top 2019年11月5日〜12月7日   表示更新:2022年7月12日

行持・3

   
数

行持下巻の由来と構成



行持の巻は、元来一巻にまとまっていたが、

永平寺第五代住職義雲禅師(1253〜1333)が、

六十巻本の正法眼蔵を編纂したときに、上下二巻に分け、

達磨大師の章以下が下巻になったと伝えられている。

ここでは長大な「行持」下巻(全29文段)を2分割し、

第1文段〜第15文段を「gyouzi3」で、

第15文段〜第29文段を「gyouzi4」で解説したい。             



1

 第1文段


原文1

真丹初祖の西来東土は、般若多羅尊者の教勅なり。

航海三載の霜華、その風雪いたましきのみならんや、

雲煙いくかさなりの嶮浪なりとかせん。

不知のくににいたらんとす、身命ををしまん凡類、おもひよるべからず。

これひとへに伝法救迷情の大慈よりなれる行持なるべし。

伝法の自己なるがゆゑにしかあり、

伝法の遍界なるがゆゑにしかあり、尽十方界は真実道なるがゆゑにしかあり、

尽十方界自己なるがゆゑにしかあり、

尽十方界、尽十方界なるがゆゑにしかあり。

いづれの生縁か王宮にあらざらん、いづれの王宮か道場をさへん。

このゆゑにかくのごとく西来せり。

救迷情の自己なるゆゑに、驚疑なく怖畏せず。

救迷情の遍界なるゆゑに、驚疑せず怖畏なし。

ながく父王の国土を辞して、

大舟をよそほふて、南海をへて広州にとづく。

使船の人おほく、巾瓶の僧あまたありといへども、史者失録せり。

著岸よりこのかた、しれる人なし。

すなはち梁代の普通八年丁未歳九月二十一日なり。

広州の刺史粛昴といふもの、主礼をかざりて迎接したてまつる。

ちなみに表を修して武帝にきこゆる、粛昂が勤恪なり。

武帝すなはち奏を覧して欣悦して、使に詔をもたせて迎請したてまつる。

すなはちそのとし十月一日なり。

注:

行持: 梵行持戒の保持。修行の持続。

 仏法と戒律の保持。

真丹: 中国の別名。神丹、震旦、振旦に同じ。

真丹初祖: 中国に禅をもたらした

中国禅の初祖達磨大師。

西来東土: 西方のインドから東方の中国に渡来したこと。

般若多羅尊者:摩訶迦葉尊者から数えて

第二十七代目の教団指導者。

東インドの波羅門階級の出身で達磨大師の師と伝えられる人。

教勅(きょうちょく):教えいましめること。

三載:三年。載はとしの意。

霜華: 霜を花にたとえていう。

冬を意味し、また歳月を意味する。

いたまし: つらい、難儀である。 

雲煙:  雲と霞と。 

嶮浪: 危険な大波。

凡類:  平凡な連中。

迷情:迷っている有情、迷っている人々。

生縁: 生活環境。 

よそほふ: したくをする、準備をする。

広州: 広州府。広東省城およびその付近の地。

珠江に臨み、外国との交通がもっとも早く開けた。 

とづく: とどく、いたり着く、達する。

使船: 使いをする船。便船。

巾瓶(きんびょう)の僧: 手巾や水瓶をたずさえて、

常時師僧の用にそなえている僧をいう。 

史者: 国の記録を司る人。 

失録: 記録をしそこなうこと。

梁代: 梁の時代(502〜557)。梁は国の名。 

普通八年丁未歳: 527年。

刺史: 官名。地方の長官をいう。  

主礼: 賓主の礼。来客に対する接待の礼式。 

迎接: 出迎えてもてなす。  

存没: 存在しなくなること。 

表:君主にたてまつる報告の文書。

秘密を必要としないものをいう。 

修す: 書く、書物を書く。

きこゆ: 申し上げる、申す。

勤恪(きんかく):まじめに勤めること。 

欣悦(ごんえつ):   よろこぶこと。 

迎請(ごうしょう): でむかえて招待する。 



現代語訳

中国禅の初祖 達磨大師が、西方インドから東の中国に来たのは、

般若多羅尊者の教えによる。

航海三年の年月は、その風雪の痛ましさだけでなく、

雲霧の重なる危険な波浪の旅であったと思われる。

未知の国に入ろうとすることは、

身体と生命を惜しむ凡人には思いつかない。

これはひたすら、仏法を伝えて人々を迷情から救おう

という大慈悲から生まれた行持である。

法を伝える自己であるからやって来たのである。

法を伝える世界であるからやって来たのである。

全ての世界は真実の道であるからやって来たのである。

全宇宙は自己であるからやって来たのである。

全宇宙はただ全宇宙であるからやって来たのである。

何処に生まれようとそこが王宮でないことがあろうか。

何処の王宮が道場であることを妨げるだろうか。

この故に、大師はこのようにインドからやって来たのである。

迷いに沈んだ人々(迷情)を救う自己であるから、

驚き疑わず、恐れることもない。

父王の国に別れを告げ、大船を整え、南海を経て広州に到着した。

同船の人は多く、大師に随う僧も多数いたのだが、

それを歴史家は記録していない。

着岸から後の事を知る人はいなかった。

それは梁の時代の普通八年(西暦527年)九月二十一日だったと伝えられる。

広州の長官蕭昂が、達磨大師を君主の礼をもって迎えた。

彼は上奏文を書いて武帝に申し上げた。蕭昂は恭しく熱心であった。



第一文段の解釈とコメント

梁の普通八年(西暦527年)

中国禅の初祖 達磨大師は般若多羅尊者の教えに従って、

西方インドから東の中国に来た。

  その旅は風雪の痛ましさだけでなく、

雲霧の重なる危険なものであった。

祖師西来は、仏法を伝えて人々を迷情から救おうという達磨大師の大慈悲心から生まれた行跡である

と達磨大師の行持について述べている。

達磨大師については碧巌録や従容録の公案に

取り上げられているので参照されたい。

従容録第2則 達磨廓然を参照)。


碧巌録第1則 達磨廓然無聖を参照)。



2

 第2文段


原文2


初祖、金陵にいたりて梁武と相見するに、梁武とふ、

朕、即位より已来、寺を造り、経を写し、僧を度すること

勝げて紀すべからず、何の功徳か有る。」

師曰く、

並びに功徳無し。」

帝曰く、

何の以にか功徳無き。」

師曰く、

此れは但人天の小果、有漏の因なり

影の形に随ふが如し、有りと雖も実に非ず。」

帝曰く、

如何なるか是れ真の功徳。」

師曰く、

浄智妙円にして、体自ら空寂なり

是の如くの功徳は、世を以て求めず。」

帝又問う、

如何ならんか是れ聖諦第一義諦。」

師曰く、

廓然無聖。」

帝曰く、

朕に対する者は誰そ。」

師曰く、

不識。

帝、領悟せず。師、機の不契なるを知る。

ゆゑにこの十月十九日、ひそかに江北にゆく。

そのとし十一月二十三日、洛陽にいたりぬ。

嵩山少林寺に寓止して、面壁而坐、終日黙然なり。

しかあれども、魏主も不肖にしてしらず、はぢつべき理もしらず。

師は南天竺の刹利種なり、大国の皇子なり。

大国の王宮、その法ひさしく慣熟せり。

小国の風俗は、大国の帝者に為見のはぢつべきあれども、

初祖うごかしむるこころあらず。

くにをすてず、人をすてず。

ときに菩提流支の?謗を救せず、にくまず。

光統律師が邪心をうらむるにたらず、きくにおよばず。

かくのごとくの功徳おほしといへども、

東地の人物、ただ尋常の三蔵および経論師のごとくにおもふは、

至愚なり、小人なるゆゑなり。

あるひはおもふ、禅宗とて一途の法門を開演するが、

自余の論師等の所云も、初祖の正法もおなじかるべきとおもふ。

これは仏法を濫穢せしむる小畜なり。

初祖は釈迦牟尼仏より二十八世の嫡嗣なり。

父王の大国をはなれて、東地の衆生を救済する、

たれのかたをひとしくするかあらん。

もし祖師西来せずば、東地の衆生、いかにしてか仏正法を見聞せむ。

いたづらに名相の沙石にわづらふのみならん。

いまわれらがごときの辺地遠方の披毛戴角までも、

あくまで正法をきくことえたり。

いまは田夫農夫、野老村童までも見聞する、

しかしながら祖師航海の行持にすくはるるなり。

西天と中華と、土風はるかに勝劣せり、方俗はるかに邪正あり。

大忍力の大慈にあらずよりは、伝持法蔵の大聖むかふべき処在にあらず。

住すべき道場なし、知人の人まれなり。

しばらく嵩山に掛錫すること九年なり。

人これを壁観婆羅門といふ。

史者これを習禅の列に編集すれども、しかにはあらず。

仏仏嫡嫡相伝する正法眼蔵、ひとり祖師のみなり。


注:

金陵: 江蘇省の地名。最初包容県に金陵郷かあり、

後、江寧を金陵府と名付けた。

別に建康の異名であるという説があり、

現在では南京の雅称に使われている。 

梁武:梁の武帝。梁は502年から557年まで続いた王朝。

武帝はその第一祖蕭衍

(しょうえん、464〜549、在位:502〜549)。

始め斎の雍州における地方長官であったが、後に帝位を奪って即位した。

若い時から学問を好み、かつ仏教の研究にも努力した。

しかし侯景の謀反に会って餓死した。

在位48年。 

   
図13

図13 梁の武帝 


   
図14

図14  達磨大師 


度: 僧尼に許可の証状を与える。 

勝: すべてを。

紀: しるす。記と同じ。

人天小果:  人間界・天上界の小さな果報。 

有漏之因:  煩悩を起す原因。

浄智妙円: 清浄な智慧が徴妙に行きわたりしかも円満であること。  

体自空寂: 身体が何の作為を加えなくても自然に安定しており、

何らの障害もないこと。 

世を以て求めず: 世俗的なあくせくとした努力では

求めることができない。 

聖諦:  聖者釈尊が説いた真理。 

第一義諦: 最も基本的な真理。

廓然無聖: 明々白々として神秘的な何物もない。

不識: 知らぬ、わからぬ。

達磨大師自身、自己の本質(真の自己)を言葉で表現することはできない。 

領悟: たちまちさとること。はっと悟ること。

機: 機縁、とき、おり、機会、きっかけ。

江北: 揚子江の北側。

洛陽: 洛水の北に位置し、周公が王城をかまえた所。

東周・後漢・西曹・後魏・隋・五代などがいずれもここを都とした。

寓止:  寓はかりに住む、かりずまいをする。寓止は止宿。

魏主: 魏の国の国主。魏は王朝の名。

北魏とも後魏とも呼ぱれ、400年から535年まで続いた。

不肖: 肖は似る。

不肖は師匠や父に似ていないの意で、不敏の意を表わす。 

刹利種:  インドにおける四つの階級のうち、

第二に位するクシャトリア階級。王族・武人の階級であって、

支配階級を意味する。種は種族。 

慣熟: なれて巧みなこと、習熟。

菩提流支: 菩提流支三蔵。北インドから508年に洛陽に来た僧。

曇曜・勒那摩提らとともに北魏時代における代表的な経典漢訳者。

達磨大師への嫉妬から、大師の毒殺をはかったと伝えられている。 

救す: とめる、禁ずる。

光統律師: 後魏の僧で、十地経論の翻訳に参与しその註釈書を作り、

また四分律の興隆につとめた。

達磨大師の毒殺をはかったと伝えられている。

小人: 人物が小さい人。

一途: 一つの筋道。

   濫硫: 乱しけがすこと。

披毛戴角(ひもうたいかく): 毛皮をかぶっているものや

頭に角をはやしているもの。動物。 

土風: 風土的な仕来たり。

方俗: 地方的な風俗。

壁観婆羅門: 壁にむかって観照をしているバラモン僧。

史者: 歴史家。

習禅: 坐禅を練習することによって、

坐禅以外の何らかの目的を達成しようと努力する人々。


第二文段の現代語訳

初祖 達磨は、金陵に到着して梁の武帝に会うと、武帝は尋ねた

朕は即位以来、寺を建て、経を写し、僧を度するなど

言いきれないほど仏法に尽くして来た

これによってどんな功徳があるだろうか?」

師は言った、

すべて何の功徳もない。」

武帝は言った、

なぜ功徳が無いのか。」

師は言った、

そのようなことの功徳は、人間界や天上界に於ける小さな果報で

煩悩の原因となるものだ

影が形あるものに従うように、有るとしても真のものではない。」

武帝は言った、

それでは、まことの功徳とは、どのようなものか?」

師は言った、

清浄な智慧がまどかに具わり、安らかな静寂が得られることです

このような功徳は、世間で求めることは出来ない。」

武帝また尋ねた、

では仏法の聖なる第一の真理とはどのようなものか?」

師は言った、

心がからりと晴れ渡って、凡人も聖人も無い。」

武帝は言った、

朕と対話している、お前は一体何者なのだ。」

師は言った、

知りません。」

武帝は師が何を言っているのかわからず、

師もまた武帝とは機縁が適わないことを知った。

そこで師は、この10月19日に密かに揚子江の北へ行き、

その年の11月23日には洛陽に到着した。

そして、嵩山の少林寺に留まって壁に向かって坐し、

終日黙然としていた。

しかし、魏の国主も愚かで達磨のことを知らず、

それを恥とすべき道理も知らなかった。

初祖達磨は、南インドの王族の出身で、大国の皇子である。

大国の王宮では、その法が久しく習熟している。

小国の風俗は、そのような大国の帝王に見られると、

恥ずかしいこともあるが、初祖は心を動かさなかった。

この国(中国)を捨てず、人々を捨てなかった。

時に菩提流支の誹謗を受けても相手にせず、憎まなかった。

また光統律師の邪心を恨まず、聞くこともなかった。 

初祖には、このような功徳が多いが、東地(中国)の人間が、

もっぱら普通の三蔵法師や経論師のように思ったのは、

まことに愚かであった。

この国(中国)の人間が小人であったためである。

ある人が思うには、

禅宗と言って一つの教えを説いているが

そのほかの経論の師たちの言う所も

初祖の説く正法も、結局同じものだろう。」と。

 これは仏法を妄りに汚す愚か者の考えである。

初祖は、釈尊から二十八代目の正統な後継者である。

父王の大国を離れて、東地の人々を救済した初祖に、

誰が肩を並べることができるだろうか。

もし初祖がインドから来なければ、

東地の人々は、どうして仏の正法を見聞することが出来ただろうか。

ただ徒に無数の経文の教えに煩らわされていただけだっただろう。

現在、我々のような辺地遠方に住む、

毛に覆われ角を載せたような未開の者まで、

存分に正法を聞くことが出来る。

今では農夫や、村の老人から子供に至るまで仏法を見聞しているが、

これは要するに、初祖が航海して法を伝えた行持に救われているのである。

西方インドと中華では、風土に遙かに優劣があり、

習俗にも遙かに正邪の違いがある。

文化の劣る中華は大忍力の大慈悲がなければ、

法蔵を伝持する大聖者でも向かうべき場所ではないのだ。

初祖は住むべき道場も無く、知人も希なので、

とりあえず嵩山に止まって九年を過ごした。

人々は彼のことを

壁観婆羅門(壁を観ながら坐禅するバラモン僧)」と言った。

歴史家は、彼を習禅者の部類に編集したが、そうではない。

仏から仏へと相伝した正法眼蔵(仏法の真髄)を伝えた人は、

祖師達磨だけである。


第二文段の解釈とコメント


こここでは第一文段に続き中国禅初祖 菩提達磨の行持について、

特に菩提達磨と梁の武帝武帝蕭衍

(464〜549、在位:502〜549)の問答について述べている。

  歴史家は、達磨を習禅者の部類に編集したが、そうではない。

仏から仏へと相伝した正法眼蔵(仏法の真髄)を伝えた人は、

祖師達磨だけであると達磨の西来と伝法を高く評価している。  

第2文段の文章も易しく理解しやすい。

中国禅の初祖 達磨大師と武帝の問答については

碧巌録や従容録の公案に取り上げられているので参照されたい。


従容録第2則 達磨廓然を参照)。


碧巌録第1則 達磨廓然無聖を参照)。



3

 第3文段


原文3


  石門の林間録に云く、

「菩提達磨、初め梁より魏に之く。嵩山の下に経行し、少林に倚杖す。

面壁燕坐する已なり、習禅には非ず。

久しくして人 其の故を測ること莫し。

因て達磨を以て習禅と為す。

夫れ禅那は、諸行の一なるのみ、何ぞ以て聖人を尽すに足らん。

而も当時の人、之を以てす。

為史の者、又従って習禅の列に伝ね、枯木死灰の徒と伍ならしむ。

然りと雖も、聖人は禅那に止まるのみに非ず、而も亦 禅那に違せず。

易の陰陽より出でて、而も亦 陰陽に違せざるが如し」。

梁武初めて達磨を見し時、即ち問う、

如何ならんか是れ聖諦第一義。」

答えて曰く、

廓然無聖。」

進んで曰く、

朕に対する者は誰そ。」

又曰く、

不識。」

達磨をして方言に通ぜざらしめば、

則ち何ぞ是の時に於いて、能くしかあらしめんや。

石門林間録 覚範慧洪


注:

石門覚範慧洪(かくはんえこう)禅師: 姓は彭氏。瑞州高安県の人。

十四歳の時、父母を失い、十九歳のとき得度。石門の累徳寺に住み、

また瑞州の清涼寺に住んだ。

後、明白庵を創設してこれに住んだが、1128年死去。年58歳。

林間録二巻、禅林僧宝伝三十巻、高僧伝十二巻など著書が極めて多い。 

林間録:  覚範慧洪禅師が林間居士と協働で、

古人の言行・逸伝・聖訓・要語等、三百余項を集めたもの。

二巻からなり、1107年に刊行された。

石門林間録とも呼ばれている。 

倚杖(いじょう): 倚はよせる、たよる。

倚杖は錫杖をよせかけるの意。掛錫に同じ。寺院に逗留すること。 

燕坐(えんざ): 宴坐に同じ。坐禅のこと。

故: ことわり、道理。 

枯木死灰之徒: 枯れた木や生命を失った灰のように、

消極的な禁欲主義に徹して生命の躍動を失ってしまった連中。

伍: なかま、たぐい、同類。

禅那:  梵語dhyanaの音写。漢訳では定、静慮とも訳される。

仏教で心が動揺することがなくなった一定の状態を指す

心身が均衡し集中安定した状態に達するための瞑想法。禅定。 

易:  易学。陰陽の二つの力を根元として万象の変化を考える。

これに基づいて宇宙を統一的に観察し、人事を究明する学問。 

陰陽:  天地の間にあって万物を生ずる二つの力。

方言:  地方の言葉。ここでは中国語。



第3文段の現代語訳

覚範慧洪禅師の著作である林間録は次のように述べている。

「菩提達磨は、初め梁の国から魏の国へ赴いた。

そして嵩山のふもとに行き、少林寺に身を寄せた。

達磨は、終日壁に向かって坐禅するだけであったが、

それは単なる禅定の修練ではなかった。

長い間、人々はその意味を推し量ることはなかった。

そこで達磨を禅定を修練する者と考えた。

そもそも禅定とは、多くの修行法の中の一つである。

どうしてこれで、この聖人を言い尽くすことが出来ようか。

しかし当時の人は、このように考えたのである。

歴史家も又それに従い、彼を禅定を習練する者の部類に分類し、

枯れ木や冷えた灰のような者たちと同列に扱ったのである。

しかしながら、この聖人は、禅定だけに止まらず、

しかも禅定に背くことはない。

それは易が陰陽の二気から出て、

しかも陰陽に背かないようなものである」。

梁の武帝は、初めて達磨に会った時に尋ねた、

聖人の悟った第一義の真理とはどのようなものか?」

師は答えた、

心がからりと開けて凡人も聖人も無いことです。」

さらに武帝は尋ねた、

凡人も聖人も無いのなら、あなたは一体何者なのか?」

師は答えた、

知りません」。

もし達磨が中国の言葉に通じていなければ、

どうしてこの時に、このような対応が出来たであろうか。」


第3文段の解釈とコメント


この文段では覚範慧洪禅師の林間録を

引用して祖師西来の意味を議論している。

「中国に渡来した菩提達磨は、

梁から魏の国へ赴き、嵩山のふもとの少林寺に身を寄せた。

達磨は、終日壁に向かって坐禅するだけだったが、

それは単なる禅定の修練ではなかった。

しかし、人々はその意味を推量せず、

達磨を禅定を修練する習禅者と考えた。 

そもそも禅定は、一つ修行法に過ぎない。

習禅者と言う言葉で、

この聖人を言い尽くすことが出来ないにもかかわらず、

当時の人は、このように考えたのである。

歴史家も又それに従い、彼を禅定を習練する者の部類に分類し、

枯れ木や冷えた灰のような者たちと同列に扱った。

しかしながら、この聖人は、禅定だけに止まらず、

しかも禅定に背くことはない。

それは易が陰陽の二気から出て、

しかも陰陽に背かないようなものであると述べている。

嵩山のふもとの少林寺に身を寄せた達磨は終日壁に向かって坐禅するだけだった。

そこで人々は達磨を禅定を修練する者と考え、

禅定を習練する習禅者の部類に分類し、

枯れ木や冷えた灰のような者たちと同列に扱った。

後半部では、梁の武帝と達磨の会話を紹介し、

「もし達磨が中国の言葉に通じていなければ、どうしてこの時に、

このような対応が出来たであろうか。と述べ、

達磨は単なる習禅者ではなく、、中国に仏法の真髄である禅を伝えることを予め計画していたため

中国語を学んだのだと考えている。

この文段でも中国に渡来した達磨の行持について述べている。

達磨大師と武帝の問答については碧巌録や従容録の公案に取り上げられている。


従容録第2則 達磨廓然を参照)。


碧巌録第1則 達磨廓然無聖を参照)。


4

 第4文段


原文4


 しかあればすなはち、梁より魏へゆくことあきらけし。

嵩山に経行して少林に倚杖す。

面壁燕坐すといへども、習禅にはあらざるなり。

一巻の経書を将来せざれども、正法伝来の正主なり。

しかあるを史者あきらめず、習禅の篇につらぬるは至愚なり、かなしむべし。

かくのごとくして嵩山に経行するに、犬あり尭をほゆ、あはれむべし至愚なり。

たれのこころあらんか、この慈恩をかろくせん。

たれのこころあらんか、この恩を報ぜざらん。

世恩なほわすれず、おもくする人おほし。これを人といふ。

祖師の大恩は、父母にもすぐるべし、

祖師の慈愛は親子にもたくらべざれ。

われらが卑賤おもひやれば驚怖しつべし。

中土をみず、中華にうまれず、聖をしらず、

賢をみず、天上にのぼれる人いまだなし、人心ひとへにおろかなり。

開開よりこのかた化俗の人なし、国をすますときをきかず。

いはゆるは、いかなるか清、いかなるか濁としらざるによる。

二柄三才の本末にくらきによりて、かくのごとくなり。

いはんや五才の盛衰をしらんや。

この愚は眼前の声色にくらきによりてなり。

くらきことは経書をしらざるによりてなり、経書に師なきによりてなり。

その師なしといふは、この経書、いく十巻といふことをしらず、

この経、いく百偈、いく于言としらず、

ただ文の説相をのみよむ、いく予偈、いく万言といふことをしらざるなり。

すでに古経をしり、古書をよむがごときは、すなはち慕古の意旨あるなり。

慕古のこころあれば、古経きたり現前するなり。

漢高祖、および魏太祖、これら天象の偈偶をあきらめ、

地形の言をつたへし帝者なり。

かくのごときの経典、あきらむるとき、いささか三才あきらめきたるなり。

いまだかくのごとくの聖君の化にあはざる百姓のともがらは、

いかなるを事君とならひ、いかなるを事親とならふとしらざれば、

君子としてもあはれむべきものなり、親族としてもあはれむべきなり。

臣となれるも、子となれるも、尺璧もいたづらにすぎぬ、

寸陰もいたづらにすぎぬるなり。

かくのごとくなる家門にうまれて、国土のおもき職、

なほさづくる人なし、かろき官位なほをしむ。

にごれるときなほしかあり、すめらんときは見聞もまれならん。

かくのごときの辺地、かくのごときの卑賤の身命をもちながら、

あくまで如来の正法をきかんみちに、

いかでかこの卑賤の身命ををしむこころあらん。

をしんでのちに、なにもののためにかすてんとする。

おもくかしこからん、なほ法のためにをしむべからず、

いはんや卑賤の身命をや。

たとひ卑賤なりといふとも、為道為法のところに、

をしまずすつることあらば、上天よりも貴なるべし、

翰王よりも貴なるべし。

おほよそ天神地祇、三界衆生よりも貴なるべし。

しかあるに、初祖は南天竺国香至王の第三皇子なり。

すでに天竺国の帝胤なり、皇子なり。

高貴のうやまふべき、東洛辺国には、

かしづきたてまつるべき儀も、いまだしらざるなり。

香なし華なし、坐褥おろそかなり、殿台つたなし。

いはんやわがくには遠方の絶岸なり、

いかでか大国の皇をうやまふ儀をしらん。

たとひならふとも、迂曲してわきまふべからざるなり。

諸侯と帝者と、その儀ことなるべし、

その礼も軽重あれども、わきまへしらず。

自己の貴賤をしらざれば、自己を保任せず。自己を保任せざれば、

自己の貴賤、もともあきらむべきなり。


注:

将来:もちきたす、もたらす。

正主:  正統の主人。 

犬: 菩提流支三蔵や光統律師など

達磨大師に対して迫害を加えた人々を指す。 

尭(ぎょう):尭は中国の古代における名君の名。

ここでは尭のようにすぐれた人物。 

慈恩: 慈悲深い恩。

世恩:  世間的な恩義。

たくらぶ:  くらべる、比較する。

中土: 中国。

中華:中国の文化。

化俗:俗人を教化すること。

二柄:  天と地。

三才:  天・地・人の三つをいう。才ははたらき。

本末: もととすえ。始と終。

五才: 木・火・土・金・水の五つ。即ち、五行のこと。

声色: 耳や眼でとらえ得るもの。

経書:経典や書籍。

説相:   説かれていることの外見的な意味。

慕古:  古人を慕うこと。

漢高祖: 漢の国の創始者。劉邦。 

魏太祖:魏の武帝。曹操。

天象の偈:日月星辰が物語っている詩。

百姓: 多くの民、人民、庶民。 

事君: 君につかえること。

ならふ: 教えられて自分の身につける。まなぶ。 

事親: 親につかえること。

君子:  君主。 

尺璧:  直径が一尺もあるような宝玉。

家門:  家柄。 

みち:  途中。

上天:  天帝、上帝、天の神。 

輪王: 転輪聖王。  

天神地祗:天の神と地の神。



第4文段の現代語訳


このように、達磨は梁から魏へ行ったことは明らかである。

嵩山に行き、少林寺に止まった。

そして壁に向って坐禅したが、それは禅定の習錬ではなかった。

師は一巻の経書も将来しなかったが、正法を伝来した正統な教主である。

しかし、歴史家はこのことを明らかにせず、

禅定を習錬する者達の部類に分類したのは、

まことに愚かで、悲しむべきである。

このようにして師は嵩山に行ったが、

盗人の犬が聖天子の堯を吠えたように、師を誹謗する人達もいた。

哀れむべき人物であり、まことに愚かである。

心ある人ならば、誰がこの師の慈恩を軽んじるだろうか。

心ある人ならば、誰がこの師の恩に報いないでいられようか。

世間の恩を忘れることなく、大切にする人は多い、これを人と言うのだ。

祖師の大恩は、父母の恩よりも勝れている。

祖師の慈愛は、親子にも比べられない。

日本に住む我々が卑賤なことは、思えば恐ろしいほどだ。

中国の国土を見たことが無く、中華という文化国に生まれず、

聖人を知らず、賢者を見ず、天上に上った人が未だ無く、

人の心はまったく愚かである。

国土を開いて以後、世俗を教え導く人はなく、

国が澄んだ時を聞いたことがない。

それは、どのようなことが澄むことで、

どのようなことが濁ることであるかを知らないからだ。

天子による政治や、

天と地と人の本末の道理に暗いからこのようになるのである。

まして万物を構成する木火土金水による世の盛衰を知らない。

この愚は、眼前の見聞するものなど、万境の真実に暗いことが原因である。

暗いのは、経書を知らないからであり、経書に明るい師がいないからである。

そのような師がいなければ、この経書は幾十巻ということを知らず、

この経は幾百偈、幾千言であると知らず、ただ文章の皮相だけを読むのだ。

そこに幾千偈、幾万言が説かれていることを知らないのである。

既に、古経を知り、古書を読んでいる人は、古人を慕う志がある。

古人を慕う心があれば、古経はやって来て目前に現れる。

漢の高祖や魏の太祖などは、天文の説く偈文を明らかにし、

地形の説く言葉を伝えた帝王である。

このような経典を明らかにする時、

ほんの少し天地と人を明らかに出来るのである。

まだこのような優れた君主の徳化に会わない多くの人民は、

どうすることが君主に仕えることで、

どうすることが親に仕えることであるかを知らないので、

臣下としても哀れであり、子としても哀れである。

これでは臣下となっても子となっても、

貴重な一尺の宝玉でさえ無用なものとし、

大切な少しの時間も無駄に過ごしてしまう。

このような家門に生まれ育った人に、国の重職を授ける人はいないし、

軽い官位さえ惜しむだろう。

世が乱れた時でもそうであり、世の澄んだ時には、

めったに聞くことは無いだろう。

このような辺地日本で、卑賤の身でありながら、

思う存分 如来の正法を聞く道に、

どうしてこの卑賤の身を惜しむことがあろうか。

惜しんだ後に、この身を何のために捨てるというのだろうか。

身分の高い賢人は、法のために身を惜しんではならない。

まして卑賤の身は尚更のことである。

たとえ卑賤の身であっても、道と法のために、

身を惜しまず捨てるならば、天上界の人よりも貴いだろう。

世界を治める転輪聖王よりも貴いことでしょう。

およそ天地の神よりも、この世界の誰よりも貴いことだろう。

それに、初祖 達磨は、南インド国 香至王の第三皇子である。

現にインド国王の子孫で、皇子である。

高貴な人を迎えるには、尊敬して礼を尽くすべきだが、

東方の辺国には、賓客を大切にもてなす礼法も、まだ知られていなかった。

香も花もなく、敷物も粗末であり、宮殿も粗末だった。

まして我が日本国は、海を隔てた遠方の地であり、

どうして大国の王を敬う礼法を知っているだろうか。

たとえ学んでも、まごついて分らないだろう。

諸侯と帝王とでは、その礼法は異なり、

軽重があるが、それをわきまえない。

自己の貴賤を知らなければ、自己を保つことは出来ない。

自己を保つことが出来ないならば、

まず自己の貴賤を先ず明らかにするべきである。



第4文段の解釈とコメント


達磨大師は嵩山に行ったが、師を誹謗し迫害するする人達もいた。

達磨は単なる習禅の徒ではなく、正法を伝来した正統な教主だったが、

歴史家はこのことを明らかにせず、

禅定を習錬する者達の部類に分類したのは、

まことに愚かで、悲しむべきだ。

達磨大師の恩は、父母の恩よりも勝れ、その慈愛は、親子にも比べられないと、達磨大師を高く評価している。


また道元は、中華文明に比べ、、日本と日本人の現状を以下のように低く評価し嘆いているのが注目される。


日本人が卑賤なことは、思えば恐ろしい。

中国の国土を見たことが無く、中華という文化国に生まれず、

聖人を知らず、賢者を見ず、天上に上った人が未だ無い。

人の心はまったく愚かである

国土を開いて以後、世俗を教え導く人はなく、国が乱れ、澄んだ時を聞いたことがない。

それは、どのようなことが澄むことで、

どのようなことが濁ることであるかを知らないからだと嘆いている。

天子による政治や、天と地と人の本末の道理に暗いからこのようになる。

まして万物を構成する五行(木火土金水)による世の盛衰を知らない。

と中国の古代思想である陰陽五行思想を世の盛衰を知るための先進的学問や道理として評価しているのが注目される。

   

このように道元は日本人は文明の高い中華文明を持つ中国人に比べ

卑賤で文化を知らず

人心はまったく愚かであると述べている。

これは道元が生きた13世紀の日本と日本人についての自虐的評価と意見と言えるだろう。

   

しかし、それから800年くらい経った21世紀ではこの評価は逆転しているのではないだろうか。

   

まさに世の無常と盛衰の激しさに驚かされる。

この愚かさは、眼前の見聞する万境の真実に暗いことが原因である。

暗いのは、経書を知らず、経書に明るい師がいないからである。

そのような師がいなければ、この経書は幾十巻ということを知らず、

この経は幾百偈、幾千言であると知らず、ただ文章の皮相だけを読むのだ。

そこに幾千偈、幾万言が説かれていることを知らない。

既に、古経を知り、古書を読んでいる人は、古人を慕う志がある。

古人を慕う心があれば、古経はやって来て目前に現れる。

漢の高祖や魏の太祖などは、天文の説く偈文を明らかにし、

地形の説く言葉を伝えた帝王である。

このような経典を明らかにする時、ほんの少し天地と人を明らかに出来る

のであると経典や書物の大切さを説いている。

まだ優れた君主の徳化に会わない多くの人民は、

どうすることが君主に仕え、親に仕えることかを知らないので、

臣下として、子としても哀れであると述べている。

これでは臣下や子となっても、

貴重な一尺の宝玉でさえ無用なものとし、

大切な少しの時間も無駄に過ごしてしまう。

このような家門に生まれ育った人に、

国の重職を授ける人はいないし、軽い官位さえ惜しむだろう。

世が乱れた時でもそうであり、

世の澄んだ時には、めったに聞くことは無いだろう。

それに、初祖 達磨は、南インド国 香至王の第三皇子である。

現にインド国王の子孫で、皇子という高貴な人である。

高貴な人を迎えるには、尊敬して礼を尽くすべきだが、

東方の辺国には、賓客を大切にもてなす礼法も、まだ知られていなかった。

香も花もなく、敷物も粗末であり、宮殿も粗末だった。

まして我が日本国は、海を隔てた遠方の地であり、

どうして大国の王を敬う礼法を知っているだろうか。

たとえ学んでも、まごついて分らないだろう。

諸侯と帝王とでは、その礼法は異なり、軽重があるが、それをわきまえない。

自己の貴賤」を知らなければ、自己を保つことは出来ない。

自己を保つことが出来なないならば、

まず自己の貴賤を先ず明らかにするべきである。

ここで

自己の貴賤」を知り明らかにすべきだと述べている。

貴賤とは 貴いことと、卑しいこと、

また、身分の高い人と低い人という意味である。

しかし、現代の日本には貴族制度のような身分制度はない。

僧侶と世俗人を比べても、

「職業に貴賤なし」といわれるように両者は平等である。

このような状態から、「自己の貴賤」を知り

明らかするという意味が分かり難いところがある。

ここでは貴賤とは心が貴いことと、

卑しいことだと考えるしかないだろう。

これは、

参禅修行によって卑しい心を仏のような高貴な心に転換するように説いていると考えることができるだろう。

    5

 第5文段


原文5

 初祖は、釈尊第二十八世の付法なり、

道にありてよりこのかた、いよいよおもし。

かくのごとくなる大聖至尊、なほ師勅によりて身命ををしまざるは、

伝法のためなり、救生のためなり。

真丹国にはいまだ初祖西来よりさきに、嫡嫡単伝の仏子をみず、

嫡嫡面授の祖面を面授せず、見仏いまだしかりき。

のちにも初祖の遠孫のほか、さらに西来せざるなり。

曇花の一現は、やすかるべし、年月をまちて算数しつべし、

初祖の西来は、ふたたびあるべからざるなり。

しかあるに祖師の遠孫と称するともがらも、

楚国の至愚にゑふて玉石いまだわきまへず、

経師論師も斉肩すべきとおもへり。

少聞薄解によりてしかあるなり。

宿殖般若の正種なきやからは、祖道の遠孫とならず、

いたづらに名相の邪路にレイヘイするものあはれむべし。

梁の普通よりのち、なほ西天にゆくものあり、

それなにのためぞ、至愚のはなはだしきなり。

悪業のひくによりて他国にレイヘイするなり。

歩歩に誘法の邪路におもむく、歩歩に親父の家郷を逃逝す。

なんだち西天にいたりてなんの所得かある、ただ山水に辛苦するのみなり。

西天の東来する宗旨を学せず、仏法の東漸をあきらめざるによりて、

いたづらに西天に迷路するなり。

仏法をもとむる名称ありといへども、仏法をもとむる道念なきによりて、

西天にしても正師にあはず、いたづらに論師経師にのみあへり。

そのゆゑは、正師は西天にも現在せれども、

正法をもとむる正心なきによりて、正法なんだちが手にいらざるなり。

西天にいたりて正師をみたるといふたれか、

その人いまだきこえざるなり。

もし正師にあはば、いくそばくの名称をも自称せん、

なきによりて自称いまだあらず。


注:

 付法:仏法の悟りの真理を付与された人。 

師勅: 師匠の命令。 

救生: 衆生を救済すること。 

見仏: 仏に会うこと。

曇花:  :優曇華。インドにおける想像上の植物。

3000年に一度花が咲くといい、その時に転輪聖王が現世に出現するという。

楚国の至愚:中国において楚と

呼ばれた国は大小七箇国ほど存在するが、

ここにいう楚国がその中のどれに該当するかははっきりしない。

楚国の至愚とは、達磨大師の流れを汲む僧侶でありながら、

坐禅を中心とした仏教も経典や論蔵を中心とした仏教も、

究極においては相違がないことを主張した僧侶を指している。

少聞薄解:見聞が少なく、理解が浅薄であること。 

宿殖般若:   長年にわたって正しい智慧を増殖すること。

正種:  正しい素質。 

レイヘイ:  さまよい歩くこと。

梁の普通: 達磨大師が中国に渡来した時の年号(520年 〜 527年)。

家郷:ふるさと、故郷。

逃逝(とうぜい):  逃げて行くこと。 

なんだち:お前たち。

辛苦:  ひどく苦しむこと。 

道念:真理を得ようとする念願。

いくそばく: どんなにたくさん。

自称:自然に名前が聞えて来ること。



第5文段の現代語訳

初祖は、釈尊から第二十八代の法の相続者である。

仏道に入ってからは、いよいよ重要な人になった。

そのような尊い大聖人(達磨)が、更に師のいましめに従って、

身命を惜しまず中国へ渡ったのは、法を伝え、人々を救うためだった。

中国には、初祖達磨がインドから来る以前に、

釈尊から連綿と相伝された法を伝える仏弟子はいなかった。

そのため、代々法を相伝した師から直接法を受ける面綬はなかった。

また仏を見たこともない。

その後も、初祖の遠孫以外は、インドから西来した人は誰もいないのである。

三千年に一度咲くという優曇華の花が現れるのは、難しいことではない。

それは年月を数えて待てばよいからだ。

しかし、初祖がインドからやって来た西来は、もう二度とないのだ。

それなのに、祖師 達磨の遠孫と名乗る者たちも、

楚国の愚人が玉と石の違いを正しく知らなかったように、

経典や論書を講じる師も初祖と等しく肩を並べる人であろうと考えている。

これは仏法を聞くこと少なく理解が浅いからである。

過去世に、正しい悟りの智慧の種を植えなかった者たちが、

祖師の道の法孫とならずに、徒に教理を詮索する

誤った道にさ迷う者となることは、哀れなことである。

達磨が来た梁の普通八年(527年)以降にも、

依然として西方インドへ仏法を学びに行く者がいた。

それは何のためだろうか。

甚だ愚かだ。

その者等は己の悪業に引かれて、他国をさ迷っているのである。

その者は、一歩一歩、仏法を謗る邪道に向かい、

一歩一歩、父親の家郷から逃げているのだ。

お前達はインドに行って、何か得る所があったか。

ただ山水を渡る旅に苦労しただけだ。

達磨大師が、東方の中国へ来た真意を学ばなければ、

仏法の東漸が分からないので、徒にインドで仏法に迷うのだ。

仏法を求めるという名目があっても、仏法を求める道心がないので、

インドに行っても正師に会わず、徒に論師や経師だけに会うのだ。

その理由は、正師はインドにもいるけれど、

道心がないので、正法はお前達の手に入らないのだ。

その証拠に、インドに行って正師に会ったという人がいるとは、

まだ聞いたことがない。 もし正師に会ったならば、数多くその名を言うだろう。

しかし、誰も会っていないから言わないのだ。

第5文段の解釈とコメント

この第5文段でも達磨大師の行跡について述べている。

文章や内容に難解なところはない。

中国禅の初祖達磨は、釈尊から第二十八代の法の相続者である。

達磨が、般若多羅尊者の命令に従って、中国へ渡ったのは、伝法と人々を救うためだったとしている。

中国には、初祖達磨がインドから来る以前に、

釈尊から連綿と相伝された法(禅)を伝える仏弟子はいなかった。

そのため、代々法を相伝した師から直接法を授ける面授はなかった。

また見性した人もいない。

その後も、インドから西来した人には誰も見性した人もいない。

三千年に一度咲くという優曇華の花が現れるのは、難しいことではない。

それは年月を数えて待てばよいからだ。

しかし、初祖がインドからやって来た西来という事跡は、もう二度とないのだ。

それなのに、祖師 達磨の遠孫と名乗る者たちも、

楚国の愚人が玉と石の違いが分からなかったように、

経典や論書を講じる師も初祖と同じような人であろうと考えている。

それは仏法に対する理解が浅薄だからだ。

過去世に、正しい般若の智慧の種を植えなかった者たちが、

祖師の道に入らず、徒に教理を詮索する名相の邪道に迷うのは、哀れだ。

祖師西来の梁の普通八年(527年)以降にも、

依然として西方インドへ仏法を学びに行く者達がいた。

それは何のためだろうか。甚だ愚かだ。

その者達は己の悪業に引かれて、他国をさ迷っている。

と述べている。

その者達は、一歩一歩、仏法を謗る邪道に向かい、

一歩一歩、父親の家郷から逃げているようなものだ。

彼等はインドに行っても、何も得ることなく、

ただ山水を渡る旅に辛苦するだけだ。

達磨大師が正しい仏法を中国に伝えたので、もう、インドへ仏法を学びに行く必要が無くなったのである。

それを分らずに依然として

、西方インドへ仏法を学びに行くのは無意味で、甚だ愚かな行為である

と述べている。

達磨大師が、東方の中国へ来て伝法した真意を学ばず、

仏法の東漸を理解していないので、

インドに行っても徒にインドで仏法に迷うことになる。

仏法を求めたという名誉があるだけで、

真の仏法を求める真の道心が無いので、インドに行っても正師に会わず、徒に論師や経師だけに会うことになる。


その理由は、正師はインドにもいるが、真の道心がないので、正法を入手できないのだ。

その証拠に、インドに行って正師に会ったという人がいるとは、まだ聞いたことがない

正師に会って真の仏法である禅を学ぶことの重要さを強調している。

もし正師に会ったならば、数多くその名を言うだろう。

しかし、誰も会っていないから言わないのだ。

ここでは、達磨大師が仏法を中国に伝えた以上、

西方インドへ仏法を学びに行っても正師に会わない限り

インドで仏法を学ぶことはできないと述べている。

実際インドに行って正師に会ったという人を聞かないと述べている。

この道元の考え方に立てば、玄奘(602〜664)は

629年陸路で唐からインドに向かい、巡礼や経論の研究を行い645年に帰還した。

しかし、彼は657部の経典や仏像などを持って帰国したかも知れないが、

インドに行っても正師に会わず、正しい仏法を入手できず、

ただ山水を渡る旅に苦労しただけという評価になるだろう。

インドから仏教が伝来して以降、中国では信者が増大して行く。

それと共に、仏法を求め、インドへ旅立った僧侶達がいた。

ここでは、その代表的な僧侶たち三人のインド旅行と人生を見てみよう。


インドを訪問した求法僧たち


法顕


法顕(337頃〜422頃)は、東晋の僧侶である。

その人となりは「志行明敏、儀軌整粛なりといわれた。

仏教の学究を進めるにしたがい、経典の漢語訳出にくらべて

戒律が中国仏教界において完備しておらず、

経律ともに錯誤や欠落があるのに気付き嘆いていた。

399年に長安を出発し、戒律の原典を探す旅にでた。

行きは陸路で西域を通り、6年をかけて、

中インド(中天竺)に達し、王舎城などの仏跡をめぐった。

『摩訶僧祇律』、『雑阿毘曇心論』などを得て、

さらにスリランカにわたり、『五分律』、『長阿含経』などをもとめた。

当時の王はチャンドラグプタ2世(在位:376頃〜415頃)で、

中国では超日王と紹介されている。

法顕はインドで様々な仏教経典を手に入れると、

帰りはスリランカから海路で中国に戻った。

建康で仏陀跋陀羅に出会い、

法顕が持ち帰った『大般涅槃経』等が訳出され、涅槃宗成立の基となった。

『摩訶僧祇律』40巻も訳された。法顕は荊州江陵の辛寺で没した。

享年86。没後、『五分律』も仏陀什が訳した。

帰国後、法顕は『仏国記』というインドの旅行記を著した。

『仏国記』は、仏教史はもちろん、

インド史・中央アジア史・南洋諸島史などの研究にとっても、

極めて貴重な史料を提供している。


玄奘


玄奘(602〜664)は唐代の僧侶である。

629年に国禁の国外旅行を強行し、陸路で西域経由でインドに赴いた。

当時のインドはハルシャ=ヴァルダナ(在位:606〜647)

の統治するヴァルダナ朝であった。

ハルシャ王は中国では戒日王と呼ばれる。

玄奘は5世紀にグプタ朝が建立した仏教学院のナーランダー僧院で五年間

戒賢に師事して唯識学を学び、また各地の仏跡を巡拝した。

  その後インド各地で経典・仏像などを収集し、645年に陸路で帰国した。

帰国後、太宗の側近となって国政に参加するよう求められたが、

彼は国外から持ち帰った657部の経典の翻訳を第一の使命と

考えていたため太宗の要請を断り、太宗もこれを了承した。

帰国した玄奘は、持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げた。

太宗の勅命により、玄奘は貞観19年(645年)

から弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始した。

、仏典の漢訳に努めた玄奘は、法相宗を開いた。

また、自らの旅行記を『大唐西域記』にまとめた。

これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。

尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖

あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。

玄奘は後の明代に成立した『西遊記』の三蔵法師のモデルである。


義浄


義浄(635〜713)は唐の僧侶である。

671年に広州から海路でインドに赴いた。

これは玄奘とは違うルートである。

幼くして出家し、15歳の時(649年(貞観23年))には西域行を志し、

法顕や玄奘の行跡を思慕していたという。

玄奘と同じく、ナーランダー僧院で学び、

400部、50万頌のサンスクリットの経律論、仏典を収集した。

帰国は海路で、南海諸国を経由して東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国に

滞在したあと、695年に海路で帰国し、56部230巻にのぼる仏典の漢訳を果たした。

義浄は『南海寄帰内法伝』という旅行記をシュリーヴィジャヤ王国滞在中に著した。

『南海寄帰内法伝』は

当時のインドから東南アジア地域の様子を伝える重要な資料

  として高く評価されている。


コメント


  道元禅師の考え方に立てば、

以上紹介した法顕、玄奘、義浄の3名は

インドに行っても正師に会わず、正しい仏法を入手できていない。

従って、

彼等はいたずらに山水を渡る旅に苦労しただけにすぎない

という評価になるかも知れない。

しかし、この3名の行跡や後世に与えた影響を見る限り、

道元禅師の考え方は真面目であっても、少し視野が狭く、

三名はそのような観方に収まらないように思われる。

もう少し考え方と視野を広げて多様な生き方を認めても良いように思われる。


6

 第6文段


原文6

 また真丹国にも、祖師西来よりのち、

経論に倚解して正法をとぶらはざる僧侶おほし。

これ経論を披閲すといへども、経論の旨趣にくらし。

この黒業は今日の業力のみにあらず、宿生の悪業力なり。

今生つひに如来の真訣をきかず、如来の正法をみず、

如来の面授にてらされず、如来の仏心を使用せず、

諸仏の家風をきかざる、かなしむべき一生ならん。

隋・唐・宋の諸代、かくのごときのたぐひおほし。

ただ宿殖般若の種子ある人は、不期に入門せるも、

あるは算砂の業を解脱して、祖師の遠孫となれりしは、

ともに利根の機なり、上上の機なり、正人の正種なり。

愚蒙のやから、ひさしく経論の神苑に止宿するのみなり。

しかあるに、かくのごとくの嶮難あるさかひを辞せずといはず、

初祖西来する玄風、いまなほあふぐところに、

われらが臭皮袋ををしんで、つひになににかせん。


注:

震旦国: 中国の異称。

倚解(いげ): 理解にたよること。

披閲: ひらいて読むこと。

黒業:誤まった行為。

業力: 行為から生まれた影響力。

宿生: 長年の生涯。

真訣: 真の奥義。

愚蒙(ぐもう):おろかで無智な人々。

嶮難(けんなん): けわしく難儀なこと。


第6文段の現代語訳

また祖師達磨がインドから正法を伝えた後でも、

中国にも、仏法を経典や論書を拠り所に解釈して、

祖師の正法を尋ねない僧侶が大勢いた。

これらの人々は、経典 論書を開いて読んでも、

経典 論書の真意に暗くよく知らない。

このように、祖師の正法を学ぶことの出来ない悪業は、

現在の業だけでなく、過去の悪業の報いである。

今生に、如来の修行の秘訣を聞かず、如来の正法を見ず、

如来が面授した法に照らされず、如来の仏心を用いず、

諸仏の家風を聞かないことは、悲しむべき一生である。

随、唐、宋の時代にも、このような人たちは多かった。

ひたすら過去世に悟りの智慧の種子を植えた人々は、たまたま仏道に入門しても、

ある者は数限りない業を解脱して、祖師 達磨の法孫となることが出来た。

これは、皆優れた資質の持ち主であったからであり、

最上の機根を持った人だったからであり、

正直な人間として正法を継ぐ人だったからである。

愚かな人々は、長い間、経典 論書の教えの中に止まっているだけだ。

それなのに、このような険しく困難な国に、拒まず、嫌わず、

渡って来た初祖の奥深い宗風を、今、敬い学ぶのに、

我が身を今更惜しんでどうするのか。

第6文段の解釈とコメント

祖師達磨がインドから中国に正法を伝えた後でも、

仏法を経典や論書を拠り所に解釈して、

祖師の正法を尋ねない僧侶やその真意分らない者達が大勢いた。

達磨の正法を学ぶことの出来ないのは、現在の業だけでなく、

過去の悪業の報いであると、達磨の正法が分からないのは悪業の報いである。

と考えている。

随、唐、宋の時代にも、このような人たちは多かった。

随、唐、宋の時代にも仏法を経典や論書を拠り所に解釈して、

祖師達磨の正法を知らず尋ねない僧侶が大勢いた。

祖師達磨の正法を学ぶことの出来ないのは、

現在の業だけでなく、

過去の悪業の報いであると、伝統的な因果応報説で説明しているのが印象的である。

ひたすら過去世に悟りの智慧の種子を植えた人々は、

たまたま仏道に入門しても、数限りない業を解脱して、

祖師 達磨の法孫となることが出来た。

これは、優れた資質と最上の機根の持ち主であり、

正直な人間として正法を継ぐ人だったからである。

愚かな人々は、長い間、経典 論書の教えの中に止まっているだけだ。

それなのに、このような険しく困難な国に渡って来た

初祖達磨の奥深い宗風を学ぶのに、

我が身を惜しんでどうするのかと、達磨が伝えた正法を真摯に学ぶべきだと強調している

のが印象的である。


7

 第7文段


原文7

香厳禅師いはく、

百計千方只為身為にす、

知らず、身は是れ塚中の塵なることを

言うこと莫れ 白髪に言語無しと

此れは是れ黄泉伝語の人

しかあれはすなはち、をしむにたとひ百計千方をもてすといふとも、

つひにこれ塚中一淮の塵と化するものなり。

いはんやいたづらに小国の王民につかはれて、

東西に馳走するあひだ、千辛万苦、いくばくの身心をかくるしむる。

義によりては身命をかろくす、殉死の礼わすれざるがごとし。

恩につかはるる前途、ただ暗頭の雲霧なり。

小臣につかはれ、民間に身命をすつるもの、むかしよりおほし。

をしむべき人身なり、道器となりぬべきゆゑに。

いま正法にあふ、百千恒沙の身命をすてても、正法を参学すべし。

いたづらなる小人と、広大深遠の仏法と、

いづれのためにか身命をすつべき。

賢不肖ともに進退にわづらふべからざるものなり。

しづかにおもふべし、

正法よに流布せざらんときは、

身命を正法のために抛捨せんことをねがふともあふべからず、

正法にあふ今日のわれらをねかふべし。

正法にあふて身命をすてざるわれらを漸愧せん。

はづべくばこの道理をはづべきなり。

しかあれば、祖師の大恩を報謝せんことは、一日の行持なり。

自己の身命をかへりみることなかれ。

禽獣よりもおろかなる恩愛、をしんですてざることなかれ。

たとひ愛惜すとも、長年のともなるべからず。

あくたのごとくなる家門、たのみてとどまることなかれ、

たとひとどまるとも、つひの幽棲にあらず。

むかし仏祖のかしこかりし、

みな七宝千子をなげすて、玉殿朱楼をすみやかにすつ。

涕唾のごとくみる。糞土のごとくみる。

これらみな古来の仏祖の、古来の仏祖を報謝しきたれる知恩報恩の儀なり。

病雀なほ恩をかすれず、三府の環よく報謝あり。

窮亀なほ恩をわすれず、余不の印よく報謝あり。

かなしむべし、人面ながら畜類よりも愚劣ならんことは。

いまの見仏聞法は、仏祖面面の行持よりきたれる慈恩なり。

仏祖もし単伝せずば、いかにしてか今日にいたらん。

一句の恩、なほ報謝すべし、一法の恩、なほ報謝すべし。

いはんや正法眼蔵無上大法の大恩、これを報謝せざらんや。

一日に無量恒河沙の身命すてんことねがふべし。

法のためにすてんかばねは、世世のわれら、かへりて礼拝供養すべし。

諸天龍神、ともに恭敬尊重し守護讃歎するところなり、

道理それ必然なるがゆゑに。

西天竺国には、髑髏をうり髑髏をかふ婆羅門の法、ひさしく風聞せり。

これ聞法の人の儒饉形骸の功徳、おほきことを尊重するなり。

いま道のために身命をすてざれば、聞法の功徳いたらず。

身命をかへりみず聞法するがごときは、

その聞法成熟するなり、この髑髏は尊重すべきなり。

いまわれら、道のためにすてざらん髑髏は、

佗日にさらされて野外にすてらるとも、たれかこれを礼拝せん、

たれかこれを売買せん。今日の精魂、かへりてうらむべし。

鬼の先骨をうつありき、天の先骨を礼せしあり。

いたづらに塵土に化するときをおもひやれば、

いまの愛惜なし、のちのあはれみあり。

もよほさるるところは、みん人のなみだのごとくなるべし。

いたづらに塵土に化して、大にいとはれん髑髏をもて、

よくさいはひに仏正法を行持すべし。

このゆゑに、寒苦をおづるなかれ、

寒苦いまだ人をやぶらず、寒苦いまだ道をやぶらず。

ただ不修をおづべし、不修それ人をやぶり道をやぶる。

不修よく人をやぶり道をやぶる。

暑熱をおづることなかれ、

暑熱いまだ人をやぶらず、暑熱いまだ道をやぶらず。

不修よく人をやぶり道をやぶる。

麦をうけ蕨をとるは、道俗の勝雨なり。

血をもとめ乳をもとめて、鬼畜にならはざるべし。

ただまさに行持なる一日は諸仏の行履なり。


注:

香厳禅師: 香厳智閑禅師(?〜898)。イ山霊祐禅帥の法嗣。

百計:  多数の計画。

千方: 多数の方策。  

白髪: しらが、しらがの人。 

黄泉: 死者の行く所、冥土。

化す: 変化する。

義:  ただしさ、正義。

殉死: 君主・親族の死んだあとを追って、

臣下・親族などが自殺すること。  

つかふ: 用をさせる、はたらかせる、使役する。  

暗頭の雲霧: 明晰でない頭に

さらに雲や霧がかかっているような状態。

道器:  真理のうつわ。

恒沙: 恒河沙のこと。恒河はガンジス河。

恒河沙とはガンジス河の砂の意で、極めて大きな数を比喩的に表わす。

抛捨(ほうしゃ): 投げ捨てること。 

あくだ: 腐って捨てられたもの、ごみ、ちり、くず。 

玉殿赤楼: 貴い石で飾られた建物や朱で塗りたてられた高殿。

涕唾(ていだ): なみだやつばき。

病雀:  続斉諧記に見える説話。

楊宝という者が九歳の時、傷ついた黄色い雀を助けたが、

これが西王母の使いであって、楊宝に四つの白い環を与え、

後に楊宝を三公の位につかせたという。

三府の環: 三府は三公の府。

黄雀が楊宝に白い環を与えて、楊宝を三公の位につかせたことを指す。 

報謝: 報恩感謝。 

窮亀:晋書列伝に見える説話。

孔愉というものが、ある時亀を助けたが、後に余不亭の長官となった。

そして長官としての印を造ったが、その印に彫った亀の彫刻が

かつて助けた亀の姿と同じであったところから、

余不亭の長官となり得たのは、助けた亀の報恩によるものであることを

知ったという故事。 

余不の印: 孔愉が造った余不亭の長官の印をいう。

亭は宿場、宿駅の意。  

人面: 人の顔、人の姿。

かばね: 死人のからだ、死骸。

道理: 真理、真理に関する理論。

必然: 必ずこうなる、きっとそうなるの意。 

髑髏: 肉がとれて白くなった頭骨。されこうべ。

付法蔵経に見える説話。昔、婆羅門がいて人間の頭骨を売っていたが、

銅の針金で頭骨の耳の所を刺し、

貫通するものは生前、説法を聞いた頭骨として高く売ったという。 

鬼の先骨をうつあり: 阿育王比喩経に見える説話。

旅人が路傍に死骸を見つけたが、これを天使が礼拝しているので、

何故かとたずねたら、

この死骸は自分のかつての身体で、

この身体によって善行をしたために、

天上界に生まれることができたと語った。

また少し先へ行くとこんどは鬼が一つの死骸を打っていたが、

何故かとたずねたところ、自分はこの身体によって

いろいろの悪行を行なったために、鬼の姿になってしまったので、

今この死骸を打っているのだと語ったという。

あはれみ: ふびんにおもうこと。

もよほす: いざなう、さそう。

やぶる: 破壊する。

不修: 実践しないこと。

おづ:  おそれる。 

麦をうけ: 中本起経、仏食馬麦品に見えている故事。

阿脅達という婆羅門の王が、釈尊ならびに五百の僧侶を招待しておりながら、

他の事に心を奪われて食事を差し上げることを忘れたため、

釈尊ならびに五百の僧侶は馬の麦を食用にされた。  

蕨をとる:  史記列伝一にある故事。

周の武王が殷を平げたため、殷の遺臣である伯夷と叔斉とは、

首陽山に入って蕨を食べ、周の粟を食べなかったという。



第7文段の現代語訳

香厳智閑禅師は言った、

日々の多くのはかりごとは、ただ我が身のためにしている

この身は墓場の土となることを知らない

 白髪は語らないと言ってはならない

 これは冥土からの言葉を伝える人である。」

そうだから、我が身を愛することに、

たとえ万策を尽くしても、終には墓場の土となる。

まして、その身を徒に小国の王に仕える民として使われて、

東西に駆け回る間の多くの苦労は、どれほど身心を苦しめることか。

王臣の義理によって自分の身命を軽くし、殉死の礼を遂げる者もある。

恩義に使われる者の前途は、

まるで暗い雲霧のように一寸先も分からない。

このように小国の臣として使われ、

民間に身命を捨てる者は、昔から多い。

をしむべき人身である。

仏道の器となるものだからである。

だから、今 正法に会ったならば、

限りない数の身命を捨てても、その正法を学ぶべきである。

つまらない小人と、広大深遠な仏法とを比べ、

どちらの為に身命を捨てるべきかは、

賢い人も愚かな人も、共に身の処し方に悩まない。

静かに考えてみなさい。

正法が世間に流布していない時には、

身命を正法の為に投げ捨てようと願っても、正法には会えない。

だから、正法に会う今日の我等を感謝しなさい。

そして正法に会って身命を捨てない我等を深く恥じよう。

恥じるのなら、この道理を恥じるべきだ。

ですから、祖師 達磨の大恩に報いることは、今日一日の行持になるのだ。

この行持に自己の身命を顧みてはならない。

  禽獣よりも愚かな恩愛を、惜しんで執着してはならない。

たとえ愛し惜しんでも、それは長年の友にはならない。

ごみ屑のような家門を頼りにして、留まっていてはならない。

たとえ留まっても、そこは終生の住み処ではないのだ。

昔の仏祖は賢明だった。

皆、七種の珍宝や多くの子を投げ捨て、

美しい宮殿 楼閣を早々に捨てて出家したのだ。

それらを涙や唾のように見、腐った土のように見たのである。

これらは皆、古来の仏祖が仏祖に報恩感謝し、

恩を知り恩に報いる方法である。

楊宝に助けられた雀が恩を忘れずに、

その子孫を三府に登らせて恩に報いた話がある。

また、助けた亀が四度首を左に向けて去り、恩に報いたという話がある。

悲しむべきは、人の顔をしていながら畜類よりも愚劣である。

我々が今、仏に見えて法を聞くことが出来るのは、

仏祖の修行によって、法が伝えられてきたお陰である。

仏祖がもし、親しく法を伝えなければ、

どうして今日まで伝わっただろうか。

仏祖が伝えた一句の恩にも感謝すべきだ。

一法の恩にも感謝すべきだ。

いわんや、正法眼蔵無上の大法を伝えてくれた

大恩に感謝せずにおられようか。

法の為に、一日に限りない数の身命を捨てようと願うべきである。

法の為に捨てた屍は、後世の我々が、礼拝し供養するだろう。

諸天や龍神たちも、共に敬い尊重して守護し讃嘆するだろう。

これは必然の道理だからだ。

インドでは、髑髏を売り買いする婆羅門の法があると、噂に聞いている。

これは法を聞いた人の髑髏や身体は、功徳が大きいと尊重されているからだ。

今、道の為に身命を捨てなければ、この聞法の功徳はやって来ない。

身命を顧みずに聞法すれば、その聞法は成熟するのだ。

この人の髑髏は尊重すべきだ。

今我々の、道の為に身命を捨てなかった髑髏は、

いつか晒されて野外に捨てられても、誰がこれを礼拝するだろうか。

誰がこの髑髏を売買するだろうか。

その時には、

自分の不甲斐ない今日の精魂を振り返って恨むことになるだろう。

鬼が生前の悪行で鬼の姿だったことを悔いて、

死んだ自分の骨を打って責めたことがあった。

天人が生前の善行で天に生まれたことに感謝して、

死んだ自分の骨を礼拝したことがあった。

この身が空しく墓の土になる時のことを思えば、

今の愛惜の心は無くなり、

死んで土に還る自分を哀れに思うばかりである。

催されるのは、それを見る人の涙のような思いである。

ですから、空しく墓の土になって、

人に嫌われる髑髏となるこの身で、

幸いにも会うことが出来た仏の正法を行持すべきである。

それ故、冬の寒苦を恐れてはならない。

寒苦が人を傷つけたことはないし、寒苦が道を傷つけたこともない。

ただ修行しないことを恐れるべきである。

修行しないことが人を傷つけ、道を傷つける。

夏の暑さを恐れてはならない。

暑さが人を傷つけたことはないし、暑さが道を傷つけたこともない。

修行しないことが人を傷つけ、道を傷つけるのである。

釈尊と弟子たちが、食べる物が無くて麦の供養を受けたことや、

伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)が義を重んじて、

蕨を食べて隠遁生活したことは、出家と俗人の勝れた足跡である。

血を求め乳を求めて、鬼や畜生の真似をしてはいけない。

ひたすらな行持の一日は、諸仏の行ないである。

第7文段の解釈とコメント

冒頭では香厳智閑禅師の言葉を引用して

我が身をいくら愛し、万策を尽くしても、終には我が身は墓場の土となる。

仏道の器となる人身を惜しみ、

正法に会った今、身命を捨てても、その正法を学ぶべきである

と言っている。

このあたりは道元の真面目さと求道心が現れたような文章である。

正法が世間に流布していない時には、

身命を正法の為に投げ捨てようと願っても、正法には会えない。

だから、正法に会うことができる今日の我等を感謝すべきだ。

そして正法に会っても身命を捨てない我等を深く恥じるべきだと言う。

正法をもたらした、祖師 達磨の大恩に報いるためには、

今日一日の修行に励み、自己の身命を顧みてはならないと述べている。

禽獣よりも愚かな恩愛やごみ屑のような家門に執着してはならない。

賢明な仏祖は七種の珍宝や多くの子を投げ捨て、

美しい宮殿 楼閣を早々に捨てて出家したのだ。

それらを涙や唾のように見、腐った土のように見たのである。

達磨大師が、正法眼蔵無上の大法を伝えてくれた大恩に感謝せずにおられない。

法の為に、一日に限りない数の身命を捨てようと願うべきである。

法の為に捨てた屍は、後世の人々が、礼拝し供養するだろう。

空しく墓の土になって、人に嫌われる髑髏となるこの身で、

幸いにも会うことが出来た仏の正法を行持すべきである。

それ故、冬の寒苦を恐れてはならない。

寒苦が人を傷つけたことも、道を傷つけたこともない。

ただ修行しないことを恐れるべきである。

修行しないことが人を傷つけ、道を傷つけるのだ。

夏の暑さも恐れてはならない。

暑さが人を傷つけたことはないし、道を傷つけたこともない。

修行しないことが人を傷つけ、道を傷つけるのだ。

ここで道元は

夏の暑さを恐れてはならない

 暑さが人を傷つけたことはないし、道を傷つけたこともない

 修行しないことが人を傷つけ、道を傷つけるのである。」

と述べている。

現代では夏の暑さや蒸し暑さが熱中症の原因になり死ぬこともっ分っている。

暑さが人を傷つけ人を死に至らせることもあるのがはっきりしているのである。


道元禅師の時代には医学が未発達だったため暑さの危険性が分かっていなかったのだろうか。


道元の時代は自然が豊かで、風通しの良い粗末な住宅に住んでいたため

熱中症によって死ぬことは少なかったかも知れない。


しかし、近代の文明社会では暑さや蒸し暑さが

熱中症の原因になり死ぬこともあるので注意すべきである。

ひたすらな行持の一日は、諸仏の行ないである。

この文段で、道元は

道の為に身命を捨て聞法すべきだ

とか、正法の為に身命を捨てようと願うべきである

とか言っている。

生命を尊重する現代人にとって

正法のために身命を捨てるという道元禅師の考え方は受け入れられない

と考える人も多いと思われる。

このような考え方は

道元の生真面目な性格仏法至上主義に基づいた考え方だと受け止めるほかないだろう。



8

 第8文段


原文8


 真丹第二祖大祖正宗普覚大師は、神鬼ともに嚮慕す、

道俗おなじく尊重せし高徳の師なり、曠達の士なり。

伊洛に久居して群書を博覧す、

くにのまれなりとするところ、人のあひがたきなり。

法高徳重のゆゑに、神物倏見して、祖にかたりていふ、

将に受果を欲はば、何ぞ此に滞るや

大道遠きに匪ず、汝其れ南へゆくべし」。

あくる日、にはかに頭痛すること刺すがごとし。

其師、洛陽龍門香山宝浄禅師、これを治せんとするときに、

空中に声有りて曰く、

此れ乃ち骨を換ふるなり、常の痛に非ず」。

祖、遂に見神の事を以て、師に白す。

師、其の頂骨(を視るに、即ち五峰の秀出せるが如し。

乃ち曰く、

汝が相、吉祥なり、当に所証有るべし

神の汝 南へゆけといふは

斯れ則ち少林寺の達磨大士、必ず汝が師なり。」


注:

大祖正宗普覚大師: 大祖慧可(487〜898)。

達磨大師の法嗣。中国禅の第二祖。593年107才で死去。

正宗普覚大師とおくり名された。

神鬼:  神も鬼も。 

嚮慕(きょうぼ): 心を寄せる、したう。

曠達(こうたつ):心が広々として物事にこだわらないこと。

心のままに自適して物事に拘束されないこと。

伊洛:伊水と洛水と。伊水は河南省を流れる川の名。

洛水は浹西省に発し河南省を流れる川の名。

群書: 数多くの書物。

博覧: 広範囲に読むこと。

法高徳重:  抱懐している仏法が次元の高く、

その身につけた徳行も尊敬に値すること。  

神物: 仙人。

倏見(しゅくけん):にわかに現われること。

洛陽:  洛水の北に位し、周公が王城を営んだ地。

東周がここに都し、

後漢・西習・後魏・隋・五代などが、いずれもここを都とした。 

龍門: 洛陽の南にある山の名。

香山宝浄禅師:大祖慧可大師の最初の師匠。

見神: ここでは神仙を見たことを指す。 

白す:  申すと同じ。

頂骨:  頭のてっぺんの骨。

秀出:そびえ出る。

吉祥: めでたいしるし。



第8文段の現代語訳

中国禅の第二祖、太祖正宗普覚大師、神光慧可(しんこうえか )は、

神や鬼に慕われ、出家者と在家者から尊重された高徳の祖師で、

心の広い人物だった。

伊洛に久しく住んで、さまざまな書物を学んだ。

この国でも希な優れた人物で、会い難い人だった。

仏法に優れ人徳に優れた人で、

ある日 神がにわかに現れ、慧可に言った、

仏法の悟りを求めたいなら、どうしてここに居るのか

大道は遠方にはない。汝は南へ行くべきだ。」

慧可は次の日、突然刺すような頭痛を感じた。

師の洛陽竜門の香山宝静禅師が、治そうとすると、空中から声がした。

これは骨を換えているのだ。普通の痛みではない。」

そこで慧可は、前日 神に会ったことを師に話した。

師がその頭の骨を見ると、五つの峰が秀でているようだった。

そこで師は言った、

お前には吉祥の相が現れている。きっと悟る所があろう

神がお前に南へ行けと言ったのは、少林寺の達磨大師が

きっとお前の師ということだろう。」

この教えを聞いて、慧可は少室峰の達磨大師の所へ行った。

その時の神は、慧可の永遠の修道の守り神だった。



8.1

 第8文段の解釈とコメント

第8文段は中国禅の第二祖神光慧可の行持について述べている。

中国禅の第二祖、太祖正宗普覚大師、神光慧可は、

神や鬼に慕われ、出家者と在家者から尊重された高徳の祖師で、

心の広い人物だった。

慧可はさまざまな書物を学び、中国でも希な優れた、会い難い人だった。

仏法にも優れ人徳に優れた人で、

ある日 神がにわかに現れ、慧可に言った、

仏法の悟りを求めたいなら、どうしてここに居るのか

大道は遠方にはない。汝は南へ行くべきだ。」

慧可は次の日、突然刺すような頭痛を感じた。

師の香山宝静禅師が、治そうとすると、空中から声がした。

これは骨を換えているのだ。普通の痛みではない。」

そこで慧可は、前日 神に会ったことを師に話した。

師がその頭の骨を見ると、五つの峰が秀でているようだった。

そこで師は言った、

お前には吉祥の相が現れている。きっと悟る所があろう

神がお前に南へ行けと言ったのは

少林寺の達磨大師が、きっとお前の師ということだろう。」

この教えを聞いて、慧可は少室峰の達磨大師の所へ行った。

その時の神は、慧可の、永遠の修道の守り神だった。

ある日慧可に永遠の修道の守り神が現れ、

仏法の悟りを求めたいなら、どうしてここに居るのか

大道は遠方にはない。汝は南へ行くべきだ。」

と慧可に告げる。

次の日、慧可は突然刺すような頭痛を感じたので

師の香山宝静禅師の所に行った。

宝静禅師が、頭痛を治そうとすると、空中から

これは骨を換えているのだ。普通の痛みではない。」

という声がした。

そこで慧可は、前日 神に会ったことを師に話した。

宝静禅師がその頭の骨を見ると、五つの峰が秀でているようだった。

そこで師は言った、

お前には吉祥の相が現れている。きっと悟る所があろう

神がお前に南へ行けと言ったのは

少林寺の達磨大師が、きっとお前の師ということだろう。」

この教えを聞いて、慧可は少室峰の達磨大師の所へ行った。

これが二祖慧可が達磨大師の所へ行った因縁だと述べている。

宝静禅師が、頭痛を治そうとすると、空中から

これは骨を換えているのだ。普通の痛みではない。」

という声がした話。

宝静禅師が慧可の頭の骨を見ると、

五つの峰が秀でているように見えた話など、

ここに出て来る話はどれも神がかった超常的で不可思議な話ばかりである。

道元禅師には申し訳ないが

筆者はこれらの超常現象のような摩訶不思議な話を信じることはできない。

道元禅師はこれらの話を

疑うことなく、素直に信じたので採用したのだと思われる。

筆者は

神がにわかに現れ、慧可に言ったことや空中から声がして・・・・

永遠の修道の守り神

骨を入れ換えて慧可の頭の骨が、五つの峰が秀でているように見えた話

などを到底信じることはできない。

しかし道元禅師には

このような超常的かつ摩訶不思議な話が好きで素直に信じる性向が見られる。



行持1の第11文段を参照)。



9

 第9文段


原文9

 この教をききて、祖すなはち少室峰に参ず。

神は、みづからの久遠修道の守道神なり。

このとき窮臈寒天なり、十二月初九夜といふ。

天大雨雪ならずとも、深山高峰の冬夜は、

おもひやるに、人物の窓前に立地すべきにあらず。

竹節なほ破す、おそれつべき時候なり。

しかおるに大雪匝地、埋山没峰なり。

破雪して道をもとむ、いくばくの嶮難なりとかせん。

つひに祖室にとづくといへども、入室ゆるされず、

顧眄せざるがごとし。

この夜ねぶらず、坐せず、やすむことなし。

堅立不動にして、あくるをまつに、夜雪なさけなきがごとし。

ややつもりて腰をうづむあひだ、おつるなみだ滴滴こほる。

なみだをみるに、なみだをかさぬ、身をかへりみて身をかへりみる。

自惟すらく、 

昔の人、道を求むるに

骨を敲ちて髄を取り、血を刺して饑たるを済う

髪を布きて泥を淹ひ、崖に投げて虎に飼ふ

古へ尚 此の若し、我又、何人ぞ。」

かくのごとくおもふに、志気いよいよ励志あり。

いまいふ「古尚若此、我又何人」を、

晩進もわすれざるべきなり。

しばらくこれをわするるとき、永劫の沈溺あるなり。

かくのごとく自惟して、法をもとめ道をもとむる志気のみかさなる。

澡雪の澡を澡とせざるによりて、しかありけるなるべし。

遅明のよるの消息、はからんとするに肝胆もくだけぬるがごとし。

ただ身毛の寒怕せらるるのみなり。

初祖あはれみて昧旦にとふ、

汝、久しく雪中に立って、当に何事をか求むる。」

かくのごとくきくに、

二祖、悲涙ますますおとしていはく、

惟願わくは和尚、慈悲をもて甘露門を開き、広く群品を度すべし。」

かくのごとくまうすに、初祖曰く、

諸仏無上の妙道は、曠劫に精勤して、難行能行す、非忍にして忍なり

豈小徳小智、軽心慢心を以て、真乗を冀はんとせん、徒労に勤苦ならん。」

このとき、二祖ききていよいよ誨励す。

ひそかに利刀をとりて、みづから左臂を断って置于師前するに、

初祖ちなみに、二祖これ法器なりとしりぬ。

乃ち曰く、

諸仏、最初に道を求むるに、法の為に形を忘る

汝今、臂を吾前に断つ、求むること亦可なること在り。」


注:

教: 教訓。

祖: 中国禅の二祖神光慧可(487〜593)。

少室峰: 魏の嵩山の三十六峰の一つ。

嵩山の東にあるのを大室峰といい、西にあるのを少室峰という。

少林寺の所在地。

神:   神仙。

久遠修道:   極めて長年月にわたって仏道修行をして来たこと。

守道神: 仏法を保持して来たことから生まれた精髄。

窮臈(きゅうろう): 窮はおしつまったの意。

臈は臈月、陰暦十二月。 

寒天:  さむぞら、寒い天候の日。

初九夜: 初旬、九日の夜。 

雨雪: 雨は雪やあられがふるの意。雨雪は雪がふる。

窓前: 窓の外。

匝地: 大地全体。

破雪: 雪道を切り開いて進むこと。

顧眄(こめん):ふりかえってみること。 

堅立:  じっと立っていること。 

やや: だんだん 次第に。

自惟: みずから考えること。惟はおもう、かんがえる。

骨を敲ちて髄を取る: 大般若経の常啼品にある説話。

常啼菩薩が法涌菩薩の所へ行って、大般若の教えを聞こうとしたが、

何も供養するものがなかったので、わが身を売り、

骨をくだいて髄を取り出して、これを供養したという話。

血を刺して饑たるを済う: 賢愚因縁経の慈力王品にある説話。

弥法羅抜という閻浮提の国王が、飢えた鬼を救うために

わが身を刺して血液を鬼に与えたという話。  

髪を布きて泥を淹う:  大宝積経に見える説話。

釈尊の前生において仏を尊崇するあまり、ぬかるみに自分の髪の毛を布いて、

燃燈仏をわたらせたという故事。 

崖に投げて虎に飼ふ:  金光明最勝王経の捨身品にある説話。

摩詞羅泥国王の第三皇子であった菩薩が、

七匹の子を養っている虎が飢えて死にそうに

なっているのをみて、わが身を与えたという故事。

 我又何人(われまたなにびとぞ):

自分は一体何者なのか。

徒らに身命を惜しんで何になろうか。

澡雪(そうせつ): 澡も雪も洗う、洗いきよめる。

澡雪は修行して身心を洗い清めること。 

澡を澡とせず: 修行を修行などとも意識しないこと。

遅明: 夜明をまつこと。

肝胆:   肝臓と胆嚢。心の奥底。真実の心。 

寒怕(かんは):おそれおののくこと。

昧旦(まいたん):あけがた、あかつき。 

甘露門:  甘露は諸神が常用する飲物で、

これを飲むと不老不死になるという。

甘露門は釈尊の説かれた法門、仏教のこと。

群品: 衆生。

曠劫(こうごう): 長い時間。

未来に長いのを永劫といい、過去に長いのを曠劫という。 

軽心:  かるはずみな心。

慢心: おごりたかぶる心、うぬぼれ。

真乗: 真の乗物。釈尊の教え。

誨励(かいれい): 誨(おしえ)を聞いて、志をはげます。 

法器 : 仏法を継承する器量。

形を忘れる: 外形を忘れる、肉体を無視する。 



第9文段の現代語訳

この教えを聞いて、慧可は少室峰の達磨大師の所へ行った。

その時の神は、慧可自身の、永遠の修行の守り神だった。

慧可が達磨大師を訪ねた時期は、年の瀬の寒い季節、

十二月初旬 九日の夜であったと言われている。

大雪が降らなくても、深山高峰の冬の夜は、

想像するに、とても人間が窓の外に立っていられたとは思えない。

寒さで竹の節さえ割れるという恐ろしい時候だった。

しかもその日は大雪が地に満ちて、山を埋め峰を埋めていた。

雪をかき分けて進んで行くのは、大変な難儀だった。

慧可は、遂に達磨の部屋に行き着いたが、

師は部屋に入ることを許さなかった。

慧可を振り向くことさえしなかった。

慧可はこの夜、眠らず、坐らず、休まなかった。

じっと立って夜明けを待つ慧可に、夜の雪は容赦なく降り積もった。

雪がだんだん積もって腰を埋め、落ちる涙の一滴一滴は凍り、

その涙を見てまた涙を重ねた。

慧可は何度も我が身を省みて、考えた、

昔の人は、道を求めるのに自分の骨をたたいて髄を取り出したり

飢えた者を救うのに自分の身を刺して血を与えた

或いは、仏の為に自分の髪を泥の上に敷いたり

或いは、法の為に崖から身を投げて飢えた虎に与えたりした

昔の人でさえ、このようにしたのである

ならば私は一体何者なのか。」

このように考えて、慧可は求道の志をいよいよ励ました。

今言うところの、

昔の人でさえ、このようにしたのである

ならば私は一体何者なのか。」

という言葉を、晩学後進の人も忘れてはならない。

少しでもこれを忘れれば、永劫に苦界に沈むだろう。

慧可はこのように自ら考えて、法を求め、道を求める志だけを積み重ねた。

雪を浴びて心の染汚を除去することは当然だと考えたので、そうなったのだろう。

夜明けの遅い厳冬の夜の寒さは、想像を絶する寒さだっただろう。

思えば身の毛もよだつばかりだ。

初祖 達磨は、慧可を哀れに思って

明け方に尋ねた、

おまえは長い間 雪の中に立って、一体何を求めているのか。」

このように尋ねると、二祖 慧可は悲しみの涙をますます落として答えた、

どうかお願いです、和尚様

お慈悲をもって甘露の法門を開き、広く人々を救って下さい。」

このように答えると、初祖は言った、

諸仏の無上の妙道は、永劫に精進して

行じ難きことをよく行じ、忍び難きことを忍ばねばならない

徳や智慧の少ない者が慢心して

真の仏法を求めても、無駄に苦労するだけだ。」

この時、二祖はその言葉を聞いて、いよいよ自らを励ました。

そして、密かに鋭い刀を取って自ら左臂を断ち、それを師の前に置いた。

初祖は、これによって二祖が法器だと知り、

そこで言った、

諸仏が最初に道を求めた時には、法の為に自分の身体を忘れたと言う

おまえが今、私の前で臂を断って道を求めていることも

またよしとすべきであろう。」



 第9文段の解釈とコメント

この文段では慧可が豪雪のなか、達磨のもとを訪ね

臂を断って求道心を示すことで達磨に入門を許されるまでの

出会いの物語が書いてある。

内容も特に難しいところはない。

この物語は良く知られ、室町時代の雪舟による「慧可断臂図」にも描かれている。

   
図14-1

図14.1 雪舟筆「慧可断臂図」  


この図の左下部には慧可が臂を断って強い求道心を示す場面が描かれている。

「慧可断臂の物語」を読んで思うのは、はたして、

達磨は慧可が臂を断って強い求道心を示すまで入門を許さなかっただろうか?」

という疑問である。

浅く臂を傷つけるくらいでは問題ないだろうが、

本当に臂を断つくらい深く傷つければ出血多量で生命まで失われかねないからである。


「慧可断臂物語」については江戸の白隠禅師による「慧可断臂図」も知られている。

図14.2に白隠禅師による「慧可断臂図」を示す。

   
図14-2

図14.2 白隠禅師筆「慧可断臂図」  


右上の円の中には達磨が描かれている。

図の左下部には慧可が左手をグッと伸ばし今にも自分の腕を切ろうとしている。

図の上部には

自分の手を断って心眼を開くなど、何と無駄な行為だ

との白隠の画賛がある。

   

この画賛より、白隠禅師は入門するのに自分の臂を切り落とす必要はないと考えていることが分かる。

この画賛には「慧可断臂物語」についての白隠禅師独自の解釈が述べられていて興味深い。

   

慧可断臂の物語」は話を面白くドラマチックにするために創作された物語の可能性が高い。

     
10

 第10文段


原文10

これより堂奥にいる。

執侍八年、勤労千万、まことにこれ人天の大依怙なるなり、

人天の大導師なるなり。

かくのごときの勤労は西天にもきかず、東地はじめてあり。

破顔は古をきく、得髄は祖に学す。

しづかに観想すらくは、初祖いく千万の西来ありとも、

二祖もし行持せずば、今日の飽学措大あるべからず。

今日われら、正法を見聞するたぐひとなれり、

祖の恩かならず報謝すべし。

その報謝は余外の法はあたるべからず、

身命も不足なるべし、国城もおもきにあらず。

国城は他人にもうばはる、親子にもゆづる。

身命は無常にもまかす、主君にもまかす、邪道にもまかす。

しかあれば、これを挙して報謝に擬するに、不道なるべし。

ただまさに日日の行持、その報謝の正道なるべし。

いはゆるの道理は、日日の生命を等閑にせず、

わたくしにつひやさざらんと、行持するなり。

そのゆゑはいかん。

この生命は、前来の行持の余慶なり、

行持の大恩なり、いそぎ報謝すべし。

かなしむべし、はづべし。

仏祖行持の功徳分より生成せる形骸を、

いたづらなる妻子のつぶねとなし、妻子のもちあそびにまかせて、

破落ををしまざらんことは。

邪狂にして身命を名利の羅刹にまかす。

名利は一頭の大賊なり。名利をおもくせば、名利をあはれむべし。

名利をあはれむといふは、

仏祖となりぬべき身命を、名利にまかせてやぶらしめざるなり。

妻子親族あはれまんことも、またかくのごとくすべし。

名利は夢幻空華なりと学することなかれ、衆生のごとく学すべし。

名利をあはれまず、罪報をつもらしむることなかれ。

参学の正眼あまねく諸方をみんこと、かくのごとくなるべし。

世人のなさけある、金銀珍玩の蒙恵、なほ報謝す。

好語好声のよしみ、こころあるはみな報謝のなさけをはげむ。

如来無上の正法を見聞する大恩、たれの人面かわするるときあらん。

これをわすれざらん、一生の珍宝なり。

この行持を不退転ならん形骸髑髏は、

生時死時、おなじく七宝塔にをさめ、一切人天、皆応供養の功徳なり。

かくのごとく大恩ありとしりなば、

かならず草露の命をいたづらに零落せしめず、

如山の徳をねんごろに報ずべし。

これすなはち行持なり。

この行持の功は、祖仏として行持するわれありしなり。

おほよそ初祖・二祖、かつて精藍を草創せず、薙草の繁務なし。

および三祖・四祖もまたかくのごとし。

五祖・六祖の寺院を自草せず、青原・南嶽もまたかくのごとし。

注:

堂奥: 学問の奥義。

執侍: 侍者としての勤めを行なうこと。

勤労: 勤務の苦労。

千万: 多数・多量を象徴的に表わす。

依怙(えこ): 頼りになるもの。

祖: 二祖慧可大師。

「おまえは私の髄を得た」:達磨が四人の弟子(慧可、道育、尼総持、道副)に禅宗を伝えた時の

皮肉骨髄」の逸話が次のように伝えられている。


達磨大師は、ある日突然、自分の弟子達に問うた、

私は最後の時がきたようだ

諸君、おのおの自ら得た悟りの言葉を述べてみよ。」

 その時、道副(どうふ)という弟子は

文字に捕らわれず、また文字を離れずに、臨機応変に悟りの働きを為すことができます。」

と言った。

 達磨大師は

おまえは、皮を得たな。」

と言った。

 次に尼総持(にそうじ)は言った、

揺るぎない世界を見て、再び見たいと執着しないことです。」

 達磨大師は

おまえは肉を得たな。」

と言った。

 次ぎに道育(どういく)は言った、

物質的現象は本より空であり、一つも得るものもなく、ことばはたたれ、心の働きも消えています。」

 達磨大師は言った、

おまえはわが教えの骨を得たな。」

最後に、慧可はただ前に進み、礼拝をし、元に戻った。

 達磨大師は言った、

おまえは私の髄を得た。」

と言った。

結果的に「髄」を得たと称えられた慧可が達磨の後継者(二祖)となるので、

「皮」、「肉」、「骨」、「髄」の順でより深い理解を得たと考えられる。



観想: 観照し考えること。

飽学: 飽きるほど充分に学ぶこと。

措大(そだい): 大事を措置すること。

国城:  国や城。 

不道: 道にあらずの意。正しくないこと。

等閑: 物事に意を留めずなおざりなこと。

成るがままにまかせること。 

わたくし:  自己の欲望、私利私欲。

余慶: 祖先や先人の善行によって子孫が得る幸運のこと。

おかげ。 

功徳分:  努力の成果。

つぶれ: しもべ、やっこ、下男、下女。

破落:   破戒堕落。

羅刹: 羅刹女の略。悪鬼で通力よく人を魅し、

また人を食うという。 

一頭:  一等、一番。

賊: 悪者、敵。 

あはれむ: いつくしむ、めでる。

空華:  実体のない仮空の現象。

珍玩: 珍らしい玩弄物。

蒙恵: 恵みをこうむらす。)

好語:よい言葉、立派な言葉。

好声:  よい声、美声。

よしみ: 親しい交わり、親しみ、交誼。

なさけ: あわれみ、思いやり、人情。 

草露: 草の葉の上に宿った露のようにはかないもの。

零落:  こぼれ落ちること、死ぬこと。 

功:  功用、成果。

祖仏:   祖師や仏。

精藍: 精舎伽藍の略。寺院のこと。 

草創:   はじめて造ること。

薙草(ちそう):  草を刈って荒地を開くこと。


第10文段の現代語訳

慧可は、この時から師の堂奥に入った。

そして師に仕えること八年、あらゆる修行に力を尽くした。

まことにこの人は、人間界天上界の大きな心の拠り所であり、

人間界天上界の大導師だった。

このように求道に力を尽くした人は、

インドでも聞かず、東地中国でも初めてのことだった。

昔、霊鷲山の法会で、釈尊が花を手に、瞬きすると、

摩訶迦葉だけが微笑した。

そこで釈尊は迦葉に正法を伝えたと言われる。

また、初祖達磨が4人の弟子に修行で得たものを次々に尋ねた時、

最後に慧可は初祖の前で礼拝して元の位置に帰って立った。

その時初祖は

おまえは私の髄を得た。」

と言ったという話は、この祖師から学ぶ事が出来る。

静かに考えてみれば、初祖が幾千万回、インドから来たとしても、

二祖慧可が初祖の法を伝えなければ、

今日の我々は仏法を十分に学ぶことが出来なかった。

祖師慧可のお蔭で、今日の我々は正法を見聞する仲間となった。

だから、この祖師の恩には必ず報恩感謝すべきだ。

報恩感謝するには、他の方法は適当ではない。

この身命で報いようとしても不足で、国や城も充分ではない。

国や城は他人にも奪われ、親や子にも譲るものだ。

この身命は世の無常にも任せ、

主君にも任せ、邪道にも任せるものである。

だから、これで祖師に報恩感謝するとは言わないのだ。

ただ日々の行持が、報恩感謝の正道である。

その道理は、日々の生命をいい加減に過ごさず、

私的なものに費やさないように修行することである。

何故なら、この行持する生命は、

昔の仏祖による行持の余慶で、行持の大恩によるものだからだ。

だから、急いでその大恩に報謝すべきである。

悲しみ恥ずべきことは、

仏祖の行持の功徳から生まれた身体を、

つまらぬ妻子のしもべとし、妻子の生活のために使い、

落ちぶれることを惜しいと思わないことである。

ねじけ狂って身命を名利の悪鬼に任せば、

名利は第一の大賊となるだろう。

名利を重んじるなら、名利をいとおしむべきだ。

名利をいとおしむとは、仏祖となるべき身命を、

名利に任せて傷つけないことだ。

妻子や親族をいとおしむことも、またこのようにすべきである。

名利は夢や幻の空しい花であると学ぶべきではない。

人々の思うように学ぶべきだ。

名利をいとおしまずに、罪の報いを積み重ねてはならない。

仏道を学ぶ正しい眼は、全てのものを、このように見るべきである。

世の中でも情けのある人は、

金銀や珍しい物を貰えば感謝し報いようとする。

また、好ましい言葉や声の親交には、

心ある人は皆 感謝の情を尽くそうとするのだ。

まして、如来の無上の正法を見聞することが

出来るようにした祖師の大恩を、

人間ならば誰が忘れるものだろうか。

これを忘れないことが一生の宝物である。

この行持を怠らない身体や髑髏は、生の時も死の時も、

七宝の塔に納められて、あらゆる人天に供養される

という功徳があるのだ。

、祖師にはこのような大恩があることを知れば、

決して草露のようにはかない命を無駄にせず、

山のような恩徳に、親しく応えていくべきだ。

これが行持である。

この行持の功徳は、祖仏として行持する

我があるということである。

およそ初祖や二祖は、寺院を創建せず、

草を刈り土地を切り開く繁務はなかった。

そして三祖(鑑智僧サン)や四祖(大医道信)も同じだった。

五祖(大満弘忍)や六祖(大鑑慧能)も

自ら寺院を創建したわけではないし、

青原(行思)や南嶽(懐譲)も同じだったのである。



 第10文段の解釈とコメント

この文段でも2祖慧可の行持を紹介している。

2祖慧可は師達磨の堂奥に入った。

そして師に仕えること八年、あらゆる修行に力を尽くした。

二祖慧可が達磨の法を正しく伝えてくれたため、

ブッダ以来の正法が継承され我々に伝えられたのだ。

2祖慧可は人間界天上界の大きな心の拠り所であり、人間界天上界の大導師だったと絶賛している。


如来の無上の正法を見聞出来るようにした

祖師慧可の大恩を忘れず報謝すべきだと言っている。

注目されるのは、

仏祖の行持の功徳から生まれた生命や身体を世俗の生活に使うことを否定していることである。


世俗の生活をしながら修行する居士禅は駄目だとすると、

伝統的な出家至上主義になるしかないだろう。

ここから

鈴木正三の「世法即仏法」のような世俗肯定の優れた禅思想は生まれないだろう。

鈴木正三の「世法即仏法」の思想を参照)。



11

 第11文段


原文11

石頭大師は、岬荒を大石にむすびて、石上に坐禅す。

昼夜にねぶらず、坐せざるときなし。

衆務を虧闕せずといへども、十二時の坐禅、かならずつとめきたれり。

いま青原の一派の、天下に流通すること、人天を利潤せしむることは、

石頭大力の、行持堅固のしかあらしむるなり。

いまの雲門・法眼の、あきらむるところある、

みな石頭大師の法孫なり。

注:

石頭大師: 石頭希遷((せきとう きせん、700 〜 790)。 

青原行思禅師の法嗣。始め六祖慧能禅師に就いて出家したが、

六祖の死後、遺命によって行思禅師に師事した。

  衡山の南寺に行き、石台上に庵を結んで坐禅したので、

時の人が石頭和尚と呼んだ。

七九〇年死去、年九十一歳。無際大師とおくり名された。

著書に石頭草庵歌および参同契がある。

参同契を参照)。

衆務: 多くの務め。

利潤:  利益を与え潤おすこと。

雲門:  雲門文偃(うんもんぶんえん、864〜949)禅師。 

法眼: 法眼文益禅師(885〜958)。

法孫:  禅の子弟関係における子孫。


第11文段の現代語訳

石頭希遷禅師は、草庵を大石の上に造り、石の上で坐禅した。

昼夜に眠らず坐禅していない時はなかった。

日々の務めを欠かしたことはなく、一日の坐禅は必ず努めたのである。

今日、青原(行思)の一派が天下に広まって人々を利益していることは、

石頭の大力量による堅固な行持のお蔭である。

今日の雲門宗や法眼宗で、法の眼を明らかにした人たちは、

皆、石頭大師の法孫である。



 第11文段の解釈とコメント


石頭希遷禅師は、草庵を大石の上に造り、石の上で坐禅した。

昼夜に眠らず坐禅していない時はなかった。

雲門宗や法眼宗で、法の眼を明らかにした人たちは、

皆、石頭大師の法孫であると石頭の大力量による堅固な行持を称賛している。

   

図15に石頭希遷が関係する法系図を示す。

   
図15

図15 石頭希遷が関係する法系図 


図15に示したように、

石頭希遷の法系は曹洞宗のみならず雲門宗や法眼宗に及びこれらの宗派に大きな影響を及ぼしていることを示唆している。

     
12

 第12文段


原文12

 第三十一祖大医禅師は、十四歳のそのかみ、

三祖大師をみしより、服労九載なり。

すでに仏祖の祖風を嗣続するより、

摂心無寐にして脅不至席なること、僅六十年なり。

化、怨親にかうぶらしめ、徳、人天にあまねし。

真丹の四祖なり。

注:

第三十一祖: 中国禅第四祖大医道信禅師を指す。

  釈尊の直接の後継者とされる摩詞迦葉尊者から数えると達磨は第28祖、

慧可は第29祖、三祖(鑑智僧?)は第30祖、

四祖(大医道信)は、第31代目の教団指導者に当たる。

大医禅師:  中国禅の第四祖大医道信禅師(580〜651)。

中国禅の第三祖鑑智僧サン禅師の後継者。

弟子の五祖弘忍と共に「東山法門」と呼ばれる一大勢力を築き、

後の禅宗の母胎を形成する。

姓は司馬氏、651年死去、年72歳。 

そのかみ:  その昔。 

三祖大師: 中国禅の第三祖鑑智僧サン禅師(500年頃〜606年)。

中国禅の第三祖。二祖慧可大師の後継者。

姓、郷里等不明。著作に信心銘がある。 (信心銘を参照)

信心銘を参照)。


服労: 労役に服すること。

九載: 九年。 

摂心:  心をおさめて散らさないこと。

無寐(むび):  寐はねる、ねむる。無寐はねむらないこと。

脇: 脇腹。  

席: むしろ、上むしろ。

僅: ほとんど。 

化:  教化。  

怨親: 怨族と親族と。

徳: 徳望。


第12文段の現代語訳

 摩河迦葉尊者から数えて第三十一代の祖師 大医禅師(道信)は、

十四歳の頃に三祖大師(僧サン)と出会ってから、師に九年間従った。

仏祖の家風を受け継いでからは、

心を整えて眠ることなく、身を横たえずに、ほぼ六十年過ごした。

その教化は、怨みのある人にも親しき人にも等しく及んで、

道徳は人間界と天上界に行き渡った。

これが中国の第四祖である。



12.1

 第12文段の解釈とコメント


釈尊から第三十一代の祖師 大医禅師(道信)は、

十四歳の頃に三祖大師(僧サン)と出会い、師に九年間従った。

仏祖の家風を受け継いでからは、

心を整えて眠ることなく、身を横たえずに、ほぼ六十年過ごした。

その教化は、怨族にも親族にも等しく及び、

道徳は人間界天上界に行き渡った。

これが中国禅第四代目の指導者であると

四祖道信禅師の不眠不休の行持を紹介し称賛している。

 

道信禅師は三祖(僧サン)の法を継承してからほぼ六十年

心を整えて眠ることなく、身を横たえずに、

過ごしたといって称賛している。



ただここで気になるのは道元禅師は「特に、不眠不休の行持が好きなこと」である。


長期にわたる睡眠不足は健康に重大な悪影響を及ぼす可能性が

あることが現代医学で分かっている。

睡眠不足は肉体的にも精神的にも健康に様々な悪影響を引き起こし、

生命を脅かす可能性もある慢性的症状のリスクにさらされる。

慢性的な睡眠不足は日中の眠気や意欲低下・記憶力減退など

精神機能の低下を引き起こす。

それだけではなく、体内のホルモン分泌や自律神経機能にも

大きな影響を及ぼすことが知られている。

眠ることなく、身を横たえずに、修行に専念するのは、


1.

日中の眠気や意欲低下・記憶力減退など精神機能の低下をもたらす。


2.

ホルモン分泌や自律神経機能にも大きな影響を及ぼす。


その結果、高血圧、糖尿病、動脈硬化、認知症などの病気になる可能性があるので止めた方が良いと思われる。

昔は睡眠不足と病気の関係が分かっていなかったので、

脇尊者や第4祖のように不眠不休の修行者が尊敬されていた。

行持1、第4文段を参照)。


しかし、睡眠不足と病気の関係が分かってきた現在、寝ないで修行するのは無謀な修行であると言って良い。



このような修行は非合理な古代的苦行であり、現代の修行法としては、止める方が良いと思われる。




13

 第13文段


原文13

貞観癸卯の歳、太宗、師の道味を嚮び、

風彩を瞻んと欲して、赴京を詔す。

師、上表遜謝すること前後三返なり。竟に疾を以て辞す。

第四度、使に命じて曰く、

如し果して赴かずんば、即ち首を取り来れ。」

使、山に至って旨を諭す。

師、乃ち頸を引いて刃に就く、神色儼然たり。

使、之を異とし、廻りて状を以て聞す。

帝、弥加歎慕す。

珎盾就賜して、以て其の志を遂ぐ。

注:

貞観葵卯歳:643年。

趙州従シン(じょうしゅうじゅうしん、778〜897)禅師。

南泉普願禅師の法嗣。897年死去、享年120歳。語録三巻がある。

太宗: 瓶は口が細く胴が太い器で

太宗: 唐の太宗。

唐王朝の第二世(626〜649)。李世民。 

契: むかう、関心を持つ。

道味: 真理の味い、到達した境地。 

噌: みる。

風彩: 風采に同じ。人のようす、すがた。人品、人柄。 

上表: 書面をたてまつること。

遜謝:謙遜して辞退すること。 

疾: やまい、病気。

引: 長くする、のばす、ひきぬく。 

神色:  精神と顔色。ようす、態度。

儼然(げんぜん): 威厳のあるさま、おごそかにけだかいさま。 

異: 怪しむ、疑う、不思議に思う。 

状: 書状、文書。

聞: 奏聞する、申し上げる。 

歎慕(たんぼ):讃歎し、したうこと。

珎潤iちんそう):  貴重な絹織物。


第13文段の現代語訳

六四三年に、唐の太宗は大医道信禅師の道風に興味を持ち、

その人柄を見ようとして、都に来るよう命令した。

しかし大医禅師は書面をたてまつり謙虚に三回断った。

そして最後には病気を理由に辞退した。

第四回目の招請に当って皇帝は、使者に命じていった、

もしどうしても来ないと言うなら、その時は首を取って来い。」 

使者は大医禅師が住んでいた山に行き、

皇帝の趣旨を説明したが、

大医禅師は即座に首をさしのべて刀の前に坐った。

その態度は気高く厳かだった。

使者はこれを不思議に思い、書面によって奏上した。

そこで皇帝は、ますます讃歎欽慕し、

貴重な絹織物を禅師に下賜し、その志を遂げた。



 第13文段の解釈とコメント


道信禅師の道風に興味を持った唐の太宗は、

643年、都に来るよう命令した。

しかし大医禅師は書面で謙虚に三回断った。

そして最後には病気を理由に辞退した。

  第四回目の招請に当って皇帝は、

何としても会おうと、使者に命じていった、

もしどうしても来ないと言うなら、その時は首を取って来い。」

使者は大医禅師のもとに行き、皇帝の趣旨を説明したが、

大医禅師は即座に首をさしのべて刀の前に坐った。

その態度は気高く厳かだった。

使者はこれを不思議に思い、書面によって奏上した。

そこで皇帝は、ますます讃歎欽慕し、

貴重な絹織物を禅師に下賜し、その志を遂げた。

ここでは第12文段に続き、

4祖大医禅師(道信)を紹介し、

4祖道信禅師の権力者に近づかない信念と行持を紹介し、称賛している。



14

 第14文段


原文14

 しかあればすなわち、四祖禅師は、身命を身命とせず、

王臣に親近せざらんと行持せる行持、これ千歳の一遇なり。

太宗は有義の国主なり。

相見の、ものうかるべきにあらざれども、

かくのごとく先達の行持はありけると参学すべきなり。

人主としては引頭就刀して、

身命かをしまざる人物をも、なほ敷石するなり。

これいたづらなるにあらず、

光陰ををしみ、行持を専一にするなり。

上表三返、奇代の例なり。

いま溌季には、もとめて帝者にまみえんとねがふあり。

高宗永徽辛亥歳閏九月四日、忽ちに門人に垂誡して曰く、

一切諸法は、悉く皆 解脱なり

汝等 各自 護念して、未来に流化すべし」。

言ひ訖りて安坐して逝す。

寿七十有二、本山に塔をたつ。

明年四月八日、塔の戸、故無くして自ら開く、

儀相生けるが如し、爾後、門人 敢て復 閉じず。

注:

四祖禅師: 中国禅の第4祖大医道信禅師。 

有義: 義をたもつの意。正しさをそなえた人物を意味する。 

澆季(ぎょうき):人情がうすく世の乱れた末の世。

道徳風俗等が軽薄になった時代。末世。

帝者: 帝王、皇帝。

高宗: 唐の第三代皇帝(在位:649〜683)、李治。

永徽辛亥歳:  651年。

閏: 太陰暦では一年を月の朔望に合わせて約360日

と定めているから、

五年に二度の割で一年を十三カ月とし、その年にはある月を二度繰り返した。

この月を閏月といい、閏月のある年を閏年といった。 

垂誡(すいかい): 教をたれること。誡は教に同じ。

門人: 門下生。

護念: 心に持ちつづけること。

逝:  死去する。

塔:土石を高く積んで遺骨を蔵めること。

儀相:儀はすがた、ようす。相は容貌、みめかたち。


第14文段の現代語訳

このように四祖 大医禅師が、身命をものともせず、

国王 大臣に親近しないように身を処した行持は、

千年に一度しか巡り会えない優れた行持である。

太宗は道義を具えた国主だから、

会うことにおっくうだったわけではないが、

我々は、このように先達が示した行持を学ぶべきである。

人々の主人である太宗としては、身命を惜しまずに、

刀の前に首を伸ばす人物も、また感歎し敬慕したのである。

この禅師は無用な事をしたわけではなく、

光陰を惜しんで修行を専一にしたのである。

書面を三度も奉って、参内を辞退したのは、世にも稀な事である。

今日のような道徳 人情のすたれた世には、

自ら求めて帝王に会いたいと願う者がいるほどだ。

唐の高宗の代、651年9月4日、

四祖は、突然 門人たちに教えて言った、

全てのものは、ことごとく皆 解脱している

お前たちは、このことに気付き

これを大切に護り、未来に教えを広めなさい。」

こう言い終わると、安坐して亡くなった。

寿は七十二歳。本山(破頭山)に墓塔が建てられた。

明くる年の四月八日、塔の扉が理由もなく自然に開くと、

その姿は生きているようだった。

その後門人たちは、敢て扉を閉じようとしなかった。



 第14文段の解釈とコメント


第13文段でみたように、4祖道信禅師は時の皇帝に呼ばれても、

身命をものともせず、国王 大臣に親近しないように身を処した。

この行持は、千年に一度しか巡り会えない優れた行持である。

太宗は道義を具えた国主だから、会うことにおっくうだったわけではないが、

我々は、このような行持を学ぶべきである。

禅師は無用な事をしたわけではなく、

光陰を惜しんで修行を専一にした。

書面を三度も奉って、参内を辞退したのは、世にも稀な事である。

今日のような道徳 人情のすたれた世には、

自ら求めて帝王に会いたいと願う者がいるほどだ。

高宗永徽辛亥歳閏九月四日(651年9月4日)、

四祖は、突然 門人たちに教えて言った、

全てのものは、ことごとく皆 解脱している

お前たちは、このことに気付き、これを大切に護り

未来に教えを広めなさい。」

こう言い終わると、安坐して亡くなった。

寿は七十二歳。本山(破頭山)に墓塔が建てられた。

明くる年の四月八日、塔の扉が理由もなく自然に開くと、

その姿は生きているようだった。

その後門人たちは、敢て扉を閉じようとしなかった。

ここでも第12、13文段に続き、

4祖大医禅師(道信)を紹介しその優れた行持を称賛している。

ここでも道信禅師の墓塔の扉が理由もなく自然に開くと、

その姿は生きているようだったと超常的で摩訶不思議な出来事を紹介している。

ここでも第8文段で見られた道元禅師の

超常的で摩訶不思議なことを好きな道元禅師の性格が顕れている。

行持下、第8文段の解釈とコメントを参照)。



四祖道信禅師の遺言と本覚思想


4祖道信禅師の遺言は

一切諸法悉皆解脱。汝等各自護念、流化未来

である。

これを

全てのものは、ことごとく皆 解脱している

お前たちは、このことに気付き、これを大切に護り、未来に教えを広めなさい。」

と訳した。

遺言の核心部分は

一切諸法悉皆解脱

という部分である。

この主張は大乗涅槃経の

一切衆生悉有仏性

と似ている。

一切衆生悉有仏性」において、

一切衆生→ 一切諸法、悉有仏性→ 悉皆解脱

に置き換えると

一切諸法悉皆解脱

になるからである。

ところが殆どの人は「一切諸法悉皆解脱

の事実に気付かない。

道信禅師は坐禅修行によって

一切諸法悉皆解脱」の事実に気付き、これを大切に護り、未来にこの教えを教化流布しなさい

と言っているのである。

   

これを次の図16によって説明する。


   
   
図16

図16 不断の坐禅修行によって坐禅修行者の脳が

健康な脳(本源清浄心)になると、その人は既に解脱していることに気付く。


   

図16に示したように、不断の坐禅修行によって

参禅修行者の脳が健康な脳(本源清浄心)になると、

その人は既に解脱していることに気付く。

道信禅師は

一切諸法はことごとく皆 解脱しているのだ

お前たちは、このことに気付き、この気付きを大切に護り

未来にこの教えを教化流布しなさい。」

と言っているのである。

「汝等各自護念」と「護念」という言葉があるのは

一切諸法悉皆解脱」の事実に気付くだけでなく常に意識し、坐禅修行によって、

その気付きを深め、

一切諸法悉皆解脱」を「護念」することの大切さを言っていることが分かる。

この4祖道信禅師の遺言は

行持上の第14文段で道元が述べていることと同じである。

行持1、第14文段を参照)。


この考え方は天台本覚思想と似ている。

本覚(ほんがく)とは、本来の覚性(かくしょう)ということで、

一切の衆生に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧を意味する。

如来蔵や仏性をさとりの面から言ったものと考えられる。

分かり易く言えば、衆生は誰でも仏になれるということ、

あるいは元から具わっている(悟っている)ことをいう。

主に天台宗を中心として仏教界全体に広まった思想と考えられ、

今日では本覚思想、あるいは天台本覚思想とも称されている。

4祖道信禅師の遺言の核心部分は

一切諸法悉皆解脱

(全てのものは、ことごとく皆 解脱している。)」

である。

これは

衆生は誰でも仏になれるということ

あるいは仏性が本来から具わっている(悟っている)」

と主張する本覚思想とよく似ている。



道元禅師と本覚思想


鎌倉時代初期に生まれ、日本曹洞宗の開祖になった道元(1200-53)は、

最澄が開いた天台宗の比叡山を訪ね、14歳で出家した。

道元は、天台三大部に書かれているという

本来本法性、天然自性心

(人は生まれながらにして清浄で、もともと悟りを得ている)」

という考えに疑問を抱いた。

道元は

もし、人は生まれながら仏性があり、悟りを得ているなら

なぜ三世の諸仏は発心して修行をしなければならないのか?」

という疑問を持ったのである。

この疑問を比叡山で色々な高僧に当たって聞いたが、

その疑問に明確に答えることができる人は

比叡山ではみつからなかったと伝えられている。

これは当時の比叡山の仏教のレベルがけっして

高いものではなかったことを示している。

人は修行によって、

本来本法性、天然自性心

(人は生まれながらにして清浄で、もともと悟りを得ている)

ということに気付くのである。

仏道修行は「本来本法性、天然自性心

(人は生まれながらにして清浄で、もともと悟りを得ている)」

という事実に気付くために行うのだということが分からなかったとはあきれるほかない。

当時の比叡山の低レベルと堕落ぶりを示している。

本来本法性、天然自性心」(人は本来仏性を具有し、もともと悟っている)という事実に気付くのが見性や悟りである。



その事実に気付くための修行法として、坐禅修行が最短の道であることは言うまでもないだろう。

参考文献など:



1.道元著 水野弥穂子校註、岩波書店、岩波文庫、「正法眼蔵(一)」1992年

2.安谷白雲著、春秋社、正法眼蔵参究 仏性 1972年

3.西嶋和夫訳著、仏教社、現代語訳正法眼蔵 仏性 第四巻



トップページへ




ページの先頭へ戻る


「行持・4」へ


「行持・2」へ戻る