店、岩波文庫 ブッダの真理のことば、感興のことば 1989年

10.盛永宗興、頼富本宏他著、大法輪閣、さとりとは何か  1987年

11.松長有慶著、岩波書店、岩波新書 密教、 1997年

12.速水侑著、塙書房、呪術宗教の世界

   

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