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行持・4

   
数

『正法眼蔵』「行持」について



 行持という言葉は、元来、行は仏行、持は持続の意味だと理解されている。

この持続は時間的持続より戒律の保持を意味すると考えられる。

したがって行持とは梵行持戒(清浄な行為と戒律の保持)

あるいは修行の持続の略と考えることができる。

道元禅師は正法眼蔵「行持」の巻において過去の祖師達の中で、

特にその行為の清浄さと戒律の保持に関して秀れた人々の事例を取り上げ、

「行持」とはどのようなものであるか、簡明な文章で生き生きと描写している。

ここでは長大な「行持」の巻を4分割し、

「行持上巻」を「行持・1」と「行持・2」で、

「行持下巻」を「行持・3」と「行持・4」で

合理的立場に立って分かり易く解説したい。



15

 第15文段


原文15

 しるべし、

一切諸法、悉皆解脱。」なり。

諸法の空なるにあらず。

諸法の諸法ならざるにあらず、

悉皆解脱なる諸法なり。

いま四祖には、未入塔時の行持あり、

既在塔時の行持あるなり。

生者かならず滅ありと見聞するは、小見なり、

滅者は無思覚と知見せるは、小聞なり。

学道にはこれらの小聞小見をならふことなかれ。

生者の滅なきもあるべし、

滅者の有思覚なるもあるべきなり。

注:

生者: 生きている者。

 馬祖: 馬祖道一

滅:  死滅。

滅者: 死滅した者。

無思覚:思考能力も感受能力もない意。


第15文段の現代語訳

知るべきだ。

全てのものは、ことごとく皆解脱している」。

諸法は全て空ではない。

また、諸法は諸法でないものはない。

諸法は、ことごとく皆解脱している。

四祖(道信禅師)には、

死んで塔に入る前の行持があり、

また、死んで塔の中での行持がある。

だから、生者には必ず滅があると見ることは、

小見であり、

死者には思量覚知が無いと見ることは、

狭い知見である。



 第15文段の解釈とコメント


この文段は「行持・3」の第14文段で四祖(道信禅師)が

一切諸法、悉皆解脱。」

と言って遷化したことの続きである。

「行持・3」の第14文段を参照)。

四祖(道信禅師)には、死んで塔に入る前の行持と

死んで塔の中での行持がある。

だから、

生者には必ず滅があると見ることは、小見であり

死者には思量覚知が無いと見ることは、狭い知見である

と述べている。

しかし、この道元禅師の考え方には説得力があるようには見えない。

四祖(道信禅師)には、死んで塔に入る前の行持と

死んで塔の中での行持があるとは

道元禅師は生前の行持死後の行持があると言っていると考えることができる。

この世だけではなく、死後の世界があると考えているから

死んだ後に塔の中での行持があると述べていると考えることができる。

これに続き、

生者には必ず滅があると見ることは、小見であり

死者には思量覚知が無いと見ることは、狭い知見である

と述べている。

この考え方は伝統的な仏教の輪廻転生思想に基づいて死後の世界を肯定し、死後の世界(あの世)の死者にも

思量覚知があると考えているのだろうが、

仏教の輪廻転生思想はインドの古代思想を取り入れたもので、科学的には決して認められる思想ではない。


従って、科学的な観点に立つと

死者には思量覚知が無いと見ることは、科学(医学)に基づいた合理的な知見であり、決して狭い知見ではない。


道元禅師は死者はあの世で復活し思量覚知があると考えていたのだろうか。

仏教の伝統的な輪廻転生思想が説く死後の世は単なる想像(or妄想?)に基づくものであり

古代思想であり説得力に乏しい。

道元禅師が、この文段で述べているような、

 四祖(道信禅師)には、生前の行持死後の行持があると考えることは科学的的には根拠が無く、無理がある。


道元禅師はこのあたりについて何も詳しく述べていないので

具体的考え方を知ることができないのが残念である。



16

 第16文段


原文16

 福州玄沙宗一大師、法名師備、福州岡県人也。

姓謝氏、幼年より垂釣をこのむ。

小艇を南台江にうかめて、もろもろの漁者になれきたる。

唐の感通のはじめ、年甫三十なり。

たちまちに出塵をねがふ、

すなはち釣舟をすてて、芙蓉山霊訓禅師に投じて落髪す。

予章開元寺道玄律師に、具足戒をうく。

布柄芒履なり、食はわずかに気を接ぐ。常終日宴坐す。

衆皆之を異とす。雪峰義存と、本と法門昆仲なり。

而も親近すること 師資の若し。

雪峰其の苦行を以って、呼んで頭陀と為す。

一日雪峰問うて曰く、

備頭陀、何ぞヘン参し去らざる?」

師曰く、

達磨、東土に来たらず、二祖、西天に往かず」。

 雪峰、之を然りとす。

つひに象骨山にのぼるにおよんで、

すなはち師と同力締構するに、玄徒倅葦せり。

師の入室右決するに、晨昏にかはることなし。

諸方の玄学のなかに、所未決あるは、

かならず師にしたがひて請益するに、

雪峰和尚いはく、備頭陀にとふべし。

師まさに仁にあたりて不譲にして、これをつとむ。

抜群の行持にあらずよりは、恁麼の行履あるべからず。

終日宴坐の行持、まれなる行持なり。

いたづらに声色に馳聘することはおほしといへども、

終日の宴坐は、つとむる人まれなるなり。

いま晩学としては、のこりの光陰のすくなきことをおそりて、

終日宴坐、これをつとむべきなり。

注:

福州: 州名。福建省ミン侯県。

玄沙:玄沙山。玄沙師備禅師のいた山。

宗一大師: 玄沙師備禅師(835〜908)。雪峰義存の法嗣。

垂釣:  釣糸を垂れること。釣をすること。

なる: 慣れる、なじんでうちとける。

感通: 通常は咸通と書く。

唐における859から873年までの年号。

甫:  はじめて。

出塵: 俗世間を離脱すること。

芙蓉山霊訓禅師: 芙蓉霊訓禅師。師宗智常禅師の法嗣。

この芙蓉山は福建省の芙蓉山であり、山東省にある芙蓉道楷禅師

の芙蓉山とは異なる。 

予章:   地名。江西省察昌県。

布衲: 粗末な織物で作ったつづれ衣。

芒履: からぐつ、わらじ。

接気:  息をつなぐ。

 異: 特別に取り扱う。珍らしいこととする。

雪峰義存: 雪峰義存禅師(822〜908)。

徳山徳山宣鑑禅師の法嗣。泉州南安の人、姓は曽氏。

雪峰山に住んで教化を行なった。

弟子に雲門文偃・玄沙師備・長慶慧稜・保福従展・鏡清道慰などの俊秀が出た。

勤宗皇帝から真覚大師の称号と紫衣を受けた。語録二巻がある。 

昆仲: 極めて親密な問柄。 

頭陀:  乞食その他十二種の修行法。頭陀行。

頭陀行を参照)。

象骨山: 雪峰山の異称。

締構: 結びかまえること。

玄徒: 奥義をもとめる人々。

臻萃(しんすい): あつまること。

室:  師匠の部夙に入って問答・指導を受けること。

咨決(しけつ): 真偽の決着についてたずねること。

晨昏(じんこん): 朝夕、朝晩。

玄学: 真理を学ぶ人。

仁: なさけ、おもいやり。

不譲: 後退しないこと。

馳騁(ちてい): 走り回ること。


第16文段の現代語訳

福建省の玄砂宗一大師は、僧名ば師備陣師といい、福州ミン県の人である。

俗姓は謝氏で、幼い時から釣を好んだ。

小さな舟を南台江に浮かべて、

多くの釣人達と同じようなことをやっていた。

ところが唐の戌通年間のはじめ、三十歳の頃、急に出家を希望した。

早速釣舟を拾て、芙蓉山にいた芙蓉山霊訓禅師の下で剃髪した。

江西省の予章 開元寺の道玄律師から具足戒を受けた。

師は常に粗末な衣服をまとい、草鮭をはいて、

食事はやっと生命を維持し得る程度にとどめ、

いつも、刺から晩まで一日中坐禅をしていた。

修行僧達は、皆 師をずば抜けた求道者と認めていた。

師は、雪峰義存とは、もともと同門の兄弟弟子で、

師弟のように親しい仲だった。

雪峰は、師の苦行を見て、頭陀というあだ名を付けた。

ある日、雪峰は師に尋ねた、

師備 頭陀、あなたは何者か?」

師は答えた、

私は最後まで人を欺くことはありません。」

別の日に、雪峰は師を呼んで尋ねた、

師備 頭陀、あなたはなぜ諸方に師を訪ね修行しないのか?」

師は答えた、

達磨は中国に来なかったし、二祖(慧可)はインドへ行かなかった。」

  雪峰は、師の言ったことを認めた。

雪峰が、終に象骨山(雪峰山)に上り、

師(玄沙)と共に力を合わせて道場を開くと、参禅修行僧達が集まってきた。

しかし、師が雪峰に法を尋ねることは、朝夕変わらなかった。

諸方の修行者の中に、仏法の問題で未解決の者は、

必ず師に従って雪峰に教えを乞いに行くのだが、

雪峰和尚は、

師備 頭陀に質問しなさい。」

 と言った。

師は、任に当たって譲ることなく、務めた。

抜群の修行者でなければ、このようなことはできない。

師の終日坐禅の行持は、世に希な行持である。

普通の修行者は周囲の物事に走り回ることは多いけれども、

終日の坐禅を努める人は希である。

晩学の修行者は 、残された年月が少ないことを恐れて、

終日坐禅に努めるべきである。

   

 第16文段の解釈とコメント

この文段では雪峰義存に力量を認められた

玄砂師備禅師の行持について紹介している。

内容は特に難しいところはなく、「一顆の明珠」に似ているところも多い。

「一顆の明珠」を参照)。



17

 第17文段


原文17

 長慶の慧稜和尚は、雪峰下の尊宿なり。

雪峰と玄沙とに往来して、参学すること僅二十九年なり、

その年月に蒲団二十枚を坐破す。

いまの人の坐禅を愛するあるは、

長慶をあげて慕古の勝躅とす。

したふはおほし、およぶすくなし。

しかおるに三十年の功夫むなしからず、

あるとき凉簾を巻起せしちなみに、忽然として大悟す。

三十来年かつて郷土にかへらず、親族にむかはず、

上下肩と談笑せず、専一に功夫す。師の行持は三十年なり。

疑滞を疑滞とせること三十年、

さしおかざる利機といふべし、大根といふべし。

励志の堅固なる、伝聞するは或従経巻なり。

ねがふべきをねがひ、はづべきをはぢとせん、

長慶に相逢すべきなり。

実を論ずれば、ただ道心なく、操行つたなきによりて、

いたづらに名利には繋縛せらるるなり。

注:

長慶の慧稜和尚: 長慶慧稜禅師(854〜932)。

雪峰義存の法嗣。杭川の人、姓は孫氏。初め霊雲志勤禅師を訪ね、

後に雪峰義存禅師に師事した。

福住省菅江県の招慶院および長楽府の長座院において教化を行ない、

門下生は1500といわれた。超覚大師と呼ばれた。 

涼簾: すだれ。

巻起: 巻きあげる。起はあげる。

疑滞: 疑問やとどこおり。

利機:すぐれた素質の人。

大根:偉大な機根の人。

励志: 志をはげますこと。 

実: 実情。

操行: 行動の管理。



第17文段の現代語訳

 長慶の慧稜和尚は、雪峰門下の有徳の師である。

雪峰と玄沙とに往来して、ほぼ29年学んだ。

その間に、坐禅の蒲団を20枚 坐り破ったと言われる。

今日、坐禅を愛する人は、長慶は、慕うべき優れた先人だと言う。

長慶を慕う者は多いが、彼に及ぶ者は少ない。

しかし、長慶の三十年の精進は無駄ではなかった。

ある時すだれを巻き上げた時、たちまち大悟した。

長慶は、30年来 決して郷土に帰らず、親族に会わず、

坐禅堂の単の両隣の人とも談笑せず、専一に精進した。

師の修行は三十年だった。

疑問を疑問として抱き続けること三十年というのは、

差し置くことのない優れた人物であり、大根気と言うべきである。

このように志の堅固な人を伝聞するのは、経典の中ぐらいである。

我々は、願うべきを願い、恥づべきを恥じるなら、

この長慶に出会うべきだ。

ところが、実際には、ただ道心も無く、

修行も疎かなため、徒に名利に縛られるのである。



第17文段の解釈とコメント

この文段では雪峰義存門下の長慶慧稜禅師(854〜932)について紹介している。

長慶慧稜和尚は雪峰と玄沙に師事し、ほぼ29年学んだ。

その間(29年間)、坐禅蒲団を20枚 坐り破ったと言われるほど坐禅に打ち込んだ大根気の人である。

坐禅を愛する人は、長慶を優れた先人だと慕うが、

彼に及ぶ者は少ないと

長慶慧稜禅師の行持について紹介している。

内容にも特に難しいところはない。


18

 第18文段


原文18


大イ山大円禅師は、百丈の授記より直にイ山の峭絶にゆきて、

鳥獣為伍して、結草修練す。

風雪を辞労することなし。

橡栗充食せり、堂宇なし、常住なし。

しかあれども、行持の見成すること四十来年なり。

のちには海内の名藍として、龍象蹴踏するものなり。

梵刹の現成を願せんにも、人情をめぐらすことなかれ、

仏法の行持を堅固にすべきなり。

修練ありて堂閣なきは、古仏の道場なり。

露地樹下の風、とほくきこゆるなり。この処在ながく結界となる。

まさに一人の行持あれば、諸仏の道場につたはるなり。

末世の愚人、いたづらに京間の結構につかるることなかれ。

仏祖いまだ堂閣をねがはず。

自己の眼目いまだあきらめず、

いたづらに殿堂締藍を結構する、

またく諸仏に仏宇を供養せんとにはあらず、

おのれが名利の窟宅とせんがためなり。


注:

大イ山大円禅師: イ山霊祐禅師(771〜653年)。 

百丈懐海禅師の法嗣。福州長路の人、姓は趙氏。

十五歳で出家し、二十三歳のとき、百丈懐海禅師に師事した。

後にイ山において教化を行ない、

門下から仰山慧寂・香厳智閑・霊雲志勤などの俊秀を出した。

語録一巻がある。

弟子の仰山慧寂禅師とともにイ仰宗の宗祖となる。

唐の宣宗から大円禅師とおくり名された。

授記: 将来開悟して仏になるだろうという証言を与えること。  

峭絶(しょうぜつ): 高くけわしくそびえたつさま。  

為伍:  仲間になること。

結草:  草庵を結ぶこと、粗末な住いを造って住むこと。

修練: 修行練成。 

辞労: 労をいとうこと。

橡栗(しょうりつ):  しばぐりの実。

充食: 食にあてる、食料にする。

堂宇:殿堂、建物。宇はのきの意。 

常住: 常住物の意。

常住物とは寺院にそなえつけられている調度、財物をいう。 

名藍: 名高い伽藍、有名な寺院。

大観: 観はたかどの。大観は大きなたかどの。

龍象: 龍や象にたとえられるすぐれた修行僧。

 梵刹: 仏教寺院。

人情: 人間的な感情。 、

堂閣:  宮殿、たかどの。閣は宮殿、たかどの、二階づくりの建物。

風: 風習、仕来り。

結界: 教団所属僧尼の秩序を保つために、ある一定地域を限ること。

特に受戒や布薩などを行なうために作法を行なって、

大界・戎場・小界などを定め、この限られた地域を摂僧界と言う。

精藍: 精舎伽藍。 

仏宇: 仏を祀る建物。


第18文段の現代語訳

大イ山 大円禅師(イ山霊祐)は、百丈(懐海)の法を受け継いでから、

すぐ険しく聳えるイ山に行き、鳥獣を友として草庵を結び修行した。

風雪の苦労も辞せず、とちの実やしば栗を食料にした。

大きな建物は無く、寺の備品も十分ではなかったが、

行持を行うこと四十年余りだった。

後には天下の名刹として、

優れた修行者たちが往来した。

寺院の建立を発願するにしても、

人情を巡らすことなく、仏法の行持を堅固にするべきである。

仏道の修練があって立派な建物が無いのは、

古仏の道場である。

仏祖の露地 樹下の家風は遠くまで聞こえて、

この場所は長く聖域となった。

このように、まさに一人の行持があれば、

諸仏が出現する道場へと伝わるのである。

末法の世の愚人よ、

徒に立派な建物の建立のために

無駄なエネルギーや労力を費やし徒労すべきでない。

仏祖は立派な建物などを欲しいと願うことはなかったのだ。

自己の法の眼を明らかにしないで、

徒に立派な寺院を建立しようとしても、

決して諸仏に仏宇を供養することにはならなのだ。

彼等はそれをおのれの名聞・利養をむさぼるための

住み家にしようとしているのだ。


第18文段の解釈とコメント


イ山霊祐禅師(771〜653年)は百丈の法を継いでから、険しく聳えるイ山に行き、

鳥獣を友として草庵を結び、風雪の苦労も辞せず、

とちの実やしば栗を食料にする清貧な修行生活を送った。

  この文段ではイ仰宗の開祖となったイ山霊祐禅師の名聞・利養を離れた行持を紹介している。

  特に難しい箇所はない。

イ山霊祐が百丈の下でイ山に新道場を開き開山となった

経緯については「無門関」40則を参照されたい。

「無門関」第40則を参照)。



19

 第19文段


原文19


イ山のそのかみの行持、しづかにおもひやるべきなり。

おもひやるといふは、わがいまイ山にすめらんがごとくおもふべし。

深夜のあめの声、こけをうがつのみならんや、

巌石を穿却するちからもあるべし。

冬天のゆきの夜は、禽獣もまれなるべし、

いはんや人煙のわれをしろあらんや。

命をかろくし法をおもくする行持にあらずば、

しかあるべからざる活計なり。

薙辨すみやかならず、土木いとなまず、

ただ行持修練し、弁道功夫あるのみなり。

あはれむべし、

正法伝持の嫡祖、いくばくか山中の嶮岨にわづらふ。

イ山をつたへきくには、池おり水あり、

こほりかさなり、きりかさなるらん。

人物の堪忍すべき幽棲にあらざれども、

仏道と玄奥と化成することあらだなり。

かくのごとく行持しきたれりし道得を見聞す。

身をやすくしてきくべきにあらざれども、

行持の勤労すべき報謝をしらざれば、たやすくきくといふとも、

こころあらん晩学、いかでかそのかみのイ山を、

目前のいまのごとくおもひやりて、あはれまざらん。

このイ山の行持の、道力化功によりて、風輪うごかず、

世界やぶれず、天衆の宮殿おだいかなり、

人間の国土も保持せるなり。

肩山の遠孫にあらざれども、潟山は祖宗なるべし。

のちに仰山きたり侍奉す。

仰山もとは百丈先師のところにして、

問十答百のシュウ子なりといへども、

イ山に参侍して、さらに看牛三年の功夫となる。

近来は断絶し、見問することなき行持なり。

三年の看牛、よく道得を人にもとめざらしむ。


注:

人煙: 人家から立ち上る煙。

かまどの煙。ここでは炊飯の煙をたてている人々のこと。

活計: 生活のてだて。生計。くらし。

薙草(ちそう):草をかること。

土木: 寺家づくり、普請、建築。

嶮岨(けんそ):  けわしいこと、嶮難。

玄奥(げんおう): 自然の世界に含まれている神秘さ。 

化成: 渾然一体となること。

あらた:  鮮明、明白。

化功(けこう): 教化の功徳。  

風輪: 風は五大、すなわち地・水・火・風・空の一つ。

今日の言葉でいえば気体を意味する。

したがって風輪は気体の世界、すなわちもっとも動きやすい世界。 

おだいか:  おだやか。

仰山: 仰山慧寂禅師(807〜883)。

師イ山霊祐禅師とともに、イ仰宗の祖とされる。

智通大師とおくり名された。語録一巻がある。

侍奉: 侍して命を奉ずる。侍して食物や物品を奉り進める。

百丈先師: 百丈懐海禅師(749〜814)を指すものと思われるが、

百丈禅師死去の際、仰山慧寂禅師は7歳前後の年齢であるから、

やや無理があるようにも思われる。 

シュウ子(しゅうし:釈迦の十大弟子の一人舎利弗(しゃりほつ)。

舎利弗は智慧第一といわれた。

「シュウ子」はその母の名であるシュウ鷺鳥(舎利)をいう。

参侍(さんじ): 弟子として仕える。

看牛(かんぎゅう): 円智大安禅師の言葉として、

不参イ山道、牧得一頭水コ牛。」というような表現が伝えられている。

古来、仏道修行を牛を見出し調教することにたとえる例が多い。

ここにいう「牧得一頭水コ牛」も、

自分自身を牛にたとえ、牛を調教することを仏道修行になぞらえている。

十牛図を参照)。



第19文段の現代語訳

i イ山での当時の修行を、静かに思いやるべきである。

思いやるとは、自分が今、イ山に住んでいるように想像することである。

深夜の雨の声は、苔を穿つばかりでなく、

岩石をえぐる力もあるだろう。

冬天の雪の夜は、禽獣も希なことだろう。

まして煙立つ人里に自分を知る人がいようか。

これは、命を軽くして法を重んじる修行でなければ出来ない生活である。

土地を切り開くための草刈りを急がず、土木建設を営むこともなく、

ひたすら行持修練し精進するだけの日々であった。

いたわしいことです。

正法を相伝 護持する祖師 イ山禅師は、

どれほど山中の険阻に苦労したことだろうか。

イ山のことを伝え聞くと、池あり、水あり、

氷が重なり、霧が重なる所のようである。

とても人が堪え忍んで住める場所ではないが、

そこで新たに仏道と幽玄な奥義の探究・教化が行われたのである。

我々は、禅師がこのように行持したという話を見聞しました。

これは身を正さずに聞くべき話ではないが、

行持に力を尽して報恩感謝することを知らなければ、

安易な気持ちで聞くことになるのだ。

しかし、心ある晩学後進ならば、

どうして当時のイ山を目前に想像して感銘を受けないだろうか。

このイ山の行持の道力 教化の功徳によって、

世界の根底は動かず、

世界は壊れず、天人たちの宮殿は穏やかであり、

人間の国土も保たれているのだ。

我々はイ山禅師の法孫ではないが、

イ山禅師は法の祖先であるは確かだ。

イ山禅師のもとへ、後に仰山が来て仕えた。

仰山は、もと亡き師 百丈禅師の所で、

十問われれば百答える舎利弗(しゃりほつ)のような知恵者だったが、

イ山禅師に師事して、

さらに牛(本来の自己)を看る三年の修行に精進した。

それは近来では絶えて見聞しない修行だった。

牛(本来の自己)を看る三年の己事究明の修行は、

そのほかに言うことが何もないようにした。


第19文段の解釈とコメント


この文段では第18文段に続き、立派な寺院もなく名聞・利養を離れ、

清貧と己事究明の修行に徹したイ仰宗の開祖イ山霊祐禅師と高弟仰山慧寂禅師の行持を紹介している。

仰山慧寂は、舎利弗尊者のような知恵者だったが、

イ山禅師に師事して、

さらに牛(本来の自己)を看る修行に精進した。

それは近来では絶えて見聞しない修行だった。

牛(本来の自己)を看る三年の己事究明の修行は、そのほかに言うことが何もないようにした

と仰山慧寂の参禅修行についても具体的に紹介している。


文章と内容には特に難しい箇所はない。

本来の自己を牛になぞらえる事例は十牛の図を参照されたい。

十牛図を参照)。


20

 第20文段


原文20


 芙蓉山の楷祖、もはら行持見成の本源なり。

国主より、定照禅師号、ならびに紫袍をたまふに、

祖うけず、修表具辞す。

国主とがめあれども、師つひに不受なり。

米湯の法味つたはれり。

芙蓉山に庵せしに、道俗の川湊するもの僅数百人なり、

日食粥一杯なるゆゑに、おほく引去す。

師ちかふて赴斎せず。

あるとき衆にしめすにいはく、

「夫れ出家は、塵労を厭ひ生死を脱せんことを求めんが為なり。

心を休め念を息めて攀縁を断絶す、

故に出家と名づく。

豈等閑の利養を以て、平生を埋没すべけんや。

直に須らく両頭撒開し、中間放下して、声に遇い色に遇うも、

石上に華を栽るが如く、利を見、名を見るも、

眼中に屑を著るに似たるべし。

況んや無始従り以来、是れ曾て経歴せざるにあらず、

又是れ次第を知らざるにあらず、頭を飜じて尾と作すに過ず。

止此の如くなるに於て、何ぞ須ん苦苦として貪恋することを、

如今歇ずんば、更に何れの時をか待たん。

所以に先聖、人をして只今時を尽却せんことを要せしむ。

能く今時を尽さば、更に何事か有らん。

若し心中無事なることを得ば、仏祖猶ほ是れ冤家の如し。

一切の世事、自然に冷淡にして、方に始めて那辺と相応せん」。

汝見ずや、隠山死に至るまで、肯て人を見ず。

趙州死に至るまで、肯て人に告げず。

ヘン担は橡栗を拾うて食とし、大梅は荷葉を以て衣とす。

紙衣道者は只紙を披、玄太上座は只 布を著く。

石霜は枯木堂を置てて衆と与に坐臥す、

只 汝が心を死了せんことを要す。

投子は人をして米を辨じ、同じく煮て共に餐せしむ、

汝が事を省取することを得んと要す。

且く従上(の諸聖、此の如くの榜様あり、

若し長処無くんば、如何が甘得せん。

諸仁者、若し也た斯に於いて体究せば、的に不虧の人也。

若し也た肯て承当せずんば、向後深く恐らくは力を費やさん。

山僧行業取ること無うして、忝く山門に主たり。

豈坐ら常住を費やして、頓に先聖の附嘱を忘る可けんや。

今 輙ち略古人の住持たる体例に学わんと欲す。

諸人と議定して更に山を下らず、斉に赴かず。

化主を発せず。

唯 本院の荘課一歳の所得をもて、

均しく三百六十分と作して、日に一分を取って之を用い、

更に人に随って添減せず。

以て飯に備べくんば、則飯と作し、

飯と作して足らずんば、則 粥と作し、

粥と作して足らずんば、則 米湯と作さん。

新到相見も茶湯のみ、更に煎点せず。

唯 一茶堂を置いて、自ら去って取り用ゆ。

務めて縁を省て、専一に辨道せんことを要す。

又 況や活計 具足し、風景 疎ならず。

華 笑むことを解し、鳥 啼くことを解す。

木馬 長えに鳴き、石牛善く走る。

天外の青山 色 寡く、耳畔の鳴泉 声無し。

嶺上 猿啼いて、露 中霄の月を湿し、

林間 鶴 唳いて、風 清暁の松を回る。

春風 起る時、枯木 龍吟し、

秋葉 凋みて、寒林 花散ず。

玉階苔蘚の紋を鋪き、人面煙霞の色を帯ぶ。

音塵寂爾(として、消息宛然たり。

一味蕭条として、趣向すべき無し。

山僧今日、諸人の面前に向かって家門を説く。

已に是れ便りを著けず。

豈更に去って陞堂入室し、拈槌竪払し、東喝西棒して

、眉を張り目を怒らし、癇病の発するが如くに相似たるべけんや。

唯上座を屈沈するのみにあらず、況や亦た先聖に辜負せん。

?見ずや、達磨西来して、少室山の下に到り、面壁九年す。

二祖、雪に立ち臂を断つに至って、謂つ可し、艱辛を受くと。

然れども達磨 曾て一詞を措了せず、二祖 曾て一句を問著せず。

還って達磨を喚んで、不為人と作んや、

二祖を喚んで、不求師と做(せ)んや。

山僧、古聖の做処を説著するに至るごとに、

便ち覚ふ、身を容るるに地無きことを、

懺愧す、後人の軟弱なることを。

又 況んや百味の珍羞、逓に相供養し、

道ふ、我は四事具足して、方に発心す可しと。

只 恐らくは做手脚迄らずして、便ち是れ生を隔て世を隔て去らん。

時光 箭に似たり、深く為に惜しむ可し。

然も是の如くなりと雖も、

更に他人の長に従って相度するに在(あ)り。

山僧也た強て汝を教ふることを得ず。

諸仁者、還って古人の偈を見るや。

『山田脱粟の飯、

野菜淡黄の韲(しい)、

喫せば則ち君が喫するに従す、

喫せざれば東西するに任す。』

伏して惟みれば同道、各自に努力せよ。珍重。」

 これすなはち祖宗単伝の骨髄なり。

高祖の行持おほしといへども、しばらくこの一枚を挙するなり。

いまわれらが晩学なる、

芙蓉高祖の芙蓉山に修練せし行持、したひ参学すべし。

それすなはち祇薗の正儀なり。

注:

楷祖: 芙蓉道楷禅師(1043 〜1118年)。投子義青禅師(1032〜83)の法嗣。

投子義青禅師に師事して悟り、

大陽山・大洪山などにおいて教化を行なった。

紫衣および定照禅師の号を賜わったが固辞して受けず、

罪を得て溜州に流された。

後許されて芙蓉山に庵を結び、

枯淡の生活を送った。 庵を結び、 定照禅師と呼ばれた。語要一巻がある。 

紫袍(しほう): 紫色のわたいれ。 

修表: 上奏文を作ること。

具辞:丁重に辞退すること。

米湯:   おもゆ。芙蓉道楷禅師の教団では米麦のとぼしい場合、

米麦に大量の水を加えておもゆに近い粥をつくって、

衆僧に給したと伝えられている。  

川湊:  川はながれ。湊はあつまる。

塵労:  俗世間の苦労。 

攀縁(はんえん): わずらわしい環境、俗事、俗縁。

利養: 身をこやし養うこと。

平生: ふだんの生活。

両頭:  両方の端、両極端。

撒開(さっかい): なげうち、はなすこと。

次第: 順序、由来、わけ、顛末、事のぐあい。

翻: ひるがえす、向きを変える。

苦苦: ねんごろに、切に。 

冤家(おんけ): 仇敵、あだ、怨家。 

圀: 爾の俗字。なんじ。

隠山:  潭州龍山禅師。馬祖道一禅師の法嗣。

山中に住み、ほとんど人に会わなかったという。

趙州:  趙州従シン禅師(778〜897)。

南泉普願禅師(748〜835)の法嗣。

趙州の「無」で有名。

「無門関」第1則を参照)。

ヘン担(へんたん): ヘン担暁了禅師。六祖慧能の法嗣。

大梅:  大梅法常禅師。馬祖道一禅師の法嗣。

大梅山に隠棲し、松の実を食べ、蓮の葉を衣服として生活したという。 

  紙衣道者(しえどうじゃ):琢州紙衣和尚。臨済義玄の法嗣。

披:  きる、こうむる、着衣する。

玄太上座(げんたいじょうざ):  南嶽玄泰上座。石想慶諸禅師の法嗣。

一生、絹織物の衣服を用いなかったことで知られている。

石霜: 石霜慶諸禅師。廬陵、新洽の人、姓は陳氏。

道吾円智禅師の法嗣。潭州、石霜山において教化を行なった。

888年死去、年82歳。普会大師とおくり名された。

枯木堂: 石霜慶諸禅師の道場においては、

僧侶か長時間にわたって坐禅し、

横になって寝ることが少なかったので、世人が僧侶を枯木衆と呼んだ。

枯木堂は枯木衆が坐禅する坐禅堂の意。

投子: 投子大同禅師。翠微無学禅師の法嗣。

舒州、懐寧の人。姓は劉氏。始め華厳教を学び、

後に翠微禅師に師事して開悟し、

故郷の投千山に帰って庵を造って住んだ。

914年死去、年96歳。慈済大師とおくり名された。

語録一巻がある。 

甘:  よろこぶ、満足する。

体究: 体験を通して究明する。

不虧(ふき)の人:  欠けるところのない完全な人格者。

体例(たいれい): 事の大体および内容・細則をいう。

斎(せい):  正式の食事。後援者に招待された正式の食事。 

化主:   信徒に勧めて三宝に供する布施。 

新到:  新たに教団に参加した僧。

煎点(せんてん):   煎茶と点茶。

煎茶は葉茶に湯をそそいで煎じ出すこと。

点茶は抹茶に湯をそそいで泡立たせること。

ここでは、教団の僧侶が全員僧堂に会して行茶を行なうことをいう。 

活計:  なりわい、生活の資。

風景:   けしき、風光。 

疎:   まばら、粗末。

木馬:   山中の木々を馬にたとえたもの。

石牛:  山中の石を牛にたとえたもの。

天外:   天のそと、はるかに遠い所。 

耳畔(にはん):   耳のほとり、耳のそば。

中将:  中天、中空。将はそら、天。 

枯木龍吟(こぼくりゅうぎん): 枯木は枯れた木,

何の変哲もない事物の象徴。

龍は神秘的な想像上の動物。吟は鳴く、うたう。

龍吟は神秘的な無音の音楽をかなでること。

枯木龍吟とは枯れた木のような

何の変哲もない事物でさえ、

神秘的な無音の音楽をかなでるという意味。

寒林華散: 寒々とした冬の林で、霜柱の花が散るの意。

玉階:  玉をちりばめたきざはし。

苔蘚(たいせん ):  苔はみずごけ。蘚は陰地にはえるこけ。

  苔類と蘚類の総称。コケ類。蘚苔。 

紋: 模様。

煙霞(えんか): もやかすみ。 

音塵:  おとずれ、音信。

宛然(えんねん): 明瞭なさま、見たままの姿。

一味:    一に惟れの意。ひたすら、もっぱら。

蕭条(しょうじょう): ものしずかなさま、ものさびしいさま。

趣向:   積極的におもむく、目的を定めてそれに向う。 

山僧:  禅僧の自称代名詞。謙遜の言葉。

家門:   いえ、家庭。ここでは釈尊が説いた教え。

不著便:  言い廻しをうまくするというようなことにはこだわらないこと。 

拈槌(ねんつい):木槌を手に取り上げること。

寺院内では僧侶に何かを知らせたり説法をしたりするような場合、

注意を喚起する意味で木槌を打つところから、

ここでは枯槌という言葉で説法を象徴している。

竪払(じゅほつ):  払子をたてるの意。

仏法に関する論議を戦わせる法戦をする際の動作。

竪払は法戦を象徴的に指すものと解される。

東喝西棒(とうかつせいぼう): 喝は大声で叱ること。

臨済義玄禅師などが特に喝を多用したと伝えられている。

棒は弟子を訓育するために棒で打つこと。

徳山宣鑑禅師などが特に活用したと伝えられている。

東および西は、ある場合には……、ある場合には

……、というふうに個々の具体的な場面を示す語。 

癇病(かんびょう): 小児の筋肉がひきつる病気。

屈沈(くっちん): 屈はくじく沈はしずませる。

上座: 長老ともいう。

教団における生活が二十年以上に及ぶ者をいう。

教団内における先輩格の僧侶。 

辜負(こふ): そむく、違背する。

皐はつみ、重いつみ。負はそむく。 

艱辛(かんしん): 艱難辛苦。

措了(そりょう):  おく、与える。 

做処(さしょ):  做はなすの意。作の俗字。

做処はやっている所。 

珍羞(ちんしゅう): 珍しくてうまいごちそう。

逓(たがい)に: たがいに、かわるがわる。 

四事: 仏教教団において供養の対象となる

四つのもの。飲食・衣服・臥具・湯薬。

生を隔つ:   生涯を何もせずに空費してしまう。

時光:    時間。

度:   わたる、時間を費やす、生活して行く。 

諸仁者:   仏教において人を呼ぶ時の称。

諸君、諸子の意。

脱粟(だつぞく)の飯:もみからを取ったばかりの玄米のめし。

韲(さい): つけもの、しおづけの菜。

東西: 東なり西なりへ自由に出かけること。

同道: 同じく仏道に志ざしている者に対する呼び掛けの言葉。

同志諸君。 

珍重(ちんちょう): 人に身体を大切にすることを勧める言葉。

人に自重自愛を勧める言葉。おだいじに。 

祗園(ぎおん): 祇園精舎。

祗園精舎はスダッ夕長者が、釈尊とその教団とのために建てた寺院。

ジェータ(祇陀)太子の林園(漢訳では祇樹給孤独園という)に

建てられたのでこの名がある。

多くの説法がこの地でなされた。

元は七層の建物があったというが、

玄奘が七世紀に訪れた頃はすでに荒廃していたという。



第20文段の現代語訳


芙蓉山の道楷禅師は、行持実践の本源ともいうべき人である。

国王から定照禅師号と紫衣を賜ったが、

師は受けず、書をしたためて辞退した。

国主は咎めたが、師は遂に受けなかった。

薄いお粥を食べて修行する質素倹約の宗風は世に伝わり、

師が芙蓉山に住すると、

出家在家の者が四方から集まって、その数は数百人になった。

しかし、毎日の食事はお粥一杯だけだったので、その多くは去って行った。

また、師は招待されても在家のお斎には行かなかった。

師はある時、修行僧達に示して言った、

「そもそも出家は、世間の煩悩の塵を厭い

生死輪廻を脱するのが目的である。

心を休め念をやめて外界との縁を断絶するから出家と呼ぶのである。

その出家が、どうして世間的利益のために

平生を埋没してよいだろうか。

直ちに有無、是非、善悪などの両極端や、

中間からも離れ、何を見聞しても、

石の上に花を植えたように根付かず執着しない。

利益や名声を見ても、

眼中に入るゴミを払うようでなければならない。

いわんや人は、遥か昔から今まで

名利を経験しなかった訳ではないし、

又 名利の始終を知らない訳ではない。

それはただ頭と尾を取り違えているに過ぎない。

こんなことを、どうして恋い貪ぼることがあろうか。

いま止めなければ、一体いつ止めると言うのか。

それ故、仏祖は、人々にただ今という時を

尽くすよう求めたのである。

よく今という時を尽くせば、さらに何事があろうか。

もし心中に無事を得たならば

仏祖でさえ心に波風を立てる仇のようなものである。

そうなれば一切の世事に自然に冷淡になって、

心を惹かれることがなくなる。

そうなって、始めて

仏の悟りの世界と相応するようになるだろう」。


あなた達は聞いたことが無いか。

隠山(潭州竜山)は死ぬまで進んで人に会おうとせず、

趙州は死んでも進んで人に知らせなかった。

ヘン担(暁了)は とちの実や栗を拾って食物にし、

大梅(法常)は 蓮の葉を衣にし、

紙衣道者(克符)は ただ紙を着、

玄太上座(南嶽玄泰)は ただ麻や綿布を着ていたのだ。

また石霜(慶諸)は枯木堂(僧堂)を建てて修行僧と共に坐臥し、

ひたすら皆の分別心が死にきることを求めた。

投子(大同)は人に米を調えさせて、

修行僧と共に煮炊きし共に食べて、皆の用事を少しでも省こうとした。

ひとまず、これらの祖師達方は、このような模範を示されたのだ。

もしそこに長所が無ければ、どうしてそれに甘んじておられようか。

諸君、もしここまで体得することが出来れば、

まことに欠けることのない人となるのである。

もしここで真実と合って修行できないならば、

今後おおいに無駄な努力をすることになるだろう。

山僧(私)は修行も至らぬ身で、忝なくも寺院の主となった。

どうして何もせずに寺院の資産を費やし、

すぐに先の仏祖の依嘱を忘れることが出来ようか。

今は一先ず、昔の仏祖の住持された規則に倣いたいと思う。

それは、諸人と合議して全く山を下りず、

また在家に招待されてもお斎の供養に赴かないことだ。

寄付を募る僧を派遣せず、

ただ当寺院の荘園一年分の所得を等しく三百六十に分けて、

日にその一を使い、人数によって全く増減をしないようにする。

それによって飯に炊ければ飯にし、

飯に足らなければお粥にし、お粥に足らなければ重湯にするのだ。

新たな入門僧との面会も茶湯だけにして茶菓子などは出さない。

それもただ茶を用意した部屋へ自ら行って、

自由に飲んでもらうのである。

努めて雑務を省いて専一に修行に精進するためである。

ましてここは生計が備わり、風景もよい。

花は咲き、鳥は鳴いている。

ここでも嘶くはずもない木の馬が嘶き、

走るはずもない石牛がよく走り回る

常識を超えた禅の世界と同じ世界が展開しているからだ。

天に聳える青い山は霞み、耳に響く泉の声は静かである。

山上に猿は啼いて、夜露は天空の月を濡らし、

林間に鶴は鳴いて、風は清らかな暁の松を吹きわたっている。

春風が吹けば、枯れ木は竜が鳴くようにビューと音を立てる。

秋には葉がしおれて、寒い林に紅葉の花を散らす。

苔むした石の階段はあや模様を広げ、

人の顔は霞に煙っている。

世間からの騒々しい音塵はここには届かない。

静かで自然そのものだ。

ただ閑寂があるだけで、さらに求めるべきものは何もない。

山僧(私)は今日、皆の前で仏祖の家風を説いたが、

これさえすでに余計なことである。

いまさら、どうして、法堂で説法したり、

室内で一人一人指導したり、槌を手に取ったり、

払子を立てたり、東西に喝や棒を行じて、

眉を吊り上げ目を怒らして、

癇癪を起こしたようなことをする必要があろうか。

そんなことは本来無用なことだ。

それは長老の修行僧をおとしめるだけでなく、

更に昔の仏祖にも背くことになろう。

お前達は知っているだろう。

達磨は西方インドから来て少室山の下に行き、

壁に向かって九年間坐禅したのである。

二祖慧可は、達磨の法を求めて雪の中に立ち、

自分の臂を断ったのである。

それこそ艱難辛苦の求道である。

しかしながら達磨は、それまで二祖に一言も説かなかったのであり、

二祖もまた、それまで一言も尋ねなかったのだ。

だからと言って、達磨は人のために何もしなかったと言えるであろうか。

また二祖は師を求めなかったと言えるだろうか。

山僧(私)は、昔の仏祖の行いを説く度に

、身の置き場のない思いをし、

後世の人間の軟弱なことを慚愧するのである。

まして今では、百味の御馳走を互いに供養し合って言うことには、

自分は食事や衣服、寝具 薬などを備えて、

まさに発心して修行が出来るんだと。

こんなことでは手足の振る舞いも修まらず、

仏道から生を隔て世を隔てて離れてしまうだろう。

時間は矢のように速いのだから、深く惜しまねばならない。

しかしこのようであっても、

修行は他人の長所に従って互いに助け合うことが大切である。

私が強制してあなたに教えようとしても出来ないのだ。

諸賢よ、次のような古人の詩を見たことがあるだろうか。

『山の田で取れた玄米の飯と、黄ばんだ野菜のつけもの。

これを食べる食べないは君に任せる。

食べないのなら何処でも自由に行けばよいのだ。』

思えば同じ道を歩く者同志ではないか、

各自努力しなさい。ではお大切に!」

芙蓉高祖の行持は多いけれども、とりあえずその一つを取り上げた。

今、我々晩学後進の者は、

芙蓉高祖が芙蓉山で修練した行持を、慕って学ぶべきである。

それこそ祇園精舎から続く釈尊の正しい仏法である。



    20.1

第20文段の解釈とコメント


道元は芙蓉道楷禅師(1143〜1118)を行持実践の本源として高く評価している。

芙蓉道楷は国王から禅師号と紫衣を賜ったにもかかわらず、

受けず、辞退した。

国主は咎めたが、遂に受けなかった。

彼の道場は薄いお粥を食べて修行する質素倹約の宗風で、

彼が芙蓉山に住すると、出家在家の者が四方から数百人集まった。

しかし、毎日の食事はお粥一杯だけだったので、多くは去って行った。

また、彼は招待されても在家のお斎には行かなかった。

道元は芙蓉道楷の説法を引用して、彼の行持を紹介している。

芙蓉道楷禅師の説法の内容は以下のようである。 

1.

出家は、世間の煩悩の塵を厭い生死輪廻を脱するのが目的である。

心を休め念をやめて外界との縁を断つのが肝要だ。

2.

出家はつまらない世間的利益のために平生を埋没してはならない。

3.

出家は有無、是非、善悪などの両極端や、中間から離れ、

何を見聞しても、石の上に花を植えたように執着すべきでない。

利益や名声に対しても、眼中に入るゴミを払うようにすべきだ。

4.

名利を求め貪ぼってはならない。

5.

仏祖は、人々にただ今という時を尽くすよう求めた。

今という時に力を尽くすべきだ。

もし心中に無事を得たならば、

仏祖でさえ心に波風を立てる仇のような存在となる。

そうなれば一切の世事に自然に冷淡になって、心を惹かれることがなくなる。

そうなると、始めて仏の悟りの世界と相応するようになる。

6.

隠山(潭州竜山)は死ぬまで進んで人に会おうとせず、

趙州は死んでも進んで人に知らせなかった。

このような生き方を学ぶべきだ。

7.

ヘン担(暁了)は 栃や栗の実を拾って食物にした。

大梅(法常)は 蓮の葉を衣にし、紙衣道者(克符)は ただ紙を着、

玄太上座(南嶽玄泰)は ただ麻や綿布を着るような質素な生活に徹した。

石霜(慶諸)は枯木堂(僧堂)を建てて修行僧と共に坐臥し、

ひたすら皆の分別心が死にきることを求めた。

投子(大同)は人に米を調えさせて、

修行僧と共に煮炊きし共に食べて、皆の用事を少しでも省こうとした。

これらの祖師達の模範的生活と長所を学ぶべきである。

もしそれを得出来れば、真に円満無欠の人となる。

もし彼らのように修行できないならば、今後無駄な努力をすることになる。

8.

芙蓉道楷は住持としての信念を次のように述べている。

a.

昔の仏祖が住持した時の規則を見習う。

b.

諸人と合議して山を下りず、在家に招待されてもお斎の供養に赴かない。

c.

寄付を募る僧を派遣しない荘園一年分の所得を等しく三百六十に等分し、

日にその一を使い、人数によって増減をしないようにする。

d.

入手した米を用いて飯に炊ければ飯にし、

飯に足らなければ水を加えてお粥にし、お粥に足らなければ重湯にする。

e.

新人の入門僧との面会も茶湯のみにして、茶菓子は出さない。

お茶を用意した部屋で、自由に飲んでもらう。

これによって雑務を省き専一に修行に精進してもらう。

f.

法堂で説法したり、室内で一人一人指導したり、槌を手に取ったり、

払子を立てたり、喝や棒を行じて、眉を吊り上げ目を怒らして、

癇癪を起こしたようなことをしない。

そんなことは本来無用だ。

そんな教育法では長老の修行僧をおとしめ、昔の仏祖にも背くことになる。

g.

達磨は西方インドから来て少室山の下に行き、壁に向かって九年間坐禅した。

二祖慧可は、達磨の法を求めて雪の中に立ち、

自分の臂を断って求道の信念を示した。

それこそ艱難辛苦の求道であり、彼等に学ぶべきだ。

達磨は、二祖に一言も説かなかったのであり、二祖もまた、一言も尋ねなかった。

だからと言って、達磨は人のために何もしなかったのではない。

また二祖は師を求めなかったのでもない。

それは無言実行の修行だったのだ。

修行僧は、昔の仏祖の行いを説く度に、

身の置き場のない思いをし、後世の人間の軟弱なことを慚愧すべきだ。

  今では、百味の御馳走を互いに供養し合って言うことは、

自分は食事や衣服、寝具 薬などを充分に備えて、

まさに発心して修行が出来るんだと言うが、

そんな軟弱な道心を慚愧反省すべきだ。

そんなことでは手足の振る舞いも修まらず、

真の仏道から遠く離れてしまうだろう。

時間が過ぎるのは矢のように速い。

深く反省しなければならない。

しかしこのようであっても、

修行は他人の長所に従って互いに助け合うことが大切である。

誰かが強制して教えようとしてもどうしようもないのだ。

芙蓉道楷禅師の説示を読むと分かるように、

芙蓉道楷禅師が説いているのは、主として、名利を離れた、質素倹約と清貧の生活である。

そこで説かれているのは中国の儒教的な道徳であり、

見性成仏」や「自性の三身仏」など六祖慧能以来の禅の精神が少ないのに驚かされる。

芙蓉道楷禅師は「青山常運歩」の言葉で知られる高僧である。

道元禅師も大変尊敬している。

山水経1を参照)。

道元禅師も尊敬する芙蓉道楷禅師の説法が

質素倹約などを主とした儒教的道徳であり、

見性成仏」や「自性の三身仏」など六祖慧能以来の禅の精神がないのに疑問を持たざるを得ない。


ここまでくると、中国の曹洞宗儒教に吸収され中国では消滅するしかないと思われる。


この文段の最後尾において、

芙蓉道楷禅師の行持実践に関する説法を紹介した後

道元は次のように述べる、

芙蓉高祖の行持は多いが、とりあえずその一つを取り上げた

今、我々晩学後進の者は

芙蓉高祖が芙蓉山で修練した行持を、慕って学ぶべきである

それこそ祇園精舎から続く釈尊の正しい仏法である。」

この文章から分かるように、

「芙蓉道楷禅師が芙蓉山で修練した行持」について道元禅師は

「芙蓉道楷禅師が芙蓉山で修練した行持」は「祇園精舎から続く釈尊の正しい仏法である。」と考えている。

   

しかし、芙蓉道楷禅師が芙蓉山で修練した行持は

インド仏教において祇園精舎から続くゴータマ・ブッダの原始仏教には殆ど見られない儒教的なものである。

中国の禅宗において新しく発生し、

大勢の修行僧の集団生活において発展した中国独自の仏道だと言うしかないだろう。

道元が述べるように

祇園精舎から続く釈尊の正しい仏法である。」

と言うことは、決してできない。

図17に 芙蓉道楷禅師が関係する曹洞宗の法系図を図示する。

   
図17

図17 芙蓉道楷禅師が関係する曹洞宗の法系図 


21

 第21文段


原文21

洪州江西開元寺大寂禅師、譚は道一、漢州十方県人なり。

南嶽に参侍すること十余載なり。

あるとき郷里にかへらんとして、半路にいたる。

半路よりかへりて焼香礼拝するに、南嶽ちなみに偈をつくりて、

馬祖にたまふにいはく、

勧君すらく帰郷すること莫れ、帰郷は道行われず

並舎の老婆子、汝が旧時の名を説かん。」

この法説をたまふに馬祖うやまひたまはりて、ちかひていはく、

われ生生にも漢州にむかはざらん」と。

誓願して、漢州にむかひて一歩をあゆまず、江西に一住して、

十方を往来せしむ。

わづかに即心是仏を道得するほかに、さらに一語の為人なし。

しかありといへども、南嶽の嫡嗣なり、人天の命脈なり。


注:

洪州: 江西省南昌県。

江西: 揚子江中流南岸の地。 

開元寺:唐の玄宗皇帝が738年(開元二十六年)

に、全国に命令して各州に一個寺ずつ建てさせた寺院。

わが国の国分寺に似ている。

江西の開元寺は馬祖道一禅師が居たことで名高い。  

大寂禅師: 馬祖道一禅師(709〜788)。

 南嶽懐譲禅師の法嗣。姓は馬氏。漢州、什部の人。

資州の唐和尚のもとで出家し、伝法院において坐禅をした。

その時、南嶽懐攘禅師と出会い、これに師事して開悟した。

後、江西の馬机山において教化を行ない、

門下から百丈懐海・西堂智蔵・冷泉普願・大梅法常等の諸禅師を輩出した。

大寂禅師とおくり名された。語録一巻がある。

漢州:  四川省広漢県。 

半路: 道の途中。

並舎: 並はならぶ。奴舎は隣り合せに並んだ家屋。 

法語: 仏法を説示した言葉。 

生生:  生涯のどんな時においても。 

即心即仏: 心こそ仏そのものである。

「即心是仏」を参照)。

命脈:   生命と血脈と。いのものつな、いのち。

転じて重要な事物。



第21文段の現代語訳

 洪州 江西 開元寺の大寂禅師(馬祖)は、名を道一といい、

漢州十方県の人である。

師は南嶽懐譲禅師に仕師事して十数年だった。

ある時、郷里に帰ろうとして途中まで行くと、

思い返したように引き返して焼香礼拝した。

そこで南嶽は次の詩を作って馬祖に与えた。

君に勧めるが、帰郷しては駄目だよ

帰郷すれば仏道を修行できない

郷里では家々の老婆が、お前を昔の名を呼ぶからだ。」

この詩を与えると、馬祖はうやうやしく頂戴して、誓って言った、

私は今後、何度生まれ変わっても、故郷の漢州には行きません。」

  このように誓い、再び漢州に向かって一歩も歩むことはなかった。

そして、専ら江西に住むと、諸方の修行者が往来した。

馬祖は、ただ

即心是仏(この心がそのまま仏である)」

と説くだけで、他には何も説かなかった。

しかし馬祖は、南嶽の仏法の嫡子であり、

人間界と 天上界の命とも言える人である。

第21文段の解釈とコメント

ここでは南嶽懐譲と馬祖道一の会話(逸話)を通して

馬祖の行持を紹介している。

ある時、馬祖は郷里に帰ろうとする旅の途中、

思い返したように引き返して焼香礼拝した。

そこで南嶽は次の詩を作って馬祖に与えた、

君に勧めるが、帰郷しては駄目だよ

帰郷すれば仏道を修行できない

郷里では家々の老婆が、お前を昔の名を呼ぶからだ。」

この詩を、馬祖はうやうやしく頂戴して、誓って言った、

私は今後、何度生まれ変わっても、故郷の漢州には行きません。」

  このように誓い、再び故郷に向かって一歩も歩むことはなかった。

そして、専ら江西に住むと、諸方の修行者が往来した。

これを読むと馬祖は情に厚い人間味の濃い人であったようだ。

その性格を師である南嶽懐譲は分かっていたので、

君に勧めるが、帰郷しては駄目だ

帰郷すれば仏道を修行できない

郷里では家々の老婆が、お前を昔の名を呼ぶからだ。」

という詩を与えて帰郷しないように言ったと思われる。

帰郷したら、郷里では家々の老婆が、お前を昔の名を呼ぶだろう。

そうすると情に厚い馬祖は情にほだされて

南嶽懐譲の道場に戻らないだろうと考え、

詩を与えて帰郷しないように伝えたと思われる。

南嶽懐譲は修行熱心な馬祖を将来性のある人物

だと認めていたので

このような詩を与えて引き留めたのであろう。

実際馬祖は南嶽懐譲の法嗣となった人である。

南嶽は馬祖を自分の法を継ぐべき逸材だと考えていたので

このような詩を与えて引き留めたと考えられる。

道元禅師は馬祖について、馬祖は、ただ

即心是仏(この心がそのまま仏である)」

と説くだけで、他には何も説かなかったと述べている。

しかし、馬祖道一の禅思想は多彩であり、「即心是仏」だけに止まらない。

馬祖は、ただ「即心是仏」と説くだけで、他には何も説かなかった」とは言い過ぎではないだろうか。



彼の<作用即性>、<日用即妙用>、<平常心是道>などの

名文句と禅思想は有名である。

馬祖道一の禅思想を参照)。


「即心是仏」を参照)。


22

 第22文段


原文22

いかなるかこれ莫帰郷。

莫帰郷とはいかにあるべきぞ、

東西南北の帰去来、ただこれ自己の倒起なり。

まことに帰郷道不行なり、

道不行なる帰郷なりとや行持する、帰郷にあらざるとや行持する。

帰郷なにによりてか道不行なる。

不行にさへらるとやせん、自己にさへらるとやせん。

公舎老婆子は、説汝旧時名なりとはいはざるなり。

公舎老婆子、説汝旧時名なりといふ道得なり。

南嶽いかにしてかこの道得ある、

江西いかにしてかこの法語をうる。

その道理は、われ向南行するときは、

大地おなじく向南行するなり。

余方もまたしかあるべし。

須弥大海を量として、しかあらずと疑殆し、

日月星辰に格量して猶滞するは、小見なり。


注:

帰去来: 帰り去ることを促す語。

  いざかえろう。来は助辞。 

倒起: 倒れたり起きたり、寝たり起きたり。

須弥:  須弥山。

疑殆(ぎたい):うたがいあやぶむこと。

格量: はかる。

猶滞: 猶はためらう、

人が疑惑して容易に決行しないこと。滞はとどこおる。


第22文段の現代語訳

では「莫帰郷」 という言葉の意味は、一体何だろうか。

東西南北の故郷に帰ることは、自分に背くことである。

まことに、帰郷すれば仏道は行われないことになる。

仏道が行われないのは、帰郷が原因と考えるべきか、

帰郷が原因ではないと考えるべきか。

帰郷するとどうして仏道が行われないことになるのか。

それは行わないことに妨げられるだろうか、

それとも自分自身に妨げられるのだろうか。

南嶽は家々の老婆は お前の昔の名前をよぶであろうから、

とは言っていない。

家々の老婆は お前の昔の名前をよぶだろう、

という話をしただけである。

南嶽は、どうしてこのように説いたのだろうか。

江西は、どのようにこの教えを会得したのだろうか。

その道理とは、自分が南へ向かって行く時には、

大地も同じように南へ向かって行くのだ。

他の方角でもまたその通りである。

これを須弥山や大海の大きさから、そうではあるまいと疑ったり、

太陽や月 星などの大きさを推量して、ためらったり、

停滞することは、小さな見方である。

第22文段の解釈とコメント

第22文段は第21文段の続きである。

この文段で「莫帰郷」の詩について道元が言っていることはそんなに難しくない。

しかし、この文段の最後尾に出て来る

その道理とは、自分が南へ向かって行く時には

大地も同じように南へ向かって行くのだ

他の方角でもまたその通りである。」

という言葉が分かり難い。

物理的には、馬祖が郷里(南方)に向かえば、郷里に近づくが、

道場のある南嶽衡山からは遠ざかるはずである。

しかし、道元は

南へ向かって行く時には

大地も同じように南へ向かって行くのだ。」

と述べている。

道元は相対運動ということを分らなかったのであろうか?

この不思議な言葉は道元禅師が重視した「心境一如」の思想に基づいて考えれば説明できる。

心境一如」の状態は「主・客分離以前の状態」で、

自己の心と対象(境)の区別や対立が無くなり一つになることを言う。


「公案8.25 心とは山河対地なり」を参照)。


心境一如」の状態では、自分と対地は一つになる。

自分が南へ向かって行く時には大地も同じように南へ向かって行くと考える。

そのように考えると相対運動もないことになる。

このように考えると「莫帰郷」の詩について道元が言っている不思議な言葉:


南へ向かって行く時には

大地も同じように南へ向かって行くのだ。」

も理解できる。



23

 第23文段


原文23

 第三十二祖大満禅師は黄梅の人なり。俗姓は周氏なり、母の姓を称なり。

師は無父而生なり、たとへば李老君のごとし。

七歳伝法よりのち、七十有四にいたるまで、

仏祖の正法眼蔵、よくこれを住持し、

ひそかに衣法を慧能行者に付属する、不群の行持なり。

衣法を神秀にしらせず、慧能に付属するゆえに、正法の壽命不断なるなり。


注:

第三十二祖: 摩詞迦葉尊者から数えて第三十二代目の禅の指導者。

 中国禅の第五祖弘忍禅師(602〜675)。

六祖壇経を参照)。

雲居山において教化を行ない、三十年の長きに及んだという。

902年死去、弘覚大師とおくり名された。  

大満禅師:  中国禅の第五祖大満弘忍禅師(602〜675)。

大医道信禅師の法嗣。斬州黄梅の人、姓は周氏。

第四祖道信禅師から仏法を承継して後、

黄梅県の東禅寺において教化を行なった。

門下から大鑑慧能禅師・神秀上座等が出た。

大満禅師とおくり名された。 

李老君: 老子。

付属: たのむ、託する、まかせる。



第23文段の現代語訳

第三十二祖、大満禅師(弘忍、602〜675)は黄梅県の人である。

俗姓は周氏で、母の姓を名乗っていた。

禅師は父なくして生まれ、

それは李という母の姓を名乗った李老君(老子)に似ている。

禅師は、七歳で法を受け継いでから七十四歳まで、

仏祖の正法眼蔵(正法の真髄)をよく護持して、

密かに伝来の袈裟と正法を、慧能行者に託したことで、

正法の命脈は今日まで絶えることがないのである。

第23文段の解釈とコメント

ここでは六祖慧能の師である大満禅師(五祖弘忍、602〜675)

について紹介している。

第三十二祖、大満禅師(弘忍、602〜675)は

七歳で法を受け継いでから七十四歳まで、

仏祖の正法眼蔵(正法の真髄)をよく護持して、

密かに伝来の袈裟と正法を、慧能行者に託したことで、

正法の命脈は今日まで絶えることがないと

弘忍禅師の功績を讃えている。

ここで道元は五祖弘忍は七歳で法を受け継いだと述べて言っているが

これは信じられないのではないだろうか。

『楞伽師資記』では7歳で東山の四祖道信の弟子となったとしている。

弘忍が7歳で四祖道信の弟子となったことを、

誤って7歳で四祖道信の法を受け継いだ(受法した)と誤解(or誤記)した可能性も考えられる。



道元禅師さえ14才で出家し、28歳で如浄禅師から法を受け継いだとされている。



いくら弘忍が天才であったとしても、わずか7歳の子供が四祖道信の法を受け継いだとは考えられないのではないだろうか。



24

 第24文段


原文24


 先師天童和尚は越上の人事なり。

十九歳にして教学をすてて参学するに、七旬におよんでなほ不退なり。

嘉定の皇帝より紫衣師号をたまはるといへども、つひにうけず、修表辞謝す。

十方の雲納ともに崇重す、遠近の有識ともに随喜するなり。

皇帝大悦して御茶をたまふ、しれるものは奇代の事と讃歎す。

まことにこれ真実の行持なり。

そのゆゑは、愛名は犯草よりもあし。

犯禁は一時の非なり、愛名は一生の累なり、

おろかにしてすてざることなかれ。

くらくしてうくることなかれ。

うけざるは行持なり、すつるは行持なり。

六代の祖師、おのおの師号あるは、

みな滅後の勅諡なり、在世の愛名にあらず。

しかあれば、すみやかに生死の愛名をすてて、

仏祖の行持をねがふべし。

貪愛して禽獣にひとしきことなかれ。

おもからざる吾我を、むさぼり愛するは、

禽獣もそのおもひあり、畜生もそのこころあり。

名利をすつることは、人天もまれなりとするところ、

仏祖いまだすてざるはなし。

あるがいはく、衆生利益のために貪名愛利すといふ、

おほきなる邪説なり、附仏法の外道なり、謗正法の魔党なり。

なんぢいふがごとくならば、不貪名利の仏祖は利生なきか。

わらふべし、わらふべし。

又不貪の利生あり、いかん。

又そこばくの利生あることを学せず、

利生にあらざるを利生と称する魔類なるべし。

なんぢに利益せられん衆生は、堕獄の種類なるべし。

一生のくらきことをかなしむべし、愚蒙を利生に称することなかれ。

しかあれば、師号を恩賜すとも上表辞謝する、

古来の勝躅なり、晩学の参究なるべし。

まのあたり先師をみる、これ人にあふなり。

先師は十九歳より離郷尋師、弁道功夫すること

、六十五載にいたりて、なほ不退不転なり。

先師は十九歳より、離郷尋師、辨道功夫すること、

六十五載にいたりてなほ不退不転なり。

帝者に親近せず、帝者にみえず。

丞相と親厚ならず、官員と親厚ならず。

紫衣師号を表辞するのみにあらず、一生まだらなる袈裟を搭せず、

よのつねに上堂、入室、みなくろき袈裟、トッ子をもちゐる。

衲子を教訓するにいはく、「参禅学道は、第一 有道心、これ学道のはじめなり。

この二百年来、祖師道はすたれたり、かなしむべし。

いはんや一句を道得せる皮袋すくなし。


注:

天童和尚: 天童如浄禅師(1163〜1129)。 雪喪智鑑禅師の法嗣。

長翁如浄禅師といい、天童は住山の名である。

始め雪斉山において足巷智鑑禅師に師事し、

庭前柏樹予に関する説話を機縁として、悟った。

その後、諸方を遊歴することが四十年に及んだが、

その間請われて有名な寺院の住職をつとめた。

そして浄慈寺の住職をした後、

1224年、勅命によって天童山景徳禅寺の住職となり、

この時道元禅師が師事した。

越上: 中国における南方の国の名。

今日の浙江省地方がこれに該当する。上はほとりの意。 

人事: ここでは単にひとの意。 

教学:仏教学。

参学: 参禅学道の略。坐禅を通して仏道を探究すること。

嘉定の皇帝:  嘉定は中国、南宋の時代の年号。

南宗の寧宗皇帝(在位:1194〜1224)。

紫衣: 紫の僧衣。むかしは勅許によって着用した。

師号: 大師とか禅師とかの称号。

崇重: あがめ重んずる。

有識:  ものしり、見識のある人。

随喜: 他人のなす善根功徳をみて、

これに随い喜びの心を生ずること。

心からありがたく感ずること。

大悦: 大いに喜ぶこと。悦はよろこぶ。

讃歎: ほめたたえこと。

愛名: 名利を愛すること、名誉や利得を愛すること。

犯禁: 禁戒を犯すこと、戒律を破ること。

あし:悪い。

非: とが、あやまち。

累:  わずらい、障害。 

くらい: 物を弁別する智力がない。暗愚である。

六代の祖師: 中国禅における六代の祖師。

初祖達磨大師から、六祖大鑑慧能禅師に至るまでの六人の禅師。

滅後: なくなった後。

勅諡(ちょくし): 勅はみことのり、天子からの言葉。

勅命によって諡(おくりな)を賜うこと。また、その諡(おくりな)。

禽獣:   鳥やけだもの。

むさぼる: 飽くことを知らずほしがる、よくばる。

利益: みずから益することを功徳というに対して、

他を益することを利益という。めぐみ。 

付仏法: 付は託する、たのむ。

付仏法は釈尊の説かれた悟り理法に依拠すること。  

膀正法: 釈尊の説かれた正しい仏法を誹膀すること。 

利生: 衆生を利益すること。

堕獄: 堕地獄の略。地獄におちること。

恩賜: めぐみたまわる。君主などから賜わること。 

丞相: 官名。丞は承に同じ。相は助ける。

丞相は君命を承け、これを助けるの意で、執政の大臣。

官員: 官吏、公務員。 

まだらなる袈裟: 模様のはいった美しい袈裟。 

トッ子(とっす): 僧侶の衣服の一種。

有道心: 道心すなわち仏法探究の心があること、

仏法の真理を得たいという切実な気持があること。



第24文段の現代語訳

先師 天童和尚(如浄)は、越州の人である。

十九歳で仏教学を捨てて禅門に学び、

七十歳になっても修行を止めることはなかった。

師は、南宋 嘉定の皇帝(寧宗)から紫衣と禅師の称号を賜ったが、

遂に受け取らず、書をしたためて辞退した。

この師の行いを諸方の修行僧は皆 尊重し、諸方の識者も皆 随喜した。

皇帝も大いに喜んで御茶を賜わった。

このように師の行いを知った者は皆、世にも希な事と褒めたたえた。

まことにこれは真の行持である。

何故ならば、名利を愛することは禁戒を犯すよりも悪いからである。

禁戒を犯すことは一時の過ちだが、

名利を愛することは一生の災いである。

これを愚かにも捨てないでいてはならない。

この道理に暗いまま名利を受け取ってはならないのだ。

名利を受け取らないことは仏祖の行持である。

名利を捨てることは仏祖の行持である。

中国の六代の祖師に、おのおの禅師大師の称号があるのは、

皆 死後に賜った追贈号であり、

名利のために生前に受けたものではないのだ。

だから、速やかに生死輪廻の因である名利を愛する心を捨てて、

仏祖の行持を願い求めるべきだ。

名利を貪り愛して禽獣のようになってはならない。

取るに足りない自分を貪り愛することは、

禽獣にもあり、畜生でもその心がある。

名利を捨てる人は人間界や天上界でも希であるが、

仏祖でそれを捨てなかった人はいない。

ところがある人は、人々を利益するために名利を求めるのだと言う。

しかし、それは大いに誤った考えでる。

そういう人は仏法にくっつく外道であり、

正法を謗(そし)る天魔の仲間である。

その者の言う通りなら、

名利を貪らない仏祖は人々を利益しないのだろうか。

実に笑うべきことだ。

又、仏祖が名利を貪らずに人々に利益を与えてきたことを、

どう考えるのか。

その者は、仏祖が人々に多くの利益を与えてきたことを学ばず、

人々の利益にならないことを人々の利益と称する魔のたぐいである。

その者に利益された人々は、地獄に堕ちる部類である。

その一生の暗いことを悲しむべきだ。

愚蒙な考えを人々を利益するためだと主張してはならない。

そうだから、禅師号 大師号などを賜っても、

書をしたためて辞退することは、古来からの勝れた行いであり、

晩学後進の学ぶべき事である。

私は目の当たりこのような我が師を見た。

これは、まことの人に会うことが出来たということだ。

先師(天童如浄)は、十九歳から郷里を離れ、

師を尋ねて仏道に精進し、六十五歳になっても、

尚 修行を怠ることはなかった。

師は、帝王に近付かず、帝王に見えず、

大臣と親密にならず、役人とも親交しなかった。

また、帝王の賜る紫衣や称号を辞退しただけでなく、

一生まだら模様の袈裟を身に着けず、

普段の法堂の説法や、室内の個人指導には、

すべて黒い袈裟やトッ子(とっす)を用いた。

師は修行僧に教訓して言った、

禅に参じ道を学ぶには、先ず第一に道心のあること

これが仏道を学ぶ始めである」。

しかし、この二百年来、祖師の道は廃れてしまった。

悲しいことである。

まして仏法の一句さえ言える者も少ない有り様である。



 第24文段の解釈とコメント

ここでは道元の師 天童和尚(如浄)は十九歳で仏教学を捨てて禅門に学び、

七十歳になっても修行を止めることはなかった

と如浄禅師の行持を紹介している。

師は、南宋皇帝寧宗から紫衣と禅師の称号を賜ったが、

遂に受け取らず、書をしたためて辞退した。

皇帝も大いに喜んで御茶を賜わった。

このように師の行いを知った者は皆、世にも希な事と褒めたたえた。

まことにこれは真の行持である。

何故ならば、名利を愛することは禁戒を犯すよりも悪いからである。

禁戒を犯すことは一時の過ちだが、名利を愛することは一生の災いである。

これを愚かにも捨てないでいてはならない。

この道理に暗いまま名利を受け取ってはならない。

名利を受け取らないことは仏祖の行持である。

名利を捨てることは仏祖の行持である。

中国の六代の祖師に、おのおの禅師大師の称号があるのは、

皆 死後に賜った追贈号であり、

名利のために生前に受けたものではない。

ここで、中国禅の六代の祖師に、おのおの禅師大師の称号があるのは、

皆 死後に賜った追贈号であり、

名利のために生前に受けたものではないからと追贈号は除外している。

速やかに生死輪廻の因である名利を愛する心を捨てて、仏祖の行持を願い求めるべきだ。


名利を貪り愛して、禽獣のようになってはならない。

取るに足りない自分を貪り愛することは、禽獣にもあり、畜生でもその心がある。

名利を捨てる人は人間界や天上界でも希だが、

仏祖でそれを捨てなかった人はいないと述べている。

ここで気になるのは名利を貪り愛して、自分を貪り愛することは、

禽獣にもあり、畜生でもその心があると

名利を貪り愛する心は禽獣や畜生であると述べている。

筆者の経験から

名利を貪り愛する心はかなり高等な心であり犬や猫のような禽獣や畜生には認められない。


彼等は食欲など本能的な欲望に基づいて生きているが、名利を貪り愛する心はかなり高等な心であり禽獣や畜生には認められない。


名利を貪り愛する人々は、地獄に堕ちる部類である。

その一生の暗いことを悲しむべきだ。

愚蒙な考えを人々を利益するためだと主張してはならない。

禅師号 大師号などを賜っても、書をしたためて辞退した如浄の行持は、

勝れた行いであり、晩学後進の学ぶべき事である。

私は目の当たりこのような我が師を見た。

これは、まことの人に会うことが出来たと如浄を絶賛している。

師は言った、

禅に参じ道を学ぶには、先ず第一に道心のあること

これが仏道を学ぶ始めである」。

しかし、この二百年来、祖師の道は廃れ、

仏法の一句さえ言える者も少ないのは悲しいことである。

この文段では道元の師

天童如禅師(1163〜1228)の名利を捨て

修行に専念した高潔な行持を紹介している。

ただ、筆者が疑問に思うのは

ここには禅の主目的とされる「直指人心、見性成仏」という六祖慧能以来の精神はなく道徳論に終始していることである。

達磨の四聖句を参照)。

     

禅や仏教の真の目的」は、はたして、「名利を貪り愛する心を離れることなのだろうか?」と疑問を感じざるを得ない。


第20文段の解釈とコメントを参照)。



25

 第25文段


原文25

 「某甲そのかみ径山に掛錫するに、光仏照そのときの粥飯頭なりき

上堂していはく

仏法禅道、かならずしも佗人の言句をもとむべからず、ただ各自理会」。

かくのごとくいひて、僧堂裏都不管なりき

雲来の兄弟もまたすべて不管なり

祇管に官客と相見追尋するのみなり

仏照ことに仏法の機関をしらず、ひとへに貪名愛利のみなり

仏法もし各自理会ならば、いかでか尋師訪道の老古錐あらん

真箇に是れ光仏照、曾て参禅せざるなり

いま諸方長老無道心なる、ただ光仏照箇の児子なり

仏法 那ぞ他が手裏に有ることを得ん。惜しむべし、惜しむべし。」。

かくのごとくいふに、仏照児孫、おほくきくものあれどうらみず。


注:

某甲:自称の代名詞。自分、それがし。

ここでは如浄禅師ご自身を指す。

径山:  浙江省杭州府余杭県の西北にある山の名。

天目山の東北蜂をなしており、

小径が天目山に通じているところから径山と呼ばれた。

山麓に径山興聖萬寿禅寺があり、

中国五山の一つに数えられる名刹である。

光仏照:執はとる、つかさどる。侍は侍者の意。

光仏照: 仏照徳光。

大慧宗杲(だいえそうこう、1089〜1163)禅師の法嗣。

光化寺吉禅師のもとで落髪し、大慧禅師の指導によって悟りを開いた。

台州光孝寺・霊隠寺等に住み、また育王山にも住んだ。奏対録一巻がある。

粥飯頭: 教団における長老の称。または教団における住職の別称。

都: すべて。

管:  つかさどる。とりしまる。

官客: 官公署関係の来客。

追尋: あとにつき従ってご機嫌をとること。

老古錐: 錐はきりの意で、

仏法の真理を探究する人材の象徴的表現。

過去における諸先輩で修行年限も長く、

真理の探究に対する態度も極めて真剱であった人々を指す。

箇:  物・所などを指す言葉。

佗: かれ、あれの意。



第25文段の現代語訳

私(如浄)が以前、径山の道場で修行した時

光仏照(徳光仏照)和尚は住持であった

和尚は上堂して言った

「仏法 禅道は、必ずしも他人の言句を求めるものとは限らない

ただ各自が自分で道理を会得すべきである。」

徳光仏照は、修行僧各自の自主的行為に任せて

僧堂内の事や諸方から来た修行僧達を

指導することなくすべて放任し

ひたすら官人と会うことに明け暮れているだけであった

この仏照和尚は、まったく仏法の根本を知らず

ひたすら名利を貪り愛すだけであった

和尚の言うように

仏法がもし各自が自分で道理を会得するものなら

どうして諸方に師を求め道を尋ねる古参の僧がいるだろうか

まことに光仏照和尚は

まったく師について禅を学んだことがないのである

今 諸方の長老で無道心なのは

もっぱら光仏照和尚の児孫である

仏法界がどうして彼等の手のうちにあるのだろうか

まことに残念で惜しむべきことだ。」


如浄禅師は、光仏照(徳光仏照)和尚についてこのように話した。

そこに光仏照和尚の児孫も多数参席し聞いていたが、

誰も恨む者はいなかった。



 第25文段の解釈とコメント

第25文段は第24文段の如浄の説示の続きである。

仏法の根本を知らず、

ひたすら名利を貪り愛すだけだった光仏照(徳光仏照)和尚の行持を紹介している。



仏法の根本を知らず、

道心もなく、ひたすら名利を貪り愛すだけだった光仏照(徳光仏照)和尚は道元禅師にとって反面教師だった。

光仏照(徳光仏照)和尚をそのように批判したのは

道元禅師の師 天童如禅師(1163〜1228)であった。

童如禅師がこのように批判した場所には仏照和尚の児孫も

多数参席し聞いていたが、誰も恨む者はいなかった。

仏照和尚の児孫は誰も光仏照(徳光仏照)和尚の行持を

敬愛していなかったため、

2代前の師が非難・批判されても、

それに同意することはあれ、誰も恨まなかったのである。

仏教の十重禁戒には説四衆過戒

(他人の過ちをことさらに非難したり責め続けない)

という戒律がある。

また仏教の十善戒には不悪口戒

(乱暴な言葉や悪口を言わない)がある。

このような基本的戒律を破ってまで

光仏照(徳光仏照)和尚の行持を非難しているのは、

光仏照(徳光仏照)がよほどひどい人物であったからだと思われる。


道元が渡宋し修行を始めたのは、1225年頃である。

この頃中国の禅は既に堕落し衰退していたことが分かる。

また道元が口を極めて名利を排斥し嫌うのは

このように堕落した中国の禅界を見ていたからではないだろうか。


いかし、同時に不思議に思うのは、人格高潔なはずの如浄禅師が何故、

十重禁戒の「説四衆過戒」や十善戒の「不悪口戒」を犯してまで、徳光仏照禅師を非難するのかという疑問である。

もし、如浄禅師が坐禅に打ち込んだ禅師であるならば、

光仏照(徳光仏照)和尚に対する憎しみの感情は消え失せると考えられるのだが・・・。


あるいは、如浄禅師は道元が称賛するほど人格高潔ではなく、「自讚毀他戒」も守れなかったくらいの人物だったのだろうか



26

 第26文段


原文26

又いはく、

参禅は身心脱落なり

焼香 礼拝念仏 修懺看経を用いず、 祗管に坐して始めて得ん。」

 まことにいま大宋国の諸方に、参禅に名字をかけ、

祖宗の遠孫と称する皮袋、ただ一、二百のみにあらず、

稲麻竹葦なりとも、

打坐を打坐に勧誘するともがら、たえて風聞せざるなり。

ただ四海五湖のあひだ、先師天童のみなり。

諸方もおなじく天童をほむ、天童諸方をほめず。

又すべて天童をしらざる大刹の主もあり。

これは中華にうまれたりといへども、禽獣の流類ならん。

参ずべきを参ぜず、いたづらに光陰を瑳過するがゆゑに。

あはれむべし、天童をしらざるやからは、

胡説乱道をかまびすしくするを、仏祖の家風と錯認せり。

先師よのつねに普説す、

われ十九載よりこのかた、あまねく諸方の叢林をふるに

為人師なし

十九載よりこのかた、一日一夜も不礙蒲団の日夜あらず

某甲未住院よりこのかた、郷人とものがたりせず

光陰をしきによりてなり

掛錫の所在にあり、荒夷寮舎、すべていりてみることなし

いはんや游山翫水に功夫をつゐやさんや

雲堂公界の坐禅のほか、あるひは閣上

あるひは屏処をもとめて、独子ゆきて、穏便のところに坐禅す

つねに袖裏に蒲団をたづさへて、あるひは巌下にも坐禅す

つねにおもひき、金剛座を坐破せんと

これもとむる所期なり。臀肉の爛壊するときどきもありき

このときいよいよ坐禅をこのむ

某甲今年六十五載、老骨頭懶、不会坐禅なれども

十方兄弟をあはれむによりて、住持山門、暁諭方来、為衆伝道なり

諸方長老、那裏に什麼の仏法か有らん、なるゆゑに。」

かくのごとく上堂し、かくのごとく普説するなり。

又諸方の雲水の人事の産をうけず。

注:

身心脱落:禅定三昧に没入して、

肉体とか精神とかというような意識が脱け落ちること。

風聞:  風のたよりにきく。うわさ、風説、風評。

四海: 四方の海。

五湖: 中国における代表的な五つの湖。

具体的にどの湖を指すかについては多数の説があり、一定しない。

大刹: 大寺院。

僧侶が悟りを開いた場合、旗を立てて遠方に知らせるが、

その旗柱を刹といい、転じて寺院を意味する。

胡説:  道理に合わない言葉、でたらめの議論。

乱道:  みだれた意見。

普説: 普く正法を説いて人々を啓発すること。

為人師:  人のために教化を行ない得る師匠。

凝: かける、のせる。

 住院: 寺院に住職として住まうこと。

郷人:  村里の人々。

掛錫の所在: 錫杖を掛けておく場所。

旅の修行僧が泊る場所。

奄裏:   庵の中。

翫水(がんすい):  川や湖などを賞翫すること。 

雲堂:  坐禅堂。

公界: 寺院内の公共の場所。

閣上: 高い建物の上。

屏処: 物の蔭になって大に見えない所。

独子: 独りの意。子は助字。

穏便: 安穏で便利なこと。

金剛座:   釈尊が悟りを開いた坐処。

マガダ国、ブッダガヤ、菩提樹の下にある。

上は地面に達し、下は金輪によるという一大石の平円板。 

老骨頭懶(ろうこつとうらん): 骨は老化し、

頭はぼけるの意。韻はものうい、おこたる。 

不会坐禅:  坐禅を実践するのみで、

それを理論的に理解したという訳ではないがの意。

十方兄弟:  十方はあらゆる方角。転じて全国各地の意。

兄弟は同じように仏道に志す僧侶。

山門: 寺院の楼門。転じて寺院全体を指す。

暁諭(ぎょうゆ):  さとす、いいきかせること。

方来: 四方から集まって来た人。

人事: 人に贈る礼物。つかいもの。

産:  産物、みやげ。


第26文段の現代語訳

又師(如浄禅師)は言った、

参禅(坐禅)修行は、身心が脱落することである

それは焼香 礼拝 念仏 懺悔、 読経を用いず

ひたすらに坐して始めて得られるものである。」

まことに今、大宋国の諸方には、参禅道場に名前を掛けて修行し、

仏祖法孫と称する者が、ただ百人二百人ばかりでなく、

数えきれないほど居るが、

坐禅に専念する人は、全く聞いたことがない。

それは広い中国の中で、先師如浄禅師だけだった。

又、諸方の長老は、等しく天童和尚を褒めたが、

天童和尚は諸方の長老を褒めなかった。

又 少しも天童和尚を知らない大寺院の主もいた。

これは中国に生まれたといっても、禽獣のような種類であろう。

彼等は学ぶべきことを学ばず、空しく月日を過ごしているからだ。

哀れなことに天童和尚を知らない者たちは、

でたらめな説をやかましくすることが、

仏祖の家風であると、思い違いをしているのだ。

先師、如浄和尚は、常に修行僧に説いた、

私は十九歳から広く諸方の禅道場で参禅修行をしてきたが

人の師と言うべき人物はいなかった

又、十九歳から今まで

一日一夜たりとも坐禅の蒲団に坐らない日は無かった

私は寺院に住持する前から、村人と雑談したことはない

時間が惜しいからである

また道場に居た時には、他の僧の部屋へは

まったく入って見たことがない

ましてや山水へ遊ぶことに時を費やすことはなかった

公の僧堂での坐禅の他に、楼閣の上や物陰を求めて

独りで適当な場所に行って坐禅をした

いつも袂(たもと)には坐禅の蒲団を携えて

ある時は岩の下でも坐禅したものである

そしていつも、釈尊が金剛座に坐って成道したように

坐禅の座を坐り破ろうと思っていた

これが私の望みであった

時折 臀の肉がただれることもあったが

その時はますます坐禅を好んだものである

私は今年六十五歳になり、老いぼれて物憂く

坐禅のことは分からないが

道を求める諸方の兄弟たちを哀れに思い

道場に住持して四方から来る人々を諭し

衆のために仏道を伝授している

諸方の長老たちの所には、まともな仏法が無いからである。」

このように先師は法堂で説法し、皆に説いた。

また、各地からやってきた雲水の手土産などは受け取らなかった。



 第26文段の解釈とコメント

第24、25文段に続き、第26文段では、如浄禅師の言葉を紹介しながら

如浄禅師の修行中心の行持を紹介し、如浄を称賛している。

道元の記述から如浄禅師の人物像がはっきりしてくる。

如浄は自分の修行ぶりを自慢し、平気で他の僧の悪口を言う。

如浄には、

中国には自分以外に人物らしい人物はいない」と、正直に自分の優秀さを自慢する性向があったようである。

著書「古仏のまねび<道元>」において、高崎直道博士は

如浄禅師について

如浄にはあまり哲人の相はない

彼はいささか軽率に他をそしり

無邪気に自己を自慢する人物のように見える

と述べている。この高崎直道博士の言葉より

如浄禅師は「自分こそ釈尊の正系であり、仏教の本家である」と広言するような自信家であったようだ。


彼の自信に満ちた言葉が純真で疑うことを知らない若い道元を感動させたようである。

道元禅師は

私は素晴らしい師に会った

彼こそ自分の求めていた師である

釈迦から達磨に伝わり、達磨から慧能に伝わる仏道が

この如浄という師の中に生きている

古仏が如浄の中に生き、語り、動いている

と感じたようである。

道元禅師は如浄のことを

「素晴らしい師で彼こそ古仏である」

と高く評価している。

しかし、冷静に客観的に見ると如浄の行持は仏教戒律の観点から

問題があると思われるようである。

仏教の十善戒には

不悪口戒( 乱暴な言葉や悪口を言わない)

と言う戒律がある。

また十重禁戒」には

説四衆過戒 (他人の過ちをことさらに非難したり責め続けない)

自讚毀他戒 (自分を褒めて他を見下すことはしない)

がある。

如浄の行持はこれらの戒律に抵触するように思われる。

戒律の観点に立つと、

道元禅師が言うように、「如浄禅師は素晴らしい師で、彼こそ古仏である」と一概に高く評価することはできない

ように思われる。



27

 第27文段


原文27

趙 提挙は、嘉定聖主の胤孫なり。

知明州軍州事、管内勧農使なり。

先師を請して、州府につきて陞座せしむるに、銀子一万テイを布施す。

先師 陞座了に、提挙にむかふて謝していはく、

某甲例に依って出山して陞座す

正法眼蔵涅槃妙心を開演し、謹んで以て先公の冥府に薦福す

但し是の銀子、敢へて拝領せじ

僧家、這般の物子を要せず

千万賜恩、旧に依って拝還せん。」

提挙いはく、

和尚、下官忝く皇帝陛下の親族なるを以て

到る処に且つ貴なり、宝貝見ること多し

今 先父の冥福の日を以て、冥府に資せんと欲ふ

和尚 如何納めたまはざる

今日多幸、大慈大悲をもて、少襯を卒留したまえ。」

先師曰く、

提挙の台命且つ厳なり、敢へて遜謝せず

只し道理有り、某甲 陞座 説法す

提挙 聰かに聴得すや否や。」

提挙曰く、

下官 只聴いて歓喜す。」

先師いはく、

提挙聡明にして山語を照鑑す、皇恐に勝へず

更に望むらくは台臨、鈞候万福

山僧 陞座の時、甚麼の法をか説得する、試みに道へ看ん

若し道ひ得ば、銀子一万テイを拝領せん

若し道ひ得ずんば、便ち府使銀子を収めよ。」

提挙、起って先師に向って云く、

即辰伏して惟みれば和尚、法候動止万福。」

先師いはく、

這固は是れ挙し来る底、那箇か聴得底なる

提挙 擬議(ぎぎ)す。

先師いはく、

先公の冥福円成なり、襯施は且く先公の台判を待つべし。」

かくのごとくいひて、すなはち請暇するに、

提挙いはく、

未だ不領なるをば恨みず、且喜ぶ師を見ることを。」

かくのごとくいひて、先師をおくる。

浙東浙西の道俗、おほく讃歎す。

このこと、平侍者が日録にあり。

平侍者いはく、

這の老和尚は、得べからざる人なり

那裏にか容易く見ることを得ん。」

たれか諸方にうけざる人あらん、一万テイの銀子。

ふるき人のいはく、

金銀珠玉、これをみんこと糞土のごとくみるべし。」

 たとひ金銀のごとくみるとも、不受ならんは衲子の風なり。

先師にこの事あり、余人にこのことなし。

先師つねにいはく、

三百年よりこのかた、わがごとくなる知識いまだいでず

諸人審細に辨道功夫すべし。」

注:

趙提挙: 趙汝活。宋の人。

太宗の八代後の孫。提挙は官名。

管理の意で、水利・茶塩など特種の事務を管理する官。

嘉定聖主:嘉定は宋の時代における年号の一つで、

1208年から1224年まで行なわれた。

嘉定聖主は、宋の寧宗皇帝を指す。

知明州軍:明州の軍隊の総指揮官。

州事管内勧農使:事はいとなむ、おさめる。

管内は受持ちの区域内、管轄する範囲内の意。

勧農使は官名、唐・宋が置いた。農事を勧める官。 

州府: 州の都。 

テイ(てい): のべがね。

宋代には重さによって流通した。

陞座了(しんぞりょう):法座に上っての正式な説法が

終った後をいう。

開演: 開示演説すること。

冥府: よみじ、冥土、死後の世界。

這般(しゃはん): このような種類、このような性質。

賜恩: 物を賜わったご恩。

依旧: もとのまま。

貴: 身分が高い。

宝貝: たから、宝物。

見: 現に。見はいま、まのあたり、

現在の意。現に同じ。

先父: 亡くなった父。

冥福之日: 死後の幸福を祈る日。

卒: あわただしく。にわかに。即座に

少襯(しょうしん): ささやかな贈り物。

台命: 将軍または三公・皇族などの命令。

且: 発声のための言葉。言葉自体に意味はない。

遜謝: へりくだり謝罪する。

聡: さとい、みみさとい、才智あきらかの意。

下官(あかん): 官吏が謙遜していう自称。

昭鑑: 照らしてみること。

山語: 山僧の言葉。

山僧は僧侶の自称代名詞。謙遜の言葉。

皇恐 おそれる、惶恐。

台臨: 身分の高い人が場に臨むこと。

鈎侯(きょうこう): 鈎は尊敬の意を表わす接頭語。

多く上官に対して用いる。

侯はさぶらう、高貴な人又は客に対して奉仕する。

試みに道(い)へ看(み)ん。:試めしに言葉で表現して見よ。

自分が評定してやろう。 

府使: 府は行政区劃の一域の称。

使は朝廷から派遣されて地方の事務をとる者。

即辰: 本日。

法侯: 僧侶の様子、機嫌。 

動止: たちいふるまい、挙措、動作。 

挙来底: いままで述べて来たところ。

那箇: どれが。

聴得底(ちょうとくてい):聴聞し得たところ。

円成: 完全に出来上ること、完成すること。

襯施(しんせ): 布施。

且(ただ): しばらく。

台判: 高貴な人の判断。

請暇(しんか):  暇を乞うこと、別れの挨拶をすること。

領す: ざとる、心にはたと理解する。

浙東: 浙江すなわち銭塘江の東。

道俗: 僧侶と俗人。

平侍者: 平という名前の侍者。

那裏: 他のどの場所で。

衲子(のっす): 衲衣(のうえ)を着けた者の意で、

特に禅僧のこと。 衲僧。


第27文段の現代語訳

趙 提挙は、宋の嘉定の皇帝(寧宗)の子孫である。

明州の軍と州を治める地方長官であり、州内の農事を司る長官でもある。

長官は、先師 如浄和尚を州の庁舎に招き、

説法をお願いして、銀貨一万テイを布施した。

先師は、説法が終わると長官に感謝して言った、

私は、慣例に従って山門を出て説法にお伺いし

正法眼蔵涅槃妙心を説いて

謹んで亡き御尊父の冥福をお祈り致しました

しかしながら、この銀貨は、どうしても頂く訳にはまいりません

僧侶は、このような物を必要としません

この有り余るお志は、これまでのように謹んでお返し致します。」

長官は言った、

和尚様、この私は忝いことに皇帝陛下の親族なので

何処へ行きましても貴ばれて、財宝を頂くことが多いのです

今日は亡き父の冥福を祈る日なので

冥府の父を助けてあげたいのです

和尚様は何故お納め下さらないのでしょうか

今日は本当に幸せでございます

どうか大慈大悲を以て

この少しばかりの施しをお納めください。」

先師は言った、

長官のお言葉はまことに厳しく

とてもお断り出来るものではございませんが

しかし、私にも訳がございます

私は先ほど高座で説法しましたが

長官は、それをはっきりとお聞き取りいただけましたでしょうか。」

長官は言った、

私は、ただただお話を聞いて、喜びで一杯です。」

先師は言った、

長官はご聡明であり

私の言葉をお聞き下されたことは、まことに恐れ多いことです。

更に願う所は、ご来臨 ご機嫌うるわしからんことを

それでは、私が説法した時に、どのような法を説いたのか

試しに言ってみてください

もし言うことが出来れば、銀貨一万テイを頂きましょう

もし言うことが出来なければ

長官はどうぞ銀貨をお収め下さい。」

長官は、立ち上がって先師に言った、

ただいま和尚様におかれましては、ご機嫌 万福に存じ上げます。」

先師は言った、

それは私が先ほど申し上げたことです

どのように私の説法をお聞きになられましたか」。

」 長官は何を答えたらよいか分らずまごまごした。

先師は言った、

亡くなられた御尊父の冥福は円満に果たされました

お布施の方は、一先ず御尊父の審判を待つことにしましょう。」

先師はこのように言って暇乞いをすると、

長官は言った

お布施をまだ受け取って頂けないことを残念には思いません

ただ師にお目にかかれたことを嬉しく思います。」

長官は、このように言って先師を送った。

この話を聞いた浙江省の東西の多くの道俗は賛嘆した。

このことは、平侍者の日々の記録にある。

平侍者は言った、

この老和尚は得難い人である

このようなお方には、何処でも容易にはお目にかかれないだろう。」

誰か諸方に、一万テイの銀貨を受け取らない人がいるだろうか。

昔の人は言った、

金銀珠玉を糞土のように見るべきだ。」

このように、たとえ金銀のようなものを見ても、

受け取らないのが禅僧の家風である。

先師 如浄和尚にこの家風があったが、

他の人には、このような事は無かった。

先師は常に言っていた、

三百年この方、私に匹敵するような指導者はまだ出ていない

諸君よ、おのおの油断することなく修行に精進しなさい。」



 第27文段の解釈とコメント


ここでも第24文段から続く如浄禅師の行持の話である。

地方長官の趙 提挙は先師 如浄和尚を州の庁舎に招き、

説法をお願いして、お礼に銀貨一万テイを布施した。

しかし、如浄和尚はこの銀貨一万テイの布施を辞退した。

この文段では、その時の如浄禅師と趙 提挙の

言葉のやりとりが紹介されている。

道元はそれを紹介することで如浄和尚が

いかに金銭に潔白な人格者であったかを紹介している。

しかし、これを読んで、筆者は少し複雑な気持ちになった。

確かに、如浄和尚がいかに金銭に潔白な人格者であったかは分かる。


しかし、それは倫理や道徳の問題であって、はたしてそこに禅の悟りや仏教の本質があるのだろうか? 


そうだとすれば坐禅などをしなくても

儒教道徳などを勉強し人格を清廉潔白に保てば良い。

禅や仏教の目的や本質はそのようなものであろうか?

如浄和尚はいかに金銭に潔白な人格者であったかは分かるし、

その行持も素晴らしい。



たしかに、人格の高潔さや清廉潔白は大切かも知れないが、

それは、倫理道徳の問題であり、禅の本質はそのようなものだろうか?

という疑問である。

文段の最後尾では如浄と趙 提挙の会話が紹介されている。

如浄は言った、

それでは、私が説法した時に

どのような法を説いたのか、試しに言ってみてください

もし言うことが出来れば、銀貨一万テイを頂きましょう

もし言うことが出来なければ、長官はどうぞ銀貨をお収め下さい。」

長官は言った、

ただいま和尚様におかれましては、ご機嫌 万福に存じ上げます。」

先師は言った、

私の説法をどのようにお聞きになられましたか。」

長官は何を答えたらよいか分らずまごまごした。

  先師は言った、

亡くなられた御尊父の冥福は円満に果たされました

お布施の方は、一先ず御尊父の審判を待つことにしましょう。」

如浄と長官との会話から

長官は如浄の説法を聞いていなかったことが分かる。

恐らく如浄の説法が退屈でつまらなかったからではないだろうか。

あるいは聞いたとしても

長官も分らないような難解な説法をしていたのだろうか?

説法の内容が書いてないのでどんな説法であったのか分からない。

そのような締まらない状況下において、

銀貨一万テイ(布施)を貰うかどうかの話が2人の中心話題であった。

結局、如浄は銀貨一万テイ(布施)を辞退する。

この話を聞いた浙江省の東西の多くの道俗は如浄の行持を賛嘆した。

このことは、平侍者の日々の記録にある。

平侍者は言った、

この老和尚は得難い人である

このようなお方には、何処でも容易にはお目にかかれないだろう。」

一万テイの銀貨を受け取らない人がどこにいようか。

昔の人は言った、

金銀珠玉を糞土のように見るべきだ。」

このように、たとえ金銀のようなものを見ても、

受け取らないのが禅僧の家風である。

先師 如浄和尚にこの家風があったが、

他の人には、このような事は無かった。

先師は常に言っていた、

三百年この方、私に匹敵するような指導者はまだ出ていない

諸君よ、おのおの油断することなく修行に精進しなさい。」

確かに如浄和尚は欲のない清廉潔白な人格者人であったかも知れない。

しかし、人格高潔で清廉潔白な如浄和尚から、

三百年この方、私に匹敵するような指導者はまだ出ていない

諸君よ、おのおの油断することなく修行に精進しなさい。」

という言葉を聞くと「修行に精進しなさい。」

の修行の意味は「高潔で清廉潔白な人格への修行か?」

と考えざるを得ない。

もう一つ気になるのは如浄の言葉

三百年この方、私に匹敵するような指導者はまだ出ていない。」

である。

この言葉より、著書「古仏のまねび<道元>」において、

高崎直道博士も述べているように、

如浄は無邪気に自己を自慢する人物である」ことが分かる。

図18に如浄禅師が言う如浄以前300年来の範囲に入る

可能性の高い禅師を考えて見た。

   
図18

図18  如浄禅師以前300年の範囲に

活躍した有名な禅師の生存年代 


図18に示したように、

如浄から見て300年来の範囲に入る禅師として、

雲門文偃禅師(864〜949)、雪峰義存禅師(822〜908)、

法眼文益禅師(885〜958)、芙蓉道楷禅師(1043 〜1118年)

などの禅師達がその中にはいる。

如浄は本当に、自分はこれらの禅師より

優れた禅の指導者だと考えていたのだろうか?

筆者は到底如浄禅師が彼等より優れた指導者だと考えることはできない。

既に述べたように、

仏教の「十重禁戒」には

説四衆過戒

(他人の過ちをことさらに非難したり責め続けない)

自讚毀他戒

(自分を褒めて他を見下すことはしない)

がある。



如浄禅師の自慢話はこれらの戒律、特に、自讚毀他戒 」に抵触するように思われる。



如浄禅師には、自己の実力を誇る慢心と驕りがあったのではないだろうか。



筆者にはそれが如浄禅師の人格の臭味に思われる。



如浄禅師は食わせ物の禅師であった可能性もある。



道元禅師はそれに気付かなかったのだろうか?



28

 第28文段


原文28

先師の会に、西蜀の綿州人にて、道昇とてありしは道家流なり。

徒党五人ともにちかふていはく、

われら一生に仏祖の大道を弁取すべし

さらに郷土にかへるべからず」。

先師ことに随喜じて、経行道業、とも衆僧と一如ならしむ。

その排列のときは、

比丘尼のしもに排立す、奇代の勝躅なり。

又福州の僧、その名善如、ちかひていはく、

善如、平生さらに一歩をみなみにむかひてうつすべからず

もはら仏祖の大道を参ずべし」。

先師の会に、かくのごとくのたぐひ、

あまたあり、まのあたりみしところなり。

余師のところになしといへども、大宋国の僧宗の行持なり。

われらにこの心操なし、かなしむべし。

仏法にあふときなほしかあり、

仏法にあはざらんときの身心、はぢてもあまりあり。


注:

西蜀:  蜀の地、いまの四川省。

西の方にある蜀の地。 

綿州:州名。隋の時代に置かれた。

清の時代には四川省に属し、

徳陽・安・絲竹・絆澄・羅江の五県を管轄区域とした。

いまの肺陽県。 

道家流: 老荘の教えを汲む系統。 

随喜: 心から喜ぶこと。 

経行(きんひん):坐禅の中間において、

足のしびれをなおしたり、睡気をさましたりするため、

手を叉手(しゃしゅ)に組んで胸に当て、しずかに歩くこと。 

道業: 真理を探究するための行為。ここでは坐禅のこと。 

福州: 州名、唐の時代に置かれた。福建省間侯県。 

僧宗: 多くの僧侶によって形成されている広範な団体。

僧侶と同義。

心操: 操はあやつる、とりあつかうの意。、心のたもち方。 


第28文段の現代語訳

先師の道場に、西蜀 綿州の人で、道昇という道家の人がいた。

道昇は仲間五人と共に誓って言った、

我等は、この一生の中に仏祖の大道を会得するつもりで

それまでは決して郷土に帰らない」。

先師はそれを特に喜こび、

経行・道業などの修行を修行僧たちと同じにさせた。

又彼等が並ぶ時には、尼僧の下に並ばせた。

これは世にも希な優れた行いである。

又 福州出身の善如という僧も、誓って言った、

私は平生、決して一歩たりとも南の故郷に向いません

専ら仏祖の大道を学ぶつもりです。」

先師の道場には、このような人たちが大勢いたのを、

私は目の当たりに見てきた。

他の師の所にこのような人物はいないが、

これが大宋国の僧家の行持といえる。

顧みて我等にこのような高い志操がないことを、悲しむべきである。

仏法に出会った時でさえそうだから、

仏法に出会わなかった時の我々の身心は、恥じても余りある。



 第28文段の解釈とコメント


先師如浄禅師の道場には、道昇という道家の人がいた。

道昇は仲間五人と共に誓って言った、

我等は、この一生の中に仏祖の大道を会得するつもりで

それまでは決して郷土に帰らない」。」

又 福州出身の善如という僧も、誓って言った、

私は平生、決して一歩たりとも南の故郷に向いません

専ら仏祖の大道を学ぶつもりです。」

先師如浄の道場には

このような高い志操を持つ人たちが大勢いた。

他の師の所にこのような人物はいないが、

これが中国の修行僧達の行持といえる。

これに対し、我が国の修行僧達には

このような高い志操がないことを、悲しむべきである。

仏法に出会った時でさえそうだから、

仏法に出会わなかった時の我々の身心は、

恥じても余りあると我が国の仏教界の現状を嘆いている。

道元は高い志操を持つ人たちが大勢いる中国(宋)の仏教界に比べ、

日本の仏教界は恥ずかしいほど遅れていると、彼が留学した中国宋の仏教界を高く評価している


しかし、皮肉なことに、道元が留学した時代、

中国宋の仏教界はすでに衰退期にあり、

中国曹洞宗は滅亡する運命にあった。

三百年来の優れた指導者だと自認する如浄禅師には優秀なな高弟はいなかったようである。

もし、如浄禅師が自認するように、

三百年来の優れた指導者だとしたら優れた弟子を育て、中国仏教(禅)界の衰退を食い止めていたのではないだろうか。

しかし、如浄の弟子にはそのような優れた弟子はいず、中国曹洞宗は滅亡の道を辿るのである。

この歴史上の事実を見ても如浄禅師が三百年来の優れた指導者だと考えることは無理であろう。


如浄禅師はいくら自分が三百年来の優れた指導者だと自認しても、

中国の曹洞宗の滅亡の流れを食い止めることはできなかったからである。


曹洞禅は中国で滅亡したのに対し、

如浄の愛弟子道元によって日本にもたらされた曹洞禅は日本の仏教界に新風を吹き込み、現在まで生き続けている


中国で滅亡した曹洞禅は如浄の愛弟子道元によって日本に伝えられ日本で生き続けている。


皮肉なことに、これは如浄禅師によって中国曹洞禅は滅亡を避け、日本に避難・移植されたと考えられるのではないだろうか。


如浄禅師はそのような歴史的役割を果たした禅師として記憶されるのではないだろうか。



29

 第29文段


原文29

 しづかにおもふべし、一生いくばくにあらず、

仏祖の語句、たとひ三三両両なりとも、

道得せんは、仏祖を道得せるならん。

ゆゑはいかん。仏祖は身心如一なるがゆゑに、

一句両句、みな仏祖のあたたかなる身心なり。

かの身心きたりてわが身心を道得す。

正当道取時、これ道得きたりて、わが身心を道取するなり。

此生道取累生身なるべし。

かるがゆゑに、ほとけとなり、祖となるに、仏をこえ祖をこゆるなり。

三三両両の行持の句、それかくのごとし。

いたづらなる声色の名利に馳聘することなかれ、

馳聘せざれば仏祖単伝の行持なるべし。

すすむらくは、大隠小隠一箇半箇なりとも、

万事万縁をなげすてて、行持を仏祖に行持すべし。

 正法眼蔵行持

  仁治三年壬寅四月五日、書于観音導利興聖宝林寺


注:

鍬柄: 鍬の柄。

三三両両: 両は二の意。

仏祖が語った言葉は、ある方々は三つ程度、

ある方々は二つ程度と必ずしも多くないことを言っている。 

此生道取累生身: 現に生きているこの生の瞬間において、

過去の幾多の生を通して形作られた肉体を言葉で表現し尽す。

馳騁(ちへい):馳もはしる。聘もはしる。 

大隠: 悠然と市街地の中で暮らしているスケールの大きな隠者。

小隠: 人里を逃れて山の中に住んでいるスケールの小さな隠者。


第29文段の現代語訳

静かに考えなさい。

人の一生はそれほど長くはないが、仏祖の言葉を、

たとえ二三句でも説き尽くすことが出来れば、

それは仏祖を説き尽くすことになるのである。

何故ならば、仏祖は身と心が一如なので、

その一二句は、皆 仏祖の温かな身心を表わすことになるからである。

仏祖の身心がやって来て、自分の身心を説き尽くしているのだ。

その説き尽くす時には、仏祖の説法がやって来て、

自分の身心を説くのである。

今生に於いて累生の身を説くのである。

それゆえに、仏となり祖師となるために、

仏を越え祖師を越えていくのである。

仏祖の二三の行持の句とは、こういうものである。

空しい俗世の名利のために走り回ってはならない。

走り回らなければ、仏祖が親しく相伝した行持となるのだ。

勧めたいのは、町中に隠れる賢者であれ、深山に隠れる賢人であれ、

たとえ一人半人であっても、万事万縁を投げ捨てて、

自らの行持を仏祖に倣って実践行持すべきである。


正法眼蔵行持

  仁治三年(1242年)壬寅四月五日、書于観音導利興聖宝林寺



 第29文段の解釈とコメント


この文段が行持下の最終文段となっている。

空しい俗世の名利のために走り回ってはならない。

走り回らなければ、仏祖が親しく相伝した行持となるのだ。

勧めたいのは、世を遁れて仏道に志す賢人は、たとえ一人半人であっても、

世俗の万事万縁や名利を投げ捨てて、自らの行持を仏祖に倣って実践行持することである。

空しい世俗の万事万縁や名利を投げ捨てて、仏祖の行持に倣って坐禅の実践と修行に努めるよう勧めている。

           

参考文献など:



1.道元著 水野弥穂子校註、岩波書店、岩波文庫、「正法眼蔵(一)」1992年

2.安谷白雲著、春秋社、正法眼蔵参究 仏性 1972年

3.西嶋和夫訳著、仏教社、現代語訳正法眼蔵 仏性 第四巻

4.高崎直道、梅原猛著、角川学芸出版、

角川ソフィア文庫、仏教の思想11、古仏のまねび<道元> 1996年


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