2015年5月29日〜8月20日作成

密教:その4:チベット密教

   
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13.0  チベット仏教の歴史



   

13.1 インドから仏教と密教(後期仏教)が伝来



   

チベットには、古くからシャーマニズム的な呪術を重視する民族宗教としてボン教があった。

仏教はソンツェンガンポ王(617〜649)の時代にチベットに伝来した。

チベット古来のボン教と新しく伝来した仏教が習合し、ラマ教というチベット仏教になる。

ソンツェンガンポ王は貴族の子息トンミサンポータをインドに派遣して、文字や文法を学ばせて、帰朝後チベット文字を制定し文法書を作らせた。

このチベット文字を用いてサンスクリット仏典を翻訳したのである。

8世紀のティソン・デツェン王(在位:745〜769)の時代は古代チベット王国の全盛期であった。

しかし、王室や貴族達を中心に、中国仏教を奉ずる勢力、固有の信仰を守ろうとする勢力、インド仏教を奉ずる三つの勢力に分裂し熾烈な争いが生じた。 ティソン・デツェン王自身は仏教を積極的に擁護した。彼はインドのナーランダ大僧院から高僧シャーンタラクシタ(寂護、725年頃〜783)を迎えて、仏教の普及に尽力した。

最初の頃は廃仏派の力が強かったため仏教の普及に成功しなかった。 しかし、王権が拡大するとともに廃仏派の力を削ぐことに成功し、シャーンタラクシタ(寂護、725年頃〜783)を再び招いた。

その後もインドから続々と有名な仏教者がチベットを訪れた。仏教の後進国であるチベットを有名なインドの学僧が何故訪れたのだろうか。

その理由のとしてチベット側が提供した莫大な報酬が考えられている。

8世紀後半、シャーンタラクシタがチベットを再訪した時には、在家の密教行者で強大な霊力を持つパドマサンバヴァ(蓮華生、グル・リンポチェ、8世紀後半)が同行した。

パドマサンバヴァ(蓮華生、グル・リンポチェ、8世紀後半)はチベット土着の神々を次々に調伏して、人々に密教の強い力を見せつけた。彼はチベットに半年くらいしか滞在しなかったようだが、密教がチベットに定着するに際し、大きな役割を果たした。パドマサンバヴァ(蓮華生、グル・リンポチェ)は今でもチベットの一般民衆の間では最も人気がある。


図1

図1 パドマサンバヴァ(蓮華生、グル・リンポチェ)

   

パドマサンバヴァ(蓮華生、グル・リンポチェ)は日本では、役行者と行基と弘法大師を

一緒にしたような超人的な人と考えられている。

パドマサンバヴァ以降、土着のボン教は密教との関係を深め、密教呪術と融合することによって、

ニンマ派という有力な宗派が形成された。

ニンマ派はチベット語で「古い・宗派」を意味し「古派」とも訳される。

呪術を中心とする比較的古いインド密教を伝承するところから、そう呼ばれる。ただし、

古いとは言え、ニンマ派の密教は7,8世紀のインド密教に相当するから、

空海が導入した真言密教より新しいタイプの密教と言えるだろう。

ニンマ派は後期密教のタントラの一つである「幻化網タントラ」の旧訳とされる

「大幻化網タントラ」を所依経典とする。

本性清浄、無為自然を説く「ゾクチェン」(大いなる完成)を最奥義とする密教の教義

の分類方法が新訳諸宗派と異なる。

「ゾクチェン」(大いなる完成)を参照

ニンマ派は一寺院一派的な傾向を持つ宗教者を一括して呼ぶため、

宗派としての統一性、体系性、組織性が弱い。

775 年に、ティソン・デツェン王は インドのナーランダ大僧院から高僧シャーンタラクシタ(寂護)

を迎えて、サム・イェー大僧院を建立した。

その時、6人のチベット僧が生まれた。彼等がチベットに誕生した初めての僧侶であった。

シャーンタラクシタ(寂護)はそこで密教を伝え、その秘密法により悪魔を調伏し、

多くの奇蹟を行って人心を引き付けたと伝えられる。

このように、チベットにおける仏教受容は初期から密教的な色彩が濃厚であった。

当時インドでは無上ヨーガタントラ系密教が興隆期に入っていたが、

呪詛・調伏法などはようやく確立したチベットの王権を揺るがすと見なされ導入されなかった。

パドマサンバヴァ(蓮華生、グル・リンポチェ)がチベットに半年しか滞在しなかった理由も

王のこうした考えがあったためとも考えられている。

この頃頃中国本土や敦煌からも仏教(禅系統)がチベットに伝道された。

彼等は、功徳を積まなくても禅定(坐禅)だけで悟ることができるとする頓悟禅を説いていた。

しかし、インドの伝統的仏教では長期間の修行による漸悟が常識である。

基本的に功徳の集積を強く求めていたから両者が対立衝突するのは火を見るより明らかであった。

794年サム・イェー寺において中国からの禅僧摩訶衍(まかえん)とシャーンタラクシタ(寂護)

の弟子カマラシーラ(蓮華戒)との間に宗論が行われた。

この宗論は3年にわたったと伝えられる(サムイェーの宗論)。

この宗論に、インド仏教側が勝ったため、チベットにおける仏教はインド仏教になった。

インド仏教側が何故勝ったかという理由について、

漸悟説では善行などによる功徳の集積が必要なのに対し、

頓悟説では善行などによる功徳の集積は必要ではない。

また、禅は教外別伝であるから理論や教理もないので教理的議論では劣勢になるのは当然である。

善行などによる功徳の集積は不必要とする中国仏教には現体制を否定しかねない危険性を

含んでいると王が察知したためであると考えられている。

現実世界における善行による功徳の集積を重視する伝統的インド密教の方

がその点ずっと安全であった。

しかし、論争に勝ったカマラシーラ(蓮華戒)は暗殺された。

同じ頃、ティソン・デツェン王も死去したためチベットの政界と宗教界混乱を続けた。

ティソン・デツェン王を継承したティデ・ソンツェン王(在位:797〜815)も仏教を擁護し、

仏典のチベット語への翻訳に大きな力を注いだ。

ティデ・ソンツェン王の時代に仏教訳語が統一され、その後の翻訳事業に大きな影響を与えた。

9世紀の中頃、仏教弾圧で有名なダルマ・ウィドゥムテン(ランダルマ、在位:841〜842)王

が即位した。彼が本当に仏教弾圧を行ったかどうかは、最近の研究では疑問視されているが、

この王が暗殺されたことがきっかけとなって古代チベット王国は崩壊し、仏教も衰退して行った。

それまでのチベットにおける仏教の主流は王権によって保護された戒律重視の出家仏教であった。

民衆から真に支持されていなかったために、仏教は王権の衰退ととも

に衰退して行く運命にあった。

その反面パドマサンバヴァ(蓮華生、グル・リンポチェ)に代表される呪術的密教は

広く民衆の心に沁みこんで行ったのである。

13.2 チベット仏教の展開と結実


チベット仏教界では、ダルマ・ウィドゥムテン(ランダルマ、在位:841〜842)王の仏教弾圧(841)

を境にチベット仏教の歴史を前後に二分する考えが一般的である。

841年以前を「前伝期」と呼び、この時期迄にチベットに入った密教経典を「古訳」と呼ぶ。

また、中央チベットで戒律の伝統が復活した10世紀後半以降を「後伝期」と呼び、

これ以降チベットに入った密教経典を「新訳」と呼ぶ。

そして、「古訳」を奉ずる人々をニンマ派(古派)、「新訳」を奉ずる人々をサルマ派(新派)と呼ぶ。

ニンマ派(古派)は字の意味を考えると最も古い宗派のように見える。

しかし、ニンマ派の教団が実際に形成されたのは11世紀頃であろうと考えられている。

「前伝期」から「後伝期」に至る約100年間(841〜950)は

王室の庇護を失った仏教がどのようにして甦るかを模索する年月であった。

前伝期には宗派の別は明確ではなく、後伝期に入って仏教の理解が深まり

受容が本格化することで様々な宗派が並び立つようになった。

仏教への理解の深まりと模索の結果浮上してきた仏教は民衆の期待に答えることのできる魅力を持つ密教であった。また、仏教教団は、王室の保護を失ったので以前と異なる形態を取らざるを得なかった。新しい形態は傑出した僧侶の下に弟子達の集団が形作る宗派教団であった。こうした宗派教団が成立したのは、100年に及んだ混乱期に民衆の中に浸透した仏教が彼等の熱い支持を受けたためであった。

10世紀の前半、西チベットに古代チベット王国の末裔達がグゲ王国という新王国を建設した。グゲ王国の歴代の王達は仏教を保護した。彼等は戒律を重視する出家主義の仏教を望んだようだがうまく行かなかった。

丁度その頃仏教の本場インドでは無上ヨーガタントラ系の密教が全盛期を迎えていた。

グゲ王は莫大な報酬を用意してインド仏教界の最高寺院であるヴィクラマシーラ大僧院の筆頭僧であったアティーシャ(928〜1054)をインドから招いた。アティーシャはチベットで多くの弟子を養成した。彼は、密教では無上ヨーガタントラ系の密教の信奉者であり、顕教では中国仏教の信奉者であった。

チベットにおけるアティーシャの著作『ラムリム(菩提道灯論)』は、小乗・大乗・密教のそれぞれの存在価値を認めながら、一つの体系にまとめたもので密教、特に無上ヨーガタントラ系の密教に最高の価値を置く書物であった。

彼は密教と顕教を統合する可能性を示した。以降、密教と顕教の統合はチベット密教の指針となり、ツォンカパ(1359〜1419)によって壮大な体系にまとめあげられることになる。

チベット密教最大の宗派の開祖ツォンカパはアティーシャの密教と顕教の統合思想を最も高く評価したのである。

その後、チベット仏教の堕落からボン教を排除し、12世紀後半のインド仏教の考えも取り入れて、カダム派、カギュー派、サキャ派、ゲルク派が次々に成立し現代のチベット仏教になっている。

チベット仏教は基本的には密教であるので、中国から日本に伝えられた密教(台密と東密)と同じところがある。

しかし、日本の密教は純密と呼ばれていても中期密教である。

中期密教にはインドの大乗仏教の中観・唯識の大乗教学と「金剛頂経」系の密教までは取り入れられているが8〜11世紀以降の後期密教は入っていない。

このため、日本の多くの密教学者は、同じ密教であるチベット仏教を研究してこなかった。

しかし、チベット動乱(1956)で多くのチベット人が欧米に逃れたことによって、欧州でチベット仏教が研究されるようになった。

チベット仏教はユングにも影響を与えたことから、心理学にも影響を与えたと考えられている。

次の表1−1と表1−2にチベット仏教と密教の歴史を(前伝期)と(後伝期)に分けて、

分かりやすくまとめる。


   
図1−11

表1−1 チベット仏教の歴史(前伝期)

     
   
図1−2

表1−2 チベット仏教の歴史(後伝期)

       

注:

カラマシーラ:

漸門派(ぜんもんは)と呼ばれるカマラシーラ(740〜797年頃)は

シャーンタラクシタ(725〜784年頃)(瑜伽行中観派)の弟子であり、

玄奘三蔵(602〜664)も学んだインドのナーランダ大学の優秀な学僧であったと伝えられる。

当然彼は倫理的思考は得意である。一方、中国禅には明確な理論はない。

そのため、頓悟を説く中国の禅僧(摩訶衍)との宗論に勝利したと考えられる。


   

パドマサンバヴァ(グル・リンポチェ、蓮華生):

チベットやブータンではグル・リンポチェ(蓮華生)として知られる。

チベット密教の開祖であり、ニンマ・パ(ニンマ派、漢訳;紅教)

と呼称される宗派の創始者である。

密教の大成就者として有名になると、

彼の神通力を聞いたチベットのティソン・デツェン王によってチベットに招かれ、

土着の宗教であるボン教等を調伏し、チベット仏教の基礎を築いた。

この「ニンマ・パ」とは、チベット語で「古い・宗派」を意味し「古派」とも訳される。

しかし、ニンマ派の教団が実際に形成されたのは11世紀頃であろうと考えられている。

   

13.3 チベット仏教の四大宗派


ニンマ派、カギュー派、サキャ派、ゲルク派を、チベット仏教の四大宗派と呼ぶ。

   

1.ニンマ派:

ニンマ派は、チベット仏教四大宗派における最古の流れである。

ニンマ派は9世紀まで続いた古代吐蕃時代に翻訳された古タントラ(古訳密教経典)に依拠する古い宗派である。他の三宗派と同じように声聞乗(小乗)・菩薩乗(大乗)・秘密真言乗(金剛乗)の三乗を併修することを説く。

後期密教のタントラの一つである「幻化網タントラ」の旧訳とされる「大幻化網タントラ」を所依経典としている。

本性清浄、無為自然を説く「ゾクチェン」(大いなる完成)を最奥義とする。

「ゾクチェン」(大いなる完成)を参照

ニンマ派は一寺院一派的な傾向を持つ宗教者が多く、宗派としての統一性、体系性、組織性が弱い。

14世紀にはロンチェン・ラプジャムパ(1308年 ? 1363年)はニンマ派の奥義「大究竟」を書き記した。

ニンマ派の思想「大究竟(だいくきょう)」には、中国系南宗禅の本覚(ほんがく)思想の影響が

指摘されている。

本覚思想については「煩悩即菩提と体用思想」を参照)。

この派は土俗の信仰と融合して民間に深く根を下ろし、独自のタントラ集成を伝承している。

   

2.カギュー派:

チベット仏教の四大宗派の一つである。11世紀頃のチベットへの後伝期に翻訳された無上ヨーガタントラに主として従い、サルマ派(新訳派)に属する。

開祖はマルパ訳経師(マルパ・ロツァワ、1012〜1097)と弟子のミラレパである。

ミラレパ以来の伝統として「レパ」と呼ばれる在家の瑜伽行者が白い綿衣を身に纏うことから古くは「白派」と漢訳された。

後期密教の代表的な経典の一つである「勝楽タントラ」(チャクラサンヴァラ)を所依経典とする。

密教色が強く、具生智(くしょうち:本来持っている智恵、密教の本覚の智恵)の体得と理解を説く

マハームドラー」(大印契)を最奥義とする。

「マハームドラー」(大印契)を参照

カギュー派は分派が多い。

   

注:

マルパ:

マルパ・ロツァワ(1012-1097)は11世紀頃にインドへ留学して、

「ナーランダの六大師」と称された大成就者ナローパに師事した大訳経官である。

マハームドラー(大印契)は「ティローパ → ナローパ→ マルパ → ミラレパ」

と伝承されてきたカギュー派の教えの根本とされる。

「マハームドラー」(大印契):

マハー・ムドラーは、仏(宇宙意識)との合一という悟りの体験を意味している。

禅の心境一如の悟りと似ている。

マハー・ムドラーを参照

   

3. サキャ派:

     

サキャ派はチベット仏教4大宗派の1つである。

時として赤帽をかぶることから、ニンマ派、カギュ派とともに赤帽派と呼ばれている

宗派の1つでもあり、古くは「花派」と表記されたこともある。

後期密教の代表的な経典の1つである「喜金剛タントラ」(ヘーヴァジュラ・タントラ)を所依経とする。

道果(どうか)」説が中心的教義であり、

大成就法が特徴的な宗派である。

無上瑜伽タントラの主要な五タントラを体系化した「五大金剛法」

を取り入れ、顕教と密教の双方を重んじている。

   

注:

道果説:

サキャ派の天才サチェン・クンガーニンポ(1092〜1158)はインド密教を再統合し、

彼独自の考えを加えて「道果説(ラムデー)」を提唱した。

道果説」は悟りを求めて修行を重ねて行く道程に、すでに悟り=「」が実現している、

という考え方である。

「道果説と禅思想」を参照

   

4. ゲルク派:

     

ゲルク派はチベット仏教の最大の宗派で、ツォンカパ(ロサン・タクパ、1357-1419)を開祖とする。

ガンデン寺を総本山とする。ダライ・ラマパンチェン・ラマもこの宗派に所属している。

ツォンカパは中観帰謬論証派の立場から顕教を重視し、

密教は顕教を完全に修めた者だけに許可されるという「倫理性」を重んじた。

ツォンカパの宗教的な情熱、徹底した論理性などが当時の僧侶の心を動かし、

ツォンカパ在世当時から多くの信奉者が集まった。

 ツォンカパの二大主著は、『ラムリム・チェンモ(菩提道次第広論)』

と『ガクリム・チェンモ(真言道次第広論)』である。

簡単にいえば、前者は顕教の実践次第、後者は密教の実践次第を説いたものである。

密教の視点から見るならば、前者は顕密共通の実践次第、

後者は密教独特の実践次第を説いたものである

ツォンカパによって確立されたゲルク派教学の特色は以下のようにまとめられる。

インド伝来の仏教哲学を説一切有部・経量部・唯識派・中観派という四段階に整理し、

中観派の中でも帰謬論証派(プラサーンギカ)の見解を究極のものと位置づけている。

ツォンカパは説一切有部や経量部の学説に基づくアビダルマ、仏教論理学、

唯識派や中観自立論証派に基づく修道論などを学び、

最終的にそれらを中観帰謬論証派のレベルに昇華させたと言えるだろう。

 ゲルク派の実践体系は、小乗・大乗・密教という三重構造である。

密教に関しては、所作・行・瑜伽・無上瑜伽という四部タントラを設定している。

最奥義とする無上瑜伽タントラの中でも、

グヒヤサマージャ(秘密集会)」聖者流」を特に重視し、あらゆる仏法の頂点に位置づけている。

ゲルク派は開祖ツォンカパ(ロサン・タクパ、1357-1419)が他の諸宗派の師に学んで、

その成果を総合して打ちたてた宗派である。


図ツォンカパ

図 ツォンカパ像

   

顕教に関しては主にサキャ派、密教に関しては主にカギュー派の教えを取り入れている。

ツォンカパの大著『菩提道次第・大論(ラムリム・チェンモ)』は有名であるが、

ツォンカパがラムリムの教えを受けついだのはニンマ派の師からである。

ツォンカパは密教と顕教の併修を説き、性的ヨーガを文字通り実践することを禁止した。

そのことで行き過ぎを防止したとされる。

ツォンカパが密教と顕教の併修を通し、空性の理解を重視している点は注目される。

彼は大乗仏教の禁欲的な「寂静の道」を密教に導入することで、

性的ヨーガなどの「促進の道」の行き過ぎを防ぎたかったと思われる。

「寂静の道」と「促進の道」についてはヒンズータントリズムを参照)。

     
   
   

注:

ボン教について:

     
   

ボン教は、チベット古来の民族宗教で、ポン教とも呼ばれる。 語源のポンパは「王たちの神聖な儀式を司る役職」という意味である。 チベットに仏教が伝わり、栄えると同時に衰退していった。

ボン教の開祖はトンパ・シェン・ラプだと伝えられる。カイラス山の麓に生まれた彼は天界でボン教を学び、 31歳の時に俗世界との関係を断ち、禁欲生活を送りながら苦しみのうちにある人々を救うため、 ボン教を広めていったと伝えられる。

ボン教徒は山や湖を神と見て崇める。チベットには聖なる山や湖などが至る所に 点在する。そういう山や湖を聖地として崇める習慣が今でも残っていることから、 ボン教はかつてチベットに住む人々にとって重要なものだったことが分かる。

ボン教はチベットの霊性の系譜の一つであり、ニンマ派を始め、チベット仏教にも影響を与えている。

転生活仏制度:

     

仏は不滅でよみがえる」とする思想に基づいた制度である。

飲食、妻帯を禁止するなどきびしい戒律を持つゲルク派(黄帽派)が、教権継承の方法として制度化したとされる。

高僧が遺言で指定した地方に、49日間以内に誕生した乳児の中から、神畏の備わっている者(=転生霊童)を選び、転生者とする。

転生霊童を探し出す伝統的な方法としては、

1. 先代ラマの遺体の観察

2. 聖なる湖(中央チベットのラモイラツォ湖)の湖面の観察

3. 神託・占い

4. 本人に対するテスト

などが行われる。

活仏”とは菩薩の化身とされる高僧のことで、その中で最も大きな権力と権威と持ち、

最も崇拝されているのが、ダライ・ラマとパンチェン・ラマである。

現在のダライ・ラマは十四世である。

   
   
13.3-1

13.3−1 道果説と禅思想:


既に述べたように、サキャ派の「道果説」は悟りを求めて修行を重ねて行く道程に、

すでに悟り=「果」が実現している、という考え方である。

この考え方は馬祖の<作用即性>の禅思想や我が国の道元禅師の禅思想

修証不二>と似た思想である。

馬祖の<作用即性>の思想については「禅の根本原理」を参照)。

今、修行を性(悟りの本体=仏性)の作用だと考えよう。

これを馬祖禅の<作用即性>の禅思想にあてはめると修行即性(悟りの本体)となる。

「修」を悟りの本体の作用だと考え、悟りの本体を「証」だと考えると、

体用思想では「修」即「証」、あるいは「修」・「証」不二、「修」・「証」一等と表現できる。

こうなれば道元の禅思想に近くなる。

このように、道果説と馬祖の禅思想や道元禅師の禅思想には深い関係がある。

馬祖道一の<作用即性>の禅思想では

言語動作や煩悩は真の自己の本体としての脳神経系の作用(働き)であると考える。

馬祖禅の<作用即性>の禅思想を参照)。

この考え方は脳神経系を体(本体)とし、修行を用と考える体用思想によって、

次の図d−1によって説明できる。

   
図d-1

図d−1 修行は真の自己の本体である脳神経系(仏性=健康な脳)の作用(働き)である。

       

道果説」は悟りを求めて修行を重ねて行く道程に、

すでに悟り=「果」が実現している、という考え方である。

今、「悟りを求めて修行を重ねて行く道程」を悟りの本体である仏性(健康な脳)の働きである

と考えれば、悟りの本体の現れ(「果」)であると考えることができる。

即ち、

悟りを求めて修行を重ねて行く道程」は悟りの本体の現れ(「」)である

と考えることができる。

この考えは、「道果説」に非常に近い。

道元禅師の禅思想では<修証不二>を言う。

「修」は修行のことであり、「証」は「悟り」のことである。

常識的に考えれば、修行した結果として「悟り」を得ることができる。

その意味で「修行」と「悟り」は全く別物である。

<修証不二>とは全く非論理的で理解しがたい言葉である。

しかし、以下のように考えれば理解できる。

いま修行を悟りの本体の作用(働き)だと考えると、

「坐禅修行」は悟りの本体である仏性(健康な脳)の働きである。

また「証(悟り)」は、悟りの本体を直覚したり、悟りの本体の作用(働き)だと考えることができる。

これを図示すると次の図d−2のようになるだろう。

   
図d-2

図d−2 道元禅師の「修証不二」の思想の脳科学的表現

       

この図d−2を見ると分かるように、「修」も「証」も悟りの本体である仏性(健康な脳)

の働きで、同じレベル(用、はたらき)であることが分かる。

その意味で、「修証不二」であり、「修証一等」だと考えることができる。

図d−2のように考えれば道元禅師の「修証不二」の思想は分かり易い。

このように、馬祖の<作用即性>の禅思想と、「道果説」、

道元の<修証不二>の三思想の間には密接な関係がある。


       

13.4 チベット密教で用いられる密教経典とその歴史


   

密教経典としては、「大日経」「金剛頂経」「理趣経」までは日本に来ているが、

「秘密集会」父タントラ、「一切仏集会ダ吉尼戒網喩伽」などの後期密教経典は、

日本にはもたらされなかった。

日本密教は中期密教(〜8世紀)までを取り入れたがチベットでは8世紀以降に発展した

中期密教以降の後期密教が主流となった。

その点、チベット仏教は中期密教までしか取り入れなかった

日本仏教とは異なる道を歩んだのである。

11世紀、インドでは母タントラと父タントラは統合されて「時輪タントラ(カーラチャクラ・タントラ)」

が生まれた。

時輪タントラは、従来の密教で扱われた多くの要素を集大成したもので「双入不二タントラ」と呼ばれる。

その成立時期は10世紀末から11世紀前半と考えられている。

そして、13世紀初頭(1203)にヴィクラマシラー仏教大学がイスラム教徒の攻撃で炎上破却され、

インド仏教は滅亡への道をたどった。

その仏教大学の座主シャーキャシュリーバドラは、ネパールを経由して

チベットに亡命したと伝えられている。

そのため、チベット仏教はインド密教が残した膨大な仏教遺産を整理し

体系化することになったと言える。

現在、チベット仏教はすべて密教系であり、ゲルク、サキャ、カギュー、ニンマの四大宗派になっている。

チベット仏教はインドから伝来した仏教経典を「チベット大蔵経」にすべて収めている。

チベット仏教で用いられる後期密教経典(無上瑜伽タントラ)は次の表2のように三種に分類される。

図1−3
       

注:

父タントラ:

外なる現象世界の生成過程を仏の智の働きとして深く見つめる〈生起次第(生成のプロセス)〉の修業、

方便・空に主眼をおくタントラ(密教経典)である。 

母タントラ:

内なる自らの身体を仏の身体として深く見つめ、コントロールする〈究竟次第(完成のプロセス)〉

の修業、般若・大楽に主眼をおくタントラ(密教経典)である。

「ヘーヴァジュラ・タントラ」が母タントラの代表的経典である。

双入不二タントラ:

方便・父タントラと母タントラの両者を総合した密教経典で、

時輪タントラ(カーラチャクラ・タントラ)」が代表的経典である。

父タントラ・母タントラを統合した〈生起次第(生成のプロセス)>と<究竟次第(完成のプロセス)〉

を併せて修業し、ブッダの境地をめざす。

双入不二タントラは般若大楽・方便空の統一に主眼をおいている。 

   
13.4.1

13.4−1 秘密集会タントラ


秘密集会(ひみつしゅうえ)タントラ』(グヒヤサマージャ・タントラ)は、

密教経典の中で無上瑜伽タントラに分類される密教経典の1つである。

成立時期は8世紀後半と推定されている。 

『秘密集会タントラ』は「ブッダは一切の如来達の身・語・心の源泉である

諸々の金剛女陰に住したもうた(=女性達と性的ヨーガを行じておられた)」

という衝撃的な文言から始まることで有名である。

大乗仏教の欲望是認の流れを受け、

後期密教では貪・瞋・癡などの欲望を積極的に肯定するようになった。

それだけではなく性欲などの欲望の根源的なエネルギーを抑制することなく、

日常生活や宗教的な実践において積極的に活用する方法を具体的に提示するようになった。

『秘密集会タントラ』では、欲望を断つことなく成仏する方法、

つまり欲望のエネルギーを悟りのエネルギーに転換する教えを説く。

チベット仏教の最大宗派ゲルク派の開祖ツォンカパ(1357〜1419)は戒律を復興すると共に、

この『秘密集会タントラ』を最高の密教経典として重視した。

このためチベット仏教では特に重視されている密教経典である。

『秘密集会タントラ』に見られるように、

後期密教は性的ヨーガを成仏(絶対的実在との合一)のための修道論の根幹に置いた。

しかし、ブッダの原始仏教以来、性に関する仏教の戒律は厳しい。

『秘密集会タントラ』の教えは仏教の基本的戒律である「不邪淫戒」と明らかに矛盾する。

このため、インド仏教(特に密教)は解決困難な矛盾を抱え込むことになった。

インド仏教を忠実に継承したチベット密教も同じ矛盾を抱え込んでいる。

   

13.4−2 幻化網タントラ


新訳と旧訳の二種

幻化網タントラは後期密教経典(無上瑜伽タントラ)で成立時期は8世紀後半と推定されている。

テキストには新訳と旧訳の二本がある。

チベット大蔵経には新訳の『幻化網タントラ』が収められている。

チベット仏教では、サキャ派とカギュ派が新訳の『幻化網タントラ』を主要な五タントラの一つに数え、

ニンマ派では旧訳の『大幻化網タントラ』を主要な五タントラの一つに数え、所依の経典としている。

他方、ゲルク派では『幻化網タントラ』の代わりに『ヴァジュラ・バイラヴァ』

(大威徳金剛)のタントラのテキストを主要な五タントラに入れる。

新訳の『幻化網タントラ』は金剛サッタのヤブユム(歓喜仏)を主尊とし「父タントラ」に分類される。

旧訳の『大幻化網タントラ』は三面六臂の大日如来を主尊とし、

経中に如来の五智以前の『根本智』を説き「母タントラ」に分類される。

五智については密教2「金剛界五仏と五智」を参照)。

幻化網タントラ』は無上瑜伽タントラに属す最古層のタントラで、

「中期密教」から「後期密教」へ至る過渡的なタントラとみなされている。

   

13.4−3 ヘーヴァジュラ・タントラ


ヘーヴァジュラ・タントラ』は、無上瑜伽タントラの1つである。母タントラの代表的経典であり、

チベット仏教においては、サキャ派が所依経典とする。

へーヴァジュラ」とは、この教典に登場する、「呼金剛」「喜金剛」と訳される尊格の名である。

歴史的には、「ヘーヴァジュラ「呼金剛」」は、シヴァ神を起源とする尊格と考えられる。

呼金剛は多くの場合、妃の無我女(むがにょ・ナイラートマー)を抱いた姿で表される。

妃を抱く姿は、すべての如来を飲み込み、精子として妃の中に入り込み、世界を生み出し、

悟りの境地に至るという宗教実践の過程を象徴しているとされている。

性的な儀礼次第を規定し、世界創造のエネルギーは性的なエネルギーの中に

最も強力に潜んでいると考える。 

瞑想者はこのエネルギーを集め自分の回路の中に送り込み調和・変容・凝縮というプロセスを通して、

身、語、心が統合された光の存在へと変わると言われる。

これは菩提心と呼ばれる。後期密教ではそこに到達する事が涅槃だと考える。

そのため、密教では性的イメージ瞑想によって、涅槃や悟りの境地を追求する。

れに対し、原始仏教から初期大乗仏教では性的快楽とは無縁の安らぎの境地を目指している。

それは「涅槃寂静」と呼ばれるように、深い禅定を通した「寂静の道」によって

達成できると考えられてきた。

「寂静の道」と「促進の道」についてはヒンズータントリズムを参照)。

このように、原始仏教(ゴータマ・ブッダの)と密教の涅槃観には大きな違いが生れている。

原始仏教の「涅槃の定義」を参照)。

   

13.4−4 カーラチャクラ・タントラ:時輪タントラ


カーラチャクラ・タントラ(Kalacakra tantra)は、インド仏教・後期密教の無上瑜伽タントラの一つである。

"Kala"は時間を意味し、"Cakra"は存在を意味するので、カーラチャクラは「時輪」と漢訳される。

カーラチャクラ・タントラ(時輪タントラ)は、インド仏教を壊滅させたイスラム勢力の脅威に

対抗するものとして11世紀に編纂された。

インド仏教、そして後期密教の最後の教典としても有名である。

修行法、暦学、天文学、インド仏教の衰退と復興の予言が説かれている。

「カーラチャクラ タントラには「カーラとは大楽であり

チャクラとは空性であり、カーラチャクラとは大楽と空の不二を意味する

と書かれている。

カーラチャクラタントラは、無上瑜伽タントラの中で双入不二タントラに位置づけられ、

インド仏教を総まとめする重要なタントラとされている。 

教義の重要な要素となっている天文暦学や占星術の理論は

その後のチベット暦に取り入れられ、チベット人の文化・生活に大きな影響を与えた。

カーラチャクラタントラには地底の理想郷シャンバラ(理想の仏国土)伝説が

最も体系的に説かれている。

   

13.5   無上瑜伽タントラの主尊(守護尊)


無上瑜伽タントラの主尊(守護尊)をまとめると以下の表3のようになる。

図t−3
           

注:

秘密集会(グヒヤサマージャ):

秘密集会(グヒヤサマージャ)は秘密集会タントラの主尊である。

秘密集会(グヒヤサマージャ)は金剛界五仏(大日、阿しゅく、宝生、阿弥陀、不空成就の五如来)

の中の阿しゅく如来が姿を変えたものと考えられている。

「金剛界五仏と五智」について参照)。

古来より、チベットの僧侶を守る守護尊(イダム)として篤く信仰されてきた。

多くの守護尊が、僧侶を守るために畏怖すべき恐ろしい姿をしているのに対し、 秘密集会はとても穏やかな静寂相であるのが特徴で、

三面六臂で足を結跏趺坐を組み、手には金剛杵や鈴、輪(チャクラ)や剣などの武器を持ち、妃である触金剛女を抱く姿で表される。

大威徳金剛(ヴァジュラバイラヴァ):

ヴァジュラバイラヴァは日本でも五大明王の一尊として馴染みのある大威徳明王(ヤマーンタカ)の発展形である。

その姿は九面三十四臂十六足、正面は三眼の水牛面で、頭頂部には本地が文殊であることを表すべく文殊菩薩の面を戴く

多面多臂の明王は強い呪力の象徴であることから、大威徳金剛も強い呪力を持つ主尊であることが分かる。

ヴァジュラバイラヴァ(金剛怖畏)の姿として知られるヤマーンタカは、

ヒンズー教のシバ神の化身で、世界の終わりに宇宙を破壊する神、マハーバイラバに由来する。

「バイラヴァ」とはシヴァ神の変化身のうちで、「畏怖相」のことである。ヴァジュラバイラヴァは

シヴァ神の「畏怖相」であるバイラヴァに密教の金剛神を表すヴァジュラを付けた呼び名であることが分かる。

この考察より、ヴァジュラ・バイラヴァ・タントラの主尊である

ヴァジュラバイラヴァ(金剛怖畏)はシヴァ神のイメージが強い

「大威徳金剛(ヴァジュラバイラヴァ)はヒンズー教の衣をかぶった主尊」といえる。

このように、無上瑜伽タントラの主尊(守護尊)はヒンズータントリズムの強い影響をうけている

ことが分かる。

ヒンズータントリズムを参照)。

無上瑜伽タントラの主尊(守護尊)の性格をまとめると以下の表4のようになる。

図t−4
   

上の表4に見られるように無上瑜伽タントラの主尊(守護尊)の全ては金剛と名が付いている。

しかも、性的ヨーガをしている歓喜仏(ヤブユム)で表現されている。

主尊(守護尊)の多くはシヴァ神と関係があることからヒンズー教の強い影響があることが分かる。

日本にもたらされた中期密教(真言密教)の主尊は大日如来であった。

しかし、後期密教では大日如来が姿を消し、主尊が歓喜仏(ヤブユム)に変化している。

後期密教では主尊の意味と役割が中期密教から大きく変化していることが分かる。

後期密教では「性的ヨーガ」を導入し、除災・招福よりも正覚獲得の方に重点が置かれた

ためではないだろうか?

即ち、金剛と名がつく歓喜仏(ヤブユム)によって欲望を肯定し、

性的快楽を通し、「究極の悟り」が実現できる

ことを象徴的に表したのではないだろうか?

もともと、大乗仏教において登場した阿弥陀如来、薬師如来、盧舎那仏、などの諸仏・諸如来、

観世音菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩、日光菩薩、月光菩薩などの諸菩薩は

歴史的なリアリティを持つ存在ではない。

大乗仏教徒の空想(妄想?)によって作り出されたフィクションである。

そのため、諸仏・諸菩薩は時代や歴史的な変化とともに変化する。

諸仏・諸菩薩も無常で空的な存在といって良いだろう。

中期密教(真言密教)の主尊である大日如来が後期密教では忽然と姿を消した理由は

そのように考えれば理解できる。

       

注:

ヤブユム: 歓喜仏のこと。

   

13.6  チベット密教へ引き継がれた無上ヨーガ・タントラ


インドで生まれた仏教は、5世紀になると、ヒンズー教の台頭で衰退の一途をたどっていた。

そこで、ヒンドゥー教への対抗策として見出されたのが「性的ヨーガ」だった。

後期大乗仏教では悟りを開くための修行として、密教的な教えと修行へと進んでいった。

しかし、仏教は、ヒンズー教に対して優位に立つことはできなかった。

 そこで、仏教(密教)徒は、他宗教では絶対に手をつけていなかった「」に手をつけた。

性は、人間にとって一番根源的であり、誰も避けては通れないものであるにもかかわらず、

世界中の宗教が忌避してきた。

誰の目にも俗中の俗と映るのが性行為である。

その性が、人間を解脱という聖の極みへ飛躍させる唯一の方法

と密教は説いたのである。

密教が導入したこの策は、仏教の基本戒である「不邪淫戒」との葛藤を秘めていた。

当時の密教は、呪術や黒魔術的・オカルト的要素まで取り込んでおり、問題が多かった。

結局、インド仏教は、この問題を解決する時間もないまま、

1203年にイスラム教徒がインド仏教の中心地だったヴィクラマシーラ大僧院を破却したのを機に

インドから消滅して行ったのである。

その結果、性の問題は、インド仏教を引き継いだチベット仏教へ引き継がれていった。

 それでは、性行為は、チベット仏教では、実際にどのように捉えられたのだろうか。

現在の主流派であるゲルク派(特に戒律に厳しい)では、修行者は最初に顕教の経典を学び、

それを習得した一部の者のみが密教(性的ーガや肉体的な修行)に進むことが許されていた。

その中の「性的ヨーガ」については、文字通り実践することはなかったと考えられている。

なぜなら、ゲルク派 の開祖ツォンカパは、

あくまで想像上の女性パートナーと観想の上でのみ、性的ヨーガを実行せよ

と規定したからである。

 しかし、ゲルク派以外の宗派では、性的ヨーガを否定することもなく、

女性パートナーと性行為を行うことが悟りに至るとしている宗派もあったようである。

インドのタントラ(密教経典)は、太古以来、古代インド人の間で古くから伝わる

 民間信仰・占術・巫術・祭式・儀礼・医学・薬学・天文学・錬金術などの化学、

また、日常の規範など包括する法律でもあり、民衆の生活の基盤だった。

そこでは 梵我一如(ぼんがいちにょ)が、解脱に導くとされていた。

「梵我一如とは何か?」を参照)。

しかし、ヒンズータントリズム(ヒンズー密教)においては、

梵我一如の思想は、シヴァ神(男神)とシャクテイ(女神)の精神的・肉体的合一

に置き換えられたのである。

「ヒンズータントリズムの基本思想」を参照)。

インドには、古くからシャクティズム(性力信仰)があって、

神々や自然は女性の形によって具現化されるとの考えが根付いていた。

 最高神シヴァは男神であるため、万能さに欠ける。

そこで生まれたのが、男性原理と女性原理の合致が完璧な姿になると考え、

シャクティズムをそのまま梵我一如思想と置き換えたのである。

これは、解脱のための聖典学習と無心の瞑想の必要性を説いた従来の方法よりも 

実践的で活動性に溢れた解脱への道と考えられた。

欲望を肯定した密教では、

生肉を神に捧げること、祭りでは生け贅の動物の血を神像に振りかけること、

飲酒や肉食をすることも認められた。

また、物事を生み出す象徴として女神崇拝が行われ、

呪術的瞑想のため法具の一つにマンダラが使用されたのである。

 密教の神秘性・呪術性は一般民衆の心を魅了し、

ヨーガからは抑制性が取り払われて、心身の活性化や超人的能力を獲得する方法とされた。

このような過程を経て、密教の儀礼や修行法、宇宙観などが、次々と体系化されていったのである。

   
13.7

13.7 男性原理と女性原理の一致:

ヤブユム(歓喜仏)による悟りの表現


ヤブユム(歓喜仏)は男性原理と女性原理(受動=智慧)が一体化することで、無明の闇を照らし、

主客分離の二元性を克服できることを表現していると考えることができるだろう。

男性原理と女性原理(受動=智慧)が一体化することで神になる」という考え方は

ヒンズータントリズム(ヒンズー密教)」にもある。

この考え方はインドに古くあったようであるが、

「ヒンズータントリズム(ヒンズー密教)」の強い影響を受けた可能性が高い。

「ヒンズータントリズムの基本思想」を参照)。

性的交合という象徴主義は、チベット密教の中心的な教えである。

この交合は、修行者の身体において神秘的な体験として実現されると考えられている。

ヤブユム(歓喜仏)は一般に智慧と慈悲の結合を表現しているとされる。

後期密教において男性原理とは能動であり、慈悲と方便を表す。

それは悟りの世界へ至るためには必須である。

女性原理とは受動であり、やはり悟りには欠かせない智慧を表している。

これらが合体することで、無明の闇を照らし、

主客分離の二元性を克服できることを表現していると考えることができるだろう。

ヤブユムにおいては男女のどちらも分離・独立していない。

チベット密教において歓喜仏は至福の境地と、悟りの完成を象徴しているのである。

図5

図5.ヤブユムの1例

   

13.8 ヤブユムと日本


日本にもヤブユムがある。二匹の象が抱き合う(立ったままの伸長位)「歓喜天」=ガネーシャである。

【歓喜天(かんぎてん)】:

頭は象、身体は人間の姿をした仏法守護神。

もとインド神話の魔王で、のち仏教にとり入れられたもの。

単身像と双身像とあり、双身像は、男神と女神とが抱擁する姿をとることが多い。

夫婦和合・縁結び・子宝の神として信仰される。大聖歓喜自在天。聖天(しょうでん)とも呼ばれる。

図6

図6 聖天像

   

13.9 ダライ・ラマのHPで説かれるカーラチャクラ・タントラ


双入不二タントラであるカーラチャクラ・タントラにいついては

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のホームページ(www.tibethouse.jp カーラチャクラ、

以下ダライ・ラマのHPと略記)に分かり易い解説がある。

そのHPを読み解くことができれば、

密教の歴史上最後に現れた密教経典である「時輪タントラ」の教理とともに

チベット密教の概要が分かると考えられる。

以下では、そのHPの解説を引用しながら勉強して行くことにしたい。

カーラチャクラはタントラ(密教経典)であるとして以下のような解説がある。

以下にHPの解説と筆者の解釈を記す。


13.9-1   カーラチャクラとは?―


ダライ・ラマのHPでは、

カーラチャクラは、チベット密教の最奥義である無上ヨーガ(瑜伽)・タントラの代表的な聖典である

聖典によると、カーラチャクラは、シャンバラ国のダワ・サンポ王が受けた教えとされ

シャンバラ国はカーラチャクラの教えの行き渡った特別な国になったとされる

カーラチャクラは、「時輪」と訳され、「カーラ」とは時間を意味し、「チャクラ」は存在を意味する

あらゆる時間は存在の中にあり、あらゆる存在は時間の中にある

本来、生きるものは全て仏性を有し誰でも仏となる可能性を持っている

極めて高度な内容にも関わらず、世界平和への祈りが込められているため

この教えの門は広く一般の人々に開かれている。」

 と解説されている。

解釈:


この解説ではカーラチャクラはタントラについて易しく解説されていて、特に難しいところはない。

この解説の中で、「本来、生きるものは全て仏性を有し誰でも仏となる可能性を持っている。」

と述べているのが注目される。

中期大乗仏教の大乗涅槃経は「一切衆生は全て仏性を有し誰でも仏となる可能性を持っている

一切衆生悉有仏性)」と説いている。

このことから、

 カーラチャクラの教えは中期大乗仏教の仏性論を継承している

ことが分かる。

「仏性論」については大乗仏教その3を参照)。



13.9-2   三身   ―  カーラチャクラの基になるもの   ―



次に、ダライ・ラマのホームページでは上記の見出しで、以下のような解説が続く。

カーラチャクラでは、「空身(トンスク)」、つまり空のからだと言うものが説かれており

無上の不動の大楽、無上の不動の信仰、無上の不動の智慧を得ることを目的とし

「光明(ウーセル)」についての内容が最も強調されている

死ぬ時に顕れる光明を「法身」と言う

人が死んで、新たな生を受ける時、「中有(パルト)」という「報身」があり

最高で49日後に、誕生の「化身」を持つ。カーラチャクラの教えは

これらの法身(死の光明)、報身(パルト)、化身(生、誕生)の三身を基にしている」。


解釈とコメント:


大乗仏教でも法身、報身、応身(or化身)の三身が説かれている。

しかし、それは仏の三身であり一般の人間についてではない。

大乗仏教の仏の三身説を参照)。

ところがこのカーラチャクラの解説では、仏の三身が一般の人間についての

死と誕生の事柄に変化している。

即ち、大乗仏教の「仏の三身説」が人間の生死の問題に変化しているのである。

上記のカーラチャクラの解説で「光明(ウーセル)」という言葉が出てくるが、

この言葉の意味が分かりにくい。

ここでは死ぬ時に顕れる光明を「法身」と言っている。

ここで、「法身」=「仏性」だと考えれば、

「光明(ウーセル)」とは「仏性の光明」を意味していると考えることができる。

臨済義玄は臨済録において法身仏を「心に具わった清浄光」と言っているので

そのように解釈しても問題ないと思われる。

臨済録示衆1−3を参照)。

また禅の悟りでも、悟りの本体を「法身」=「仏性」だと考えるので、 似た考え方と言える。

「禅の根本原理」を参照)。

そう考えると、「死ぬ時に顕れる光明を「法身」と言う」とは

仏性を持つ人が死ぬ時には「仏性という法身から仏の本質である光明が顕れる

と言っていることが分かる。

ここでは  カーラチャクラの修行によって、仏性(=法身)を自覚し、

修行を成就した人が死ぬと法身の本質である光明が顕れ、「中有(パルト)」に至る。

この「中有(パルト)」の状態が報身である。

この「報身」を経て、最高で49日後に次の生に化身する。 

と言っているのである。

これを図示すると図7のようになるだろう。

図7

図7 カーラチャクラの三身説と輪廻転生

   

図7のように考えればカーラチャクラでは大乗仏教の三身説が仏教の輪廻転生説と結びつき、

カーラチャクラによる人の生死輪廻から解脱法」として巧妙に用いられていることが分かる。

大乗仏教の仏の三身説を参照)。

カーラチャクラの教えでは、人間の生死の問題を解決し輪廻の苦しみから解脱するため、

カーラチャクラの教えに基づいた修行をする必要がある。

カーラチャクラの教えに基づいた修行によって、仏の三身(=法身、報身、応身)を得て、

輪廻転生の世界(迷いと苦しみの世界)から解脱できる。

ここでは、カーラチャクラの教えと修行のありがたさを強調していると考えることができる。

ここで、部派仏教以来の伝統的仏教が説く輪廻転生説を復習しよう。

   

13.9−3   輪廻転生説:


心の働きや感情を持つものを有情(うじょう)とか衆生(しゅじょう)と言う。

衆生が、迷いの世界で輪廻転生するとき、その1サイクルのなかの存在状態を四つに

分けたのが次の四有である。

   

本有(ほんぬ):受生後から死ぬまで=現在の生存。

死有(しう) :死の瞬間=臨終。死ぬときの一刹那。

中有(ちゅうう):死んでから次の生を受けるまで=死有と生有の中間。

生有(しょうう):生を受けた瞬間。生まれる一刹那。(一刹那は約0.013秒程度)

     
図8

図8 輪廻転生のサイクル

   

中有は中陰(ちゅういん)とか中蘊(ちゅううん)ともいう。期間は、7日、49日、

定め無し、など諸説がある。

中有にも死生あり、とする説もあれば、中有は無いとする説もある。

中有の期間の身体は、すでに次に生まれる姿をしているが、

ごく小さいため肉眼では見えないとされている。

中有は香りのみを食物とする霊的な存在=中有の身体で、食香(じきこう)とも呼ばれる。

   

13.9−4  チベットの輪廻転生思想:


チベット人にとって、死はなく、死は再生の始まりだと信じられている。

死ぬ時には、中央脈管に存在した意識体は風(ルン)に乗り、肉体を離れるとされる(後述)。

チベット死者の書では、その際に意識体は頭頂から出ることにより、

法身(ダルマ・カーヤ)の世界に導かれると考えている。 

チベット僧は死者の意識体(魂)が肉体に執着して、浮遊霊とならないよう、

死者の枕元で経を読み語りかける。

49日の後に、意識体は転生し、それぞれのカルマ(前世の行い)に従って再生誕生すると考えている。

図7に示したカーラチャクラの三身説はこの考え方と一致している。

   

13.9−5  ― カーラチャクラの三身説のまとめ ― 


チベット密教では正しい瞑想状態に入ることによって、時間を超越し、輪廻から解脱できると考える。

また、生前にそこまで修行ができなかったとしても、死の瞬間の状態で

適切に意識状態をコントロールできれば、解脱できると考える。

このチャンスを逃しても、狭い意味での中有の状態でも、

自分の見ているものが自分の心が作り出した幻にすぎない

と悟ることができれば、やはり解脱できるとされる。

狭義の中有の状態で見る世界はちょうど夢のようなものだとされる。

ふだんから夢の中で「これは夢にすぎない」という訓練を積んでおけば、

本番でもこれは幻に過ぎないと悟ることができるとされる。

正木晃氏は「快楽と叡智」という論文において、

ツォンカパは『秘密集会タントラ』の聖者流を修行することによって、

(ギュルー=虹の身体)」とほんとうの光明(トゥンギ・ウーセル)」を、同時に成就したときに

人間は至高至上の叡智を獲得して、生きたままホトケになる」と信じていたと述べている。

カーラチャクラの教えに基いて修行を積めば、人が死ぬ時に光明が顕れ、

常に光明(仏性=法身)を持っていることを自覚する。

そのような人が死ぬと生死の中間状態である「中有(パルト)(=報身)」に至る。

この「中有(パルト)(=報身)」から次の生に化身して誕生する。

このように、カーラチャクラの教えに基いて修行を積めば、「生きたままホトケになる」。

そうなれば、死ぬ時にも光明が顕れる。

死んで、「中有(パルト)(=報身)」から次の生に化身して誕生する時にも、

常に光明(仏性=法身)を持っているため輪廻の苦しみを解脱できる。

そう考えれば、カーラチャクラの三身説は分かり易い。

次の図9にカーラチャクラの三身説をまとめる。

     
図9

図9 カーラチャクラの三身説による死と誕生

   

 カーラチャクラの三身説は南宗禅の三身説とはかなり異なることが注目される。

六祖慧能は「六祖壇経」において「一体三身の自性仏」の思想を説いている。

慧能は「我々には三身仏(法身仏、報身仏、化身仏)の能力が一体となってもともと内在している」と言う。

彼はこれを「一体三身の自性仏」と呼んでいる。

禅の思想1「一体三身の自性仏」を参照)。

臨済義玄は「臨済録」示衆において「三身仏」を光になぞらえている。

これはカーラチャクラの「光明(ウーセル)」に似た表現といえる。

臨済録示衆1−3を参照)。

慧能によると衆生は本来仏であり三身仏(法身仏、報身仏、化身仏)は

もともと自己(衆生)に具わっていると考えている。

自己はもともと、三身仏(法身仏、報身仏、化身仏)であり、

チベット密教のように、死後中有の状態で報身に至り、次に誕生する時に化身する

とは考えないのである。

参禅修行によって、自己は常に三身仏(法身仏、報身仏、化身仏)であると自覚できる

ので苦しみの世界から解脱できる。

禅のこの考え方はチベット密教に比べると単純明快である。

慧能から六代目に当たる臨済義玄も臨済録において同様なことを説いている。

臨済録示衆1−3を参照)。

禅宗では、三身仏(法身仏、報身仏、化身仏)はもともと自己に具わっている

と考える(衆生本来仏なり)。

従って、そのことを坐禅修行によって自覚できれば問題は解決されるのである。

チベット密教のように、輪廻転生と三身説を結びつけて複雑に考える必要はない。

これに対し、チベット密教ではカーラチャクラ・タントラなどに基づく密教修行による

輪廻転生からの解脱を重視していると言える。

筆者の知る限り、禅宗で輪廻転生説を重視しそれからの解脱を議論することは無い。

輪廻転生説は紀元前の古代インドの宗教的(妄想的?)思想である。

それが本当に正しいかどうか不明である。科学的検証や証拠もない。

筆者には輪廻転生説は古代人の想像(妄想?)に基づく虚妄説のように見える。

輪廻転生説を参照)。

筆者は最初からそれを信じる必要を感じない。

正木晃氏は「快楽と叡智」という論文において次のように述べている。

ツォンカパは『秘密集会タントラ』の聖者流を修行することで

「幻身(ギュルー=虹の身体)」と「ほんとうの光明(トゥンギ・ウーセル)」を

同時に成就したときに、人間は至高至上の叡智を獲得して、生きたままホトケになると信じていた

この両者が同時に成就することを、チベット密教では「双入(スンジュク=双運)」と呼ぶ

この「双入」が、チベット密教が追求する究極の状態だと考えられている」。

ツォンカパは「究竟次第」の修行によって「幻身」と「ほんとうの光明」を、

同時に成就し、生きたままホトケになると信じていたのである。

これを次の図10に示す。 

     
図10

図10 ツォンカパが説く「双入(スンジュク=双運)」の成就による仏への道

   
       

注:

『秘密集会タントラ』の聖者流:ゲルグ派が最も重視するタントラである『秘密集会タントラ

の教えに基づく修行。

   
   

13.10  生起次第と究竟次第の修行


正木晃氏は次のように述べている。

ゲルク派の密教修行では、生起次第(しょうきしだい=キェーリム)と

究竟次第(くきょうしだい=ゾクリム)の、2つの修行段階が設けられている

生起次第とは、簡単に言えば

私たちの世界を構成する森羅万象が、実は究極の存在である

ホトケたちの顕現にほかならないことを感得する修行である。」

生起次第の修行で得られる考えは

神羅万象に仏は宿る」と説く真言宗の開祖空海の思想と同じである。

また、馬祖禅の<作用即性>や道元の「現成公案」の思想に似ている。

馬祖禅の作用即性の思想を参照)。

道元の「現成公案」を参照)。

正木晃氏は続けて次のように述べている。

もう少し具体的にいうなら、あらゆる物質世界はホトケたちが参集する曼陀羅であり

そこに輪廻する生きとし生けるもの全てが曼陀羅をかたちつくる上で不可欠の聖なる存在であることを

瞑想して心身に浸透させることなのである

こうすることで、日常性の固い殻を破砕し、日常性を絶対化し執着しがちな私たちの意識構造を

根底から揺るがし、ホトケの正しい教えを授かる準備ができあがる

究竟次第とは、後期密教が究極の修行法として開発した、快楽と叡智の究極の関係に基づく修行法

すなわち「性瑜伽(せいゆが)」にまつわる修行法のことである

瑜伽とは、ヨーガの音訳で、身体技法をともなう瞑想法

その言葉の頭に、性行為を意味する性という単語が冠せられていることからわかるように

「性瑜伽」とは男女の性行為を導入した瞑想法にほかならない

究竟次第は、その名の示すとおり、究極の修行法なるがゆえに、極めて秘匿性が高く

ほんの僅かな者にしか伝授されてこなかった

生起次第は、日本密教の修行法、たとえば曼陀羅の観想法(瞑想法)や本尊瑜伽とも類似していて

理解はそう難しくない

一方、究竟次第は、インドの後期密教、そしてそれを継承したチベット密教に特有の修行法であり

日本密教の修行法から類推することは不可能といっていい」。

「快楽と叡智」という論文において、正木晃氏が述べていることをまとめると次のようになる。

生起次第とは、森羅万象は、実は究極の存在である仏の顕現にほかならないことを感得する修行である。

これは馬祖禅の<作用即性>の思想で説明することができる。

また、道元の「現成公案」の考え方と同じである。

「現成公案」とは「森羅万象は、仏法の生きた顕現である」という意味であるからである。

このように考えると生起次第は分かり易い。

しかし、「ほんとうの光明(トゥンギ・ウーセル)」という言葉が分かりにくい。

これは次のように考えれば良いだろう。

「光明(ウーセル)」とは仏の悟りの光だと考えることができる。

即ち、仏の悟りの光の本質としての法身の光を指している。法身は仏性と同じことであるから、

「光明(ウーセル)」=仏性と考えるのである。

仏性とは健康になった下層脳を中心とする脳だと考えることができるから、

ツォンカパが『秘密集会タントラ』の聖者流を修行することで

「幻身(ギュルー=虹の身体)」と「ほんとうの光明(トゥンギ・ウーセル)」を、同時に成就したときに

人間は至高至上の叡智を獲得して、生きたままホトケになると信じていた

ということは『秘密集会タントラ』の聖者流(ゲルク派が重視する密教修行)を修行することで、

下層脳から健康になり、仏の悟りの本質としての仏性を得て、

<作用即性>の悟りを得ると信じていたことが分かる。

「幻身(ギュルー=虹の身体)」とか「ほんとうの光明(トゥンギ・ウーセル)」とか、

抽象的かつ神秘的表現を用いているため難解になっているだけである。



以上をまとめると、ツォンカパは、

『秘密集会タントラ』の聖者流の修行(ゲルク派が重視する密教修行)によって、

下層脳から健康になることで、仏の悟りの本質=仏性を覚知し、

<作用即性>の悟りを同時に獲得できると信じていたことが分かる。」

『秘密集会タントラ』の聖者流の修行によって、下層脳から健康になる。

それとともに、仏の悟りの本質=仏性を覚知して、

<作用即性>の悟りを得ることができる。

これからも「双入(スンジュク=双運)」という言葉を用いたことも説明することができる。

このように考えると、チベット密教では「幻身(ギュルー=虹の身体)」、

ほんとうの光明(トゥンギ・ウーセル)」、「双入(スンジュク=双運)」

とか呼んで神秘的に表現していたことが合理的に理解できる。

禅の場合、脳科学的に考えることによって、次のように、合理的に説明できる。

坐禅修行によって、下層脳から全脳が健康になり、仏の悟りの本質=仏性を覚知して、

<作用即性>の悟りを獲得することは既に分かっている。

「禅と脳科学」を参照)。

このことは重要な意味を持っている。

チベット密教の『秘密集会タントラ』の聖者流の場合、

幻身(ギュルー=虹の身体)」と「ほんとうの光明(トゥンギ・ウーセル)」を同時に達成し、

双入(スンジュク=双運)」の状態に至ることが、究極の状態だと考えられている。

このためには複雑な瞑想修行と「性的ヨーガ」が必須だとされている。

しかし、チベット密教特有の複雑な瞑想修行と「性的ヨーガ」は真に不可欠な修行だろうか?

禅宗においては、「性的ヨーガ」などを用いることはない。

禅げは、坐禅という合理的な修行一つに集中することによって、

双入(スンジュク=双運)」の状態は達成できるのである。

このことは多くの祖師達の事例を見れば納得できる。

また、正木晃氏は「快楽と叡智」という論文において次のように述べている。

生起次第は、日本密教の修行法

たとえば曼陀羅の観想法(瞑想法)や本尊瑜伽とも類似していて、理解はそう難しくない

一方、究竟次第は、インドの後期密教、そしてそれを継承したチベット密教に特有の修行法であり

日本密教の修行法から類推することは不可能といっていい」。

     

確かにそうかもしれない。

日本密教の修行法を考えれば生起次第は理解し易い。

また、究竟次第(くきょうしだい)に対応するような修行は日本密教にはないのも事実である。

チベット密教ゲルク派の修行では、生起次第(しょうきしだい=)と究竟次第(くきょうしだい)の、

2段階修行が必要不可欠とされている。

図11にチベット密教『秘密集会タントラ』聖者流の修行による仏への道を示す。

     
図11

図11 チベット密教『秘密集会タントラ』聖者流の修行による仏への道

   
   
   

13.10−1 「チベット密教による仏への道」と

「禅による仏への道」の比較


図11のチベット密教ゲルク派の仏への道は禅的観点からも合理的に解釈することができる。

図12に『秘密集会タントラ』聖者流の修行による仏への道を禅的観点から

合理的に解釈したものを示す。

     
図12

図12 坐禅修行による仏への道

   

図12に示したように、『秘密集会タントラ』聖者流の仏への道を禅的観点から解釈すると、

生起次第と究竟次第のような二段階修行は必要不可欠なものではないことが分かる。

これは次のように考えれば分かる。

いま、森羅万象は、仏法の生きた働きであるとする作用即性や「現成公案」の悟りを悟りAとする。

また、健康になった下層脳を中心とする脳=真の自己=仏性=法身だと悟ることを悟りBとする。

禅修行では悟りAと悟りBは同時に達成されるので「悟りA+悟りB」のように

一つにまとめることができる。

この時、図12は図13のように、更に単純になる。

     
図13

図13 坐禅修行による仏への道

   

図12や図13のスキームではチベット密教のような複雑な修行は不必要である。

また、チベット密教の「性的ヨーガ」のような修行は不要である。

この結論はチベット密教の本質を明らかにする上からも注目される。

チベット密教の本質が合理的観点から明らかになった時、

『秘密集会タントラ』が導入した「性的ヨーガ」のような修行も不必要になる。

またチベット密教に特有の「幻身(ギュルー=虹の身体)」や「ほんとうの光明(トゥンギ・ウーセル)」

などの難しい神秘的概念を導入する必要もない。

図13において、健康になった下層脳を中心とする脳=真の自己=仏性=法身だと悟ることを悟りBとしている。

六祖慧能が説く南宗禅においては自性(真の自己)は法身、報身、化身の三身を

自ずから具えていると考えている。

彼はそれを「自性の三身仏」と呼んでいる。

「六祖壇経」の自性の三身仏を参照)。

六祖慧能が説く南宗禅(禅宗)において、坐禅修行によって見性すれば、

真の自己は法身、報身、化身を具えた三身仏だと悟るので、悟りBは自然に達成される。

また、六祖慧能の孫弟子である馬祖道一の禅や我が国の道元禅師の禅思想では、

森羅万象は、仏法の生きた働きであるとする作用即性や「現成公案」の悟りが説かれている。

「現成公案」を参照)。

馬祖道一の「作用即性」については禅思想を参照)。

即ち、悟りAは禅修行者にとって身近な考え方である。

このように、真の自己は法身、報身、化身を具えた三身仏だと悟ることや森羅万象は、

仏法の生きた働きであるとの悟りは参禅修行でも、自然に達成される。

何も密教の神秘的な思想や修行をする必要はない。

いま、悟りA悟りB悟りと一語にまとめてしまえば、

図13は図13−1のように、さらに簡単になる。

     
図13−1

図13−1  坐禅修行による仏への道

   

図13−1には密教の神秘的な思想や修行は何も含まれていない。

チベット密教に特徴的な「性的ヨーガ」のような修行も含まれない。

図13−1は坐禅修行による成仏法と全く同じである。

以上の考察より、「チベット密教による仏への道」は「禅による仏への道」へと単純化される。

このことはチベット密教は禅によって統一される可能性を示している。

禅ではチベット密教が説く「生起次第」と「究竟次第」のような複雑な二段階修行は必要ない。

結論として、

図11に示した『秘密集会タントラ』聖者流の仏への道は

図13−1に示した禅による仏への道と非常に近いと言えるだろう。

   
   

13.11  解脱のための技法

13.11−1  ルン カーラチャクラの鍵


ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のホームページでは上記の見出しで、

以下のような解説が続いている。

カーラチャクラでは、ルン*と呼ばれる風(生体エネルギーのようなもの)が

ウマと呼ばれる「中央脈官」に入る最初の過程から、カーラチャクラ・タントラの「究境次第」とする

他の無上・ヨーガタントラでは、「風」を「中央脈官」に集めてそれから究境次第の悟りを得るとする」。

       

注:

ルン: 光明としての心の乗り物となる微細なる風。生体エネルギー(気)のようなもの。

密教修行者は瞑想中にこのルン(気)を操作することにより、

無上ヨーガ・タントラなど特別なヨーガが可能となるとしている。

   
   

   

13.12  三つのカーラチャクラ


   

カーラチャクラには、「外のカーラチャクラ」、「内のカーラチャクラ」、

「別のカーラチャクラ」の三種類がある。

「外」と「内」のカーラチャクラは、

地、水、火、風、空の五大要素(中国の五行に相当)によって成り立っている。

「外のカーラチャクラ」とは、太陽、月、星など外部世界のことで、「内のカーラチャクラ」とは

脈官(ツァ)、風(ルン)、滴(ティクレ)など私たちの体の内部世界のことである。

「別のカーラチャクラ」とは、外部世界と内部世界の不浄な要素を浄化する方法である

生起次第」と「究境次第」のことである。

三つのカーラチャクラは次の表5のようにまとめることができる。

図t−5
   

ダライ・ラマのホームページの解説「―カーラチャクラの鍵― 」

を理解するためにはチベット密教独特の身体観を知る必要がある。



   
13.12-1

13.12−1  チベット密教の霊的身体観


   

 チベット密教では私たちの身体は三種類の身体から成り立つと考える三身説に基づいている。

三種類の身体とは次の三つである。


. 法身(ダルマ・カーヤ):

法身とは主客の対立を超えた、形を持たない根源の空の世界。

仏の三身説に由来する考え方である。

法身は普遍的集合無意識(下層無意識脳を中心とする意識)と考えることができるだろう。

(禅の根本原理を参照)。


. 報身(サンボガ・カーヤ):

報身は色と形態エネルギーの世界で、氣の感覚があると感じられる身体世界である。

三身説はシンボルの世界であり、宗教象徴学や深層心理学の思考法により参入できる身体世界で、

ユングが言う個人的無意識の世界と考えられるかも知れない。

大乗仏教の仏の三身説を参照)。


. 化身(アヴァダーナ):


大乗仏教における仏の三身の一つ。仏が衆生を済度するために様々な形態で出現する際の姿。



チベット密教では以上の三つの身体(法身、報身、化身)が重なって、

完全な身体を作っていると考えている。

この考え方は禅の思想とは全くと良いほど似ている。

禅では「衆生は本来仏である」と考えるから、

我々はこの三身(法身、報身、化身)をもともと具えていると考える。

坐禅修行だけでこの三身(法身、報身、化身)とその作用を自覚できると考えるのである。

臨済録示衆1−3を参照)。

従って、禅ではチベット密教が考えるような霊的身体論やそれに基づいた複雑な修行

をする必要はないのである。

チベット密教では以上の三つの身体(法身、報身、化身)が重なって、完全な身体を作っていると考えている。

大乗仏教では三つの身体(法身、報身、化身)は仏の三身(法身、報身、化身)であった。

チベット密教(後期密教)ではこれが拡大解釈されて我々一般衆生にも仏と同じ

三身(法身、報身、化身)があると考えたようである。



   
13.12-2

13.12−2  霊的身体:


   

チベット密教では三つの身体はプラーナ(氣)・ナーディ(脈管)・チャクラ(輪)

から構成されると考える。

人体を動かす氣(チベット語で風・ルン)のエネルギーは呼吸と共に

サンボガ・カーヤ(報身)やダルマ・カーヤ(法身)の世界から流れてくると考える。



   

13.12−3 ナーディ(脈管)とウマ(中央管):


   

肉体に重なって、霊的身体があるとする。

脈管は気が流れる流路である。

脊髄に沿って体の中央を流れる中央管(ウマ)と、

それに左右から巻きつくように流れている2つの左右管(ロマ)があると考える。

中央脈管(ウマ)は脊椎に沿って頭頂部から会陰部まで繋がっているとされる。

そして、左右管が中央菅に巻きつく場所である5つのチャクラ(輪)があるとする。

.頭頂のチャクラ(32枚弁の大楽輪)、.喉のチャクラ(16枚弁の受用輪)、

.心臓のチャクラ(8枚弁の法輪)、.臍のチャクラ(64枚弁の変化輪)、

.性器のチャクラ(32枚弁の大楽輪)があると考えている。

頭頂から会陰まで中央脈管(ウマ)が脊椎に沿って1センチほどのチューブ状の存在でつながり、

喉の左右に、右は太陽エネルギーのロマ、左は月のエネルギーのキャンマと名づけられた脈管が、

体内を性器のところまで伸びていると考えている。

中央脈管をのぞく全身の脈管には「風(ルン=息風)」と呼ばれるものが吹き通っているとされる。

「風(ルン=息風)」とは生命エネルギーのようなものである。

「風(ルン=息風)」はインドの宗教思想のプラーナ(氣)、中国医学ではに相当するものである。

中央脈管は左右の脈管にかたく絡みつかれているので、

なかに「風」は通らず、真空状態(?)になっていると考えられている。

このように、チベット密教の霊的身体はプラーナ(氣)・ナーディ(脈管)・チャクラ(輪)

から構成されていると考えるのである。

人体を動かす「風(ルン=息風)」のエネルギーは呼吸と共に

サンボガ・カーヤ(報身)やダルマ・カーヤ(法身)の世界から流れてくると考える。


   

13.12−4 五大の身体(ニルマーナ・カーヤ) :


   

粗大な肉体レベルの身体(ニルマーナ・カーヤ)は

地・水・火・風・空の五つの要素(五大)に分かれている。

地の要素は性器と手足、肉体を司る。

水の要素は下腹部、灌頂を司る。

火の要素は胸と心臓、行動を司る。

風の要素は首と喉、思考を司る。

空の要素は頭になり、魂を司る。

地は拡大を与え、水は収縮を起こし、火は熱を与え、 風は動きとダイナミズムを与え、

空は開始点を与えるとする。

地水火風空 の五要素(五大)が集まって、宇宙を意味する卒塔婆(ストゥーパ)の形で表現される。

     
図14

 図14 卒塔婆の形で表現される五大(地水火風空)

   

日本では図14に示したようにお墓の形になる。

日本の真言密教(中期密教)の金胎理智不二の理念とよく対応している。

密教2、12−4−9金胎理智不二を参照)。

この身体観は明らかに現代医科学の身体観と異なる。

中世から古代の古いインド由来の身体観であり、しかも科学的検証や根拠はない。

実感や想像に基づいた古代の身体観と言えるだろう。

我々がこれを考える時には充分注意して臨む必要があるだろう。


   
13.13

13.13 チャクラ(輪):


   

チャクラは、サンスクリットで「車輪・円」を意味する語。漢訳は「輪」(りん)、

チベット語では「コルロ」(khorlo)という。

チャクラは、インド起源の神秘的身体論における用語であり、

物質的な身体(粗大身)と精微な身体(微細身)にある複数の中枢を指す。

ヒンズー教のヨーガでは、人体の頭部、胸部、腹部で、

輪または回転する車輪のように光っているように感じられる箇所を言う。

数は6または7箇所と言われるが、それとは別に8箇所あるという説もあるなど、一定ではない。

画像では光る蓮華で表現される。猿であったときの尻尾の名残の尾てい骨から発生する蛇を、

チャクラを通じて頭から出すのが目的といった見解がある。

霊的身体が外部とつながっているところが、

チャクラ(チベット語では輪・コルロ)と呼ばれ、

頭蓋(頭頂と額)・喉・心臓・臍・会陰の五ヶ所にあると考えられている。

これを次の図15に示す。

     
図15

 図15チャクラの位置

   

表6にヒンズー教(ヨーガ)の神秘的身体論におけるチャクラの名前と位置をまとめる。

     
図t-6
     
   

13.14 ルン ―カーラチャクラの鍵―:


ダライ・ラマのHPではカーラチャクラの鍵としてルン(風)が次のように解説されている。


カーラチャクラでは、ルン*と呼ばれる風(生体エネルギーのようなもの)が

ウマと呼ばれる「中央脈官」に入る最初の過程から、カーラチャクラ・タントラの「究境次第」とする

他の無上・ヨーガタントラでは

「風」を「中央脈官」に集めてそれから究境次第の悟りを得るとする。」

ダライ・ラマのHPで解説されたカーラチャクラの鍵はチベット密教の霊的身体観を考慮に入れると

次のように簡単に解釈できる。

「カーラチャクラ・タントラ」の「究境次第(完成のプロセス)」の修行では、

ルン*と呼ばれる風(生体エネルギー)が、ウマと呼ばれる「中央脈官」に入る最初の過程から始める。

他の無上・ヨーガタントラでは、「風」を「中央脈官」に集めて、

それから究境次第の悟りを得るとされている」。

   

カーラチャクラの鍵はチベット密教の霊的身体観を考慮に入れた「究境次第(完成のプロセス)」の修行において

「風」を「中央脈官」に集めてコントロールすることにある。

それができれば仏の悟りを得ることができると言っていることが分かる。

この解釈で分かるように、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のホームページの解説

「―カーラチャクラの鍵― 」を理解するためにはチベット密教独特の身体観を知る必要がある。


   

13.14−1 カーラチャクラも「空」の観点から観る:


   

13.14−2 ダライ・ラマ法王のカーラチャクラについての説明 :


ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のホームページでは上記の見出しで、

以下のような「カーラチャクラ」のまとめの(結論的な)解説がある。

カーラチャクラというと、本当に実体を持ったもの

それ自体の側から現実に固有の存在としてあるもののように思うかもしれません

カーラチャクラという実体のある本尊とか

シャン国もそういう実体のあるものだと・・・

しかし、そのように考えてしまっては、般若心経を学んだ意味が無くなってしまいます

般若心経では、形も無く、音も無く、味も無く、五蘊もなく、生死もない、と言っています。

タントラを修行する場合、般若心経に説かれている無我を理解する智慧

これがなければ、タントラの修行は成就できません

チベット仏教では、タントラのみならず、どのような経典でも、完璧な修行の道

つまり小乗、大乗、タントラの全てを含めて考えることを大切にし

それは優れた点と言えるでしょう

カーラチャクラの場合にも、般若心経で無我を理解する智慧のことを学ぶ一方で

カーラチャクラのことを本当に実体性のある仏だなどと考えていたのでは

般若心経の教えと食い違ってきてしまうのです

ですから、カーラチャクラのことも、「空」の観点から観るべきなのです。」

ここではカーラチャクラの教えを正しく理解するためには、

大乗仏教の基本思想である「空」を正しく理解し、

空の観点から観ることが大事だ」と述べ締めくくっている。

以上のダライ・ラマのHPの解説において「究境次第(くきょうしだい)」という言葉が出てくる。

この意味を深く理解するためにカーラチャクラの修行法(生起次第と究竟次第)について勉強しよう。


13.15

13.15 カーラチャクラの修行法:



   

13.15−1「生起次第」と「究境次第」:


カーラチャクラの修行法は、生起次第(しょうきしだい)と究竟次第(くきょうしだい)の二つからなる。

生起次第とは生成のプロセスを意味している。

立川武蔵氏は著書「ブッダの哲学」において、

「生起次第」とは「聖なるものの出現」という意味だと説明されている。

この方が理解し易いかも知れない。

究竟次第は完成のプロセスを意味する。

カーラチャクラの生起次第と究竟次第の二つの修行過程は

ゲルク派の密教修行の二段階の修行過程と同じである。



13.15−2 生起次第:


生起次第は我々の世界の森羅万象が仏達の顕現にほかならないと感得するための修行である。

これは馬祖禅の<作用即性>の思想に近いと言える。

馬祖禅の作用即性の思想を参照)。

ツォンカパやケートップによれば生起次第とは生きとし生けるものが避けて通れない「死、中有、生」

のプロセスを対象とし、

現在生きている「生」を浄化するための修行法だと考えられている。

生きとし生けるものは死んで、中有を経て生き返る。

生起次第では主に、イメージ瞑想を中心とする修行をする。他の実践方法と同じように、

イメージ瞑想によって本尊(主尊)を生起し、曼荼羅を生成して灌頂儀式を行い、

その後で本尊と一体化する(=等置・一体化の呪術的修法)。

本尊と女神のマントラを唱え、本尊に対する供養を行い、三昧の状態で、死のヨガを行う。

本尊を取り巻く女神達、母尊ヴィシュヴァマーターが自身の中に溶けいり、

本尊自身も胸の中の光明に溶けいると観想することで、

死のビジョンを体験するという行法である。

この修行によって、現在の「煩悩に汚れた生」は一旦死ぬ(消滅する)。

その観想修行によって、浄化された「新しい生」に生まれ変わる

必要があると考えられたようだ。

観想修行によって生まれ変わるため、

生起次第の修業を「死の修行」と呼ぶのではないだろうか?

この生起次第の修業は基本的には「等置・一体化の呪術的修行」であることが注目される。

等置・一体化の呪術思想については「密教の修法とその論理」を参照)。

次の図16に生起次第の「死の修行」を分かりやすく図示する。

     
図16

図16 生起次第の「死の修行」によって仏の三身を得て、輪廻から解脱する

   

生起次第とは、森羅万象は、実は究極の存在である仏の顕現にほかならない

ことを感得する修行である。

このための修行法が次に述べる成就法だと考えることができる。

成就法は「生起次第」の修業における中心的な修行だと考えられる。


13.16 成就法とは何か?



成就法とは「あらかじめ選ばれ、眼前に顕現した主尊と一体になる行法」である。

その目的は観想のプロセスを通して、「修行者自身が、マンダラの中心にあって、

多くの仏達とマンダラの基礎や構造物を生成して行く主尊そのものであり、

そうして生成されるマンダラの総体と修行者が本質的に同じである

ことを認識することにある。

これより、成就法とは「等置・一体化の呪術的瞑想」によって、

あらかじめ選んだ主尊(仏)とその宗教的世界と一体化することである」ことが分かる。

等置・一体化の呪術を参照)。

「等置・一体化の呪術思想」はインド伝統の呪術思想である。

成就法は真言密教の「三密加持」や「入我我入観」とも非常に近いと言えるだろう。

空海と真言密教、12.6−2「入我我入観」を参照)。

等置・一体化の呪術的瞑想」は空海の中期密教(真言密教)の三密加持の瞑想と同じであり

われわれにとってもなじみ深い考え方と言える。

空海の三密加持の瞑想を参照)。

これによって、修行者は主尊(仏)と等置・一体化し、自らが仏の三身(法身、報身、化身)と

同じであるという悟りを得ることができる。

成就法によって仏の三身(法身、報身、化身)と同じであるという悟りを得ることができれば、

「死、中有、生」のプロセスにおいて生を浄化することができる。

この浄化によって生まれ変わり、輪廻から解脱できる。

成就法とその目的を分かりやすく示せば次の図17のようになる。

     
図17

図17 成就法(生起次第)による輪廻からの解脱

成就法は「等置・一体化の呪術的瞑想」によって、

あらかじめ選んだ主尊(仏)とその宗教的世界と一体化する修行法である。

これによって、修行者は主尊(仏)と等置・一体化し、仏の三身(法身、報身、化身)と同じである

という悟りを得ることができる。

名称は違うだけで、これは三密加持を通した「即身成仏法」と殆ど同じである。

空海の即身成仏の思想を参照)。

成就法は生起次第の重要な修行法であるが、

空海の真言密教でも「等置・一体化の呪術的瞑想」が

中心的な修行となっている。 

後期密教であるチベット密教では成就法は生起次第に含まれる。

生起次第の観想的修行は真言密教の三密加持の瞑想や「入我我入観」と殆ど同じであるから、

等置一体化の呪術思想」によって説明できる。

等置・一体化の呪術を参照)。

密教その3、「入我我入観」を参照)。

以上のの考察より、チベット密教(特にゲルク派の密教)の生起次第の修行までは

中期密教の修行と同じであることが分かる。

生起次第に続く次の究竟次第の修行が、

後期密教(チベット密教)が新しく開発した修行法となっている。


13.16.1

13.16−1 究竟次第:



究竟次第は、以下の6段階からなる体系的瞑想法である。簡単な概要を記す。

   

1.定寂身次第:

曼荼羅を修行者の身体に展開し、リンガ(陰茎)の尿道に滴(ティクレ=精液)を観想し、

そこに意識を集中することで、風(ルン)と意識を重ね合わせ、

操作できるようにし、その風を中央脈管に導き入れ、留めることができるようにする。

この「定寂身次第」は、「生起次第」から「究竟次第」への移行段階の瞑想法とされている。

   

2.定寂口次第(金剛念誦次第):

鼻の先に光の滴を観想する微細ヨーガで心臓の上下の脈管をゆるめ,、

心臓の上端に滴ないし真言の文字を観想し、「出し・入れ・とどめる」の3文字もしくは

「フーム・ホー」の2文字を唱える金剛念誦を行いながら、

中央脈管に上下から風(ルン)を入れ、留め、心臓の脈管の結び目を少しずつほどく。

これによって、生命活動が活性化され、心臓に風(ルン)が集まり易くなるという。

   

3.定寂心(心清浄):

(心臓のチャクラの脈管を完全にほどき、「不壊の滴」に風を送り込み、

溶融する等で、「顕明」(空、ナンワ)、「増輝」(極空、チューパ)、

「近得」(一切空、ニェルトプ)と、

「譬えの光明」(ベイ・ウーセル=「一切空」)という4つのビジョン(四相)を得るとされる。

定寂心の修行は「空」の諸相を歓喜として如実に体得する修行とされる。

   

4.幻身(自加持):

「幻身」とは人間が死んで次にこの世に生まれ変わるまでの「中有」(パルド)の状態のことである。

(「不壊の滴」に溶融した風を解放する。3とは逆順に4つのビジョンが現れ、

「死からの再生」の過程を経て「中有」(パルド)の状態として「幻身」(霊的身体、幽体)を成就する。

「幻身」(霊的身体、幽体)の成就は最も難しい修行とされる。

このため、あらかじめ、自分の意識を体外に離脱させる行法である「遷移」(ポワ)と、

離脱させた意識を他の動物に注入する行法である「入魂」(トンジュク)の修行により、

修行者の身体を「粗大な身体」(物質的身体)と「微細な身体」

(霊的身体)に分けておくことが推奨される。

次の段階で「ほんとうの光明」を得るまでは、「幻身」は浄化されていない「不浄の幻身」と呼ばれる。

   

5.光明(楽現覚):

「不壊の滴」に全ての風を送り込み、溶融させる。

すると、今まで体得した「顕明」「増輝」「近得」が1つに溶け込み、

「ほんとうの光明」(トゥンギ・ウーセル)が体得される。

同時に最高の快楽である「大楽」が生じる。

この時、修行者は「空性」を目のあたりにし悟るとされる。

   

6.双入:

この修行では、心臓のチャクラの中の「不壊の滴」に溶融していた風を再度解放し、

一つに溶け合っていた「近得」「増輝」「顕明」を再び分離・展開する。

これによって、浄化された「清浄な幻身」を出現させ、「ほんとうの光明」と

「清浄な幻身(霊的身体)」を同時に成就することができるとされる。

これが「双入(スンジュク)」である。

この時、自他の区別が雲散霧消し、生きとし生けるものを至福の中で救済する境地に至るとされる。

ただし、この段階ではまだ「有学の双入」と呼ばれ、仏から学ぶ余地を残している。

ここから更に、この境地を生きつつ、充分な功徳と智恵を集積することで、

仏から教えられる必要の無い「無学の双入」、すなわち「解脱、仏位」へ到達する。



正木晃氏は「快楽と叡智」という論文においてこの究極の状態について次のように述べている。

ツォンカバは『秘密集会タントラ』の聖者流を修行することで

幻身(ギュルー=虹の身体)」と「ほんとうの光明(トゥンギ・ウーセル)」を

同時に成就したときに、人間は至高至上の叡智を獲得して

生きたままホトケになると信じていた

この両者が同時に成就することを、チベット密教では「双入(スンジュク=双運)」と呼ぶ

この「双入」が、チベット密教が追求する究極の状態だと考えられている」。

ツォンカパが説く「双入(スンジュク=双運)」の成就による仏への道を次の図18に示す。

     
図18

図18 ツォンカパが説く「双入(スンジュク=双運)」の成就による仏への道

       

注:

『秘密集会タントラ』の聖者流: 『秘密集会タントラ 』の教えに基づく修行。ゲルグ派が最重視する。

         

 結論

   
     

以上見たように、究竟次第での修行は気(風)の操作が主題となっている。

気(風)を操作する瞑想を行う点が中期密教(真言密教)と大きく異なっている。

 究竟次第はインドのクンダリーニ・ヨガでも使われる脈管と心滴のシステムを活用して、

大楽の経験と空性の観想を合一させ、法身を成就するという行法を用いている。

ヒンズー教の1宗派であるシャクティ派ではムーラダーラチャクラに眠る「クンダリニー」

(性的エネルギー)を頭頂部にある「サハスラーラ」チャクラに上昇させて行き、合一させることを目指す。

この修行法は究竟次第やヒンズータントリズム(ヒンズー密教)の修行法と非常に似ている。

チベット密教(後期密教)はヒンズー教の1宗派であるシャークタ派の強い影響を受け、

その修行法と身体観を取り入れたと考えることができるだろう。

ヒンズー密教、シャークタ派の思想を参照)。

以上述べた「究竟次第(完成のプロセス)」はチベット密教の「即身成仏法」と言えるだろう。

しかし、空海の真言密教では「即身成仏法」は未完成である。

「空海は即身成仏したか?」を参照)。

もし、究竟次第の修行によって本当に成仏できるならば、未完成の「即身成仏法」は

チベット密教(後期密教)によって完成されたと言えるのではないだろうか。

しかし、残念なことに、チベット密教の「即身成仏法」の具体的な詳細は

密教(秘密の教え)の名の下に公開されることはない。

これを実体験するには、優秀なチベット密教の師の下に入門し、

「生起次第」と「究竟次第」の二段階修行を経て経験するしかないのである。

以上ではゲルグ派が最重視する『秘密集会タントラ』の教えに基づく密教について紹介してきた。


     

以下では、ゲルグ派以外の宗派であるニンマ派が究極の解脱法と誇る「ゾクチェン(大究竟)」

とカギュー派の最奥義とされる「マハームドラー(大印契)」について簡単に紹介したい。


     
13.17

13.17ゾクチェン(大究竟:究極の解脱法



「ゾクチェン(マハーサンディ、大究竟)」は中央アジアで生まれ、チベットのニンマ派やボン教に

伝えられている思想とされる。

ゾクチェンという言葉はチベット語で「大いなる完成」を意味する「ゾクパ・チェンポ」の短縮形であり、

人間を含むあらゆる生きもの(一切有情)の心性における本来の様態、

あるがままで完成された姿のことを指している。

漢訳は「大円満」あるいは「大究竟」であり、英語では Great Perfection などと訳される。

アティヨーガとも呼ばれる。

ニンマ派には、それぞれに異なる流れのゾクチェンが伝わっている。

14世紀にゾクチェンの教えをまとめて体系化した

ニンマ派の学僧ロンチェン・ラプジャムパ(1308〜1363)の「九乗教判」

という教義体系が伝わっている。

「九乗教判」を表7に示す。


表7

表7 ニンマ派ロンチェン・ラプジャムパの「九乗教判」

この表に示すように、「ゾクチェン(大究竟)」は九乗(顕教+密教)体系

のうちでも密教の最高位に位置付けられている。

       

注:

外タントラ:

         

1. クリヤー乗 :本尊成就のために供養や作法等の所作による外的な行為を中心とする。

2.ウパ乗:本尊成就のために供養法や祈願法等、修法の外的・内的行為を用いる。

3.ヨーガ乗 :マハームドラーを含む「四印」(大手印・法手印・三昧耶手印・羯磨手印)等を用いる。


内タントラ:


1. マハーヨーガ乗(粗雑な意識による生起次第・円満次第):

不浄な顕現を清浄な顕現に変える。


2.アヌヨーガ乗(微細な意識による各次第、風と脈管のヨーガ):

不浄な感覚を清浄な感覚に変える。


3.アティヨーガ乗(ゾクチェン、意識の流れの遮断・空性の覚醒に留まる):

「自己解脱の道」。


ゾクチェン(大究竟)には、3つの体系がある。

「セムデ(心の本性の部)」、「ロンデ(法界の部)」、「メンガキデ(秘訣の部)」の三つである。

この表7に示したように、「九乗教判」では顕教は3乗、密教は6乗に分類される。

明らかに、密教に重点を置いた教判である。

ニンマ派においては、このアティヨーガ乗の境地がゾクチェンと等しいとされ、

無上瑜伽タントラの頂点であるアティヨーガ乗に位置づけられる。

ゾクチェンは「任運成就」(あるがままで完成していること)を強調し、

明知(リクパ)と空性が不二である境地を覚る教えである。

また後述するマハームドラーは外タントラのヨーガ乗に分類されている。

ゾクチェン(大究竟)では「明知」の自覚を保った状態を「三昧」と呼ぶ。

ゾクチェンの瞑想修行は、次の4つの段階で構成される。 


1. 「三昧に入る」修行

2. 「三昧に対し疑いをなくす」

(気づきを増して、体験をよりはっきりと理解する)

3. 「三昧を維持・持続する」=「テクチュー(解放)」

4. 「三昧を深める」=「トゥゲル(超越)」

の四階梯である。


「セムデ(心の本性の部)」:

「セムデ(心の本性の部)」は、分析的で、禅に近いところがあり、教えを言葉による説明で伝授する。

上の四つの瞑想修行の階梯で考えると、

1の「三昧に入る修行」から始め、3の「三昧を維持・持続する」に至る。


「ロンデ(法界の部)」:

「ロンデ(法界の部)」は、密教的で、教えを象徴で伝授する。

ハタ・ヨガのように、様々な体位法、呼吸法、気の操作などを駆使する。

瞑想修行においては、2の「三昧に対し疑いをなくす」から始め、4の「三昧を深める」に至る。


「メンガギデ(秘訣の部)」:

「メンガギデ(秘訣の部)」は、より密教的で、教えを逆説的に表現し、直接的(直指)に伝授する。

直接的というのは、禅でも行われるように、弟子を三昧の状態に入れて、

それだ!」と直示するのである。

瞑想修行においては、3の「三昧を維持・持続する」から始め、4の「三昧を深める」に至る。

インドで密教として生まれ、チベットのカギュー派で顕教と統合された

「マハームドラー(大印契)」は、ゾクチェン(大究竟)に影響されたためか、互いに似ているところがある。

ここでは、「ゾクチェン(大究竟)と「マハームドラー(大印契)」をまとめて「任運乗」と呼ぶことにする。

「禅宗」でも「任運」という言葉は良く使うので禅に近いところがある。

「任運乗」という言葉は、「あるがまま」を肯定するという意味を持っている。

しかし、煩悩の心(固定・限定的で不自由な心)をそのまま肯定するのではない。

マハームドラーは煩悩のない清浄な心(創造的で自由な心)が自然に現れるようにするのである。

ゾクチェン(大究竟)では、煩悩のある不浄な心が現れても、即座に、自然に、解き放たれるようにする。

ゾクチェン(大究竟)は、如来蔵思想(中期大乗仏教)の影響を強く受けた思想である。

すべての存在の基盤に、「初めから清らか」な、無始の「自性清浄心(仏性)」があると考え、

これを「原初の境地」と呼ぶ。

空海によって、日本にもたらされた中期密教(純密)において、

主尊である大日如来の智慧は法界体性智と呼ばれる。

法界体性智は五智の一つである。

中期密教の「五智」を参照)。

法界体性智は永遠普遍の<自性清浄な智慧>で「自性清浄心(仏性)」とされる。

ゾクチェン(大究竟)の「自性清浄心(仏性)」は中期密教(純密)の

大日如来の法界体性智と関係があるのかもしれない。

もし、ゾクチェン(大究竟)の「自性清浄心(仏性)」が大日如来の法界体性智と関係があるならば、

ゾクチェン(大究竟)は後期密教ではなく中期密教(純密)と深い関係が

あると考えることができるだろう。

また、『自性清浄心』という表現は黄檗希運禅師が説く「本源清浄心

という言葉(伝心法要)に近いところがある。

黄檗希運が説く「本源清浄心」を参照)。

また「自性清浄心(仏性)」を「心の本性」と呼び、日常的な2元論的な意識(分別意識)

の「心」とは区別する。

ゾクチェン(大究竟)では、これが自覚的な気づきを持っていることを重視して、「明知(リクパ)」とも呼ぶ。

ゾクチェン(大究竟)は「自己解脱の道」と捉え、「アティ・ヨガ」とも呼ぶ。

観想(イメージ瞑想)を行わず、心の現れを意識的にコントロールせず、

業が原因で現れたものも、自然に清浄なものに変容するようにする。

これを「自然成就」とも表現する。

心の本来の「あるがままで完璧な性質」を現すようにするのである。

初期のゾクチェン(大究竟)とマハームドラーの本行部分の修業は、とても似ている。

止観的な瞑想法が基本で、どちらも4つの段階で構成される。

4種類の瞑想階梯において、

第1段階は、想念の現れのない「空」の状態での「止」である。

第2段階では、意識的なコントロールなしの状態で、「空」からの想念の現れを観察し、

それに実体がないことを認識する。

第3段階では、「空」と現れの一体性を認識する。

第4段階では、意識的なコントロールなしに清浄な心の本性が現れる。

もし、不浄な現れが現れてもそれを解放することを、日常生活の中でも持続させる。

ゾクチェンの場合には、どの段階でも自覚的な気づきを重視する。

ゾクチェンでは「心の本性」を3つの次元で考える。 


1.現れのない母体としての「本体(空)」

2.現れを生む能力である「自性(光明)」

3.無限に生まれ続ける現れである「慈悲(エネルギー)」

の3つである。

   

現れの「エネルギー」は次の3つのあり方で現れるとされる。

1. 無形な、音、光、光線としての現れである「ダン」

2. 内的なイメージとしての現れである「ロルパ」

3. 外的、主客2元的、煩悩性の現れである「ツァル」

の3つである。

これらは「法身」、「報身」、「変化身」の三身に対応すると考えられている。 

最終的に得られる身体には、仏の三身に「虹の身体」が加わる。

「虹の身体」は「報身」よりも活動的で、他者と直接的に接触して

救済することができると考えられている。

ゾクチェンは禅に似ている。日本や欧米の多くの仏教学者は禅の影響を認めている。

 近年の研究では、9世紀には大究竟(ゾクチェン)の原型がすでに成立していたといわれ、

それには中国の南宗禅系統の頓悟禅の影響があらわであるとされる。

しかし中国禅の影響のみでは説明できない部分も多い。

やはり、インド・中国から素材を得て、チベット独自の修行法として

展開してきたとみなすほうが良いと考えられる。

ゾクチェンは他の宗派や学派に類を見ない哲学的見解を有する独特な瞑想体系である。

ニンマ派のゾクチェンとボン教のゾクチェンに大別され、

それぞれの宗派(教派)の教義の中心をなしている。

次にカギュー派の最奥義とされる「マハームドラー」(大印契)について見よう。


     
13.18

13.18 マハー・ムドラー(大印契)



マハー・ムドラー(大印契)は、仏(宇宙意識)との合一という悟りの体験とされる。

マハー・ムドラー(チャクチェン、大印契)」は、インドの後期密教の思想体系で、

チベットではカーギュ派が伝承している。

インドのティロパからナーローパー、そしてチベット人のマルパ(1012〜1097)、

ミラレパ(1052〜1135)、ガムポパと伝承されたと考えられている。

「マハームドラー(チャクチェン、大印契)」は、心のあり方をあるがままで肯定するという考え方をする。

煩悩のない清浄な心が、作為せずに自然に現れるようにする、という意味で「任運乗」と表現する人もいる。

任運」とは「あるがまま」を肯定するという意味である。

これは、あるがままに認識するという認識の問題ではなく、

心のあり方をあるがままで肯定するという考え方である。

しかし、修行もしない凡俗人の煩悩心をそのまま肯定するということではない。

修行の結果、煩悩が無くなった清浄な心が、作為なしに自然に現れるようにする

という意味である。

概念やイメージを含めてすべての心の表れを、自然に、煩悩のない創造的なあり方にして、

そのまま肯定するということである。

「マハームドラー」という言葉は、直訳すれば「大いなる象徴」であるが、様々な意味で使われる。

ガムポパ(1079〜1153、カギュー派を確立)によって定められた「マハームドラー」の代表的な行法は、

「倶生結合」と呼ばれ、「四加行」、「副次的修行」、「正行」、そして「後行」から構成される。

「倶生結合」の中心的な瞑想法は、「正行」である「四ヨガ」である。

「四ヨガ」は「一点集中(止)」、「無技巧(観)」、「双修(一味)」、「無修」からなる。

最初の「一点集中」は「(サマタ)」的瞑想で、普通の坐禅に近い。

心に雑念が浮かんだ時には、ただそれを観察する。

すると、自然に心は静まって満月のような澄み切った状態になる。

やがて、何も心の現れのない不動の『明鏡止水』とよばれるような心の本質にまで到達する。

2つ目の「無技巧」は、「観(ヴィパッサナー)」的瞑想である。

何もない心の本質から、イメージや概念などの心の活動が現れるのを、あるがままに観察する。

そして、それが実体のない「空」なる存在であると理解する。

3つ目の「双修(一味)」と呼ばれる瞑想も「観」的な瞑想法である。

不動の心の本質と心の活動の現れが、一体であると理解する。

つまり、何もない空なる心の本質は、常に活動して様々な心を現すのである。

また、煩悩のない清浄な心の現われと、煩悩によって起こる不浄な心の現われが、

異なるものではないことを理解する。

これは天台本覚思想の<煩悩即菩提>の思想に近いところがある。

煩悩即菩提と体用思想を参照)。

つまり、煩悩も菩提(悟りの心)も同じ何もない心の本質から生まれた、

実体ない(空なる)ものだということが分かる。

4つ目の「無修」は、瞑想法というより、これまでの瞑想によって到達する境地と言った方が良い。

この段階が、「マハームドラー」の境地になる。

この段階では、意識的なコントロールなしに、『自性清浄心

といった清浄な表われだけが現れ続けるようになる。

「無修」はその状態を保つ瞑想といえる。

空海によって、日本にもたらされた中期密教(純密)において、

主尊である大日如来の智慧は法界体性智と呼ばれる。

法界体性智は五智の一つである。

中期密教の「五智」を参照)。

法界体性智は永遠普遍の<自性清浄な智慧>で「自性清浄心(仏性)」とされる。

また、『自性清浄心』という表現は黄檗希運禅師が説く「本源清浄心

という言葉(伝心法要)に近いところがある。

黄檗希運が説く「本源清浄心」を参照)。

「倶生結合」の「四ヨガ」によって到達する「マハームドラー」の境地は禅に近いところがある。

「マハームドラー」の「自性清浄心(仏性)」は中期密教(純密)の

大日如来の法界体性智と関係があるのかもしれない。

「マハームドラー」は、「ゾクチェン」に影響を受けたため、似ていると考えられている。 

既に見たように、「ゾクチェン」でも「自性清浄心(仏性)」を説いている。

もし、「マハームドラー」や「ゾクチェン」の「自性清浄心」が大日如来の法界体性智

関係があるならば、「マハームドラー」や「ゾクチェン」は、

後期密教ではなく中期密教(純密)と深い関係があると考えることができるだろう。

これを図19に示す。


図19

図19 ゾクチェンとマハームドラーは大日如来の「自性清浄心」と関係がある


「倶生結合」の「四ヨガ」によって到達する「マハームドラー」の境地は

禅に近いところがあり、理解しやすい。

図19を見れば分かるように、ゾクチェンとマハームドラーは

大日如来の「自性清浄心」を通して禅と中期密教と関係があると考えることができる。

「マハームドラー」の「自性清浄心(仏性)」や黄檗希運の「本源清浄心」は

中期大乗仏教の如来蔵思想に由来することは言うまでもない。

中期大乗仏教の「如来蔵思想」を参照)。

本来的に清浄無垢な 「自性清浄心」とも呼ばれる

また、マハームドラーには「五観想法」と呼ばれるの瞑想法がある。

「「五観想法」は、「止観」の瞑想法で、下記のように行う。

1. 心の本質が、内にも外にもなく、空であることを理解する

2. 自分の心があらゆるものの根源であると理解する。

3. 意識的なコントロールなしに、心の流れを観察する。

4. 心に現れたものを、ただそのままに観察することで、無概念な状態になる。

5. 思考が現れると、すぐに他の思考に移すことで、概念が現れると同時に解かれて

光明である法身となる。

瞑想法としての特徴は、思考などの雑念が現れた時に、すぐに他の思考に意識を移すことで、

概念が現れると同時にそれを消滅させるところにある。

そして、その現れては消滅する概念が、仏身や光と同じような、

清浄な存在になったことを理解するのである。

臨済は法身仏を清浄光に譬えている。

臨済録1示衆1−3を参照)。

この「「五観想法」も「四ヨガ」に似て禅に近いところがあり、理解しやすい。






参考文献や参考になるホームページなど


   

1.ツルティム・ケサン、正木晃共著、筑摩書房、ちくま新書230、 チベット密教、2000年

2.立川武蔵著、講談社、講談社現代新書 はじめてのインド哲学、1992年

3.ラマ・ケツン・サンポ、中沢新一共著、平河出版社、チベット密教の瞑想修行、1981年



4.カーラチャクラ・タントラにいついては

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のホームページ中の「チベット仏教:カーラチャクラ

を参照されたい。

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のホームページ:


5.マハームドラーについては「仏教の瞑想法と修行体系 - アメーバブログ」 を参照されたい。

マハームドラー|仏教の瞑想法と修行体系 - アメーバブログ

6.ゾクチェンについては「仏教の瞑想法と修行体系 」 を参照されたい。

マハームドラー|仏教の瞑想法と修行体系

7.立川武蔵著、法蔵館、ブッダの哲学、現代思想としての仏教、1998年.



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