「信心銘」は中国禅の第三祖僧サン(そうさん)鑑智禅師(?〜606)の著作とされる。
僧サンのサンは火偏の燦ではなく王偏の燦である。
鑑智禅師は唐の玄宗皇帝から贈られた諡号(おくりな)である。
出生地、出生年、族姓など不明。535年二祖恵可(487〜593)
に居士として初めて拝謁したと伝えられる。
その後二祖に師事し恵可の法嗣となった。中国禅の第三祖とされる禅師である。
現在伝わる「信心銘」は全篇146句、584字から成る。
「禅宗四部録「信心銘、証道歌、十牛図、坐禅儀」の一つである。
信心銘について、鈴木大拙博士は
「堂々たる哲学詩であり、禅旨の大要はこれで尽きている」
と言われ、古来類がない傑出したものだと評価されている。
信心とは、現代では神仏への信仰の意味と同義語として使われる。
しかし、「信心銘」で使われている信心とは、
坐禅修行した結果清浄健康になった自己の心(脳)を信じる、あるいは信頼するという意味だと考えることができる。
ブッダが主唱した<自帰依>という意味に近いと解釈できる。
以下の解説ではこれを便宜的に(17文段に分け、脳科学的観点を取り入れて合理的に説明したい。
1.
至道無難(しいどうぶなん)、唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う、
但だ憎愛莫ければ、洞然(とうねん)として明白(めいはく)なり。
毫釐(ごうり)も差有れば、天地懸(はるか)に隔たる。
現前を得んと欲せば、順逆を存すること莫かれ。
注:
至道:至極の大道、最高の真理。
揀択(けんじゃく):取捨憎愛の見方によって物を分別しえり好むこと。
自己中心的な考えから取捨、憎愛の念をおこすこと。
毫釐(ごうり)も:ほんの少しでも。
毫釐も差有れば:ほんの少しでも差誤があれば。
現前:目の前に現れること。至道、即ち、我々が本具している仏心が日常の行動に現れること。
順逆:従順と反逆のこと。事の両端を示したもので、憎愛の念をさしている。
現代語訳:
最高の真理に至るのは難しいことではない。
ただ取捨、憎愛の念を起こして、選り好みをするのを嫌うだけである。
ただ憎むとか愛するとかがなければ、それはこの上なく明白になる。
しかし、そこに少しでも差誤が有れば、天と地のように遠く隔たってしまう。
我々に本来具わっている佛心が日常の行動に現れるためには、
憎愛の心を離れなければならない。
コメント:
この冒頭の句は信心銘の中心的命題とされる。
「碧巌録」百則のうち二則はこの冒頭句に関する趙州禅師の問答である。
古くから、この句がいかに重要視されたかが分かる。
取捨、憎愛の念は、視床下部の欲(食欲、性欲)や、扁桃体の憎愛の心より発生する。
坐禅の丹田腹式呼吸によって,
これら下層脳(視床下部や扁桃体)から発する情動の興奮を制御し、
鎮静化することが禅の中心的命題である
(禅と脳科学2.8参照)。
坐禅をしっかりすれば、好き嫌いのなどの感情が扁桃体を興奮させても
超然として平静な心になることができる。
そうなれば悟りの核心は自然に明らかになると言っていると考えられる。
最近の研究では、禅と同じ起源を有するマインドフルネス瞑想によって、
憎愛の心を発生する扁桃体の体積が0.5%くらい減少することが分かって来た。
これは、坐禅などの瞑想によって扁桃体の過活動を制御し、
情動の興奮を抑制できることを示していると考えることができる。
2.
違順(いじゅん)相爭う、
是を心病と爲す。
玄旨(げんし)を識らざれば、
徒(いたず)らに念靜(ねんじょう)を労す。
円(まどか)なること大虚(たいきょ)に同じ、
欠ること無く餘ること無し。
良(まこと)に取捨に由る、
所以(ゆえ)に不如なり。
注:
違順: 違は自分の心に乖いたり違うこと、順は違は自分の心に叶うこと。
自分の心に反(そむ)くものを憎み、叶(かな)うものは愛する、
この二つが相争う煩悩の原因になる。
心病:煩悩や精神的ストレスのこと。
あるいはそれから生まれる欝病も含めて良いだろう。
念靜:坐禅によって念慮を抑制した無念無想の静止状態のこと。
大虚:太虚と同じ。大空のこと。
不如:如でないこと。
如とは平等一如の不変不動の諸法の本体(下層脳を主体とする脳)をいう。
不如は上層脳(主として大脳前頭葉)で生まれる分別差別意識を指す。
現代語訳:
自分の好みに合っているとか合っていないかにこだわるのは心の病と言うしかない。
本当のことを知らないならば、坐禅によって徒に念慮を抑制し、
無念無想の状態になろうと苦労するだけだ。
真の自己は丸い円のようで、大空のようにどこにも欠けているところは無く、
余っているところも無い。
それなのに、是を取り、非を捨てようとする取捨選択の情や私欲のために、
そこから差別の妄念が生まれ、真理から離れてしまうのだ。
コメント
不変不動の諸法の本体(=下層脳を主体とする無意識脳)には本来ストレスはない。
しかし、取捨選択の情によって上層脳(理知脳)に分別意識が生じ、
苦しみ(ストレスや心の病)が生じることを言っている。
原始仏教に於いてブッダは
「苦は渇愛から生じる。渇愛の心を離れることができれば苦から解脱する」と説いた。
このブッダの考え方と似たところがある。
3.
有縁を逐うこと莫れ、
空忍に住すること勿かれ、
一種平懷なれば、泯然(みんねん)として自(おのず)から盡く。
動を止めて止に歸すれば、止更に彌(いよい)よ動ず。
唯両辺に滞(とどこお)らば、寧ろ一種を知らんや、
注:
有縁:有為(無常)の諸縁。
是非、善悪、邪正等、或いは色、声、香、味、触、法の六境を
縁として生じた差別無常の世界のこと。
有縁を逐うこと莫れ:外界が常住不変なものだと考える常見に陥ることを戒める言葉。
空忍:無為空寂の空見に陥ること。
動を止めて止に歸すれば、:心の動揺を嫌って静止の状態にいようとすれば、
両辺:有と空、動と止の対立する二つの概念のこと。
泯然(みんねん):滅びるさま。
一種:本当のところ。真の自己(一つの脳)。
現代語訳:
是非、善悪や感覚的な無常の世界を追い求めてはならない。
だからといって、清浄空寂や無為の空見に陥ってもならない。
波のない水面のような一種の担担たる心になれば、
有縁と空忍の二見は自然に消え尽きてしまうだろう。
心の動揺を止めて静かになろうと努力しても、心の動きはいよいよ増すばかりだ。
有と空、動と止のような相対立する概念にこだわっていたら
どうして真の自己を悟ることができるだろうか。
コメント
有と空、動と静(止)のような二元対立の世界(分別意識)を超えないと、
本当のところ(真の自己、下層脳中心の真の自己)に至ることはできないと言っている。
4.
一種通ぜざれば、両処に功を失す。
有を遣(や)れば有に沒し、
空に隨(したが)えば空に背く。
多言多慮、転(うた)た相応せず、
絶言絶慮、処として通ぜずということ無し。
根に帰すれば旨を得、照に隨えば宗を失す。
須臾(しゅゆ)も返照すれば、前空に勝却(しょうきゃく)す。
注:
一種:真の自己(脳)。
一種通ぜざれば:真の自己(一種)に目覚めないかぎり。
両処:分別意識
功を失す:自由な働きを失う。
有:あらゆる差別の現象のこと。
絶言絶慮:言葉と思慮が絶えたところ。
言葉と思慮が絶えた真の自己の寂滅姓をさす。
根に帰す:根は根源的な下層脳中心の脳をさす。
絶言絶慮、寂滅無相の心(下層脳の世界)に帰ること。
照:外を照らし思慮分別すること。
照に隨えば:心が外に向かい、外境について廻ること。
思慮分別すること。
返照:見る者は何者かと内省すること。
前空:物質的現象は空であると観るのが空観である。
前空とは空と虚無を混同するような素朴な空観をさす。
勝却す:超越する。
現代語訳:
真の自己(一種)に目覚めないかぎり、
有とか無という分別意識に捉われて自由な働きを失ってしまう。
有を捨てようとすれば有に埋没してしまうし、
空に随(したが)おうとすれば空(真の空観)に背いてしまう。
良く考えて多くの言葉で語り尽くそうとしてもなかなか本当のことを言い尽せない。
しかし、言葉と思考を離れて下層脳の世界に入れば、
いたるところ、通じないところは無い。
絶言絶慮、寂滅無相の本心(下層脳)に帰れば、本当のことが分かるが、
心が外に向かい、外界について廻ると本当のことを見失ってしまう。
坐禅によって、少しでも心を内に向けて内省すれば、
素朴な空観(虚無観)を超えることができるだろう。
コメント
前段と同じく、この分段でも絶言絶慮、
寂滅無相の本心(下層脳中心の世界)の大切さを言っている。
5.
前空の転変は、皆妄見に由る。
真を求むることを用いず、
唯須らく見を息(や)むべし。
二見に住せず、慎しんで追尋すること勿れ。
纔(わずか)に是非有れば、紛然として心を失す。
注:
前空の転変:観念的で素朴な空観の内容がくるくる変ること。
見:妄見のこと。
二見:主・客、真・妄、常・断、などの二元対立する見解。
現代語訳
空と無を混同するような素朴な空観の内容がくるくる変るのは
妄(みだ)りに見解を作り上げるからである。
思考だけで真実を追求するようなことをせず、ただ思考することを止めればよい。
善・悪、常・断などの相対立する二つの見解に留まって、
真実を追求してはならない。
少しでも、是非などの価値判断をすると、心は紛糾して本来の自己を見失うだろう。
コメント
「二見に住せず、慎しんで追尋すること勿れ
(善・悪、常・断などの相対立する二つの見解に留まって、真実を追求してはならない)」
とは分別意識(分別智=上層脳)に基づく思慮分別(思索)によって
真実を求めてはならないと言っている。
「纔(わずか)に是非有れば、紛然として心を失す
(少しでも、是非などの価値判断をすると、心は紛糾して本来の自己を見失うだろう。)」
とは分別意識(分別智=上層脳)によって是非を考え議論すると真の自己を見失うと言っている。
下層脳中心の無分別智の重要性を示唆している箇所といえる。
「真を求むることを用いず、唯須らく見を息むべし
(思考だけで真実を求めるようなことをせず、ただ思考することを止めればよい)」
とは「大乗起信論」にいう「離念」という考えに近いところがある。
「大乗起信論」の解釈分では、
「心の体は念を離れる。離念の相は虚空界に等しく遍(あめねか)ざる所なし」と言っている。
「大乗起信論」のこの言葉は
悟りの本体は分別意識(分別智)の中心となる上層脳(大脳前頭葉、理知脳)ではなく、
無念無想(離念)の下層脳(無意識脳)にあることを示唆している。
(禅と脳科学2.6参照)。
このあたりの考えは現代では訂正すべきだろう。
僧サンが生きた古代中国と現代社会では情報の確度と豊かさが圧倒的に違う。
現代では是非を考え議論するだけの正確な知識(特に脳科学的知識)と豊かな情報がある。
分別智(理知性)は現代の科学文明の基礎であり、
その正しさと重要さは既に立証されているからである。
6.
二は一に由て有り、
一も亦守ること莫れ。
一心生ぜざれば、万法に咎無し。
咎無ければ法無し、生ぜざれば心ならず。
能は境に隨って滅し、境は能を逐うて沈す。
注:
二は一に由て有り:主・客、有・無など二元的対立の世界は
その対立を可能にする絶対的な一があって可能になる。
一は妙心あるいは至道とも言う。
一は下層脳中心の脳(主として無意識脳)であり、
二とは上層脳(主として大脳前頭葉)から生まれる分別意識(分別智)だと考えれば
このあたりは合理的に理解できる。
(禅と脳科学2.6参照)。
一も亦守ること莫れ:一は下層脳中心の脳(主として無意識脳)であり、
ストレスなどがない大安楽の心の本体である。
しかし、下層脳中心の脳は本質的に無意識脳であり動きがない。
安楽であるからと言ってこのような動きの無い
脳の世界に留まってはならない。
一心生ぜざれば:分別意識が生じないならば。
下層無意識脳が優勢な状態にあれば、二元的対立の分別意識(分別智)は生じない。
この時分別意識(分別智)から生じるストレスなどの苦は無い。
法無し:万法が無いのではない。
自己と万法が一体となった万物一体の境地では主・客の二元的対立が無くなる。
それが「法無し」の無心の境地である。
そこでは取捨憎愛の執着心がないから万法をあるがままに受け取ることができる。
能:主観。
境:客観。外境。
能は境に隨って滅す:主観と客観は相対的なものである。
その二つは大脳前頭葉の分別意識(分別智)から生まれる。
分別意識(分別智)の活動が静止し、主観の働きが無くなれば客観もそれに随って無くなる。
その時、主・客対立の世界も消え去ってしまう。
現代語訳
主・客、有・無など二元的対立の世界(二)は
その対立を可能にする絶対的な、一である下層脳優勢の脳(一)からうまれる。
しかし、一である下層脳優勢の脳( 一)は働きの無い無意識である。
安楽であってもそこに留まりそれに執着してはならない。
分別意識(分別智)の活動が静止すれば心が生じることはない。
その時、分別意識(分別智、理知脳)の活動から生まれるストレスや煩悩などの咎は無くなる。
また取捨憎愛がないから万法をあるがままに無心に受け取ることができる。
分別意識(分別智)の活動が静止し、主観が無くなればそれに随って客観も無くなる。
その時主観・客観の二元的対立の世界も消え去ってしまうのだ。
コメント
鈴木大拙博士は「二は一に由て有り、一も亦守ること莫れ、
一心生ぜざれば、萬法に咎無し」の四句を信心銘の骨子(核心)であると言っている。
ここで言う「一」や「二」は単なる数字の一や二ではないことに注意すべきである。
「一」は下層脳中心の脳(生命情動脳、無意識脳)を、
「二」は上層脳(理知脳)から生まれる主客分離の分別意識(分別智)を象徴的に表している
と考えればこの四句は合理的に理解できる。
7.
境は能に由て境たり、
能は境に由て能たり。
両段を知らんと欲せば、元是れ一空、
一空両に同じく、齊しく万象を含む、
精粗を見ず、寧(なん)ぞ偏党あらんや。
注:
両段:主観と客観の二つ。
一空:下層脳の働きが優勢の脳。無意識空状態の脳をさす。
これが主・客対立を生む根源で「絶対無」(無の本体)である。
無意識で空状態にあるため「一空」と表現しているようだ。
萬象を含む:あらゆる現象や情報を取り込んで認識する。
上層脳の認識機能について言っている。
偏党:偏(かたよ)って一方に偏すること。
現代語訳
客観は主観によって客観になるし、主観は客観によって主観たりうるのだ。
主観と客観の二つがどうして生じるか知りたいならば、
元々それが下層脳の働きが優勢な空状態(一空という無の状態の脳)
から生じていることさえ分かれば良い。
空状態の脳から主観と客観の二つが生まれるのであり、
空状態の脳(一空)と主観・客観(両)は本質的に同じなのである。
脳はあらゆる現象や情報を取り込んで認識する。
その働きは万象を含むと言っても良い。
そこには詳しい(精)だとか粗雑(粗)だとかいうことがあろうか。
脳が空状態にあれば、一如平等でそこに偏りはどこにもない。
コメント
ここでは空状態の脳(無分別智の本体である下層脳=脳幹+大脳辺縁系)から
主観と客観の二つ(両段)が生まれることと脳の認識(万象を含む)機能について述べている。
8.
大道は体寛(かん)にして、難無く易無し。
小見は狐疑す、
転(うた)た急なれば転た遅し。
之を執すれば度を失して、必ず邪路に入る。
之を放てば自然(じねん)なり、
体に去住無し。
注:
大道:至道(究極の悟り)のこと。
転た急なれば転た遅し:至道を求め急いで張り切って精進すると
急速に近づいているように見えるが、
実は至道から遅々として遠ざかっているのである。
之を放てば:悟りや自己の小知見への執着を捨て去れば。
体に去住無し:至道(悟り)の本体には去来の姿(相)は無い。
現代語訳
大道(禅の悟り)はもともと寛(ひろ)くゆるやかなものだ。
難かしくもなく易しくもない。
小さな了見の者はそれを疑う。
至道(究極の悟り)を求め急いで張り切って精進すると
急速に進歩しているように見えるが、
実は至道から遅々として遠ざかっているのである。
大道(悟り)に執着すれば、度が過ぎて必ず邪路に入るだろう。
しかし、それへの執着を捨て去れば、
大道は去来の姿(相)は無いから自らそこに現れるのである。
コメント
この文段では禅の悟りの無礙自由な性質について言及している。
至道(究極の悟り)の本体は下層脳を中心とする脳(生命情動脳)であるからもともと存在している。
それには去来の相(姿)は無く自らそこ(下層脳)に現れると言っているのである。
9.
性に任ずれば道に合う。
逍遙として惱を絶す。
繋念(けねん)すれば眞に乖(そむ)き、
昏沈(こんちん)は不好なり。
不好なれば神を勞す。
何ぞ疎親することを用いん。
一乘に趣かんと欲せば、六塵を悪(にく)むこと勿れ。
六塵を惡まざれば、還て正覚に同じ。
智者は無為なり、
愚人は自縛す。
注:
性に任ずれば:悪あがきをせず、本来の自性のままに行動すれば。
逍遙:自己の境遇に安住して楽しむこと。
繋念:聖や悟りを求め、外相に執着して思い惑うこと。
昏沈:心が暗く落ち込み沈むこと。心が朦朧として活気がないこと。
不好なれば神を勞す:自分の思い通りになるものは愛し、
意にそむくものは憎めば心が疲れて安らぐことがない。
一乗:乗は乗り物。
一切衆生を乗せて迷いの世界から悟りの世界に運ぶ一つの大きな車。
ここでは至道を意味している。
六塵:眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境に相対する時、
六境が我々の心を惑わし煩悩を生じさせる。そのため色声香味触法の六境を六塵と呼ぶ。
正覚:仏の正しい覚り。
無為:無為とは何もしないことではなく、
老子が言う「無為にして為さざるなし」の無為を指す。
作為造作をしないこと。
愚人:愚かな人
現代語訳
悪あがきをせず、本来の自性のままに行動すれば、道に合(かな)うのだ。
今の境遇に安住して楽しめば悩みなんかは無くなるだろう。
くよくよと思い悩めば至道に背くことになる。
心が落ち込み沈んでもいけない。思い惑えば心が疲れて安らぐことがない。
どうして好き嫌いをする必要があろうか。
一乘の世界(悟りの世界)に行きたいなら、外界を嫌ってはならない。
外の世界(六塵)を嫌わないならば、それがかえって仏の正覚と同じである。
本当に智慧があれば作為造作をしないが、愚かな人は己に迷って自ら縛ってしまうのだ。
10.
法に異法無し、
妄(みだ)りに自から愛著す。
心を将(もっ)て心を用う、
豈大錯(たいしゃく)に非(あら)ざらんや。
迷えば寂乱(じゃくらん)を生じ、
悟れば好悪(こうお)無し。
一切の二辺、妄りに自から斟酌す。
注:
心を将て心を用う:悟りを得ようとか、煩悩を滅尽しようとか考えて、
それらを対象化して外に向って求める。
寂乱を生ず:寂と乱は本来一如であるのに、
分別意識によって動(乱)と静(寂)の二つに別れる。
一切の二辺:一切の二元対立。
斟酌:取捨したり推測したりすること。
現代語訳
真実の理法は1つであり、それと違ったものは無いのだが、
妄りに愛著するため縛られてしまう。
悟りを得ようとか、煩悩を滅尽しようとか考えて、
心を対象化して心で心をコントロールしようとするのは
自分の眼を自分の眼で見ようとするようなもので大きな誤りだ。
迷えば分別・判断を適正に下すことができない。
逆に悟れば、心が平静になり、好悪が無くなるため
客観的に正しい分別・判断を下すことができるようになる。
このように心の状態によって、判断に静(寂)と動(乱)が生まれるのだ。
悟れば好き嫌いの心がなくなり平静で客観的に見ることができる。
このように、一切の二元対立は自分勝手に取捨・推測するから生まれるのだ。
11.
夢幻空華(むげんくうげ)、
何ぞ把捉(はしゃく)に労せん。
得失是非、一時に放却せよ。
眼若し睡らざれば、諸夢自から除く。
心若し異ならざれば、万法一如なり。
一如体玄なり、兀爾(こつじ)として縁を忘ず。
萬法斉しく観ずれば、帰復自然(じねん)なり。
注:
夢幻空華:夢幻は夢、まぼろし、空華とは空中に見えるありもしない花の影のこと。
諸法が空であることを表わす言葉。
心若し異ならざれば:衆生の心が諸仏の心と同じならば。
一如体玄:心境一如の境地は幻妙である。
兀爾(こつじ):山が高く動かない様子。
兀爾として縁を忘ず:心境一如の境地では千差万別の外境(対象)
に対しても心は少しも動くことはない。
万法斉しく観ずれば:万法を一如平等と観れば。
帰復自然なり:万法を一如平等の根源的立場から観れば、対立するものはない。
あるがままの自然法爾の姿で安らいでいる。
現代語訳
夢幻(ゆめ・まぼろし)のようなものは捉えることはできない。
そんなありもしない空花を捉えようと無益な苦労をすることがあろうか。
得失や是非は、全部放り出してしまえば良い。
眼が眠っていなければそのような夢幻空華は消え去ってしまうだろう。
心が仏の心と同じになれば、すべては一如となる。
そのような心・境一如の境地は幻妙そのものである。
千差万別の外境に対しても心は山のように少しも動くことはない。
万法を一如平等の立場から観れば、対立するものはなく、
自己本来の姿に自然に帰り安らいでいる。
コメント
この文段では心・境一如の境地について述べている。
(「万物一体の思想」を参照)。
12.
其の所以を泯(みん)じて、
方比すべからず、
動を止むるに動無く、
止を動ずるに止無し、
両既に成らず、
一何ぞ爾(しか)ること有らん。
究境窮極(くきょうきゅうきょく)、
軌則を存せず、
契心(かいしん)平等なれば、
所作倶に息(や)む。
注:
其の所以を泯じて:その理由を問うことを止めて。
方比:比較。
方比すべからず:比較してはならない。
一何ぞ爾(しか)ること有らん:動も止(静)も成り立たないところには、
別に第一義諦を立てる必要もない。
究境窮極:これ以上何とも説きようもない究極の境地。
軌則を存せず:ああせよ、こうせよなどという他律的な規則は存在しない。
契心平等:心が平等一如の下層脳(=脳幹+大脳辺縁系)の世界と契合・合一すること。
所作:人為的、作為的はからい。
現代語訳
心・境一如の理由は何かとなど追求することは止め、比較などをしてはならない。
本来清浄な心の本源の寂滅相は比べようはない。
動を止めたら動は無くなる。
また、止を動かしたらそこに止は無い。
動静(動と止)の二つは因縁によって変化する相対的なものにすぎない。
動や止などの両極端はもともと成り立つものではない。
だから、そこに、ことさら第一義諦を立ててこだわることもない。
極め尽くしてみれば、ああせよとか、
それをしてはいけないとかいう他律的な規則などはなくなってしまう。
心が平等一如の世界と契合・合一すれば、悉く法に叶い、
人為的、作為的はからいもなくなってしまうのだ。
コメント
心・境一如の理由は何かとなどと追求することは止め、
平等一如の世界(下層脳の世界)と契合・合一すれば、悉く法に叶うと言っている。
大森曹玄老師はこの文段は「復帰自然の状態を述べている」と説明されている。
13.
狐疑淨盡(こぎじょうじん)して、
正信調直(ちょうじき)なり。
一切留らず、記憶す可きこと無し。
虚明自照(こめいじしょう)、心力を労せざれ。
非思量の処、識情測り難し。
注:
狐疑淨盡:疑いが全くなくなって、一真実のみになること。
正信調直:自己の心が本来仏なりと信じて疑わないのが正信。
調直とは一筋に真っ直ぐに行くこと。
虚明自照(こめいじしょう):清浄にして一点の曇りもなく明らかなこと。
非思量の処:思量(思慮分別)が途絶えてしまった
下層脳(脳幹+大脳辺縁系、無意識脳)の世界。
現代語訳
平等一如の下層脳(脳幹+大脳辺縁系、無意識脳)の世界と契合し、
疑いが無くなってしまえば自己の心が本来仏なりと信じる心が生まれてくる。
その時、全ては心に留まることはないし、記憶することもない。
心が平静・清浄で1点の曇りもなく明らかになればあれこれ思いわずらってはならない。
考えることがない非思量の境地は常識では理解困難だ。
14.
真如法界、他無く自無し。
急に相応せんと要せば、唯不二と言う。
不二なれば皆同じ、包容せずと言うこと無し。
十方の智者、皆此宗に入る。
注:
真如法界:真の自己。真理の世界。
急に相応せんと要せば:直に自他なき一如の世界を表現しようとすれば。
不ニ:色(物質)と心(精神)のように
普通対立矛盾する概念が実は一であり無差別であるとする考え方。
維摩経で不ニ法門として説かれる。
此宗:万物が帰着する根源的真理の教え。禅宗。
現代語訳
真理の世界には自他の区別はない。
自他の対立がない一如の世界を表現しようとすれば、
ただ不二と言うしかないだろう。
不二であれば皆同じで、一如の世界に包容されてしまうのである。
全ての智者は、この根本的真理の教えに入るのだ。
15.
宗は促延(そくえん)に非ず、
一念万年(いちねんまんねん)。
在と不在と無く、
十方目前。
極小は大に同じく、
境界を忘絶(ぼうぜつ)す。
極大は小に同じく、
辺表(へんぴょう)を見ず。
注:
宗:根本的真理。
促延:促は短い、延は長いで、時間の長短を言う。
一念万年:一念は心にものを思う瞬間のこと。
その瞬間の一念が万年の長時間と同じという意味。時間を超越していること。
在と不在:在はここ、不在はかしこ。
在と不在と無し:ここ、かしこの空間的制約を超えている。
十方目前: 空間的に少しの隔たりもない場合には、十方も目前にある。
境界を忘絶す:時間、空間の大小、長短の境界を忘れてしまっている。
辺表を見ず:大小の間に境目がない。
現代語訳
根本的真理は時間が長いか短いかの問題ではない。
今の一念が万年の長時間にも通じている。
存在するとかしないとか言う以前に
この世界は目前に展開しているではないか。
極小のものは大きなものに通じその境界は忘れて無くなっている。
極大のものも小さいものからできていて、その間に境目はない。
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この文段では「脳の認識能力は時間や空間の制約を受けず、
それを超えている」と言っていると考えれば分かり易い。
16.
有即ち是無、無即ち是有。
若し是の如くならずんば、
必ず守ることを須(もち)いざれ。
一即一切、一切即一。
但能く是くの如くならば、
何ぞ不畢(ふひつ)を慮(おもんばか)らん。
注:
一:真の自己の本体である脳(特に下層脳を中心とする脳)。
一切:脳が保持・認識する一切の現象や情報。
一即一切:一つの脳(一)の中に一切の情報が含まれている。
一切即一:一切の情報が脳(一)の中で一つに統合されている。
不畢(ふひつ):未だ終っていないこと。未完成。
現代語訳
心に有ると言っても心は見えないので無いのと同じだ。
何も見えないから無いと思うかも知れないがそれでも有るのだ。
もしこのことが分からなければ、有無にこだわってはならない。
一つの脳の中に一切の情報が含まれていると言う観点から言えば一即一切だし、
一切の情報が脳の中で一つに統合されていると言う意味から言えば一切即一である。
もし、これが分かれば未だ修行が完成していないなどと心配する必要はない。
それを分かることこそが修行が完成している証拠だから。
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この文段は脳科学的観点を取り入れることで分かり易くなる。
17.
信心不二、不二信心、
言語道断(ごんごどうだん)、
去来今(きょらいこん)に非ず。
注:
信心不二、不二信心:信じられる対象としての心と信じる心は
相対立する二つのものでない。
信じられる対象である心の本体である脳は
信じる心の本体である脳とは同じ一つのものである。
信じられる心の本体である脳と信じている心の本体は同じ脳である。
これは
信じている心の本体=信じられる心の本体=脳
という等式で表わすと分かり易いだろう。
言語道断:脳宇宙は日常言語(文学)では表現できない。
日常言語の道が断たれた世界である。
脳宇宙は非日常言語(非文学言語)である科学でしか表現できない事実を
直感的に表現していると言えるだろう。
去来今:去は過去、来は未来のこと。過去、現在、未来(三世)の時間の問題。
現代語訳
信じられる心と信じる心は相対立する二つのものでない。
信じられる対象としての脳は信じる心の本源である脳と同じ一つのものである。
心の本源(脳宇宙)は日常言語では表現できない日常言語の道が断たれた世界である。
またそれは過去、未来、現在(三世、時間)の時間の問題でもない。
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この文段では
1.信じる心と信じられる心は同じものである。
2.心の本源である脳の世界は日常言語(文学)では表現できない
言語道断の世界である。
3.心の本源である脳の世界は
過去、現在、未来の三世の問題(時間の問題)でもない。
の三つのことを言っている。
この文段も
禅の世界は日常言語(文学)では表現できない、
言語道断の世界(非日常的な科学的言語ではじめて表現できる世界)だ
と言っていると考えればを分かり易い。
「信心不二」について
信じる心とその対象である心(仏性=仏心)は普通分離している。
信じる心はその対象である心(仏性=仏心)を対象として対立的に見ている。
その状態を図17.1に示す。
しかし、「信心不二」という言葉は、信じられる対象である心(仏性=仏心)と
信じる心は本来同じ一つのもの(脳)であることを主張している。
この状態を図17−2に示す。
図17−2の「信心不二」では、信じる心は信じられる心(仏性=仏心)と
同じ一つであるように描かれている。
この状態では信じる心と信じられる心(仏性=仏心)との間の
対立的な境界は消失する。
これを点線の円で表している。
点線の円によって信じる心と信じられる心(仏性=仏心)との間の
バリアー(壁や境界)がなくなったことを表わしている。
この状態こそが「不二信心」であると考えられる。
また「信心不二」は「不二信心」と全く同じ意味の言葉だと考えられる。
「信心不二」や「不二信心」をこのように考えると
ブッダの<自帰依>の思想との繋がりが見えてくる。
「信心不二」とブッダの「自帰依」の思想
図17−2の「信心不二」の説明図では、
信じる心は信じられる心(仏性=仏心)と同じ一つになっている。
信じる心は自分の心だから、信じる自分の心は信じられるわが心(仏性=仏心)と
同じであることが分かる。
「信じる」とは帰依するのと同じ意味だと考えると
図17.2の「信心不二」は自己の心(仏性=仏心)を信じるという意味になるから
<自帰依>を意味していることが分かる。
ゴータマブッダは原始仏典「マハー・パリニッバーナ経:ブッダ最後の旅」において
「自帰依、法帰依」の教えを遺したことは有名である。
筆者は「自帰依、法帰依」の教えは仏教の核心的思想だと考えている。
三祖僧サンは「信心銘」においてゴータマブッダの<自帰依>の思想に先祖帰りした
と考えることができるのではないだろうか。
「臨済録」示衆8−1において臨済は
「今、仏道を学ぼうとする人達は、自らを信じなくてはならぬ。
決して自己の外にもとめるな。・・・」
と言っている。
このことは自らの心を信じる精神はブッダ→三祖僧サン→臨済へ
と脈々と流れていることを示している。
参禅修行によって得られる「信心不二」の心の状態は
信じる心=信じられる心=仏性、仏心
=本源清浄心=最高に健康な脳 =仏
という等式で表わすことができるだろう。
すなわち、参禅修行に集中することによって
"本源清浄心"とも言える"最高に健康な脳"
を達成することができる。
この時衆生(凡俗の人)は仏になる。
これが「禅による成仏法」と言えるだろう。
これは白隠禅師が「坐禅和讃」で詠った「因果一如の門が開け、無二無三の道直し」の状態である。
「信心銘」という書名はこの「信心不二」に由来すると考えると、
「信心銘」において三祖僧サンが最も言いたいことは
「信心不二、不二信心」にあると言えるのではないだろうか。
臨済は「臨済録」において
「この頃の修行者が駄目な原因は自分を信じ切れず
あたふたとあらゆる現象について回り、それに翻弄されて、
自由になれないところにある」と言う。
臨済が言う「自己を信じる」ことは
この「信心不二」に由来すると考えることができるだろう。
信心銘の参考文献など
1. 大森曹玄著、其中堂、「禅宗四部録」、1962年
2. 勝平大喜著、其中堂、「信心銘閑話」、1960年、
3. 三祖大師信心銘