2009年9月26日〜9月29日作成  表示更新:2021年11月28日
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参同契




参同契について



『参同契(さんどうかい)』は曹洞宗に於いて朝夕読誦する最も重要な経典のひとつである。

菩提達磨大師によって中国に伝えられた禅が、中国禅として花開いたのは六祖慧能の時である。

六祖慧能には青原行思と南嶽懐譲の二大法嗣があり、

青原下からは曹洞宗が、南嶽下からは臨済宗が生まれた。

『参同契』は青原行思禅師の法嗣、石頭希遷禅師(700〜790)の著作である。

『参同契』は五言をもって一句となし、四十四句、

二百二十字から成る短い経典であるが、仏法の奥義を示すとして、古来尊重されている。

『参』とは千差万別の現象界(現実)を、

『同』は、同一、同等など、差別と反対の平等な悟りの世界を表わし、

『契』とは諸法と真理が融和し本来不二一体であることを意味するとされる。

漢の魏伯陽の著書に『周易参同契』という本がある。

この本は仙家錬丹の法を説く道教の本である。

唐代にも広く読まれたが石頭希遷禅師(700〜790)の著作『参同契』とは殆ど関係ない。


図1に南嶽懐譲と青原行思から出た曹洞禅と臨済禅の系譜を示す。



図参同契ー1

図1. 南嶽懐譲と青原行思から出た曹洞禅と臨済禅の系譜

この解説では、全文を6文段に分けて

合理的な観点から分かり易く説明したい。


1

第1文段


竺土大仙(ちくどだいせん)の心(しん)

東西密(とうざいみつ)に相附(あいふ)す。

人根(にんこん)に利鈍(りどん)あり

道(どう)に南北(なんぽく)の祖(そ)なし。

霊源明(れいげんみょう)に皓潔(こうけつ)たり。

支派暗(しはあん)に流注(るちゅう)す。

事(じ)を執(しゅう)するも

元(もと)これ迷い、

理(り)に契(かの)うも

亦悟(またさとり)にあらず。



注:

竺土大仙(ちくどだいせん):ゴータマ・ブッダ。お釈迦様。

竺土大仙(ちくどだいせん)の心(しん):お釈迦さまの悟りの心。

竺土大仙(ちくどだいせん)の心(しん)、東西密(とうざいみつ)に相附(あいふ)す。:

お釈迦さまの悟りの心は西のインドから東の中国へ綿密に相続されてきた。

お釈迦さまの悟りの心は菩提達磨によって西のインドから東の中国へもたらされ、

綿密に相続されてきた歴史を言っている。

霊源明(れいげんみょう)に皓潔(こうけつ)たり:霊妙な水源は透明である。

ブッダや六祖慧能に遡る禅の水源は透明ではっきりしている。

流注(るちゅう)す:流れ込む。流れそそぐ。

支派暗(しはあん)に流注(るちゅう)す:

しかし、時代を経て、流れの末の方になると暗くはっきりせずに流れこんでいる。

禅の水源はブッダや六祖慧能にまで遡れば透明ではっきりしている。

しかし、時が経るにつれ流派(五家七宗)に分かれ、

暗くはっきりせずに流れ現在の混乱を招いている。

事(じ)を執(しゅう)するも元(もと)これ迷い、:分かれた後の瑣末な事柄を追うと

本源を見失って迷う。

理(り)に契(かの)うも亦悟(またさとり)にあらず。:

だからといって悟りの平等相(絶対無の平等の世界=下層脳の世界)

に執着するのも法にとらわれている。

絶対無の下層脳の世界はストレスのない大安楽の世界であるが働きがない。

そこに居座っていては自由自在の活発な働きができない。

理にかなっていても真の悟りとは言えないだろうという意味。



現代語訳:

お釈迦さまの悟りの心は西のインドから東の中国へと綿密に相続されて来た。

人間の能力には利・鈍の差があっても、

悟りに通じる真理の大道には南宗禅・北宗禅などの差異は無い。

ブッダや六祖慧能に遡る霊妙な禅の水源は透明であるが、流れの末は分かれて暗い。

分かれた後の瑣末な事柄を追うと本源を見失って迷う。

だからといって悟りの平等相(絶対無の平等の世界、理)に居座っていては

自由自在の活発な働きができない。

それでは、理にかなっていても真の悟りとは言えないだろう。



解釈とコメント:


第1文段では禅の歴史が簡単に述べられている。

ここで注目されるのは「悟りに通じる真理の大道には南宗禅・北宗禅などの差異は無い。」

と述べられていることである。

『参同契』の著者石頭希遷(700〜790)はそのように考えていたとすれば、

石頭希遷の頃まで六祖慧能に始まる南宗禅という意識は

まだ確立されていなかったのではないだろうか。

霊妙な禅の水源は透明であるが、流れの末は分かれて暗い。」

と言っていることから、

この頃、禅の法理やその歴史的解釈に関しては宗派によって違いや混乱があったと思われる。



   

第2文段


門門一切(もんもんいっさい)の境(きょう)、

回互(えご)と不回互(ふえご)と

回(え)してさらに相渉(あいわた)る。

しからざれば位(くらい)によって住(じゅう)す。

色(しき)もと質像(しつぞう)を殊(こと)にし

声(しょう)もと楽苦(らっく)を異(こと)にす。

暗(あん)は上中(じょうちゅう)の言(こと)に合(かな)い、

明(めい)は清濁(せいだく)の句(く)を分(わか)つ。

四大(しだい)の性(しょう)おのずから復(ふく)す、

子の其の母を得(う)るがごとし。



注:

門門一切(もんもんいっさい)の境(きょう)

門とは六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)のそれぞれの感覚器官の門と言っている。

境(外界などの六根の対象)とは六根に対応する六境(色、声、香、味、触、法)を境と言っている。

回互:互いに相交わって一体になった平等の世界。

下層脳(脳幹+大脳辺縁系=無意識脳)を中心とする平等の世界を言っていると考えられる。

不回互: 差別。

上層脳(主として大脳前頭葉=分別意識脳)から展開する差別の世界。

 門門一切(もんもんいっさい)の境(きょう)、回互(えご)と不回互(ふえご)と

回(え)してさらに相渉(あいわた)る。:

六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)のそれぞれの感覚器官の門には対応する六境

(色、声、香、味、触、法)がそれぞれあって相互に影響しあって六識が成立している。

がそれぞれあって相互に影響しあって六識が成立している。

その様子は 一つ一つの門に対象があって、平等(下層脳)と差別(上層脳)

の世界に相交わって出入りし、相互に係わりあっていると言える。

このあたりは十八界の考えによって合理的に説明できる

「原始仏教:その2、9.28」を参照)。

仏教では眼、耳、鼻、舌、身、意(こころ)の6感覚器官(広い意味で、6根とも言う)

とその対象として色、声、香、味、触、法の6境(対象)を考える。

6根が6境と接触すると6識が生ずると考えるのである。

科学的には6境(対象)と6根が相互作用することで6識が生じる。

「6根が6境と接触する」とは「6境(対象)と6根が相互作用する

ことを意味する。

六識とは眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の6つを言う。6x3=18となるので十八界と言う。

図2 に十八界(=六識+六根+六境)を示す。

六根は感覚器官だけではなく大脳新皮質の機能を含むと考えることができる。

ここで言う回互とは六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)六識の内部の中心に在る

脳幹を中心とした下層脳(平等な無意識脳の世界)の世界を言っていると考えることができる。

「禅と脳科学:その1、2.6」を参照)。

不回互とは上層脳(主として大脳前頭葉=分別意識脳)を中心とした

差別の世界を指していると考えることができる。

そう考えると、 

門門一切(もんもんいっさい)の境(きょう)、回互(えご)と不回互(ふえご)と

回(え)してさらに相渉(あいわた)る。」

とは

「六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)のそれぞれの感覚器官の門には

対応する六境(色、声、香、味、触、法)がそれぞれがある。

それらが相互に相交わり影響しあって六識が成立している。

その様子は 一つ一つの門(六根の門)に対象があって、平等と差別の世界に相い係わって

(情報が)出入りし、相互に相係わりあっている。」と言っていることが分かる。

これを次の図2において点線で示す。



図参同契ー2

図2 六根と六境が相互作用し情報が脳(回互と不回互の世界)

を出入することで十八界が成立する



しからざれば位(くらい)によって住(じゅう)す。

 そのような相互の関係と影響がなければ、ある位置を占めて動かない。 

色(しき)もと質像(しつぞう)を殊(こと)にし、声(しょう)もと楽苦(らっく)を異(こと)にす。

 色(身体など物質的現象)ははじめから性質や形態がいろいろ違っているし、

声ももともと良し悪しの違いがある。

暗(あん)は: 下層無意識脳の世界では。

下層脳は無意識の世界であるから暗に対応している。

上の図2では下層脳は中心に位置している。

「禅と脳科学:その12.6」を参照

明(めい)は:上層脳(分別意識脳)の世界では。


上層脳は分別意識脳(理知脳)の世界で明に対応している。

上の図では上層脳は六識の生じる場所になる。

暗(あん)は上中(じょうちゅう)の言(こと)に合(かな)い

明(めい)は清濁(せいだく)の句(く)を分(わか)つ。:

 暗い世界(下層無意識脳の世界では)では無意識なので上人も中人も同じ言葉を語り違いはないが、

明るい世界(上層脳(分別意識脳の世界)では、

清濁、善悪、大小などの違いがはっきり分かれる。

この文段で述べる回互と不回互、明と、

暗の関係を上層脳と下層脳の性質に振り分けて図3に示す。



図参同契ー3

図3 回互と不回互、明暗と上層脳と下層脳の関係


四大(しだい)の性(しょう)おのずから復(ふく)す、子の其の母を得(う)るがごとし。

石頭希遷は地水火風の四大元素はおのずから元に立ち帰ろうとする性質があると考えている。

それはあたかも子供が母のもとに立ち帰えるようなものだ。

この文の意味は 難解である。

ここでは、我々が悟りの心(下層脳中心の心=生命の原点)を求めるのは

子供(上層脳=大脳新皮質=ストレスと苦の源となる人間脳)が

母(下層脳中心の生命の原点)のもとに立ち帰えるようなものである。

それは四大元素から成る我々の本性であると言っていると解釈する。

脳の進化の歴史を考えると下層脳(脳幹+大脳辺縁系=生命情動脳)が母で

上層脳(大脳新皮質=人間脳)はそれから生まれた子供に相当する。

人の脳は下層脳(脳幹+大脳辺縁系=生命情動脳)に上層脳(大脳新皮質)が覆い被さった構造になっている。

(マクリーンの脳の三層構造を参照)

そのような観点から考えても下層脳(生命情動脳)が母で上層脳は子供だと考えることができる。

この解釈は合理的であまり問題は無いと考えられる。

この科学的解釈に立てば、

坐禅は人が母なる生命の原点(故郷=生命情動脳)にたち帰り大安心するための修行である

とも言えるだろう。

禅では本来の自己(自己本来の面目)を家郷や家舎に例えることがある。

「臨済録:上堂8」を参照

家郷や家舎を立ち帰るべき人間生命の原点(故郷)だと考えれば、

この解釈は合理的で分かり易いと考えられる。



現代語訳:


一つ一つの門に対象があって、平等と差別の世界に係わって出入りして

相互に作用し影響を与えあっている。

しかし、そのような相互の関係と影響がなければ、ある位置と状態のままである。

色(身体など物質的現象)ははじめからいろんな性質や形態があり違っているし、

声ももともと良し悪しの違いがある。

暗い世界(坐禅中に経験する下層脳を中心とする平等な世界)では上人も中人も同じ言葉を語り違いはないが、

明るい世界(上層脳を中心とする分別意識の世界)では、清濁の違いがはっきり分かれる。

四大(地水火風)元素は元に立ち帰ろうとする性質がある。

我々が悟りの心を求めるのはストレスと苦の源泉である

上層脳(人間脳=理知脳)の世界を逃れて、

安らぎと生命の本源である下層脳の世界(人間の生命の原点=家郷)に帰りたいからである。

それはあたかも子供が母のもとに立ち帰るようなものだ。





コメント


第2文段は非常に難解な文である。

しかし、上記のように脳科学的な視点から解釈すると合理的に解釈することができる。

この科学的新解釈に立てば、

坐禅とは「生命と安らぎの原点(故郷=家郷)にたち帰るための修行」だと言えるだろう。

   

第3文段 



火は熱(ねっ)し風は動揺(どうよう)

水は湿(うるお)い地は堅固(けんご)

眼(まなこ)は色(いろ)

耳は音声(おんじょう)

鼻は香(か)

舌は鹹酢(かんそ)、

しかも一一(いちいち)の法において

根によって葉分布(はぶんぷ)す。

本末(ほんまつ)すべからく宗(しゅ)に帰すべし。

尊卑(そんぴ)其の語を用(もち)ゆ。



注:

火は熱(ねっ)し風は動揺(どうよう)、水は湿(うるお)い地は堅固(けんご)、:

火は熱し、風は動き、水は湿(うるお)い、地は堅固(けんご)である。

眼(まなこ)は色(いろ)、耳は音声(おんじょう)、鼻は香(か)、舌は鹹酢(かんそ):

眼は色を見、耳は音声を聞き、鼻は香(か)を嗅ぎ、舌は味を感じる。

しかも一一(いちいち)の法において、根によって葉分布(はぶんぷ)す。:

しかも、それぞれの法(眼、耳、鼻、舌。身、意)は、

根源(下層脳を根源とする脳)から枝葉が分岐したようなものだ。

これは根源である下層脳とそこから分岐した枝葉にあたる上層脳と六根(眼、耳、鼻、舌。身、意)

の関係を言っていると考えられる

図2を参照)。

本末(ほんまつ)すべからく宗(しゅ)に帰すべし。:

本末はともにそれぞれの本源に帰るだろう。

尊卑(そんぴ)其の語を用(もち)ゆ。:

尊卑(そんぴ)それぞれの身分の人がそれぞれの言語を使うように違ってくる。

上層脳(分別意識脳)の世界ではそれぞれの身分の人がそれぞれの言語を使うように違ってくる。




現代語訳:


火は熱し、風は動き、水は湿(うるお)い、地は堅固(けんご)である。

眼は色を見、耳は音声を聞き、鼻は香(か)を嗅ぎ、舌は味覚がある。

それぞれの法は、根源(脳)から枝葉が分岐したようなものだ。

本末はともにそれぞれの本に帰る。

しかし、そこから(脳から)再び枝葉のように出てくる時には、

尊卑(そんぴ)それぞれの身分の人がそれぞれの言葉を使うように違ってくる(そのようなものだ)。





解釈とコメント


この文段では感覚器官としての六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)の働きは

根源(脳)から分岐した枝葉のようなものであると

言っていると考えることができるだろう(図2を参照)。

しかし、そこから(脳から)再び枝葉のように出てくる時には

尊卑(そんぴ)それぞれの身分の人がそれぞれの言葉を使うように違ってくる(そのようなものだ)。」

とは脳のそれぞれの場所や領域から出てくる情報は神経伝達物質の種類の違いによって

ストレスに反応したり、怒りや鎮痛、快感、幸福感などを醸し出し、

対応している事実を言葉になぞらえて言っていると解釈できるかも知れない。

(「禅と脳科学1.11坐禅とセロトニン神経」などを参照)。

   


   

第4文段

明中(めいちゅう)に当(あた)って暗あり、

暗相(あんそう)をもって遇(お)うことなかれ。

暗中に当って明あり

明相をもって覩(み)ることなかれ。

明暗おのおの相対(あいたい)して

比(ひ)するに前後の歩みのごとし。



注:

明中(めいちゅう):明るい世界(分別意識の世界=上層脳(理知脳)の世界)。

暗あり:暗いところ(下層脳=無意識の世界)がある。

明中(めいちゅう)に当(あた)って暗あり:

明るい世界(分別意識の世界=上層脳の世界)の根本のところに、

暗いところ(下層脳=無意識の世界)がある(図2を参照)。

暗相(あんそう)をもって遇(お)うことなかれ。:

暗い世界(下層脳の世界)だけだと思ってそれをを追ってはならない。

暗中に当って明あり、明相をもって覩(み)ることなかれ。:

暗い世界(暗い無意識脳)の末端の所に、ちゃんと明るい世界(上層脳=分別智の世界)がある。

それを、明相の世界(上層脳=分別智)だけだと見てはならない。

明相の世界(上層脳=分別智)には必ず暗い世界(暗い無意識脳の世界)が付随している。

明暗おのおの相対(あいたい)して、比(ひ)するに前後の歩みのごとし。:

明と暗は(上層脳と下層脳は)各々が相い対している。

それはあたかも、足を動かすと身体が動くようなものだ。

そのように明と暗は(上層脳と下層脳は)互いに密接に関係している。




現代語訳:



明るい世界(現象の差別の世界)の根本のところに、

暗いところ(平等な無差別の世界)があるが、暗い世界だけだと思ってはならない。

暗い末端の所に、明るい根がある。

しかし、明相だけだと思って見てはならない。

明と暗は各々が相い対して従っているからだ。

それはあたかも、足を動かすと身体が一緒に動くようなものだ。

(身体の動きは足の動きに相い従っている)。





解釈とコメント


この文段では明るい世界(現象の差別の世界)である上層脳と

暗い世界(平等な無差別の世界)である下層脳の関係は不即不離であることを言っている。

明るい世界(上層脳)と暗い世界(下層脳)の

不二一体の密接な関係は図2図3を見ればよく分かる。

   

   

第5文段 

万物(ばんもつ)おのずから功(こう)あり、

当(まさ)に用(よう)と処(しょ)とを言うべし、

事存(じそん)すれば函蓋合(かんがいがっ)し、

理応(りおう)ずれば箭鋒(せんぽ)さそう、

言(こと)を承(うけ)てはすべからく宗を会すべし、

みずから規矩(きく)を立(りっ)することなかれ。



注:


功(こう)あり:役目がある。

万物(ばんもつ)おのずから功(こう)あり:万物はそれぞれ役目をもっている。

当(まさ)に用(よう)と処(しょ)とを言うべし:その働きと場所を問うべきである。

事存(じそん)すれば函蓋合(かんがいがっ)し、理応(りおう)ずれば箭鋒(せんぽ)さそう:

現象が所を得れば函(はこ)と蓋(ふた)がピッタリと合うようにうまく行くし、

理に契(かな)えば二本の矢が穂先をぴたりと合わせるように支え合う。

言(こと)を承(うけ)てはすべからく宗を会すべし

みずから規矩(きく)を立(りっ)することなかれ。:

話を聞く時は、その意味するところを理解し、自分の勝手な理論と解釈を立てて、

それをを押し付けてはならない。



現代語訳


万物はそれぞれ役割を持っている。その働きと場所を問うべきである。

働きが所を得れば函(はこ)と蓋(ふた)が合うようにうまく行く。

また、その働きが理に契(かな)えば二本の矢が穂先をぴたりと合わせるように

支え合うようになる。

話を聞く時は、その本質的な意味を理解すべきであり、

自分勝手な理論と解釈を作って、それを押し付けてはならない。



解釈とコメント


万物はそれぞれ役割を持っている。参禅修行に際しても、その働きと場所を問うべきである。

働きが所を得れば函(はこ)と蓋(ふた)が合うようにうまく行くだろう。

また、その働きが理に契(かな)えば二本の矢が穂先をぴたりと合わせるように

支え合うようになる。

禅を研究したり、師家から話を聞く時には、その本質的な意味を問い理解すべきである。

自分勝手な理論と解釈を作って、それを押し付けてはならない。



   

第6文段 

触目道(そくもくどう)を会(え)せずんば、

足を運ぶもいずくんぞ路(みち)を知らん。

歩みをすすむれば近遠(ごんのん)にあらず。

迷(まよう)て山河(せんが)の固(こ)をへだつ。

謹んで参玄(さんげん)の人にもうす、

光陰虚(こういんむな)しく度(わた)ることなかれ。



注:

触目道(そくもくどう)を会(え)せずんば:物を見ても、道理が分からない場合に、

足を運ぶもいずくんぞ路(みち)を知らん。:ただやみくもに足を動かしても、

どうして正しい路を知ることができようか。 

歩みをすすむれば近遠(ごんのん)にあらず。:歩みを進めれば必ずどこかには近づき、

どこかには遠ざかる。

しかし、それで良いと思ってはならないのだ。

迷(まよう)て山河(せんが)の固(こ)をへだつ。:迷って道を見失えば、

山河の隔たりが生まれるだけだ。

参玄(さんげん)の人:参禅求道の人

謹んで参玄(さんげん)の人にもうす、光陰虚(こういんむな)しく度(わた)ることなかれ。:

参禅の人に謹んで申しあげる、「かけがえのない時をむなしく過ごしてはならない」と。


現代語訳



物を見ても、道理が分からない場合に、ただやみくもに足を動かしても、

どうして正しい路を知ることができようか。

歩みを進めればどこかには近づき、どこかには遠ざかる。

しかし、それで良いと思ってはならないのだ。

迷って道を見失えば、山河の隔たりが生まれるだけだ。

正しい道を歩まないと悟りにたどり着く事はできない。

参禅求道の人に謹んで申しあげる、

かけがえのない時を、修行を怠ってむなしく過ごしてはならない」と。



コメント


この文段は「参同契」の結論にあたる。



ここでは、

正しい道理に基づいた路を歩まないと悟りにたどり着く事はできない

ということと、

かけがえのない時を、修行を怠ってむなしく過ごしてはならない

との二点を強調している。



「参同契」の参考文献


柳田聖山編集、中央公論社、世界の名著続3「禅語録」1974年、p.467〜469



   


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