2013年7月1日〜8月27日作成   表示更新:2023年2月24日

従容録:その3: 51〜75則

   
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ここでは安谷白雲著、「従容録」と高橋直承校註「従容録」を参考にし、

合理的科学的立場から「従容録」の公案51〜100則を分かり易く解説したい。



51soku

 第51則 法眼航陸



示衆:

世法の裏(うち)に多少の人を悟却(ごきゃく)し、仏法の裏(うち)に多少の人を迷却(めいきゃく)す。

忽然(こつねん)として打成(だじょう)一片ならば、

還って迷悟を著得(じゃくとく)せんや也(ま)た無しや。


注:

世法の裏(うち)に:人間生活の中で。

多少の人:多くの人。

仏法の裏:思想としての仏教。頭でっかちの理論仏教。

世法の裏(うち)に多少の人を悟却(ごきゃく)し、仏法の裏に多少の人を迷却(めいきゃく)す。:

実際の人間生活の中で多くの人々を悟らせ、

思想としての仏教の中で多くの人々を迷わせる。

打成(だじょう)一片:打って一片となる三昧(精神統一)の状態。純一無雑に成りきること。

忽然として打成(だじょう)一片ならば:打成(だじょう)一片の坐禅の力によって

天地一枚の自己に成りきることができれば。

還って迷悟を著得せんや也た無しや。:迷いや悟りだといったものがくっ付く余地があるだろうか。



示衆の現代語訳


実際の人間生活の中で多くの人々を悟らせ、思想としての仏教で多くの人々を迷わせる。

打成(だじょう)一片の坐禅の力によって天地一枚の自己を見出すことができれば、

そこに迷いや悟りといったものがくっ付く余地があるだろうか。


本則:

法眼覚上座に問う、「航来か陸来か?」。

覚云く、「航来」。

眼云く、「航は甚麼の処にか在る?」。

覚云く、「航は河裏に在り」。

覚退いて後、眼却って傍僧に問いて云く、「汝道え適来の這の僧、眼を具するや眼を具せざるや?」。



注:


法眼:法眼文益禅師(885〜958)。法眼宗の始祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑

 →雪峯義存→玄沙師備→羅漢桂チン→法眼文益 

覚上座:汾陽の慈覚禅師とも趙州の弟子の覚鉄シだとも言われるがはっきりしない。

航:

航来:船で来る。

陸来:陸上を来る。

適来の:さきほどの。


   

本則の現代語訳:

法眼禅師が覚上座に聞いた、

船で来たのか、陸上を来たのか?」。

覚上座は云った、

船で来ました」。

法眼禅師は云った、

航はどこに在るのか?」。

覚上座は云った、

航は河に在ります」。

覚上座が退いた後、法眼禅師は傍らの僧に聞いた、

お前さん、さきほどの僧は

悟りの眼を持っていると見るか、持っていないと見るか?」。


頌:


水、水を洗わず、金、金に博(か)えず。

毛色に昧(くろ)うして馬を得、糸弦靡(な)うして琴を楽しむ。

縄を結び卦を描いて這の事あり、喪尽(そうじん)す真淳(しんじゅん)盤古(ばんこ)の心。




注:


水、水を洗わず、金、金に博えず:水は水を洗うことができないし、金で金を買っても意味がない。

毛色に昧(くろ)うして馬を得:昔、伯楽という馬を鑑定する名人がいた。

彼は名馬を見つけ、その名馬は黄色で雄だと報告した。

ところがその馬を捕まえて見ると黒色で雌であったので、

お前は毛色も雄雌も分からんのかとなじられた。

伯楽は「私はその精を得て、その粗を忘れ、その内を見て、その外を忘れる」と答えた。

伯楽が見て来たのは外観ではなく、内実だと言うのである。

果たして、その馬は千里の名馬だったという故事に基づいている。

伯楽が言いたかったのは毛色や雄雌などの外観ではなく、

内実を観ることで名馬を得ることができるのだということ。

糸弦靡(な)うして琴を楽しむ:陶淵明はもともと音楽が分からなかったが、琴が大好きだった。

そして「琴の面白さが分かれば、弦からでる音に心を悩ます必要はない」と言っていた。

これが「没弦琴(もつげんきん)」という言葉の語源となったと言われる。

弦がない琴(悟りの心)が出す音楽を楽しむという意味。

没弦琴を参照)。

縄を結び、卦を画いて、這の事あり:古代では結縄は文書の代わりに用いられた。

古代インカ帝国で使われた紐に結び目を付けて数を記述する方法としてキープが知られている。

縄の結び目の形で数を表現するため、「結縄(けつじょう)」とも呼ばれている。

「卦を画いて」とは八卦を画くようになってという意味。

「結縄(けつじょう)」を用いたり八卦を画くようになって

文書や技巧が発達し這の事(禅問答)が出てきた。

「結縄(けつじょう)」を用いたり八卦を画くようになって文書や表現技術が発達し、

お前さん、さきほどの僧は、悟りの眼を持っていると見るか、持っていないと見るか?」などと、

仏法の本質を議論(這の事)するようになってきた。

盤古(ばんこ):中国の古代神話に登場する神。盤古はこの世界を創造した造物主である。

盤古の心:太古の盤古のような淳真な心。

喪尽す真淳盤古の心:その結果、淳真な盤古の心を失ったのだ。


頌の現代語訳:



水は水を洗うことができないし、金で金を買っても意味がない。

伯楽が毛色などの外観ではなく、内実を観ることで名馬を得たように、

また陶淵明が無弦の琴の音楽を楽しんだように本質を見抜くことが大事だ。

「結縄(けつじょう)」を用いたり八卦を画くようになって文書や表現技術が発達し、

お前さん、さきほどの僧は、悟りの眼を持っていると見るか、持っていないと見るか?」とか、

迷いや悟りなどと騒ぎ議論するようになってきた。

その結果、淳真な盤古の心を失ったのだ。



解釈とコメント



本則は法眼宗の始祖法眼文益禅師(885〜958)と覚上座の問答からなる公案であり、

碧巌録や無門関にも見当たらない。曹洞宗的な公案と言える。

なにも変わったことのない問答のなかに2人の悟りの境地が現れていると考えられている。

安谷白雲老師は2人はそれぞれ完全無欠、難兄難弟(どちらがすぐれているか区別がつかない) 、

迷・悟を超えた淳真な盤古の心を持っていてこのような問答を交わしていると考えられている。

しかし、そう評価する根拠を何も示していない。

筆者は本則に関し違った考えと評価をしている。

法眼禅師が覚上座に聞いた、

船で来たのか、陸上を来たのか?」

は借事問であると考えると、

法眼禅師は覚上座に「本来の面目」について借事問を開始したと考えることができる。

覚上座は云った、「船で来ました」と言ったことに対し、

法眼禅師の質問「(船)はどこに在るのか?」

と聞いている質問は船の場所を聞いているのではない。

船を「本来の面目」に譬えて聞いていると解釈できる。

そう考えると、「航はどこに在るのか?」

という法眼禅師の質問は

「お前さんは「本来の面目」を悟っているか

それはどこに在るのか、もし分かっているなら私に示しなさい。」

と覚上座に迫っているのである。

決して場所を聞いているのではない。

それが分かっていない覚上座は

(船)は河に在ります」とピント外れの答えである。

このように考えると、法眼禅師に質問した僧は、まだ悟りの眼を持っていないと見ることができる」

この評価は安谷老師の高い評価と全く違う。

借事問に関し「無門関」15則を参照)。





52soku

 第52則 曹山法身


示衆:

諸の有智(うち)の者は譬喩を以て解することを得。

若し、比することを得ず、類(るい)して斉(ひとし)うし難き処に到らば如何ぞ他に説向(せっこう)せん。


注:

有智の者:頭がよい人。

諸の有智の者は譬喩を以て解することを得:頭がよい人達には譬喩を以て理解させることができる。

若し、比することを得ず、類して斉うし難き処:もし、比較することもできず、

似たようなものもない難しいところ。

若し、比することを得ず、類して斉うし難き処に到らば如何ぞ他に説向せん:

もし、比較することもできず、似たようなものもない難しいところに到ったならば

どのように説いたらよいだろうか。



示衆の現代語訳


頭がよい人達には譬喩を以て理解させることができる。

もし、比較することもできず、

似たようなものもない難しいところに到ったならばどのように説いたらよいだろうか。


本則:


曹山徳尚座に問う、「仏の真法身は猶お虚空の如し。物に応じて形を

現ずること水中の月の如し。作麼生か固の応ずる底の道理を説かん?」。

徳云く、「驢の井を覩るが如し」。

山云く、「道うことは即ちはなはだ道う、只だ八成を道い得たり」。

徳云く、「和尚又如何?」。

山云く、「井の驢を覩るが如し」。


注:


曹山(そうざん):曹山本寂(840〜901)。洞山良价の法嗣。

中国の曹洞宗は、洞山良价と彼の弟子である曹山本寂を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、

語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったという説がある。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价→曹山本寂

尚座:上座。

仏の真法身:法身。ここでは「本来の自己」のこと。

(法身については三身仏の思想を参照)

法身については「三身仏の思想」を参照)。

仏の真法身は猶お虚空の如し、物に応じて形を現ずることは水中の月の如し:

北涼の曇無讖(ドンムシン、385〜433)訳「金光明経」四天王品に出ている言葉。

真の法身仏はあたかも大空のように宇宙に充満している。

それが物に応じ自由に応現するさまはさながら水に映る月のようだという意味。

驢の井を覩るが如し:驢馬が井戸の中の水鏡を見ているようなものだ。

井の驢を覩るが如し:井戸が水鏡に驢馬を映して見ているようなものだ。


本則の現代語訳:

曹山が徳上座に聞いた、

「金光明経」には真の自己はあたかも大空のように宇宙に充満している。

それが物に応じ応現するさまはあたかも水に映る月のようだと説いている

真の自己が物に応じ応現する道理はどのようなものだろうか?」。

徳上座は云った、

驢馬が井戸の中の水鏡を見ているようなものです」。

曹山は云った、

うまく言うことは言っているが、80%くらいのできだ」。

徳上座は云った、

和尚さんならどう言いますか?」。

曹山は云った、

井戸が水鏡に驢馬を映して見ているようなものだ」。


頌:


驢井を覩、井驢を覩る。

。智容れて外(ほか)無く、浄涵(かん)して余りあり。

肘後(ちゅうご)誰か印を分たん。

家中書を蓄えず、機糸掛けじ梭頭(さとう)の事。

文彩縦横意自ら殊なり。


注:


驢井を覩、井驢を覩る:驢馬が井戸を無心に見、井戸が驢馬を無心に映して見る。

驢馬も井戸もともに無心だ。

智:無分別智。

智容れて外(ほか)無く:無分別智だけが働いている。

浄涵して余りあり:その知恵を水にたとえると、浄水漫々で宇宙に満ちている。

智容れて外(ほか)無く、浄涵して余りあり:無分別智だけが働き、

その知恵を水にたとえると、清浄な水が漫々として宇宙に満ちているようだ。

印:仏の心印。

肘後の符:お守り札のようなもの。

肘後(ちゅうご)誰か印を分たん:「史記」には趙(古代中国の戦国七雄の一つ、紀元前228年に亡ぶ)

の世家について次のような故事が出ている。

趙簡子が皆に告げて言った、「私は肘後の宝符を常山の上に隠しておいた

先にその宝符を取ってきた者に褒美をあげよう」。

そこで皆は常山の上に行って宝符を探し求めたが、見付からない。

ただ一人ムジュツがそれを見つけましたと言って、帰ってきた。

趙簡子が「一体何をみつけたのだ?」と聞くと、

ムジュツは「常山の上から下を臨むと代州を取ることができると見て来ました」と言った。

それを聞いて、趙簡子は太子伯魯を廃してムジュツを太子にしたという。

自分の法嗣として誰に仏の心印を分かち与えたら良いだろうか?

家中書を蓄えず:驢、井を覩、井、驢を覩る」と言った無心三昧の境地は書物を

読んで得られるようなものではなく、修行によって自得するしかない。

機糸:機(はた)を織る糸。

機糸掛けじ梭頭(さとう)の事:本来の面目のはた織り機のような働きには迷悟凡聖

のような分別意識の糸は一すじも掛けていない。

文彩縦横:立派な模様。

文彩縦横意自ら殊なり:匠も模様も立派で時々刻々と変化している。


頌の現代語訳:


驢馬が井戸を無心に見、井戸が驢馬を無心に映して見る。

そのように徳上座も曹山もともに無心だ。

無分別智だけが働き、その知恵を水にたとえると、清浄な水が漫々として宇宙に満ちているようだ。

古代中国の趙の国では趙簡子は太子伯魯を廃して知恵のあるムジュツを太子にしたという。

自分の太子に当たる法嗣として、誰に仏の心印を分かち与えたら良いだろうか?

驢、井を覩、井、驢を覩る」と言った無心三昧の境地は

書物を読んで得られるようなものではなく、修行によって自得するしかない。

本来の面目のはた織り機のような働きには迷悟凡聖のような

分別意識の糸は一すじも掛けていない。

はた織り機で織られた布の意匠や模様は立派で時々刻々と変化している。



解釈とコメント




本則では「驢、井を覩、井、驢を覩る」と言った無心三昧の境地がテーマになっている。

本則では真の自己を「仏の真法身」と表現しているのが注目される。

本則は曹洞宗の始祖の1人曹山本寂(840〜901)と徳上座の問答からなる。

本則は、碧巌録や無門関にも見当たらないので従容録独自の公案と言える。

2人の問答のなかに無心三昧の境地が現れていると考えられている。

迷悟凡聖を超えた二人の無心三昧の境地が主題になっている。

徳上座は「驢馬が井戸の中の水鏡を見ているようなものです」と云っている。

これに対し曹山は「井戸が水鏡に驢馬を映して見ているようなものだ」と言う。

曹山の言葉「井戸が水鏡に驢馬を映して見ているようなものだ」は水鏡のような無心の境地

を表している。

筆者は徳上座の答えは面白いと思う。

坐禅中の脳は上層脳は殆ど休止しているので

驢馬の脳(無心の状態)に近いと考えられるからである。

いくら無心であるといっても人間の脳は生きているので、水のように無機的に鎮まり返るのは難しい。

その点を考えると、

無心は「驢馬の脳」に近いと考えられるだろう。



53soku

 第53則 黄檗とう糟


示衆:

機に臨んで仏を見ず。

大悟師を存せず。

乾坤を定むる剣、人情没(な)し。

虎ジ(こじ)を擒うる機、聖解を忘ず。

且らく道え是れ何人の作略ぞ。


注:

機に臨んで:学人を指導する時。

仏を見ず:眼中に何もない

機に臨んで仏を見ず。大悟師を存せず:学人を指導する時、眼中に何もない。

大悟する時には師に依存することなく皆自分で悟るしかない。

乾坤を定むる剣:殺すべきは殺し、活かすべきは活かす剣。

 人情没(な)し:遠慮会釈はない。

虎ジ:虎や野牛のような力量ある修行者。

聖解を忘ず:頭の中に悟りらしいものが毛筋ほどもない。

乾坤を定むる剣、人情没(な)し。虎ジを擒うる機、聖解を忘ず:殺すべきは殺し、

活かすべきは活かす剣には遠慮会釈はない。

虎や野牛のような力量ある修行者を掴まえて適切な指導をする時、

頭の中に悟りらしい考えが毛筋ほどもない。

且らく道え是れ何人の作略ぞ:それではこのような活作略を持つ人とはどのような人だろうか。


示衆の現代語訳


学人を指導する時、眼中に何もない。

大悟する時には師に頼ることなく自分で悟るしかない。

殺すべきは殺し、活かすべきは活かす剣には遠慮会釈はない。

虎や野牛のような力量ある修行者を掴まえて適切な指導をする時、

頭の中に悟りらしい考えが毛筋ほどもない。

それではこのような活作略を持つ指導者とはどのような人だろうか。


本則:


黄檗衆に示して云く、「汝等諸人尽く是れトウ酒糟(とうしゅとう)の漢

  与麼に行脚せば何の処にか今日あらんや、還って大唐国裏に禅師無きことを知るや」。

時に僧あり出でて云く、「衆を領ずるが如きは又作麼生?」。

  檗云く、「禅無しとは道わず只是れ師無し」。


注:

黄檗(おうばく):臨済禅師の師である黄檗希運禅師(?〜850)。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →百丈懐海 →黄檗希運

トウ酒糟の漢:酒粕をたらふく食べて酔い心地の男。

古人の酒粕のような言句にしばられ自己満足している修行者のこと。

与麼に:そんな風に。


本則の現代語訳:


ある日黄檗希運禅師は、門下の修行僧達に言った、

お前達は誰も彼も酒粕をたらふく食べて酔い心地の男のようだ

  そんな体たらくで、うろうろだらりと修行していてはとても今日のわしみたいにはなれんぞ

大体この大唐国四百余州には本物の禅師らしい禅師はおらん」。

その時一人の僧が出で来て言った、

和尚は大唐国裏に本物の禅師はいないとおっしゃいますが

あちこちの道場には大勢の修行者達を集めて指導している老師方がおられます。

あれは一体どう見たらよいのでしょうか?」

  黄檗は云った、

わしは禅がないとは言っていない

ただこれ明眼の禅師がいないと言ったのじゃ」。



頌:


岐(みち)分かれ糸染んで太はだ労労(ろうろう)。

葉綴(つづ)り花聨(つら)なって祖曹(そそう)を敗す。

妙に司南造化(しなんぞうか)の柄を握って、水雲の器具けん陶に在り。

繁砕(はんさい)を屏割(へいかつ)しじゅう毛を剪除(せんじょ)す。

星衡藻鑑(せいこうそうかん)、玉尺金刀(ぎょくしゃくきんとう)。

黄檗老、秋毫(しゅうごう)を察す。

春風を坐断して高きことを放(ゆる)さず。


注:


労労:わずらわしい。

岐分かれ糸染んで太はだ労労:禅の高みへ登る路がいろいろ分かれているので、

どの路を登っていけば良いかと迷い、はなはだわずらわしい。

祖曹:祖師方。

葉綴り花聨なって祖曹を敗す:六祖慧能の禅は曹洞宗、臨済宗、雲門宗、法眼宗、

イ仰宗と五家を生じ隆盛を極めたのは良いが、

枝葉末節にこだわって純粋な祖師禅の本質が失われた。

司南造化の柄:学人を大悟徹底させるための活作略。

妙に司南造化の柄を握って:学人を大悟徹底させるために、

指導者は造化の活作略をふるって学人をして大悟徹底させる。

けん陶:陶工が使うロクロや型。指導者の活作略をなぞらえている。

水雲の器具けん陶に在り:水や雲の模様のついた立派な陶器を完成させるのは

陶工が使うロクロや型にある。

妙に司南造化の柄を握って、水雲の器具けん陶に在り:

学人を大悟徹底させるのは指導者の活作略にあるように、

水や雲の模様のついた立派な陶器ができるのは陶工が使うロクロや型にある。

繁砕:糸のもつれや石や陶器の破片。迷悟凡聖。

屏割:叩き割ること。

じゅう毛:うぶ毛。微妙な法執。

剪除:切り取る。

星衡:秤。

藻鑑:立派な鏡。

玉尺:ものさし。

金刀:ハサミ。

繁砕を屏割しじゅう毛を剪除す。星衡藻鑑、玉尺金刀:迷悟凡聖を叩き割り、

うぶ毛のような微妙な法執を切り取り去る黄檗禅師の指導ぶりは

裁縫につかうものさしやハサミのようだ。

秋毫:《秋に抜け替わった、獣のきわめて細い毛の意から》きわめて小さいこと。

微細なこと。わずかなこと。極めて微細な汚れ。

黄檗老秋毫を察す:黄檗禅師は極めて微細な汚れを見ぬいてしまう。

春風:われこそは禅の本質を極めたという高慢な天狗の鼻。

春風を坐断して高きことを放(ゆる)さず:われこそは禅の本質を極めたという高慢な

悟りの粕(天狗の鼻)などは坐り抜いて坐断してしまう。


頌の現代語訳:


禅の高みへ登る路がいろいろ分かれているので、

どの路を登っていけば良いかと迷い、はなはだわずらわしい。

六祖慧能の禅は曹洞宗、臨済宗、雲門宗、法眼宗、イ仰宗と

五家を生じ隆盛を極めたのは素晴らしい。

しかし、枝葉末節にこだわって純粋な祖師禅の本質が失われた。

学人を大悟徹底させるために、

指導者は造化の活作略をふるって学人をして大悟徹底させる。

学人を大悟徹底させるのは指導者の活作略にあるように、

水や雲の模様のついた立派な陶器ができるのは陶工が使うロクロや型にある。

迷悟凡聖を叩き割り、うぶ毛のような微妙な法執を取り去る黄檗禅師の指導ぶりは

裁縫につかうものさしやハサミのようだ。

黄檗禅師は極めて微細な汚れを見ぬいてしまう。

われこそは禅の本質を極めたという高慢な悟りの粕(天狗の鼻)などは坐り抜いて坐断してしまう。



解釈とコメント


本則は、碧巌録11則と同じである。

「碧巌録」第11則を参照)。





54soku

 第54則 雲巌大悲 


示衆:

八面玲瓏十方通暢。一切処放光動地。

一切時妙用神通。

妙用神通且らく道え如何が発現せん。


注:

八面玲瓏十方通暢:本来の面目の作用はあらゆる面と方向にまる見えで開けっ放しに通じている。

放光動地:すばらしい働きをする。 

妙用神通:すばらしい働きをする。

一切処放光動地、一切時妙用神通:どこでもいつでもすばらしい働きをする。

妙用神通且らく道え如何が発現せん:それではそのような妙用神通はどうしたら発現するだろうか。


示衆の現代語訳


本来の面目の作用はあらゆる面と方向にまる見えで開けっ放しに通じている。

それはどこでもいつでもすばらしい働きをする。

それではそのような妙用神通とも言える働きはどうしたら発現するだろうか。


本則:


雲巌道吾に問う、「大悲菩薩、許多(そこばく)の手眼を用いて作麼(なに)かせん?」。

吾云く、「人の夜間に背手して枕子を模ぐるが如し」。

巌云く、「我会せり。汝作麼生か会す?」。

巌云く、「偏身是れ手眼」。

吾云く、「道うことははなはだ道う。即ち八成を得たり」。

巌云く、「師兄(すひん)作麼生?」。

吾云く、「通身是れ手眼」。


注:

雲巌:雲巌曇晟禅師(782〜835)。

雲巌曇晟は始め百丈懐海に20年も師事したが悟ることができず、

百丈懐海の遷化後薬山惟儼の下に移った。

薬山惟儼の指導下で大悟しその法を嗣いだ。

次に示す法系を見れば分かるように、 法嗣に洞山良价がいる。

曹洞禅に直結する禅師と言える。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价 →曹山本寂 

道吾:道吾円智禅師(769〜835)。雲巌曇晟禅師と道吾円智禅師は共に薬山惟儼の弟子。

道吾円智の方が 雲巌曇晟の先輩に当たる。

大悲菩薩:千手観音(千手千眼観音、大悲観音)。

ここではわれわれに具わっている「本来の面目(脳)」の働きや慈悲心を千手観音になぞらえている。

許多(そこばく)の手眼:沢山の手と眼。

夜間に:夜中に眠っている時に。


本則の現代語訳:


雲巌が道吾に聞いた、

千手観音は非常に多くの手や眼を用いて何をするのだろうか?」。

道吾は言った、

夜中寝ていた人が枕を外した時、背中に手を廻して手さぐりで枕を探るようなものだ」。

雲巌は言った、

よく分かりました。」。

道吾は言った、

お前さん、どう分かったのか?」。

雲巌は言った、

体中に手や眼があるということです」。

道吾は言った、

なかなかうまく言っているがまだ80%くらいしか言い当てていないな」。

雲巌は云った、

ではあなたはどうだと言うのですか?」。

吾云く、

体そのものが手や眼だ」。


頌:


一竅(きょう)処通、八面玲瓏(れいろう)。

象無く、私無く、春、律に入る。

留せず礙(さ)えず月空を行く。

清浄の宝目、功徳臂(くどくひ)。

偏身は通身の是に何似(いずれ)ぞ。

現前の手眼全機を顕わす。

何ぞ忌諱(きき)せん。


注:

一竅(きょう):穴。ここでは眼のこと。

一竅(きょう)処通、八面玲瓏:眼はあらゆるところにまる見えに通じている。 

象無く、私無く、春、律に入る:四季にははっきりした形はないけれど、

春風が吹いてくると梅の花が無心に咲き、自然は春の法則に従って推移する。 

留せず礙(さ)えず月空を行く:自由無碍に月は空を動いて行く。

清浄の宝目、功徳臂(くどくひ):目は観世音菩薩の目のように清浄で尊く、

手は観世音菩薩の手のように清浄で万徳円満である。 

偏身は通身の是に何似(いずれ)ぞ:雲巌は「偏身是れ手眼」と言い、道吾は「通身是れ手眼

と言ったけれど、その意味する真意はどこにあるのだろうか。 

忌諱(きき):忌み嫌うこと。

全機:あらゆる働き。 

現前の手眼全機を顕わす。大用縦横、何ぞ忌諱(きき)せん:

今の今、自己の活きた観音が手や眼のあらゆる働きを発揮している。

見たり、聞いたり、取ったり、投げたり、全機を発揮しているではないか。

その無心の働きをいみ嫌うことはどこにもない。 


頌の現代語訳:


眼はあらゆるところにまる見えに通じている。

四季にははっきりした形はないけれど、春風が吹いてくると梅の花が無心に咲き、

自然は春の法則に従って推移する。

月は自由無碍に空を動いて行く。

目は観世音菩薩の目のように清浄で尊く、手は観世音菩薩の手のように清浄で万徳円満である。

雲巌は「偏身是れ手眼」と言い、道吾は「通身是れ手眼」と言ったけれど、

その意味する真意はどこにあるのだろうか。

今の今、自己の活きた観音が手や眼のあらゆる働きを発揮している。

見たり、聞いたり、取ったり、投げたり、全機を発揮しているではないか。

その無我無心の働きをいみ嫌うことはどこにもない。



解釈とコメント




本則では千手観音が話題になっている。雲巌の質問に対し道吾は千手観音の働きは

夜中寝ていた人が枕を外した時、背中に手を廻して手さぐりで枕を探るようなものだ

と答える。

これより、道吾が言う千手観音とは就寝中も人が枕を外した時、

背中に手を廻して手さぐりで枕を探る主体であることが分かる。

それは脳であることは現代では常識である。

ここでは「本来の面目=真の自己」の働きや慈悲心を千手観音に譬えているから、


「本来の面目」=千手観音=脳 (or脳神経系)


という等式が禅的には成り立つことが分かる。

道吾が最後に言った言葉「通身是れ手眼」は

脳神経系は全身に張り巡らされていて千手観音の手や眼のような働きをしている

と言っていると考えることができる。

また、脳神経系は電磁的相互作用の世界である。

電磁的相互作用は遠距離相互作用の世界である。

そのため、示衆で言うように、本来の面目の作用(はたらき)は

あらゆる面と方向にまる見えで開けっ放しに宇宙大に通じているように実感されるのである。

臨済録示衆14−5を参照)。

本則はその自由な働きを千手観音に譬えて賛美肯定していることが分かる。

このように、本則は脳科学の観点から考えると簡単で分かりやすい。


本則は、碧巌録89則と同じである

碧巌録89則を参照)。




   
55soku

 第55則   雪峰飯頭 


示衆:

氷は水よりも寒く、青は藍(あい)より出ず。

見、師に過ぎて方に伝授するに堪えたり。

子を養うて父に及ばざれば家門一世に衰(おとろ)う。 

且らく道え、奪父の機ある者、是れ甚麼人(なんびと)ぞ。


注:

氷は水よりも寒く、青は藍より出ず:

氷は水より出でて水よりも寒く、青は藍より出でて藍より青し」とは

(氷は水より出て水よりも寒く、青は藍より出て藍より青い)という意味。

見:見道の眼。悟りの眼。

見、師に過ぎて方に伝授するに堪えたり:悟りの眼が師匠より優れているような者でこそ、

仏法を伝授する資格がある。

もし、弟子は師匠に及ばないものだときまっていたら、

だんだん尻つぼみになって、やがて滅亡をまぬがれない。

子を養うて父に及ばざれば家門一世に衰う:世法も仏法と同じで、

子が大きくなっても父を超えることができないならば家は次第に衰えてしまう。

奪父の機ある者:親まさりの働きのある者。

且らく道え、奪父の機ある者、是れ甚麼人ぞ:

それでは親まさりの働きのある者とはどのような人だろうか?


示衆の現代語訳


氷は水より出て水よりも寒く、青は藍より出て藍より青い。

悟りの眼が師匠より優れているような者でこそ、仏法を伝授する資格がある。

もし、弟子は師匠に及ばないものだときまっていたら、

だんだん尻つぼみになって、やがて滅亡をまぬがれない。

世法も仏法と同じで、

子が大きくなっても父を超えることができないならば家は次第に衰えてしまう。

それでは親まさりの働きのある者とはどのような人だろうか?


本則:


雪峰徳山に在りて飯頭となる。一日飯遅し。徳山鉢を托げて法堂に至る。

峰云く、「這の老漢鐘未だ鳴らず、鼓未だ響かざるに、鉢を托げて甚麼の処に向かって去るや?」。

山便ち方丈に帰る。峰巌頭に挙似す。

頭云く、「大小の徳山末後の句を会せず」。

山聞きて侍者をして巌頭を喚ばしめて問う、「汝老僧を肯わざるか」。

巌遂に其の意を啓す。山乃ち休し去る。明日に至って陛堂、果たして尋常と同じからず。

巌掌を撫して笑って云く、「且喜すらくは老漢末後の句を会せり、他後天下の人、伊を奈何ともせず」。


注:

飯頭(はんじゅう):台所の食事係。

雪峰:雪峰義存(せっぽうぎそん)(822〜908)。徳山宣鑑の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存

徳山(とくさん):徳山宣鑑(とくさんせんかん)(782〜865)。

唐代の禅者。青原下、龍潭崇信(生没年不詳)の法嗣。

もと「周金剛」という名で呼ばれる金剛般若経の有名な研究者であったが

龍潭崇信の指導下に大悟し禅門に投じた。

棒をもって弟子を鍛えたので「徳山の棒、臨済の喝」として知られる。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟 →龍潭崇信→徳山宣鑑

巌頭:巌頭全カツ(がんとうぜんかつ、828〜887)。唐代の禅者。徳山宣鑑の法嗣。

賊に首を切られた時、大叫一声して死んだことでも知られる。雪峰義存の兄弟子に当たる。

挙似:過去の問答や商量の内容を他人に提示すること。

大小:あれほど優れた、さすが。

大小の徳山(とくさん):あれほど優れた徳山ともあろう人が、の意味。

末後の句:禅者が最後、ぎりぎり決着のところを示す一句。禅の大悟徹底の境地を示す一句。

密(ひそか)に其の意を啓(もら)す:密に事情を申し伝える。深い内容を秘めた上申をする。


本則の現代語訳:


雪峰は徳山の下で食事係をしていた。ある日食事の仕度が遅れた。徳山は鉢を托げて法堂の前に

やって来たところに雪峰に出会った。

雪峰は云った、

老師さん、未だ食事の合図の鐘も太鼓も

鳴っていないのに、食器を持って何処に行くつもりですか?」。

徳山はさっさと自分の部屋に帰って行った。

雪峰はこの出来事を、老師を一本やりこめたよと得意げに巌頭に話した。

巌頭は云った、

さすがあの徳山老師ともあろう人が、未だ究極のところが分かっておられないようだな」。

これを聞いた徳山は侍者に巌頭を喚んで来させて聞いた、

お前さんはわしを肯(うべな)わないのか?」。

他方で、巌頭は密かに師の徳山に、考えていることを打ち明け相談した。

これを聞いた徳山は事情が分かって安心した。

翌日の徳山の説法は今迄より一段とあざやかでキリッとしたものであった。

説法の後、巌頭は、僧堂の前に来ると、両手を打って呵々大笑して云った、

なんと嬉しいことじゃないか。これで老師は究極の処を悟られたわい

今後は天下の人は誰も徳山和尚に手をだせなくなったぞ」。



頌:

末後の一句会すや也た無しや。

徳山父子太はだ含胡(がんこ)。

座中亦江南の客あり。

人前に向かって鷓鴣(しゃこ)を唱うること莫れ。


注:

末後の一句会すや也た無しや:禅のぎりぎり決着のところを示す一句を理解しただろうか。

徳山父子:徳山と弟子の巌頭。

含胡がんこ):はっきりしないわけのわからないこと。

徳山父子太はだ含胡す:徳山と弟子の巌頭はなんだかわけのわからない芝居をしている。

江南:揚子江の南。

鷓鴣(しゃこ):江南地方を代表する春の鳥(無門関24則を参照)。

ここでは鷓鴣のことを歌った歌曲のこと。

座中亦江南の客あり。人前に向かって鷓鴣を唱うること莫れ:

江南地方の人が江北に来て遠く故郷を思いホームシックになる。

そんな時、鷓鴣のことを歌った歌曲を歌ってはならない。



頌の現代語訳:

禅のぎりぎり決着のところを示す一句を理解しただろうか。

徳山と弟子の巌頭はなんだかわけのわからない芝居をしている。

江南地方の人が 江北に来て遠く故郷を思ってホームシックになる。

そんな時、鷓鴣のことを歌った歌曲を歌ってはならない。


解釈とコメント


本則では「末後の一句」が問題になっている。     

「末後の一句」とはは50則の示衆にも出てきたように、とどめを刺す言葉。

禅の究極の処をさす一句である。

無字や隻手の声などを意味している。

「従容録」50則の頌では禅の究極の処をさす一句は

只ただ這れ是れ」としか言いようがないと言っている。

本則は「従容録」50則に似ている。

「従容録」50則を参照)。

本則は、無門関13則と同じである(無門関13則を参照)。

無門関13則を参照)。

この公案には徳山、巌頭、雪峰の三名が登場するが、三名についての説明が何もない。

まず、徳山、巌頭、雪峰の三名の関係とこの公案に登場する頃の推定年齢は

徳山(老師)は81才、巌頭は33才、雪峰は39才くらいである。

巌頭と雪峰は徳山門下で兄弟弟子である。

巌頭は雪峰より若いが雪峰の兄弟子で禅の実力(悟り)では

雪峰よりかなり上である。

雪峰は禅の修行には熱心であるが少し鈍くまだ大悟徹底していない。

そのことを心配した巌頭(兄弟子)は

弟弟子雪峰の禅修行を促進し大悟徹底に導くために、

巌頭が徳山(老師)と相談して打った一芝居が本則であるとされている。

従って、本則は弟弟子雪峰を大悟徹底に導くための教育的公案だと考えられている。



そのことを考慮に入れて読むとユニ−クでなかなか興味深い。

しかし、以上の伏線に対し何も説明がないので分かりにくい公案ともなっている。





56soku

 第56則  密師白兎 


示衆:

寧(むし)ろ永劫に沈淪(ちんりん)すべくとも、諸聖(しょしょう)の解脱を求めず。

提婆達多(だいばだった)は無間獄中に三禅の楽しみを受く。

鬱頭藍弗(うづらんほつ)は有頂天(うちょうてん)上に飛狸(ひり)の身に堕す。

且らく道え利害甚麼(いず)れの処に在りや。


注:

寧ろ永劫に沈淪すべくとも、諸聖の解脱を求めず:

永遠に六道に輪廻しようとも、諸仏の悟りを求めようとは思わない。

この言葉は石頭希遷(700〜790)の言葉だと伝えられている。


三禅の楽しみ:聖求経などに説く四禅定の第三禅の平静な安楽の楽しみ。

禅と脳科学1の2.15を参照)。


提婆達多(だいばだった):デーヴァダッタ、釈尊の従兄弟(いとこ)。

ブッダの侍者阿難(アーナンダ)の兄とされる。

提婆達多はブッダの弟子であったが、ブッダに敵対し分派して新しい教団をつくったとされる。

仏教教団を破壊し、ブッダを殺そうとした三逆罪(さんぎゃくざい)を犯したため、

生きながら無間地獄に落ちたと伝えられる。


提婆達多は無間獄中に三禅の楽しみを受く:提婆達多は無間地獄に落ちたので

ブッダは気の毒に思って阿難(アーナンダ)を慰問にやった。

すると提婆達多は

余計なおせっかいだ。おれはここにいても第三禅の妙楽を楽しんでいる

と言ったと伝えられる。


鬱頭藍弗(うずらんぽつ):ウッダカ・ラーマ・プッタ。古代インドの思想家。

彼は若い修行時代のゴータマ・シッダールタが禅定について教えを乞うたほどの偉い仙人だった。

原始仏教2を参照)。

彼は毎日空中を飛んで王宮に入っては食事にありついていたが、

あるとき王妃に腕を触られてからすっかりその能力を失ってしまった。

彼は失った仙力を取り戻そうと、林に入って一心不乱に座禅を組んでいた。

そして終に力が戻ってきた気がしたそのとき、樹上の鳥が急に騒ぎ出したために集中力を失い、

すんでのところでその力を逃してしまった。

「ここは気が散ってだめだ、もっと静かな場所でやり直そう」と思い、

水辺に出て座禅を組んでいると、今度は魚が勢いよく跳びはねて、やはり集中ができない。

苛立った彼は「ええい、鳥も魚もいずれ皆殺しにしてくれる」と誓って林を出た。

それから月日が経ち再び神通力を取り戻した。

彼は死んで、天界でも一番上の有頂天に生まれた。

そしてそこで八万年を過ごしたのち、下界に飛狸(ムササビ)として生まれ変わった。

それは自分の禅定を邪魔した、あらゆる鳥と魚を殺してやろうという邪心を捨てなかったためとされる。


鬱頭藍弗は有頂天上に飛狸身に堕す:鬱頭藍弗(ウッダカ・ラーマ・プッタ)は有頂天に生まれたが

邪心を捨てなかったため飛狸(むささび)に生まれ変わった。

且らく道え利害甚麼れの処に在りや:それでは利害はどこにあるのだろうか?


示衆の現代語訳


石頭希遷大師(700〜790)は

永遠に六道に輪廻しようとも、諸仏の悟りを求めようとは思わない

と言われた。

無間地獄に落ちた提婆達多は無間地獄にいても第三禅の妙楽を楽しんだと伝えられる。

鬱頭藍弗(ウッダカ・ラーマ・プッタ)は有頂天に生まれたが

邪心を捨てなかったため飛狸(むささび)に生まれ変わった。

それでは利害はどこにあるのだろうか?

石頭大師の言葉や提婆達多や鬱頭藍弗(ウッダカ・ラーマ・プッタ)の例を参考にしてよく参究しなさい。



本則:


密師伯、洞山と行く次いで、白兎子の面前に走過するを見て、

密云く、「俊なる哉」。

山云く、「作麼生」。

密云く、「白衣の相に拝せらるが如し」。

山云く、「老老大大として這箇の語話をなす」。

密云く、「汝又作麼生?」

山云く、「積代の簪纓(しんえい)暫時落薄す」。


注:

密師伯:神山僧密禅師。雲巌曇晟(782〜841)の弟子。

同じ雲巌曇晟の弟子である洞山良价の兄弟子にあたる。

洞山:洞山良价(807〜869)。雲巌曇晟の法嗣。曹洞宗の開祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价 

俊:才知がとび抜けてすぐれていること。

白衣:平民。

相:宰相。総理大臣。

老老大大:いい年をした。

簪纓(しんえい):首かざりと冠のひも。高位高官のこと。

積代の簪纓(しんえい):先祖代々の高官。

落薄:落ちぶれること。


本則の現代語訳:


洞山が密師伯と旅をしていた時、白い野兎が面前を走り過ぎるのを見た。

密師伯は云った、

あいつ切れるな」。

洞山は云った、

どうしたんだ?」。

密師伯は云った、

平民が総理大臣に迎えられたようなものだ」。

洞山は云った、

いい年をしていい気なことをいっているな」。

密師伯は云った、

それならお前ならどうなんだ?」

洞山は云った、

先祖代々の高官の家柄だがちょっと落ちぶれた生活をしている

(本来は立派な家柄の生まれだが、ちょっと落ちぶれて野兎になって飛び出した)」。



頌:

力を霜雪に抗(くら)べ、歩みを雲霄(うんじょう)に平(ひとし)うす。

下恵(かけい)は国を出で、相如(しょうじょ)は橋を過ぐ。

蕭曹(しょうそう)の謀略能く漢を成す。

。巣許(そうきょ)が身心堯(ぎょう)を避けんと欲す。

寵辱(ちょうじょく)には若(しか)も驚く、深く自ら信ぜよ。

真情跡を参(まじ)えて漁樵(ぎょしょう)に混ず。


注:

力を霜雪に抗(くら)べ:暫時落薄の様子。

雲霄(うんしょう):雲のある空。空。天上天下唯我独尊の様子。

力を霜雪に抗(くら)べ、歩みを雲霄(うんしょう)に平(ひとし)うす:洞山のような人

はいかなる霜雪の寒苦に対しても、落薄三昧になりきって、人々を教化する。

また密師伯のような人は雲が浮かぶ空のように、天上天下唯我独尊の境地にいる。

下恵:柳下恵。官吏として仕えて三たび退けられた人。落薄の例。

相如:漢の司馬相如(BC179〜BC117)。

漢の武帝に仕えた文才秀れた侍臣。高位高官になって「白衣の相に拝せらるが如し」の例。

下恵は国を出で、相如は橋を過ぐ:柳下恵は国を出て官吏として仕えて三たび退けられ落薄した。

また漢の司馬相如は漢の武帝に仕え文才秀れ高位高官に出世した。

蕭曹漢の蕭何(しょうが)と曹参のこと。

この二人は漢の高祖劉邦を補佐して四百年の太平をもたらした重臣。

ここでは白衣の相に拝せらるが如し」の例。

巣許:巣父と許由のこと。ここでは落薄三昧の例。

蕭曹の謀略能く漢を成す、巣許が身心堯を避けんと欲す:

蕭何(しょうが)と曹参の二人は漢の高祖劉邦を補佐して四百年の太平をもたらした。

また、巣父と許由は潔白な人で堯帝が帝位を断って人格者ぶりをしたため落薄した。

寵辱(ちょうじょく)には若(しか)も驚く、深く自ら信ぜよ

真情跡を参(まじ)えて漁樵(ぎょしょう)に混ず:

重用、侮辱、落薄など、人生の浮き沈みや毀誉褒貶によって、心は一喜一憂して揺れ動く。

これは自己の確固たる立脚地が無いからだ。

しかし、大悟徹底し、漁夫や樵の仲間に成り果ててみれば、

臭味の無い真情が心から自然に流露するようになる。



頌の現代語訳:

洞山のような人はいかなる霜雪の寒苦に対しても、落薄三昧になりきって、人々を教化する。

また密師伯のような人は雲が浮かぶ空のように、天上天下唯我独尊の境地にいる。

柳下恵は国を出て官吏として仕えて三度退けられ落薄した。

また漢の司馬相如は漢の武帝に仕え文才秀れ高位高官に出世した。

蕭何(しょうが)と曹参の二人は漢の高祖劉邦を補佐して四百年の太平をもたらした。

また、巣父と許由は潔白な人で堯帝が帝位を断って人格者ぶりをしたため落薄した。

人生には出世・落薄、浮き沈み、毀誉褒貶がある。

それによって、心は一喜一憂して揺れ動く。

これは確固たる自己の立脚地が無いからだ。

しかし、大悟徹底し、漁夫や樵の仲間に成り果ててみれば、

臭味の無い真情が自然に流露するようになるだろう。


解釈とコメント


本則は「洞山録」の「30段」から取った公案である。従容録独自の公案と言える。

密師伯の言葉「平民が総理大臣に迎えられたようなものだ」とは無官の一平民が

総理大臣に迎えられたようなもので野兎といえどなかなか立派なものだといった意味が含まれている。

これは「向上門(修行によって悟りに至る道)」を表していると考えられている。

最後に洞山がいった言葉「先祖代々の高官の家柄だがちょっと落ちぶれた生活をしている」とは

あの野兎も本来仏性を持つ立派な家柄の生まれだが、ちょっと落ちぶれて野兎になって、

野原に飛び出したようなものだとユーモラスに言っている。

これは「向下門(衆生済度の道)」を表していると考えられている。

2人の会話は大乗仏教の「一切衆生悉有仏性」の考えを踏まえて、

すばしっこく、無心に飛び出した野兎を暖かく見守り評価した会話になっている。

このような会話はキリスト教など一神教の国ではなかなかないと思われる。

野兎も神の被造物に違いないだろうが、動物は心や霊性を持つとは考えられていないからである。





57soku

 第57則  厳陽一物  


示衆:

影を弄して形を労す。

形は影の本たることを識らず。

声を揚げて響きを止む、声は是れ響きの根たることを知らず。

若し牛に騎って牛を覓むるに非んば、便ち是れ楔を以て楔を去るならん。

如何が此の過ちを免れ得ん。


注:

影:客観(=境遇)。

労す:悩む。

影を弄して形を労す:客観(=境遇)を気にし過ぎて悩む。

声を揚げて響きを止む:声を上げることによって他の響きを止めてしまうような働きがある。

楔(くさび):木を割るために打ち込むくさびのこと。

楔を以て楔を去るならん:楔を取るために楔を打ち込むような無駄をしているようなものである。





示衆の現代語訳


客観(境遇)を気にして悩むのは、主観が客観の本であるのを知らないからだ。

声を上げれば他の響きが止んで聞こえなくなるが、声は響きの根本であることを知らない。

それと同様に、自分の境遇はすべて自分の影であり、自分をそのままにして

境遇だけを変えようとしても変えることはできない。

もし、牛に乗っているのに牛をさがしているようなことをしているのに気づかなければ、

楔を取るために楔を打ち込むような無駄をしているようなものである。

どうしたらこの咎を免れることができるだろうか。


本則:


厳陽尊者趙州に問う、「一物(いちもつ)不将来(ふしょうらい)の時如何?」。

州云く、「放下著(ほうげじゃく)」。

厳云く、「一物不将来箇の甚麼(なに)をか放下せん」。

州云く、「恁麼(いんも)ならば即ち担取し去れ」。


注:

厳陽尊者:趙州和尚の一番弟子で本名を善信という人。名利を嫌い、

山の風景が好きで武寧県の厳陽山に草庵居したと言われる。

趙州:趙州従シン(じょうしゅうじゅうしん)禅師(778〜897)唐代の大禅者。

南泉普願(748〜834)の法嗣。趙州観音院に住んだので趙州和尚と呼ばれる。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →南泉普願→趙州従シン

不将来:なにも持っていない。

一物不将来の時:本来無一物の時。

放下:執着を離れる、こだわらない、捨て去る。

放下著:捨ててしまえ!。

担取し去れ:担いで行け。


本則の現代語訳:


厳陽尊者が、趙州に聞いた、

私は全てを捨てて、何も持っていません

 この先どんな修行をすればよいでしょうか?」。

趙州は云った、

捨ててしまえ!」。

厳陽は云った、「私は既に何も持っていないのに、一体何を捨てたらよいのでしょうか」。

趙州は云った、

それなら、担いで行け」。




頌:

細行(さいぎょう)を防がず、先手に輸(ま)く。

自ら覚ゆ、心麁(そ)にして恥ずらくは撞頭(どうとう)することを。

局破れて腰間(ようかん)斧柯(ふか)爛(ただ)る。

凡骨(ぼんこつ)を洗清(せんせい)して仙と共に遊ぶ。


注:

細行を防がず:小さな囲碁の手は防ぐ必要はない。

先手に輸(ま)く:相手に先手を取られて負ける。

細行を防がず、先手に輸(ま)く:囲碁では小さな手は防ぐ必要はないように、

禅でも小さな事にこだわる必要はない。

厳陽尊者がうっかり、「一物不将来の時如何?」などと悟り臭いことを言い出すものだから

趙州に「放下著」と先手をとられてしまったのだ。

撞頭(どうとう):囲碁の征(しちょう)。

麁(そ):あらいこと。雑なこと。大まかなこと。また、そのさま。

自ら覚ゆ、心麁(そ)にして恥ずらくは撞頭することを:うっかり雑に考えて囲碁を打っていると

征(しちょう)に引っかかってしまったことに気付く。

局破:囲碁の1局が終わること。

斧柯(ふか):斧の柄。

腰間斧柯(ふか)爛(ただ)る:東晋の隆安の頃(〜5世紀)、王質という人が斧を持って薪を採りに行く

坂の途中の石室で4人の童子が囲碁を打っているのに出会った。

王質も囲碁は好きだったので熱心に見物し、一局が終わるまで時を過ごした。

さあ帰ろうと、立ち上がったら、腰にさしていた斧の柄が腐っていてぐずぐずと崩れた。

着物もボロボロになっていた。

これは変だと思って家に帰ってみたら、自分が家を出てから数十年も経っていたという。

(「王」という姓の人の関わる 神仙譚を集めた王氏神仙伝に出ている話)。

凡骨を洗清して仙と共に遊ぶ:凡聖迷悟、是非得失、仏見法見、など一切の汚れを洗い清めて、

はじめて趙州と手を取って仙境に遊ぶことができるだろう。 



頌の現代語訳:

囲碁を打つ時には、小さな手は防がないで先手を取って打つ。

それと同じように厳陽尊者が、悟りのカスを担いできたから趙州に先手を取られてしまうことになるのだ。

これは相手に石の頭を押さえられて、行き詰って石を取られてしまうような恥ずかしいことだ。

昔、王質が囲碁を夢中になって見ていて斧の柄を腐らせたような失敗をすることになるだろう。

凡聖迷悟、是非得失、仏見法見、など一切の汚れを洗い清めて、

はじめて趙州と手に手を取って仙境に遊ぶことができるだろう。


解釈とコメント


本来無一物の悟りを開いた厳陽尊者は、趙州禅師に尋ねた、

私は全てを捨てて、何も持っていません

 この先どんな修行をすればよいでしょうか?」。

厳陽尊者はこの悟りのため一見謙虚に見えるが、悟りを開いたという自負から

自信に満ちて趙州禅師に尋ねたと思われる。

この問いに対し、趙州は、「放下著(ほうげじゃく)(捨ててしまえ!)」と答える。

厳陽尊者は、自分は本来無一物の澄みきった境地にあると信じていた為、びっくりする。

放下著(ほうげじゃく)」は、

本来無一物の悟りも捨ててしまえ!」と解釈できるからである。

納得いかない厳陽尊者は、再び尋ねる。

已(すで)に是れ一物不将来、這(こ)の什麼(なに)を放下せん

(「私は本来無一物の境地を悟り、何も持っていません

何も持っていないのに一体何を捨てたらよいのでしょう!?)

趙州禅師は云った、

恁麼(いんも)ならば則ち担取し去れ」(そんなに大事なら、担いでいけ!)

捨てろ」と言ったのに、今度は「担げ」?

果たして趙州の真意はどこにあるのか?

この問答で趙州は、「悟りにもとらわれてはならない!」と言っているのだ。

「厳陽さん、あなたは何も持たず、無一物で悟りを開いたのかもしれない。

でも、「私は本来無一物の悟りを開いたぞ」と周囲に主張し、その悟りに執着しているではないか?

「 『悟ったこと』にも執着してはならない

それでも捨てられないのなら、大事に担いでいったらよいだろう

趙州は、「捨てたという意識」さえ捨てろと言っているのだ。

日本は豊かで安全になったにも関わらず、依然としてストレス社会である。

その多くストレス(苦)は「執着」や「こだわり」、から来ている。

肩書き、お金、見栄・・・

捨ててしまえば楽になるのに、年をとるほど、どんどん増えて重くなる。

自我への執着を捨て、本来の自己に戻ると、物事がありのままに見えスッキリする

これが「放下著」の意味だ

と考えることができるだろう。

しかし、刷り込まれた先入観や思い込みをを取り除くのは難しい。

この公案で趙州は

不要先入観や思い込みを捨て去り、あるがままの自分を見つめる」ことを薦めている

と考えることができるだろう。

本則の原典は「趙州録」である。








58soku

 第58則  剛経軽賤  


示衆:

経に依って義を解するは三世仏の冤(あだ)。

経の一字を離るれば返って魔説に同じ。

因に収めず果に入れざる底の人、還って業報を受くるや也た無しや。


注:

経に依って義を解するは三世仏の冤(あだ):お経には我々が言葉で理解できるものしか書いてない。

お経に書いてあるものが仏道の全部だと思ったら、とんでもない間違いとなる。

それでは三世諸仏の冤になる。

経の一字を離るれば返って魔説に同じ:お経に書いてある限り、

たった一字でもお経と違うことを言ったら天魔外道の説と同じである。

因に収めず果に入れざる底の人:理知的な因果の理法に収まらない人。

理知的な因果の理法には収まらない下層脳のこと。正位のこと(洞山五位を参照)。

洞山五位を参照)。

下層脳(正位)は偏位(理知脳、大脳新皮質)とは異なり無意識である。

正位は偏位(理知脳)とは異なるといっても両者(下層脳と上層脳)は一体化しているので

分離することはできない。

因に収めず果に入れざる底の人、還って業報を受くるや也た無しや:

正位である下層脳は因果の理法にしたがうだろうか、あるいは従わないだろうか?





示衆の現代語訳


お経には我々が言葉や理性で理解できるものしか書いてない。

お経に書いてあるものが仏法の全部だと思ったら、とんでもない間違いとなる。

それでは三世諸仏の冤になる。

お経に書いてある限り、たった一字でもお経と違うことを言ったら天魔外道の説と同じである。

正位である下層脳は因果の理法にしたがうだろうか、あるいは従わないだろうか?




本則:


金剛経に云く、

若し人の為に軽賤せられんに、是の人先世の罪業ありて応に悪道に堕すべきに

今世の人に軽賤せらるるが故に、先世の罪業即ち為に消滅す」。


注:

本則に採用された金剛般若経の文は

中村元、紀野一義訳注、岩波文庫、般若心経・金剛般若経のp.88〜89にある。

本則では金剛般若経の一部が採用され前後が省略されている。

本則の現代語訳:


 金剛般若経には次のような経文がある、

金剛経を信じ実践している人でも世間の人々によって

軽賤されたりする(はずかしめられる)ことがあるだろう

それはその人の前世の罪業のためである

本来はその悪業によって、地獄に堕ちるはずであった。それにも拘わらず

金剛般若経の功徳によって人に軽賤せられる(はずかしめられる)くらいで済んでいる

それは金剛経の無我と空の教えの功徳によって、過去世の罪業が消滅しているためなのだ」。




頌:

綴綴(てつてつ)たり功と過と、膠膠(こうこう)たり因と果と。

鏡外狂奔す演若多。杖頭撃著(じょうとうげきじゃく)す破竈堕(はそうだ)。

竈(そう)、堕破(だは)す。

来って相賀す。

却って道う従前我に辜負(こふ)すと。


注:

綴綴(てつてつ):物の連なるさま。ここでは金剛経読誦の功徳と罪業消滅が連なっていること。

膠膠(こうこう):物の和するさま。ここでは前世の悪業の因と

現世の軽賤の果が膠(にかわ)で一つになっていること。

綴綴(てつてつ)たり功と過と、膠膠(こうこう)たり因と果と:

金剛経読誦の功徳と前世の罪業のため四苦八苦することは連なっている。

鏡外狂奔す演若多:首楞厳経」巻四には演若達多(ヤージュニャダッタ)という若者の話が出ている。

演若達多(ヤージュニャダッタ)という若者が、鏡に映る自分の美貌を楽しんでいた。

ある日、直接自分の顔を見ようと思ったが、見えなかったので、

鏡に映る像は悪魔の仕業であると早合点し、

怖くなって町中を走り回ったという。自己を見失った愚かさの喩え。

臨済録示衆1−5を参照)。

直接自分の顔を見ようと思い自己を見失って狂奔した演若達多(ヤージュニャダッタ)。

破竈堕(はそうだ):崇岳の慧安国師の法嗣破竈堕(はそうだ)和尚。

唐代中期 の人であるが名前も生国も生没年も明らかではない。

彼は禅理に通徹していたが束縛 を嫌って常に逍遙し、

その言行は常軌を逸して予測しがたく、晩年は嵩岳に隠居したと伝えられる。

杖頭撃著(じょうとうげきじゃく)す破竈堕(はそうだ):

破竈堕和尚は竈を打ち砕きカマド神を救ったという次のような有名な伝説が伝えられている。

昔、破竈堕和尚が住んでいた寺の近くにカマドの神を祀った霊廟があった。

祭礼になると沢山の生贄を供えるので竈は非常な殺生をすることになる。

それを気の毒に思った破竈堕和尚はその霊廟に入り主神であるカマドを杖で三べん打って

やい!このカマド神!お前は単に泥と瓦を泥で塗りこんで作られたものに過ぎないではないか

お前の霊はどこから来て、聖は何によって起こり、何故ものの命を煮て殺すのか?」

と一喝した。また三度打つと竈がガラガラと崩れ、

衣冠束帯の気品ある人が現れて和尚を礼拝して、「私はカマド神です

永い間、悪業の報いでこの中に閉じ込められていましたが

今日、和尚の説法によってここを脱して天に生まれ変わることができました

厚くお礼を申し上げます。」

と竈から出してくれた恩を感謝した。

和尚は「これがお前の本性なのだ。私はお前を叱っているのではないのだ。」と言った。

竈(そう):凡夫の迷妄を竈(かまど)になぞらえている。

辜負(こふ)す:そむく。

竈(そう)、堕破(だは)す。来って相賀す。却って道う従前我に辜負(こふ)すと。:

凡夫の迷妄の竈を打破し、真の自己に目覚めると、やれやれお目出度うと祝賀することになる。

しかし、分かってみたら、今までの生活は真の自己に背いていた。

それに気づくと、法喜と禅悦のうれし涙が出てくる。



頌の現代語訳:

金剛経読誦の功徳と前世の罪業のため四苦八苦することは連なり、

前世の悪業の因と現世の軽賤の果は一つになっている。

直接自分の顔を見ようと思った演若達多(ヤージュニャダッタ)は自己を見失って狂奔した。

杖頭で竈を打ち砕いた破竈堕(はそうだ)和尚はカマド神を救ったと伝えられる。

破竈堕和尚が杖頭で竈を打ち砕いたらカマド神が出現したように、凡夫の迷妄の竈を打破して、

真の自己に目覚めると、やれやれお目出度うと祝賀することになる。

しかし、悟ってみたら、今までの生活は真の自己に背いていた。

それに気づくと、法喜禅悦のうれし涙が出てくる。


解釈とコメント


本則に採用された金剛般若経の文は中村元、紀野一義訳注、岩波文庫、般若心経・金剛般若経

のp.88〜89に見える。

本則では金剛般若経の一部が採用され前後が省略されている。

前後を省略しないで段落の全文を書くと次のようになる。

また次に、須菩提よ、善男子善女人、この経を受持し、読誦して

もし、人のために軽賤せらるるときは

是の人先世の罪業ありて応に悪道に堕すべかりしを、今世の人に軽賤せらるる故を以って

先世の罪業即ち消滅せられ、まさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし」。

本則の文はこの文において前文の「また次に、須菩提よ、善男子善女人、この経を受持し、読誦して、」

と後文の「まさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし」が省略されている。

金剛般若経の本文を読むと、この経を受持し、読誦して、軽賤せらるる時は、

それによって罪業が消滅し無上 正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)を得るだろう

と書いているのである。

経文には坐禅をすれば罪業が消滅し無上 正等正覚を得るだろうとは書いてない。

金剛般若経の受持、読誦によって、罪業が消滅し無上 正等正覚を得るだろう

と書いてあることが分かる。

しかし、本則では無上 正等正覚を得る方に重点を置くよりも、罪業の消滅に重点を置いている

従容録の著者万松行秀が経典の都合の良い部分だけを切り取って解釈しているためだ


と言えるのではないだろうか?

本則は碧巌録97則にもある。

碧巌録97則を参照)。


注:


阿耨多羅 三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、原語Anuttara samyaksambodhi)」とは

無上 正等正覚」と訳され、これ以上に会得する ことのできない「究極の完全な悟り

を意味している。







59soku

 第59則  青林死蛇  


示衆:

去れば即ち留住(りゅうじゅう)し、住すれば即ち遺去(けんこ)す。

不去不住(ふきょふじゅう)、渠(かれ)に国土無し。

何れの処にか渠に逢わん。

且らく道え是れ甚麼物(なにもの)か恁麼(いんも)に奇特(きどく)なることを得るや。


注:

去:一切を捨て去って空の悟りの世界に去ること。

去れば:一切を捨て去って空の世界(悟りの世界)に去ったと頭に描けば。

留住:去と反対で迷いの世界に留まること。

去れば即ち留住し:一切を捨て去って空の世界(悟りの世界)に去ってしまったと頭に描けば、

それがとらわれとなって迷いの世界に留まることになる。

遣去(けんこ):追い払うこと。

住すれば即ち遣去(けんこ)す:そのような囚われの想いを追い払う必要がある。

不去不住:とらわれのない不去不住が本当の世界だ。

渠(かれ):本来の面目。真の自己。

何れの処にか渠に逢わん:何処に行けば本来の面目に逢うことができるだろうか。

奇特なる:素晴らしい。

且らく道え是れ甚麼物(なにもの)か恁麼(いんも)に奇特なることを得るや:それでは何者が

そのように素晴らしいものなのだろうか?



示衆の現代語訳


自分はもう一切を捨て去って悟りの世界に去ってしまったと頭に描けば、

それがとらわれとなって迷いの世界に留まることになるので、

そのような囚われの想いを追い払う必要がある。

とらわれのない不去不住が本当の世界だ。

本来の面目には国土も国籍もない。

何処に行けば本来の面目に逢うことができるだろうか。

それでは何者がそのように素晴らしいものなのだろうか? 参究せよ。



本則:


僧青林に問う、「学人径に往く時如何?」。

林云く、「死蛇大路に当る、子に勧む当頭すること莫れ」。

僧云く、「当頭する時如何?」。

林云く、「子が命根を喪す」。

僧云く、「当頭せざる時如何?」。

林云く、「亦回避するに処無し」。

僧云く、「正に恁麼の時如何?」。

林云く、「却って失せり」。

僧云く、「未審し甚麼れの処に向かって去るや?」。

林云く、「草深うして覓むるに処無し」。

云く、「和尚も也た須べからく堤防して始めて得べし」。

林掌を拊して云く、「一等に是れ箇の毒気」。


注:

青林:青林師虔。洞山良价(807〜869)の法嗣。 

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价 →青林師虔

径に往く時:修行の大道を真っ直ぐに往く時。

死蛇:命とりの蛇。本来の面目。真の自己(下層脳を中心とする脳)を蛇になぞらえている。

碧巌録22則では毒蛇を真の自己になぞらえている。

碧巌録22則を参照)。

当頭する:ぶつかる。

堤防して:河川の氾濫を防ぐため堤防を作って。

掌を拊して:手をすりあわせて。


本則の現代語訳:


僧が青林に聞いた、

禅修行者が修行の大道をまっすぐに行く時はどうでしょうか?」。

青林は云った、

命とりの蛇にぶち当るだろうが、へたにぶち当たってはならないぞ」。

僧は云った、

ぶち当たるとどうなりますか?」。

青林は云った、

喪身失命するような体験をするだろう」。

僧は云った、

ぶち当たらない時にはどうでしょうか?」。

青林は云った、

よけて逃げるわけにもいかないよ」。

僧は云った、

ぶち当たりもせず逃げもしない、まさにこのような時にはどうでしょうか?」。

青林は云った、

その時にはかえって失踪して見えなくなるよ」。

僧は云った、

不思議ですね。どこに失踪して見えなくなるというのでしょうか?」。

青林は云った、

草がぼうぼうと生い茂っているためどこに行ったのか見つけることはできないよ」。

僧は云った、

和尚もまた河川の氾濫を防ぐため堤防を作って

始めて捕まえることができるのではないでしょうか」。

青林は手をすりあわせて云った、

わしが死蛇だと思ったら、お前さんも死蛇だったか

お互いに同じ毒気を吹きかけあったようだな」。



頌:

三老暗に柁(かじ)を転じ、孤舟夜頭を廻らす。

蘆花両岸の雪、煙水一江の秋。

風力、帆を扶けて行いて棹ささず。

笛声月を喚んで滄州に下る。


注:

三老:船頭。ここでは青林を指している。

三老暗に柁を転じ、孤舟夜頭を廻らす:暗闇のなか船頭は柁(かじ)を動かし、

孤舟を巧みに操っている。

煙水:煙は雲のこと。雲と水。

蘆花:白い蘆の花。

蘆花両岸の雪、煙水一江の秋:雪が蘆花に降り積もって両岸の雪と見分けがつかない。

質問僧と青林ともに真実絶対の世界にあって、互角の法戦をやっている様子は見事なものだ。

それは遠く水平線を見ると雲とも水とも見分けがつかない秋の風景のようだ。

風力、帆を扶けて行いて棹ささず::舟は風に助けられて川の流れに従って、自由に去来する。

滄州:神仙の居るところ。

笛声月を喚んで滄州に下る:秋の夜空に皎皎と照る月の光のなかで、好きな笛を吹きながら

仙境に向かって舟を操っている。



頌の現代語訳:

暗闇のなかで船頭(青林師虔)は柁(かじ)を動かし、孤舟(質問僧)を巧みに操っている。

真実絶対の世界は雪が蘆花に降り積もって両岸の雪と見分けがつかないように、

質問僧と青林ともに真実絶対の世界にあって、互角の法戦をやっている様子は見事なものだ。

それは遠く水平線を見ると雲と水が渾然一体となって見分けがつかない秋の風景にとけこんでいる。

舟は風に助けられて川の流れに従って、自由に去来する。

秋の夜空に皎皎と照る月の光のなかで、好きな笛を吹きながら仙境に向かって舟を操っている。


解釈とコメント


本則は曹洞宗独自の公案であるが、

毒蛇を真の自己になぞらえている点で碧巌録22則に良く似ている

碧巌録22則を参照)。

本則の質問僧と青林との問答は禅問答にしては非常に長い印象を受ける。

「頌」では僧と青林について

遠く水平線を見ると雲と水が渾然一体となって見分けがつかない秋の風景にとけこんでいるようだ。

秋の夜空に皎皎と照る月光のなかで好きな笛を吹きながら仙境に向かい舟を操っている。

と詠っているのが印象的である。

本来の面目」、真の自己(下層脳を中心とする脳)について

雪が蘆花に降り積もって両岸の雪と見分けがつかない」と述べている。

これは碧巌録13則に見られる

銀椀裏に雪を盛る(真っ白に輝く銀製の椀に白い雪を盛ったようなものだ)」

という表現に近いところがある。

「碧巌録」13則を参照)。





60soku

 第60則  鉄磨ジ牛  


示衆:

鼻孔昴蔵(びくうこうぞう)各丈夫の相を具す。

脚跟牢実(きゃっこんろうじつ)、肯(あ)えて老婆禅を学ばんや。

無巴鼻(むはび)を透得せば、始めて正作家(しょうさっけ)の手段を見ん。

且らく道(い)え誰か是れ其の人。


注:

鼻孔鼻。

昴蔵:尊大なかたち。 

丈夫:大人物。

鼻孔昴蔵各丈夫の相を具す:鼻が高くて大きいのは大人物の人相だ。

脚跟牢実:足や足元がしっかりしていること。

老婆禅:劉鉄磨の世話やき老婆禅。

脚跟牢実、肯えて老婆禅を学ばんや:劉鉄磨の老婆禅は足元がしっかりしているので

修行を積めば転凡入聖ができ学びがいがある。

無巴鼻:手がかりが無いこと。 

作家:名人。力量ある禅者。

無巴鼻の機関を透得して、始めて正作家の手段を見ん:手がかりが無い牢関を通過して、

名人といわれる禅者の力量を見ることができるだろう。

且らく道え誰か是れ其の人:それでは名人といわれるような禅者とは誰のことだろうか。


示衆の現代語訳


鼻が高くて大きいのは大人物の人相といえる。

劉鉄磨の老婆禅は足元がしっかりしているので修行を積めば転凡入聖ができ学びがいがある。

手がかりが無い牢関を通過して、名人といわれる禅者の力量を見ることができるだろう。

それでは名人といわれるような禅者とは誰のことだろうか。

本則:


劉鉄磨イ山に到る。

山云く、「老ジ牛汝来るや」。

磨云く、「来日台山に大会斎あり和尚還って去らんや」。

山身を放して臥す。磨便ち出で去る。


注:

劉鉄磨:山霊祐や仰山慧寂に参じた尼僧。「鉄磨」は鉄の臼にも喩えられる風格に対するあざ名。

彼女はイ山の近くに庵を構えて住んでいたと伝えられる。

イ山:イ山霊祐(いさんれいゆう)禅師(771〜853)。

百丈懐海禅師(748〜814)の法嗣でイ仰宗の開祖。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道→百丈懐海→イ山霊祐→仰山慧寂

老ジ牛(ろうじぎゅう):年をとった雌牛(めうし)。

台山:五台山。山西省の東北部にある。文殊菩薩の霊地とされる中国仏教の三大霊山の一つ。

五台山の地形は「釈迦の掌」に喩えられる。

5本の指に対応する五つの嶺(最高峰は標高3,000mもある)に囲まれた手の掌に

当たる所に百カ寺と言われる多数の寺が点在する。

我が国の慈覚大師円仁(794〜864、第三代天台座主)

は840年ここを訪れ「入唐求法巡礼行記」を著している。


五台山

図 世界遺産五台山


大会斎:大勢の僧衆を集めて供養する法会。

大勢の僧衆を集めて供養する法会。  

本則の現代語訳:


劉鉄磨がイ山(いさん)に来た。

イ山(いさん)は劉鉄磨がやって来るのを見て言った、

やあ、老いぼれ雌牛、やって来たな」。

鉄磨は言った、

明日五台山で大会斎がありますよ。和尚さん、お出かけになりますか」。

これを聞いてイ山は大の字になってゴロリと横たわった。

これを見ると、鉄磨は、サッサと後も見ずに帰って行った。



頌:

百戦功成って太平に老ゆ。

優柔誰か肯(あえ)て苦(ねんご)ろに衡を争わん。

玉鞭金馬(ぎょくべんきんば)、閑(かん)に日を終う。

明月清風一生を富む。


注:

百戦功成って太平に老ゆ:悪戦苦闘の禅修行の成果が実って安らかな老後を送ることができた。

優柔:ゆるやかで柔らかなこと。

衡を争わん:合従連衡の外交的な駆け引きを争う。

優柔誰か肯(あえ)て苦(ねんご)ろに衡を争わん:イ山も鉄磨も

天下泰平の境地にいるから、互いの応酬に少しも角がない。

ゆったりと落ち着いてやさしくおとなしい。

いわんや外交的な駆け引きを争う必要は全くない。

玉鞭金馬、閑に日を終う:玉のような鞭と黄金の鞍を置いた馬があるが、

今は少しの戦意もなくなり、閑かに毎日を送っている。

一生を富む:一生受用しても使い尽くすことができないほど豊かである。

 イ山霊祐は清風が名月を払うような遊戯三昧に日を送り、一生尽きない豊かさを楽しんでいる。



頌の現代語訳:

悪戦苦闘の禅修行の成果が実って安らかな老後を送ることができる。

イ山も鉄磨も天下泰平の境地にいるから、互いの応酬に少しも角がない。

ゆったりと落ち着いてやさしくおとなしい。いわんや外交的な駆け引きを争う必要は全くない。

玉のような鞭と黄金の鞍を置いた馬があるが、今は少しの戦意もなくなり、閑かな日を送っている。

清風が名月を払うような遊戯三昧に日を送り、一生尽きない豊かさを楽しんでいる。


解釈とコメント


本則は碧巌録24則と殆ど同じである。

碧巌録24則を参照)。

玉のような鞭と黄金の鞍を置いた馬があるが、今は少しの戦意もなくなり、閑かな日を送っている。

」ではイ山霊祐の境涯について

玉のような鞭と黄金の鞍を置いた馬があるが、

今は少しの戦意もなくなり閑かな日を送っている


清風が名月を払うような遊戯三昧の日を送り、尽きない豊かさを楽しんでいる。

と詠っているのが印象的である。


イ山霊祐の清風が名月を払うような遊戯三昧の境涯は、現代注目される老年的超越に対応する境涯だ

と言えるかも知れない。

このことは百寿者にならなくても、坐禅によっても、「老年的超越」を達成できる

可能性を示している。

ぬしろ、によって達成される「遊戯三昧」の方が一般的な「老年的超越」より優れている

ように感じられるのはひが目で見ているせいだろうか。




61soku

 第61則 乾峰一画  


示衆:

曲説(きょくせつ)は会(え)し易し、一手(いっしゅ)に分布す。

直説(ちょくせつ)は会し難し十字に打開(だかい)す。

君に勧む分明(ふんみょう)に語ることを用いざれ。

語り得て分明なれば出ずること転(うた)た難し。

信ぜずんば試みに挙す看よ。


注:

曲説:丁寧に説くこと。

曲説は会し易し、一手に分布す:丁寧に説くと分かりやすいのでとすぐ受け入れられ広く分布する。

直説:活きた仏法を端的にズバリと示すこと。

十字に打開す:色んな方向に打開する。

直説は会し難し、十字に打開す:活きた仏法を端的にズバリと示すと

理解しにくいので色んな方向に打開する。

君に勧む分明に語ることを用いざれ。語り得て分明なれば出ずること転(うた)た難し:

オウムについての詩に、「あまり上手にしゃべってはならない。上手にしゃべると

これは素晴らしいオウムだということで、鳥かごから容易に出して貰えないぞ」と詠っている。

この詩のオウムのように、師家があまり丁寧に分り易く説き過ぎると迷いの世界から

抜け出て真の仏法を悟ることができないだろう。

信ぜずんば試みに挙す看よ:

私が言っていることが信じられないなら試みに実例を挙げるから看なさい。




示衆の現代語訳


丁寧に説くと分かりやすいのでとすぐ受け入れられひろく分布する。

しかし、活きた仏法を端的にズバリと示すと理解しにくいので色んな説が現れて十方に展開する。

オウムについての詩に

あまり上手にしゃべるなよ。上手にしゃべると、鳥かごから容易に出して貰えないぞ

と詠うように、師家があまり丁寧に説き過ぎると、

弟子は迷いの世界から抜け出て真の仏法を悟ることができないだろう。

私が言っていることが信じられないなら試みに実例を挙げるから参究しなさい。




本則:


僧乾峰に問う、「十方薄伽梵一路涅槃門、未審(いぶか)し路頭(ろとう)甚麼(なん)の処に在るや?」。

峰、「柱杖を以て一画して云く、這裏(しゃり)に在り」。

僧挙して雲門に問う。

門云く、「扇子勃跳(ぼっちょう)して三十三天に上り、帝釈(たいしゃく)の鼻孔に築著(ちくぢゃく)す

東海の鯉魚(りぎょ)打つこと一棒すれば、雨(あめ)、盆(ぼん)の傾くに似たり

会すや会すや」。


注:

乾峰(けんぽう)和尚:越州乾峰(えっしゅうけんぽう、生没年不詳)。唐末の禅者。

曹洞宗の洞山良价(807〜869)の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价→越州乾峰

薄伽梵(ばぎゃぼん):仏の十号(十の名前)の1つ。

梵語bhagabatの主格bhagabanの音写で世尊と漢訳する。

十方薄伽梵とは十方の諸仏という意味である。

「十方薄伽梵(じっぽうばぎゃぼん)、一路涅槃門(いちろねはんもん)」:

十方薄伽梵、一路涅槃門

という言葉は首楞厳経卷五の「阿毘達磨は十方の薄伽梵、一路涅槃の門なり

からの引用である。

法の研究(阿毘達磨)は諸仏(十方の薄伽梵)にとって、悟りに至る一路である(一路涅槃の門なり)

という意味である。

勃跳(ぼっちょう):運飛び上がること。

三十三天:古代インドの世界観に須弥山説がある。須弥山説では世界の中心に

須弥山(高さ約64万km)という超巨大な山が聳える。

その山の中腹より上方に天上界が存在するとされる。

天上界には下から欲界天、色界天、無色界天の三界天がある。

欲界天には四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)が住む四天王天がある。

三十三天は四天王天のすぐ上にある天である。

仏教の須弥山説を参照)。

帝釈:帝釈天。インドラ神。インドラ神はインド最古の文献「リグ・ベーダ

賛歌における最高の神で雷神の性格が強く、ギリシャ神話のゼウスに似た神である。

後世、仏教に取り入れられ仏教の守護神帝釈天となった。

帝釈天は三十三天の主である。

仏教の天の構造を参照)。

本則の現代語訳:


僧が越州乾峰和尚に聞いた、

楞厳経には『十方の諸仏は、一つの路をと通って悟りに入られた』とあります

一体その路は何処にあるのですか?」。

乾峰和尚は、シュ杖を持ち上げて、空中に一線を劃して云いった、

ここに在るじゃないか」。

乾峰の返答の意味が分からなかった僧は雲門禅師の処に行って同じ質問をして教えを乞うた。

雲門は扇子を持ち上げて云った、

それはあたかも扇子が三十三天に跳び上って

帝釈天の鼻に当たって突き上げるようなものだ。

また池で泳いでいる鯉を棒で一打すれば、お盆をひっくり返したように水が飛び散るのに似ているよ。

どうだ、分かったか。」。



頌:

手に入(い)って還って死馬を将(も)って医(い)す。

返魂香(はんごんこう)君が危うきを起こさんと欲す。

一期通身(いちごつうしん)の汗を拶出(さっしゅつ)せば、方に信ぜん儂(わ)が家、

眉(まゆ)を惜しまざることを。


注:

手に入(い)って還って死馬を将(も)って医す:一度死んだ馬(質問僧)でも

乾峰のような名医の手にかかれば、

たちまち元気になって走りだす。

返魂香(はんごんこう):焚けば死人の魂を呼び返してその姿を煙の中に現わすことができるという、

想像上の香。起死回生の妙薬。

返魂香君が危うきを起こさんと欲す:乾峰和尚はシュ杖を持ち上げて、「ここに在るじゃないか?」

と死馬のような僧を生き返らせようとしたが、

半死半生のお化けになって雲門のところに出たものだから、

雲門は起死回生の妙薬(返魂香)を与えて生き返らせようとした。

一期通身の汗を拶出せば:一度身体中に大汗をかくような修行をすれば。

方に信ぜん儂(わ)が家眉を惜しまざることを:

師家達は親切丁寧に指導をして弟子達を

悟らせようとしていることが分かるだろう。

一期通身の汗を拶出せば、方に信ぜん儂(わ)が家眉を惜しまざることを:

一度身体中に大汗をかくような修行をすれば、

師家達は親切に指導をして弟子達を悟らせようとしていることが分かるだろう。



頌の現代語訳:

一度死んだ馬(質問僧)でも乾峰のような名医の手にかかれば、たちまち元気になって走りだす。

乾峰和尚はシュ杖を持ち上げて、「ここに在るじゃないか?」

と死馬のような僧を生き返らせようとしたが、

半死半生のお化けになって雲門のところに出たものだから、

雲門は起死回生の妙薬(返魂香)を与えて生き返らせようとした。

一度身体中に大汗をかくような修行をすれば、師家達は

親切に指導をして弟子達を悟らせようとしていることが分かるだろう。


解釈とコメント


涅槃への路は何処にあるのですか?」という僧の質問に対し、

乾峰和尚は、シュ杖を持ち上げて、空中に一線を劃して、

ここに在るじゃないか」と答えている。

乾峰和尚は、シュ杖を持ち上げて、空中に一線を劃す動作をしている主体(脳)こそが

究明すべき真の自己(本来の面目)であり、涅槃への路であることを示していることが分かる。


本則は「無門関」48則と殆ど同じである。

無門関48則を参照)。




62soku

 第62則 米胡悟不  


示衆:

達磨の第一義諦、梁武頭迷う。

浄名の不二法門、文殊(もんじゅ)口過(くちあや)まる。

還って入作(にゅうさ)の分有りや也(ま)た無しや。


注:

達磨の第一義諦:第2則「達磨廓然」を参照)。

達磨の第一義諦、梁武頭迷う:梁の武帝が達磨大師に「如何なるか是れ聖諦第一義?」

と聞いた時、達磨は、「廓然無聖」と答えた。

この返答を理解できずに梁の武帝は真の自己が何か分からず迷った。

第2則「達磨廓然」を参照)。

浄名:維摩経の主人公である維摩居士。

浄名の不二法門:維摩経に説く不二法門。 

浄名の不二法門、文殊口過(あや)まる:維摩経の中で病気の維摩居士を見舞いに行った

文殊菩薩が説いた、無言・無説・無示・無識の不二法門は言い過ぎである。

第48則を参照)。

入作(にゅうさ):入証。なるほどと頷くこと。

還って入作(にゅうさ)の分有りや也(ま)た無しや:分かって徹底してなるほどと

頷くことができるだろうか?あるいはできないだろうか?


示衆の現代語訳


梁の武帝が達磨大師に「如何なるか是れ聖諦第一義?」

と聞いた時、達磨は、「廓然無聖」と答えた。

この返答を理解できずに梁の武帝は真の自己が何か分からず迷った。

また維摩経の中で病気の維摩居士を見舞いに行った文殊菩薩が説いた、

無言・無説・無示・無識の不二法門は言い過ぎだろうか。

それらのことが分かって、心からなるほどと頷くことができるだろうか?あるいはできないだろうか?



本則:


米胡、僧をして仰山に問わしむ。「今時の人還って悟を仮るや否や?」。

山云く、「悟は即ち無きにはあらず、第二頭に落つるを争奈何(いかん)せん」。

僧廻って米胡に挙似す。胡深く之を肯う。


注:

米胡:雪峰義存の弟子という説とイ山霊祐(いさんれいゆう)(771〜853)の弟子だ

という2説があるとのこと。

もしイ山霊祐(いさんれいゆう)(771〜853)の弟子だとすれば仰山慧寂と兄弟弟子の間柄になる。

本則において万松行秀は米胡をイ山霊祐(いさんれいゆう)(771〜853)の弟子と考えているようだ。

そうだとすると、米胡は兄弟弟子でよく知っている仰山慧寂(807〜883)

のところに僧を派遣して質問させたことになる。

イ山:イ山霊祐(いさんれいゆう)禅師(771〜853)。

百丈懐海禅師(748〜814)の法嗣で弟子の仰山慧寂とともにイ仰宗の開祖。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道→百丈懐海→イ山霊祐→仰山慧寂

雪峰:雪峰義存(せっぽうぎそん)(822〜908)。徳山宣鑑の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存

今時の人還って悟を仮るや否や?:人間はどうしても悟らなければならないものでしょうか?

第二頭に落つる:2級品だ。

第二頭に落つるを争奈何(いかん)せん:おれは悟ったという人は

まだ2級品だというのははっきりしている。

悟ったらその悟ったという意識を捨て去って、初めて一等品(本物)となるのだ。

本則の現代語訳:


米胡は、僧を仰山のところに遣って質問させた、

人間はどうしても悟らなければならないものでしょうか?」。

仰山は云った、

悟りは無いとは言えないよ。しかし

おれは悟ったという人はまだ二級品だというのははっきりしている

悟ったらその悟ったという意識も捨て去って、初めて一級品(本物)となるのだ」。

僧は米胡のところに帰って報告した。米胡はこれを聞いて深く頷いた。



頌:

第二頭悟を分って迷を破る。

快(すみやか)に須べからく手を撒して筌(せん)ていを捨つべし。

功未だ尽きざれば駢拇(べんぼ)となる。

智や知り難し、噬臍(ぜいせい)を覚ゆ。

兎老いて氷盤(ひょうばん)秋露(しゅうろ)泣く。

鳥寒うして玉樹(ぎょくじゅ)暁風(ぎょうふう)凄たり。

持し来たって大仰真仮を弁ず。

痕テン(こんてん)全く無うして白珪(はっけい)を貴(たっと)ぶ。


   

注:

第二頭:第二義門。

第二頭、悟を分って迷を破る:迷悟を分けて、迷いを破り、悟りを開くというのは第二義門である。

快(すみやか)に:きれいさっぱりと。

筌(せん)テイ:魚や兎を捕る道具。

快(すみやか)に須べからく手を撒して筌(せん)テイを捨つべし:

魚や兎を捕ったらその道具である筌(せん)テイをきれいに捨ててしまうべきだ。

駢拇(べんぼ):有害無益なこと。

功:坐禅の功によって悟りを開くこと。

功未だ尽きざれば:坐禅の功によって悟りを開いても、

その功を捨て去らないで悟りに囚われていると。

功未だ尽きざれば駢拇(べんぼ)となる:坐禅の功によって悟りを開いても

その功を捨て去らなければならない。

悟りに囚われて手柄顔をしていると、いつか人に嫌われて、その功の価値を減じて有害無益になる。

噬臍(ぜいせい):臍(へそ)を噛むこと。できないこと。

噬臍(ぜいせい)を覚ゆ:不可能なこと。

智や知り難し、噬臍(ぜいせい)を覚ゆ:真の悟り

とは何かを明らかにすることは臍(へそ)を噛むことができないように不可能なことだ。

兎:月のこと。

兎老いて:満月になると。

氷盤:月のこと。

兎老いて氷盤秋露泣く:秋の夜に、満月は氷盤のように冷たく輝き、煩悩妄想

の熱気は消えはて、ただ虫の声が聞こえる。

暁風:明け方の風。

玉樹:雪で真っ白になった樹。

鳥、寒うして玉樹暁風凄たり:雪で真っ白になった樹に止まった鳥が明け方の風に吹かれて寒そうだ。

大仰:仰山をほめたことば。

真仮:真実(真)とにせもの(仮)の仏法。

持し来たって大仰真仮を弁ず:さすがは仰山慧寂禅師だ。「悟りは無いとは言えないよ

しかし、おれは悟ったという人はまだ二級品だというのははっきりしている

悟ったらその悟ったという意識を捨て去って、初めて一等品(本物)となるのだ

と僧の質問に答えて、真実の仏法を明らかにした。

痕テン(こんてん):玉のきず。

白珪:立派な玉。

痕点?(こんてん)全く無うして白珪を貴ぶ:仰山の答には

迷いや悟りのきずあとは全くなく、完全無欠の白珪のようだ。



頌の現代語訳:

迷悟を分けて、迷いを破り、悟りを開くというのは第二義門である。  

魚や兎を捕ったらその道具である筌(せん)テイをきれいに捨ててしまうべきだ。

坐禅の功によって悟りを開いてもその功を捨て去らなければならない。

悟りに囚われて手柄顔をしていると、いつか人に嫌われて、その功の価値を減じて有害無益になる。

真の悟りとは何かを明らかにすることは臍(へそ)を噛むことができないように不可能なことだ。

秋の夜に、満月は氷盤のように冷たく輝き、煩悩妄想の熱気は消えはて、ただ虫の声が聞こえる。

雪で真っ白になった樹に止まった鳥が明け方の風に吹かれて寒そうだ。

さすがは仰山慧寂禅師だ。「悟りは無いとは言えないよ

しかし、おれは悟ったという人はまだ二級品だというのははっきりしている

悟ったらその悟ったという意識を捨て去って、初めて一等品(本物)となるのだ

と僧の質問に答えて、真実の仏法を明らかにした。

仰山の答には迷いや悟りのきずあとは全くなく、完全無欠の白珪のようだ。


解釈とコメント


本則では、「悟りは本当にあるのかどうか」という問題について述べている。

この問題について仰山慧寂は「悟りは無いとは言えないよ

しかし、おれは悟ったという人はまだ二級品だというのははっきりしている

悟ったらその悟ったという意識を捨て去って、初めて一等品(本物)となるのだ」と答えている。

これは最初に、「本来の面目」を悟っても、更に悟りを深めて行かねばならない

と言っているのである。

第26則「仰山指雪」の禅修行における三関門を参照)。

本則は無門関や「碧巌録」にも見られないことから従容録独自の公案と言える。

本則の問答は道元の「正法眼蔵」第十「大悟」にも引用されている。

参考文献水野弥穂子校注、岩波書店、「正法眼蔵」(一)1990年、p.217(正法眼蔵」第十「大悟」)。




63soku

 第63則  趙州問死  


示衆:

三聖と雪峰とは春蘭秋菊(しゅんらんしゅうきく)なり。

趙州と投子とは卞璧(べんぺき)燕金(えんきん)なり。

無星秤上(むせいひょうじょう)両頭(りょうとう)平らかなり。

没底航中(ぼっていこうちゅう)一処に渡る。

二人相見(しょうけん)の時如何。


注:

三聖:三聖慧念。臨済義玄の法嗣。

法系:六祖慧能→南岳懐譲→馬祖道一 →百丈懐海→黄檗希運→臨済義玄→三聖慧念

雪峰:雪峰義存(せっぽうぎそん)(822〜908)。徳山宣鑑の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存

三聖と雪峰とは春蘭秋菊なり:三聖と雪峰は

2人とも力量ある禅将であり、あたかも春蘭や秋菊のようで優劣を比べることができない。

卞璧(べんぺき):卞和(べんか)氏が発見した名玉。

燕金(えんきん):燕の昭王が千金を台上に置いて、天下の名士を招いたところから出た言葉。

趙州:趙州従シン(じょうしゅうじゅうしん)(778〜897)唐代の大禅者。

南泉普願(748〜834)の法嗣。趙州観音院に住んだので趙州和尚と呼ばれる。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →南泉普願→趙州従シン

投子:投子大同(とうしだいどう、819〜914)

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→丹霞天然→翠微無学→投子大同

趙州と投子とは卞璧(べんぺき)燕金(えんきん)なり:趙州と投子とは

卞璧(べんぺき)や燕金(えんきん)のように国の宝である。これらは物質的な宝である。

無星秤:物質の重さを測る普通の天秤ではない、

精神の価値を測る天秤。禅の力量を測る天秤。

無星秤上:精神を測る天秤にかけて見ると、

無星秤上両頭平らかなり:禅の力量を測る天秤にかけて見ると、趙州と投子とは互角の力量である。

没底航:底の無い舟。

一処に渡る:前後、上下、優劣もない。

没底航中一処に渡る:底が抜けた禅の舟に乗ると2人には上下、優劣もない。

二人相見の時如何:このような趙州と投子とが相見して法戦に臨んだ時どうだろうか?


示衆の現代語訳


三聖と雪峰は2人とも力量ある禅将であり、

あたかも春蘭や秋菊のようで優劣を比べることができない。

趙州と投子とは卞璧や燕金のように国の宝である。

卞璧や燕金は物質的な宝であるが、禅の力量を測る精神を測る天秤にかけて見ると、

趙州と投子とは互角の力量である。

底が抜けた禅の舟に乗ると2人には上下、優劣もない。

このような趙州と投子とが互いに会って法戦に臨んだ時どうだろうか?



本則:


趙州投子に問う、「大死底の人却って活する時如何?」。

子云く、「夜行を許さず明に投じて須からく到るべし」。


注:

投子:投子大同(とうしだいどう、819〜914)

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→丹霞天然→翠微無学→投子大同

大死底の人:一切を捨てて、捨てて捨て果てた人。大死一番の人。

夜行:大死底と同じ。絶対無(下層脳の無の世界)に安住している状態。

明に投じる:大活する。まっ昼間のように、ハッキリ、ハッキリ、明歴々、露堂々としている。

夜行を許さず、明に投じて須らく到るべし:絶対無(下層脳の無の世界)に安住することなく、

まっ昼間のように、ハッキリ、明歴々、露堂々としていないとだめだぞ!


本則の現代語訳:


趙州が投子に聞いた、

大死底の人が、大死一番からよみがえって大活する時はどうだ?」。

投子は言った、

死んだの活きただのウサンくさいぞ。この幽霊和尚

来るなら、夜ではなく真昼間、堂々と大手を振って来い」。



頌:

芥城(けじょう)劫石(こうせき)妙に初めを窮(きわ)む。

活眼環中(かつがんかんちゅう)廓虚(かっきょ)を照らす。

夜行を許さず暁に投じて到る。

家音(かいん)未だ肯(あ)えて鴻魚(こうぎょ)に付せず。


注:

芥城劫:四十里四方の鉄の城(富士山より大きい鉄の城)に、 芥子粒を満たし、

百年に一度天人が降りてきてその芥子粒を一粒だけ外に出す。

そのようにして、城の芥子粒がなくなっても、尽きないほど長い時間を芥城劫という。

劫石:四十里四方の石 (富士山より大きい巨大な石)に百年に一度天女が降りてきて、

舞い踊る。その羽衣で石がすり減って磨滅しても、劫という時間は尽きない。これを磐石劫という。

劫石とは四十里四方の石 (富士山より大きい巨大な石)のこと。

芥城劫石、妙に初めを窮む:趙州は無限の過去にさかのぼってその始めを極め尽くした。

我々の本来の自己は38億年という非常に長い生命進化の歴史を持っている。

その事実を実感的(文学的に)に劫という言葉で表現したと考えることができる。

環中廓虚:環の中のからっぽなところ。投子の心がからっぽで無一物であること。

活眼環中廓虚を照らす:趙州の活眼は環の中のからっぽなところを照らしている。

趙州の活眼は投子の心がからっぽで無我無心あることがよく分かっている。

夜行を許さず暁に投じて到る:趙州に対し、投子は、

来るなら、夜ではなく真昼間、堂々と大手を振って来い」と立派に応酬している。

家音:家郷の音信。

鴻魚(こうぎょ):大きな魚。大魚。

家音未だ肯えて鴻魚に付せず:漢の蔡伯カイ(さいはくかい)の娘文姫は

匈奴に捕えられて王妃になった。

文姫は親のことが心配で雁の首に手紙を結び付けて国元に飛ばした。

その雁が水を飲む時、首の手紙が河に落ちた。

その手紙を飲み込んだ大魚が捕まえられて手紙が見つかり、娘の消息が分かった。

「家音未だ肯えて鴻魚に付せず」とは故郷への便りを未だしないという意味である。

趙州と投子は、真昼間、堂々と我が本分の家郷(自己本来の面目)

に到っているから今更便りをする必要はない。

趙州と投子は互いに知音同志で互いの腹の中が分かっているから今更便りをする必要はない。



頌の現代語訳:

趙州は無限の過去にさかのぼってその始めを極め尽くした。

趙州の活眼は投子の心がからっぽで無我無心あることがよく分かっている。

趙州に対し、投子は、

来るなら、夜ではなく真昼間、堂々と大手を振って来い

と立派に応酬している。

趙州と投子は、真昼間、堂々と我が本分の家郷(自己本来の面目)

に到っているから今更便りをする必要はない。

趙州と投子は互いに知音同志で互いの腹の中が

よく分かっているから今更便りをする必要はないのである。


解釈とコメント


」で「芥城劫石、妙に初めを窮む」

趙州は無限の過去にさかのぼってその始めを極め尽くした)と詠っている。

これは我々の本来の自己(下層脳を中心とする脳)について

 

その限りない始源の歴史を過去にさかのぼって極め尽くした」と詠っている

 

と考えることができる。

 

我々の本来の自己()は38億年という非常に長い生命進化の歴史を持っている。

曹洞宗系の禅ではそれを「空劫以前本来の面目」と表現する。

「悟りの体験と分析2」を参照)。

その科学的事実を実感的(文学的)に劫という言葉で表現したと考えることができる。

 

投子の言葉、「来るなら、夜ではなく真昼間、堂々と大手を振って来い」の中で、

下層脳(無意識脳)を夜に、上層脳(理知脳)を明るい昼間に喩えていると考えると、

投子の言葉は、「来るなら、夜のような下層脳(無意識脳)ではなく

上層脳(理知脳)を真昼間のようにハッキリ覚醒し、活性化して、堂々と大手を振って来い!

と言っていると考えることができる。

また趙州が投子に聞いた言葉、

大死底の人が、大死一番からよみがえって大活する時はどうだ?」は

下層脳(無意識脳)に入り込んで死んだようになっていた人の

上層脳が活性化して目覚め大活する時はどうだ?」となる。

投子は上層脳(理知脳)を重視する立場を取っていたことが分かる。

臨済宗と曹洞宗を比較すると、曹洞宗の人々は理屈っぽい人が多いように感じられる。

これは本則に登場している

投子大同以来の上層脳(理知脳)を重視する立場を反映しているのかも知れない。

このように、本則は脳科学的観点から合理的に考えると分かりやすくなる。

本則は碧巌録41則と殆ど同じである。

碧巌録41則を参照)。


64soku

 第64則  子昭承嗣 


示衆:

韶陽(しょうよう)親しく睦州(ぼくしゅう)に見えて香を雪老に拈ず。

投子(とおし)、面(ま)のあたり円鑑(えんかん)に承けて法を大陽に嗣ぐ。

珊瑚枝上に玉花開き、セン葡林(せんぷくりん)中に金果熟す。

且らく道え如何が造化し来たらん。



注:

韶陽:雲門文偃禅師(864〜949)。雲門宗の開祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →天皇道悟→龍潭崇信→

徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃

睦州:臨済義玄の法嗣。

法系:六祖慧能→南岳懐譲→馬祖道一→百丈懐海→黄檗希運→臨済義玄→ 睦州

投子:投子義青(1032〜1083)。曹洞宗の禅師。

法系:洞山良价→雲居道膺・・・→大陽警玄→投子義青

香を雪老に拈ず:雲門は本師(自分に仏法を伝えてくれた、本当の師僧)

である雪峯義存にお香を焚いた。

韶陽親しく睦州に見えて香を雪老に拈ず:雲門は睦州に見えて悟りを開いたのだが、

本師(自分に仏法を伝えてくれた、嗣法の師僧)は雪峯義存であるので、雪峯義存にお香を焚いた。

円鑑:浮山法遠禅師。臨済義玄七世の禅師(臨済宗)

大陽:大陽警玄(943〜1027)。曹洞宗の禅師。

投子面のあたり円鑑に承けて法を大陽に嗣ぐ:投子義青は臨済宗の円鑑禅師(浮山法遠禅師)

の指導の下で悟ったが、本師(自分に仏法を伝えてくれた、

嗣法の師僧)は大陽警玄(曹洞宗の禅師)である。

このように開悟のために指導してくれた師匠と本師(嗣法の師匠)は異なることがある。

セン葡(せんぷく):インドにある香木。

玉花開き:玉花のような大悟りを開く。

セン葡林せんぷくりん)中に金果熟す:セン葡林(せんぷくりん)中

の金果のような嗣法が実現する。

珊瑚枝上に玉花開き、せん葡(ぷく)林中に金果熟す:無我無心であれば

玉花のような大悟やインドにある香木林中の金果のような嗣法がある。

造化:天地自然の作用。

且らく道え如何が造化し来たらん:それではそのような大悟や嗣法が

どのように自然に行われるか次の実例を読んで参究せよ。


示衆の現代語訳


雲門は睦州に見えて悟りを開いたのだが、

本師(自分に仏法を伝えてくれた、嗣法の師僧)は雪峯義存であるので、雪峯義存にお香を焚いた。

投子義青は臨済宗の円鑑禅師(浮山法遠禅師)の指導の下で悟ったが、

本師(自分に仏法を伝えてくれた、嗣法の師僧)は大陽警玄(曹洞宗の禅師)である。

このように開悟のために指導してくれた師匠と本師(嗣法の師匠)は異なることがある。

無我無心であれば玉花のような大悟やセン葡(せんぷく)林中の金果のような嗣法がある。

それではそのような大悟や嗣法がどのように自然に行われるか次の実例を読んで参究せよ。



本則:

子昭首座法眼に問う、「和尚開堂何人に承嗣するや?」。

眼云く、「地蔵」。

昭云く、「太はだ長慶先師に辜負す」。

眼云く、「某甲長慶の一転語を会せず」。

昭云く、「何ぞ問わざる」。

眼云く、「万象之中独露身。意作麼生?」。

昭乃ち払子を竪起す。

眼云く、「此は是れ長慶の処に学する底なり、首座分乗作麼生?」。

昭無語。

眼云く、「只だ万象之中独露身というが如きんば是れ万象を撥らうか万象を撥らわざるか?」。

昭云く、「撥わず」。

眼云く、「両箇」。

参随の左右皆撥うと云う。

眼云く、「万象之中独露身、にい」。


注:

法眼:法眼文益禅師(885〜958)。法眼宗の始祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→

徳山宣鑑→雪峰義存→玄沙師備→地蔵桂チン→法眼文益

子昭首座:長慶慧稜(854〜932)の法嗣。

法眼文益もかって長慶慧稜(854〜932)の下で数十年修行したので

子昭首座とは兄弟弟子の間柄であった。

法眼文益は長慶慧稜(854〜932)の下で悟ることができず、

長慶慧稜(854〜932)の下を離れ行脚の途中地蔵桂チンに会った。

法眼文益は地蔵桂チンの指導の下に悟ることができ地蔵桂チン(867〜928)の法を嗣いだ。

両者は法系上は全く異なるように見えるが長慶慧稜を通して重なっている。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→

徳山宣鑑→雪峰義存→長慶慧稜→子昭首座

開堂:道場を開くこと。

先師:すでに示寂(死去)した師匠。

辜負(こふ):そむくこと。

一転語:心機を一転させる語。迷いを転じて悟りを開かせる一語。

竪起:立てること。

万象:森羅万象。


本則の現代語訳:

子昭首座が法眼に聞いた、

和尚は道場開きをされるといいますが誰の法を嗣いだのですか?」。

法眼は云った、

地蔵桂チン禅師の法を嗣ぎました」。

子昭首座は云った、

それでは長い間指導してもらった長慶慧稜先師の恩に甚だそむくことになりませんか」。

法眼は云った、

私は長慶慧稜禅師の一転語が良く分からなかったのです」。

子昭首座は云った、

それではどうして私に質問しないのか」。

法眼は云った、

では長慶慧稜禅師の「万象之中独露身」の意味はどういうことですか?」。

子昭首座は払子を立てた。

法眼は云った、

そのお芝居は長慶先師の処で覚えたモノマネでしょう

あなた自身の悟りの境地は一体どうなんですか?」。

子昭首座は黙り込んだ。

法眼は云った、「万象之中独露身というのは天地万物を払いのけての

独露身なのですかあるいは天地万物を払わないで腹に収めての独露身なのですか?」。

子昭首座は云った、

天地万物を払わないで腹に収めての独露身ですよ 」。

法眼は云った、

それでは独露身と天地万物の二つに分かれますよ」」。

子昭首座のお供をしてついてきた連中が皆で

払う」、「払う」と言って応援した。

法眼は云った、

万象之中独露身とはこうですよ、にい」。



頌:

念を離れて仏を見、塵を破って経を出だす。

現成(げんじょう)の家法、誰か門庭(もんてい)を立せん。

月は舟を逐(お)うて江練(こうれん)の浄(きよき)に行き、

春は草に随って焼痕(しょうこん)の青きに上る。

撥と不撥と、聴くこと丁寧にせよ。

径(さんけい)、荒に就いて帰ることは便(すなわ)ち得たり、

旧時の松菊(きゅうきく)尚芳馨(ほうけい)。


注:

念:人我常見(霊魂不滅)の妄想。

塵:色声香味触法の六塵。

念を離れて仏を見、塵を破って経を出だす:人我常見(霊魂不滅)の妄想

を離れることによって仏を見、六塵(色声香味触法)の穢れを払って仏法にかなった生活ができる。

門庭:方便仮説の門戸。

現成の家法、誰か門庭を立せん:本来の自己の丸出しが現成の祖師の家風である。

どこに方便仮説の門戸を立てて、誰の法を嗣いで良いとか、

悪いとかつまらぬことを言う必要があるだろうか。

江練:水のきれいな入江。

焼痕:秋から冬にかけて山焼きをした痕(あと)。

月は舟を逐うて江練の浄に行き、春は草に随って焼痕の青きに上る:月は舟を追って

江練の澄んだ水面に映り、春には山焼きをした痕に

若芽が萌え出るように独露身は森羅万象と不二一体である。

撥と不撥と、聴くこと丁寧にせよ:撥不撥がどこにあるだろうか、うわの空で聞いてはいけない。

三径、荒に就いて帰ることは便ち得たり、旧時の松菊尚芳馨:

この言葉は陶淵明の帰去来辞の句

三径は荒に就(つ)き松菊は猶お存せり」より来ている。

久しぶりに故郷の家に帰って見ると庭の小道は荒れ果てているが、

昔からある松や菊は芳香を放っているという意味になる。



頌の現代語訳:

人我常見(霊魂不滅)の妄想を離れることによって仏を見、

六塵(色声香味触法)の穢れを払って仏法にかなう。

本来の自己の丸出しが現成の祖師の家風である。

どこに方便仮説の門戸を立てて、誰の法を嗣いで良いとか、

悪いとかつまらぬことを言う必要があるだろうか。

月は舟を追って江練の澄んだ水面に映り、春には山焼きをした痕に

若芽が萌え出るように<万象之中独露身>は森羅万象と不二一体である。

そこに撥や不撥などがどこにあるだろうか。

うわの空で聞いてはいけない。

久しぶりに故郷の家に帰って見ると庭の小道は荒れ果てているが、

昔からある松や菊は芳香を放っているではないか。


解釈とコメント


法眼の言葉、「そのお芝居は長慶先師の処で覚えたモノマネでしょう

あなた自身の悟りの境地は一体どうなんですか?」

に対し、子昭首座は黙り込んだ。

また、法眼の質問「万象之中独露身というのは天地万物を払いのけての独露身なのですか

あるいは天地万物を払わないで腹に収めての独露身なのですか?」

に対し、子昭首座は黙りこみ、明確に応答できない。

これは、子昭首座は未だハッキリした悟りの境地に至っていないことを示している。

本則の問答の最後で法眼は「万象之中独露身とはこうですよ、にい」と云っている。

法眼はこの時、身を乗り出し、「本来の面目」を丸出しにして子昭首座に突きつけたと考えられる。

身を乗り出して「本来の面目」を丸出しにする手法は法眼がよくする手法(指導法)である。

示衆で万松行秀は「雲門は睦州に見えて悟りを開いたのだが

本師(自分に仏法を伝えてくれた嗣法の師僧)は雪峯義存であるので

雪峯義存にお香を焚いた」と述べている。

これは雲門は睦州の指導の下で悟りを開いたが、

本師(嗣法の師僧)は雪峯義存であるので、雪峯義存にお香を焚いたと述べているのである。

このように、開悟に導いてくれた師匠と本師が異なることがある。

投子義青(1032〜1083)は臨済宗の円鑑禅師(浮山法遠禅師)の指導の下で悟ったが、

本師は大陽警玄(曹洞宗の禅師)であるといっている。

投子義青の場合も、開悟のために指導してくれた師匠と本師は異なっている。

これは臨済宗の禅師と曹洞宗の禅師の間の活発な交流を物語っている。

この例からも分かるように、中国禅において、臨済宗と曹洞宗の間の宗派の垣根は殆ど無かった

と言えるだろう。

安谷白雲老師はその著書「従容録」において投子義青禅師について興味深い話を紹介されている。

大陽警玄(曹洞宗の禅師)は円鑑禅師(浮山法遠禅師)が優秀であるのを知って、

円鑑禅師を自分の法嗣にして法を伝えようとした。

しかし、円鑑禅師は既に臨済系の葉県帰省禅師の法を嗣いでいた。

不運なことに、大陽警玄(曹洞宗の禅師)はもう老年であるのに、嗣法の弟子が一人もいない。

このままでは曹洞宗の法系は滅んでしまう。

危機感をもった大陽警玄(曹洞宗)は円鑑禅師(臨済宗)に、

適当な人が見つかったら曹洞宗の妙旨を伝えて欲しいと頼んだ。

円鑑禅師(臨済宗)はその依頼を心にしまい、投子義青という優秀な弟子を得た時、

自分の法(臨済宗)を嗣がせないで、

大陽警玄から預かっていた曹洞禅の妙旨を投子義青に授けた。

即ち、円鑑禅師(臨済宗)は大陽警玄(曹洞宗)の代わりになって、

曹洞禅の妙旨を投子義青に授けたのである。

このような間接的な師承を代付と呼ぶ。

この代付によって曹洞禅は滅びず

大陽警玄→投子義青→芙蓉道楷・・・天童如浄→永平道元(日本の曹洞禅)

と続いたと考えられている。

この例で分かるように、

臨済宗の円鑑禅師の好意(代付)によって、曹洞禅は日本で生き延びたことになる。

しかし、円鑑禅師(臨済宗)が大陽警玄(曹洞宗)の代わりになって、

本当に曹洞禅の妙旨を投子義青に授けたかどうか誰も分からないのである。





大陽警玄→投子義青という「代付」の問題



この問題は、大陽警玄禅師には自らの真の法嗣がなかったため、

死に臨んだとき、臨済宗の祖師であった浮山法遠禅師に自らの法を預かってもらって、

後に素晴らしい素質がある者が出た場合に、自分の代わりに授けるというものであった。

このような「代付」は間接的な嗣法であるので、

直接的な「面授」を重視する道元禅師の立場からする否定されるべきものと考えられる。

もし面授を強調すれば、大陽警玄(曹洞宗)→浮山法遠(臨済宗)→投子義青(曹洞宗)

となるべきである。

ところが、『正法眼蔵』「仏祖」巻などでは、大陽警玄→投子義青

という相続がなされたことになっている。

ここには、整合性を持たせるために、

円鑑禅師(浮山法遠禅師、臨済宗)から投子義青禅師(曹洞宗)への

代付」はなかったことにする(削除する)という矛盾を含んでいるのである。

これでは「代付」とは

真の師承の系譜を覆い隠す手段になりうると言われても仕方ないだろう。





「代付」とは何か?


代付は嗣法に関するものであり、別に代授とも呼ばれる。

或る師家にとって、未だ弟子に法を嗣ぐべき者がいない場合に、

別の力量有る僧が、その師から法を承けて預かっておき、

後に相応しい者を見出して、その師家に代わって法を付属させることから、代付という。

実際に道元禅師から始まる日本曹洞宗に至る中国曹洞宗において、

大陽警玄→投子義青という嗣法は代付であったとされている。

江戸時代以降の日本曹洞宗の教義では、

道元禅師の『正法眼蔵』「面授」巻を受けて、代付否定が強調された。

しかし、「面授」巻の解釈によっては代付を認めていた可能性もある。

実際、瑩山禅師は『伝光録』第44章において、代付に対して肯定的な見解を出している。

最近の研究では、曹洞宗の系統になる大陽警玄禅師と投子義青禅師とは、

直接に会って話をしたこともないと考えられている。

投子義青は、道元禅師が示す師としての大陽警玄ではなくて、

実際は浮山(円鑑禅師=浮山法遠禅師、臨済宗))の下で悟りを開いた。

問題は、どの師の指導の下で開悟したかということではない。

実際に、道元禅師以前にも何人かの祖師が、

或る師の下で悟りを開いたにも拘わらず、別の師から嗣法した例がある。

ただ、それと投子の場合は若干異なっている。

投子の場合には浮山の指導下で悟りを開いた。

同時に、浮山が“預かっていた”大陽の法を、代わりに授けてもらったのである。

実際に、仏法を物を預かるように預かりそれを伝えるという便利なことができるのだろうか?

代付において、預かっていた法が正しく伝えられたとういう客観的な保証はどこにもない。

それを客観的にチェックすることはできないからである。

この、「代付」について、江戸時代の曹洞宗では制度として認めるかどうか、

かなりの議論があったようだ。

瑩山禅師には、曹洞宗も臨済宗も同じなのだと言いたい理由がある。

それは、自分の法系が、徹通義介禅師を経ているからである。

義介禅師は、当初臨済宗系の日本達磨宗の祖師だった懐鑑に嗣法し、

その後道元禅師の弟子だった懐弉禅師に嗣法したと考えられている。

義介禅師は懐鑑禅師(日本達磨宗の祖師)と懐弉禅師(曹洞宗)という2人の師がいたのである。

瑩山禅師はこの事実を知っていた。そのため法系は懐弉→義介という曹洞禅だとし、

懐鑑義介という日本達磨宗系のルートを問題にしたくなかったと考えられる。

そのため「代付」の問題についてに対して肯定的な見解を出しているのではないだろうか?

日本の禅2を参照)。

中国において曹洞宗を始め、雲門宗、法眼宗、イ仰宗など多くの禅宗宗派は滅亡してしまった。

これは優秀な嗣法の弟子がいなかったため代付を含め嗣法がうまく続かなかったためと考えられる。

では日本において曹洞宗は何故生き残っているのだろうか?

これでは、

曹洞宗は「悟り」の問題を軽視(or無視)しているため、嗣法が単なる形式になっている

からだと言われても仕方ないだろう。

そのため優秀な嗣法の弟子がいるか、彼が本当に悟っているかどうかは問題ではない。

寺を継ぐ人がいる限り(僧侶になる候補者がいる限り)法灯は安定して続くためだと考えられる。





万象之中独露身:長慶慧稜禅師の投機の偈



本則の法眼の言葉に出ている「万象中の独露身」という言葉は

長慶慧稜禅師の投機の偈(悟りの詩)の冒頭に出ている。



長慶慧稜禅師の投機の偈:





万象之中独露身

唯だ人自ら肯ってすなわちまさに親し

昔時 謬って途中に向かって覓む

今日看来たれば火裡の氷



訳:

長いい苦しい修行のお陰で、悟りを得てみると、「万象之中独露身」は

眼前の森羅万象の中で、無依、無執で、玉のような姿で堂々と独り丸出しで、露われている。

万象之中独露身」は、他人から教えてもらうものではなく、

自分で心から、親しく納得するものである。

思えば自分は今まで色々と思慮分別にかかわり、謬って求めて来た。

今、自分の得た「万象之中独露身」も炎の中の氷のようなものである。

それをはっきりと掴もうとしてもすぐ溶け去って見ることもつかむこともできない。



注:

「万象之中独露身」は、「万象の中に独り身を露(あら)わす」と読むのではなく、

一気に(ばんしょうしちゅうどくろしん)と棒読みにするのが慣例のようだ。

長慶慧稜禅師の頌にでてくる「万象之中独露身」とは一体何ものなのかが盛んに議論されて来た。

臨済禅師の云う「無依の道人」、「無位の真人」とか、あるいは「自己本来の面目」、

「仏心・仏性」、あるいは「天上天下唯我独尊」の当体など、色々云われている。

科学的に言えば、「万象之中独露身」とは「本来の面目」の本体である健康な脳

すなわち、「下層脳を中心とする健康な脳」を注目される言葉を使って文学的に表現している

と言えるのではないだろうか。 

禅の根本原理を参照)。





65soku

 第65則  首山新婦 



示衆:

叱叱沙沙(たたささ)、剥剥落落(はくはくらくらく)。

丁丁蹶蹶(ちょうちょうけつけつ)、漫漫汗汗(まんまんかんかん)。

咬嚼(こうしゃく)すべきこと没(な)く、近傍を為し難し。

没(な)く、近傍を為し難し。且らく道え是れ甚麼(なん)の話ぞ。


注:

叱叱(たた):怒り憤るかたち。

沙沙(ささ):砂を撒くように、さらさらとして、物事に拘泥しないこと。

剥剥(はくはく):引き裂き、ひんむくこと。

落落(らくらく):磊磊落落で物事に拘らないこと。

叱叱沙沙(たたささ)、剥剥落落(はくはくらくらく):怒っているよう

でもあるが、砂を撒くように、さらさらとして、物事に拘泥しない。

丁丁(ちょうちょう):風が吹くようでもあり、止むようでもありどちらにも片付けられないこと。

蹶蹶(けつけつ):機敏なこと。

漫漫汗汗:ヌーボーとした馬鹿面をしていること。

丁丁蹶蹶、漫漫汗汗:風が吹くようでもあり、止むようでもある。

機敏なようでもあるが、ヌーボーとした馬鹿面をしている。

咬嚼(こうしゃく)すべきこと没(な)く、近傍を為し難し:咬んでも

味は分からないし、知見解会(ちけんげえ、理知)の物差しでは計れない。

且らく道え是れ甚麼(なん)の話ぞ:これは一体何の話だろうか?


示衆の現代語訳


怒っているようでもあるが、砂を撒くように、さらさらとして、物事にこだわらない。

風が吹くようでもあり、止むようでもある。

機敏なようでもあるが、ヌーボーとした馬鹿面をしている。

咬んでも味は分からないし、知見解会(ちけんげえ、理知)の物差しでは計れない。

これは一体何の話だろうか?

本則:

僧首山に問う、「如何なるか是れ仏?」。

山云く、「新婦驢に騎れば阿家牽く」。


注:

新婦:花嫁。

阿家(あこ):姑。

驢:驢馬。

首山(しゅざん):首山省念(926〜993)。北宋の禅師。風穴延沼(896〜973)の法嗣。

法華経に精通し「念法華」と呼ばれた。

臨済宗の禅師でありながら、『法華経』の信仰に生きた人としても知られる。

法系:臨済義玄→興化存奨→南院慧ギョウ→風穴延沼→首山省念



本則の現代語訳:


僧が首山に聞いた、

仏とはどのような人でしょうか?」。

首山は云った、

花嫁が驢馬に乗って姑が驢馬を引いて行く」。




頌:

新婦驢に騎れば阿家(あこ)牽(ひ)く。

体段(たいだん)の風流自然を得たり。

笑うに堪えたり、顰(ひそみ)に学(なら)う隣舎(りんしゃ)の女。

人に向かって醜を添えて、妍(けん)を成さず。


注:

体段:なりふり。

体段の風流自然を得たり:なりふり構わないのが自然の風流だ。

新婦驢に騎れば阿家牽く。体段の風流自然を得たり:首山は、

花嫁が驢馬に乗って姑が驢馬を引いて行く」と言ったが、なりふり構わないのが自然の風流だ。

笑うに堪えたり、顰(ひそみ)に学(なら)う隣舎の女:この言葉は中国の故事に由来する。

紀元前5世紀、春秋時代末期に西施(せいし)という美人がいた。

『荘子・天運』によれば、西施には胸が痛む持病があったという。

ある日、その発作が起きた。

彼女が胸元を押さえ、顰(眉間)にしわを寄せた姿にはなんともなまめかしく、

か弱い女性の美しさがにじみ出ていた。

彼女が里から歩いて来るその様に、里の人たちは皆、目が釘付けになった。

隣の家に住んでいた醜女がそのまねをしたら、一層醜くなったという。

人まねはだめだということ。

妍:うつくしいこと。

笑うに堪えたり、顰(ひそみ)に学(なら)う隣舎の女、人に向かって醜を添えて、妍を成さず:

昔、中国で西施が胸元を押さえ、

眉をひそめた様子にたくさんの人が釘付けになっているのを見た隣家の女が、

西施のまねをして、胸元を押さえ、眉をひそめて、村を行ったり来たりした。

この醜女が西施のまねをして、大げさにふるまうとただでさえ醜い顔がもっとひどくなった。

この故事で分かるように、むやみに人のまねをしても醜くなるだけで

醜女が美女になることはない。

人まねをするのは愚かなことだ。



頌の現代語訳:

僧が首山に聞いた、「仏とはどのような人でしょうか?」という僧の質問に対し、

首山は、「花嫁が驢馬に乗って姑が驢馬を引いて行く」と答えたが、

なりふり構わないのが自然の風流だ。

昔、中国で西施が胸元を押さえ、眉をひそめた様子にたくさんの人が釘付けになっているのを見た

隣家の醜女が、西施のまねをして、胸元を押さえ、眉をひそめて、村を行ったり来たりした。

この醜い女が西施のまねをして、大げさにふるまうとただでさえ醜い顔がもっとひどくなった。

この故事でも分かるように、

むやみに人のまねをしても醜くなるだけで醜女が美女になることはない。

人まねをするのは愚かなことだ。


解釈とコメント


本則は何を言おうとしているのだろうか。僧の質問に対し首山禅師は

花嫁が驢馬に乗って姑が驢馬を引いて行く」と答えている。

普通の世間道徳ではこの逆が正しい。

即ち、「姑が驢馬に乗って新婦が驢馬の手綱を引いている。」世界である。

首山禅師は何を言いたいのだろうか?

花嫁が驢馬に乗って姑が驢馬を引いて行く」では

姑が嫁をいたわって馬に乗せ、

自分は手綱を引いている仲の良い無我の世界(万物一体の仏の世界

を表現していると解釈すれば首山禅師の答を理解できる。 

嫁姑の関係において、嫁が姑に対し落ち度なく仕えようとする限り、

そこには対立と差別の心が潜在している。

しかし、嫁は姑を本当の母だと思い、姑は嫁を本当の娘だと思いやる時には、

対立と差別の世界は無くなり、平和な仏の世界が開けるだろう。

これが本則の心ではないだろうか。

首山禅師は臨済宗の禅師でありながら、『法華経』の信仰に生きた人としても知られる。

本則には

『法華経』信仰に生きた首山禅師の宗教的な優しさと思いやりの心が現れている

ように思われる。



66soku

 第66則 九峰頭尾




示衆:

神通妙用底も脚を放ち下さず、忘縁絶慮底(もうえんぜつりょてい)も脚を抬(もた)げ起こさず。

謂つべし有時は走殺し、有時は坐殺すと。如何が格好し去ることを得ん。


注:

忘縁絶慮:頭の中に何も無いこと。妄想が無いこと。

脚を放ち下さず:片足も踏み込めない。

神通妙用底も脚を放ち下さず。忘縁絶慮底(もうえんぜつりょてい)も脚を抬げ起こさず:

神通妙用が分かっている人も足も踏み込めないし、頭の中に妄想が無い人も

足を上げることができないような仏法がある。

走殺:ヒイヒイ、ハーハー落ち着きがなく走り回り、自己の立脚点がないこと。

坐殺:他人がどんなに苦しんでいても悟りのど真ん中に坐って昼寝していること。

謂つべし有時は走殺し、有時は坐殺すと:

ヒイヒイ、ハーハー落ち着きがなく走り回る人は、自己の立脚点がないことが問題だし、

他人がどんなに苦しんでいても悟りのど真ん中に坐って昼寝しているような人だと

自己中心主義者であるという問題がある。

格好し去ること:一面観に陥らず真の仏法に叶うこと。

如何が格好し去ることを得ん:どうしたら一面観に陥らず真の仏法に叶うことができるだろうか? 


示衆の現代語訳


神通妙用が分かっている人も足も踏み込めないし、頭の中に妄想が無い人も足を上げることが

できないような仏法がある。

ヒイヒイ、ハーハー落ち着きなく走り回る人は、自己の立脚点がないことが問題だし、

他人がどんなに苦しんでいても悟りのど真ん中に坐って昼寝しているような人には

自己中心主義者であるという問題がある。

どうしたら一面観に陥らず真の仏法に叶うことができるだろうか?


本則:

僧九峰に問う、「如何なるか是れ頭(ず)?」。

峰云く、「眼を開けて暁を覚えず」。

僧云く、「如何なるか是れ尾(び)?」。

峰云く、「万年の牀に坐せず」。

僧云く、「頭有りて尾無き時如何?」。

峰云く「終に是れ貴とからず」。

僧云く、「尾有りて頭無き時如何?」。

峰云く、「飽くと雖も力なし」。

僧云く、「直きに頭尾相い称(かな)うことを得る時如何?」。

峰云く、「児孫力を得て室内知らず」。


注:

九峰:九峰道虔。石霜慶諸(807〜888)の法嗣

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→薬山惟儼→道吾円智→石霜慶諸 →九峰道虔

頭:絶対平等な自己の本質(下層脳)を見た平等性智の段階。悟りの始め。

尾:悟りの徹底。平等の眼で差別の世界を見る妙観察智。

飽くと雖も力なし:参じ飽くくらい修行したため、ひとりよがりで満足しているが力はない。

室内知らず:修行者が力を付けていてもそれを意識しない。


本則の現代語訳:

僧が九峰に聞いた、

悟りの始めとはどのようなものでしょうか?」。

九峰は云った、

悟りの眼が開けて平等の世界にいて差別の世界がわからないため、かえって物が見えなくなる」。

僧は云った、

悟りの徹底とはどのようなものでしょうか?」。

九峰は云った、

絶対不動の天地をふんでいない」。

僧は云った、

絶対平等の悟りの世界にいるが

差別の世界を見る妙観察智のはたらきが無い時はどうでしょうか?」。

九峰は云った、

そんなものは価値がない」。

僧は云った、

差別の世界を見る妙観察智のはたらきはあるが

絶対平等の悟りの知恵が無い時はどうでしょうか?」。

九峰は云った、

参じ飽くくらい修行していても、ひとりよがりで満足しているだけで力はない」。

僧は云った、

平等にも落ちず、差別にもおちず、頭尾がよくそろっている時はどうでしょうか?」。

九峰は云った、

修行者は力を付けているにもかかわらずそれを意識しない」。




頌:

規は円に矩は方なり。

用うれば行き、舎(す)つれば蔵(かく)る。

鈍躓(どんち)、蘆に棲むの鳥。

進退、籬(まがき)に触るるの羊。

人家の飯を喫して自家の牀に臥す。

雲騰って雨を致し、露結んで霜と為る。

玉線相投じて針鼻を透る。

錦糸絶えず梭腸(さちょう)より吐く。

石女、機停(きや)んで夜色午に向かう。

木人路転じて、月影、央(なかば)を移す。


注:

規は円に矩は方なり。用うれば行き、舎(す)つれば蔵(かく)る:

コンパスを使えば円を、三角定規では四角形をきれいに描くことができる。

水は方円の器に従い、春風がそよそよと吹けば、百花爛漫の世界になる。

このような世界が本則で言う「頭尾相い称(かな)う」世界と言える。

鈍躓(どんち):躓(つまず)くこと。つまずいて自由がきかないこと。

鈍躓(どんち)、蘆に棲むの鳥:つまずいて自由がきかない様子は芦原に住む鳥のようだ。

進退:平等の正位に落ちたり、差別の偏位にくっつく様子。

進退、籬(まがき)に触るるの羊。平等の正位に落ちたり、

差別の偏位にくっつく様子は垣根に角を突っ込んだ羊のようだ。

鈍躓(どんち)、蘆に棲むの鳥。進退、籬(まがき)に触るるの羊:つまずいて

自由がきかない様子は蘆原に住む鳥のようだ。

正位に落ちたり、偏位にくっついて進退を失う様子は垣根に角を突っ込んだ羊のようだ。

正位や偏位については洞山五位を参照せよ。

洞山五位を参照)。

人家の飯を喫す:人の飯を食べる。仏法の飯を食べる。

自家の牀に臥す:妄想の床に坐る。

人家の飯を喫して自家の牀に臥す:仏法の飯を食べて妄想の床に坐る。

雲騰って雨を致し、露結んで霜と為る:雲が出て曇ってくると雨になり、

寒い時には露が霜となるのが自然だ。

針鼻を透る:針の穴を通る。

玉線相投じて針鼻を透る:分別妄想がなければそっくり玉のような線で、

針の穴を通る。

玉線:玉のように美しい仏法の線。この線(糸)は空想上の糸。

錦糸:玉線。この錦糸も空想上の糸。

梭腸(さちょう):ハタを織る時に用いるオサのこと。

錦糸絶えず梭腸(さちょう)より吐く:分別妄想がなければ、仏法の錦糸は、針穴を通る。

オサより仏法の錦糸が絶えず行き交って仏法の着物が織られる。

我々はその着物を着て、仏の光明三昧にいることができるのだ。

石女、木人:石女、木人は分別妄想が無い人のたとえ。

夜色:真っ暗な正位(下層脳の世界)。

午:正午。偏位(上層脳)。

午に向かう:明るい偏位(上層脳)に向かう。

夜色午に向かう:真っ暗な夜から明るい正午(午)に向かう。

真っ暗な正位(下層脳)から明るい偏位(上層脳)に向かう。

真っ暗な正位(下層脳)にも明るい偏位偏位(上層脳)にも偏らない。

石女、機停(きや)んで夜色午に向かう:石女は機織りを止めて、

真っ暗な正位(下層脳)から明るい偏位(上層脳)に向かう。

月影、央(なかば)を移す:月が出ているけれど満月ではない。

央(なかば)を過ぎた16日以降の月である。

明るいようだが暗い。暗いようだが明るい明暗双双の状態である。

即ち、真っ暗な正位(下層脳)にも明るい偏位(上層脳)にも偏らない。

木人路転じて、月影、央(なかば)を移す:木人が夜道を歩いているが、

真っ暗な正位(下層脳)にも明るい偏位(上層脳)にも偏らない明暗双双の状態である。



頌の現代語訳:

コンパスを使えば円を、三角定規では四角形をきれいに描くことができる。

水は方円の器に従い、春風がそよそよ吹けば、百花爛漫の世界になる。

このような世界が本則で言う「頭尾相い称(かな)う世界」と言える。

つまずいて自由がきかない様子は蘆原に住む鳥のようだし、

平等の正位に落ちたり、差別の偏位にくっつく様子は垣根に角を突っ込んだ羊のようだ。

仏法の飯を食べて妄想の床に坐る。雲が出て曇ってくると雨になり、

寒い時には露が霜となるのが自然だ。

分別妄想がなければそっくり玉のような線は、針の穴を通る。

また、分別妄想がなければ、仏法の美しい錦糸は、針穴を通る。

オサより仏法の錦糸が絶えず行き交って仏法の織物が織られ着物を作ることができる。

我々はその着物を着て、仏の光明三昧にいることができるのだ。

石女は機織りを止めて、真っ暗な正位(下層脳)から明るい偏位(上層脳)に向かう。

木人は夜道を歩いているが、彼の心には分別妄想がなく、

正位(下層脳)にも、偏位(上層脳)にも偏らない「明暗双双の状態」である。

正位と偏位については洞山五位を参照)。


解釈とコメント


」に出てきた、真っ暗な正位(下層脳)や、明るい偏位(上層脳)は

脳科学的には正位は下層脳(脳幹+大脳辺縁系)に、偏位は上層脳(理知脳)に対応している

と考えることができる。

正位と偏位については洞山五位を参照)。

明暗双双」の状態は真っ暗な正位(下層脳)にも、明るい偏位(上層脳)にも偏らない。

明暗双双」の状態は、「洞山五位」のうちで「兼中到」に相当している

と考えることができる。

洞山五位を参照)。

明暗双双」の状態は

宏智正覚が『黙照銘』に説く「正偏宛転」の状態に相当すると考えることができるだろう。

明暗双双の状態や「正偏宛転」の状態とは

正位(下層脳)と偏位(上層脳)(=全脳)がともに健康で元気に活動している状態だ

と考えれば分かり易い。

それが洞山五位の「兼中到」の状態だと考えることができる。

洞山五位を参照)。

このように、本則は脳科学的観点から考えた方が分かり易い公案と言えるだろう。




67soku

 第67則  厳経知慧  


示衆:

一塵万象を含み、一念三千を具す。

何かに況(いわ)んや天を頂き、地に立つ丈夫児。

頭(ず)を道(い)えば尾(び)を知る霊利(れいり)の漢。

自ら己霊(これい)に辜負(こふ)し家宝を埋没すること莫しや。


注:

一塵:一心のこと。

一念三千(いちねんさんぜん):一念の心に三千の諸法を具えるという考え方。

中国天台宗の開祖である天台大師・智が創案した考え方。

一塵万象を含み、一念三千を具す:華厳経は一心は万象を含むと説き、

天台大師・智は一念の心に三千の諸法を具えると考えた

大乗その3、10・42を参照)。

天を頂き、地に立つ丈夫児:天地を心に入れている人物。

頭を道(い)えば尾を知る霊利の漢:ツーと言えば、カーとさとる賢い男。

何かに況(いわ)んや天を頂き、地に立つ丈夫児。頭を道(い)えば尾を知る霊利の漢:

ましてや、天地を心に入れている人物やツーと言えば、

カーとさとる賢い男については言うに及ばない。

己霊:活きた知恵の持ち主。

辜負:そむくこと。

家宝:自家の宝蔵。仏性。

自ら己霊に辜負し家宝を埋没すること莫しや:

自ら活きた知恵の持ち主にそむき自家の宝蔵(仏性)

を埋没することにならないだろうか?


示衆の現代語訳


華厳経は一心は万象を含むと説き、天台大師・智は一念の心に三千の諸法を具えると教えている。

ましてや、天地を心に入れている人物やツーと言えば、

カーとさとる賢い男については言うに及ばない。

それを自覚しないならば自ら活きた知恵の持ち主にそむき自家の宝蔵(仏性)を

あたら埋没することにならないだろうか?



本則:

華厳経に云く、「我今普く一切衆生を見るに、如来の知慧徳相を具有す。但だ妄想執着を以て証得せず」。


注:

如来:仏。

如来の知慧:長い物を長いと見、短いものを短いと見、

水を飲んで冷暖自知する生まれながら持っている知恵。

如来の徳相:眼横鼻直という生まれながら持っている徳相。

妄想:真理に背いた虚妄な思い。


本則の現代語訳:

華厳経は云っている、

私が今ひろく一切衆生を見ると、如来の知慧徳相を具有している

しかし、妄想に執われているためにそれが分からないのだ」。



頌:

天の如くに蓋い地の如くに載す。

団を成し塊を作す。

法界に周(あまね)くして辺なく、隣虚(りんこ)を折(くだ)いて内無し。

玄微(げんび)を及尽して、誰か向背(こうはい)を分たん。

仏祖来って口業(くごう)の債を償(つぐな)う。

南泉の王老師に問取(もんしゅ)して、人々只だ一茎菜(いっきょうさい)を喫せよ。


注:

天の如くに蓋い地の如くに載す: 天のように蓋い地のように万物を載せる。

団を成し塊を作す: そこいらに団塊になってごろごろしている。

法界: 全宇宙。

隣虚: 零の隣、原子レベルの大きさのものを指している。

法界に周くして辺なく、隣虚を折(くだ)いて内無し: 如来の徳相は全宇宙に

あまねくゆきわたり原子のような極微のもののどこにもある。

玄微: 幽玄微妙なところ。

及尽: 追求し尽くすこと。

 向背: 従ったり背いたりすること。

玄微を及尽して、誰か向背を分たん: 幽玄微妙なところを追求し尽くせば、

捨てるべき煩悩も、取るべき菩提もない。どこに向背があるだろうか。

口業: 口で作った業。身・口・意の三業の一つ。

仏祖来って口業の債を償う: 仏祖の説法も余計なおせっかいだったと、

その口業の債(おいめ)を償うことになる。

南泉の王老師: 南泉普願の俗姓は王氏だったため王老師と呼ぶ。

一茎菜: 野菜。ここでは一切衆生が具有する、如来の知慧徳相。

人々只だ一茎菜を喫せよ:

食べてみて、はじめて味が分かる。この野菜をかみしめて味わいなさい。

南泉の王老師に問取して、人々只だ一茎菜を喫せよ: 食べてみて、はじめて味が分かる。

南泉老師にでも聞いて、この野菜(一切衆生が具有する、如来の知慧徳相)

をよくかみしめて味わってみなさい。



頌:

天のように蓋い地のように万物を載せる。

そこいらに団塊になってごろごろしている。

如来の徳相は全宇宙にあまねくゆきわたり原子のような極微なもののどこにもある。

幽玄微妙なところを追求し尽くせば、捨てるべき煩悩も、取るべき菩提もない。

どこに向背があるだろうか。

どんなご馳走も食べてみて、はじめて味が分かる。

南泉老師にでも聞いて、この野菜(一切衆生が具有する、如来の知慧徳相)

をよくかみしめて味わってみなさい。


解釈とコメント


本則は経典の経文を引用して作った公案という点で58則「剛経軽賤」と似ている。

58則「剛経軽賤」は金剛経から引用し、本則は華厳経から引用した公案となっている。

58則を参照)。

本則は華厳経で説く「如来の知慧徳相」がテーマになっている。

華厳経が説く一切衆生が具有する如来の知慧徳相(仏性)をよく味わいなさい。

と言っているのである。





68soku

 第68則  夾山揮剣 



示衆:

寰中(かんちゅう)は天使の勅、コン外は将軍の令。

有る時は門頭に力を得、有る時は室内に尊と称す。

且らく道え是れ甚麼人(なんびと)ぞ。


注:

 寰中(かんちゅう): 天子の直轄地。

 コン外(こんがい): 将軍の号令によって治められるところ。

 寰中(かんちゅう)は天使の勅、コン外は将軍の令: 寰中は天使の勅令によって治められ、

コン外は将軍の号令によって治められるところである。

 門頭: 教化門頭。六根(眼耳鼻舌身意)の門頭。分別妄想が敵が襲ってくる門口。

 門頭に力を得る: 分別妄想の敵が襲ってくる門口で、

分別妄想の敵を退治することに力を発揮する。

 室内: 本分の世界。坐禅の(下層脳を中心とする)世界。悟りの世界。

 有る時は門頭に力を得、有る時は室内に尊と称す: 有る時は分別妄想の敵が襲ってくる門口で、

分別妄想の敵を退治することに力を発揮し、有る時は禅と悟りの世界が一番尊いと言っている。

且らく道え是れ甚麼人ぞ: そのような人とはどんな人だろうか?


示衆の現代語訳


寰中は天使の勅令によって治められ、コン外は将軍の号令によって治められるところである。

有る時は分別妄想の敵が襲ってくる門口で、分別妄想の敵を退治することに力を発揮し、

有る時は禅と悟りの世界が一番尊いと言っている。

そのような人とはどんな人だろうか?


本則:

僧夾山に問う、「塵を撥って仏を見る時如何?」。

山云く、「直に須らく剣を揮うべし。若し剣を揮はずんば漁父巣に棲まん」。

僧挙して石霜(せきそう)に問う、「塵を撥って仏を見る時如何?」。

霜云く、「渠(かれ)に国土なし、何れの処にか渠(かれ)に逢わん」。

僧廻(かえ)って夾山に挙似(こじ)す。

山上堂して云く、「門庭の施設(せせつ)は老僧に如かず

入理(にゅうり)の深談(しんだん)は猶石霜の百歩に較(あた)れり」。


注:

夾山:夾山善会(805〜881)。曹洞禅の法系上の禅師。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→船子徳誠→夾山善会   

 石霜: 石霜慶諸(807〜888)。道吾円智の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→道吾円智→石霜慶諸   

塵: 分別妄想。煩悩妄想。

 塵を撥って仏を見る時: 分別妄想の塵を払って仏を見る時。分別妄想の塵を払って本心を見る時。

 直に須らく剣を揮うべし: 直ちに仏と見たものをぶち切れ。

仏と見たものはニセモノだから直ちにをぶち切れ。

 若し剣を揮はずんば漁父巣に棲まん: もし剣を揮ってぶち切らないと、

漁師が芦の間の鳥の巣に舟を突っ込むようなもので魚は一つも捕れないだろう。

渠(かれ): 本来の面目。

 渠(かれ)に国土なし、何れの処にか渠(かれ)に逢わん: 

本来の面目に国籍はない。どこに行けば彼に会えるのだろうか。

 門庭の施設: 第二義門に下って学人を指導すること。

入理の深談: 第一義門の深い道理を説くこと。法性の深い道理を説くこと。

門庭の施設は老僧に如かず: 第二義門に下って学人を指導することについては

石霜も老僧には及ばない。わしの方が上だ。

 石霜の百歩に較れり: 石霜に百歩を譲るよ。

門庭の施設は老僧に如かず、入理の深談は猶石霜の百歩に較れり: 

第二義門に下って学人を指導することについては石霜も老僧には及ばない。

わしの方が上だ。しかし、法性の深い道理を説くことにおいてはわしは石霜に百歩を譲るよ。



本則の現代語訳:



僧が夾山に聞いた、

分別妄想の塵を払って仏を見る時はどうでしょうか?」。

夾山は云った、

仏と見たものはニセモノだからそんなものは剣を揮って直ちにぶち切れ

もし、そうしないと、漁師が芦の間の鳥の巣に舟を突っ込むようなもので魚は一つも捕れないだろう」。

僧は今度は石霜和尚のところに行って同じ問題を出して石霜に聞いた、

分別妄想の塵を払って仏を見る時はどうでしょうか?」。

石霜は云った、

本来の面目に国籍はない。どこに行けば彼に会えるのだろうか」。

僧は石霜が言ったことを持ち帰って夾山に報告した。

夾山は法堂に上がって説法して云った、

第二義門に下って学人を指導することについては

石霜も老僧(夾山)には及ばない。わしの方が上だ

しかし、法性の深い道理を説くことにおいてはわしは石霜に百歩を譲るよ」。



頌:

牛(ほし)を払う剣気、兵を洗う威。

乱を定むる帰功(きこう)更に是れ誰ぞ。

一旦の氛埃(ふんあい)四海に清し。

衣を垂れて皇化(こうか)自(おの)ずから無為。


注:

牛(ほし): 牽牛星(けんぎゅうせい)。鷲座(わしざ)のα(アルファ)星アルタイルの漢名。

古来、天の川を隔てて対する織女星とともに七夕伝説で有名。

牛を払う剣気: これは次の故事に由来する。昔雷換という天文学の大家がいた。

彼が北斗七星と牽牛星の間を望見すると、

いつも異様な気が天地を貫いていたので不思議に思っていた。

同じ頃、張華という者がやはりそれに気づいて、雷換を迎えてその不思議な気を研究させた。

雷換は「これは宝剣の精が天に昇るためだ」とその理由を説明した。

そこでその気が発生する場所を発掘させたら石の匣(はこ)が出てきた。

その匣(はこ)の中に名剣があった。この故事を引用して「牛を払う剣気」と言っている。

兵を洗う威: これも次の故事に由来する。周の武王が商の紂王を討伐する時、

晴天が急に曇って大雨が降った。その時、将軍の1人は、この戦は不吉だと言って武王を諌めた。

しかし、武王は、「天、兵を洗うなり」と言って、これを斥け、兵を進め、紂王を討つことができた。

この故事を引用して「兵を洗う威」と言っている。

牛を払う剣気、兵を洗う威: 上のような故事を借りてきて、

夾山の活殺の一刀は天の川の牽牛星を払い落とすほどの威力ある宝剣のようであり、

その指導力の非凡さは周の武王が商の紂王を討伐する時、

「天が雨を降らして兵を洗った」ような威光がある。

乱を定むる帰功更に是れ誰ぞ: 戦乱を平定する功を夾山にばかり帰してはならない。

心中の戦乱を平定する資格や能力は誰にも具わっている。

ただ怠けて修行を怠るから心中の戦乱を平定することができないだけだ。

氛(ふん): 妖気。

氛埃(ふんあい): ほこり。

一旦の氛埃(ふんあい)四海に清し: 一時は心中の戦乱によって、

湧き上がる塵煙に心は乱れたが、

今は四海の波が平らになったように、心は落ち着きを取り戻し清々しいものだ。

衣を垂れて皇化自ずから無為: 古語に

黄帝堯舜は衣裳を垂れて天下を治めた。その無為の統治は法令なしで行われた

と言われるように、仏道修行によって無為自然な太平無事の心境に至ることができた。



頌の現代語訳:

夾山の活殺の一刀は天の川の牽牛星を払い落とすほどの威力ある宝剣のようであり、

その指導力は周の武王が商の紂王を討伐する時、「天が雨を降らして兵を洗った

ような非凡さと威光がある。

戦乱を平定する功を夾山にばかり帰してはならない。

心中の戦乱を平定する力は誰にもあるが、

修行を怠るからそれを平定することができないだけだ。

一時は心中の戦乱によって、湧き上がる塵煙に心は乱れたが、

今は四海の波が平らになったように、心は落ち着きを取り戻し清々しいものだ。

古語に「黄帝堯舜は衣裳を垂れて天下を治めた。その無為の統治は法令なしで行われた

と言われるように

仏道修行によって無為自然な太平無事の心境に至ることができるのだ。

と述べている。



解釈とコメント


本則は従容録独自の公案で内容はそんなに難しいものではない。

本則で注目されるのは夾山の言葉、

第二義門に下って学人を指導することについては石霜も老僧には及ばない。わしの方が上だ

しかし、法性の深い道理を説くことにおいてはわしは石霜に百歩を譲るよ

である。

この言葉で夾山は

自分は修行者の指導においては石霜よりも上だが

禅の深い道理(入理の深談)においては石霜の方が自分よりも上だ

と自分と石霜を客観的に比較しているところが注目される。

ここには夾山の正直な性格が現れている。

夾山と石霜の禅の違いは根本的ではなく2人の禅をまとめると、

次のようになるだろう。


夾山の禅:

直裁で活殺自在の指導法を特色とし、臨済禅に近いところがある。


石霜慶諸の禅:

入理(道理)を重視した理論重視型の曹洞禅の特徴を持っている。


このような違いと特徴は禅宗の宗派の間の違いについて言えることで

宋代には

南宗禅は五宗七家に分かれたとされるが禅宗の宗派間には本質的な違いはないと言えるだろう。

1.23 宋代の禅宗を参照)。

」では故事や古語を多く引用し、修行の重要さを強調している。

これらの故事古語は宋代中国の教養人にはよく知られていたかも知れない。

しかし、現代人にとってはそんなに有名なものではない。

これらの故事や古語を熟知していないとよく理解できないのは残念である。






69soku

 第69則  南泉白コ(びゃっこ) 



示衆:

仏と成り祖と作るをば汚名を帯ぶとして嫌い、角を戴(いただ)き毛を被(き)るをば推して上位に居く。

。所似(ゆえ)に真光は輝かず、大智は愚の若し。

更に箇の聾(ろう)に便宜とし、不采(ふさい)を佯(いつ)わる底あり。

知んぬ是れ阿誰(あた)ぞ。


注:

仏と成り祖と作るをば汚名を帯ぶとして嫌い: 仏祖とは何か特別に偉い、

尊い、神聖なもののように思っているが、そんな汚らわしいものになってはならない。

角を戴き毛を被るをば推して上位に居く: 特別に偉く、尊い、

仏祖よりも角を戴き毛を被る牛や馬の方がはるかに立派だ。

所似に真光は輝かず、大智は愚の若し: 真光は凡夫には見えないから輝かない。

仏法成就の人でなくては、つや消しの金無垢になれないから、大智は一見愚者のように見える。

聾(ろう):耳が聞こえないこと。また、その人。

不采: 飾りはいらないこと。采は飾りや綾のこと。

更に箇の聾に便宜とし、不采を佯(いつ)わる底あり: 本当はなんでも聞こえているから

耳が聞こえない方が便利だとし、

実は知り抜いているから飾りなどはいらないと間抜け面をする人がいる。

知んぬ是れ阿誰(あた)ぞ それは一体誰のことだろうか?


示衆の現代語訳


仏祖とは何か特別に偉い、尊い、神聖なもののように思っているが、

そんな汚らわしいものになってはならない。

それよりも角を戴き毛を被る牛や馬の方がはるかに立派だ。

真光は凡夫には見えないから輝かない。

仏法成就の人でなくては、つや消しの金無垢になれないから、大智は一見愚者のように見える。

本当はなんでも聞こえているから耳が聞こえない方が便利だとし、

実は知り抜いているから飾りなどはいらないと間抜け面をする人がいる。

それは一体誰のことだろうか?



本則:

南泉衆に示して云く、

三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白コ(りぬびゃっこ)却って有ることを知る」。


注:

南泉:南泉普願(748〜834)。

馬祖道一の法嗣。百丈懐海、西堂智蔵とともに馬祖門下の三大師の一人。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →南泉普願

三世の諸仏:過去、現在、未来の仏の総称。

狸奴:猫。

白コ(びゃっこ):牛。




本則の現代語訳:



南泉は修行僧達に云った、

三世の諸仏は“悟りが有ること”を知らない。猫や牛がかえって知っている」。




頌:

跛跛挈挈(ははけつけつ)、繿繿纉纉(らんらんさんさん)、百取るべからず、一も堪ゆる所なし。

黙々として自(おの)ずから知る田地の穏やかなることを。

騰騰として誰か肚皮(とひ)カン(かん)なりと謂わん。

普周法界(ふしゅうほっかい)渾(すべ)て食卞(はん)と成る。

鼻孔塁垂(びこうるいすい)として飽参(ほうさん)に信(まか)す。


注:

 跛: びっこ。 

挈々(けつけつ): てんぼう。けがなどのため、指や手がないこと。

 繿繿(らんらん): 着物がボロボロなこと。

纉纉(さんさん):髪の毛がクシャクシャなこと。 

百取るべからず: 百不能ともいう。何もできない人。百のうち一つも取り柄がない。

 一も堪ゆる所なし: 一つも優れたところがない。

田地:心田。胸中。

黙々として自(おの)ずから知る田地の穏やかなることを: 無心であるから心中無事穏やかである。

騰騰:任運自適のさま。

 肚皮(とひ):腹の中。

 カン(かん)なり: 愚かである。

 騰騰として誰か肚皮(とひ)カン(かん)なりと謂わん: 

どっしりとして任運自適であるが愚かであると誰がいうだろうか。

 食卞(はん): 飯。

 普周法界渾て食卞(はん)と成る: 周りの世界の全てを腹の中に入れてしまう。

 鼻孔: 飯。

 鼻孔塁垂(びこうるいすい)として:鼻が垂れ下がって。

鼻孔塁垂(びこうるいすい)して飽参に信(まか)す: 

鼻が垂れ下がって、腹いっぱい食べて昼寝をしている。



頌の現代語訳:

びっこで、けがなどため、指や手がない。

着物はボロボロで、髪の毛はクシャクシャだ。

何もできず、一つも優れたところがない。

しかし、彼は無心であるから心中太平で穏やかである。

どっしりとして任運自適であるが、愚かであると誰がいうだろうか。

彼は周りの世界の全てを腹の中に入れてしまう。

鼻は垂れ下がって、腹いっぱい食べてのんびり昼寝をしている。


解釈とコメント


本則の示衆においては万松行秀は「牛馬の無心」や「大智は愚の若し

という「無心」や「愚かさ」が仏祖の理想だとしている。

インド仏教原始仏教にはこのような考えは無いと言って良いだろう。

このような思想れは中国禅において、道教的理想像を禅に持ち込んだ結果だと言えるだろう。

南泉の言葉「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白コ却って有ることを知る

は祖堂集巻第16に見える有名な言葉である。

本則の南泉の言葉「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白コ却って有ることを知る

には主語(三世の諸仏と、狸奴白コ)はあるが目的語がはっきりしない。

安谷白雲老師は目的語を入れた文章は

「この一大事因縁(=悟り)有ることを知らず」であるとされている。

筆者もこの考えを採用し、

三世の諸仏は“悟りが有ること”を知らない猫や牛がかえって知っている

と訳した。

法華経方便品には「諸仏世尊は一大事因縁をもっての故に世に出現したまう

諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと

欲するが故に世に出現したまう

衆生に仏知見を示さんと欲するが故に世に出現したまう

衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に世に出現したまう。・・・」

とある。

これより法華経は諸仏世尊の出現の一大事因縁は衆生に仏知見を悟らせるためだ

と言っていることが分かる。

安谷白雲老師はこの考えを採っているように思える。

もう一つの解釈は目的語を「悟り=無分別智」と考えることである。

この場合、

本則の南泉の言葉「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白コ却って有ることを知る」は

三世の諸仏は“無分別智=悟り”を知らない。猫や牛がかえってそれを知っている」となるだろう。

実際に犬猫を観察すると、彼等は本能に従って無心無我に振舞っている。

彼等の脳は大脳新皮質(理知脳)が小さく理性や知性が未発達である。

そのため言葉も話すことができない。本能に従って無心無我に振舞うしかない。

図々しいところがあるが、彼等の無心・自然さには我々からみるとほっとするところがある。

この状態を「三世の諸仏は“無分別智=悟り”を知らないが

猫や牛がかえって“無分別智=悟り”を知っている

と解釈できるだろう。

このように解釈すると南泉の言葉は

犬猫など動物の無心無我な挙動を高く評価する言葉だ」と考えることができるだろう。

南泉の言葉はこのように、多面的に考えるとなかなか面白い。

」で歌っている人物像は中国の道家の理想的人物像であり、

イメージとして布袋が当てはまるようだ。

しかし、日本人や日本の曹洞宗にはあまり見られない人物像である




異類中行について



異類とは、人間以外の生き物をいう。

異類中行は、異類の中を行くという意味で、

菩薩が人間以外の生き物を客観的に観察しながら異類に学び衣類の中で修行することである。

異類中行を初めて語ったのは南泉普願(748〜834)である。

本則に出ている南泉の言葉「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白コ却って有ることを知る」は

三世の諸仏は“無分別智”を知らない。猫や牛がかえってそれを知っている

と解釈することができる。

実際に犬猫を観察すると本能に従って無心無我に振舞っている。

彼等の脳は大脳新皮質(理知脳)が小さく理性や知性が未発達である。

そのため言葉も話すことができない。彼等は理知脳が小さく、妄想分別は殆ど無いといえる。

そのためかえって本能に従って無心無我に振舞うことができる。そこは人間と非常に違っている。

図々しいところがあるが、彼等の無心な振る舞いを見る時、憎めない。ほっとし、心が癒される。

それは我々が、そのような下等な哺乳類から進化してきたことを直感的本能的に知っているからだろう。

我々の脳をマクリーンの三層脳モデルで見る時、第二層が旧哺乳類(犬や猫)の脳になっている。

マクリーンの脳の三層モデルを参照)。

人間は犬や猫と似た脳を自分自身の脳(下層脳)に具有しているのである。

先祖である彼等から進化してきたのである。

そのため、犬や猫と触れ合う時、彼等に共感し癒され、ホットする。

その理由は彼等の「無我・無心の振る舞い」にあると考えることができる

のではないだろうか。





70soku

 第70則  進山問性  



示衆:

香象(こうぞう)の河を渡るを聞く底も、已(すで)に流れに随って去る。

生は不生(ふしょう)の性なるを知る底も生の為に留めらる。

更に定前定後(じょうぜんじょうご)、笋(たかんな)となり、竹縄(たけなわ)となることを論ぜば、

剣去って久しゅうして爾(なんじ)方(まさ)に舟を刻むなり。

機輪を踏転(とうてん)して作麼生(そもさんか)か別に一路を行ぜん。

試みに請う挙す看よ。


注:

香象: 大きな象。

香象の河を渡る: 大象が河を渡るのを

菩薩が生死の流れを渡って涅槃の岸に至ることに喩えている。

香象の河を渡るを聞く底も、已に流れに随って去る: 菩薩が生死の流れを渡って涅槃の岸に

至ってもまだ仏見法見のカスが残っている。

生は不生の性なる: 生は不生の本体の働きである。

生は不生の性なるを知る底も生の為に留めらる: 生は不生の本体の働き

であると知っていても生への執着のために死にたくはない。

笋(たかんな): 筍(たけのこ)。

タケナワ(竹縄): 竹の皮で作った縄。

笋(たかんな)となりタケナワ(竹縄)となることを論ぜば、: 筍の皮で竹縄を作れるか、

筍の皮で竹縄を作れないだろうとかを議論すれば、

更に定前定後、笋(たかんな)となりタケナワ(竹縄)となることを論ぜば

剣去って久しゅうして爾方に舟を刻むなり: 

筍が竹に大きく育ってはじめて一人前だと考えるような見方には真実の仏法はないだろう。

剣去って久しゅうして爾方に舟を刻むなり: 川に剣を落とした場所を探すのに

目印を付けた舟を動かしては探すことはできないだろう。

機輪を踏転して: 向こうばかり見ている者には、足元を見させる(脚下照顧!)

ところに真の自己に目覚める一路がある。それ以外に真の自己に目覚める一路はあるだろうか。 

機輪を踏転して作麼生か別に一路を行ぜん。試みに請う挙す看よ: 向こうばかり見ている者に、

足元を見させる(脚下照顧させる)ところに真の自己に目覚める一路がある。

それ以外に真の自己に目覚める一路はあるだろうか。試みに次の例を参究せよ。


示衆の現代語訳


菩薩が生死の流れを渡って涅槃の岸に至ってもまだ仏見法見のカス(微細な煩悩)が残ってとれない。

。生は不生の本体の働きであると知っていても生への執着のために死にたくはない。

筍の皮で竹縄を作れるか、筍の皮で竹縄を作れないだろうとかを議論するのは、

筍が竹に大きく育ってはじめて一人前だと考えるような見方である。

そのような考え方には真の仏法はないだろう。

向こうばかり見ている者に、足元を見させる(脚下照顧する)ところに真の自己に目覚める一路がある。

それ以外に真の自己に目覚める一路はあるだろうか。

試みに次の例を参究せよ。





本則:

進山主、脩山主に問うて云く、「明らかに生は不生の性なることを知らば、甚麼としてか生の為に留めらるるや?」。

脩云く、「筍畢竟竹となり去る、如今竹縄と作して使うこと還って得てんや?」。

進云く、「汝向後自ら悟り去ること在らん」。

脩云く、「某甲只此の如し。上座の意志如何?」。

進云く、「這箇は是れ監院房、那箇は是れ典座房」。

脩便ち礼拝す。


注:

進山主: 清渓洪進。羅漢桂チン(867〜928)の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑→

雪峯義存→玄沙師備→羅漢桂チン→清渓洪進  

脩山主: 竜済紹脩。羅漢桂チン(867〜928)の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→

徳山宣鑑→雪峯義存→玄沙師備→羅漢桂チン→竜済紹脩

   

進山主と脩山主は同じ羅漢桂チン(867〜928)の下で修行した兄弟弟子である。

進山主の方が脩山主の兄弟子で修行も進んでいたので脩山主の面倒を見ていた。

不生の性: 煩悩が生じなくなった健康な心=本源清浄心(坐禅修行で健康になった全脳)。

生の為に留めらるるや: 生に執着するのだろうか?

監院房: 住持に代わって一切の寺務を執り行う所。

典座房:叢林で修行僧の食事を司る所。



本則の現代語訳:



進山主が脩山主に聞いた、

不生の本性は煩悩が生じなくなった本源清浄心である

ことを明らかに知ることができれば、どうして生に執着するのだろうか?」。

脩山主は云った、

筍は成長して竹となって、はじめて竹縄を作ることができます

柔らかな竹の子の皮でどうして竹縄を作って使うことができるでしょうか?」。

進山主は云った、

脩山主よ、そんなことでは未だ駄目だ。今後自分ではっきりさせる時があるだろう」。

脩山主は云った、

私の見解はこのようなものです。進山主の考えはどうでしょうか?」。

進山主は云った、

向こうに見えるのは監院房だ。こちらは典座房だ」。

これを聞いて、脩山主は礼拝した。



豁落(かつらく)として依(え)を忘じ、高閑(こうかん)にして覊(ほだ)されず。

家邦平帖(かほうへいちょう)到る人稀なり。

些些(ささ)の力量階級を分つ。

蕩蕩(とうとう)たる身心是非を絶す。

是非絶す。

介(ひと)り大方に立って軌轍(きてつ)なし。


注:

 豁落: カラッとして何も無いこと。

 依(え): 拠り所。

高閑: 大びまのあいたこと。

豁落として依(え)を忘じ、高閑にして覊(ほだ)されず: 

一切を打ち払って見ればカラッとして何も頼るものが無くなり、

一法の取るべきものも、捨てるべきものもない新境地が現成する。

そこには何ものにも束縛されないホダされない自由がある。

それこそ心身脱落といえるだろう。

家邦: 自己本来の面目。

 平帖: 平安。

家邦平帖到る人稀なり: 自己本来の面目は平安である。

しかし、その平安の家郷に到ることのできる人は稀である。

 些些(ささ): 取るに足らないさま。すこしばかりであるさま。

階級を分つ: 禅の悟りの段階に階級をつける。

些些の力量階級を分つ: 少しばかりの力量で階級禅にこだわるから、

悟りの光明が蓋天蓋地であることに気付かない。

蕩蕩: 平安寛広。トロけて一つの境界になった様子。

 蕩蕩たる身心是非を絶す: 本来の面目は平安寛広であり、是非を絶している。

大方: 一切のところ一切法の上。

軌轍: 車のわだち。定まった規則。

是非絶す。介(ひと)り大方に立って軌轍なし: 

是非を絶し、宇宙をのんで我れ一人立っている。

車のわだちのような決まった規則もないから脱線のしようもない。



頌の現代語訳

一切を打ち払って見ればカラッとして何も頼るものが無くなり、

一法の取るべきものも、捨てるべきものもない新境地が現成する。

そこには何ものにも束縛されないホダされない自由がある。

それこそ心身脱落といえるだろう。

自己本来の面目は平安である。

しかし、その平安の家郷に到ることのできる人は稀である。

少しばかりの力量で階級禅にこだわるから、

悟りの光明が蓋天蓋地に広がっていることに気付かない。

本来の面目は平安寛広であり、是非を絶している。

是非を絶し、宇宙をのんで我れ一人立っている。

そこには車のわだち(轍)のような決まった規則もないから脱線のしようもない。


解釈とコメント


本則の脩山主の言葉、「筍は成長して竹となって、はじめて竹縄を作ることができます

柔らかな竹の子の皮でどうして竹縄を作って使うことができるでしょうか?」。

で分かるように、

入門したての修行者(筍になぞらえている)は修業によって成長して悟りを開くことができる。

脩山主は筍が成長することによってはじめて竹縄を作る(悟りを開く)ことができると考えている。

これは「漸悟説」である。

これに対し、進山主は、「向こうに見えるのは監院房だ。こちらは典座房だ」と言っている。

これは「向こうに見える監院房もこちらに見える典座房もそれぞれ独立した建物で

それぞれが独立して完全無欠な存在だ」として、

、若い筍も成長した竹もそれぞれが独立して完全無欠な存在だと考えている。

進山主は「入門したての修行者も修業によって成長して悟りを開いた者も

それぞれが独立して完全無欠な存在だ

と考える「頓悟説」に立っている。

これに対し、

脩山主の方は漸悟説に立って一歩一歩着実に進めば良いと考えている。

このような修行観が災いしてか脩山主は、

是非を絶し、宇宙をのんで我れ一人立っている「本来の面目」を未だ悟っていない

ことが分かる。

進山主はそのことを脩山主(弟弟子)に指摘して、

大憤志を発して早く初関を突破する(見性する)よう促しているのである。




71soku

 第71則  翠巌眉毛  





示衆:

血を含んで人に噴(ふ)く、自らその口を汚す。

杯を貪(むさぼ)って一世人の債(さい)を償(つぐな)う。

紙を売ること三年鬼銭(きせん)を欠(か)く。

万松諸人(しょにん)の為に請益(しんえき)す。

還って担干計(たんかんけい)の処ありや也(ま)た無しや。


注:

血を含んで人に噴く、自らその口を汚す: 血を含んで人に噴くと自分の口が汚れるが

それを気にせず人のために尽くす。

杯を貪って一世人の債を償う: 酒の好きな人が酒を買って他人に飲ませ、

その借金を一生払居続けるようなものだ。

鬼銭: 死んでいく人に持たせてやる六文銭の形をした紙片。紙銭。

三途の川の渡し銭として棺に入れるもの。

紙を売ること三年鬼銭を欠く: 紙屋を長くしたため紙を全部他人に売り尽くしてしまい、

自分が死んでいく時に棺桶に入れる紙銭に不自由するほど、他人のために尽くす。

担干計: 計算勘定。総決算。

万松諸人の為に請益す。還って担干計の処ありや也た無しや: 

万松も諸君のために示衆で説法しているが勘定に合うだろうか。


示衆の現代語訳


血を含んで噴くと自分の口が汚れるがそれを気にせず人のために尽くすのは、

酒の好きな人が酒を買って他人に飲ませ、その借金を一生払い続けるようなものだ。

紙屋を長くしたため紙を全部他人に売り尽くしてしまい、

自分が死んでいく時に棺桶に入れる紙銭に不自由するほど、他人のために尽くす。

万松も諸君のために示衆で説法しているが勘定に合うだろうか。





本則:

翠巌、夏末に衆に示して云く、「一夏(げ)以来、兄弟(ひんでい)のために説話(せった)す

看よ、翠巌が眉毛ありや?」。

保福云く、「賊となる人、心虚す」。

長慶云く、「生ぜり」。

雲門云く、「」。


注:

翠巌: 翠巌(すいがん)令参。

夏末: 90日の夏安居の終りの日。

保福: 保福従展(?〜928)。この公案に出る翠巌、保福、長慶、雲門、の四人は

雪峰義存(第5則を参照)門下の兄弟弟子である。

四人はほぼ同年齢だったようだが雲門が一番上で翠巌が一番若かったと考えられている。

4人の代表として雲門文偃の法系を示すと次のようになる。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信

→徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃

眉毛ありや: 仏法を誹謗すると眉毛が落ちると言われる。

仏法は言説を超えたものであり、言説に頼れば仏法を誹謗することになる。

ここで眉毛という言葉は悟りの本体としての父母未生以前の本来の面目

(=真の自己=下層脳中心の脳)を表わしていると考えられる。

虚: 心で思っていることと口で言うことが違うこと。

「賊となる人、心虚す」: 盗人は内心ビクビクしている。

盗人は賊機を持った翠巌をさしている。「盗人」は、この場合、褒め言葉である。

長慶: 長慶慧稜(854〜932)。

「生ぜり」: 眉毛は生え揃っている。




本則の現代語訳:


翠巌和尚は90日の夏安居の終りの日に大衆(修行僧達)に言った、

この夏安居の間

諸君達のために仏法をくどすぎるほど説いた

どうじゃな、わしは仏法をしゃべり過ぎたため、眉毛は落ちてはおらんかな?」。

保福は言った、

ヤイこの盗人め、ビクビクするない」。

長慶は言った、

眉毛はチャンと生えているじゃないか」。

最後に雲門が言った、

ピシャリ(門は閉められたぞ。ここが通れるか)」。


賊と作る心(しん)、人に過ぎる胆(たん)。

歴歴縦横(れきれきじゅうおう)機感(きかん)に対す。

保福雲門垂鼻(すいび)唇(しん)を欺く。

翠巌長慶脩眉(しゅうび)眼(まなこ)に映ず。杜禅和(ずぜんな)何の限りかあらん

剛(し)いて道(い)う意句(いく)一斉に?(き)ると。

。自己を埋没(まいぼつ)して気を飲み声を呑む。

先宗(せんそう)を帯累(たいるい)して牆(しょう)に面(むか)い板(いた)を担(にな)う。


注:

賊: スリ。迷悟、凡聖、是非、得失、などの分別妄想の心を奪いとってしまう働きを

盗賊になぞらえている。

人に過ぎる胆: 本則に出る翠巌、保福、長慶、雲門、の四人は人に過ぎた賊心をもっている。

賊と作る心、人に過ぎる胆: 本則に出る翠巌、保福、長慶、雲門、の四人は

分別妄想心を奪いとってしまう力が人一倍優れている。

歴歴縦横: ハッキリ自由自在に。

機感に対す: 機に応じて、敏感に対応している。

歴歴縦横、機感に対す: ハッキリと自由自在に、敏感に対応している。

垂鼻: 鼻が大きく垂れ下がっていること。尊貴の姿。

保福雲門垂鼻唇を欺く: 保福と雲門の鼻は大きく垂れ下がり唇に届くような尊貴の姿である。

脩眉: 長い眉毛。

翠巌長慶脩眉眼に映ず: 翠巌と長慶の長い眉毛は眼のところまで届いている。

杜禅和(ずぜんな): ずさんな禅僧。

杜禅和何の限りかあらん:ずさんな禅僧が数限りなく多い。

剛いて道う意句一斉に剞(き)ると: 分別を失っていると強引に批評する。

自己を埋没して気を飲み声を呑む: 真の自己を見失って気を飲み声を呑んで動きがとれない。

先宗(せんそう)を帯累して: 先輩の仏祖にまで累を及ぼして。

牆(しょう)に面(むか)い板を担う: 牆壁に面したように前が少しも見えない。

一面観にこだわって一面しか見えない担板漢になっている。



頌の現代語訳

保福、長慶、雲門、の三人は分別妄想心を奪いとってしまう力が人一倍優れている。

ハッキリと自由自在に、翠巌和尚の問いかけに敏感に対応している。

保福と雲門の鼻は唇に届くように大きく垂れ下がり、

翠巌と長慶の長い眉毛は眼のところまで届き尊貴の姿を表している。

四人は お互いに分別妄想を奪いとるための法戦をしている。

しかし、真剣な法戦の真意が分からず強引に批評するような未熟でずさんな禅僧が

数えきれないほど多いのは困りものだ。

強いて言えば、分別を失って批評しているだけだ。

真の自己を見失って、気を飲み声を呑んだように動きがとれない。

彼等は先輩の仏祖にまで累を及ぼし仏法を駄目にしている。

牆壁に面したように前が少しも見えない。

板を担いで片面しか見えない担板漢のような者達なのだ。


解釈とコメント


本則は碧巌録の8則と同じである。

碧巌録の8則を参照 )。


72soku

 第72則  中邑ミ猴  







示衆:

江(こう)を隔(へだ)てて智を闘わしめ、甲を遯(うつ)して兵を埋ずむ。

覿面(てきめん)すれば真鎗実剣(しんそうじっけん)を相持(あいじ)す。

衲僧(のうそう)の全機大用(ぜんきたいよう)を貴(たっ)とぶ所以(ゆえん)なり。

慢(まん)より緊(きん)に入る。

試みに吐露(とろ)す、看よ。


注:

江を隔てて智を闘わす: 河の向こうとこちらで互いに斥候謀略戦をする。

甲を遯(うつ)して兵を埋ずむ: 伏兵を隠す。

江を隔てて智を闘はしめ、甲を遯(うつ)して兵を埋ずむ: 

河の向こうとこちらで互いに斥候や謀略戦をしたり、伏兵を隠したりする。

覿面すれば真鎗実剣を相持す: 師学相見すれば互いに真剣勝負になる。

全機: すべての機鋒。

大用: 縦横自在のはたらき。

全機大用: すべての機鋒を用いた縦横自在のはたらき。

衲僧の全機大用を貴とぶ所以なり: 法戦ともなれば禅僧は

すべての機鋒を用い縦横自在のはたらき尽くして戦わねばならない。

慢: 緩慢。ゆるやか。

緊: 緊急。きびしい。

慢より緊に入る: 最初はのろのろしていてもだんだんきびきび動かなければならない。


示衆の現代語訳


戦争では河の向こうとこちらで互いに斥候や謀略戦をしたり、伏兵を隠したりする。

師学が互いに相見すると真剣勝負になる。

法戦ともなれば禅僧はすべての機鋒を用い縦横自在のはたらきを尽くして戦わねばならない。

最初はのろのろしていてもだんだんきびきび動かねばならない。

試みに例を出すので参究せよ。



本則:

仰山中邑に問う、「如何なるか是れ仏性の義?」。

邑云く、「我汝が与めに箇の譬喩を説かん、室に六窓あり中に一ミ猴を安(お)く

外に人ありて喚んで猩猩といえばミ猴即ち応ず

是の如く六窓ともに喚べばともに応ずるが如し」。

仰云く、「只だミ猴眠る時の如きは又作麼生?」。

邑、即ち禅牀を下って把住して云く、「猩猩我汝と相見せり」。


注:

仰山:仰山慧寂(807〜883)。

イ山霊祐(いさんれいゆう)禅師(771〜853)の法嗣法嗣でイ山霊祐と共にイ仰宗の開祖。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →百丈懐海→イ山霊祐→仰山慧寂

洪恩:中邑洪恩(ちゅうゆうこうおん)禅師。馬祖道一の法嗣。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →中邑洪恩 

ミ猴(みこう): 猿。



本則の現代語訳:

仰山が洪恩に尋ねた、

仏性(本来の自己)とは何ですか?」。

洪恩は云った、

「譬えてみるとここに一つの家があるとしよう

その家には六つの窓があって、その中に猿が一匹居る

この猿を東の窓から『猿さん、』と呼ぶと、その猿は『うん、うん』と言って返事する

他の窓から呼んでも同じことで、 六窓から同時に喚(よ)べば同時に答える。このようなものだ」。

仰山は尋ねた、

内の猿めがくたびれて睡っている時、外の猿めが何とかして相見したいと申しましたら

どういうことになりましょうか?」。

洪恩は禅床から下りて仰山の手を取って 一さし舞った。

洪恩は云った、

お猿さん、おまえとの相見はもう済んだよ」。


雪屋(せつおく)に凍眠(とうみん)して歳(とし)、摧頽(さいたい)。

窈窕(ようちょう)たる羅門(らもん)夜開かず。

寒槁(かんこう)せる園林(おんりん)、変態(へんたい)を看(み)る。

春風吹き起こす律筒(りっとう)の灰(はい)。


注:

 摧頽(さいたい): くだけ疲れる。

 歳、摧頽(さいたい): 年が暮れること。

雪屋に凍眠して歳、摧頽(さいたい): 寒い雪の家で冬眠して年が暮れるように陽気が少しもない。

窈窕(ようちょう): 幽玄閑静。

 羅門: 蔦やかずらが絡まった門。

窈窕(ようちょう)たる羅門夜開かず: 幽玄閑静な蔦やかずらが絡まった門はひっそりとして開かず、

真夜中のように暗く、仏性の光は現れない。

 寒槁せる: 冬の立ち枯れたような。

 変態を看る: 変化を看る。

寒槁せる園林(おんりん)、変態を看る: 冬の立ち枯れたような園林に一陽来復の変化が見える。

 律筒(りっとう): 竹の管。

 律筒(りっとう)の灰: 竹管に詰まっていた灰。

 春風吹き起こす律筒(りっとう)の灰: 律筒に詰まっていた灰が春風に吹かれて飛び散り

管が通ったように、仰山は仏性とは何かを悟ることができた。



頌の現代語訳


寒い雪の家で冬眠して年が暮れるように陽気が少しもない。

幽玄閑静な蔦やかずらが絡まった門はひっそりとして開かず、

真夜中のように暗く、仏性の光は現れない。

しかし、冬の立ち枯れたような園林に一陽来復の変化が見える。

律筒に詰まっていた灰が春風に吹かれて飛び散り管が通ったように、

仰山は仏性とは何かを悟ったのだ。




解釈とコメント


本則は仰山慧寂(807〜883)が13才という小僧時代に

馬祖道一の法嗣中邑洪恩を訪ねた時の問答だとされている。

仰山の問い「仏性(本来の自己)とは何ですか?」 に対して、

洪恩は、「譬えてみるとここに一つの家があるとしよう

その家には六つの窓があって、その中に猿が一匹居る」と言う。

ここで洪恩は仏性を猿に喩えている。「六つの窓」とは眼耳鼻舌身意の6根の窓のことである。

この問答の最後で、「お話の趣、一一承知しましたが、未だお尋ねしたいことがあります

内の猿めがくたびれて睡っている時、外の猿めが何とかして相見したいと申しましたら

どういうことになりましょうか?」

と仰山に聞かれた洪恩は自分の内なる猿がくたびれて睡っているのは

相見し終わって睡っているので起こす必要もない。

むしろ仰山の問いの本質をつく鋭さにうれしくなって仰山の手を取って一さし舞った。

この見事で優雅な応対で自分の内なる猿(仏性)とその働きを仰山に示した

作用即性を参照 )。

そして「お猿さん、おまえとの相見は済んだ。」と仰山(猿)に呼びかけて

この問答をユーモラスな言葉で締めくくったと考えることができる。

仰山と洪恩のこの問答はなかなか面白い。洪恩が六窓と言っているのは

六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)への刺激の入口を指している。

中に居る猿とは「本来の面目」である脳を指していると考えればこの問答は容易に理解できる。

ここで内なる猿は仏性(本来の自己)をさしているので

仏性や本来の自己」とは禅ではをさしている」ことが分かる

禅の根本原理、第一を参照 )。

この問答は雲巌曇晟と薬山惟儼の「獅子弄得問答」を思い出させる

「禅と脳科学」2.22「獅子弄得問答」を参照 )。

ここでは獅子の代わりに猿になっているのが注目される。

「ダーウィンの進化論」では人間は猿から進化したと考えられている。

これを考慮すると、本来の面目を猿で譬えたのは

偶然の一致とはいえ科学的(進化論的)観点からもなかなか興味深い問答である。



73soku

 第73則  曹山孝満 



示衆:

草に依り木に付き去って精霊(しょうりょう)となり、

屈(くつ)を負(お)び冤(あだ)を啣(ふく)んで来たって鬼祟(きすい)となる。

之を呼ぶ時は、銭(せん)を焼き馬を奉(すす)む。

之を遣(や)る時は水を呪(じゅ)し符を書す。

如何が家門平安なることを得去らん。


注:

 草に依り木に付き去って精霊となり、: 死者の浮かばれない霊は草に依り木に付いて精霊となり、

屈を負び: 妄想にくじけ、

 冤(あだ)を啣(ふく)んで: 悟るために妄想分別を掃蕩するのを逆恨みして。

 鬼祟(きすい): 死霊のたたり。

 屈を負び冤(あだ)を啣(ふく)んで来たって鬼祟となる: 妄想にくじけ、悟るために

妄想分別を掃蕩するのを逆恨みして鬼祟となる。

 馬を奉む: 瓜や茄子の馬を作って精霊を迎える。

 之を呼ぶ時は、銭を焼き馬を奉む: 精霊を迎える時には、

紙銭を焼いたり、瓜や茄子の馬を作って迎える。

之を遣る時は: 精霊祭が終わって精霊を送る時には、

水を呪し符を書す: 加持祈祷をした水を手向け、護符と一緒に河や海に流す。

 之を遣る時は水を呪し符を書す: 精霊祭が終わって精霊を送る時には、

加持祈祷をした水を手向け、護符と一緒に河や海に流す。

 如何が家門平安なることを得去らん: どうしたら家門平安、天下太平となるだろうか。


示衆の現代語訳


死者の浮かばれない霊は草に依り木に付いて精霊となり、妄想にくじけ、

悟るために妄想分別を掃蕩するのを逆恨みして鬼祟となる。

精霊を迎える時には、紙銭を焼いたり、瓜や茄子の馬を作って迎える。

精霊祭が終わって精霊を送る時には、加持祈祷をした水を手向け、護符と一緒に河や海に流す。

それではどうしたら家門平安、天下太平となるだろうか。



本則:

僧曹山に問う、「霊衣掛けざる時如何?」。

山云く、「曹山今日孝満」。

僧云く、「孝満の後如何」。

山云く、「曹山顛酒を愛す」。


注:

曹山:曹山本寂(840〜901)。

洞山良价(807〜869)の法嗣。洞山良价とともに曹洞宗の開祖となる。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →

薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价→ 曹山本寂

霊衣:喪服。

霊衣掛けざる時:修行が終わって喪服を脱いだ時(=修行が終わって悟りを開いた時)

 孝満: 孝子の服喪期間が終わること。

顛酒(てんしゅ): 大酒を飲むこと。酒に酔いつぶれること。


本則の現代語訳:

僧が曹山に聞いた、

修行が終わって悟りを開いた時はどうでしょうか?」。

曹山は云った、

私は今は服喪期間が終わっているよ」。

僧は云った、

服喪期間が終わってどういう境涯ですか」。

曹山は云った、

私は大酒を飲んで酔いつぶれているよ」。


清白(せいびゃく)の門庭四に隣(りん)を絶す。

長年関し掃(はら)って塵を容れず。光明転ずる処傾いて月を残す。

爻象(こうしょう)分るる時却って寅(いん)に建(けん)す。

新たに孝を満(まん)し、便ち春に逢う。

酔歩狂歌(すいほきょうか)堕巾(だきん)に任す。

散髪夷猶(さんぱついゆう)、誰か管係(かんけい)せん。

太平無事酒顛(しゅてん)の人。


注:

清白の門庭: 清高潔白な家風。

四に隣を絶す: 一切を打ち払って隣がなく純一無雑だ。

清白の門庭四に隣を絶す: 

清高潔白な曹洞宗の家風は一切を打ち払って隣というものがなく純一無雑だ。

長年関し掃(はら)って塵を容れず: 

長い年月の間六根門頭を閉じているので六塵から来るストレスなどはない。

光明転ずる処傾いて月を残す: 大悟徹底するまでは

真っ暗で歯が立たないが、そこに気づくと満月の光明が一時に光り輝く。

それから悟後の修行によって悟りのカスが次第に取れて月がだんだん暗くなり残月が傾いていく。

爻(こう): 易の卦を構成する基本記号。

長い横棒(─)と真ん中が途切れた2つの短い横棒(--)の2種類がある。

経では前者を剛、後者を柔と呼ぶが、伝では陽、陰とする。

陽爻と陰爻は対立する二面性を表し、

陽爻は男性・積極性などを、陰爻は女性・消極性などを表す。

陽爻と陰爻を組み合わせることにより事物のさまざまな側面を説明する。

 爻象分るる時: 陰から陽に変化すると陽気が東北東(寅の方向)に起こる。

 寅: 東北東。

寅に建(おさ)す: 陽気が東北東(寅の方向)に起こる。

爻象分るる時却って寅に建(おさ)す: 陰から陽に変化すると陽気が東北東(寅の方向)に起こる。

新たに孝を満し: 豁然大悟し新たに孝を満たし、

新たに孝を満し、便ち春に逢う: 豁然大悟することで新たに孝を満たし、

初めて天下太平の春を迎える。

 酔歩: 千鳥足。

 狂歌: 即興の歌。

堕巾(だきん): 礼帽を落とし仏法の礼儀を忘れること。

酔歩狂歌堕巾に任す: あっちへよったり、こっちへよったり即興の歌

を歌いながら千鳥足で歩き礼帽を落とし仏法の礼儀を忘れる。

散髪: ぼうぼうたる髪の毛。

夷猶: よろめくこと。

散髪夷猶、誰か管係せん: 髪の毛をぼうぼうと振り乱しよろめくのを、誰がかまうだろうか。

太平無事酒顛の人:そのような人こそ三世諸仏もかまいようがない太平無事の人と言えるだろう。



頌の現代語訳

清高潔白な曹洞宗の家風は一切を打ち払って隣というものがなく純一無雑だ。

長い年月の間六根門頭を閉じているので六塵から来るストレスなどはない。

大悟徹底するまでは真っ暗で歯が立たないが、そこに気づくと満月の光明が一時に光り輝く。

それから悟後の修行によって悟りのカスが次第に取れて月がだんだん暗くなり残月が傾いていく。

陰から陽に変化すると陽気が東北東(寅の方向)に起こる。

豁然大悟することで新たに孝を満たし、初めて天下太平の春を迎える。

あっちへよったり、こっちへよったり即興の歌を歌いながら千鳥足で歩き

礼帽を落とし仏法の礼儀らしいものも忘れてしまう。

髪の毛をぼうぼうと振り乱しよろめくのを、誰がかまうだろうか。

そのような人こそ三世諸仏もかまいようがない、太平無事の人と言えるだろう。


解釈とコメント


本則では修行期間を忌中になぞらえている。

修行期間は凡俗の自己を否定し、参禅修行に集中しなければならないからである。

修行の結果悟った時に服喪期間(忌中)が終わる。

悟った後にはまた悟後の修行が続く。

曹山の言葉「私は大酒を飲んで酔いつぶれているよ」は

悟後の修行によって到達した「太平無事の境涯」を

大酒を飲んで酔いつぶれている」と表現しているのである。

本則は無門関10則「清税孤貧」に良く似ている。

無門関10則を参照 )。

曹山の言葉「私は大酒を飲んで酔いつぶれているよ」について、

大酒」を坐禅によって下層脳を活性化することによって脳内で分泌された、

βエンドルフィンドーパミンセロトニンなどの脳内麻薬だと考え、

「私は坐禅によって分泌された脳内麻薬(=酒)に酔って、大平安楽の境地にいるよ」

と脳科学的に解釈するのも面白いかも知れない。

本則では「霊衣、孝満」など葬儀と関連ある言葉が使われ、

儒教思想など中国思想の影響が感じられる公案になっている。


74soku

 第74則  法眼質名 



示衆:

富(とみ)、満徳(まんとく)を有(たも)って蕩(とう)として繊塵(せんじん)無し。

一切の相を離れて一切の相に即す。

百尺竿頭(かんとう)に歩を進めて、十方世界に身を全うす。

且らく道へ甚麼(なん)の処より得来るや。


注:

蕩(とう): 跡形もないこと。

繊塵: 糸一筋塵一つ。

富、満徳を有(たも)って蕩として繊塵無し: 満徳の根源は

無自性・空で糸一筋塵一つの跡形もない。

一切の相を離れて一切の相に即す: 一切の相は瞬間の姿であって、常に変化している。

相の相とすべきものはない。諸法は常相はなく、無自性・空である。

そこに万徳が具わっている。

十方世界: 東西南北の四方と、四維(四方の中間位)に上下の十方となる。 全空間。

百尺竿頭に歩を進めて、十方世界に身を全うす: 

百尺竿頭からさらに一歩を進めて十方世界に自己の全身を発現する。

百尺竿頭、須(すべか)らく歩を進めて十方世界に全身を現すべし。」

という言葉は無門関46則に見える。 (無門関46則を参照 )。


示衆の現代語訳


満徳の根源は無自性・空で糸一筋塵一つの跡形もない。

一切の相は瞬間の姿であって、常に変化している。相の相とすべきものはない。

諸法には常相はなく、無自性・空である。

そこに万徳が具わっている。

百尺竿頭からさらに一歩を進めて十方世界に自己の全身を発現することができるのだ。

それではそのような境地にはどうのようにして得ることができるのか、

参究しなさい。



本則:

僧法眼に問う、「承る、教に言えること有り、無住の本より一切の法を立すと

如何なるか是れ無住の本?」。

眼云く、「形は未質より興り、名は未名より起こる」。


注:

法眼:法眼文益禅師(885〜958)。地蔵桂チンの法嗣。法眼宗の始祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→

徳山宣鑑→雪峰義存→玄沙師備→地蔵桂チン→法眼文益

教:ここでは維摩経を指している。

維摩経の観衆生品第七には維摩と文殊の間の問答が次のように出ている。

文殊が維摩に問う、「身はいずれをか本となす?」。

 維摩は答える、「貪欲を本となす」。

文殊は問う、「貪欲いずれを本となす?」。

維摩は答える、「虚妄分別を本となす」。

文殊は問う、「虚妄分別いずれを本となす?」。

維摩は答える、「顛倒の想を本となす」。

文殊は問う、「顛倒の想、いずれを本となす?」。

維摩は答える、「無住を本となす」。

文殊は問う、「無住いずれを本となす?」。

維摩は答える、「無住は即ち本なし。文殊師利、無住の本より一切の法を立つ」。

本則の僧の質問は以上の問答に基づいている。

この問答において「顛倒の想」という言葉が出てくる。

「顛倒の想」は以下の「四顛倒」から成ると考えられている。

「四顛倒」とは身、受、心、法の四つに対して「顛倒の想」を起こすことである。


1:肉体は不浄であるのに、清浄だと思うこと。


2: 外界から感受するものはすべて苦であるのに、これを楽だと思うこと。


3: 心は無常転変するものなのに、これを常住不変なものだと思うこと。


4: 万法は無我であるのに、これを実我実体のあるものだと思うこと。


忽然念起の無明も、清浄本然も無住の本より出てくると考えられていることから、

「無住の本」とは科学的に言えば「」であることが分かる。


無住の本」= 


だと考えることによって本則は理解し易くなる。


形は未質より興り、名は未名より起こる: 僧肇(374〜414)の著作「宝蔵論」広照空有品には

「形は未質より興り、名は未名より起こる。」という言葉が出ているとのこと。

形名(形態や名称)の概念が頭の中で兆し形成される時、

「形や名称になる前のものから形成される」

という意味だと考えることができる。

「脳の神経回路で形名(形態や名称)の概念が兆し形成される時には、形や名称になる前のものから形成される。

それが無住の本だ」

と言っていると考えることができるだろう。

未質や未名とは何を意味しているか不明であるが形名(形態や名称)の本になるもので、

「無住の本」を言い換えたものである。

科学的には脳の神経回路を流れる神経電流を考えれば良いのではないだろうか。




本則の現代語訳:

僧が法眼に聞いた、

『維摩経には、無住の本より一切の法を立つ』と書いてあります

無住の本とはどのようなものでしょうか?」。

法眼は云った、

形名(形態や名称)の概念が頭の中で兆し、形成される時

形や名称になる前のものから形成されるのだ」。




没蹤跡(もっしょうせき)、断消息(だんしょうそく)。白雲根(こん)無し、清風(せいふう)何の色ぞ。

乾蓋(けんがい)を散じて心あるに非ず。

坤与(こんよ)を持して力有り。

千古の淵源(えんげん)を洞(ほが)らかにし、万象の模則(もそく)を造る。

刹塵(せつじん)の道(どう)会(え)するや処処普賢(しょしょふげん)。

楼閣(ろうかく)開くるや頭頭弥勒(づづみろく)。


注:

没蹤跡: 跡形がないこと。

断消息: 音信がないこと。

没蹤跡、断消息: 跡形もなく、音信もない。

白雲根無し、清風何の色ぞ: 空にはどこらともなく白雲がわいてくるが

根も葉もない。清風が吹いて来ても風には色がない。

乾蓋: 雲。

乾蓋を散じて心あるに非ず: 雲が散っても無心である。

坤与(こんよ): 大地。

坤与を持して力有り: 風輪が大地を空中に持ち上げ保持している。

この考えは古代インドの須弥山説に基づいている。

須弥山説の図10.3を参照 )。

千古の淵源: 永遠の歴史の淵源。

万象: 森羅万象。

千古の淵源を洞らかにし、万象の模則を造る: 永遠の歴史の淵源を明らかにし、

森羅万象の法則を造る。

刹塵: 刹は国、塵はチリ。大は国、小はチリ。

刹塵の道会するや処処普賢: 普賢三昧には大は国、小はチリまでの大小の万徳の根源がある。

楼閣開く: アッと言う間に気づく

楼閣開くや頭頭弥勒: アッと気づけば人々皆が弥勒菩薩である。



頌の現代語訳

悟りの世界には跡形もなく、音信もない。

空にはどこらともなく白雲がわいてくるが根も葉もないし、

清風が吹いて来ても風には色がついていないようなものだ。

雲は散っても無心である。風輪は大地を空中に持ち上げ保持している。

永遠の歴史の淵源を明らかにし、森羅万象の法則を造る。

普賢三昧には大は国、小は塵までの大小の万徳の根源がある。

アッと気づけば我々皆が弥勒菩薩なのだ。


解釈とコメント


本則では維摩経の観衆生品第七には維摩と文殊の間の問答や

僧肇(374〜414)の著作「宝蔵論」の言葉

形は未質より興り、名は未名より起こる。」を引用した公案になっている。

本則は、

維摩経で説く無住の本とは脳および脳宇宙のことであると考える 

ことによって理解し易くなるのではないだろうか。




75soku

 第75則  瑞巌常理 



示衆:

喚んで如如(にょにょ)となすも、早く是れ変ぜり。

智不到(ちふとう)の処、切に忌む道著(どうちゃく)することを。

這裏(しゃり)還って参究の分ありや也た無しや。


注:

喚んで如如となすも、早く是れ変ぜり: 仏法(禅)の究極のところは

このようだと言ってもすぐ変化してしまう。

智不到の処: 知恵や知識で到ることができない処。

道著: 言うこと。道とは道(い)うこと。

智不到の処、切に忌む道著することを: 知恵や知識で到ることができない

真の事実を言葉で表現しようとしてはならない。

這裏:智不到の処=本来の面目、真の自己(=脳)。

這裏還って参究の分ありや也た無しや: 智不到の処である真の自己を参究する道があるだろうか?


示衆の現代語訳


禅の究極のところはこのようだと言ってもすぐ変化してしまう。

知恵や知識で到ることができない処を言葉で表現しようとしてはならない。

それでは智不到の処である真の自己を参究する道があるだろうか?



本則:

瑞巌が巌頭に問う、「如何なるか是れ本常の理?」。

頭云く、「動ぜり」。

巌云く、「動の時如何?」。

頭云く、「本常の理を見ず」。

巌佇思す。

頭云く、「肯う時は即ち未だ根塵を脱せず、肯わざる時は永く生死に沈む」。


注:

巌頭:巌頭全豁(がんとうぜんかつ、828〜887)。唐代の禅者。徳山宣鑑の法嗣。

賊に首を切られた時、大叫一声して死んだことでも知られる。雪峰義存の兄弟子に当たる。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →巌頭全豁

瑞巌::瑞巌師彦(ずいがんしげん)禅師。唐代の禅者。巌頭全豁の法嗣。 無門関12則に出てくる。

無門関12則を参照 )。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→

龍潭崇信→徳山宣鑑 →巌頭全豁 →瑞巌師彦

本常の理: 禅の本来不変の真理(=脳と脳宇宙の真理)。



本則の現代語訳:

瑞巌が巌頭に聞いた、

本来不変の真理とはどのようなものですか?」。

巌頭は云った、

動いて行方不明になった」。

瑞巌は云った、

動いたらどうなるでしょうか?」。

巌頭は云った、

動いたら本常の理は行方不明だよ」。

瑞巌はなんだかわからなく、頭がボーっとなって佇んだ。 

巌頭は云った、

これを安易に肯定すれば、主客対立の世界から脱出できないし

否定すれば迷いの世界に沈むしかない」。


円珠(えんじゅ)穴あらず。

大璞(たいはく)は琢(たく)せず。

道人の貴とぶ所、稜角(りょうかく)無し。

肯路(こうろ)を拈却(ねんきゃく)すれば根塵(こんじん)空ず。

脱体無依(だったいむえ)活卓卓(かつたくたく)。


注:

円珠:円い宝珠。本来の面目(=真の自己)を宝珠に喩えている。

円珠穴あらず。大璞は琢せず:宝珠のような真の自己には穴や傷はないし、みがきようもない。

道人:真理を求める人。道の人。

稜角:角。角張ったところ。

道人の貴とぶ所、稜角無し:真理を求める人が貴とぶ所であり、円でかどばったようなところは無い。

肯路を拈却する:肯定するところも掃蕩する。

根塵:六根(眼耳鼻舌身意)と六境(色・声・香・味・触・法)。

根塵空ず:主客対立を超えて心境一如になる。

肯路を拈却すれば根塵空ず:肯定するところも掃蕩すれば、主客の対立を超えて心境一如になる。

万物一体の境地を参照 )。

脱体:根塵を脱落して本常の理が丸出しであること。

卓卓:独立無依のようす。

脱体無依:真の自己が丸出しで何物にも依存しないこと。

脱体無依活卓卓:真の自己が丸出しで何物にも依存しなくなり、真の自由人になる。  



頌の現代語訳



宝珠のような真の自己には穴や傷はないし、磨きようもない。

真理を求める人が貴とぶ所であり、円でかどばったようなところは無い。

肯定するところもしっかり掃蕩すれば、主客の対立を超えて心境一如になるだろう

万物一体の境地を参照 )。

そうなれば真の自己が丸出しで何物にも依存しなくなり、真の自由人になる。




解釈とコメント


本則では「本常の理(本来常住不変の真理)」とは何かが問題になっている。

74則と関係深い内容の公案である

本常の理(本来常住不変の真理)」とは、「頌」を読めばわかるように

禅の主題である「本来の面目(真の自己=脳と脳宇宙)に関する問答だ 」と考えて良い。

瑞巌が巌頭に、「本来常住不変の真理とはどのようなものですか?」 と聞く。

これに対し巌頭は、「動いて行方不明になった」と答える。

瑞巌が「本来常住不変の真理(本来の面目)」を頭の中に描いたため、

動いて行方不明になったと言っている。

巌頭の答、「動いて行方不明になった」が良く理解できなかった瑞巌は、

動いたらどうなるでしょうか?」と聞く。

巌頭の答え、「動いたら本常の理は行方不明だよ」は頭の中で分別意識を働かせて、

描いたり理屈を付ければ

本常の理は行方不明になるぞ」と言っている事がわかる。

この答えに瑞巌はなんだかわからなく、頭がボーっとなって佇んだ。 

そこで巌頭は、「これを安易に肯定すれば、主客対立の世界から脱出できないし

否定すれば迷いの世界に沈むしかない」と云った。

巌頭は、「本来の面目(真の自己)」を安易に肯定すれば

主客対立の分別妄想の世界から脱出できないし

否定すれば生死迷妄の世界に沈むしかない

一心不乱に参禅修行して見性成仏するしかない

と云っていることが分かる。

示衆、本則、頌を読めば、問題となっている本常の理(本来常住不変の真理)」とは

禅の主題である「本来の面目(真の自己=脳と脳宇宙)に関する真理のことだ」

と考えて良いことが分かる。

   






「従容録」の参考文献


   

1.安谷白雲著、春秋社 禅の真髄「従容録」 2002年

2.高橋直承校註、鴻盟社、和訳校註「従容録」1982年

   

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