2013年6月1日〜8月30日作成      表示更新:2023年2月14日

従容録:その2: 26〜50則

   
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ここでは安谷白雲著、「従容録」と高崎直承校注和訳校注「従容録」を参考にし、

合理的科学的立場から「碧巌録」の公案26〜50則を分かり易く解釈・解説したい。



26soku

 第26則  仰山指雪  



示衆:

冰霜色を一にして雪月光を交う、法身を凍殺(とうせつ)し漁夫を清損す、

還って賞玩に堪ゆるや也た無しや。



注:

冰霜:氷と霜。

雪月光:雪と月光は白一色の世界で悟りの世界を表している。

冰霜色を一にして雪月光を交う:冰霜や雪や月光は白一色の銀世界であり、

仏法の平等な悟りの世界(平等性智)に似ている。

凍殺(とうせつ):氷詰め。

漁夫を清損す:清浄法身毘盧遮那仏(清浄な法身仏)という一枚悟りの世界に腰を下ろして、

動きのとれない人は、自分だけが清廉潔白で正しいという潔癖症の屈原を諌めた漁夫までも

潔癖症にしてしまうようなものだ。

漁夫については次のような故事がある。

昔、中国に屈原という清廉潔白な人がいた。

戦国時代後期に楚の王族として生まれた屈原(くつげん)は、罪を得て江南に流された。

屈原は放逐された屈原は江や淵をさまよい、詩を口ずさみつつ河岸を歩いていた。

彼の顔色は悪く、見る影もなく痩せ衰えていた。通りかかった一人の漁夫が彼に尋ねた。

あなたは三閭太夫さまではございませんか

どうしてまたこのような処にいらっしゃるのですか?」

 屈原は言った、「世の中はすべて濁っている中で、私独りが澄んでいる

人々すべて酔っている中で、私独りが醒めている。それゆえ追放されたのだ

漁夫は言った、「聖人は物事に拘らず、世と共に移り変わると申します

世人がすべて濁っているならば、なぜご自分も一緒に泥をかき乱し

波をたてようとなされませぬ

人々がみな酔っているなら、なぜご自分もその酒かすをくらい

糟汁までも啜ろうとなされませぬ

なんでまたそのように深刻に思い悩み、高尚に振舞って

自ら追放を招くようなことをなさったのです

屈原は言った、「ことわざにいう、『髪を洗ったばかりの者は、必ず冠の塵を払ってから被り

湯浴みしたばかりの者は、必ず衣服をふるってから着るものだ』と

どうしてこの清らかな身に、汚らわしきものを受けられよう

いっそこの湘水の流れに身を投げて、魚の餌食となろうとも

どうして純白の身を世俗の塵にまみれさせよう

 漁夫はにっこりと笑い、櫂を操って歌いながら漕ぎ去った。

漁夫は「滄浪の水が澄んだのなら、冠の紐を洗うがよい

滄浪の水が濁ったのならば、自分の泥足を洗うがよい

と歌って、潔癖症の屈原を諌めて去った。

漁夫と別れた屈原は汨羅(べきら)江に身を投げて死んでしまった。

漁夫を清損す」とは屈原の潔癖症を諌めた漁夫を

潔癖症にしてしまうようなものだと言っている。

還って賞玩(しょうがん)に堪(た)ゆるや也た無しや:法身を氷詰めにしたり、

屈原のような潔癖症の清僧になったら、どうして、それが活きた仏法と言えるだろうか。

そんなものがどうして賞玩に値するだろうか。


示衆の現代語訳


冰霜や雪や月光は白一色の銀世界であり、仏法の平等な悟りの世界(平等性智)に似ている。

しかし、そのような法身の世界は死仏法の世界であり、そこに拘泥すると法身を氷詰めにし、

自分だけが清廉潔白で正しいと主張した潔癖症の屈原のような人になるだろう。

更にそれを諌めた漁夫を潔癖症にしてしまうようなものだ。

そんなものが、どうして、それが活きた仏法と言えるだろうか。


本則:

仰山、雪獅子を指して云く、「還って此の色を過ぎ得る者有りや?」。

雲門云く、「当時便ち与めに推倒せん」。

雪竇云く、「只だ推倒を解して扶起を解せず」。


注:

仰山:仰山慧寂禅師(807〜883)。

イ山(いさん)霊祐(れいゆう)禅師(771〜853)の法嗣で

イ山(いさん)霊祐(れいゆう)とともにイ仰宗の開祖とされる。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一→百丈懐海→イ山霊祐→仰山慧寂

雪獅子:雪で作ったライオンの像。真っ白で美しいものの譬え。

推倒:押し倒す。ぶっ倒す。否定する。

当時便ち与めに推倒せん:皆雪で作ったライオン像のように真っ白で美しい

法身の悟りに見惚れて堕在していないだろうか。

そのような悟りはぶっ倒してしまえ。

雲門:雲門文偃禅師(864〜949)。雲門宗の開祖。

雪竇:雪竇重顕(980〜1052)。碧巌録の元となった「雪竇頌古百則」の著者で

雲門宗の禅師である。

碧巌録についてを参照)。

扶起:肯定。

只だ推倒を解して扶起を解せず:ただ否定することを知って肯定することを知らない。



本則の現代語訳:

仰山は、雪獅子を指して云った、

この雪獅子のように白一色に輝く法身の悟りを突破し透過できる人はいるだろうか?」。

雲門はこれにコメントして云った、

雪獅子のように真っ白で美しい法身の悟りに見惚れて捉われてはだめだ

そんな悟りはぶっ倒してしまえ」。

後に雪竇はコメントして云った、

ただ否定することを知って肯定することを知らないとだめだ」。



一倒一起雪庭の獅子。

犯すことを慎んで仁を懐き、為すに勇んで義を見る。

清光眼を照らすも家に迷うに似たり、明白、身を転ずるも還って位に堕す。

衲僧家了(つ)いに寄ること無し。同死同生何れをか此とし何れをか彼とせん。

暖信梅を破って、春、寒枝に到り、涼飃葉を脱して、秋、潦水を澄ましむ。


注:

一倒一起雪庭の獅子:雲門は「雪獅子のような法身の悟りに捉われてはだめだ

そんな悟りはブッ倒してしまえ」と「一倒すること」を言えば、

雪竇は「雪獅子のような法身の悟りをただ否定することだけではだめで

肯定することを知るべきだ」と「一起すること」を言った。

犯すことを慎んで仁を懐き、為すに勇んで義を見る:

仰山の説法は親切をつくして用意周到だ。

指導を誤らないよう慎重をきわめている。

それでもつまずく者がいるといけないから、雲門と雪竇は義を見て勇気をふるい互いに、

正反対、正反対と修行者に適切なコメントを出している。

清光:月の光。

清光眼を照らすも家に迷うに似たり:月の光ばかりを見ていて

家に帰る路を忘れたり迷ってはだめだ。

われわれが今居る処はどこでも本来の自己の真ん中だから迷いようもないのに、

それが分からずうろうろと求め廻っているのは月の光ばかりを見て家の中で迷うに似ている。

明白:悟りの世界。

明白、身を転ずるも還って位に堕す:悟りの世界に止まることなく身を転ずるのは良いが、

そこに止まるとそこに堕在することになるから気を付けないといけない。

衲僧家:禅僧。

衲僧家了(つ)いに寄ること無し:いやしくも禅僧たるものは何かに執着したり

依存するものがあってはいけない。

同死同生:生死を同じくする間柄。

同死同生何れをか此とし何れをか彼とせん:仰山、雲門、雪竇は皆生死を同じくする間柄で

どちらを是とし、いずれを非とするような余地はない。

暖信春風。

涼飃(りょうひょう):秋の寒風。

潦水:路上の溜り水。

春、寒枝に到り、涼飃葉を脱して、秋、潦水を澄ましむ:春風が吹くと梅の花が咲き、

秋風に木の葉が散れば路上の溜り水も澄むように、

扶起(肯定)によって梅の花が咲き、推倒(否定)によって路上の溜り水も澄む。

このように扶起(肯定)と推倒(否定)は禅の世界では欠かすことができない。



頌の現代語訳

雲門は

雪獅子のような法身の悟りに捉われてはだめだ。そんな悟りはブッ倒してしまえ

と「一倒」を言えば、

雪竇は

雪獅子のような法身の悟りをただ否定することだけではだめで肯定することを知るべきだ

と推倒(否定)だけでなく、扶起(肯定)の重要性を指摘した。

仰山の説法は親切をつくして用意周到で慎重をきわめている。

それでもつまずく者がいるといけないから、

雲門と雪竇は義を見て勇気をふるい互いに、

正反対、正反対と修行者に適切なコメントを出している。

われわれが今居る処はどこでも本来の自己の真ん中だから迷いようもない。

それが分からずうろうろと求め廻っているのは

月の光ばかりを見て家の中で迷うのに似ている。

悟りの世界に止まることなく身を転ずるのは良いが、

そこに止まるとそこに堕在することになるから気を付けないといけない。

いやしくも禅僧たるものは執着したり依存するものがあってはいけない。

仰山、雲門、雪竇は皆生死を同じくする間柄でどちらを是とし、

いずれを非とするような余地はない。

春風が吹くと梅の花が咲き、秋風に木の葉が散れば路上の溜り水も澄む。

そのように、扶起(肯定)によって梅の花が咲き、推倒(否定)によって路上の溜り水も澄む。

扶起(肯定)と推倒(否定)は禅の世界では欠かすことができない。


解釈とコメント



禅修行における三関門:掃蕩門、建立門、没蹤跡


禅の修行過程を段階的に進んで悟りを深めて行く上で三つの重要な関門がある

その第一の関門は掃蕩門とよばれている。


掃蕩門:



ここでは一切の思考,論理,分別などを超越して,宇宙と自己が一体化し、

さらにその世界も消滅して絶対的無の状況に到達する。

そこで自己の本性を覚知するという見性体験をする段階である。

掃蕩門は把定(否定)の立場と言える。

掃蕩門は、師家が学人を接化する際に、

一切の差別相を否定し、その拠って立つ場を払い去る手段である。


趙州無字」や「白隠隻手音声」などの公案を用いて、

意識に現れた雑念妄想などの一切を否定―掃蕩して行くことが典型的な掃蕩門と言える。


趙州無字」の公案は、「趙州の無字」を利刀として一切の妄想分別を否定し、

切って切って切りまくることである。

無門関第一則を参照)。


修行者が「趙州 無字」の公案に集中すると、

ついには彼の意識は無字に占められ天地この無字のみになる。

しかし、彼の意識にはこの無字が残っているから、

さらに最後の禅定力をふりしぼってこれを空じて行く。

この作業を続けていくと、意識面に何も残らなくなる。

何もないという意識も無くして、ただ何ものもないものがあるのみである。

この掃蕩門の修行によって、意識面から一切の対象が掃蕩されて生まれる

精神作用発動以前の「」は

脳科学的には下層脳(脳幹+大脳辺縁系、無意識脳)が主体となった状態である

と考えることができるだろう。


掃蕩門は平等の世界(正位)である。

正位については「当山五位」を参照)。


そこに腰を据えると、消極無為な悪平等に陥りやすいと考えられている。



建立門(or扶起門):


第二の関門は建立門(or扶起門)と呼ばれる。

扶起門は建立門と同じである。

迷悟・生佛(きわめて高徳の僧)・善悪・長短を肯定する法門」で、

師家が学人を接化する際に、引き立て、取り立て、扶け起こす接化の仕方である。

建立門では,悟りの見性体験を日常の行住坐臥に還元し,積極的に生かしてゆく法門である。

たとえ見性しても,それが修行中だけに留まるものであっては意味がない。

建立門は放行(肯定)の立場と言える。

扶起門はその弊害を除くため、

日常複雑な差別の世界を素直に肯定的に見る立場に立っている。

扶起門を表す歌として、

白露のおのが姿をそのままに、紅葉に置けば紅の玉

が知られている。


没蹤跡(もっしょうせき):


第三の関門は没蹤跡(もっしょうせき)と呼ばれる。

第三の没蹤跡では、見性した後も悟後の修行を継続深化して、

小悟と大悟を何度も通過することが必要だと説かれる。

見性体験をしたら、その跡を消し去り、さらに深遠な悟りを開くべく修行してゆくことである。

悟りへの修行は限りないものである。

従って、参禅者が一度の見性体験を過大に評価したり、

それに固執するような魔境から一刻も早く脱出して、

より高い悟りを求めて精進することが強調される。

禅修行の三法門と悟りの深化は次の図5にまとめることができる。

   
三法門

図5 禅修行の三法門と悟りの深化

   

雪竇のコメント「雪獅子のような法身の悟りをただ否定することだけではだめで

肯定することを知るべきだ」は

一切を否定・掃蕩して行く掃蕩門にとどまっていてはだめで、

それを乗り越え、扶起門(建立門)を経て、高い悟りを求めて深化すべきだと言っている

と考えられる。

本則において

仰山は、雪獅子を指して、

この雪獅子のように白一色に輝く法身の悟りを突破し透過できる人はいるだろうか?」と言う。

と言う

これに対し、雲門はコメントして、

雪獅子のように真っ白で美しい法身の悟りに見惚れて捉われてはだめだ

そんな悟りはぶっ倒してしまえ」と言う。

この雲門のコメントは掃蕩門によって

たとえ、雪獅子のような美しい法身の悟りに達してもその悟りに留まってはならない。

と言っているのである。

この雲門のコメントは、その雪獅子のように真っ白で美しい法身の悟りは、

更に、建立門(or扶起門)を通して否定され、再建(扶起)されるべきだ

と言っているのである。

これは図5の第二の建立門の過程に対応している。

雲門は「ただ否定することを知って肯定することを知らないとだめだ。」と言う。

この雲門の言葉は図5の第二の過程である再建(扶起)について述べているのである。

   


27soku

 第27則  法眼指簾 



示衆:

師多ければ脈乱れ、法出でて姦生ず。

無病に病を医するは以て傷慈(しょうじ)なりと雖も、条有れば条を攀(よ)ず、

何ぞ挙話(こわ)を妨げん。


注:

師多ければ脈乱れる:指導者が多く色んなことを言われると、ふらふらぐらぐらする。

法出でて姦生ず:厳密な法の下では脱法行為をする者が出て来る。

無病に病を医(い)するは:完全無欠という悟りの病を治すのは。

傷慈(しょうじ):痛々しいほど切なる慈悲の心。

条有れば条を攀ず:先例のあることだからその先例を挙げる。


示衆の現代語訳


指導者が多く色んなことを言われると、学人はふらふらぐらぐらと迷うし、

厳密な法の下では脱法行為をする者が出て来る。

完全無欠という悟りの病を治すのは痛々しいほど切なる慈悲の心である。

これについては先例があるので、その先例を挙げたいと思うが、何か差しさわりあるだろうか。  

本則:

法眼手を以て簾を指す。

時に二僧有り、同じく去って簾を巻く。

眼云く、「一得一失」。


注:

法眼:法眼文益(885〜958)。

清涼(しょうりょう)文益とも大知蔵大導師とも言う。唐代の禅者。

法眼宗の始祖。羅漢桂チン(らかんけいちん、867〜928)の法嗣

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 → 

徳山宣鑑→雪峯義存→玄沙師備→羅漢桂チン→法眼文益 

一得一失:一人はそれでよいが、一人は駄目だ。



本則の現代語訳:

法眼和尚の所に二人の僧が質問に来た。和尚は黙って簾を指さした。

二僧は揃って簾の所に行って簾を巻き上げた。

すると、和尚は言った、

一人はそれでよいが、一人は駄目だ」。


松は直く棘(いばら)は曲がれり、鶴は長く鳬(かも)は短し。

羲皇(ぎこう)世の人倶に治乱を忘る。

其の安きや潜龍(せんりゅう)淵に在り、其の逸するや翔鳥(しょうちょう)絆(はん)を脱す。

祖ネイ西来して、何んともすること無し。裏許(りこ)得失相い半ばす。

蓬(ほう)は風に随って空に転じ、コウは流れを截(き)って岸に到る。

箇の中霊利の衲僧あらば、清涼の手段を看取せよ。


注:

松は直く棘は曲がれり:松は真っ直ぐに伸び、棘(いばら)は曲がりくねっている。

鶴は長く鳬は短し:鶴の足は長く鳬の足は短い。

羲皇: 三皇五帝(さんこうごてい)という理想の聖王。中国の神話伝説時代の帝王。

現在ではこれらは実在の人物とは考えられていない。

『史記』は中国最古の王朝である夏より以前の時代に

「三皇五帝」という後世の理想とされる聖王の時代があったと記している。

羲皇世の人倶に治乱を忘る:三皇五帝の時代には人々は天下は太平で争いはなかった。

安: 安穏。

逸:飄逸。

其の安きや潜龍(せんりゅう)淵に在り、其の逸するや翔鳥絆を脱す: 

分別妄想さえなければ、淵に潜んだ竜のように、心は安らかだ。

また籠から放たれた鳥のように、自由自在に飛翔することができる。

祖ねい:達磨大師。

裏許(りこ): ここ、中国。

祖ねい西来して、何んともすること無し:しかし、

菩提達磨がインドから来て、皆どうすることもできない。

裏許得失相ひ半ばす:ここ、中国では彼が禅をもたらしたことについて

得失評価は相半ばしてはっきりしない。

蓬:よもぎ。ここではヨモギの穂綿。

コウ:船。

清涼: 清涼(しょうりょう)大師法眼文益のこと。

蓬は風に随って空に転じ、コウは流れを裁って岸に到る:ヨモギの穂綿は

風に随って空に飛び転じ、

船は流れにまかせて岸に到るように因縁に従って

どこにも引っかかることなく絶対安住のところに至る。

箇の中霊利の衲僧、清涼の手段を看取せよ: 

もし、ここに優れた禅僧がいるならば、法眼和尚の活手段を看取しなさい。



頌の現代語訳

松は真っ直ぐに伸び、棘(いばら)は曲がりくねっている。鶴の足は長く鳬の足は短い。

これが自然の真の姿である。三皇五帝の時代には天下は太平で争いはなかった。

心に分別妄想さえなければ、淵に潜んだ竜のように、心は安らかだ。

また籠から放たれた鳥のように、自由自在に飛翔することができる。

しかし、菩提達磨がインドから来て、皆どうすることもできない。

ここ中国に彼が禅をもたらしたことについて得失評価は相半ばしてはっきりしない。

ヨモギの穂綿は風に随って空に飛び転じ、船は流れにまかせて

岸に到るように因縁に従って任運自在に、

どこにも引っかかることなく生きることができれば

絶対安住のところに至るだろう。

もし、ここに優れた禅僧がいるならば、法眼和尚の活手段を看取しなさい。


解釈とコメント


本則は無門関26則とおなじである(無門関26則を参照)。


28soku

 第28則  護国三麼   



示衆:

寸糸を挂(か)けざる底の人、正に是れ裸形外道(らぎょうげどう)。

粒米(りゅうべい)を嚼(は)まざる底の漢、断(さだ)めて焦面(しょうめん)の鬼王に帰す。

直饒(たと)い、聖処に生を受くるも未だ竿頭の険堕(けんだ)を免れず、

還って羞(はじ)を掩(おお)う処有りや。


注:

寸糸を挂けざる底の人:着物を身に着けていないまるはだかの人。

裸形外道。迷悟、凡聖などの一切を打ち払った赤裸々な人。

粒米(りゅうべい)を嚼(は)まざる底の漢、:米を食べない人。餓鬼。

焦面(しょうめん)の鬼王:真っ赤な顔をしている餓鬼の親分。

寸糸を挂(か)けざる底の人、正に是れ裸形外道:迷悟、凡聖などの一切を打ち払った

赤裸々な人も空観に捉われるならば裸形外道である。

粒米(りゅうべい)を嚼(は)まざる底の漢、断(さだ)めて焦面(しょうめん)の鬼王に帰す:

米を食べない人は真っ赤な顔をしている餓鬼の親分や子分のようなものだ。

直饒(たと)い、聖処に生を受くるも:たとい、仏法に会って大悟徹底しても。

未だ竿頭の険堕を免れず:百尺竿頭に登って降りること知らないようなもので、

危険な境地に陥ることを免れないだろう。

還って羞(はじ)を掩(おお)う処有りや:その誤りを誤りと知り、

その恥を羞じと知って覆い隠すところがあるだろうか。


示衆の現代語訳


迷悟、凡聖などの一切を打ち払った赤裸々な人も

空観に捉われるならば裸形外道のような者と同じである。

米を食べない人はいつも空腹をかかえて真っ赤な顔をしている

餓鬼の親分や子分のようなものだ。

そのような人々は、たとい、仏法に会って大悟徹底しても、

百尺竿頭に登って降りること知らないようなもので、

危険な境地に陥ることを免れないだろう。

それでは、その誤りを誤りと知り、その恥を羞じと知って覆い隠すところがあるだろうか。



本則:

僧、護国に問う、「鶴枯松に立つ時如何?」。

国云く、「地下底一場の麼羅(もら)」。

僧云く、「滴水滴凍(てきすいてきとう)の時如何?」。

国云く、「日出て後一場の麼羅」。

僧云く、「会昌沙汰の時護法善神甚麼れの処に去るや?」。

国云く、「山門頭の両箇一場の麼羅」。


注:

護国:護国守澄。疎山光仁の法嗣。次の法系に見るように曹洞宗の禅師である。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→

雲巌曇晟→洞山良价 →疎山光仁→ 護国守澄

麼羅(もら):恥辱。

滴水:したたる水。

滴水滴凍(てきすいてきとう)の時:滴水が凍るように、

一切時、一切処に全く煩悩の暖気がなく、

分別妄想の熱気もなく、朝から晩まで本来の面目の丸出しになっている時。

日出て後一場の麼羅:本当の悟りの太陽が出てきて、

大慈悲心に目覚めると後から恥ずかしくなる。

会昌沙汰の時:会昌の廃仏事件(842〜846)の時

中国における仏教弾圧と禅を参照)。

山門頭の両箇:寺の山門に護法神として祀られている仁王。

山門頭の両箇一場の麼羅:護法神として祀られている仁王もいい恥さらしだ。

這箇(しゃこ):



本則の現代語訳:

ある僧が護国に尋ねた、

鶴が枯れはてた老松のてっぺんに立っている時はどのようなものですか?」。

護国は云った、

地上から見るとみっともない光景だ。そんな死んだような仏法が何になるだろうか」。

僧は云った、

したたる水が凍っているような時はどうでしょうか?」。

護国は云った、

本当の悟りの太陽が出てきて、大慈悲心に目覚めると後から恥ずかしくなるだろう」。

僧は云った、

会昌の廃仏事件の時、仏法の護法善神は何処に去ったのでしょうか?」。

護国は云った、

護法神として祀られている仁王も恥かしい思いをしただろうよ」。


壮士稜稜(りょうりょう)として鬢(びん)未だ秋ならず。

男児憤(ふん)せざれば侯に封ぜられず。翻(かえ)って思う清白伝家の客。

耳を洗う渓頭牛に飲(みずか)わず。


注:

稜稜として: 勢いよく。

鬢未だ秋ならず: 鬢(びん)の色は未だ白くない。

男児憤せざれば侯に封ぜられず:男児は発憤して刻苦修行しないと

仏位に辿り着くことができない。

清白伝家の客: 清廉潔白な後漢の役人楊震の故事に基づいている。

翻って思う清白伝家の客:清廉潔白な後漢の役人楊震のことをよく考えなさい。

耳を洗う渓頭牛に飲(みずか)わず。: 聖人づらをした人が耳を洗った河の水を

自分の牛には飲ませなられないと言った中国の故事に基づいている。

聖人づらをした人が耳を洗った渓流の水を自分の牛には飲ませなられないと言う意味。



頌の現代語訳

質問僧は稜稜として意気盛んで勢いがよいが鬢(びん)の色は黒く未だ白くなっていない。

これからさらに発憤して刻苦修行しないと仏位に辿り着くことができないだろう。

清廉潔白な後漢の役人のことをよく考えなさい。

彼のような聖人づらをした人が耳を洗った渓流の水を自分の牛には飲ませなられない。

禅の悟りの道は奥深い。悟ったらその悟りを捨てなくてはならない。

どこまでもそのような心の掃除を続けなければならないのだ。


解釈とコメント


僧が護国に尋ねた質問

鶴が枯れはてた老松のてっぺんに立っている時はどのようなものですか?」

は鶴や枯れた老松についての質問ではない。

借事問である。

借事問については「無門関」第15則を参照)。

僧は、上品で気高い鶴や老松になぞらえて護国の悟りの境地を尋ねているのである。

僧は護国に「鶴が枯れはてた老松のてっぺんに立っているような

老師の悟りの境地はどのようなものですか?」

と聞いているのである。


これに対する護国の返答は鶴や枯れた老松に立つ悟りの境地は「地上から見るとみっともない光景だ

そんな死んだような仏法が何になるだろうか

と疑問を呈していると考えることができる。

鶴が枯れはてた老松のてっぺんに立っているような悟りの境地は

空の悟りに安住して天下泰平になっている境地だと考えれば、

護国の返答は、そのような悟りの境地は

一見、上品で気高い境地に見えるかも知れないが

地上で実際に衆生救済の活動をしている者から見るとそのような境地はみっともない光景だ

そんな動きのない空の境地は死んだような仏法で、役に立たない」

と言っていると考えることができるだろう。

僧の第二の質問「したたる水が凍っているような時はどうでしょうか?」も借事問である。

この僧は悟りとは煩悩や分別妄想の熱気が無くなって、水滴がそのまま凍りつくような

厳しい寒気のようなものだと考えてこの質問をしたと考えられる。

僧は「したたる水が凍るように、一切時、一切処に全く煩悩の暖気がなく

分別妄想の熱気もなく

朝から晩まで本来の面目の丸出しになっている時はどうでしょうか?」と

したたる水滴が凍るような厳しい寒気にかけて護国の悟りの境地を尋ねているのである。

これに対する護国の返答は

本当の悟りの太陽が出てきて、大慈悲心に目覚めると後から恥ずかしくなるぞ」と

本当の悟りは水滴が凍るような厳しい寒気ではない

本当の悟りは暖かい太陽のような慈悲の心である

と言っていることが分かる。

僧の第三の質問「会昌の廃仏事件の時、仏法の護法善神は何処に去ったのでしょうか?」

に対しては

護国は「護法神として祀られている仁王も恥かしい思いをしただろうよ」と言って、

護法神の仁王なんかに頼ろうとする他力依存の考えは止めて、

人人脚下の活きた仏法に目覚め、それに頼るのが真の仏法の守護だと言っている

と考えることができる。


このように僧の三つの質問に対し、最初の二つはそのような悟りの境地はだめだと言っている。

第三の質問(会昌の廃仏事件についての質問)に対しては

仏法を守ることができなかった護法神仁王もいい恥さらしだと言っている。

以上の三つが本則のテーマになっている。




29soku

 第29則 風穴鉄牛   



示衆:

遅基鈍行(ちきどんこう)は斧柯(ふか)を爛却(らんきゃく)す。

眼転じ頭迷い、杓柄(しゃくへい)を奪将せらる。

若し也た鬼窟裏に打在し、死蛇頭を把定せば、還って変貌の分あらんや也た無しや。


注:

遅基鈍行:囲碁を打つ手が遅いこと。

斧柯(ふか)を爛却(らんきゃく)す:中国の晋の時代、

王質という樵が山へ行く途中棗の種のようなものを貰って

たべながら囲碁見物に夢中になっていた。

碁が終わって立ち上がろうとしたら斧の柄がグズグズっとくずれた。

見ると腐っている。

家に帰ってみたら、既に百年も過ぎていて、

知っている人は誰も居なかったと言う神仙伝の故事に由来する。

杓柄(しゃくへい)を奪将せらる:碁の先手を取られる。

眼転じ頭迷い、杓柄(しゃくへい)を奪将せらる:

ザル碁打ちが碁の名人に立ち向かうと目がくらみ、

頭がこんがらがって、先手を取られていつも尻拭いに忙しくなる。

鬼窟裏に打在する:迷いの世界に落ち込む。

死蛇頭を把定する:見込みのない処に碁石を打つ。

変貌の分あらんや:あっと驚くような活作略で勝ちを制することがあるだろうか。


示衆の現代語訳


昔、晋の時代、王質という樵が山へ行く途中棗の種のようなものを

貰ってたべながら囲碁見物に夢中になっていた。

碁が終わって立ち上がろうとしたら斧の柄がグズグズっとくずれ、家に帰ってみたら、

いつのまにか百年も過ぎていたという話がある。

そのようにのんびり修行していたらいつ悟りを達成することができようか。

王質の話のように、いつの間にか百年も経っていたということになるだろう。

ザル碁打ちが碁の名人に立ち向かうと目がくらみ、頭がこんがらがって、

先手を取られていつも尻拭いに忙しくなる。

迷いの世界に落ち込んで見込みのない修行を続けていたら、

あっと人が驚くような活作略で勝ちを制することがあるだろうか。



本則:

風穴郢州の衙内に在って上堂に云く、「祖師の心印状ち鉄牛の機に似たり

去れば即ち印住し、住すれば即ち印破す。只だ去らず住せざるが如きは即ち印するが是か印せざるが即ち是か?」。

時に盧陂長老有り出でて問うて云く、「某甲鉄牛の機有り、請う和尚印を塔せざれ」。

穴云く、「鯨鯢を釣って巨浸を澄ましむるに慣れて、却って嗟す蛙歩の泥砂に輾することを」。

陂佇思す。

穴喝して云く、「長老何ぞ進語せざる」。

陂擬議す。

穴打つこと一払子して云く、「還って話頭を記得するや試みに挙せよ看ん」。

陂口を開かんと擬す。

穴又打つこと一払子。

牧主云く、「仏法と王法と一般」。

穴云く、「箇の什麼をか見る」。

牧云く、「当に断ずべきに断ぜざれば返って其の乱を招く」。

穴便ち下坐。


注:

風穴:風穴延沼(ふけつえんしょう)禅師(896〜973)。

臨済の四代目の法孫。汝州の風穴山に居たので風穴と呼ばれた。


法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →百丈懐海→黄檗希運→

臨済義玄 →興化存奨→南院慧ギョウ→風穴延沼


郢州(えいしゅう):今の河南省信陽県。

衙内:州の役所。

祖師の心印:「本来の面目」。

鉄牛:古代中国の禹王が黄河の氾濫を防ぐため作った巨大な鉄製の牛。

ここでは「本来の面目」をたとえている。

鯨鯢(げいげい):鯨は雄くじら、鯢は雌くじらのこと。

蛙:廬陂(ろひ)長老のこと。


本則の現代語訳:

風穴禅師は、郢州(えいしゅう)の役所内で上堂して言った、

「祖師の心印は鉄牛の働きに似ている

その心印を押して、その印を取り去れば印形の文字がはっきり残る

その反対に

その心印を押しても、その印をそのままそこに置けば

印形がはっきり印刷されているかどうか分からない

祖師の心印を押して取り去らず、また印を置いたままにもしない二つを考えた時

心印を押して、その印形をハッキリ取るのが良いのか

あるいはそのままそこに置いて印形を取らないのが良いのか

両者の内どちらが禅にかなうのだろうか?」。

この風穴の言葉に、廬陂(ろひ)長老が出で来て言った、

私は禅の鉄牛の働きを既に得ています

ですから、改めて師から印可して貰うに及びません」。

風穴は言った、

わしは今迄大海で鯨を釣るのには慣れているが

田んぼの泥蛙を釣ったのは今日が始めてじゃ」。

これを聞いて、廬陂(ろひ)長老は意気をそがれて黙りこんでしまった。

風穴は一喝して言った、

長老、何とか言わんかい。お前さんの禅の鉄牛の働きは何処に行った」。

廬陂(ろひ)長老はまごついた。

風穴は払子(ほっす)で一打して言った、

さっきお前さんがわしに言ったことを憶えていないのか

分かっているのなら何とか言って見んかい」。

廬陂(ろひ)長老は口を開いて何か言おうとした。

そこを風穴は払子(ほっす)で又一打した。

これを見た牧主は言った、

仏法と王法は同じですね」。

風穴は言った、「どういう所が同じですか?」。

牧主は言った、

やる時には断乎としてやらないと後腐れがあって後に争いが起き、だめですよ」。

風穴は下座した。



鉄牛之機、印住印破。

毘盧(びる)頂ネイを透出して行き、化仏(けぶつ)舌頭に却来して坐す。

風穴衡(こう)に当たって、盧陂負堕(ふだ)す。

棒頭喝下、電光石火。

歴歴分明、珠(たま)盤(ばん)に在り。

。眉毛を貶起(さっき)すれば還って磋過(しゃか)す。


注:

鉄牛之機: 本来の自己(真の自己)の大機大用。

印住印破:

1:

印住とは印を押して、その印を取り去れば印形の文字がはっきり写って残る。

そのように、雀はチュウチュウ、烏はカアカアと万物が、心に写されて残る

差別と肯定の世界(上層脳の世界)」である。

2:

印破とは心印を押したままする場合、印鑑を持ち上げない限り、

紙に印形がはっきり印刷されているかどうか分からない

平等一如の世界(下層脳の世界)」である。


この印住印破を理解することが風穴の説法を合理的に解明するキーポイントになる。

毘盧: 毘盧遮那仏(法身仏)。

化仏: 応身仏のこと(三身仏を参照)。

毘盧頂ねいを透出して行き、化仏舌頭に却来して坐す:

果満円成の法身仏の境涯を透り抜けて、

応化自在の働きをする風穴和尚の神通妙用のこと。

衡: ハカリ。

負堕: 失敗すること。

風穴衡に当たって、盧陂負堕す。

風穴和尚のハカリに計られて、盧陂長老は無惨に失敗した。

棒頭喝下、電光石火。: 風穴和尚の一棒一喝は、

電光石火に間髪を入れず自然に飛び出した。

歴歴分明:ハッキリ。

珠盤に在り:盤上の玉のように左転右転し、自由自在に転がっている。

眉毛を貶起(さっき)すれば:眉毛を動かし、目を見張れば。

磋過(しゃか)す: 行方不明になってしまう。

歴歴分明、珠盤に在り、眉毛を貶起(さっき)すれば還って磋過(しゃか)す。

本来の自己(真の自己)の大機大用は

朝から晩まで寝る、起きる、泣く、笑う、

しゃべるとハッキリ盤上の玉のように左転右転し、自由自在に動いている。



風穴和尚の本来の面目の神通妙用は

果満円成の法身仏の境涯を透り抜けて、応化自在の働きをしている。

風穴和尚のハカリに計られて、盧陂長老は無惨に失敗した。

風穴和尚の一棒一喝は、電光石火に間髪を入れず自然に飛び出した。

本来の自己(真の自己=脳)の大機大用は朝から晩まで寝る、起きる、

泣く、笑う、しゃべるとハッキリ盤上の玉のように左転右転し、自由自在に動いている。

それが鉄牛之機なのだ。

しかし、眉毛を動かし、ハテナと首を傾げたりするとすれ違ってしまう。


解釈とコメント


本則を解釈する上でのキーポイントは風穴の上堂説法の言葉

その心印を押して取り去らず、また印を置いたままにもしない場合を考えた時

心印を押して、その印形をハッキリ取るのが良いのか

あるいはそのままそこに置いて印形を取らないのが良いのか

両者の内どちらが禅にかなうのだろうか?」

をどのように解釈するかにある。

大森曹玄老師は著書「碧巌録」の中で、

風穴の上堂説法の言葉を次のように解釈しておられる。

1.

心印を押して取り去るとは心印を押して、取り去れば印形の文字がはっきり写って残る。

この場合には、心印を押して取り去ると雀はチュウチュウ、烏はカアカアと万物が

心に写されてあるがままに在る」。

大森曹玄老師はこれは「差別と肯定の世界」のことだとされている。

2.

心印を押しても、その心印をそのままそこに置いた場合、心印を持ち上げない限り、

紙に印形がはっきり印刷されているかどうか分からない

大森曹玄老師はこれは「平等一如の世界」であるとされる。

大森老師の解釈を脳科学的に解釈すると、

の心印を押して取り去れば印形の文字がはっきり写って残るように、

雀はチュウチュウ、烏はカアカアと万物が、心に写されて残る差別と肯定の世界とは

上層脳(大脳新皮質=理知脳)による認識の世界」だと考えることができる。

の心印を押しても、その印をそのままそこに置いた場合、

印鑑を持ち上げない限り、紙に印形がはっきり印刷されているかどうか分からない「平等一如の世界」とは

潜在意識を含む「下層脳(脳幹+大脳辺縁系)中心の無意識の世界」だと考えることができる。

このように考えると風穴の上堂説法の言葉は次のようになるだろう。

風穴禅師は、郢州(えいしゅう)の役所内で上堂して言った、

我々の本来の面目は心印と言っても良い

その心印は鉄牛の働きに似ている

その心印を押して、その印を取り去れば印形の文字がはっきり残る

その反対に、その心印を押しても

その心印をそのまま置いたままにすれば印形がはっきり印刷されているかどうか分からない

その心印を押して取り去らず、また印を置いたままにしない場合を考えた時

心印を押して、その印形をハッキリ取る「上層脳(大脳新皮質=理知脳)の世界」が良いのか

あるいはそのままそこに置いて印形を取らない

平等一如の下層脳(脳幹+大脳辺縁系)中心の世界」が良いのか

両者の内どちらが禅の世界にかなうのだろうか?」

と問いかけていることが分かる。



このように考えると、


風穴の説法は

「禅は差別と肯定の世界である「上層脳(大脳新皮質=理知脳)」を重視すべきだろうか?、


あるいは

平等一如の世界である下層脳(脳幹と大脳辺縁系を中心とする生命情動脳)を重視すべきだろうか?」

となかなかの難問を聞いていることが分かる。

風穴は臨済宗の法系上の人である。

臨済宗の宗祖である臨済義玄は臨済録において「三玄三要」の教えを説き、

上層脳の分別智(理知)の重要性を指摘している。

「臨済録」上堂9「三玄門」を参照)。

禅では普通悟りの智慧として無分別智を説く。

しかし、臨済の「三玄三要」の教えを受け継いだ風穴は

宗祖臨済が説いた上層脳の分別智(理知)の重要性を指摘していると言えるだろう。

このように考えると、

風穴の質問

「禅では差別と肯定の世界である上層脳(理知脳)を重視すべきだろうか、

あるいは平等一如の世界である下層脳(脳幹と大脳辺縁系を中心とする生命情動脳)

を重視すべきだろうか?」

に対し我々はどう回答すればよいだろうか?

上層脳(理知脳)は西欧社会で重視され、現代の科学技術文明を生んだ。

また悟りの智慧の基礎となる下層脳は仏教や禅において伝統的に重視されてきた。

筆者は上層脳(理知)にも下層脳(情動)にも偏らない、バランスがとれた状態が良いと考えている。


「仏とは何か?」の図7.5を参照)。



30soku

 第30則 大随劫火 



示衆:

諸(もろもろ)の対待(たいだい)を絶し両頭を坐断す。

疑団を打破するに那んぞ一句を消(しょう)せん。

長安寸歩を離れず。太山(たいざん)只重さ三斤。

且(しば)らく道え甚麼の令に拠ってか敢えて恁麼(いんも)に道うや。


注:

対待(たいだい):対立概念。

諸(もろもろ)の対待(たいだい):生と死、幸と不幸、善と悪など、すべての対立概念。

坐断す:手足を労せず、坐ったまま造作なくぶち切る。

諸(もろもろ)の対待(たいだい)を絶し両頭を坐断す:生と死、幸と不幸、

などすべての対立概念を坐ったまま造作なくぶち切る。

疑団:生か死かと二途に迷うこと。

消(しょう)す: 消費する、用いる。

那んぞ一句を消(しょう)せん:どうして一句半句がいるだろうか?

疑団を打破するに那んぞ一句を消(しょう)せん:

迷いを解決するのにどうして一句半句がいるだろうか?

長安:中国の昔の首都。ここでは極楽をなぞらえている。

太山:中国、山東省中部にある名山。標高1524メートル。中国五岳の一つ。

古来信仰の対象となり、秦・漢時代から皇帝が

封禅(ほうぜん)の儀式を行った山として知られる。

一斤 :約600g。

太山只重さ三斤:軽重のような対立概念を離れると、

泰山のような山もたった三斤くらいの重さにしか感じない。

長安寸歩を離れず、太山只重さ三斤:対立概念を離れると極楽浄土は自分の脚下にあるし、

泰山のような山もたった三斤くらいの重さにしか感じない。

令:法令、道理。

且らく道え甚麼の令に拠ってか敢えて恁麼(いんも)に道うや:

それではどのような道理によってそのように言えるのだろうか?


示衆の現代語訳


生と死、幸と不幸、などすべての対立概念を坐ったまま造作なくぶち切る。

迷いを解決するのにどうして一句半句がいるだろうか?

対立概念を離れると極楽浄土は自分の脚下にあるし、

泰山のような山もたった三斤くらいの重さにしか感じない。

それではどのような道理によってそのように言えるのだろうか?


本則:

僧侶大随に問う「劫火洞然(とうねん)として大千倶に壊す、未審(いぶ)かし這箇(しゃこ)壊か不壊か?」。

随云く、「」。

僧云く、「恁麼ならば則ち他に随い去るや?」。

随云く、「他に随い去る」。

僧龍済に問う、「劫火洞然として大千倶に壊す、未審(いぶか)し這箇(しゃこ)壊か不壊か?」。

済云く、「不壊」。

僧云く、「甚んとしてか不壊なる?」。

済云く、「大千に同じきが為なり」。


注:

大随:大随法真(834〜915)。長慶大安禅師の法嗣。百丈懐海の法孫に当たる。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一→百丈懐海 →長慶大安→大隋法真

劫火:古代インドの宇宙観では宇宙は成(生成)・住(保持)・壊(壊滅)・空(無)

の四期間を周期的に繰り返し変化すると考えられた。

地球も壊(壊滅)の時期になると、大風が吹き、大洪水起こり、

太陽が七つも現れ、終末火災である劫火によって壊滅すると考えられた。

大千:三千大千世界。三千大千世界は須弥山説に基づいている。

須弥山説は古代インド人の考えに仏教的教理を加味して出来上がった世界観である。

アビダルマ仏教の世界観と三千大千世界を参照)。

洞然:世界の終末火災である劫火によって激しく燃えるさま。

這箇(しゃこ):心の本体、仏性。脳のこと。

竜済:竜済紹脩禅師。羅漢桂チン(らかんけいちん、867〜928)の法嗣。

法系:徳山宣鑑→雪峯義存→玄沙師備→羅漢桂チン→竜済紹脩 


本則の現代語訳:

大隋法真禅師にある僧が聞いた、

この世界が終りを迎える時、劫火が激しく燃えて破滅すると言われます

その終末の時、我々の心の本体は一体破壊されてしまうのでしょうか

或いは、破壊されないでしょうか?」。

大隋は言った、

破壊されてしまうよ」。

僧は聞いた、

そうなら、世界が滅亡する時一緒に滅亡するのでしょうか?」。

大隋は言った、

そうだ、世界が滅亡する時一緒に滅亡してしまうよ」。

僧は竜済紹脩禅師に聞いた、

この世界が終りを迎える時、劫火が激しく燃えて破滅すると言われます

その終末の時、我々の心の本体は一体破壊されてしまうのでしょうか

或いは、破壊されないでしょうか?」。

竜済は言った、

破壊されないよ」。

僧は云った、

どうして、破壊されないのですか?」。

竜済は言った、

大千と同じだからだ」。



壊と不壊と、他に随い去るや大千世界。

句裏了(つ)いに鈎鎖(こうさ)の機無し。

脚頭多く葛藤に礙(さ)えらる。

会か不会か、分明底(ふんみょうてい)の事(じ)、丁寧はなはだし。

知心(ちしん)は拈出(ねんしゅつ)して商量(しょうりょう)すること勿れ。

我が当行(とうぎょう)に相売買するに輸(ま)く。


注:

壊と不壊と、他に随い去るや大千世界: 世界終末の時、

我々の心の本体は一体大千世界に従って破壊されてしまう(壊)のか、

或いは、不破壊(不壊)なのかの問題について大隋と竜済は答えた。

句裏:仏祖の言句。

鈎鎖(こうさ)の機:かけひき、はからい。

句裏了いに鈎鎖(こうさ)の機無し:仏祖の言句にはかけひきやはからいはない。

脚頭多く葛藤に礙(さ)えらる: 思想にして考えれば葛藤に陥る。

句裏了ひに鈎鎖(こうさ)の機無し。脚頭多く葛藤に礙(さ)えらる:

仏祖の言句にはかけひきやはからいはない。

それを思想にして考えれば葛藤に陥る。

会か不会か、分明底の事(じ): 分かったか分からなかったはハッキリしていることだ。

会か不会か、分明底の事(じ)、丁寧はなはだし:

分かったか分からなかったはハッキリしていることだ。

大隋と竜済はあまりにも丁寧に答えている。



頌の現代語訳

世界終末の時、我々の心の本体は一体大千世界に従って破壊されてしまう(壊)のか、

或いは、不破壊(不壊)なのかの問題について大隋と竜済は答えた。

仏祖の言句にはかけひきやはからいはない。それを思想にして考えれば葛藤に陥る。

分かったか分からなかったはハッキリしていることだ。

大隋と竜済はあまりにも丁寧に答えている。


解釈とコメント


本則は碧巌録29則に似ているが違うところがある

碧巌録29則を参照)。

碧巌録29則では大隋法真禅師と僧の問答のみである。

しかし、本則では僧と竜済紹脩禅師の問答がそれに付け加わっている。

本則に出て来る僧の質問は「この世界が終りを迎える時、

我々の心の本体は一体破壊されてしまうのか、或いは、破壊されないのか?」である。

この質問を大隋法真禅師にすると、大隋は、「破壊されてしまうよ」と答える。

同じ質問を竜済紹脩禅師にすると、竜済は、「破壊されないよ」と答える。

この問題は天文学や宇宙科学など自然科学の問題であり、文学や思想が答えることができる問題ではない。

因みに、現代天文学が教える太陽系の未来と地球の滅亡のストーリー(大略)は次のようである。

今から10億〜20億年後には太陽の温度が少しずつ上がり、

地球は熱くなって生物は住めなくなる。

50億年後くらいになると、太陽はその寿命を迎え、

どんどんふくらんで赤色巨星になり地球上の生物も高温のため滅亡する。

太陽は最終的にはその核が白色矮星になると考えられている。

太陽系の滅亡の時には太陽はその寿命を迎え、どんどんふくらんで赤色巨星になり

地球上の生物も高温のため滅亡してしまう。

この時、人類は滅亡する。人類滅亡とともに心の本体である脳も当然存在することはできない。

この考察より、「世界終末の時には心の本体は破壊されてしまう」というのが正解である。

従って、「世界終末の時には心の本体は破壊されてしまうかどうか?」に対する答えは


破壊されてしまう」と答えた大隋法真禅師が正しい。


破壊されないよ」と答えた竜済紹脩禅師は間違っていることになる。


それでは竜済紹脩禅師は何故間違ったのだろうか?

竜済紹脩禅師は心の本体が破壊されない理由として、

大千と同じだからだ」と答えている。

しかし、心の本体である脳の主たる成分はタンパク質である。

生体高分子であるタンパク質は熱に弱い。

太陽系が滅亡する時、高温のため脳も分解し、心の作用は停止してしまう。

竜済紹脩禅師は心の本体が破壊されないのは

三千大千世界(=宇宙)と同じだから破壊されないと考えていた。

彼には脳機能や生体高分子(タンパク質)に関する知識がなかった。

そのため間違った見解を持っていたのである。 

我々の心の本体は何か?」という問題に対し、文学や思想は明確に答えることはできない。

そのような問題に対しては科学的(特に脳科学的)な知識がないと答えることができない。

9〜10世紀の中国に生きた大隋や竜済にこのような問題に答える知識があったとは考えられない。

本則のような問題提起「世界終末の時に我々の心の本体は破壊されるかどうか?」

は大げさで漠然としている。 

我々が死に臨んだ時に我々の心の本体は破壊されるかどうか?」

について議論すべきであろう。

本則は禅や仏法において、

合理的(科学的)知見に基づく正しい見解(正見)がいかに大切であるか

を示している。



31soku

 第31則  雲門露柱  



示衆:

向上の一機、鶴霄漢(しょうかん)に沖(ひい)る。

当陽の一路、鷂(はやぶさ)新羅を過ぐ。

直饒(たと)い眼、流星に似たるも、未だ口扁擔(へんだん)の如くなるを免れず。

且(しばら)く道(い)え是れ何の宗旨ぞ。


注:

向上の一機:向上のはたらき。真の事実。

霄漢(しょうかん):天空。

沖(ひい)る:高く飛びのぼる。

当陽の一路:南向きの一路。勢いのよいことのたとえ。

向上の一機、鶴霄漢(しょうかん)に沖(ひい)る。当陽の一路、鷂新羅を過ぐ:

向上のはたらきは鶴が天空に高く飛翔するようなものだ。

その勢いは隼が新羅を飛びすぎるようだ。

口扁擔(へんだん)の如くなる:口がへの字のようになる。

直饒ひ眼流星に似たるも、未だ口扁擔(へんだん)の如くなるを免れず:

たとい究極の真理は眼を流星のように早く動かして見ても、

ハッキリ見えないので口がへの字になって何も言えなくならざるを得ない。

しかし、力量のある師家はそれを自由自在に説くことができる

且く道え是れ何の宗旨ぞ:さてそのような宗旨は何という宗旨だろうか?


示衆の現代語訳


向上のはたらきを示す真の事実は鶴が天空に高く飛翔するようなものだ。

その勢いたるや隼が新羅を飛びすぎるようだ。

その古仏の境涯は眼を流星のように早く動かして見てもハッキリ見えないので

口がへの字になって何も言えなくなってしまう。

しかし、力量のある師家はそれを自由自在に説くことができる。

さてそのような宗旨は何という宗旨だろうか?


本則:

雲門垂語して云く、「古仏と露柱と相交わる。是れ第幾機ぞ」。

衆無語。

自ら代って云く、「南山に雲を起こし、北山に雨下る」。


注:

雲門:雲門文偃禅師(864〜949)。雲門宗の開祖。

法系:六祖慧能→ 青原行思→石頭希遷 →天皇道悟→龍潭崇信→

徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃

古仏:真の自己の心の働き(下層脳中心の悟りの心=無分別智)。真の自己。

露柱:万法の代表。客体。ここでは無心・無我の心をなぞらえている。

これ第幾機ぞ:その交わりはどういう次元での仏の働きか?


本則の現代語訳:


ある時、雲門文偃禅師は、門下の修行僧達に言った、

私達の心の働きにおいて主観と客観は相交わる

その交わりはどういう次元での心の働きだろうか?」。

誰も答える者がいなかったので、雲門自らが代わって言った、

南山に雲が出たと思ったら、北の山に雨が降り出した」。



一道の神光、初めより覆蔵(ふくぞう)せず。

見縁を超ゆるや是にして是なし、情量を出ずるや当たって当たることなし。

巌華の粉たるや蜂房蜜を成し、野草の慈たるや麝臍香(じゃせいこう)を作す。

随類(ずいるい)三尺、一丈六、明明として触処露堂堂。


注:

一道の神光:本来の面目(=真の自己)。自己の光明。

初めより覆蔵せず:初めから隠していない。

見縁:凡見。見るもの(能見)と見られるもの(所見)の対立を考えること。

情量:凡情。自分勝手に、好き嫌い、良い悪いと思うこと。

見縁を超ゆるや是にして是なし:凡見を超えればどこにも不是(悪いこと)はない。

是非にこだわることはない。

情量を出ずるや当たって当たることなし:凡情を捨てればすべてが当たり、

外れる心配はない。すべてが当たるので当たると断る必要もない。

当たる当たらんの問題ではない。

巌華の粉:断崖絶壁の巌の間に咲き誇る美しい花の群れ。

蜂房蜜を成す:蜜蜂が蜜を集めて来る。

麝(じゃ):麝香鹿(じゃこうじか)。

下腹部にある包皮腺から発散する香りは

ムスクといわれ香水などに古くから使われている。

野草の慈たるや麝臍(じゃせい)香を作す:栄養の豊かな野草を食べて

麝香鹿は香気を出している。

随類衆生の種類に従って、

三尺、一丈六:仏は三尺の童子ともなり、一丈六尺の仏ともなる。

明明として触処露堂堂:明明歴々として触処触処に現成し、初めから露堂堂と現れている。


頌の現代語訳:


本来の面目(=真の自己)は初めから隠れていない。

凡見を超えればどこにも是の非のという余地はないし、

凡情を捨てればすべてが当たり、外れる心配はない。

断崖絶壁の巌の間に咲き誇る美しい花の群れから蜜蜂が蜜を集めて来る。

栄養豊かな野草を食べて麝臍鹿は麝香腺から香気を出している。 

衆生の種類に従って、仏は三尺の童子ともなり、一丈六尺ともなって現れる。

本来の面目(=真の自己)は明明歴々として触処触処に現成し、

初めから露堂堂と現れているのだ。


解釈とコメント


本則は碧巌録83則と殆ど同じである

碧巌録83則を参照)。


32soku

 第32則  仰山心境   



示衆:

海は竜の世界、隠顯優游(おんけんゆうゆう)。

天は是れ鶴の家郷、飛鳴自在。

甚んとしてか困魚(こんぎょ)は櫟(れき)に止まり、鈍鳥は盧(ろ)に棲(す)む。

還って利害を計る処ありや。


注:

竜:仏道を体得した人を竜になぞらえている。

鶴:仏道を体得した人を鶴になぞらえている。

隠顯優游(おんけんゆうゆう):水の中に潜んだり、

水から出て天に昇る竜のように仏道を体得した人の自由無碍な生活ぶりのこと。

困魚:小魚。

櫟(れき):水たまりのような小さな池。

盧:アシ。


示衆の現代語訳


海は竜の住む世界だ。竜が水の中に潜んだり、水から出て天に昇るように、

仏道を体得した人は自由無碍に生きることができる。

天は鶴の世界だ。鶴は天空高く自在に飛んだり鳴いたりするように、

仏道を体得した人は自由無碍に生きることができる。

小魚は水たまりのような小さな池に住むし、鈍鳥は不自由なアシの茂みに住む。

さてその利害得失はどうだろうか。


本則:

仰山僧に問う、

甚れの処の人ぞ?」。

僧云く、

幽州人」。

山云く、

汝彼の中を思うや?」。

僧云く、

常に思う」。

山云く、

能思は是れ心、所思は是れ境。彼の中には山河大地楼台殿閣人畜等の物あり

思底の心を反思せよ。還って許多般(こたはん)ありや?」。

僧云く、

某甲這裏に到って総に有ることを見ず」。

山云く、

信位は即ち是、人位は未だ是ならず」。

僧云く、「和尚別に指示すること莫しやまた否や?」。

山云く、

別に有り別に無しというは即ち中らず、汝が見処に拠らば只一玄を得たり

得坐披衣向後自ずから見よ」。


注:

仰山:仰山慧寂(807〜883)。イ山霊祐(いさんれいゆう)禅師(771〜853)

の法嗣でイ山霊祐(いさんれいゆう)とともにイ仰宗の開祖とされる。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一→百丈懐海→イ山霊祐→仰山慧寂  

許多般(こたはん)ありや:どんなものがあるか?。

這裏(しゃり):ここ。本来の面目(=真の自己)

信位:見性の境地。

人位:大活現成。見性の境地を実生活に活かすこと。

一玄:玄玄微妙な仏道の一片。本来無一物の端的。

得坐:坐ること。

披衣:着物を着ること。

 
   
   

本則の現代語訳:

僧に仰山が聞いた、

お前さんはどこの人か?」。

僧は云った、

幽州の出身です」。

仰山は云った、

お前さんは故郷幽州のことを思うか?」。

僧は云った、

いつも思っています」。

仰山は云った、

思う主観は心で、思われるのは客観である

客観には山河大地楼台殿閣人畜等の物がある

そのように思う主観としての心についてはどうなのか?」。

僧は云った、

私はここに到って一向に何にも見ません」。

仰山は云った、

見性の方はしたようだが、それを実生活に活かすことでは未だ不十分だ」。

僧は云った、

和尚さん、それなら何か別に指導していただけますか

それともその余地はございませんか?」。

仰山は云った、

指導の方法が別に有ると言っても当たらんし

別に無いと言っても当たらんよ

お前さんの今の見処ではただ一玄を得たに過ぎない

坐るとは何か着物を着るとは何かと

今後油断なく修行を続けて自分ではっきり見届けなければならないよ」。




外(はず)るること無うして容(い)れ、礙(さ)ゆること無うして沖(あた)る。 

門牆岸岸(もんしょうがんがん)、関鎖重重(かんさじゅうじゅう)。

酒常に酣(たけなわ)にして客を伏せしめ、飯は飽くと雖も農を頽(たお)す。

虚空に突出して、風、妙翅(みょうじ)を搏(はうた)しめ、

滄海(そうかい)を踏翻(とうほん)して、雷、游龍(ゆうりゅう)を送る。


注:

外るること無うして容れ:主客が対立すること無くて受け入れ。

沖(あた)る:高く自由に飛ぶ。

外るること無うして容れ、礙(さ)ゆること無うして沖(あた)る:

主客が対立すること無くて受け入れ、妨げるもの無く高く自由に飛ぶ。

この句は人境不二の境地を詠っているとされている。

人境不二について参照)。

門牆(もんしょう):家の門。

門牆岸岸、関鎖重重:お互いに門牆を設け、

それを閉鎖して他を入れないようにするから主客が対立することになる。

外るること無うして容れ、礙(さ)ゆること無うして沖(あた)る。門牆岸岸、関鎖重重:

主客が対立すること無くて受け入れ、

妨げるものが無ければ人境不二の境地に至って高く自由に飛ぶことができる。

しかし、お互いに門牆を設け、

それを閉鎖して他を入れないようにするから主客が対立することになるのだ。

酒常に酣(たけなわ)にして:いつも酒を充分に飲んで楽しく。

酒常に酣(たけなわ)にして客を伏せしめ、飯は飽くと雖も農を頽(たお)す:

いつも酒を充分に飲んで楽しみ、

お客さんを寝かせてしまうと一番良い。

しかし、自分だけがご飯を腹いっぱい食べて農家が食べることができないと、

農家も身代限りになって共倒れになる。

妙翅(みょうじ):金翅鳥の翼。金翅鳥(ガルーダ)は、

インド神話に登場する炎の様に光り輝き熱を発する巨大な神鳥。


図ガルーダ

図 金翅鳥(ガルーダ)


「ナーガ」(蛇神)や龍を食するため蛇の毒から守ってくれる聖なる鳥とされている。

虚空に突出して、風、妙翅を搏(はうた)しめ、滄海を踏翻(とうほん)して、雷、游龍を送る:

金翅鳥は空高く飛び上がり、大海をひっくりかえす。

竜は雲を呼び雷を起こして、空を自由に駆け巡る。

そのように一切の束縛をぶち破り解脱した人は自由無碍である。


頌の現代語訳:


主客が対立すること無くて受け入れ、妨げるもの無く高く自由に飛ぶように、

主客の対立を超えている。

主客の対立が無く、妨げるものが無ければ

人境不二の境地に至って高く自由に飛ぶことができる。

しかし、お互いに門牆を設け、

それを閉鎖して他を入れないようにするから主客が対立することになるのだ。

いつも酒を充分に飲んで楽しみ、お客さんを寝かせてしまうと一番良い。

しかし、自分だけがご飯を腹いっぱい食べて

農家が食べることができないと、農家も身代限りになって共倒れになる。

金翅鳥は空高く飛び上がり、大海をひっくり返す。

竜は雲を呼び雷を起こして、空を自由に駆け巡る。

そのように一切の束縛を離れ、解脱した人は自由無碍である。


解釈とコメント


本則は仰山と僧の問答である。

仰山は僧に、「お前さんはどこの人か?」と聞く。

禅問答で「どこの人か?」とか「何処からきたか?」と聞かれた時には、

場所を聞かれているのではなく、借事問である場合が多い

借事問については無門関15則を参照)。

仰山のこの問いにたいし、僧は、「幽州の出身です」と云う。

僧は仰山の問が借事問であることに気づかず素直に出身地を答えてしまっている。

仰山は更に、「お前さんは故郷幽州のことを思うか?」と聞く。

この問いで「故郷」が出ている。

禅問答では故郷とか家郷という言葉は本来の面目(=真の自己)を指すことが多い。


「臨済録」上堂8を参照)。

僧は、「いつも思っています」と答える。

この僧の答えは悪くない。

いつも「本来の面目」について考え思っているならばである。

しかし、この僧が「本来の面目」について常に、考え思っているかどうかはっきりしない。

そこで仰山は更に次の質問を発して僧に探りを入れる。

仰山は、「思う主観は心で、思われるのは客観である

客観には山河大地楼台殿閣人畜等の物がある

そのように思う主観としての心についてはどうなのか?」と質問する。

この探りの質問に対し、僧は「私はここに到って一向何にも見ません」と答える。

この答えは僧が「本来無一物の悟りの境地」にいると言っていると見ることができるだろう。

そこで仰山は、

見性の方はしたようだが、それを実生活に活かすことでは未だ不十分だ」と云う。

仰山は僧の見性(本来の面目の悟り)を認めたが、

それだけでは不十分でそれを実生活に活かさないと駄目だと云う。

そこで僧は、「和尚さん、それなら何か別に指導していただけますか

それともその余地はございませんか」と云う。

これに対し、仰山は、「指導の方法が別に有ると言っても当たらんし

別に無いと言っても当たらんよ

お前さんの今の見処ではただ一玄を得たに過ぎない

坐るとは何か着物を着るとは何かと

今後油断なく修行を続けて自分ではっきり見届けなければならないよ

と答える。

仰山は僧が「本来の面目」に対する悟り(=見性)をしていることは認める。

「しかし、その見性は「ただ一玄を得たような浅い悟りに過ぎない」。

それではまだ不十分だと言って、

今後とも、「油断なく修行を続けて悟りを深めるように指導していることが分かる。


本則は碧巌録34則と似たところがある。


碧巌録34則を参照)。



33soku

 第33則  三聖金鱗   



示衆:

強に逢うては即ち弱、柔に遇うては即ち剛。

両硬相撃(りょうこうあいう)てば必ず一傷有り。

且らく道え如何が廻互(えご)し去らん。


注:

強に逢うては即ち弱、柔に遇うては即ち剛。両硬相撃(あいう)てば必ず一傷有り:

相手が強く出ると、

柳に風と弱く受け流し、相手が弱くでると剛く出て虚虚実実の法戦をする。

両硬相撃てば必ず一傷有り:両方が硬いと、ぶつかったら必ずどちらかが壊れ傷つく。

柔に剛だと誰も傷つかず法戦は円成する。

廻互(えご):宛転。人境相応じて行くこと。

且らく道え如何が廻互し去らん:それではどうしたら両方が無傷で

法戦は円成し互いに宛転することができるだろうか。


示衆の現代語訳


相手が強く出ると柳に風と弱く受け流し、

相手が弱くでると剛く出ることで虚虚実実の法戦をする。

両方が硬いと、ぶつかったら必ずどちらかが壊れ傷つく。

柔に剛だと誰も傷つかず法戦は円成する。

それではどうしたら両方が無傷で法戦は円成し互いに廻互することができるだろうか。

本則:

三聖雪峰に問う、「網を透る金鱗、未審し、何を以ってか食と為す」。

峰云く、「汝が網を出来たらんことを待って汝に向かって道わん」。

聖云く、「一千五百人の善知識話頭も也た識らず」。

峰云く、「老僧住持事繁し」。


注:

三聖:三聖慧然、臨済義玄の高弟。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →百丈懐海→黄檗希運→臨済義玄 →三聖慧然、     

雪峰:雪峰義存禅師(822〜908)。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存       

金鱗:大きい魚。

網:迷悟凡聖の羅網。

網を透る金鱗:どんな網にもかからぬすばらしい魚。悟りを越えた自由自在な人。

一千五百人の善知識、話頭もまた識らず:

1500人もの修行僧を指導する大宗匠(雪峯義存)が問答の仕方もご存じない。

当時雪峯義存がいた雪峰山には1500人もの修行僧が集まっていたという。

老僧住持、事繁し:私は寺の仕事が忙しいので、これで失礼。

 

本則の現代語訳:

三聖慧然が雪峰に聞いた、

悟りを越えた自由自在な人は毎日をどのように過したら良いでしょうか?」。

雪峰は云った、

まず網を抜け出で来なさい。そうしたら、お前さんに言おうよ」。

三聖は云った、

1500人もの修行僧を指導する大宗匠が問答の仕方もご存じないとは驚きだ」。

雪峰は云った、

わしは寺の仕事が忙しい。これで失礼するよ」。

 
   


浪級(ろうきゅう)初めて昇る時雲雷(うんでん)相送る。

騰躍(とうやく)稜稜(りょうりょう)として大用(たいよう)を見る。

尾を焼いて分明(ふんみょう)に禹門(うもん)を度る。

華鱗(かりん)未だ肯(あえ)て韲甕(さいよう)に淹(えん)せられず。

老成の人、衆を驚かさず。

大敵に臨むに慣れて初めより恐れることなし。

泛泛(へんぺん)として端に五両の軽きが如く、

堆堆(たいたい)として何ぞ啻(ただ)に千鈞の重きのみならんや。

高名四海復た誰か同じからん。

介(ひと)り立って八風吹けども動ぜず。


注:

浪級:禹門三級の浪。これは次のような中国の故事に基づいている。

昔、禹は堯と舜の二帝に仕え、黄河の治水事業で大業績を挙げた。

禹は山を切り開いて水を落とす禹門という所を作った。

禹門では三段の滝になっている。

鯉が禹門の三段の滝を登り切る時、たちまち竜となって昇天するという。

そのため禹門の三段の滝を登竜門という。

浪級初めて昇る時雲雷相送る:鯉が禹門の滝を竜となって昇天する時、

雲を呼び雷を起こして送るという意味。

三聖が網を透る金鱗となって勢いよく出てきたところは

あたかも鯉が禹門の滝を竜となって昇天するようなものだと詠っている。

稜稜:勢いのよいありさま。

大用:大機大用。すばらしいはたらき。

騰躍稜稜として大用を見る:勢いよくとびはねるありさまに

すばらしいはたらきをみることができる。

尾を焼く:鯉が禹門の滝を竜となって昇天する時、

雷火によって鯉の尾を焼くと言われている。

尾を焼いて分明に禹門を度る:鯉が竜となって昇天する時、

雷火によって尾を焼いて禹門の滝を渡る。

華鱗(かりん):立派な魚(三聖のこと)。

韲甕(さいよう):塩漬けの甕。

淹(えん):蓄えること。

華鱗(かりん)未だ肯(あえ)て韲甕(さいよう)に淹(えん)せられず:三聖は立派な魚で

ピンピンはねて塩漬けの甕になぞ漬けられない。

老成の人:千軍万馬を経てきた老将軍のように円熟した人である雪峰義存。

老成の人、衆を驚かさず:円熟老成した雪峰は大衆を驚かすような派手なことはしない。

大敵に臨むに慣れて初めより恐るることなし:千軍万馬を経てきた

老将軍雪峰は大敵にも慣れているので三聖のような強者が来ても初めから恐れることはない。

泛泛(へんぺん)として:ひらりひらりと。

五両:風の方向を見る旗。

堆堆(たいたい)として:高く積み上げたかたちのこと。

千鈞の重き:18トンの重量。1鈞=約18kg。

泛泛(へんぺん)として端に五両の軽きが如く、堆堆(たいたい)として何ぞ啻(ただ)に千鈞の重きのみならんや:

雪峰は旗のように、ひらりひらりとこだわりなく風にまかせて揺れ動くとともに、

どっしりとして不動の重みがある。

高名四海復た誰か同じからん:雪峰の名声は四海に高く誰も追随できない。

介(ひと)り立って:独立して。

八風:利、衰、毀、誉,称、譏、苦、楽、の八つの風。

介(ひと)り立って八風吹けども動ぜず:独立して無依なので、

八風が吹いても微動だにしない。


頌の現代語訳


鯉が禹門の滝を竜となって昇天する時、雲を呼び雷を起こして送るといわれている。

三聖が迷悟凡聖の羅網を抜け出て金鱗となって勢いよく出てきたところは

あたかも鯉が禹門の滝を竜となって昇天するようなものだ。

勢いよくとび跳ねるありさまにすばらしい働きを見ることができる。

鯉が竜となって昇天する時、雷火によって尾を焼いて禹門の滝を渡る。

三聖は立派な魚でピンピンはねて塩漬けの甕になぞ漬けられない。

円熟老成した雪峰は大衆を驚かすような派手なことはしない。

千軍万馬の法戦を経てきた老将軍雪峰は大敵にも慣れ、

三聖のような強者が来ても初めから恐れることはない。

雪峰は旗のようにひらりひらりとこだわりなく風にまかせて動くとともに、

どっしりとして不動の重みがある。

彼の名声は四海に高く誰も追随できない。

天上天下、唯我独尊の境涯に独り立って、八風が吹いても微動だにしない。


解釈とコメント


本則は碧巌録49則と殆ど同じである。

碧巌録49則を参照)。


34soku

 第34則   風穴一塵    



示衆:

赤手空拳にして千変万化す。

是れ無を将って有と作すと雖も、奈何(いかん)せん仮を弄して真に像(かたど)ることを。

且らく道え還って基本有りや無しや。


注:

赤手空拳:仏法(禅)はもともと赤手空拳である。種子も仕掛けもないこと。

赤手空拳にして千変万化す:仏法(禅)はもともと赤手空拳で種子も仕掛けもない。

それでいて千変万化する。

是れ無を将って有と作すと雖も、奈何せん仮を弄して真に像ることを:

ある時は無をもって有とするけれども、

仮のものをいじくって真だと言っているようなところがある。

且らく道え還って基本有りや無しや:

それでは何か基本となるものが有るのだろうか? あるいは無いのだろうか?


示衆の現代語訳


仏法(禅)にはもともと赤手空拳で種子も仕掛けもない。

それでいてそこから千変万化する。

ある時は無をもって有とするけれども、

仮のものをいじくって真だと言っているようなところがある。

それでは何か基本となるしっかりしたものが有るのだろうか? あるいは無いのだろうか?


本則:

風穴垂語して云く、「若し一塵を立すれば家国興盛す。一塵を立せざれば家国喪亡す」。

雪竇柱杖を拈じて云く、「還って同死同生底の衲僧有りや?」。


注:

風穴:風穴延沼(ふけつえんしょう)禅師(896〜973)。

臨済の四代目の法孫。汝州の風穴山に居たので風穴と呼ばれた。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →

百丈懐海→黄檗希運→臨済義玄 →興化存奨→南院慧ギョウ→風穴延沼

垂語する:問題を提起する。

一塵を立する:ごくわずかのものを定立する。分別意識を生じる。

同生同死底の:運命を共にして生死を同じくするような。

雪竇:雪竇重顕(せっちょうじゅうけん、980〜1052)。

雲門宗の禅僧で、「景徳伝灯録」などから、

古来の禅者の言行録100種を抜き出し「雪竇頌古百則」を作った。

「雪竇頌古百則」をもとに碧巌録が」作られた。

碧巌録を参照)。

衲僧:禅僧。


本則の現代語訳:

ある時、風穴延沼禅師は門下の修行者に対して問題を提起して言った、

本来何もない処にチラリと一念が起これば、山あり川ありの家国が興盛する

もし、一念が起こらなければ、家国は喪亡する」。

この垂語に対し雪竇は杖を取り上げてコメントして言う、

このような境涯の者と運命を共に生死を同じくするような禅者はいるかな?」。



ハ然(はぜん)として渭水(いすい)に垂綸(すいりん)より起つ。

首陽清餓(しゅようせいが)の人に何似(いずれ)ぞ。

只一塵に在って変態を分つ。

高名勲業(こうみょうくんぎょう)両(ふた)つながら泯(みん)じ難し。


注:

ハ然(はぜん)として:白髪を形容、老人を指す。

渭水(いすい):川の名前。黄河の支流の1つ。  

垂綸(すいりん):魚釣り。

渭水に垂綸(すいりん)より起つ:渭水で魚釣りをしていた白髪の老人呂尚(太公望)に

会った文王が呂尚(太公望)を起用して周の国を興した故事を引用している。 

首陽清餓の人:首陽山で餓死した伯夷と叔斉。

首陽山にかくれてわらびの根を食べて生きていた

伯夷と叔斉はついにわらびの根を食べる

のも止めて餓死したという故事に基づいている。

首陽清餓の人に何似(いずれ)ぞ:渭水で魚釣りをしていた白髪老人の太公望と首陽山で

餓死した伯夷と叔斉とを比べてどちらが良いだろうか。 

只一塵に在って変態を分つ:太公望の功業も伯夷と叔斉の餓死も

ともに一塵(理知脳)のなせるところ、「本来の面目(=脳)」の働きからきている。

高名勲業両つながら泯じ難し:太公望の功業も伯夷と叔斉の餓死もともに立派なものだ。

どちらも無視できない。 


頌の現代語訳


白髪の老人呂尚(太公望)は渭水で魚釣りをしていた時に文王に見いだされた。

太公望と首陽山で餓死した伯夷と叔斉とを比べてどちらが立派だろうか。

太公望の功業も伯夷と叔斉の清廉もともに一塵(理知脳)のなせるところ、

本来の面目(=脳)の働きからきている。

太公望の功業も伯夷と叔斉の清廉さもともに立派なものだ。

どちらも無視したり否定はできない。


解釈とコメント


本則は碧巌録61則と殆ど同じである。

碧巌録61則を参照)。


35soku

 第35則  洛浦伏膺     



示衆:

迅機捷弁(じんきしょうべん)外道天魔を折衝す。

逸格超宗(いっかくちょうしゅう)曲げて上根利智(じょうこんりち)の為にす。

忽ち箇の一棒に打てども頭を廻らさざる底の漢に遇う時如何。


注:

迅機:すばやい働き。

捷弁:よどみない弁舌。

折衝:相手をくじき挫折させること。

逸格超宗:格式や宗派を超越していること。

曲げて上根利智の為にす:やむを得ず上根利智の者を指導教化する。

忽ち箇の一棒に打てども頭を廻らさざる底の漢に遇う時如何:

一棒を打ってもビクともしないような人物が

出てきた時どのようにすれば良いだろうか。


示衆の現代語訳


禅者のすばやい働きとよどみない弁舌は外道天魔をくじくことができる。

やむを得ず格式や宗派を超えて上根利智の者を指導教化する。

一棒を打ってもビクともしないような人物が出てきた時どのようにすれば良いだろうか。


本則:

洛浦夾山に参ず。礼拝せずして面に当って立つ。

山云く、「鶏鳳巣に棲む、其の同類に非ず出で去れ」。

浦云く、「遠きより風(ふう)にハシ(はし)る、乞う師一接」。

山云く、「目前に闍梨無く此間に老僧無し」。

浦便ち喝す。

山云く、「住(や)みね住(や)みね。且らく草草怱怱たること莫れ

雲月是れ同じく溪山各異なり。天下人の舌頭を裁断することは即ち無きにあらず

争か無舌人をして解語せしめん」。

浦無語。山便ち打つ。浦此より伏膺(ふくよう)す。


注:

洛浦(らくほ):洛浦元安(?〜898)。長い間臨済義玄の侍者をつとめた。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→船子徳誠→夾山善会 →洛浦元安  

夾山(かっさん):夾山善会(かっさんぜんね、805〜881)。曹洞禅の法系上の禅師。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→船子徳誠→夾山善会   

遠きより風(ふう)にハシ(はし)る:老師のご高名を聞いて遠くからきました。

乞う師一接:一度接得をお願いします。

闍梨:阿闍梨。僧に対する敬語。

草草怱怱たる:ウカウカする。

無舌人:人がしゃべる時、舌が動いてしゃべるので舌がしゃべっているように見える。

しかし、しゃべっているのは本来の面目である脳であり舌ではない。

これを無舌人と言っている。

伏膺(ふくよう):服膺に同じ。身に体して忘れないこと。


本則の現代語訳:

洛浦は夾山善会のところにやって来て、夾山に礼拝しないで面前に立った。

夾山は云った、

お前さんはまだ鶏の分際で鳳凰の巣に棲んで、その同類と思っているようだ

しかし、わしはお前さんを鳳凰の仲間だと思わない。さっさと帰りなさい」。

洛浦は云った、

老師のご高名を聞いて遠くからきました

どうか、一つご指導をお願いいたします」。

夾山は云った、

わしの目前にはお前さんというものはなく、こちらには私というものもないよ」。

洛浦は「カアーツ」と一喝した。

夾山は云った、

よせ、よせ。そんな一枚悟りでウカウカしてはだめだ

お前さんは雲月は同じだという平等の世界は見えたかも知れんが

溪山はそれぞれ異なるという差別の世界はまだよく見えていない

それでは天下の人をグウの音もでないようにすることはできん

そんなことでどうして無舌人であると言えようか」。

洛浦は黙った。

夾山は棒で打った。

洛浦はこの時から夾山に敬服し師事した。



頭を揺(うご)かし尾をふるう赤梢(せきしょう)の鱗。

徹底(てってい)無依転身(むえてんしん)を解す。

舌頭を裁断(さいだん)して饒(たと)い術有るも、

鼻孔(びくう)を曳廻(えいかい)して妙に神に通ぜしむ。

夜明簾外(やめいれんがい)風月昼の如し。

枯木巌前(こぼくがんぜん)花卉(かき)常に春なり。

無舌人(むぜつにん)。無舌人(むぜつにん)。

正令(しょうれい)全提(ぜんてい)一句親し。

寰中(かんちゅう)に独歩して明了了(めいりょうりょう)。

さもあらばあれ天下楽しんで欣欣(きんきん)たることを。 


注:

赤梢の鱗:赤い尾の魚。曾って洛浦が臨済の所から辞去する時、

臨済は「臨済門下にこの赤梢の鯉魚あり、頭を揺らし、尾を振るって南方に向かって去る

と言ったと言われる。

これより、赤梢の鱗は洛浦を指している。

頭を揺かし尾をふるう赤梢の鱗:頭を揺らし尾を振る赤尾の鯉のような洛浦  

無依(むえ):何物にも依存しないこと。

無依転身(むえてんしん):迷いも、悟りも持たず頼らず必要に応じて転身自由であること。

徹底無依転身を解す:赤梢の鱗である洛浦は迷悟を超えて、

何物にも依存せず転身自由であることが分かっている。

夜明:迷・悟、凡・聖、是・非、得・失などの迷いや対立概念や迷いが全く無くなったこと。 

夜明簾外:月夜の晩に下がっている簾の外。

風月昼の如し:夜だから家の中は真暗だが月夜だから

外は月夜のため風月は昼のように明るい。

外は月夜のため風月は昼のように明るいとは、心の中は迷・悟、凡・聖、是・非、得・失などの

迷いと妄想で真暗だったが、

今はそのような妄想も解決されて無くなり心は昼のように明るいということ。

夜明簾外風月昼の如し:心の中は迷・悟、凡・聖、是・非、得・失などの迷いで、

真暗だったが今はそのような妄想も月夜のように無くなり心は昼のように明るい。

枯木巌:すべての分別意識が枯れ木のように枯れはてたこと。

枯木巌前花卉常に春なり:すべての分別意識が枯れはて草木に花が咲き常に春のようだ。

坐禅修行によって上層脳(理知脳)の働きが沈静化し、下層脳が活性化して、

草木に花が咲き常に春のように安楽だ。

無舌人:人がしゃべる時、舌が動いてしゃべるので舌がしゃべっているように見える。

しかし、しゃべっているのは本来の面目である脳(運動性言語野)であり舌ではない。

これを無舌人と言っている。無舌人に関連する公案が無門関20則にある。

「無門関」20則を参照)。

正令全提:仏法の真理正令を全体提示すること。

無舌人。無舌人。正令全提一句親し:しゃべっているのは無舌人(本来の面目=脳)である

という仏法の真理・正令を親しく理解し全体提示する。 

寰中(かんちゅう):天子が直轄支配する畿内。ここでは真の自己を天子になぞらえている。

寰中に独歩して明了了:乾坤大地が自己の全身だと分かり、明了了と独歩する。

さもあらばあれ天下楽しんで欣欣たることを:曾っての洛浦のように、

天下の人々は中途半端な悟りで欣欣と楽しんでいるが、

さもあればあれだ。わしのところではそんなものに用はない。そんなものが何になるだろうか。 


頌の現代語訳:


頭を揺らし尾を振る赤尾の鯉のような洛浦は迷悟を超えて

何物にも依存せず転身自由であることが分かっている。

かって心の中は迷・悟、凡・聖、是・非、得・失などの迷いで真暗だったが今はそのような妄想も

月夜のように無くなり心は昼のように明るい。

すべての分別意識は枯れはて草木に花が咲き心は常に春のようだ。

しゃべっているのは無舌人(本来の面目=脳)であるという

仏法の真理・正令を親しく理解し全体提示する。

乾坤大地が自己の全身だと分かり、明了了と独歩する。

曾っての洛浦のように、天下の人々は中途半端な悟りで欣欣と楽しんでいるが、

さもあればあれだ。

夾山老師のところではそんな悟りに用はない。そんなものが何になるだろうか。


解釈とコメント


本則は碧巌録にも「無門関」にも見えない。従容録独自の公案と言える。

安谷白雲老師は禅の心髄「従容録」において、

夾山と洛浦、眼は同じく開いていたいたであろうけれど、明暗の差が非常にある

二人の力量がちがう。洛浦はあらけずりの仏法は手に入れていても、綿密の仏法を欠いていた

それが夾山に逢って玉成した」と評しておられる。

この評価は、

「臨済のところではあらけずりだったが、曹洞禅(夾山の禅)の綿密な仏法に逢って玉成した。」

と解釈することができる。

安谷白雲老師は曹洞宗の禅師であるから、

曹洞禅から見た臨済の禅の批評のようにも思われる。

読者はこの評価をどう考えられるだろうか?

洛浦元安は長い間臨済義玄に師事しその侍者をつとめた人である。

しかし、本則に見るように、夾山善会に会って、

自分の境地の未熟さに気づき夾山に師事し、その法嗣となった。

この例に見るように、この時代は臨済禅と曹洞禅の間の垣根は低く、

臨済禅と、曹洞禅の交流は盛んであったことが分かる。


36soku

 第36則  馬師不安   



示衆:

心意識を離れて参ずるも這箇(しゃこ)の在るあり。

凡聖(ぼんしょう)の路を出でて学するも已に太高生(たいこうせい)。

紅炉(こうろ)併出(へいしゅつ)す鉄シツリ。舌剣(ぜっけん)唇槍(しんそう)口を下し難し。

鋒鋩(ほうぼう)を犯さず試みに乞う、挙す看よ。


注:

心意識:分別意識(上層脳=理知脳の働き)。

這箇(しゃこ):本来の面目(=真の自己)。

心意識を離れて参ずるも這箇の在るあり:上層脳(=理知脳の働き)を離れて、

本来の面目(=真の自己)は存在する。

本来の面目(=真の自己)は下層脳中心の脳の働きであることを言っている。

太高生(たいこうせい):高尚。

凡聖の路を出でて学するも已に太高生:凡聖の路を超えてはじめて高尚と言える。

紅炉:溶鉱炉。

併出:飛び出すこと。

鉄シツリ:実に三角の棘があるハマビシ。その型を鉄で作り戦争に用いる。


図ハマビシ

図 実に三角の棘があるハマビシ


敵の通路にまき散らしておいて敵の進攻を防ぐ。

紅炉併出す鉄シツリ:溶鉱炉から取り出したばかりの

真っ赤になった鉄菱のように分別妄想の敵を寄せ付けない。

舌剣唇槍:鋭い言句。

口を下し難し:一句も言わせない。

舌剣唇槍口を下し難し:たとえ剣槍のような鋭い言句であっても一句も言わせない。

鋒鋩を犯さず:互いに傷つかずに。

鋒鋩を犯さず試みに乞う、挙す看よ:互いに傷つかないように、に以下の例を参究しなさい。


示衆の現代語訳


上層脳(=理知脳の働き)を離れて、本来の面目(=真の自己)は存在する。

凡聖の路を超えてはじめて高尚と言える。

溶鉱炉から取り出したばかりの真っ赤になった鉄菱のように分別妄想の敵を寄せ付けない。

たとえ剣槍のような鋭い言句であっても一句も言わせない。

試みに挙げるから互いに傷つかずに以下の例を参究しなさい。

本則:

馬大師安らかならず、院主問う、「和尚、近日、尊位如何?」。

 大師云く、「日面仏(にちめんぶつ)、月面仏(がちめんぶつ)」。


注:

馬大師:馬祖道一(709〜786)。

中国禅の実質的な大成者。馬祖の禅は洪州宗と呼ばれる。

馬祖の禅思想を参照)。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一   

安らかならず:病気になった。

院主:寺の執事、事務長。

尊位如何:ご機嫌いかがですか?

日面仏(にちめんぶつ)、月面仏(がちめんぶつ) :

日面仏、月面仏は『三千仏名経』に出ている仏の名前で、

「日面仏」は1800歳の長寿の仏、「月面仏」は一日一夜の短命の仏である。


本則の現代語訳:

馬祖道一禅師の晩年のことである。禅師の病は篤く、もはや臨終も時間の問題だった。

その時、院主は師に聞いた、

和尚さん、お加減は如何でございますか?」。

馬祖大師は云った、

日面仏(にちめんぶつ)、月面仏(がちめんぶつ)」。



日面月面、星流れ電巻く。

鏡は像に対して私無く、珠は盤に在りて自ら転ず。

君見ずや ?鎚(ちんつい)の前百練の金。

刀尺の下一機の絹。


注:

日面月面、星流れ電巻く:馬祖が云った「日面仏、月面仏

の言葉の働きはあたかも流星や電撃のように、我々の心に響いてくる。

鏡は像に対して私無く:鏡は像に対して無心で正直に写す。

珠は盤に在りて自ら転ず:珠は真ん丸で平らな台上で自由自在に転がる。

鏡は像に対して私無く、珠は盤に在りて自ら転ず:鏡は像に対して無心で正直に写すし、

丸い珠は平らな台上で自由自在に転がる。

そのように、馬祖は病気になりきってそれを自然に受け止めて寝ている。

チン鎚(ちんつい):鉗鎚。ヤットコとカナズチ。

刀尺:裁縫に用いるはさみとものさし。

一機の絹:一つの絹織物。

百練の金:何度も繰り返し錬り鍛えた金。

チン鎚(ちんつい) の前百練の金:ヤットコとカナズチの前の百練の金。

金製品の材料としての百練の金と道具であるチン鎚。

刀尺の下一機の絹:裁縫に用いる刀尺と絹織物。  

君見ずやチン鎚(ちんつい) の前百練の金刀尺の下一機の絹:

あなたには見えるだろうか。黄金の仏を作るための百練の金とチン鎚が。

素晴らしい絹の着物を作るための刀尺と絹の反物が。

それらの材料と道具を使って日面仏や月面仏を作ることができるし、

刀尺と絹の反物から素晴らしい絹の着物を作ることもできる。

ここで、材料となる百練の金と絹の反物は「衆生本来仏

としての我々自身だと考えることができる。

道具としてのチン鎚や刀尺は参禅修行をなぞらえていると考えられる。

どのような黄金仏をつくるか、自分に合った

どのような素晴らしい着物を作るかはあなた次第だと詠っている。


頌の現代語訳:


馬祖が云った「日面仏、月面仏」という言葉は

あたかも流星や電撃のように、我々の心に響いてくる。

鏡は像を無心で正直に写すし、丸い珠は平らな台上で自由自在に転がる。

そのように、馬祖は病気になりきってそれを無心に受け止めて寝ている。

彼にとって、「月面仏」のようには一日一夜の短命で終わるか、

日面仏」のように1800歳の長寿の仏であるかは問題ではない。

仏は1つではなく色んな仏がいるのだ。

百練の純金とチン鎚、裁縫に用いる刀尺と絹織物が君に見えるだろうか。

それらを用いて

どんな素晴らしい仏になるかどんな着物を作るかはあなた次第だ


解釈とコメント


本則は碧巌録3則と同じである(碧巌録3則を参照)。


37soku

 第37則 イ山業識   



示衆:

耕夫の牛を駆(か)って鼻孔(びくう)を曳廻(えいかい)し、

飢人(きにん)の食(じき)を奪って咽喉(いんこう)を把定(はじょう)す。

還って毒手を下し得る者ありや。


注:

鼻孔を曳廻(えいかい):鼻づらをぐっとこちらに曳き回すこと。

咽喉(いんこう)を把定(はじょう)す:のどを締めつける。

毒手を下す:厳しい教育をする。思い切ってスパルタ教育をする。

還って毒手を下し得る者ありや:このように厳しい教育ができるような者がいるだろうか?

耕夫の牛を駆(か)って鼻孔を曳廻(えいかい)し、

飢人(きにん)の食(じき)を奪って咽喉(いんこう)を把定(はじょう)す:

農夫が牛の鼻づらをぐっと曳き回したり、飢えている人が大事に持っている

握り飯を奪いのどを締めつける。

このようなことは牛や飢えている人にとってはいやなことである。

このような厳しい教育的手段によって敢えて厳しく教育ができるような者がいるだろうか?


示衆の現代語訳


農夫が牛の鼻づらをぐっと曳き回したり、

飢えている人が大事に持っている握り飯を奪ってのどを締めつける。

このように厳しい教育的手段によって厳しく教育指導するような者がいるだろうか?

本則:

イ山仰山に問う、「忽ち人有りて、一切衆生但だ業識(ごっしき)茫茫として

本の拠るべき無きありやと問はば、作麼生か験せん?」。

仰云く、「若し僧の来たることあらば即ち召して云はん、某甲と。僧首を廻らさば乃ち云はん、是れ甚麼ぞと

彼が擬議せんを待って向かって云はん、唯業識茫茫たるのみに非ず亦乃ち本の拠るべきなしと」。

イ山云く、「善い哉」。


注:

イ山:イ山(いさん)霊祐(れいゆう)禅師(771〜853)。百丈懐海の法嗣。イ仰宗の開祖。

仰山:仰山慧寂(807〜883)。

イ山(いさん)霊祐(れいゆう)の法嗣でイ山(いさん)霊祐(れいゆう)とともにイ仰宗の開祖とされる。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一→百丈懐海→イ山霊祐→仰山慧寂  

業識(ごっしき):業とは身口意の行為。我々の身体がなす行為、言論、思想の三つの業。

主として自我を妄認するテン倒妄想から生じる業と迷いの心意識。無明煩悩。

茫茫として:果てしがないようす。


本則の現代語訳:

イ山が仰山に聞いた、

もし人がいて、『一切の衆生はただ果てしない業識(ごっしき)を積み重ねそれに流されるだけです

たとえ悟りの境涯にいても、何一つ決まった立脚地や依存できるものはありません』と言う時

その人の悟りの深浅と力量をどのように試験し評価したらよいだろうか?」。

仰山は云った、

「もしそのような僧がいたら、「Aさん!」と僧の名を呼びます

そして僧が私の方を振り返った時に「それは何ですか?」と尋ねます」

そして彼がまごついたら「ただ無明煩悩に茫々と流されているだけではありません

何一つ決まった立脚地や依存するものが無くても問題ありません』と言ってあげます。」。

イ山は云った、

なかなか良い答えだ」。



一たび喚べば頭を廻らす、我を知るや否や。

依希(いき)として蘿月(らげつ)又鈎(こう)となる。

千金の子纔(わず)かに流落して、漠漠たる窮途に許(こ)の愁(うれい)あり。


注:

一たび喚べば頭を廻らす、我を知るや否や:名前を呼ばれると

頭を回して「ハイ」と返事するものが何か分かるだろうか?

行住坐臥する自分の主人公(本来の面目)を知っているだろうかという意味。

依希(いき)として:はっきりしないこと。

蘿月(らげつ):蘿月(らげつ)の 蘿 はツタやかずらのこと。 

ツタや蔦(かづら)にかかってゆがんで見える月。

蔦はここでは煩悩を表わし、月は本来の面目を月になぞらえている。

煩悩のため本来の面目である月がゆがめられると言っている。

鈎(こう):三日月形。

鈎(こう)となる:三日月形に見える。

依希(いき)として蘿月(らげつ)又鈎(こう)となる:本来の面目という満月が

煩悩の蔦(かづら)がかかったために、はっきりと見えず三日月形にゆがんで見える。 

千金の子:本来仏である長者の子。「法華経」信解品の長者窮子の比喩に基づく。 

千金の子纔(わず)かに流落して:本来仏である長者の子が乞食のように落ちぶれて。

漠漠たる:広々とした様子。

漠漠たる窮途に許(こ)の愁(うれい)あり:本来仏である長者の子と気づくまでは

はてしない流浪の旅と憂いがある。


頌の現代語訳:


名前を呼ばれると頭を回して「ハイ」と返事する主人公が何か分かるだろうか?

本来の面目という満月に煩悩の蔦がおおいかかると、ぼやけて三日月形にゆがんで見える。

本来仏の子である長者の息子が乞食のように落ちぶれて、

自分はもともと仏の子(長者の子)だと気づくまでは、はてしない憂いと流浪の旅がある

ようなものだ。


解釈とコメント1


農夫が牛の鼻づらをぐっと曳き回したり、

飢えている人が大事に持っている握り飯を奪いのどを締めつける。

牛は思い通りにしたいのに、急に鼻づらをぐっと曳き回されるのはいやである。

腹が空いた人が握り飯を奪われ、のどを締めつけられるのはいやである。

ここで登場する牛や飢えた人は三毒(貪瞋痴)を比喩的に表している。

その苦しみと迷いの原因である

三毒(貪瞋痴)を仏祖が厳しい教育によって取り去る手段を比喩的に表しているのである。

示衆ではこのような厳しい教育的手段によって

衆生の三毒(貪瞋痴)を取り去るような人や例はあるだろうかと述べている。


解釈とコメント2


安谷白雲老師は本則の解説において、イ山が仰山の返答に対し、

なかなか良い答えだ」と言って褒めたのはちょっと優しすぎる。

もっと厳しい指導をすべきだと、

イ仰宗が衰微した原因はそのような優しい指導法に原因があったのではないかと考えておられる。



38soku

 第38則  臨済真人   



示衆:

賊を以て子と為し、奴を認めて郎と作す。

破木杓(はもくしゃく)は豈に是れ先祖の髑髏(どくろ)ならんや。

驢鞍驕(ろあんきょう)は又阿爺(あや)の下頷(かがん)に非ず。

土を裂き茅(ぼう)を分つ時如何が主を弁ぜん。


注:

賊:泥坊。

奴:下男。

郎:旦那。

賊を以て子と為し、奴を認めて郎と作す:泥坊をわが子と思ったり、下男を旦那と間違える。

破木杓:こわれた柄杓。

髑髏:頭蓋骨。

破木杓は豈に是れ先祖の髑髏ならんや:

こわれた柄杓がどうして先祖の頭蓋骨であるだろうか。

驢鞍驕:驢馬の鞍。

阿爺:親爺。

驢鞍驕は又阿爺の下頷に非ず:驢馬の鞍は親爺の下顎ではない。

茅(ぼう)を分つ時:家を分家する時。

土を裂き茅を分つ時:土地を分け家を分ける時。

師が弟子に仏法を嗣法相続して分家を許すような時。

土を裂き茅を分つ時如何が主を弁ぜん:師が弟子に仏法を相続して分家を許すような時、

どのように本物とニセ物を見分ければ良いだろうか。


示衆の現代語訳


泥坊をわが子と思い、下男を旦那と間違える。

こわれた柄杓がどうして先祖の頭蓋骨であるだろうか。

驢馬の鞍は親爺の下顎ではない。

このように真偽を見分けることは仏法においても大切なことである。

では師が弟子に仏法を相続して嗣法と分家を許すような時、

どのように本物とニセ物を見分ければ良いだろうか。


本則:

臨済衆に示して云く、「一無位の真人有り、常に汝等が面門に向かって出入す。初心未証拠の者は看よ看よ

時に僧有りて問う、「如何なるか是れ無位の真人?」

済禅牀を下って檎住(きんじゅう)す。

這の僧擬議す。

済托開して云く、「無位の真人甚んの乾屎ケツ(かんしけつ) ぞ


注:

臨済:臨済義玄(?〜867)。臨済宗の宗祖。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →百丈懐海→黄檗希運→臨済義玄   

無位:地位や名誉・財産などのどんな立派な尊い位を持っていても引っかからない。

清廉潔白、大悟徹底、凡・聖などの位にもひっかからない。

真人:道教の奥義に到達した人を言う。

面門:眼、鼻、耳、口などの言語感覚器官。

初心未証拠の者:まだこの無位真人にお目にかかっていない者。

檎住(きんじゅう):捉まえること。

擬議(ぎぎ):とまどいまごつくこと。

托開:突き放すこと。

乾屎ケツ(かんしけつ):乾屎ケツ(かんしけつ)は昔は糞かき箆(へら)と

考えられていたが最近では乾いた棒状の糞と考えられている。

本則の現代語訳:

臨済は衆に示して云った、

一無位の真人がいて、常にお前たちの面門(感覚器官)より出入している

未だこれを見届けていない者は、サア見よ!見よ!

その時1人の僧が進み出て質問した、

その無位の真人とはいったい何者か?」

臨済は禅牀から下りて僧を捉まえて迫った。

この僧はとまどってすぐ答えることができなかった。

臨済は僧を突き放して言った、

お前さんの無位の真人はなんと働きのないカチカチの糞の棒のようなものだな。」




迷悟相反し、妙に伝えて簡なり。

春百花を拆(ひら)かしめて一吹し、力(ちから)九牛を廻らして一挽(ばん)す。

奈(いか)んともするなし泥沙(でいしゃ)撥(は)らえども開かず。

分明(ふんみょう)に塞断(そくだん)す甘泉(かんせん)の眼。

忽然として突出せば、ほしいままに横流(おうりゅう)せん。

師復た云く、険。


注:

迷悟相反す:この僧の迷いと臨済の悟りは互いに裏返しになっている。

妙に伝えて簡なり:臨済は丸出しに直指しているけれども、

僧は素直に受け取ってくれないだけで実に簡単明瞭だ。

春百花を拆(ひら)かしめて一吹し:春風が吹いて百花が開き。

力九牛を廻らして一挽(ばん)す:臨済は僧をぐいと捉まえて

気付かせようとするが僧は無位真人に気付かない。

奈(いか)んともするなし:仕方がない。どうしようもない。

奈(いか)んともするなし泥沙撥(は)らえども開かず:井戸を掘るため、

いくら土を掘って泥砂をはらいのけても、

水が出てこないのはどうしようもない。

分明に塞断(そくだん)す甘泉の眼:うまい泉が噴き出す水口が塞がっているのは明らかだ。

忽然として突出せば、ほしいままに横流せん:もし、臨済が掴んだり、

突き放したりした時に気付くことができたならば、

忽ち甘泉が噴き出すように、悟りの眼がガラリと開いただろう。

師:宏智正覚禅師。

師復た云く、険:もしわしがその場にいたら

臨済に横つ面をぶんなぐられたかも知れんと考えると、おお危ない!


頌の現代語訳:


僧の迷いと臨済の悟りは互いに裏返しになっている。

臨済は丸出しに直指しているけれども、

僧が素直に受け取ってくれないだけで実に簡単明瞭だ。

春風が吹いて百花が開かせようとするように、

臨済は僧をぐいと捉まえて気付かせようとするが僧は無位真人に気付かない。

井戸を掘るため、いくら土を掘って泥砂をはらいのけても水が出てこないのは

うまい泉が噴き出す水口が塞がっているのは明らかだ。

もし、臨済が掴んだり、突き放したりした時に気付くことができたならば、

僧は忽ち甘泉が噴き出すように、悟りの眼がガラリと開いただろう。

もしわし(宏智正覚)がその場にいたら

臨済に横面をぶんなぐられたかも知れんと考えると、おお危ない、危ない!  


解釈とコメント


本則は「臨済録」上堂に基づいている。

この上堂説法には臨済の颯爽とした説法が見られる。


臨済の無位真人については「臨済録」上堂3を参照)。



39soku

 第39則  趙州洗鉢   



示衆:

飯来たれば口を張り、睡来たれば眼を合す。

面を洗う処、鼻孔(びくう)を拾得し、鞋(あい)をとる時脚跟(きゃっこん)を模著(もじゃく)す。

那時(なじ)話頭(わとう)を磋却(さきゃく)せば、火を把って夜深けて別に覓(もと)めよ。

如何が相応し去ることを得ん。


注:

飯来たれば口を張り、睡来たれば眼を合す:ご飯が来れば口に入れ、眠くなると眼を閉じる。

鼻孔:

鞋:わらじ。

脚跟:かかと。

面を洗う処、鼻孔を拾得し、鞋をとる時脚跟を模著す:顔を洗う時には、鼻に触り、

わらじをとる時にはかかとにさわる。

那時:そのような時。

話頭を磋却せば:本来の面目に背いたら。

那時話頭を磋却せば:そのような時、本来の面目に背いたら。

火を把って:火の玉のようになって。一生懸命に。

夜深けて別に覓めよ:真夜中のような平等な正位の世界(下層脳の世界)を求めよ。

火を把って夜深けて別に覓めよ:

一生懸命に、真夜中のような正位の世界(=下層脳の世界)を求めなければならない。

正位については「洞山五位」を参照)。

如何が相応し去ることを得ん:どうしたら本来の自己に相応することができるだろうか。


示衆の現代語訳


ご飯が来れば口に入れ、眠くなると眼を閉じる。

顔を洗う時には、鼻に触り、わらじをとる時にはあしにさわる。

そのような時、本来の面目に背いたら

一生懸命に、真夜中のような正位の世界(=下層脳の世界)を求めなければならない。

それではどうしたら本来の自己に相応することができるだろうか。


本則:

僧趙州に問う、「学人乍入叢林(さにゅうそうりん)乞う師指示せよ」。

州云く、「喫粥(きっしゅく)し了(おわ)るや未だしや?」。

僧云く、「喫し了る」。

州云く、「鉢盂(はつう)を洗い去れ」。


注:

趙州:趙州従シン(じょうしゅうじゅうしん)(778〜897)。

唐代の大禅者。南泉普願(748〜834)の法嗣。

趙州観音院に住んだので趙州和尚と呼ばれる。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →南泉普願→趙州従シン  

乍入叢林(さにゅうそうりん):乍はひょいとの意味。

乍入叢林はひょいと新しく禅林に入った新米の修行僧のこと。

叢林:禅林。

鉢盂:食を盛る鉢。 食器。

本則の現代語訳:

ある時、僧が趙州に尋ねた、

私はこの道場に入った新参者です。一つお教え下さい」。

趙州は云った、

朝飯はすんだかい?」。

僧は云った、

はい、食べました」。

趙州は云った、

それでは食器を洗っておきなさい」。




粥罷(や)めば鉢盂を洗わしむ。

豁然として心地自ずから相い符す。

而今参飽す叢林の客。

且らく道え其の間、悟有りや無しや。


注:

粥罷(や)めば鉢盂を洗わしむ:お粥を食べ終わったら食器を洗わせる。

豁然として心地自ずから相い符す:この僧は趙州の言葉で豁然として悟った。

(悟ったとは本則には書いてないが無門関7則では趙州の言葉で悟ったと書かれている)。

而今:即今。

参飽す叢林の客:飽きるほど参禅弁道した禅林の修行者。

而今参飽す叢林の客:今、飽きるほど参禅弁道した禅林の修行者。

且らく道え其の間、悟有りや無しや:それでは悟りというものは有るものだろうか、

無いものだろうかはっきり答えて見なさい。

 
   


お粥を食べ終わったら食器を洗わせる。

この僧は趙州の言葉で豁然として悟った。

(このことは本則には書いてないが無門関7則では趙州の言葉で悟ったと書かれている)。

今まで、飽きるほど参禅弁道した禅林の修行者よ、

それでは悟りというものは有るものだろうか、

無いものだろうかはっきり答えて見なさい。


解釈とコメント


本則は「無門関」7則と殆ど同じである。

「無門関」7則を参照)。

40soku

 第40則 雲門白黒  



示衆:

機輪(きりん)転ずる処、智眼(ちげん)猶お迷う。

宝鑑(ほうかん)開く時繊塵(せんじん)度(わた)らず。

拳(こぶし)を開いて地に落ちず、物に応じて善く時を知る。

両刃(りょうじん)相い逢う時如何が廻互(えご)せん。


注:

機輪:分別妄想を滅尽した無分別智から出て来る活作用。

機輪転ずる処、智眼猶お迷う:分別妄想を滅尽した

無分別智から出て来る活作用は理知で計ることはできない。

宝鑑:黒きこと漆の如し」と言われる下層脳中心の無分別智を宝の鏡に譬えたもの。

臨済録示衆14−1を参照)。

宝鑑開く時繊塵度らず:黒きこと漆の如し」と言われる

下層脳中心の無分別智が開く時、塵一つ無い。

拳を開いて地に落ちず、物に応じて善く時を知る:握り拳を開いて放しても

持っているものが地に落ちない。

時に応じてよく物を知る。時処位にぴったり応じて対処できる。

両刃:名人同士の二人の刃。

廻互(えご):互いに相交わって一体となること。

両刃相い逢う時如何が廻互せん:名人同士の二人の刃が法戦で相交わり、

竜虎相搏つような法戦をする時はどのようなものだろうか。


示衆の現代語訳


分別妄想を滅尽した無分別智から出て来る活作用は理知で計ることはできない。

黒きこと漆の如し」と言われる下層脳中心の無分別智が開く時、塵一つ無い。

そのような力量ある禅者は握り拳を開いて放しても持っているものが地に落ちないし、

時処位にぴったり応じてよく対処できる。

そのような名人同士の刃が相交わり、

竜虎相搏つような法戦をする時はどのようになるだろうか。 


本則:

雲門乾峰に問う、「師の応話を請う?」。

峰云く、「老僧に到るや也た未だしや?」。

門云く、「恁麼ならば即ち某甲遅きに在りや」。

峰云く、「恁麼那(いんもな)恁麼那」。

門云く、「将に謂(おも)えり侯白と、更に侯黒有り」。


注:

雲門:雲門文偃(864〜949)。雲門宗の始祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→

龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃  

乾峰:越州乾峰。洞山良价の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→

薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价→越州乾峰  


恁麼那(いんもな)恁麼那:そうか、そうか。


本則の現代語訳:


雲門が乾峰に云った、

先生のお話をお願い致します」。

乾峰は云った、

お前さんわしのところに来たことがあったかい?」。

雲門は云った、

そう言われると私、参り方が遅うございましたかな」。

乾峰は云った、

そうか、そうか」。

雲門は云った、

わしも相当なものだと思っていたが、お前さんもなかなかすみにおけんのう」。



弦筈(げんかつ)相い啣(ふく)み、網珠(もうじゅ)相対す。

百中を発って箭箭虚(むな)しからず。

衆景(しゅけい)を摂(おさ)めて光光(こうこう)礙(さ)ゆるなし。

言句の総持(そうじ)を得、遊戯の三味に住す。

其の間に妙なるや、宛転(えんてん)偏円(へんえん)、必ず是くの如くなるや縦横自在。


注:

弦筈(げんかつ):弓のつると矢はず。

弦筈(げんかつ)相い啣(ふく)み:弓に矢をつがえ満月のように引き絞ったところ。

網珠(もうじゅ):インドラの網。因陀羅網。

帝釈天(インドラ神)の宮殿の大広間に張りめぐらされている羅網(珠玉を連ねた網)。

この網の無数の結び目のひとつひとつに宝の珠があり、

これらの珠のひとつひとつが他のすべての珠を表面に映し、

そこに映っている珠のひとつひとつがまたそれぞれに、

ほかのすべての珠とそれらの表面に映っているすべての珠とを明らかに映す。

このようにしてすべての珠は、重々無尽に相映している。

網珠(もうじゅ)相対す:雲門と乾峰の法戦は、

互いの考えていることが帝釈天(インドラ神)の羅網(珠玉を連ねた網)

に相映じたようでみごとなものだ。

百中を発って箭箭虚(むな)しからず:2人の言葉は百発百中で無駄な矢は一つもない。

衆景(しゅけい)を摂(おさ)めて光光礙(さ)ゆるなし:

二人の心の光が互いに相映じて自由無碍である。

総持(そうじ):陀羅尼。仏の説くところをよく記憶して忘れないこと。

言句の総持(そうじ)を得:仏法の本質を表現して。

言句の総持(そうじ)を得、遊戯の三味に住す:仏法の本質を表現して、

子供が無心に遊んでいるようだ。

其の間に妙なるや:二人の法戦の妙味を表現すれば。

活中に眼あれば 還(ま)た死に同じ:

薬忌何ぞ須(もち)いん作家(てだれ)を鑑するを:

宛転(えんてん):自由自在に動くこと。

偏円(へんえん):事理一体。現象と本質が一体であること。

必ず是くの如くなるや縦横自在:必ずそのようであることは縦横自在。

其の間に妙なるや、宛転(えんてん)偏円(へんえん)、必ず是くの如くなるや縦横自在:

二人の法戦の妙味を言えば、自由自在に円転していることであり、

事理一体で、縦横自在であることだと言えるだろう。



雲門と乾峰の法戦は弓に矢をつがえ満月のように引き絞ったように

少しのすきもなく、満を持して行われた。

互いの考えていることが帝釈天(インドラ神)の羅網(珠玉を連ねた網)

に相映じたように響きあって、みごとなものだ。

2人の発した言葉は百発百中で無駄な矢は一つもない。

心の光が互いに相映じて自由無碍である。

。仏法の本質を表現して、子供が無心に遊んでいるようだ。

二人の法戦の妙味を評すれば、自由自在に円転して、事理一体で、縦横自在であると言えるだろう。


解釈とコメント


本則を理解するキーポイントは乾峰が雲門に対して言った言葉

老僧に到るや也た未だしや?」

を借事問だと気づくかどうかにある。

このなかの「老僧」が「本来の面目」を意味する借事問だと分かれば簡単である。

老僧に到るや也た未だしや?」

という乾峰の言葉は

お前さんは本来の面目を見てもう見性したか、あるいは未だか?」

と雲門に聞いているのだと分かれば理解できるる。

この質問に対し、雲門は

そう言われると私、参り方が遅うございましたかな(恁麼ならば即ち某甲遅きに在りや)。」

と見性したかどうかはっきり言わずとぼけたように答える。

乾峰は「そうか、そうか(恁麼那(いんもな)恁麼那)」

と答え、箸にも棒にも掛からないような応対ぶりだ。

雲門は「わしも相当なものだと思っていたが、お前さんもなかなかすみにおけんのう

(将に謂(おも)えり侯白と、更に侯黒有り)。」

と言って問答は終わっている。

この問答は雲門と乾峰の虚々実々の法戦は両雄の老成円熟した境地を反映している。

本則にみられる雲門と乾峰の法戦は老成円熟したものである。

本則は碧巌録や無門関にも見あたらないので、従容録独自の公案だといえる。



41soku

 第41則   洛浦臨終  



示衆:

有時(あるとき)は忠誠己れを叩いて苦屈(くくつ)申(の)べ難し。

有時(あるとき)は殃(わざわい)及んで人に向かって承当(じょうとう)不下(ふげ)なり。

行(こう)に臨んで賤(かるがる)しく折倒(しゃくとう)し、末期(まつご)最も慇懃(いんぎん)。

泪(なみだ)は痛腸(つうちょう)より出でて、更に隠諱(いんき)し難し。

還(かえ)って冷眼(れいげん)の者有りや。


注:

有時は忠誠己れを叩いて苦屈申べ難し: ある時は師家は己を励まし、

誠心誠意を尽くして弟子を指導するがその苦心はとても述べ尽くせるものではない。

承当不下:分かりましたと納得しないこと。

有時は殃及んで人に向かって承当不下なり:

ある時は師家は棒や喝を与えて指導するのだが、

それでも分かってくれないと全く災難でやりきれない。

行に臨んで:臨終に臨んで。

折倒(しゃくとう):二つに折ったり、三つに折ったりして安売りすること。

丁寧にかんで含めたように教えること。

行に臨んで賤(かろがろ)しく折倒(しゃくとう)し、末期最も慇懃:

臨終に臨んで、丁寧にかんで含めたように教え、最も慇懃だ。

隠諱(いんき)し難し:隠しにくい。

泪(なみだ)は痛腸より出でて、更に隠諱(いんき)し難し:

泣いても笑っても隠しようがない。

還って冷眼の者有りや:

そんなことはとっくに分かっていると冷めた目で見ている者がいるだろうか。


示衆の現代語訳


ある時は師家は己を励まし、誠心誠意を尽くして弟子を指導するが

その苦心はとても述べ尽くせるものではない。

またある時は棒や喝を与えて親切に指導するのだが

それでも分かってくれないと災難のようなもので全くやりきれない。

臨終に臨んで、丁寧にかんで含めたように教え、最も慇懃だ。

本来の面目」は丸出しで、泣いても笑っても隠しようがない。

そんなことはとっくに分かっていると冷めた目で見ている者がいるだろうか。


本則:

洛浦臨終衆に示して云く、「今一事有りって爾諸人に問う、這箇若し是と云はば即ち頭上に頭を安ず

若し不是ならば即ち頭を斬って活を覓む」。

時に首座云く、「青山常に足を挙げて白日灯を挑げず」。

浦云く、「是れ甚麼の時節ぞ、這箇の説話を作す」。

彦従上座有って出でて云く、「此の二途を去って請う師問わざれ」。

浦云く、「未在更に道え」。

従云く、「某甲道い尽くさず」。

浦云く、「我汝が道い尽くすと道い尽くさざるに管せず」。

従云く、「某甲侍者の和尚に祇対(したい)する無し」。

晩に至って従上座を喚ぶ、「汝今日の祇対甚だ来由有り、合(ま)さに先師の道うことを体得すべし

目前に法無く意目前に有り、他は是れ目前の法にあらず、耳目の到る所に非ずと

那句かこれ賓、那句かこれ主、若し揀得出せば鉢袋子を分付せん」。

従云く、「不会」。

浦云く、「汝会すべし」。

従云く、「実に不会」。

浦喝して云く、「苦なる哉苦なる哉」。

僧問う、「和尚の尊意如何?」。

浦云く、「慈舟清波の上に棹ささず、劒峡徒らに木鵝を放つに労す」。


注:

洛浦:洛浦元安(?〜898)。長い間臨済義玄の侍者をつとめた。

後に夾山善会に師事し夾山善会の法嗣となる。

35則を参照)。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →

薬山惟儼→船子徳誠→夾山善会 →洛浦元安  

這箇(しゃこ):これ。本来の面目。

頭上に頭を安ず:余計なことをすること。

祇対(したい):応対。答えること。

先師:洛浦元安の師である夾山善会(805〜881)。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→船子徳誠→夾山善会   

他は是れ目前の法にあらず、耳目の到る所に非ず:それは目前の客観界ではない。

また耳や目ではとどくものではない。

片片別処に落ちず:雪のひとひらひとひらは別の処に落ちなていない。

揀得出(けんとくしゅつ):えらびだすこと。

鉢袋子(はつたいす):鉢盂(応量器)を入れる袋。

鉢袋子を分付せん:仏法を伝えて跡継ぎにしよう。

劒峡:見通しのきかない危険な急流。

木鵞:劒峡を舟で下るとき、

下流から上ってくる舟に注意を与えて衝突を避けるために流す木製の鵞鳥のこと。

慈舟清波の上に棹ささず、劒峡徒らに木鵝を放つに労す:

師家が弟子を一所懸命に指導したが

誰も大悟徹底することがなかったのは、

見通しのきかない危険な急流に苦労して木鵞を無駄に流したようなものだ。


本則の現代語訳:

洛浦は臨終にあたって修行僧達に云った、

今一つの大事な事が有る。お前達に聞きたい

もしこれこそが「本来の面目」だと言ったならば

頭の上に頭を乗せるような余計なものになるだろう。

もし、これは日常生活の外にあると思ったら

立派な頭を切り捨てて活きていこうとするようなものだ」。

その時、首座が云った、

青山は常に歩いているし。明るい時に提灯は要りません」。

洛浦は云った、

私はいま息を引き取るという間ぎわの仏法を聞いているのだ。的外れなことを言うな」。

彦従上座という者が出てきて云った、

首座が云ったこと以外に仏法の説きようはないではありませんか

老師、無理をおっしゃってはだめですよ」。

洛浦は云った、

不十分だ。言い直してみよ」。

彦従上座は云った、

私は、分かってはいるのですが言葉では言い尽くすことはできません」。

洛浦は云った、

お前さんが言える言えないはわしには関係ないよ」。

彦従上座は云った、

私は和尚にどう答えたらよいか分かりません」。

夜になって洛浦は彦従上座を喚んで云った、

お前さんの今日の答は一応もっともだが先師が言ったことを体得すべきである

目前に客観界は無く、主観があるだけだ

「本来の面目」は客観界には無く、耳や目の届くところではない。

何が客観、何が主観かをはっきりさせることができたらわしの跡継ぎになる資格がある」。

彦従上座は云った、

分かりません」。

洛浦は云った、

本当かい。少しは分かっているだろう」。

彦従上座は云った、

本当に分かりません」。

洛浦は、一喝して云った、

えいつ!苦々しいかぎりだ」。

僧が聞いた、

和尚さんの本当の心はどうなんですか?」。

洛浦は云った、

師家が弟子を一所懸命に指導したが誰も大悟徹底しなかったのは

見通しのきかない危険な急流に無駄に木鵞を流したようなものだ」。




雲を餌(え)(とし月を鈎(はり)として清津(せいしん)に釣る。

年老い心孤(こ)にして未だ鱗(りん)を得ず。

一曲の離騒(りそう)帰り去りて後、汨羅(べきら)江上独醒(どくせい)の人。


注:

雲を餌とし月を鈎として清津に釣る:洛浦は三日月を釣り針に、雲を餌にして清津で釣りをする。

鱗:魚。ここでは優秀な嗣法の弟子。

年老い心孤にして未だ鱗を得ず:歳をとったけれども

未だ優秀な嗣法の弟子がでてこないのは寂しいことだ。

一曲の離騒:屈原が作った「離騒経」のこと。ここでは洛浦を屈原になぞらえている。 

一曲の離騒帰り去りて後、汨羅(べきら)江上独醒の人:

屈原は「世人は皆酔えり、われ独り醒めたり

と言って汨羅(べきら)江上に身を投げて死んだと伝えられる。

洛浦も一生かかって1人も嗣法の弟子を得なかったのはさぞ寂しかったことであろう。


頌の現代語訳:


洛浦は三日月を釣り針に、雲を餌にして清津で釣りをする。

歳をとって臨終になっても未だ優秀な嗣法の弟子がでてこないのは寂しいかぎりだ。

屈原は「世人は皆酔えり、われ独り醒めたり

と言って汨羅(べきら)江上に身を投げて死んだと伝えられる。

洛浦も一生かかって1人も嗣法の弟子を得なかったのは屈原のように寂しかったことであろう。


解釈とコメント


本則は洛浦元安の臨終の時の弟子との問答を公案にしたものである。

本則は碧巌録や無門関にも見あたらないので、従容録独自の公案のといえる。

」では

洛浦も一生かかって1人も嗣法の弟子を得なかったのは屈原のように寂しかったことであろう

と詠っている。

安谷白雲老師はこの頌で言っていることは表面的なもので、本当は

洛浦の「天上天下唯我独尊」の悟りの境地を響かしているのだと解釈しておられる。

これは屈原の言葉

世人は皆酔えり、われ独り醒めたり」を善意に解釈した結果だと思われる。

洛浦は力量ある禅師なのでそのような解釈も可能であろう。

しかし、本則は洛浦の力量や禅の境地を主題にした公案ではない。

」で詠っている字面通り、

歳をとって臨終になっても、未だ優秀な嗣法の弟子が出てこないのは寂しいかぎりだ


洛浦も一生かかっても、1人も嗣法の弟子を得なかったのは屈原のように寂しかったであろう

と素直に解釈するのも面白い。

この解釈の方が洛浦が最後に言った嘆きの言葉

師家が弟子を一所懸命に指導したが誰も大悟徹底しなかったのは

見通しのきかない危険な急流に無駄に木鵞を流したようなものだ

にピッタリ合致している。

本則の洛浦と門下の対話を読むと、

禅は臨済の頃をピークにして衰退の方向に向かっている

ことを感じる。



42soku

 第42則  南陽浄瓶 



示衆:

鉢を洗い瓶(びょう)を添う、尽く是れ法門仏事(ほうもんぶつじ)。

。柴を般(にな)い水を運ぶ、妙用神通に非ざることなし。

甚麼(なん)としてか放光動地(ほうこうどうち)を解せざる。


注:

瓶を添う:水を浄瓶に入れること。

鉢を洗い瓶を添う、尽く是れ法門仏事:鉢を洗うのも浄瓶に水を入れるのも

ことごとく法門仏事である。

柴を般い水を運ぶ、妙用の神通に非ざることなし:

柴を般(にな)い水を運ぶのも神通妙用である。

馬祖道一の禅思想を参照)。

放光動地:仏が説法する時に眉間から光を放ち、

大地が震動したという大乗経典の記述に基づく。

仏の説法が一切衆生の心の闇を破り、心地を開明する偉大な働きがあることの譬え。

甚麼(なん)としてか放光動地を解せざる:どうして仏の放光動地の働きがわからないのか。


示衆の現代語訳


我々が鉢を洗うのも浄瓶に水を入れるのもことごとく法門仏事である。

馬祖の在家の弟子 ホウ蘊(ほううん、?〜815)は

 「神通ならびに妙用、すべて水をにない柴を運ぶ。」と詠っている。

どうしてこのような仏の放光動地の働きがわからないのか。


本則:

僧南陽の忠国師に問う、「如何なるか是れ本身の盧舎那?」。

国師云く、「我が与めに浄瓶(じょうびょう)を過(すご)し来たれ」。

僧浄瓶を将(も)って到る。

国師云く、「却って旧処に安ぜよ」。

僧復た問う、「如何なるか是れ本身の盧舎那?」。

国師云く、「古仏過去すること久し」。


注:

南陽の忠国師:南陽慧忠国師(?〜775)。六祖慧能の法嗣。

南陽(河南省)白崖山党子谷(はくがいさんとうすこく)に住んで、

四十余年間山を下りず悟後の修行した。

南方の禅を批判し教学を重んじた。「無情説法」を初めて唱えた人としても知られる。

法系:六祖慧能→南陽慧忠  

本身の盧舎那:法身仏。本来の面目(=真の自己)。

浄瓶:手を洗うための水さし。


本則の現代語訳:

僧が南陽の慧忠国師に聞いた、

法身仏とはどのようなものですか?」。

国師は云った、

わしにそこの浄瓶(じょうびょう)を持ってきてくれんか」。

僧は浄瓶を持ってきた。

国師は云った、

もとのところにもどして置いてくれんか」。

僧がまた聞いた、

法身仏とはどのようなものですか?」。

国師は云った、

法身仏はもう行ってしまったわい」。



鳥の空を行く、魚の水に在る、江湖(ごうこ)相い忘れ、雲天に志を得たり。

疑心(ぎしん)一糸すれば、対面千里。

恩を知り恩に報ゆ、人間幾幾(いくばく)ぞ。


注:

鳥の空を行く、魚の水に在る、江湖相い忘れ、雲天に志を得たり:

鳥が空を飛んで行き、

魚が水にいる時には、空や水と一体不二になって周りの空や水を忘れそれに同化している。

疑心一糸すれば:ハテナ何のことだろうと疑えば。

対面千里:対面していながら千里も隔たることになる。 

疑心一糸すれば、対面千里:ハテナ何のことだろうと疑えば、

対面していながら千里も隔たることになる。

恩を知り恩に報ゆ、人間幾幾(いくばく)ぞ:慧忠国師の法恩を知り、

その法恩に報いることができる人は何人いるだろうか?


頌の現代語訳


鳥が空を飛んで行き、魚が水にいる時には、

空や水と一体不二になって周りの空や水を忘れそれに同化している。

我々も法身仏(本来の面目)と一体同化しているのだが

それを忘れているのはそれと同じようなものだ。

法身仏(本来の面目)は何のことだろうか?」

と疑えば、対面していながら千里も隔たることになる。

慧忠国師の法恩を知り、その法恩に報いることができる人は何人いるだろうか?


解釈とコメント


本則は慧忠国師と僧の問答を公案にしたものである。

本則は碧巌録や無門関にも見あたらないので、従容録独自の公案といえるが

塩官斉安禅師(馬祖道一の法嗣、?〜842)と僧の問答に非常に似ている。


公案6.13盧遮那仏を参照)。


43soku

 第43則  羅山起滅 



示衆:

還丹(げんたん)の一粒鉄を点じて金と成し、至理(しいり)の一言凡(ぼん)を転じて聖(しょう)と成す。

若し金鉄二なく凡聖(ぼんしょう)本同じきことを知らば、

果然(かぜん)として一点も用不著(ようふじゃく)。

且(しばら)く道(い)え、是れ那(なん)の一点ぞ。


注:

還丹の一粒鉄を点じて金と成す:錬金術で用いる還丹という薬品は、たった一粒で鉄を金に変える。

これは古代科学に基づいた錬金術の考え方より来ている。

現代科学(or化学)においてはたった一粒で鉄を金に変えることができる

還丹という薬品のようなものは存在しないことが分かっている。

錬金術は魔術であり科学ではないこともハッキリしている。

至理の一言:真理に通じる一言。

至理の一言凡を転じて聖と成す:真理に通じる活きた一言は凡を変えて聖にする。

還丹の一粒鉄を点じて金と成し、至理の一言凡を転じて聖と成す:

錬金術で用いる還丹という薬品は、たった一粒で鉄を金に変える。

それと同じように、真理に通じる活きた一言は凡を変えて聖にする。

この考え方の前半は間違いであることに、注意しなければならい。

たった一粒で鉄を金に変える還丹という薬品は存在し得ないからである。

しかし、「至理の一言凡を転じて聖と成す

(真理に通じる活きた一言は凡を変えて聖にする)

という言葉まで否定する必要はないだろう。

若し金鉄二なく:もし、金と鉄は本質的に違うものではなく。

大乗仏教の空の原理より見れば金と鉄は本質的に違うものではない。

もし、その因縁(=条件)を科学的に自由に、

コントロールできれば、金を鉄にすることができるだろう。

空の思想を参照)。

凡聖本同じきことを知らば:凡と聖は本来同じであることが分かれば。

果然として:案の定。

用不著:全く無用。

果然として一点も用不著:案の定、還丹の一粒も何も必要でない。

若し金鉄二なく凡聖本同じきことを知らば、果然として一点も用不著:

もし、金と鉄は本質的に違うものではなく、

凡と聖は本来同じであることが分かれば。案の定、還丹の一粒も無用となる。

且(しばら)く道(い)え、是れ那(なん)の一点ぞ:

それでは、そのようなものとは一体何のことだろうか?


示衆の現代語訳


錬金術で用いる還丹という薬品は、たった一粒で鉄を金に変えることができると言われる。

それと同じように、真理に通じる活きた一言は凡を変えて聖にすることができるだろう。

もし、金と鉄は本質的に違うものではなく、

凡と聖は本来同じであることが分かれば、還丹の一粒も無用となるだろう。

それでは、そのようなものとは一体何のことだろうか?

本則:

羅山巌頭に問う、「起滅不停の時如何?」。

頭咄して云く、「是れ誰か起滅す」。


注:

羅山:羅山道閑。巌頭全豁の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→

龍潭崇信→徳山宣鑑 →巌頭全豁 →羅山道閑  

巌頭:巌頭全豁(がんとうぜんかつ、828〜887)。唐代の禅者。徳山宣鑑の法嗣。  

賊に首を切られた時、大叫一声して死んだことでも知られる。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →巌頭全豁

起滅不停の時:生じたり、滅したりする思念が止まらない時。

起滅不停の時如何:生滅する思念が止まらない時はどうでしょうか?

咄:しかりつける言葉。

頭咄して云く:巌頭は叱りつけて云った。


本則の現代語訳:

羅山が巌頭に聞いた、

生滅する思念が止まらない時はどうでしょうか?」。

巌頭は叱りつけて云った、

馬鹿者!思念が止まらないと言うが誰が起滅しているか」。



老葛藤(ろうかっとう)を斫断(しゃくだん)し、狐カ窟(こかくつ)を打破す。

豹は霧を披(ひ)して文(もん)を変じ、竜は雷に乗じて骨を換う。

咄(とつ)。

起滅紛紛是れ何物ぞ。


注:

葛藤:蔓や藤のつる。煩悩妄想のたとえ。

狐カ窟:狐の住処であるあなぐら。煩悩妄想の生まれるところ。

斫断(しゃくだん):破壊すること。

老葛藤を斫断(しゃくだん)し、狐カ窟を打破す:煩悩妄想やその住処を破壊する。

文:豹や虎の皮の紋様。

豹は霧を披して文を変じ:豹が南山の霧の深い所に入り7日間絶食すると

皮の紋様が変わって虎になるという伝説にもとづく。

豹は霧を披して文を変じ、竜は雷に乗じて骨を換う:羅山が巌頭の言下に大悟したのは

豹が南山の霧に会って虎になり、大蛇が雷に乗って、竜になったようなものだ。

咄。起滅紛紛是れ何物ぞ:

やい!起滅紛紛と涌き起こる煩悩妄想というが、一体それは何物だ!」。

頌の作者である宏智正覚のコメント。  

頌の現代語訳:


坐禅では煩悩妄想やその巣窟を破壊しなければならない。

羅山が巌頭の言下に大悟したのは豹が霧に会って虎になり、

大蛇がその骨を換えて竜になったようなものだ。

宏智正覚は一喝して言う、

やい!起滅紛紛と涌き起こる煩悩妄想というが、一体それは何物だ!」。



解釈とコメント


   

本則は羅山道閑禅師と巌頭全豁(がんとうぜんかつ、828〜887)禅師の問答を

公案にしたものである。

羅山道閑禅師は坐禅中によほど雑念が起きて気になったようで、

巌頭に「生滅する思念が止まらない時はどうでしょうか?」と聞く。

巌頭は一喝して、「是れ誰か起滅す」と言った。

この言葉で羅山は見地明了となり悟りを開いたと伝えられている。

巌頭の言葉「是れ誰か起滅す」は日本語には訳しにくい。

漢文では「是誰起滅」と非常に簡単で短い。

これを日本語に訳すと、「思念が止まらないと言うが誰が起滅しているか!」

と冗長になり、実際の言葉の雰囲気と実感を伝えにくい。

巌頭は「是誰起滅」と非常に簡単で短く強い語調で羅山に迫ったと思われる。

その強い語調によって

羅山は起滅していると思ったが、心の本体は決して起滅していないと見地明了となり   

悟りを開いた(見性した)のではないだろうか。



我が国の白隠禅師は

見性には、 1.大信根、2.大疑情、3.大憤志、 の三つが必要である

と説いている。

 白隠禅の特徴を参照)。

羅山にはこのうち、3の大憤志が足りなかったのではないだろうか?

巌頭に「是誰起滅」と強い語調で迫られたため、羅山は大憤志 を起こすことができた。

その結果、坐禅に集中して見地明了となり、悟りを開いた(見性した)

と解釈することができるだろう。

本則は「碧巌録」や「無門関」にも見あたらないので、従容録独自の公案といえる。




44soku

 第44則   興陽妙翅  



示衆:

獅子象を撃ち、妙翅(みょうじ)龍を博(う)つ。

飛走すら尚お君臣を分つ、衲僧(のうそう)合(ま)さに賓主(ひんじゅ)を存(そん)すべし。

且(しば)らく天威(てんい)を冒犯(ぼうはん)する底の人の如きは

如何(いかん)が裁断(さいだん)せん。


注:

妙翅:金翅鳥(こんじちょう)。仏典やインド神話に登場する炎の様に光り輝き熱を発する神鳥。

ガルーダ。タイ王国国章に描かれたガルーダを示す。


図ガルーダ

図5. タイ王国国章に描かれたガルーダ


獅子象を撃ち、妙翅龍を博つ:ライオンは象に挑み、金翅鳥は竜を打つ。

飛走:鳥やけもの。

飛走すら尚ほ君臣を分つ、衲僧合さに賓主を存すべし:鳥やけものにも強弱君臣のランクがある。

いわんや禅僧に賓主の別がなくて良いだろうか。

且らく天威を冒犯する底の人の如きは如何が裁断せん:

それでは長幼の序を無視するような無礼者は

どのように裁断すればよいだろうか。


垂示の現代語訳


ライオンは象に挑み、金翅鳥は竜を打つこともあるが、鳥やけものにも強弱君臣のランクがある。

いわんや禅僧に賓主の別がなくて良いだろうか。

それでは長幼の序を無視するような無礼者はどのように裁断すればよいだろうか。


本則:

僧興陽剖和尚に問う、「娑カツ 海を出でて乾坤静かなり、覿面に相呈すること如何?」。

師云く、「妙翅鳥王宇宙に当たる。箇の中誰か是れ出頭の人?」。

僧云く、「忽ち出頭に遇う時又作麼生?」。

陽云く、「鶻の鳩を取るに似たり。君覚らずんば御楼前に験して始めて真を知れ」。

僧云く、「恁麼ならば叉手当胸退身三歩せん」。

陽云く、[須弥座下の烏亀子、重ねて額を点じて痕せしむることを待つこと莫れ」。


注:

興陽剖:興陽清剖(こうようせいほう)。大陽警玄の法嗣。

法系:六祖慧能 →青原行思→・・・→洞山良价→

曹山本寂→・・→梁山縁観→大陽警玄 →興陽清剖  

娑カツ:沙伽羅竜王。八大竜王の一。仏法の守護神。海に住むという竜王。

乾坤:天地。

覿面(てきめん)に相呈すること:面と向かって出会うこと。

鶻(はやぶさ):隼。

御楼前(ぎょろうぜん)に験して:昔趙の国王の弟に平原君趙勝という人がいた。

彼が建てた立派な御殿の上から見下ろすと民家がよく見えた。ある時イザリが下を通った。

その様子がおかしかったので平原君の侍女がそれを笑った。

イザリは怒って笑った侍女の首をよこせと厳重に申し入れた。

平原君は「承知した」と言ったが、それを実行しなかった。

平原君のところには浪人3,000人が食客となって一つの勢力をなしていた。

その食客たちが平原君の言行が一致しないのを見て、信頼を失い半分に減ってしまった。

あせった平原君は、斬罪に処した囚人の首を持ってきて、

これがイザリを笑った女の首だと言って、さらし首にした。

しかし、ウソだと分かり少しも効果がない。そこでとうとうイザリを笑った侍女の首を斬って、

本物の首を御楼の前にかけて首実検に供した。

すると、その後1年ばかりの間に、以前去った食客たちが殆ど皆帰ってきたという。

「御楼前に験して」はこの話に基づいた言葉。

叉手当胸:両手を交叉させて胸のところに当てること。禅僧が進退するときの作法。

須弥座:須弥壇。寺の本堂の正面にある壇のこと。普通その上に本尊を安置する。

須弥座下の烏亀子:須弥壇の下の支柱に彫刻した亀。烏亀子の烏は黒いという意味。

ここではのろま者の喩えに使っている。


本則の現代語訳:

ある僧が興陽清剖和尚に聞いた、

娑カツ竜王のような大物が 海から出できたけれども天地は静かなものです

そのような大物に面と向かって出会った時どうされますか?」。

師は云った、

妙翅鳥王が一羽ばたいて宇宙を飛ぶと海がサッと開いて竜の隠れる場所がなくなると言われている

わしは竜を飲み込むという妙翅鳥王だ。お前さんが娑カツ竜王ならわしが一飲みにしてしまうぞ?」。

僧は云った、

忽ち竜が出てきた時にはどうなさいますか?」。

興陽は云った、

隼が鳩を捉えるようなものだ。それでも分からなければ楼前に本物を出したらはっきりするよ」。

僧は云った、

そうならば胸に手を当てて引き下がります」。

興陽は云った、

[須弥壇の下の烏亀子のようなのろま者だ

まだぐずぐずしていると眉間に痕ができるほど打ってやるぞ」。



糸綸(しりん)降り、号令分る、寰中(かんちゅう)は天子、

塞外(さくがい)は将軍、雷驚いて蟄(ちつ)の出ずるを待たず。

那んぞ知らん風行雲を遏(とど)むることを。

機底聯綿(れんめん)として自ずから金針玉線(きんしんぎょくせん)あり。

印前恢廓(かいかく)として、元(もと)、鳥テン虫文(ちょうてんちゅうぶん)なし。


注:

糸綸:勅命。天子の言葉。

寰中(かんちゅう):天子の直轄地である畿内のこと。

塞外:辺地。

蟄:土中で冬ごもりする虫。

糸綸降り、号令分る、寰中は天子、塞外は将軍、雷驚いて蟄の出ずるを待たず:

興陽和尚の活作略は寰中に降りる天子の勅命や、

辺地に遠征した将軍が下す号令のようである。

その雷鳴のような響きに冬眠中の虫が地中からはい出そうとするが

興陽和尚は虫のようにぐずつく僧を待つことはできない。

那んぞ知らん風行雲を遏(とど)むることを:妙翅鳥王(興陽和尚)が羽ばたいて起こす風の前には

竜王(僧)の起こした黒雲なんかは吹き飛ばされてしまうことをどうして分からないのか。

機底聯綿として自ずから金針玉線あり:

機を織っていると金針玉線のような美しい錦が次々と続いて織りなされる。

印前:空劫以前。分別意識が生まれない以前。

恢廓(かいかく)として:ひろびろとして。

元鳥テン虫文なし:文句をつける余地はない。

印前恢廓として、元鳥テン虫文なし:分別意識が生まれない空劫以前の世界

(=本来の面目)はひろびろとして余分なものは一切ない。


頌の現代語訳


興陽和尚の活作略は寰中に降りる天子の勅命や、辺地に遠征した将軍が下す号令のようである。

その雷鳴のような響きに冬眠中の虫が地中からはい出そうとするが興陽和尚は

虫のようにぐずつく僧を待つことはできない。

妙翅鳥王のような興陽和尚が羽ばたいて起こす風の前には竜王(僧)の起こした

黒雲なんかは吹き飛ばされてしまうことをどうして分からないのだろうか。

機を織っていると金針玉線のような美しい錦が次々に続いて織りなされる。

分別意識が生まれない空劫以前の世界(=本来の面目)はひろびろとして余分なものは一切ない。


解釈とコメント


   

本則は興陽清剖禅師と僧の問答である。

ある僧が興陽清剖和尚に、

娑カツ竜王のような大物が 海から出できたけれども天地は静かなものです

そのような大物に面と向かって出会った時どうされますか?」と聞く。

この僧の悟りは不十分であるにもかかわらず、自分は悟りを開いたという慢心を持って、

興陽清剖和尚に禅問答を挑んでいる。

これに対し、興陽清剖は、「妙翅鳥王が一羽ばたいて宇宙を飛ぶと海がサッと開いて

竜の隠れる場所がなくなると言われている

わしは竜を飲み込むという妙翅鳥王だ。お前さんが娑カツ竜王ならわしが一飲みにしてしまうぞ

と答える。

興陽清剖は竜を飲み込むという妙翅鳥王に成りきって、

もしお前さんが娑カツ竜王なら妙翅鳥王になったわしが一飲みにしてしまうぞ」と答えるのである。

これに対し、僧は、どう答えて良いものか分からず、

忽ち竜が出てきた時にはどうなさいますか?」

と急にトーンを落として聞く。

妙翅鳥王は竜を食べてしまうという神鳥だということを興陽和尚がハッキリ言っているのに僧は、

忽ち竜が出てきた時にはどうなさいますか?」

とトンチンカンな問いをしている。

しかも僧は最初の勢いを失って自信もなくなっている。

興陽は、

隼が鳩を捉えるようなものだ。それでも分からなければ楼前に本物を出したらはっきりするよ

と追い打ちをかけるように云う。

この言葉で興陽は、「お前さんが本当に悟っているのならばお前さんの悟りの端的を出してくれ!」

と僧に迫っているのである。

しかし、僧はこれに対し何も言うことも行動することもできない。 

僧は、「そうならば胸に手を当てて引き下がります

と云って敗北を認める。

興陽は、

須弥壇の下の烏亀子のようなのろまな奴だ。ぐずぐずしていると眉間に痕ができるほど打ってやるぞ

と言ってこの問答を締めくくった。

本則は碧巌録や無門関にも見あたらないので、従容録独自の公案といえる。

しかし、質問僧は悟っていないのに、

自分は、悟っていると慢心しているため、あまりレベルの高い公案とは言えない。


45soku

 第45則  覚経四節   



示衆:

現成公案(げんじょうこうあん)、只だ現今に拠る。

本分の家風分外(ぶんげ)を図らず。

若(も)し也た強いて節目(せつもく)を生じ、枉(ま)げて工夫を費やさば、

尽く是れ混沌のために眉を描き、

鉢盂(はつう)に柄を安ずるなり。

如何が平穏を得去らん。


注:

現成公案:現象はそのまま公案(仏法の生きた真理)である。

現成公案、只だ現今に拠る:現象はそのまま公案であるという世界は

即今露堂々と眼前に展開している。 

本分の家風:本来の面目の働き。

分外を図らず:人々の分上にゆたかに具わっている。

本分の家風分外を図らず:本来の面目の働きは人々の分上にゆたかに具わっている。 

節目:迷悟凡聖などの節目。

工夫:坐禅工夫。坐禅のやり方に工夫をすること。

若し也た強いて節目を生じ、枉(ま)げて工夫を費やさば:もし、迷悟や凡聖などの節目を生じ、

坐禅のやり方に強いて工夫をすれば。 

混沌:昔、目も鼻も口もない混沌というノッペラボウがいた。

人々が可哀そうだといって顔に穴をあけてやったら一週間で死んでしまった

という中国の神話に基づく。

鉢盂(はつう):お椀。

尽く是れ混沌のために眉を描き、鉢盂(はつう)に柄を安ずるなり:ことごとく混沌のために

眉を描いたり、お椀に柄を付けるようなことで、余計な事である。 

如何が平穏を得去らん:どうして心の平穏を得ることができるだろうか。


示衆の現代語訳


現象はそのまま公案であるという世界は即今露堂々と眼前に展開している。

本来の面目の働きは人々の分上にゆたかに具わっている。

それにもかかわらず、迷悟や凡聖などの節目を付けたり、

坐禅のやり方に強いて工夫するようなことをするのは、

ことごとく混沌のために眉を描いたり、お椀に柄を付けるようなことで、余計な事である。

そんなことで、どうして心の平穏を得ることができるだろうか。


本則:

円覚経に云く、「一切時に居して妄念を起こさざれ。諸の妄心に於て亦息滅せざれ

妄想の境に住して了知を加えざれ。了知無きに於て真実を弁ぜざれ」。


注:

円覚経:大方広円覚修多羅了義経。

大乗円頓(えんどん)の悟りの教理と観行(かんぎょう)の実践を説く。

円覚経は現在では中国撰述の偽経説もある問題経典である。

妄念:現世を嫌い、浄土を願う心。主客・自他の対立の心。取捨憎愛の心。  

諸の妄心に於て亦息滅せざれ:妄心は悪いものだと考えて抑えつけようとしてはならない。

妄想の境に住して了知を加えざれ:

妄想そのものが本分の家郷だ、本来の面目だという了知も切って捨てなさい。

了知無きに於て真実を弁ぜざれ:憎いはただ憎いでいい、可愛いはただ可愛いでよい、

それがそのまま本来の面目だと了知したら、主客対立に陥る。

その主客対立に陥らないのが真実だと分別し主張したらそれも悟りのカスだ。

そんな悟りのカスはきれいに掃除しなければならない。そこで初めて大きびまがあく。


本則の現代語訳:

円覚経では言っている、「あらゆる時に妄念を起こしてはならない

あらゆる妄心は悪いものだと考えて抑えつけようとしてはならない

妄想そのものが本分の家郷だ、本来の面目だという了知も切って捨てなさい

憎いはただ憎いでいい、可愛いはただ可愛いでよい

それがそのまま本来の面目だと了知したら、主客対立に陥る

その主客対立に陥らないのが真実だと分別し主張するのも悟りのカスだ

そんな悟りのカスはきれいに掃除しなければならない」。



巍巍堂々(ぎぎどうどう)、磊磊落落(らいらいらくらく)。

閙処(にょうしょ)に頭を刺し、穏処(おんしょ)に足を下す。

脚下線(きゃっかせん)絶えて我自由。鼻端泥(びたんでい)尽(つ)く、君けずることを休(や)めよ。

動著(どうちゃく)すること莫れ、千年故紙中(こしちゅう)の合薬(ごうやく)。


注:

巍巍堂々:山の高大なかたちが堂々としている。

磊磊落落(らいらいらくらく):志が大きくて細事にこだわらない。

巍巍堂々、磊磊落落(らいらいらくらく):偉大な禅者は

高大な山のように志が大きくて細事にこだわらない。

閙処:騒がしい処、念々起滅する処。ここでは妄想葛藤とストレスの本源となる上層脳を指している。

閙処に頭を刺す:くしゃくしゃの妄想葛藤の本源となる本来の面目(脳)を研究工夫する。

穏処:ここでは寂静の処である下層脳(脳幹+大脳辺縁系)。

穏処に足を下す:寂静の処である下層脳(脳幹+大脳辺縁系)の上に立脚する。

閙処に頭を刺し、穏処に足を下す:

騒がしい妄想葛藤の本源である本来の面目(特に上層脳)を研究工夫し、

寂静の処である下層脳(脳幹+大脳辺縁系)の上にしっかり立脚する。

脚下線:凡夫の足は貪瞋痴の糸で縛られて動きがとれないことを表している。

脚下線絶えて我自由:貪瞋痴の三毒が絶えて自由になる。

鼻端泥尽く:鼻先の泥のような迷悟凡聖へのこだわりは無くなっている。

鼻端泥尽く、君けずることを休(や)めよ:鼻先の泥のような迷悟凡聖へのこだわりは

とっくに無くなっている。付いてもいない迷悟凡聖へのこだわりはもう止めなさい。

動著すること莫れ、:うろたえるな!

千年故紙中の合薬:千年も昔の薬の能書き。役に立たない薬の能書き。「円覚経」のこと。

動著すること莫れ、千年故紙中の合薬:

千年も昔の薬の能書きのような「円覚経」にうろたえてはならない。


頌の現代語訳


偉大な禅者は高大な山のように志が大きくて細事にこだわらない。

騒がしい妄想葛藤の本源である本来の面目(特に上層脳)を研究工夫し、寂静の処である

下層脳(脳幹+大脳辺縁系)の上にしっかり立脚する。

そうすれば、貪瞋痴の三毒が消えて自由になり、

鼻先の泥のような迷悟凡聖へのこだわりは消えて無くなるだろう。

千年も昔の薬の能書きのような「円覚経」にうろたえてはならないのだ!


解釈とコメント


   

本則の四節の全てに対して万松行秀禅師は不という短評を付けているのが注目される。

万松行秀は本則の言葉を誤解しないように我々に注意を促しているのである。

頌で万松行秀は

千年も昔の薬の能書きのような「円覚経」にうろたえてはならないのだ!

と言っている。

現代では科学文明の発達によって、

何が正しい真理か、迷信であるかの情報を簡単に得ることができるようになった。

そのため、昔に比べ、迷信などの、迷妄に惑わされることが少なくなったと言えるだろう。

それでも、もっと主体性を持つ必要があるだろう。

本則は碧巌録や無門関にも見あたらないので、従容録独自の公案といえる

しかしこの公案の出典である「大方広円覚修多羅了義経(円覚経)」は

現在では中国撰述の偽経説もある経典である。

この観点からの考察も必要かも知れない。

本則で興味深いのは宏智正覚の「頌」であろう。特に次の第2行と第3行が重要である。

閙処(にょうしょ)に頭を刺し、穏処(おんしょ)に足を下す。」

脚下線絶えて我自由。鼻端泥尽く、君けずることを休めよ。」


これを脳科学の観点から現代的に分かり易く解釈すると次のようになるだろう。

妄想やストレスの本源となる本来の面目(下層脳中心の脳)を研究工夫しなさい。


そして、寂静の本源である下層脳(=脳幹+大脳辺縁系)の上にしっかり立脚しなさい。


そうすれば、貪瞋痴の三毒が消えて自由になり、

鼻先の泥のような迷悟凡聖へのこだわりは消えてしまうだろう。

さすが宏智正覚禅師だと思わせる優れた「」である。


46soku

 第46則 徳山学畢   



示衆:

万里寸草(ばんりすんそう)無きも浄地人を迷わす。

八方片雲無きも晴空汝を賺(すか)す。

是れ楔(けつ)を以て楔を去ると雖も、空を拈じて空をささうることを妨げず。

脳後(のうご)の一槌別(いっついべつ)に方便を見よ。


注:

万里寸草無し:坐禅の集中力が深まる時に現れる明鏡止水の水晶宮のような禅定の状態。

これを悟りの世界だと見誤る人もいるようだがそれは間違いである。

賺(すか)す:だます。 

万里寸草無きも浄地人を迷わす:坐禅の集中力が深まる時に現れる明鏡止水の水晶宮

のような清浄な禅定状態はこれこそ悟りの境地でないかと修行者を迷わす。 

八方片雲無:主客・自他という迷いの雲が無くなった境地。

八方片雲無きも晴空汝を賺(すか)す:主客・自他という迷いの雲が無くなり

心が晴れた空のような禅定の境地も参禅修行者をだます。 

楔(けつ):クサビ。 

是れ楔(けつ)を以て楔を去る:木材を割る時、クサビを打ち込んで割る。

最初に打ち込んだクサビだけで木材が割れない時にはクサビが取れなくなる。

そのようなが時には第二のクサビを打ち込んで木を割ってクサビを取る。

そのことを楔(けつ)を以て楔を去るという。

このように、クサビをいくつ打ち込んでもクサビに用はない。木材が割れれば良いのだ。

是れ楔(けつ)を以て楔を去ると雖も、空を拈じて空をささうることを妨げず:

木材を割る時、クサビを打ち込んで割る。打ち込んだクサビが取れない

時には第二のクサビを打ち込んで木を割ってクサビを取る。

しかし、クサビをいくつ打ち込んでもクサビに用はない。木材が割れれば良いのだ。

それは空をもって、空をささえるようなものだ。 

脳後の一槌:浄地晴空の状態を打破する一撃。 

脳後の一槌、別に方便を見よ:浄地晴空の禅定の病を打破する一撃をどのように使うか。

その一例を挙げるから見よ。 


示衆の現代語訳


禅定が深まる時に現れる明鏡止水の水晶宮のような清浄な禅定状態は

これこそ悟りの境地でないかと修行者を思わせ迷わせる。

また主客・自他という迷いの雲が無くなり心が晴れた空のような禅定の境地も参禅修行者をだます。

この2つの禅定の状態は悟りの世界だと修行者を迷わせるがそれは間違いだ。

木材を割る時、クサビを打ち込んで割る。打ち込んだクサビが取れなくなったら

第二のクサビを打ち込んでクサビを取る。

しかし、クサビをいくつ打ち込んでもクサビに用はない。木材が割れれば良いのだ。

クサビを打ち込むのは空をもって、空を支えるようなものだ。

以上挙げた浄地晴空の禅定の病を打破する一撃をどのように使えばよいのだろうか。

その一例を次に挙げるから見よ。


本則:

徳山円明大師衆に示して云く、「及尽し去るや、直に得たり

三世諸仏も口壁上に掛くることを。猶お一人有って呵呵大笑す若し此の人を知らば参学の事畢んぬ」。


注:

徳山円明大師:徳山縁密。雲門文偃(864〜949)の法嗣。

雲門の三句:「函蓋乾坤、随波遂浪、截断衆流

をまとめた人として知られる。

雲門の三句については碧巌録14則を参照)。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→

徳山宣鑑→雪峯義存→雲門文偃→徳山縁密

及尽し去る:至り尽くすまで修行する。

生まれてから以来習いおぼえた後天的知識や経験を全部捨て去る。

口、壁上に掛くる:口があかない、グウの音もでない。

三世諸仏も口壁上に掛くる:三世諸仏も口出しができない。

及尽し去るや、直に得たり、三世諸仏も口、壁上に掛くることを:

生まれてから以来習いおぼえた後天的知識や経験を全部捨て去るまで修行し尽くすと、

三世諸仏も口出しができないところに至るだろう。

猶お一人有って呵呵大笑す:それでも呵呵大笑する者(本来の自己)がいる。

若し此の人を知らば参学の事畢んぬ:もしこの本来の自己を知ることができれば

参禅禅修行の目的を卒業できるだろう。


本則の現代語訳:

徳山円明大師は修行者達に云った、

生まれてから以来習いおぼえた後天的知識や

経験を全部捨て去るまで修行し尽くすと、三世諸仏も口出しができないところに至るだろう。

それでも呵呵大笑する者(本来の自己)がいる

もしこの本来の自己を知ることができれば参禅禅修行の目的を達成できるだろう」。



収(しゅう)、襟喉(きんこう)を把断(はだん)す。

風磨し雲拭(ぬぐ)い、水冷ややかに天秋なり。

錦鱗(きんりん)謂うこと莫れ慈味無しと。

釣り尽くす滄浪(そうろう)の月一鈎(こう)。


注:

収:否定と把住の世界。

襟喉:咽喉。

収、襟喉を把断す:生まれてから以来習いおぼえた後天的知識や経験を全部否定し捨て去ると、

三世諸仏も口出しができなくなる。

風磨し雲拭い、水冷ややかに天秋なり:風がさっと迷いの雲を吹き払い、

水も涼しい秋の空のように尽く自己の光明となる。

錦鱗:否定と把住の世界。

錦鱗謂うこと莫れ慈味無しと:否定と把住の世界はつまらない世界だと思ってはならない。

真に素晴らしい世界なのだ。

釣り尽くす滄浪の月一鈎:月を釣針に雲を餌にして清津で釣りをしているようだ。


頌の現代語訳


否定と把住の世界に至ると三世諸仏も口出しができなくなる。

風がさっと迷いの雲を吹き払い、水も涼しい秋の空のように尽く自己の光明となる世界だ。

そのような世界はつまらないと思ってはならない。真に素晴らしい世界なのだ。

三日月を釣針にし、雲を餌にして清津で釣りをしているようだ。


解釈とコメント


   

本則は碧巌録や無門関にも見あたらないので、従容録独自の公案といえる。

本則は「生まれてから以来習いおぼえた後天的知識や経験を全部否定掃蕩し捨て去ると

三世諸仏も口出しができなくなる境地に至る」を第一の過程、

それでも呵呵大笑する者(本来の自己)がいる。もしこの本来の自己を知ることができれば

参禅禅修行の目的を達成できるだろう

を第二の過程だと考えると

第一の過程は「掃蕩門」に、第二の過程は「建立門」にそれぞれ対応している

と考えることができる。

禅修行の二法門である掃蕩門と建立門については「現成公案」を参照)。


図5には、第一の過程を{掃蕩門」に、第二の過程を「建立門」に対応して考えた場合、

第一、第二の過程と禅修行の二法門と悟りの深化との関係を示す。


図5

図5. 第一、第二の過程と禅修行の二法門と悟りの深化


図5に示したように、本則で解かれた二過程は第一の過程である

掃蕩門」の修行で見性し、第二の過程である「建立門」を経て悟りを更に深化させる

禅修行の二法門に対応していることが分かる。


47soku

 第47則  趙州柏樹    



示衆:

庭前の柏樹、竿上(かんじょう)の風幡(ふうばん)、一華無辺の春を説くが如く、

一滴大海の水を説くが如し。

間生(かんしょう)の古仏はるかに常流を出ず。

言思(ごんし)に落ちず若為(いか)んが話会(わえ)せん。


注:

柏樹:柏槙(びゃくしん)。柏槙はヒノキ科ビャクシン属の高木。糸杉に似た常緑樹で、

幹は桧に似て赤く縦じまが美しい。

無門関37則を参照)。

竿上の風幡:ここでは無門関29則「非風非幡」に出ている風幡をさす。 

無門関29則を参照)。

庭前の柏樹、竿上の風幡、一華無辺の春を説くが如く、一滴大海の水を説くが如し:

庭の柏槙の木、竿上の幡、一輪の花が限りない春を知らせるように、

一滴の海水は限りない海を知らせてくれる。

間生の古仏:500年間にたった1人生まれるといわれる偉大な人。

ここでは趙州和尚をさしている。

間生の古仏はるかに常流を出ず:500年間にたった1人生まれる

といわれる偉大な古仏趙州は世間の水準からはるかに抜きんでている。

言思に落ちず:言論や思想に捉われずに。 

言思に落ちず若為(いかん)んが話会(わえ)せん:

言論や思想に捉われずにどのように趙州と話をしたらよいだろうか。


示衆の現代語訳


庭の柏槙の木、竿上の幡、一輪の花が限りない春を知らせるように、

一滴の海水は限りない海を知らせてくれる。

500年間にたった1人生まれるといわれる偉大な古仏趙州は

世間の水準からはるかに抜きんでている。

それでは言論や思想に捉われずにどのように趙州と話をしたらよいだろうか。


本則:

僧趙州に問う、「如何なるか是れ祖師西来の意?」。

州云く、「庭前の柏樹子」。


注:

趙州:趙州従シン(じょうしゅうじゅうしん)(778〜897)。唐代の大禅者。

南泉普願(748〜834)の法嗣。趙州観音院に住んだので趙州和尚と呼ばれる。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →南泉普願→趙州従シン  

祖師西来意(そしせいらいい):祖師達磨がインドからはるばる渡来した西来(せいらい)

その意味はどこにあるのか?」という質問を通して禅の本質を問う常套的な言葉。

歴史的なことを質問しているのではない。禅の本質とは何かを問う言葉である。

柏樹子:柏槙(びゃくしん)の樹。子は助辞。

趙州従シン禅師がいた趙州観音院には柏の木(柏樹子=柏槙の樹)が多かったと言う。


本則の現代語訳:



趙州和尚にある僧が尋ねた、

達磨大師がはるばるインドからやって来た意図は何ですか ?」。

すると趙州は庭を指差して云った、

あの柏の樹じゃ」。



岸眉(がんび)、雪を横たえ、河目(かもく)秋を含む。

海口(かいく)浪を鼓(な)し、航舌(こうぜつ)流れに駕(が)す。

撥乱(はつらん)の手、太平の籌(ちゅう)。

老趙州老趙州。叢林を攪攪(こうこう)して卒(つい)に未だ休せず。

徒(いたづ)らに工夫を費やして、車を造って轍(てつ)に合す。

本技倆(ぎりょう)無うして壑(がく)に塞(ふさ)がり溝(こう)に填(み)つ。


注:

河目:目が横に長い形で付いている様子を河になぞらえている。

岸眉:趙州の眉を川岸に見立てている。

岸眉、雪を横たえ、河目秋を含む:趙州の眉毛は雪のように白く、

その下の目は秋の川の水のように澄みきっている。

海口:趙州の口を海の浪のとどろきに譬えている。

航舌:航は舟のこと。趙州の舌を舟に譬えている。

海口浪を鼓し、航舌流れに駕す:趙州の説法は海の浪のようにとどろき、

潮流に乗った船のようにスムーズに早く航行する。

撥乱の手:乱脈を打ち払う手。

籌(ちゅう):はかりごと。

撥乱の手、太平の籌(ちゅう):心の中の騒ぎと乱脈を打ち払う手であり、太平をもたらす活手段だ。

老趙州、老趙州:趙州禅師を敬愛する宏智正覚の讃嘆の言葉。

攪攪(こうこう)す:かきみだす。

叢林を攪攪(こうこう)して卒(つい)に未だ休せず:庭前の柏樹子」という言葉で

修行道場をかきみだし、その騒ぎは未だ止まない。

工夫を費やして:坐禅弁道に努力して。

轍に合す:レールに乗せて運転する。

車を造って:衆生再度して載せる車を作って。

徒らに工夫を費やして、車を造って轍に合す:普段は坐禅弁道に努力して衆生を乗せる車を作り、

いざという時にはレールに乗せて自在に運転する。

壑(がく):広い谷。

溝(こう)に填(み)つ:狭い溝に充ちている。

壑(がく)に塞がり溝(こう)に填(み)つ:どこにも充ちている。

本技倆無うして壑(がく)に塞がり溝(こう)に填(み)つ:もともと誰でも趙州と同じものが

どこにも充ちているのだかそれを知らないだけだ。


頌の現代語訳


趙州の眉毛は雪のように白く、その下の目は秋の川の水のように澄みきっている。

趙州の説法は海の浪のようにとどろき、海流に乗った船のようにスムーズに早く航行する。

趙州の言葉は心の中の騒ぎと乱脈を打ち払い、太平をもたらす力をもっている。

ああ老趙州!老趙州!」と声に出して讃嘆するしかない。

彼は「庭前の柏樹子」という言葉で修行道場をかきみだし、その騒ぎは未だ止まない。

普段は坐禅弁道に努力して衆生を乗せる車を作り、

いざという時にはそれをレールに乗せて自在に運転する。

しかし、もともと誰でも趙州と同じ仏性がどこにも充ちているのだかそれを知らないだけだ。


解釈とコメント


   

本則は無門関37則と同じである。

無門関37則を参照)。




48soku

 第48則  摩経不二    




示衆:

妙用無方(みょうようむほう)なるも手を下し得ざる処有り。

弁才無礙(べんざいむげ)なるも口を開き得ざる時有り。

龍牙(りゅうげ)は無手の人、拳を行ずるが如く、夾山は無舌人(むぜつじん)をして解語(げご)せしむ。

半路に身を抽(ぬき)んずる底、是れ甚麼人(なんびと)ぞ。


注:

摩経:維摩経。

不二:維摩経に出ている不二法門。

妙用無方なるも:何でも自由にできるが、

妙用無方なるも手を下し得ざる処有り:何でも自由にできるような人でも

手の下しようのない処がある。 

弁才無礙:雄弁自在なこと。

弁才無礙なるも口を開き得ざる時有り:どんな雄弁な人でも説明できない時がある。

龍牙:龍牙居遁

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价→龍牙居遁    

夾山:夾山善会(805〜881)

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→船子徳誠→夾山善会    

無手の人:無我の人。 

解語:ものが言える。

龍牙は無手の人、拳を行ずるが如く、夾山は無舌の人をして解語せしむ:龍牙は無心に

人を殴ることができるように、夾山はしゃべっても無心にしゃべることができる。

半路に身を抽(ぬき)んずる底:どこにも属さず落ちない、自由で独立した境地にある。

半路に身を抽(ぬき)んずる底、是れ甚麼人ぞ:

どこにも落ちない自主独立の人とはどんな人だろうか?


示衆の現代語訳


何でも自由にできるような人でも手の下しようのない処がある。

どんな雄弁な人でも説明できない時がある。

龍牙は拳を挙げて無心に人を殴ることができるように、

夾山はしゃべっても無心にしゃべることができる。

それではどこにも執着することがない真に自由で独立した人とはどんな人だろうか?


本則:

維摩詰、文殊師利に問う、「何等か是れ菩薩入不二の法門?」。

文殊師利日く、「我意の如くんば一切法に於て無言無説、無示無識にして諸の問答を離る

是れを入不二の法門となす」。

是に於て、文殊師利維摩詰に問うて云く、「我等各自に説き已る、仁者常に説くべし

何等か是れ菩薩入不二の法門?」。

維摩黙然。


注:

維摩詰(ゆいまきつ):維摩経の主人公で学識すぐれた在家の大乗仏教信者。

インドの古代都市ヴァイシャーリーに住んだと伝えられる

リッチャヴィー族の富豪ビマラキールティのこと。

不二の法門:相対的差別を超えた絶対平等の教え。

仁者:あなた。


本則の現代語訳:

維摩詰が文殊師利に聞いた、

菩薩入不二の法門とは何ですか?」。

文殊師利は言った、

すべての存在は説明することもできなければ、示すことも知ることもできない

人に聞くことも、答えることができない。これが入不二の法門です」。

ここで、文殊師利は維摩詰に聞いた、

私達菩薩は各自説き終わりました

今度は貴方が説いて下さい。菩薩入不二法門とは何ですか?」。

維摩は黙然として沈黙した。




曼殊疾を問う、老毘耶。不二門開けて作家を看る。

眠表(みんぴょう)粋中誰か賞鑑(しょうかん)す。

忘前失後咨嗟(しさ)すること莫れ。

区区として璞(はく)を投ず楚庭(そてい)のひん士。

燦燦として珠を報ず隋城の断蛇。点破することを休めよ、シ瑕(しか)を絶す。

俗気渾(す)べて無うして却って些(さ)に較(あ)たれり。


注:

曼殊:文殊菩薩。

老毘耶:維摩が住んだ毘耶離(ヴァイシャーリー)の略で維摩のこと。老は敬称。

曼殊疾を問う、老毘耶:文殊菩薩は病に伏す維摩居士を見舞った。

不二門開けて作家を看る:そこで不二法門が開いて仏法の大家である維摩を看ることになった。

眠:まだ磨かない玉のこと。

眠表:まだ磨かない玉の表面のこと。ここでは維摩の沈黙をなぞらえている。

粋:中味の純粋な玉のこと。ここでは文殊の説法をなぞらえている。

眠表粋中誰か賞鑑す:まだ磨かない玉の表面を維摩の沈黙に、

中味の純粋な玉を文殊の説法になぞらえて解釈することを誰がするだろうか?

忘前失後:前後忘失。ぼーっとして前後もわからなくなること。

咨嗟(しさ)する:タメイキをして嘆くこと。

忘前失後咨嗟すること莫れ:茫然自失してタメイキをして嘆いてはならない。

区区として:骨折って。

璞(はく):宝石の原石。

楚庭のひん士:第二則の示衆に出ている卞和三献(べんかさんこん)の故事に基づく。

璞を楚王に献上したらこれは単なる石だとされて

ひん刑(足の筋肉を切る刑罰)にあった卞和(べんか)のこと。

第二則の示衆「卞和三献(べんかさんこん)の故事」を参照)。

区区として璞(はく)を投ず楚庭のひん士:骨折って璞を探して献上したら

単なる石だとされてひん刑にあった卞和のように、

ちゃんとした眼力がないと見間違われると注意している。

骨折って璞を探しても単なる石だと見間違うことがあるので

ちゃんとした眼力をもって石と璞を見間違わないようにしないといけないと注意している。

燦燦として珠を報ず隋城の断蛇:昔、隋国の国王が、傷ついてひん死状態の大蛇を、

水で洗って薬を付けて洗って救ってやった。

するとそのお礼に、大蛇が夜光の珠(夜の暗闇でも光って見えるような珠)

を捧げて隋国の国王のところにやってきた。

国王は珠の光に驚いて思わず刀に手をかけたという。

夜光珠(夜の暗闇でも光って見えるような珠)のように

燦燦たる光を発する維摩居士の説法(不二法門)を見よと注意をうながしている。

点破:点検。

シ瑕(しか):キズ。

点破することを休めよ、シ瑕を絶す:点検する必要はない。

この珠(=脳=仏性)にはキズはないからだ。

この珠にはキズはないから点検する必要はない。

俗気渾(す)べて無うして却って些(さ)に較(あ)たれり:

維摩は俗人だが俗気はなく無キズの珠のようだ。

維摩のように俗気がなくなればいささか道にかなうことになる。


頌の現代語訳


文殊菩薩は病に伏す維摩居士を見舞った。

そこで不二法門が開いて仏法の大家である維摩に会うことになった。

まだ磨かない玉の表面を維摩の沈黙に、中味の純粋な玉を文殊の説法に

なぞらえて解釈するようなことを誰がするだろうか?

維摩居士に会って、茫然自失してタメイキをついて嘆いてはならない。

骨折って璞を探しても単なる石だと見間違うことがあるので

ちゃんとした眼力をもって石と璞を見間違わないようにしないといけない。

国王が珠の光に驚いて思わず刀に手をかけたという

夜光珠(夜の暗闇でも光って見えるような珠)のように

燦燦たる光を発する維摩居士の説法(不二法門)を正しく見ないといけない。

この珠のような維摩居士の説法(不二法門)にはキズはないから点検する必要はない。

維摩は俗人だが俗気はとれて無キズの珠のように輝いている。

この維摩のように俗気がなくなればいささか道にかなうことになるだろう。


解釈とコメント


   

本則は祖師や禅師の禅問答に由来しない公案である。

本則の原典は大乗経典である維摩経である。

会話の主人公は学識すぐれた在家の大乗仏教信者である維摩詰と文殊菩薩である。

維摩詰と文殊菩薩は共に歴史上の実在人物とは考えられない。

その観点から見ると本則は非常に変わった公案である。


不二法門とは何か?


   

本則では「不二法門とは何か?」が主題になっている。

不二法門」は維摩経の入不二法門品第九に説かれている。

それでは「不二法門」とは一体何だろうか?

不二法門」の不二とは二つでなく一つといことである。

ここでいう二とは大小、出入、迷悟、染浄、自他、苦楽、功罪などの

矛盾する対立的概念であると考えられている。

このことから、

不二とは分別意識が働き、主・客が分離する以前の純粋意識の世界のことだと考えれば分かり易い。

これらの考察より、

不二法門」とは、脳科学的には、上層脳(分別意識)が働く以前の

悟りの智慧である無分別智の主体である下層脳(脳幹+大脳辺縁系)中心の世界

のことだと言えるだろう。

不二法門」では、

分別意識の主体である理知脳(上層脳)が働き主客が分離する以前の脳宇宙、

即ち禅定中(坐禅中)の下層脳中心の脳宇宙がテーマになっている

と考えれば分かり易いだろう。

維摩は最後に沈黙したのは

脳宇宙(特に禅定中の脳)は常識を超え不立文字の世界であるからである。

この世界は文学や日常言語では説明できないから維摩は沈黙せざるを得なかった。

この世界は脳科学が進歩した20世紀になってようやく明らかになり、

初めて議論の対象になったのである。

1000年以上昔の古代世界では「不立文字!」と言うか、沈黙するしか無かったと言える。

本則は碧巌録84則と同じである。

碧巌録84則を参照)。

本則の頌には2則と同じ卞和三献の故事を引用している(第二則を参照)。

第二則の示衆「卞和三献(べんかさんこん)の故事」を参照)。

46則には混沌の話(荘子応帝王篇)、

34則と41則の頌では太公望や屈原の故事(史記)を引用している。

従容録には中国の故事や伝説の引用が多く、読み難い理由になっている。

中国の故事や伝説に詳しい人にとってこれらの引用が何を意味しているか分かるかも知れない。

特に、現在の日本人や外国人のように中国の故事や伝説に詳しくない人にとって

このような引用は何を意味しているかサッパリ分からないだろう。

従容録の原典となった「宏智頌古」の著者宏智正覚は宋代中国の知識人を念頭において

「宏智頌古(百則)」を書いたからだと思われる。

宏智正覚は自分達が住む中国が世界文明の中心だと考える中華思想の持ち主だったのかも知れない。


49soku

 第49則  洞山供真     




示衆:

描すれども成らず。画すれども就らず。

普化(ふけ)は便ち斤斗(きんと)を翻(ひるがえ)し、龍牙(りゅうげ)は只半身を露わす。

畢竟那(なん)の人、是れ何の体段(たいだん)ぞ。


注:

描すれども成らず。画すれども就らず:肉体の肖像ならば絵に描くことができるが

本来の面目(真の自己)は絵に描きようもなく、意識に描いてみようもない。

斤斗:トンボ返り。

斤斗を翻す:トンボ返りをする。普化は盤山宝積禅師の法嗣である。

盤山宝積禅師は臨終の時、弟子達を集めて、各自が一大事因縁を描写して見せるようにと、

最後の試験をした。その時普化はトンボ返りをしてすっと出て行ったと言われている。

普化:宝積禅師の法嗣。臨済義玄の布教を助けた人として臨済録に出て来る。

法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 → 盤山宝積→普化   

龍牙は只半身を露わす:龍牙には肖像画があるがそれは龍牙の半身しかを露わしていない。

肖像画は前か後からの半身を描くことができるが全身を描くことができない。

キャンバスは2次元であり、3次元の全身を描くことができないからである。

普化は便ち斤斗を翻し、龍牙は只半身を露わす:普化はトンボ返りを

して本来の面目を表現し、龍牙は肖像画でその半身を露わしただけである。

龍牙:龍牙居遁(りゅうげこどん)。洞山良价の法嗣。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价→龍牙居遁  

那の人:那人(あいつ)。釈迦や達磨のような仏法を成就した無位真人。

体段:なりふり。

何の体段ぞ:どのようななりふりをするだろうか?

畢竟那の人、是れ何の体段ぞ:畢竟、仏法を成就した真人はどのようななりふりをするだろうか?


示衆の現代語訳


肉体の肖像ならば絵に描くことができるが本来の面目(真の自己)は絵に描きようもなく、

意識の上にも描きようもない。

普化はトンボ返りをして本来の面目を表現し、龍牙は肖像画でただその半身を露わした。

畢竟、仏法を成就した真人はどのような応対をするだろうか?


本則:

洞山雲巌の真を供養する次いで、遂に前の真をバク(ばく)する話を挙す。

僧あり問う、「雲巌(うんがん)祇だ這れ是れと道(い)う意旨(いし)如何(いかん)?」。

山云く、「我当時(そのかみ)幾(ほと)んど過(あやま)って先師の意を会す」。

僧云く、「未審(いぶか)し雲巌還(かえ)って有ることを知るや也た無しや?」。

山云く、「若し有ることを知らずんば争(いか)でか恁麼(いんも)に道うことを

解せん、若し有ることを知らば争でか肯(あ)えて恁麼(いんも)に道(い)わん」。


注:

洞山:洞山良价(807〜869)。曹洞宗の開祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价      

雲巌:雲巌曇晟。洞山良价の師。

雲巌の真を供養する:雲巌曇晟禅師の年忌法事をする。

真:真像。

バク(ばく)する:かたどる。

真をバク(ばく)する:人物の真像をかたどる。雲巌禅師の真面目をかたどる。


本則の現代語訳:

洞山良价禅師は雲巌曇晟禅師の年忌法事をした時に先師雲巌禅師の真面目をかたどる話をした。

一人の僧が聞いた、

雲巌禅師がただ這れ是れと言われたそうですが、その真意はどういうものでしょうか?」。

洞山は云った、

私はその当時、ほとんど間違って先師の真意を理解していた」。

僧は云った、

雲巌禅師は真の自己を知っておられたのでしょうか

あるいは分かっておられなかったのでしょうか?」。

洞山は云った、

もし真の自己を知っていなければどうして「ただ這れ是れ」ということができようか

もし真の自己を知っていればどうしてそのように言えるだろうか」。


争でか恁麼に道うことを解せん。

五更鶏唱(うた)う家林の暁。

争でか肯えて恁麼に道(い)わん。

千年の鶴は雲松と与に老う。

宝鑑澄明にして正偏を験(けん)す。

玉機転側して兼倒(けんとう)を看る。

門風大いに振るって規歩(きほ)綿々たり。

父子変通して声光浩浩たり。


注:

五更:午前4時から午前6時頃。夜明け。

争でか恁麼に道うことを解せん:もし雲巌禅師が本来の面目(真の自己)があることを

知らないならば、どうしてそのように言うことができるだろうか。

知っているからこそ「ただ這れ是れ」と言うことができたのだ。

五更鶏唱(うた)う家林の暁:それは夜明けに鶏が鳴くようなものだ。

争でか肯えて恁麼に道わん。千年の鶴は雲松と与に老ゆ:もし雲巌禅師が本来の面目(真の自己)

について何か悟っていないならば、どうして「ただ這れ是れ」と言うことができるだろうか。

雲巌禅師はあたかも千年の老鶴が雲の中にそびえている松の頂きに巣を作って住んでいるような

知も不知も超越した境地にある。

鶴はただ巣を作って住んでいるようなものだ。

宝鑑:鏡。大悟徹底の健康な脳を宝鏡に譬えている。

正:空で平等絶対な下層脳(脳幹+大脳辺縁系を中心とした脳)の世界。

偏:別相対の世界。色々な認識・思考が生まれる上層脳(理知脳)の世界。

正偏については洞山五位を参照)。

宝鑑澄明にして正偏を験す:大悟徹底の健康な脳は明明了了としてあたかも澄み切った

宝鏡のようである。それは正偏をはじめ対象を正しく認識し判断できる。

玉機:立派な機織(はたおり)機械。

転側:ヒ(横糸をはこぶもの)が行き来すること。

ここでは横糸を偏位に、縦糸を正位になぞらえている。

兼倒(けんとう):洞山五位の兼中到(けんちゅうとう)のこと。ここでは横糸を偏位に、

縦糸を正位になぞらえ、それからできる反物(織物)を兼中到に譬えている。

洞山五位を参照)。

玉機転側して兼倒(けんとう)を看る:立派な機織(はたおり)機械が

縦横に動いて兼中到の境地に至る。

規歩:規行矩歩の略。顛足乱歩ではない規則正しい歩み。

一大事の仏法を弟子から弟子へと正伝継承すること。

門風大いに振るって規歩綿々たり:一大事の仏法を弟子から弟子へと

正しく継承してそれぞれの門風が栄える。

父子変通:師匠と弟子がともに大悟徹底すること。

父子変通して声光浩浩たり:師匠と弟子がともに大悟徹底すればその名声は盛大となる。


頌の現代語訳

もし雲巌禅師が本来の面目(真の自己)があることを知らないならば、

どうしてそのように言うことができるだろうか。

知っているからこそ「ただ這れ是れ」と言うことができたのだ。

それは夜明けに鶏が鳴くようなものだ。

もし雲巌禅師が本来の面目(真の自己)について何か悟っていないならば、

どうして「ただ這れ是れ」と言うことができるだろうか。

雲巌禅師はあたかも千年の老鶴が雲の中にそびえている松の頂きに巣を作って

住んでいるようなもので、知も不知も超越した境地にある。

鶴がただ巣を作って住んでいるようなものだ。

大悟徹底した状態の健康な脳は明明了了としてあたかも澄み切った宝鏡のようである。

それは正偏をはじめ対象を正しく認識し判断できる。

立派な機織(はたおり)機械にも譬えることができる本来の面目が

縦横に働いて兼中到という境地に至る。

一大事の仏法を弟子から弟子へと規則正しく継承してそれぞれの門風が栄えるし、

師匠と弟子がともに大悟徹底すればその名声は盛大となるだろう。


解釈とコメント


   

本則は曹洞宗の開祖洞山良价の語録「洞山録」から取った公案であり、

碧巌録や無門関にも見当たらない。

曹洞宗的な公案と言える。

本則では

本来の面目(真の自己)をどのように表現するかがテーマとなっている。

洞山良价の師である雲巌禅師が本来の面目(真の自己)について「ただ這れ是れ

と言ったことについて僧と洞山の間の問答が本則になっている。

本来の面目(真の自己)は肉身ならば絵に描くことができるが、

肉身ではないので絵に描きようもなく、意識の上にも描きようもない。

ただ這れ是れ」と言うしかないというのが雲巌曇晟の立場といえるだろう。

本則の最後の部分で洞山が云った言葉、

もし真の自己を知っていなければどうして「ただ這れ是れ」

ということができようか

もし真の自己を知っていればどうしてそのように言えるだろうか」が分かり難い。

洞山は、「もし真の自己を知っていてもいなくても、「ただ這れ是れ」と言うしかなかった」

と言っていると考えれば良く分かる。

現代の我々は脳科学を知っているので

真の自己(本来の面目)」は「下層脳を中心とする脳」だと科学的に表現することができる。

悟りの経験とその分析を参照)。

しかし、洞山良价や雲巌曇晟の時代(=唐代)には脳科学もなかったので

文学的に「ただ這れ是れ」と暗示的に言うしか

なかったのだといえるだろう。

ただ這れ是れ」と言う言葉は本来の面目(=脳)とその働きを表している

と考えることができる。

これと似た公案として碧巌録51則がある。

碧巌録51則を参照)。

次の従容録50則もこれと似た公案と言える。


50soku

 第50則  雪峰甚麼    




示衆:

末後の一句始めて牢関(ろうかん)に到る。

巌頭(がんとう)自負して上(かみ)親師(しんし)を肯(うけが)わず、下(しも)法弟に譲らず。

為(は)た復た是れ強いて節目(せつもく)を生ずるや。

為た復た別に機関ありや。


注:

末後の一句:とどめを刺す言葉。禅の究極の処をさす一句。無字や隻手の声など。

牢関:悟りへ立ちふさがる堅固な関門。

末後の一句始めて牢関に到る:とどめを刺す言葉に参ずることによって

悟りへ立ちふさがる堅固な関門に至る。

巌頭:厳頭全豁(828〜887)。徳山宣鑑(780〜865)の法嗣。

巌頭は雪峰より若いが雪峰の兄弟子に当たる。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑→厳頭全豁

巌頭自負して上親師を肯わず、下法弟に譲らず:巌頭は傑物であったためか自分の力量を

自負して上は親師を肯わず、下は法弟(雪峰義存)に遠慮しない独立独歩の人だ。

節目:節は竹の節で、目は木の年輪のこと。

機関:作略。活作用。

為(は)た復た是れ強いて節目を生ずるや。為た復た別に機関ありや。:巌頭がわざわざ

節目を作って人をまぜかえすのか。あるいはまた別に活作略があるのだろうか。


示衆の現代語訳


とどめを刺すような一句に参ずることによって悟りへ立ちふさがる堅固な関門に至る。

巌頭は傑物であったため自分の力量を自負して上は親師を簡単に肯わず、

下は法弟(雪峰義存)に遠慮しない独立独歩の人だ。

あるいは巌頭がわざわざ節目を作って人をまぜかえすのか。

あるいは彼に活作略があるのだろうか。


本則:

雪峰住庵の時、両僧あり、来って礼拝す。峰、来たるを見て、

手を以て庵門を托して、放身して出でて云く、「是れ甚麼ぞ?」。

僧亦云う、「是れ甚麼ぞ」。

峰、低頭して庵に帰る。

僧、後に巌頭に到る。

頭問う、「甚麼の処より来たるや?」。

僧云く、「嶺南」。

頭云く、「曾て雪峰に到るや?」。

僧云く、「曾て到る」。

頭云く、「何の言句か有らん」。

僧前話を挙す。

頭云く「他は甚麼とか道いし?」。

僧云く、「他、語無うして低頭して庵に帰る」。

頭云く、「噫当時他に向かって末後の句を道わざりき

若し伊に向かって道わば、天下の人、雪老を奈何ともせじ」。

僧夏末に至って、再び前話を挙して請益す。

頭云く、「何ぞ早く問わざる?」。

僧云く、「未だ敢えて容易にせず」。

頭云く、「雪峰我と同条に生ずと雖も、我と同条に死せず

末後の句を知らんと要せば、只だ這れ這れ」。


注:

雪峰:雪峰義存(822〜908)。徳山宣鑑(780〜865)の法嗣。

本則は雪峰が会昌の廃仏(会昌の仏教弾圧、842〜846)をさけて

庵に身を潜めていた時の話だと伝えられている。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峰義存  

巌頭:厳頭全豁(828〜887)。

徳山宣鑑(780〜865)の法嗣。巌頭は雪峰より若いが雪峰の兄弟子に当たる。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑→厳頭全豁  

末後の句:とどめを刺す言葉。禅の究極の処をさす一句。無字や隻手の声など。

請益:教えを請うこと。

雪峰、我と同条に生ず:雪峰は我と兄弟弟子である。同条とは同じ枝。

雪峰と私厳頭は同じ徳山宣鑑の弟子であるという意味。


本則の現代語訳:

雪峰義存が庵に身を潜めていた時、二人の僧が来て礼拝した。

雪峰は二僧が来るのを見て、手の平で庵門を押し開き、

パッと飛び出して云った、

これはなんだ?」。

僧もまた云った、

これはなんだ」。

雪峰は、うなだれて庵に帰った。

僧は後に巌頭のところに行った。

巌頭は云った、

何処から来たのか?」。

僧は云った、

巌南(広東省地方)より来ました」。

巌頭は云った、

雪峰のところに行ったか?」。

僧は云った、

以前に行きました」。

巌頭は云った、

雪峰はどのようなことを言っていたか」。

僧は以前雪峰のところで交わした話をした。

巌頭は云った、

その他に何か言ったか?」。

僧は云った、

雪峰和尚はだまってうなだれて庵に帰られました」。

巌頭は云った、

ああ、残念なことをした。わしが彼に禅の究極のことを言わなかった。

もしわしが彼にそれを言っていれば

天下の人は誰も雪峰老師をどうすることもできないだろう」。

僧は夏の修行期間が終わる頃になって再び前の話をして巌頭に教えを請うた。

巌頭は云った、

こんな大事な問題を何故早く問わなかった。今迄一体何をしていたのだ?」。

僧は云った、

これは容易ならん問題です」。

巌頭は云った、

「雪峰とわしは兄弟弟子だがわしとは別人格だ

お前さん、禅の究極の処を知りたいかな。それを一言で言えば、『ただこれこれ』じゃ」。


切磋し琢磨し、変態しこう訛す。

葛陂化龍(かっぴけりゅう)の杖、陶家居蟄(とうけきょちつ)の梭(おさ)。

同条に生ずるは数あり、同条に死するは多無し。

末後の一句只這れ是れ、風舟(ふうしゅう)月を載せて秋水に浮かぶ。


注:

切磋琢磨:玉を磨きあげること。

変態こう訛:変わった姿、ナマリ言葉。

切磋し琢磨し、変態しこう訛す:玉を磨きあげるように手をかえ品をかえて

あいまいなナマリ言葉を使って指導する。

葛陂化龍の杖:仙人がくれた魔法の杖で、葛陂という池に投げ込むと、

杖がたちまち竜に変化して竜になって昇天したという故事伝説に基づく。

梭(おさ):機織道具。ヒともいう。

陶家居蟄の梭(おさ):網にかかった機織道具の梭(おさ)を壁に掛けていたところ、雷雨があった。

するとその梭(おさ)がたちまち竜に変化して竜になって昇天したという中国の故事伝説に基づく。

葛陂化龍の杖、陶家居蟄の梭:この二人の僧はどうしようもない鈍物であるが

雪峰は二人を活竜にしようと手をつくした。

同条に生ずるは数あり、同条に死するは多無し:同じ師匠の下で修行する弟子の数は多いが、

同じ師匠の下で死ぬ弟子は少ない。

巌頭と雪峰のように同じ徳山宣鑑という師匠の下で修行したが、

1人立ちすると、独立独歩の生活をして、指導教化をした。

末後の一句只這れ是れ、風舟月を載せて秋水に浮かぶ:禅の究極の処をさす一句は

ただ這れ是れ」としか言いようがない。

この境涯に生きる禅者の生活ぶりはあたかも

空には月がかかり、秋水に静かに浮かんでいる風舟

のように美しく臭味がない。


頌の現代語訳

玉を磨きあげるように手をかえ品をかえてあいまいなナマリ言葉を使って指導する。

仙人がくれた魔法の杖を葛陂(かっぴ)という池に投げ込むと、

杖がたちまち竜に変化して竜になって昇天したという話がある。

また網にかかった機織道具の梭(おさ)を壁に掛けていたところ、

雷雨とともに、その梭(おさ)がたちまち

竜に変化して竜になって昇天したという故事伝説もある。

この二人の僧はどうしようもない鈍物であるが雪峰は二人を活竜にしようと手をつくした。

同じ師匠の下で修行する弟子の数は多いが、同じ師匠の下で死ぬ弟子は少ない。

巌頭と雪峰のように同じ徳山宣鑑という師匠の下で修行したが、

1人立ちすると、独立独歩の生活をして、指導教化に活躍した。

禅の究極の処をさす一句は「ただ這れ是れ」としか言いようがない。

この境涯に生きる禅者の生活ぶりはあたかも

空には月がかかり、秋水に静かに浮かんでいる風舟

のように美しく臭味がない。


解釈とコメント


   

本則の最後の処で厳頭全豁は

禅の究極の処(本来の面目)をさす一句は「ただ這れ是れ」だと言っている


本来の面目(=脳)とその働き」を表わす「ただ這れ是れ」という言葉が

49則に続いて50則でも現れているのが注目される。

   

本則は碧巌録51則と同じである(碧巌録51則を参照)。

碧巌録51則を参照)。

   






「従容録」の参考文献


   

1.安谷白雲著、春秋社 禅の真髄「従容録」 2002年

2.高橋直承校註、鴻盟社、和訳校註「従容録」1982年

   

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