2009年8月18日〜8月27日作成

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坐禅儀




坐禅儀と著者について



坐禅儀」の作者は不詳だが、慈覚大師長蘆宗サク(雪竇重顕の法孫)の編纂とされている。 中国の元代至元4年(1338)に完成した。

坐禅儀は坐禅の坐法を説明したもので、「禅宗四部録信心銘、証道歌、十牛図、坐禅儀 )」の一つである。

「坐禅儀」はもともと「百丈清規」から出たものといわれている。「百丈清規」とは洪州百丈山大智禅師(壊海)著。後に「勅修百丈清規」が出たので区別するために「百丈古清規」ともいわれる。

当時いまだ禅宗は宗旨として一個独立の寺院はなく、制度儀式はなかったが、禅師は本書を創作して禅宗の規矩を定めた。

「勅修」は元統3年(1335)に百丈山の東陽徳輝禅師が皇帝恵宗、順宗の勅令によって編集したものを更に笑隠大訴禅師が校正を施して至元4年(1338)に完成したものである。東陽禅師が編集にあたったとき、既に百丈清規はなかった。



以下の解説ではこれを便宜的に(11文段に分け、易しく説明したい。



1. 

それ学般若の菩薩は、まずまさに大悲心を起こし、弘誓願を発し、精しく三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし。



注:

学般若の菩薩:般若は無分別智のこと。無分別智を学ぶ菩薩という意味。無分別智は坐禅によって得られる智慧を意味する。 坐禅を学ぶ菩薩(求道者)のこと。

大悲心:大慈悲心。

弘誓願:衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成の四弘誓願のこと、

三昧:サマーディ(samadhi)の音写で、正定、正受などと漢訳される。心を散乱しないよう統一し集中した状態のこと。 。

度:済度のこと。迷いの世界から悟りの彼岸へ到らしめること。



現代語訳:

真の自己に目覚めようとする禅の修行者は、広く世の人々を救おうとする、大慈悲の心を起こし、誓いを立て、座禅に専心しなければならない。必ず衆生を救おうと願い、自分一人の解脱のために修行をしてはならない。



   

2. 

すなわち諸縁を放捨(ほうしゃ)し、万事を休息し身心一如にして、動静(どうじょう)へだてなく、その飲食をはかりて、多からず少なからず、その睡眠を整えて節(せつ)ならず、恣(し)ならず。



注:

諸縁: 心にかかわりあってくる諸々の外境のこと。

節(せつ)ならず、恣(し)ならず。:(睡眠を)減らし過ぎず、取り過ぎない。



現代語訳:


そのためには、ひとまず日常の雑事は忘れて、心身を休息し、行住坐臥のふるまいはゆったりとスムーズに行う。また、飲食を調節し、睡眠は、寝不足でも寝過ぎてもいけない。



   

3. 

坐禅せんと欲する時、閑静処において厚く坐物を敷き、寛く衣帯をつけ、威儀をして斉整ならしめよ。



注:

閑静処:静かな場所。

斉整:斉も整もととのえること。




現代語訳:


坐禅をしようとする時には、静かなところに厚く坐布団を敷き、ゆったりとした衣服を着て、きちんと威儀を正して坐らなければならない。


   

4. 

しかして結跏趺坐(けっかふざ)す。まず右の足をもって、左のももの上に安じ、左の足を右のももの上に安ぜよ。あるいは、半跏趺坐(はんかふざ)もまた可なり。ただ左の足をもって、右の足を圧すのみ。次に右の手をもって、左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の面をもって相支え、徐々として身を挙し、前後左右、反覆揺振して、すなわち身を正しうして端坐せよ。




現代語訳:


結跏趺坐をする場合には、右の足を左のももにのせ、左の足を右のももにのせる。

あるいは、半跏趺坐でも良い。この場合は、左足のみを右足にのせる。次に右手を、組んだ足の上に置き、手のひらを上にして、その右手の上に、左手を同じように置き、両手の親指を上の方で合わせる。

ゆっくりと体を立て、上半身を前後左右に、振り子が振れるようにゆすって、体をまっすぐしたところで、端坐するとよい。


   

5. 

左に傾き右に側立ち、前にかがまり後に仰ぐことを得ざれ。腰脊頭頂骨節をして相支え、状(かたち)浮屠(ふと)のごとくならしめよ。また身を聳立つこと太だ過ぎて、人をして気急不安ならしむることを得ざれ。

耳と肩と対し、鼻と臍と対し、舌は上の顎を支え、唇歯相著けしむることを要す。目はすべからく微(すこ)し開き、昏睡を致すこと免るべし。もし禅定を得ればその力最勝なり。いにしえ習定の高僧あり、坐して常に目を開く。



注:

浮屠(ふと):ブッダ(Buddha)の訛音ともストゥーパ(塔)の音写とも言われる。 )

状(かたち)浮屠(ふと)のごとくならしめよ:坐禅の時、身体をまっすぐに、安定不動ならしめること塔のようにしなさい。

気急不安ならしむること:呼吸がせわしく、息苦しいこと。

身を聳立つこと太だ過ぎる:そっくり返る。

目はすべからく微(すこ)し開き:眼を全開すると心が乱れる。全く閉じると眠くなる。そこで眼はわずかに半眼くらいに開いて外光を遮る。

その力:禅定の力



現代語訳


左に傾いたり、右に曲がったり、前へかがんだり、後ろにのけぞったりしてはいけないない。腰の上に背骨がまっすぐ、頭がてっぺんにのり、あたかも五重の塔がそびえ立つように坐りなさい。また、体が反り返ったり、呼吸がせわしく息苦しいのもいけない。

耳と肩が垂直に相対し、鼻とおへそが垂直に相対し、舌は上あごの歯ぐきあたりを押さえ、くちびると歯は、一文字に結ぶ。目は少し開き、居眠りをしないようにする。身心が統一された禅定の力は最も優れている。昔から、坐禅を学んだ高僧は、皆目を開けて坐禅をしているのだ。





   

6. 

向(さ)きの法雲円通禅師も、また人の目を閉じて坐禅するを訶して、もって黒山(こくざん)の鬼窟(きくつ)といえり。けだし深旨あり、達者これを知るべし。

身相既に定まり、気息既に調うて、しかして後臍腹を寛放し、一切の善悪すべて思量することなかれ。念起らばすなわち覚せよ。これを覚すればすなわち失す。久々に縁を忘すれば、自ら一片となる。これ坐禅の要術なり。



注:

法雲円通禅師:法雲円通禅師(1027〜1090)は雪竇重顕(980〜1082、雲門宗の禅僧)の法孫にあたる人。

黒山(こくざん)の鬼窟(きくつ):空見に落ち込んだり、虚無的境地に陥って自由のきかないこと。

一切の善悪すべて思量することなかれ:善悪などを考える分別意識を起こさない。坐禅に集中し、二元的対立の分別意識(分別智)を起こさない。

一片:思うものと思われるもの、見るものと見られるもの、主観と客観、などの相対するものが一つになること。心が二途にわたらず、一つに成り切ること。


現代語訳


以前、法雲円通禅師は、目を閉じて坐禅をしている僧を見て、「暗黒の洞窟に住む鬼のようだ」と叱られた。この言葉には深い意味がある。修行者たちよ、よく考えて"暗黒の洞窟"に落ち込んではならない。

坐禅の姿勢が決まり、呼吸をととのえたなら、大きく息を吐き出して、腹の中をからっぽに開け放ち、さらに善悪など一切考えないようにする。もしも何かの考えが浮かんだら、それは煩悩・妄想であると思いなさい。

雑念が出たら捨て、出たら捨てていけば、ついには妄想の意識もなくなり、自然に身心が一つに統一されるだろう。これが坐禅の急所である。




7    

7. 

ひそかに思うに坐禅はすなわち安楽の法門なり。しかるに人多く病いを致すことは、けだし用心を善くせざるが故なり。もし善くこの意を得れば、すなわち自然に四大軽安、精神爽利、正念分明にして、法味神を資け、寂然として清楽ならん。



注:

安楽の法門:坐禅中の丹田腹式呼吸によって脳幹が活性化され、ベータエンドルフィン、セロトニン、ドーパミンなどの脳内麻薬が分泌され、安らぎや安楽を得る法門( 禅と脳科学2.27「坐禅は安楽の法門」参照 )。

病いを致す:この病は激しい禅修行からくるストレス病などの禅病だと考えられている。

四大:地水火風の四大元素。古代ギリシャやインド以来の古代思想に基づく言葉だが、ここでは身体。

四大軽安:身体は軽やかに健康であること。

法味:仏法という精神的食物から得られる智慧や歓喜(よろこび)。


現代語訳


密かに考えてみると、坐禅は安楽の法門である。しかし、修行者の中には病気にかかる者が少なくない。これは心の使い方がよくないためである。

食事や睡眠など日常生活に注意をして、無理をせず坐禅修行をするなら、自然と心身共に軽やかで爽快となり、頭の中はすっきりとして、なにごとにも自由自在な働きを得て、心の中は晴ればれとして、幸福感で満たされるだろう。

   


コメント


この文段では坐禅の健康効果(四大軽安)と精神的効果(精神爽利)について述べている( 禅と脳科学2.25「坐禅の健康効果」参照 )。

   
8

8. 

もし既に発明することあらば、いうべし龍の水を得るがごとく、虎の山に靠(よ)るに似たりと。もし未だ発明することあらざる者は、またすなわち風に因って火を吹き、力を用いること多からざらん。ただ肯心を弁ぜよ、必ず相賺(いつわ)らざれ。

しかり、しこうして道高ければ魔盛んにして、逆順万端ならん。ただよく正念現前せば、一切留礙することあたわず、楞厳経、天台の止観、圭峰の修証儀のごとき、つぶさに魔事を明かす。あらかじめ不虞に備わる者の如きは、知らずんばあるべからざるなり。




注:

龍の水を得るがごとく、虎の山に靠(よ)るに似たり:竜が水を得たように自由自在の働きを身に付け、虎が山に靠(よ)るように悪魔邪道が近寄れない威風を具えるのに似ている。

風に因って火を吹き:風向き利用して火を吹けば楽に火が起きるように、常に坐禅に親しんでいれば無駄な努力をしなくても見性することが出来るという意味。

肯心を弁ぜよ、必ず相賺(いつわ)らざれ:自分の心に納得が行くようにして、決して自分を偽ってはならない。

道高ければ魔盛んにして、逆順万端ならん:道が進めば進むほど魔障も多くなり、逆境や順境がさまざまに現れるだろう。

楞厳経:楞厳経は「首楞厳経」のこと。「首楞厳経」の卷九と卷十には坐禅中に起こる50魔境(魔の境地、境界)を説いている。

天台止観:天台智(538〜597、天台智者大師)の著作「摩訶止観」と「天台小止観」には魔事(魔境)について詳しく記されている。

圭峰の修証儀:圭峰宗密(780〜841)の著作「修証儀」には魔境を説いている。

不虞:思いもよらない事態。


現代語訳


もしも、悟りの力を得るなら、まるで水を得た龍が大空を翔るが如く、深山に潜む虎がほえるが如くなるだろう。また、そこまでいっていない多くの修行者たちも、例えば風上から火をつければ、風の力を借りて火が燃え広がるように、一所懸命に坐禅をすれば、順風が吹き始め、必ずさとりは見えてくるだろう。そのためには、常に正直に修行をすることだ。間違っても、手抜きや自分を偽ったりしてはならない。

そうして修行が進んでくると、さらなる高度な教えに遭おうと、志が上がっていくのだが、またもやいろいろな魔物が現れ、修行の邪魔をする。その時には何事をも恐れず、正しい見解と信念を持てば良い。正念の前には、どんな誘惑・障害も修行者の邪魔をすることはできない。『楞厳経』、天台大師の『魔訶止観』、圭峰宗密禅師の『道場修証儀』などの書物には、こういった魔障について詳細に書いてある。坐禅中に起こる魔境について心配な者はあらかじめ読んでおけば良いだろう。



コメント


この分段の後半では坐禅中に体験する魔境に着いて言及している。魔境とは坐禅中に光り輝く菩薩や如来を見たりすることである。普通は見えないものや、聞こえないものが見えたり、聞こえたりすることである。

他の宗教では、光輝く神を見ることを「見神」体験として尊重したり、聞こえないものが聞こえたりすると超能力だとしてありがたがったりすることもある。しかし、禅ではそれらの異常体験は全て魔事・魔境として否定する。坐禅中にそのような異常体験をしても相手にしないことだ。そのうちに自然に消え去る。

決してありがたがったり、相手にしてはならない。しかし、魔境を経験するかしないかは人によるようである。 魔境の原因として考えられるのは、個人の強い欲望や願望(多くは理性で押さえつけられたもの)が坐禅中に現れる(吹き出る?)脳内現象だと考えれば分かり易いだろう。 魔境は強い願望によって引き起こされる、夢と似た脳内メカニズムによって引き起こされる幻覚に似た坐禅体験だと思われる。

   
9

9. 

もし定を出でんと欲せば、徐々として身を動かし、安詳(あんじょう)として起ち、卒暴なることを得ざれ。

出定の後、一切時中、常に方便をなし、定力を護持すること嬰児(えいじ)を護するが如くせよ、すなわち定力なし易からん。それ禅定の一門は最も急務たり。もし安禅静慮せずんば、這裏(しゃり)に到って総(すべ)てすべからく茫然(ぼうねん)たるべし。



注:

定:禅定のこと。三昧を定と訳す。散乱した心を一つに集中統一した寂静の境地。

卒暴:卒は軽卒、暴は粗暴であること。慌てて平静を欠き、軽卒乱暴に坐を起つこと。

方便:便宜に従って設ける手段のこと。

急務:緊急で重要な務め。

茫然(ぼうねん):ボーッとしてとりとめのない様子。

這裏(しゃり):ここ、このうち、などの意味。禅問答では這裏(しゃり)とは人生一大事の場、生死到来のところを意味する。科学的には悟りの本体としての脳(下層脳中心の脳)を指している。

這裏(しゃり)に到って:禅修行によって悟りの本体としての脳(下層脳中心の脳)に到ってを覚証する(本来の自己を悟る)時( 悟りの体験と分析:その2、4.6を参照 )。

定力:禅定力。坐禅中の成り切った集中力。坐禅修行によって身心に備わる一種の能力。


現代語訳


次に、坐禅三昧の境地から出て、坐禅を終わろうとする時には、ゆっくり体を動かして、落ち着いて立ち上がるべきである。粗暴に動いてはならない。

坐禅によって得た定力を、坐禅を終わっても失わないよう、常に工夫し、赤ん坊を抱くように丁寧にかまえて護らなければならない。このように慎重にするならば、定力はますます強くなるだろう。

禅宗において"禅定"修行は最も重要なものである。もし定力が足りないなら、本来の自己を経験し悟りに至った時、忙然自失することになるだろう。

   


コメント


この分段では「動中の工夫」を示している。また出定の時(坐禅を止める時)の注意と、平生の日常において「定力」を練ることを説いている。

   
   

10. 

ゆえに珠を探るには、よろしく浪を静むべし。水を動かせば取ること応(まさ)に難かるべし。定水澄静なれば、心珠自ら現ず。

故に円覚経にいわく、「無礙清浄の慧、みな禅定によって生ず」と。法華経にいわく、「閑処に在ってその心を修摂(しゅうしょう)し、安住して不動なること須弥山(しゅみせん)のごとくせよ」と。



注:

珠:仏性という珠。仏性(真の自己)を珠に譬えている。

珠を探るには、よろしく浪を静むべし:水中の珠を得るには、まず浪を澄まさなければならないように、本具の仏性を覚証するためには定力によって心の波を静めるべきだという意味。

円覚経にいわく・・・・:円覚経第九の弁音菩薩章の偈文。

法華経にいわく・・・・:法華経卷五第十四安楽行品の偈文。

修摂(しゅうしょう):修も摂もおさめること。すなわち、心をおさめて散逸させないこと。

須弥山(しゅみせん):古代インドの世界観である須弥山説では世界の中心には須弥山(スメール山、妙高山)があると考える。その高さは8万ヨージャナ(約64万km)である。この山の頂上より上に天上界があるとする。天上界に帝釈天(インドラ神)をはじめとする神々が住んでいる。日月星宿もこの山を巡って運行する。一種の天動説である。勿論須弥山説は古代インドの空想的宇宙論である( 大乗仏教ー1、「10.8「アビダルマ仏教の世界と三千大千世界」を参照 )。




現代語訳


水底に落ちている宝石を探すには、波を静めれば良い。水が動けば、ますます見つからない。水が静かで、澄んでいれば、宝石の方から自然に輝くので見つけることができる。それと同じように定力によって心の波を静めることができれば仏性を覚証することができるだろう。

『円覚経』には、「なにものにもとらわれない清浄な智慧は、禅定から生まれる」とある。また『法華経』には、「静かな処で心を集中して、須弥山のよう安住不動の状態にしなさい」とあるのはこのことを言っている。

   
   
11    

11. 

ここに知んぬ、超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)は必ず静縁(じょうえん)をかり、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)はすべからく定力によるべし。

一生取弁するすらなお蹉ダ(さだ)たらんことを恐る。いわんやすなわち遷延(せんえん)して、何をもってか業に敵せん。

故に古人いわく、もし定力の死門を甘伏するなくんば、目を覆うて空しく帰り、宛然(えんねん)として流浪せん。こいねがわくば諸禅友、この文を三復せば、自利利他、同じく正覚を成ぜん。



注:

超凡越聖(ちょうぼんおっしょう):凡聖の対立を超え、凡も聖もない絶対の世界に入り、凡でも聖でもない自己の本質を自覚すること。

静縁(じょうえん):禅定寂静の優れた力。

坐脱立亡(ざだつりゅうぼう):明治維新のハイライト江戸無血開城の立役者山岡鉄舟(1836〜1888)のように坐禅したまま死ぬのが坐亡。関山国師(関山慧玄、1277〜1360)は杖をついたまま立亡したと伝えられる。要するに生死自在であること。

取弁:自己本来の面目を明らめ、自分のものにしようと努力すること。

蹉ダ(さだ):足を失って傾きつまずくこと。

遷延(せんえん):のびのびになること。徒にだらだらと時間を空費して、緊張を欠く様。

業:カルマ。自己の行為の力をすべて業という。煩悩妄念が身口意の上に行為として現れる悪業も単に業という。ここでは悪業のこと。

古人いわく:大洪守遂禅師(推定1077〜1125)の言葉だとされている。

もし定力の死門を甘伏するなくんば、:死に直面した場合、その苦悩を巧みに制伏超脱する活手段は定力しかない。もしその定力がないならば。

目を覆うて空しく帰る:目を閉じて空しく死の暗黒界に帰る。

宛然(えんねん)として流浪せん:依然として生死煩悩の海に流れ漂うことだろう。

を三復せば:再三反復して読めば。

自利利他:自分のためには見性徹底するとともに、他人のためにも利益になること。

正覚:無明煩悩の夢が醒め、自己本具の仏性を自覚する(悟る)こと。




現代語訳


凡人や聖人を超越するためには、禅定寂静の力が不可欠である。過去の高僧が、坐禅したまま亡くなったり、立ったまま亡くなったりできたのも皆定力によるのである。

禅の目的である真の自己を明らかにしようとしても思うようにならずつまずくことも多い。その上だらだらと過ごしていては、どうして悪業に立ち向かうことができようか。

昔の人は言った「定力の無い者は、死に臨んで、慌ててうろたえるばかりで、どうすることもできない」。坐禅修行を志す人達よ、どうかこの文章を三度繰り返し読んで欲しい。その上で坐禅に励めば、自他を利益し、真の自己に目覚めることになるだろう。



コメント


この文段は坐禅儀の総括の文であり、坐禅を広く世に勧奨している。





坐禅儀の参考文献など


1. 大森曹玄著、其中堂、「禅宗四部録」、1962
2.『坐禅儀』解説/web智光院
    http://members.jcom.home.ne.jp/webchikoin/zazen-gi.htm











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