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行持・1

   
数

『正法眼蔵』「行持」について



 行持という言葉は、元来、行は仏行、持は持続の意味だと理解されている。

この持続は時間的持続より戒律の保持を意味すると考えられる。

したがって行持とは梵行持戒(清浄な行為と戒律の保持)

あるいは修行の持続の略と考えることができる。

道元禅師は正法眼蔵「行持」の巻において過去の祖師達の中で、

特にその行為の清浄さと戒律の保持に関して秀れた人々の事例を取り上げ、

「行持」とはどのようなものであるか、簡明な文章で生き生きと描写している。

ここでは長大な「行持」の巻を4分割し、

「行持上巻」を「行持・1」「行持・2」で、「行持下巻」を「行持・3」「行持・4」で

合理的立場に立って分かり易く解説したい。



1

 第1文段


原文1

 仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず、

発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、

行持道環なり。

このゆゑに、みづからの強為にあらず、

佗の強為にあらず、不曽染汚の行持なり。

この行持の功徳、われを保任し、佗を保任す。

その宗旨は、わが行持、すなわち十方の匝地漫天みなその功徳をかうむる。

佗もしらず、われもしらずといへども、しかおるなり。

このゆゑに諸仏諸祖の行持によりて、われらが行持見成し、

われらが大道通達するなり。

われらが行持によりて、諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり。

われらが行持によりて、この道環の功徳あり。

これによりて、仏仏祖祖、仏住し仏非し、仏心し仏成して、断絶せざるなり。

この行持によりて日月星辰あり、行持によりて大地虚空あり、

行持によりて依正身心あり、行持によりて四大五蘊あり。

行持これ世人の愛処にあらざれども、諸人の実帰なるべし。

過去・現在・未来の諸仏の行持によりて、過去現在未来の諸仏は現成するなり。

その行持の功徳、ときにかくれず、かるがゆゑに発心修行す。

その功徳ときにあらはれず、かるがゆゑに見聞覚知せず。

あらはれざれども、かくれずと参学すべし。

隠顕存没に染汚せられざるがゆゑに。

われを見成する行持、いまの当隠に、

これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不会なるは、

行持の会取、さらに新条の特地にあらざるによりてなり。

縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫参学を審細にすべし。

かの行持を見成する行持は、すなはちこれ、われらがいまの行持なり。

行持のいまは、自己の本有元住にあらず。

行持のいまは、自已に去来出入するにあらず。

いまという道は、行持よりさきにあるにはあらず、行持現成するを、いまといふ。

しかあればすなはち、一日の行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。

この行持に諸仏見成せられ、行持せらるるを、行持せざるは、

諸仏をいとひ、諸仏を供養せず、行持をいとひ、

諸仏と同生同死せず、同学同参せざるなり。

いまの華開葉落、これ行持の見成なり。

磨鏡破鏡、これ行持にあらざるなし。

このゆゑに行持をさしおかんと擬するは、

行持をのがれんとする邪心をかくさんがために、

行持をさしおくも行持なるによりて、行持におもむかんとするは、

なほこれ行持をこころざすににたれども、

真父の家郷に宝財をなげすてて、さらに佗国レイヘイの窮子となる。

レイヘイのときの風水、たとひ身命を喪失せしめずといふとも、

真父の宝財なげすつべきにあらず、真父の法財なほ失誤するなり。

このゆゑに行持は、しばらくも懈倦なき法なり。

注:

行持: 梵行持戒の保持。修行の持続。

 仏法と戒律の保持。

道環:  道はとおりみち、すじみち。

環は円環の意で、まるい輪を意味する。

まるい輪は始めもなく終りもない無限の連続であるから、

転じてまるくて窮まりのないものを比喩的に指す。

したがって道環とはすじみちがまるい輪をなして、

無限に連続していることを意味する。 

強為: 意識的な行為。

功徳: 派生的な影響、効果。

保任:  保は保持。任はまかす。ゆだねる。

保任とは仏法を保持し、それに身をまかせること。

匝地(そうち):全大地。

漫天: 天空のすべて。

大道: 偉大な真理。

通達: とどこおりなくゆきわたること。

仏住: 仏法の世界に安住すること。 

仏非:  真理の世界を超越すること。

仏心: 仏の心。

仏成: 仏(覚者、仏陀)となること。

依正:  依は客観、正は主観。客観と主観。

依報(えほう、環境、国土)と正報(しようほう、身体)。

正報とは、過去の業の報(むく)いとして受けた心身をいい、

依報とは、正報の拠(よ)り所である環境・国土をいう。

この世に生まれてきた心をもつ諸存在が、

過去の行為の結果として受けとる環境世界と自分自身。環境と身体。

四大:  地・水・火・風の四大元素。

五蘊:  色・受・想・行・識。心身のこと。

五蘊と五蘊無我を参照)。

世人:  一般社会の人。

愛処:  受好する処。

実帰:  真の帰着点。 

存没: 存在しなくなること。 

当隠:  まさにかくれようとする瞬間。

縁起 : 因縁生起の略。他との関係が縁となって生起すること。

不会: 理解できないこと。

会取:  理解すること。 

愛処:  受好する処。

実帰:  真の帰着点。 

存没: 存在しなくなること。 

当隠:  まさにかくれようとする瞬間。

縁起 : 因縁生起の略。他との関係が縁となって生起すること。

不会: 理解できないこと。

愛処:  受好する処。

実帰:  真の帰着点。 

存没: 存在しなくなること。 

当隠:  まさにかくれようとする瞬間。

縁起 : 因縁生起の略。他との関係が縁となって生起すること。

不会: 理解できないこと。

会取:  理解すること。

新条: 新らしい段階。  

特地:特別の境地。  

本有:  本源的に具有していること。

元住: 元来、止住していること。

道: 行為の世界、活躍の舞台。

供養: 仏法僧の三宝や死者の霊に供物をささげること。

同学同参: 同じように学び同じように参禅すること。

華開葉落:   春、花が咲き、秋、葉が落ちること。

存没: 存在しなくなること。 

当隠:  まさにかくれようとする瞬間。

縁起 : 因縁生起の略。他との関係が縁となって生起すること。

不会: 理解できないこと。

道: 行為の世界、活躍の舞台。

供養: 仏法僧の三宝や死者の霊に供物をささげること。

同学同参: 同じように学び同じように参禅すること。

華開葉落:   春、花が咲き、秋、葉が落ちること。

花が咲き葉が落ちるなどに代表される自然の現象を指す。 

磨鏡破鏡:  磨鏡は理想主義的な努力。

破鏡は理想主義的な努力の超越。  

擬す: ・・・・しようとする。

真父:  真の父親。法華経信解品の説話と関係がある。仏のこと。

法華経では 仏を父親、我々衆生を仏の子と考える。

家郷: ふるさと、故郷。真の自己のたとえ。

レイヘイ(れいへい): 身体をゆがめて歩いたり

立ち止まったりすること。

落ちぶれた姿であてもなく歩いたりとどまったりして流浪すること。

 窮子:  貧窮の状態にある子供。

法財: 仏法という財宝。

失誤:   失ったり誤認したりすること。

懈倦(けげん):懈はおこたる、なまける。倦はうむ、あきる。

あきたり、怠けたりすること。 

法:  実在、仏法。



現代語訳

仏祖が説く大道には、例外なく無上の行持がある。

それは円環のように循環して断絶することがない。

仏道に発心し、修行し、悟り、涅槃の世界に安住するまで、

少しの間断もなく、循環して修行が続くのである。

したがって修行は、自ら強いて行うものでも、

他から強制されて行なうものでもない。

それは何物によってもけがされない行持である。

そしてこの行持の功徳によって真の自己を保持し、他も保持するのである。

その教えの要旨は、自分自身の行持の功徳によって、

宇宙に偏満する全世界全体にも及んで皆その功徳を受けるのである。

この功徳は別に他人も知らず、自分も知らなくても、そうなのである。

このために、諸仏諸祖の行持によって、われわれは今行持ができ、

諸仏の大道がひろく行きわたるようになるのである。

また逆にわれわれの行持によって、

諸仏の行持が行われ、諸仏の大道が世に行き渡るのである。

すなわち我々の行持によって、このような大道循環の功徳が現れるのである。

このようにして、仏仏祖祖は仏として住し、仏を超え、

仏心を起こし、仏となって、大道は絶えることがない。

この行持によって、太陽も月も星も存在し、大地や空間も存在するのである。

この行持によって、客観も主観も肉体も精神も存在するのである。

  この行持は、決して一世間の人の愛好するところではないが

終局、人々が真に帰着するところとなるだろう。



第一文段の解釈とコメント

仏祖が説く大道には、例外なく無上の行持がある。

それは円環のように循環して断絶することがない。

仏道に発心し、修行し、悟り、涅槃の世界に安住するまで、

少しの間断もなく、循環して修行が続くのである。

したがって修行は、自ら強いて行うものでも、

他から強制されて行なうものでもない。

それは何物によってもけがされない行持である。

そしてこの行持の功徳によって真の自己を保持し、他も保持するのである。

その教えの要旨は、自分自身の行持の功徳によって、

宇宙に偏満する全世界全体にも及んで皆その功徳を受けるのである。



コメント

道元の言葉、

「 自分自身の行持の功徳によって

宇宙に偏満する全世界全体にも及んで皆その功徳を受けるのである。」

は少し大げさなように思われる。

「修行者一人の行持の功徳が、

宇宙に偏満する全世界全体に影響を及ぼし皆がひとしくその功徳を受ける。」

とは考えられない。

この言葉は少し大げさと言うしかないだろう。

行持に対する道元の真面目で熱い宗教的信仰(信念)だと考えることができる。



この功徳は別に他人も知らず、自分も知らなくても、そうなのである。

このために、諸仏諸祖の行持によって、われわれは今行持ができ、

諸仏の大道がひろく行きわたるようになるのである。

また逆にわれわれの行持によって、

諸仏の行持が行われ、諸仏の大道が世に行き渡るのである。

すなわち我々の行持によって、このような大道循環の功徳が現れるのである。



コメント

道元が言う「行持の功徳の大道循環」を図示すると図1のようになるだろう。


   
図1

図1 諸仏の行持の大道循環の功徳


   

道元は次のように述べる、

このようにして、仏仏祖祖は仏として住し、仏を超え、

仏心を起こし、仏となって、大道は絶えることがない。

この行持によって、太陽も月も星も存在し、大地や空間も存在するのである。

この行持によって、客観も主観も肉体も精神も存在するのである。


このように道元が説く壮大な思想は

現代の科学的観点から見れば明らかに誤りである

行持という「修行の持続」と「日月星辰」のような天体現象や「大地虚空」の存在は無関係である


また行持と「身心(四大五蘊)」の存在は無関係である。

このような考え方は

まだ精神と物質が分離していない「色心不二(物質・精神不二)」の古代思想と言えよう。

色心不二(物質・精神不二)の古代思想を参照)。


鎌倉時代の道元はこのようなインド由来の古代思想に

強く影響されていたと考えることができる。

道元は更に説く、

行持が行なわれる現在の瞬間が今である

たとえ一日の行持でも、成仏の種子となり、諸仏の行持である

この行持によって、諸仏は現れるのに、行持をしないのは

諸仏を嫌い、諸仏の供養を怠たり、諸仏と生死を共にせず

大道を共に学ばないことである。」

このように道元は「成仏の種子」である行持の意義を説き、我々に行持の意義と重要さを教示している。



2

 第2文段


原文2


慈父大師釈迦牟尼仏、十九歳の仏寿より、深山に行持して、

三十歳の仏寿にいたりて、大地有情 同事成道の行持あり。

八旬の仏寿にいたるまで、なほ山林に行持し、精藍に行持す。

王宮にかへらず、国利を領せず。布僧伽梨を衣持し、在世に一経するに互換せず、

一盂在世に互換せず、一時一日も独処することなし。

人天の閑供養を辞せず、外道)のセン謗を忍辱す。

おほよそ一化は行持なり。

浄衣乞食の仏儀、しかしながら行持にあらずといふことなし。


注:

仏寿: 寿は年齢。仏寿は釈尊の年齢。

大地有情同時成道(だいちうじょうどうじじょうどう): 

釈尊が成道した時、大地と有情が同時に悟りを開いた。

釈尊が開悟成道した時の形容。

有情は衆生。感情や意識を有するもので、一切の生けるものを総称する言葉。

これに対して草木・山河・大地などを非情(非有情・無情)という。

八旬:  旬は十年。八旬は八十歳を意味する。 

 精藍:  精舎伽藍の略。寺院のこと。

領す:  受ける、おさめる。 

布僧伽梨(ふそうぎゃり):  重複衣または大衣といい、僧侶が使用する三衣の一つ。

三衣の中最も大きくかつ条数も多いため雑砕衣といい、

王宮聚落に入る時著用するので入王宮聚落衣ともいう。

衣持:  衣服として保持する。

在世: 生きていた時期。 

一経: 一生を経過すること。

互換:  交互に入れ換えること。 

孟 (う): 鉢孟。応量器。僧侶が各自に所持している食器。 

閑供養:  閑はのどか、おっとりの意。

閑供養とはあまり切実でないどうでもよい供養。

セン膀: そしること。

忍辱: 六波羅蜜の一つ。

心を興奮させることなく平静に保ち、

他から加えられる諸々の苦悩・苦痛・侮辱等を耐え忍ぶこと。

一化: 一代の教化。

浄衣: 清浄な衣服。袈裟のこと。

 乞食:  食物を乞い歩くこと。

仏儀: 釈尊が実行したやり方。


第二文段の現代語訳

慈悲深い父で偉大な師釈尊(ブッダ)は、十九歳の年齢から、深山に入って行持し、

三十歳の時に、大地とあらゆる生物が、一斉に悟りを開くという悟りを開いた。

さらに八十歳の年齢に達するまで依然として山林の中で行持し、精舎で行持した。

故郷の王宮に帰らず、王位を継いで国を治めることもなかった。

釈尊(ブッダ)は、ただ僧衣をまとって一生それを換えず、食事の鉢を一生取り換えず、

修行僧と共にあって、

一時一日たりとも一人で過ごすことはなかった。

人間や天人達が利益のためにする供養を拒まず、外道の誹謗を耐え忍んだ。

およそ釈尊(ブッダ)一代の教化は、行持の日々であった。

清らかな袈裟を身に着けて、日々人々に食を乞う釈尊だったが、

その行いはことごとく行持でないものはなかった。


第二文段の解釈とコメント


第二文段では仏教の開祖釈尊の行持について述べている。

この文段では、道元は仏教の開祖釈尊は、十九歳で出家しから、

深山に入って修行し、三十歳の時に悟りを開いたと述べている。

しかし、現在では釈尊は、29歳で出家し、

6年の修行の後、35歳の時開悟成道したという説の方が有力である。

19才出家説は中国に伝わった北伝仏教(大乗仏教)の説のようである。

道元は大乗仏教徒であるためこの北伝仏教(大乗仏教)の説を採用しているようである。

筆者は若年から29才出家説(南伝系仏教の説)を学んだので

19才出家説にはちょっと違和感を感じるところもある。

しかし、それは本質的な問題ではないのでこれ以上立ち入らない。

 釈尊は、

ただ僧衣をまとって一生それを換えず、食事の鉢を一生取り換えず

修行僧と常に一緒で、一時一日たりとも一人で過ごすことはなかった。」

と述べていることについても

僧衣が擦り切れボロボロになっても取り換えなかったというのは考えられないのではないか。

着物を一生取り換えなかった」というのは不衛生極まりないではないか。

これは道元の仏祖釈尊に対する理想像の押し付けではないか。

「これは本当だろうか?」という疑問もある。

この文段では仏教の教祖釈尊について述べている。

釈尊(ブッダ)は尊敬する教祖として、恥ずかしくない修行の一生を送ったと述べている。

ここには特に難しい文章などもない。



3

 第3文段


原文3


  第八祖 摩訶迦葉尊者は、釈尊の嫡嗣なり。

生前もはら十二頭陀を行持して、さらにおこたらず。

十二頭陀といふは、 一つには、人の請を受けず、日に乞食を行ず。

亦比丘僧の一飯食分(の銭財(を受けず。

二つには、山上に止宿して人舎郡県聚落に宿せず。

三つには、人に従って衣被を乞うことを得ず。

人の与うる衣被も亦 受けず。

但丘塚の間の死人の棄つる所の衣を取って、補治して之を衣る。

四つには、野田の中、樹下に止宿す。

五つには、一日に一食す。

あるいは僧迦僧泥と名づく。

六つには、昼夜不臥なり、但坐睡経行す。

は僧泥沙者傴と名づく。

七つには、三領衣を有ちて余衣有ること無し。亦 被中に臥せず。

八つには、塚間に在んで仏寺の中に在まず、亦 人間に在まず。

目に死人の骸骨を視て、坐禅求道す。

九つには、但独処を欲いて人を見んと欲はず。亦 人と共に臥せんと欲はず。

十には、先に果ラを食し、却りて飯を食す。

食し已りて、復果ラを食することを得ず。

十一には、但露臥を欲って樹下屋宿に在まず。

十二には、肉を食せず、亦 醍醐を食せず。麻油を身に塗らず。

これを十二頭陀といふ。摩阿迦葉尊者、よく一生に不退不転なり。

如来の正法眼蔵を正伝すといへども、この頭陀を退することなし。

あるとき仏言すらく、

なんぢすでに年老なり、僧食を食すべし

。摩詞迦葉尊者いはく、

われもし如来の出世にあはずば、聊支仏となるべし、生前に山林に居すべし

さいはひに如来の出世にあふ、法のうるほひあり

しかありといふとも、つひに僧食を食すべからず」。

如来称讃しまします。

あるひは迦葉、頭陀行持のゆゑに、形体樵伜せり、衆みて軽忽するがごとし。

ときに如来ねんごろに迦葉をめして、半坐をゆづりまします。

迦葉尊者、如来の座に坐す。

しるべし、摩詞迦葉は仏会の上座なり。生前の行持、ことごとくあぐべからず。


注:

 摩迦迦葉尊者: 摩訶迦葉(マハーカーシャパ)。

仏教の開祖釈迦(ゴータマ・ブッダ)の十大弟子の一人である。

頭陀第一といわれ、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行ったことで有名である。

釈迦の死後、初めての結集(第1結集)の座長を務めた。

釈迦の死後教団の実質的後継者と見なされた。


   
図2

図2  第八祖 摩迦迦葉尊者

 第八祖:   摩迦迦葉尊者は釈尊の直接の後継者として、

通常インドにおける釈尊の最初の後継者とされている。

しかし、過去七仏のうち、

最初の教団指導者である毘婆戸仏から数えると釈尊が第七代目であり、

摩迦迦葉尊者は八代目の指導者に当るとされる。

過去七仏: 過去七仏)とは釈迦牟尼仏までに

(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。

古い順から

 1. 毘婆尸(びばし)仏

 2.  尸棄(しき)仏

 3. 毘舎浮(びしゃぶ)仏

 4.倶留孫(くるそん)仏

 5. 倶那含牟尼(くなごんむに)仏

 6. 迦葉仏

 7. 釈迦仏

とされる。

釈迦以前の六仏については伝記も釈迦のそれと同工異曲であり、

その歴史的実在性は疑問であり、神話的創作と考えられる。

十二頭陀:   十二種類の頭陀行。

僧侶の修行のうちでも特にその態度が徹底しているものをいう。

その具体的な内容は、本文に掲げてある通りである。

原始仏教その2、十二頭陀行を参照)。

請: まねくこと、招待すること。 

○乞食: 食物を乞うこと。

釈尊以来の仕来りとして、僧侶はみずからの営利行為によって

生活の資を得るのではなく、他人からの施物によって

生活を維持するものとされている。 

丘塚: おかやつかの意で、墓所のある場所をいう。

補治: 補修、修理。 

 中樹:   あまり大きくもなく、小さくもない木。 

僧迦僧泥:  一日一食。

不臥:   横になって寝ないこと。

睡: ねむくなること。 

経行(きんひん): 坐禅の途中で、足のしびれをなおしたり、

睡気をさましたりするため、

およそ1時間ほどの間隔で坐禅をやめてゆっくり歩くこと。 

三領衣: 領は衣服を数える時の単位。

三領衣は三衣に同じ。大衣、中衣、小衣の三衣、

すなわち九条衣、七条衣、五条衣の三衣をいう。  

被中:  被は寝具。被中は寝具の中。  

カラ:  蔓生の果物の総称。

露臥: 戸外において寝起きすること。 

 樹下屋:  樹下の家屋。

醍醐:  清純な牛酪。味が甘美で滋養分に富む。 

 麻油:  あさの実の油。 

不退不転:  後退せずまた脇道にもそれないこと。

僧食:  教団において僧侶が食べる食事。

如来の出世:  釈尊のこの世への出現。

他観とは、直観に際して客体に重点を置くこと。 

 ニイ: ゆびさすさま。

 脱体仏性: 仏性から脱けだすこと。 

 麻油:  あさの実の油。 

不退不転:  後退せずまた脇道にもそれないこと。

僧食:  教団において僧侶が食べる食事。

如来の出世:  釈尊のこの世への出現。

辟支仏(びゃくしぶつ): 師なくして独自にさとりを開いた人。

また飛花落葉などの無常を観じて悟った者。独覚(どっかく)ともいう。

生前: 釈尊の出生前。  

形体:  身体の姿形。 

樵悴: やせおとろえ、困苦すること。

衆:  衆僧。教団の多くの人々。

軽忽: あなどり、かろんずること。 

半坐: 座物の半分。

上座: 上席。



第3文段の現代語訳

第八祖摩詞迦葉尊者は、釈尊の正統の後継者である。

生きていた間は、専心、十二頭陀行を実践して、少しも怠ることがなかった。

十二頭陀行とは、次のような生活法である。

第一は人からの招待を受けず、毎日、乞食行をして生活する。

僧の一回の食事分に相当する金銭でさえ受けない。

第二は山の上に宿泊し、人家や土地の集落には宿泊しない。

第三は、人に衣服を乞い求めず、また人の与える衣服も受け取らない。

ただ丘の墓場に捨ててある死人の衣服を取って、繕い直して着る。

  第四は、野の畑の中や樹の下に宿泊する。

第五は一日一食とする。これをスンカナイという。

第六は、昼夜に亘って横臥せず、ただ坐して眠り、ねむいときは経行を行なう。

これをスンナイサシャキュウと呼ぶ。

第六は夜昼の別なく、身体を横にして寝むことをせず、

ただ坐禅のみを専一にし、ねむいときは経行を行なう。

第七は、大衣、中衣、小衣の三枚の衣(袈裟)だけを持って、

他には衣を持たない。

また布団の中には寝ない。

第八は、墓場の辺りに住んで、寺の中には住まない。

また人の中に住まず。死人の骸骨を見て、坐禅して修行をする。

第九は、ただ独りでいることを願い、人に会おうと思わない。

また、人と共に寝ようと願わない。

第十は、まず木の実や草の実を食べ、その後でご飯を食べる。

食べ終わってから、また木の実や草の実を食べない。

第十一は、ただ野宿を願って、樹の下の小屋には住まない。

第十二は、肉を食べず、また乳製品を食べない。麻油を身体に塗らない。

これを十二頭陀行という。

摩詞迦葉尊者は、一生の間、

このきびしい修行から後退したり逸脱することがなかった。

摩詞迦葉尊者は教団の指導者として釈尊の説かれた「正法眼蔵」を

正しく伝承したが、このきびしい修行を止めなかった。

ある時、釈尊が言った、

お前はすでに高齢だ。僧侶としての普通の食事を摂った方がよい。」

これに対して摩詞迦葉尊者は言った、

私が、もし如来に出会わなかったならば

独りで悟りを求める修行者になって、一生山林に住んでいたことでしょう

しかるにいま幸いにして幸いにも如来に出会い

法の潤いを得ることが出来ました

しかし私は、最後まで僧の食事を食べることはありません。」

釈尊はこの摩詞迦葉尊者の言葉を大いに賞讃した。

又、迦葉尊者は、厳しい頭陀行のために、身体が痩せ衰えていた。

他の僧たちは、その姿を見て尊者を軽蔑しているようだった。

ある時、釈尊は、丁重に迦葉尊者を招いて、自分の座を半分譲った。

迦葉尊者は、釈尊の座に坐った。

知ることです、

このように摩訶迦葉尊者は釈尊の僧団の長老である。

その生前の行持はすべて数えることはできない。


第3文段の解釈とコメント


この文段では第八祖摩詞迦葉尊者を釈尊の正統の後継者として

その行持について紹介している。

摩詞迦葉尊者を第八祖とするのは、

過去七仏のうち、最初の毘婆戸仏から数えると釈尊が第七代目であり、

摩迦迦葉尊者は八代目の指導者に当るからである。

 しかし、ブッダ生存時に過去七仏説話のような怪しげな説話があったかどうか、

たとえあったとしてもそれをブッダ自身が認めていたかどうかも怪しいものである。

ブッダ最晩年の姿を伝える原始仏典「マハー・パリニッバーナ経」は

次のようなことを述べている。

ブッダは老齢(80才)に達し、故郷に向かう旅の途中で病に伏した。

その時侍者アーナンダ(阿難、ブッダの従弟)は不安と期待に心が揺れた。

アーナンダはブッダに近侍していたにもかかわらず

まだ悟りの体験を得ていなかった。

このままブッダが死去したら自分はどうしたらよいのかという不安である。

期待とはブッダが死ぬ前に何か秘密のすばらしい教えを

自分だけにこっそり教えてくれるのではないかという期待感であった。

  当時のインドでは死の直前に、

秘密の教えを特別の弟子にこっそり教える師がいたためである。

このようなアーナンダの心を読んで、ブッダは次のように言う。

アーナンダよ修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?」

わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた

完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない」。

わたくしは修行僧のなかまを導くであろう

とか、

あるいは「修行僧のなかまはわたくしを頼っている

とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう

しかし向上につとめた人は「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか

修行僧のなかまはわたくしを頼っている

とか思うところがない

向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか

アーナンダよわたしはもう老い朽ち、齢を重ね老衰し

人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は80となった

たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように

恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ

しかし向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく

一部の感受を滅ぼしたことによって相のない心の統一に入って

とどまるとき、かれの身体は健全(快適)なのである

それ故に、この世で自らを島とし自らをたよりとして、他人をたよりとせず

法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ

・・・・・・アーナンダよ

このようにして修行僧は自らを島とし自らをたよりとして

他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして

他のものをよりどころとしないでいるのである

アーナンダよ

今でもまたわたしの死後にでも誰でも自らを島とし自らをたよりとして

他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして

他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば

かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。」



ブッダ最晩年の姿を伝えるこの経典(大パリニッバーナ経)は重要なことを三つ言っている。

1.


ブッダの教えには握拳秘密の教え)はない。

2.


ブッダには

わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、「修行僧のなかまはわたくしを頼っている

という考えがない。


3.


この世で自らを島とし自らをたよりとして、他人をたよりとしない

理法を島とし、理法をよりどころとして、他のものをよりどころとしない

の三つである。


   

1. はブッダの教えには秘密の教えはないことを言っている。

しかし、ブッダの死後起こった大乗仏教では秘密の教えを強調し始める。

後期大乗仏教である密教はその秘密の教えであり、

ブッダが禁止した呪術やマントラが取り入れられ、ブッダの正統的理法から密教へと外れていく。

密教2を参照)。

2. のブッダの言葉は

ブッダが無我の教えを完全に自分のものにしていたことを示している。

  普通新興宗教の教祖は死ぬ前にその教団をいかにして発展させ、

その教勢を保持するかに腐心する。

後継者を指名したり、有力な弟子達に教団の維持発展について言い残す。

しかし、この経典を読む限り、

ブッダには自分が創設した教団に対する我執や

我がもの>という我欲の思いがなかった。

自分が教団の指導者であり、

この教団を導いているという意識も無かったことが分かる。

後世の禅宗では

ブッダが摩訶迦葉尊者を後継者として指名したと主張する。


 我執を去り、我がものという思いを捨てる<無我の思想>は仏教の核心である。

しかし、「マハー・パリニッバーナ経」を読めば、

ブッダ自身が<無我の思想>を完全に自分のものにしていたことが分かる。

この文段で道元は、

ブッダは摩詞迦葉尊者を正統の後継者として指名した


ように述べているが、そのような事実はない。

中国禅ではインドでは釈尊(ブッダ)→摩訶迦葉→阿難→ ・・・般若多羅尊者(27祖)→菩提達磨(28祖)へ至る

西天28祖による伝法があったと言う。


インドに於ける第28祖菩提達磨はその法を持って中国に来て伝えた。

中国では菩提達磨が初祖となり二祖慧可(487〜593)、→ 三祖僧サン(そうさん、?〜606)→四祖道信(580〜651)、

五祖弘忍(602〜675)→ 六祖慧能(638〜713)に至る東土6祖の伝法があった。


これは経典など仏教の正統の教えには説かれていない教外別伝である。

  この主張は中国で禅宗を確立するに当たって、

正当性を主張するためと権威付けのため創作された神話と言えるものであろう。

特にブッダ以来のインド仏教では第〜祖などと伝法の順位付けをし、

教団の指導者とするような思想はない。

このような考え方は中国の儒教などに影響を受けた思想であろう。

特に西天28祖による伝法の歴史は確実な歴史的根拠を持つものではなく、

神話だと言ってもよいだろう。

禅の思想を参照)。

3. の「この世で自らを島とし

自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし

法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」

という言葉は

自帰依>、<法帰依>の教えとして有名である。

摩詞迦葉尊者は生きていた間は、専心、十二頭陀行を実践して、

少しも怠ることがなかったと称賛して

彼の十二頭陀行の生活法について紹介している。

原始仏教その2、十二頭陀行を参照)。

十二頭陀行とは、次のような生活法である。

第一は人からの招待を受けず、毎日、乞食行をして生活する。

僧の一回の食事分に相当する金銭でさえ受けない。

第二は山の上に宿泊し、人家や土地の集落には宿泊しない。

第三は、人に衣服を乞い求めず、また人の与える衣服も受け取らない。

ただ丘の墓場に捨ててある死人の衣服を取って、繕い直して着る。

  第四は、野の畑の中や樹の下に宿泊する。

第五は一日一食とする。これをスンカスンナイという。

第六は、昼夜に亘って横臥せず、ただ坐して眠り、ねむいときは経行を行なう。

これをスンナイサシャキュウと呼ぶ。

第六は夜昼の別なく、身体を横にして寝むことをせず、

ただ坐禅のみを専一にし、ねむいときは経行を行なう。

第七は、大衣、中衣、小衣の三枚の衣(袈裟)だけを持って、

他には衣を持たない。

また布団の中には寝ない。

第八は、墓場の辺りに住んで、寺の中には住まない。

また人の中に住まず。死人の骸骨を見て、坐禅して修行をする。

第九は、ただ独りでいることを願い、人に会おうと思わない。

また、人と共に寝ようと願わない。

第十は、まず木の実や草の実を食べ、その後でご飯を食べる。

食べ終わってから、また木の実や草の実を食べない。

第十一は、ただ野宿を願って、樹の下の小屋には住まない。

第十二は、肉を食べず、また乳製品を食べない。麻油を身体に塗らない。

これを十二頭陀行という。

原始仏教その2、十二頭陀行を参照)。

摩詞迦葉尊者は、一生の間、

このきびしい修行から後退したり逸脱することがなかった。

摩詞迦葉尊者は教団の指導者として釈尊の説かれた「正法眼蔵」を

正しく伝承したが、このきびしい修行を止めなかった。



コメント


ここで「摩詞迦葉尊者は釈尊の「正法眼蔵」を正しく伝承した

と釈尊の「正法眼蔵」という言葉が出ている。

この言葉は大梵天王問仏決疑経に

釈尊の言葉として、

吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。・・・・摩詞迦葉に附嘱す。」

という経文中にでている。


しかし、今では大梵天王問仏決疑経は中国で作られた偽経であることが分かっている。

また、インド仏教には「正法眼蔵」という言葉や考え方はない。

道元禅師は大梵天王問仏決疑経は偽経であることを

知らずこの言葉を用いていると思われる。

大梵天王問仏決疑経のこの経文は「無門関」第6則に出ている。

「無門関」第6則を参照)。



ある時、釈尊が言った、

お前はすでに高齢だ。僧侶としての普通の食事を摂った方がよい。」

これに対して摩詞迦葉尊者は言った、

私が、もし如来に出会わなかったならば

独りで悟りを求める修行者になって、一生山林に住んでいたことでしょう

しかるにいま幸いにして幸いにも如来に出会い

法の潤いを得ることが出来ました

しかし私は、最後まで僧の食事を食べることはありません。」

釈尊はこの摩詞迦葉尊者の言葉を大いに賞讃した。

又、迦葉尊者は、厳しい頭陀行のために、身体が痩せ衰えていた。

他の僧たちは、その姿を見て尊者を軽蔑しているようだった。

ある時、釈尊は、丁重に迦葉尊者を招いて、自分の座を半分譲った。

迦葉尊者は、釈尊の座に坐った。

知ることです、

このように摩訶迦葉尊者は釈尊の僧団の長老である。

その生前の行持はすべて数えることはできない。


コメント


この十二頭陀行を読むと、現代人にとって殆ど実行できない生活法である。

たとえば、第七の大、中、小の三枚の衣(袈裟)だけで過ごし、

布団の中には寝ない生活は困難である。

暖かい夏などは布団でなくても眠ることができるだろうが、

寒い秋や冬になって布団なしで眠ることができないだろう。

無理をすると、風邪をこじらせ肺炎で死に至ると思われる。

第六の「昼夜に亘って横臥せず、ただ坐して眠り、ねむいときは経行を行なう

(すんないさしゃきゅう)も筆者には無理である。

眠い時には横になって眠るのが自然である。

昼夜に亘って横臥せず、ただ坐して眠り、ねむいときは経行を行なうという

修行生活のどこが良いのか全く理解できない。

このような生活は疲労困憊し、病気になるだけの苦行であろう。

十二頭陀行は、現代人にとって殆ど実行できない苦行生活である。

原始仏教2、頭陀行を参照)。

道元禅師のような人が何故このような禁欲的な苦行を

称賛されるのか真意をつかみかねるところがある。

  ここには古代インドからの伝統的苦行礼賛思想が息づいているようである。

ただ、安易な生活に流れがちな怠惰な心を誡め、

小欲知足の清貧な生活と悟りへの熱意を勧めていると考えるしかないだろう。

現代の我々がこのような生活をまねたらすぐ病気になるだけだ。

我々は自分に相応しい生活や合理的な修行をするしかないだろう。


4

 第4文段


原文4


第十祖 波栗湿縛尊者は、一生脇不至席なり。

これ八旬老年の辨道なりといへども、当時すみやかに大法を単伝す。

これ光陰をいたづらにもらさざるによりて、

わづかに三箇年の功夫なりといへども、三菩提の正眼を単伝す。

尊者の在胎六十年なり。出胎白髪なり。

誓って屍臥せず、脇尊者と名づく

乃至暗中に手より光明を放って、以て経法を取る。」

 これ生得の奇相なり。

脇尊者、生年八十にして捨家染衣せんと垂(す)。

城中の少年、便ち之を誚めて曰く、

愚夫朽老(なり、一に何ぞ浅智なる。夫れ出家は、二業有り

一には則習定、二には乃ち誦経なり。而今衰耄せり、進取する所無けん

濫りに清流に迹し、徒に飽食することを知らんのみ。」

時に脇尊者、諸々の譏議を聞いて、因みに時の人に謝して、

而も自ら誓って曰く、

我 若し、三蔵の理を通ぜず、三界の欲を断ぜず

六神通を得ず、八解脱具せずば、終に脇を以て席に至けじ。」

爾より後、唯日も足らず、経行宴坐し、住立思惟す。

昼は則理教を研習し、夜は乃ち静慮凝神す。

三歳を綿歴するに、学は三蔵を通じ、三界の欲を断じ、三明の智を得る。

時の人 敬仰して、因みに脇尊者と号す。

しかあれば、脇尊者、処胎六十年、はじめて出胎せり。

胎内の功夫なからんや。

まことに不群なりといへども、朽老は阿誰よりも朽老ならん。

処胎にて老年なり、出胎にても老年なり。

  しかあれども、時人の譏嫌をかへりみず、誓願の一志不退なれば、

わづかに三歳をふるに、辨道現成するなり。

  たれか見賢思斉をゆるくせん、年老耄及をうらむることなかれ。

  この生しりがたし。生か、生にあらざるか。老か、老にあらざるか。

  四見すでにおなじからず、諸類の見おなじからず。

ただ志気を専修にして、辨道功夫すべきなり。

辨道に生死をみるに相似せりと参学すべし、生死に辨道するにはあらず。

いまの人、あるいは五旬六旬におよび、七旬八旬におよぶに、

辨道をさしおかんとするは至愚なり。

生来たとひいくばくの年月と覚知すとも、これはしばらく人間の精魂の活計なり。

学道の消息にあらず。

壮齢耄及をかへりみることなかれ、学道究辨を一志すべし。

脇尊者に斉肩なるべきなり。

  塚間の一堆の塵土、あながちにをしむことなかれ、

あながちにかへりみることなかれ。

一志に度取せずば、たれかたれをあはれまん。

無主の形骸、いたづらにヘン野せんとき、眼睛をつくるがごとく正観すべし。


注:

第十祖波栗湿縛(はりしっぽ)尊者:摩訶迦葉尊者から数えて、

第十番目の教団指導者。中印度の人。

出家の後かつて身体を横にして眠ることがなかったといわれ、

そのため脇尊者という名でも呼ばれている。  

 脇:  わき、わきばらの意。 

席:  床の上に敷いたむしろの意。

 八洵: 八十歳。

当時: その時点で。

 三菩提: 正等覚。仏と等しい悟り。

在胎:   母親の胎内にあること。

出胎髪白:母胎から生まれ出た際、すでに頭髪が白かった。

 屍臥: 屍のように横になって睡ること。

経法: 経典。

 生得: 生まれつき。

奇相:   珍らしい姿。

 垂して:  まさに・・・になろうとする時期に。

染衣:  衣服を黒色に染めること、出家すること。

 城中: その地域の中。

請: 招待する。

 愚夫:   愚かな男。

朽老:  老い朽ちていること。

浅智:  思慮が浅いこと。 

 二業:二つのつとめ。

習定:禅定(禅定)をくりかえし実修すること。

 誦経:  経典を読誦すること。

衰耄(すいもう): おいぼれ衰えること。

 飽食: 腹一杯食べること。 

キ議(きぎ):そしって議論すること。

 三蔵:  経蔵・論蔵・律蔵の三蔵。 

八解脱:  解脱は縛るものから離れて自由になること。

煩悩に縛られている状態から脱して自由になること。

八解脱とはこの束縛から脱れるための八種類の解脱の形態をいい、

@内有色想観外色解脱、A内無色想観外色解脱、B浄色解脱、C空処解脱、

D識処解脱、E無所有処解脱、F悲想解脱、G滅尽解脱の八つをいう。 

 爾: これ、この。

宴坐:安坐、坐禅。

 静慮:   思慮を静めること。

凝神: 精神を集中する。 

 綿歴: 長く経過すること。

三明:阿羅漢の聖者がそなえている三種の超能力。

一は過去に通達する能力。二は未来に通達する能力。三は現在に通達する能力。

 処胎:  母の胎内にいること。

 託胎:   母の胎内に身を託すること。

不群:  抜群。 

 朽老(きゅうろう): 老い朽ちていること。 

阿誰(おすい): だれ。 

識嫌: そしり嫌うこと。 

 一志: 一つの志。

 見賢思斉(けんけんしせい):  賢人を見て

それとひとしからんと願うこと。  

 耄及(もうぎゅう):  年老いる、おいぼれる。

四見:一水四見の意。

水を見た時、人間は水と見るが、鬼はこれを膿血と見る。

龍魚はこれを宮殿と見る、天使はこれを首飾りと見るなど、

見るものの立場に従って一つのものがさまざまに見られることをいう。 

 壮齢: 血気さかんな年、壮年。

一堆:一やま、一かたまり。

ヘン野: 野原をうろつくこと。

 正観: 正しく観察すること。



第4文段の現代語訳


第十祖 波栗湿縛(はりしっぽ)尊者は、生涯 身体を横たえて休むことがなかった。

波栗湿縛尊者は、八十歳の老齢になってから修行を始めたが、当時、短期間のうちに釈尊の大法を受け継いだ。

尊者は、月日を無駄に過ごさなかったため、僅か三年の精進だったが、仏の正法を受け継ぐことが出来たのである。

この尊者は、母の胎内に在ること六十年であり、生まれた時には白髪であったと言われている。

尊者は、死人のように横臥しないと誓ったために、脇尊者と呼ばれた。

又 暗闇の中では、手から光明を放って経典を取り上げたといわれる。

  これは生まつきの不思議な相だと言える。

脇尊者は、八十歳になって出家しようとした。

すると市中の若者が、これを責めて言った、

バカな年寄だ

なんて浅はかだ。そもそも出家には二つの務めがある

一つは坐禅で、二つには経文を唱えることだ

そんな老いぼれでは、何一つ出来ないだろう

むやみに坊さんになっても、無駄飯を食うだけだ」。

その時、脇尊者は、多くの非難の言葉を聞いて、その人達に感謝して、自ら誓って言った、

もし私が、一切経の教理に通ぜず、現世の欲を断たず、聖者の六神通を得ず

解脱出来なければ、決して横になって休まない」。

それから後、尊者はひたすら日を惜しみ、静かに歩いては坐禅し、立ち止まっては仏道を考えた。

昼は経典を研究し、夜は静かに坐禅した。

そのようにして三年を経て、尊者は一切経に通じ、現世の欲を断ち、聖者の智慧を得た。

そこで当時の人々は、尊者を讃え尊敬し脇尊者(横臥しない聖者)と呼んだ。

このように、脇尊者は、母の胎内に六十年も留まってから、初めて生まれたと伝えられている。

ですから胎内での行持の工夫があったのではないだろうか。

尊者は、生まれてから八十歳になろうとした時に、

初めて仏道に志して出家学道を求めた。

それは胎内に宿ってから百四十年後のことになる。

尊者は、まことに群を抜く優秀な人だったが、

老いていたことは誰よりも老いていたと言えるだろう。

胎内で既に老年であり、生まれてからも老年であったからだ。

しかし、当時の人々の謗りを気にせず、誓願の志を貫いたので、

たった三年で仏道修行を成就することができたのである。

誰が、この先賢を見倣いたいと思わない者がいるだろうか。

だから、自分がたとえ老年で耄碌していてもそれを恨みに思ってはならない。

人生は知り難い。

生であるか生でないか、老であるか老でないかは、見る者によって見方が異なる。

人にはさまざまに考えがあり同じではない。

だから、ただ志を専らにして仏道に精進すべきである。

仏道修行の中で迷っていると参学すべきである。

迷い(生死)の中で修行しているのではない。

今の人々で、五十歳六十歳になり、または七十歳八十歳になって、

齢を取ったからと修行を止めようとするのは、大変愚かである。

生まれてから、たとえ どれほど多くの年月が経っても、

これはただ、日常生活の年月であり、仏道を学ぶ年月ではない。

自分が若いか年寄りかを気にしてはならない。

ただ仏道を学び究めることに志すべきである。

脇尊者と肩を並べて修行することを志すべきである。

死ねば墓場の土となるこの身を、むやみに惜しんではならない。

むやみに顧みる必要もない。

自らを志を立てて自らを済度しなければ、誰があなたを哀れむだろうか。

  主のいない死骸が、空しく山野に散らばる時のことを、

この眼で見るように正しく観察すべきである。



第4文段の解釈とコメント


第十祖 波栗湿縛(はりしっぽ)尊者は、

生涯 身体を横たえて休むことがなかった。

波栗湿縛尊者は、八十歳の老齢になってから修行を始めたが、

当時、短期間のうちに釈尊の大法を受け継いだ。

尊者は、月日を無駄に過ごさなかったため、

僅か三年の精進だったが、仏の正法を受け継ぐことが出来たのである。

この尊者は、母の胎内に在ること六十年であり、

生まれた時には白髪であったと言われている。

尊者は、死人のように横臥しないと誓ったために、脇尊者と呼ばれた。

又 暗闇の中では、手から光明を放って経典を取り上げたといわれる。

  これは生まつきの不思議な相だと言える。


コメント

尊者は、死人のように横臥しないと誓ったために、脇尊者と呼ばれた。

生涯 身体を横たえて休むことがなかったというが、我々凡人には不可能である。

また尊者のまねをする必要もない。

  疲れたら身体を横たえて休むことは当然のことである。

道元禅師は、横臥しない脇尊者を称賛しているが、

横臥しないことに何も意味や価値もない。

長期間の不眠休息の修行は身体にとって苦行であり、

健康にも悪いことは分かっている。

行持3、「第12文段の解釈とコメント」を参照)。

  睡眠と休息は健康維持に必要不可欠なことである。

  又 暗闇の中では、

尊者は、手から光明を放って経典を取り上げたといわれている。

  波栗湿縛(はりしっぽ)尊者は母胎内に在ること六十年で、

生まれた時には既に白髪だったと伝えられる。


  又 暗闇の中で、尊者は、手から光明を放って経典を取り上げたといわれる。

尊者が蛍や蛍いかのような発光生物でもないかぎり、

手から光が出るはずはない。

尊者が人間であるかぎり、

そのようなことは科学的には説明できない。

このような不思議なことは波栗湿縛尊者の超人性と偉大さを示すためであろうが、

現代の科学的思考をする我々にとって

受け入れることも信じることもできない事柄であろう。

道元禅師はこの文段で、不思議で超人的な尊者の行持を

取り上げたことは注目すべきである。

道元禅師が尊者の摩訶不思議な超人性に注目し取り上げたことは、

道元禅師が未だ古代の宗教的思考をする人で、

超人的な不思議さを疑うことなく、信じ受け入れたことを示している。

道元禅師は、

現代人と違う宗教的世界に生きた人であったことを忘れてはならないだろう。



脇尊者は、八十歳になって出家しようとした。

すると市中の若者が、これを責めて言った、

バカな年寄だ、なんて浅はかだ。そもそも出家には二つの務めがある

一つは坐禅で、二つには経文を唱えることだ

そんな老いぼれでは、何一つ出来ないだろう

むやみに坊さんになっても、無駄飯を食うだけだ」。

その時、脇尊者は、多くの非難の言葉を聞いて、

その人達に感謝して、自ら誓って言った、

もし私が、一切経の教理に通ぜず、現世の欲を断たず、聖者の六神通を得ず

解脱出来なければ、決して横になって休まない」。

それから後、尊者はひたすら日を惜しみ、

静かに歩いては坐禅し、立ち止まっては仏道を考えた。

昼は経典を研究し、夜は静かに坐禅した。

そのようにして三年を経て、尊者は一切経に通じ、

現世の欲を断ち、聖者の智慧を得た。

そこで当時の人々は、尊者を讃え尊敬し脇尊者(横臥しない聖者)と呼んだ。

このように、脇尊者は、母の胎内に六十年も留まってから、

初めて生まれたと伝えられている。

ですから胎内での行持の工夫があったのではないだろうか。


コメント

人間の妊娠期間は十月十日くらいだが、動物の場合、

通常、進化が高いほど、また体が大きいほど、妊娠期間は長くなる。

ゾウは哺乳類の中で妊娠期間が最も長く21ヶ月、最長は28ヶ月にもなる。

しかしパンダの場合、体が大きいわりには妊娠期間は3ヶ月、最長でも6ヶ月である。

また、ハムスターよりも妊娠期間が短いのが

オポサムで12〜13日、最短で8日である。

もし、脇尊者が母の胎内に六十年も留まってから

生まれたのなら彼は人間ではないだろう。

胎内での行持の工夫があったとしても

脇尊者はやはり人間ではなく、化け物というしかない。このような人が西天第十祖(インド仏教第十祖)とはありえない話だ。

尊者は、生まれてから八十歳になろうとした時に、

初めて仏道に志して出家学道を求めた。

それは胎内に宿ってから百四十年後のことになる。

尊者は、まことに群を抜く優秀な人だったが、

老いていたことは誰よりも老いていたと言えるだろう。

胎内で既に老年であり、生まれてからも老年であったからだ。

しかし、当時の人々の謗りを気にせず、誓願の志を貫いたので、

たった三年で仏道修行を成就することができたのである。

誰が、この先賢を見倣いたいと思わない者がいるだろうか。

だから、自分がたとえ老年で耄碌していてもそれを恨みに思ってはならない。

人生は知り難い。

生であるか生でないか、老であるか老でないかは、見る者によって見方が異なる。

人にはさまざまに考えがあり同じではない。

だから、ただ志を専らにして仏道に精進すべきである。

仏道修行の中で迷っていると参学すべきである。

迷い(生死)の中で修行しているのではない。

今の人々で、五十歳六十歳になり、または七十歳八十歳になって、

齢を取ったからと修行を止めようとするのは、大変愚かである。

生まれてから、たとえ どれほど多くの年月が経っても、

これはただ、日常生活の年月であり、仏道を学ぶ年月ではない。

自分が若いか年寄りかを気にしてはならない。

ただ仏道を学び究めることに志すべきである。

脇尊者と肩を並べて修行することを志すべきである。

死ねば墓場の土となるこの身を、むやみに惜しんではならない。

むやみに顧みる必要もない。

自らを志を立てて自らを済度しなければ、誰があなたを哀れむだろうか。

  主のいない死骸が、空しく山野に散らばる時のことを、

この眼で見るように正しく観察すべきである。


コメント

ここでは、脇尊者を見習い、

ただ仏道を学び究めることに志すべきである

と言っている。


第3文段に続き、

道元禅師の修行重視の思想がはっきり見える文段である。

5

 第5文段


原文5

六祖は新州の樵夫なり、有識と称しがたし。

いとけなくして父を喪す、老母に養育せられて長ぜり。

樵夫の業を養母の活計とす。

十字の街頭にして一句の聞経よりのも、たちまちに老母をすてて、大法をたづぬ。

これ奇代の大器なり。

抜群の弁道なり。

  断臂たとひ容易なりとも、

この割愛は大難なるべし、この棄恩はかろかるべからず。

黄梅の会に投じて、八箇月ねぶらずやすまず、昼夜に米をつく。

夜半に衣鉢を正伝す。得法已後、なほ石臼をおひありきて、米をつくこと八年なり。

出世度人説法するにも、この石曰をさしおかず、希世の行持なり。


注:

 六祖:大鑑慧能禅師(638〜713)。南宗禅の開祖。 

新州: 地名。広東省新興県。 

有識:  ものしり。見識ある人、識者。 

 養母:  母を養うこと。

活計:   なりわい、生計。

十字の街頭:  四つ辻、道路の交叉点。

 一句の聞経:   金剛経の一節を耳にしたこと。

奇代:  一つの時代を通じても稀なの意。

 割愛: めずる心をさく。忍んで思い切る。 

黄梅の会:  黄梅山の教団、五祖大満弘忍禅師の教団。

出世:  大寺院の住職となること。

度人: 衆生済度。

希世:   世にも稀なの意。



第5文段の現代語訳

中国禅の六祖慧能禅師は、広東省新興県の木こりで、

必ずしも知識豊かな人ではなかった。

幼少にして父を失い、年老いた母親に養育されて成長した。

彼は木こりを、母を養うための仕事としていた。

しかしある日 市街の四つ辻で客が読んでいた金剛経の一節を聞いて以後、

にわかに年老いた母を捨てて釈尊の仏法探究の道に足を踏み入れた。

彼は滅多に現われることのない大器であり、

平凡な人々をはるかに超出した真理の探究者である。

2祖慧可が達磨大師に入門する際に示した

「断臂」がたとえ容易だということができても、

慧能禅師の愛情破棄の行動は、非常に困難なことだということができよう。

この母親との恩愛を断った行為は、決して簡単であろう筈がない。

慧能禅師は黄梅山の五祖弘忍禅師の教団に入門してから、

八ヵ月の間、寝ることも休むこともせずに、昼夜に米をついた。

  そしてある真夜中、法衣と鉢孟とを五祖弘忍禅師から正伝した。

得法以後も、なお石臼を背負って歩き、米をつくことが八年に及んだ。

そして仏祖として世に出て、人々を救済し、説法するようになってからも、

この石臼を手許から離さなかったと伝えられる。

まさに世にも稀な行持である。

第5文段の解釈とコメント

第五文段では中国禅の六祖慧能禅師の行持について紹介している。

六祖壇経を参照)。

文章や内容に難解なところはない。

道元禅師は「慧能禅師は黄梅山の五祖弘忍禅師の教団に入門してから

八ヵ月の間、寝ることも休むこともせずに、昼夜に米をついた

と慧能を尊敬している。

、第4文段で紹介した脇尊者の場合、

尊者は、死人のように横臥しないと誓ったために、脇尊者と呼ばれた

脇尊者は生涯 身体を横たえて休むことがなかった。」

とその行持を讃えている。

第7文段の雲巌曇晟禅師については、

道吾円智禅師と同じように薬山惟厳禅師に参学した。

ともに誓いを立て、四十年間脇腹を床につけて寝ることをせず、

心を一つにしてひたすら真理の探究にいそしみ、

法を洞山良价禅師に伝えたとその行持を称賛している。

第7文段を参照)。

  雲巌曇晟禅師、脇尊者の行持や慧能の行持に見られるように、

道元禅師は不眠不休の行持が好きだ。

筆者はこのような傾向に対しては客観的かつ冷静に見るべきだと考えている。

もともと、仏教は中道を尊び、苦行を否定するからである。

しかし、大乗仏教や密教では苦行礼賛の思想が甦る。

密教1、苦行礼賛の復活を参照)。

筆者は

ゴータマ・ブッダの道を行く仏教徒苦行礼讃の復活を安易に許してはならないと考えている。


6

 第6文段


原文E

江西馬祖の、坐禅することは二十年なり。

これ南嶽の密印を秦受するなり。

伝法済人のとき、坐禅をさしおくと道取せず。

参学のはじめていたるには、かならず心印を密受せしむ。

普請作務のところに、かならず先赴す。

老にいたりて懈惓せず。いま臨済は江西の流れなり。


注:

江西: 地名。揚子江中流の南岸の地をいう。

揚子江下流の南岸の地を江東という。 

馬祖:  馬祖道一禅師(709〜788)。南嶽懐譲禅師の法嗣。

密印: 仏性を悟った確かな証拠。

心印:仏の悟りを印にたとえた語。仏の心そのもの。

以心伝心によって伝えられる悟り。不変の悟りの本体。


第6文段の現代語訳

揚子江中流、南岸の地に住んでいた馬祖道一禅師は、

坐禅生活を送ること二十年であった。

これは南嶽懐譲禅師から

人知れず印可証明を受けた結果である。

仏祖として世に出て人を救うに当り、

坐禅を疎かにするようなことは決してなかった。

仏法を学ぼうとする者が始めて教団に到着した際には、

かならず坐禅を通して釈尊の心のあり方をひそかに受け取らせた。

また修行僧侶全員が一斉に労働する時には、

かならず誰よりも先にその場に行き、

老年になってからも、なまけたりあきたりすることがなかった。

現にいま栄えている臨済宗は、この馬祖道一禅師の流れである。

第6文段の解釈とコメント

第6文段は馬祖道一禅師の行持の紹介である。

坐禅と作務を生涯にわたって熱心にした

南嶽懐譲の法嗣馬祖道一禅師の行持を紹介している。

ここで特に難しい文章はない。

曹洞宗の流れに属する道元にとって臨済宗の流れに属する馬祖道一禅師を高く評価しているのはさすがである


道元には曹洞宗臨済宗を差別するような小さな宗派根性などは無かったことを示している。



7

 第7文段


原文7

 雲巌和尚は、道吾とおなじく薬山に参学して、

ともにちかひをたてて、四十年わきを席につけず、一味参究す。

法を洞山の悟本大師に伝付す。

洞山いはく、

われ打成一片せんことを欲して 、坐禅弁道すること、已に二十年なり」。

いまその道あまねく伝付せり。


注:

雲巌和尚:   雲巌曇晟禅師。薬山惟綴禅師の法嗣。 

道吾:   道吾円智禅師。薬山惟俵禅師の法嗣。予州海昏の人。

潭州道吾山に住み、仏法の説示に努めた。

835年死去、年67歳。修一大師とおくり名された。

一味: ひたすら、もっぱら。 

洞山の悟本大師: 洞山良价禅師。雲巌曇晟禅師の法嗣。曹洞宗の開祖。 

打成一片: 坐禅の修行を通して、自分の心身を、

渾然一体となった禅定(精神統一の状態、三昧)に練り上げること。



第7文段の現代語訳

雲巌曇晟禅師は、道吾円智禅師と同じように薬山惟厳禅師に参学した。

ともに誓いを立て、四十年間脇腹を床につけて寝ることをせず、

心を一つにしてひたすら真理の探究にいそしみ、法を洞山良价禅師に伝えた。

その洞山良价禅師は言った、

私は自分の心身を渾然一体の統一あるものに練り上げようと考え

坐禅を通じて真理を探究すること、すでに二十年にも及んだ

そしていまこの真理をあますところなく伝付した」。

第7文段の解釈とコメント

第7文段は洞山良价禅師の師雲巌曇晟禅師の行持を紹介している。

薬山惟厳禅師に参学した雲巌曇晟は、道吾円智とともに誓いを立て、

四十年間脇腹を床につけて寝ることをせず、

心を一つにしてひたすら真理の探究にいそしみ、

その法を洞山良价禅師に伝えた。

  曹洞宗の開祖洞山良价禅師は言った、

私は自分の心身を渾然一体の統一あるものに練り上げようと考え

坐禅を通じて真理を探究すること、すでに二十年にも及んだ

そしていまこの真理をあますところなく伝付した」。

この洞山良价の言葉に見られるように、

曹洞宗の禅は心身を渾然一体の統一あるものに練り上げ、

坐禅を通じて真理を探究する「只管打坐」の坐禅修行にある。

曹洞宗の禅は坐禅を通じて「悟り(見性)」を追求することを重視せず、

探究する心身を渾然一体の統一あるものに練り上げる「只管打坐」の坐禅修行にある。

只管打坐」の坐禅修行を重視する曹洞宗の宗風は

公案修行を通して「悟り(見性)」を追求する臨済宗(特に白隠禅師の流れ)の宗風と対照的である。


   

そのような曹洞宗の宗風はここに紹介された

雲巌曇晟禅師開祖洞山良价禅師にまで遡るのではないだろうか。


   

  図3に曹洞宗の坐禅を重視する「只管打坐」の宗風を形成した法系図を示す。


   
図3

図3  曹洞宗の坐禅を重視する「只管打坐」の宗風は

薬山惟厳 ⇒雲巌曇晟⇒洞山良价・・・・如浄→道元というルートで伝えられて来た。


   

8

 第8文段


原文8


雲居山弘覚大師、そのかみ三峰奄に住せしとき、天厨送食す。

大師あるとき洞山に参じて、大道を決択してさらに叛にかへる。

天使また食を再送して師を尋見するに、三日をへて師をみることえず。

天腐をまつことなし、大厦を所宗とす。

弁肯の志気、おもひやるべし。


注:

雲居山弘覚大師:  雲居道膺禅師(835〜902)。

洞山良价禅師の法嗣。幽州玉田の人、姓は王氏。

苑陽の延寿寺において具足戒を受け、後、翠微山にいること三年、

洞山の盛徳をきいてこれに師事し、その印可を得た。

その後三峰山から雲居山に行き、教化を行なうこと三十年、

教団の僧侶は常に千五百人を下らなかったという。

902年死去、弘覚大師とおくり名された。

三峰庵:  雲居道膺禅師が雲居山に行く前に庵居していた所。 

天厨送食:  天人が食事を供養すること。

決択:   えらび定める。事の正否を含め定める。

尋見:   たずね見る。

所宗:  宗とする所、より所。

弁肯: 弁別し肯定すること。



第8文段の現代語訳

雲居山の弘覚大師は、かつて三峰庵に住んでいた頃、

天人から食事の供養を受けていた。

あるとき洞山良价大師に師事し、大道を悟って、また庵に帰った。

そこで天人がまた食事を再び供養しようとして雲居道膺禅師をたずねたが、

三日経っても、師に会うことができなかった。

師は、天人の供養する食事などはどうでもよく、

大道がより所だった。

師の大道を尊ぶ固い心意気を思いやるべきだ。



 第8文段の解釈とコメント

第8文段の内容自体に特に難しい所はない。

しかし、「天厨送食」という神異譚のような話がでてくるので

何を言いたいのかはっきりしないところがある。

道元は

師の考は、天人の供養する食事などはどうでもよく

大道がより所だった。師の大道を尊ぶ固い心意気に思いをはせるべきだ。」

と述べて、

「雲居禅師の「大道を尊ぶ心意気」を高く評価している。

この文段には天人が雲居道膺禅師に食事を供養したという

天厨送食」の神異譚が出て来る。

このようなことは本当にあったことだろうか。

  「天厨送食」の話が

本当かどうか疑問を感じる内容ともなっている。

ここには「大道」という言葉がでている。

大道」という言葉は我が国の関山慧玄禅師(1277〜1360、関山国師)

の投機の偈(悟りの詩)に出ている。

関山国師の投機の偈を参照)。



9

 第9文段


原文9

百丈山大智禅師、そのかみ馬祖の侍者とありしより、入寂のゆふべにいたるまで、

一日も衆の為、人の為の勤仕なき日あらず。

かたじけなく「一日作さざれば一日食わず」のあとをのこすといふは、

百丈禅師、すでに年老臘高なり、なほ普請作務のところに壮齢と同励力す。

衆これをいたか。大これをあはれむ、師やまざるなり。

つひに作務のとき、作務の具をかくして、

師にあたへざりしかば、師その日一日不食なり。

衆の作務にくははらざることをうらむる意旨なり。

これを百丈の一日不作一日不食のあとといふ。

いま大宋国に流伝せる臨済の玄風、ならびに諸方叢林

おほく百丈の玄風を行持するなり。

注:

百丈山:   南昌府、奉新西県にある。

飛瀑千尺のものがあるので百丈山と名付けるという。百丈禅師が教を広めた

場所として有名。大雄峯ともいう。 

大智禅師: 百丈懐海禅師(719〜814)。馬祖道一禅師の法嗣。

語録一巻がある。  

侍者:  住職の左右に随侍して、日常の動作を補佐する役。

入寂:  死去。

為衆:   衆僧のため。

 為人:    宗とする所、より所。

勤仕: 勤労。

 臘高: 臘は僧侶の年。

僧が受戒してから一夏九旬の安居勤行を経ることを臘といい、

僧の位はこの数によって格付けされるところから、

転じてその得度後の年数をいう。臘高は得度後の年数の多いこと。 

壮齢:   血気盛んな年齢。 

玄風: 玄は奥深い、幽玄。風はやり方、仕来たり。



第9文段の現代語訳

百丈山の大智禅師(百丈懐海禅師、719〜814)は

かつて馬祖道一禅師の侍者をしていた時から、その入寂の夕方に至るまで、

一日として衆僧や人の為の勤労をしなかった日はなかった。

有難いことに

一日作さざれば一日食わず

という事跡の経緯は次のようである。

百丈禅師は年をとってからも、

全山挙げて勤労に従事する際には、壮年の人々と同じよう働いた。

衆僧はこのことを気の毒に感じたが、禅師はそれを気に止めなかった。

そこで衆僧は作業の時に、道具をかくして禅師に与えなかった。 

すると、禅師はその日一日、食事をしなかった。

衆僧との作業に参加できなかったことを残念に思ったためである。

これを百丈懐海禅師の「一日作さざれば一日食わず」の事跡と言う。

いま中国に流伝している臨済系統や諸方の寺院の玄風は、

この百丈懐海禅師の玄風を行持しているのである。



 第9文段の解釈とコメント

第9文段の内容自体に特に難しい所はない。

この文段では百丈懐海禅師の「一日作さざれば一日食わず

の勤労重視の事跡について述べている。

禅宗の勤労重視の姿勢はこのような事跡に由来することが分かる。

百丈懐海禅師は臨済宗の法系に属する禅師であるが

勤労重視の姿勢は曹洞宗の鈴木正三の「労働即仏行」の精神にも見られ、

日本人の労働観にも強い影響を与えている。

「正三の労働観と日本資本主義の精神」を参照)。

図4に百丈懐海禅師と臨済宗の法系を示す。


   
図4

図4 労働を重視する百丈懐海は臨済宗の法系に属する禅師である。


     
10

 第10文段


原文10

鏡清和尚住院のとき、土地神かつて師顔をみることえず。

たよりをえざるによりてなり。

注:

鏡清和尚: 鏡清道フ禅師(868〜937)。雪峰義存禅師の法嗣。

 

永嘉の人、姓は陳氏。雪峰義存禅師から印可を受けた後、

鏡清禅院に住み、さらに龍冊寺を創建した。

937年死去、年七十四歳。順徳大姉という。

 土地神:土着の鬼神。

 入寂:  死去。

 為衆:   衆僧のため。


第10文段の現代語訳

鏡清禅師が鏡清院に住んでいた頃、

その土地の鬼神は鏡清禅師の顔を見ようとしても

見ることができなかったと伝えられている。

その訳は、鏡清禅師が無所住・無執着の境地にいたため、

鬼神は鏡清禅師を見ようとしても、何の手がかりも得られなかったのである。


 第10文段の解釈とコメント

第10文段では鏡清禅師が鏡清院に住んでいた頃、

その土地の鬼神は鏡清禅師の顔を見ようとしても

見ることができなかった事跡について述べている。

第10文段の内容自体に特に難しい所はない。

土地の鬼神は鏡清禅師の顔を見ようとしたが、

見ることができなかったと伝えられているという伝承説話である。

しかし、鏡清禅師についての詳しい事跡や、

土地の鬼神についての説明は何もない。

何故土地の鬼神は鏡清禅師の顔を見ようとしたのかの説明もない。

従って、この第10文段で道元禅師は何を言いたいのか

良く分からないところがある。

土地の鬼神は鏡清禅師の顔を見ようとしたが、

見ることができなかったということを誰が知ったのか? 

普通の人間は鬼神を見ようとしても見ることはできないし、話を聞くことはできない。

従ってこの伝承説話が成立するためには鏡清禅師を持ち上げ

神格化する何らかの人為的な力が働いていたと考えられる。

道元禅師はかねてから鏡清禅師の無所住・無執着の境地を高く評価し、尊敬していたためこのような話を取り上げた

と考えるしかないだろう。

何故尊敬するのかについてもう少し詳しい説明があると良いと思われる文段である。



11

 第11文段


原文11

三平山義忠禅師、そのかみ天厨送食す。

大顛をみてのちに、天神また師をもとむるに、みることあたはず。

注:

三平山義忠禅師: 大顛(だいてん)宝通禅師の法嗣。福州の人。

姓は楊氏。はじめ石津禅師に師事し、のち大顛禅師の教団に参加した。

潭州三平山に住み、弟子を教化すること多年に及んだが死去の年不明。 

天厨送食: 天人が食事を供養すること。


第11文段の現代語訳

三平山義忠禅師は、かつて天人から食事の供養を受けていた。

しかし大顛禅師に師事して以降は、天人がさらに義忠禅師に会おうと努力しても

義忠禅師が無所住・無執着の境地にいたため、会うことができなかった。



 第11文段の解釈とコメント


この文段では三平山義忠禅師は、かつて天人から食事の供養を受けていた。

しかし義忠禅師が大顛禅師に師事して以降は、

天人がさらに義忠禅師に会おうと努力しても

会うことができなかったと述べている。

この第11文段で述べていることは

第10文段の鏡清禅師の事跡と殆ど同じである。

天人とは一体何者か?

天人は天界の存在だとすると、

その食事は精神的なもので

人間の食事のような物質的な食事ではないだろうと考えられる。

天人から食事の供養を受けることが本当に起こったのか?

日本や朝鮮にも多くの禅師はいたが「天厨送食」の奇跡(?)を聞いたことはない。

道元禅師には「天厨送食」の奇跡はなぜ起きなかったのか?

多くの疑問が起きる。

道元禅師は何故義忠禅師が天人から食事の供養を受けたという

怪しげな話を素直に信じ、讃歎しているのか?

雲居道膺禅師(第8文段)や鏡清禅師(第10文段)も

義忠禅師と同様「天厨送食」を受けていた。

義忠禅師の場合、この二人とどう違うのか。

この文段で道元禅師は本当は何を言いたいのか依然として謎で良く分からない。

第8文段を参照)。

第10文段を参照 )。



12

 第12文段


原文12

後大イ和尚いはく、

我 二十年 イ山に在って、イ山の飯を喫し、イ山のアをアし

イ山の道に参ぜず。只一頭の水コ牛を牧得して、終日露回回なり。」

しるべし、一頭の水コ牛は、二十年 在イ山の行持より牧得せり。

この師かつて百丈の会下に参学しきたれり。

しづかに二十年中の消息おもひやるべし、わするる時なかれ。

たとひ参イ山道する人ありとも、不参イ山道の行持はまれなるべし。

注:

後大イ和尚: 円智大安禅師をいう。

百丈懐海禅師の法嗣。福州の人、姓は陳氏。

はじめ黄栗山において出家し、ついで百丈禅師に師事した。

兄弟弟子であるイ山霊祐禅師(イ山第一世)の教化をたすけ、

その死後イ山の第二世となった。

したがって後大イ和狗と呼ばれる。

883年死去。円智禅師とおくり名された。 

 ア  かわやに行くこと。

水コ牛: 水牛。「本来の自己」の象徴的表現。

牧: やしなう、飼いならす。

露回回: 一切の事象が明々白々としていささかの疑問をも残さないこと。


第12文段の現代語訳

後大イ和尚(円智大安禅師)が言った、

私は二十年の間、イ山霊祐禅師の会下で、イ山の飯を食べ

イ山の厠で用を足したが

これといってイ山霊祐禅師の教えを学ぶことはなかった

ただ一頭の水牛(本来の自己)を飼いならし

終日自己の正体が明々白々と現れ通しである。」

知るべきだ、

この一頭の水牛は、二十年間イ山での行持があったから、

飼いならすことができたのである。

円智大安禅師はかつて百丈懐海禅師の会下で参学した人である。

イ山における二十年間の厳しい修行の様子を推察するべきであり、

その志を忘れてはならない。

イ山霊祐禅師の会下で参学する人はよくあるかも知れないが、

イ山霊祐禅師の教えを学ばない行持の例は希である。



 第12文段の解釈とコメント


後大イ和尚(円智大安禅師)が言った、

私は二十年の間、イ山霊祐禅師の会下で、イ山の飯を食べ

イ山の厠で用を足したが

これといってイ山霊祐禅師の教えを学ぶことはなかった

ただ一頭の水牛(本来の自己)を飼いならし

終日自己の正体が明々白々と現れ通しである。」

知るべきだ、

この一頭の水牛は、二十年間イ山での行持があったから、

飼いならすことができたのである。


コメント

後大イ和尚(円智大安禅師)の真意は馬祖禅の<作用即性

の考え方で良く説明することができる。

「禅の根本原理と応用」を参照)。

この円智大安禅師はかつて百丈懐海禅師の会下で参学した人である。

イ山における二十年間の厳しい修行の様子を推察するべきであり、

その志を忘れてはならない。

イ山霊祐禅師の会下で参学する人はよくあるかも知れないが、

イ山霊祐禅師の教えを学ばない行持の例は希である。

円智大安禅師の場合は、己事究明の修行を通し

真の自己(本来の自己、一頭の水牛)を明らかにした希な例として、円智大安禅師の行持を紹介している。

図5でこれを分かり易く説明する。


   
図5

図5  後大イ和尚(円智大安禅師)は一頭の水牛(本来の自己=脳)

を飼いならし、終日自己の正体(本源清浄心=健康な脳)の作用(働き)が

明々白々と現れ通しであるのを自覚していた。


   

図5に示したように、後大イ和尚(円智大安禅師)は

一頭の水牛(本来の自己=下層脳中心の生命情動脳)を参禅修行によって飼いならし、

その作用(働き)が終日明々白々と(露回回と)現れ通しであるのを自覚していた。

十牛の図を参照)。



13

 第13文段


原文13

趙州観音院真際大師従シン和尚、

とし六十一歳なりしに、はじめて発心求道をこころざす。

瓶錫をたづさへて行脚し、遍歴諸方するに

、つねにみづからいはく、

七歳の童児なりとも、 若し我より勝れば、我即ち伊に問ふべし

百歳の老翁も我に、及ばざれば我即ち他を教ふべし」。

かくのごとくして南泉の道を学得する、功夫すなはち二十年なり。

年至八十のとき、はじめて趙州城東観音院に住して、

人天を化導すること四十来年なり。

いまだかつて一封の書をもて檀那につけず、

僧堂おほきならず、前架なし、後架なし。

あるとき牀脚をれき。

一隻の焼断の燼木を、縄をもてこれをゆひつけて、年月を経歴し修行するに、

知事この牀脚をかへんと請するに、趙州ゆるさず。

古仏の家風きくべし。

趙州の趙州に住することは、八旬よりのちなり、伝法よりこのかたなり。

正法正伝せり、諸人これを古仏といふ。

いまだ正法正伝せざらん余人は、師よりもかろかるべし。

いまだ八旬にいたらざらん余人は、師よりも強健なるべし。

壮年にして軽爾ならんわれら、なんぞ老年の崇重なるとひとしからん、

はげみて弁道行持すべきなり。

四十年のあいだ世財をたくはへず、常住に米穀なし。

あるひは栗子椎子をひろふて食物にあつ、あるひは旋転飯食す。

まことに上古龍象の家風なり、恋慕すべき操行なり。

注:

 趙州: 地名。河北省大名道趙県。

趙州従シン(じょうしゅうじゅうしん、778〜897)禅師。

南泉普願禅師の法嗣。897年死去、享年120歳。語録三巻がある。

瓶錫(ビョウシャク): 瓶は口が細く胴が太い器で

水や酒をたくわえるために使うもの。

僧侶が旅行するに当り、飲料水を携行するために使用した。

錫は錫杖。錫杖は僧侶が旅行に使用する杖。

上部は錫、中間は木、先は牙または角でできており、

杖頭に多くの小銀をかけ、地面を突くたびに音をさせて

悪獣や毒蛇を追い払う役をする。

瓶錫は僧侶の旅行用具を意味する。 

行脚: 徒歩で旅行すること。

前架: 僧堂の前面にあって知事などが坐禅する所。

後架:  僧堂の背面にあって、洗面具などが置いてある棚。 

牀脚(じょうきゃく): 牀は縄牀。

木を交叉させ、上に繩を張った椅子。交椅。牀脚は繩牀の脚。

燼木(じんぼく): 燃え残りの木。 

 知事:  寺院の役僧。

 軽爾(きょうに): 軽いさま。 

 崇重(すうちょう):  あがめ重んずること。 

 椎子(すいす): しいの実。 

 旋転飯食: 当日分の食料を翌日分に繰り延べて節食すること。


第13文段の現代語訳

趙州観音院真際大師従シン禅師は、年齢が六十一であったにもかかわらず、

発心求道をこころざした。

そして旅行用具をととのえて徒歩旅行をし、諸国を歴訪したが、

つねに自分自身に言い聞かせて言った、

たとえ七歳の子供であっても、自分よりもすぐれているならば

即座にその童児に問おう

またたとえ百歳の老人であろうとも

自分に及ばない者がいたならば、即座にその男に道を教えてやろう」。

このようにして南泉普願禅師に行き合い禅師の教えを学び得たが、

学んだ努力の期間はまさに二十年であった。

年齢が八十一歳になったとき、はじめて趙州の東部にある観音院に住み、

人天を指導すること四十年に及んだ。

しかしその間一通の封書さえ教団の後援者に送って無心をすることがなかった。

また僧堂は決して大きいものではなく、

役僧の坐禅するのに当てる前架や僧堂の背面にある洗面用具等

のある棚も設備されていなかった。

あるとき坐禅に使用する椅子の脚が折れた。

そこで一本の焼き切れたもえさしの木を繩で椅子にゆわえ付け、

長年にわたってそのままの状態で修行を続けた。

これに対し寺院の役僧が椅子の脚を換えることを願い出たが、

趙州はこれを許さなかった。

この例話によって古仏の家風がどのようなものであるか

を知ることができる。

趙州禅師が趙州に住むようになったのは八十歳より後であり、

南泉普願禅師より伝法を受け継いだ後のことである。

したがって従誌禅師は正法を正しく伝承しており、

多くの人々は従シン禅師を古仏だといっていた。

正法を正しく伝承していない他の人々は、禅師よりも重要さに欠けるであろう。

まだ八十歳になっていない人々は、禅師よりも強健であろう。

すなわち血気盛んの年齢でもあり、

重要さにおいても禅師より劣るわれわれは、老年で、

人々からも尊敬を受げている従シン禅師とどうして同じだということができよう。

我々は心をはげまして行持に精進すべきである。

観音院において従誌禅師は四十年の間世俗的な財物をたくわえることが

なかったので、寺には米もなかった。

そこである場合には栗の実や椎の実を拾って食物にし、

ある場合には、僧が交代で食事を取って節食をした。

まさに過去における優れた修行者の家風であり、恋い慕うべき行いである。



 第13文段の解釈とコメント


この文段では、61才で、発心求道し、

80才の老年になっても質素で清貧な家風を保った

趙州禅師の行持を紹介し賛嘆している。

文章も特に難しいところはない。



14

 第14文段


原文14

あるとき、衆にしめしていはく、

汝若し一生 叢林を離れず、不語なること十年五載すとも

人の汝を喚んで唖漢と作すことなからん

已後には諸仏もまた汝を奈何ともせじ。」

これ行持をしめすなり。

しるべし、

十年五載の不語、おろかなるに相似せりといへども、

不離叢林の功夫によりて、不語なりといへども唖漢にあらざらん。

仏道かくのごとし。

仏道声をきかざらんは、不語の不唖漢なる道理あるべからず。

しかあれば行持の至妙は不離叢林なり、不離叢林は脱落なる全語なり。

至愚のみづからは、不唖漢をしらず、不唖漢をしらせず、

阿誰か遮障せざれども、しらせざるなり。

不唖漢なるを、得恁麼なりときかず、

得恁麼なりとしらざらんは、あはれむべき自己なり。

不離叢林の行持、しづかに行持すべし、 

東西の風に東西することなかれ。

十年五載の春風秋月しられざれども、声色透脱の道あり。

その道得、われに不知なり、われに不会なり。

行持の寸陰を可惜許なりと参学すべし。

不語を空然なるとあやしむことなかれ。 入之一叢林なり、出之一叢林なり、

鳥路一叢林なり、偏界一叢林なり。

注:

叢林(そうりん): 寺院、修行の道場。

不離叢林: 修行の道場を離れないこと。

五載: 五年。載は年に同じ。

唖漢: おし。

得恁麼: 真実を得ている。

声色透脱の道:  音声(感覚の生活)によって解脱する道。

寸陰:  ほんの僅かな時間。

可惜許:惜しむべき哉の意。可惜乎とも書く。

空然: 空白であること、何もないこと。

入之一叢林:  之は是に同じ。

入るという動作が一箇の修行道場である。

 出之一叢林:  出るという動作そのものが

一箇の修行道場である。 

 鳥路一叢林: 鳥路は鳥の飛ぶ路、大空。

鳥の飛ぶ路である大空も一箇の修行の道場である。

 偏界一叢林:宇宙全体もまた一箇の修行道場である。


第14文段の現代語訳

あるとき趙州禅師が衆僧に教えて言った、

お前達が、もし一生、修行の道場を離れず

無言で十年十五年と坐禅をしても、誰もお前達のことを唖と呼ばないだろう

そして後には、諸仏でさえも、お前達をどうすることもできないだろう」。

これは行持について示しているのである。

銘記せよ。

十年十五年の長い間、無言で坐禅することは、愚かなように見えるが、

一生、修行道場を離れない努力によって、

無言であっても、唖ではないのだ。

仏道とはこのようなものである。

このような仏法の真理を耳にしない人は、

無言の人が決して唖ではないという道理を知ることができない。

このように、最も優れた行持は、修行道場を離れないことである。

修行道場を離れないことは、脱落(解脱)の全てを語っているのである。

この無言の、愚かそのものの人自身は、唖でない人を知らず、

唖でない人を他に知らせようとしないのだ。

誰かが妨げている訳ではないが、それを知らせないのである。

この無言の唖でない人が、脱落(解脱)を得ていると聞かず、

脱落(解脱)していると知らないとは、哀れむべき自己と言える。

結局のところ修行道場を離れない行持を、黙々と行持すべきであり、

東西の風に吹かれるままにぐらついてはならない。

道場を離れない五年十年の春風秋月(歳月)には、

自ら知ることがなくても、万境を透脱する道があるのだ。

そのことは、その人自身、知らず、その人自身、分からないのである。

行持の時間を大切にして学ぶべきである。

無言の坐禅を空しいことだと疑ってはならない。

入るという動作も道場であり、出るという動作も道場である。

鳥が飛び交う大空も道場であり、全世界が一つの道場である。



 第14文段の解釈とコメント


13文段に続き第14文段も趙州禅師の行持を紹介している。

趙州禅師の言葉

もし修行の道場を離れず、無言で十年十五年と坐禅をしても

誰も唖とは呼ばないし、諸仏でさえもどうすることもできないだろう。」

を紹介し不離叢林の坐禅修行を重視している。

道元は長い時間、無言で坐禅するのは、一見愚かなように見えるが、

不離叢林の修行によって、たとえ長時間、無言で坐禅しても、唖ではない。

仏道とはそのようなものであると述べている。

道元は

無言の唖でない人が、脱落(解脱)を得ていると聞かず

脱落(解脱)を得ていると知らないことは、哀れむべき自己と言える。」

と述べている。

「無言の唖でない人(無言の不唖漢)」を真の自己だと考えると、

「無言の唖でない人(無言の不唖漢)」とは

下層脳(=脳幹+大脳辺縁系)を中心とするだと考えることができる。


   

不離叢林の坐禅修行によって下層脳(脳幹+大脳辺縁系)を中心とする脳が

不離叢林の坐禅修行によって活性化し健康な脳になると、その人は既に解脱している


   

それを知らないのは憐れむべきことだと述べている。

これは注目すべき主張と言える。

これを次の図6で説明する。


   
図6

図6 不離叢林の坐禅修行によって無言の不唖漢(坐禅修行者)の脳が

健康な脳(本源清浄心)になると、その人は既に解脱しているのである。


     

15

 第15文段


原文15

大梅山は慶元府にあり、この山に護聖寺を草創す、

法常禅師その本元なり。

禅師は襄陽人なり。かつて馬祖の会に参じてとふ、

如何 是仏」と。

馬祖云く、

即心是仏」と。

法常このことばをききて言下大悟す。

因に大梅山の絶頂にのぼりて、人倫に不群なり、草庵に独居す。

松実を食し、荷葉を衣とす。

かの山に小池あり、池に荷おほし。

坐禅弁道すること三十余年なり。

人事たえて見聞せず。年暦おほよそおぼえず、四山青又黄のみをみる。

おもひやるにはあはれむべき風霜なり。

師の坐禅には、八寸の鉄塔一基を頂上におく、如戴宝冠なり。

この塔を落地却せしめざらんと功夫すれば、ねぶらざるなり。

その塔いま本山にあり、庫下に交割す。

かくのごとく弁道すること、死にいたりて懈惓なし。

かくのごとくして年月を経歴するに、塩官の会より一僧きたりて、

山にいりて往杖をもとむるちなみに、迷山路して、

はからざるに師の庵所にいたる。

不期のなかに師をみる、すなはちとふ、

和尚この山に住してよりこのかた多少時也」。

師いはく、

只見四山青又黄」。 

この僧またとふ、

出山路向什麼処去」。

師いはく、

随流去」。

この僧あやしむこころあり、かへりて塩官に挙似するに、

塩官いはく、

そのかみ江西にありしとき、一僧を曽見す

それよりのち消息をしらず、莫是此僧否」。

つひに僧に令して師を請するに出山せず、偈をつくりて答するにいはく、

摧残せる枯木、寒林に倚る

幾度か春に逢うて心を変ぜず

樵客、之に遇うて猶顧みず

郢人、那ぞ苦に追尋することを得ん

つひにおもむかず。

これよりのち、なほ山奥へいらんとせしちなみに、有頌するにいはく、

一池の荷葉、衣るに尽くること無し

数樹の松華、食するに余り有り

 剛て、世人に住処を知られて

更に茅舎を移して深居に入る

  つひに庵を山奥にうつす。

注:

大梅山: 浙江省寧波府にある。

唐の徳宗の頃、馬祖道一禅師の法嗣である法常禅師が

山中に護聖寺を建てて止住した。 

慶元府: 現在の寧波府。 

法常禅師:  大梅法常禅師(752〜839)。

馬祖道一禅師の法嗣。襄陽の人、姓は鄭氏。

839年死去、享年88歳。

道元禅師は、夢の中で大梅法常禅師から、

梅の華が付いた枝を授けられたという。

これは、授記であり、或いは拈華微笑であり、

学者によってはこれを、悟りへの予感であるとする。

この話から、道元禅師は、

大梅法常禅師をもともと尊敬して親しみを持っていたことが分かる。

このような視点から、第15文段を読むのも興味深い。  

襄陽: 地名。湖北省襄陽県。

 馬祖: 馬祖道一禅師(709〜788)。南岳懐譲禅師の法嗣。 

如何是仏: 仏とは一体どのようなものですか。

即心是仏:  今日唯今の心こそ仏だ。

「即心是仏」を参照)。

絶頂:最上のいただき、てっぺん。

人倫:  人間のたぐい。 人の踏み行うべき道 

荷:  蓮。

人事: 人間に関係した事柄。 

四山: 四方の山。

青又黄: 春、山が若葉で青くなり、秋には黄葉で黄色くなること。

落地却: 地面に落すこと。

却は語句の末に川いる助字。決定・過去・完了の意を表わす。 

 交割:  資材帳に記載すること。

 塩官: 塩官斉安禅師(752〜839)。

馬祖道一禅師の法嗣。海門郡の人、姓は李氏。

馬祖道一禅師から仏法を承継し、杭州で教化を行なった。

大梅法常禅師の兄弟弟子。

坐禅したまま死去(坐亡)したという。悟空禅師とおくり名された。 

 不期: 予期しないこと。

多少時也:どの位の時が経ったか。

 挙似:  挙示。

 江西: 馬祖道一禅師の教団があった所。

 曽見: かつて見た。

 擢残(さいざん):くだけ残る。

寒林:  寒々とした林、葉の落ちた林、冬の林。 

鄙人(えいじん): 鄙の人。

卑俗な歌曲を巧みに歌う人。ここでは大工。 ここでは大工。 

 苦: ねんごろ。

 有頌:  詩を作ること。 

 松華: 松の花。

 剛(いま): いま、いましがた。


第15文段の現代語訳

大梅山は慶元府にあり、この山に護聖寺を創建した法常禅師が開山である。

禅師は襄陽の人で、かつて馬祖道一禅師の会下で教えを受けていた時質問した、

一体、仏とは何ですか?」

  馬祖は言った、

即心是仏(心こそ仏だ)」。

法常禅師はこの言葉を聞いて言下に大悟した。

そこで大梅山の絶頂に登り、社会から離れて草庵に独居した。

松の実を喰べ、蓮の葉を衣服とした。

この大梅山には小さな池があり、池には蓮が多かったのである。

このようにして坐禅弁道することが三十年余に及んだ。

人間に関連した事柄は一切見聞せず、時節の進行も気にせず、

ただ四方の山々が春には青くなり、秋には黄色になるのを眺めるだけだった。

考えるだけでも感慨深い歳月である。

法常禅師は、八寸くらいの鉄の塔を一つ、頭の上に置いて坐禅した。

それはちょうど宝冠を頭にのせているようだった。

この塔を地面に落さないようにすることで、居眠りをしなかったのである。

その塔はいまでも大梅山の寺院にあり、資材帳にも登録されている。

法常禅師は、死ぬまで、このように弁道して怠けことがなかった。

このようにして年月を経ていたところ、

塩官斉安禅師の教団から一人の僧がやって来て、

山に入って旅行用の杖にする木をさがしていた際に、

山道に迷って偶然、法常禅師の庵のある場所に出た。

しかも期せずして法常禅師に会った。

そこで僧侶が質問して言った、

和尚はこの山に住んでから、どの位の時が経ちますか?」

  禅師は言った、

ただ四方の山々が春には青くなり

また秋には黄色くなるのを見て来ただけだ。」

そこでこの僧がまた質問した、

山を出る道はどの方向に向っておりますか?」

  禅師は言った、

川の流れについて行ったらよいだろう。」

この僧は禅師の淡々とした答えに打たれ、

一体この人は誰であろうと、疑問に思った。

そこで塩官斉安禅師のもとに帰って、上記の状況を話したところ、

塩官禅師は言った、

かつて江西の馬祖道一禅師の教団にいた時

ある僧と会ったことがあるが

それ以後その僧の消息はわからなくない

あるいはその僧がかつて江西で行き合った僧かも知れない。」

塩官禅師は僧に命じて法常禅師を自分の寺院に招待しようとしたが、

禅師はとうとう山を出ようとせず、

詩を作って答えた。

その詩に言う、

くだけ残った枯木が寒々とした林の中にあるようだ

  何回となく春にめぐる合うことを重ねたが

ついに山に一生住もうという心は変わらない

木こりでさえ私にあっても見向きもしないのに

大工さんがどうして私を追い求めることができようか

法常禅師はついに塩官禅師の教団へは行かなかった。 

その後さらに山奥に入ろうとした際に、詩を作って言った、

たった一つの池に生えている蓮の葉は衣服に使っても使い切れない

数本の松の木になる松の実は、食糧として充分過ぎる

このたび、世間の人から住処を知られてしまった

さらにあばら家を移して山奥に入ろう

 大梅法常禅師は遂に庵をさらに山奥に移した。



 第15文段の解釈とコメント


この文段では大梅山に登り、世俗から離れて草庵に独居し、

馬祖の会下で「即心是仏」の悟りを得た後、山中で悟後の修行に励んだ

大梅法常禅師の行持について紹介している。

内容も特に難しいところはない。



16

 第16文段


原文16

あるとき馬祖、ことさら僧をつかはしてとはしむ、

和尚そのかみ馬祖を参見せしに、何なる道理を得てか便此山に住する?」。

師いはく、

馬祖われにむかひていふ

即心是仏、すなはちこの山に住す」。

僧いはく、

近日仏法また別なり」。

師いはく、

作麼生別なる?」

僧いはく、

馬祖いはく「非心非仏」とあり」。

師いはく、

這老漢、ひとを惑乱すること、了期あるべからず

さもあればあれ 非心非仏、我は祇管に即心是仏なり」。

この道をもちて馬祖に挙似す。

馬祖は云った、

梅子熟せり」。

この因縁は人天みなしれるところなり。

天龍は師の神足なり、倶祗は師の法孫なり。

高麗の迦智は、師の法を伝持して、本国の初祖なり。

いま高麗の諸師は師の遠孫なり。

生前には一虎一象よのつねに給侍す、あひあらそはず。

師の円寂ののち、虎象、石をはこび泥をはこびて、師の塔をつくる。

その塔いま護聖寺に現在せり。

師の行持、むかしいまの知識とあるは、おなじくほむるところなり。

劣慧のものは、ほむべしとしらず、貪名愛利のなかに、

仏法あらましと強為するは、小量の愚見なり。

注:

非心非仏: 心をも否定し、仏をも否定する

「心でも仏でもない」と言う意味。

無門関第33則「非心非仏」を参照)。

了期: 了解する時期。

梅子熟せり:  梅子は梅の実。ここでは大梅法常禅師を指す。

梅子熟は大梅山の和尚はとうとうでき上ったの意。

天龍: 大梅法常禅師の法嗣。

倶砥和尚に一指頭の禅を伝えたことで知られる。伝記不詳。

神足: 高弟。

倶胝(ぐてい): 倶胝和尚。婆州金華の人。

かつて庵に住んでいた時、ある尼僧からやり込められて発憤し、

諸方を歴遊してついに天龍禅師に師事し、

一指頭によって禅の真理を悟ったという。

その後質問を受ける度に、一本の指を立てて回答にかえ、

一生の間使い続けたという。死去の年、年齢等不明。

無門関第3則「倶胝堅指」を参照)。

高麗:  朝鮮半島の「高麗国」。

 迦智:  迦智禅師。新羅国の僧。伝記不詳。

円寂:  死去すること。

 劣慧: 劣った智慧。 

 貪名愛利: 名誉をむさぼり利得を愛すること。

 強為: 強いてきめつけること。

 小量: 小乗的な小さい考え。


第16文段の現代語訳

あるとき馬祖道一禅師は、特に僧をつかわして質問させた、

和尚はかって馬祖道一禅師に師事していた時

どのような悟りを得て、この山に住むようになったのですか?」

  法常禅師は言った、

馬祖道一禅師は私に、『即心是仏』 と言った

それ以来この山に住むようになった」。

僧は言った、

最近では馬祖が説く仏法は以前と違っています」。

法常禅師は言った、

どう違っているのか」。

僧は言った、

最近では「非心非仏」と言っておられます」。

法常禅師は言った、

あの老ぼれ奴。ひとを惑乱させるようなことがあると許さんぞ

ひとは『非心非仏』というかも知れないが

拙僧はただ『即心是仏』の一句で充分だ」。

僧はこの言葉を持ち帰って馬祖禅師に示した。

馬祖は言った、

大梅山の和尚の悟りも本物になって来たな」。

この説話は人天がひとしく知っているところである。

天龍禅師は法常禅師の高弟であり、倶胝和尚は法常禅師の孫弟子である。

高麗の迦智禅師は、法常禅師の仏法を伝承して、

故郷高麗に帰りその第一祖となった。

今の高麗の師匠達はいずれも法常禅師の遠孫である。

法常禅師の生前には一匹の虎や象にもたとえられる秀れた弟子共が、

常に禅師のそばにあって奉仕したが、

彼等は争うことがなかったという。

また禅師がなくなって後には、

この虎と象にたとえられるような秀れた弟子達が

石をはこび泥をはこんで禅師の石塔を造ったという。

そしてこの塔がいまでも護聖寺に現存している。

この法常禅師の行持については、昔とか今とかには関係なく、

およそ高徳の僧達は一様に賞讃するところである。

しかし劣った智慧の持主は、賞讃すべきものだということさえも知らない。

名誉をむさぼったり、利得に愛着したりすることに、

仏法があるときめつけるのは、

小乗的な立場の愚かな考えである。



 第16文段の解釈とコメント


この文段も第15文段で紹介した大梅法常禅師の行持の続きである。

法常禅師は馬祖道一禅師に、『即心是仏』 と言われて悟った。

法常禅師は悟境を深めるため、大梅山に入り草庵を結び修行を続けた。

馬祖道一禅師は入山後の彼の悟境を確かめるため、

僧を遣わして質問させた。


僧は訊ねた、

法常禅師はかって馬祖道一禅師の下で修行した時

どんな悟りを得て、大梅山に住むようになったのですか?」

法常禅師は答えた、

私は馬祖禅師の『即心是仏』 と言う言葉で悟ったのだ。」

これに対し、遣わされた僧は言った、

最近では馬祖が説く仏法は以前と違っています。」

驚いた法常禅師は訊ねた、

どう違っているのか?」

僧は言った、

最近では和尚さんは「非心非仏」と言っておられます。」

これを聞いた法常禅師は答えた、

あの老ぼれ奴、ひとを惑乱させるようなことがあると許さんぞ

ひとは『非心非仏』というかも知れないが

拙僧はただ『即心是仏』の一句で充分だ。」

僧はこの言葉を持ち帰って馬祖禅師に報告した。

これを聞いて馬祖は、

大梅山の和尚の悟りも本物になって来たな。」

と言って法常禅師の悟境を賞賛したというのが第16文段の内容である。


文章などに難しいところはない。

馬祖道一禅師と大梅法常禅師の会話については無門関30則の公案となっている。

無門関30則「即心即仏」を参照)。

(無門関30則「即心即仏」を参照)

馬祖道一禅師の『即心是仏』については正法眼蔵『即心是仏』を参照されたい。

正法眼蔵「即心是仏」を参照)。

馬祖道一禅師の「非心非仏」については無門関33則の公案となっている。

無門関第33則「非心非仏」を参照)。


参考文献など:

1.道元著 水野弥穂子校註、岩波書店、岩波文庫、「正法眼蔵(一)」1992年

2.安谷白雲著、春秋社、正法眼蔵参究 仏性 1972年

3.西嶋和夫訳著、仏教社、現代語訳正法眼蔵 仏性 第四巻



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