2009年8月27日〜9月作成 表示更新:2021年3月22日
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普勧坐禅儀




普勧坐禅儀について



『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)は、嘉禄三年(1227)、入宋修行を終えて帰国した道元(1200〜1253)による書である。

28才の若々しい道元禅師による帰朝第一声の書である。

『普勧坐禅儀』は具体的な坐禅の仕方について述べており、四六駢儷体(しろくべんれいたい)の漢文で書かれている。

帰国直後に書かれたため、実質的な道元の立宗宣言の書ともいわれている。



全文(訓み下し文)



原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本(どうもと)円通(えんづう)、

争(いかで)か修証(しゅしょう)を仮(か)らん。

宗乗(しゅうじょう)自在、何(なん)ぞ功夫(くふう)を費さん。

況(いわ)んや、全体迥(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)ず、

孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。

大都(おおよそ)、當處(とうじょ)を離れず、

豈(あ)に修行の脚頭(きゃくとう)を用うる者ならんや。

然れども毫釐(ごうり)も差有れば天地懸(はるか)に隔たり、

違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然(ふんぜん)として心(しん)を失す。

直饒(たとい)会(え)に誇り悟(ご)に豊かにして、瞥地(べっち)の智通(ちつう)を獲(え)、

道(どう)を得、心(しん)を明めて、

衝天(しょうてん)の志(しい)気(き)を挙(こ)し、

入頭(にゅうとう)の辺量(へんりょう)に逍遥(しょうよう)すと雖(いえど)も、

幾(ほとん)ど出身の活路を虧闕(きけつ)す。

矧(いわ)んや彼(か)の祇園(ぎおん)の生知(しょうち)たる、

端(たん)坐(ざ)六年の蹤跡(しょうせき)見つ可(べ)し。

少林(しょうりん)の心印(しんいん)を伝うる、

面壁(めんぺき)九歳(くさい)の声名(しょうみょう)尚聞こゆ。

古聖(こしょう)既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ弁ぜざる。

  所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐(お)うの解(げ)行(ぎょう)を休すべし。

須らく回光(えこう)返照(へんしょう)の退歩(たいほ)を学すべし。

身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん。

恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼(いんも)の事(じ)を務(つと)めよ。

夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節(せつ)あり。

諸縁を放捨(ほうしゃ)し、万事を休息して、善悪を思わず是非を管(かん)すること莫(なか)れ。

心(しん)意識の運転を停(や)め、念想(ねんそう)観の測量(しきりょう)を止(や)めて、

作仏(さぶつ)を図ること莫れ。豈坐臥(ざが)に拘(かかわ)らんや。

尋常(よのつね)坐處(ざしょ)には厚く坐物(ざもつ)を敷き、上に蒲団(ふとん)を用う。

或は結跏(けっか)趺(ふ)坐(ざ)或は半(はん)跏(か)趺坐。

謂(いわ)く結跏(けっか)趺(ふ)坐(ざ)は先ず右の足を以て左の股(もも)の上に安じ、

左の足を右の股(もも)の上に安ず。

半(はん)跏(か)趺坐は但だ左の足を以て右の股(もも)を圧(お)すなり。

寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて斉(せい)整なら令(し)むべし。

次に右の手を左の足の上に安じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安(あん)じ

両(りょう)の大拇指(だいぼし)面(むか)いて相(あい)サソう。

乃(すなわ)ち正身(しょうしん)端坐して左に側(そばだ)ち

右に傾き前(まえ)に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。

耳と肩と対し鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。

舌上のアギトに掛けて唇歯(しんし)相著(つ)け、目は須らく常に開くべし。 

鼻息(びそく)微(かすか)かに通じ、

身相(しんそう)既に調えて欠気(かんき)一(いつ)息(そく)し、

左右揺振(ようしん)して兀兀(ごつごつ)として坐定(じょう)して、

箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ。

不思量底如何(いかん)が思量せん。

非思量(ひしりょう)。此れ乃ち坐禅の要術なり。  

所謂(いわゆる)坐禅は習禅(しゅうぜん)には非ず、但是れ安楽の法門なり。

菩提(ぼだい)を究尽(ぐうじん)するの修証なり。

公案(こうあん)現成(げんじょう) 羅籠(らろう)未(いま)だ到らず。

若(も)し此の意を得ば龍の水を得るが如く虎の山に靠(よ)るに似たり。

當(まさ)に知るべし正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前し

昏散(こんさん)先ず撲落(ぼくらく)することを。

若し坐より起(た)たば徐徐として身を動かし安祥(あんしょう)として起つべし 

卒暴(そつぼう)なるべからず。

嘗(かつ)て観る超凡(ちょうぼん)越聖(おっしょう) 

坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も此の力に一任することを。

況んや復(また)指竿(しかん)針鎚(しんつい)を拈(ねん)ずるの転機、

払拳棒(ほっけんぼう)喝(かつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、

未(いま)だ是れ思量分別の能(よ)く解(げ)する所に非ず。

豈神通(じんつう)修証の能く知る所とせんや。

声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀(いいぎ)たるべし。

那(なん)ぞ知見(ちけん)の前(さき)の軌則(きそく)に非ざる者ならんや。

然れば則ち上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、

利人鈍者(りじんどんしゃ)を簡(えら)ぶこと莫れ。

専一(せんいつ)に功夫せば正に是れ弁道なり。

修証自(おのずか)ら染汚(ぜんな)せず、

趣向(しゅこう)更に是れ平常(びょうじょう)なる者なり。

凡(およ)そ夫れ自界(じかい)他方 

西天(さいてん)東地等しく仏印(ぶっちん)を持(じ)し、

一(もっぱ)ら宗風を擅(ほしいまま)にす。

唯(ただ)打(た)坐を務めて兀地に礙(さ)えらる。

万別千差(ばんべせんしゃ)と謂(い)うと雖も、

祗管(しかん)に参禅弁道すべし。

何(なん)ぞ自家(じけ)の坐牀(しょう)を抛却(ほうきゃく)して、

謾(みだ)りに他国の塵境(じんきょう)に去来(きょらい)せん。

若し一歩を錯(あやま)れば當面(とうめん)に蹉過(しゃか)す。

既に人身(にんしん)の機要(きよう)を得たり、

虚(むなし)く光陰を度(わた)ること莫れ。

仏道の要機を保(ほ)任(にん)す。

誰(たれ)か浪(みだ)りに石火(せっか)を楽まん。

加以(しかのみならず)形質(ぎょうしつ)は草露(そうろ)の如く、

運命は電光に似たり。

シュク忽(こつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ須臾(しゅゆ)に即ち失す。

冀(こいねがわ)くは其れ参学の高流(こうる) 

久しく摸象(もぞう)に習つて真龍を恠(あや)しむこと勿れ。

直指(じきし)端的の道に精進し、

絶学無為(むい)の人を尊貴(そんき)し、

仏(ぶつ)仏の菩提に合沓(がっとう)し、

祖(そ)祖の三昧(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ。

久しく恁麼(いんも)なることを為(な)さば須く是れ恁麼なるべし。

宝蔵(ほうぞう)自ら開(ひら)けて受用(じゅよう)如意(にょい)ならん。

それ学般若の菩薩は、まずまさに大悲心を起こし、

弘誓願を発し、

精しく三昧を修し、誓って衆生を度し、

一身の為に独り解脱を求めざるべし。


   

この解説では、以下の三部構成(全体で16文段)に分けて分かり易く説明したい。


1.「序分」:由来・心構えなどを述べた序論(1〜7文段)。

2.「正宗分」:坐禅の組み方を説明した本論(8〜11文段)。

3.「流通分」:坐禅の功徳と結論、普及の勧めを述べた結論(12〜16文段)。



序分


1. 

原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本(どうもと)円通(えんづう)

争(いかで)か修証(しゅしょう)を仮(か)らん



注:

原ぬるに夫れ:禅の源をよくよくさぐって見れば。

道本円通:宇宙の大道(仏法)は円に通じて至らぬところはない。

争か修証を仮らん。:道は何処にもあるのだから、今更これを修行して悟るとか証明するという必要はあるだろうか。



現代語訳:

禅の源をよくよくさぐって見れば、宇宙の大道(仏法)は円に通じて至らぬところはない。

今更これを修行して悟るとか証明するという必要はあるだろうか。



   

2. 

宗乗(しゅうじょう)自在、  

何(なん)ぞ功夫(くふう)を費さん



注:

宗乗: 最も尊い教え。

宗乗自在:最も尊い教えという乗り物に乗れば何処にでも自由自在に行くことが出来る。

何ぞ功夫を費さん: 仏道とその働きは誰にも備わっているものだ。何を今更それを得ようと工夫精進する必要があろうか。



現代語訳:


最も尊い教えという乗り物に乗れば何処にでも自由自在に行くことが出来る。

仏道とその働きは誰にも備わっているものだ。

何を今更それを得ようと工夫精進する必要があろうか。





コメント


第2文段は第1文段と非常に似ている。言っている内容は殆ど同じである。

   

3. 

況(いわ)んや、全体迥(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)ず

孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん

大都(おおよそ)、當處(とうじょ)を離れず

豈(あ)に修行の脚頭(きゃくとう)を用うる者ならんや



注:

況んや、全体迥かに塵埃を出ず、孰か払拭の手段を信ぜん。:我々の全体が迷いとか、罪とか、穢れとかいうような塵や埃をはるかに超越しているものであるから、

今更塵や埃を払う手段が必要だというようなことを誰が信じるだろうか。

大都、當處を離れず、豈に修行の脚頭を用うる者ならんや:我々の行住坐臥は悟りの本源である脳と不即不離の関係にある

(「「禅の根本原理」を参照」)。

だれでも極楽の真ん中にいるのだ。だからわざわざ、悟りを求めて遠くに行脚して修行する必要もないのだ。




現代語訳:


ましてや、我々の全体が迷いとか、罪とか、穢れとかいうような塵や埃をはるかに超越している。

だから、今更塵や埃などの汚れを払う手段が必要だというようなことを誰が信じるだろうか。

我々の行住坐臥は真の自己(脳)と不即不離の関係にある。

だれでも極楽の真ん中にいるようなものだ。

だからわざわざ、悟りを求めて遠くに行脚して修行する必要もないのだ。


   

4. 

然れども毫釐(ごうり)も差有れば天地懸(はるか)に隔たり

違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然(ふんぜん)として心(しん)を失す



注:

毫釐:毫も釐も細い毛。少し。わずか。また極めてわずかなものの形容。

天地懸に隔たり:天地の間隔が測りがたいように大きなへだたり。

毫釐も差有れば、天地懸に隔たり :『信心銘』第1文段と同じ言葉(「信心銘」第一文段を参照)。

違順 :違は意に反する、順は意に適うこと。

紛然:はごたごたする、入り混じって乱れている様子。

心:真の自己。本来の心。




現代語訳:


しかし、少しでも自己中心の分別意識が生じると、真の自己から天地の開きほど大きく離れてしまう。

自分の意に反するとか適うとか、好き嫌いの意識が少しでも働くと、本来の心が失われるのだ。


   

5. 

たとい会(え)に誇り悟(ご)に豊かにして、瞥地(べっち)の智通(ちつう)を獲(え)

道(どう)を得、心(しん)を明めて、衝天(しょうてん)の志(しい)気(き)を挙(こ)し

入頭(にっとう)の辺量(へんりょう)に逍遥(しょうよう)すといえども

ほとんど出身の活路を虧闕(きけつ)す



注:

会:理解すること。会取。会得。

会に誇り:仏教をよく理解しているというので、鼻高だかとなり、

悟りに豊か:悟りも十分に開いたつもりになっていること。

瞥地:真の自己をチラッと見ること。

智通:会得すること。

瞥地の智通:チラリと悟りの光を見ること。

心:真の自己。

道を得、心を明めて、:悟りを得、真の自己を明らかにして、

衝天の志気:天をも衝こうとする壮大な意気。

衝天の志気を挙し、:自信満々になって、

入頭の辺量:真実のほんの一端に触れること。

逍遥す:いい気分でぶらぶらする。

入頭の辺量に逍遥すといえども:それは仏道に頭をつっこんだだけに過ぎない。

出身: 迷悟凡聖などの対立を超え、悟りのカスも無くなった活発発地の活如来道のこと。

虧闕:抜け落ちていること。

ほとんど出身の活路を虧闕す。:そんなことでは一度入った仏道から、

さらに躍り出て自由自在の生活をするための活路を欠いている。



現代語訳


たとえ、仏教を分かったと誇り、チラリと悟りの光を見ただけで真の自己を明らかにしたと思って、

自信満々になるかも知れない。

それは仏道に頭をつっこんだだけに過ぎない。

そんなことでは一度入った仏道から、さらに躍り出て自由自在の生活をするための活路を欠いている。





   

6. 

矧(いわ)んや彼(か)の祇園(ぎおん)の生知(しょうち)たる

端坐(たんざ)六年の蹤跡(しょうせき)見つ可(べ)し

少林(しょうりん)の心印(しんいん)を伝うる

面壁(めんぺき)九歳(くさい)の声名(しょうみょう)尚聞こゆ

古聖(こしょう)既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ弁ぜざる



注:

祇園:祇園精舎。ブッダの最大級のパトロンとなったコーサラ国の富豪スダッタ(須達長者)が寄進した精舎(仏教寺院)。

ブッダは、生涯の後半二〇余年の雨期には多くをここで過したという。

生知:優れた智力をもって生まれたお方。

祇園の生知:お釈迦様(ゴータマ・ブッダ)。

少林:達磨大師が居住した嵩山の少林寺。二祖慧可が断臂した伝説も伝えられる。

心印:仏心印の略。仏印とも言う。歴代の祖師を通し、以心伝心によって伝えられてきた悟りの道。

面壁九歳:面壁九年。達磨大師が九年間壁に向かって坐禅したという故事。

古聖既に然り:お釈迦様や達磨大師でさえ皆そのように坐禅をして、出身の活路を得た。


現代語訳


生まれながらの聖者であったお釈迦様が、六年も正身端坐の修行をされたのを見習うべきだろう。

禅を中国へ伝えた達磨大師が、少林寺で、九年間面壁坐禅をした有名な故事も偲ばれる。

お釈迦様や達磨大師のような昔の聖人もこのように坐禅に努められたのだ。

いわんや今の我々が、どうして坐禅に努めないでおられようか。




   

7. 

所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐(お)うの解行(げぎょう)を休すべし

須らく回光(えこう)返照(へんしょう)の退歩(たいほ)を学すべし

身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん

恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼(いんも)の事(じ)を務(つと)めよ



注:

解行:知識の上で仏教を理解しようとすること。

所以に須らく言を尋ね語を逐うの解行を休すべし:だから、言葉や文章を学んで追いまわすような、思想的研究を止めなさい。

須らく:当然、是非。 

回光返照 :輝いていた太陽が西に沈むとき、空が反射で明るく光ること。転じて、外に向かう心を翻して、内なる本来の自己に帰ること。

退歩 :内心に歩を退いて、本来の自己に帰家穏坐すること。

回光返照の退歩 :坐禅のこと。

本来の面目現前せん。 :本来の面目(真の自己=下層脳を中心とした脳)を覚知するだろう(「「禅の根本原理」を参照」)。

恁麼 :宋代の俗語で、このような、そのとおり、どんな、何れ等の代名詞。転じて概念以前のナマの真実。

恁麼の事を得んと欲せば :内無上菩提を得たいならば。

恁麼の事を務めよ:このこと(坐禅)を務めよ。


現代語訳


だから、知識の上で仏教を理解したり、言葉や文章を学んで追いまわすような、思想的研究を止めなさい。 

それよりも、内なる本来の自己に帰る坐禅を実践すべきである。

坐禅すれば、身心は自然に脱落し、真の自己が現れるだろう。

無上菩提を得たいならば、直ちに坐禅につとめなければならないのだ。

   


コメント


この文段では思想的研究を止めて、坐禅をすれば、身心は自然に脱落し、真の自己が現れるだろうと述べている。

禅は単なる哲学や思想で理解できる世界ではないのだ(「禅と脳科学」を参照)。



正宗分

次の()文段からは、坐禅の具体的な方法が説かれる。


   

8. 

夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節(せつ)あり

諸縁を放捨(ほうしゃ)し、万事を休息して、善悪を思わず是非を管(かん)すること莫(なか)れ

心(しん)意識の運転を停(や)め、念想(ねんそう)観の測量(しきりょう)を止(や)めて

作仏(さぶつ)を図ること莫れ

豈坐臥(ざが)に拘(かかわ)らんや




注:

参禅:坐禅のこと。

諸縁を放捨し、万事を休息:坐禅することが「諸縁を放捨し、万事を休息」することになる。

善悪を思わず、是非を管すること莫かれ:坐禅の時、善悪是・非の分別意識が起きて来るが、

そのままにして取り合わないようにする。

念想観:思慮分別をめぐらしていろいろ考えること。

心意識の運転を停め、念想観の測量を止め:頭を使って思想的、概念的に考え追求することを止め、

作仏を図ること莫れ:仏になろうと頭に考えてはならない。

豈坐臥に拘らんや。:坐って坐禅を組んでいる時だけが禅の修行ではない。

行住坐臥の日常においても常に油断せず修行に心掛けなければならない。



現代語訳


さて、坐禅は静かな所でするのがよい。

坐禅をするにあたって過食や空腹状態はよくない。

世俗の諸縁を断ち、善悪や是非などの分別判断・取捨選択の思いが浮かんできてもそのままにして、

取り合ってはならない。

心意識が活動を始めてもそれに引きずられず、特殊な心理状態になろうとしてはならない。

また自分で勝手に考えた仏の境地のようなものになろうとしてはならない。

坐って坐禅を組んでいる時だけが禅の修行ではない。

行住坐臥の日常においても常に油断せず修行に心掛けなければならない。



   
   

9. 

尋常(よのつね)坐處(ざしょ)には厚く坐物(ざもつ)を敷き、上に蒲団(ふとん)を用う

或は結跏(けっか)趺(ふ)坐(ざ)或は半(はん)跏(か)趺坐

謂(いわ)く結跏(けっか)趺坐(ふざ)は先ず右の足を以て左のモモの上に安じ、左の足を右のモモの上に安ず

半跏(はんか)趺坐(ふざ)は但だ左の足を以て右のモモを圧(お)すなり

寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて斉(せい)整なら令(し)むべし

次に右の手を左の足の上に安じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安(あん)じ

両(りょう)の大拇指(だいぼし)面(むか)いて相(あい)サソう

乃(すなわ)ち正身(しょうしん)端坐して左に側(そばだ)ち

右に傾き前(まえ)に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ

耳と肩と対し鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す

舌上のアギトに掛けて唇歯(しんし)相著(つ)け、目は須らく常に開くべし

鼻息(びそく)微(かすか)かに通じ、身相(しんそう)既に調えて欠気(かんき)一(いつ)息(そく)し

左右揺振(ようしん)して兀(ごつ)兀として坐定(じょう)して

箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ

不思量底如何(いかん)が思量せん

非思量(ひしりょう)。此れ乃ち坐禅の要術なり



注:

衣帯:僧尼の着る衣服・腰帯の総称。

兀兀として坐定して:兀兀(ごつごつ)とは山の安住不動の状態を形容する言葉。山のようにどっしりと身心一如に坐って。

箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。:ここは難しい箇所でいろんな考えがある。

しかし、脳科学的観点に立てば、簡単に解釈できる。

坐禅の時は上層脳(大脳連合野を主とする思考脳)から生じる雑念妄想を抑制し、呼吸に集中する。

これは思考の坐である上層脳(知性脳)の活動を抑制し鎮静化する。

これによって精神的ストレスを防止する。

坐禅の丹田腹式呼吸は呼吸中枢のある脳幹の延髄を通して下層脳(脳幹+大脳辺縁系)を活性化する。

脳幹と大脳辺縁系は生命情動を司る無意識脳である。

この無意識のところを不思量底と言っていると考えられる。

非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。:坐禅中には雑念妄想を抑制し、丹田腹式呼吸と呼吸に集中する。

この時、無意識脳(脳幹を中心とする下層脳)だけが中心に働らいている状態になる。

これを非思量と言っていると考えられる。非思量という言葉は薬山惟儼(751〜838)と僧との問答に出てくる。

「禅と脳科学2.28「非思量とは何か?」を参照)。


現代語訳


通常、坐禅する場合には、厚い「坐物」即ち座褥(ニク)(座布団)を敷いて、その上に坐蒲(ザフ)を置いて坐る。

坐り方には、結跏趺坐と半跏趺坐とがある。

結跏趺坐というのは、先ず右の足を左の腿の上に置き、左の足を右の腿の上に置く。

半跏趺坐はただ左の足を右の腿の上に置くだけである。

着衣はゆったりと、だらしなくならないように整えて着る。

次に右の手を左の足の上に置き、左の掌を右の掌の上に置く。両の親指の先をそっと付け合せ円相を作る。

こうして正身端坐をするのであるが、左に傾いたり右に傾いたり、

前かがみになったり、後ろへ反りかえったりしてはならない。

耳と肩とが対し、鼻と臍とが対するようにする。

舌は上顎に付け、唇も歯も上下合わせて閉じる。

目は普通に自然のまま開く。呼吸は鼻で静かに自然にする。

坐禅の姿勢が整ったら、「欠気一息」即ちはぁーと大きく息を吐き、

左右に身体を揺すって坐を安定させてから、山のように不動の姿勢で坐り続ける。

そうしていろいろ考えたりすることを止めて無心に山のようにどっしりと不動の状態で坐りなさい。

「非思量」(考えないこと)が坐禅の肝心なポイントである。

   


コメント


この文段では坐禅の具体的な坐法を説明している。

坐禅中には必ず目を開くようにすることは坐禅儀と同じである。

雑念妄想を排除する非思量(考えないこと)が坐禅の要術だと言っている。

   
10    

10. 

所謂(いわゆる)坐禅は習禅(しゅうぜん)には非ず、但是れ安楽の法門なり

菩提(ぼだい)を究尽(ぐうじん)するの修証なり

公案(こうあん)現成(げんじょう) 羅籠(らろう)未(いま)だ到らず

若(も)し此の意を得ば龍の水を得るが如く虎の山に靠(よ)るに似たり

當(まさ)に知るべし正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前し

昏散(こんさん)先ず撲落(ぼくらく)することを



注:

習禅:坐禅によって精神作用を止めてしまい、無念無想になること。

そう言う坐禅を無心定という。ここでの「習禅」はそのような坐禅を指している。

安楽の法門:ストレスを癒し安らぎの心を生む法門。

これは坐禅時の非思量によってストレスの入り口である上層脳(知性脳)を閉ざし、

下層脳が活性化されることで、視床下部で分泌されるβ・エンドルフィン

セロトニン神経から分泌されるセロトニン、A10神経(快楽神経)の活性化によるドーパミン

などの脳内ホルモンの作用によって科学的に説明される(「禅と脳科学:その2、2.27「坐禅は安楽の法門なり」を参照)。

菩提を究尽するの修証:仏道(菩提)を究め尽くすところの修行であり、悟りの実現実行である。

公案現成:公案とは真実の仏法という意味。現成とは目の前に展開している現象という意味である。

これより真実の仏法は目の前に展開している現象だという意味になる。

道元禅師の大著「正法眼蔵」には「現成公案」の卷がある。

「現成公案」とは「目の前に展開している現象は生きた仏法である」という意味である。

安谷白雲老師は、ここでの「公案現成」とは坐禅すると仏道が実現するという意味だとしておられる。

羅籠:羅は魚を捕る網、籠は鳥を入れるかごのことである。

網やかごに入れられて身動きならぬさまから、人の身心を束縛する無明煩悩を羅籠に譬えたのである。

羅籠、いまだ到らず:公案現成すれば、自我意識に縛られ網やかごに入れられて

身動きならぬ不自由な状態(羅籠)に到ることはない。

坐禅をすれば仏道が現成(公案現成)し自我意識に縛られることもなく、身心の自由を得る。

龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たり:竜は水を得ると雲を起こして、天に昇り素晴らしい働きをする。

虎も、山に住めば、誰も近寄り難い。

坐禅をすると誰でもそのような、自由な働きと絶対の権威を備えるようになる。

昏散:昏沈散乱の略。昏沈は心が朦朧として活気のないこと。

散乱は心が外物を追って乱れ平静さを失うこと。

撲落:もぬけること。無くなること。




現代語訳


いわゆる坐禅は、決して精神作用を止めて無念無想になるようなことを目指す「習禅」ではない。

正に、「安楽の法門」である。坐禅は仏道(菩提)を究め尽くすところの修行であり、

悟りを実現実証する道である。

坐禅によって仏道(悟り)が実現すると、自我意識から開放されて本当の自由人になることができる。

本当の自由人になると、竜が水を得て天に昇り、虎が山に住むように自由で素晴らしい働きができるだろう。

真剣に坐禅をやれば、仏道(正法)が自然に現れて

昏沈や散乱の病も吹っ飛んでしまうことがよく分かるだろう。

   
   
   

11. 

若し坐より起(た)たば徐徐として身を動かし安祥(あんしょう)として起つべし

卒暴(そつぼう)なるべからず




現代語訳


若し坐禅を止めて、起つ場合は、ゆっくりと左右に上体を揺すって、

静かに穏やかに起つようにする。

決して粗暴な身のこなしをしてはならない。



コメント


この文段は坐禅儀の第9文段の文章と非常に良く似ている(「坐禅儀」の第9文段を参照)。






流通分




以下の(12〜16)文段では、補足的に坐禅の功徳を説明すると共に、坐禅の普及を強く勧めている。


   

12. 

嘗(かつ)て観る超凡越聖(おっしょう) 坐脱立亡(りゅうぼう)も此の力に一任することを

況んや復(また)指竿(しかん)針鎚(しんつい)を拈(ねん)ずるの転機

払拳棒(ほっけんぼう)喝(かつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も

未(いま)だ是れ思量分別の能(よ)く解(げ)する所に非ず

豈神通(じんつう)修証の能く知る所とせんや

声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀(いいぎ)たるべし

那(なん)ぞ知見(ちけん)の前(さき)の軌則(きそく)に非ざる者ならんや



注:

超凡越聖:凡夫を超え、聖人を越えること。

凡、聖の対立を越え、座禅によって凡も聖もない対立を越えた世界に入り、

凡でも聖でもない自己の本質を自覚すること。

坐脱:端坐したまま死ぬこと。

立亡:立ったまま息絶えること。

指竿針鎚:師家が学人を接得するため、指、竿、針、鎚を用いた手段。


「指」を用いた例:


「無門関」三則、「倶胝竪指」の公案に出ている。

倶胝和尚が天竜禅師に参禅した時、天竜はただ指を一本立てて見せた。

それを見て倶胝はたちまち大悟した。

それ以来、倶胝和尚は禅の指導をするのに指を一本を立てて指導したという。

「無門関」三則、「倶胝竪指」を参照)。


「竿」についての例:


「無門関」二十二則、「迦葉刹竿」の公案に出ている。

 ブッダの侍者阿難尊者が迦葉尊者の指導を受けた時、迦葉尊者の言葉「門前の刹竿を倒却着せよ」を聞いて大悟したという。

「無門関」二十二則、「迦葉刹竿」を参照)。


「針」についての例


第十四祖竜樹尊者が迦那提婆が来るのを見て、侍者に命じて水をいっぱい入れた椀を提婆の前に置かせた。

すると、提婆は一本の針をその中に入れて、これに応対したという。竜樹尊者と迦那提婆はこれで互いに心々相通じ、意気投合したという。


「鎚」についての例


鎚は槌と同じ。碧巌録九二則「世尊陞座」の公案に出ている。ある日、釈尊が説法の座に昇って結跏趺坐をして坐った。

すると文殊菩薩が槌を打って「諦観法王法、法王法如是(法王ブッダの説法はこの通りだ)」と高声に言ったという。

碧巌録九二則「世尊陞座」を参照)。

転機:働き。


「払拳棒喝」:師家が修行僧を導くため、払子、拳、棒、喝を用いた手段。


「払子」を用いた例:


「百丈再参の話」という有名な公案がある。


百丈懐海は馬祖道一禅師の秘蔵の弟子である。百丈が馬祖の下で一応修行が済んで、しばらく行脚して、久し振りに師の馬祖の下に帰って来た。

その時馬祖は曲ロク(きょくろく)の横にかけてあった払子を取って、それを立てて見せた。

馬祖は百丈の実力を点検しようとしたのである。すると百丈が言った、

この用に即するか、この用を離れるか」と。

この言葉を見ると、百丈の頭の中に何か悟りらしい理屈がまだ少し残っている。

馬祖はそれがすぐ分かったが、何も言わずに、その払子を元の通り曲ロク(きょくろく)にかけた。

そして百丈に質問した、

お前はこれから世に出たら、どんな具合に法を説くつもりか?」と。

すると百丈は、馬祖のした通りに、払子を取って、それを立てて見せた。

馬祖は、すぐさま

この用に即するか、この用を離れるか」と百丈に逆襲した。

これに対し、百丈は黙って、馬祖が先刻したように、その払子を曲ロク(きょくろく)にかけた。

その途端馬祖は渾身の力を揮って

カーッ」と一喝を下した。

百丈はその時大悟徹底したと伝えられる。


「拳」を用いた例:


「無門関」11則「州勘庵主」という公案に出ている。

趙州和尚が一庵主の処へ行って、

有りや、有りや。」と質問した。

するとその庵主は黙って拳頭を竪起した。

これを見た趙州、

何だ、そんな小僧みたいなケチな悟りか。おれの船は五万トン級だ。こんな水溜りのような処に停泊できるかい。」

とひどく罵倒して行った。

趙州和尚はまた別の庵主の処へ行って、

有りや、有りや。」と質問した。

するとその庵主も黙って拳頭を竪起した。

すると今度は趙州は、

これはこれは見事なお腕前、与うべきに与え、奪うべきに奪い

殺すべきに殺し、活かすべきに活かす。まことに恐れ入りました。」

と今度はひどく褒めて三拝九拝して出て行った。

二人の庵主が同じように黙って拳頭を竪起したのに、趙州は一人をけなし、他の一人は褒めた。

この問答に対する解釈として、趙州は一人をけなし、一人を褒めることで

二人を揺さぶってお互いの腹を探り合うという法戦をしているのだとされている。

「無門関」11則「州勘庵主」を参照)。


「棒」を用いた例:


臨済宗の宗祖臨済は師の黄檗に

仏法の究極の本質(仏法的々の大意)とは何ですか?」

と質問した途端、20棒打たれた。

もう一度行って同じ質問をして20棒打たれた。三度目の質問にも20棒打たれた。

このように、師の黄檗に

仏法の本質は何ですか?」

という同じ質問を三度した臨済は棒で60回打たれただけであった。

結局、臨済は黄檗のこの対応から何も得ることができなかった。

彼は師の黄檗に絶望して黄檗の道場を去って大愚和尚の処に行った。

大愚は臨済に

黄檗からどのような指導を受けたのか?」と聞いた。

臨済は

私は「仏法の本質は何か?」

三度黄檗禅師に尋ねましたが棒で打たれるだけでした。自分にどこか悪いところがあったのでしょうか?」

と言って黄檗の下での修行の経緯を話した。

それを聞いた黄檗は、

そうか。黄檗は親切な和尚だと聞いていたが、お前のために、そんなに親切だったのか。」

と言った。

その言葉を聞いた臨済は、豁然として大悟した

悟りの経験とその分析、2.臨済の悟りを参照)。


「喝」を用いた例:


「碧巌録」の第10則 「睦州、掠虚頭の漢」は次のような禅問答がある。

僧が睦州和尚(黄檗希運の法嗣)の処にやって来た。睦州和尚はその僧に聞いた、

お前さん何処から来たのか?(近離(きんり)いずれのところぞ)」。

すると僧は「カーッ」と一喝した。

睦州は言った、

わしはお前さんに一喝されビックリした。一本参ったわい

と僧の足下に落とし穴を掘った。

僧はそれに気付かずまた

カーッ」と喝した。

睦州は言った、

お前さん、三喝四喝と喝の一つ憶えのようだな。喝の後はどうするんだい?」。

僧はこれに黙りこんでしまった。すると睦州は僧を打って言った、

このたわけもの!(掠(りゃく)虚頭(きょとう)の漢)」。

碧巌録10則「睦州、掠虚頭の漢」を参照)。

「喝」については臨済録に多くの例がある。

証契:証はさとり。契はかなう。悟りの道にピッタリかなうこと。

神通:神変不可思議な通力(超能力)。

声色:感覚器官の対象としての六境(色声香味触法)。

威儀:偉大な作法・かたち。威大な作法である坐禅のこと。

声色の外の威儀:物や心の世界を超えた素晴らしい働き。

知見の前の軌則:知識見解が及ばない真理。





現代語訳


禅の歴史を考えて見れば、凡、聖の対立を越え、坐禅によって凡も聖もない対立を越えた世界に入り、

凡でも聖でもない自己の本質を自覚するのもこの力(定力)によるのである。

まして師家が学人を接得する手段となった

竿

の例などに見られる(働き)はもとより、

禅の指導手段としての「払拳棒喝」の活きた働きは、

悟りの道にピッタリかなっている。

しかし、それらの例は、思慮分別で理解できることではない。

坐禅は不可思議な神通力でも理解できない働きである。

それは人間の感覚を超えた「威儀喝」であり、知見が及ぶような真理ではない。


コメント


この文段の最初の句は「坐禅儀」の第11文段の句と良く似たところがある

「坐禅儀」の第11文段を参照)。





   

13. 

然れば則ち上智下(じょうちか)愚(ぐ)を論ぜず

利人鈍者(りじんどんしゃ)を簡(えら)ぶこと莫れ

専一(せんいつ)に功夫せば正に是れ弁道なり

修証自(おのずか)ら染汚(ぜんな)せず

趣向(しゅこう)更に是れ平常(びょうじょう)なる者なり



注:

趣向:坐禅をすれば、しただけ心境が進むこと。

趣向更に是れ平常なる者なり:坐禅をすれば、しただけ心境が進むが何か変わったことが出てくるものではない。

常の通りである(平常なる者なり)。




現代語訳


そういう訳であるから、人の賢愚は問題にならないし、才気・学問の有無等も関係がない。

誰でも専一に正身端坐に努めれば、それで立派な仏道修行を実践しているのである。

修行の中に悟り(証)があり、自ずから迷いや汚れ(染汚)はない。

坐禅をすれば、しただけ心境が進むが何か変わったことが出てくるものではない。

常の通りである。

   

14. 

凡(およ)そ夫れ自界(じかい)他方 西天(さいてん)東地等しく仏印(ぶっちん)を持(じ)し

一(もっぱ)ら宗風を擅(ほしいまま)にす

唯(ただ)打(た)坐を務めて兀地に礙(さ)えらる

万(ばん)別千差(しゃ)と謂(い)うと雖も、祗管(しかん)に参禅弁道すべし

何(なん)ぞ自家(じけ)の坐牀(しょう)を抛却(ほうきゃく)して

謾(みだ)りに他国の塵境(じんきょう)に去来(きょらい)せん

若し一歩を錯(あやま)れば當面(とうめん)に蹉過(しゃか)す



注:

自界:お釈迦様(ゴータマ・ブッダ)が生まれたこの世界(地球)。

他方:阿弥陀仏の浄土や薬師如来の浄土をさす。

西天東地:インド(西天)や中国、日本など(東地)。

仏印:正しい仏道。

等しく仏印を持す:仏々祖々が同じく仏法を直々に伝えてきたのである。

兀地:兀とは山の動かない姿を形容した言葉で坐禅のこと。

兀地に礙えらる:坐禅に邪魔されて他の事が何もできない。坐禅専一で他の事が何もできない。

万別千差と謂うと雖も、:仏道修行にはいろいろある(万別千差)けれども、

何ぞ自家の坐牀を抛却して、謾りに他国の塵境に去来せん:どうしてりっぱな自分という家を持ちながら、

これを放り出して他国のつまらない所をうろつき回っているのか? 自分の家に安住せよ!

若し一歩を錯れば當面に蹉過す:もし少しでも分別意識が出るとすぐに別の世界になってしまう。




現代語訳


大体、この地球や他の世界において、インド、中国、日本を問わず、

仏々祖々が同じように正しい仏法を直々に伝えてきたのである。

諸仏諸祖はすべて坐禅をもっぱらしてきたのである。

仏道修行にはいろいろあるけれども、どうしてりっぱな自分という家を持ちながら、

これを放り出して他国のつまらない所をうろつき回る必要があろうか?

自分の家に安住し、ただひたすらに坐禅に打ち込めば良いのだ!

もし少しでも分別意識が出るとすぐに別の世界に入ってしまうだろう。

   

15. 

既に人身(にんしん)の機要(きよう)を得たり

虚(むなし)く光陰を度(わた)ること莫れ

仏道の要機を保(ほ)任(にん)す

誰(たれ)か浪(みだ)りに石火(せっか)を楽まん

加以(しかのみならず)形質(ぎょうしつ)は草露(そうろ)の如く

運命は電光に似たり

シュク忽(こつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ

須臾(しゅゆ)に即ち失す



注:

人身の機要:人間の身に備わっている立派な働き。

虚く光陰を度ること莫れ:坐禅もせずに、空しく月日を過してはならない。

仏道の要機:仏道の大切な働き。坐禅のことであり、同時に悟りのこと。

保任す:我が身の上に具えて、保っている。

石火:瞬間的存在、人生の無常迅速をさす。

誰か浪りに石火を楽まん:だれかこんなはかない人生を楽しんで坐禅をしないでいられようか。

形質:肉体。

シュク忽として:たちまちに。

シュク忽として便ち空じ須臾に即ち失す:われわれの肉体も生命も、

たちまち、短い時間に、消えて無くなってしまう。




現代語訳


我々には、身に備わっている立派な働きがある。

空しく月日を過してはならない。

我が身の上に仏道の大切な働きを具えて、保っているのだ。

だれかこんなはかない人生を空しく楽しんでいられようか。

そればかりではなく、身体は草葉の露のように、いのちは稲光のようにはかないものである。

われわれの肉体も生命も、たちまち、短い時間に、消えて無くなってしまうものだ。

   

16. 

冀(こいねがわ)くは其れ参学の高流(こうる) 

久しく摸象(もぞう)に習つて真龍を恠(あや)しむこと勿れ

直指(じきし)端的の道に精進し

絶学無為(ぜつがくむい)の人を尊貴(そんき)し

仏(ぶつ)仏の菩提に合沓(がっとう)し

祖(そ)祖の三昧(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ

久しく恁麼(いんも)なることを為(な)さば須く是れ恁麼なるべし

宝蔵(ほうぞう)自ら開(ひら)けて受用(じゅよう)如意(にょい)ならん



注:

参学の高流:坐禅の修行をする尊い人々。

摸象:盲人が手探りで象に触って、

象とはどんなものであるかを判断議論したという譬え話のこと。

象の全体を見ないで、ある一部分を知っても、

本当のことを知らないのは駄目だという精神を言っている。

摸象に習つて真龍を恠しむこと勿れ:ニセ仏法を喜んで、

本物の仏法である坐禅をあやしんではならない。

直指端的の道:本当のところをズバリ端的に示す道。坐禅のこと。

絶学無為の人:仏教では、思想的に教理を研究することを習学という。

思想を越えた真実の世界を、直覚体験し、大悟することを、絶学という。

無為とは、人為的なところが少しも無くなった大自然の生活をいう。

合沓:ピッタリと一つになること。

仏仏の菩提に合沓し、:仏道にピッタリと、かなうようにし、

祖祖の三昧を嫡嗣せよ。:祖師達が代々伝えてきた坐禅(三昧)の道を受け継いで行け。

恁麼(いんも):恁麼とは中国の俗語。かくのごとし、とか、このように、とかいう意味。

久しく恁麼なることを為さば須く是れ恁麼なるべし。:久しくこういうことをすれば、

ことごとく必ずこういうことになるだろう。

恁麼という言葉が二度出ているが、

2番目の恁麼は次に出ている「宝蔵自ら開けて受用如意ならん。」を指している。

宝蔵自ら開けて受用如意ならん。:坐禅をすれば宝蔵が自然に開いて、

思うようにその宝を使うことができるようになるだろう。




現代語訳


坐禅の修行をする尊い人々よ、偽物の仏法を喜んで、

本物の仏法である坐禅をどうかあやしまないないように心からお願いしたい。

本当のところをズバリ端的に示す道である坐禅に精進し、

思想を越えた真実の世界を直接体験し、大悟徹底した絶学無為の人を尊重しなさい。

そして、仏道にピッタリと、かなうようにして祖師達が代々伝えてきた

坐禅(三昧)の道を受け継いで行きなさい。

そのように、久しく坐禅に専念した生活を送れば心の宝蔵が自然に開いて、

自由自在にその宝を使うことができるようになるだろう。



コメント


この文段は「普勧坐禅儀」のまとめであり結論を述べている。

最初の部分で「坐禅の修行をする尊い人々よ、偽物の仏法を喜んで

本物の仏法である坐禅をどうかあやしまないないように心からお願いしたい。」

と言っているのは興味深い。

道元が宋から帰国した鎌倉時代初期には禅宗は日本仏教において未だ市民権を得ていなかった。

平安末期に大日能忍によって開かれた日本達磨宗は日本初の禅宗で勢力を拡大しつつあった。

しかし、日本達磨宗は天台宗の圧力を受け、開祖大日能忍は謀殺され、教勢はたちまち失墜した。

教祖(大日能忍)を失った門人達の多くが新興の道元教団に入門したことは良く知られている。

禅宗では道元の先輩にあたる明庵栄西(1141〜1215)も、

天台宗など旧仏教の圧力下になかなか独立を認められなかった。

そのため栄西は、「興禅護国論」を著して日本仏教において禅の市民権を主張したのである。

このような時代背景を考えればこの文段で道元が

「「坐禅の修行をする尊い人々よ!(冀(こいねがわ)くは其れ参学の高流)」

と持ち上げて下手から呼びかけるように 

本物の仏法である坐禅を

どうかあやしまないないように心からお願いしたい

と懇願するように言っていることがよく分かる。









普勧坐禅儀の参考文献など


1. 安谷白雲著、春秋社、正法眼蔵参究、1967年 
2. 原田祖岳著、大雲会、道元禅師「普勧坐禅儀講話」、1966年 
3.沙門尾崎正覚のホームページ
    http.//www.rinku.zaq.ne.jp/shamon-shokaku/index.html











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