2016年6月6日〜6月10日

山水経・2

   
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山水経・2について





「山水経・1」では「山水経」の前半部(第1文段〜第15文段)までを解説した。

「山水経・2」では「山水経」の後半部(第16文段〜第30文段)までを

合理的な立場から分かり易く解説したい。



16bundan

 第16文段



原文

 一境をみるに 見しなじななりとやせん、 象を一境なりと誤錯せりとやせん、

功夫の頂 にさらに功夫すべし。

しかあればすなはち、修證辨道も一般兩般なるべからず、究竟の境界も千種萬般なるべきなり。

さらにこの宗旨を憶想するに、 類の水たとひおほしといへども、

本水なきがごとし、 類の水なきがごとし。

しかあれども、隨類の 水、それ心によらず身によらず、業より生ぜず、

依自にあらず依他にあらず、依水の透脱あり。



注:


一境:一つの客観的対象。同じ一つの対象。 


諸見:諸種の見方。いろんな見方。 


諸象:いろんな現象。 


誤錯:誤解すること。誤ること。 


功夫:努力し探究すること。 


本水なきがごとし:本来の水はこれという決まったものがないようだ。 


修証弁道:仏道を修証するための弁道。 


一般兩般なるべからず:一筋や二筋で足れりとしてはならない。 


依自にあらず依他にあらず:主観に依存している訳でも、

客観に依存している訳でもない。自他のいずれに依るものではない。 


依水:水はただ水だということ。

依水の透脱あり:ただ水はただ水だということであり、

そのまま透脱して存在しているだけで、それが本来の面目の姿である。



 現代語訳:

同じ一つの対象をいろいろ違ったものと見ているのであろうか。

それともいろいろ違う対象を一つの物だと誤っているのだろうか。

工夫の上に工夫を重ねなければならない。

そうであるから、仏道を修証入するための弁道も一筋や二筋で尽きるものではない。

究極の境涯も千差万別であるべきである。

さらにこの考え方を推し進めて行くと、いろいろの種類の水は多いけれども、

本来の水はこれという決まったものがないようだ。

いろいろの種類の水はないように思われる。

しかしながら、見る主体に応じて様々に見られる水は

意識から生まれるものでも、身体からうまれるものでもない。

また業から生まれるものでもない。

主観に依存している訳でも、客観に依存している訳でもない。

ただ水はただ水だということでありそのまま透脱して存在している。

それが本来の面目の姿である。



解説とコメント:

ここでは道元独自の禅的立場に立って、水の考察をしている。

ただ水はただ水だということでありそのまま透脱して存在している。

それが本来の面目の姿であると言う。 

道元は水は自然科学でいう物理化学的存在としての水(化学式:H2O)でもなく、

次に述べる地水火風空識の六大説(密教で説かれる)の水でもなく、

伝統的な地水火風空(五元素説)の水でもないと考えている。

現代人にとってはなんとも理解し難い考え方を展開している。

しかし、心・境一如の立場に立つと、水は単なる物質的存在ではなく、真の自己と見なされる。

ここでも、水を真の自己に喩えて議論していると考えれば分かり易い。

心境不二の悟りを参照 )。



17bundan

 第17文段



原文17

しかあれば、水は地水火風空識等にあらず、水は青黄赤白黒等にあらず、

色聲香味觸法等にあらざれども、地水火風空等の水、おのづから現成せり。

かくのごとくなれば、而今の國土宮殿、なにものの能成所成とあきらめいはんことかたかるべし。

空輪風輪にかかれると道著する、わがまことにあらず、他のまことにあらず。

小見の測度を擬議するなり。

かかれるところなくは住すべからずとおもふによりて、この道著するなり。  

注:


地水火風空識:密教では古代インドの地水火風空の五大要素に識を加え、 

地水火風空識の六大要素が根源的で、宇宙の万物はこの六大要素で構成されていると説く。 


空輪風輪: 地水火風空の五大要素をそれぞれ地輪・水輪・火輪・風輪・空輪とも言う。

輪とはもろもろの性質を欠けることなく具有しているという意味。


かかる:よりどころとする。依存する。


擬議: はかり考えること。 



 現代語訳:

従って、水は地水火風空識のような六大要素の一つでもなく

、青黄赤白黒などの色彩の一つでもない。

色声香味触法という(六境)の一つでもないが、地水火風空などの五大説で説かれる水は、

現に目の前に実在しているのである。

このようであれば、現在存在する國土や宮殿が、誰がどのように作ったつくったものかを

明言することは難しいことである。

古代インドの須弥山説ではこの世界は空輪や風輪の上に懸って空中に浮かんでいると言われる。

そのように言う人もそれを聞く他の人にとっても真実ではない。

それは信頼に値しないインド古来の宇宙観をいろいろ想像しているに過ぎない。

何かにより懸っていなければ安定して存在することができないだろう考えるから

須弥山説のようなものが出て来るに過ぎないのだ。



解説とコメント:

水一つを考えてみても、地水火風空識のような六大要素の一つでもなく、

青黄赤白黒などの色彩の一つでもない。

水は色声香味触法という(六境)の一つでもないが、

地水火風空などの五大説で説かれる水は、現に目の前に実在しているのである。

現代のような科学はないから水ひとつ考えても六大要素、

色彩、六境、などの考え方を出して複雑かつ難しく考えている。

そのようだから、現在存在する國土や宮殿が、誰が作りどのようにつくったものか

を明言することは難しいと言っている。

一神教が説く神のような造物主を持ち出して説明していないところが注目される。

古代インドの須弥山説ではこの世界は空輪や風輪の上に懸って空中に浮かんでいると言われる。

そのように言う人もそれを聞く他の人にとっても真実ではない。

それは信頼に値しないインド古来の宇宙観をいろいろ想像しているに過ぎない。

何かにより懸っていなければ安定して存在できないだろう考えるから須弥山説のようなもの

が出て来るに過ぎないと

須弥山説に対しても冷静に客観的に考えている。

須弥山説に対しては大乗仏教その1を参照)。



18bundan

 第18文段



原文18

仏言、一切諸法畢竟解脱、無有所住

一切諸法は畢竟解脱なり、所住有ること無し)。

しるべし、解脱にして繋縛なしといへども諸法住位せり。

しかあるに、人間の水をみるに、流注してとどまらざるとみる一途あり。

その流に多般あり、これ人見の一端なり。

いはゆる地を流通し、空を流通し、上方に流通し、下方に流通す。

一曲にもながれ、九淵にもながる。のぼりて雲をなし、くだりてふちをなす。

常運歩の示衆を究弁すべし、運歩のゆゑに常なり。青山の連歩は其疾如風より

もすみやかなれども、山中人は不覚不知なり。

山中とは世界裏の華開なり。山外人は不覚不知なり。

山をみる眼目あらざる人は、不覚、不知、不見、不間、這箇(しゃこ)道理なり。

もし山の巡歩を疑著するは、自己の蓮歩をもいまだしらざるなり。



注:


一切諸法畢竟解脱、無有所住

一切諸法は畢竟解脱なり、所住有ること無し:この文は大宝積経89巻の取意文とも、

維摩経にも似た文があると言われている。

諸法は結局のところ苦しみから解脱している。別に依拠する所はない

という意味である。この引用文は真の自己の本質を言っているのである。


畢竟(ひっきょう): 究極のところ。結局。


 所住: とどまる所。依拠する所。


繋縛(けばく): 拘束。


諸法住位:世界の中に座をしめること。


一途: 一つの見方。


一曲: 河の流れの曲がっている所。


九淵(きゅうえん): 非常に深い淵。九重の深さを持った淵。


淵(ふち): 水を深くたたえ、よどんでいる所。



 現代語訳:

釈尊は言われた、「一切諸法は結局のところ苦しみから解脱している。別に依拠する所はない。」

結局のところ解脱し自由であるけれども、「諸法はそれぞれの法位に住している。」

と知らねばならない。

法位については「現成公案」を参照)。

しかしながら、人間が水を見る場合には、流れ注いで止まるところがないと見る見方がある。

その流れには多様な種類があるが、これは人間の見方の一端である。

地面を流れ、空を流れるとも言われる。上に蒸発し、下に流れる。

曲がりくねった河にもながれ、九層の深い淵にも流れる。

空に昇っては雲となり、雨となっては流れ下ってふちを作る。



解説とコメント:

ここでは大宝積経89巻の取意文「一切諸法畢竟解脱、無有所住

(一切諸法は畢竟解脱なり、所住有ること無し)

を引用し、一切諸法はそれぞれの法位に住して解脱し自由であると言っている。

この引用文は「諸法無我」の精神とともに真の自己(本来の自己)の本質を言っているといえるだろう。

しかし、人間が水(=真の自己)を見る場合には、流れ注いで止まるところがないと見る見方がある。

その流れには多様な種類があるが、これは人間の見方の一端である。

地面を流れ、空を流れるとも言われる。上に蒸発し、下に流れる。

曲がりくねった河にもながれ、九層の深い淵にも流れる。

空に昇っては雲となり、雨となっては流れ下ってふちを作る。

このように心境一如の立場に立って「真の自己」を水になぞらえて、

水のようにいろんなあり方や見方があると論じている。



19bundan

 第19文段



原文19

文子曰、「水之道、上天爲雨露、下地爲江河

(水の道、天に上りては雨露を爲す。地に下りては江河を爲す)。

いま俗のいふところ、なほかくのごとし。

佛 の兒孫と稱ぜんともがら、俗よりもくらからんは、もともはづべし。

いはく、水の道は水の所知覺にあらざれども、水よく現行す。

水の不知覺にあらざれども、水よく現行するなり。

上天爲雨露」といふ、しるべし、水はいくそばくの上天上方へものぼりて雨露をなすなり。

雨露は世界にしたがふてしなじななり。

水のいたらざるところあるといふは小乘聲聞經なり。

あるいは外道の邪 なり。

水は火焔裏にもいたるなり、心念思量分別裏にもいたるなり、覺知佛性裏にもいたるなり。

下地爲江河」。しるべし、水の下地するとき、江河をなすなり。

江河の よく賢人となる。

いま凡愚庸流のおもはくは、水はかならず江河海川にあるとおもへり。

しかにはあらず、水のなかに江海をなせり。

しかあれば、江海ならぬところにも水はあり、水の下地するとき、江海の功をなすのみなり。

また、水の江海をなしつるところなれば世界あるべからず、佛土あるべからずと學すべからず。

一滴のなかにも無量の佛國土現成なり。

しかあれば、佛土のなかに水あるにあらず、水裏に佛土あるにあらず。

水の所在、すでに三際にかかはれず、法界にかかはれず。

しかも、かくのごとくなりといへども、水現成の公案なり。



注:

文子(もんし):周の辛釿の撰というが恐らく偽書。


くらし: 判断力がなく、暗愚である。


水の道: 水のあるべき姿。


所知覚: 知覚する所。認識し感受する所。


現行: 現実に運行する。感覚や知覚の対象となること。


不知覚: 認識・感受されない所。


いくそばくの上天上方: はるかかなたの天空。


下地: 地面に下ること。


江河の精: 江は揚子江。河は黄河。揚子江や黄河が感じさせる精気。


凡愚庸流: 凡庸で愚かな人達。


三際: 過去・現在・未来の三つの際限。


法界:仏法の世界。



 現代語訳:

文子という本では「水之道は天に上っては、雨や露となり、

地に下っては大小の河となる」と述べている。

俗人が書いた本でもこのように言っている。

ましてや仏祖の児孫と自称している人達が俗人より愚かであることは極めて恥ずかしいことである。

水の道は水の知覚する所ではないけれども、水は現にいろんなところに移動・運行している。

水の道は水が認識・感受しない所ではないけれども、水は現に移動・運行し存在している。

文子では「水之道は天に上っては、雨や露となる」と言っている。

水ははるかかなたの天空に昇って雨や露となるのである。

その雨や露は周囲の環境によって色んな種類となる。

水が至らない所があると説くのは小乗仏教の声聞経典や外道の邪教である。

水は炎の中にも入り込むし、思慮分別の中、覚知や仏性の中にも至るのである。

文子では「地上に下っては江河となる」と述べているように

水が地上に下ると揚子江や黄河のような江河となるのである。

揚子江や黄河の精気は凝っては賢人となるのである。

ところが凡庸で愚かな連中は水は例外なく大小の河や海にのみ存在すると思っている。

しかしそうではなく、水によって大きな川が作られ、海が作られているのである。

そうであるから大きな川や海でない所にも水は存在し、

水が地上に下る時には、大きな川や海の様相を呈するに過ぎない。

また水が川をなし海をなしている所では世界は存在する筈がなく、

仏国土も存在する筈はないと学んではならない。

一滴の水の中にも無数の仏国土が現に存在しているのである。

そうであるから、仏国土の中に水があるのではなく、

水の中に仏国土があるのでもない。

水の存在は過去・現在・未来の時間を超越し、法界を超越している。

しかしそのようでありながら水の存在は仏法の生きた現れである。



解説とコメント:


ここでは文子の「水之道は天に上っては、雨や露となり、地に下っては大小の河となる」を引用し、

水がいろんなところに移動・運行して大小の河や海になるという様相を論じ、

一滴の水の中にも無数の仏国土が存在していると言っている。

そして、水の存在は過去・現在・未来の時間を超越し、法界を超越している。

しかしそのようでありながら水の存在は仏法の生きた現れであると言っている。

 第18文段で述べた論理と良く似た展開となっている。

ここでも文子を引用しながら、真の自己(=本来の自己)の本質も

このような水のようなものだと論じていると考えることができるだろう。




20bundan

 第20文段



原文20

佛祖のいたるところには水かならずいたる。

水のいたるところ、佛祖かならず現成するなり。

これによりて、佛祖かならず水を拈じて身心とし、思量とせり。

しかあればすなはち、水はかみにのぼらずといふは、内外の典籍にあらず。

水之道は、上下縱横に通達するなり。

しかあるに、佛経のなかに、火風は上にのぼり、地水は下にくだる。

この上下は、參學するところあり。いはゆる佛道の上下を參學するなり。

いはゆる地水のゆくところを下とするなり。

下を地水のゆくところとするにあらず。

火風のゆくところは上なり。

法界かならずしも上下四維の量にかかはるべからざれども、

四大五大六大等の行處によりて、しばらく方隅法界を建立するのみなり。

無想天はかみ、阿鼻獄はしもとせるにあらず。阿鼻も盡法界なり、無想も盡法界なり。



注:


法界: 仏法の世界。ここでは宇宙という意味。


内外の典籍: 内典は仏教経典のこと。外典は仏教以外の経典のこと。

仏教経典と仏教以外の経典。


佛経のなかに、火風は上にのぼり、地水は下にくだる。: この佛経とは金光明最勝王経

だと考えられる。

金光明最勝王経重顕空性品第九に地水火風を蛇に譬え、

「地、水の二蛇は多く沈下し、風、火の二蛇は性軽く挙がる。」と述べている。

この経文を引用していると考えられる。


上下四維: 上下と東西南北の四方。


四大五大六大: 四大とは地水火風の四元素のこと。

五大とは四大に空大を加えた地水火風空の五元素のこと。

六大とは五大は五大に識大を加えた地水火風空識の六元素のこと。


行処: 行く所。


法界: 世界。


方隅法界: 四方八方の方向から成り立つ世界(直方体の世界)。


無想天:無想有情天(むそううじょうてん)のこと。

禅定が深まって心の働きが一切止まってしまっている禅定。

禅で良く用いられる「無念無想」という言葉は,無想定,無想天の略語である。

無想定は,一切の想念を滅する禅定で,

それによって感得される果報が無想天といわれる。


阿鼻獄: 阿鼻地獄のこと。

阿鼻は梵語のアビチーの音写語で、無間地獄と訳される。

この地獄に堕ちた者は、絶え間なく苦しみを受けるところから無間地獄とも呼ばれ、

数ある地獄のなかでも最も苦しい地獄といわれる。


尽法界: 全法界。全宇宙。





 現代語訳:

仏祖のいるところには水が必ずあるし、水のある所には仏祖が必ずいる。

そこで仏祖は水を自己の心身とみなし、自己の思量だとしたのである。

そうであるから、水は下に下るのみで上に昇ることはないという考えは

内典にも外典にも見当たらない

水の道は、上下縦横に自由に通達しているのである。

しかし、仏教経典(金光明最勝王経)のなかには、

「火や風は上に昇り、地や水は下に下る」と述べてある。

この上下という方向については学ぶべきところがある。

いわゆる仏道の上下とは何かを学ぶべきである。

仏道においては地や水が行く方向を下と定義するのである。

下を地や水が行く方向と定義するのではない。

火風のゆくところは上の方である。

法界は必ずしも上下四方とか方向に関係はないが、

四大五大六大等がおもむく方向によって、仮に世界を考えるだけである。

無想天は高尚な境地、阿鼻獄は下等な境地だと考える価値観ではない。

阿鼻地獄もそこで間断なく苦しむ者にとっては全世界となるし、

無想天もそこで無念無想の禅定を楽しむ者にとって全世界となる。



解説とコメント:


ここでは18,19文段で述べた論理と良く似た展開となっている19文段の続きと言える。

例えば上の現代語訳の5行の文中の水を「真の自己」に置き換えると次のようになる。

仏祖のいるところには真の自己が必ずあるし、真の自己のある所には仏祖が必ずいる。

そこで仏祖は真の自己を自己の心身とみなし、自己の思量だとしたのである。

そうであるから、真の自己は下に下るのみで上に昇ることはないという考えは

内典にも外典にも見当たらない。

真の自己の道は、上下縦横に自由に通達しているのである。

  この例でも分かるように、ここでも心境一如の立場に立って「真の自己」を水になぞらえて、

「真の自己」にはいろんなあり方や見方があると論じている。

ただ、率直に言うと、水の動く方向についてくどくどと論じているのは饒舌な議論のように思える。

「心とは山河大地、日月星辰である」を参照 )。



21bundan

 第21文段



原文21

しかあるに、龍魚の水を宮殿とみるとき、人の宮殿をみるがごとくなるべし、

さらにながれゆくと知見すべからず。

もし傍觀ありて、なんぢが宮殿は流水なりと爲説せんときは、

われらがいま山流の道著を聞著するがごとく、龍魚たちまちに驚疑すべきなり。

さらに宮殿樓閣の欄階露柱は、かくのごとくの説著ありと保任することもあらん。

この料理、しづかにおもひきたり、おもひもてゆくべし。

この邊表に透 を學せざれば、凡夫の身心を解脱せるにあらず、

佛祖の國土を究盡せるにあらず。

凡夫の國土を究盡せるにあらず、凡夫の宮殿を究盡せるにあらず。



注:


龍魚:龍と魚。


知見:認識し、感受する。


傍觀:傍観者。傍で見ている人。


樓閣: 高殿。


欄階: てすりや階段。


露柱:戸外に立っている野ざらしの柱。


保任: 保持しわが身を任せること。身につける。


料理: 料ははかる。理論を考えること。はかり、理解する。


この邊表に透脱を学せざれば、: こういうところで相対の世界を透り抜けることを学ばなければ。



 現代語訳:

しかしながら、竜や魚が水を見て宮殿だと見なす時には、

人間が宮殿を見る時と同じようであって、宮殿である水が流れているとは考えないだろう。

もし傍観者がいて、(竜や魚に向かって)

お前達が宮殿として見ているものは実は流水なのだ」と言ってやるならば、

それは我々人間が「山は流れ動くものだ

という言葉を聞いて驚くのと同じように竜や魚も驚き疑うことだろう。

さらに、竜や魚が「宮殿のてすりや階段や露柱は流動的で固定したものではない

という主張をそのまま受け入れて保持し身につけることもあるだろう。

このように静かに考えよく思いめぐらすべきである。

こういうところで相対の世界を透り抜けることを学ばなければ、

凡夫の身心から解脱することはできないし、仏祖の世界を究め尽くしたとは言えない。

また凡夫の住む世界究め尽くしたとも、凡夫の住む宮殿を究め尽くしたとは言えない。



解説とコメント:


ここでは、一水四見の例として、竜や魚が水を見て宮殿だと見なす時には、

どう考えたら良いかについて考察して、竜や魚の物の見方についても

相手の立場を考慮に入れて静かに考えよく思いめぐらすべきだとしている。

そして、こういうところで相対の世界を透り抜けることを学ばなければ、

凡夫の身心から解脱することはできないし、仏祖の世界を究め尽くしたとは言えない。

また凡夫の住む世界究め尽くしたとも、凡夫の住む宮殿を究め尽くしたとは言えないと論じている。



一水四見(いっすいしけん)とは



唯識学には一水四見(いっすいしけん)というものの見方がある。

認識の主体が変われば認識の対象も変化するという考え方である。

たとえば、人間にとっての河(=水)は

天人にとっては瓔珞、

魚にとっては己の住みか、

餓鬼にとっては炎の燃え上がる膿の流れ、

というように、見る者によって全く違ったものとして見えるという。

一水四見(いっすいしけん)を読みこんだ歌としては、

手を打てば鳥は飛び立つ鯉は寄る 女中茶を持つ猿沢の池

が知られている。

手を打って出した単なる音を

鳥は何か危険を知らせる音だと聞いて逃げる。

鯉にとっては、餌を呉れる時に呼ぶ音だと聞いて寄ってくる。

女中にとっては客が茶を要求している音に聞こえる。


このように、同じ音でも、識が作り出したものであるため、

認識の主体が変われば認識の対象も変化することを言う。

この例えを一水四見(いっすいしけん)という。




22bundan

 第22文段



原文22

いま人間には、海のこころ、江のこころを、ふかく水と知見せりといへども、

龍魚等、いかなるものをもて水と知見し、水と使用すといまだしらず。

おろかにわが水と知見するを、いづれのたぐひも水にもちゐるらんと認ずることなかれ。

いま學佛のともがら、水をならはんとき、ひとすぢに人間のみにはとどこほるべからず。

すすみて佛道のみづを參學すべし。

佛 のもちゐるところの水は、われらこれをなにとか所見すると參學すべきなり、

佛 の屋裏また水ありや水なしやと參學すべきなり。



注:


こころ:内容、あり方。


海のこころ:海としてのあり方。


ひとすぢに人間のみにはとどこほるべからず。:ただ人間の立場だけに拘泥してはならない。

屋裏:家の中。



 現代語訳:

さしあたって、人間は、海や江の内容やあり方を、水であると確信しているのであるが、

龍魚などが、どのようなものを水として認識し、水として使っているのか未だ分かっていない。

自分が愚かな立場から水と認識しているものを、

人間以外のすべての生き物も水として用いているのであろうと考えてはならないのだ。

いま仏教を学ぼうとしている人々が、水について学ぼうとする時、

ただ人間の立場だけに拘泥してはならない。

進んで仏法の水について参学究明すべきである。

仏祖が用いる水を我々は何と見るかを参学すべきである。

仏祖の心の中にはたして水があるのかどうかと参学すべきである。



解説とコメント:


ここでも一水四見の例の例の考察の続きとして、竜や魚がどのようなものを水として認識し、

水として使っているのか未だ分かっていない。

自分が愚かな立場から水と認識しているものを、人間以外のすべての生き物も

水として用いているのであろうと考えてはならないと述べている。

一水四見の例の場合、

人間以外の他の生物も人間のように認識し考えているという前提の下に議論している。

しかし、魚のように脳が下等な生物が人間のように認識能力を持って、

思考しているかどうか疑問である。

道元も人間以外の他の生物も人間のように認識し考えている

という前提には疑問を持っていたようである。

それは、「自分が愚かな立場から水と認識しているものを

人間以外のすべての生き物も水として用いている

のであろうと考えてはならない

と述べていることからも分かる。

魚のような生物が人間のように認識し考えているかは疑問だとしても、

水(真の自己)について学ぼうとする時、ただ人間の立場だけに拘泥してはならない。

進んで仏法の水について参学究明すべきである。

仏祖が用いる水を我々は何と見るかを参学すべきである。

仏祖の心の中にはたして水があるのかどうかと参学すべきであると説いている。



23bundan

 第23文段



原文23

山は超古超今より大聖の所居なり。

賢人聖人、ともに山を堂奥とせり、山を身心とせり。

賢人聖人によりて山は現成せるなり。

おほよそ山は、いくそばくの大聖大賢いりあつまれるらんとおぼゆれども、

山はいりぬるよりこのかたは、一人にあふ一人もなきなり。

ただ山の活計の現成するのみなり、さらにいりきたりつる蹤跡なほのこらず。

世間にて山をのぞむ時節と、山中にて山にあふ時節と、頂 眼睛はるかにことなり。

不流の憶想および不流の知見も、龍魚の知見と一齊なるべからず。

人天の自界にところをうる、他類これを疑著し、あるいは疑著におよばず。

しかあれば、山流の句を佛 に學すべし、驚疑にまかすべからず。

拈一はこれ流なり、拈一はこれ不流なり。

一回は流なり、一回は不流なり。

この參究なきがごときは、如來正法輪にあらず。



注:


超古超今:古今を超越していること。悠久の昔。


所居:居る所。住む所。


堂奥:建物の奥。


いくそばくの:いくばくの。どれくらいの。かずかずの。


いりあつまれるらん:入って集まっているだろうと。


活計:生き生きとした活動。生き生きとしたいとなみ。


蹤跡(しょうせき):足跡。


頂ネイ眼睛(ちょうねいがんせい):頭のてっぺんと目の玉。


一齊:全く同一。


人天の自界にところをうる:人間や天人が自分の世界に安住する。


拈一はこれ流なり:ある時の説法では「流れる」と説く。


拈一はこれ不流なり:ある時の説法では「流れない」と説く。


一回は流なり:ある場合には「流れる」である。


一回は不流なり:ある場合には「流れない」である。


如來正法輪: ブッダが説かれた正しい仏法。



 現代語訳:

山は古今を越えた太古の昔より偉大な聖人の住んだ所である。

賢人や聖人は、ともに山を住まいとし、山を自己の身心としたのである。

賢人や聖人によって山は山としての価値を表して来たのである。

およそ山は、人が山に入る以前はどれほど多くの賢人や聖人が入り集まっているのだろう

と思われるかもしれないが、山に一旦入ってみると、一人の人間に会うこともない。

ただ山の生き生きした活動があるだけで、人が山に入ってきた跡形も全く残らないのである。

俗世間にいて山を見る場合と、修行のため山に入って山と対峙する場合とは、

山の真相は非常に異なっているのである。

人が山が流れることはないと考える不流の考えは

竜魚が不流と考えることとその内容が全く違うのである。

人間や天人が自分の世界に安住するようなことがあっても、

人天以外の他類はそれに疑いを持ったり、あるいはまったく疑わない

こともあるだろう。

そうであるから、「山は流れる」という言葉についても仏祖に参学すべきである。

いたずらに、これを驚疑してはならない。

ある時の説法では「流れる」と言い、ある時には「流れない」と言う。

またある場合には「流れる」であり、ある場合は「流れない」である。

このようにいろんな観点から参究を行わない教説は如来の正しい仏法ではない。



解説とコメント:


ここでは山は古今を越えた太古の昔より偉大な聖人の住んだ所で、

賢人や聖人は、山を住まいとし、自己の身心としたのである。

賢人や聖人によって山は山としての価値を表して来たのであると山を賛美している。

しかし、山に入る以前はどれほど多くの賢人や聖人が入り集まっているのだろう

と思われるかもしれないが、山に一旦入ってみると、一人の人間に会うこともない。

ただ山の生き生きした活動があるだけで、人が山に入ってきた跡形も全く残らないといっている。

この文段から主題はからに替わっている。

ここでも心境一如の立場に立って山を「真の自己」になぞらえて、

「真の自己」について述べていると考えれば分かり易い。

22文段までは水を「真の自己」になぞらえて、「真の自己」について述べていたが

23文段からは山が「真の自己」に置き換わっているのである。

心境不二の悟りを参照 )。



24bundan

 第24文段



原文24

古佛いはく、「欲得不招無間業、莫謗如來正法輪(無間の業を招かざることを得んと

欲(おも)はば、如來正法輪を謗ずること莫れ)」。

この道を、皮肉骨髓に銘ずべし、身心依正に銘ずべし。

空に銘ずべし、色に銘ずべし。

若樹若石に銘ぜり、若田若里に銘ぜり。

おほよそ山は國界に屬せりといへども、山を愛する人に屬するなり。

山かならず主を愛するとき、聖賢高 やまにいるなり。

聖賢やまにすむとき、やまこれに屬するがゆゑに、樹石鬱茂なり、禽獸靈秀なり。

これ聖賢の徳をかうぶらしむるゆゑなり。

しるべし、山は賢をこのむ實あり、聖をこのむ實あり。



注:


欲得不招無間業、莫謗如來正法輪: (無間の業を招かざることを得んと欲せば、

如來正法輪を謗ずること莫れ)

この言葉は永嘉真覚(ようかしんかく)(665〜713)著作の「証道歌」の

中の一文である。

「証道歌」の第17文段を参照)。

「無間地獄に落ちる悪業を作らないようにしたいと思えば、如来の正法を非難してはならない」

という意味。


古佛:「証道歌」の著者である永嘉真覚(ようかしんかく)禅師(無相大師、665〜713)。

「証道歌」の解説文頭を参照)。


無間業: 無間地獄に落ちる悪業。


正法輪: 正しい仏法。


銘ず: 記す。書きつける。


依正: 依報正報の略。依報とは過去の業(ごう)の報いとして受ける、心身のよりどころ

としての国土などの環境。

正報とは過去世で行った善悪の行為の報いとして受ける、衆生の身心。

自然環境(依報)と、そこに存在する人間(正報)のこと。


空: ものは縁起(相互作用、条件)によって存在するので、

縁起(相互作用、条件)が無くなれば存在しないこと。

「空」については般若心経を参照)。


色: 色や形ある物質的存在。


若樹若石: もしくは樹にもしくは石にという意味。

大乗涅槃経(聖行品)の雪山童子の説話に由来する。


若田若里: もしくは田にもしくは里にという意味。

法華経随喜功徳品の経文からの引用。

「若樹若石」に調子を合わせて道元が言った語句だと考えられる。

「若樹若石」が自然現象を表すのに対し、

「若田若里」は社会現象を表している。


靈秀: 神秘的な聡明さを備えていること。


實: 事実。実績。



 現代語訳:

古仏永嘉真覚(665〜713)禅師は「証道歌」で

無間地獄に落ちる悪業を作らないようにしたいと思えば、如来の正法を非難してはならない。」

と言っている。

  この言葉を、皮肉骨髓に徹して銘記すべきである。

心身とそれを取り巻く環境にも銘記すべきである。

色にも空にも銘記すべきである。

樹や石のような自然にも田や里のような社会にも銘記すべきである。

一般的に山はそれぞれの國に属しているが、国よりも山を愛する人に属していると言える。

山は入山する人を必ず愛することが分かるので、聖人・賢人・高徳の人は山に入るのである。

聖人・賢人が山に住む時、山は聖人・賢人に所属するようになるため、樹木や石は鬱蒼と茂り、

そこに住む禽獣は神秘的な聡明さを具えるようになる。

これは聖賢の徳が樹石や禽獣に及ぶためと言える。

山は賢人を好み、聖人を好むという実績があると知るべきである。



解説とコメント:


  ここでは冒頭で

無間地獄に落ちる悪業を作らないようにしたいと思えば、如来の正法を非難してはならない。」

という永嘉真覚(665〜713)禅師の「証道歌」の一文を引用している。

この言葉を、皮肉骨髓のみならず心身とそれを取り巻く環境にも銘銘記すべきである。

樹や石のような自然にも田や里のような社会にも銘記すべきであると言っている。

それ以降は山について論じている。

ここでも心境一如の立場に立って山を「真の自己」になぞらえて、

真の自己」について述べていると考えれば分かり易い。



25bundan

 第25文段



原文25

帝者おほく山に幸して賢人を拜し、大聖を拜問するは、古今の勝躅なり。

このとき、師禮をもてうやまふ、民間の法に準ずることなし。

聖化のおよぶところ、またく山賢を強爲することなし。

山の人間をはなれたること、しりぬべし。

クウトウ華封のそのかみ、黄帝これを拜請するに、膝行して廣成にとふしなり。



注:


勝躅(しょうちょく): すぐれた先例。


師禮: 師に対する礼儀作法。


民間: 一般社会人の間。


山賢: 山中に住む賢人。


聖化: 帝王の権力。


強爲: 強制すること。


クウトウ華封(くうとうかふう):クウトウは甘粛省にある山の名前で、

仙人広成子が住んでいたと言われる。

 華封とは華やかな風土という意味で、堯舜の古代の理想的社会を指している。


黄帝: 古代中国の帝王で、古代中国文化の大成者とされる。


拜請(はいしょう): 礼拝して教えを乞うこと。


膝行: 膝を地につけいざって歩くこと。


廣成: 古代中国の仙人広成子のこと。

『神仙伝』巻一の『広成子』によると、広成子は古代中国の仙人で、クウトウ山の石屋で暮らしていた。

彼が千二百歳の時に黄帝が至上の道について尋ねてきたが、

広成子は「お前が天下を治めるようになってから鳥類はその季節にもならないのに飛び立ち

草木は黄葉する前に散るようになった

と言って断った。

黄帝が三ヶ月間閉居した後に再び教えを請うと、広成子はこれに答えたという。



 現代語訳:

多くの帝王が山に入って偉大な聖人や賢人を礼拜したり、拜問することは、

古来からすぐれた事跡がある。

この時には、帝王は師に対する礼儀作法をもって賢人や聖人を敬うのであって、

一般社会のしきたりに従うことはしない。

山は帝王の権力がおよぶところであるが、帝王は山に住む賢人に対し

全く権力を振るって強制することをしない。

山が人間の世俗的権力を離れた存在であることは、

かって仙人広成子がクウトウ山の石室に住んでいた古代中国の黄金時代に、

黄帝は広成子に対し膝行礼拝してその教えを乞うた事例からも分かるのである。



解説とコメント:

多くの帝王が山に入って偉大な聖人や賢人を礼拜したり、拜問することは、

古来からすぐれた事跡がある。

伝説的帝王である黄帝と仙人広成子の事跡を挙げて、山は中国の古代から

人間の世俗的権力を離れた聖なる存在であったと山について論じている。

ここでも心境一如の立場に立って山のすぐれた事跡を「真の自己」になぞらえて、

述べていると考えれば分かり易い。




26bundan

 第26文段



原文26

釈迦牟尼佛かつて父王の宮をいでて山へいれり。

しかあれども、父王やまをうらみず、父王やまにありて太子ををしふるともがらをあやしまず。

十二年の修道、おほく山にあり。法王の運啓も在山なり。まことに輪王なほ山を強爲せず。

しるべし、山は人間のさかひにあらず、上天のさかひにあらず、

人慮の測度をもて山を知見すべからず。

もし人間の流に比準せずは、たれか山流山不流等を疑著せん。



注:


法王: ここでは釈尊のこと。


あやしまず: けしからぬことだとしなかった。


十二年の修道: ブッダの六年の苦行と六年の禅定修行。


運啓: 運命がひらけること。ここではブッダが開悟したことを指す。


法王の運啓: 成道して法王になったこと。


輪王: 転輪聖王。世界を統領する聖王。この場合は釈尊の父である浄飯王を指すと考えられる。


山を強爲せず: 山に入った人を統治強要しない。


上天: 天上界の天人。


比準: 比べなぞらえること



 現代語訳:

釈尊もかつては国王である父王の宮殿を出て山に入った。

しかし、父王は山をうらまず、山にいて太子を教える人々をけしからぬことだとしなかった。

釈尊は一二年に及ぶ修道はおおむね山で行い、山において開悟し法王となったのである。

実際のところ世界を統治する転輪聖王も山に入った人にたいしては強制的な統治をしないのである。

山は一般の人間が住むべき領域でも天上界の天人が住む領域でもないと知るべきである。

人間の浅はかな推測を基にして山を認識・知見してはならないのだ。



解説とコメント:

ここでは釈尊(ゴータマ・ブッダ)と山の関係について述べている。

釈尊もかつては王宮を出て山に入った。

釈尊は一二年に及ぶ修道はおおむね山で行い、山において開悟し法王となったのである。

実際のところ世界を統治する転輪聖王も山に入った人(釈尊)にたいしては強制的な統治をしないのである。

山は一般の人間が住むべき領域でも天上の天使が住む領域でもないと知るべきである。

人間の浅はかな推測を基にして山を認識・知見してはならないと述べている。

道元は敬愛する仏教の開祖釈尊も山と深い関係があったと山の重要性を強調している。

現代ではゴータマ・シッダールタは29才で出家し、6年間の苦行をした後,

36才の時開悟したという説が有力である。

しかし、道元はこれとは異なり、ゴータマ・シッダールタは12年間(6年の苦行+6年の禅定修行)、

山で修行をしたと信じていたようである。



27bundan

 第27文段



原文27

あるいはむかしよりの賢人聖人、ままに水にすむもあり。

水にすむとき、魚をつるあり、人をつるあり、道をつるあり。

これともに古來水中の風流なり。さらにすすみて自己をつるあるべし、

釣をつるあるべし、釣につらるるあるべし、道につらるるあるべし。

むかし徳誠和尚、たちまちに藥山をはなれて江心にすみしすなはち、華亭江の賢聖をえたるなり。

魚をつらざらんや、人をつらざらんや、水をつらざらんや、みづからをつらざらんや。

人の 誠をみることをうるは、 誠なり。徳誠の人を接するは、人にあふなり。



注:


ままに: 成り行きに任せて。


風流: 遺風。


徳誠(とくじょう)和尚: 船子徳誠(せんすとくじょう)禅師。生没年不明。

薬山惟儼禅師の法嗣。華亭江に舟を浮かべ、密かに薬山から受けた法を

伝える実力ある弟子を求めた。

世の人は彼を船子(せんす)和尚と呼んだ。

道吾円智禅師の指示で彼を訪ねてきた夾山善会を教化し、

後事を託した後、薬山惟儼禅師の法恩に報いることができたとし、船を覆して入水したと伝えられる。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→薬山惟儼→船子徳誠


華亭江:江蘇省松江県華亭を流れる川の名前。



 現代語訳:

場合によっては昔からの賢人や聖人が、成り行きに任せて河の辺に住むこともあった。

河の辺に住む時には、魚を釣る人もあれば、人材を見つけ出す人もあり、真理を掴む人もあった。

これらはいずれも昔から河の辺に住む人のやりかたである。

さらにこれが進んで真の自己を明らかにする人もいるだろうし、単に釣を楽しむ人もいるだろう。

釣に魅せられて釣りに引きずり回されるひともいるだろうし、

仏法の真理に魅せられて修行をする人もいるだろう。

むかし徳誠和尚、たちまちに藥山の下を離れて河の辺に住んでいたが、これによって、

華亭江の聡明さや神秘を我が物にすることができた。

徳誠和尚がどうして魚を釣らないことがあっただろうか、人を釣らないことがあっただろうか、

水に魅せられないことがあっただろうか、己事究明に集中しないことがあっただろうか。

人が徳誠に相見できるのは、徳誠自身の人格になり切ることができた場合である。

また徳誠が人を接化することができるのは、

徳誠が接化されるべき人の人格になり切った場合である。



解説とコメント:


船子徳誠禅師は、師である薬山惟儼禅師の下を離れて華亭江という河辺住んでいた。

彼はこれによって、華亭江の聡明さや神秘を我が物にし、己事究明の悟りの境地を深めていた。

ここでは船子徳誠禅師と法嗣となった夾山善会の相見の物語の詳細については省略している。

修行者が徳誠のような真の師家に相見できるのは、

師家である徳誠自身の人格になり切ることができた場合であり、

師家である徳誠が修行者を接化できるのは、

師家である徳誠が接化されるべき修行者の人格になり切った場合であると述べている。

師家である船子徳誠禅師と法嗣となった夾山善会禅師の相見が実現したのは

2人の間にそのような相見・接化の条件がぴったり満たされたためであると言っている。



28bundan

 第28文段



原文28

世界に水ありいふのみにあらず、水界に世界あり。

水中のかくのごとくあるのみにあらず、雲中にも有情世界あり、

風中にも有情世界あり、火中にも有 世界あり、地中にも有情世界あり。

法界中にも有情世界あり、一莖草中にも有情世界あり、

一シュ杖中にも有情世界あり。

有情世界あるがごときは、そのところかならず佛祖世界あり。

かくのごとくの道理、よくよく參學すべし。



注:

有情世界:有情は生物のこと。有情世界は生物の住む生物界のこと。


シュ杖(しゅじょう):シュは体を支えると言う意味。

徒歩で旅行する時に使う杖のこと。

禅ではシュ杖は「真の自己」の象徴として用いられることが多い。

「碧巌録」25則を参照)。



現代語訳:

世界に水があるというだけではなく、水界にも世界がある。

水中に世界があるだけではなく、雲中にも、風中にも、火中にも、地中にも有情世界があるのである。

法界中にも有情世界があり、一莖草中にも、一柱杖中にも有情世界があるのだ。

そして有情世界があるところには、かならず仏祖の世界がある。

このような道理を、よくよく考えて參學すべきである。



解説とコメント:


人間の世界におけるように、世界に水があるというだけでなく、一般に水界にも世界がある。

水中に世界があるだけではなく、雲中にも、風中にも、火中にも、

地中にも有情世界(生物界)があると

広く、水中、雲中、風中、火中にも、地中にも有情世界が展開されていると考えている。

法界中にも有情世界があり、一莖草中にも、一柱杖(杖)中にも有情世界(生物界)がある。

そして有情世界があるところには、かならず仏祖の世界があると述べている。

道元は人間界だけでなく広く、水中、雲中、風中、火中にも、

地中にも有情世界が展開されていると考えている。

これは卓見である。

確かに、生物の世界(有情世界)は広く、水中、空風中にも、

地中にも有情世界(生物界)は展開されている。

こここまでの道元の考えは正しく卓見だと言えるだろう。

しかし、道元は広く一般化したため、そのような有情世界(生物界)があるところには、

人間界と同じように、かならず仏祖の世界があると考えている。

そしてこのような道理を、よくよく考えて參學すべきであると言っている。

道元は人間界だけでなく水中、風中、地中にも、

有情世界(生物界)があると一般化して考えたところまでは正しいと言えるだろう。

水中、風中(空気中)、地中(土壌中)にも、有情世界(生物界)が観察されているからである。

道元は更に一般化して、雲中や火中にも、有情世界(生物界)があると考えていたようである。

しかし、筆者は無学にして、現在まで、雲中や火中にも、

有情世界(生物界)があるという報告を聞いたことはない。

従って、雲の中や、火中にも、雲中有情世界(生物界)があるという考えは

ちょっと言い過ぎ(間違い?)だと考えて良いだろう。

特に火中は高温すぎて、生物が生きる環境ではないと考えられる。

温泉中で生きている生物が報告されているが、火中は高温すぎて、

生物が生きることができる環境ではないと考えられる。

道元が生きた中世までは科学的観察法は発達していなかった。

そのため、一般化しすぎて想像に頼り過ぎたためこのように考えたのだと思われる。

もう一つおかしい点は、有情世界(生物界)があるところには、

かならず仏祖の世界があると考えている点である。

これは想像が飛躍し過ぎておかしいところである。

確かに、水や土などには微生物が存在する。

人間界だけでなく広く、水中、、風中(空気中)、地中にも

有情世界(生物界)は展開されている。

ここまでは道元の主張は視野が広く正しいと言えるだろう。

道元はそれより更に踏み込んで、有情世界があるところには、

かならず仏祖の世界があると考えている。

これには疑問がある。

これは細菌や微生物、みみずや蜜蜂,鳥類などの生物界にもかならず仏教や仏祖の世界があると

考え主張することに相当する。

人間界に仏教があり仏祖の世界があることは正しい。

しかし、それを他の有情世界(生物界)に拡張解釈すると、細菌や微生物、みみずや蟻、

蜜蜂の世界にもかならず仏教や仏祖の世界があると主張することになる。

しかし、今まで細菌や微生物、みみずや蟻、蜜蜂の世界にも

仏教や仏祖の世界があると確認されたり発見された例は一つもない。

蜜蜂や蟻のような昆虫も一つの世界(or社会)を作っていることはよく知られている。

しかし、蜜蜂やすずめ蜂の世界に仏教があり仏祖の世界があると考えることはできない。

ましてや、結核菌や破傷風菌のような単純な微生物の世界(有情世界)に

仏教があり仏祖がいると考えることはできない。

道元の生きた時代は中世である。現代の進んだ科学や生物学はなかった。

そのため、他の生物界(有情世界)にも人間のような世界があり、

仏教があり仏祖の世界があると想像し、拡張解釈したと思われる。

しかし、他の生物界にも人間のような世界があり、

仏教があり仏祖の世界があると考えることはちょっとおかしい。

高崎山動物園の猿の社会にはボス猿はいるが、仏教はないし、宗教もない。

仏祖に相当する猿は発見されてはいない。

人間界と異なる蜜蜂やすずめ蜂などの昆虫界にも仏教があると考えることはできない。

結核菌や破傷風菌のような微生物の世界にも仏教があり

仏祖の世界があるならば非常に面白い。

彼等と交流したり交信できれば他の生物界の仏教や仏祖を知ることになるだろう。

しかし、それは単なる空想やファンタジーの世界と考えるしかないだろう。

道元は、このような道理を、よくよく考えて參學すべきであると言っているが

それはちょっと難しいのではないだろうか。



29bundan

 第29文段



原文

しかあれば、水はこれ眞龍の宮なり、流落にあらず。

流のみなりと認ずるは、流のことば、水を謗ずるなり。

たとへば非流と強爲するがゆゑに。

水は水の如是實相のみなり、水是水功 なり、流にあらず。

一水の流を參究し、不流を參究するに、萬法の究盡たちまちに現成するなり。

山も寶にかくるる山あり、澤にかくるる山あり、空にかくるる山あり、

山にかくるる山あり、藏に藏山する參學あり。



注:

眞龍: 真の参禅修行者。


流落: 流れ落ちて行くだけが水ではない。流落には零落の意味がある。


如是実相: 目の前に展開されたありのままの姿。そのまま真実の姿。


水是水: 水そのもの。





現代語訳:

したがって、水は真の参禅修行者の住み家である。

水は、流れるとか落ちるとかいう性質に限定されるものではない。

流れる性質のみと考えるならば、流れるという言葉が、水の真の性質を覆い隠すことになる。

たとえば水は流れる性質のものだと限定して考えれば、

水は流れないと決めつけなければならないような結果にも

なりかねないからである。

水は我々の眼前にある水の限定されないありのままの姿そのものが真の姿であり、

水の真の功徳というものである。

流れるという性質だけに限定されるものではない。

一水の流れるとは何かを参究し、流れないとは何かを

参究することで、万法の究極の姿が明らかにされるのである。



解説とコメント:

ここでは、水は真の参禅修行者の住み家である。

水は、流れるとか落ちるとかの性質に限定されるものではない。

流れる性質のみを限定して考えれば、流れるという言葉が、水の真の性質を

覆い隠すことになると言っている。

たとえば水は流れる性質のものだと限定して考えれば、水は流れないと

決めつけなければならないような結果にもなりかねない。

このように水の性質を一面的限定的に決めつけないで柔軟に参究する

ことで万法の究極の姿が明らかにされると言っている。



30bundan

 第30文段



原文

山も寶にかくるる山あり、澤にかくるる山あり、空にかくるる山あり、

山にかくるる山あり、藏に藏山する參學あり。

古佛云、「山是山水是水」。

この道取は、やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり。

しかあれば、やまを參究すべし、山を參窮すれば山に功夫なり。

かくのごとくの山水、おのづから賢をなし、聖をなすなり。

正法眼藏山水經第二十九

爾時仁治元年庚子十月十八日于時在觀音導利興聖寶林寺示衆



注:

古佛: 雲門文偃禅師(864〜949)。雲門宗の開祖。

法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑→

雪峯義存→ 雲門文偃  


古佛云、山是山水是水: 雲門広録上巻には「上堂云、諸和尚子、莫妄想

天是天、地是地、山是山、水是水、僧是僧、俗是俗」とある。

「山是山」は普通には、「山は山である」という意味に理解されるが、

雲門はそういうことを言っているのではない。

雲門は山とは自然の山ではなく、真の自己になぞらえて言っているのである。

即ち、「山是山」とは「自己とは真の自己そのものである」と言っているのである。


山も寶にかくるる山あり: 須弥山説では須弥山は宝の山であるとされている。

須弥山は山が宝に埋もれて隠れるという意味。

須弥山説を参照)。

   

山を参窮すれば:山という真実を究め尽くせば。

ここでは「真の自己という真実(山)を究め尽くせば」という意味で用いられている。





現代語訳:

山も須弥山のような場合には、山全体が金・銀・水晶でできているので宝に埋もれ隠れている。

沼や沢に覆い隠されているような山、大空の雲にかくれている山あり、

連山にかくれたような山があり、蔵の中にしまわれていると参学する場合もある。

雲門禅師は、「山是山水是水」と言っている。

この言葉は、「山はこれ山である」と言っているのではない。

山と真の自己が一体となった心境不二の境地では、「自己とは真の自己そのものである」と言っているのである。

そうであるから、山としての真の自己を参究すべきである。

山としての真の自己を参究することによって、おのずから賢人ともなり、

聖人ともなるのである。

「正法眼藏」第二十九 山水経

爾時仁治元年(1240年)旧暦10月18日時に

観音導利興聖宝林寺において衆に示す。



解説とコメント:

山も須弥山のような場合には、山全体が金・銀・水晶でできているので宝に埋もれ隠れている。

沼や沢に覆い隠されているような山、大空の雲にかくれている山あり、

連山にかくれたような山があり、蔵の中にしまわれていると色々な山がある。

雲門禅師は、「山是山水是水」と言っている。

この言葉は、「山はこれ山である」と言っているのではない。

山と真の自己が一体となった心境一如の立場では、「自己とは真の自己そのものである

と言っているのである。

そうであるから、山としての真の自己を参究すべきである。

山としての真の自己を参究することによって、おのずから賢人ともなり、

聖人ともなるのである。

ここでも心境一如の立場に立って山を「真の自己」になぞらえて、

<山>という「真の自己」について述べていると考えれば分かり易い。


   

「山水経」の参考文献


   

1.安谷白雲著、春秋社、正法眼蔵参究 山水経 1968年

2.西嶋和夫訳、仏教社、現代語訳正法眼蔵、第二巻、山水経、

3.道元著、水野弥穂子校註、岩波書店、岩波文庫 正法眼蔵、(二)2004年

   

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