top 作成:2019年8月8日〜12月5日

西田哲学と禅、脳科学

   
数

はじめに



西田哲学は日本の哲学を代表する初の独創的哲学であり、大正から昭和初期にかけて大きな反響を呼んだ。

1911年、西田幾多郎は自らの参禅体験をもとに、処女作『善の研究』を発表した。

西田はすべての対立、矛盾を統一的に説明する主・客分離以前の直接的経験を「純粋経験」と呼んだ。

西田はそのような主客合一の「純粋経験」が経験の最醇なるものだと考えたからである。

しかし、西田幾多郎はそこにとどまらなかった。

西田が、純粋経験を実在と考え、そこから壮大な存在論を展開したのである。

西田は「純粋経験」の基礎となる根本原理を絶対無だと考えた。

そして、絶対無があらゆる存在(個物)を包括する「無の場所」を実在の根底としての「弁証法的一般者」だと捉えたのである。


この論理を基礎に、主語的論理に対する述語的論理、有の弁証法に対する絶対無の弁証法などを通して、いわゆる「絶対矛盾的自己同一」の弁証法を構築した。

西田はこれによって一切を体系的に説明しようとしたのである。

西田哲学は「」を根底とする東洋的かつ禅的な生命哲学と言える。

それは従来の西洋哲学をも総合的に包括できるとする見方もある。

最近、日本の哲学が注目されている。

古代ギリシャやキリスト教の影響が小さい日本の哲学にヒントがあると考えられているためらしい。

ここでは西田幾多郎の思想について特に合理的(特に脳科学的)な禅の立場からその合理的説明を試みたい。


西田

図1 西田幾多郎(1870〜1945)


   

1

第1章西田幾多郎と禅



西田幾多郎が若い頃禅に興味を持ち坐禅に集中していたことはよく知られている。

彼は明治三十一年(28歳)から約十年間にわたって、坐禅に集中した日を過ごした。

この時期の西田の日記には、来る日も来る日も坐禅の記事が出てくる。

とにかく一日中坐禅をしている。そして節目ごとに老師に参禅している。

西田幾多郎の居士号は「寸心」である。

それは参禅した金沢市郊外の臥龍山の雪門禅師(雪門玄松、京都相国寺荻野独園禅師の法嗣)から与えられたものだった。



注:

金沢市郊外の臥龍山:金沢市の卯辰山(うたつやま、標高141m)の別名。 


「洗心庵」と西田:「洗心庵」は卯辰山の山麓にあった雪門禅師

(もと国泰寺住職、雪門玄松)の草庵である

金沢市の四高教授をしていた頃に西田幾多郎は約九年間「洗心庵」に来て

雪門禅師に師事し参禅していた。

現在はもう草庵は残っておらず、石柱が立っている。


石柱

図2 金沢市にある卯辰山の「洗心庵」跡地に立つ「西田幾多郎先生旧跡」

と彫り込まれた石柱


   
案内板

図3 「洗心庵跡」にある案内板



東京帝国大学哲学科で学んでいた頃には、

鎌倉円覚寺の今北洪川老師(1816〜1892)に入門参禅していた西田は親友鈴木大拙とともにしばしば鎌倉の円覚寺を訪ね参禅していた。

明治36年京都大徳寺山内の孤蓬庵の広州老師に参禅していた西田は8月3日「趙州無字」の公案(無門関第一則)を透過したのである。

「無門関」第一則を参照)。

この時に西田の積年の努力は実を結んだのである。

西田の哲学的処女作「善の研究」は、こうした坐禅修行の結果生まれたと言えるだろう。

しかし、不思議なことに、そこには禅についての言及は全くというほどない。

それには何か理由があるだろうと西田学者たちは詮索してきた。

その理由として以下のようなことが考えられる。

哲学は、物事を説明することを目的としている。

これに対して、禅は「その本質を文字で説明することができない」とする立場(不立文字)に立つ。

禅の思想「達磨の四聖句」を参照 )。

禅は自ら体験・自得するもので、他人に説明することはできないという立場に立つのである。

説明できるようなものは、禅ではないのである。

禅は日常言語では説明できない不立文字の世界を体験することで自得することをを目指しているのである。

以上の事情により、説明できない禅を、説明をこととする哲学の場で取り上げることは、ふさわしくない。

あるいは禅は古臭い東洋的伝統にたつものであり、近代的西洋哲学の場で取り上げると誤解される恐れがある。

西田はそのように考えて禅への言及を避けたと考えることができるだろう。

しかしそれは表面的理由である。

裏面からに見れば、「善の研究」には西田の禅体験が生かされていると考えるのが妥当である。

西田学者の多くがそのように受け止めている。

では、西田はどのような形で自らの禅体験を哲学の中に生かしているのだろうか。

禅について合理的(特に脳科学的)観点から研究している筆者の考えを以下で述べたい。

HP「禅と悟り」を参照 )。

西田幾多郎における、禅体験の哲学への影響の痕を、筆者は二つ取り上げたい。

一つは西田哲学の初期のキーワードとなった「純粋経験」、

もう一つは「」や「絶対無」という西田独特の思考や概念である。  

大徳寺孤蓬庵の広州老師に参禅していた西田は明治36年(1903年)「趙州無字」の公案(無門関第一則)に取り組み、透過した。

この時広州老師は西田青年に見性を許したのである。  

西田が取り組んだ「無門関」第一則は参禅修行によって真の自己(or仏性)に気付くための公案である。

「無門関」第一則を参照)。

筆者による禅の脳科学的研究によれば、真の自己(or仏性)は下層無意識脳を中心とする脳の世界である。

「無門関」第一則に説かれる「」は下層無意識脳を中心とする脳宇宙を指している。 

禅の根本原理と応用を参照)。

「無門関」第一則を参照)。

西田哲学のキーワードである「」や「絶対無」は

下層無意識脳や「」の見性体験と深い関係があると考えることができる。 

西田幾多郎の「純粋経験」の概念は、弧立した概念ではなく、同時代の哲学者たちと問題意識を共有したものであった。

それは、ウィリアム・ジェームズの純粋経験の概念やアンリ・ベルクソンの直観の概念と共通する部分が多い。

しかし、全く同じかと言うと、異なるところのほうが多い。

その違いは、西田の参禅体験に由来すると考えることができる。

ェームズやベルクソンにおいては、純粋経験や直観は、人間の認識の第一次的素材であり、すべての経験がそこから始まる原点のように位置づけられている。

しかし、それはあくまでも素材や端緒である限り、無限定で、内容的にも貧しいものと考えられていた。

この貧しい内容とされる純粋経験や直観をもとに、西田哲学では豊かなものへと高まっている。

西田の言う「純粋経験」は貧弱なものではなく、すべての存在の母となる、非常に内容に富んだものである。

それはジェームズやベルクソンのように、人間の認識作用に対して、外部から働きかけてくる対象的な存在なのではなく、

それ自身が自発的に展開して、世界を生成・発展させる豊かなものである。

それは認識の素材なのではなく、それ自身が世界を生み出していく主体的な存在である。

直観や経験に関する西田の考え方は、西洋の伝統的な思考法ではなく、西田の禅体験が反映されていると考えることができる。

西田は「純粋経験」を「現に色を見、音を聞く刹那、主・客が現前する前」というように言っている。

禅では主・客が現前する前の主客合一の状態を「心境一如(不二)」と呼んでいる。

この主・客が現前する前の「心境一如」の状態においては、対峙している世界が一気に全体的に現れる。

心境一如」は禅的な悟りと深い関係がある。

  その統一体である(心境一如の状態)が主・客に分離・分化することで、我々の認識が深まるのである。

その結果、この世界が一気に全体としてあらわれるという発想(万物一体の思想)は、西洋哲学の伝統にはない。

万物一体の思想は中国で北宋の程(明道)がとくに強調した思想として知られる。

ここで禅の「心境一如(不二)」の境地と「純粋経験」について

合理的(特に脳科学的)立場に立って考えよう。


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 第2章「心境一如」と純粋経験



仏教では眼、耳、鼻、舌、身、意(こころ)の6感覚器官(6根とも言う)とその対象として色、声、香、味、触、法の6境(対象)を考える。

6根が6境と接触(相互作用)すると6識が生ずると考える。

6識とは眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の6つを言う。

科学的には6境(対象)と6根が相互作用することで6識が生まれると考える。

6根+6境+6識は6x3=18となるので18界と言う。

18界を図示すると図4のようになる。 

図4

図4  18界



18界のうち6根と6識を合わせたもの12処と言う。

普通我々は眼、耳、鼻、舌、身、意(こころ)の6感覚器官と6識が生じる脳神経系を自己だと考える。

6根と6識を合わせた12処までが自己で6感覚器官の対象となる6境は自己ではないと区別するのである。

「心境一如(不二)」とは自己とその外境(対象)が合一し一つになることであるから、18界全体を自己だと考えることに相当する。

我を忘れて自己と6境が一体化した時だと考えることができる。

中国思想の「万物斉同」、万物一体、「両忘」、「忘我」の境地に近いと言える。

図4の18界において中心は脳だと考えることができる。

図5は18界の中心にを置いて18界を分かり易く表した図である。

図5

図5  18界の中心は脳である



図5において紫色の点線の内部(脳+感覚器官)が12処に相当する。

図5において。紫色の点線の内部(脳+感覚器官)が我々が常識的に考える自己である。

 12処の外にある6境は自己の外にある他者(外界、外境)だと考える。

それでは、何故、我々は12処までが自己であり、12処の外にある6境は他者(外界)であると区別(認識)するのだろうか?

それは脳(特に理知脳)の認識作用に由来すると考えることができる。

図6においてそれを分かり易く表現する。

図6

図6  脳は12処までが自己であると認識する。



図6において紫色の点線の内部にある緑色の実線の内部が12処に相当する。

脳は緑色の実線の内部(、12処)までが自己であると考え、12処の外にある6境は他者(、外界)であると考える。

我々が普通の意識状態で見聞きする時、常に上層脳(理知脳)の分別意識の影響下にある。

上層脳と下層脳についてはHP「禅と悟り」の「禅と脳科学」を参照されたい。

「禅と脳科学」を参照)。

我々は普通、感情や記憶や知識など分別・分析・先入観など分別意識のフィルターを通して見ているのである。

脳が12処までが自己で、12処の外にある6境は他者であると区別・認識するのはこのような一種のフィルターを通して見ているためだと考えることができる。

そのような分別意識のフィルターのため、脳は12処までが自己で、12処の外にある6境は他者であると区別(認識)すると考えるのである。

この脳を覆う分別意識のフィルターを図6では紫色の点線で表している。

坐禅修行によって下層脳が活性化しストレスなどの煩悩が無くなると、脳は清浄健康になる。

この時分別智(理知脳)の働きと扁桃体を中心とする感情脳の働きも鎮静化する。

そうなると、脳は感情や経験・記憶に基づく 分別意識のフィルターの影響を受けにくくなる。

この時、脳を覆うフィルターは消失し、外界からの情報はフィルターなしに直接脳に入って来るようになる。

フィルターが消失することで、脳は12処の外にある6境も自己であると認識するようになる。

これが心境一如(不二)(万物一体)の状態であると考えることができる。

この心境一如(不二)の状態を図7に示す。

図7

図7 心境一如(不二)」の状態ではオレンジ色の線の内部(18界)

の全てが自己である。



この心境一如(不二)の状態における経験が「純粋経験」であると考えることができる。

例えば、お寺の鐘の音が聞こえた時を考えよう。

心境一如(不二)の状態においては、“ゴォーン”と言う音が直接に脳内入って来て“ゴォーン”と言う音は

外部から入ってきた自分とは異なる外(お寺の鐘)だと分別することなく、自分と一体化して聞こえる。

それはあたかも、「音が自分か自分が音であるかのように」である。

これが純粋経験であると考えることができる。また無心に花を見た時に、花の美しさに我を忘れて見とれてしまうことがある。

この時、花を自分とは異なる外物だと考えることなく花の美しさに我を忘れて花と一体化して見とれてしまう。

これも「純粋経験」だと考えることができる。

純粋経験」について西田は「我々が物を知るということは、自己が物と一致するというにすぎない

花を見た時はすなわち自己が花となって居るのである」と言っている。

 花を見る私は同時に花になっている。

このような経験が「純粋経験」であり、宋学では「万物一体」の境地と呼ばれる。

正眼寺の正眼僧堂師家…山川宗玄禅師は

深い坐禅ができれば、天地と一体、万物と同根という境地にも至る」と言っておられる。

万物一体の境地については「碧巌録」第40則「南泉一株花」 において取り上げられている。

「碧巌録」第40則「南泉一株花」を参照)。

図7に示したように、「心境一如(不二)」の状態では6境を含むオレンジ色の線の内部が自己であると認識するようになる。

従って、「心境一如(純粋経験)」とは

主客の対立が無くなることによる「自己の拡大」である

と考えることができる。

この時、

自己は12処から18界全体(全宇宙)に広がるのである。

道元は正法眼蔵「即心是仏」の巻において「明らかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」

という不思議な言葉を残している。

心が山河大地であり、日月星辰である」とは我々には全く納得できないことである。

この不思議な言葉はイ山霊祐(771〜853)と仰山慧寂(807〜883)の次ぎのような会話に由来する。

師であるイ山霊祐が弟子の仰山慧寂に質問した、「お前さんは妙浄明心をどのように理解しているのかね?」

仰山慧寂は答えて言った、「山河大地、日月星辰です」。 

この会話から仰山は「妙浄明心とは山河大地、日月星辰である。」と答えていることが分かる。

正法眼蔵「即心是仏」(第5文段)を参照)。

仰山慧寂は「坐禅修行で妄想分別を徹底的に奪い尽くすことで得られる妙浄明心(純粋意識)で見ると心は山河大地、日月星辰と一体となる。」

と「心境一如」の境地を言っていると言える。

心境一如」の境地は既に示した図7によって説明できる。

心境一如」は宋学の「万物一体」の思想と同じである。

「心とは山河大地、日月星辰である」を参照 )。

万物一体や心境一如の思想と境地は禅だけではなく中国思想(特に宋学)で重要である。

イ山霊祐と仰山慧寂の会話では「妙浄明心」という言葉が出て来ている。

妙浄明心」とは単なる心ではなく、坐禅修行を通して健康になった脳に基づいた心境一如の心であることが分かる。

「伝心法要」において黄檗希運はこの心を本源清浄心」と表現している。

心境一如」の境地にあるときの経験が「純粋経験」だと言える。

以上の考察から西田の「純粋経験」は坐禅修行によって生まれる健康な心(=健康な脳)と密接な関係があることが分かる。

特に坐禅中には意識を呼吸などの対象に集中し一つになろうとする。

この意識の集中によって一つになり切ろうとする作業も「純粋経験」を助けると思われる。



3

第3章 西田と欧米哲学



西田幾多郎は、ウィリアム・ジェームやベルクソンらの直感主義の立場を参考にしながら

、自己の純粋経験(「心境一如」の禅体験)に基づいて純粋経験のアイデアを思いついたと考えられる。

西田幾多郎は、ウィリアム・ジェームやベルクソンらの直感主義の立場を参考にしながら、純粋経験のアイデアを展開する。 

それだけなら、西田は、あまり独創的な思想家と評価されなかっただろう。

せいぜいウィリアム・ジェームやベルクソンらの直感主義の亜流くらいの評価を得たくらいだと思われる。

しかし、西田幾多郎はそこにとどまらなかった。

それは西田が、自己の純粋経験(=「心境一如」の禅体験)に基づいて壮大な存在論を展開したからである。

ここではそんな西田幾多郎の哲学と思想について、考えてみたい。


4

4章 弁証法的一般者と「場所の論理」



西田の(中期以降の)思想の最も大きな特徴は、一般者の自己限定によって個物及び個物からなる世界全体が生じると考えることにある。

判断的一般者が自己限定することで自然界が、自覚的一般者が自己限定することで意識界が、

叡知的一般者が自己限定することで叡知的世界が生じると考える。

ところが、晩年の西田は、これとは別に弁証法的一般者という言葉を多用するようになる。

これは一般者を、個物との動的な関係において捉えた概念である。

それでは、「弁証法的一般者」とはどのような概念だろうか。

まず、「個物」は「個物」に対することで、真の「個物」であると言うことができる。

なぜなら、唯一つの「個物」というものは考えられないからである。

そして、「個物」と「個物」が互に相働くには、「個物」と「個物」とを媒介する媒介者を必要とする。

これが「媒介者M」と呼ばれるものであり、「弁証法的一般者」を意味する。

個物とは、単なる個人ではない。それは、「私」と「汝」と「彼」という三者が互に限定し合う「人格的自己」である。

「弁証法的一般者」と個物の関係は次の図8で表すことができる。



図8

図8 弁証法的一般者」は「個物」と「個物」とを媒介する媒介者である。



図8において、両矢は媒介を表している。

西田がこのような概念を用いた背景には、人間についての見方が深まったことが考えられる。

以前の西田は、自覚的一般者が自己限定することで意識界が生じると言っていた。

西田にとって個別の人間はこの意識面で代表された抽象的な存在であった。

ところが現実に生きている個別者としての人間は抽象的な存在ではない。

人間は、生きた身体を持ち、社会や歴史に働きかける社会的・歴史的な存在である。

そのことを西田は、次のように表現している。

我々の個人的自己というものも、単に個人的自己として考えられるのではなく社会的・歴史的に限定せられたものとして、有ると考えられるのである。」

(西田「弁証的一般者としての世界」)

このように西田が、人間を社会的・歴史的存在として捉えなおした背景には、マルクス主義の影響があると考えられる。

晩年の西田は、弟子格の戸坂潤等からの挑発もあって、人間と社会との関連を、ダイナミックに捉えようと考え始めた。

従来の西洋哲学の伝統では、人間は意識の担い手として捉えられる。

意識の担い手としての人間が自己をとりまく外部世界と相互作用すると考えられてきた。

まず意識を持つ個人がある。その後に個人を取り巻く外界の環境世界があった。

西田はこの考え方を改めて、人間とは社会的・歴史的存在として、社会によって影響され限定されたものだと考えるようになったのである。

西田は「個人というものがまずあって、それから言表というものが成立するというのではない

個人というものは、かかる世界の自己同一的限定として考えられるものに過ぎない

我々の意識はかえって社会的意識から始まるのである」と述べている。

(西田「弁証的一般者としての世界」)

このように西田は、人間の個人的意識と社会的な意識とが相互に影響し、限定しあう縁起的な関係にあると考えていた。

そのように考えると、西田は、社会的な意識レベルを弁証法的一般者と言ったと思われる。

このように個物と一般とが相互に影響し限定しあう縁起的関係を西田は、弁証法的という言葉で表現したと考えることができる。

西田が言う「弁証的一般者」は「社会的意識」や「世界的意識」とでも言える

抽象的意識のようなものかも知れない。

西田は、個物と一般との関係において、一般のほうが主導的な役割を果すと考えている。

西田は、世界を、場所としての一般者が自己限定して成立するものと考えているのである。

図8において、西田は社会的意識としての「弁証法的一般者」が個物(個人の意識)に強い影響を及ぼすと考えていたと言えるだろう。

西田は「意識というのは各人に属するものではなく、一種の公の場所でなければならない

各人の意識というものはかかる意識面の個別的に考えられたものである

と述べている。

(西田「弁証的一般者としての世界」)

筆者は

西田の言う「意識は各人に属するものではない

という考え方には賛成できない。

筆者は

意識は、結局のところ個人の脳の中で生れる」

と考えるからである。

西田は個人的意識より、社会的集合的意識を重視していたのである。

このような考えのもと、西田は、弁証的一般者と具体的な人間である個物との、縁起的な相互関係について考察を進めて行く。

その時にも、人間を歴史的・社会的存在とするマルクスの考え方を意識していると考えられる。

西田幾多郎は、参禅体験に基づいた純粋経験(「心境一如」の体験)から出発したと考えられる。

その問題意識を思想的に深めるため、自覚を経て場所の思想へと変転して行った。

場所とは、すべての経験がそこにおいて成立する意識の舞台であり、あらゆる実在の基盤である。



5

5章 絶対無の自己限定

場所は究極的な一般者と言われることもあるが、西田に於いて、場所とは、一般者と自己を限定して個物を生じるものである。

したがって個物からなるこの世界の存在根拠となるものでもある。

その場所あるいは一般者を西田は「」と言い、場所の中でも最も高次元の場所を「絶対無」と言った。

あらゆる存在(個物)を包括する場所としての「絶対無」は、参禅中に西田が取り組んだ「無門関」第一則の公案の主題が「」である

ことから容易に推測することができる。

「無門関」第一則を参照)。

「無門関」第一則の公案の主題である「」を脳科学的に考えると、

坐禅修行によって活性化される下層脳(脳幹+大脳辺縁系)中心とする無意識脳を指している。

下層脳(脳幹+大脳辺縁系)中心とする脳は生命情動脳であり、かつ無意識脳である。

下層脳(脳幹+大脳辺縁系)を中心とする脳は人間の生命と情動を支える生命情動脳である。

無意識脳であるから、「」と呼んでも良い。

「禅と脳科学」を参照)。

これを図9に示す。



図9

 図9  西田哲学の「」は「無門関」第一則の「無」である。

科学的には下層脳(脳幹+大脳辺縁系)中心とする脳の無意識をさす。



 西田が言う「絶対無」とは下層脳(脳幹+大脳辺縁系)中心とする脳の「無意識」を哲学的に更に抽象化し高次元化したものと言える。

これを図10に示す。



図10

図10 「無門関」第一則の「無」の悟りを高次元化して

絶対無」の概念が生まれた。



これを見ても分かるように、「」と「絶対無」の間には文学的表現の違いはあってもには本質的な違いはない。

これより、西田が人間存在に対し、「」と言う言葉を重視し主張する理由が禅経験にあることが分かる。

西田が参禅した臨済禅(京都大徳寺)の見性体験においては「」の悟りが最初の関門とされる。

このように考えると、西田哲学における「」や「絶対無」という言葉の脳科学的意味がはっきりする。

禅の根本原理と応用を参照)。

西田が言う場所とは意識が生まれる場所を意味する。

意識が生まれる場所は、脳であるから、科学的には場所=だと考えても良いだろう。

従って、西田の場所の論理は、脳に基づいた論理であると結論できるだろう。

西田哲学では、場所は一般者と言い換えられるが、その一般者の中に西田は、判断的一般者(判断の場所)、自覚的一般者(自覚の場所)、叡智的一般者

(叡智の場所)を区別し、

それぞれの場所に対応して、自然界、意識界、叡智的世界が生成すると考えた。

自然界は判断的一般者が自己限定することで、意識界は自覚的一般者が自己限定することで、

叡智的世界は叡智的一般者が自己限定することで、それぞれ生成すると考えたのである。

表1に西田哲学における一般者と場所の論理を表にして示す。



表1

表1 西田の一般者と場所の論理



表1は一般者の働きによってそれぞれの意識界が生成することを表している。

表1より、一般者とは判断、自覚、叡智の働きをする主体としての

(特に理知の働きを生む大脳新皮質=理知脳)を指していることが分かる。

場所とは判断、自覚、叡智の働きをする一般者の場所だと考えることができる。

従って、その場所は(特に理知脳)と言える。

3列目(生成する世界)は一般者の働き(=理知脳の働き)によって、

自然界(意識)、意識界、叡智的世界、のような意識界が生成することを表していることが分かる。

そのように考えると表1で表される場所の論理とは

一般者」である脳(理知脳)の働きによって

自然界、意識界、叡智的世界、が生成することを表わす単純な表になる。

これを表2に示す。



表2

表2 西田の一般者と場所の論理の脳科学的解釈。



表2より、西田が言う一般者と場所は同じ(理知脳)であることが分かる。

これまでの考察より、西田哲学の「」や「絶対無」の概念は主として、下層脳(脳幹+大脳辺縁系、無意識脳)に基づく概念であることが分かる。

また、表2より、西田が言う

一般者場所の論理上層脳(理知脳=大脳新皮質)に基づいた概念であることが分かる。

また「」や「絶対無」の概念は下層脳(脳幹+大脳辺縁系)と深い関係があることから、

一般者」、「」、「絶対無」など西田哲学の主な概念は

すべて、脳や脳機能と深い関係があることが分かる。

これを次の図11に図示する。



図11

図11 「一般者と場所の論理」は脳と深い関係がある。



図11の上層脳脳(理知脳の働きを生む大脳新皮質)と下層脳(脳幹+大脳辺縁系)については禅と脳科学を参照されたい。

「禅と脳科学」を参照)。

既に見たように、「一般者」と言う概念において、西田は個人的意識より、社会的集合的意識を重視して考えていた。

従って、西田がいう一般者とは個々の人間の脳(特に理知の働きを生む大脳新皮質)ではなく、

その社会的集合体から生まれる社会的意識を対象にしていたと考えられる。

一般者の働き(社会的理知の働き)によってそれぞれの意識界が生成することを表していることと考えられる。

個人的意識は個々人の脳から生まれることははっきりしている。

しかし、社会的集合的意識がどのようにして生まれ存在するのかははっきりしない。

その観点から西田の一般者の概念は分かり難いところがある。

本来哲学は個々人の思想や生き方に直結するものである。

そのため以下では社会的集合的意識を考え論じるよりは個々人の問題に重点をおいて考え論じたい。

西田においては、それぞれのレベルの一般者(場所)は無(下層脳)である。 

そして最高次元の一般者(場所)である叡智的一般者は絶対無である。

最高次元の一般者(場所)は絶対無であることから無意識脳である下層脳(脳幹+大脳辺縁系)を中心とする

無意識脳から生まれるものだと考えることができるだろう。

下層脳(脳幹+大脳辺縁系)中心とする無意識脳は禅の悟りの智慧である「無分別智」の中心である。

無分別智」は仏陀の悟りの智慧として、仏教や禅では最高の智慧として重視されている。

西田が叡智的一般者は絶対無だとしたのは叡智的一般者は仏教の悟りの智慧としての「無分別智」に対応する意識と智慧を考えたことを意味する。

これより、西田が叡智的一般者は絶対無だと考えたのは参禅修行によって

仏教の最高の悟りの智慧である「無分別智」に到達することを最終目的として目指していた

ためと推測できるだろう。

これを図12に図示する。



図12

図12 西田が叡智的一般者は絶対無だと考えたのは

参禅修行によって「無分別智」に到達することを目指したためと推測される。



図12に示したように、

西田哲学の場所の論理と絶対無は禅の「無分別智」と深く結びついている。

「場所の論理」と「絶対無」は、脳科学によって合理的に説明することができることは既に見た。

既に見たように、「一般者」と言う概念においては、西田は個人的意識より、社会的集合的意識を重視して考えていた。

個々(個々人の脳)の働きについて考えることはできても、その社会的・歴史的集合体から生まれる意識を考えることは至難である。

西田哲学において、個物は無であるところの一般者が自己限定することで生成するとされる。

叡智的世界を構成する個々の要素(美的世界や宗教的世界)は、絶対無から生成する。

これは個々人の存在を支えるのは下層脳(脳幹+大脳辺縁系)を中心とする「無」(無意識脳、生命情動脳)であることを意味している。

下層脳(脳幹+大脳辺縁系)中心とする無意識脳は生命情動脳であることから妥当な主張だと考えられる。

「禅と脳科学」を参照)。

このように考えると、西田哲学における「無」という言葉の科学的意味と禅との関係がはっきりする。

哲学的な通念においては、有とは存在であり、無は非存在である。

しかし、西田哲学において「無」という言葉が下層脳(脳幹+大脳辺縁系)を中心とする無意識脳だとすると、無といっても決して非存在ではない。

下層脳(脳幹+大脳辺縁系)を中心とする無意識脳の働きである「無」(無意識)は

個々人の身心において実体をもった存在であることがはっきりするのである。

このように、西田哲学において「無」は非存在ではなく実在である。

禅においても無は単なる無ではない。

下層脳(無意識脳)に基づいた「無」(無意識)である。

それと同様に西田哲学において無は単純な無ではない。

下層脳(無意識脳)に基づいた「無」(無意識)であることが分かる。

それは白隠禅師の坐禅和讃において「無相の相を相として・・・

と詠われるように、坐禅体験に基づいて実感されるものである。

白隠禅師の坐禅和讃を参照)。

大乗仏教では、しばしば、無は空とも考えられる。

空や無は意識に上らないから存在しないかのように考えられる。

しかし、禅では、空は「真空妙有」とも呼ばれ、確かに存在するものとされる。

その理由は無の本体が無意識脳(脳幹+大脳辺縁系)であり、

意識によって捉えられないから存在しないかのように見えるだけである。

しかし、生命情動脳に基づく「」は確かに我々の生命と情動を支えている基盤である。

 一般的には、無は有の対立概念であり、両者は互いに排斥する。

論理的には、両者の間には矛盾率や排中率が成立する。

論理学では、在るものは、存在しつつかつ存在しないことはない(矛盾率)。

論理的には存在するか存在しないかのどちらかである。

その中間はないとされる(排中率)。

つまり、有でありつつ無であることはありえない。

これは論理学の基本的法則である。

しかし、科学や禅の「四句論理」では有でありつつ無であることが成立する(双亦の論理)。

科学でも有でありつつ無であることが成立する。

四句論理と双亦の論理を参照)。

双亦(そうやく)の論理は量子力学の論理と関係する。

量子力学では波動関数において「重ねあわせの原理」があり、量子コンピュータの論理を支えている。

量子力学では、状態Aと状態Bの波動関数の重ね合わせによって新しい状態が生まれる。

図13に状態Aの波動函数と状態Bの波動関数の重ね合わせによって生まれる新しい状態ABの波動函数(1)式を示す。



図13

図13 状態Aと状態Bの波動関数の重ね合わせによって生まれる

新しい状態ABの波動函数は(1)式で表すことができる。



係数a=bの時、(1)式は(2)式になる。

(2)式で表される状態ABは状態Aと状態Bの存在確率が等しい。

このため、(2)式の状態ABは状態Aでもあり状態Bでもあるという新しい状態になるのである。

今、状態Aを「有」の状態、状態Bを「無」の状態だと考えよう。

この時、(1)式で表わされた状態ABは「有」でもあり「無」でもあるという状態となる。

(1)式で表わされた状態ABにおいては状態A(=「有」)と状態B(=「無」)の 存在確率はそれぞれ50%となる。

量子力学では「重ねあわせの原理」によって、有でありつつ無であることが成立する。

禅でも「双亦の論理」によって有でありつつ無であることが成立する。

双亦の論理」は西洋のアリストテレスの論理にはない論理である。

このように考えると禅の「双亦の論理」は量子論理である

と言えるだろう。

この量子論理は量子コンピュータの基礎原理となっているのである。

西田は量子力学を学んだとは考えられない。

しかし、西田は禅や仏教を通して「四句論理」を学んだことは充分考えられる。

四句論理」は2世紀頃インドの仏教哲学者竜樹(ナーガルジュナ)によって創始された論理としてよく知られている。

しかし、西田哲学における「無」の論理は自然に量子論理を取り入れているのは不思議というほかない。

四句論理と双亦の論理を参照)。

ところで西田哲学での議論では、が自己限定してが生成するという構図になっている。

からが生じるのである。

存在しないもの(無)から存在するものが生成するということは論理学的には矛盾する。

ここには矛盾率も排中率もないように見える。

これは論理学によって抽象的に考えるから起きる矛盾である。

これは生命の歴史を考えれば、以下にみるように合理的に解決される。



6

6章 生命の歴史にみる無と有



38億年におよぶ生物進化の歴史を考えると、哺乳類が登場する以前の脊椎動物は脳幹を中心とする無意識脳(爬虫類脳)を持つ両生類や爬虫類である。

約2億2500万年前、この爬虫類が進化して哺乳類脳を持つ猫や犬などの哺乳類が登場する。

さらに約6000万年前に哺乳類から進化した霊長類が登場する。

そして20万年〜25万年前、霊長類から、発達した大脳新皮質=上層脳(理知脳)を持ち、

高度な精神活動が可能な人類(ホモ・サピエンス)が出現したと考えられている。

このように脳は原始的な無意識脳(爬虫類脳)→哺乳類脳理知脳(人間脳)へと進化したのである。

この進化の歴史において、無意識脳(爬虫類脳)を無、理知脳を有と考えれば、無から有が生じたと考えることができる。

生物における無から有への進化を図14に示す。



を図14

図14 脳の進化(爬虫類脳から人間脳への進化)の歴史は無から有への変化である。



このように、生命や脳の進化の歴史においては、無から有が生じることは可能である。 

生命進化の歴史を考慮に入れると、西田は「」と言い「」と言いながら、それらを伝統的な哲学とは異なった意味で用いていると考えることができる。

西田のこれらの言葉の使い方は、西田独自である。

西田は、ある言葉を厳密な定義なしに、自己流の意味で使っているのである。

」という言葉もその一例で、西田はこの言葉を通常の意味での「何もない」とか「存在しない」という意味で使ってはいない。

西田学者の小坂国継が指摘しているように、西田が「有・無」と言うときには、意識の対象という意味で使っている場合がある

(小坂「西田幾多郎の思想」)。

この場合には、意識の対象となりうる色形あるものを西田は有という。

これは仏教の「(物質)」という言葉に対応している。

これに対して、絶対に意識の対象とならない無意識に基づいたものを西田は無という。

これは仏教の「」という言葉に対応した言葉だと考えられる。

」を「」に、「」を「」に対応させると西田は般若心経の「色即是空」の世界を意識していると言えるだろう。

般若心経を参照)。

般若心経は禅宗寺院ではよく読誦される経典である。

西田は大徳寺など禅宗寺院で参禅修行しているので、般若心経を読み、「色即是空」という言葉の意味するところは良く知っていたと考えられる。

「無」は禅の「無の悟り」に基づく「」や無心など無意識脳としての生命情動脳(脳幹+大脳辺縁系)

に基づいて現れ作用すると考えれば合理的に理解できる。

禅の「無の悟り」については無門関」第一則を参照されたい。

「無門関」第一則を参照)。

無意識脳としての生命情動脳(脳幹+大脳辺縁系)のような、意識の基礎にあって意識されないものや形象化されないものについて、

西田は「」という言葉で表していると考えることができる。

  だからと言って、それは存在しない、非存在の「」ではない。

むしろこのような意識されないものこそ人間の意識や生命の底にあるもので、真の意味で存在しているのである。

」は無意識脳としての生命情動脳(脳幹+大脳辺縁系)に基づいた真の実在といえる。

禅ではこれを「真空妙有」と言う。

」の考え方は西田の禅体験に基づいていると言えるだろう。 

ところで「」の中でも究極の無、それを西田は「絶対無」という。

その「絶対無」とはどういうものだろうか。

西田は「」と言う言葉を意識の作用面をイメージして使っていた。

その意味では、「」と言う言葉は自覚的一般者(自覚の場所=理知脳)についてもっとも適切だと考えられる。

自覚的一般者とは、人間の意識の作用面について言っている言葉である

(表1と表2を参照)。

ところが西田は、自覚的一般者を包み込むような形のもっと包括的な一般者として叡智的一般者というものを考えている。

絶対無」はこの叡智的一般者(叡智的世界を生成する場所)の属性として考えられているのだ。

叡智的世界を生成する場所は

科学的には(特に前頭前野を中心とする理知脳)である。

ところが、脳は意識で捉えようとしても捉えることができないし、見ようとしても見ることはできない。

このように捉えどころのないものを「」と表現していると考えることができる。

叡智的一般者の属性として考えられている絶対無はすでに考察した生命情動脳=下層脳(脳幹+大脳辺縁系)だと考えると合理的で分かり易い。

この時叡智的一般者とは

仏教の最高の悟りの智慧である「無分別智」だ

と考えることができるだろう。

西田は大正十二年頃次のような和歌を詠んでいる。



わが心 深き底あり喜びも憂いの波も届かじと思ふ



世をはなれ人を忘れて我はただ己が心の奥底にすむ



この和歌に現れる「わが心の深き底」や「己が心の奥底」は

坐禅中に活性化される無意識脳である生命情動脳=下層脳(=脳幹+大脳辺縁系)

から生まれる深い喜びや憂いの波を指していると考えると分かり易い。

科学的には意識では捉えることができない脳宇宙の電磁的世界を表していると考えることもできる。

「禅と脳科学」を参照)。

叡智的一般者(絶対無)は、一方では判断的一般者と自覚的一般者を包摂する高次の一般者として位置づけられている。

それとともに、それ自身の世界をも持つとされる。

表1で見たように、判断的一般者が自己限定することで意識内に自然界が生成し、

自覚的一般者が自己限定することで意識界が生成するように、

叡智的一般者が自己限定することで、叡智的一般者に対応するレベルでの叡智的世界が生成してくる。

叡智的世界と言う言葉で西田がイメージしているものは、芸術や宗教のほか、

人類全体の歴史的形成体といえるあり方全体を包括する壮大なものであるようである。

しかし、既に見たように、脳科学の観点からは、無や絶対無は下層脳(生命情動脳)に基礎を持ち、

自己限定することで、さまざまが個別的な世界が生成してくる、という構造になっている(表1、2を参照)。

この考え方も西田の禅体験と関係あると考えられる。



7

第7章 絶対矛盾的自己同一



西田の晩年のキーワードのひとつに「「絶対矛盾的自己同一」がある。

西田の哲学用語には意味がはっきりしないものが多いが、「絶対矛盾的自己同一」という言葉は特に分かり難い。

第一に、「絶対矛盾的」という言葉からわからない。

矛盾とは、ある事柄がAでもあり、かつ非Aでもあることはありえないことである。

西田はそれに「絶対」という形容詞を付ける。

  この「絶対矛盾的」という言葉が「自己同一」にかぶさると、難解さが更に増す。

「自己同一」とは、ある事柄がそれ自身と矛盾していないことである。

Aは自分自身と矛盾していない、というのが「自己同一」という言葉の意味である。

絶対矛盾的自己同一」という言葉の意味がよく分からないのは、西田に責任があると言えるだろう。

この言葉を論じた論文「絶対矛盾的自己同一」においても、西田はこの言葉を、定義抜きでいきなり持ち出している。

上記論文で西田の「絶対矛盾的自己同一」という言葉が最初に現れる部分を見てみよう。

物が何処までも全体的一の部分として考えられるということは

働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり

現実というものがなくなることである

世界の現実は何処までも多の一でなければならない

個物と個物との相互限定の世界でなければならない

故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。」

(西田「絶対矛盾的自己同一」)

この文章は、論文の冒頭部分に出て来る。

冒頭部分でこの論文のテーマである「絶対矛盾的自己同一」について上記のように述べている。

西田は、この言葉を定義するつもりはないのである。

この言葉は、西田と読者の間ではすでに了解済みと前提されているようである。

この文章の前段で言われていることも、西田哲学に精通していない者にとっては、何を言っているのか分らないだろう。

ここでキーポイントとなるのは「多と一」という言葉である。

禅的観点に立って考えると、「」は個人の意識的諸事象を、

」は世界全体の統一的存在である真の自己(=健康な脳)を指すと考えることができる。



西田はここで、個人と世界とは相互限定的な関係にあると言っている。

だから、ある一面だけを強調してはならない。

たとえば諸個人を軽視して世界全体ばかりを強調すれば、働くものがなくなり、世界は静止的なものになってしまう。

ここで働くものというのは個人のことを指している。

個人の働きのない世界は、単なる静止的な世界になるしかないと言っているのである。

この「多と一」で象徴されるような、全体と部分、

世界と個人との相互限定的な関係のあり方を

西田は「絶対矛盾的自己同一」という言葉で表しているように見える。

多と一」について西田は「善の研究」において次のように述べている、

統一力と統一せらるる者と分離した時には実在とならない

例えば人が石を積みかさねた様に、人と石は別物である

かかる時には石の石を積みかさねは人工的であって、独立の一実在とはならない

そこで実在の根本的方式は一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである

而してこの二方面は離すことのできないものであるから、つまり一つの者の自家発展ということができる

独立自全の真実在はいつでもこの方式を備えて居る。然らざる者は皆我々の抽象的概念である。」

(「善の研究」第5章「真実在の根本的方式」)

多と一」の意味するところは、脳科学に基づいた禅的な考え方を導入すると解決する。

禅ではというのは諸々の意識的事象を、

は世界全体の主体となる自己本来の面目としての真の自己(=下層脳中心の健康な脳)を指すことが多い。

禅では「一即多、多即一」という言葉をよく用いる。

その場合、というのはもろもろの意識的事象、

は世界全体の主体となる真の自己(=下層脳中心の健康な脳)を意味する。

脳内ではもろもろの事象()が生まれ意識に上って来る。

しかも、この発生源は根本的な で比喩的に表されるである。

またで比喩的に表される脳は平等という性質を有する。

平等という性質はとくに禅定(三昧)に入った時に現前する。

また、脳内で生まれる意識的な事象は諸々であり差別的である。

そのことを仏教や禅では「平等即差別差別即平等」という言葉で表現するのである。

平等即差別、差別即平等」という言葉は「一即多、多即一」という言葉と同じ意味である。

図15に禅的な考え方である「一即多、多即一」の考え方を図示する。



を図15

図15 「一即多、多即一」の考え方



脳内におけるもろもろの意識的事象()の発生源は自己本来の面目(真の自己=下層脳中心の健康な脳)であり、それは一つである。

禅では自己本来の面目を象徴するは参禅修行者の真の自己を指し、自己の主体(=世界全体の主体)となる脳を指している。

「多」とは「(脳)」から発生する諸々の意識的事象を指す。

図15は諸々の意識現象()は真の自己である脳()から生まれ、

諸々の意識的事象()は

真の自己である脳()に帰着することを表している。

その意味でも、「一即多、多即一」である。

西田の言葉、「世界の現実は何処までも多の一でなければならない。         

個物と個物との相互限定の世界でなければならない。」

はそのように考えることによって合理的に理解できる。

脳()は二層脳モデルでは次の図16で示すように上層脳と下層脳から成る。

「禅と脳科学」を参照)。



図16

図16  脳の二層脳モデル



図16の中の上層脳は人類が現生人類(ホモサピエンス)に進化した時に急激に進化した大脳新皮質(理知脳)を指している。

これに対し下層脳(脳幹と大脳辺縁系)は生命情動脳で犬や猫などの哺乳類の脳である。

人間の脳は犬や猫などの哺乳類の脳の上に大脳新皮質(理知脳)が被さって発達した構造になっている。

下層脳は古い脳であり、上層脳は新しい脳である。

マクリーンの脳の三層構造を参照)。

下層脳(脳幹と大脳辺縁系)は犬や猫などの哺乳類の脳で本能や感情の中心である。

本能の中心である下層脳(脳幹と大脳辺縁系)は人の心において理知脳(上層脳)と本質的に矛盾し対立する。

また「愛」と「憎しみ」の感情も脳内において本質的に矛盾し対立する。

理性と本能の矛盾・対立や「愛」と「憎しみ」の感情は脳内において本質的に矛盾し対立する。

しかし、それらの概念は、概念としては、自己の脳内において絶対的に矛盾し対立するにも拘わらず、

自己の脳の中では同質なものとして平和裏に共存している。

理性と本能の対立以外に重要な矛盾対立は主観と客観の対立であろう。

主観は下層脳(動物的本能や感情中心の脳)中心の観方、客観は上層脳(大脳新皮質の理知中心の人間脳)の客観的観方と言える。

主観と客観の対立も上層脳と下層脳の矛盾的対立である。

この主観と客観の対立も

同じ人間の脳()中で渾然一体のものとして共存している。

愛と憎しみの心や正−邪、神(善)―悪魔(悪)などの概念の対立も、特に強く意識しないかぎり、同様であろう。

  特に坐禅中には心は一つに統一され、三昧の状態になる。

この時、心は渾然一体と、一つになる。

この時、雑念は寂滅し、世界は静止したようになる。

愛-憎、正-邪、神(善)-悪魔(悪)などの2相の対立が生じないところを

禅では「一相三昧」と呼び、純一無雑な仏智だと考えている

(六祖壇経)。

この時、図16に示したような矛盾対立も脳()中で渾然一体・同一のものとして静かに共存している。

このような心のあり方を西田は「絶対矛盾的自己同一

という言葉で表現していると考えることができるだろう。

たとえ、心が活動し、多くの事象が対立しても、そのような対立も脳()の無数の働きの一場面に過ぎない。

本来一つの脳の多様な作用(働き)の一場面に過ぎないから対立や矛盾も本質的なものではない。

絶対矛盾的に対立していても、特に強く意識しないかぎり、自己の心の中では本来一つのものとして平和的に共存しているのである。

  このように考えると「絶対矛盾的自己同一」という言葉は合理的で科学的にも分かり易い。

図15で表した「一即多、多即一」という禅的な表現も理解できる。

図15においては脳を、事は脳内で生れるの事象(思考や思念)をそれぞれ表している。

一つの脳内での多くの事象(思考や思念)生じるのが「一即多」である。

また脳内で生れる多くの事象(思考や思念)はその根源を追求すると一つの脳宇宙に帰着することを「多即一」で表現している。

脳内で生れる多くの事象「」とその根源である脳()の間には矛盾的ではあっても密接な関係がある。

そのような関係を西田は「絶対矛盾的自己同一」という言葉で表現したと考えることができるだろう。


絶対矛盾的自己同一」につながる考え方や発想は突然生まれた思想ではない。

それにつながる思想は主著「善の研究」にも次のように見られることからも推測できる。



実在は自分にて一つの体系をなした者である

我々をして確実なる実在と信ぜしむる者はこの性質に由るのである

これに反し体系を成さぬ事柄は例えば夢の如くこれを実在とは信ぜぬのである

右の如く真に一にして多なる実在は自動不息でなければならぬ

静止の状態とは他と対立せぬ独存の状態であって、即ち多を排斥したたる一の状態である

しかしこの状態にて実在は成立することはできない

もし統一によって或る一つの状態が成立したとすれば直にここに他の反対の状態が成立して居らねばならぬ

一の統一が立てば直にこれを破る不統一が成立する。真実在はかくの如き無限の対立を以て成立するのである

物理学者は勢力保存などといって実在に極限があるかの様にいって居るが

こは説明の便宜上に設けられた仮定であって、かくの如き考は恰も空間に極限があるというと同じく

ただ抽象的に一方のみを見て他方を忘れて居たのである

活きた者は皆無限の対立を含んで居る。即ち無限の変化を生ずる能力をもったものである

精神を活物というのは始終無限の対立を存し、停止する所がない故である

もしこれが、一状態に固定して更に他の対立に移る能わざる時は死物である

実在はこれに対立する者に由って成立するというが、この対立は他より出で来るのはなく、自家の中より生ずるのである

前に云った様に対立の根底には統一があって、無限の対立は皆自家の内面的性質より必然の結果として発展し来るので

真実在は一つの者の面的必然より起こる自由の発展である。」

(「善の研究」 第5章 真実在の根本的方式 )。


上述の西田の言葉において


1.

真実在はかくの如き無限の対立を以て成立するのである。」


2.

活きた者は皆無限の対立を含んで居る。即ち無限の変化を生ずる能力をもったものである

精神を活物というのは始終無限の対立を存し、停止する所がない故である

もしこれが、一状態に固定して更に他の対立に移る能わざる時は死物である。」

などの言葉は「絶対矛盾的自己同一」にすぐつながるような思想といえる。



3.

実在はこれに対立する者に由って成立するというが、この対立は他より出で来るのはなく、自家の中より生ずるのである。」

対立の根底には統一があって、無限の対立は皆自家の内面的性質より必然の結果として発展し来るので

真実在は一つの者の面的必然より起こる自由の発展である。」

という「善の研究」に見える西田の言葉において

対立」を「自己の中で生じる対立や矛盾」と考え、「自家の中」を「脳中」だと考えれば、

無限の対立矛盾は脳の性質より自己の脳中で必然的に生まれ発展するが、その対立と矛盾の根底には統一がある」と言っていることが分かる。

このような言葉は「絶対矛盾的自己同一」の「考え方」を易しく説明していると言えるだろう。

このように、「絶対矛盾的自己同一」につながる考え方や発想は既に「善の研究」に見られる。

絶対矛盾的自己同一」という考え方は何も西田哲学の後期に突然あらわれた思想ではないことが分かる。

主著「善の研究」に既に内包されていた思想だと考えることができる。



西田の時間論



絶対矛盾的自己同一」のもうひとつの例として西田が述べているのが時間である。

時間について西田は、

過去と未来とが相互否定的に現在において結合し

世界が矛盾的自己同一的に一つの現在として形成し行く

と述べている。

脳の進化の歴史で考えると、下層脳(脳幹と大脳辺縁系)は動物脳であるから過去を表し、

人間の理智を表す上層脳は未来や現在を表していると

考えればこの文章も分かり易くなる。

「過去の古い脳(下層脳)と未来の新しい脳(上層脳)が相互否定的に現在において結合し

現在として形成している脳の姿について述べている」と考えることができる。

この考え方を図17に示す。



図17

図17過去と未来とが相互否定的に現在において結合し

世界が矛盾的自己同一的に一つの現在として形成し行く



「過去を表す古い動物脳(下層脳)と未来を表す理智脳(=人間脳=上層脳)は相互否定的に現在において結合し、

世界が矛盾的自己同一的に一つの現在の上層脳(理知脳=人間脳)として形成し行く」

と脳の進化の歴史を表現していると解釈できる。


おおまかに議論すると、過去(下層脳、動物脳)と未来(上層脳、理知脳)という

相互に矛盾対立するものが同一の脳のなかで存在するのは脳の進化の歴史に於いて生まれた矛盾である。

そのような、矛盾を含んだ上に生まれた現在の脳は古い下層脳(動物脳)の上に新しい上層脳(理知脳)が加わり一体化し現在の脳が形成されている。

図17はそのような現在の脳の姿を示している。

西田は「そのような脳の構造と進化の歴史絶対矛盾的自己同一と表現するしかない」

と言っていると解釈できるだろう。



8

第8章絶対矛盾的自己同一と不二法門


西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」の考え方は仏教(特に禅)で有名な「不二法門」と深い関係があるように思われる。

両者の関係を見るためまず仏教の「不二法門」について考えてみよう。


8.1

8.1 不二法門とは何か


不二法門」は、『維摩経』の入不二法門品に説かれる重要な仏教思想である。

『維摩経』には中インド・ヴァイシャーリーの在俗の菩薩ヴィマラキールティ(維摩詰、略称:維摩)について以下のような物語が説かれている。

 ある日、維摩(ヴィマラキールティ)は病気にかかった。

釈尊は文殊菩薩などの弟子達に見舞いに行くように言った。

維摩を見舞った菩薩たちは維摩と仏法に関する問答をした。

維摩は深い仏教思想とすばらしい弁才を持っていたので菩薩たちの質問にすらすらと答えた。

維摩は文殊菩薩と一緒に来た菩薩達に

不二法門に入るとは何ですか?」と質問する。

法自在、吉祥密、善星菩薩など多くの菩薩達は各々不二法門について自分の意見を述べる。

その後、菩薩達は文殊菩薩に向かって

不二法門に入るとは一体何ですか?」と質問する。

この質問に対し、文殊菩薩は

何の言葉も説かず、無語、無言、無説、無表示であり識もなく、諸々の問答を離れる。これが不二法門に入ることである

と答える。

 最後に、文殊菩薩は維摩に対し、

それじゃ、あなたにとって不二法門に入るとは何ですか?」

と聞く。

この質問に対し、維摩は沈黙したまま一言も発しない。

それを見た文殊菩薩は、

大変素晴らしい!文字もなく、言葉がない

心がはたらくこともない。これこそ本当の不二法門だ!」

と賛嘆する。



『維摩経』入不二法門品における文殊菩薩の質問に対する維摩の沈黙と文殊の讃嘆の言葉

文字もなく、言葉がない。心がはたらくこともない。これこそ本当の不二法門だ!」

に「不二法門」とは何かが端的に示されている。



不二法門」について文殊は「文字もなく、言葉がない心がはたらくこともないのが不二法門である」と述べている。

この内容を既に理解している維摩は

沈黙することによって「不二法門」を表しているのである。



「維摩経』入不二法門品に説かれる「不二法門」は

生と死、迷と悟、善と悪、有と無、煩悩と悟りなど、矛盾する2項対立する概念が、実は不二一体であると説く法門である。

対立した概念を一体(不二)と捉えることを、「不二法門」に入ると言い、

そのような矛盾対立を超えたところに真の悟り(無分別智)がある

と考えている。


8.2

8.2【維摩の一黙】の脳科学的解釈


文殊菩薩の質問に対する維摩の沈黙と文殊の言葉

文字もなく、言葉がない。心がはたらくこともないこれこそ本当の不二法門だ!」

に不二法門とは何かが端的に示されている。

  文殊の言葉「文字もなく、言葉がない。心がはたらくこともない。」

を脳科学的に考えると次のようになる。

文字や言葉を司っているのは上層脳の言語野(ブローカ野やウェルニッケ野など)である。

心(意識)を司っているのは主として上層脳の前頭前野の理知脳である。

文字もなく、言葉がない。心がはたらくこともない。」とは上層脳の理知の働きが休止して分別意識が無い状態である。

この時、上層脳の働きは休止し、

主として下層脳だけが働く禅定状態に近い。

これを図18に示す。



図18

図18  不二法門に入った状態では上層脳(理知脳)の働きが休止し、

主として下層脳(脳幹+大脳辺縁系)だけが働き、禅定状態に近い。



図18に示したように、不二法門に入った状態では別意識は働かない。

その状態では、主として下層脳(脳幹+大脳辺縁系、無意識脳)だけが働き、禅定(三昧)に入ったような状態である。

この時、生と死、迷と悟、善と悪、有と無、煩悩と悟りなど、

矛盾対立する概念は意識に上ることは無く、

自己の脳内で不二一体の状態で存在している。

その状態を維摩は沈黙することで示したと考えることができる。

そう考えると、「不二法門」は西田の「絶対矛盾的自己同一」の思想

に非常に近いところがある。

この「不二法門」は、禅の「無分別智」と関係することから、「信心銘」、「碧巌録」84則「維摩不二の門」や従容録48則「摩経不二」

に説かれている。



「信心銘」を参照

「碧巌録」84則「維摩不二の門」を参照

従容録48則「摩経不二」を参照

参禅体験がある西田は当然「不二法門」を知っていたと考えるのは自然であろう。



9shou

第9章 行為的直観



後期西田哲学の概念に「行為的直観」という難解なキーワードがある。

西田は、「現実の世界」は「行為的直観」の世界であると考えている。

行為的直観」とはどのような意味だろうか。

通常我々は、「行為」と「直観」という二つの動作は、矛盾する動きであると考える。

「行為」とは、我々が対象に対する働きかけであり、「直観」とは、対象を直知するという、対象から情報を受け取る動作だからである。

次の図19によって「行為的直観」の意味を説明する。



図19

図19 行為者は行為を通して対象から直観を得ることができる。



図18に示したように、行為者は行為を通して対象から直観を得ることができる。

「行為」と「直観」とは、矛盾する動きなので、「行為」を通して矛盾的なものを直観的に把握することになる。

このように、「行為的直観」は、「我々が自己矛盾的に物を見ること」つまり、「矛盾的なものを直観的に把握する方法」だと言える。

しかし、脳科学的視点に立って考えると、以下に説明するように、「行為的直観」に対して簡単明瞭な答えを得ることができる。



9.1

9.1 ひらめきの秘密



脳科学的には直観(ひらめき)は何も考えずにボーットしていた時に起こると考えられている。

脳科学的には直観(ひらめき)を生むための条件は何も考えずにボーッとしていることである。

何もしていない時に活動しているのは脳内の DMN(デフォルト・モード・ネットワーク、default mode network、デフォルト・モード神経回路)である。

ただしDMN(デフォルト・モード・ネットワーク神経回路の略記)が活動しているだけでは直観(ひらめき)は生まれない。

直観(ひらめき)が生まれるためには大脳皮質にこれまでの経験に基づいた記憶の断片が豊富にあることが必要である。

  何も考えずにボーッとしている時にDMNが活性化し、

大脳皮質にある豊富な記憶の断片を自由に繋ぎ合わせ新しい発想や直観(ひらめき)を生み出すと考えられている。



9.2

9.2 ひらめきの例:



1.

ギリシャの天才数学者アルキメデスの場合:

風呂に入っていた時にひらめき興奮のあまり裸で街を駆け回った。


2. 

.作家又吉直樹の場合:

散歩していた時ひらめいた。


3.

西田幾多郎と「哲学の道」:

京都の人気の観光スポットに「哲学の道」がある。

西田幾多郎や愛弟子であった田辺 元、三木 清好達が好んでこの道を思索しながら

歩いたことから、1972(昭和47)年、「哲学の道」が正式名称となった。

西田も「哲学の道」を歩きながら新しい発想を得ていたと考えられる。

西田は著書『善の研究』において、

後に「金沢の街を歩いていて、夕日を浴びた街、行きかう人々

暮れ方の物音に触れながら、それがそのまま実在なのだ

いわゆる物質とはかえって、それからの抽象に過ぎない

というような考えが浮かんできた。」

と述べ、それがこの著書の萌芽だったと回想している。

これより西田の「行為的直観(ひらめき)」は散歩であったことが分かる。

西田は金沢の町をぼんやり散歩していた時「純粋経験」の概念について「行為的直観(ひらめき)」を得たのである。


4.

iPS細胞(人工多能性幹細胞)の発見者山中伸弥教授の場合:

ボーッとシャワーを浴びていた時にひらめき、iPS細胞の発見きっかけになった。


5.

記憶を研究する脳科学者クレイグ・スタークさん(カルフォルニア大学アーバイン校教授)の場合:

自転車に乗って無心にペダルを漕いでいる時良いアイデアやひらめきが得られるとのこと。

クレイグ・スターク教授にとって遠くに行くための自転車は交通手段だけでではない。

無意識のうちにひらめきを生むきっかけを与えてくれるものだと考えられている。


6.

i中国唐代の香厳智閑禅師の場合:

ある日、道を掃いていた時、箒にかわらが当たって飛んで、竹に当たり、「カーン」と響くのを聞いた時、からっと悟った。


7.

中国唐代の霊雲志勤禅師の場合:

ある時遊山し、麓で休息して、はるかに人里を望見していた。

時は春で、桃の華がさかんに咲いているのを見て、忽然として悟った。



彼等の場合、音を聞いたり、花を見たりした時に悟っている。これも行為的直観の例と言えるだろう。

ひらめきを生むために大事なこと:いくらボーッとしたところで、

DMNが伸びる先の大脳皮質に豊富に蓄えられた記憶がないと

斬新な発想が生まれるわけがないことである。

行為的直観が生まれる条件として以下のことが重要である。



1. 

問題意識を持つこと。


2.

何も考えずにボーッとしている時に、脳内にDMNを通して、大脳皮質に蓄えられた豊富な記憶の断片があること。



このような時に脳がDMNを通して、大脳皮質に蓄えられた豊富な記憶の断片をを自由に繋ぎ合わせ新しい発想(直観=ひらめき)を生み出すと考えられる。

坐禅やマインドフルネスなどの瞑想は脳のDMNを活性化させる行為であることが分かっている。 

次の表3にひらめきを得た時の行為と人名を表にして示す。



表3

表3  直観を生んだ行為と人名



表3を見て分かるように、何らかの行為を媒介として直観(ひらめき)が生まれている。

これが西田の言う「行為的直観」の意味ではないだろうか。

脳科学的にはDMNが触媒的に働くことによって大脳皮質にある豊富な記憶の断片が自由に繋ぎ合わされ新しい発想(直観=ひらめき)が生み出される。

風呂、シャワー、散歩などはDMNを活性化し、新しい発想(直観=ひらめき)を生み出す媒介作用をすると考えれば分かり易い。

この考え方では坐禅

悟りという直観を生み出す行為の一つと考えることができるだろう。

直観(ひらめき)は何も考えずにボーッとしていた時に起こることが分かっている。

何もしていない時に活動しているDMNデフォルト・モード・ネットワーク)の働きでひらめきが起きる。

このためには大脳皮質にこれまでの経験に基づいた記憶の断片が豊富にあることと、問題意識を持つことが重要であるとされている。

  何も考えずにボーッとしている時にDMNが活性化し、大脳皮質にある記憶の断片を自由に繋ぎ合わせ新しい発想を生み出している。

  次の図20に「行為的直観」の脳科学的メカニズムを図示する。



図20

図20 「行為的直観」の脳科学的メカニズム



  脳の情報処理には入力、整理、出力の3つの段階があり、

デフォルト・モード・ネットワーク」は入力された情報を整理し次の出力の段階につないでいく役割があると考えられている。

次の図21に脳の情報処理における「デフォルト・モード・ネットワーク」の役割を図示する。



図21

図21  脳の情報処理の3段階と「デフォルト・モード・ネットワーク」の役割



図20に図示した「行為的直観」の脳科学的メカニズムは

図21に示した 脳の情報処理における「デフォルト・モード・ネットワーク」の役割とぴったり対応している。

この結果は図20の「行為的直観」の脳科学的メカニズムを支持するものと言える。

以上の考察は「行為的直観」は哲学だけでは解明できず、科学、特に脳科学で解明できる問題であることを示している。

図22には坐禅に基づいた「行為的直観」の脳科学的メカニズムを示す。



図22

図22 坐禅に基づく「行為的直観」の脳科学的メカニズム



図22を見れば分かるように、坐禅はDMNを活性化し「直観」が生まれ易いように働くことが分かる。

実際に坐禅や瞑想によってひらめきや直感力が鋭くなることはブッダ以来経験的にもよく知られているところである。



10shou

 10章 まとめ



明治36年8月3日、大徳寺孤蓬庵の 広州禅師に師事参禅していた西田は、無門関第一則「趙州無字」の公案を透過した。

無門関第一則「趙州無字」の公案は真の自己(or仏性)は「」であることを体得し明らかにする公案である。

西田は坐禅修行という行為を通して「行為的直観(ひらめき、悟り)」を得て無門関第一則「趙州無字」の公案を透過したのである。

「無門関」第一則を参照)。

この公案から西田哲学の「」と「絶対無」の思想が生まれたと言える。

因みに「」と「絶対無」は坐禅によって活性化される下層脳(脳幹+大脳辺縁系)を中心とする無意識脳を本体としている。

「禅と脳科学」を参照)。

あらゆる存在(個物)を包摂する場所である「」や「絶対無」だとする「場所の論理」は

この下層脳(脳幹+大脳辺縁系、無意識脳)を中心とする脳から「行為的直観(参禅修行)」によって生まれたと言える。

従って、「場所の論理」とは我々が下層脳(生命情動脳)を中心とする脳の働きによって生きている事実を言っているのである。

西田はこの参禅修行を通して心を浄化し、「心境不二(万物一体)」の境地に至ることができた。

西田の「純粋経験」は自他を超えた「心境不二(万物一体)」の境地と同じである。

「心とは山河大地、日月星辰である」を参照 )。

図23に 西田哲学の「行為的直観」「」、「純粋経験」と禅の関係を示す。 



図23

図23 西田哲学の「行為的直観」、

「無」の悟り、「純粋経験」、「心境不二」と禅の関係



西田は坐禅修行を深めることによって自他を超えた「心境不二(万物一体)」の境地に至るとともに「不二法門」への理解を深めたと考えられる。

西田の「心絶対矛盾的自己同一」の思想は「心境不二(万物一体)」や「不二法門」の思想と深い関係があることは既に見た。

「不二法門」を参照

ちなみに「絶対矛盾的自己同一」とは生・死、善・悪、愛・憎など矛盾対立する二項概念は分別意識(理知分別の働き)を離れた時には、

矛盾対立は無くなり、平穏裏に自己と一体化していることを言ったもので禅や仏教の「無分別智」に立つと容易に理解できる考え方である。

「無分別智」を参照)。

このように西田哲学の多くのキーワードは

仏教と密接な関係があることが分かる。

これをまとめて図24に示す。



図24

図24 西田哲学の主要概念と禅の関係



図24には禅や仏教の最終目的である「無分別智(仏智)」を示している。

しかし、西田哲学の最終目的として、西田は「無分別智(仏智)」のような概念や言葉を明示していない。

これは「無分別智(仏智)」は伝統的な仏教や禅と深い関係があるので、それを明示することを避けたためだと思われる。

仏教における「無分別智(仏智)」は分別智(分別、理知)を軽視する。

西田は分別智(理知」を重視する哲学者であったので、「無分別智(仏智)」は理知によって置き換えることができると考えたと考えられる。

また、西田は「理知」を重視する西洋哲学を学び公に京都大学などで教える立場にあった。

西洋哲学に比べて、古く遅れた印象を与える仏教の「無分別智(仏智)」や禅という言葉を避けたと考えることもできるだろう。


   

   

参考文献など


   

1.西田幾多郎を読む

2. 安藤正瑛著、大蔵出版、さとりの構造、1980年

3.朝日新聞、2018年9月17日 文化の扉 「西田哲学 西洋との格闘」

4.藤城 優子、行為的直観と生命 ―後期西田哲学についての一 考察

日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No.7, 677-687 (2006)

   

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