2018年8月23日〜9月20日  表示更新:2022年5月7日

即心是仏

   
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『正法眼蔵』「即心是仏」について



 禅の思想の一つに、馬祖道一禅師等によって唱えられた

「即心是仏(即心即仏)」という主張がある。

「即心是仏」の巻ではこの「即心是仏」という主張を採り上げ、

南陽慧忠禅師に関する説話を引きながら、道元自身の解釈を述べている。

ここでは『正法眼蔵』「即心是仏」の巻を6文段に分け、

合理的(科学的)観点から分かり易く解説したい。



1

 第1文段


 第1文段の原文


仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり。

しかあるを、西天には即心是仏なし、震旦にはじめてきけり、

学者おほくあやまるによりて、将錯就錯せず。

将錯就錯せざるゆゑに、おほく外道に零落す。

いはゆる即心是仏の話をききて疸人おもはくは、

衆生の盧知念覚の未発菩提心なるを、すなはち仏とすとおもへり。

これはかつて正師にあはざるによりてなり。

外道のたぐひとなるといふは、西天竺国に外道あり、先尼となづく。

かれが見処のいはくは、大道はわれらがいまの身にあり、そのていたらくは、たやすくしりぬべし。

いはゆる苦楽をわきまへ、冷媛を自知し、痛痩を了知す。

万物にさへられず、諸境にかかはれず、物は去来し、

境は生滅すれども。霊知はつねにありて不変なり。

この霊知ひろく周遍せり、凡聖含霊の隔異なし。

そのなかに、しばらく妄法の空華ありといへども、一念相応の智慧あらはれぬれば、

物も亡じ境も滅しぬれば。霊知本性ひとり

了了として鎮常なり。

たとひ身相はやぶれぬれども。霊知はやぶれずしていづるなり。

たとへば人舎の失火にやくるに。舎主いでてさるがごとし。

昭昭霊霊としてある、これを覚者知者の性といふ。

これをほとけともいひ、さとりとも称す。

自他おなじく具足し、迷悟ともに通達せり。

万法諸境ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物とおなじからず、歴劫に常住なり。

いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば、真実といひぬべし。

本性より縁起せるゆゑには実法なり。

たとひしかありとも霊知のごとくに常住ならず、存没するがゆゑに。

明暗にかかはれず、霊知するがゆゑに。これを霊知といふ。

また真我と称し、覚元といひ、本性と称し、本体と称す。

かくのごとくの本性をさとるを、常住にかへりぬるといひ、帰真の大士といふ。

これよりのちは、さらに生死に流転せず、不生不滅の性海に証入するなり。

このほかは真実にあらず、この性あらはさざるほど、三界六道は競起するといふなり。

これすなはち先尼外道が見なり。


注:

仏仏祖祖: 仏は覚者、祖は先輩。

したがって仏仏祖祖とは多くの仏や祖師。 

まぬかれず:  例外なしに。 

保任:   保はたもつ、任は背におう、になうの意。保持。 

即心是仏: 即は今日唯今。心はこころ、意識。是は……である。

したがって即心是仏とは今日唯今の意識がそのまま仏であるという意味。

即心即仏と同じこと。

無門関30則「即心即仏」を参照)。

西天: インド。

震且: 中国。

将錯就錯(しょうさくじゅさく): 錯はあやまり。

錯を将って錯に就くの意味で、誤まりを誤まりとしてはっきり認識すること。

外道: 非仏教徒。

零落: 零は落ちるの意。おちぶれること、なり下がること。 

擬人:  おろかな人。 

慮知念覚: 慮は思惟、知は認識、念は対象を記憶して忘れない働き。

覚は外界を綜合的に感得すること。慮知念覚は理性と感性を指す。

未発菩提心:  菩提心を発さない以前の状態をいう。

先尼: 唯心論的な世界観を信奉していたバラモン教徒をいう。 

見処: 見は世界観、見処は世界観的な立場。

大道:  偉大な真理。

ていたらく: 「体たり」に接尾辞「く」が添ったもの。ありさま、すがた。 

痛疸: 痛はいたい。疸はかゆい。

さへる: 邪魔をする、障害となる。

霊知:神秘的な知恵。

周遍:  あまねく行きわたっていること。

凡聖含霊: 凡は凡人。聖は聖者。

含霊は心的作用(霊)を持っているものの意で、無生物に対して生物の一切をいう。

隔異:  隔はへだたり、異は相異。隔異は差別の意。

妄法:  妄はみだり、でたらめの意。妄法とは人間の頭で

考えられた虚妄の宇宙をいう。真法の反対語。

空華: 虚空に咲く花の意。実在(有)とも断定できず、

非実在(無)とも断定できないが、

現実の現象として我々の眼前に展開している宇宙を象徴的に暗示した言葉。

一念相応の智慧:  現在の瞬間(一念)に即応した智慧。

鎮常:  鎮静かつ恒常。 

身相:  肉体的な形や姿。

昭昭霊霊:  昭もあきらか、霊もあきらか。

昭昭霊霊とはあきらかなさま、明々白々。 

覚者:  真理を悟った人。 

知者: 認識の正しい人。

境:   客観世界。外界。

歴劫: 劫は梵語kalpaの音写である劫波の略。

極めて長い時間をいう。歴劫とは極めて長い時間をへること。

覚元:  真理把握の根源。 

帰真の大士: 真理に還帰した偉大な人物。 

性海:  精神を内容とした世界。

存没: あったりなかったりすること。

競起: きそい起こること。



第1文段の現代語訳

仏祖が、例外なしに保持して来たものは「即心是仏」だけである。

しかし、「即心是仏」という言葉は、インドにはなく、中国で始めて聞く言葉である。

そのため仏道を学ぶ者の多くは誤解している。

正しく理解しないため、多くの人々が外道になりはてている。

即心是仏」という言葉を聞いて、

愚かな人は、一般のまだ菩提心さえを起していない人々の心を

そのまま仏と言うのだろうと思い込んでいる。

しかしこのような誤りは、今まで正師にめぐり会っていなかったためである。

外道のたぐいになるというのは、インドに先尼という外道がいた。

彼は、「大道は今の我々自身にある。その様子はたやすく知ることができる

いわゆる苦楽を弁別し、冷暖を知り、痛いかゆいを知覚することである

その働きは外界の一切にわずらわされることなく環境に影響されることもない

外界の事物は去来し、生起消滅するけれども霊知は常にあって不変である

この霊知はひろくすべての人に行き渡っていて

凡人、聖者であろうと、心あるすべてに平等に具わっている

この霊知の中にも一時的に妄想の花を見たとしても

真理に適う智慧が現われると、物も対象も消えてしてしまうので

霊知の本体だけが明々白々として常に存在するようになるのである

たとえ肉体が破壊された場合でも、霊知は破壊されず、肉体から脱け出るのである

たとえば家が失火で焼けた時でも、家に住んでいた人が出て行くようなものである

この〈肉体が破壊されても〉明々白々として存在するもの、これを覚者智者の本性という

これを仏ともいい、悟りとも名づける

それは自他も同じように具えており、迷いにも悟りにも通暁している

あらゆる物事がどのようになろうとも、霊知は環境や物質とも違い、永遠に存在する

いま現に存在している日常の世界も、霊知によるものなので、真実である

宇宙の本性から起こったものであるから真実であるが

霊知のように常住不変ではなく無常である

一方、霊知は明るいとか暗いとかとは関係がない

霊知は霊妙な直観力を具えているから、霊知、また真我と名付け

覚元、本性とか、本体ともいう

このような本性を悟るのを、永遠の存在に帰った、帰真の大士という

このように悟って以後は、生死に流転することはなく、不生不滅の本性の海に悟入する

これ以外の考え方は真実ではない

霊知の本性を発揮させないから三界や六道に輪廻するのだ」。

と説くのである。

これは先尼外道の考え方である。




第1文段の解釈とコメント 



仏祖が、例外なしに保持して来た禅思想は「即心是仏」だけである。

しかし、「即心是仏」という言葉は、インドにはなく、中国で始めて出て来た言葉である。

そのためか仏道を学ぶ者の多くは誤解し、外道になりはてている。

「即心是仏」という言葉を聞くと、愚かな人は、まだ菩提心さえ起していない

一般の人々の心をそのまま仏と言うのだろうと思い込んでいる。

このような誤りは、今まで正師にめぐり会っていなかったためである。

昔インドに先尼という外道がいた。

彼は、「大道は今の我々自身にある

それは苦楽を弁別し、冷暖を知り、痛いかゆいを知覚する働きである

その働きは外界や環境に影響されない。外界の事物は無常だが

霊知は恒常不変である

霊知は凡人、聖者であろうと、心あるすべての人に平等に具わっている

この霊知の中にも一時的に妄想の花を見たとしても

真理に適う智慧が現われると、物も対象も消えてしてしまい

霊知の本体だけが明々白々として常に存在するようになる

たとえ肉体が破壊されても、霊知は破壊されず、肉体から脱け出る

たとえば家が失火で焼けた時に、家に住んでいた人が出て行くようなものである

この肉体が破壊されても、明々白々として存在するものを覚者智者の本性という

これを仏とも、悟りとも名づける

霊知は自他も平等に具えており、迷いにも悟りにも通暁している

物事がどのようになろうとも、霊知は環境や物質とも違い、永遠に存在する

いま現に存在している日常の世界も、霊知によるもので、真実である

世界は宇宙の本性から起こったもので真実であるが霊知のように常住不変ではなく無常である

一方、霊知は明るいとか暗いとかとは関係がない

霊知は霊妙な直観力を具えているから、霊知、真我と名付け、覚元、本性とか、本体ともいう

このような本性を悟るのを、永遠の存在に帰った、帰真の大士という

このように悟った後は、生死に流転することはなく、不生不滅の本性の海に悟入する

これ以外の考え方は間違っている。霊知の本性を発揮させないから三界や六道に輪廻するのだ。」

と説くのである。



道元はこのような考えは先尼外道の考えであるとして否定している。

この文段では「即心是仏」の心とは何かという問題に関連して

インドの先尼外道の霊魂論を紹介している。

先尼外道の霊魂論はブッダの無我や無霊魂論と関係している。

原始仏教 その1 , 9・17 ブッダの霊魂否定論を参照)。





2

 第2文段


第2文段の原文


大唐国大証国師慧忠和尚僧に問う、

何れの方よりか来れる?」

僧曰く、

南方より来る」。

師曰く、

南方に何なる知識が有る?」

僧曰く、

知識頗る多し」。

師曰く、

如何が人に示す」。

僧曰く、

彼方の知識、直下に学人に「即心是仏」と示す

仏は是れ覚の義なり、汝今悉く見聞覚知の性を具せり

此の性善く揚眉瞬目し、去来運用す

身中に於いて遍く、頭に触るれば頭知り、脚に触るれば脚知る、故に正遍知と名く

此を離れて之の外に更に別の仏無し

此の身は即ち生滅有り、心性は無始已来、曾って未だ生滅せず

身生滅するとは龍の換骨するが如く、蛇の脱皮し人の故宅を出るに似たり

即ち身は是れ無常なり。その性は常なり。南方の所説大約此の如し。」

師曰く、

若し然らば、彼の先尼外道と差別有ること無けん

彼が云く「我がこの身中に一つの神性有り、この性能能く痛痒を知り

身壊する時、神則ち出で去る

舎の焼かるれば舎主出で去るが如し。舎は即ち無常なり、舎主は常なり」

審すらくは此の如きは邪正弁ずるなし。いかんが是とせんや

吾れそのかみ遊方せしに、多く此の色を見き。今尤も盛んなり。三五百衆を聚却(あつめ)て

目に雲漢を視て云く、「是れ南方の宗旨なり」と

他の壇経を把って改換して鄙譚を添糅し、聖意を削除して後徒を惑乱す

豈言教を成らんや。苦哉、吾が宗喪びにたり

若し、見聞覚知を以て是を仏性とせば、浄名は応に「法は見聞覚知を離る

若し見聞覚知を行ぜば是れ則ち見聞覚知なり。法を求むるに非ず」。

と云うべからず。」


注:

大証国師慧忠和尚:   六祖大鑑慧能禅師の法嗣南陽慧忠禅師(675〜775)。

越州諸竪の人。姓は再氏。

六祖から嗣法した後南陽の白崖山に住し、山を下らないこと40年に及んだ。

知識: 正しい仏法を説いて人を善道に導く高徳の僧。

揚眉瞬目:  眉をあげ、眼をしばたたくなどごく普通の日常動作。 

正遍知: 正しく到る処に偏満している理性。

遊方: 四方に雲遊すること。

色:  おもむき。ようす。

聚却:   あつめること。却は単に語調をととのえるための助字。

雲漢: 天の河、大空。

壇経:  六祖法宝壇経の略。六祖法宝壇経は六祖慧能禅師の説法集。

添糅(てんじゅう):   添はそえる、揉はまじえる、混入させる。

鄙譚(ひたん): 卑俗な物語。

言教:釈尊が言語によって示した教法。

浄名:   維摩詰(ヴィマラキールティ)。

大乗仏教の「空思想」を高揚する維摩経(維摩詰所説経)の主役である居士。




第2文段の現代語訳

大唐国の大証国師慧忠禅師が僧にたずねた、

どちらから来たのか?」。

僧は言った、

南方から参りました。」

禅師は言った、

南方にはどのような知識がいるか?」

僧は言った、

知識は非常に沢山おります。」

禅師は言った、

どんなふうに人に説いているか?」

僧は言った、

南方の知識は学人に「即心是仏(この心がそのまま仏である)」

と教えています

すなわち仏とは知覚の意味であり、お前自身が現にその見たり聞いたり

知覚したり認識したりする能力を悉く具えている

そしてこの能力は眉をあげて笑ったり

瞬きをしたり行ったり来たりして自在に活動している

その本性は身中に行き渡っており、頭に触れば頭が知り、脚に触れば脚が知る

したがってこれを正偏知と名付ける

これ以外に決してさらに別の仏はない

この肉体は生滅するけれども、心の本性は永劫の昔からいまだ生滅したことがない

肉体の生滅は竜が骨を換えるようなもので

蛇が脱皮し、人が古い家を出て新しい家に移るのに似ている

現実の肉体は無常であるが、その本性は永遠である

南方で説かれるところはおおよそこのようです。」

師は言った、

若しそのようであるならば彼のインドにおける先尼外道と何ら異なるところがない

先尼はいう、『 我々の肉体内には一個の神性がある。

この神性は痛いとかかゆいとかを知る能力があり、肉体が滅びる時には。肉体を出て行く

あたかも家を焼かれると、家に住んでいた者が出て行くようなものである

家は無常であるが、家に住んでいる主人は変わることがない。』。」と

このような説を調べて見ると、それが正しいかどうか論じるまでもない

どうしてこれが正しいと言えようか

私も諸方に遊歴した時代にもこのような連中を多く見た

近頃はますます盛んである

三百人、五百人の人々を集め、ふんぞりかえって

『これこそ南方禅の宗旨である。』と言っている

しかも六祖壇経を取り上げてこれを改変し

卑俗な物語をつけ加えて六祖の真意を削除し、後進の修行者を惑乱させている

このようなものがどうして六祖の教えだということができようか

苦々しいことだ。わが宗はすでに滅びてしまったのだろうか

若し見聞覚知をもって仏性とするならば、維摩居士が維摩経において

『仏法は見聞覚知を離れている。したがって見聞覚知を行なうことは

ただ単に見聞覚知に過ぎない。仏法を求めることにはならない。』

と言う訳がない」。



第2文段の解釈とコメント


この文段では大証国師南陽慧忠禅師と南方から来た僧との会話を紹介している。

南方から来た僧は南方では「即心是仏」の教えが盛んであると言ってその概略を説明する。

それを聞いた六祖の高弟 南陽慧忠禅師は

 「私(慧忠)も諸方に遊歴した時代にもこのような連中を多く見た

近頃はますます盛んである。三百人、五百人の人々を集め

ふんぞりかえって『これこそ南方禅の宗旨である。』と言っている

しかも六祖壇経を取り上げてこれを改変し

卑俗な物語をつけ加えて六祖の真意を削除し、後進の修行者を惑乱させている

このようなものは六祖の教えではない

苦々しい。わが宗はすでに滅びてしまったのか

「若し見聞覚知をもって仏性とするならば、維摩居士が『仏法は見聞覚知を離れている

見聞覚知は、ただ単に見聞覚知に過ぎない。仏法を求めることにはならない。』

と言う訳がない。」

と言って嘆く。

そして、南陽慧忠禅師は維摩経の維摩居士の言葉を引用して、

質問僧が言うような「即心是仏」の教えは六祖慧能の教えではないとはっきり否定している。

   

3

 第3文段


第3文段の原文


大証国師は曹渓古仏の上足なり、天上人間の大善知識なり。

国師のしめす宗旨をあきらめて、参学の亀鑑とすべし。

先尼外道が見処としりて、したがふことなかれ。

近代大宋国に諸山の主人とあるやから、国師のごとくなるはあるべからず。

むかしより国師にひとしかるべき知識、いまだかつて出世せず。

しかあるに世人あやまりておもはく、臨済・徳山も国師にひとしかるべしと、

かくのごとくのやからのみおほし。

あはれむべし明眼の師なきことを。


注:

曹渓古仏: 中国禅の五祖弘忍の法を嗣いで 

中国禅の第六祖となった大鑑慧能禅師(638〜713)のこと。

禅の歴史を参照)。

大鑑慧能禅師は朗州。曹渓の宝林寺に住んで僧俗を教化したためこのように呼ばれる。

古仏とは悟った人に対する尊称であるが、

道元禅師は大鑑慧能禅師、趙州禅師、宏智正覚禅師、天童如浄禅師等、

特に心酔している少数の先輩に対してのみ、この敬称を用いた。 

上足: 弟子中の上席者。

善知識: 禅の真理を体得し、人々を正しく教化することのできる指導者。   

亀鑑: 亀は亀の甲を指し、焼いて吉凶を占う。

鑑は鏡、人の姿を映す。いずれも人間行動の指針となるところから、

亀鑑は人間が従うべき手本を意味する。

出世:  娑婆世界に出ること、生れること。

二乗:  声聞乗と縁覚乗の二つを言う。乗とは乗物の意で、真理に到達するための手段。

声聞とは仏の説法を聞いたり、著作を読んだりして概念的に真理を学ぶ人々。

縁覚とは外界の事物に触れ、

自然に接することにより、感覚を通して悟ろうと努力する人々。

いずれも小乗に属する。

衆生救済を通して悟りを求める大乗の菩薩に比較した場合、低く評価される。    

唯仏祖与仏祖のみ: ただ仏祖と仏祖とだけが。

即心是仏する: 即心是仏の境地を実践する。

究尽:  究め尽す。徹底的に究める。  

聞著: 聞くこと。

行取: 行うこと。実践すること。

証著:体験すること。   




第3文段の現代語訳

大証国師は大鑑慧能禅師の高弟で、天上界と人間界の偉大な指導者である。

修行者は国師が示す教えを明らかにして、修行の鑑としなければならない。

この説は先尼外道の説であると知って、従ってはならない。

しかし最近大宋国で多くの寺の主人でも、大証国師のような優れた人物はいない。

昔から大証国師と肩を並べるようなすぐれた師は、未だかつて世に現われたことがない。

しかし、誤って「臨済禅師や徳山和尚も大証国師と同等であろう」

と考えているような人ばかりが多い。

このように明眼の師がいないことは悲しむべきことである。



第3文段の解釈とコメント


道元は「大証国師は大鑑慧能禅師の高弟で、天上界と人間界の偉大な指導者である。

このような偉大な国師の教えを明らかにして、修行の鑑としなければならない。

「即心是仏」に関する南方禅がいう「霊知」の説は先尼外道の説で、従ってはならない。

最近大宋国で多くの寺の主人でも、大証国師のような優れた人物はいない。

また大証国師と肩を並べるようなすぐれた師は、未だ世に現われたことがない。

臨済禅師や徳山和尚も大証国師と同等であろう」と考えるのは誤りである。

このように明眼の師がいないことは悲しむべきことである。」

と述べている。

道元は「臨済禅師や徳山和尚も大証国師と比べると大した師ではない」と考えているようである。

即心是仏」を唱道する馬祖道一禅師は臨済禅師や徳山和尚と同じ法系の禅師である。

彼らが教える「即心是仏」の禅に不信感を持っているような書きぶりが注目される。



4

 第4文段


第4文段の原文


いはゆる仏祖の保任する即心是仏は、外道・二秉のゆめにもみるところにあらず。

唯仏祖与仏祖のみ、即心是仏しきたり、究尽しきたる聞著あり、行取あり、証著あり。

仏百草を枯却しきたり、打失しきたる。

しかあれども丈六の金身に説似せず。

即公案あり、見成を相待せず、敗壊を廻避せず。

是三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。

心牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。

あるひは「即心是仏」を参究し、「心即仏是」を参究し、

「仏即是心」を参究し、「即心仏是」を参究し、「是仏心即」を參究す。

 かくのごとくの參究、まさしく即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり。

かくのごとく正伝して今日にいたれり。

いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり。


注:

唯仏祖与仏祖のみ: ただ仏祖と仏祖とだけが。

即心是仏する: 即心是仏の境地を実践する。

究尽:  究め尽す。徹底的に究める。  

聞著: 聞くこと。

行取: 行うこと。実践すること。

証著:体験すること。   

 挙す: とり上げる。

一心一切法、一切法一心 一心:  個人の心は、

一切法と切り離して存在するものではない。

しかし同時に一切法は個人の意識に映じてのみ存在するのであり、

個人の意識を離れて実在するものではないという仏教の根本思想を述べている。

いいかえれば主観と客観とは同時現成、同時消滅であり、主観と客観とを切り離して、

そのいずれかに重点を置く唯心論や唯物論に対する仏教的な第三の立場を主張している。


第4文段の現代語訳

いわゆる仏祖が保持している「即心是仏」は、

外道や声聞・縁覚の修行者が夢にさえ見ることがなかったものである。

ただ仏祖のみが、「即心是仏」ということを明らかにし、

究め尽くしてきたと言われるのであり、行じてきたのであり、悟ってきたのである。

仏は煩悩の百草を取り除き滅尽した。

しかし仏のことを一丈六尺の金色の身とは説かなかった。

いま仏道に課題がある。

それは悟りを待ち望むこともなく、無常を避けないことである。

ここに三界がある。三界は出て行くものではないし、唯心でもない。

心には壁がある。

しかし、その壁はいまだかつて泥水で汚されたこともなく、煩悩を造ったたこともない。

ある場合には「即心是仏」を参究し、「心即是仏」を参究し、「仏即是心」を参究し、

「即心仏是」を参究し、「是仏心即」を参究する。

このように参究することがまさに「「即心是仏」である。

これを取り上げて参究することで

「即心是仏」の真意が正伝され今日に至ったのである。

ここに云う正伝された心というのは「一心一切法、一切法一心」のである。



第4文段の解釈とコメント


仏祖が言う「即心是仏」は、外道や声聞・縁覚のような低レベルの修行者が

夢にさえ見ることがなかったものである。

ただ仏祖のみが、「即心是仏」ということを明らかにし、究め尽くし悟り、行じてきた。

仏は煩悩の百草を滅尽したが仏を一丈六尺の金色の身とは説かなかった。

仏道の課題は悟りを待ち望まず、無常を避けないことである。

心には壁があるがその壁は泥水で汚されたこともなく、煩悩を造ったたこともない。

心については、ある場合には「即心是仏」を参究し、「心即是仏」を参究し、

「仏即是心」を参究し、「即心仏是」を参究し、「是仏心即」を参究すべきである。

このように参究することが「「即心是仏」で、

これを取り上げ参究することで「即心是仏」の真意が正伝され今日に至ったのである。

正伝された心は「一心一切法、一切法一心」の心であると述べている。

  道元は「一心一切法、一切法一心(心とはすべての存在であり、すべての存在は心の姿である)」

という仏教の唯識論的考え方に立って

「即心是仏」という公案を「心即是仏」の面や、「仏即是心」の面、「即心仏是」の面を参究し、

「是仏心即」の面と多方面から掘り下げて参究するのが「即心是仏」だと考えていたのだろうか?

道元が「正伝された心」だと言う「一心一切法、一切法一心」とは

心とはすべての存在であり、すべての存在は心である

という意味だから「心境不二(一如)」と同じ意味である。

道元がいかに「心境不二(一如)」を重視していたかが分かる

(「心境不二(一如)」については後述)。

ただし、「一心一切法、一切法一心」についてもはっきり述べていないので

この箇所はすっきりしない印象の論述となっている。

道元は「即心是仏」という公案を「心即是仏」の面や、「仏即是心」の面、

「即心仏是」の面を参究し、「是仏心即」の面と多方面から掘り下げて参究すべきだと言っている。

「即心是仏」という言葉と新しい「心即是仏」という言葉との関係は

次の図1によって考えることができる。

図1

図1「即心是仏」と「心即仏是」の関係



図1に「即心是仏」と「心即仏是」の関係を図示する。

図1の「即心是仏」において即と心、是と仏を入れ替えると「心即仏是」という言葉になる。

図2に 「即心是仏」と「仏即是心」の関係を図示する。

図2

図2 「即心是仏」と「仏即是心」の関係



「即心是仏」において仏と心を入れ替えると、「即仏是心」という言葉になる。

さらに「即仏是心」において即と仏を交換すると「仏即是心」になる。

「即心是仏」という言葉から「仏即是心」という言葉にするには

2ステップとなるが言葉を交換するプロセスを繰り返せば

「即心是仏」という言葉から「仏即是心」という言葉を得ることができる。

図3 に「即心是仏」と「即心仏是」の関係を図示する。

図3

図3 「即心是仏」と「即心仏是」の関係



図3を見れば分かるように、「即心是仏」において「是」と「仏」を交換すると

「即心仏是」という言葉になる。

図4に 「即心是仏」と「是仏心即」の関係を図示する。

図4

図4 「即心是仏」と「是仏心即」の関係



「即心是仏」において、「即」と「心」を交換すると

「心即是仏」になる。

「心即」と「是仏」の左右の位置を交換すると「是仏心即」が得られる。

図1〜4に示したように「即心是仏」という言葉から「心即仏是」を始め

「仏即是心」、「即心仏是」、「是仏心即」という言葉を

漢字の一文字を交換することで簡単に得ることができる。

道元は「即心是仏」という公案を「心即仏是」の面や、

「仏即是心」の面、「即心仏是」、「是仏心即」の面と多方面から

掘り下げて参究するのが「即心是仏」だと述べている。

図1〜4に示したようにこれらの言葉は「即心是仏」という言葉から

単なる漢字の交換によって得ることができる。

その意味で、「心即仏是」の面や、「仏即是心」の面、「即心仏是」、「是仏心即」の面と

多方面から掘り下げて参究するのが「即心是仏」だと考えることは

単なる漢字の交換による言葉遊びの側面がある。

道元は自分が言うことにそのような言葉遊びの側面があることにも気づいていたのだろうか?



5

 第5文段


第5文段の原文


このゆゑに古人いはく、

若人心を識得せば、大地に寸土無し」。

しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落しソウ地裂破す。

あるいは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。

古徳云く、

作麼生是妙浄明心。山河大地、日月星辰」。

あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。

しかあれどもこの道取するところ、すすめば不足あり。しりぞくればあまれり。

山河大地心は、山河大地のみなり、さらに波浪なし、風煙なし。

日月星辰心は、日月星辰のみなり、さらにきりなし、かすみなし。

生死去来心は生死去来のみなり、さらに迷なし、悟なし。

牆壁瓦礫心は牆壁瓦礫のみなり 。

さらに泥なし。水なし。四大五蘊心は、四大五蘊のみなり、さらに馬なし、猿なし。

椅子払子心は椅子払子のみ なり、さらに竹なし、木なし。

かくのごとくなるがゆゑに、即心是仏、不染汚即心是仏なり。

諸仏、不染汚諸仏なり。


注:

古人:  古えの人。 ここでは長霊守卓禅師を指す。

識得する: 完全に認識する。 

蓋天: 蓋はおおう。蓋天は全天。

撲落: 撲は打つの意。撲落は一時に急落すること。 

ソウ地裂破:  ソウ地は一切の土地。

ここでは心境一如の観点から地を心だと考えているので心が裂破することを意味している。

道元の心身脱落の体験と似た表現になっている。

古徳:  往時の有徳者、昔時の高僧。ここでは仰山慧寂禅師を指す。

仰山慧寂禅師: 仰山慧寂(804〜890)。

イ山霊祐禅師の法嗣。師のイ山霊祐と共に、イ仰宗の祖とされる。 

作麼生(そもさん): 生は助字。作麼生は作麼に同じ。

作麼は宋代以後中国の俗間に使われた疑問詞。

いかなるものが。どのようなものがの意。  

妙浄明心: 微妙清浄かつ明晰な心。

星辰: 星も辰も星を意味する。星辰は星の意。 

道取:  道は言う。取は動詞につける無意味の助字。道取はものをいうこと。

馬:  ここでは意馬心猿の意馬を指し、

馬のようにはね廻り統御することか難かしい人間の意志を象徴している。 

猿: ここでは意馬心猿の心猿を指し、

絶えず動き騒いで静まることのない人間の心性を象徴している。 



第5文段の現代語訳

それゆえ古人〈長霊守卓禅師〉も

若し人が心を知るならば、大地にはわずかな土地もない。」

と説いている。

銘記しなさい。〈人が〉心を識得した時には、天は落ち、大地は裂けてしまう。

あるいは、心を識得した時、大地はさらに厚さ三寸をましたように一変する。

古えの高僧(仰山慧寂禅師)も

妙浄明心とは何ですか?」

と質問された時、

心とは山河大地、日月星辰である。」

と答えている。

心境一如を参照)。

そこで明らかに知ることができる。

心とは山河大地や日月星辰である。

しかしながらこの主張はあまり行き過ぎると真実に欠け、

また後退すると却って言い過ぎる面が生まれる。

山河大地の心は、山河大地そのものである。

山河大地に加えて波浪や、風や煙がある訳ではない。

日月星辰という意識は、日月星辰そのものであり、

それに加えて霧や霞がある訳ではない。

生死去来の心とは生死去来そのものである。

生死去来に加えて更に迷いや悟りがあるのではない。

牆壁瓦礫心とは、牆壁瓦礫そのものである。

さらにその上に泥や水がある訳ではない。

四大五蘊の心は、地水火風や色受想行識そのものである。

さらにそれに加えて馬や猿があるのではない。

椅子や払子の心とは、椅子や払子だけである。

さらにその材料となっている竹や木がある訳ではない。

そうであるから

即心是仏」とは、汚染されていない純粋な心こそ仏である。」

と言っているのであって、

仏の心は他の何物からもけがされるものではない。

同様に、諸仏は汚されない諸仏である。



第5文段の解釈とコメント


   

この文段では長霊守卓禅師と仰山慧寂禅師の言葉を引用して議論を進めている。

古人〈長霊守卓禅師〉も

若し人が心を知るならば、大地にはわずかな土地もない。」と説いている。

銘記しなさい、人が心を識得した時には、天は落ち、大地は裂けてしまうような体験をする。

あるいは、心を識得した時、大地はさらに厚さ三寸をましたように一変するような体験をする。

これは見性や悟りの体験を比喩的に言っていると考えることができるが

具体的にどういうものかははっきりしない。

高僧(仰山慧寂禅師)も

妙浄明心とは何か?」

と質問された時、

心とは山河大地、日月星辰である。」

と答えている。

そこで明らかに知ることができる。心とは山河大地や日月星辰である。

心境一如を参照)。

心境一如の観点からは山河大地の心は、山河大地そのものである。

山河大地に加えて波浪や、風や煙がある訳ではない。

心境一如の観点からは生死去来の心とは生死去来そのものである。

生死去来に加えて更に迷いや悟りがあるのではない。

牆壁瓦礫心とは、牆壁瓦礫そのものである。さらにその上に泥や水がある訳ではない。

四大五蘊の心は、地水火風や色受想行識そのものである。

さらにそれに加えて馬や猿があるのではない。

椅子や払子の心とは、椅子や払子だけである。

道元は結論として「即心是仏」とは、

汚染されていない純粋な心こそ仏である。」と言っている。

仏の心は他の何物からもけがされるものではない。

同様に、諸仏は汚されない諸仏であるとも述べている。

筆者は馬祖の言う<即心是仏>は



心=仏=仏心=坐禅修行によって浄化された心=健康な脳



という等式によって示すことができると考えている。

禅の思想その1.馬祖道一の禅思想を参照)。


臨済の師黄檗希運は「本源清浄の心」を仏の心だと言っている。


黄檗希運の「本源清浄の心」は

道元が言う、「汚染されていない純粋な心」に近いと思われる。


禅の思想その1.3.24本源清浄の心を参照)。


ここで高僧(仰山慧寂禅師)の不思議な言葉「「心とは山河大地、日月星辰である。」や

〈長霊守卓禅師〉の言葉を深く理解するため

心境一如(不二)」について考えよう。




5-1

「心境一如(不二)について


   

仏教では眼、耳、鼻、舌、身、意(こころ)の6感覚器官(6根とも言う)と

その対象として色、声、香、味、触、法の6境(対象)を考える。

6根が6境と接触すると6識が生ずると考える。

6識とは眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の6つを言う。

  科学的には6境(対象)と6根が相互作用することで6識が生じる。

6根+6境+6識は6x3=18となるので18界と言う。

これを図示すると図5のようになる。

図5

図5 18界



18界のうち6根と6識を合わせたもの12処と言う。

12処は普通我々が考える自己に相当する。

普通我々は眼、耳、鼻、舌、身、意(こころ)の6感覚器官と

6識が生じる脳神経系を自己だと考える。

6根と6識を合わせた12処までが自己で

6感覚器官の対象となる6境は自己ではないと区別する。

「心境不二」とは自己とその外境(対象)が一つになることであるから

図に描いた18界全体を自己だと考えることに相当する。

我を忘れて自己と6境が一体化した時だと考えることができる。

「万物斉同」、万物一体、「両忘」、「忘我」の境地に近い。

心境一如を参照)。

我々の常識的考えでは心と認識対象としての6境をはっきり区別する。

6根と6識を合わせた12処までが自己である。

6感覚器官の対象となる6境は自己ではないと区別する。

図5の18界において中心は脳だと考えることができる。

図6は18界の中心に脳を置いて18界を分かり易く表した図である。

図6

図6 十八界の中心は脳である



図6において紫色の点線の内部が12処に相当する。

図6において。紫色の点線の内部が我々が常識的に考える自己である。 

我々は12処の外にある6境が他者(外界)であると考える。

それでは、我々は12処までが自己であり、

12処の外にある6境は他者(外界)であると区別(認識)するのだろうか?

それは脳の認識作用に由来すると考えることができる。

図7においてそれを分かり易く表現する。

図7

図7 脳は12処までが自己であると認識する。



図7において紫色の点線の内部にある緑色の実線の内部が12処に相当する。

脳は緑色の実線の内部(12処)までが自己であると考える。

脳は12処の外にある6境は他者(外界)である。

我々が普通の意識状態で見聞きする時、常に上層脳の分別意識の影響下にある。

感情や記憶や知識など分別・分析・先入観などのフィルターを通して見ている。

脳が12処までが自己で、12処の外にある6境は他者であると区別・認識するのは

このような一種のフィルターを通して見ているためだと仮定しよう。

そのような分別意識のフィルターのため、脳は12処までが自己で、

12処の外にある6境は他者であると区別(認識)すると仮定するのである。


この脳を覆うフィルターを図7では紫色の点線で表している。

坐禅修行によって下層脳が活性化しストレスが無くなると、脳が清浄健康になる。

分別智(理知脳)の働きも鎮静化する。

そうなると、脳は感情や経験・記憶に基づく 分別意識のフィルターの影響を受けにくくなる。

この時、脳を覆うフィルターは消失し、

外界からの情報はフィルターなしに直接脳に入って来るようになる。

フィルターが消失することで、

12処の外にある6境も自己であると認識するようになる。

これが心境一如(不二)の状態であると考えることができる。

この心境一如(不二)の状態を図8に示す。

図8

図8 心境一如(不二)」の状態では18界が自己である。



図8に示したように、

心境一如(不二)」の状態では6境を含むオレンジ色の線の内部(18界)が

自己であると認識するようになる。

従って、

心境一如(不二)」とは自己の拡大だと考えることができる。

図8に示したように、自己は12処から18界全体に広がるからである。

第五文段で古人〈長霊守卓禅師〉の言葉

若し人が心を知るならば、大地にはわずかな土地もない。」を引用している。

第4文段の最後尾で道元は

ここに云う正伝された心というのは「一心一切法、一切法一心」の心である。」

と述べている。

一心一切法、一切法一心」とは一切の存在は一心であり、

一心が一切の存在であるということだから、「心境一如(不二)」と同じ意味である。

心境一如(不二)の境地では一切の存在は一心になるから大地も心になる。

この時、大地も一心(一切法一心)になるから、

大地にはわずかな土地も無くなることになる。

この考察より、古人〈長霊守卓禅師〉の不思議な言葉

若し人が心を知るならば、大地にはわずかな土地もない。」

とは心境一如(不二)を表す言葉であり、

一心一切法、一切法一心」と同じ意味であることが分かる。

ここで注意すべきは心境一如(不二)の境地では一切の存在は一心になるからと言って

実際に土地が無くなるわけではないということである。

心境一如(不二)の境地ではそのように実感されると言っているだけである。

古人〈長霊守卓禅師〉の不思議な言葉

若し人が心を知るならば、大地にはわずかな土地もない。」は

心境一如(不二)の境地を述べているだけである。

あくまで境地や心境を述べているいるだけであり、実際に土地が無くなるわけではない。

もしそんなことが起こるならば

心境一如(不二)の境地に至った人は土地を失い、作物を栽培する農業や庭仕事はできなくなる

そんなことが起こるはずはないのは明らかである。



道元はさらに、

心を識得する時、天は落ち、大地は裂けてしまう

あるいは、大地はさらに厚さ三寸をます。」と述べている。

この言葉は心境一如(不二)の境地を識得するときには

天地が撲落し、裂破する。」

ような常識を超えた不思議な悟りの体験をすると述べていることが分かる。

それでは「心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。」とは

どういうことだろうか?

心境一如(不二)とは心=境(外界)という意味である。

いま、心境一如(不二)において心が18界全体に拡大した時に、

一切は境(土地)も含むことにもなる。

道元は心境一如(不二)において心が18界全体に拡大した時に、

一切は境(土地)になるということを逆説的に、

心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。」

という表現によって表していることが分かる。



次に、 「明らかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」

という不思議な言葉について考察しよう。

心が山河大地であり、日月星辰であるとは我々の常識では全く納得できないことである。

この不思議な言葉は山霊祐(771〜853)と高弟の仰山慧寂(807〜883)

の次ぎのような会話から来ている。

大イ仰山に問う、

妙浄明心、汝作麼生(そもさん)か会する?

仰 曰く、

山河大地、日月星辰」。

この会話を現代語に直すと次ぎのようになる。

イ山霊祐が仰山慧寂に質問した、

お前さんは妙浄明心をどのように理解しているのかね?」

仰山慧寂曰く、

山河大地は、日月星辰です」。 

この会話から仰山は

妙浄明心とは山河大地、日月星辰である。」

とイ山霊祐に答えていることが分かる。

仰山は「妄想分別を徹底的に奪い尽くすことで得られる妙浄明心(純粋意識)で見ると

山河大地、日月星辰と心は一体である。」

心境一如の境地を語っているのである。

心境一如の境地は既に示した図8によって説明できる。

心境一如」は万物一体の思想と同じである。

万物一体や心境一如の思想と境地は禅だけではなく中国思想(特に宋学)で重要である。

この会話で妙浄明心という言葉が出て来ている。

妙浄明心とは

坐禅修行を通して健康になった脳に基づいて発現した心境一如の心であることが分かる。


「伝心法要」において黄檗希運はこれを「本源清浄心」と表現している。

禅の思想その1.3.24本源清浄の心を参照)。




6

 第6文段


第6文段の原文


しかあればすなはち、即心是仏とは発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。

いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず。

たとひ一刹那に発心修証するも、即心是仏なり。

たとひ一極微中に発心修証するも、即心是仏なり。

たとひ無量劫に発心修証するも、即心是仏なり。

たとひ一念中に発心修証するも、即心是仏なり。

たとひ半拳裏に発心修証するも、即心是仏なり。

しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、

即心是仏をいまだみざるなり、いまだしらざるなり。

いまだ学せざるなり、即心是仏を開演する正師をみざるなり。

いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。

過去現在未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、

かならず釈迦牟尼仏となるなり、これ即心是仏なり。



正法眼蔵即心是仏



延応元年五月二十五日在雍州宇治郡観音導利興聖宝林寺示衆



注:

刹那: 印度における時間の最小単位。

  インドで用いられた,きわめて短い時間を表す単位。

1刹那は現在の単位にすれば 0.013秒ぐらいにあたる。

また 1弾指(たんじ)、すなわち指をはじき鳴らす間に 65刹那が費やされるともいわれる。

『大毘婆沙論』では、1刹那の長さを1/75秒(=0.013秒)に比定している。

極微:  微塵の意。

物質を徹底的に細分して行った結果、それ以上は細分することのできない物質の最小単位。

原子のようなもの。

一念: 現在の瞬間における心をいう。

 半拳裡:  にぎりこぶしの半分。人間の身休の極く一小部分を比喩的に指す。 

 作仏: 作意的に仏になろうと努力すること。



第6文段の現代語訳


そうであれば、「即心是仏」ということは、発心し、修行し、

悟り、涅槃に到達する諸仏のことである。

〈逆に〉まだ発心、修行もせず、悟り、

涅槃に到達しようとしないのは、「即心是仏」とはいえない。

しかしたとい一瞬間であっても、発心し、修証する場合は、「即心是仏」ということが言える。

たとい原子のような極小の物質中においてであっても、発心し、修証する場合は、

「即心是仏」ということができる。

たとい無限の時間において発心し、修証するのも、「即心是仏」ということができる。

たとい現在の一瞬における心の中で、発心し、修証するのもまた、

「即心是仏」ということができる。

たといにぎりこぶしの半分ほどで発心し、修証する人もまた、

「「即心是仏」ということができる。

しかしながら無限に長い期間に亘って修行をし仏になるのは、「即心是仏」ではないと言う者は、

まだ「即心是仏」をまだ見ていないのであり、分かっていないのであり、

学んでいないのであり、「即心是仏」を説く正師にめぐり会っていないのである。

ここにいう諸仏とは、釈迦牟尼仏であり、釈迦牟尼仏こそは「即心是仏」である。

過去・現在・未来の諸仏は、ともに仏となる時には必ず釈迦牟尼仏になるのである。

これが「即心是仏」である。



正法眼蔵即心是仏



1239年旧暦5月25日 山城の国、宇治郡の観音導利興聖宝林寺において、衆僧に 説示した。 



第6文段の解釈とコメント


   

この文段では、道元は「即心是仏」ということは、発心し、修行し、

悟り、涅槃に到達する諸仏のことだと考える。

従って、まだ発心、修行もせず、悟り、涅槃に到達しようとしない人は、

「即心是仏」とはいえないと言う。

しかし、たとい一瞬間であっても、発心し、修証する場合は、「即心是仏」の人である。

たといにぎりこぶしの半分ほどで発心し、修証する人もまた、「「即心是仏」の人である。

しかし、無限に長い期間に亘って修行をし仏になると言うのは、

「即心是仏」ではないと言う者は、まだ「即心是仏」を見ていず、

まだ分かっていないのであり、まだ学び取っていないのであり、

「即心是仏」を説く正師にめぐり会っていないと言う。

この文段の後尾で道元は

しかし、無限に長い期間に亘って修行をし、仏になると言うのは

即心是仏」ではないと言う者は、まだ「即心是仏」をまだ見ていない

まだ分かっていず、学んでいず、「即心是仏」を説く正師にめぐり会っていない

と説いている。

道元のこの言葉は今までの伝統的な大乗仏教の漸悟成仏観に近いのに驚かされる。

曹洞禅も六祖慧能の南宗禅の法系上あるはずである。

黄檗希運は「伝心法要」で次ぎのように説いている。

声聞という修行者は仏の説法を聞くことで悟るので声聞と呼ぶ

声聞は永劫の修行を経て悟りを開いても声聞仏になるだけである三劫成仏説)。

これに対し、本来己の心が仏にほかならぬことを単刀直入に自覚し

一法も得るものは無く、一行も修行すべきものはない という 境地に至るのが無上道であり

その境地に至った者が真如仏である頓悟成仏説)」。

このように黄檗希運は明らかに頓悟成仏説)を主張している。

また「証道歌」で永嘉真覚(ようかしんかく)(665〜713)は次のように歌っている。

頓悟禅では一足飛びに如来の境地に直入できる(一超直入如来地)。

この仏法に優るような仏法はない

ただ根本のことを得るのが大切であり、枝葉末節のことを愁うることはない

誰もが仏性(真の自己)を持っている

それはちょうど浄瑠璃の宝珠に月が映っているように輝いている。」

証道歌第9文段を参照)。

道元の曹洞禅も六祖慧能の南宗禅の法系である。

ここで道元は参禅修行を通して誰もが具有する仏性(真の自己)を自覚し

一足飛びに如来の境地に直入できる頓悟禅を説くべきではないだろうか?

24才の時入宋し、天童山景徳寺で修行していた道元は

如浄禅師の会下で「身心脱落」の経験をして大悟したことは良く知られている。

身心脱落」の悟りの経験は頓悟である。

身心脱落」の頓悟の体験があるにも拘わらず、

伝統的大乗仏教が説く三劫成仏説のような、

無限に長い期間に亘って修行をし、仏になると言うのは

「即心是仏」ではないと言う者は、まだ「即心是仏」をまだ見ていない

と言う道元の言葉に違和感を持つのは筆者だけだろうか?

道元は頓悟成仏説に基づく「見性成仏」より「修証不二」を重視しているようなところがある。

「即心是仏」で「見性成仏」するよりも、

修証不二」を重視し、修行を続けることが悟り(証)だと考えているためだろうか。

禅の根本原理と応用、8.2.8.「修証不二」を参照)。

「即心是仏」については「無門関」30則「即心即仏」を参照されたい。

無門関30則「即心即仏」を参照)。



コメント: 即心是仏と観無量寿経


浄土三部経の一つ「観無量寿経 」には

是心是仏、是心作仏」という言葉がある(岩波文庫「観無量寿経」 p.59)。

経文のこの部分は

心に仏を想うとき、この心がそのまま仏の32の相であり、80の付随的な相である

  この心が仏となり、この心がそのまま仏である。」

と和訳されている。

馬祖道一禅師は観無量寿経の「是心是仏、是心作仏」の経文の「是心是仏」に注目し、

「是」を「即」という字に置き換えて「即心是仏」という言葉を創造し提唱したと考えることができる

かも知れない。

これを図9に示す。

図9

図9 「是心是仏」から「即心是仏」へ。



図9に示したように、「是心是仏」において

「是」を「即」に入れ替えると「即心是仏」と言う言葉になる。



参考文献など:



1.道元著 水野弥穂子校註、岩波書店、岩波文庫 正法眼蔵(一)p.140〜150.1992年

 第五 「即心是仏」

2.西嶋和夫訳著、仏教社、現代語訳正法眼蔵 第一巻、p.125〜138.1981年 

「即心是仏」

3.道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み

「道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み」

4.中村元・早島鏡正・紀野一義訳註、岩波書店、岩波文庫、浄土三部経、1997年



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