2009年9月27日〜9月30日作成  表示更新:2021年12月11日
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宝鏡三昧




宝鏡三昧について



「参同契」とともに良く読まれる「宝鏡三昧」は、参同契の作者石頭禅師の孫弟子、

雲巌曇晟禅師の法嗣である洞山良介禅師(807〜869)が作った偈頌体の文章である。

「宝鏡三昧」は376文字の小篇であるが、

参同契の真義をより高く祖述したものとも言われ、曹洞宗における重要な宗典である。

又、参同契と同じ韻をふんでいるので両経典はよく一緒に読誦される。

「宝鏡三昧」とは題名のごとく、仏祖より伝えられた宝鏡のような三昧という意味で、

悟りの世界を鏡に喩えて説き示したものである。

心は浄明なる鏡の如し、物を鑑して未だかって私なし」という経句がある。

そのように、鏡はありのままに、公平無私で、如実の相を写し出す。

「三昧」とは三摩地・三摩耶と同義で、

訳して定・正定・正受・等持などといわれ、坐禅中の精神作用の統一した状態である。

三昧には時と場所によっていろいろな三昧がある。

禅門ではあらゆる三昧の総括を「王三昧」という坐禅で表現する。

坐禅のことを道元禅師は「自受用三昧」とも言っている。

「弁道話1」を参照)。

「宝鏡三昧」は坐禅を歌ったものと見ることができる。

「宝鏡三昧」はこの如是の法を示すのに「宝鏡」だけではなく、

「嬰児・重離・ち草・金剛の杵」の五つの譬えを以て「五相・五卦・五味・五鈷」

の譬えを用いたところが特徴である。

曹洞宗では「不立文字」を標榜しながらも、

宗義を綿密に論理づけ、真実の道理を証する大獅子吼とされる。

この解説では、「宝鏡三昧」の全文を(11文段)に分けて

合理的な観点から分かり易く説明したい。





第1文段 

如是(にょぜ)の法、仏祖密に付す

 汝今(なんじいま)これを得たり

宜(よろ)しく能(よ)く保護(ほうご)すべし

銀椀(ぎんわん)に雪を盛り

明月に鷺(ろ)を蔵(かく)す

類(るい)して等(ひと)しからず

混(こん)ずる時んば処(ところ)を知る



注:

宝鏡三昧:鏡がものを写すように、純粋な知恵が輝く三昧(禅定)。

如是(にょぜ)の法:三世の諸仏も必ず是の如く、

歴代の祖師も是の如しという意味。真如、如如の法。

銀椀(ぎんわん)に雪を盛り,:銀椀(ぎんわん)に雪を盛れば

雪はあることは分かるがはっきり見分けられない。

「碧巌録」第13則に巴陵禅師の言葉として「銀椀裏(ぎんわんり)に雪を盛る」が出ている。

巴陵禅師は生没年不明であるが雲門文偃禅師(864〜849)の法嗣であるところから

「宝鏡三昧」の著者洞山良价禅師(807〜869)と同時代の人であると思われる。

銀椀裏(ぎんわんり)に雪を盛る」という巴陵禅師の言葉は我々の本心の性質を詠ったもので、

銀椀(ぎんわん)に雪を盛れば雪はあることは分かるが銀椀と雪をはっきり見分けにくい。

見分けられないが銀椀(ぎんわん)は銀椀、雪は雪で銀椀とは別である。

その様子は我々の本心の有様と似ているというものである。 (「碧巌録」13則を参照)。

この言葉は当時禅僧の間で非常に有名だったので洞山が引用したものと思われる。

混(こん)ずる時んば処(ところ)を知る:混じりあって見分け難い場合にも、ちゃんと分かる。



現代語訳:

仏祖は私達に「如是(にょぜ)の法」を与えられた。

 君は今これを得た。よくよく保持しなくてはならない。

その法は 銀椀(ぎんわん)に雪を盛れば区別がつかないようはっきりしない。

明月の白い光の下では白鷺(しらさぎ)の姿がおぼろになるようなものだ。

しかし、それに似ていても同じではない。見分けにくいけれども銀は銀、雪は雪で違いがある。

混じりあって見分けにくい場合にも、ちゃんと分かる。

(それが我々の仏性(健康な脳)の素晴らしい働きだ。)



解釈とコメント:


この文段の冒頭に「如是の法」という言葉がでている。

これは仏祖から伝えられた真如という意味である。

これは「参同契」の冒頭に出てきた竺土大仙の心(お釈迦さまの悟りの心)

に対応する言葉である。

(「参同契」を参照)。



   

第2文段 

意言(こころこと)に在(あ)らざれば

来機(らいき)亦おもむく

動ずればカ臼(かきゅう)をなし

差(たが)えば顧佇(こちょ)に落つ

背触(はいそく)ともに非なり

大火聚(だいかじゅ)の如し

ただ文彩(もんさい)に形(あらわ)せば

即ち染汚(ぜんな)に属(ぞく)す



注:

意言(こころこと)に在(あ)らざれば、来機(らいき)亦おもむく。:

心が言葉にとらわれずに冷静に対応すれば相手のどんな動きにも応じることができる。

顧佇(こちょ)に落つ。:まごつく。

カ臼(かきゅう): 鳥の巣。ねぐら、逃げ場所。

動ずればカ臼(かきゅう)をなし、差(たが)えば顧佇(こちょ)に落つ。:

心が動揺すれば、それが落とし穴となって、すれ違ってまごつく。

背触(はいそく)ともに非なり。:背いても向き合っても駄目である。

大火聚(だいかじゅ): 大きな火の集まり。知恵を火に喩えたもの。

「大智度論」六の偈に「この実なる知恵は

四辺に捉え難きこと大火聚の如く、亦た触るべからず・・・」

と言っている。智慧の働きは火のように捉え難い。

大火聚(だいかじゅ)の如し。:智慧の働きは火のあつまりのように捉え難い。

ただ文彩(もんさい)に形(あらわ)せば、:もし、これを言葉で表現しようとしたら、

ただ文彩(もんさい)に形(あらわ)せば、即ち染汚(ぜんな)に属(ぞく)す

もし、これを言葉で表現しようとしたら「如是の法」から離れ、心は汚染されてしまうだろう。



現代語訳:


   

心が言葉にとらわれないように冷静に対応すれば相手のどんな動きにも応じることができる。

心が動揺すれば、それが落とし穴となって、すれ違ってまごつく。

それに背いても向き合っても駄目で、あたかも大きな火の集まりのように捉え難い。

もし、これを言葉で表現しようとしたら「如是の法」から離れ、心は汚染されてしまうだろう。





   

第3文段 

   

夜半正明(やはんしょうめい)

天暁不露(てんぎょうふろ)

物の為に則(のり)となる

用(もち)いて諸苦(しょく)を抜(ぬ)く

有為(うい)にあらずといえども

これ語なきにあらず。 

宝鏡(ほうきょう)にのぞんで

形影(ぎょうよう)相(あ)い見るが如し

   

注:

夜半正明(やはんしょうめい)、天暁不露(てんぎょうふろ):如是の法」は、

下層脳(無意識脳)が主体となっているので、

夜半正明(黒闇の真夜中)を背景にすると、はっきり浮かび出る。

しかし、夜明けの暁になると上層脳である分別意識が働くので消えてしまう。

その時、「如是の法」は、下層脳(無意識脳)が主体となる。

ここではその下層脳(無意識脳)を黒闇の夜中に喩えている。

上層脳(分別意識脳=理知脳)の分別意識が働く時を夜明けの暁(天暁)に喩え、

夜明けの暁(天暁)になり、

上層脳(分別意識脳=理知脳)が活発に働くようになる天暁には不露(現れない、消えてしまう)と言っている。

 物の為に則(のり)となる:それが物の法則である。

用(もち)いて諸苦(しょく)を抜(ぬ)く。:それを用いれば諸苦を抜き取ることができる。

坐禅によって下層脳を活性化すればストレスは解消し、大安楽の状態になる。

(坐禅は「安楽の法門」を参照)。

有為(うい)にあらず:有為とは無常であること。有為(うい)にあらずとは変化しないという意味。

下層脳(無意識脳)は上層脳(分別意識脳=理知脳)のように活発に働き、

変化するようなことはない。

それを有為(うい)にあらずと言っている。

下層脳(無意識脳)は上層脳(分別意識脳=理知脳)のように活発に働かないことを述べている。

これ語なきにあらず:、全く沈黙しているのでもない。

有為(うい)にあらずといえども、これ語なきにあらず:「如是の法」の主体となる下層脳は、

上層脳(分別意識脳)のように転変無常なものではない。

しかし、全く沈黙しているのでもない。

下層脳は無意識であるから上層脳(理知脳)のように激しく変化しないだけである。

これを有為にあらずと言っている。

無常でなく、全く沈黙しているように見えるが本当は常に働いている。

宝鏡(ほうきょう):「宝鏡三昧」の宝鏡。宝鏡とは悟りの本体となる脳(下層脳主体の脳)

を文学的に宝鏡に喩えて表現したもの。

 宝鏡(ほうきょう)にのぞんで、形影(ぎょうよう)相(あ)い見るが如し。:人が宝鏡に向った時に、

あたかも人と影(鏡に写る影)が互いに

相手を認めているようなものだ。




現代語訳:


如是の法」は、黒闇の夜中にはっきり浮かび出るが夜明けの暁には消えてしまう。

それが物の法則となっている。

それを用いれば諸苦を抜き取ることができる。

悟りの本体となる下層脳は転変無常なものではないが、全く沈黙しているのでもない。

人が宝鏡に向った時には、あたかも人と影(鏡に写る影)が

互いに相手を認めているようなものである。





解釈とコメント



如是の法」は、下層脳(脳幹+大脳辺縁系=無意識脳)が主体となっているので、

夜半正明(黒闇の真夜中)を背景にすると、はっきり浮かび出る。

これは夜半正明(黒闇の真夜中)になると上層脳(分別意識の働き)が弱くなり、

下層脳(無意識脳)の働きが主となってくることを言っていると考えられる。

しかし、夜明けの暁に意識が目覚め覚醒すると、

上層脳(理知脳)が活発に活動するので消えてしまう

と言っていると考えられる。

また「用(もち)いて諸苦(しょく)を抜(ぬ)く。」と、

坐禅によって下層脳(脳幹+大脳辺縁系=無意識脳)を働かせれば

諸苦(ストレス)を抜き取ることができると

下層脳の働きを的確に把握しているのが注目される。

(坐禅は「安楽の法門」を参照)。

   

   

第4文段

汝これ渠(かれ)にあらず 

渠(かれ)正(まさ)にこれ汝

世の嬰児(ようじ)の五相完具(ごそうがんぐ)するが如し

不去不来(ふきょふらい)

不起不住(ふきふじゅ)。 

婆婆和和(ばばわわ)、有句無句(うくむく)

ついに物を得ず 

語未(ごいま)だ正しからざるが故に



注:



渠(かれ):実在としての自己本来の面目(真の自己)のこと。

自己本来の面目(真の自己)は下層脳(=脳幹+大脳辺縁系)を中心とする脳を指している。

悟りの経験とその分析:その2、 4.11を参照)。

汝これ渠(かれ)にあらず:上層脳(分別意識が主体となった脳=理知脳)が

普段活動している時の君である。

「本来の面目(真の自己)」の主体である下層脳は無意識脳であるため奥に隠れている。

そのため普段活動している時の君ではないが、・・・。

渠(かれ)正(まさ)にこれ汝:下層脳を中心とする脳(彼)は

まさに君(汝)の「本来の面目(真の自己)」の本体である。

五相:「涅槃経」第二十一の嬰児行品の冒頭に「善男子、起、住、来、去、語言すること能はざる、

これを嬰児と名付く・・・」とある。

これより五相とは起、住、来、去、不能語言(話すことができない)の五つを言う。

世の嬰児(ようじ)の五相完具(ごそうがんぐ)するが如し:世の中の嬰児(乳のみ子)が

五相を完全に具えているように、全ての人はこれ(宝鏡=脳)を持っている。

婆婆和和(ばばわわ):(嬰児)が「バーバー・ワーワー、」と発する嬰児語。

有句無句(うくむく)、ついに物を得ず:南岳懐譲に

説似一物(せつじいちもつ)即不中(そくふちゅう)(説似すれども一物として中(あた)らず)

という言葉がある。

この言葉は「自己本来の面目」を表わす言葉である。

有句無句(うくむく)、ついに物を得ず」とはこれに良く似た表現である。

禅の思想3.17参照)。

言葉で表現しようとしても、無言で表現しようとしても、これを表現することはできない。

語未(ごいまだ)だ正しからざるが故に:これを正しく表現する言葉が未だ定まらないからである。

洞山良价(807〜869)禅師が活躍した唐代には

脳とその機能を正しく表現する科学と言葉が無かった。

そのことを「語未(ごいま)だ正しからざるが故に(これを正しく表現する言葉が未だ定まらないが故に)」

と言っていることが分かる。




現代語訳:


お前はあの実在ではないが、あの実在は正しくお前そのものだ。

ちょうど子供に五相が全てそろっているようなものだ。

それと同じように、全ての人にはこれ(宝鏡=脳=仏性)が具わっている。

自ら去来することなく、起きもせず、停(とどま)ってもいない。

それを何とか正しく表現して伝えようと努力しても、

幼児がアーアーオーオー、

と言っても言葉にならないように、結局、はっきりしない。

これを正しく表現する言葉が未だ定まっていない(未だ無い)からである。





解釈とコメント


この文段では全ての人に具わっている自己本来の面目(真の自己=仏性)について述べている。

それは自ら去来することなく、起きもせず、停(とどま)ってもいない。

しかし、それを何とか正しく表現して伝えようと努力しても、

赤ん坊が、アーアーオーオー、と言葉にならない言葉をしゃべっても

何を言っているのかわからないように、

結局、はっきり表現し、伝えることができない。

これを正しく表現する言葉が未だ未だ無いからである。

ここでは洞山が「本来の面目(真の自己)」の主体となる下層脳(脳幹+大脳辺縁系)

について述べている。

しかし、それをハッキリ表現する言葉が未だないもどかしさを述べている

と考えることができるだろう。

悟りの経験とその分析:その2、 4.11を参照)。

   

   

第5文段 

重離六交(じゅうりりっこう)

偏正回互(へんしょうえご)

畳(たた)んで三となり

変(へん)じ尽きて五となる

ち草の味わいの如く

金剛(こんごう)の杵(ちょ)の如(ごと)し 。

正中妙挟(しょうちゅうみょうきょう)

敲唱(こうしょう)双(なら)びあぐ。



注:

重離の卦:離は易の八卦の一つである。図4に示す。

重離の卦はこれを二つ積み重ねたもので、洞山五位の兼中倒を表わしている。

図4に示すように、易の八卦に用いられる爻(こう)を用いて洞山五位を表示することができる。

畳(たた)んで三となる:下から正正、偏と三つ積み重ねると兌(だ)の卦になる。

これも図4に示す。

宝鏡三昧ー4

図4 易の八卦に用いられる爻(こう)による洞山五位の表示


五:洞山五位の思想。

洞山五位の思想:洞山良价は自己の禅思想を偏位と正位を組み合わせることで表現した。

「洞山五位」を参照)。

偏位は現象界(差別の世界)を、

正位は差別の本体で本来無一物の世界(平等な下層脳の世界)を表わしている。

これは正位を体、偏位を用とする体用思想から来ている考え方である。

「洞山五位」正位と偏位とは何か?を参照)。

洞山五位とは具体的には1、正中偏、2、偏中正、3、正中来、4、偏中至、5、兼中到 

の五つである。

「洞山五位」を参照)。

ここでは、図4に示すように、易の八卦に用いられる爻(こう)

を用いて洞山五位を表示することができると言っている。

易:古代中国の宇宙生成説で、一の根元(太極)から陰陽の二つが生成し、

それが八卦になり更に64卦になるという説である。

ち草:皮と肉は甘くて酸っぱいが核の中は辛くて苦く、

総体としては塩味があって一草で五つの味を具えるところから五味子(さねかずら)ともいう。

ここでは、「洞山五位」を一草で五つの味を具える五味子(さねかずら)になぞらえている。

金剛(こんごう)の杵(ちょ):密教の金剛王が持っている金剛杵。五つの枝を持つ杵。

ここでは、「洞山五位」を五つの枝を持つ金剛杵になぞらえている。

宝鏡三昧ー5

図5 金剛(こんごう)の杵(ちょ)


金剛王は密教の菩薩金剛王菩薩のこと。

金剛王菩薩は梵名をバザララージャと云い、訳して金剛王と云う。

密号を自性金剛又は執鉤金剛と称す。

この菩薩は一切衆生の代表にして大日如來を覺者の総体とすれば

金剛サッタは迷者の総体であって我々を代表する尊と言える。

正中:洞山五位の正中来のこと(図4参照)。

「洞山五位」を参照)。

正中妙挟(しょうちゅうみょうきょう):正中来を見事に表現する。 

敲唱(こうしょう)双(なら)びあぐ。:歌の唱和で呼吸が合う。 



現代語訳


易の離の卦(け)を構成する六つの爻(こう)は正と偏が互い違いに積み重なって作られる。

下から正正、偏と三つ積み重ねると兌の卦になる。

組み合わせを変えると、更に変化して洞山の五位を表わす。

図4参照)。

それはあたかも五味子(サネカズラ)の五つの味のようであり、金剛杵の五つの枝のようでもある。

この表現法を使えば正中来などの五位を物の見事に表現する。

それは歌を唱和する時、呼吸がぴったりと合うようなものである。



解釈とコメント


ここでは、易の離の卦(け)を構成する六つの爻(こう)を用いて、

洞山の五位を表わすことができると述べている。

しかし、このような表現法を用いて図4のように、洞山の五位を表わすことができても

その本質を表現できたとは言えない。

そこにこの表現法の限界がある。



   

第6文段 

宗に通じ途に通ず

挟帯挟路(きょうたいきょうろ)

錯然(しゃくねん)なるときんば吉なり

犯忤(ぼんご)すべからず

天真(てんしん)にして妙(みょう)なり

迷悟(めいご)に属(ぞく)せず

因縁時節(いんねんじせつ)

寂然(じゃくねん)として照著(しょうちょ)す



注:

宗に通じ途に通ず:空の理に達すると共に方便に巧みである。

挟帯挟路:帯をつかみ道に合う。帯は兼帯の略で兼中至と兼中倒の二位を指している。 

錯然:易の離の卦に「履むこと錯然たり、これを敬(つつし)むときは咎なし」とあるによる。

錯然(しゃくねん)なるときんば吉なり:慎めば大吉で相互に犯すことはない。

天真:「証道歌」で永嘉真覚大師は「法身を覚了すれば一物無し、本源自性天真仏

と詠っている。

「証道歌」第2文段を参照)。

坐禅修行によって本来誰でも達成できる本来仏としての天真仏(健康な脳)を指している。

仏とは何か?7.9新しい仏陀観を参照)。

天真(てんしん)にして妙(みょう)なり。:天真仏として妙理を極めるだろう。

因縁時節(いんねんじせつ):涅槃経に「仏性の義を観ぜんと欲せば、時節因縁を観ずべし

とあるに依る。

迷悟(めいご)に属(ぞく)せず 因縁時節(いんねんじせつ)、

寂然(じゃくねん)として照著(しょうちょ)す。:

もし、迷悟を超え、因縁時節をあやまらないならば、

心は寂然(じゃくねん)としてものを照らすことができるだろう。




現代語訳


空の理に達すると共に方便に巧みで、兼中至と兼中倒の二位をつかみ道にかなっている。

「洞山五位」を参照)。

慎めば大吉で相互に犯すことはない。天真仏として妙理を極めるだろう。

もし、迷悟を超え、因縁時節をあやまらないならば、

心は寂然(じゃくねん)としてものを照らすことができるだろう。


解釈とコメント


ここでは参禅修行によって、空の理に達し方便に巧みで、

兼中至と兼中倒の二位をつかみ道にかなえば、

天真仏として妙理を極めるだろう。

また、迷悟を超え、因縁時節をあやまらないならば、

心は寂然(じゃくねん)としてものを照らすことができるだろう

と言っている。




   

第7文段 

細(さい)には無間(むけん)に入り

大には方所(ほうじょ)を絶す

毫忽(ごうこつ)の差

律呂(りつりょ)に応ぜず

今、頓漸(とんぜん)あり

 宗趣(しゅうしゅ)を立するによって

宗趣わかる

即ち是れ規矩(きく)なり

宗通じ趣極(しゅきわ)まるも

真常流注 (しんじょうるちゅう)

外寂(ほかじゃく)に内動くは

繋(つな)げる馬、伏せる鼠。

先聖(せんしょう)これを悲しんで

法の檀度(だんど)となる

其の顛倒(てんどう)に随って

緇(し)をもって素(そ)となす



注:

細(さい)には無間(むけん)に入り、:

小さいとなると隙の無い小さな所にも入り、・・・。

目に見えない極微の世界でも認識できる脳の認識能力を言っていると考えることができる。

大には方所(ほうじょ)を絶す。:

大きくなると限りなく大きい。

脳の認識能力は大きい方では宇宙大になり、限りなく大きい。

律呂:音声を正す楽器。

毫忽(ごうこつ)の差 :毛先ほどの小さなずれ。

毫忽(ごうこつ)の差、律呂(りつりょ)に応ぜず。:調律に毛先ほどの小さなずれが生じても

音律の調和が破れる。

今、頓漸(とんぜん)あり。 :今、禅の道に頓悟と漸修の道がある。

宗趣(しゅうしゅ)を立するによって、宗趣わかる。:

修行の道と手段を立てるから宗派(五家七宗)に分裂する。

「禅の歴史1.23」を参照)。

即ち是れ規矩(きく)なり。:宗派に分裂したのは考え方の標準の違いに由来する。

宗通じ趣極(しゅきわ)まるも、真常流注 (しんじょうるちゅう):

悟りと修行を究めても、<真・常>という真理を固定化した考えに落ち込み易い。 

外寂(ほかじゃく)に内動く :外見は落ち着いていても内心は動揺する。

繋(つな)げる馬、伏せる鼠。 :繋がれた馬や物陰に潜む鼠。

先聖(せんしょう)これを悲しんで、法の檀度(だんど)となる。:

古聖はそのような人を憐れんで、教えを作って施された。

顛倒(てんどう)に随って、:ひっくり返った考え(誤った考え)を持てば、

緇(し)をもって素(そ)となす:緇(し)は黒、素は白のこと。黒を白だと考え違いをする。


現代語訳


小さいとなると隙の無い小さな所に入り、大きいところでは限りなく大きい。

毛先ほどの小さなずれが生じても音律の調和が破れるだろう。

今、禅の道に頓悟と漸修の違いがあるのは人が修行の道と手段を立てるからである。

禅宗が五家七宗に分裂したのは標準の違いによる。

たとえ、悟りと修行を究めても<真・常>という真理を固定化した考えに落ち込み易い。

そうなると外見は落ち着いていても内心は動揺することになるだろう。

それはあたかも繋がれた馬や物陰に潜む鼠のようである。

古聖はそのような修行者を憐れんで、教えを作って施された。

顛倒(てんどう)した考えを持てば、人は黒を白だと考え違いをする。

   

解釈とコメント


真の自己(本来の面目=脳)の働きは小さいところは目に見えない極微の世界でも認識できるし、

大きい方では宇宙大になり、限りなく大きい世界を見ることができる。

「臨済録」示衆14-5を参照)。

しかし、毛先ほどの小さなずれが生じても音律の調和が破れるように、

時の流れとともに、禅の道にも頓悟(南宗禅)と漸修(北宗禅)の違いができた。

それは人が修行の道と手段を立てるからである。

禅宗が五家七宗に分裂したのは標準の違いによるが、もともと、大きな違いはないのである。

たとえ、悟りと修行を究めても<真・常>という真理を固定化した考えに落ち込み易い。

しかし、顛倒(てんどう)した考えを離れることができれば、

黒を白だと考え違いをすることはなく、仏法の真理の本源に立ち戻ることができるだろう。






   

第8文段 

転倒の想(てんどうのそう)、滅すれば

肯心(こうしん)みずから許す

  古轍(こてつ)に合わんと要せば

請(こ)う、前古(ぜんこ)を観(かん)ぜよ

仏道を成ずるになんなんとして

十劫樹(じゅっこうじゅ)を観(かん)ず。 

虎の欠(か)けたるが如く

馬のシュ(しゅ)の如し。




注:

転倒の想(てんどうのそう)、滅すれば:転倒の妄想が消滅すれば。

肯心(こうしん)みずから許す:心の底からこれで良いと納得する。

古轍(こてつ)に合わんと要せば:古人の歩んだ足跡に合わせたいならば、

前古(ぜんこ)を観(かん)ぜよ。:自分の過去を顧みて反省しなければならない。

仏道を成ずるになんなんとして、十劫樹(じゅっこうじゅ)を観(かん)ず。:

法華経の化城喩品の偈によると大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)は十劫もの間、

道場で坐禅したが仏法は現前しなかったと伝えられている。

この話は「無門関」第九則に採用されている。

「無門関」9則を参照)。

大通智勝仏は悟りを完成しようとして、十劫もの間、樹下で坐禅したと

法華経(化城喩品)で説かれている。

虎の欠(か)けたるが如し:虎がアクビをするようなものだ。欠はあくびをすること。

馬のシュ(しゅ):手で馬をつなぐこと。



現代語訳


転倒の妄想が消滅すれば、内心からこれで良いと納得できる。

古人の歩んだ足跡に合わせたいならば、必ず自分の過去を顧みて反省しなければならない。

大通智勝仏は悟りを完成しようとして、十劫もの間、樹下で坐禅したと伝えられている。

それは虎のあくびや手で馬をつなぐように、不必要なことだ。

十劫(無限に長い間)もの坐禅は仏にとって不要である。

坐禅は仏にとってもはや必要ないのに、仏は更に修行を重ねられたのである。

いわんや我々凡夫は坐禅修行に励むべきことはいうまでもないことだ。



解釈とコメント


法華経では大通智勝仏は悟りを完成しようとして、

十劫もの間、樹下で坐禅したと伝えられている。

十劫(無限に長い間)もの坐禅は仏である大通智勝仏にとって不要である。

坐禅はもはや必要ないのに、仏は更に修行を重ねられたのである。

いわんや我々凡夫は坐禅修行に精励すべきことはいうまでもないことだ。

   
   

第9文段 

下劣(げれつ)あるをもって

宝几珍御(ほうきちんぎょ)、

驚異(きょうい)あるをもって 

狸奴白狐(りぬびゃっこ)。 

ゲイ(げい)は巧力(ぎょうりき)をもって

射(い)て百歩に中(あ)つ。

箭鋒(せんぽう)あい値う

巧力(ぎょうりき)なんぞ預(あず)からん。



注:

下劣(げれつ)あるをもって、宝几珍御(ほうきちんぎょ):

「法華経」信解品に出てくる長者の話に基づく。

長者の子が諸国を流浪した末、我が家にたどり着く。

しかし、彼は父に対して、劣等感を持っていたため、宝玉の机に坐り、

綾羅に身を装う自分の父を見て真の父と信じることができない。

彼は門前に草庵を与えられて住み、父が死のうとする時に初めて父子対面を果たす。

劣等感を持っている人には宝玉の机や綾羅の装いを見せること。

驚異(きょうい)あるをもって、狸奴白狐(りぬびゃっこ)。:

びっくりするような殊勝を求める人のために狸や狐になってみせる。

ゲイ(げい):中国古代の帝王堯の時代、太陽は十個あった。

その十個の太陽が突然一斉に空に昇った。

そのために海は干上がり、地上の草木が焦げて枯れ始めた。

そこで皇帝尭は、弓矢の発明者で弓の名人であるゲイ(げい)に太陽を射落とすように命じた。

ゲイ(げい)は、空に向かって矢を放ち、

九個の太陽のなかにいる九羽のカラスの体を見事に射抜いた。

カラス達は、地上に落ちて絶命した。

こうして太陽は一個だけになり、地上の人々は災害を免れたという神話に基づく。

ゲイ(げい)は巧力(ぎょうりき)をもって、射(い)て百歩に中(あ)つ。:

ゲイ(げい)は太陽を射落とし、弓の名人由基は百歩離れて柳の葉を射落とした。

箭鋒(せんぽう)あい値う、:先に射た矢の矢尻を後の矢で射抜いて、一本の矢とする名人芸。

箭鋒(せんぽう)あい値う、巧力(ぎょうりき)なんぞ預(あず)からん。:

先に射た矢の矢尻を後の矢で射抜いて、

一本の矢としたという故事に至っては技術や力量の問題ではない。

このような名人芸は技術や力量を超えている。

この名人達のように、積み重ねた精進を無心の仏性に任せたときには、

技巧を越えた働きがあらわれるものである。


現代語訳


仏は劣等感を持つ人には宝玉の机や綾羅の装い見せ、

びっくりするような殊勝を求める人のために狸や狐になってみせる。

仏はそのような自らさげすむ人や動物達にも、

すばらしい仏性が具わっていることを教え示されたのである。

ゲイ(げい)は太陽を射落とし、弓の名人由基は百歩離れて柳の葉を射落としたと伝えられる。

また後の矢で先の矢の矢尻を射抜いて一本の矢にした名人もいた。

このような名人達の名人芸は技術や力量の問題ではない。 

このような名人達が示したように、精進努力を積み重ねた後に、

無心の仏性の働きに身心を任せた時には、技巧を越えた働きがあらわれるのである。

   


解釈とコメント


ここでは全ての人に仏性が具わっていることと、

精進努力を積み重ねた後に発揮される仏性の技巧を越えた働きについて述べている。

   
   
10

第10文段 

木人(ぼくじん)まさに歌い

石女(せきじょ)たって舞(も)う。   

情識(じょうしき)の至るにあらず

むしろ思慮(しりょ)を容(い)れんや。   

臣(しん)は君(きみ)に奉(ぶ)し

子は父に順ず。

順ぜざれば孝にあらず

奉せざれば輔(ほ)にあらず。



注:

木人(ぼくじん)、石女(せきじょ):木と石の人形は<無心や無所得の心>の象徴である。

木人(ぼくじん)まさに歌い、石女(せきじょ)たって舞(も)う。:

「如是(にょぜ)の法」とは木人が歌うと、石女が立ち上がって舞うような世界である。

情識(じょうしき):分別意識。知性。

情識(じょうしき)の至るにあらず。:分別意識では理解できない。

むしろ思慮(しりょ)を容(い)れんや。:どうして思慮分別を働かせて理解できる余地があろうか。

 臣(しん)は君(きみ)に奉(ぶ)し、子は父に順ず。:臣下は君主に仕え、子は父に従う。

輔にあらず:補佐の臣ではない。

順ぜざれば孝にあらず。奉せざれば輔(ほ)にあらず。:

子が父に従わなければ孝ではない。また臣下が君主に奉仕しなければ補佐の臣とは言えない。




現代語訳


 「如是の法」とは木人が歌うと、

石女が立ち上がって舞うような世界である。

その不思議な世界は分別意識では理解できない。どうして思慮を働かせる余地があろうか。

臣は君主に仕え、子は父に従う。子が父に従わなければ孝ではない。

また臣が奉仕しなければ補佐の臣とは言えない。 

如是の法」とはそれと同じように当たり前の世界なのだ。

   


解釈とコメント


ここでは「如是の法」とは木人が歌うと、

石女が立ち上がって舞うような不思議な世界であると同時に、

臣は君主に仕え、子は父に従うような当たり前の世界である

という二面性を持つ世界だと言っている。

   
   
   
11

第11文段 

潜行密用(せんこうみつよう)は

愚の如く魯(ろ)の如(ごと)し。

只能(ただよ)く相続するを

主中(しゅちゅう)の主と名付(なづ)く。



注:

潜行密用(せんこうみつよう):人知れず行動し、隠れて働くこと。

魯の如し:魯はおろかなこと。愚かで鈍い。

潜行密用(せんこうみつよう)は、愚の如く魯(ろ)の如(ごと)し。:人知れず行動し、隠れて働く。

一見したところ、愚か者のようで、魯鈍である。

、主中(しゅちゅう)の主:真の主人公。

只能(ただよ)く相続するを、主中(しゅちゅう)の主と名付(なづ)く。:

分その状態を保持するのを、「真の主人公」と名付ける。




現代語訳


人知れず行動し、隠れて働く。一見したところ、愚か者のようで、魯鈍である。

もし、その状態を保持できるならば、<真の主人公>と言っても良いだろう。


解釈とコメント


ここでは、真の主人公は

人知れず行動し、隠れて働く。一見したところ、愚か者のようで、魯鈍である

と描かれている。

ここで言う真の主人公(=本来の面目)は下層脳(脳幹+大脳辺縁系)優勢の脳を指している。

これは犬や猫などの脳に近い。

4.19ー1 「本来の面目」の脳科学的モデルを参照)。

そのため理知脳は未発達で小さい。

また下層脳は無意識脳である。そのため、愚かで、魯鈍(愚かで鈍い)である。

そのような下層脳の性質を

人知れず行動し、隠れて働く。一見したところ、愚か者のようで、魯鈍である

と表現しているのではないだろうか。





   





「宝鏡三昧」の参考文献


柳田聖山編集、中央公論社、世界の名著続3「禅語録」1974年、p.379〜384






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